いななき学舎通信
いななき学舎会員通信(2025年2月号) 2025年 2月1日発行 1月の例会・読書会 担当 吉岡郁子
日時・1月26日(日) 場所・伊那市図書館 時間・16:00〜19:00 参加者・8名
テキスト 「エーミールと探偵たち」 エーリッヒ・ケストナー作 池田香代子訳 岩波少年文庫
今まで児童文学作品を取り上げてきましたが英国の作品に偏っていると反省して、かねてより皆さまにも楽しんでいただきたいと思っていたケストナーの作品にしました。
2022年8月の例会テキスト『ヒトラーの時代』に三か所出ていたこと、2024年はケストナー生誕125年&没後50年という年でもありました。 また最近自伝の『ぼくが子どもだったころ』が岩波少年文庫から出版されましたが、やはりお話を読んで頂きたく最初の作品に決めました。
今一番強く心に残っているのはケストナーが常に言い続けていたように《平和のための話し合いによるたたかい》《あきらめてはいけません》との考え方です!現実は程遠い世界情勢でこの言葉が空しく感じられますが、やはりこのことを私達が忘れず子ども達に伝えていかねばならない大事なことではないでしょうか?特に絵本になっている『どうぶつ会議』はぜひお手に取ってお読みいただけると嬉しいです。
当日の資料 『エーミールと探偵たち』 エーリヒ・ケストナー作 池田香代子訳
2022年8月の例会テキスト『ヒトラーの時代』(池内紀著 担当加藤氏)の中で、P.42
「ペンと権力」p.48~49 「平穏の時代」p.236 にケストナーが取り上げられていました。
今までテキストを児童文学作品に決めてきましたが英国児童文学に偏りがちであったことを反省をして、いつか他国特にドイツの文学作家ケストナーを取り上げたいと思い続けてきたことが『ヒトラーの時代』で取り上げられたことと重なり選本のきっかけになりました。しかも2024年はケストナー生誕125年&没後50年という年でもありました。
最近自伝『ぼくが子どもだったころ』が岩波少年文庫から出版されましたが、やはり作品を読んでいただきたく最初の作品である『エーミールと探偵たち』に決めました。
2 エーリヒ・ケストナー略年譜
1899 2月23日 ドイツ東部ドレースデンで革職人の父エーミールと母イーダの一人息子として誕生 1904 5歳 母イーダが美容室を開業
1912 13歳 教員養成学校予備クラスの入学試験に合格
1913 14歳 ドレースデンのフレッチヤー男爵教員養成学校に入学
1918 19歳 ドレースデン・シュトレーレン教員養成所の最終課程に入る
1919 20歳 ドレースデンのギムナージウムの聴講生、卒業試験合格、大学入学資格 ライプツイッヒ大学に入学し、ドイツ文学、歴史、哲学、演劇史などを学ぶ
1920 21歳 『ライプツィッヒ学生詩集』に3編の詩を発表 1921 22歳 夏学期をロストック大学で学ぶ イルゼ・ベークス・ユーリウスと恋愛関係
1922 23歳 ライプツィッヒ大学に戻り助手となり学内の新聞学研究所でも学ぶ
1924 25歳 出版印刷会社に就職 新聞や雑誌に演劇批評、詩、読み物などを書く
このころルイーゼロッテ・エンデルレと知り合う
1925 26歳 博士号を取得 <新ライプツィヒ新聞>の編集部に在籍 数々の新聞、雑誌に原稿を書く
1926 27歳 恋人ユーリウスと別れる
1928 28歳 エーディット・ヤーコブゾーン夫人との出会い子ども向けの本を勧められる
1929 30歳 初めての児童書『エーミールと探偵たち』を刊行 ヒット作となる
1932 33歳 ナチスを批判する詩などを発表
1933 34歳 児童書『飛ぶ教室』刊行 ナチス政権下のドイツを逃れ多くの作家が亡命5月10日ナチスの思想に反する書物が焚書の対象となるケストナーの本も燃やされ国内の出版を禁止される 図書館では『エーミールと探偵たち』以外の本が閲覧を禁じられる12月 秘密警察に逮捕され取り調べ後に釈放
1934 35歳 海外での出版を許される
1937 38歳 『エーミールと探偵たち』が再上映 秘密警察に再逮捕 取り調べ後釈放
1939 40歳 一斉検挙を逃れるため、たびたびドレースデンの両親のもとに身を隠す。 ルイーゼロッテ・エンデルレとベルリンで再会、交際する
1942 43歳 映画会社から記念映画の仕事を依頼され別名で「ミュンハウゼン」の脚本に 取り掛かる、
1943 44歳 ヒトラーが脚本家の正体を知り激怒 国内での執筆活動を完全に禁止される 映画は名前を出さず上映された
1945 46歳 2月13日から15日にかけてドレースデンは徹底的な空襲を受ける 映画会社の撮影隊にまじってベルリンを脱出チロル地方のマイヤホーフェン に滞在 敗戦を迎える ミュンヘンへうつる <新・新聞>の文芸欄編集長となる ニュルンベルク国際軍事裁判を傍聴
1947 48歳 スイスのチューリッヒで行われた国際ペンクラブ会議に出席
1949 50歳 児童書『動物会議』『ふたりのロッテ』刊行23歳のフリーデル・ジーベルトと出会う
1951 52歳 西ドイツペンセンターの初代会長に任命される 以後11年にわたり会長母イーダが80歳で亡くなる
1957 58歳 『わたしが子どもだったころ』刊行 ジーベルトの間に息子トーマス誕生 父エーミールが90歳で死去
1958 59歳 原爆死反対闘争を支援 焚書から25年ハンブルグのペン会議で記念講演
1960 61歳 国際アンデルセン賞を受賞
1965 66歳 ディッセルドルフでキリスト教の若者が文学作品を燃やしたことに市長に抗議(使徒の名前を知っていても歴史を知らない)
1967 68歳 東京でケストナー展が開催される
1974 75歳 7月29日食道がんのために死去 ミュンヘンの聖ゲオルク教会に葬られる ルイーゼロッテ・エンデルレも同じ墓に眠っている
3 『エーミールと探偵たち』について
○どの作品にもまえがきがあり、まえがきを大切にした。《わたしは、訪問者が前ぶれもなしにドアをあけて家に入ってくる のは、好きじゃない。そんなことをするのは訪問者にとっても家にとってもよくないし、ドアにとっても同じこと》
○1928年エーディット・ヤーコブゾーン夫人が子どもについてではなく、子どものために書いて欲しいと頼む 1929年に 刊行
○本の最初に話が始まるまでが書かれている・十枚の絵が登場人物などを知らせてくれる
○エーミールは父の名前
○挿絵はヴァルター・トゥリーア 児童書12点に絵をつけた 本の成功には絵の力があるプラハ生まれのユダヤ人 亡命しロンドンとベルリンの間、カナダとミュンヒェンの間を郵便・空路などで行き来し、亡命後は二度しか会っていない25 年にわたる共同作業と友情から成り立つ稀有な関係であった《彼が絵にしたものはどれもほほ笑んだり笑っているよう に見えた。すべてがそんなふうだったので見るものを明るい気持ちにさせた。世の中をあるがままに見せながら、ほが らかに描いた。》
○ケストナーは物語のなかで自分を主人公に仕立て、身近な人をモデルにしている例えばかつて母親がある老女からお金をだましとられ大損をしたことがある
○大事に育てられ、母親の影響力を強く受けた息子の登場、母子家庭で、たくましくて生活力があり、子どもには徹底してつくす母親像が出てくる 作者自身の母親である
○都会っ子たちの会話に耳をかたむけ、その話しぶりを生き生きと作品に取り入れたことは今までの児童書にはなかっ たと絶賛された
○何よりも読者を子どもだからといって軽く見ず、真剣にあつかった、初めての児童文学作家だと評論家たちに認められた
○ティッシュバイン夫人と息子は架空の人物ではなく母子関係が「美化」されている
4 複雑な人間関係
父 いい材料を使い納得がいくまで丹精こめて作る 採算が取れず トランク工場の工員
母・イーダ 裕福な親類のなかで賃金労働者の夫だけが貧しい 不満 内職に励む アパートの1室を教師に貸すエ ーリッヒの実の父は妻に愛されなかったエーミールではなくかかりつけ医をしていた衛生功労医の称号を持ツィンマーマ ン博士であった(?)母が息子に告白し(出征直前に)エーリッヒも彼の子を生んだ女性に打ち明けている
エーリッヒと両親
母「おまえが大学で勉強したければ、そうしなさい」父「おれの考えはどうでもいいのか?」
母亡きあとの文《彼女は完璧な母親であろうとし、実際完璧だった。私はそれを疑わなかったし、同時に私自身も完璧な 息子でなければならなかった》
父は息子が望む職業につかせたく精いっぱい働き、息子は寡黙な父がどれほど自分につくしているかを見落としていない 母と息子だけの休暇は8歳から14歳まで続く 山岳地方などのハイキング 演劇鑑賞不幸な結婚がなにをもたらすかという問いは息子の心に深くきざまれ生涯消えなかった大学生になり母との文通が始まり30年間続く 恋愛さえも知らせた 母も常に返事出す文通の中で父の様子を聞いても母はグチを書いてくる どうしようもない人だからとなぐさめた 父の名前はただのE、E・Kと書かれていたこれはエーミールが実の父親でないことをすでに知っていたと思われる 母の失踪 学校から帰って何枚ものメモを見つけた「もうたえられません!」「わたしを探さないで!」「元気でね、わたしのかわいい坊や!」と書かれていた探しに行くとエルベ川の橋の上で身じろぎもせずに川の流れを見下ろしていた あるいは探すのに疲れて眠りにつき、目がさめると母がそばに座っていて「どこに行っていたの?」の問いに母にもわからないようだったが「もうだいじょうぶよ」と答えた
母の死 1951年5月 母がこの世を去った父は84歳になっていたが妻が亡くなる前の数か月、献身的に面倒を見た
父は妻の死後6年生きた 母亡きあと二人の間にうちとけた親しい感情がめばえた 1956年86歳の父はミュンヘンに住む息子を訪問し心からうちとけたようすがうかがえる 翌年90歳でで亡くなるエーリッヒ・ケストナーの息子
1957年12月に息子トーマスが生まれる 母親はケストナーの愛人フリーデル・ジーベルトケストナーと長年同居していたルイーゼロッテに母親のような役割を求めたルイーゼロッテの心が深く傷ついたのはケストナーが子どもを欲しがっていないと信じたのにそうではなく、しかも他の女性が産んだこと 彼は打ち明けず3年間もかくしたルイーゼロッテはケストナーと別れず彼への愛は変わらなかった母親代わりでもいいと自らにいいきかせ、その役に甘んじ彼を許した
5 なぜ亡命しなかったのか?
1933年のあとなぜドイツを去らなかったんですか?という質問のあと、何度も聞かれることにうっとうしくなり、詩で答えている 《わたしはザクセンの ドレースデン生まれのドイツ人。 故郷はわたしをはなさない。 わたしはドイツで生え育った木と同じ。やむなく朽ちるとしても、その地はドイツ。》また同じ思いを文章でも書いている《国民が悪い時代の運命にどう耐えていくのかを、作家は自らもその一人として体験したいし、すべきだと思います。そう考えると、国外への脱出は、身の危険がさしせまったときにのみ、正当化されます。時代の目撃者となり、やがては証言者となるために、あらゆる危険に立ち向かうことが職業上の義務だと思います。》ドイツにとどまった理由は60歳をこえた母を残して国外にでることは考えられない もし老いた両親をつれての移住は新しい環境で先行きの見えない生活をすることに不安があった
6 『青い本』
今回参考にしたケストナー著『終戦日記1945』は直訳すると『45年を銘記せよ 日記』となるそうである 記念とせず銘記あるいは警告とする表現に驚いたケストナーは「将来書く予定の長編小説のための着想ででもあるかのように、忘れないことをたくさん箇条書きのした」とし書きつけたことを明らかにしている この「青い本」は束見本といい出版社が本を刊行する前に仕上がりをイメージしたもの 《一見何の危険もなさそうな》束見本を《危険きわまりない》メモ帳がわりに使う 小さな速記文字で忘れたくないことを箇条書きでしっかりと書きとめた教員養成学校のケストナーは勉強熱心でいつもクラスの首席になる生徒 学校の授業のすばらしさがわかっていたもう一方で軍隊式の教育によって自分の「生まれながらの持つ自由と権利の平等を尊ぶ心」が傷つく目標はただ一つ、大学で勉強することだった本人が《私は諷刺家であり、モラリストであり、啓蒙家だ》と述べているように、時代の動向を観察し人間がよりよく生きられるよう、してはいけないこと、すべきこと、理性の大切さを訴えた戯曲のなかで一行たりともナチスにへつらう台詞は書いていない核武装反対デモ、原爆死反対闘争を支援し1961年の復活祭大行進の演説で、《平和のための話し合いによるたたかい》をうながし《あきらめてはいけません》としめくくっている戦後子どもたちのための活躍はすばらしい IBBYの設立、ドイツ児童文學賞、児童書朗読退会の開催等西ドイツの学校に歴史の授業で現代史が扱われていない事実をきびしく批判した 「人間は歴史から学ばければならない」「戦争はくいとめられるし、くいとめるべきだ」
7 他の作品から
1931年 『ファービアン あるモラリストの物語』ベルリンを舞台にファービアンという男の生活を通して時代と社会を痛烈に風刺し1920年代末の世界恐慌に見舞われたベルリンの状況を描いた諷刺文学の傑作 1933年 『飛ぶ教室』クリスマスによく読まれる本 教員養成学校の体験がもとになっている 寄宿学校で味わった権威や規則への無力感が語られている 生き生きとした少年の姿に温かな言葉 1949年 『動物会議』11年間の沈黙をやぶって新しい児童書が出版された 平和主義的なこの作品はミュンヘン国際児童図書館を設立した女性イエラ・レップマンの原案「すべての国境をなくしなさい」「同時に軍隊を廃止しあらゆる武器をすてなさい」と要求現実が変わったわけではない多くの評論家がケストナーの児童書ではこの寓話が最高傑作と評している 1957年 『ぼくが子どもだったころ』15歳までのことが書かれている 大人な向けの著作集と子ども向けの著作集を編んだがそのどちらにも入っている 4章に「エルベ河畔のフィレンツェ」と呼ばれた古都ドレースデンの壮麗な美しさをほめたたえる描写がある 1945年に空襲を受けたが歴史的事実にはふれず、戦争への怒りと抗議がこめられているのを読み取りたい 8 ケストナーおじさんエーリッヒ・ケストナーはドイツでは親しみをこめて「ケストナーおじさん」と呼ばれている今回テキストで取り上げなかったら「ケストナーおじさん」のままであったケストナーでした いくつかの参考書で初めて知ることの喜び・嬉しさ、驚きと共にケストナーのお話はいつ読んでも「おもしろい」「わくわく」する読書の楽しさを再び経験した悪い人の登場に対して助けてくれる人々がいて、それがどんなに大切なことかと思わずにいられなかったことも大きな宝物だと思っている子どもたちは絵本・お話・物語を通して未来を信じることが出来るのではないでしょうか?
参加者の感想から
・ 楽しい本だった 児童文学を読んでいない(当然まだ紹介されていない)お札をピンで留めるなどうまくお話にあっていてケストナーは大した人だ ・ 韓国の文学者がノーベル平和賞をもらっているのに候補にあがらなかったのかな?
・ 少年の心の動きがよくあらわれている
・ 子どものころ『ふたりのロッテ』を一気に読んだのを思いだした
・ 読みやすい本だった ベートーヴェンではなくてモーツァルトみたい
・ 道徳観が育まれているように見えた
・ 歴史や文化の伝承、考え方などがよくあらわれている
・ 子どもたちは大人をよく見ている 大人を理解し思いやっていて励ましてくれている将来を託したいなという子どもの姿があ る
・ 今は豊かでお金を使い放題の日本 どうしたら正義の人が育つのか
・ 『ぼくが子どもだったころ』を読まれた方の感想からツィンマーマン博士を訪ねていくところ、下宿している先生の描写がする どい
2月から5月までの予定をお知らせいたします。 2月23日 『こころがわかる哲学』 岡本裕一郎著 日経ビジネス文庫 六波羅さん担当 3月30日 『青い壺』 有吉佐和子著 文春文庫 守屋さん担当 4月27日 『方丈記私記』 堀田善衛著 新潮文庫 三宅さん担当 5月25日 『敵』 筒井康隆著 新潮文庫 御子柴さん担当 御子柴さんから(少しエロクて、毒満載ですが、意外に生活の参考になります。解説の 川本三郎氏は「老人文学の傑作」と評価しています)とのコメントをいただきました
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公開読書会 令和3年 5月30日(日) 13:00〜16:00 参加者20名 進行・通信:六波羅秀紀
テキスト:渡辺秀樹著『芦部信喜 平和への憲法学』岩波書店
著者・信濃毎日新聞編集委員の渡辺秀樹さんをお迎えしての公開読書会。初めに著者から本の内容とそれに関連する問題を1時間半説明して頂き、次に参加者からの質問に同じく1時間半、お応え頂いた。
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2020年「いななき学舎」発足15年となりました。記念して15年の歩みを発行しました ![]() ☆「いななき学舎15年の歩み」編集に際して いななき学舎代表 六波羅秀紀 「いななき学舎」の発足は2005年8月、代表は森本尚武さん、事務局は有賀功さんと若林敏明さん。設立の目的は @地域に根差した活字文化の振興をはかる。 Aそのために読書会、講演会等の活動を行う。 B「信州岩波講座」の伊那での開催を目指す。というものでした。「信州岩波講座」は岩波書店、信濃毎日新聞社、須坂市等の支援のもとに、須坂の市民団体が毎年夏に須坂市メセナホールを会場として、ひと夏に4回、全国の著名な講師8〜10人が講演しています。松本市でも同地の民間団体が年1回、講演会を開いています。いななき学舎でも当初、有名講師をお迎えして講演会を行いましたが、会費2,000円で運営する私たちに、どこからの支援もなく著名な方々をお招きするには千円のチケット販売での実施でした。 このチケット販売は大変で結局止めになり、その後は、会員や費用の少なくて可能な方々の講演会を実施しています。また、読書会は当初より毎月1回行われ、現在に至っていますが、須坂や松本ではないそうですから、読書会はいななき学舎の特質すべき活動かもしれません。 私が参加したのは2007年であり、その時のテキストは半藤一利著『昭和史戦後編』平凡社で、有賀功さんが解説する形で進められ、一冊のテキストに数か月かけていました。当時は読書会の会場はカフェ・アビエントでしたが、2009年6月より創造館に変わり、更に2013年9月より、伊那図書館になりました。有難いことに、どこも私たちの活動に理解を示してくれ協力的で、有難いことです。2009年2月から有賀功さんに代わって六波羅が事務局に入り、有賀さんは副代表として、実質、会の運営に当たりました。2014年には有賀功さんが代表、伊藤一夫さんが副代表、事務局に六波羅、白田信隆さん、伊藤岬さん、三宅生郎さん、清水吉治さん、湯沢文象さんが入り、順番に「会員通信」を発行し、伊藤和義さんが会計担当になりました。テキストは会員が順番に決めており、2019年3月より、テキスト選定者が「会員通信」も発行することになりました。東京から参加されている方や、海外生活の長かった方もおります。大学で教鞭を執っておられ、定年退職後に参加された方もおり、会員は多彩です。信濃毎日新聞社には2006年に主筆の中馬清福さんに講演して頂き、2013年のフォーラム「東日本大震災から見えてきたもの」では編集委員の増田正昭さんがパネリストとして参加、更に来春には『芦部信喜 平和への憲法学』の著者・渡辺秀樹さんを迎えての公開読書会が予定されるなど、大変お世話になっています。 2020年は会が発足してから15年目になり、取り上げた本は約150冊になります。この9月のテキスト・出口治明さんの『還暦からの底力』の中に、沢山の人に会い、沢山の本を読み、いろいろな所に出かけて行って刺激を受ける。つまり「人・本・旅」の生活からアイディアは生まれる旨の記述がありますが、私たちの読書会はまさにその通りの活動です。アイディアが生まれたかは別として、一茶の柏崎、良寛の出雲崎、軽井沢の軽井沢高原文庫、大伴家持が越中国守として赴任した富山県の高岡市万葉歴史館、多くの文学者ゆかりの鎌倉にある鎌倉文学館、島根県松江市の小泉八雲記念館、会津、日本最古の学校・足利学校等々を訪れています。 さて、私も今年傘寿、腰は痛くなるし、記憶力もおかしくなり、複数の仕事をこなすことも困難になりました。その様な訳で同じく傘寿の伊藤和義君とともに、世代交代することになりました。それには今までの活動を記録として残して引き継ぐ事が必要ということで、今回の「いななき学舎15年の歩み」の小冊子作成することになりました。 私がなんとか代表として務められたのも、足を引っ張るような人はおらず、善意の会員の皆様の協力があったからこそであり感謝しています。 新しい代表の中堀謙二さん、会計の吉岡郁子さん、継続の事務局・伊藤岬さん、三宅生郎さんに対しましても、同様のご協力ご支援をよろしくお願い致します。 ☆伊那図書館といななき学舎 伊那市立伊那図書館 館長 北原善昭 いななき学舎15年の歩みの記録に寄稿依頼をいただき、私でいいのかという思いで記しております。 2005年(平成17年)8月にいななき学舎は設立されましたが、当時、伊那市は市町村合併に向けて慌ただしい時期だったと記憶しています。伊那図書館は伊那市にある唯一の図書館でしたから、それが合併をすると高遠町にも図書館があり、その在り方について議論を重ねていたと聞いています。合併後も現状のままでいいということで落ち着き、今に至っています。
信濃毎日新聞社製作局局長(印刷担当)中村賢二 私が伊那市で勤務したのは2009年春からの約2年間でした。新人記者時代を過ごした懐かしの地での約20年ぶりの生活に心を弾ませ、家族とともに赴任しました。1階の信毎支社、3階の「週刊いな」編集室に挟まれた2階で暮らす日々にあって、学識、社会経験豊かな「いななき学舎」の皆さんと一緒に、歴史をはじめ政治や社会、文化を学び意見を交わす場は知的刺激を得る貴重な機会でした。世間知らずな新聞記者にとって、外に開かれた「窓」でもありました。 ☆いななき学舎の発足よもやま話 若林敏明
☆ つれづれなるままに「いななき学舎」 伊藤 岬 「いななき学舎」が発足したのは2005年の8月、そのきっかけは通り町にあった「あびえんと」を山岸昭七さんが訪れ、須坂市で行われている信州岩波講座のことを話題にしたことが発端だった。その話に共鳴した店主の若林敏明君から呼び出されたぼくは、あびえんとを訪れ山岸さんとお会いした。
私は高校卒業後実家を離れ、学生、勤め人、定年/年金生活と歳を重ねてきた が、常に故郷信州伊那と係わりを保ちたいと考えていた。そこで帰省に便利な八王子市に家を建て勤め人時代から結構頻繁に帰省してきた。血縁、地縁を大切に
したいという長男としての当然の責務だとも思っていた。父母亡き後、ありがたいことに東京生まれの次男が実家を継いで一家を構えてくれたので、帰省の楽しみも増え 60 歳台後半から毎月 3 回ほどのペースで帰省するようになった。そんな折、私は高校同期諸兄から「いななき学舎」入会を勧められ、故郷伊那の皆さんと一緒に学べるいい機会だと喜んで入会させていただいた。
☆これからのいななき学舎 三宅生郎 年齢とともに、脳みそがサビついてきたかな、とボンヤリ感じていたとき、友人の伊藤岬さんから入会を勧められました。もしかすると、これは脳のサビ止め、あるいは、サビ落としに役立つのかもしれないかも、と思いつき、入会させていただき、かれこれ七、八年。お陰さまで間違いなくサビつきは止まっているようです。月一回の例会を楽しみに待つようになりました。 ☆「いななき学舎会員通信」からの抜粋 1.『安心のファシズム――支配されたがる人びと――』 有賀 功 以下は、6月24日の例会でご紹介した齊藤貴男著の標記題の本の要旨です。 エーリヒ・フロム(1900年生、1980年没)は、ドイツの社会心理学者で、ナチスに追われてアメリカに帰化し、学会に重要な地位を占めた人。第一次大戦後、理想的な民主主義憲法をつくったドイツ国民が、なぜ簡単にナチスに屈服しこれを支持したのかを解明したのが、彼の主著『自由からの逃走』である。初めから狂信的にナチスを支持した人々と、英雄的にナチズムと戦った少数の人々を除いて、多くのドイツ人は、強力な抵抗をするでもなく、また讃美者になるでもなく、ナチ政権に屈服した。彼らは労働者階級や自由主義的ブルジョアが主で、ナチに対し敵意を抱いており、すぐれた組織も持っていたのに、いざという場面で内的な抵抗をも示さなかった。これは、心理的には、内的な疲労とあきらめの状態によると思われる。そこでは人々は、個人の無意味さと無気力さに直面していた。人々は、いかなる外的権威にも従属せず、自分の思想や感情を自由に表現できることが、民主主義の基礎だと考えている。しかし、自由に思想を表現する権利は、自分の思想を持つことができる場合にのみ意味がある。ナチス・ドイツの場合、大衆にその条件がなかった。 2.良寛のこと 小田切藤彦 私は良寛という人が好きであり、良寛の生地出雲崎には二度ほど参り、良寛の足跡を辿ったことがあります。また何年か前「いななき学舎」主催の読書会で「良寛に学ぶ」と題して講演をさせていただいたことがあります。この5月には、いななき学舎の方々が中心で一茶と良寛の里を見学する計画がたてられているようで、少し何か書いてと頼まれたので、先ず良寛について、ポイントだけを纏めてみたいと思います。 良寛という人は逸話の多い人であるが、子供のころの逸話を一つあげる。良寛は栄蔵と呼ばれていたが、橘屋という名家の惣領息子で、小さい頃から本を読むことを好む孤独な息子であったが、ある時盆踊りの輪の中にいた栄蔵がいつの間にか見えなくなってしまった。心配した母親があちこち探してみると裏木戸の明かりのともった石燈籠のあたりに坐りこんで本を読んでいる彼を発見した。論語一巻を一心に読んでいたのであったという。 わが宿は国上山もと冬ごもり 3.「いななき学舎」に入会して 2011.3.28 白田信隆 今年1月30日の読書会を皮切りに「いななき学舎」に入会し、これまで3回の読書会に参加しました。3回の体験を踏まえ、いななき学舎・読書会についての感想を述べてみたい。 ・自分が普段読まないような本に接し、知識の幅が広がる。 ・自分にない視点・思考が手に入る。 ・考えながら読むので、深読みの楽しみがある。 最後に、一つ不満を言わせてもらえば、女性の参加者が初回の一人だけであったことです。是非、女性の参加者を増やしていきたいと思います。いななき学舎・読書会が、私にとって「知の創造館」になっていくものと予感している。
(冊子「松江・出雲の旅」より) In the weeks prior to the
trip I had
heard a lot about Izumo-taisya both in Lafcadio Hearn’s Glimpses of Unfamiliar Japan and from my talks with
Reiko sensei. However, I had not expected how thoroughly the space would affect
me. Walking along the pine-lined path toward Izumo-taisha, I was immediately
transfixed. The towering pines whose branches twisted at sharp angles gave the
path an otherworldly feel. Passing through the impressive tori, I felt as if I
was stepping through the gate to another plane. As if I was phasing through the
liminal space between men and gods. Scattered along the path were a series of
statues that represented stories from the Kojiki. Many of these stories I was
familiar with because of my Japanese lessons, so seeing these depictions within
such a space really brought these stories to life in my imagination. They were
not merely tales, but were intermixed into the history of this place. 日本語訳 金井礼子 出雲大社については旅行の数週間前から、ラフカディオ・ハーンの『日本の面影』や礼子先生との話をとおしてたくさんのことを見聞きしてきました。けれども、こんなにも心を動かされることになろうとは予想していませんでした。出雲大社の松並木を歩き始めるとすぐに、私は感動で立ちすくみそうになりました。空に向かって捩じるように枝をまげた松の木々は参道に別世界の趣を与えていました。鳥居は印象的で、異次元への門に足を踏み入れるかのように感じました。まるで神々と人との間にある境界を順に通り抜けていくかのように。参道のあちこちには古事記のものがたりの彫像がありました。日本語の授業で話の多くを知りましたが、この彫像を見て、頭の中で想像していた物語にいのちがかよったように感じました。それらは単なる物語に留まらず、この場所の歴史と融け合ったものになっていました。 参道のつきあたりには本殿がありました。辺り一面簡素で荘厳な雰囲気に包まれていました。本殿の中には入れませんでしたが、そこにいるだけで深い畏敬の念が生まれてきました。塀越しにそびえる屋根は見るからに古くて、まったく別世界のもののようでした。このお社はこれまで私が見てきたどれとも違うものでした。組み合わされた木材の深い色合いや大きなしめ縄、背の高い屋根から突き出る金属の耳のような形をした構造物は拝殿に独自の魅力を与え、他とは違った独特なものになっていました。ここが特別の場所であることは一目瞭然です。ハーンはこの出雲大社を、「一つの立派なお社以上のもの」といっただけでなく「古代神道の信仰の脈拍が鼓動する所」とよんでいます。私もまったく同感です。ハーンのように優雅な表現はできないのですが、私をすっかり魅了してしまう出雲大社のもつ力に心を打たれました。 5.大統領選挙の先にあるもの 2016年6月 木村 洋 トランプ現象の不思議 2016 年のアメリカ大統領選挙にドナルド・トランプが出馬した当時は、誰も本気で彼のことなど相手にする人はいませんでした。あんなに乱暴で短絡的、独善的で八方破れな男が、まともな大統領候補になれる訳がない。・・大半の人々がそう考えたようでした。それがあれよあれよという間に予備選挙を勝ち進んで、今
(6月)ではもう正規の共和党候補として指名確実のところまで来てしまいました。すると今度はみんなが何故そんなことになったのかを説明し始めました。その中でも特に説得力があるように見えるのは、社会の経済格差が余りにひどくなったため、取り残された人々の不満が、トランプ支持という形で表面化しているのだという解釈です。彼等は民主党の掲げる社会福祉の増加や、イスラム教徒との融和、ラテン系住民との共存などを、自分自身に対する脅威のように感じていて、その心情とトランプの孤立主義、排他主義、国粋主義などが、うまい具合に呼応しているというのです。経済はグローバル化し、巨大企業だけが勝ち残り、庶民はますます貧しくなって絶望感が広がり、やり場のない怒りがくすぶっている中へ、トランプのような人間が現れて、「もう私は我慢出来ない、これからは私自身のやり方で強き良きアメリカを取り戻す」
・・ みたいなことを言えば、みんなが飛びつくのも無理はないという訳です。 資本主義の限界は人間の限界? 資本主義の基本理念は人間の強欲を肯定することにあります。人の欲望には限りがなく、それがみんなの生きる原動力なら、むしろそれを正面から認めて、みんなが出来るだけ自由に、自分の欲望を追及出来るような社会を作れば、人々は先を争って豊かになろうと頑張り、彼等の努力は神の見えざる手に導かれて、最も効率的に集積され、最大多数の最大幸福をもたらす
・・ それが資本主義システムを作った人達の理屈でした。そして初期のアメリカのように、まだ人間の数が少なく、土地も資源もふんだんにあって、人々の利害がぶつかりあったら、また別の土地へ行けば幾らでもやり直すことのできた国では、この理屈は非常にうまく機能して、確かにみんなが目立って豊かになることが出来ました。 個人と組織の対立 人間は一人一人、この世に生れ落ちた時から、遺伝や、病気や、環境など、自力ではどうしようもない多くの条件に縛られているため、幾ら機会は均等に与えてやるから、あとは自力で成功しろと言われても、背負わされたハンデキャップの方が大きすぎて、そう誰もがみんなアメリカン・ドリームを実現出来る訳ではありません。それどころか、初めから個人より強い力を持たせるために企業を作ったのですから、いくら個人が抵抗したところで、企業に勝てる訳はありません。だからこそ国家が独占禁止法や、公正取引委員会、消費者保護制度、環境保護法、などを作って、企業活動を規制しているのですし、持てる者からより多くの税金を取って持たざる者を支える、社会福祉もやっているわけです。それはそうやって強制的にでも所得の再分配を計らなければ、経済を下支えしている弱い働き蜂達がみんな死に絶えて、結局この経済制度全体が崩れてしまうことが、経験的に分っているからです。
☆ 年表
7年11月講演会 「見ること と読むこと」(上田)無言館館主:窪島誠一郎氏
10年 2月講演会 「知られざる歴史を読み解く」 江戸・明治期における上伊那の記録に見る人権格差の実態と平等化への動き 2月21日 18:00〜いなっせ501号室 参加者30名 いななき学舎会員:伊藤一夫氏 9月講演会 「子供たちの考え方と意識の変化」いななき学舎代表:森本尚武氏 9月4日 14:00〜 創造館講堂 11月講演会 「清浄なる精神―日本の自然思想を読み解く」哲学者:内山 節氏
13年 5月震災フォーラム1 第一部・復興ドキュメンタリー映画「超自然の大地」 震災フォーラム2 第二部「東日本大震災から見えてきたもの」 3月『竹沢長衛物語』の著者・松尾修さんを迎えて公開読書会、14:00〜16:00 9月『ドラッカーとオーケストラの組織論』の著者・山岸淳子さんの公開読書会 ※是より読書会会場は伊那図書館となる 10月9日木村 洋氏を囲む集い 於:海老屋料理店 13:00〜16:00 参加者13名
16年 7月納涼会 清水吉治氏別荘 7月31日 参加者25名 10月木村洋氏を囲む会10月15日いなっせ5階会議室 13:30〜15:45 参加者12名 11月『高遠旅石工たちの幕末』の著者・松尾修さんを迎えて公開読書会 14:00〜 12月文学の旅、鎌倉文学の旅 12月2日〜3日 参加者20名
☆ いななき学舎の読書会で読んだ本 (05年9月〜06年12月) 半藤一利著 『昭和史 昭和前期篇』、『昭和史 戦後篇』(平凡社) 柳田邦男著 『壊れる日本人――ケータイ・ネット依存症への告別』(新潮社) ポール・トインビー著 『ハードワーク――低賃金で働くということ』(東洋経済) 田中成之著 『改革の技術 ―鳥取県知事片山善博の挑戦』(岩波書店) 赤川学著 『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書) 藤原正彦著 『国家の品格』(新潮新書) 養老孟司・牧野圭一著 『マンガをもっと読みなさい』(晃洋書房) ビル・エモット著 『日はまた昇る ―日本のこれからの15年―』(草思社) 香山リカ著 『いまどきの「常識」』(岩波新書) 伴野敬一著 『信州教育史再考』(龍鳳書房) 半藤一利著『昭和史 戦後編』平凡社 暉峻淑子著 『豊かさの条件』(岩波新書) 内橋克人著 『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』(文芸春秋) 宮沢賢治の詩集・童話集から各自選択 池澤夏樹著 『言葉の流星群』(角川書店) 窪島誠一郎著 『「無言館」への旅 戦没画学生巡礼記』(白水社) 藤沢周平著 『暗殺の年輪』(文春文庫) 猪瀬直樹著 『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか』(文春文庫) 斉藤槙著 『社会企業家 社会責任ビジネスの新しい潮流』(岩波新書) 纐纈厚著 『監視社会の未来』(小学館) 佐藤卓己著 『メディア社会――現代を読み解く視点』(岩波新書) 内田樹著 『下流志向――学ばない子どもたち 働かない若者たち』(講談社) 中村哲著 『医者、用水路を開く アフガンの大地から世界の虚構に挑む』(石風社) 永井路子著 『岩倉具視 言葉の皮を剥きながら』(文芸春秋) 堤未果著 『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書) 奥中康人著 『国家と音楽 伊澤修二がめざした近代』(春秋社) なだいなだ氏の著書から自由に選択し、その本について各自が発表 竹入弘元著 『井月の魅力―その俳句鑑賞―』(井上井月顕彰会) 五木寛之著 『林住期』(幻冬舎文庫) 半藤一利著 『幕末史』(新潮社) 姜尚中著 『悩む力』(集英社新書) 郷原信郎著 『思考停止社会 「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書) 村上春樹の著書から各自選択 武田邦彦著 『偽善エコロジー 「環境生活」が地球を破壊する』(幻冬舎新書) 武田邦彦・杉本裕明著 『武田邦彦はウソをついているのか』(PHP研究所) 雑誌「文芸春秋」09年10月号 山岡淳一郎著『医療のこと、もっと知ってほしい』(岩波ジュニア新書) 明日香寿川著『地球温暖化』岩波ブックレット 水村美苗著『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房) 内田樹著『日本辺境論』新潮新書 古井由吉著『人生の色気』(文芸春秋) 佐々木瑞枝著『日本語を「外」から見る』(小学館101新書) 加藤陽子著『それでも日本人は戦争を選んだ』(朝日出版) 内山節著『清浄なる精神』(信濃毎日新聞社) 中村政則著『「坂の上の雲」と司馬史観』(岩波書店) 池内紀著『文学フシギ帖』(岩波新書) 城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫) 曽野綾子著『老いの才覚』(ャxストセラーズ) 加藤秀俊著『常識人の作法』(講談社) 小島健輔著『ユニクロ症候群』(東洋経済新報社) 渡辺誠著『目からウロコの縄文文化』(ブックショップマイタウン) 落合恵子著『積極的その日暮らし』(朝日新聞社) 古賀茂明著『日本中枢の崩壊』(講談社) 藻谷浩介著『デフレの正体』角川書店 井上ひさし著『この人から受け継ぐもの』(岩波書店) 北杜夫著『楡家の人びと』(新潮文庫) 橋本大三郎×大澤真幸共著『不思議なキリスト教』(講談社現代新書) 齊藤貴男著『民意のつくられかた』(岩波新書) 梯久美子著『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫) 司馬遼太郎著『空海の風景』(中公文庫) 注:’12.9.30(台風のため1か月遅れ10月実施) 戸田金一著『国民学校物語』文芸社 神保哲生・宮台真司(他)著『税金は誰のためか』扶桑社 (レポートのみ) 孫崎享著『戦後史の正体』創元社 『文芸春秋』、『世界』、『中央公論』の各2月号、 テーマ「これからの日本を語る」 澤地久枝著『密約…外務省機密漏洩事件』岩波現代文庫 松尾修著『竹沢長衛物語』山と渓谷社 (公開読書会) 中野幸次著『良寛に生きて死す』考古堂書店 いななき学舎フォーラム(5月19日) 第一部 復興ドキュメンタリー映画「超自然の大地」梶野純子監督(伊那市出身) 第二部「東日本大震災から見えてきたもの」 ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄』上・下 草思社文庫 橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司著『驚きの中国』講談社現代新書 平野克己著『経済大国アフリカ』中公新書 山岸淳子著『ドラッカーとオーケストラの組織論』PHP新書 (公開読書会) 半藤一利著『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』文春文庫 吉村昭著『関東大震災』文春文庫 渡辺京二著『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー マーティン・ファクラ―著『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』双葉新書 田部聖子著『ひねくれ一茶』講談社文庫 辺見庸著『もの食う人びと』角川書店 鈴木宣弘著『食の戦争 米国の罠に落ちる日本』文春新書 吉田美和子著『一茶無頼』信濃毎日出版社 (公開読書会) 春日愚良子著『信州二人の放浪俳人 一茶と井月』ほおずき書籍 (公開読書会) 大澤真幸・水野和夫著『資本主義という謎』NHK出版新書 ロジャー・パルバース著、早川敦子訳『驚くべき日本語』集英社 国分(こくぶん)功一郎著『来たるべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治学の諸問題』幻冬舎 藻谷浩介・NHK広島取材班著『里山民主主義』角川書店 広田祐弘著『日本人に生れて、まあよかった』新潮新書 島薗進著『国家神道と日本人』岩波新書 (15年1月〜12月) 太田昌克著『日米〈核〉同盟 原爆、核の傘、フクシマ』岩波書店 五木寛之著『孤独の力』東京書籍 橋本禮次郎著『リニア新幹線・巨大プロジェクトの真実…』集英社新書 井上直人著『おいしい穀物の科学』講談社 (公開読書会) 堤未果著『沈みゆく大国アメリカ』集英社新書 石平著『私はなぜ(中国)を捨てたのか』WAC(ワック)文庫 石井妙子著『日本の血脈』文春文庫 戸ノ下達也著『「国民歌」を唱和した時代』吉川弘文館 増田寛也著『地方消滅』中公新書 山折哲雄著『さまよえる日本宗教』中公文庫 佐伯啓志著『従属国家論…日米戦後史の欺瞞』PHP新書 阿古智子著『貧者を喰らう国 中国 格差社会からの警告』新潮社 堀田善衛著『方丈記私記』ちくま文庫 佐藤優著『知性とは何か』祥伝社新書 益川敏英著『科学者は戦争で何をしたか』集英社新書 エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』文春新書 馬渕睦夫著『世界を操るグローバーリズムの洗脳を解く』悟空出版 山田康弘著『つくられた縄文時代――日本文化の原像を探る』新潮社 瀬川拓郎著『アイヌと縄文』ちくま新書 小熊英二著『生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争体験』岩波新書 小林秀雄著『モオツァルト・無常ということ』新潮文庫 永井龍男著『一個 秋その他』講談社文芸文庫 夏目漱石著『門』新潮文庫、角川文庫、集英社文庫 松尾修著 『高遠旅石工たちの幕末』講談社エディトリアル (公開読書会) 矢部宏治著『日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか』集英社 (17年1月〜12月) 松山義雄著『狩りの語部――伊那の山峡より』法政大学出版局 田原総一朗著『トランプ大統領で「戦後」は終わる』角川新書 関岡英之著『拒否できない日本』文芸新書 田村隆一著『自伝から始まる70章 大切なことはすべて酒場から学んだ』詩の森文庫 半藤一利著『大人のための昭和史入門』文春新書 竹村公太郎著『水力発電が日本を救う』東洋経済新報社 ラフカディオ・ハーン著 池田雅之訳『新編 日本の面影』角川ソフィア文庫 山本謙一著『利休に尋ねよ』PHP文芸文庫 吉川洋著『人口と日本経済』中公新書 加藤周一著『言葉と戦車を見すえて』ちくま学芸文庫 藤田正義著『日本文化を読む 5つのキーワード』岩波新書 日本再建イニシアティブ著『現代日本の地政学』中公新書 (18年1月〜12月) 中島敦著『李陵・山月記』角川文庫 鴻上尚史著『不死身の特攻兵』講談社現代新書 豊田隆雄著『本当は怖ろしい韓国の歴史』彩図社 ローズマリー・サトクリフ著 猪熊葉子訳『ともしびをかかげて』岩波少年文庫 前田速夫著『「新しき村」の百年〈愚者の園〉の真実』新潮新書 『「戦後80年」はあるのか』―「本と新聞の大学」講義録―集英社新書 今井宏平著『「トルコ現代史」オスマン帝国崩壊からエルドアン時代まで』中央公論新社 佐藤弘夫著『「神国」日本―記紀から中世、そしてナショナリズムへ』講談社学術文庫 林香里著『メディア不信―何が問われているのか』岩波新書 大日向悦夫著『満洲分村移民を拒否した村長』信毎選書 カズオ・イシグロ著『日の名残り』ハヤカワ文庫 (19年1月〜12月) ルイス・フロイス著『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫 井上智弘著『人工知能と経済の未来・・2030年雇用大崩壊』文春新書 堤未果著『日本が売られる』玄冬新書 芦沢壮寿氏が書いた論考「日本の古代史―“万世一系の皇国”の国史がなぜ生まれたか」 五木寛之著『白秋期 地図のない明日への旅立ち』日本経済新聞出版部 山本義隆著『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』岩波新書 梯久美子著『死と愛と孤独の肖像』岩波新書 カズオイシグロ著・土屋政雄訳『忘れられた巨人』ハヤカワepi文庫 河合雅司著『未来の地図帳――人口減少の日本で各地に起きる事』講談社現代新書 後深草院二条著・佐々木和歌子訳『とはずがたり』光文社古典新薬文庫 ロジェ・カイヨワ著、西谷修訳『戦争論』NHK出版 内田樹著『街場の読書論』潮出版社 H・D・ソロー著、飯田実訳『森の生活 ウォールデン』岩波文庫 磯田道史著『天災から日本史を読み直す 先人に学ぶ防災』 藤岡換太郎著『フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体』講談社 ケネス・グレーアム著、石井桃子訳『たのしい川べ』岩波少年文庫 阿部勇・高橋千幸他著『蚕糸王国ものがたり』信毎選書 出口治明著『還暦からの底力 歴史・人・旅に学ぶ生き方』講談社現代新書 加藤典洋著『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ幕末・戦後・現代』岩波ブックレットNo.983 山極寿一著『スマホを捨てたい子どもたち野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』ポプラ新書 ブレイディみかこ著『ワイルドサイドをほっつき歩け』筑摩書房 ☆ いななき学舎主催の公開読書会・講演会 公開読書会(著者による講演) 第1回 06年1月 「井月の魅力―その俳句鑑賞」(井上井月顕彰会)著者:竹入弘元氏 第3回 13年9月29日 「ドラッカーとオーケストラの組織論」(PHP新書)著者:山岸淳子氏 第4回 14年5月25日 「一茶無頼」(信濃毎日出版社)著者:吉田美和子氏 第5回 14年6月29日 「信州二人の放浪俳人 一茶と井月」(ほおずき書籍)著者:春日愚良子氏 第6回 15年4月26日 「おいしい穀物の科学」(講談社)著者:井上直人氏 第7回 16年11月27日 「 高遠旅石工たちの幕末」(講談社エディトリアル)著者:松尾 修氏 第8回 17年6月25日 「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社)著者:竹松幸太郎氏 会員による自前講演会 第1回 09年5月31日 「金子みすずになりたかった女の子」 伊藤岬氏 特別講演会 第1回 11年8月28日「今回の巨大地震は伊那盆地にどう影響するか」松島信幸氏 講演会 第7回 18年7月12日 講師:小泉八雲記念館館長 小泉 凡氏、演題「小泉八雲とアメリカ―ハーンが遺した日米の絆―」 震災フォーラム 13年5月 13年5月19日 第1部 復興ドキュメンタリー映画「超自然の大地」映画監督:梶野純子氏(伊那市出身) 第2部「東日本大震災から見えてきたもの」パネルディスカッション(創造館講堂) ☆編集後記 この度、六波羅代表より、自身が傘寿を迎えて世代交代したい旨のお話がありました。それには引き継いでくださる、次世代の方々に、今までの「いななき学舎」の流れ、歴史をお知らせする必要があるのではと提案したところ、快くご了承いただきました。 |
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会津・大内宿・東照宮・足利学校の旅 令和元年8月29日より31日まで、今年の文学の旅は会津方面でした。8月とはいえ雨混じりの 皆様のご準備のおかげで、今年も実り多き楽しい旅ができましたこと感謝です。 以下に小田切藤彦さんによる俳句、守屋臣介さんによる短歌をご紹介します。 ☆ 会津方面への旅 俳句十四句 ☆ 会津の旅十五首
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いななき学舎・松江・出雲の旅(2018年6月2日〜4日) 素敵な松江・出雲の旅、行って参りました
旅のきっかけは、例会でラフカディオ・ハーン著「日本の面影」を皆で読んだことからでした。島根県松江にハーンの面影、足跡を辿ってみょう、衆議一決。二泊三日の旅程は、金井、吉岡両会員とトラビスジャパンとの度重なる話し合いで、綿密に組み立てられました。ハーンの曾孫にあたる小泉凡さんに対する金井さんによる熱意のこもった講演の依頼要請も旅の充実に期待を高めるものでした。
6月2日。朝5時30分、清々しい快晴のもと伊那市役所駐車場からスタート。中央自動車道、名神高速道、中国自動車道、米子自動車道をすいすいとわたり走り米子経由で松江入り。「直線距離で青森行きと同じ程度の距離」とバスの車内でその旅程の長さを鈴木さんは教えてくれましたが、車内では、六波羅さんがダビングされたNHKの小泉八雲についての解説番組がTXで流され、車内はあたかも“八雲教室”。約8時間半のバス旅を飽きさせませんでした。車窓から伯耆大山の大きな山容を目にし、いよいよ中国地方に入ったかの感を味わいました。午後3時過ぎにバスが滑り込んだのは、「松江堀川遊覧船」の駐車場。国宝松江城の築城当時の姿を今も残すという城をぐるりとめぐる堀川一周の遊覧の船旅。バスから小舟に乗り換え掘割を進む小一時間の船旅はゆったりとした城下町の風情を早速味あわせてくれました。そして、今宵の宿舎、松江市内の「サンラポーむらぐも」へ。夕食を済ませると日没を逃さぬようにと歩いて20分ほど、暮れゆく宍道湖畔に佇み、大きな落日を目の当たりにしました。湖面を茜色に染め、出雲方向の山並みを黒く影色一色にして真っ赤な太陽は沈んで行きました。
翌日3日も快晴。宿から掘割沿いの道を歩いてほぼ小半時、小泉八雲記念館に。館長で八雲曾孫・小泉凡さんの講演に接しました。ギリシャで生まれ、幼時をアイルランドで過ごしイギリス、アメリカ・シンシナティ―、ニューオリンズ、マルティニークを経て来日したその遍歴なかで得た数多くの不思議な物語、妖精譚。そして日本で結婚した妻セツを通して語り聞いたかずかずの日本の怪談。凡さんは、八雲のこうした文学の特徴は周辺性と反人間中心主義にあるという説明にとても今日性を感じました。
さてこの後は、各自の自由行動。八雲の旧居訪問、出雲大社への参拝、境港の水木しげるロート探訪、夥しい銅剣等が出土した荒神山遺跡見学、八雲ゆかりの月照寺等への訪問、古代出雲歴史博物館見学等々、21名の参加者それぞれの興味、関心の赴くままに散開。今宵のお宿は玉造温泉「保性館」に夕刻には全員また参集です。この夕食後、これは又愉快なショーに巡りあわせ。宿から徒歩5分ほどの演芸場で安木節を見せてくれたのですが、この舞台上に金井さんの夫の素水さんと、カナダから来日し伊那でEAT(イングリシュ・アシスタント・ティーチャー)を務めるジャックが招きあげられ、即席で教えうけたのち、プロの踊り手とともに軽妙に安来節を踊って見せ、客席からは拍手、喝采。思いもよらぬアクター誕生でした。 最終日、本日も快晴。宿の出がけに思わぬ発見がありました。ロビーの壁面に飾られた大きな日本画は小泉八雲と妻セツがテーブルを挟んで椅子にすわり対する情景を描いたものでした。守屋臣介さんが早速、フロントに作者やここに飾られたいきさつなどを尋ねておいででしたが、何か嬉しい因縁のようなものを感じる一瞬でもありました。そして、バスは一路、足立美術館へ。横山大観の収集と日本庭園の美しさで国際的に評価か高いとのことでしたが、庭園美、聞きしに勝るもので感心しました。昼食の安来節園芸館のどじょう松花堂膳も大変、美味。かくして、バスは一路、来たコースの逆を辿り無事に全員帰着したのでした。トラビスの乗務員さんに感謝。(事務局 三宅生郎) 以下守屋臣介さん作成旅の画像集です![]() ![]() ![]() ![]() |
いななき学舎・越中研修旅行(2017年12月2日〜3日) 道中記・会員作品集
待ちに待った(私だけかな?)旅行の出発は予定よりも遅れたにもかかわらず、交通渋滞もなく進み快適な旅になりました。道中の中堀・三宅・征矢・守屋各氏による解説はこの会の旅のとても素晴らしい、誇れることではないでしょうか?ただ、守屋氏の貴重なお話の最中に行先の間違いがあり、大騒ぎをして本当に失礼いたしました。やはりナビだけを頼ることのよくないことが起こってしまいました。申し訳ありませんでした。 この度で恵まれたことの第一番は天候でした。二日間ともに晴天で夕方・日の出の時に立山の山々がそれはそれは見事に見えて、まさに「立山に
降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし」の歌が思われ、立山を神山と崇めた人々の思いが伝わってきました。 次に、村上家でご当主によるお話は勿論ですが、思いがけず「ささら踊り」を無料で見ることが出来たことです。これはご当主夫人のご厚意に感謝申し上げたいです。 そして、宿のお料理のおいしさと心暖まるおもてなしでしょうか?宿のお料理だけでももう一度という方もいらっしゃるようです。 特に車の手配をして下さった岬さんに心からお礼を申し上げます。また「つまま」と「たぶ・椨・閧フ木」を結び付け実際に「つまま」を見つけ、教えてくださった中堀さん、一葉失礼して持ち帰り、写真に載せてくださった守屋さん!
感激いたしました。万葉集のDVD,帰りの車中での歌の用意など六波羅さんにも感謝いたします。また、差し入れの数々も忘れられません。おいしくいただきました。 このほかに人知れず楽しいことが多くあったようです。百円硬貨事件・カメラポケット事件など・・・・。 行き届かないことが多くありまして反省することばかりですが、皆様に助けられて無事終えることができました。気持ちよく会計を引き受けて下さり、何から何まですべてお世話になりました湯沢さん。心からの感謝でいっぱいです。準備をしたおかげで一番楽しむことが出来たのは私だと思います。有難うございました。 心残りは万葉歴史館でもう少し時間が欲しかったこと、歌碑を予定通り見ることが出来なかったことなど伏木をゆっくりと巡れたらと残念でなりません。出来れば「物部の
八十少女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」の寺井の井戸とかたかごの花を見にもう一度訪ねたいとひたすら願っています。 (吉岡 郁子) 吉岡 郁子 毛嵐を 見れども飽かず 日の出待つ 六波羅秀樹 いななきの 寒ブリ初日 氷見の宿 三宅生郎 熊笹の葉擦れの音のさやけくて冬の陽眩し万葉の跡 昨夜には大きな月に照り映えし有磯の朝(あした)日輪上る 守屋臣介 茅葺の丁なの跡も黒々と
煙の中に鈍く光りて 五箇山や流人の小屋の脇にある 四角のもみじ幾年数う 海有磯富山の海を中に置き 神の山なる立山望む 月を見て波の音を聞きながら 疲れを癒す氷見の湯船 尋ね来し越の中国小春日の 雪山見えれど優し海風 つままの木片かごの花大嬢に カスミ桜や家持が恋 家持が見れど飽かじと詠みし山 千年もあとの我も思ほゆ
小田切藤彦 氷見の海沈む夕日に合掌す 万葉の歌詠すぐれ今に生く 木彫する職人たちの生きる街 家持の歌に綴られ歴史館 高岡の宿は楽しき語りて尽きず 舟もりのさしみは甘し食べ放題 日常を忘れて旅寝我ここに 歌詠みの心は豊か万葉人 万葉集万葉仮名にて書かれたり 北陸は文化の宝庫古き町 伊藤 岬 冬枯るる岬に立ちて万葉の海に向かへば立山ひかる 夕焼けの移ろひまでも映しつつやがて暮れゆく富山の海は 黄昏のまほらを空にかへしつつ月ゆつくりと沈みゆくなり 暁光の波間を静かに飛ぶ鳥に世俗まみれの愚かさはなし 万葉の言葉は肌にまとわりて微熱をもちて記憶を醒ます |
いななき学舎鎌倉文学の旅 2016年11月20日(日)〜21日(月) 「2016 いななき学舎 鎌倉文学の旅」を終えて 金 井 礼 子 11月20日、日曜日の早朝、バスは伊那各地を巡って予定通りに出発しました。岡谷で武居美智子さんが乗車されるといよいよ「鎌倉文学の旅」のスタートです。まずは県内乗車の15名がそれぞれに自己紹介。旅の楽しみは出逢いにあり。道中皆様とお話しできる楽しみが膨らんでまいりました。 車中続いてのプログラムは、「鎌倉ゆかりの文学者」についてのお話でした。まずは小田切藤彦先生より高村光太郎についてです。戦争賛美の詩を書いたことへの悔恨から宮沢賢治のふるさと花巻に引きこもっていたこと。彼をデカダンスから救ったのは智恵子との出会いであったこと。その智恵子が統合失調になり53歳で亡くなってしまうことなどお聞きしながら、高校の時歌った「レモン哀歌」の旋律を思い出したり、「安達太良山」の詩を思い出したりしておりました。続いては三宅さんから白洲次郎と正子について、とても詳しいお話を伺いました。とりわけ、薩摩藩出身の樺山大将の孫であった正子が、会津藩主松平容保公の孫の松平勢津子さん(後の秩父の宮妃殿下)と女子学習院以来の友人でとても仲良しであったという話には興味をそそられました。会津藩の悔しさには胸の痛みを覚えるところがあり、その勢津子さんが皇室に嫁いだことで、あの新島八瀬さんが「やっと長年のしこりが解ける思いになった」との逸話を思い出しました。「実朝と公暁の首」の話も興味深く伺いましたが、私は不謹慎にも、「源何某の三歳のしゃれこうべ」という江戸の小噺が気になり始め、「はてどこで読んだ話だったか」どうしても思い出せなく気になってしまっておりました。後で調べてわかったのは、小林秀雄の随筆「真贋」の中に出てきた、「頼朝公三歳のしゃれこうべ」という話で、「実朝」ではありませんでした。最後のお話は伊藤岬さんによる「中原中也論」でありました。「神童」と呼ばれるほどの秀才であった幼少期からの成長過程、長谷川康子さんとの出会い、小林秀雄に彼女を奪われた経緯等とても詳しく語ってくださいました。また、武居さんからも中也や立原道造への思いをお聞きすることができました。 それにしてもこのようなお話をたっぷりとバスの中でお聞きできたこの時間はなんと贅沢なひと時だったことでしょう。しかも、おいしい白菜のお漬物やリンゴの煮物をいただきながらです。この上なく幸せな時間でした。 残念なのは、荻原さんご夫妻と吉岡郁子さん、守屋武夫さんが参加できなくなったことでした。吉岡さんはもとよりこの旅のブレーンでしたから、さぞご自身も残念だったことでしょう。武相荘についての6枚綴りの資料を用意してくださり見どころの情報満載でありがたいことでした。 10時半頃、バスは町田の武相荘に到着しました。周辺は雑木林で、赤黄に色づく葉に常緑樹の緑が混ざり陽ざしを受けて光っています。冬枯れの伊那谷と何たる違いでしょう。小春日和の暖かさに解放感を味わいました。黄葉の美しい木があって、「シデ」という名であることを米山さんからお聞きしました。 さて、いよいよ武相荘へステップインです。ひっそりとした竹林に入り、木道の小径を緩やかに曲りながら辿っていくと目の前に白壁の建物が現れました。その脇の階段を上がるとあの立派な長屋門の前に出ます。ここまでの小径がなんと素敵だったことか。吉岡さんの資料によれば、裏門からのアプローチはお能の舞台の「橋懸かり」のイメージだとか。「聖地」へ至る「結界」ともいうべき存在とのこと。本当に心憎い演出です。ここで東京にお住いの山岸さんと市川さんが合流されフルメンバーがそろいました。 初めて訪れる憧れの武相荘は、本当に美しいと思いました。茅葺の屋根に漆喰の壁、黒い柱や窓枠からなる古民家は、周囲の自然の中にしっくりとおさまって、落ち着いた雰囲気ながらあか抜けた佇まいでありました。ミュージアムの中の展示品は目を見張るものばかり。室町時代や鎌倉時代の壺があったり、天平時代の薬壺があったりと、その骨董的価値は私の想像の域を超えるものでした。自分の好きな世界を妥協なく求めていく生き方。それができた白洲正子とはどういう人物だったのだろう。全く家事をしなかったそうだけれど・・・とわが身をちょっと振り返ったりもしました。邸内レストランでの食事時、近くに座られた鈴木さんが、中央病院に掛けられている「シェルパの親子」の絵を描いた方だと知り、感激いたしました。 さてバスはいよいよ鎌倉へと向かいます。またお楽しみが用意されていました。文学者による歌詞につけられた歌を湯沢さん六波羅先生がご用意くださり皆でカラオケに合わせて歌いました。「白鳥の歌」、「初恋」、「砂山」、「惜別の歌」、「宵待ち草」、「遠くへ行きたい」、「小さい秋見つけた」と懐かしい歌ばかりです。そして「鎌倉」の歌もありました。本当によかった。ご用意ありがとうございました。 さて、鎌倉文学館に到着です。吉岡さんのご友人、平田恵美さんが迎えてくださいました。平田さんは鎌倉市中央図書館で近現代史資料室の研究員をされておられます。加賀百万石のお殿様の子孫にあたる前田侯爵の別邸であったこの建物もまた、素敵なお屋敷でした。漱石が妻鏡子さんにあてた手紙など、鎌倉ゆかりの文学者直筆の原稿や所持品が収集展示されておりましたが、私にとっては、犬が星を見るようなもので、心に残るのはむしろ、窓からのぞく海の眺めや、庭園から振り返るお屋敷の建物の美しさでした。六波羅先生の奥様が、以前来られた時はバラ園がなく、そのほうがかえって建物の美しさが感じられたとおっしゃっていましたが、私も、バラはきれいながら余計な気がいたしました。 さて次は平田さんのご案内で近くの道を歩いて川端康成や山口瞳の家、また吉屋信子の家等を見て回り、そのまま鎌倉市中央図書館へお邪魔致しました。こちらの一室に御案内いただき、近代の鎌倉の変遷を映像とともにご説明頂きました。特に駅周辺については、関東大震災前後を含めて、その移り変わりがとてもよくわかりました。永井龍男の小説にもしばしば登場する「谷戸」が、鎌倉にある谷地形の山あいの土地を意味し、「やと」或いは「やつ」と読むことなど、鎌倉独特の地形や周辺の都市開発の歴史などたくさんお話しいただきました。資料室にもご案内くださり、鎌倉アカデミアの膨大な資料があることもわかりました。平田さんのおかげで鎌倉の姿を一歩踏み込んで見せていただくことができました。 「秋の日は鶴瓶落とし」。日もすっかり暮れかけたころ、図書館前で平田さんとお別れし、鎌倉駅から「江ノ電」に乗って長谷で下車。そこからは徒歩でホテル「鎌倉あじさい荘」に向かいました。ここでは清水さんのスマホを頼りにたくさん歩きました。三宅さんの万歩計は8000歩を超えていたそうです。10キロ程度は平気で歩かれるという清水さんの奥様にとっては何でもない距離でしょうと思いながらも、日ごろの運動不足が解消できたと嬉しい思いでした。 さて、夕食後の団欒のひと時です。「伊那も鎌倉のように近現代の写真や資料を集め保存し、後世に伝える歴史資料を整えていく必要があるのでは。」とのご提案が横森さんよりありました。本当にそのとおりですね。皆さん口々にその必要性を述べられ盛り上がっておりました。またその折「カヤの実」をいただきました。小さいころ母がよく「カヤの実」の歌を歌っていましたが、実際見るのは初めてで、うれしくいただきました。ごちそうさまでした。 さて第二日目は円覚寺参拝からスタートです。横須賀線北鎌倉駅のすぐ脇にあり、線路は確かに敷地内と思われるところを通っていました。明治政府の廃仏毀釈の実例を目の当たりに見た思いです。 総門に続く階段下に一匹の猫がお行儀よく座っていたのがご記憶にありますでしょうか。後で調べてわかったのですが、これは円覚寺に住み着いている2匹の猫のうちの一匹で、「しいちゃん」という名前だそうです。総門あたりに座っては、お客様をお迎えするのが彼女の日常なのだそうです。 赤、黄に美しく染まるもみじの下の階段を登って総門をくぐると、二層の立派な屋根を頂いた堂々たる山門の姿がありました。これが漱石のあの『門』か。『門の下に立ちすくんで日の暮れるのを待つべき人』と書かれた「宗助」を思い出しながら見上げていると、そこに昨日の平田さんが来てくださっているのに気づきました。ご好意に甘え境内の中を案内していただきました。仏殿の隣にある「選仏場」は震災に耐えて残った建物で、当時ここで禅を組んでおられた方々は助かったとのお話を伺いました。中にはなんとも美しい仏様の像がありました。「居士林」「方丈」を左右に見て「虎頭岩」のある「妙香池」を左に見て左に曲がると国宝「舎利殿」がありました。?葺きの屋根が美しいこの舎利殿はもともとは近くにあった大平寺から移築したもので、15世紀の建築と推定されているとのこと。さらにその奥にある観音堂までご案内くださいました。円覚寺はそれぞれの塔頭やお堂一つ一つに趣があり、紅葉もちょうど見頃で本当に美しい世界です。守屋さんが写真をたくさん撮ってくださいました。見せていただくのが楽しみです。最後は漱石が滞在した塔頭、「帰源院」にお連れ頂きました。平田さんはここで開かれる「鎌倉漱石の会」に参加されているそうでよくご存じの様子です。おかげで普段は非公開の内部を見せていただきました。漱石がご住職富沢さんにあてた手紙が飾られていました。庭には漱石の句碑があり、「佛性は白き桔梗にこそあらめ」と刻まれておりました。平田さん本当にありがとうございました。 さて、次は建長寺です。ここは鎌倉五山第一位のお寺とのこと。創建は1256年北条時頼によるもで、 我が国最初の禅寺だそうです。広々として明るい境内でしたが、私としては円覚寺の印象があまりにも強く、もはや素晴らしさを味わうセンサーを使い果たしてしまった感じで、正直なところあまり感動できない状況にありました。 食事処「峰本」での豪華な昼食をはさんで、午後の最初は「化粧坂(けわいざか)」ウォーキングです。化粧坂は「鎌倉七口」と呼ばれる代表的な「切り通し」の一つで、左右にはごつごつとした岩肌が露出しており、頭上には木々が葉を繁らせていて、昼なお暗いつづら折りの坂道でした。遊女がいたとか、平家の武将の切り取った首に化粧をしたとか、様々な伝説があるらしく、鎌倉時代の人たちの哀惜が漂っているようでもありました。一人旅なら怖くて来られなかっただろう、などと思いながら坂をのぼりつめると、パッと空が広がって明るい風景が開けました。小高い場所に若き日の頼朝公の座像があって、その周辺で2匹のプードルがお散歩を楽しんでいました。鎌倉時代と現代とがまじりあった風景でした。 鶴岡八幡宮は階段と根本だけの大イチョウを遠目に見て駆け足で通り抜け、秘かに楽しみにしていた小町通りにある「ターシャ・チューダー」のお店を美智子さんと尋ねました。たった10分のお買い物時間でしたが私たちにとってはもう一つのハイライトでした。 最後の訪問は瑞泉寺。永井龍男の随筆「秋」の舞台です。参道を上っていくと道は二手の階段に分かれます。永井は「男坂」を選んだとありますが、私たちは、緩やかな「女坂」をのぼっていきました。たどりついた門には、虚子の句「初時雨これより心定まりぬ」が掛けられてありました。門の中はこぢんまりと整った庭園で、「冬桜」が咲いておりました。「秋」の随筆さながら本堂の後ろに回り込むと、対岸に断崖をいただく池のある庭が広がっていました。夢想国師の設計といわれる庭園です。「秋」の中の「私」は、この池に映る十三夜の月が見たくて独りそぞろ歩いてきたのでした。「月の明るい秋の夜の冷え冷えとした夜気が感じられる見事な叙述」と、中野幸次が評したあの情景を思い描きながら、しばし雨の中に佇みました。 2日目も本当にたくさん歩きました。ぐったり疲れて寝てしまうのではとの不安をよそに、帰りのバスの中にも、楽しい時間が流れました。稲村ケ崎周辺では、伊藤一夫先生から新田義貞の歴史物語をお聞きしました。後醍醐天皇、護良親王、宗良親王などなど、まるで身近なお知り合いかのように話される先生のお話しはとても面白くてもっともっとお聞きしたいと思いました。「眠れない最後のプログラム」は、白洲次郎と正子のDVDの放映です。1巻、2巻と流してくださり、すっかり見入ってしましました。退屈する間も寝入る間もなくあっという間に岡谷です。ああ、楽しかった。本当に充実した2日間でした。参加の皆様、事務局の皆様本当にお世話になりました。「いななき学舎文学の旅、鎌倉編」は私にとって忘れえぬ旅になりました。本当にありがとうございました。
小田切藤彦 氏 四句 ・鎌倉の土踏みしめて冬はじめ ・武相荘鉄瓶かかりし囲炉裡あり ・冬日さす文学館の文士たち ・サブレー売る店は繁盛冬鎌倉 今次旅行にあまり勉強せづに参加させていただきました。皆様とは「武相荘」で合流、二日目鎌倉若宮大路でお別れしましたが、小春日和に恵まれ楽しい2日間でした。
市川和雄 氏 三句 ・飛石にいろをこぼして冬紅葉 ・天井の龍睨みをり冬はじめ ・人力車山門に待つ小春かな 武相荘を訪ねて 湯沢文象 いななき学舎「鎌倉文学の旅」の往路に立寄った旧白洲邸今でこそ宅地開発で住宅地のど真中であるが、当時はど田舎、そこえ移り住む潔さと、エリートであるご夫妻の身の処し方、生きざまには感動さえ覚えた。バスの中でのビデオ映像を見て確信した。 売店で白洲正子の書籍「私の古寺巡礼」が目にとまり和辻哲郎のそれを連想、買って帰り読んでみる。古寺巡礼のバイブル和辻哲郎のそれとは違い古都以外各地を巡り“14〜18歳多感な時期のアメリカ留学で日本のものが珍しく懐かしかった”と云った視点からとらえたようだ。巻末、高橋睦郎の解説に「すいたことをしての一文に白洲正子の死後も衰えない人気は、上流家庭に生まれ育ち、裕福な家に嫁いだ人なら、他にもたくさんいる。そんな人の常として、師、先輩、友人に恵まれ人少なくないだろう。それらの人々が全て晩年の正子のような魅力的な存在になったわけではない。反対に、選良意識ばかり強い鼻もちならない存在になってしまった人の方が多いのではないだろうか。」と 拝金主義的志向が強い今の世に警鐘さえ感じた。先日の新聞記事で世界の自殺者率ワースト、日本は三位、一位は韓国と出ていた。心の貧しさは深刻な問題と考える。 若宮大路を歩いて感じたこと 山岸正七 由比ヶ浜から鶴岡八幡宮へと一直線に伸びる若宮大路、古都鎌倉のメインストリートである。今年の春に約100年ぶりの大改修を終えたと、新聞報道で知った。 中央部の一段高い参道「段蔓(だんかずら)」の石積みを補強し、老化した桜並木を若木に植え替え、参道を明るいベージュの舗装にしたと言うのである。今回舗装された段蔓を歩いてみて、これは参道というイメージとはちょっと違うなと思った。関係者が検討の上このように改修したのだろうが、参道はやはり砂利道がふさわしいのではないか。 鎌倉は人口3万、旧市街は半径2キロほどの範囲に収まる小さな街である。東京から電車で一時間足らず、前に海、後ろを山に囲まれていて、ほかとは違う空気を肌で感じる、住んでみたい街である。 武相荘・鎌倉のたび所感 伊藤 岬 この秋のいななき学舎の、白州次郎・正子の「武相荘」と綺羅星の如き文学者のかかわる鎌倉の旅はとびわけぼくにとって感慨深いものであった。 鎌倉文学の旅で得たもの 清水吉治 入会させて頂き三年となりました。皆様の研鑽を積む姿を拝見しつつ、何とかしなければの思いが強くなり 初出稿をさせて頂きます。 ・木漏れ日に錦際立つ円覚寺 ・竹林と石蕗絶妙武相荘 ・瑞泉寺岸壁穿って祠あり幾重か登りて西方を見たし ・我が師匠悟り開かん円覚寺光悦武蔵いずれとも成す ・化粧坂足とられしも紅葉踏む源氏の夢に今も賑わう 振り返って 六波羅秀紀 三人の女性会員、金井さん・武居さん・吉岡さんのアイディアに基づいて企画され、旅行社の全日本で具体的に立案された良い旅程計画であったと思います。ただ、ガイドが同行するわけではないので、事前に正確な地図を調べて道順や買い物を考慮した時間等を確認しておくことは絶対必要でした。当日利用した観光案内の地図ではだめでした。最近、物忘れが多く気になっていましたが、今回そのために一部の方々に大変ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。 それにも関わらず何とか終わりまで行けたのは、主催者として清水さん・湯沢さんが本気になって取り組んでくれたこと、また事情があって参加できなかった伊藤和義さんが専門知識を生かして詳細な予算を立ててくれ、責任をもって最後の精算してくれたことでした。加えて武相荘へは事前に何回も連絡を取ってくれ、また旅行社への連絡も一手に引き受けて頂きました。この旅は28人乗りのバスをチャーターしているので、会員以外の方々が参加してくれたお陰で成り立ちました。 加えて吉岡さんの友人で鎌倉在住の平田恵美さが散策の案内をしてくれ、勤めておられる中央図書館で準備された映像を見ながら説明を聞けたことは得難い好運でした。 意外に歩く距離が長く初日は1万歩、2日目は1万8千歩とのことでした。当然歩行速度には差がありましたが誰かが自発的にフォローするなど参加された方々が極めて協力的であったお陰で何とか旅を終えることが出来ました。ここに改めて感謝し御礼を申し上げます。 出かければ 何かが生まれる そうずら 行くずら そうするじゃん |
いななき学舎軽井沢文学と歴史の旅 2015年11月15日〜16日の2日間で下記コースで行ってきました。それぞれの場所で詳しい先生の解説をいただきました。 (11月15日) 伊那 〜杖突峠〜富士見高原療養所・富士見高原ミュージアム・富士見公園〜野辺山(昼食)〜臼田・五稜郭〜 旧中込学校〜 堀辰雄文学記念館〜軽井沢(泊) 「レクトーレ軽井沢」 (11月16日) 宿舎〜軽井沢高原文庫(野上弥生子の書斎・有島武郎別荘「淨月庵」・堀辰雄1412番山荘…等)〜小諸懐古園・ 藤村記念館 〜佐久(昼食)〜茂田井間宿(牧水歌碑・大澤酒造民俗資料館・信濃山林美術館・武重本家酒造)〜笠取峠の松並木 〜新和田トンネル〜岡谷〜伊那松島〜伊那 コース的には盛り沢山の感がありましたが、事務局六波羅さんと会計伊藤和義さんの手際良い配慮で19名参加の楽しい旅となりました。 (事務局・六波羅君のコメント下記します。) 旅の初日の15日は、天候が心配でしたが徐々に回復し、旧中込学校見学のころには日がさしてきて幸いなことでした。
翌16日には、浅間山を遠くに近くに眺めることが出来ました。目的地が軽井沢であったことは良かったと思います。 木が多く、広い敷地の木々の間に点在する家々は素晴らしい風景画でした。 伊那より気温は3〜4度は低いでしょうか。 避暑地として素晴らしい才能が集まったことに不思議はありません。 今回は、そこに関心を持つ方々が参加されたことも良かったでしょう。 各人、それぞれの得意な分野で旅を盛り上げて頂いたことも有難いことでした。心地よく旅を終えられたことを嬉しく感謝して御礼申し上げます。ありがとうございました。 六波羅秀紀 「軽井沢文学の旅」紀行文 伊藤 岬 いななき学舎の旅、前回は「一茶と良寛」に関わる地域、信濃町柏原、新潟の出雲崎を旅してきた。 今回は信州の「軽井沢・文学と歴史の旅」と銘打たれての旅である。 信州の一地域とはいえ、軽井沢は垢抜けた都会の避暑地といった風情で、南信の者にとっては ややなじみの薄い地域である。地域的愛着というより、著名な小説家など有名人を通じて名を聞
く地域というのが、多くの信州人の実感であろう。参加者は19名、会員とそのご家族や友人など。会員の守屋さんより差し入れなどもあり、会 員外の人も含め和気藹々とした貸し切りバス旅行となった。 ちなみに、宿からのバスの中で伊藤岬が「有島武郎の雑誌記者波多野秋子との情死事件」につ
いてつたない考察をさせていただいた。当然ながら別荘に事件の痕跡はまったく残ってはいない
が、文学に関わる男女の恋愛模様にひとときの思いを巡らせた。それにしても、軽井沢駅は標高約 940m、野菜も育ちにくいであろう寒冷地域がなぜこれほど までに日本有数の別荘地として発展を遂げたのだろうか。単に宣教師など外国人や文人たちの別
荘地としての「特別な空気」というだけではないだろう。別荘を持てるだけに比較的裕福な層の 人々が集まるということもあって、軽井沢は飲食店も商店もレベルの高いものを求められ、また 訪問客もそれを認めてきたから、文化も生活感、空気も全体としてハイレベルなところを維持さ
れてきたということだろう。軽井沢を離れ、途中では小田切藤彦会員により、島崎藤村にまつわる諸々のレクチャーを受け ながら、島崎藤村ゆかりの小諸懐古園へ到着。小諸懐古園は紅葉の真っ盛りということもあり良
い季節であったが、人出も多く賑わっていた。 ゴールデンセンチュリーというホテルでの昼食のあと茂田井間宿へと向かった。茂田井間宿は古い町並みが残っているが、なにより飲ん兵衛好みの町である。若山牧水の酒に まつわる歌碑とともに、大澤酒造や武重本家酒造などの民俗資料館、信濃山林美術館など見所も たくさんあったが、聞き酒所もあり気もそぞろ。買い物など町並みの散策の後、笠取峠の松並木 へと向かった。笠取峠の松並木は散歩道としては手頃な歩道であったが、肝心の樹木は松食い虫にだいぶ荒ら
され痛々しい姿をさらしていた。松食い虫の被害は、文化財といえども容赦ない。帰路は、唱歌を聴きながらいつしか新和田トンネルを越え、岡谷、箕輪、伊那市へと無事にた どり着き、楽しい旅を終えることができた。 それにしても、この二日間は近代日本の多くの文学者たちや石碑との邂逅の旅であった。富士 見では「アララギ」の歌人たちとの関わりや、尾崎喜八や竹久夢二などとささやかな対話ができ たような気分に浸り、佐久そして軽井沢ではたくさんの文学者の作品やドラマとも触れた。信州 内という近場の旅ながら、中味の濃い旅であった。旅行会社の全日本さんにも感謝したい。おなじ信州にいながら見過ごしてきた時間をとり戻すことができたような様々な見つけがあ り、ぼくにとって、ちょっと心が豊かになれた二日間であった。 ☆今回の旅から生まれた句 散る哀れ残るも哀れなる木の葉 冬霧の詩的流れや軽井沢 文士らの血潮の名残冬紅葉 向山政俊 落葉踏む中山道の松並木 牧水の冬酒を酎(く)む酒造店 紅葉する山晴れ晴れと軽井沢 赤彦の歌碑眺めいる初冬の日 冬の日も人にぎわいて懐古園 小田切藤彦 浅間山の風をまとひて冬の鳶 枯木立空の明るき別荘地 屈み読む藤村の歌碑紅葉散る 市川和雄
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