八月に入った最初の土曜の夕方。時計を見ると四時を少し回っていた。八月の四時過ぎなど、まだ充 分「昼」の部類に入ると、俺は思う。日はまだ高く明るいし、何よりも熱気がすごい。 部屋の中では、扇風機がウィーンと強弱を付けた風を、首を左右にのんびりと振りながら循環させて いる。この部屋の本来の主が「節約!節電!節水!」と謳い文句を掲げている為、エアコンは入ってい なかった。室内温度は、見たら暑さが増すような気がするので見ない。それなら氷の一欠けらでも眺め ていた方が涼しいと思うから。 先程までは、読書に集中していたので我慢できた暑さも、「暑い」と意識してしまったは耐えられな くなってきて、冷蔵庫へと足を運ぶ。 「牛乳でも飲もう…っと」 「どうしたの?お腹空いた?」 キッチンには、この部屋の主・伸が居る。家事全般をソツなくこなすが、特に料理はすっかり趣味の 枠を越えている。そのうち料理本でも出すんじゃないかなぁ、こいつ。 「ノド渇いた。なんか飲むもんある?牛乳あったよな?」 そう言って俺は冷蔵庫のドアノブに手を掛けた。 「え?あ、ごめん。さっき牛乳使っちゃった。麦茶入ってなかった?」 冷蔵庫の中には、コップ一杯にも満たない量の麦茶。これっぽっちじゃ余計にノドが渇く気がする…。 仕方なく、底の方に僅かに残ったボトルを伸に振って見せる。 「もう無いぞ。他になんか無いの?」 「うーん、これから買出しに行くつもりだったから結構使っちゃったんだよねー」 手にしたメモ用紙をひらひらとさせる。何を書いてるかと思ったら…。 「じゃ、当麻も一緒に買出しに付き合ってよ。外でお茶しよう、久しぶりに」 言うが早いか、椅子から立ち上がり玄関へと向かう。俺も慌てて後を追いかける。 「今から外出るの?暑いじゃん」 「夜になっても夏は暑いでしょ。それに今から出て、お茶したら丁度タイムセールにいいんだよねー」 財布と台所を仕切っている伸に逆らえる筈もなく、諦めモードでサンダルを引っ掛けた。 外に出ると、数少ない街路樹から蝉の大音声が響き渡っていた。逞しさを感じさせる鳴き声が、一層 暑さに拍車をかける。隣りをみると、そんなんもの何処吹く風といった伸がいる。 「お前さー、暑くないの?」 シンプルなTシャツに、ジーンズ、足元は素足にスニーカー。よく見れば、うっすらと汗をかいている のが分かる。 「暑いに決まってるだろ。なんで?」 「いや、だって、平気そうな顔に見えたから」 「暑いって言うと、暑さが増す気がするからね。暑さを気にしない様にしてるだけだよ」 「…ナルホド」 最近見つけたという伸お気に入りの店に入り、伸はアイスティーを、俺はアイスコーヒーを頼む。 伸が気に入るだけあるその店の味は、なかなかのもので、ストローを咥えながら外を眺める。遠くの方 から空の色が陰ってきたように見える。 「伸、雨降るかも」 「そういえば天気予報でも、そんなこと言ってたなぁ」 タイムセールには少し早いけど、傘を持ってこなかったので急いでドリンクを飲み干す。ケーキも美 味しいらしいこの店に「また来ようね」と伸が笑う。久しぶりのデートだったのにねぇ、って少し残念 そうな伸の顔が、俺には何となく嬉しい。 買出しを手早く済ませて外に出ると、重たそうな黒雲がさっきよりも随分と近づいてきていた。 「これなら降られずに済みそうだね」 両手に買い物袋を下げ、二人で元来た道を歩き出す。ちょっと待て。お前は両手だけだけど、俺は両腕 に、プラス更にもう一抱えあるんですけど。…歩くの? 少し先に見えるバス停に、タイミング良くバスが走って来るのが見えた。 「伸!バスに乗って帰ろうぜ。この荷物はどう考えても多いよ。な?」 先を歩いていた伸が振り返り、俺を見る。少し考える顔をして、空を仰ぎ見る。 それからもう一度俺。 で、バス停。 「しょうがないなー。今日だけだよ?」 「やった!伸、愛してるっ」 「煽てたって、これ以上は何も出ませーん」 言い置いてスタスタとバス停に歩き出してしまった伸を、俺は慌てて追いかけた。 同じ様な事を考える輩が多いせいか、乗車率は百十五パーセント。通路に少し余裕がある程度だった。 早めに入れた俺たちは、後方の二人掛けに腰を降ろしていた。 間もなく発車時刻。閉まりかけたドアが再び開いた。申し訳なさそうに、大きなお腹を抱えた妊婦が 右手に小さな子供の手を引いて乗り込んでくる。乗車率百二十パーセント。 と、窓側に座っていた俺の右腕が不意に引っ張られ、伸と共に立ち上がらせられる。 「この席、使って下さい」 ああ、そう言う事。言ってくれたらいいのに。でも、言われなきゃ動けなかった俺も、なぁ。 二つ目のバス停で降りる。帰り際、子供が手を振ってくれたのが嬉しい。両手が塞がっていたから、 小さな声で「バイバイ」って言ってみたんだけど。降りたら、伸が「良かったじゃない」って。外は、 今にも降りそうな様子で、湿度がすっごいんだけど、気持ちいい。 目指すマンションまであと二百メートルと少し。また伸が急に立ち止まる。 「どうしたの?何を探してるの?」 顔前を塞いでいる荷物と荷物の隙間から、伸が声を掛けた方向を見遣る。んー?小学校…一、二年生? 髪は短く切ってるけど、ギンガムチェックのワンピースが良く似合う可愛らしい女の子がいた。足元は 花のモチーフが付いたビーサン。腕に下げてる荷物から見て、プールの帰りらしい。伸が屈み込んで下 から覗き込むように、もう一度話し掛ける。 「お家はこの辺り?何か落としたの?お話しできる?」 「あの…あ、あのね、お家の鍵がね。どこかにいっちゃった…」 それだけを言うと、ずっと我慢をしていたらしい。両目にみるみる涙が溢れてきた。伸がスッとハンカ チを出して、そっと拭ってやっている。俺、ハンカチなんて持ち歩いてねーなー。しかも、見たカンジ 絶対アイロン掛けてあるよ。頭下がるなー。 「どこで落としたか分からないんだね。プールの帰り?どこかに寄り道とかしたの?」 「ううん、してない。雨が降りそうだったから」 「鍵にはキーホルダーとか付いてるの?」 「うん。あのね、ピカ●ュウのキーホルダーが付いてる」 「じゃあ、ここからプールまで探しながら戻ってみようね。お兄ちゃんたちも一緒に探してあげる」 「本当?」 「三人で探せば、すぐ見つかるよ」 プールまでは子供の足で、片道15分。区民プールからの帰り道だったらしい。受付にいた人にまず 落し物で鍵が届いていないかを尋ねる。 「今日は鍵は届いてないね。水泳帽や、着替え…あとはアクセサリー類くらいだな」 「それじゃ、どなたか彼女と一緒に更衣室を探してくれませんか?僕らが入る訳にはいきませんから」 「お嬢ちゃん、どの辺りのロッカーを使っていたか覚えてる?」 「はい」 館内放送で女性の従業員が一人呼ばれ、二人は連れ立って更衣室へと入っていった。 「ここで無けりゃ、あとは帰り道だよなぁ。来た時は友達に見せびらかしたんだろ?」 「うん。今年の映画のグッズなんだって。可愛いよねー、そういうトコ。子供だねぇ」 両手に買い物袋を下げた奴と、両腕に更にもう一抱えの荷物の男が二人並んで、区民プールにいる。 しかも、来た時はベソをかいた女の子を連れている。怪しいよなー。でも、歳の離れた妹ですって言え ば通るかもな。あ、でもどっちにも似てるカンジが無いな。まぁ、お巡りさんが来てくれたら、それは それで「あとはヨロシク」って頼んじゃえばいいんだけど。 十分程で二人は出てきた。彼女の更に泣きそうな表情と、従業員の申し訳無さそうな困った様な顔が 結果を物語っている。やれやれ、と一つ伸にバレないようにこっそりタメ息をつく。伸は…あ、目が怒 ってる…ヤベぇ、バレてたか…。…それにしても目敏いヤツ。 「一通り探してみたんですけど…。見当たりませんでした」 「じゃあ、帰り道に落としたのかも。もう一度探してみます。ありがとうございました」 念のため、落し物の届けに記入をして三人でゆっくりと、視線を下に向けながら歩き出す。 「途中、誰かにぶつかったとかしなかった?」 「ううん。ぶつからなかった」 「水着を入れたバックをぶんぶん振り回したとか?」 「そんなことしないもん」 「あのね、当麻。自分のレベルで考えないのっ。女の子がそんな事するワケないだろ」 「そうか?俺の同級生は、男だろーが女だろーが、結構振り回して遊んでたぜ?」 「今の子はそんな事しないよ。ね?」 「うん」 俺と伸の間に挟まれるように歩いている女の子に向かって、軽く首を傾げて同意を求めてる。彼女も、 俺の目をじっと見て力強く頷いてくれる。あ、あのねぇ…。 空の黒雲は上空に差し掛かっている。降られるなー、これじゃ。あ、自販機見っけ。そういえば俺、 ノド渇いてきたかも。 「なぁ、何か飲まない?俺、金出すから。えーと…オレンジでいいか?」 自販機をアゴで指してから、ポケットの小銭を探る。と、女の子がハッと顔を上げて俺を見た。 「そうだ!自販機!加奈ちゃんたちと寄ったのっ!」 言うなり、小走りに駆け出し目的の自販機へと向かう。慌てて俺たちも後を追いかける。 五十メートル程行った所に、自販機が五つ並んだ店の前へと付いた。左から二つ目の自販機の前に座 り込んだ女の子を見つける。自販機と自販機の隙間に、その細い手を差し入れてゴソゴソ。手に何かを 掴んだのか、表情が「あっ」という確信めいたものになる。果たしてその手に掴んだもの。それは、少 し埃にまみれたキーホルダーの付いた鍵。 「あった!お兄ちゃん!!あったよ!!」 嬉しそうに高く見せるキーホルダーの埃を払い落としてやりながら、「良かったね」と頭を撫ぜてや っている。埃は落とせたが、右腕の肘から先が黒く煤けて汚れている。 「お店の人に水道を借りようね」 当麻はここで待ってて、と言い置いて、伸は女の子を連れて中へと入っていった。仕方なく店の軒下で 雨雲を見つめる。ここまで我慢をしてきた雨雲もとうとう限界が来たらしく、大粒の雨がポツリ、ポツ リとアスファルトの色を変えていき、それは瞬く間にザーッという地面を打ち付ける音と共に、大降り のものへと姿を変えた。 「おおー、振ってきた、振ってきた」 と思わず、荷物で塞がっている両手の指先だけで、小さな拍手を送る。ここまで降ってくれれば、いっ その事、潔くて気持ちがいい。 背後で静かにドアの開く音と、人の出てくる気配がする。顔だけを少し後ろに向けると、二人が呆れ た様な顔をして出てきた。 「手、洗ってきたか?」 「うん。ほら、ピカピカ」 両手を高く突き上げて、ひらひらと振ってみせる小さな手は、白く俺より一回りも小さかった。こんな 手を放っておけないよな、やっぱり。 「雨、止む?」 女の子は伸のTシャツの裾をつんつんと引っ張って、問い掛けた。 「すぐじゃないけど、もうちょっと経てば止むよ。そしたら家に帰ろうね」 こっくりと頷いて、両手を伸ばして掌に雨粒を集めてみたりしている。俺もやったなー。こういうの。 しばらくして、雨足が弱くなってきた。空が少しずつ明るくなってくる。それから五分も経たない内 に雨は止んでしまった。道路に大きな水溜りの足跡だけを残して。 「お兄ちゃん、雨やんだよ」 水溜りの中に足を突っ込み、バチャバチャと楽しそうに遊んでいる。あぁ、スカートの裾が汚れるって。 あ、伸が止めに入った。ははっ!ジーンズに引っ掛けられてやんの!荷物が無かったら俺も参戦するん だけどなーっ!!結構お転婆だな、こいつ。 「当麻、行こう」 「ほーい」 軒先を出ると、さっきとは打って変わって太陽の光が突き刺さるように路面を輝かせていた。随分と 傾いてはいたけれど。雨の匂いを感じながら家路へと急ぐ。突然、女の子が駆け出した。お母さんが迎 えにでも来てたかな?少し走ってクルリとこちらへ向き直り、おいでおいでと手招きしている。 「お兄ちゃん!来て!早く、早く!すっごく綺麗だよ!」 伸と二人、顔を見合わせる。俺が問い掛けるような表情に、伸は少し首をかしげて「さぁ?」という表 情で返事を返す。少し早足で彼女の元へと足を運ぶ。 「見て!あれ!!」 小さな指が指し示す方向には、柔らかく少しぼけた感じの虹が大きく掛かっていた。夕日がちょっとだ け眩しくて、目を細めてみる。雨上がりの少し灰色がかった空に大きなアーチを描いている。 「ね、綺麗でしょ?」 虹なんて、どれくらいぶりだろう?今日だって彼女に言われなきゃ気付かなかったんじゃないか?俺。 伸も眩しそうに、それを見ている。 「朋ちゃん!」 「あ、お母さん!」 手には大きな傘と、子供用の傘が一本ずつ。朋ちゃんて言うのか。そういや名前聞いてなかったな。 朋ちゃんは何やら一生懸命、今までの事情を説明しているようだ。お母さんに何度もお礼の言葉を頂い て、朋ちゃんとは大きく手を振って別れた。 「さて、と。今度こそ帰りますか?」 伸に向かってニヤリと笑ってみせる。今日は全部、伸が拾って(?)きたんだから。それは伸もちゃんと 承知していて。 「もう声掛けたりしません。…多分ね」 でしょうな。見過ごせる奴じゃないもん。こいつのレーダーに引っ掛かる奴がいない事を祈るよ、俺は。 「で、晩飯、今日は何?」 「夏らしく冷麦で。今夜はさっぱりとシンプルに」 「ネギとオロシ生姜たっぷりでよろしく」 「はい、はい。って当麻も手伝うんだよ」 「…やっぱり?なぁ、そういえば何であんな所に鍵が落ちてたワケ?」 「お友達がジュースを買うのに、十円足りなかったから貸してあげたんだって。その時、お財布と一緒 に落ちちゃったみたい」 ばたばたしたけど、たまにはこーゆーのも悪くない、かな。 |
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