林厚男街道を歩く


国道16号一周歩記
                
林 厚男

国道16 一周歩記第八回 

第八回                          林 厚男

6413日(土曜日)    天気晴 気温21度   歩行数28,500

柏駅〜小室駅

柏駅の東口を出発、まっすぐ進みます。大きな信号が旧水戸街道との交差点となります。信号の先右手の病院を見て思い出しました。建物からして、落ち着いていて歴史がありそうな病院「産婦人科(欠席とん)石堂(せきどう)病院(びょういん)調べてみる(昭和12)年開業ルーツをたどると江戸時代の漢方医まで遡る。歴史は重ねつつも伝統にとらわれることなく、最新の医療技術や設備 が整っているとのこと。保育園経営もしているようだ

又、信号の向こうの左手にお寺が見えたので、この後、神社仏閣に会えないかと想像をし、今日、一日の安全をお願いに立ち寄りました。曹洞宗戸張山「長全寺」。この辺りは昔戸張村であって「戸張氏」の城があってその戸張家菩提寺だったと記されています。

戸張城は千葉常胤の子で相馬氏初代当主・相馬師常の三男、戸張八郎行常の居城だと伝わっています。以降、代々戸張氏200年にわたって本拠としたとされた。本堂の中も立派で写真に納めましたが、目で見ると違っているので、載せませんでした。仁王門も立派な山門でした。又椎の木の大木が二本鎮座しておりました。門を出て進みます。ちょっと面白い名前の居酒屋「べこたん」牛たん料理の専門店があった。国道16号線との大きな交差点を右に曲がり、ここから16号線を歩きます。次の信号を渡ります。そこは柏ふるさと公園の入り口です。公園に向かう並木の年月が経っているので古い公園が想像できます。何回かなかった16号のバス停がありました。朝と夕方は一時間に10回あり昼でも57回あります。この辺りの16号線はもともと生活道路であったのでしょう?何処まで行っているかわかりません。戸張入り口の信号に来ますと「開智国際大学入り口」と信号機の所の印です初めて聞く名前ですので調べてみました。1904年に日本橋で女学校として開校した。その後いろいろ合併等あり、小学校ら高校までの学校で大学はここ柏に2000年に開校した。しばらく歩と、目の前にトンネルが来ました。多分16号線にトンネルはここだけだと思いますで写真に納めた。トンネルの手前の向こう側には、外車販売店が3軒並んでいます。「ミニ」・「BMW」・「ジャガー」それぞれ特徴が違うのでライバル意識を良いのでこんな状態があるのかな?ジャガーの販売店は今までに初めて見ました。ジャガーの販売店があったので思いだしたのは、千葉に居たとき柏市のお客さんに挨拶に行ったとき、社長がジャガーに乗っているいうことで、手を引くことにしましたが、間に合わなかった嫌な思い出がありました。

長さが200mぐらいのとんねるを抜けると、景色が一変しました。両側が田園風景となりました。この田園風景が終わるころ橋を渡ります「上沼橋」下を流れている川は「大津川」千葉県鎌ケ谷市・柏市を流れる利根川水系の一級河川。上流の手賀沼から流れていて、手賀川流域の24.2%を占め、手賀沼最大の流入河川となっている。

この辺りは手賀沼の南に当たるので「湘南」と読んでいるようだ。道路の向こう側に大きな建物があり「あおいの里・柏」としてある。多分老人ホームかと思います。左手はデベロッパーが開発した低層マンションが何棟もあり一つの町ができている。ここを過ぎると急に目にはいってきたのが石でできているモアイ像群、他に色々の動物の石像が沢山ある。石屋さんの玄関回りです。道路の向こう側に大きな公園があり公園のフェンスに看板が付いているので渡ってみると「びゃくしん類植栽規制区域」としてあります。初め何だかわかりませんがよく読んで見ると、「かいずかいぶき」など、びゃくしん類の植木は寄生樹なり梨の赤星病の大敵だから、植木として庭に植えないでくれとの通達でした。この辺りから船橋市・市川市・鎌ヶ谷市などは梨の産地であります。公園の入り口を過ぎたところに。いろいろ作業に使う工具類の中古品を扱っている店があり入ってみましたが、本当に何でもあるのです。見ていると面白いのとほしいものとが入り乱れ、店をすぐには出られない様なことでしたが・・・

「大島田」の大きな信号を渡ると、左手に鳥居がありましたので、(みち)(なか)ばのお参りをしました。安房栖(あわす)神社」で大島田の鎮守様だったとのこと。隣にお寺がありましたが、寄らずに進む。市街を外れると左手から「ルートイン」の大きなビジネスホテル、右手はヤマダ電機・ニトリ・オートバックス等々東京にある店より規模が一段と大きい。

左手は「セブンパークアリオ柏」一休みするためにここに入りましたが、敷地が広いのと建物が広くて中に入ると、いる位置が分からなくなるほど広い、いろいろの店がありますが、普段と違っていて各店が扱う品物が専門化していて、普段は「ドンキホーテ」で済ませるものが、一部は他の店に行かないとない、(かえ)って不便だった。道路の両側は道路沿いがお店関係で裏側は湘南工業団     セブンパークアリオ柏    

地」とメーカーななどの流通倉庫です。一休みして国道に戻ります。そんなところを通り過ぎると、藤ヶ谷地域に入ってきます。両方側とも梨畑が多くなってきます。道路はだらだら坂の連続です。柏市を過ぎて白井市に入ってきました。

しばらく歩くと食堂がありましたので、時間を見ると1130分だったので入りませんでしたが面白い食堂で、建物は一つで経営者は同じであると判断しましたが、左が「江戸切ソバゆで太郎」右が「もつ煮定食もつ次郎」。そこを通り過ぎたところにこんなお店があ

りました。「世界民芸雑貨店」中には入りませんでしたが店先にも色とりどり品物が並べてあります。中には外人客も見えました駐車場の一角には木の木っ端で作った像が2頭置いてありました。

国道(すじ)にはこういった面白いお店も商売になるのでしょうか?店から離れてしばらくすると橋があり渡ります。「神崎川」と言います。橋の中間地点で川を見ます。流れが右手から左に流れています。地元の人間でないのでどうにも逆だとおもえる。右側が東京湾になるから。先ほど歩いて来た「大津川」は手賀沼から出て右に流れていました。県道59号線の大きな信号をわたるとファリミリーレストランなど食堂関係が何軒かありますので、入ることにしました。あと目的まで1q余の判断からです。途中何店舗かあったり、広告塔があったりで、ファミレスの「ばんどう太郎」に入りました。多摩関係にはまだないわけです。水戸市が本拠地ですから。私の注文は金額の割にはあまり美味しいとはおもわなかった。

他のお客さんのを見ると殆どが鍋で持ってきている「煮込みうどん」でした。まだ機会があるので食べてみたいと思っております。レストランを出て進むと右手に大きな建物が見えて「ナカノ商会」と名前が出ています。初めて聞く名前なので調べて見ると。

ナカノ商会は、荷主企業から小売・消費者へとモノを流通させるためのあらゆる業務を担う「総合物流企業」である。何年も仕事から離れているうちに、成長著しい会社が続々と現れているのだなと思わされました。

複雑な立体交差を渡り今日の目的地「小室駅」に着きました。驚いたことにこの駅は林の中にポツンとあるだけ改札も一つだけで駅の前に民家が少しある。店と名の付くものは何もありませんでした。駅について生ビールを飲んでと思っていましたが、変更して良かったと胸をなでおろしました。近くに「小室ハイランド」と言う団地があってその人たちの乗る、降るだけの駅でした。「北総鉄道」に初めて乗ることになりました。

来る電車が全て成田空港から羽田空港行きでした。

記し忘れがありました。国道沿いの梨畑の花は今が満開でした。

 

                    第八回完

国道16 一周歩記第七回 

第七回                          林 厚男

6330日(土曜日)  天気晴  気温25度 歩行数30,110

野田市役所〜柏駅

野田市いうと何といっても茂木一族が築き上げた「キッコウマン醤油」です。今では日本はもとより世界の醤油の60%を占めているとの事。千葉カントリークラブの3コースも筆頭株主になっていると思います。紫カントリークラブの「あやめコース」「すみれコース」も関係あるとの記憶です。昔、あやめコースで会社のコンペを台風の時に行ってゴルフにならなかった記憶がよみがえる。今度歩いて知ったのですがびっくりしたのが「キッコウマン総合病院」も経営していることでした。

 

今回は、天気予報は暑いとのことで、前日に野田市役所の隣の「ルートインインホテル」一泊いたしました。宿泊する当日電話しましたらシングル部屋が一部屋空いていました。学校が春休みのせいか家族連れが多く、九州や関西のナンバーのくるまが何台も停っていました。 ホテルを750分出発しました。右手に野田市文化会館、市役所を見て文化会館の染井吉野は異常に太く、寿命が来ているかと思いまます。枝はたくさん切られているし、残っている枝にはほとんど花芽がついておりません。

隣が市役所になり、森の中に存在をしているように見えます。この広い森は説明版によりますと「東京理科大」と野田市民のふれあいの杜とのことまっ平らな広い森です。市役所を過ぎると右奥に「キッコウマン総合病院」と左の道路の向こう側に「小針総合病院」病院、どちらも大きな病院です。野田市は人口15万余の人口ですが、総合病院が、まだ2つぐらいあるようです。私の住んでいる日野市は19万人弱ですが、総合病院は市民病院1つだけです。道路の両側は食べ物屋さんだらけで、名の知れたチェーン店が勢ぞろい。

急に右手奥に大きくて高い「観覧車」が目に入ってきました。なんでこんなところにと思い路地を入っていくと

大きな看板がある「霊波の光」どうもそこが作った公園らしい。 国道に戻ってきて進んでいると道路の向かいには広い森があります。「千葉カントリ梅郷コース」です。我凡人には梅郷コースぐらいしかできなかった記憶です。野田工業団地を左に見て進みますが、その一角にピアノの販売会社の大きな倉庫兼事務所があります。来る途中にも同じようなピアノの販売の大きな会社が2軒ありました。集中している理由が何かあるのでしょうね?此処を過ぎると右側に大きな看板が出ています。長い参道の向こうに色々の建物が見えます。国道の反対が側には大きな体育館。来るときの電車の中にもビラがありましたし、柏駅の改札口の所にも大きな看板もありました。どなたでも気軽にお参りくださいなんていうキャッチフレーズをしてあります。厳しい宗教でないかも?しれません。

隣は「東京理科大学」のグランドでグランドの奥がキャンパスです。宗教の建物群と並んでいます。「薬学部」と「創?工学部」があるようです。そこを過ぎると広大な面積の工事を行っています。柏インターチェンジが近いので流通センターですが、名前は出ておりません。ゼネコンが名古屋の業者なので施主も名古屋でしょうか?そこを過ぎると、川に差し掛かります。「利根運河」です。人間が作った河川ですが土手高く大きな川で少しビックリ「利根運河」は、利根川と江戸川を結ぶ全長8.5qの運河です。 明治半ばから昭和初期まで、関東の物流を支える重要な役割を担っていました。内陸部に作られた珍しい運河だそうです。橋を渡ると野田とは別れて「柏市」に入ってきました。坂道を下ったところに神社があり今日の安全をお願いする。「妙見見神社」といいます。2回目ぶりのお参りとなりました。少し進んだところが「常磐自動車道」「柏インターチェンジ」です。大きなインターチェンジで、抜けるのに時間がかかる。周りは大きな流通倉庫ばかりです。抜けたところが十余二(とよふた)工業団地」この十余二(とよふた)と言う名前は昔千葉にいたとき仕事で何回か来たことがあり、懐かしい名前に出会いました。突然と目の前にマンション群が現れたわけですが地図を見ると「つくばエクスプレス」の電車を通して一つの町を作ってしまった。周りにはほとんど何もない。これは昔の団地を造った時と同じで2030年すると過疎化してしまうような気がいたします。開発は長い年月の将来を見て行うべきではないかと思います。

それでも努力はしているようです。千葉大のキャンパスや東京大学キャンパス、ガン研センターなどを持ってきていている。駅名が「柏の杜キャンパス駅」。「つくばエクスプレス」のガードを潜り進んで若葉の交差点に来ました。右角にお寺がありましたので3回目ぶりに入ることにいたしました。

真言宗豊山派「長覚寺」面白いお寺で本堂より「観音堂」の方が立派な建物です。明治・大正に大いに栄え、縁日には近郷近在はもとより、遠く茨城県や埼玉県からも馬に化粧をして手綱を引く人などが多く集まり、見世物なども出てたいへん賑わったということです。行基(ぎょうき)上人(しょうにん)が遍歴の途中白い馬に乗って来た。と言うことで馬を大切にする習わしで白馬の彫り物が本堂にあるとの説明札です。本堂には入れませんでした。写真の真ん中が白い馬の彫り物です。ここは珍しく神社仏閣が一緒でお宮は「六所神社」

「金運を強く上げる護符」だそうですが10円で聞いてくれるでしょうか?お参りを済ませて若葉の信号を渡り進みますと町並みらしくなってきました。ケーズデンキ・ヤマダ電機・イオン・コーナンなどが並んでいます。

そこを過ぎると下り坂で、下りきった右に「柏署」があり、大堀川の橋を渡ると、今度は今日初めての登坂になります。登りきると国道6号線との立体交差点です。右手に折れて1qほど進んだ信号を左に折れて柏駅と進みました。今日は桜祭りなのでしょうか?人通りも多く町内の方がボランティアでしょうか?交通整理を行ってくれていました。ビルの地下の食堂に降りて昼食を済ませて帰路

6回と7回共、住宅街ほとんどなく、工業団地・流通センターの倉庫などが多く、産業道路となっていて2回ともバス停が一つもありませんでしたし、私の歩いている時間範囲ではタクシーは1台も見かけませんでした。それと道路の真っすぐのところが多く大変閉口いたしました。

                        第七回完

国道16 一周歩記第六回 

第六回                          林 厚男

 令和6316日(土曜日)  天気 晴 気温22度 歩行数32,600

春日部駅〜野田市役所
第六回出発について、旧国道16号的道路は春日部で終わっていて、春日部から野田に行く道路は16号関係なくあちこちを通って行く道路はあった。国道16は新しい道路を作って16号とした。調べてもこんなことだと思ったのが以上です。

 

春日部駅に降りましたが、前には西口から乗りましたので気が付きませんでしたが

東口に降りるのに、乗っている車両によりやたらと歩かされる駅になっていた。

東口を出て県道2号線(旧国道16号)まっすぐ歩きます。二つ目信号が以前に旧日光街道を歩いた時の交差点粕壁(そうか)宿〈春日部宿〉です。左右宿場を見ると町おこしのためきれいな通りになっています。交差点を過ぎてすぐに橋のたもとに出ました。

左が車道で歩道があって中間に広場を設けてあってアールのドーム状のものは夜になると9種類のイルミネーションが楽しめるとの説明書き。下の川は「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」江戸時代前は利根川の本流だったとのこと。今は下流で中川に合流です。橋の名前は「古利根公園橋」。少し歩くと「国道4号線(日光街道)」との交差点で、渡ると市街地はなくなってきて自動車関係の会社が多くみられます。少し進みますと16号線と合流交差点です。信号(春日部市場前交差点)の向こうは春日部市場と青果市場が見えます右に曲がって16号線を歩きます。しばらくは右も左も田園風景です。 

「中川」を渡り橋を下り終えた右側は「イオンモール」です。写真の建物は一部にすぎません。こんなに大きな「イオンモール」初めて見ますが、あらゆる業者がはいっていました。街道沿いには店じまいをしたお店や空き家の建物が幾つも見受けられます。この敷地が終わると国道4号線パイパスとの立体交差点「庄和インター」の信号。4号線かかっている橋は「庄和大凧橋」です。潜るとすぐに長い立体交差点の陸橋です。下には「県道42号線」と「省内領用水路」があります。この大きな立体交差橋には専用歩道がなく大型自動車が来るときは歩みを止めて避けていた。陸橋を下りると金崎交差点で向こうがわに大きな総合公園があり休みたかったが、行って帰って来るのに大変であきらめた。その奥に「庄和道の駅」があります。

「庄和大凧」について、テレビで此処の大凧をあげているのを見たことがありますが由来については簡単に、江戸時代後期、養蚕の豊凶占いとして凧揚げを行った事が、庄和地区での大凧揚げの由来となっています 以降、お祭りとして盛んとなるに従い、凧も大型となっていきました。 日本一を誇っている大凧だそうです。

色々の説明は道の駅に行くとよくわかるとのことです。

又「首都圏外部放水路」地底探検ミュージアムがこの先意1.5q先あると大きな看板が出ていますが、首都圏で行っている地下放水路がセットされていて見学ができるのだろうか?又ここは春日部と合併する庄和町の中心地であったようで、向こう側に結構なお寺と神社が見えますがこれもスルーしました。

通り過ぎると大きな橋が見えてきました。川は「江戸川」です。この川は昔は利根川だった。坂東太郎いう暴れ川だった。銚子に利根川の放水路を作って暴れ川を収めた。今は逆に江戸川が利根川の放水路となっている感じで、水量がとても少ない。かかっている橋は「金野井大橋」と言う名前。地図を見ると千葉県野田市が「東金野井」埼玉春日部が「西金野井」県が違うのに同じ地名を使っているのは珍しいのではないか。

橋を渡ると「千葉県野田市」と大きな標識が出ています。6回目にして東京都埼玉県におさばらとなりました。左に一本の満開の「コブシ」が見えます。今年初めてこぶしを見たことになりますが、少し早い満開だと思います・・その奥に森が見えますが「千葉カントリークラブ川間コース」です。右手が主体となっている「中里工業団地」入ってきました。一番目についたのが「COOP」の大きな配送センタでした。中里の立体交差点を過ぎると道路が一直線となります。私としては一番疲れが出るコースとなります。ただひたすらに4キロほど歩きましたか?「流山街道」との合流地点で平家の建物に何人も並んでいます。看板もなければ旗もたっていないし、建物には窓もないし、ただ入り口があり、名前のない暖簾があるだけ、食べ物屋さんか中で物を売っているのかわからないので、お客さんに聞きましたら「ラーメン屋さん」との事。ドライバーには何もわからないので地元の固定客のみで商いをしているようだ。信号を渡ると道路の向こうはゴルフ場の入り口です。「千葉カントリークラブ野田コース」看板に書いてあることは912日〜915日、日本シニアーオープンゴルフの案内です。

野田市と言うと何日か前にパソコンに乗っていました。ここ出身で高校2年生(現在3年生?)の時プロ合格でツアーに出ている「香川 友」と言うゴルファーがいて、目標はマスターズの優勝と世界一の賞金王になることだと出ていました。将来が楽しみです。
ゴルフ場を過ぎたところに「霊波の光」の建物あります。宗教とすぐわかりましたが

初めて聞く宗教なので調べてみまいた。昭和43年に発足した。本部や礼拝堂はこの先の野田市山崎にある。御本尊がなんだかわかりまませんが、世界が平和でありますようにとのようですが・・有名芸能人では北斗晶佐々木健介高橋大輔山下智久相葉雅紀大杉勝男出羽海親方(元鷲羽山)風美圭 ・・・

詳しい方がありましたら教えてください。

柳沢の信号を渡ると本日終点の「野田市役所」となります。昼食を済ませて「愛宕駅」より帰宅をしましたが、「つくばエクスプレス」に初めて乗ることができました。秋葉原が終点ですが乗り換えに時間がかかり閉口しました。

今日は気温の上昇で最後は大変疲れたと思いましたが昼食を済ませたら疲れが一気に直りました。

 

第五回                          林 厚男

  令和6118日(木曜日)  天気 晴 気温13度 歩行数31,800

大宮駅〜春日部駅

電車も便利になって、府中本町駅から直通大宮駅行きがあって乗り換えなしでいけるようになっていた。西口で降りて県道2号線に出た。右に折れて進みます。新幹線のガードを潜ると今度はJRの在来線は陸橋となります。坂を下り終えた交差点は旧中山道との交差点です。信号を渡って進むと左に、建物の間から立派な山門が見えるので路地を入っていきます。地図に載っていませんでしたが「東光寺」と言う曹洞宗のお寺です。総(けやき)作りの新しい大きな仁王門です。中に入っていくと工事中の小さい建物で「鐘楼」でした。屋根は銅板葺で高級感がすごかった。お参りして山門をくぐらず横手を出て進む有名な大宮「氷川神社」(武蔵1の宮)参道に出ました。今日の安全をと思い参道を歩いたのですが、長いので今日の歩く距離を考えて途中から引き返し、鳥居のところで頭を下げて県道2号線の「氷川神社お入口」の交差点に出ました。左に折れて「産業道路」との交差点を渡り進みますと、趣のある料亭らしき店があるので名前を控えてきました。「新道山家」と言う割烹料理家さんで、「しんどうやまや」と読みます。調べてみたら、金額は¥10,000〜からで政府登録国際観光旅館の認定を受け、宿泊もできるとのことで創業が明治21年と言うから140年くらいになるのでしょう。料理の研鑽(けんさん)とお客さんもてなしが素晴らしいのでしょう。進みますと両側が大きな県立公園で「大宮第二公園」と「大宮第三公園」ですが氷川神社の裏側にあるのが第一公園でしょうか?公園を過ぎると「芝川」です。ここは今、新しい橋の工事中で仮橋を渡ります。芝川の土手はサイクリングロードになっています。橋を渡り終えると歩道がなくなり長いだらだら坂を上がります。今日の歩きで唯一坂道らしい坂はここだけでした。大きな信号に来ましたが「大和田」の信号で「第二産業道路」との交差点になります。標識を見るとここから右が「県道1号線」左が「県道5号線」となります。昔ここは町か村の中心地であったのでしょうか銀行などの建物が何軒かあります。今日の天気予報は1日中曇りだったが反して晴となってしまい、身を整えるためにトイレを借りて水の補給で一休み。この街道を歩いて気が付きましたが、コンビニ、スーパー、食堂関係、専門店などいたるところにある。県の主要道路であり、合併前の町や村が幾つもありそれぞれの中心地がこの街道にあったからだと思います。ただしこの街道は工場関係がほとんどない。そんな中で、歩き始めると大きな会社があったので、道路の向こう側に渡る。正面に「TAMURON「タムロン」英語とカタカナと両方の名盤です。

帰宅の後調べると、カメラの交換レンズの専門会社.本社もここのようだ。

カメラ会社のどのメーカーにも合うものをつくっている。写真が趣味の方々だったら誰でも知っていることでしょう。神社の鳥居があるので参道を歩いていくとこじんまりとした神社がある。()(っと)()天神社」(ふっとのてんじんじゃ)と読みます。お参りしてから左手を見ると左の写真です。周りが4.5m、高さ40mの杉の木だったが、何回かの落雷で折れたりして枯れてしまったが、御神木であったため下部を元のまま「()(っと)()村」の氏子で保存した。との説明です。この神社は京都が本社で「菅原道真」が祭ってある。横手から街道に戻り、少し進むと「宮ヶ谷塔(西)」の信号、前に歩いた「日光御成街道」との合流地点です。またすぐの信号が「宮ヶ谷塔」の信号、ここで国道16号線とクロスします。御成街道を歩いた時と全く同じところを渡りました。宮ヶ谷塔と言うから何か塔がどこかにあるかと調べたら、塔は関係なくただ地名だった。昔は「宮ヶ谷塔」村だった。交差点を渡るとすぐに「綾瀬川」を渡ります。この川は葛飾区小岩で中川と合流している。渡るるとすぐに消防車が2台サイレンを鳴らして来て目の前で止まりました。道路の向こう側の平家が火事です。煙だけで火の粉はまだみえません。少し見ていましたが消防車が89台きました。これ以上大きくなることはないだろうと思い去りました。

国道122号線の立体交差を潜ると、ここから「市宿通り」となります。ご存じの通り岩槻は人形の町です。店先に3月のひな人形を並べた店が何軒もありました。御成街道を歩いた時はまだこの辺りは工事中でしたが、完全に終わっていて素晴らしい通りとなりました。大きな宿場であったので、面影のある建物がいくつかあります。ここは「太田道灌」の出身地であり、埼玉県の県庁の初めはこの地にあった。その建物も一部残っていました。道灌ゆかりのお寺「浄国寺」は前回見ているので山門を見ながら進みます。写真は「日光御成道高札場」と書かれた立札です。右の写真は前回歩いた時に建築中であった「岩槻人形博物館」です。敷地内には「太田道灌」銅像とか市制の時の記念碑がありました。

博物館を過ぎたところの交差点「渋江」の信号までが岩槻宿です。信号を左が「日光御成街道」で前と同じ案内の立札が信号の向こうに見えました。「岩槻城址公園」右に見て進みますと「元荒川」です。ここも橋の架け替え工事で仮橋を渡りした。ひたすら歩くことになりましたが、こんなところに「シャトレーゼ」の店があり少し驚きました。

東岩槻の交差点のところに「ケーヨーデーツー」がありこの敷地の終わりから、「さいたま市岩槻区」は終わりで、「春日部市」に入りました。少し進んだとところで、名前は聞いたことはありませんが、大きなスーパーが閉店解体工事を行っていました。

春日部市に入ってから暑さに体が疲れ気味で、モールに入って休憩所で水分補給と体を冷やし一枚シャツを脱いで、体を整えて出発。12時を過ぎていましたが、約2.5qの直進を黙々と歩き、駅に到着。昼食を済ませて帰路。

 

                 第五回完

4回                          林 厚男

  

令和51229日(金曜日)  天気晴  気温15度 歩行数30,400

川越新宿北交差点〜大宮駅

川越駅で降りて、歩行者にすると複雑な「新宿(にいじゅく)(きた)」の信号に出て、今日の出発です。5分も歩かないとこに神社があったので今日の安全をお願いに。急な階段を上がって参拝しました。「浅間神社」小さな神社ですが立札の説明によると由緒ある神社らしい「源頼義」が奥羽成敗の時にここで分霊、その後太田道灌が再霊した。子宝に恵まれるということで年間1万人もの人がお参りに来るとのことです「折り上げ(ごう)天井(てんじょう)になっているようですが、中は見えなかった。信号を渡り100m余歩くとまた神社「愛宕神社」浅間神社と同じで小さ丘の上にあり急な階段なので下で参拝しました。麻疹に良く効く神社の説明です。浅間神社が母塚でこちらが父塚との事。階段の手前左に大きな塚が立っていてそれは松尾芭蕉の句の石碑です。

       名月や 麓の霧や 田の曇り

この句は神社と関係ないが、江戸末期、川越が句会が盛んになり、有志が建てたとのことで、松尾芭蕉が故郷の伊賀上野で詠んだ句で、この句を詠んだ約二カ月後に亡くなったとのことです。神社を出てすぐに道路の向こう側に「天然寺」と言うお寺がありましたが、寄りきれないのでそのまま進む、橋を渡るのですが、江戸時代船が盛んな時の流通川「新河岸川」桜並木が続いているので素晴らしいお花見ができるのでしょう。渡るとこの辺りは仙波(せんば)地域。道路の両側は外車を含めた自動車販売会社が並んでいます。それを過ぎると今度はラブホテル街、きんきらきんの凄いホテルが何軒かある。写真はガソリンスタンドの面白い価格表示です。川越警察の前を通り過ぎると国道245号線との立体交差点「小仙波(こせんば)(中)」ここを抜けると両側はいろいろのデスカウントストアーの団地。道路は右折れします。すると右側は「川越斎場」「川越市民聖苑」広くて大きな古めかしい建物が幾つもあります。市民のよい憩いの場所でもあるのでしょう。

過ぎたところに「ビックモータ―」があったが規模が小さな構えで営業をしていない感じ。そこを過ぎると広い田園風景となります。バス停留所で水の補強と一休み。誰も通らず民家もほとどなく見る所もないので、昔懐かしき春日八郎・三橋美智也・青木光一等々の歌を思い切り歌って進みます。何曲も歌っているうちに荒川に架かる橋に来ました。

(かみ)上江橋(ごうはし)と言います。友達が橋からは右側を歩けとの指示をいただいていたので右の歩道を歩きました。ここまでもほとんど右側を歩いてきましたけど。名前の由来は橋の所在地である大字古谷上の異名である「上郷」から取り「上江橋」と命名されたと、簡単な説明です。向こうが霞んで見えるくらい長そうだ。雲一つないので遠くがよく見わたせるのでは、中間当たりで見ましたが、今日は温度が高いためかすんでしまっている。荒川の流れがなだらかと言うかほとんど流れていない感じで、ボートを止めて釣りを何人か行っていてのどかです。中間を過ぎると右下の河川敷にゴルフ場(川越グリーンクロス)29日だからいっぱい入っているようです。橋を歩き終って時間を見ると20分近くかかった。渡り終えたところに立札があって1620m日本で一番長い橋」としてありました。長かったけれど、日本一長い橋(河川に架かる橋だと思います)を渡れたことで疲れが取れました。

直ぐに、16号パイパスと16号旧道(現在は県道2号線)のインターチェンジになっていて、旧道を歩くので右側に折れていきます。橋の左側の歩道を歩いてくる旧道に入るのに結構歩くことになる。友はこれを指示してくれたのだと感謝です。坂を下り旧道を進みます。昔立派なお屋敷であっただろう家が朽ち果ててしまっている前を通り、JR川越線のガードを潜ります。

次の信号が(さし)(おうぎ)駅」しせんと読むとばかり思っていた)に行く信号ですが交差している道路も車数が多く、浦和(旧)と鴻巣を結ぶ重要な県道のようだ。この県道2号線は元国道であったわけだが歩道は設けてあるが柵がないので少々危険。バスもよく通ているのでどこ行きか見ていると「西遊馬」行になっている。何分か歩くとまた「西遊馬」行きが来た。信号で止まっていたので見るとローマ字で書いてあるところが「NISIASUMA西遊(にしあす)()と読む。そこの土地だけが分かっている読み方は今までもあちらこちらにありました。昼食も近くなて来たので食べ物屋さんが気にかかるようになってきた。うどんの看板が出ていて正面に来ると、なんと駐車場は待ち車はあるし、40人ほど並んで待っている。麺も製造しているようで、今はやりの並んで待つ食べ物屋さんでした。大宮駅までの距離を見ると12時半前後には到着できるなと思い食べ物屋さんはあきらめることにした 

歩いても歩いても電柱に書いてある住所が「(さし)(おうぎ)」だ。この町名はそうとう広いようだやっと「三橋」の町名になったところが国道17号線のパイパスです。交差点の右側に建っている8階建てのこのビルは日本で初めての準木造のビルのタレ札か出ています。初めて見るわけですが、中に入って行ってみないと。外からは分かりません。今後木造のこのようなビルが多くなってくるかと思います。業者は「AQGroup・アキュラホーフム」なっていましたが、元々は建売住宅会社のようです。大宮のビル街が目の前に見えるので先を急ぎますが進んでいるうち道路向こう側に小さなお稲荷さんがあるので、無事に終わろうとしているので御礼の参拝に入っていく。おばさんが花を添えたりきれいにしていました。月に何日か来て管理しているのでしょう。

賽銭箱は小さなガラスのお椀?で一円が入っていました。私もお賽銭を入れて御礼の参拝。中に狐の置物が沢山置いてあるので、おばさんにお稲荷の守り神は狐ですが、なんで狐かお判りですかと、生意気に聞いてしまいました。知らない返事でしたので話をしたら、良くわかりましたと喜んでいただきました。

写真を撮りたいのですがと、お願いすると心良く横に移動をしてくれました。

道路に戻り進みます。国道17号線の交差点を渡るとすぐに大宮駅です。駅の少し手前で昼食をとり帰宅です。」

                         第四回完

国道16 一周歩記第3回                

林 厚男

令和51223日(土曜日)  天気 晴時々曇り 気温20度 歩行数28,200

入間駅(河原交差点)〜川越市新宿北交差点(川越駅)

 

駅に降りて坂道を下りますと国道463号線(千人同心日光街道)に出て西武線のガードを潜ると河原町交差です。前回終点の交差点。まっすぐ行くと前に歩いた「千人同心日光街道」です。右に折れて16号線を歩き始めます。

歩き始めてすぐに写真の建物。「旧石川組製糸西洋館」国登録有形文化財、大正時代の迎賓館との事。大正から昭和の初めにかけて全国有数の製糸会社であった石川組製糸により外国商人を招くための迎賓館として、いまから約100年前に建てられた洋風木造建築です。当時の入間市域の繊維業と石川組製糸の繁栄を知ることができるとても貴重な歴史的遺産です。部屋ごとに特色のある天井や床の造形、照明器具をはじめ、玄関ホールの大理石製の暖炉、一木で作られた階段の手すり、特注の調度品などは最高級の材と職人の技術を惜しみなく使って作られており建物としても非常に見応えがあります。との説明です。この日は休みなのか入れませんでした。どうも開館がランダムになっている様子です。

鎌倉街道を歩いた時も製糸の成金の邸宅が記念館になっていたことを思い出しました。

入れないので、写真をとってひたすら歩きます。左側に「ビックモーター」が店を開いておりますが、買取りの車は駐車場が大分空いておりますし、店の中も気のせいか活気が見えません。歩道の並木はここは関係ないようだ。50mも離れていないところに同業の「ガリバー」があり車はめいっぱいあります。幟旗(のぼりはた)も多く中でも「買取り日本一」の旗が沢山立っていて目立ちます。

大きな交差点があり、ここは陸橋しか渡る方法がないので階段を上がると、すぐ左下に「入間川」「富士見橋」が見えます。この陸橋が入間市と狭山市の境になり、右手の先には「狭山市役所」が見えます。市役所が市のはずれにあることになり、市民の足も大変かと・・・階段を下りると右側は「イオンモール」です。次の信号が「狭山駅」に行く信号です。狭山署の隣が大きな消防署でその隣がまた「イオンモール」になっていますが、「ヤマダ電機」多くを使用しているようです。上奥富(北)の信号を渡るとすぐにお寺の看板ありました。新しい街道は神社仏閣が少ないので寄りたいなと思いました。「安永寺」宗派を調べましたがないようです?「気軽にどうぞ」と書いてあるのですが、入り口が一般住宅と同じようになっていて入りにくいので入らず。

中は最新式の本堂になっているようで、2018年ウッドデザイン賞林野庁長官賞受賞の本堂をどなたでも式場としてご利用いただけます。一日一組限定。としてありました。

「上奥富」の信号を渡って一寸一休み。ここより約5qちょっと苦手な直進道路になります。道路の向こう側にヤマダ電機が使用してたい大きな建物が空きになっています。先ほどにあったイオンモールに引っ越したようだ。

右手は、「川越・狭山工業団地」初めにあるのがファミリーレストランの「ロッテリア」があり隣が「ロッテ狭山工場」です。工場の高いところにXYLITOLの大きな看板があるので、ガム工場だとおもいます。ガム工場は新大久保の山手線沿いにあったのがここに引っ越してきたのでしょう。ロッテの裏にあるのが「本田技研」の狭山工場ですが、この工場は車種はなにを作っているのでしょう?大きな工場が並んでいますが、聞いたことのない会社の工場があるのでいくつか調べてみました。

1・・東洋エアゾール工業()  本社は東京

    薬メーカー塗料メーカーなどの各メーカーのスプレーの充填を行っている会社で

   す。缶などは親会社の「東洋製罐梶vが生産をしている。

1・・ダイナパック梶@     本社 名古屋 

   各種段ボール、紙器、軟包装、緩衝材、パルプモールド、パレットなどの包装材の設計・製造・販売。包装・梱包のトータル・ソリューション・プロバイダーです。

  昔流で言えばダンボー屋さん。

1・・サンフィ梶@       本社 東京新宿

   拠点はフランスとのことです。

   免疫疾患、先天性疾患・希少疾患、オンコロジー、糖尿病、循環器疾患、内科系疾患領域の医療用医薬品やワクチンなど、幅広(はばひろ)い領域の製品を提供。

1・・光村(みつむら)印刷梶@  本社 東京品川

    商業印刷を始め、高級図鑑・学校図鑑・立体販促ツールや店頭プロモーション、デジタルメディア、電子部品などの幅広い製品・サービスを取り扱っています。                    などでした。

狭山から川越にかけて、16号線は二つの市のメイン国道通りとなっているので、自動車

販売会社、自動車関連会社、ファミリーレストをはじめとした食べ物屋さんばかりです。「関越高速道路」を潜りインターチェンジ入り口を過ぎたところに「ハーレーダビットソ」店があり、ちょっと覗いた。まず価格にビックリ。全て800万円以上。私の車が三台も買えてしまう。そうとうのマニアか金持ちでないと買うことができない。社員がいたので少し離れてから写真を撮りました。

12時も過ぎて昼食時間になっています。市街がもうすぐですが、土曜日で市街に行くと

食堂関係は混んでいると思い、昼食をとりました。レストランから出て歩き始めると工事現場の表示があります。何の工事だろうと見ると「川木建設本社新築」20255月完としてあります。昔を思い出しました。八王子営業所にいるときお世話になりました。なんで仕事をいただいていたかと言うと、仕事をまじめにやっていて政治等のしがらみがないから発注するのだと、そんな記憶がよみがえってきました。そんな会社が本社はとっくに建てていると思っていました。調べてみると明治3年の創立でした。まじめの会社はやはり長続きをするのだと改めて感心いたしました。よみがえりながら歩いていると「脇田新町」の大きな信号で、ここで直線道路はおわりました。直角に右に折れて西武新宿線の陸橋を渡り「川越中央署」の前をまた直角に左に折れてすぐに変則五差路の「新宿北」の信号です。橋の下は東武東上線とJR川越線が走っている。この交差点は以前に「旧川越街道」を歩いた時にここで合流しており、信号を渡るのにややこしかった思い出。ここで今日は完了です。

時間が思ったより早かったので、町並みを少し見学して、西武線にて帰宅につきました。

                        第三回完


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平成51123日(水曜日)  天気晴    気温度20 歩行数28,700

米軍横田基地正門(福生駅)〜入間駅

八高線の「東福生駅」で降りました。無人駅で改札口を出て西と東に降りられのですが東に降りのは私一人でした。休日と言うこともありますが・・・

横田基地の正門からスタートです。正門を過ぎると、商店街はなくなり、学校、病院、住宅などすべて米軍基地の施設です。施設の終わりが大きなキリスト教会、隣が「東京出入国在留管理局」があり、ここまでが基地関係の建物で、後は全て日本の建物です。初めの建物が「ドン・キホーテ」で、4階に上がってトイレを済まして、写真を撮った。飛行機は四機ともジェットエンジンが4発付いていた。輸送機だと思います。遠くに民間の飛行機が一機とまっていた。水を購入して歩き始めました。16号線パイパスと旧道(現在は都道166号線)と別れます。パイパスをまたぐことになり進みますと、横田基地とお別れです。来た信号は、新青梅街道との立体交差で上を通ります。左に「八高線」の「箱根ヶ崎駅」を左に見ながら進みますと坂道になってきて交差点の先に鳥居が見えます。「狭山神社」です。休憩ついでに、今日の安全の祈願のお参りを、鳥居をくぐり急な階段を上がるときれいなお社が目に入りました。神の創立年代等不明であるが、往昔は箱根権現とも三社大権現とも称していました(10461050年)に源頼義が奥州征伐の途上立ち寄り、戦勝祈願をしたと伝えられる古い歴史があるとの事。狭山丘陵の西端にあるので名前はここからきているようだが、大きな神社で大阪にもある。これは大阪狭山市にあり名前は大阪との関係はなにもないようです。一休みして道路に戻り坂道を超えると、交差点がありここは「千人同心

日光街道」とクロスしている。以前の「千人同心日光街道」を歩いときはここを横切っていったわけです。交差点の角に案内板が立っていて「狭山神社」の裏山は「狭山()多来里(たくり)(さと) で「カタクリの群生地」になっています。右の小高い丘(山)は「都立野山北・六道山公園」です。坂道を下ったところから、苦手な直線道路が3q余続きます。

途中「狭山平」の交差点で16号パイパスと併合となり。この辺りは前にも歩いた時に気になっていましたが、富士山と言う地名があります。地図には駒形富士山となっています。由来は浅間神社(富士山)をものすごく信仰をする村で、富士山村と名前を付けていた。隣村が駒形村で、明治に合併して、駒形富士山となった。今は瑞穂町の一部となっている。さらに進みますと「二本木」の信号から入間市で「埼玉県」に入ってきました。

真っすぐの道が終わるところが宮寺南の交差点で、日光街道と交わるのですが、日光街道はすぐに左に向かっていきます。次の宮寺の信号を過ぎるとだらだら坂で、上がりきったところ左に、「三井アウトレッドパーク入間」がある。休日なので16号線の上も下りも一車線が500m以上混んでいた。

アウトレッドを通り過ぎると、圏央道のインターチェンジ入り口となります。歩道は地下道になっていて地上にあがってきて、すぐの信号で日光街道と併合します。道路の右側が名門ゴルフ場「武蔵カントリークラブ豊岡コース」です。

遊びの清算をチョコレートで行っていた時代に23回プレーを行ったことがあり、18ホールに108のバンカーがあります。煩悩を払うためと聞いておりましたが・・・18番ホールのショートホールは3番アイアンで打った記憶だけ残っています。

ゴルフ場を通り越すと、国道463号線(パイパス)との交差点になり、横断歩道は全て陸橋になっています。次の信号が(扇町屋南)変則五差路になっています。真っすぐが日光街道で入間市街に入っていきます。日光街道とはここですべてお別れです。16号線は左にカーブしていきます。曲がったところで昼食をとりました。昼食後は、だらだら坂を下り、「霞川」を渡ると今度はちょっときつい登坂。高台に来ると右上に入間市の町並みが見えました。神社があったので入りました。もうすぐ入間駅になるので、無事に歩けた御礼にお賽銭。「高倉氷川神社」創建年代等は不詳ながら、大宮氷川神社遥拝所(ようはいじょ)として創建された。柱は4本だけで建てられているのが珍しい建築だとのことですが・・・「高倉ばやし」が有名で、市の無形民俗文化財に指定されている。神社を出て今度は下り阪。降りたところが国道463号線との交差点の信号を右折れて霞川の橋を渡り坂道を上がったところが入間駅で、今日の歩記は完了。

1

平成5118日(水曜日)  天気 晴    気温22度 歩行数26,900

 

八王子市東町東交差点〜米軍横田基地正門(福生駅)

 

国道16号線を歩くにあたり、少し説明が必要かと?地図が見にくいのですが、右下が八王子駅になります。赤の丸印が「八日町交差点」で出発と最終到着点となります。信号を渡り出発です。ここだけ300mほど国道20号線と併合です。歩き始めるとシンガーソングライターのユーミンこと「荒井(松任谷)由実」の実家の「荒井呉服店」があるのですが

落ち着いたお店でしたがいつのまにか建て替えて3F以上はマンションになっていました。またこの辺り江戸時代は「八幡宿」であったと石碑が立っています。ただ不思議でならないのが新しい時代になって国道が何で鍵型になっているのかです?パイパスができるまでこれが災いしてこの辺り大変の混雑となっていました。八幡町(はちまんちょう)の交差点を右折れして進行です。

「浅川」・「川口川」を渡ると、坂道にさしかかってきますが、稲荷坂と名前がついているようだ。またここが峠になっていて「ひよどり峠」と言っていた。山は「ひよどり山」と言います。山を切り開いているので簡単な峠になっている。峠の頂上に有名なハンバーグ・ステーキ屋「ジョージ」がある。23回来たことがある。ステーキもあるが、やはりハンバーグが良い、格安でとてもおいしい。混んでいるので少し時間をずらしたほうがよいです。

坂道を下りてくると、外車の販売店が3軒ある、「ベンツー」・「ミニクーパー」・一段と大きいのが、「BMWです。八王子では有名な、"家具は村内八王子"とテレビなどで宣伝をしていた「村内家具」があり、ここ が「BMWの販売店でした。「村内家具」の入り口のところに大きな石碑があるので、読んでみますと、ここは「左入城」がった。そうとう広い敷地で「中丸淡路守」の居城であった。この史実を残すために村内家17代当主「村内道昌」が建てたとある。

村内家も何代も続いているので由緒ある家系かと調べてみると、そうでもなさそうだ。戦争で八王子が八割ほど焼けてしまい、学校の机と椅子に目をつけて、製作販売がはじまりとしてある。

ここらあたりを広く土地の購入をして、家具の販売をはじめて財を成した。隣に東京都に認められている「村内美術館」がある。通り過ぎて,八王子インターチェンジの下を潜り抜けます。左側に「新明神社」があるので、今日の1日の安全を願いに階段を登る。1024年の設立で天照大神を祭ってあり、こじんまりしているが(おもむき)のあるお社だ。中には

2基のお神輿が置いてありました。階段を下りて進むと、大きな交差点「左入町」です。国道20号線パイパスと国道16号の別れの信号になる。右方向が横浜方面です。左入の信号を渡ると登坂になる頂上に達したころ「滝山城址」の案内図、この城は八王子城と同じ北条氏の城で八王子城は山城だったが、滝山城は戦国時代には珍しく平城だったと記憶しております。坂を下り始めると左に車検場があり隣には村山家具のBMWのストックヤードです。

坂を下りて行くと右側に高い焼却場の煙突がある。この焼却場は多摩川の西側にあるにもかかわらず、昭島市の焼却場。これが問題を起こしたいわくつきの焼却場です。八王子にしたら大問題。公害があるとすると全て八王子市の負担となるからです。

右に焼却場を見ながら、「拝島橋」を渡りました。この橋は527mあります。多摩川に架かっている橋では一番長いのではないでしょうか?渡り終えて少し進んだところの信号は「旧奥多摩街道」の信号です。「仙人同心日光街道」を歩いた時はここを左に曲がって「拝島大師」に立ち寄りました。今日は拝島大師を左に見て、坂道を上がりきったところが新奥多摩街道と交差します。90度左に折れ、新奥多摩街道と併合です。ここから黙々と歩きました。併合と別れて右斜めに進みます。大きな拝島陸橋を渡るわけですが、青梅線・五日市線・八高線・玉川上水を渡る陸橋なので長い坂道で大変でした。陸橋を渡り終えて坂道を下ると右側は、「米軍横田基地」が始まります。今まで関心がありませんでしたが、BIGモータ」福生店がありましたがここは歩道の植木は関係なかったようです。写真が小さくてよくわかりませんが、国道の右側はすべて基地ですが、軍を対象にした商店街で、その商店街の店をすべて写真で日本語と英語で店の名前を案内しております。前には気が付きませんでした。今回きずきましたが「タトー(刺青)」の店がありまた。流石、横田基地。日本人も来るのでしょうか?基地の正門に来ました。今日はここまでにして福生駅より帰宅しました。

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山手線一周歩記第七回(完)               

林 厚男

第七回

平成51022日(日曜日)  天気 晴    気温19度  歩行数19,500

 

目黒駅(駅番号JY22) 

駅名は目黒駅であるが、住所は品川区大崎である。昔は大崎村に属していたからです。設置場所については、蒸気機関車煙や振動が農作物に悪影響を与えると心配した地元農民の反対運動のため、目黒川沿いに鉄道を建設する当初計画が変こうした。目黒駅が大崎から渋谷までのほぼ直線上になった路線上にあることに着目し、目黒川沿いに鉄道を敷いた場合のコストを考慮した上で路線が計画され、結果的に現在の設置場所に目黒駅が設けられたのではないかとされる。このような経緯から、当駅周辺では落語目黒のさんまに因んで、品川区側と目黒区側の両方で「目黒のさんま祭り」がそれぞれ別の団体によって異なる日に開催されている。通路の天井は「ハロイウィーン」の飾りです。

乗車人員83,770/日(降車客含まず)

目黒駅東口を出て、今日の歩記の出発です。目黒通りぶつかり左に折れて山手線の東側は道がないので橋を渡って左側を歩きます。「伊藤ハム」の本社の前を通り線路沿いに歩きたかったが、工事中で歩けず。「日の丸自動車学校の裏を通り新しくできた大きな「三田橋」を渡り恵比寿ガーデン側にわたります。写真は裏を一度通った日の丸自動車学校(日の丸グループ)のシンボルです。渡ったところの「恵比寿ガーデンプレス」昔は「サッポロビール(エビスビール)」工場の跡地です。大きなタワービルやレトロな建物、「東京都写真美術館」、「サッポロビール本社・記念館」などなどがありました。このビール工場は高校の修学旅行が静岡県・神奈川県・東京であった時、東京での見学に当時「サッポロビール」が予定にあり見学をしたのだが、生徒はオレンジジュースか何かで、先生たちは搾りたてビールであった。今考えると先生たちのための見学であったのではないか。ガーデンの中を通り抜けて、動く歩道「スカイウォーク」が恵比寿ガーデンから恵比寿駅まで続いていて時間短縮になってらくらくと駅に到着です。

 

恵比寿 駅(駅番号JY21) 

ヱビスビールを製造・販売していた日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)の工場がかつて、恵比寿ガーデンプレイスがある場所に存在していた。工場に隣接する山手線上に1901年、ビール出荷専用の貨物駅が開設された。ビールの商標に因み名も「恵比寿」(当初「ゑびす」と表記)と命名される。駅開設当時の地名は「下渋谷」であった。後に、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、1928に駅周辺の地名も「恵比寿通」と名付けられた。駅前の恵比寿神社は、戦後に成立したものである。

乗車人員112,602/日(降車客含まず)

駅の両側に「アレス」の建物ができて、あまりにも様変わりに驚きました。昔は西側口がメインと記憶していまして、「恵比寿銀座」がまだ残っていました。信号を渡り裏通り的な山手線の左側を歩きます。道端に大きな銀杏の木があり、小さな石の観音様があり供え物を

してあって気持ちがほっと致します。線路の向こうに高い煙突があり、渋谷区のごみ焼却場のようですが、こんなところに?都内の副都心のひとつの象徴になってしまっています。豊島区もそうでした。国道246号手前も再開発を行っていて、何ができるのでしょうか?駅の改札口がこちらにも?246号を渡り駅の写真を撮って、ハチ公広場に信号を渡ると今日は日曜日でもあり渋谷を思わせる人、人、で身動きができない30%以上外人でしょう。急いでスクランブル交差点を渡りました。

 

渋谷 駅(駅番号JY20

東京3副都心の一角である渋谷に位置するターミナル駅である。JR私鉄地下鉄など複数の路線が集積しており、多くの郊外の通勤通学利用者が都心方面への乗り換えで当駅を利用する。日本鉄道の駅として開業した1885明治18年)当時は新宿池袋と同様に駅周辺は田園地帯が広がる東京市郊外の田舎の駅に過ぎなかったが、東京市電玉川電鉄(玉電)などの路面電車や私鉄路線が乗り入れるようになり、また東京大都市圏が、拡大発展するにつれて郊外路線の沿線人口が大幅に増加し、東京南西部のターミナル駅として成長してきた。渋谷駅はいろいろの線が乗り入れているため、乗り換えるのに大変だ。床にはそれぞれ乗り換の線を色違いでリードしてくれているが、時間が10分ほどかかる乗り換えには閉口したことがある。

乗車人員 292,631/日(降車客含まず)

                    

りの開発で、渋谷駅がみすぼらしい。改修工事が始まっているようだ。

渋谷を思わせるハチ公の写真では面白くないので、現在をおもわせる写真を撮りました。いろいろ書いた旗がいたるところに、掲げてありました。区長が訴えておりましたが、今日の混雑でもわかりましたが、考えてみるともすごく怖いことだと思う。それともう一つの写真は、ここに来る前も何回かゴーカートで大きな音を立てた集団がありましたが、走っているところで写真を撮れませんでしたが信号で止まった1集団を撮りました。昔、破竹の勢いで渋谷に乗り込んできた西武百貨店(今は東急が新宿の西武駅の前に乗り込んで来た)の前を通り原宿に向かいます。「国立代々木競技場」の前の坂道を登りきります。線路の反対側に「キリンビール本社」があったが、工事を行っているので本社の建て替えかとおもい「水無橋」を渡って行くとマンションの工事です。キリンビールの本社はどこかに移転(中野区役所の隣?)。もとに戻って「五輪橋」を渡り原宿駅に到着。

 

原宿 駅(駅番号JY19

駅名は、開業当時に近隣にあった地名である原宿東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿)から原宿の玄関口であり、駅東側は表参道竹下通りを中心にファッション・ショッピングの街が広がり、若者を中心に賑わいをみせている。一方、西側は明治神宮代々木公園の森林に接している。

乗車人員57,724/日(降車客含まず)

原宿駅は新しくなって初めてです。街中は歩かず、すぐに「神宮橋」を渡り「明治神宮」に何十年ぶりかに入りました。参道は結構な人出です。外人も多く、開放感があるのかマスクをしている人は100人に一人ぐらいです。この御苑は大名加藤家、井伊家の庭園であった。面積は83,000u(約25,000坪)です。第6回の時の三菱グループの「関東閣」がここの約半分になりますが「関東閣」も相当広いことになる。神宮の森は人工的なものであったので林だった。参道の脇は手入れをするが中は手入れなしで100年も過ぎているので現在は森であるとテレビで言っていた。途中に明治天皇製でこんな句の碑あった。

       うつせみの 代々木のしずかにて 都のほかのここちこそすれ

こんな句の碑もあった。

明治天皇製 ちはやふる 神のをしべをうけつぎし 人のここぞただしかりしけり

昭憲皇太后御歌 人ごとの よしきもあしきもこころして きけばわが身のためとこそなれ 

参道の途中に酒樽の奉納があったが、沢山で写真に入りきらなかった。数えはしませんでしたが、150以上はあるでしょう。珍しいのか外人がやたらと写真を撮っていた。最後の鳥居をくぐり抜けて、山門を通りお参りを済ませて、神社横から抜けて初めての代々木入り口に向かう。タクシー観光バスなどはこちらか入っていた。こちらの入り口から入った方がアプローチも長くて広いし「神社本庁」もこちらにある。信号を渡り代々木駅に向かう。だらだら坂を上がると「代々木駅」です。

代々木 駅(駅番号JY18

当駅に近かった代々木村に因む。ただし、当駅所在地は代々木村(駅開業時点は合併して代々幡町)ではなく千駄ヶ谷町であり、在来の代々木地域には含まれない。地元住民にとって代々木といえば、当駅周辺より上原富ケ谷といった地域を指していた。開業当時、「代々木村」に駅がなく(小田急小田原線京王線は開通前)人口が多かった(合併後で7万人)ことが背景と見られる。北隣の新宿駅が度重なる改良工事で当駅方に相次いで延長された。そのため、2016年現在で新宿駅56番線ホーム南端と当駅のホーム北端はわずか100m程度しか離れていない。山手線の運転士にとって新宿駅から代々木駅への進入は、ホームに入ってからもカーブがあり見通しが悪く、アップダウンもあるためブレーキのタイミングが計りづらい、山手線随一の難所ともされた。乗車人員51,096/日(降車客含まず

昼食の時間なので、新宿に着いてからでもと思いましたが、日曜日で大変混雑すると思い代々木で済ますことにして、店に入る。昼食の献立は4種類と決まっているにもかかわらず30分以上待たされた。昼食でこんなに待ったのも初めて、これも勉強か?店を出て新宿駅に向かいます。山野愛子美容学校の前を通りすぎたところに日本理容連合会のビルがありその前に銅像がありました。床屋の前にあって クルクル回っている看板は初めて知りましたが「有平(アルヘイ)棒言う。赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表している。銅像なので色はついておりませんが、片手にハサミを持っている「ちょきちゃん」と言う名前です。

小田急電鉄の踏切に来ました。

この踏切は、ラッシュ時には開かずの踏切となるわけですが、地形的にどうにもならない踏切です。人間は踏切の右手前を階段で上がっていて、陸上歩道(イーストデッキ)になり新宿駅に行けます。「小田急サザンタワー・ホテルセチュリーサザンタワー」・「JR本社ビルなどの前を通り、新宿到着です。

 

新宿 駅(駅番号JY17

東京の副都心新宿に位置するターミナル駅である。1885日本鉄道により当時の南豊島郡角筈村に現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。4年後の1889には南豊島郡「淀橋町となる。この当初は東京市(現在の東京23)には含まれておらず、東京市の郊外として周辺は田畑が広がっていた。開業時から新宿を副都心にする計画が発表されるまでは当駅周辺はまだ街の外れで閑散としており利用客は少ないものだった。1923関東大震災をきっかけに、浅草銀座日本橋といった地盤が弱い下町の繁華街が壊滅的な被害を受け、表層地盤が比較的強い武蔵野台地上の新宿や東京西部の郊外に人口がシフトしていった。次第に東京の市街地が西側(山の手)に拡大するにつれ、東京市西部のターミナル駅として多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、1931には私鉄日本国有鉄道(国鉄)などを合わせた利用者数で日本一になった。

1日平均乗降者数は約353万人(2017年)と世界一ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿駅新宿西口駅まで含めると約377万人(2017年)となり、この数字は横浜市静岡県の人口に匹敵している。

 

7回にて山手線巡りは完了いたしました。今までで一番楽な「歩記」でした。昔の面影が残っている町並み、駅、また大きく変わって町並、駅、開発によってそれぞれの変化に驚きもありました。どこかが発展すれば、どこかが朽ちて行く弱肉強食も致し方のないことでは済まされないかと思います。

山手線巡り歩記完了


山手線一周歩記第六回                

林 厚男

第六回

平成5年10月日(土曜日)  天気 晴   気温23度     歩行数17,700

田町駅〜高輪ゲートウェイ駅〜品川駅〜大崎駅〜五反田駅〜目黒駅

 

田町 駅(駅番号JY27) 

田町という駅名は、三田口(西口)周辺一帯に広がっていたかつての町名からとられたものである。「文政町方書上」によると江戸時代に田畑が町屋へと移り変わったため、田町と呼ばれるようになったという。 明治初期は頭にを付けて「芝田町」と呼ばれていた。海岸に面した細長い範囲の町で、この海岸線に沿った海上防波堤の上に鉄道が敷設された。乗車人員98,213/日(降車客含まず)。

 

55日に第五回を歩いて5カ月ぶりの山手線歩記をいたしました。写真の入り口は西側

(慶応義塾大学側)。写真を撮ってから今まで東口に行ったことがないので、そちらを歩くことといたします。山手線はひかれたときは、東口側は海だったわけです。当時は漁港が線路の内側にあったため、運河が線路の下を走っていたとの事。下に降りて歩き始めると右に「東京工業大学付属化学技術高等学校」あり、その信号を右に曲がったところに説明立札があり説明書きは、大正10年に「東京工芸学校」ができて、我が国のラジオ放送の発想の地である。大正143月に、その図書館から日本で最初のラジオ電波が送り出され、日本放協会は当地に「放送記念碑」を建立した。碑は見ることはできませんでした。

橋を渡って右に「芝浦警察署」を見ながら進むと、山手線の内側の田町駅から品川駅に

かけての大開発に伴いそことの関係する開発が東側も工事が進められており、歩ける道路が分からなくなっており、工事関係者、警備の人、歩いている方等に訊いてやっとこ、大きくて広い「芝浦水再生センター」の平行道路に出ました。「高輪ゲートウェイ駅」はこちらからは工事中でいけませんでしたが西側の大開発のほんの一部が見えましたので写真に撮さめました。しかし都内のほかでもあちこちで大きな開発をしておりますが、入る人、入る会社が限定されるわけですから・・・?私の心配することではなのですが。大開発が済めば、駅の乗り降りは大変な賑わいかと思います。但し、朝と夕方に限定されるかもしれない。再生センターの脇の道路は、再生された後の産物で舗装をしてある説明でしたがとても歩きやすかった。10分も歩かないのにすぐに品川駅についてしまった。

 

高輪ゲートウェイ駅(駅番号JY26) 

JR東日本は2014平成26年)6月3田町駅から約1.3 km品川駅から約0.9 km付近の位置に新駅を建設し、2020東京オリンピックパラリンピック開催にあわせて暫定開業させる計画を発表した新駅設置は、山手線では1971に開業した西日暮里駅以来。(令和2年)3月14ダイヤ改正にあわせて開業した。写真は八十八か所巡りの時のものを使用した。

駅名については、 20186月にJR東日本が行った駅名の公募では64,052件、13,228種類の応募があり1位が「高輪」で応募数は8,398件、2位が「芝浦」で4,265件、3位が「芝浜」で3,497件、4位が「新品川」と「泉岳寺」で同数の2,422件だった。正式駅名に採用された「高輪ゲートウェイ」は130位、応募数は36件であった。                            乗車人員 7,867/日(降車客含まず)

 

品川 駅(駅番号JY25) 

駅名は東海道宿場町である品川宿に由来するが、所在地は品川区ではなく港区である。 駅東側の港南口はもともと戦前からの埋立地として企業の工場や倉庫などが立ち並んでいたような場所だったが、1998に旧国鉄品川駅東口貨物ヤード跡地に品川インターシティと呼ばれる大規模な複合商業ビル群が開業。2003東海道新幹線の品川駅が開業して以降は、再開発により大規模なオフィスビルタワーマンションを中心とした超高層ビル街へと発展し、駅利用者数が大幅に増加した。品川駅の西口側は三田 - 高輪台に跨る台地の裾野に位置する。開業当初、線路は海岸線に沿って建設され、線路よりも東側は海(東京湾)だった。港南側の大部分は明治時代以降に埋め立てにより造成された土地である。日本初の鉄道として知られる新橋 - 横浜間の正式開業は1872年(明治5年)1014日(一般運輸開始は翌15日から)であるが、これに先行して同年612日に品川 - 横浜間で仮開業しており、乗務員の訓練が行われた。

乗車人員 14,794/(降車客含まず)

品川駅の東口の写真を写してから、本来の西口に移動しました。旧来の西口は改造のため

工事が始まっていて、写真は撮れませんで、見納めもできませんでした。信号を渡り大崎駅に向かって進みます。右手は「御殿山」になってきていると思います。右手にある

赤いレンガの大きな高級マンション「ペアシティルネッサンス高輪」は、三浦友和・山口百恵が結婚した当時住んでいたという記憶している。調べたら賃貸マンションでした。

高い石垣に沿って長いだらだら坂を上がりきると写真の「関東閣」の名前の付いた石の門です。長い坂の石垣の中は全て同じ敷地になります。帰って調べましたら、「伊藤博文」の邸宅があり三菱創立者の岩崎家が買い取り岩崎家の高輪別宅であった。11,200坪(約40,000u)ある。岩崎家が三菱に寄贈して、現在は三菱グループの「倶楽部」となっていて、イギリス人の設計で素晴らしい洋館が立っているようだ。許可がなければ入れませんので建物を見ることができませんでした。少し歩いて地図を見ると進んでいる方向が違っていて、左に折れて大崎駅に向かう。この辺りは高級なマンションと高級なビジネスビルばかりです。ソニーの本社などができてから急に伸びてもう昔の面影がありません。駅の南に「安川電機」の大きな工場がありましたが、今はマンションとオフィスビルとなり、駅と改札口が高架になってしまい、駅の周りに商店が殆どありません。

 

大崎 駅(駅番号JY24

島式ホーム48線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。相互直通運転している関係でJR東日本・東京臨海高速鉄道で駅舎・改札内・ホーム・着発線を共用している。 鉄道資産としてはJR東日本・東京臨海高速鉄道の折半所有であり、両社の財産境界は5 - 8番線の途中に設定されている。TWRりんかい線とJR大崎支線が共に記された終点標が設置されている。ただし駅管理はJR東日本が行っており、駅名標など案内サインはJまた、すべての着発線がJR東日本東京圏輸送管理システムの運行管理下にある

乗車人員 103,733/(降車客含まず)

地上駅を下に降りて、電車を頭の上に見て線路伝い五反田駅に向かいます。山手通りの下をくぐって進むとちょっと面白いものがありましたので写真にしました、再開発「セントラルタワー」ビルの脇に立ってるのですが、髭のおじいさんの人形の頭から伸びていて10mはあります。しかしなにも説明書きがないので、どうゆうものかはわかりませんでした。目黒川の橋に出ました。川を渡らずに川の淵を散策しながら、「東急池上線の五反田駅」に着く。東急池上線はここから鎌田駅に行っておりますが、有名な「戸越銀座」はここから乗っていきます。昔、仕事で2〜3回行ったことがありますが、にぎやかな町の印象があります。駅前を通り突き当りが「五反田駅」となります。昔とあまり変わっていないので大崎駅と比べると様変わりですが、消費者の街です。にぎやか差は大崎とは雲泥の差があります。ここで昼食を済ませた。

 

五反田駅 駅(駅番号JY23

1911、官設鉄道が荏原郡大崎町上大崎子の神(現在地)に駅を開設したが、近隣の下大崎の字で、街が形成されつつあった五反田(現在の品川区東五反田一・二丁目の一部)を駅名に採用した。なお、五反田とは「五」を意味する(一反は約992 m2)。

乗車人員48,571/(降車客含まず)

 

食事を済ませて駅前に戻り、目黒に向かいます、ここからは山手線の脇を電車と共に進みます。首都高速目黒線の下をくぐると坂道になりますが、この通りは「花房通り」ですいままで結構歩いてきているので少々きつい。山手線の向こうに、変わった建物が見えますが、「杉野服飾大学」のキャンパスです。私の住んで居るところの百草園山の向こうに杉野幼稚園」と大学のグランドがあります。この大学はどこにあるのかなと思っていましたのがここで解けました。坂を上がりきった右側に40階のマンションが3棟と40階建てのオフィスビルがあり上を見るのに苦労します。突き当りが目黒駅となり今日はここで完了として帰宅致しました。

                             第6回  完了


山手線一周歩記第五回                

林 厚男

第五回

平成555日(金曜日)  天気晴  気温26度   歩行数16,800

東京駅〜有楽町駅〜新橋駅〜浜松町駅〜三田駅

東京 駅(駅番号JY1)

ドイツから招聘(しょうへい)されて、日本の鉄道建設を指導していた技術者フランツ・バルツァーにより駅の位置や規模、構内の配置が決められた。駅舎は繁華街のある東側(現在の八重洲側)ではなく、陸軍の練兵場跡地だった西側(現在の丸の内側)と決まった。皇居の正面と対峙(たいじ)することになり、国家の象徴的な位置付けであった。プラットフォームレンガ積の高架式48線で、新橋駅まで複々線の高架橋が計画された。東側には貨物ヤードが置かれることになった(後に車両基地に変更)。バルツァーは日本風の駅舎を提案していたが、日本側に反対意見が多くバルツァーの構想は実現しなかった。 駅舎は辰野金吾葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった豪壮(ごうそう)華麗(かれい)な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。レンガは埼玉産で施工は大林組だったとの事です。

乗車人員282,638/日(降車客含まず)新幹線乗車員32,080/日(降車客含まず)

東京駅で降りて通路を八重洲口に向かうと食べ物屋が以前よりはるかに多いそれも沢山の店が並んで待っているにはびっくりした。八重洲中央口出ると、前の八重洲口との様変わりにも驚いた。結構な広場になっていてJR高速バスの発着所にもなっています。思いがけないところにも言っている。草津温泉、鹿島神宮、大阪行きなどが待機していた。そんなところを見ながら出発しました。「鍛治町の信号」に来て左手を見ると大きな「ブリヂストン」本社ビルが見えるが、以前は八重洲通りあったと思ったが?信号を渡り右に折れて線路伝いにと思っていくと道がないので戻る。

高速道路の下を進み右に折れて、ガードを潜ると右側は「東京国際フォーラム」の建物。ここは昔「都庁」があったところです。元に戻り線路伝いに進みます。左手に「交通会館」がありますが、昔はビザの申請はみなここに来ました。各県の出先も何県かビルの中にあったと思います 。その隣が「読売新聞」だか読売会館だった。右は「有楽町駅」です 。いろいろ出口があって、どこがメーンの改札口かわからない。

有楽町 駅(駅番号JY30

1950(昭和25年)当時は当駅ホームの駅名標は「いうらくちやう」「ゆうらくちよう」2種類が存在した。今、東京駅地下から発車している「京葉線」もここから乗り継ぎができるようだが、切符の扱いが、ややっこしいらしい。京浜東北線は、1030分頃から1530分頃にすべての列車が快速運転となり当駅を通過する。

乗車人員102,785/日(降車客含まず)

有楽町は色々の思い出があります。昭和33年(高校2〜3生だと思う)「フランク永井」「有楽町であいましょう」が大ヒットした。これは「そごう百貨」が東京進出で宣伝キャンペーンにおけるキャッチフレーズ使用したものです。その後「そごう百貨店」は閉鎖されて今は「ビックカメラ」になっていますが、建物の持ち主は読売新聞のもののようだ。東京に出てきてからどのくらい待ち合わせをしているか休みの日に有楽町まで見に行った記憶がある。地下鉄丸ノ内「銀座駅」は当時「西銀座駅」と言っていた。その後銀座線と一緒に丸ノ内線も「銀座駅」となった。フランク永井の次の歌が「西銀座駅前」でこれも大ヒットした。「君の名は」が大ヒットして風呂屋がその時間がらがらになったと聞いていたが、東京に出てきて見にいったころは、川は埋められて「数寄屋橋の欄干」だけが残っていた記憶があります。現在、名前は「数寄屋橋交差点」の名前と小さな「数寄屋橋公園」が残っている。また当時は写真のごとく昭和8年完成の建物「日劇」があった。右の小さな写真は現在の建物です。中にミユージックホールまであった。有楽町でもその時代にはありましたが私は入っていません。亡くなった俳優の「あき竹城」は、ここの出身と聞いていたが?・・・・

今日はどこまでの目的はなので、並木通りに「長野県ショップチャンネル」があるので行ったがまだオープンになっていなかったので元に戻りましたが、食べ物店の前にはあちこちオープンを待つお客が列を作っているお店が幾つも見受けられた。11時からの様子。

線路と高速道路が並行しているところは歩いています。初めの交差点でガードのあるところに来ます。潜った左が「帝国ホテル」で道路の突き当りが「日比谷公園」となる。

日比谷公園に行くには今まではすべて信号になるわけですが、陸橋を作る計画があり、それには公園の中の樹木を何本か切らねばならない、反対運動が起きているのをテレビでやっていましたが、人間のために良くすることは自然を壊すことになりジレンマになります。高速道路の下はほとんどが居酒屋・レストランを含めたお店街です。この通りは「銀座コリドー通」となっています。銀座と新橋をつなぐ通りと言う意味なのでしょうか?中間あたりに来た時に4050人ほど店の前に並んで待っています。よく見ましたらよくテレビで放送する「銀座美登里寿司店」銀座のはずれになるのですが、美味しくて格安なのでしょう。

通りが終わってすぐに外堀通りの信号を渡ると新橋駅です。駅の中を通り西側のSL広場に出て写真を撮りもとに戻りました。

新橋 駅(駅番号JY29

1872明治5年)に日本初の鉄道路線として初代・新橋駅〜 横浜駅(現・桜木町駅)間が開業し、新橋日本の鉄道発祥の地として知られる。なお、当駅自体は路線開通後の1909に開業したものである。1914本鉄道上野駅まで線路を延伸し中央駅である東京駅が開業するまで、当駅は東海道本線の起点駅として旅客・貨物両方で東京の玄関口であった。1909には、後に現在の新橋駅となる烏森駅(からすもりえき)が開業。当時は現在の山手線に相当する電車専用駅であった。1914大正3年)の東京駅完成により東海道本線の起点が変更され、同時に烏森駅を新橋駅に改称するとともに、初代の新橋駅は汐留駅に改称され、荷物列車貨物列車の専用駅となった。 乗車人員167,406/日(降車客含まず)

東口の正面を通り過ぎ、ユリカモメ駅の前を過ぎると、右手に碑があります。昭和32年に建てたもので、「鉄道唱歌」を作詞した「大和田健樹(たけき)の生誕100周年と鉄道開業85周年に当たる記念碑でした。

そこを過ぎると、汐留駅だったところの再開発の建物が幾つもあります。「日本テレビ」

「凸版印刷本社」・「共同通信本社」などが目に入りました。そこを過ぎて道路の向こうに渡りたいのですが複雑になっていて遠回りしてやっと向う側に。やっと渡ったところの角に

「日比谷神社」があります。新しい建物で小さいがしっかりした神社。帰って調べてみると

歴史の始まりが分からないが、日比谷公園のところにあって、開発のために2〜3ヶ所移動をして平成に入ってやっと此処に落ち着いたとの説明です。線路の左側が歩けないので、右側に移りしばら歩くと坂道を上がって路地はイタリア街となっていて、そこにイタリア風のもの凄い豪華な建物。外壁はすべて石貼りです。JRAのビルで場外馬券売り場を兼ねているようです。名称は「ウインズ汐留」競馬フアンの多額のご寄付?によるものでしょう。豪華な有料の指定席もあるとの事。これも汐留再開発の一つということです。突き当りを左に折れ線路伝いに進みます。線路の向こうに「浜離宮庭園」の一部が見えます。だらだら坂を下ると信号で右に「文化放送」のビルがあり女の子の5人組が歌っていてフアンが大勢声援を送っています。この「文化放送」は四谷の2丁目にあったものがここに移転です。四谷の前の建物がまだ残っています。以前京王電鉄のウオーキング会に文化放送の社員の人がいて見学に来たことがありました。左に行くと「竹芝桟橋」で伊豆諸島、小笠原諸島はここから就航しております。右に行くと芝「増上寺」です。信号を渡ると「浜松町駅」

浜松町 駅(駅番号JY28)     乗車人員96,933/日(降車客含まず)

 大正3年に東京駅が開業し、これに合わせて東京駅を起点とする市街高架線が東海道本線となり、当駅も東海道本線上の駅となった。引き続き近距離の電車のみの停車する駅であった。東京駅開業に合わせて京浜線電車(後の京浜東北線)が運転を開始し、当駅にも停車するようになった。山手線外回り・京浜東北線南行ホームの田町寄りに像がある。名称は小便小僧で、季節によって衣装を変えることで知られる

北口がそもそもメーン改札口であったが、今度変わるのでしょうか?北口を含めた駅前の再開発を行っていて、南口に行くのにあちこち通路が変わったり、通行止めになっていたりで苦労しました。やっと南口の写真を撮り、駅ビルの一階に降りることができた。

歩き始めるとすぐに道が突き当たる。目の前に今に時代に珍しい「網定」と言う船宿です。建物からして古く暖簾の宿であったのでしょう。左が突き当たりでいけませんので

右に進むと第一京浜(国道15線)です。左に進みますと

直ぐに金杉橋で、下は「古川」というようですが、船宿の裏側になり海からの運河になっていて船宿の屋台船やら釣り船が沢山泊まっていた。

線路伝いに歩けなさそうなので第一京浜をそのまま行きすと、「芝4丁目の信号」になり、渡ると大きな再開発の現場です。ここは「三菱重工」本社がありました。完成してからは、管理会社やら出資会社でしょうか?何件かの名前がありましたがやはり主体は三菱重工本社だと思います。敷地の隅に碑を写真にして説明の札が立っていました。

この敷地は、明治維新前夜慶応43月14日陸軍「勝海舟」が江戸100万人を守るため「西郷隆盛」と会見し江戸無欠の開城を取り決めた「勝・西郷会談」薩摩藩の屋敷跡。この蔵屋敷(現在地)の裏は砂浜で当時は薩摩藩から船で来た荷物を陸揚げしていた。明治5年に鉄道が轢かれ、さらに埋め立てられて海までは遠くなった。この付近は最後まで残った海岸線です。有名な落語の「芝浜」の話はこの浜だった。という説明でこの大切な記念碑は必ず残しますとのことです。「森永製菓」の本社ビルの前を通り越すと三田駅です。

八十八ヶ所巡りの時美味しかった記憶があったのでそこで昼食を済ませて、地下鉄三田駅から帰宅をしました。

                      第五回完


山手線一周歩記第4回                

林 厚男

4

平成5420日(曜日)  天気晴  気温25度   歩行数19,795

上野駅〜御徒町駅〜秋葉原駅〜神田駅〜東京駅

 

上野の駅で降りて、改札口に向かう前に懐かしい東北本線や常磐線・信越本線の発着ホームを見に行きましたが、今は使用されていないようでひとっこ一人見られません。昔、集団就職の皆さんの出発点だったわけですが。駅の正面に出まして陸橋に上って懐かしい上野駅舎を久しぶりに見ました。井沢八郎の「あゝ上野駅」の歌が大ヒットしましたが、集団就職の皆さんも、この駅舎を見て、故郷を思い涙したものだったのでしょうか?
昔懐かしい駅舎はそのままですが、この駅舎の乗客はほとんど使用しておりません。陸橋から見ていると、これから乗ろうとしているお客がわずかに見えます。

 

上野駅 駅 (駅番号JY5)

1883明治16年)に日本鉄道の駅として開業。山手線北東部のターミナル駅であり、多数の在来線新幹線地下鉄路線が乗り入れる。かつては鉄道が電化されるまでは皇居付近への乗り入れが認められておらず、また東京市戦前私鉄の都心乗り入れを認めなかったことから、北は上野駅、南は新橋駅、東は両国駅、西は万世橋駅3副都心の駅(新宿駅渋谷駅池袋駅)及び上野駅・浅草駅は郊外へと伸びる路線のターミナル駅として発達した。

乗車員122,085/日(山手線のみ降車客含まず)

 

広い「パンダ橋」を渡って公園口に移ります。次の移動を考えて中方面には入らず、公園入口に向かって移動します。「寛永寺清水観音堂」に今日の安全のお参り。京都の清水観音堂がモデルとなっています。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められるようにつくられています。初めてです。小さい建物ですが結構混んでいたので、何か有名なのでしょうか?西郷ドンの銅像を見て公園の入り口を出ます。

信号を渡り路地を入ると「アメヤ横町」になります。戦後の物がない時代、当時は貴重品だった飴を売る店がガード下に並んだことからアメヤ横丁と呼ばれるようになり、やがて米軍物資や舶来品を売る店が集まってアメリカ横丁とも呼ばれたのが、名前の由来といわれています。今、アメヤはありません。写真は上野からの入り口です。線路伝いアメ横はあります。上野からの入り口からは初めてですので、今までわからなかったのですが、右斜めに同じような商店街がありました。

「上中商店街」(うえちゅん)と言うんだそうです。アメ横は平日ですが結構混んでいて

路地にちょいと入ってみるとシルバ仲間とか、女子会とか何組も、ホルモン焼きとか

もつ煮で朝から一杯やっていて、いいご機嫌のようでした。

昔この方面に仕事で来ると、立ち寄って干し貝柱の崩れているものが安く、良く購入して毎日1年ほど食べて健康診断で、コレステロール値がものすごく上がって医者が不思議がった。これが原因でした。やめたら、半年でもとに戻りました。今は貝柱も高い、1sあたり3〜5万以上していて金(手)が届きません。昔ほどアメ横もあまり安くありません。商店街が終わって信号を渡ると「御徒町駅」です。

 

御徒町 駅 (駅番号JY4)

島式ホーム24線を有する高架駅である。出口は北口と南口の2か所がある(写真は北口)。1番線の東側には、中距離電車が上野東京ラインおよび回送に使用する3本の線路があり、当駅付近で進行目的の線路 に転線するポイントが設置されているため、上野東京ラインは当駅通過ながらも減速して通過している。 2021乗車人員JR東日本管内の駅では武蔵小金井駅に次いで第66位。1993年度をピークに減少傾向にある。

昭和通りを挟んで駅までが貴金属、時計、宝石問屋街となっている(ジュエリータウンおかちまち)。1989(平成元年)頃には御徒町地区だけで1,000社以上もあるといわれていたが、過当競争と景気低迷で数が次第に減り、2000年代に入ってからは半分程度になったということです。 乗車員49,721/日(山手線のみ降車客含まず)一番多かった時の約半分になっている。

 

線路の右側は歩いたことがあったので、左側にガードを通り抜けます。

歩き始めると、道路の右側(山手線のガード下はすべて飲食店です。左側はすべてジュエリーのお店で変わったところではサンゴの専門店がありました。秋葉原のとの中間点に来ますと、飲食店もジュエリー店もなくなってしまったので、左に折れて「昭和通り」に出て、神田松永町に昔お世話になった会社があったので、どうなっているかと?9階建てのビルになっていてほとんどが、テナントになっていました。秋葉原駅の昭和通り口(昔たここが主力だった)に来てみると駅の入り口アプローチは、ほとんど変わりがなかった。

 

秋葉原 駅 (駅番号JY3

秋葉原の名の由来は、元々この地にあって人々が秋葉社(あきばしゃ)と呼んだ神社であり、「秋葉社の原っぱ」が語源である。なお、同社は1890年(明治23年)の駅開設に伴い台東区松が谷3丁目移転されている。駅の西側にある神田明神のお祭りでは駅構内に神輿が巡幸する。また、秋葉社が当駅内に分祀されており、こちらの祭事はJRの駅長が行うことになっている。電気街の形成には、二つの要因があった。一つは終戦直後、近くに位置する現在の東京電機大学の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大盛況となり、ラジオ部品を供給する電器関係の露天商が集中したことである。 

もう一つの要因は卸売業者や二次卸し店が仕入れの目的で多く訪れたことである。その結果、秋葉原は安いという評判が広まり、交通の結節点ということもあって、一般客も集まるようになっていった。乗車人員161,529/日(降車客含まず)

 

「昭和通り口」から電機商店街に移動をしますが、昔、貨物扱であったところだと思いますが駅の北側になります。広場ができて新しく出来た改札口(写真)が秋葉原駅の正面口となっていた。初めてだったので驚きました。

この駅は総武線とクロスしていて昔、乗り換えの際、何回も間違えたことが懐かしい。同じところをグルグル回ってしまって乗り替えに苦労した思い出があります。電機街に来ると、結構な人出があり、「電機オタク」と思われる方が見受けられる。商店街から離れ、神田川に架かる「万世橋」に来ました。橋の向こうに「肉の万世」のビルが見えた。「肉の万世」の本社ビルですが。名前の由来を初めて知った。屋上に「赤い牛と万世の字」が見えます。橋を渡ってビルの前に来ると、9階のビルの5階までがレストランになっていて各階がみな違った料理で、洋食、和食などをやっていて価格はピンからキリまでです。昼食には少し早かったが、こんな機会なので昼食をとることにして5階に上がりました。一人なので窓の外に向かって座りました。眼下に中央線が見えます。存在していた「万世橋駅」のホームがそのまま残っています。神田駅にあまりにも近いので、昭和18年に終了しているようですが。

ステーキは手が出ませんので、中間を頂きました。済ませて玄関を出てビルの左わきに来ますと、テイクアウトとラーメンをやっていましたが、ラーメンに全てステーキが入っていて1000円前後です。

山手線のガードを潜って、左側を歩きます。すぐに神田駅になりした。ガーの下はすべて飲食店になっていいて、ちょうど昼食時期で、サラリーマンの人たちでにぎやか。

秋葉原の商店も同じだったのですが、東京三大祭りの一つである「神田明神祭」が来月あるため、(のぼり)があちらこちらに立っていて、商店の関係の方達は法被(はっぴ)を着ていて、祭りの盛り上げに一役かっています。

 

神田 駅(駅番号JY2

島式ホーム36線を有する高架駅で、東北新幹線東京ラインエスカレーターはホームと北改札との間を連絡するが、ホームと南改札との間には設置されていない。34番線に通じるエスカレーターは1コンコースからそのままホームへと通じている。 改札口は南北に2か所。北改札(秋葉原・御茶ノ水寄り)から東口と北口が、南改札(東京寄り)から西口と南口が利用できる。銀座線への乗り換えは北改札の北口側からとなる。写真は東口。昔、京浜東北線に乗り換えによく利用したが時間がかかる乗り換えだったと思う。また、地下鉄銀座線で浅草方面の乗り換えにも利用した。

線路伝いに進みますと「新常盤橋」信号です。線路伝いに行くのにはは新常盤橋を渡るのですが、渡らずにまっすぐ進み「日本銀行本店」の前を通ります。つい先日「日銀総裁」の交代がありました。「常盤橋」の信号を右に折れて日本橋川に架かる「常盤橋」を渡りますと右手に小さな「常盤公園」がありそこは、江戸城の常盤橋門があった場所。常盤橋門は大手口とも呼ばれ、江戸城外郭の正門として機能し、大番所や番所も備えた警備上重要な門だった。門の周りの石垣が今も残っている。小石川の水戸屋敷を出発する水戸徳川家などが登城する際は、常磐橋を渡りこの常盤橋門を通って江戸城へ向かった。公園の入ったところに渋沢栄一の大きな銅像が建つています。銅像がここに建つ理由は、渋沢栄一が生涯歩んできた道を辿ってみれば見えてくる。攘夷(じょうい)の志に燃え江戸に出てきた渋沢は、ひょんなことから対抗する幕府側の一橋慶喜(一橋家)に仕えることなり、やがて慶喜が十五代将軍となると、今度は幕臣に。つまり、江戸城を守る常盤橋門の場所は銅像が建つ場所としてふさわしいといえる。銅像の目は渋沢栄一の設立した旧「第一銀行」の方角を見ているというのだが?線路伝い戻ると左側「朝日生命」などの跡地の大きな再開発の工事が始まっています。上階はホテルになるのでしょう?

「永代通り」にぶつかり左に曲がり、東京駅に行かず日本橋に用がありそちらに向かう。

東京に来た時には火災で有名な「白木屋百貨店」があって、その後「東急百貨店」が引き継いでいたと思います。どうなっているのか?東急百貨店も店じまいをしていたので・・・

ビルがそのまま空き家になって残っているビルだと思います。その火事は女性店員が10何名もなくなり女性の下着革命火災ともいわれた。ズロースの始まりだった。

日本橋の交差点に来ると、「野村証券」の本社と他に何社かを含めた大規模開発の工事がここも施工中で48階建て、令和8年完成上階はホテルでしょう。

「日本橋高島屋」に孫が務めているので顔を見によったら今日は休みでした。リックサックを背負って、変な爺さんが宝石売り場に現れたので大分警戒をした様で、返事が来るまで時間がかかった。さすが高島屋というのか、今は珍しいエレベータガールが活動をしていた。

店を出て、元の道を戻り東京駅八重洲口に向かいます。鉄鋼ビルの前を通るのですが、以前は2棟あったビルを再開発で1棟に建て替えて、26階建ての大きなビルになっていた。

前のビルは仕事で何回か来ました。広島のゼネコンの「増岡組」の持ち物です。今もほんの一部を使用していて、後はテナント。なんでこんな一等地に広島の業者が?と思ったものです。鉄鋼ビルの向かいでも再開発のビルが工事中だった。

 

東京駅から帰宅。      第四回完 


山手線一周歩記第三回                

林 厚男

第三回

平成5330日(曜日)  天気 晴  気温19度  歩行数20,100

駒込駅〜田端駅〜西日暮里駅〜日暮里駅〜鶯谷駅〜上野駅

前回の時に(りく)()(えん)のちょっと説明を忘れました。五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が綱吉から賜った地に下屋敷を造り、そこに造成した庭園である。通常5月の2030日にかけてのしだれ桜が良いようです。私も2回ほど入りました。秋口と11月に入りましたが紅葉もよかった。

駒込駅を降りて信号を渡ったところに「大国神社」地元の鎮守様でしょう。小さいけどしっかりした神社、前回のアクシデント大事に至らなかったお礼と今日の安全をお願いしました。地図を見ると「染井よしのさく公園」とありますので、寄ってみたくなり「染井通」を歩きます。歩き始めてすぐのところにゴルフガーデンがあり、その庭に見たことのない大木あるので入っていくと「レバノン杉」、区の指定銘木になっていました。 説明版を見ると、ヒマラヤ杉属との事でした。「本郷高・中」を過ぎた右側に公園の案内があるので入っていくと、小さな公園で、染井よし桜を作り出した「こひがんさくら」「大島さくら」が一本ずつあるだけです。どうもおかしいと思い裏の方に廻ってみると広い同じく「染井よしのさく公園」がありました。桜祭りを行っていましたが、もう散り始めていました。公園の前にお寺があったので寄ってみた。「西福寺」というお寺で江戸時代はこの辺りに沢山の「植木屋」があり、その菩提寺となっている。公園と寺の間を通り抜けたところに「門と蔵のある広場」があり、植木で財を成した「丹羽家」の蔵と門がある。写真の蔵は鉄筋工クリートできていて昭和11年築で、国の重要有形文化財に指定れていて、木造の門は東京都の有形文化財に指定されていた。駅に戻り、線路伝いに駅のホームを右下に見て歩きます。坂を下りたところが「駒込銀座通」道路の手前は豊島区ですが、向こう側は北区中里となる。電車のホームも1部は北区に入っています。坂を下りたので電車と平行になり、又、線路と共にだらだら坂になり広い道路に出ます。この道路を右に曲がるとすぐに「山手線」唯一の「踏切」です。なぜここだけ踏切が残ったかと言うと「湘南新宿ライン」(昔は貨物専用線だった)と池袋方面から並行してくるわけですが「湘南新宿ライン」が右側を走っていて、大宮方面に行くので左に曲がっていき、山手線は上野方面に、右に曲がって行くためクロスするからです。山手線がまたいでいます。湘南新宿ラインは下を走っているので橋が架かています。この踏切も2025年にはなくなると少し前にテレビでやっていましたが工事もやっていませんし、車も通れるには何処にどんなものができるのでしょう。写真で線路の向こうに見える白い丸いものは直径4mの「ゴルフボウル」です。            

会社の玄関わきにありました「ライ株式会社」という会社です。調べてみるとゴルフに関した小物を制作している会社でした。練習場のマットとかマーカー・ティーとか言ったもののようです。踏切を渡って内側に入りましたが線路伝いに歩けないので町中を少し歩いて、田端駅に出ました。

 

 田端 駅 (駅番号JY 9

田端駅にて改札口を見るのは初めてです。昔はよく京浜東北線と山手線とのホームにての乗り換えにはよく利用しました。改札は北口と南口の2か所がある。北口は橋上駅舎となっている。2008730日に、人工地盤上に地上3階建ての駅ビル「アトレヴィ田端」が開業している。地理的に発展しようなく、周辺に大きな商店や繁華街がないことを逆手にとり、成城石井TSUTAYAなどのテナントで入っていました、乗降客や乗り換え客をターゲットとした駅ビル運営が行われている。南口は北口とは対照的に小さな駅舎でありますが駅員は常駐しておらず、インターホンで呼び出すようになっている。

乗車員34,916/日(降車客含まず)

「田端ふれあい橋」を渡って外側を歩くつもりでいましたが、右側(内側)の土手の上に桜並木が見えるので階段を上がって土手の上に出ます。南口に行く階段が急で長いので南口で乗り降りに行かれるお客は大変だ。見晴らしがよく幹線の電車がすべて見ることができます。新幹線の見たことのないベージュ色の列車が走っていましたがどこ行きだろうか?だらだら坂を下りましたら西日暮里駅のガード下に出ました。右手の高い山が「道灌山」で太田道灌の城があったところです。八十八か所巡りの際立ち寄ったところです。道路が谷中墓地にまっすぐに繋がっています。今は公園となっています。

 

西日暮里 駅 (駅番号JY 8

1969昭和44年)12月20帝都高速度交通営団(営団地下鉄)千代田線の駅が開業。ただし、国鉄の架道橋改良工事の関係で、ホームは北千住寄りの半分ほどだけ使用していた。1971(昭和46年)3月20:営団千代田線大手町 - 霞ケ関間が開業、これに合わせて当駅もすべての駅施設を使用開始4月20:営団千代田線との乗り換え駅として国鉄の駅が開業。山手線の中では高輪ゲートウェイ駅に次ぐ2番目に新しい駅である。オープン当時の乗り換えは改札口を出て乗り換えたと思います。 乗車人員76,556/日(降車客含まず) 

3年ほど前に東京モノレール舎人(とねり)ライナー」にここで少し歩いて乗りました、「多摩モノレール」に比べる中が狭く低く圧迫感があった。

駅の外側に出て、飲み屋街を通り1キロも歩いたら、「日暮里駅」に着きました。

西口は「谷中銀座」や「谷中墓地」に行くときに利用しましたが、谷中銀座は何回も行っているので今回は省きました。

東口駅前が再開発で綺麗になっていてびっくりでした。駅前に「太田道灌像」と少し離れたところに 「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」 の娘が山吹を抱えた銅像があり、説明札には歌ととともに説明があり、この里伝説はあちらこちらにあり荒川七丁目・新宿区新宿・埼玉県越生町・豊島区高田は八十八か所巡りの時ありました。

南東側には繊維問屋街がある、「せんい通り」となっていて,久しぶりなので少し歩いてみた。女性の洋服の生地屋ばかりです。こども服などは少女もので、既製服でしでした。

だから客はほとんど女性。男が時々見えましたがすべて夫婦であると思いました。

かつては駅前に駄菓子問屋」が並んでいて、全国の駄菓子はほとんどがここからと聞いておりましたが開発で見当たりません。交番で聞いたところ近くの高層ビルの中に入っているとのことでしたが行きませんでした。

 

日暮里 駅 (駅番号JY7

駅の西側には昔ながらの商店街谷中銀座谷中霊園がある。反対に駅の東側では駅前再開発が行われている。日暮里・舎人ライナーの乗り入れに伴う駅前再開発で建設されたサンマークシティがあり、山手線日暮里駅直結の3棟の高層マンションおよび付属施設で構成され、3棟ともに居住・商業施設が一体となっている。

京成電鉄の日暮里駅はJRとの乗り換は、知っている人はほとんどがここで行います。上野が終点ですがJRに乗り換えには結構歩かなければないからです。駅員もここに集中して発着駅の上野にはあまりいないと聞いております。

乗客人員 82,115/日(降車客含まず)

 

昼食を済ませて、次に向けて出発しました。45 分歩いたとところに有名な「羽二重団子本店」がありました。よくテレビには出てきます。お土産にと思って見ると高くて手が出ませんでした。途中から線路伝いの道路を歩けそうなのでそちらに移動。住所は「根岸」となります。確か「海老名家(落語家林家一族)」は根岸だったと思いましたが。

鶯谷 駅 (駅番号JY6)

島式ホーム24線の地上駅である。北側市街地と上野公園を結ぶ陸橋がこれらを跨いでいる[1]。出口は北口と南口の2ヶ所がある。北口は地上駅舎になっていてホームに行くには一段下がって線路の下を潜っていくようだ、南口は橋上駅舎になっていて「上野寛永寺」「国立博物館」方面に行く。駅名の「うぐいす」にあやかって、朝の時間帯にはプラットホーム上のスピーカーから、の鳴き声を流している。

 京浜東北線快速運転時間帯(10 - 15時の間)は全列車が当駅を通過するため、この時間帯に乗り降りできるのは23番線の山手線のみである、今までにこの駅は1回も利用したことはありません。写真は北口です。乗り降りは「高輪ゲートウェイ」ができるまでは乗客が一番少なかった。   乗客人員18,890/日(降車客含まず)

 

駅の手前からラブホテルが多い、駅を過ぎてもラブホテルその前を歩いていると先方から私の顔を見ていてニコニコ笑って近づいてくる。知り合いではないようだが、近づいたらタイ系のすごい美人「お兄さん?遊んでいきませんか?」・・だって、もう用を達成できませんし、遊べる年ではありません。線路わきの道路が突き当たっていて行けなくなり左に折れて進むのですがここも、ものすごいラブホテル。何十軒あるのでしょうか?風俗店がないために治安は案外いいとのことです。

根岸が終わると広い道路に出て、上野駅に向かって進みます。左に「岩倉高校」があります。昔は鉄道学校だったが今は違った学科もあるようです。「岩倉具視」にゆかりがある。

前を通り越して上野駅の入谷口より入り帰宅した。

 

日暮里駅前の 店ですました。店の前に今日の日替わり定食は「?丼」としてあった。見たことのない漢字だったが魚へんは好きなので入った。店員さん「これください」と頼んで何と読むのですかと聞きまました。〇〇ですと教えてくれました。帰ってから調べましたら。漢和辞典にも国語辞典にもなくてパソコンと「漢語林」には載っていました。

                      第三回 完


山手線一周歩記第二回                林 厚男

第二回

平成5228日(水曜日)  天気 晴  気温19度  歩行数18,500 歩

池袋駅〜大塚駅〜巣鴨駅〜駒込駅

池袋の西口から見学です。昭和343月末、母親と東京に出てきて、まず伯母が住んでいた西口に降りて伯母の家に、立教大学の手前でした。大学の手前はまだ空き地が多く西口は当時バラックの飲食店のドヤ街で、伯母の家に遊びに来て夜帰るときは、その中を通るので「田舎ッぺ」には大変怖かった記憶。駅で降りて名前の知れている商店の多い商店街の長い地下道を出たらもう「立教大学」の少し手前だった。「立教大学」の手前には結婚式場、宴会場をやっていた有名な「白雲閣」。戦前は薪、炭など400人もいた燃料屋だったが戦争が終わってこれからは「飲食こそわが仕事」ということで、上諏訪で見つけた240坪の2階建て総檜造り旧豪族御殿を移築。料亭「白雲閣」開業した。昔のところの前に来ましたがどうしてもイメージがわかない、手入れをしていた植木屋さんに聞いた。「あまりにも変わっていてびっくりしたでしょう?」名前は現在「リビエラ東京」。敷地も昔の2倍になっていると言っていた。写真の左が昔の「白雲閣」、右が現在です。西側は今も開発が進んでいて、昔の面影は立教大学を除いて何もありませんでした。地下に入らず表を歩いて駅に向かい、昔駅の北側に東側との地下道があったので行って見ると残っていました。以前は暗くて不気味でしたが現在は大変明るく人通りも多かった。東側に出ると、昔、目の前には「三越百貨店」がありましたが、現在は「山田電機」になっていた。「ビックカメラ」もすぐ近くにある。駅の東南に60階建て「池袋サンシャイン」がありますが、それまでは赤煉瓦の「巣鴨刑務所(拘置所)」だった。その右となりは豊島区役所がありますが、敷地が広かったため区役所と49階建てマンションを建築しマンションの分譲で区役所の建物は無料でできた。と話は聞いております。東京市による最初の区名原案は「池袋区」だった。その後区名案が「目白区」に変更され、その後各所から寄せられた様々な陳情を受け、東京府会に於いて「豊島区」と再変更した。豊島群に属していたことから来ているらしく、豊島区には豊島と名のある町内はありません。駅の正面に向かいますと左が日本で一番長い「西武百貨店」右が「パルコ」ですが私東京に来た時は「丸物百貨店」だった。「丸物百貨店」は新宿?にも店があった記憶です。渋谷新宿に比べると駅前の発展が遅れているようです。何年前もまえからあまり変わらない。

池袋 駅 (駅番号JY 13

山の手エリア3副都心の一つ・池袋に位置するターミナル駅。全体の1日平均の利用者数は約264万人(年間に直すと約96420万人)であり、新宿駅渋谷駅に次いで世界第3の利用者数となっている。各社内の駅の中ではJR東日本は新宿駅に次ぐ第2位、東武・西武・東京メトロは第1位の乗客数である。 埼玉県方面の郊外ベッドタウンを結ぶJRや私鉄路線と、池袋駅から都心方面に伸び山手線地下鉄の通勤・通学客が郊外から都心方面への乗り換えで当駅を利用する。その鉄道交通の利便性の高さから当駅周辺には百貨店ファッションビルといった大型商業施設、多数の飲食店が密集しており、東京でも有数の大規模な繁華街歓楽街が形成されている。俗に言う駅の東に「西武百貨店」がり、西に「東武百貨店」がある。これは電車の駅がそれぞれそうなっているからですが、東に東武百貨店があり、西に西武百貨店があったら、どうなっていたことでしょうか。今度西武百貨店に「ヨドバシカメラ」が入ることが決定しているようで、豊島区長の発言が問題になっていますが。

山手線のみで407,490/日(降車客含まず)

 

信号を渡り山手線に戻り、公園の中を線路を左に見て進みます。

線路の向こうに見えるのは、ごみの焼却所煙突ですが、100メートル以上あるのでは?低い建物には良いのですが、高層のマンションには影響があるのではないでしょうか?

少し歩くと、「六つ又ロータリー」の信号の脇に出ます。

昔は真ん中に緑地帯があって六つ又になっていましたが今はロータリーは存在しておらず、名前だけが残っていました。

線路の右側に道路がないので陸橋を渡り右側に出ます。ここから線路は堀となり、下に見ながら進みます。明治通りの信号までは道路が整備されて、良い道路になっていました。信号を渡ると、ここからは645前と全く変わっていな道路です。自動車がやっと通れる道路で今見てもこんな狭いところを良く車でと思ってしまう。

ここは思い出があって、一つは担当していたお客さんがあって、全くそのままの名前で仕事をいている様子です。も一つはやはり同じ時期の夜、その客さんに寄って帰るときに

一人の人間とすれ違った。ライトの光ではっきりしませんがどうしても似ていると思い降り後を追って話かけた。高校の時の同級生だった。実家を継いでいたのでまさかと思った。

親戚がこの近くで、用事があって上京したとの事でした。大塚駅がすぐそこに見えますが

田舎の同級生が嫁いだ酒屋さんが近くだと聞いていたので、陸橋を渡りそれべきところに行くと、存在していました。彼女は何年か前に亡くなっていましたが、酒屋を営んでいて(休日で休みの様子)上は5階建てのマンションでした。

大塚 駅 (駅番号JY 12

南口からガードを通り北口へ、表はやはり北口です。 山手線の駅は、日本鉄道が当時の目白停車場付近から田端停車場までを短絡する路線を敷設した際に設置された。当初は現在のびっくりガード付近から分岐して田端までを直線的に結ぶ計画だったが2度の変更を経て現在の山手線の経路で着工することになった。工事着工のころは巣鴨村大塚だった。(ビックリガードは前回歩いた時の西武電鉄本社ビルのところの東より西に潜る地下道です)

現在の都電と交差しておりますが、以前は東京都電車の大塚駅前停留場としては、現存する荒川線の他に、春日、上野広小路方面への路線の停留場もあった。ただし、飛鳥山停留場の場合と異なり、現在の荒川線とは線路は繋がっていなかった。

この都電は、八十八か所巡りの時「学習院下駅」から巣鴨の「庚申塚駅」乗ったのですが、急いで乗ったので出口から乗ってしまった様子。前から「パスモ」で降りようとしたら、「お客さん出口は後ろです」運転手さに言われて結果ただ乗りの結果となってしまった。いつか乗る機会がありましたらお支払いをしたいと思います。(一律170円)

戦前は結構な花街であったようです。東京に来た頃はまだ一部残っておりましたが、現在はまったくその気配はありません。第二次世界大戦前はデパート花街もあり賑わっていたため、大塚に地下鉄を乗り入れる計画があったが、大塚駅一帯は低地で、地下鉄を通す技術が難しかったこともあり、実現しなかった。

乗車人員 44,393/日(降車客含まず)

 

駅を離れて次の目的地に行くのですが、その前に独身の時会社の寮がいっぱいになって

寮を追い出されたとき、近くのアパートで1年少しだったか住んでいたことがあったので、うら覚えに行って見たが、変わってしまっていて、見つかりません。

巣鴨警察(大塚の駅前にあるのに)の前を通り脇の道路に出る前に、天満宮の境内で一休み。大塚駅と巣鴨駅の中間点になりますが、道路が整備され広く桜並木になっています。

標識は「巣鴨桜並木通り」となっています。相当の老木ですが、桜の名所になっているのでしょう。国道17号線にぶつかります。突き当りが「巣鴨駅」となります。

 

巣鴨 駅 (駅番号JY 11

 

「巣鴨」の地名の由来はよく分かっていないが、昔はこの地は湿地帯で所々にあった大池にが群生しておりたくさんの巣を作っていたこと、またはが茂る中にあちこちにがあったことから「巣鴨」という地名が生まれたという説がある。

都営地下鉄の三田線が乗り入れ、接続駅となっている。

昔、板橋区の「志村清水町 」に工場と支店がありそこにいて、本社秋葉原があって本社の帰りは、山手線の巣鴨で降りて都電の志村坂上か志村坂下行きに乗って帰った。今この駅はお客の大半がシルバー銀座「巣鴨地蔵通り」ではないかと思います。ここ二年ぐらいに3回も来ていたので、今日はとげぬき地蔵には立ち寄らなかった。国道17号の駅の次の信号が「駕籠町」という信号があり誰でも知っている名前だが今はなくなってしまった。地名もなくなったが学校などその名前で残っている。

乗車人員 56,737/1日(降車客含まず)

 

駅の横手から裏に廻って進みます。先ほどの桜並木が残っている、この辺りは昔の駒込村に入ってきているのではないか。帰ってきて調べて分かったのですがここらあたりは駒込村染井地域になり桜の「染井よしの桜」の生まれたところと分かりました。江戸時代の末期に「こひがんさくら」「おおしまさくら」の交配により生まれた。当時、植木とか盆栽が盛んな地域だった。そんなところからか、豪邸が二軒同じ名字で通りにあった。

広い「染井霊園」が近くにあるようです。次回には「染井よしのさくらの里公園」に立ち寄ります。巣鴨駅と駒込駅はい1qぐらいしかないのではないかすぐに到着しました。

 

駒込 駅 (駅番号JY 10

J地形が傾斜しており、西側が掘割、東側が盛土上にホームがある構造となっている。山手線ホームの最東端は北区中里に位置している。みどりの窓口が営業されていたが廃止され、多機能券売機数機が設置されている。 駅構内の掘割の斜面にあるつつじの植栽が有名で、これにより関東の駅百選にも認定されているとのこと。

乗車人員 37,053/1日(降車客含まず)

山手線二番目に乗客の少ない駅となります。平日の昼間は駅のすぐ近くにある(りく)()(えん)と王子に向かったところの「旧古河庭園」のお客さんが多いかと思います。年寄夫婦が多くみられました。六義園は駅に近い北口が閉鎖になっています。経費の問題でしょうが正面入り口までは距離があって大変だ。経済圏ではないので、乗客は少なく、今後の発展もなさそうなひっそりとした駅前でした。食事をしたいのすでが、あまり食べ物屋がないので巣鴨にでも行って思っていたら、ちょっとしたアクシデントがあり、そこで済ませて帰宅。        第2回完


山手線一周歩記第一回

             林 厚男

暖かくなって来て、又歩記(歩き)たくなってきました。今度は山手線一周をしてみたくなりました。山手線現在は31駅あります。東京駅より上野・田端・池袋駅方面が外回り新橋・品川・渋谷駅方面が内回り、山手線にも駅に番号が付きました。JY記号で、東京駅がJY1で外回りに番号が進みます。

私は昭和34年に東京に出てきて(途中三年間静岡県と長野県)、それぞれの思い出の駅であったり、周辺に思いでの所もあり、記憶していることなど記して、昔を偲んでみたくなりました。1日の歩く距離や駅などを決めずにぶらぶら歩きたいと思っています。そんなことで歩く前に、一寸補足として「小林 旭」のヒット曲で「恋の山手線」という歌がありました。外回りです。「新王久保駅と浜松町駅」は出てきません。歌詞にすることが難しかったのではないかと思います。「西日暮里」も出てきませんが、新しい駅で歌の方が先にできていたからでしょう。

〇・・上野オフィスの かわいい子 声は鶯 谷わたり 日暮里笑った あの笑くぼ

田端ないなア 好きだなア 駒込したことア ぬきにして グッと巣鴨がいかすなアー

〇・・初め大塚 びっくりに デートさそいに 池袋 ところが男が 目白押し

   そこを何とか 連れ出して 高田バー(馬場)で 酔ったとき

   胸の新宿 うちあけた あゝ恋の山手線

〇・・代々木泣くのは およしなさい 原宿ならば 食べなさい 

渋谷顔など いやですわ 顔は恵比寿に かぎります

目黒のさしみか 天ぷらで あたし五反田 いただくわ

〇・・今日はあなたの 月給日 まず大崎は 買い物よ どの品川が いいかしら

   田町が宙に 浮くような 無理な新橋 かけないわ うんと有楽 (ちょう)だいな

   あゝ恋の山手線

〇・・素ッ東京な ことばかり なんだ神田の 無駄使い 僕はいささか 秋葉原

   御徒(町)な 恋だと 云われても 山手花咲く 日も近い

   青くホームの 灯がゆれる あゝ恋の山手線 

第一回

平成5218日(土曜日)  天気 晴 気温 15度 歩行数 17,270

新宿駅〜新大久保駅〜目白駅〜池袋駅

新宿、京王線を降て山手線外回りを逆回(時計回り)り行きます。小田急百貨店の前を通りますが、今は解体中で建て替えです。地下5階地上48階建ての建物が予定されております。上の方はホテルになるのでしょう。新宿の西口に高い建物ができて違った西口になってくと思います。「思い出横丁」に来ますと、こんな朝早くから、観光客がガイドさんの説明を受けておりました。

店も何店舗か営業をしており、客も結構、入っています。通り抜けたとところが「大ガード」です。大ガードでは新宿の歴史の写真展をやっていました。都庁の建築とか,淀橋浄水場、都電とかありました。大ガードを抜けると、「大ガード東」と云う交差点ですが、昔は(つの)(はず)と言って都電がここ始発で飯田橋方面と、四谷を通り銀座から築地に行く都電の発着場でした。住所も角筈だった。西武新宿線の新宿駅が左になり、左に折れて進みますが。右手がパチンコ店で、オープンを待っている人が土曜日であるからか、線路沿いの道路と路地の道路に400人以上はいました。ここは広い道路ができて線路沿い新大久保までできていて驚きました。西武新宿線の駅前に、東急の建物で「東急トレイシャー」?と言うと思いますが一階がバスターミナルで、建物は48回でほとんどがホテルのようです。もうすぐオープンになるようで、新宿で新しい名称になるのでは・・・

「職安通り」の信号を渡り、大久保地域に入ってきました。昔、この辺り一帯は連れ込みホテルでなく、連れ込み旅館がいっぱいありました。ご利用の方もおられたのではないですか?途中で線路をくぐれるガードがありましたので、潜って西側に出ます。商店街を歩くのですが、このところの商店街は東南アジアの国のいたるところの店が並んでいます。面白いものが売っているので買いたいのですが、荷物になってしまうのであきらめる。新大久保駅の前に出ました。

新大久保駅  ( 駅番号JY16

もう60年以上になっておりますが、昔、新大久保駅は木造平屋で、小さな駅でした。今はビルになっていますが改札口は相変わらずで、4つしかありません。改札口を出ると広場はなく、直ぐに歩道で土曜なので改札口がごった返しています。乗客は平成30年がピークで1日平均56,000人(降人客は含まず)JR東日本では「西荻窪駅」に続いて100番目駅。また、平成13126日構内で韓国の留学生が線路に落ちた。乗客を助けようと線路に降り死亡した事故がありました。テレビで今年もお母さんが供養に来られたと放送をしておりました。客転落時における事故防止のための転落検知マットやホームに上がるためのステップがホーム下にセットされました。当駅周辺に日本語学校が多くあり、通学する留学生の利用が多いことなどから、24カ国語で構内放送を流していると言うのですが、ホームに行かないとわからない?新大久保駅目白駅2駅は、山手線では単独駅となっている。ガードを潜って東側に出ますとすぐのところにクレープ屋さんがあり、女性客が並んで待っています。その店で10円パンを打っていますが、どんなパンか見ようとしましたが、中に入れません。東側は朝鮮料理店や韓流(はんりゅう)グッズ店が連なっていて今は東京のコリア・タウンとして有名になってしまった。土曜日で若者が一杯です。                          

前は、線路沿いには車がやっと通れるような道でしたが、大通りになっています。「つつじ通り」の名前がついていました。もう一つ隣の路地は「ロッテ」のガム工場があり、通ると良い香りがしたものです。今は住宅街になっていました。線路沿の道路に昔よくお世話になった社長の会社があって、どうなっているのかなと、近くに来ると、道路拡張でなくなっていた。ラクビーの強豪の「保全高校」右に見ながら、中間点ぐらいのところ来ると新しい広い道路できておりガードを潜りお滝橋の信号で早稲田通りと合流している。諏訪通り言う名前になっている。信号を渡ると「高田馬場」地域に入ってきます。昔、この辺りは泌尿器科の医者が56軒ありましたが、今考えますと、性病の治療医だったのではないか?今はなく、耳鼻咽喉科の医者が一軒ありました。「ビックボックス」を左に見ながら駅の正面に出ます。

高田馬場駅 (駅番号JY15

駅名は赤穂浪士堀部安兵衛高田馬場の決闘1694あったことで知られている高田馬場から、地元では「上戸塚駅」「諏訪之森駅」を希望する声もあったがすでに神奈川県戸塚駅があったので、戸塚で一番有名な高田馬場の名前を駅名にしたという。読み方を「たかたのばば」ではなく「たかだのばば」としたのは、駅が本来の馬場と離れているので、わざと濁らせたという話です。現在、当駅周辺の町名は「高田馬場」と称されているが、これは(昭和50年)の住居表示実施時に、高田馬場駅が所在することに倣って、当駅周辺の町名を「高田馬場」に合わせたものである。実際には、史実の「高田馬場」は、西早稲田三丁目にあったと伝えられ、当駅からは若干の距離がある。西武新宿線の新宿駅でのJR乗り換えは遠いため、この駅が乗り換え、昔から大混雑をする。乗車人員150,734/日(降車客含まず)。

山手線のガードを潜り、山手線から外れます。斜めに商店街を通り神田川の橋の渕に出ました。この辺り一帯は、得意先が高田馬場にあって、学校や会社の建築に何件も携さわってきて今どうなっているか?見てみたかった。富士短期大学、この学校は経理学校だった。神田川の両側に建物がありますが、本校舎はそのまま残っていた。今は「日本富士大学」と言う4年制大学になっていた。キャンパスはほかにあるのでしょう。皆さんもご存じでご家庭にあるかと思いますが、芳香剤や虫除けなどの「エステー」当時は小さな町工場だった。今では全国誰でも知っていて、1部上場もしている会社となっている。その他何社か、みな発展した会社になっていた。ここは第二医薬品とか、指定医薬部外品などの会社が多い、近くに「大正製薬」の本社もあります。

神田川沿いを歩いて線路沿いの道に戻ります。ここからはだらだら坂を左に「学習院大学」の脇に通り、登りきった左が「目白駅」で右手が大学の玄関です。大きな敷地です。目白1丁目がすべて「学習院大学」。目白通りに面したところは、1kmはあるのではないでしょうか?道路の対面これも有名な「川村学園」いまは大学まであるようです。その先には「日本女子大学」、「椿山荘」などがあります。

学習院正面門

目白駅 (駅番号JY14

当駅には山手線電車のみが停車し、それ以外の列車は通過する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。当駅は「東京山手線内」のJR駅で、中心駅(運賃計算上の基準駅)である東京駅から最も遠い。町の発展は学習院が大きな面積を占めているために発展が望めない。乗車人員 26,325/日(降車客含まず)

昼食をとりたいと思ったが、ほとんどない状態です。陸橋の上から池袋の駅が見えます。この辺り山手線は堀になっています。右側には道がないので上から電車を見ながら左を歩きます。西武池袋線のガードの下に来ました。ここは目白駅と池袋駅の中間点になっていて、昔、車の通れる手動の遮断機付がついていて、踏切番がいた踏切がありました。今でも思い出すと、恐怖だった大変な思いであります。踏切の近くにお得意様があり、反対側には遠回りしなくてすぐに反対側に行けるので時々利用しておりました。踏切に来ると向こうにいる踏切番が、早く渡ってて来いとの指示です。入っていくと丁度中間あたりで車がガス欠になってしまい、右を見ると電車は池袋駅を発車しております。私も慌てましたが、踏切番はもっと慌てました。私はセルで動き、踏切番が二人で車を押して、やっと踏みきりを渡り終えた途端に電車すれすれに通りました。ガス欠の後どうして帰ったかは記憶からは消えております。今は人と自転車が通れる陸橋になっています。陸橋を渡って、西武線と山手線の間を通り「明治通り」に出て池袋駅前に、気候的に暑くて大変疲れたので昼食を済ませて帰宅。           第一回完



千人同心日光街道歩記

第5回    令和3115日(金曜日)

坂戸宿〜高坂宿〜松山宿  天気快晴 温度19度 歩行115q(143q)

 

9時に駅着で東口に降りると北風が強く今日は総て風に逆らって進むことになる。前回の東上線の踏切の手前に進みすぐに踏切を渡って宿場に入る「坂戸宿」。 

坂戸宿は高萩宿から6qほど離れており民家180軒連ねていたと言う。かっては小田原、八王子の二城(八王子城・滝山城)から鉢形、上川厩橋へ往来の源であった。仙人同心の日光への往きの宿場だった。踏切を渡るとすぐに「坂戸神社」があり鳥居をくぐると説明版がありこの神社は(写真がよく見えないが)「9の神様」を祀ってあります。境内でおばさんたちが3人で掃除をしていましたが、順番で毎日掃除をしているとの事でとてもきれいになっています。小さな神社でしたが、町の守り神社で大切にしていることがうかがえました。信号の所に大きな石地蔵があってその向かいが大きな旅籠「角屋」があった。宿場を表すものはこの説明と「本町」と「元町」の町名だけである。それらしき建物が一軒ありましたが窓がアルミサッシになってしまっている。三叉路にぶつかります。ここで宿場は終わりのようだ。右が文化会館でぶつかりが坂戸小学校、そこに道路標が立っていて右は読めませんが「左日光道」になっていて左に進みます。小さな薬師道がありましたが入らず進みます。東上線の陸橋を渡り「溝端町」の信号を右に折れます。溝端公園を右に見ながら進みます。大きな団地があります。此処は「住宅公団北坂戸団地」です。私事ですが50年ほど前になりますか?団地が出来てそのために北坂戸駅が出来きる。駅が近いしと思って申し込みをしたら分譲が当選になってどうしようかと迷ったがキャンセルをしたことを思い出しました。ここに住んでいたらどういう人生だっただろうと考えながら進みました。団地が過ぎてコンビニで水分の補給。道路に戻り進みますと川の土手にぶつかることになります。昔は渡しになっていたのでしょう。右に道路は進み東上線のガードを潜りますとひさしぶりに国道407と合流します。信号を左折れるとすぐに川を渡ります。

川の名前は(おつ)()(がわ)橋は「高坂橋」水源地には高い山がないのに大きな川で橋も長く不思議な気が致しました。渡ると東松山市高坂になります。この辺りは毛塚と言う地名です。又国道と離れ斜め左に旧道に入ります。市民センターを右に見て川を渡ります。用水路となっているようですが川の名                                                  名前は「九十九川」橋の名前は「九十九橋」渡り終えて左奥に公園が見えたので昼まで時間もあるので休むことにして入って行きました。「どんぐり山公園」となっています。此処は古墳です。高さは7~8mはあります。誰だか名前は分かっていないが偉い人の墓だった1600年ぐらい前のものらしい、東松山市内で500基ほどあったが殆どが壊されてしまい保存のためにここを公園にして残したとの説明です。旧道に戻り坂道をあがったところが「高坂宿」になりますが駅入り口を中心に1キロ少しほどの宿場だったらしい。戦国時代に高坂刑部太輔が高坂館を建設した宿場で、江戸時代に入ると川越・児玉往還の馬継場とした。千人同心も高坂宿を通ったことから江戸時代後半から明治にかけて大変にぎやかだった。今は道路も広くして両サイドも広く歩道を作り宿場の面影はなにもありませんでした。宿場を過ぎて坂道を下ると、又、川になります。左下の河川が広いリバーサイドパークになっています。先ほどの川と同じく大きく橋はこちらの方が長いようだ。都幾(とき)(がわ)で橋が「東松山橋」この川も「()(つべ)(がわ)水源は同じ方向になるが続いて大きな川が2つあったことになる。時間があるので右の結構遠くに社の森が見えた。遠回りになるが向かっていきまました社そのものは小さいですが、いわれのある神社のようです。毎年秋祭りに1人立ちの3匹獅子舞で構成が幾つもある。又、洪水があり堤防を作った際2度とないように絵巻を収めた。双方もそれぞれ無形民謡文化財、有形文化財にしてされている。名前は「八幡神社」。安全に歩けたお礼をして駅に向かう。今日はお寺に は寄るべきところがなかった。宿場に入らずに駅に向かいました。東松山の駅舎は高級感あり立派だ。結構なホテルも駅の向かいにあります。駅前で昼食をとり帰路となりました。今日はただひたすらに歩く部分が多く距離の割には疲れました。

     第5回完




第4回    令和31018日(月曜日)

扇町屋宿(入間駅)〜根岸宿〜高萩宿〜坂戸宿(坂戸駅)

天気晴 温度16度 歩行15.3q(20q)

 

入間駅よりYの字信号に戻ります。国道右側にはいります。国道463号になり黒須坂と名前の付いた坂を下る左側に古風で大きな割烹料理店(高そう)

「魚いち」を見ながら進んで、西武線のガードを潜ります。潜ると打って変わって町の姿が一変して何もありません。霞川を渡り黒須地区入ると歩道橋の脇に古い建物がある。歩道橋を渡り見に行くと説明書きには明治42年に「黒須銀行本店」として建てられ「渋沢 栄一」から「道徳銀行」の名を与えられ成績を伸ばしたが第一次世界大戦の不況にて武州銀行と合併して、その後昭和18年に埼玉銀行(現在埼玉りそな銀行)の豊岡支店となり昭和35年まで営業をしていた。銀行からの寄付により現在は入間市の指定有形文化財となっている。路地を挟んだ隣が創業200年を超えている「繁田醤油」と言う歴史をしのぶ醤油屋さん。戦前は貴族等も訪れたと言う老舗。製品は「亀甲(きっこう)()」と言う。門から中を覗いてみたが、中は静かで製造をしているのかなと思う感じでした。この道路の向かいにはここも老舗と思える建物で昔は大きな酒の販売をしていたのだろうか?現在は生ビールのタル(アルミ製)が山ほど積んであります。

そんな街並みを見ながら進むと入間川になり結構長い橋を渡ります。渡ると狭山市に入ります。渡ったすぐの信号を国道と離れ旧道は右斜めに進みますと、この辺りから「根岸宿」になります。民家が30軒予、旅籠がなかった小さな宿場だったようだ。

中ほどに来たところに「明光寺」と言うお寺があり入り口の所に大きな石碑で「奉安(ほうあん)(いい)(ずな)大権現高尾山主張所」高尾山が本山になるのだろうか?明光上人が962年に開山との事です。参道を入って行くと途中が寺の経営の幼稚園があり、指定文化財がある様なので見たいと思い門を潜ろうとするとじいさんばあさんが境内一杯になり太極拳をやっていて引き返す。道路に出た向かいが宿場の問屋を勤めた久下家がある。門の脇に「日光脇循環」の標柱があつた。先に進むと四ッ角があり左に行くと飯能市に右に行くと川越市になるようだ。角に和菓子と焼団子のお店あり大きな看板に平安神宮、明治神宮献上「銘菓石森」としてある。街道筋なので当時は結構有名であっただろう。焼き団子を食べたかったが朝まだ早く食すことが出来なかった。

団子屋を過ぎると宿場も終わり、国道407と合流します。なだらかな金山坂を登りきると目の前が開けた。ここからは右手一体狭山工業団地になっていて小岩井牛乳の大きな工場などを見ながら進みますが、工業団地の中では何軒も工事のタワーが立っていて先の見通しを建て景気のいい会社の工場でしょう。

圏央道の狭山日高インターが近いためインターに入るところの信号の所で大きなショッピングセンターが建設中、その信号の脇にお地蔵さんが寂しくぽつんと・・・・・

快晴で温度は低いのですが水分のため一休みと思って歩いているのですがコンビニが一つも見当たりません。この信号を過ぎたところから「日高市」に入りました。日高市と言いますと巾着田公園の彼岸花(曼殊沙華)が有名ですが今年も中止との事でした。ただ中止だとお客が来てしまうので全部刈り取ったとのニュースをテレビか何かで見ました。圏央道を潜り坂道をあがったところにようやくコンビニに、トイレと水分補給と足の小指のケアーと。今日は距離があるので休みを少しで出発です。鎌倉街道と言う信号から杉並木です。並木の右は「日高カントリークラブ」昔2回ほど来たことがあります。途中に日光街道の杉並木保存の案内板がありましたが、ここの並木は杉が一部残っているだけでヒノキ並木になってしまっている。中には相当太いものもあります。丁度1`ほどゴルフ場と並木の間を歩いたでしょうか並木が終わったところが高萩の信号です。ここから又国道とはなれ左斜めに旧道に入ります。高萩宿になってきます。

高萩宿、交通の要衝であったため後北条氏は新宿を定め市も許可をし、戸数40軒もあった。戦国時代に開かれた宿場がそのまま江戸時代に引き継がれたと言われている。

まず宿場の初めがお寺の(こく)雲寺(うんじ)山門をくぐると左右が寺経営の幼稚園。1643年建創とあるが本堂も山門も立て替えて新しい、本堂の所に立派な鐘楼があるが建てたばかりのようだ。調べてみると、これと言ったいわれはないが、生越(おごせ)にある「龍穏寺」の末寺あることだけわかっている。隣に神社仏閣が一緒で「高萩神社」あったが裏になるのでお参りはしなかった。又、寺の入り口の所に「高麗神社の」案内があったので向かったがそれらしものが見えないの通りに戻った。坂道を下ったところが大きな信号の交差点になっているがこの辺りが高萩宿の中心だったようだ。宿場を思わせる建物等は何もありませんが、JR川越線のガードを潜ってすぐ右側に「金比羅大権現」の大きな石の碑が立っていてその隣に宿場の説明板がありました。戦国時代に開かれ宿場江戸時代と引き継がれていったが、旅籠は2〜3あっただけで本陣もなく大名関係は使用しなかった。問屋が2軒あり継中宿として利用されていて無料で中継ぎを強い

られいて貧乏な宿場だった。説明板の右半分は、地元に大変貢献をした「清水吉右衛門万次郎)」の説明。任侠のところあり「清水の次郎長」と結構深い関係であった。

読み終わって進みますと古風な建物明治13年に建てられて少し手を加えてあるとの説明ですが、ほとんどがそのままの状態で残っている。これは明治11年に「犬竹権次郎」が「七等郵便取扱役」辞令を受けて創設した「郵便局」。配達も南は川越し北は坂戸市までを受け持っていた。左の建物は大竹家です。初めは「高萩郵便局」だったが昭和33年に「日高郵便局」となり入り口の上にはそのままになっていた。

進みますと国道と合流いたします。ここからまた日光街道杉並木になります。杉並木の中に歩道を作って有るので自動車の関係の事は心配ない気持ちよく歩く事が出来きます。この並木は前と違って杉の木が結構残っています。1`ぐらい歩いたところに「日光街道」の標識が立っていて左にはここより「鶴ヶ島市」の標識です。昼時になっていて空腹感が出てきました。もう並木も終わりに近いかな?思っていましたが、なんと2`以上歩く結果になりました。

鶴ヶ島市に入てから、街道の両側にお茶畑が見受けられました。沿道にお茶園の看板が幾つもありましたので結構栽培しているようだ、ここに来ても品名は「狭山茶」となっていた。「高倉天神」の大きな信号に来たところで、旧道と国道が分かれます。国道側に何軒か食べ物店があり昼食を済ませて、旧道を歩きます。杉並木はまだ旧道の方に続いており急に桜並木となる。鶴ヶ島中学校の門の隣に案内板があり、戦後この辺り台風により殆どが倒れてしまい、見かねた「川上庄作」と言う人物が私財にて植樹した。

もう結構な老木になっていますが、春には桜祭りが行われる。右手に庚申塔と馬頭観音

塔を見ながら(すね)(おり)(さい)道木(どうぎ)の信号に来ました。面白い名前ですが名前の意味は分かりません。(すね)(おり)と言う町名あります。川越街道との交差点に道標が立っていて、4方の行き先の案内を書いてあるが読めません。重要な交差点であったことを示しているかと思います。少し進んだところに、小さな公園があってそこに大きな石の碑が立っているので入って見ると「田中省翁頌徳碑」と大きな字で書は「高橋 是清」としてあります。裏に説明を彫ってあるが全然読めません。田中省・・・・なる人物はどんな人物か請う?

お寺の山門が右手の奥に見えましたが、結構入っているので、取りやめとしました。

「善能寺」と言うお寺でした。すぐに神社があり今日の最後になりそうなので入りました。(しら)(ひげ)」奈良時代の創設で、旧埼玉入間郡に20数社あった。そいえば来る途中2~3か所小さな社がありました。神域がこの辺り七ヶ村の総鎮守である。

四年に一度行われる国選択無形民俗文化財脚折雨乞(すねおりあかごい)。巨大龍神を作って神社で入魂されて、渡御(とぎょ)に向う。案内板を見ると案内と共に写真がありますが、巨大な龍で何百人かで担いでいます。神社の裏に県の天然記念物で、九百余年の「楠木の大木」があります。周りが7mで高さ17m35mあったが台風で折れてしまい一部の枝が残っている。枝がないので大木が立っていて、少々威圧感がありました。

神社を出て目的の坂戸駅に向かいます。関越自動車道を潜ります。全国展開している「餃子の満州」の店があり、隣に工場があり駅にも店がある。餃子の「王将」と同じで

関西系かと思い調べてみたら本社は川越市だった。京王線聖跡桜ヶ丘駅のそばにも店があり何回か利用していました。東武電車の川越線の踏切を渡ると「坂戸宿」(坂戸宿の事は次回)に入ってきました。東武東上線の踏切の手前を右に折れて坂戸駅に着きました。立派な大きな駅でびっくりしました。

この先の小川駅発の急行に乗りましたが、これが新宿を通り渋谷から東急東横線に入り横浜の元町まで行ける。一つも乗り換えなしで、座ったまんまでこれまたびっくり!でした。           

 第四回完

 





第三回    令和3年6月1日(火曜日)

箱根ヶ崎宿〜二本木宿〜扇町屋宿(入間駅)天気晴 温度25度 歩行12q(155q)

 

箱根ヶ崎駅を降り、旧16号(都道166号)を渡り横町を抜け「千人同心日光街道」に出ました。ここはもう昔の宿場になります。宿場の中心が旧青梅街道との交差点になります。どちらからも交通のかなめと大変賑わった宿場だった。江戸時代後期には商品の輸送も増え、日光参拝や、富士講、御岳(みたけ)講などで旅籠が軒を並べていた。交差点の角に明治5年創業の「漢方曾田」と言う漢方の薬屋さんと、土蔵を構えた「関谷」の表札の架かった大きな屋敷が4~5軒あり、これらが当時の宿場を思わせるにとどまっています。           

残堀川の大橋を渡り、右に庚申塚とお地蔵さんを見ながらだらだら坂を上がって下ったとこの信号が都道166号(旧国道16号)渡った所の左に都立「野山北六道山公園」カタクリの里の案内、春先に来ればカタクリの花が見られるのではないか?

そこから間もなくして左側に「耕心館」と言う建物がある。周囲を堀でめぐらし豪壮な母屋と2棟の土蔵からなる邸宅は屋敷森に囲まれた武蔵野の旧家の佇まい。当地の豪農で醤油醸造を営んでいた細矢家の邸宅、瑞穂町が買い取り少し改良を加えて社会教育として、日ごろ忙しさに追われている事を忘れて、ゆったりした気持ちで、工芸・美術・音楽など教養を高めるための施設ですと説明してありました。食事もできるようになっていた。

この建物の隣は建築されたばかりの、ゆったりとした「瑞穂町郷土資料館」がありました

過ぎたあたりから両側茶畑があります。瑞穂町でも「狭山茶」を結構栽培を生産しているようだ。街道を進むと新国道16号の信号に来ました。車の往来が激しいので歩道橋です。信号名は「富士山」です。歩道橋の上からは富士山が見えるのだと思いますが今日はあいにく、雲がかかっていて見えませんでした。昔は下からも見えたのでしょう。この辺り一帯は「瑞穂町駒形富士山」と言う町名です。すぐに「元狭山神社」の鳥居がありましたので入って行く石段をあがったところが「元狭山神社」。神社由来の案内に、埼玉県入間郡狭山村の四つ神社を大正7年に合祀したとある。当時此処は埼玉県だったのか(現在は瑞穂町二本木になる)また新しい神社ですが、能の舞台がありました。

此処を過ぎると「二本木宿」になってくる。二本木宿は千人同心日光街道が出来てから成立した宿場です。青梅市から川越市に至る新河岸街道が合流したので当時は大変賑わった宿場場だった。

ややこしいので説明しておきますと、住所的に「瑞穂町二本木」と「入間市二本木」があ

る。初めの十字路の信号が瑞穂町二本木、約300m先のTの字信号が入間二本木信号でこちらが合流地点なります。その間に埼玉県入間市の標識が立っています、土蔵を構えた豪邸が何軒かある。これが宿場を示しているだけです。右に折れていきますが角に1744年に建てた標識がある。日光脇往還と青梅か新河岸に至る河岸街道との合流点に建てられた道標で「左 大山 八王子」「右 青梅」とあります。少し歩いたところの農家の庭に小さな小屋があるので、ちょいとお邪魔をするとそれは懐かしき「つるべ井戸」蓋をしてあるので中は見られませんでしたが小屋には滑車が残してありました。

信号のある交差点に来て、案内板に左に「二本木神社」右に「寿昌寺」とありましたが神社は500mぐらいありそうなので200mぐらい入っているお寺の方に行きました。本堂はたいした建物ではないのですが、観音堂が立派な建物で中には本尊で重要文化財の「木造観音菩薩立像」が祀ってあるのですが見られないようにしてありました。街道に戻ります。道路の向こう側に何かあるので渡ってみますと説明書きが何もありませんが、珍しい木造の「常夜灯」です。あちこち街道を歩いてまいりましたが。木造の常夜灯ははじめてでした。保存に勤めていてくれることがありがたいことです。                      

進んできますと国道16号と合流の信号になるのですが、街道は信号を渡らずに右斜めに行きますと大きな公園を兼ねた「入間市博物館」今日は結構蒸し暑いので公園に入って木陰で一休み。だらだら坂をあがったところが狭山小学校で、この先が左一体工業団地と

右一帯が住宅街で、それにより街道がなくなっています。仕方がないので国道16号に出る道を選びました。住宅街を歩いているとき今回も珍しい苗字の表札がありましたので記します「北古味(きたこみ)」調べてみると全国で60人ぐらいとの事です。

国道16号に出ますと、入間インターチェンジ入り口の一つ手前の信号でした。インターチェンジの入り口の歩道は地下道になっていてそこを渡りました。出たあたりは名前のしれた食べ物屋が並んでいます。16号は右にカーブしています、曲がりきっと所の右側は「武蔵CC豊岡コース」の入り口です。名門コースで50年ほど前2回ほど行いました。除夜の鐘と同じで108個のバンカーがると記憶しております。

直ぐに小谷田(こやだ)の信号」です。大きな信号で歩行は総て大きな歩道橋を渡ることになります。この信号は右に国道463号で越谷まで(どちらが起点?)、左が国道299号です。

これは此処が起点で秩父から長野県の佐久に出て八ヶ岳の山麓を越えて茅野市までです。

この国道は佐久に抜ける峠はものすごい所を通ります。一度お試しを如何でしょうか?

歩道橋を渡ると又すぐに大きな「扇町屋南」の信号」変則五差路になっていて、16号線は左にカーブして行きます。日光街道は信号を渡り「扇町屋宿」へと入って行きます。

「扇町屋宿」650mほどあり90軒近くもの宿があった。千人同心は、この扇町屋で

往きは昼食を取り(八王子から歩いて昼には着いていた)日光の帰りは宿泊をした。

地名の由来は「愛宕神社」の神体が五本骨の扇であることかこの名前になったとのこと。

初めに目に入って来たのがこの建物で他にも宿場を思わせるものが23あったが説明もなければ、商売もやっていないのでわからなかった。但し昔の宿場なので酒屋、米屋、呉服屋等、専門店で商売をしていた。建物は新しいが長い間商売をしている暖簾の雰囲気があった。そんな暖簾に交じって近代的な店で香り売っている専門も見受けられました。

次は「長泉寺」に入りました。門をくぐった右側に「道元」の銅像があり、寺としては珍しく大黒様を祭ってあり山門の所は寺の名前でなく「大黒天」となっている。曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦如来像。甲子(きのえね)様と親しまれ、遠方の人たちからも商売繁盛、家内繁栄の大黒様を安置する寺としてあつく信仰されている。今度は「愛宕神社」に入りました。                                                           

多くの古木に囲まれた神社。南朝の忠臣新田(にった)(よし)(おき)が多摩川の「矢口の渡し」で従者13人と共に謀殺され、1361年に従者と共に霊を祀った。1の鳥居も2の鳥居も石でできている。初代首塚の松が伊勢湾台風で枯れてしまったが株の所を保存してありました。鳥居の脇にはお祭りの際に引く屋台も保管してある。また階段に上がるわきには、ここに立ち寄ったとは書いてないが、「松尾芭蕉」の句の碑がありました。

街道に戻り先に進むと道路はY字路となりこの豊岡の交差点で宿場は終わりでしょう。

街道はYの字の左に行くのですが、今日はこれで終わりなので右に行きます。次回はこの交差点まで戻ってくることになります。駅までの街並みはビルも沢山あり、人でも結構あります。手前で昼食を済ませて駅に行きましたが、駅が町並みの隅にあり駅の向こう何もありません。宿場に出来た街だからと言うことでしょうか?入間市の思い出は50年ぐらい前と思います。自衛隊の入間基地に航空ショーを見に来てインパレスに感激をしました。

1つ前の「稲荷山公園駅」でした。        

第三回完  


第二回    令和352日(日曜日)

拝島宿(拝島駅)〜箱根ヶ崎宿  天気晴 温度23度 歩行8q(11.5q)

 

拝島駅の北口出ました。この拝島駅は一部福生市なっていて北口は福生市になります。

出てきたところが日光街道です。歩き始めてすぐに橋になりますが「日光橋」です。明治24年に近代的な技術を用いて作られたレンガアーチ橋で時代の流れで昭和25年に前の橋は残して両端をコンクリート足して車が通れるようにした。この橋は国内に現存する最古の道路レンガアーチ橋との説明。下を流れているのは「玉川用水」です。橋を渡ると直ぐの信号が複雑になっている。国道16号五日市街道、日光街道、わらうけ街道が交差している。

光街道は斜め前ですぐに横田基地に阻まれている。要する基地の中を通っていて箱根ヶ崎まで切断状態です。16号を歩く事になりますが、信号を渡ると左斜めに「わらうけ街道」の標識が出ている。16号と並行しているのでそちらを歩いて見ることにした。結構広い道路であるがほとんど車も人も通らない(日曜日だからか?)ところどころに「わらうけ街道」の標識があるが何もありません。多分日光街道から分かれて当時地元では重要な道路であったのだろう。八高線の東福生駅のあたりで終わっているので16号に出ました。出たところ道路の右側は総て「横田基地」です。

店は急に外人向けの商店街となります左が各店の案内図で、右が基地の正面玄関です。

土曜日(日本は日曜日)なので正面の出入りは少ないようです。

何の用事で入ったか忘れましたが昔、一回誰かに連れていかれて中に入ったことがありました。立川の基地と統一されて、そちらにあった住宅も総てこちらに移りその住宅を見に行ったような気が致します。正門を通り越していきますと、左側一帯が米軍ハウスです。住宅(基地の中にもある)とか学校とかの施設もこちらになっている。ここで働く方の出入りは12ゲートを利用しておるようです。米軍ハウスはこの12ゲートから真っすぐ入る様になっていて、ハウスからの出口には逆に入れないように車がパンクする仕掛けをしてあり、日本語でも書いてあります「車がパンクします」と、出るときは其の装置が倒れるようになっていました。

少し歩いたところに「ドンキホーテ」の派手な4回建ての店があり免税品も扱っているようで、中を見ながらトイレを借りることにしました。

トイレがある4階に上がると休憩所がありそこから基地の中がすべて見渡せました。

目の下の所に「アトラス航空」のジャンボ機(727型)が一機、「ハワイ航空」787型が一機駐機しております。多分旅行で貸し切りでしょう。乗客はどうなっているかわかりません。軍の飛行機は(オスプレイ?)56機滑走路の奥に見えるだけです。あまりにも少ないのに驚きです。アトラス航空のジャンボ機が動き出したので見ていると飛び立っていきました。ドン・キホーテの中を少し見ましたが安いのにびっくりしました。アイスキャンデーを買っただけですが半値でした。

16号に出て少し歩くと後ろで大きな音がするので振り返ると、ハワイアン航空の飛行機も飛び立っていきました。左に都営住宅を見ながら進むと16号線はパイパスとなって地下に入って行きます。旧道16号(今は都道166号)は新道16号をまたぐ形で飛行場の脇を進みます。横田基地が終わると同時に大きな6差路の交差点です。新青梅街道の交差点を渡ります。

日光街道は200m右に行ったところですが今日は箱根ヶ崎駅で終わりなのでこのまま進みます。右に神社があるので入ると「加藤神社」となっている。説明によると、武田氏の滅亡後、その家臣の「加藤丹後守影忠」は妻子と数名の家来を連れて当地まで来たが

入間郡に入れずにこの地で果てた。村民が哀れみ塚を築き「加藤八幡宮」として神社を

建立した。石塔が4基有るが上野原の加藤氏の跡継ぎが立てたとの事。神社の墓なので笠が付(神社の屋根を表しています。神社を出てすぐに駅からの信号になりますが、昼食を取りたいので「箱根ヶ崎の信号」まで進みます。この交差点は旧青梅街道との交差点で16号パイパスが出来るまではものすごい渋滞で何十分もかかったものでした。角に食堂がありましが隣が大きなお寺「円福寺」次回時間がかかると思うので今日の終わりにと思って入りました。山門をくぐると目の前に大きな総欅造仁王門、写真では見えませんが一刀彫の大きな仁王様が両側に、まだ新しい感じが致しました。1573年に建創、江戸時代には寺領11石の御朱印を拝領下の事なので、権威はあったのでしょう。立派な鐘楼もありました。

裏の墓地も段々になっていて広い墓地でした。見学の後ゆっくりと昼食の時間を取りました。今日は交通の関係で距離を余り歩いておりませんがこれで終わりです。

                                  第二回完



第一回     令和3426日(月曜日)

八王子宿(千人町)〜拝島宿(拝島駅) 天気晴 温度19 歩行 13.5q(18q)

出発前に千人同心について簡単に、山梨の武田家の滅亡により徳川家康が管理することになる。その時に残党がいてその人間を八王子に移し同心を作り日光東照宮の火番をさせたり、江戸城の防衛に当たらした。初めは10人だったのが1000人までになった。江戸城の大手門を入って行くと「同心番所」、「100人番所」など残っている。江戸時代の終わりと共になくなった。八王子にまだその名残が「千人町」として残っている今の西八王子駅の周りとなる。千人同心の事をよく知りたい方は、インターネットに詳しく載っていますのでそちらにて。甲州街道(国道20号)の千人町の信号を出発点といたします。

この信号の路地に「馬場横丁」碑が立って居ましが横町の先に同心の「馬場」があったとの説明です。この20号線は追分の信号から高尾まで銀杏並木で秋は銀杏拾いが恒例に行われます。歩き初めたとき、マンションの建築反対の旗が何本も立っています。張り紙も沢山あり、貼り紙にはこんな言葉が「お金は一時、日陰は一生」ちょっと笑えました。その隣が「了法寺」と言うお寺があって看板がキャラクターなどの派手な絵になっております。何か宣伝のためかと思いますが、お寺さんも色々工夫が必要になってきた時代を感じます。

 少し歩くと「追分の信号」です。交番の脇に道標が立っていて「右安木道(陣馬街道)」「左甲州道中高尾山道」と刻んである。そのわきには大きな碑が立ってあり「千人同心屋敷跡記念碑」とある。そのわきには1000人同心の細かい説明が記してあります。真っすぐ行くと20号線パイパスで、右に曲がります。この辺りが「八王子宿」であった。蔵が一棟、お店が一棟(今は商いはしていない)宿場の名残があった。八幡町の交差点に行く前に勤めていた会社の八王営業所に勤めていて今どうなっているだろうと見に行きました。隣が、八王子でも名の知れた「耳鼻咽喉科」の医者でしたが、どちらももろともナシ、マンションの駐車場になっている感じでしただけ。八幡町の信号を左に曲がり国道16号線となります。国道20号パイパスの信号を渡ると寺で「宝樹寺」「稲荷神社」、神社仏閣一緒になっていて神社の敷地に山車の格納庫がある。どちらも地元では非常に大切なものであることが分かる。

お寺は「時宗」になっていて珍しいので覚えていますが、箱根駅伝を歩いた時に

藤沢市に「遊行寺」という本山があったことを思い出しました。

境内を出て少し歩いたら道路の向こうにお寺がるので又かと思ったが山門が立派なので道路を渡る。浄土宗「極楽寺」なている。山門の扉には葵の大きな御紋が付いてる。徳川に関係があるだろうし、敷地が大きいし本堂も大きいので入りたいのだが門が閉まっている右も左も入ると事だがない入れるところは裏側になっているのだろう。諦めて浅川の「浅川橋」を渡りました。16号線もこの辺り、パイパスが出来るまで昔は連日ものすごく混んでいたものです。今は道もガラガラで道も倍の広さ、やることが逆だ。坂道になってきました。稲荷坂となります。途中から右に入り日光街道です。坂の途中の「ひよどり公園」で一休み。坂道を上がった右側が「うかい鳥山グループ」の「うかい鳥山停(ステーキハウス)」です。私個人的なことですが、40何年か前の話になります。あるメーカーの入社2~3年の社員の方に会社の稟議が下りたので接待を受けてくださいと言われ、真面目な青年でしたので快く受けました。その青年はいまだに友好を続けております。人格の備わった人は何年過っても忘れないものです。そんな思い出がありましたが、ここはおいそれと行けるところではありません。うかい鳥山亭を過ぎたところに「グランドヒルズ八王子クラブ」言う高級な建物があったが調べたがよくわからない。何か高級なクラブで我々庶民には関係がないような気がした。あちこちにある様だが・・・・・

左に「ひよどり中学校」を見て、左が都立「小宮公園」を見て進みます。公園の向こう側はまだ見に行ったことはありませんが「北島三郎」1500坪の敷地だと聞いております。そこを過ぎると左にカーブして急坂を下りると中高速道の真上に着きます。道路では丁度覆面パトカーに一台の乗用車が捕まったとこでした。橋を渡りインターセンジの下を潜り高級懐石料理鶯啼(おうてい)(あん)前を通り16号に出ました。

次の信号が16号のパイパスと合流です。

信号を渡るとすぐに左入の信号を渡ると登坂になる頂上に達したころ「滝山城址」の案内図この城は八王子城と同じ北条氏の城で八王子城は山城だったが、滝山城は戦国時代には珍しく平城だった記憶しております。坂を下り始めると左に車検場があります。多摩地方は昔車検すべてここで行っていた。坂を下ると右側に高い焼却場の煙突がある。この焼却場は多摩川の西側にあるにもかかわらず、昭島市の焼却、これが問題を起こしたいわくつきの焼却場です。昭島市には問題はないのですが、八王子にしたら大問題。昔、多摩川の流れのいたずらで(だと思いますが)昭島市

の土地が八王子側に出来てしまった。なので昭島市とすればこれ幸いと焼却場を作った。焼却場の臭いなどのクレームの問題が総て八王子市になってしまう。そんなことを考えながら多摩川の「拝島橋」を渡ります。この橋は長いです。400~500mあるのではないか?羽田までに多摩川に架かっている橋で一番長いような気が致します。渡り終えたところの信号の左は「宅急便ヤマト」の多摩地域のセンターと「佐川急便」のセンターがある。どちらも大きなセンターです。次の信号が「拝島橋信号」で左に曲がります。今は「旧奥多摩街道」です。直ぐに立派さ山門です。上を見ると「拝島大師」です。参道を歩いて仁王門を入ると本堂、六角堂、五重塔、鐘楼を初め色々の建物があり総て撮影禁止でした。名前は聞いておりましたがこんなに大きなお大師様でびっくりいたしました。中が撮影禁止だったので一回戻って山門を写真に収めた次第。路地を挟んで神社仏閣がそろってあります。これも大きな「大日堂」の寺と立派な「日吉神社」。大日堂は北条氏が厄除けに建てたもので

仁王門は都の指定文化財になっている。庭には樹齢600年の藤棚。寺は何時でも見られるが藤棚は時がる。丁度満開でしたので写真にしてきました。日吉神社は豪華絢爛な社で、大日堂の守護社だとの説明だった。広い敷地の中に色々見るものあり一見のお勧めです。道路に戻る。この辺りが「拝島宿」上宿・中宿、下宿とあり旅籠も何軒かありにぎわった宿場であったそうです。「拝島宿」の名前は多摩川の中州に大日如来像が流れ着き、村人が尊像をお堂に安置して拝んだことから起こったと云われている。直ぐにまた「普明寺」参拝だけいたしました。この寺は大日堂の八坊の一つになるお寺です。またすぐに神社の案内版「天神社」菅原道真を祭ってありました。社は小さいが、楠の大木が2本あり歴史のある神社でしょう。道路に戻りしばらく歩くと大きな「小荷田」の信号16号と合流です。左に行くと新奥多摩街道になり16号は真っすぐ行くことになります。左に4回建ての建物が二棟、4階建てだから学校かと思いましたらやはり学校で「多摩工業高校」モダンな学校と言うことになります。武蔵野橋南の信号を右に16号と別れて旧道に入りました。少し歩いたところが拝島駅です。日光街道は駅を横切ることになりますが今日は此処でおしまいです。ちょっと遅い昼食を済ませて帰宅の途。

 

         第一回完


  大山街道ぶらり歩記

第四回 令和3416日(金曜日)

千頭〜粕谷宿(石倉) 天気(曇り)温度(18度)歩距離13q(155q)

 

千頭のバス停に930着、「小鮎川」と並行に道路が走っているのでバス停は土手になります。小鮎川の「千頭橋」を渡りながら出発です。すぐに坂道を上がります。

丁度中間ぐらいに「本厚木カントリークラブ」入り口です。昔、どこかのコンペに出席しましたが、素晴らしいチャンピオンコースだったと思います。

右には「東京工芸大学」があります。厚木キャンパスのようです。坂を上がりきると左が本厚木カントリークラブで、右側に林の中でよく見えませんが飯山ゴルフスクエアになっています。

相当広いようですので調べてみるとゴルフ練習場で、コースに見立てた練習場で、ミドルコースとか、池越えのショートコース等があるとの事です。

ゴルフ場を過ぎるとS型の下り坂になります。中間に「白山神社」があり下り終えたところに「白山坂」の碑が立っていました。もう一つの碑に説明があるのですが古くて読めません。この辺りが昔の村の中心地だったのでしょう。過ぎると「諏訪神社」がありましたので、急な長い階段を上がって参拝をして、降りてきて一休み。50mくらい歩いたでしょうか「妙昌寺」と言うお寺です。神社と同じ階段数を上がります。住職が本堂で、お勤めのお経をあげていました。扉を開けて中に入りお賽銭と一礼をして表に出ました。境内には銀杏の大木がありますので歴史のあるお寺と言うことと、隣の神社は昔住職が寺の土地に建造したと言うことだけは分かりました。村には寺だけでなく神社も必要と思って民のために建造したものではないかとの想像。お寺の掲示板にこんな文章が貼ってありました。おとこのしわざは女の力なり」「「次に来た信号が「森の里」と言う入り口の信号です。右に上がっていくわけですが丘陵地なので公園かなと思って地図を見るとたしかに公園有るが「森の里15丁目」・「森の里若宮」・「森の里青山」住居・学校施設・企業の研究開発所と区別される。住民は大よそ7000人、学校は松蔭大学キャンパス・小学校・中学校・高校とある。企業は富士通・NTT・東洋テクニカ・日産などの研究開発センターだ。

これは昭和50年より厚木市が丘陵地を造成して誕生したニュータウンです。施工面積は192.7ヘクタール(約584,000坪)この辺りは愛名(あいな)と言う場所です。

右に大きなカーブを曲がると目の前が開けて大山が目の前に迫って見えます。複雑な交差点を渡ると「玉川」が流れていて「小野橋」を渡ります。橋の中間より撮りました大山です。今日渡りました。「小鮎川」・「玉川」は大山の表より流れている川です。裏側は「中津川」に流れているわけで、この山から二つの結構大きな川になっていますが、ちょっと考えられないが、谷が多いのだろうと考えられる。旧道は橋を渡り、少し下流に行ったところになりますが調べると開発のためあちこちで途切れているようでしたので、神社・寺などがある様ですが63号線を進みました

左の道路の上に大きな工場が二つあります。道路からの入り口に大きな看板で「マルマテクニカ厚木工場」「三司馬物産叶_奈川営業所」どちらも聞いたことのない会社。神社仏閣を見られない代わりに会社の内容を調べました。前者は建設産業機械に別の機能を製作しセットする。総て注文による製作をしている。特殊な技術を持った会社。後者は()司馬(しま)と言う名前なので中国かと思いましたが調べるとれっきとした日本。こちらは自動販売機の修理、メンテ、保存などを行っている。得意先は飲料メーカー、お菓子メーカー・ビールメーカー等。自動販売機を持っている会社だ。こちらも全国展開。一般人が知らない会社で、特殊な技術と特殊のノウハウを持っている。内容は良いのではないかと思います。そうこうしているうちに坂を上り始めます。左の丘の上は大きな建物が幾つも「日産テクニカルセンター」です。これは相当の面積になっているようだ。その入り口を過ぎると坂道の頂上になります。ここから伊勢原市となる。日産の隣に成城学園のグラウンドと合宿所がありその隣が専修大学の総合グランド一部キャンパスのあるのではないか?下ったところが「分かれ道交差点」で真っすぐ行くと「粕谷宿」行くのだが工事中で通れない。地図を見ると「粕屋宿」の方に「産業能率大学」があるのでそれを目指して歩き始めると、学生がゾロゾロとそちらに向かって歩いていく、これは其の大学に行くのだなと思い後をつけて行けばと付いていくと途中から方向が少し違う、おかしいと思いもう一度地図を見ると大山の山付き大きな建物がある。どうもそちらに向かっているようだ、そこは専修大の研修所で総合グラウンドからそちらへの移動だった。少し回り道をしてしまったが粕谷宿にたどり着いた。ここは今「新東名道路」工事中で「伊勢原大山インタチェンジ」工事中でそれに伴って周りも開発中です。大きな流通センター?完成しておりました。
高速道路は山付きを走り秦野の山付きに抜けていくようだ。粕屋宿の事は次回に。帰りのバスは「産業大学」の学生と一緒になりぎゅうぎゅうでした。

第三回 令和3329日(月曜日)

高田橋(田名宿)〜荻野宿〜千頭(せんづ)  天気晴 気温度24度 歩行距離12q(15.5q)

 

相模原駅よりバスにて田名水郷のバス停留所(終点)より、高田橋に来ました。渡る前に、此処の事をもう少し書いておきたいと思います。この近くに行きつけのゴルフ場があり、上流に道が出来るまでは総てこの橋を行き来しなければならなかった。今も橋のたもとにリバーサイド分譲マンションがあります。当時(バブル期)に20階建ての億ションだったのですが、販売するころはバブルがはじけて売れなくなり、ほんの数軒だけ売れた状態、要するに幽霊マンションです。今はもっと少ない感じだが・・・

それと写真ありますが、鯉のぼりが川の向こうの山からこちらの岸まで、200m以上あるかと思いますが4本の鯉のぼり(約1200匹)です。当時は日本一と言っていたと思います。ゴルフの行き帰りに何回か見てきました。「今年は何日からですか」と訊きましたところ、昨年はコロナ禍で中止にして、これを機会に32回の歴史に幕を閉じたとの事、残念。そんな思い出を持ちながら橋を渡りましたが、この橋について説明がしてありましたので記します。名前は右岸の高峰村と左岸の田名村から頭文字で「高田橋」大正13年に木造の橋の完成でそれまで街道は渡し船だった。名前は久所(くぞ)の渡し」その後昭和4年架け替え、平成2年に架け替え三回の橋の写真付きになっていました。渡ってすぐを左に折れて、又すぐに右に折れます(県道63号線)曲がってすぐに旧道が左にありますが、そのまま進みます。

まもなく坂道になるのですが、昔からこの坂は有名な坂だそうでなかなか急坂できつい、中間に来たあたりに案内板が出ていて崖の右上は「小沢城址」敷地は5,700uあり室町時代初期の築城だが1477年に「太田道灌」に攻撃され落城した。今は少しの壕跡に留まる。この坂道は長さも700m前後あるのではないか?やっとの登りきる左に旧道と合流していましたが、旧道は舗装されているが車は入れず、ほとんど歩いた形成もなさそう。旧道を歩かなくて正解でした。

登りきったところが大きな信号があり左方面が中津工業団地方面、真っすぐが旧大山街道があるのだが、住宅造成の際完全になくなっている。右に折れて県道65号に、郵便局信号で併合し左に折れる。この道路が愛川町の主要道路となっているようで、車が良く通る。何もおもだったものがないので、商店の名前など見ながら進む、それらしき名前だが、飲み屋で「ふうらいぼう」定食屋で「ハラペコ」床屋で「髪きり虫」など。一本松の信号の所に「八菅神社」と大きな看板が出ているの立ち寄りたく思ったが、地図を見ると結構距離があるので止めました。その信号を過ぎると桜台の変則の大きな信号です。左斜めに65号がここで別れです。63号は右斜めに進みます。下り坂が始まると頭上に水路が二つ頭上に掛かっています、何だろうと説明を読みますと、旧相模陸軍飛行場の排水路橋だとの説明。舗装されていなかった飛行場が雨天時ぬかるみなるのを防ぐために作られた排水設備の遺構だとの事、今は使われていないのではないだろうか?この坂は「坂本坂」と言う名前がついていまして大きなヘヤピンカーブを曲がっていくと大きく視界が開けます。広い田園風景です。道は中津川土手になりますがここの河川敷は愛川少年広場になっていまして、見事に桜が咲いていて、本数を100本まで数えたが、そこから推定300本はあるかと、綺麗でしたので写真にしておきます。

橋のふもとの信号で右に曲がると中津川に架かっている「才戸橋」この中津川も昔は渡しがあって渡り終えたところに公園がありその入口の片隅に「才戸の渡し」の碑が立っておりました。信号を渡り坂道を上がりきると「荻原宿」です。

左に「リコー厚木事業所(工場)」広い敷地です。ここは何を製作しているのかわかりませんが、コピー機に関するものには間違いないでしょう。その隣が「神奈川工科大学」

結構大きなキャンパスですが、何の学科が知られているのでしょうか?。厚木駅より通学するのでしょうが交通不便で大変な気が致します。昼時になったので大学の向かい側に「夢庵」があり「富山名産丼」と大き旗が幾つもなびいるので、ひさしぶりに富山を味わってみたく入りました。注文もそのものです。すると女店員がこの注文にはこれを差し上げますと言って高岡市の「国宝瑞龍寺」の「疫病退散」のお札をくれました。このお寺は高岡に仕事でよく言ったので23回行った覚えがあります。素晴らしい山門の記憶が残っています。加賀100万石、前田家の2代目「前田利長」の菩提寺だそうです。店員さんに「これでコロナはイチコロですか?」と訊くと「はい、イチコロです」との答え、本当にイチコロになってもらいたいものです。食事を終えて午後の歩きに入ります。「荻原新宿」の大きな信号に来ますと、この辺りがこの町の中心になっていと思われる。角に大山街道を歩いている証の碑と後ろは「日吉神社」、境内に500600年物の銀杏大木がありますが、高さ3mぐらいところで総て枝を切ってしまているが、手入れを考えるとこれま仕方のないことか?もう一つの角が大きな空き地に成っている、地図を見たら「華屋与兵衛」の店だった

町の中心部ではお客が来ない。

信号を過ぎると500m以内に3軒もお寺がありましたが、まず「法界寺」小田原城主「北条直政」の命によってできた寺で、小田原城落城の時焼け落ちその後ももう一度火災ににあい、山門だけが焼けずに残っていた。確かに寺の建物から比べて山門は立派でした。お参りをして次の寺に移る前に少し入ったところに、屋根が銅葺きで大きな屋敷があったので、ちょいと見学。窓の上に総て庇屋根がありその上に本屋根がある造り、総て銅葺きです。屋根に使用している銅だけで家が一軒建ってしまうのではないか、大変驚いて見て来ました。次のお寺が「千光寺」説明するものが何もないので帰って調べましたが、どう言う寺かわかりません。

山門もない小さなお寺ですが、昭和18615日秩父宮紀勢津子殿下ご来場記念碑」がありました。戦争最中に何でこんなところに?思いましたがこれも何もないのでわかりませんでした。

「龍田神社」が境内にあり、神社仏閣一緒でした。次のお寺「光徳寺」参道が長く入っていきました。山門と本堂が一緒になったような建物です。親鸞上人が巡錫(じゅんしゃく)した当地に、息子の善鸞上人のために建てた寺。幕府より寺領29石3斗の御朱印状を受領したとありますからそれなりに由緒ある寺かと。ここで「荻野宿」は終わりとなりますが、江戸からの参道とここで交わるので大きな宿場であっただろうと思います。面影はほとんどありませんでした。県道に戻り坂を下りたところが「荻野川」橋を渡り坂を上がりきって少し進んで県道60号との交差点です。ここは千頭(せんづ)と言うところで、バス路線がここにありますので今日はここまでです。1時間に2本のバス、1分待ちでバスがきました。

第三回完

第二回 令和3年3月18日(木曜日)

橋本宿〜高田橋(田名水郷)    天気 晴  気温18度 歩距離8q(12.5q)

橋本駅で降りて、前回最後の「香福寺」まで戻り出発しました。5分も歩いたでしょうか前回なかった神社がもうあります。長い参道を入って行くと「橋本神明大神宮」です。ここにはあと二つ神社があります。左に「橋本天満宮」右に「大鷲神社」です。境内も広く地元の方々の守り神としているのでしょう。広くて大きい割には宮司はいません。11月の「酉の市」は大変に賑やかとの事です。ピンクの枝垂桜が満開でした長い参道を戻り、歩き始めると横浜線の踏切です。踏切は大山街道踏切と示してあります。間違いなく大山街道を歩いているようです。踏切を渡ると大きな建築現場です。「新幹線のリニア橋本駅」の工事です。中はよく見えませんので止まらずに歩きますと、渋滞で名高い「橋本の五差路」の大きな交差点です。立体交差などにして昔程混んではいませんがやはり混んでおりました。歩道は総て地下道になっていて向こうに渡るため入って行きましたが、中が複雑な通路になっていて出口が8か所もあります。それらしき出口に出ましたが、行くべき県道63号線が分かりません。複雑な交差点でなお且つ地図と状況が違います。これが歩いていて一番迷う原因です。交番があり、常駐ではないようですが巡回に来ていたお巡りさんに訊きました。私の持っている地図では現れていないので、お巡りさんも迷っていましたが、地元の大きな地図で説明頂きほっとしました。今日は暑いからよく水分を補給して気を付けて行って下さいと何回も親切を頂きました。県道63号線がこれから始まりです。しばらくして下り坂を進みますと、左に「新明坂」の碑が立っていて、写真ではよく見えませんが奥に「子育地蔵」がありました。今の道路は真っすぐ下っていますが旧道はカーブしていたらしくここだけ30~40mほど残っていました。坂の下の信号は「相州大山街道」の地名として残っている

「下九沢(くざわ)の信号です。上溝方面にいく道路との交差点で複雑な交差点になっています。信号を過ぎると「鳩川」を渡ります。橋の名前は「九沢橋」結構大きな川ですが水が全然流れておりまん。歴史のある川なのでしょうが開発の関係でこうなっているのだと思われる。距離的にあまり歩いていなかったが、お巡りさんに言われたとうり大福を食すとともに水分補強で一休みしました。一息ついたので歩き始めます。道路の左側に沢山のクレータワーが見える現場に来ます。此処は以前には「キャタビラ三菱」の工場でブルトーザーなど建設機械を作っていた工場跡地です。写真ですとよくわかりませんがタワークレンが15機ありました。とにかく大きいので規模を調べてきました。記しておきます。敷地295,000u(90,000坪)建物は地下1階地上6階延べ床面積約660,000u(約200,000坪)工期が20201月〜20269月) これで大きさがわかるかと、流通センターだそうですが、圏央道の「相模原・愛川インタチェンジ」が近いので、益々の車の渋滞が予想されます。竹中工務店と東急建設のJVでした。又道路の右側は「三菱重工業相模原製作所」です。こちらの方が敷地面積は大きく感じます。又三菱重工のラクビーチームはこの工場に所属しているようです。製作品はターボチャージャ・エンジン・特殊車両などです。そんな間を通り越します。田名の中心部に進んできましたが何もありません。大きな屋敷が何軒かあるところを通り過ぎると村はずれなるのでしょうか?写真のようにお地蔵さんとか庚申塚、馬頭塔などが何か所かに見られます。長い大きな下り坂を下りますと田名の河川敷になり、田名水郷です。高田橋の手前まで進み、田名の町中に戻りました。ここから先はバスがなく橋を渡るとバス路線が厚木市の方になるので、今日は此処までです。今回はお寺が1軒も見受けられませんでした。

後先になりますが、この田名水郷は過去はどのような街だったか、昔、地元の方に訊いた話ですが、料亭も旅館も沢山あって、芸者も沢山いて夜の街として大変にぎわっていたとの事。時代も変わり今は料亭を兼ねた旅館などが23軒見受けられるだけになっていて人通りもなく大変寂しい町と化していました。       

                                                                 第二回目完



第一回 令和3年2月2日(月曜日)

八王子横山町〜橋本     天気 晴 気温22度  歩距離912q)
又、歩記の虫が騒ぎ出しまして、出来るだけ沢山を歩いてみたくなりました。今回は

大山街道です。これは皆さんもご存知かと思いますが、神奈川県伊勢原市にあります

小山阿夫(おやまあふ)()神社(じんじゃ)詣での街道です。調べてみると鎌倉街道以上に道路が複雑にあり

ますが色々沢山ありますので書きませんが、鎌倉街道と併合しているところもある様です。今回は「大山八王子街道」です。

これは埼玉県の中山道の熊谷からです。とりあえず八王子からと距離は短いのですが

歩いてみます。何で八王子からかと言いますと、八王子千人町から熊谷の手前までは「千人同心日光街道」と併合していますので、終わりましたら「千人同心日光街道」を栃木県の現在の佐野市の「例幣使街道」合流地点まで出来れば行きたいことが目標です。京王線八王子駅から、八王子のメインストリートである東町通りを歩き、国道20号線と16号線接点の横山町信号に立ちました。大山街道この辺りは16号と併合となっていますので16号を歩き始めました。昔からの古い佇まいの専門店が見受けられます。中央線の踏切を渡り右に入り旧道を歩きますと、早速お寺があり「観音寺」の山門前です。山門の説明札が立っていてこの山門は千人同人頭の「中村左京」の家の門を移したものであると言うことです。幕末の終わりか明治に入ってからの移動と思われるが、150年は経っていと思われるが、総欅で立派なものです。

境内に入ると弘法大師の銅像がありますので真言宗と分かります。本堂屋根の上に両側におおきな擬宝珠(ぎぼし)が乗っかっています。本堂に擬宝珠は珍しいかと思いました。

又、国道に戻り「八王子消化器病院」を右に見ながら進みます。この病院はアルバイトをしているとき良く仕事で入りましたが、業者が入るのは厳しかったことを想いだしました。評判は大変良かったようでしたが・・・

過ぎたところから坂道になり、上がりきるところの左は「八王子医療刑務所」です。通称「八刑」と言うそうですが、医療刑務所は全国4か所だそうです。登りきると今度は下りになります。京王線のガードを潜りますと大きな信号は北野街道との交差点です。左に折れて旧道に入ります。湯殿川を渡りJR横浜線の片倉駅を右に見てガード潜るとすぐに川にぶつかる、兵衛川と言う。橋もないし道路がなく進むことができないので川沿いに国道16に出る。この川沿いは両側に桜の木が沢山あり、片倉駅5分ぐらいだし右の丘の上は「片倉城址」があり城址公園のカタクリの花と共にお花見にいかがでしょうか?衛川を渡ると、坂道になります。左に「日本文化大学」がありますが旧道はそのあたりになるのではないかと思いながら無視。この大学名はあまり聞いたことがないので、ちょいと調べてみましたら法学部一本で警察官合格率が10年間大学ではトップとの事でした。片倉の信号を渡ります。この辺り住宅は何もありませんが面白い店が何軒かありました。錦鯉販売、水槽が沢山あって見に入ろうとしましたが「いらっしゃいませ」の声がかかりそうなので止めました。ヨーロッパの高級中古家具、大使館・駐留軍払下げ品販売の店など。左側は、山を切り開いて開校した「東京工科大学」キャンパスです。話は昔になりますが、蒲田駅の近くにあり「東京工科専門学校」だったと思います。時代の波の乗っていたのでしょう。

登りきったところが「御殿峠」です。三叉路の信号があります。車の時は感じませんでしたが2qはあったでしょうか?歩くと結構な急坂できつかった。信号を左に入ると「生糸の道」に行きます。角には「山野美容芸術短期大学」があります。交通便が悪い所で通学が大変?こんどは下り坂となります。右に「八王子日本閣」があり結婚式場ですが1階は高級レストらにもなっていました。この辺りは交通的には不便ですが、インド料理・イタリアン料理・ステーキ屋など高級料理店があります。

国道16号のパイパスを潜って進むと大きな「大法寺」と言う寺がありましたので入って行きました。寺の上は広―イ墓地です。寺が新しいので墓地開発と共に建築したのではないかと思います。日蓮宗です。境内に「斎藤茂吉」の歌の碑があって、これが曹洞宗の永平寺で詠んだもの記してあります。うつし身の 苦しみ(なげ)く心さえ はや淡々(あはあは)し 山のみ寺」歌の内容の説明はどなたかお願いします。但しこの寺の境内には、しだれ桜の木が4〜5本あってその時期には見に来る価値がありそうです。鑓水(やりみず)の信号を渡ると食べ物屋が何軒かあり昼食といたしました。短い坂道を上り、下ったところが「境川」この川は鎌倉街道の時も何回か出会いました。わたると相模原市となります。まず目に入ってきたのが写真のように民家の門です。写真を撮ってから入り口に行きますと次のように説明してありました。

"この長屋門は桁行17.1m梁行4.5m建築年代は近世末と推定されます。軒のセガイは

柱に腕木を?差(ほぞさ)しとする古い形式です。部材は全体に太く、冠木(かぶき)丈は42p、その上に乗る梁は30p" 相模原市登録有形文化財です。中は普通の民家なので入って行けません。近代的な大きな建物が2棟たたっていました。表札が2つありました。

又この回りは、大きな屋敷が沢山あり門構えの家も4軒ほどありました。今まで見てきた中では、このようなところ同姓の家が多いのですが殆どが別姓でした。

中ごろに参道があり大きなお寺があるので入って行きました。曹洞宗「瑞光寺」です。

山門をくぐると目の前に本堂がありまだ新しい。本堂を平成22年に立て替えたとの事

歴史は、八王子の臨済宗の寺から引き継いだものと言うことです。明治まで長い間寺子屋を開設していたとの事。境内には樹齢630年と言う(かや)(のき)大木があり雌木で実が沢山なるようです。本堂は写真撮りませんでしたが、境内の鐘楼の前に「お掃除小僧」がマスクをしていたので写真に納めてきました。

そこを出てしばら歩くと又お寺があり、入りながら橋本駅に向かうことにしました。臨済宗「香福寺」境内に鐘楼もあり、高野(こうや)(まき)の大木がありました。こんなに大きな高野槙は初めてです。小さなお寺ですが歴史を感じます。少々不思議だったのは「瑞光寺」も「香福寺」も山号が「橋本山」でした。今回は珍しく神社も小さな社もまたりませんでした。今日は高田橋まで行きたかったのですが、昼食で休んだ後、少々股関節が故障を起こし始めましたので帰宅といたしました。

第一回完


旧鎌倉街道散歩上道(かみのみち)

          

 

旧鎌倉街道上道(かみつみち)の食べ歩き散歩を鎌倉まで歩いてみることにしました。

一人旅も良かったが今回は仲間と二人で歩くことにしました。簡単なまとめにいたしました。何か参考になることがありましたら幸いです。

鎌倉街道と言いますと、皆さんもどこかで鎌倉街道の標識など目にしていると思います。鎌倉時代、都であった鎌倉にあちらこちらからから鎌倉につながっていたわけです。「いざ鎌倉」はこれから来たのでは?

鎌倉より北方面で、下道(しものみち)は今の水戸街道の延長に近く都内から海側になり、中道(なかのみち)は日光街道及び御成街道の延長になり、上道(かみのみち)は中山道を高崎から日高かを通り府中から町田に抜けて、横浜を通り鎌倉へとつながっていった。

第一回 令和元年116日 晴

聖跡桜ヶ丘〜小野路(宿場)

関戸の信号から旧道に入り、少し歩いたところに熊野神社がありこのお宮の総代の名字が辞書を調べてもパソコンで調べてもない文字で何と読むかわからなかった。

何日か後に仲間の方がしらべて教え頂いた。ここでは手書きになるので記することができないので残念ですが、多摩市役所の前を通り、多摩ニュータウンの中を抜けて、恵泉女子大学の横から山の中に入り小野路へと抜けた。10何年振りかに小野路に来ましたが、びっくりしたのは昔のイメージがほとんどなく、道路を広げて古い建物は一部残してありましたが、町興しで観光的の宿場町になっていた、食べ物からお茶屋からお土産まで扱っている粋なお店が出来ていて、こんな不便なところにお客さん(おばさん達グループとか、年寄り夫婦が多かった)結構来ていた。           

この町にも少し珍しい名前がありました。「()(ごく)、おばさんに訊くと地の方との事。この日は此処まで終わり、バスにて多摩センター駅に戻りモノレールの駅のガード下の「ペッコリ」で昼食をとった。ステーキ定食で1,182円値段の割に美味しかった。

 

第二回 令和元年1116日 晴

小野路〜町田駅

多摩センター駅からバスにて移動、前回と同じく晴天に恵まれました。小野路の宿場出発です。丘の上を歩く形になっております。山を切り開いて高校とかろうあ学校とか市の運動施設などがある、そんなことで旧道の鎌倉街道が途切れていたりして探したり聞いたりで時間がかかる。また一山向こうに大きなマンションがたたっているのが見えた。ちょっと異様な感じがした。

写真の神社は小野路宿を通り越したところにあって平安時代よりの神社「小野神社」歴史的なことは書きせんが、珍しくここの狛犬の雌に大きな子どもがいます。写真でよく見えませんが手の下に小さく映っております。

元に戻ります。一度丘を降りて又次の丘を登っていくと先ほど異様に見えたマンションの脇に来ました。「シーハイハイツ」と言って丘の北面を整地して      

17階の大きな建物が13棟建っている。帰ってから調べてみましたら、デベロパーは伊藤忠商事、ゼネコンは竹中工務店で約1,000戸、バブル時に立てたものなのか中古で安い、交通便を考えず静かに暮らすのなら安いようだしお勧めかもしれない。

販売は不動産会社大手6社の様だ。旧道の道が狭くてわからなくなり少々道を間違えて遠回りとなりましたが、新鎌倉街道と接点の「今井戸」交差点につきました。

新旧の鎌倉街道をしばらくありき「菅原神社」の交差点に来ます。この神社は大きな神社で町田市の守神ようだ。神社に行きませんでしたが、16日(土曜日)なので七五三で賑わっている様子。

左の旧道に入り、市役所の前からJRの町田駅に向かい今日の昼食目的の柿島屋(かきじまや)

に入る。馬肉専門店で100余年の老舗で大変混んでおりました。仲間が馬肉は初めてとの事大変美味しいと絶賛でした。町田にお越しの節は是非のお店です。

平日は夕方から、土・日・祭日は昼からです。

今回は上記のほかに何軒か神社があったが、お寺は見当たらなかった。

 

第三回 令和元年1219日 曇り一時雨

町田駅〜南町田グランベリーパーク駅

旧道がJR町田駅前を通過するので駅に降りてから線路沿いの通りを進みますと旧道は少し歩いたところから右折れて線路(横浜線)を渡ります。渡った所が写真の「町田八幡宮」菅原道真を祭ってあります。東の

「菅原神社」(菅原道真には関係ない)と共に町田の大きな神社のようです。道真が牛を可愛がったと言うことでここには「臥牛像」が二つありました。      

この境内には摂社(せっしゃ)(旧社殿)があり、色々の神様を祭ってありました。

旧道はお宮を取り巻くような道路になっていて少し歩いたところから広くなり、都道56号をしばらく歩くと又狭い旧道になります。杉山神社が2か所にあり、間違いなく旧道だとの実感。実感している先で、地図によると道が突き当っているはずが臨場は大きな道路になって突き抜けている。大きな道路が開通したばかりのよう。

トイレが必要になってきたので、コンビニ声をかけて借りた、店を出ようとしたら雨が降ってきてまった。仲間は折り畳みを持っていたが、私は雨合羽を買う羽目になり河童を身に着けて5分くらいありたら雨がやんでしまった。

先に田園都市線らしき線路が見えるので、横切って線路の下を潜り左に曲がる

大きな「鶴舞公園」がありその隣が「グリンベリーモール」やたらと広く大きい

少し見て回ったが、金が無い者と、年寄りには関係のない所の様だ。それにしても平日なのに混んでいるのにはびっくり。昼食時となったので探して歩いたが、和食、中華食店は何もなし、スイーツ屋と洋食屋ばかりです。それもすべての店が外に並んで待っている、これもびっくりです。

又、ここには「スヌーピーミュージアム」が青山からこちらに引っ越してこのモールにあるとテレビでやっていたが、興味はありませんあ見つけたのですがちょっと見当たらなかった。

地図を見るとここの駅は「南町田駅」となっているが今はこのモールのための駅となっており「南町田グリーンパーク駅」と名前が変わっていました。

しょうがないから長津田駅に出たががここは駅前に食堂などはなにもなし。仕方がないので町田まで戻り「南国軒」と言う中華店に入りました。餃子とタンメンがセットで870円、これがとても美味しかったがタンメンの量が多くて、仲間はペロリとたいらげたが、私は食べきれずに残した。それでも食べ過ぎて3日間胃の調子が悪かった。

ひとまず今年は此処で終わりにして来年春に歩きたいと思っております。

 

第四回  令和236日(金曜日)天気晴 14

                       本日の 歩行距離19q

南町田グランペリーパーク駅〜ゆめが丘駅

今日は一人。ウイルスで電車もガラガラ、降り立ったグランペリーパークモールもガラガラです。隣接している大きな「鶴間公園」リニュアルした様で樹木は古いが公園が新しく感じて気持ちが良い。中を横切って道路に出て地図で見る、目やすである「鶴間小学校」が見えない。通りがけの中学生3人に訊く、丁寧に教えてくれた。場所が一段下がった所にあったので近くに来ていたが見えなかった。

脇を通り越して次の目安が「東京女学館大学」。学校がなくなっている。

長谷工コーポレーションが敷地のすべてにマンション600戸の工事が始まった所です。聞いたことのない大学なので帰宅後調べてみると、都内の広尾に中学校・高校とある様で偏差値も高いとのこと。以前は短大で大学にしていたが閉校なったとの事です。国道246号陸橋を渡り245号道路と並行に進む、町田市と別れて横浜瀬谷区に入る五貫目の信号を過ぎたところが有名な「目黒の交差点」この信号は昔、関東混雑信号ベスト3に入っていた。246号が立体なったが渡った所にもう一つ県道の交差点があるので大変な渋滞になっていた。

その信号を左に折れて県道401号を進む。左に大きな建物があるのでなんだと思って門の所に行くと「日本経済新聞」第二印刷工場だった。

「名高速道路」のガードを潜った所に神社があるので階段を上がってみた。

若宮八幡宮」東名高速の工事でここに移したと記されてある。公園が隣接していた桜の木が沢山あり花見には良いかと思う。

直ぐに「王様の湯」がります。私の自宅の近くにもあり、時たま行くのですがこちらは天然温泉になっています。

この辺りから旧鎌倉街道に入るはずだと思い小さな道だが右斜めの進むとすぐにお寺があったので間違いなし「妙興寺」がありすぐに又「禅昌寺」があり、そこを過ぎると、急に左右に大きな門替えの大きなお屋敷が何軒もあり、中間どころに

「瀬谷銀行跡」の立札がある。門構えで中に入れない。人は住んでいないと思うが大きな屋敷だ。小島家としてある。

この辺りは明治40年ごろ養蚕盛んで製糸工場もあり江戸中期より続いている小島家は代々「政五郎」を名乗り瀬谷銀行を明治40年に創業され、30年に渡り地域金融事業の中心となり、実業界・政界に大きな影響を与えるとともに地域の発展に貢献した。又大きなケヤキ並木が続いている。大きな屋敷の中にも、相続者がいないのか管理しきれないのか?住宅の分譲の立札が立っていた。それを見るとその敷地内に20軒の分譲と16軒の分譲があった。いいかに広い敷地かがわかる。その部落を過ぎたところに「日枝神社」があるので入る。写真だと何の木かわからないが、35m以上ある銀杏の木でした。何にも手入れをいていないのでこのようになったとの説明、葉がないとそばで見ても銀杏に見えなかった。

通りの表札もよく見て歩きますが、今回もおもしろい名字です。何と読むのか少々わかりませんのでご存知の方がありましたらお教え願います「佐別当」。昔、プロ野球に「別当薫」(べっとうかおる)と言う強打者がいました。だから「さべっとう」と言うのでしょうか?県道10号線の信号に来ました。昼時でしたので角の「瀬谷そば・うどん」と言う店に入りました。お薦めは大根そば・大根うどんとの事。地元では暖簾の様です。お客さんは地元の方が多いようでそのためにご飯ものの定食もやっていました。私は海老天ぷらうどん食べました。かつおだしが良くきいていておいしかった。このキャッチフレーズが「エビ天食べたい人は、このエビとまれ」でした。信号を渡りしばらく歩くと「西福寺」と言うお寺があり、この寺にくっついている神社がありました。かたちは神社仏閣が一緒になっている。この神社()馬社(ばしゃ)と言う珍しいなまえ、ここは珍しく「梵鐘(ぼんしょう)」のある神社です。この神社は境川沿いに藤沢にかけて鯖・佐波・佐馬などの七つ名前になっていて、祈願に七サバ社(小さなもまで入れると12社あるとの事)をめぐると「麻疹(はしか)疱瘡(ほうそう)・百日咳」に効くとの事でした。祭ってあるのは「源左馬守義朝」中原街道の信号に来ますと角に「宗川寺」と言うお寺に入りますと山門の両脇に大きな銀杏の木があり夫婦銀杏と言うそうですが、枝を全部落としてしまって丸坊主。

本堂の両脇に大きな枝垂れ桜があり、季節に来ればきれいな桜がみられると思います。中原街道を渡って少し歩くと又右側に大きなお寺があったので表に回るのが面倒でお墓の中を通り境内に入る。写真は仁王門ですが本堂は大きかった。表の山門に来て寺名前を見ると「日蓮宗本山本興寺」となっている。日蓮の愛弟子で本山の許しを受けていたとの事。寺を過ぎて鎌倉街道は一旦環状4号線と交わります。坂道を上がった所を右に4号線と別れます。道路を広くしてしまい、歴史に残るものは何もないと言うことか。道路の両側は大きな造園屋さんが何軒かありました。道路は「東海道新幹線」の陸橋に来ました。上から新幹線を見たことがないので5分ほど立ち止まりました。上り下りの列車がものすごいスピード走っていきました。ひたすら相鉄いずみ野線の「ゆめが丘駅」に歩きました。

今回は案外と旧鎌倉街道わかりやすかったが、それでも2回ほど道を間違えた。

3差路などの道の真ん中に道祖神・庚申塚・お地蔵などが何か所もあって助かった。

生活道路とが十字路になっているところは分かり安いのですがYの字の所は生活道路のほうが使用度が高いので間違えやすい。又、今回は今までと違いお寺が多く、規模も大きかった。

 

 

第五回 令和2319日(木曜日)天気 晴 21

                       本日歩行距離 17q

 ゆめが丘駅〜湘南深沢駅

ゆめが丘駅で降りたのは23人だけ、周りに何もなく大きく造成をしているところです。その中を通り旧鎌倉街道にでる。出たところに前回に書きました「左馬社」があった。県道ではないですが結構車が通る。相模鉄道いずみ野線のガード潜った所に小さな富士塚公園があり大きな石碑あるので見に行くと「富士塚城址」としてある。形跡はないが小さな城があったのでしょう。鎌倉街道の何か役目があった

のか?少し歩いたところにお宮の鳥居と寺の山門が並んで立っている神社は「琴平神社」寺は「東泉寺」神社仏閣が一緒になっているのは珍しい。山門の両側に横浜市の指定銘木になっている銀杏の木がある(500600年になるかと思う)左側は枯れてしまったらしく切り倒されて根子だけが残っていた。相模国八十八か所巡りの札所(59番目)になっていた。境内には芭蕉の弟子で「美濃(しゅん)(こう)」の句「人もかく 老いて秋たつ 眉毛(まゆげ)(かな)」の碑もありました。県道の下飯田の信号を渡り林の脇を過ぎたところで急に前が開けている。道路から真下に公園がある「境川遊水公園」と記してある。まだ新しい公園で、テニスコートが5面、サッカー場が一面、野球場が2面あり大きな駐車場も完備されている。東京の高尾山の方から流れている境川がこの辺りまで来ると大きな川になっていて、もう一つ小さな川と合流しているところに大きな沼地がありそれを埋め立てだろうと思います。右側を見ながら歩いているうち境川の脇に来てしまった。見て歩いているうちに道を間違えたらしい。少し遠回りをしてしまった。それらしき道に来ると神社があったので間違いなし。左の丘の上に高い建物が見える、こんなところにと思って地図をよく見ると、どうも「横浜薬科大学」の建物らしい。「俣野観音堂」の信号に来ました。この観音堂は小さいが交差点の名前にまでなっているのできっと有名な観音堂などであろう。鍵がかかっていて境に入れなかった。

信号を渡ろうとしたら、その先は明治学院大学のグラウンドになっている。鎌倉街道はどこに行っていしまったのか?先の信号渡りグランドの脇を少し歩くと、それらしき道路に来た。田んぼの中を歩いていると又わからなくなった交差点、丘の上の方に神社らしき建物が見えるが遠回りになるので真っすぐ進む。坂道を上がり少し進んだところに、鳥居、道祖神、庚申塚などある交差点に来た。

やはり少し道を間違えてカットしてしまったようだ。旧鎌倉街道の説明の立札があり鎌倉街道であることを示してくれていた。右手に大きな「俣野中央公園」の脇を通り、長いだらだら坂を歩いていて、おばあさんに訊き間違いなく街道を歩いていることを確認する。登りきると、おばあさんが教えてくれたヤマト運輸の建物にきた。それを過ぎたところが国道1号線(東海道)の交差点「藤沢パイパス出口」ここに来て思い出しました。箱根駅伝を歩いた時、旧東海道と国道一号線の分かれ道です。歩道橋を渡って旧東海道(県道30号線)に進みますとすぐに藤沢市に入りました。駅伝はこちらを走ります。1週間後に来れば桜並木の満開が見られたでしょう。旧名が残っている「鉄砲宿」を過ぎて昼食をとりことにしました。「シンドニ」と言う焼肉及び韓国料理屋です。中に入る綺麗で高級感があり価格も手ごろでした。交通便の悪い所であり平日なのに結構お客が入っていました。地元のお客さんに人気がある様な感じです。ゆっくりした食事をすませて店を出ました。桜並木の続きを進んで大きな信号を左に進みます。長い坂道を降りると大きな信号があり渡った所を過ぎて斜めに上がる道に入ります。旧道なので狭くなっている、下ってきた分だけこんどは上がります。登り切ったら中学校にぶつかってしまった。

丁度、卒業式から帰ってきた親子に道を教えて頂き、進むことができました。目やすだった大きなスーパー「オリンピック」があり其の脇の道路を上がる予定だったが、隣に大きなお寺があるので見学をする。(てん)嶽院(がくいん)大きな禅寺、敷地も相当広い、案内によると鎌倉時代までは真言宗で「不動院」と言った。鎌倉幕府が倒れた後は曹洞宗に変わり今の名前になった。仁王門の右側には大きな観音像も立っています。左の方には六地蔵がありました。左から、いきいき・すくすく・にこにこ・ふくふく・らくらく・ほかほか・地蔵です。(写真が小さくて字が見えない)戻って脇の道を上がっていけばよかったのですが、お寺を過ぎて廻っていけばそちらの道と合流するだろう思ったのが間違いのもと。迷いに迷よってしましたが何とか東海道線の陸橋を渡ることができた。どうも路地を一つ間違えていたようだ。薬局の姉さんに訊いて旧鎌倉街道に戻りモノレールの「湘南深沢駅」到着大船に出て、藤沢より小田急で帰る。こんな時期だったが大船駅も、藤沢駅とすごくにぎやかな人出でした。東海道線も混んでいてびっくりでした。

第六回 令和21020日(曜日)天気 晴 19

 

湘南深沢〜鎌倉八幡宮               11q

 

モノレール湘南深沢駅出発が940分です。駅の西側が大きな空き地に成っていて前回帰るとき何の空き地だろうとおもっていた。9月のテレビで鎌倉市の市役所が出る予定で、市民が大反対をしている放送だった。空き地の外れは藤沢市となる。市民とすると市役所が市の外れになるので遠い人が多くなると言う反対とのこと。この空き地は元国鉄(JR東日本)の工場の跡地だったようだ。

富士見小学校前の信号の先を右に折れて、旧鎌倉街道に入る。すぐに「大慶寺」(臨済宗)の山門の前に来る。山門が珍しく茅葺屋根で「関東十刹」の一つ十刹については後で記す)この辺りは寺分大工谷と言われた。鎌倉時代、大慶寺はじめ周りの寺の修復をした工匠が住んでいたとのこと。今も町名が寺分(てらぶん)1~3丁目)で残っている。出てすぐに又お寺があった。真言宗 で「東光寺」関東八十八巡礼の一つになっていて、弘法大師も立ち寄っている言うこと弘法大使の立派な像がありました。小さいが有名なお寺?かもしれない。

お寺を過ぎると急坂になる左に折れて、右に市立深沢中学校を見ながら坂道を上がる、地図で見るとき坂道は分からないのでこう言うときペースがくるってくる。学校を過ぎて前を見ると急坂が続いています。

両側は、何年も前に高級分譲住宅だったのでしょう。大きなうちばかりですが年月が経っているので、2世帯住宅が多い、苗字が違うのでマスオさんが多いのかも、500mほどあったでしょうか?登りきったところで地図を見た。

道を間違えたようだ。調べていく地図は拡大したりするので、距離の感覚がくるってしまう。学校の所まで戻り、一本右の道路を又上がりきった。ここからは

「山の上通り」を歩く、高級住宅街が終わるころ一軒の住宅を改造したフランス料理店があった。高級な感じがする。但しこの道路は地元の人しか通らない感じなので、ほとんどが予約客だろうと思えました。

高級住宅街が終わると道路のアップダウンが激しくなってくる。左は山で高い所まで家が建っている。玄関は山の向こうを廻っていくのだと思いますが、道路側からも長い階段がついている。階段を下りたところに自転車が置いてあるのだが、ちょっと町に出るときは階段を下りてきて自転車で・・・と言うことだろうと思う。道路の右を見降ろすと深い谷が見えてやはり家が建っている。日が差しても半分ぐらいでしょう。ここまでしても鎌倉に住みたいのだろうか?

それを過ぎると右側が有名な「源氏山公園」が地図を見ながら、進んでいると

大きな三叉路の信号にぶつかった。

右に曲がり、鎌倉駅方面に向かって進むとすぐに「北鎌倉駅」だ、あれどこで道を間違えたのだろう。間違えたところが分からなくなってしまったので、駅に隣接している臨済宗大本山「円覚寺(えんがくじ)に入った。入場料金300円を払い山門を通り本堂にて拝み、入場料を払っているのでお賽銭は気持ちだけ、大きなお寺の割には本堂小さく感じた。本堂の両脇にお寺には珍しい「ビャクシン」大木が鎮座している、広い境内を少し散策して山門をカメラに収め、後にする。         横須賀線の踏切を渡り道路に出る。やはり鎌倉だ、結構人が歩いていて、(いき)なお店がたべ物屋ともども両側にあります。

歩記はじめてすぐの所に、臨済宗円覚寺派「東慶寺(とうけいじ)と言うお寺があり中に入って行きませんでしたが、このお寺は北条時宗の奥さんが、尼寺として建創して駆け込み寺とした。との説明でした。しばらく歩いて踏切を渡ると又大きなお寺。円覚寺はよく聞きますが、私としてはあまり聞いたことのない名前。

臨済宗大本山「建長寺」です。案内図を見ても円覚寺より境内が広いようです。

時間がないので中に入りませんでしたが入場料が500円となっていました。円覚寺より高いので格式が上なのか?見るべきものが多いのか?創建はこちらの方が何十年か早いようですが。どちらも北条家なのと、こんな近きに大本山が2つもあることに少々ビックリ。この二つをうまく説明ができる方乞う。

1ページにありました「関東(鎌倉)十刹」について、これは臨済宗だけが使う言葉で、京都十刹とか奈良十刹と大本山がありその周りの十のお寺の事だそうです。結構十のお寺は権威があったのでしょう。鎌倉は円覚寺派、建長寺派合わせて十刹だったとの事です

刹とは寺と言うこと漢語林出ていました。

道路に帰り、トンネル抜けて下った所から階段を上がると。鶴岡八幡宮八幡神社本宮の裏手に出た。表に回ってお参りをして階段を下りて神木であった台風で倒れてしまった銀杏の切り株を見ると、小さな何本かの芽が出ていいましたが、脇の方に改めて植えた2世の銀杏がありました。もう何年も経っていると思いますが、まだ幹は細かった。此処からは、あまり知らないことについて期します。写真の石は「よしべい石」と言います。途中のトイレの前にありますが、鎌倉の飯島海岸で、感動大震災の際、海底が隆起して出てきた石です。事故の多い海岸で縁起を担いで漁師たちが神社の境内に収めた。太鼓橋を渡るとそこからは石燈籠の参道になります。400500くらいあるでしょうか。写真は「二の鳥居」の下から神社に向かって撮った写真です。これは鳥居の所から太鼓橋の所までが道の広さが違います。これは攻められたとき遠く感じさせるために手前を広く奥を狭くしてあります。とテレビで説明をしておりましたが、私の考えでは先が狭くなっているので窮屈になりスピードが落ちる事もあるのではないかと思います。ちなみにメジャーを持って行って測ってみまし                                                た。手前が4,8m、奥が3.0mでした。1.8m(1間)違いでした。2の鳥居の脇に「豊島屋本店」があり鳩サブレを土産に買って、旧鎌倉街道上の道はこれで終わりです。感想は歴史が古いため道が途中で切れていたり、狭い所があり、交差するとこで間違える、地図を見ることに時間を取られました。鎌倉は456年?ぶりでした。

(追記)この歩記は、グルメも兼ねておりましたが、途中では1~2軒しか食べれませんでしたが鎌倉は良く調べたり、テレビで見ていて控えて置いたりした中から食べてきました。

住所等記しておきます。鎌倉に行かれたら参考にしてください。

(やま)(すけ)本店この店の歴史については、そもそも「しらす」の卸問屋で、いまだにシラスをはじめ店頭でいろいろな魚類(加工物が多い)を売っていて、食堂は店の奥になります。私の食べたのは、シラス釜揚げと生本マグロのミックス丼です。マグは切り身が大きくて厚い、赤みも中トロも大トロも美味しかった。価格も手ごろでした。欠点が混んでいませんでしたが30分ぐらい待たされる。

倉市御成町78(御成通り) 鎌倉駅(西口)から3分。東京にも支店があります。

もう一軒参考に

「津久井(お好み焼き)」西口駅前 「お米焼」きが有名 。お米のお好み焼きバージョンです。

帰りは、鎌倉から藤沢まで全線「江ノ電」に乗ったことがなかったので乗りたかったのですが、横浜に用事があり残念でありました。

神奈川で機会があったら横浜の芝漁港の「穴子丼」のダブルを食べたいと思っています。

                            旧鎌倉街道完 



旧川越街道の歩記第四回添付いたします。
長い間、私のつたない「歩記」にお付き合いいただき有難うございました。
一つの宿場のある街道を完歩することはこれを最後にしたいと思っております。
今まででも
NPO東京ウォーキング協会・財団法人日本ウォーキング協会のイベントに参加して楽しんで来ましたのでそちらに重点を置いて、自宅に近い鎌倉街道・大山街道な
ぶらぶら食べ歩きをしながら到着の際はお参り、見学をしたいと思います。
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2019年春「旧川越街道」歩記です

旧川越街道歩記

                   歩記者 林 厚男

第四回

 平成31年4月12日(金曜日)        天気曇り 温度 12

大井宿〜川越宿            地図距離8q 歩行距離15.5q


上福岡駅に降りて川越街道に出て出発です。緑地帯の銀杏並木が少しあって、終わった所が旧道に分かれます。そこの信号の先からが川越市となります。ここからの旧道は市道になります。「川越宿」まで宿場はないので、途中の神社仏閣は全て立ち寄るつもりでおりましたら、三叉路の左にもう神社がありました。参道の入り口に神社とは別に大きな「厄除け地蔵尊」あります。

「鶴が丘八幡宮神社」小さな社でしたが結構古いようで石の鳥居は頭に当たるかと思うほど低かった。この神社は住所的にはふじみ野市に入る様です。

神社を出ると藤間地域になってきましたが、この辺りは昔村の中心地であったのでしょうか、大きな屋敷ばかりです。有山・沢田・新井の姓が多い、中ごろに来た時「新井本家」(現在は煎餅を作っているらしい)があってそこに小さな石碑が立っているので見ると「藤馬宿」(宿場は藤馬、現在住所は藤間)跡としてある。説明札があるが古くて字が見えなかった。

帰ってきてから調べてみると、どうも大井宿と川越宿の中間にあったようだ。それも上宿・中宿・下宿とあったとの事。バス停も藤間下・藤間中・藤間上とあった。宿場の外れになるだろうか「東光寺」,寺は小さいが山門は立派でした。幼稚園の経営をしていて名前も東光幼稚園。茅の大木がありました。東光寺を過ぎると「砂新田」地域に入ってきました。「砂新田春日神社」案外新し歴史の神社の説明ですが、中の本殿の彫刻が文化財としてあります。小さな窓から中が見えませんでした。ここの境内にて一休みをいたしました。歩き始めと大きな菩薩が立っています。「開明地蔵大菩薩」この地蔵は首切り菩薩と言って川越藩の処刑場にあったものをここに江戸中期に移したとの事です。ここ砂新田も大きな屋敷があります。小峰の姓が多くみられました。

大きな洋館風のお屋敷があった。何かきっと名の知れた人かもしれないと思って控えてきました「鈴木英明」としてありました。調べてみますと、私は学がないのでわかりませんが、その方では有名な彫刻家らしいのですが、間違っていたらごめんなさい。詳し方がおりましたらお知らせください。

「不老川」を渡ると岸町地域となりますが、川を渡った所から旧川越になるのでしょうか急に川越宿の一部らしき建物があります。中は見えませんがデイサービスセンターになっていました。市の経営なのでしょうパンフレットがあったので読んでみますと通所介護(要介護1〜5)自己負担1〜3割だそうです。 

そこを過ぎると坂道に差し掛かります。立札が立っていて市の指定史跡烏頭坂(うとうさか)

新河岸川船が盛んのころ岸町から荷物を問屋街に運ぶのに必ず通らなければならないところで難所だった「うとう坂 こえて苦しき行く末を やすかたとなく 鳥の音もかな」と歌が残っている。すぐ隣に階段があり上がっていくと「熊野神社」です。神社の写真ではつまらないので境内にあったものを映してきました。横の立札には子宝に恵まれろとしてありました。大きなものをぶら下げていたので子宝間違いないと思います。

神社から降りて、登り切った所が5差路の複雑な信号,国道254選はこの交差点が終点です。よく地図を見て斜めにわたり、東武線の陸橋を渡ると町なかに入ってきました。ここからは旧川越街道は県道39号線になります。この道路をひたすら歩きます。東武線の川越駅入り口を過ぎたところに神社入り口の案内,入っていくと「川越八幡宮」です。歴史は古いようで神主も巫女さんもいて川越では大きな神社ではないか。縁結び、夫婦円満、特に足腰しにきく神様だそうです。街道に戻ります。城下町の街道には必ずあるクランク道路を過ぎて、大きな信号を右に曲がります。終点行く前に立ち寄りたいところがありました。川越大師「喜多院」初めて知ったのですが、地図を見ると敷地が広いようなので大きなお寺だろうと見たからです。曲がってからすこし歩きました。参道の入りの右側には「成田山新勝寺」の別院がありました。これも大きな建物です。参道が突き当たった所が目的地、これは家康が訪れたときに、建築を支持して「喜多院」と名づけた。その後大火にあって、三代将軍家光が再建した。家光の乳母であった「春日局」の部屋があるとの説明です。広い敷地の中に「東照宮」「日枝神社」「五百羅漢」「大黒天」などがあった。ボランティアのおばさんに町の見学などについて聞き、ここを後にして先ほどの交差点に戻った。又、道路が大きなクランクになる。ここは江戸時代には(かぎ)の手と言って跡が現在保存されていた。ここから終点の大手門跡までが江戸に出発する起点となり、江戸町の地名であった(現在は大手町)信号が来て渡った所が市役所で市役所の脇に「大手門跡」の碑が立っていて旧川越街道はここが終点です。川越城は市役所を正面に見て右に行ったところですが行きませんでした「川越城本丸御殿」があり県の指定文化財の様です。「旧川越街道歩記」も終了したので、戴いて来た観光案内地図広げて見学に入るため札の辻の信号に向かいました。信号を左に曲がると写真のような通りとなります。この通りは「一番街(蔵通り)」と言って昔蔵だったところです。人通りが少ない所を狙って写真を撮りました。少し進んだところを左に入ったとこ所に「時の鐘」が立っています。蔵通りと並んで川越の象徴です初めは江戸時代の初期に建てられたが何回か火災に遭って建て替えられ現在のものは明治26年川越大火の翌年に再建され、薬師神社の門として高さ16メートルが建っていました。観光案内を見るとこの周りにはやたらと寺があります。きっと各大名の菩提寺になっているのではないかと思われる。昼食時期になったので、寺には寄らず昼食の店探し、と言ってもウナギを食べるつもりでいたので探しましたが何軒もあってどこにしようかと迷いました。昼食を済ませ「大正浪漫通り」を見ながら駅方面に向かいました。通りの終わりに「熊野神社」があったので入ってみますと境内に「山車」の格納庫がありました。街中を歩いているときも何か所か「山車」の格納庫がありましたが、記憶によると各町内の山車が出て有名な祭りがあったことを思い出した。神社を過ぎると古い街並みも終わりとなります。

最後の所に(れん)馨寺(けいじ)と言う結構大きなお寺がありましたので、今日の無事完歩のお礼し、寺を後にして西武線の本川越駅に向かい帰路につきまいた。

余談ですが皆さんも一度、小江戸と言われる川越の町にいかがでしょうか?平日でも結構な人通りですので休日は大変混むと思います。平日をお勧めです。私は今日、街道は8q残っていただけですが、町の一部を見学しただけなのに倍近い距離となってしまいました。一日を予定してくれば結構な見学ができるしょう。

駅で降りたら真っすぐ進むだけである、西武線を利用された方が便利で楽でしょう。

 

     

                旧川越街道完

 

 

                                   

第三回 

平成31326日                天気 曇後晴 温度18

成増駅〜白子宿〜膝折宿〜大和田宿〜大井宿 地図距離19.5q  歩行距離23q

東上線成増駅より川越街道(国道245号と同行)に出て物の300mも歩くと245号と別れて旧川越街道右に平行的に進みます。急な下り坂新田坂(しんでんさか)に差し掛かり(写真の後ろに坂の勾配が分かります)「子育て地蔵」の旗が立っていたので入ってみると(地蔵は写真の一番奥)説明によるとこの辺りの石像をここに集めたとの事。常夜灯・庚申塚などがうかがえます。脇に皇太子(平成天皇)の御降誕(ごこうたん)の碑が立っていました。坂を下り切った所に「新田宿八坂神社」があります。この神社は京都の八坂神社より 勧請(かんじょう)されたものとの説明です。このところからわずかの距離ですがここから白子川までが「新田宿」だったようです。白子川を渡りますが「白子橋」の欄干に童謡の「くつが鳴る」を刻んだ銅版が埋め込んでありました。帰ってから調べてみると作詞家の「清水かつら」が4歳で実母をなくし義母に育てられたが関東大震災で疎開した先が、義母の実家のある白子村で生涯を過ごした。との事で納得。川までは東京都板橋区で川を渡ると「白子宿」埼玉県和光市になります。

渡った所から旧川越街道は県道109号線です。突き当りの信号を左に折れ進みますと右に大きな屋敷があって蔵が3蔵もある。この宿場の要になっていたのではないかと思われる。宿場は此処で終わりです。急坂を上り始めると左の看板です。湧水が出ていて宿場の大事な水だった。坂は大坂と言う名前です。」80mぐらいの長さですが勾配のきつい坂でした。登り終へた所は全て住宅街ですが、下の湧水はどこから来るのでしょう?

新しい道路が出来て、地図にない複雑な信号で10分ほど迷いそうになってしまった。下に東京外環道がありそれに付随した道路が出来ていたので迷いました。何とか109号に戻ることができた。ここからは真っすぐ歩くのみ。和光市を過ぎて朝霞市に入ってきます。朝霞警察の前を過ぎると下り坂になります。進んで行くと国道245号と接近しますが旧道は右にカーブをして「(ひざ)(おり)宿(しゅく)へと進みます。右奥に「一乗院」と言うお寺がありましたので入りました。このお寺は建物が火事などで新しいが歴史は古いようで、明治の初めには小学校として使用したり、役場とも使用していた説明です。膝折村の要であったようです。街道に戻ります。少し進んだところに郵便局があってここが本陣跡の立札があった。

その斜め前にあったのが膝折宿の脇本陣です。「高麗家住宅」18世紀末に立てられた重要建物です。人は住んでいません。説明によるとこの宿場は室町時代からの宿場で、江戸時代末には民家が立ち並び地方の商業の中心として栄えたとの事。今は駅も遠くさびれてしまっています。この建物の隣が門構えの大邸宅がありますが、現在の高麗家の建物ではないかと思います。ここを過ぎて旧道は109号と別れて左に曲がり結構大きな川で「黒目川」渡ります。渡った所に宿場らしき建物があるのでここまで宿場は続いていた模様。坂道を上がっていくと109号線と合流します。坂道を上がったあたりから「新座市」に入ってきました。野火止と言う地域名に入ってきましたが「野火止用水」で知られた名前です。小平市の玉川上水より引いている。水路は見当たりませんでしたが今でも水が流れていると思います。小平市も青梅街道沿いの民家は広い敷地に大きな住宅、ここ野火止も同じく広い敷地と大きな住宅が街道の両側に何軒もあります。水の力が大きいことを感じます。「横町の六地蔵」とありましたので写真に収めてみました。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)に迷いを転ずる人々を救う菩薩としてありました。ここを過ぎると大きな交差点がありそこに平林寺の石碑が立っています。「平林寺」の参道の入り口になる印有名なお寺です。もともとは岩槻市にあったものを川越城主の「松平信綱」がここ野火止に移したと記されております。秋の紅葉時はとくに素晴らしいと聞いております。1回如何でしょうか?見る価値がある様です。豪農の家々はどんな苗字が多いか見ながら歩きます。新井・森田などが何軒かありその他は結構バラバラでした。ご当地の鎮守「神明神社」に参拝をいたしました。稲荷神社もありました。武蔵野線のガード潜って行きますと大きな馬頭観音があります。これは主人に忠実な名馬(おに)鹿毛(かげ)を忍んで立てた観音です。ここから何もないのでもくもく歩きます。

何キロか歩きますと、「大和田宿」につきましたが、ここの宿場はそれらしきものが何もありません。宿場を過ぎると国道254と合流です。結構大きな「柳瀬川」を渡ると国道463号との大きなインターチェンジになっている。インターチェンジに来ると歩道は遠回りになるから苦労する。254号は此処まで片側2車線だったのが急に一車線となりました。坂道を上がった所が「跡見学園女子大学」です。歴史のある大学と聞いているが、こんな不便なところに何部があるのだろうか?

大学を左に見て通り越すと、三芳町になり、川越街道で有名な道路の緑地帯のケヤキ並木です。道路の両側にもケヤキ並木になっている。古い大木もあるが年数の低い幹も見られる。新芽が少し出てきました。芽吹き終わるとまぶしいくらいの緑が鮮やかになることでしょうが、秋を過ぎた落ち葉が大変になることが想像される。3キロ近くの並木がいったん終わった所で昼食をとりました。食事が終わって歩き始めると、歩いて来た割には快適でビックリ。体重を減らしたのが功を奏したのか?道路の向こうにお寺が見えるので渡って入っていく「廣源寺」と言う寺で明治の初めにここも小学校が開校されたとある。このお寺の珍しいのは、仁王様は普通、山門の両側に立っているのだが、本堂の両側に立っている、初めてのケースでした。お参りを済ませ街道に戻り、街道を進みます。大きな藤久保の信号を超えると緑地帯があり今度は赤松の並木です。赤松は排気ガスに弱いのでだいぶケヤキなどに植え替えられています。並木が終わると「ふじみ野市」に入ってきました。

ここは昔の大井町です。「大井宿」に入ってきました。直ぐに「徳性寺」と言うお寺があるので入りましたが、ここは石佛関係が沢山並んでいる寺で宿場のかなめであったようです。

寺を過ぎたところに「大井宿本陣跡地」の碑が立つていて、僅かのそれらしきものが残っていた。本陣があったが、当時は小休と人馬の継ぎ立てだけ行われていた。明治に入って3度の大火にあって、宿場の街並みは消失してしまった。

そこを過ぎると大井第1小学校の1画に、元大井町役場の建物が残されていて、国の登録有形文化財となっています。建物は使用されていません。写真で見るとよくわかりませんが木造の古い建物です。昔大井町の中心部であったようです。中に入ることはできません。

中心部を過ぎたところに「地蔵院」と言うお寺がり、中に入りま せんでしたが枝垂れ桜が咲いていて、何組かがお花見をやっていました。このお寺は枝垂れ桜が有名なのでしょう。又すぐ先になりますが亀久保の信号の所に「亀久保神明神社」の祠が見えました。寄りませんでした。又緑地帯の並木道になります。今度は全てが銀杏並木になっています。よくわかりませんが、銀杏はギンナンのならない、オスの木ばかりあると願っています。並木の途中ですが上福岡駅の案内板がありましたので途中ですが、駅に向かって帰途につきました。

                   第三回完          

2

平成31年3月13日(水曜日)            天気 晴  温度18

庚申塚〜平尾宿(板橋宿)〜上板橋宿〜下練馬宿〜成増駅  歩行距離12.5q


 眞性寺と六江戸地蔵尊

    (鴨さざえ)

   亀の子束子本店

   アーケードハッピー大山朱店街 

     下頭橋

   練馬区唯一の下練馬宿

   富士嶽神社と富士塚 

都電の庚申塚駅に降りても巣鴨駅でおりても、時間的にあまり変わらないので巣鴨駅に降りてもう一度「巣鴨とげぬき地蔵通り」を歩くことにいたしました。商店街に入る入り口左に大きな地蔵尊のある「江戸六地蔵尊眞性寺」をお参りして商店街にはいって「高岩寺」「とげぬき地蔵」にお水をかけて、とげを抜いて?来ました。流石に今日は、縁日でもない平日なのでお地蔵さんにはおばさんが一人いただけでした。商店街も人が少なく先日歩いた時と違ってあっと言う間に出口につきました。出口に右側に「猿田彦大神庚申堂」がありこれもお参りをいたしました。出てきて信号を渡る、ここからは「庚申塚商店街」となるが渡った所の1つ目のお店が「うな菊」と言う地蔵通りの有名なウナギ屋さんです。前回探しても見つからないはずです。地蔵通りでなく、庚申塚商店街に属していた。都電の踏切を渡っても商店街は続いております。都電に乗って国道17号線を超えて行ったところにお寺が10寺ほど集中しており、その中にはお岩さんのお墓、遠山金四郎の墓、芥川龍之介親子の墓などがいくつかのお寺に点在してあるとの事。こちらにお出かけの節はどうぞ。進んで行きすと右側に古い建物が見えますので前にいってみますと「東京種苗梶vと書いてあります。江戸時代から種子を扱っていたようで、建物は明治初期のものでその当時は相当手広くやっていたのではないかと建物からうかがえます。現在は商売はやっていなくて、豊島区の需要文化財。そこを過ぎたところで目の前に八角形の不思議な建物が見えてきました。宗教臭いが入っていく「すがも(おう)(だい)観音堂(かんのんどう)としてあります入場無料としてあるので入りました。中の回路は往路と復路が交わらない二重螺旋構造になっていた。どうも何だかわからないと思って周りを見ると大きな建物が6〜7    見えます。ここは「大正大学」でした。この大学は仏教大学から始まっていたことは知って いたので納得。ここで庚申塚商店街は終わりで明治通りの信号を渡ると北区に入り「滝野川銀座通り」となっていますが、銀座は昔のことで大変寂しいものになっています。中間地点のあたりに来ると大正時代の建物があり、看板が出ているので建物の前に行くと「亀の子束子西尾商店本店」となっている。明治40年の創業だそうです。テレビで何回か和歌山工場は見たことがあります。本店だけあって裏には大きな倉庫があり、その他敷地も広かった。正面を覗くと中では束子その他を陳列してあり販売も行っている様でした。埼京線の踏切に来ると、滝野川銀座も終わりです。左がすぐに板橋駅となりますが、昔は「池袋、赤羽線」と言っていたような気が致します。地図を見ると板橋駅の南口には「近藤勇」の墓とありますが、見に行きませんでした。踏切を渡ると板橋区に入り「平尾宿(板橋宿)」です。面影は何もありません。平尾宿の手旗が各街灯に縛りつけてあるだけです。通りが終わると国道17と合流になり、板橋郵便局の前を通り過ぎて行くと、何も面影はありませんが「平尾追分」となり。中山道と別れて、ここからが「旧川越街道」です。山手通りの信号を渡りますと、駅より東側の「遊座大山商店街」こちらはアーケードになっていませんが朝から結構人出があります。5600mほどあるかと思います。東上線の踏切を渡ると今度は「ハッピー大山商店街」となり5600mアーケードになっています。

スーパーの前に椅子が何個か置いてあるのでお茶を買って水分補強に一休みをしました。アーケードの商店街を抜けたところが国道254(新川越街道)と合流です。254号は池袋からきております。合流地点に大山地域の守り神である「大山福地蔵尊」をお参りして300mほど歩く、日大板橋病院入り口の信号を254号と別れて右斜め旧道に入ります。ここからは「上板橋宿」となります。この宿場は伝馬役を任されていたので休憩宿場だった。(とよ)(けい)稲荷神社」の境内に昭和の初めの縮図がありましが、街中には宿場を表すものはほとんど残っていません。ただ一つ「町鳶(火消も兼ねていた)」が残っていた。当時は町鳶が中心になってここは収まっていたのだと感じます。町鳶の前を通り越したときに、早い昼食を済ませたのか町鳶の親方だと思いますが出てきました。着流しの法被に股引と雪駄履いていまして、雰囲気が出ていました。宿場の終わりが「石神井川」に架かっている「下頭橋」、区の指定文化材になっていますが、いわれが橋のたもとに碑が立っていますが、川越城主が江戸に就くさい家臣がここまで迎えに来て頭は下げたなどいろいろに説があってわからないとのこと、橋を渡ってすぐに左斜めに進みますと、又254号と合流です。 環七との立体交差点になっている。254号を1qくらい歩きますと右側斜めに旧道に入る。結構人が歩いていました。今までもそうでしたが旧道に入るとほとんどが商店街になっていて、結構活気のあるところが多いのでびっくりしておりました。道が狭いのと車が少ないこと駅に近い回りが住宅街が影響しているのだろうか?上板橋商店街が終って信号を渡ると写真の状態。練馬区で練馬区唯一の宿場「下練馬宿」。商店街は「北町1商店街」と次に行く「北町2商店街」と別れていて、1の方が宿場となります。入ったすぐに宿場の案内図があり本陣と当時の町の様子が書かれておりましたがすべて跡地の案内です。すべてが商店街で店ばかり。但しここの町は本陣などがあり、川越街道では唯一の宿がある宿場だったようです。町も綺麗でした。中ごろに来ますと急に広々した所に出ました。下は環八道路でした。この広場に江戸時代に富士・大山信仰のために旧川越街道と大山道の分岐点に印のために立てられた大きな石碑が立てられている「下練馬の参道土標」があります。ここを通り越して宿場の終わりに「富士嶽神社」がありました。写真で見にくいですが左の鳥居の奥の山が「富士塚」です。一合目から10合目(頂上)まで合目を記した石碑があります。信仰者が山を作ったようです。春先には山開きを行うとの説明です。丁度12時となったので商店街の食堂にて昼食としました。食堂を出て北町2商店街を歩きます。ちょっとこちらの方が劣るかな? 商店街の外れに来ますと「北町観音堂」があり、色々の石像があり、小さな山門の両側に仁王像がありますが、これも石像です。練馬区文化財の指定になている観音石像などは27メートルもあります。商店街も終わってひたすら歩きます。新大宮パイパスとの信号を渡ります。このパイパスが国道17号線になっていました。中山道の方が17号線で此方は支線ですが・・・・しばらく歩くと又254号と合流です。合流した向こう側に川越街道名残の杉並木が残っていました。254号の両側はまだ都内のせいか大きな高いマンションなどが並んでいます。60年ぶりくらいに通りますので町の変わりようにびっくりしました。この後「白子宿」まで歩くつもりでしたが、コンビニにてお茶を購入した時に地図を落としてしまった様子。白子宿の道路が複雑になっているので2qを残して成増駅より帰宅いたしました。


旧川越街道歩記

                       歩記者 林 厚男

第一回目

平成31224日           天気晴     温度11

本郷追分〜庚申塚                  4q


   ほうとく地蔵

    とげぬき地蔵

  赤パンツの「マルジ」

  赤パンツの「マルジ」

旧川越街道を調べてみると、戦国時代の「太田道灌」が川越城と江戸城を築いて江戸と川越を結ぶ重要な街道であった。江戸時代は、川越は、江戸の北西を守る要となり藩主には、老中格の譜代大名が配置された。家康以下、三代将軍も、鷹狩りや参詣に街道を往来、「松平信綱」が川越城主なってからはさらに整備された街道なった。江戸城からは13里ぐらいになり「栗(九里)より(四里)よりうまい十三里」と川越の美味しいサツマイモの宣伝になった。そんなことで距離はありませんが六ケ所の宿があったので歩いてみることにいたしました。地下鉄「南北線東大前駅」で降りて地上に上がると、そこは東大農学部前で「本郷追分」となる本郷追分まで「中山道」「御成街道」「川越街道」は同行であり、この追分にて「御成街道」直進となり「中山道」と「川越街道」が左に折れて同行となる。ここまでの内容は「御成街道歩記」を読んで頂きます。今日はちょっと変わった「歩記」になっていまして、「巣鴨とげぬき地蔵通り」を見学するため3人仲間を誘いました。とりあえず「本郷追分」からは2人が参加にて中山道を歩き始めました。今日はqが少ないためにゆっくりと歩くことにいたしました。歩き初めてすぐに右手奥にお寺があるので入っていきます「大圓寺」言うお寺ですがここの境内に「ほうとく地蔵」があり「八百屋お七」を祭ってあります。写真ではよくわかりませんが両側に吊ってあるのが折り鶴で、茶色の積んであるお皿がホウトク(浅い素焼きの土鍋)真ん中に黒く見えるのが地蔵で頭にホウトクを被っていました。首から上の病気が治るとの説明です。お七の墓は近くの「円乗寺」ある様です。家に帰ってから調べてみますとこのお寺ら3,500人がなくなったと言う天和の大火(1,683年)の火元との事不名誉のことなので、さすがに説明板には書いてありませんでした。八百屋お七一家はこの大火で焼きだされて、寺に避難をして再建された家に戻ってから、実家に火をつけて鈴ヶ森で火あぶりの刑になった。家は少し燃えただけで消し止められたその頃は放火の罪はきびしかったことが分かります。実際にはお七のことはよくわかららないようですが?焼け出されたこと、実家に火をつけたこと、火あぶりの刑、だけが分かっているとのことのようです。白山上の信号を過ぎると左側一帯は東洋大学です。箱根駅伝何回か優勝をして、今でも競合大学です。わが故郷の出身の相撲力士の「御嶽海」の母校です。大学の多きな建物を過ぎると千石町の三叉路の大きな信号です。左に折れると後楽園、水道橋を通り大手町に行きます。左に曲がって少し歩きますと千石一丁目の信号ですが昔はこの辺りは「駕籠町」と言っていました。昔、人にこの辺りの地図を教えるときは駕籠町の信号は必ず話の中に出てきものです。もう約60年の昔の話ですが・・・御成街道はやたらとお寺がありましたがこの中山道はこれまでの所お寺が一軒だけでした、神社に至っては何もありませんどうしてか?が疑問に残りました。信号を過ぎると巣鴨駅がすぐに来ました。もう一人がここでの待ち合わせでしたが探してもいません。携帯にかけても電源を切ってありつながりません。ちょいとした意思の疎通ができていなかったようでしたが、なんとか合流になり国道17号(中山道)と別れて「とげぬき地蔵通り」に入ります。ここから旧中山道になります。ここは4の日が縁日でそれを狙って14日に来ました。賑やかであることは分かっておりましたが、寒い2月なのでたいしたことはないだろうと思って来ましたが日曜日と重なってか、物凄い人出でびっくりやっと歩けるほど、「おばあちゃんの原宿」と言うだけあってほとんど年寄りです。感心したことで、他の盛り場と違って外国人はほとんど見かけませんでした。少し進んだとこらが、「高岩寺」です。ここの商店街は800mに及ぶそうですが、この寺の門前として発展をした。この境内に「とげぬき地蔵」がありすごく並んでいて30分以上待たないと水かけ供養ができません。体のとげを抜くことができないので本堂をお参りして通りに戻りました。初めて知りましたがここは赤いパンツでも有名と言うことが分かりました。元気と幸福をお届けする「マルジの赤パンツ」どこが元気になるのでしょうか?4店舗もあります。とげぬき地蔵とは何も関係なく昭和27年に出店し長い歴史がありそれで有名になっただけのことのようです。女性物が殆どで、4人とも買いませんでした。多分お土産に買っても履かない?でしょうね。但し店の写真は撮ってきました。 昼時ですが入りたいと思うところは並んで待っている。商店街の半ばを過ぎるとやった少し歩き易くなって一軒の食堂を覗くと丁度4人テーブルが終わるところだった。まずアルコールで体を清めた。この店の看板娘か?幼稚園児だと思うが箸とお手拭を挨拶をしながら持ってきてくれたが、またこの子がものすごく可愛かった。店を出て少し散策、庚申塚の信号を渡ると、都電が走っています。大塚駅まで都電に乗りましたが、約60年ぶりになるでしょうか?休日のせいか良く混んでおりました。




今回は日光御成街道を歩きます

 第四回 

平成301220日(木曜日)     天気晴    気温13

岩槻宿〜幸手宿        地図上17.5q 実質的距離 21.5q  



   元荒川と慈恩寺橋


   左奥が立派な幼稚園

    榎の一里塚

    大落古利根川治水碑

  2本の赤松の大木

    合流点の交差点

前回の記載漏れを少々。「芳林寺」(太田道灌の像があったお寺)に明治3年に埼玉県の県庁が初めて設置されたところと説明がありました。道理で敷地だけが広かった。いかに岩槻が当時埼玉県では発展して中心地と言うことがうかがえます。後に浦和に移った。その期間は短い期間であった(何年間か記してない)と言うことです。

岩槻駅に降りてみると良い天気で風もなくウォーキング日和。駅前を真っすぐ歩いて御成街道に出る左に曲がって、前回に続く綺麗な宿場町を歩きます。道路の向こう側で大きな建築が始まっています。よく見ると「岩槻人形博物館」新築工事です。

前回宿場に入るところに記念館・博物館が古い建物でありましたが、此方に新築を行っておるところです。駅にも近いし岩槻の人形はまだまだ栄えるのでしょう。

国道122号線の信号を渡って、御成街道は次の信号を左に折れます。右に折れると「岩槻城址公園」ですが距離が少しある様なので行きませんでした。左に折れた所に間違いなく御成街道である印が立っておりました。ここから幸手宿まで御成街道が「県道65号線」です。街道にしては珍しく一本道なので地図も必要なしでした。65号線に入ってすぐに「常安寺」があるので入っていきます。鎌倉時代からある由緒ある様です。さいたま市指定の文化財が幾つもある立札です。

又場内の左側には勝海舟の筆で「南柯先生遺愛之碑」がありました。どうも御当地出身の詩人らしいのですが何と読むかもわかりません。詳しい方に乞う。

東武野田線のガードを潜っていきますと右に大きな石碑に「久伊豆神社」とあるので社の森を探したが見えないので通り越してしまいましたが、気になって帰ってから調べましたら岩槻総鎮守で市内に八社もある由緒あるお宮と言うことが分かりました。

「クイズ」とも読めますのでクイズの神様で、かってはウルトラクイズを境内で行ったとの事です。残念でした。

まだ何年も経っていない大学で2000年設立の「人間総合科学大学」と言う大学の前を通り過ぎますと「元荒川」の橋を渡りますが、昔荒川は此処を流れていたのでしょうか?今の荒川を見ると考えられません。

橋の名前は「慈恩寺橋」です。橋を渡り終えて進みましと、地域の名前も慈恩寺です。きっと大きなお寺でもあるだろう歩いていると大きな看板で御成街道の名所を   

総て記してある看板に「慈恩寺」説明もありました。」824年の築で江戸時代は

徳川家康から寺領100石を拝領していた。境内の十三重霊骨塔には

「西遊記」でおなじみの「三蔵法師」遺骨が分骨されて安置されているとの説明。1.2qも入って行かねばなりませんので諦めました。又この看板の近くにはこの街道初めての杉並木が道路の両側に何本か残こっております。

杉並木を眺めながら通り過ぎたところに、大きな日本料理のお店と言うか庵と言うかがあります。敷地も広いし建物も何棟もあり、送迎バスも2台ありました。こんなところでよくと思いますが、きっと老舗なのでしょう。

後先になってしまいましたが、元荒川を渡る手前2qくら

いに亘り街道筋に「関根」と言う名札な家が沢山見受けられました。立派な家はほとんど関根の名字です。関根と言う名字は大宮に多いと思っていましたが、此方がどうも元祖の様で、大宮の方はここが出どころではないか?慈恩寺と言い地域を過ぎて鹿室(かなむろと読みます)地域に来ても見受けられました。

セブンイレブンでトイレを借りましてお茶を買って一休み。歩き始めてすぐに「宝国寺」がありましたので入りました。かっては徳川将軍の休憩所であって富士山の眺めが良かった。お寺は小さいのですが幼稚園を経営してこれが大きな幼稚園です。お寺はきっとアルバイトなのでしょう。しばらく歩くと、さいたま市岩槻区が終わって、白岡市に入ってきました。一本の大木の杉の木が残っていてよく見ると何年か前までは数本残っていたのでしょう切り株がありました。排気ガスで枯れてしまったと思います。そんなところを見ながら進んで「隼人堀川」を渡ると右の向こうの方に観覧車が見えます。何であんなところに観覧車がと思いながら歩きますと「姫宮川」を渡った所の信号が「動物公園入口」これでさっきの観覧車は「東武動物公園」と言うことが分かりました。一直線の道を歩いていますと向こう側に大きな木が一本と立札が見えますので渡ってみますと一里塚です「上野田1里塚」です。江戸から十一番目の一里塚になります。何で1里塚に榎が植えてあるかを説明してありました。今までも榎の植えてある1里塚が多いのはなぜかと思っておりました。榎は凄く根を張るので塚が崩れないためとしてありました。ここは両側とも塚と榎が残っていました。この辺りは梨とぶどう畑が多い所です。ぶどうについては相当な年代物で梨の木ほど太く足利の藤の花を思い出させるほどに枝が張っていてびっくりいたしました。田んぼばかりで何もありませんのでひたすら歩きますと川の看板です。「備前堀川」橋の名前は「國納橋」この橋は狭く車が橋一杯に走ってくるので危なくて渡れません。1つ下の「番屋橋」を迂回して元の道路に戻ります。東武伊勢崎線の踏切を渡り県道85号線との信号を過ぎると又川です「備前前堀川」橋は「和戸小橋」すぐに「青毛堀川」「和戸橋」この辺り昔は湿地地帯であったのだろう。治水のために人工の川を作った。

水戸街道を歩いた時最後の水戸城下で「備前彫川」があった。水戸と同じ「伊奈備前守忠次」の指示のもとに川を作ったのでしょう。「和戸橋」を渡った所に大きな石碑「大落古利根川治水碑」おおおとしふるとねがわちすいひと読む)。3つの川が和戸橋のすぐ下で「大落古利根川」となって下流で中川と合流する。

「下高野1里塚」の跡碑を右に見て通り過ぎますと高校生が半日授業だったのかぞろぞろと出て来た大きな学校がこんなところに「昌平高校・中学校」気になったので帰ってから調べてみると偏差値の高い進学高校だった。学校を過ぎてから2本の赤松の大木がありました。立札の説明を見るとここは赤松と榎並木だった。昭和30年ごろまで何本も残っていたのが殆ど枯れてしまい今の状態、でも今までは街道の並木の松は黒松が殆どでしたが赤松は珍しい。赤松は排気ガスに弱いからこんな状態になってしまう。しばらくしてから小さな公園があって下にはダムが見えます。ここは琵琶溜(びわだめ)()写真にもうまく収まらず、説明もしにくいので文章を引用いたします。

『「琵琶溜井」は1,660年に「関東郡代伊奈(ただ)(かつ)」が、利根川の水を幸手領に導くため、古利根川を整備したダムような施設です。その形が琵琶に似ていたことからその名があります。溜めた水は、(いり)()と言う水門から葛西用水、中郷用水、南側用水として分水され、その機能は今も変わりません。土地の人がここを「()の上」と呼ぶのもそうした歴史にちなんでいます』今も揚水機場があって活用しています。圏央道の下を潜り東武日光線の踏切を渡ります。右に入っていきますとご当地の鎮守の「上高野神社」参道があり、初詣をせかす旗が沢山立ててありましたが入りませんでした。交差点が幸手宿の終点です。左が旧日光街道、右に行くのが御成街道です。ここで合流してこの先は旧日光街道となります。最終回は宿場と宿場の距離がありすぎて焦点がつかめず少々苦労をしました。神社は沢山あり名前は大きいがすべて村の鎮守でした。又、地蔵・庚申塚・石碑など沢山ありそれぞれ言われがあるのでしょうが、古くて何を書いてあるのかほとんど読めませんでした。

                        日光御成街道完


第三回 

平成301121日                天気晴  気温15

東川口駅〜大門宿〜岩槻宿     地図上距離143q  実質距離175q


  大門宿本陣表門

   面白い歯医者さん

        光徳寺

   面白い歯医者さん

    童人形の銅像

    浄国寺山門

   兜を被っている道灌像


朝はこの冬一番の冷え込みということで、東川口駅の改札口を出ました。ピリッとして寒いのですが、風がないので助かります。御成街道に出て少しの屈伸運動をして出発です。

前回の続きで歩道がなく歩きずらいが側溝の分だけ助かります。川口市内を15分ほど歩くと「さいたま市緑区」に入るわけですが、川口市住所にて旧家で3軒ほど面白い苗字がありました鯨井(くじらい)大門宿を過ぎても何軒かありました。住所的には大門になりました。「大門宿」に入ってきたわけです。国道463号との信号に来ました。標識案内板が少しわかりにくく、とまだいましたが、理屈が分かったので信号を渡ると、東川口から私の前を歩いていたご夫婦が地図を見ながら戸惑っています。御成街道を歩いているのか尋ねると、そうですとの返事、自分も歩いている返事をすると、道の確認を訪ねてきたので間違いないことを伝へ、追い越して先に進みます。大門宿の街並みに入ってきました。何十年も前は町の中心で結構栄えていた雰囲気があります。宿場だったらしき建物も23軒あります。急に写真の建物です。茅葺で「大門宿本陣表門」との立札、門の中には入れません。また道路の斜め向こう側にも同じような門、こちらは「大門宿脇本陣表門」徳川家は宿泊した記帳はないが、いくつかの重臣の宿泊が残っているとの事です。解らないないのが本陣が県の指定文化財で、脇本陣がさいたましの指定文化財。大門宿が終わった所で複雑な交差点に出ました。東北高速道路、その両側が国道122号線の上り下り、そこへ国道463号線、御成街道が絡まった信号です。立ち止まって間違えないように念を押して過ぎると、今度は国道463号のパイパスの信号です。無事すぎると街道は歩道が出来ていてやっと歩き安くなりました。左に「埼玉大学」を見ながら、この辺りはただ歩くのみです。お寺も何軒かありましたが街道から500m前後中に入っていくとこばかりでしたので通り過ぎます。「埼玉スタジアム」入り口を通り越しますと右下に大きな球場からサッカー場やらいろいろスポーツ施設がある。県か市のスポーツセンターかと思いましたら、隣に学校があります。「浦和学院高校」の施設でした。確か野球も強かったと思いましたが・・・高校の入り口を過ぎたところに面白い歯医者さんがありましたので写真を載せました。機関車造りの中は休憩所でした。この辺りに来ると建物が豪華で敷地が広い農家ばかりです。敷地内や畑に植木の苗が沢山植えてあります。植木は安行だけかと思いましたがこの辺も栽培をしていました。又造園業者も沢山見られました。浦和東高校の入り口の信号を通り越した先左側に「見沼自然公園」「さぎ山記念公園」が隣り合ていました。大きな公園のようですが通り越します。通り越したあたりから「馬運車出入り口につき注意」看板が幾つもたっています。めずらしいなあ、馬車か何かで物を運んでいるのかな、こんな看板は面白いと思て写真を撮っていると、通りがけのおじさんが、立ち留って私を不思議そうにじっと見ていた。道路の左ばかりをみてどこの所から馬車などが出てくるのだろうと見てもそれらしきところがない。右に大きな入り口が見えた。「浦和競馬トレーニングセンタ」入り口でした。藁をたくさん積んだトラックが2台入っていきました。納得して進みます。さいたま市見沼区に入っていきました。やっとお参りするお寺がきました。入っていきます「光徳寺」というお寺で、徳川家の日光参拝の折りの休憩所として使われた。三代将軍「家光」以降代々13石の寺領(じりょう)を賜り、それを証する朱印状は残されているが、将軍の休息した時の品物は紛失して残っていない。場所的には膝子(ひざこ)地域に入っていますが、この辺りに来ますとの農家の敷地又は畑の中はビニールハウスばかりです。花の栽培が盛んのようです。中は今シクラメンがほとんどでした。赤と白の花で大変綺麗でした。膝子1里塚(大門宿から)を右に見て通り越して左に大きな「さいたま記念病院」を見ながら信号を右に曲がりますがその角に又面白い歯医者さんがありましたので写真を添えます。熊か猫の人形が大きな歯ブラシを抱えております。だらだら坂を上っていくと見通しの良いとこらに出まして、信号を右に曲がり国道16号線の踏切を渡ります。相変わらず16号線は車が多い。小さな大橋と言う橋を渡りますがこの橋の名前が面白い簣子(もっこ)(ばし)と言うと思いますがどなたか助けてください。この辺りから岩槻市に入る。今度、歩く前までわかりませでしたが合併して「さいたま市岩槻区」となっています。東北高速道路の下を潜ると同時に国道122線の踏切を渡って坂道を上りきりと「人形の町岩槻」と言う童人形の銅像が立っています。道路の両側は五月人形、ひな人形を陳列してあります。中には正月の飾り羽子板から破魔矢も制作している店も見受けられます。左にお寺の参道があり中に美しい山門                                    

が見えたので入ることにしました。「浄国寺」と言って徳川家康から寺領(じりょう)50石を寄進され江戸時代は関東18檀林(浄土宗の僧侶養成機関)の一つとなった名刹。浄国寺の歴代住職記した毎日の公用日記が明治6年3月まで157年に亘った。77冊あって故文書埼玉県の有形文化財。仏眼舎利宝塔・岩槻藩主阿部家の墓はさいたま市の文化材と史跡。出てきて進みますと「人形歴史館」が3棟もありますが、お客はほとんどはいっていない様子。こんな立派な歴史観があるのに駐車場がありません。

これより「一宿通り」に碑が建つてい急に町が開けます。通りを広くして歩道も広くて素晴らしい宿場町です。道を広げるにあたり建物で残したいものは曳家にして、新しく建てるものは宿場にふさわしい建物にしてあります。街灯も木造に見立ててあります。また各お店はすべて開いていてシャッター商店はひつつもありません。これは駅通も駅前もすべてそうでした。宿場の中ほどに来ると「太田道灌」の象の案内図がありましたので入っていきました。太田道灌像は結構あちこちにある様ですが兜を被っている象はこれだけでとの説明。この銅像は「芳林寺」と言う寺の境内に建てられていて、道灌が神奈川県伊勢原で殺されて道灌の養子であり岩槻城主である太田資家(すけいえ)が道灌の遺髪をもらい受けこのお寺と越生町にある龍曖寺(りゅうおんじ)に分けて葬られ今日まで供養されている。お寺は新しく建て変えられたばかりで門から入ることが出来ず、くぐり戸を入ってお参りをしてきました。話は前後しますが岩槻城は太田道真・道灌親子が築城したとの説明で道灌は岩槻の出身と分かりましたが、江戸城とどちらが先に築城されたのだろうか?道灌と言えば人情噺の落語にもあります句で、道灌作った句ではないのですが七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」はあまりの有名。「実の」「蓑」をかけてあるのです。寺を出て通りに戻ると、直ぐの信号が駅前通りの信号です。左に折れて駅に向かのですが、この辺りも綺麗な町並みで、新しいビルばかりです。駅前の大きな建物は民間の商店などと区役所が入っていました。駅もできたばかりで立派な建物でした。やはり皆で協力して町興しをしたものが勝ちです。今回は見るところが少なかったかので、12時半ごろになりましたが全部歩いてしまい、駅前にて昼食をとり帰宅といたしました。

 

                      第三回完


第二回 

平成301110日          天気 曇り  23

王子駅〜岩淵宿〜川口宿〜鳩ケ谷宿〜東川口駅    

地図上距離175q  実質距離205q

 


     王子神社

      十条富士神社

      旧田中家洋館住宅

 十勝甘納豆本舗本店


  からくり時計    6個目の1里塚

雨が多くて、2回目がなかなか実行できず。丁度1ヶ月経ってしまった。出発が駅の改札を出たところから旧道になります。旧道に入るとすぐに「音無親水公園」となっています。私が東京に来たときは音無川と言っていて滝まであった公園だった。音無川と言う呼び名はこの辺りだけで、実際は石神(しゃくじ)井川(いがわ)です。小平市が起点で練馬の石神園などを通って来ている川です。今は公園の手前から飛鳥山公園の下にトンネルを掘ってそちらに流しているとの事。日本都市公園100選に指定されていて、代々木・日比谷・上野公園と同等あつかいとの案内版です。階段を上がって歩き始めると、「王子神社」があるので入っていきました。朝まだ早いのに、七五三の詣でが何組か来ていました。伊勢神宮とのつながりがある様です。戦災で焼けてしまい其のあとの再現です。写真ではよくわかりませんが黒塗りで金箔を施してあり豪華な神社でした。案内板によると、理容業者による信仰が厚く全国でも珍しい「髪」の祖神との事。街道に戻り「地蔵坂」を上りきると大通りに併合します。この信号を右に入っていきますと落語にある「王子の狐」で有名な「王子稲荷」がありますが少し入っていきますので行きませんでした。物の5分も歩いたら又大通りと街道は別れます。赤羽に通じる裏通りになるので街道が狭い割には車が多く歩きにくいが主要道路となるのでしょう。拡張工事がはじまっています。お寺を何軒か通り越しますと、小高い丘があり神社があります鳥居には「十条富士神社」とあり説明を読んでみると、前回駒込にありました富士神社と全く同じで富士山信仰のお宮でした。上まで登らずに写真を撮り進行しますと環状七号線の信号を渡ります。清水坂公園を左に見て進み埼京線のガード潜り坂道を上がり終えると赤羽西の街並みになってきました。ここで元に戻る形になりますが、地蔵坂を上り切ったあたりからリックサックを背負ったオジサンがズーと私の前を歩いておりました。同じく街道を歩いているのかなと思っていたら赤羽駅に入っていってしまった。赤羽駅の西口広場を通り越し東北本線などのガードを潜りすぐに左に折れて少し進むと王子方面からきている国道122号線と併合します。この辺りから「新河岸川」の所までが「岩淵宿」となっているようですが、宿のない宿場であったため、1件酒屋さんが古い佇まいから当時を表しているほかは何もありませんでした。新河岸川を渡り終えると荒川の土手になり長い橋「新荒川大橋」を渡り始めます。右手を見ますと大きな「岩淵水門」があり水門のある方が荒川の放水路である「隅田川」となります。橋を渡り終えてすぐに左に折れて土手を斜めに降りていき100メールもすると街道は右に折れていくわけですがここが当時「川口の渡し」の場所となるわけです。右角にお寺があり「善光寺」となっています。この善光寺は長野・山梨と共に三大善光寺であったと記されているが、今は小さな近代的の建物で面影は全然ありません。左の角に小さな緑地があり碑が立っています。「鎌倉橋跡」の碑で内容は平安時代末期、「源義経」「源為朝」の平氏打倒の挙兵に加わるため奥州平泉からここを渡って鎌倉へ向かったことが「義経紀」に記されている。ここで一休みして川口宿を歩きました。少し古い建物が見受けられます。眺めながら進むと道路が行きあたり目の前に小さな緑地公園になっていて「川口宿」の内容が記されていました。読んでみると、この御成街道は中世の鎌倉街道を徳川将軍が整備して作ったもので、社参は二代目秀忠が6回・家光が9回あったが、川口宿を通った記録は6回の記録が残っている。1843年には宿の人口は1406人で、家数が295軒、本陣・脇本陣・旅籠・諸商店などがあり、裏町には鋳物を生業とするものが10数名とありました。案内地図があってよく見るとここまでが宿場で、本陣を見ずに通り越してしまっていました。右に曲がると国道122号と併合です。ここから鳩ヶ宿までは何もないだろうからただ歩くだけだろうと肝に銘じて歩き始めました。芝川を渡ると「川口元郷駅」があります。こんなところを電車が?線路がないので地下鉄か?きっと地下鉄南北線の延長か思ったのですが、「埼玉高速鉄道」と記されてある。出発駅が岩渕駅のようなのですが南北線の乗り入れが出来るのだろうか?又は乗り換えをするのだろうか?思案しながら歩いていて、赤なので止まった信号に町名の看板が付いています。12月田」となっている。信号のところに地元の人らしきおばさんが来たので「これなんと読むのですか?」と尋ねると丁寧に12月なので「しわすだ」と教えてくれました。納得です。お礼を言って信号を渡り少し歩くと洋館風な目立つ建物がある。見ると「旧田中家住宅」中に入っていくと入場料200円の券売機がある時間がないので上には上がらなかったが、何人か見学をしているようだ。説明によると大正1012年に建てた、木造煉瓦造り3階建て農家あった2代目が大麦と豊かな地下水を利用した麦麹味噌醸造と材木商を初め、財を成した。道路を渡って写真を撮り前へ進むと大きな看板の塔が見える。あの有名な「十勝甘納豆本舗」です。ここまで私は北海道が本店とばかり思っていたのでびっくりしました。お土産にと1袋買ってトイレを借りたくて見渡しても案内がありません。仕方なく店員さんに訊くと案内してくれたのが2階に靴を脱いでいくようになっていました。ただでトイレを使用させないようなっているとしか思えません。天下の十勝甘納豆本舗にしてはちょいとせこいかなと思った次第。我慢をして店を出ました。橋を渡るのですが、この川は「新芝川」先ほど渡った芝川よりこちらがはるかに大きい。渡ってすぐに大きな屋敷がありましたが、変わった苗字なので記します「()()()?大きな信号があり緑地帯に「これより北鳩ケ谷宿」の石碑。ここで街道は122号国道と別れて旧道(宿場)に入っていきます。各店先「御成街道祭」の旗が立っていて、30人ほどの人たちが冊子をもって歩きながら打ち合せしています。聞きますと明日(11日日曜日)お祭りとの事です。なかなか綺麗な宿場町です。みんなが共同で力を入れていくとこのような活気のある街になるのだなと思います。中ほどかと思われるところに来ましたら古いからくり人形が付いた時計台がありました。時間文字は12支なっていて、時間を知らせるのに平日5回、日曜日は1時間ごとにからくりが動くと記してあります。ここを過ぎたところに歴史があるだろうウナギ屋さんがあり昼時なので入ろうといたしましたが、入り口まで行きましたが懐がやめろとの事で諦めました。少し先の「氷川神社」に入っていきました。王子神社に匹敵する社です。明日(10日)のお祭りの中心となることでしょう。湧水が出ており一杯頂きました。又根元から二つに分かれている楠の老木がありました。街道に出てくると又そこに老舗らしきウナギ屋さんがある、今度は横目にて通り過ぎました。桜町あたりに来ると宿場も終わりです。左に何百台も置ける駐車場があり、スーパーもないのになんでこんなに駐車場、過ぎた左に創価学会の建物。固定資産税をかけないのが間違えているような気は致しました。宿場ではないようですが新井宿と言うところに入ってきました。国道に近い所に来ましたので、国道に出て昼食をいたしました。終わって川口ジャンクションに出て旧道に戻ろうとして地図を見ていましたが大きなジャンクションでその上複雑になっていて戸惑っていたらおじさんが声をかけてくれて確かめるためにお聞きしました。王子から歩いて来たと言ったら驚いていました。旧道に戻り少し歩いたところに街道6番目1里塚があった。ここを過ぎると歩道がなく国道と並行に走っている割に車が多く道路が狭いため乗用車でもバックミラーが引っ掛かりそうに3qの間何回もありました。ようやく東川口駅にたどり着き帰途につきました。今回反省はお寺数が多かったが殆ど寄ることができなかった

                       第二回完


御成街道を歩記

                        歩記者 林 厚男

 第一回 

平成30年10月日                   天気 曇り  25

大手門〜王子駅(予定は岩淵宿まで)    地図上距離11q  実質距離145q

 

今回は「日光御成街道」を歩くことにいたしました。御成街道がもう1つあってこれは

将軍が鷹狩りに行くために、千葉県の東金までを作った街道「東金御成街道」です。


   旧古河御用邸

   将門の首塚

      神田明神の山門

 かねやすのあった所

   春日局愛祈の地蔵

   布袋さん

       旧古河御用邸

 国指定跡の一里塚 


「日光御成街道は」街道の人通りが多くなってきて、それを避けるために埼玉の幸手まで作った。将軍、重心の利用した街道です。こんなエピソード残っているそうです。
10代将軍「徳川家治」が日光を社参したときに先頭が日光についているのに最後尾はまだ城を出発していなかった。朝、早かったので大手門が開いておりませんでした。将軍家及び、重心などがここから日光に向けて出発し行っただろうと想像をして私も出発いたしました。 門を出てきたところが大手町の信号、ここを左に折れてすぐに次の信号になり、ここを右に渡ります。左のビルとビルの間に「平の将門」の首塚がある。水戸街道を歩いているときに将門を祭ってあるところがあった。歴史に疎い私はそこで平家との関係がないことを知った。関東八州を収めていて、強きをくじき弱気を助けたとの事だ。朝早くから通勤途中の人がお参りに絶え間なく来る。それも若い人が多いのにはびっくりした。もともとここは「神田明神」の発祥の地で現在のところに移ったとの事です。自分もお参りをして道路に戻る。本郷通りの信号を右に曲がります。信号の向こう側は「読売新聞」の本社。箱根駅伝を歩いた時このビルの脇が出発点でした。神田橋を渡ると大手町から神田に入ります。渡った左が小さな公園になっていてその川淵に人が大勢たむろしている。よく見ると喫煙所です。今はビルの中に喫煙所のないところが結構あるのだなと、少々喫煙者がかわいそうに?なった次第。神田小川町の信号を右に折れて、次の信号淡路町の信号を左に曲がり、少し進むと神田郵便局を右に見ながら「昌平橋」を渡ります。この交差は日本橋からきている国道17号(中仙道)と信号を渡って合流します。次の信号を左に折れて坂道を上がっていきますと左に教育発祥の地お言われている「湯島聖堂」があります。ここには入らずに右にある「神田明神」」に入りました。正式名は「神田神社」です。徳川家康が現在のところが鬼門の方角なので厄除けに将門の首塚のところから神社を移したとの説明。神社より山門が立派だったので写真にしました。山門を出て進みますと道の向こう側に「日本医科歯科大学」がありその向こう隣が「順天堂大学」と大学病院です。本郷通りとの合流の信号を過ぎると少し進んだところが大きな交差点「本郷三丁目」です。本郷三丁目の角の一角に「本郷もかねやすまでが江戸の内」掲げられているビルがあって、もともとは医者であったが江戸時代「乳香散」と言う歯磨き粉を売る店でたくさん売れていたとの事。ここまでが江戸の行政区だとすると江戸の町が狭くなってしまう。1730年に大火があり、防災上の理由で町奉行の「大岡越前守」がここから江戸城にかけて家の屋根は瓦でふくことを許可した。中仙道の沿いの茅葺屋根と景観が変わったためとされる。ただ「かねやす」の宣伝のためとの説もあるとの看板の下の説明です。信号を過ぎて進むと「菊坂」がある。この路地を左にはいていくとその辺は文人が多く住んでいて樋口一葉・宮沢賢治・石川啄木などが住んでいた。昨年の同級会の際、住んでいた家のあった場所の見学をした。東大(前田家の上屋敷跡)の赤門の前に来ました。ここもその際に門を入って東大のキャンパスを見学、菊坂と東大の中の説明は同級生の説明によりました。道路側の銀杏並木と学校側の楠の並木の下を進みます。「正門」の前を通り、「西片門」の前をとうり過ぎると「弥生町」の信号です。「弥生式土器」の名前はここで土器が発見されて付けられたことによるものだ。それで名前が残されているのか?東大の見学の時、弥生門から出たときに大きな碑があったことを思い出します。信号を渡った所の右側はまだ東大(農学部?)です。門の前の信号が昔の追分で中仙道は(国道17号)で左に行きます。御成街道は本郷通りをまっすぐ進みます。文京学院大学を過ぎたあたりからやたらと寺があり、すごい所は5軒も並んだところがあった。見学はいちいちできないので二軒ほど見学をしたところを記してみます。「浄心寺」浄土宗((本山知恩院)で以前は湯島にあり、八百屋お七の振袖火事でここに移設をしたとのこと、道路沿いの入り口に大きな布袋さんとその隣に隠れて立っいた「春日の局」の御愛祈だったお地蔵さんです。少し進んだところに大きな山門があるので入っていくと曹洞宗のお寺で「吉祥寺」参道が長く墓地も広いし敷地びっくりするほど広い、水道橋にあったが大火でここに来た。駒澤大学の前身である僧侶の養成機関(せん)(だん)(りん)を設け1千余名の学僧学んだとの表示版、大きな寺の訳が分かった。ここには「二宮尊徳」をはじめとする何人かの有名人の墓所があった。ここを出てからはやっと寺がなくなって来た、右手に神社があったので行ってみると「富士神社」どうも富士山の信仰で町火消の信者が多かったようだお宮の脇に長屋になった倉庫が21番まであったそれぞれの町内のお神輿なのか纏いなのかを仕舞ってあるのではないかと思った。

左側に(りく)()(えん)を見ながら進みます。2回ほど入ったことがあるので今日はスルーです。裏門 (ここからは入れない)を過ぎると右側が駒込駅です。山手線を下に見ながら橋を渡ります。軽い下り坂を降りると今度は結構長い坂道を進みます。碑が立っていてこの坂道の

名前は、この辺りに住んでいた中世の武将「保坂 大炊(おおいの)(すけ)から大炊(おおいの)介坂(すけさか)と言われていた。当時は樹木に覆われていて「暗闇坂」とも呼ばれていた。登り切ったところが「旧古河屋敷」です。今は都立で古河庭園となっていて初めてなので150円払って入りました。今はバラが見ごろになっていましたが、庭が素晴らしかった。モミジの大木が何本も見えます。少し赤みをおびてきていましたが、紅葉の最盛期にはすばらしいモミジが見えると思います。「旧古河御用邸」には入らなかったのですが別途500円で限定人数しか入れない。500円も取るので中には相当な見応えのものがあるのでしょうか?庭園を廻っている時間がないので一見して出てきました。見学者も結構入っていました。皆さんも如何でしょうか?大塚駅で降りて六義園を見て、古河屋敷に回るコースなどは・・・・通りを進むと道の向こう側に大きな工場があります。よく見ますと「造幣局滝野川工場」です。何十年も前この辺りは仕事で担当地域でしたが、忘れておりました。造幣局の工場が襲われたことは聞いたことがありませんが、隣が滝野川警察署なので安心と言えば安心です。警察署を過ぎたところに道路のど真ん中「西ヶ原一里塚」が残っている。このところが一里塚であるから手前の東大の所の追分が日本橋からの第一一里塚なり日本橋からここまでは二里(訳8q)ことになる。説明看板を見ると都内で残っているのは此処だけで、大正時代に東京市電の工事で撤去される予定だったが、渋沢 栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動で保存に成功したとあります。榎がこの塚と道路の左側にもう一本あって一対となっていて指定保護樹木となっている。少し進んだ右側一帯が「都立飛鳥山公園」です。大きな公園で昔から桜が有名です。今はつつじ・紫陽花も相当数が植えてあり、時期になると桜と並んで人出が多いとの事です。今は王子駅を降りるとそこから無料ロープウェイが無料で公園の上まで運んでいました。公園を右に見ながら坂道を降りて行くと「チンチン電車(都電)」が道路の真ん中を走って来ました。三河島から早稲田まで走っている都電は王子駅からこのところの部分だけ路面を走っているのです。一里塚を過ぎた少先で道路を離れ都電専用道へ入っていき大塚から雑司ヶ谷を通り早稲田に行きます。「御成街道」は王子駅の手前から本郷通りは外れ昔の道となり地図がないと歩けません。地図を用意して行ったのですが、旧古河庭園前後でなくしてしまったようです。「岩淵宿」まで5キロ足らずですが断念をして、王子で昼食をとり帰宅をいたしました。    

 第一回完


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2018年2月「成田街道」がスタートしました

       今までの「歩記」につきましては一人にて、それぞれ完歩いたしましたが今回はゴルフ仲間とウォーキングを楽しもうということで  出発をいたしました。最終目的は成田山新勝寺に詣で「鰻重」を食べることです。簡単な道中記に纏めてみました。
平成30年5月12日(土)成田街道完歩しました。

                   第五回 成田街道完          平成30年5月12日(土)

 

 酒々井(しすい)宿(しゅく)〜成田宿                  8:5q


 成田山護摩供養塔

癒されるお地蔵さん


 成田街道終点の碑

  憎k天尊」の鳥居

 写真を汚す二人です


酒々井駅にて待ち合わせ、
930出発旧道に出て進行です。少し歩くと国道51線と合流、わずかに歩いて旧道は右に曲がります。カーブを曲がりながら坂道を上がりかけると、岩田長兵衛の建てた成田街道の碑が立っていて、旧成田街道であることの確認。道路の両側に大きな竹藪があるが手入れをしないので中を歩けないほどの枯れた竹が倒れている。登り切ったところに「成田道()(じの)の松並木跡」の碑が立っていた。通称は杢之(もくの)(しん)並木」と言われていたそうで昭和43年県の史跡に指定された当時は松の巨木が36本残っていた。昭和50年代に松喰虫の被害にあって全滅し57年に県の指定が解除になり、現在は史跡として残されているだけで、残っていた時の写真が説明札に記してあった。一緒に植えてあったらしい杉の大木が何本か残っている。又この並木と一緒に写真の碑が沢山建っていてすべての碑に

「成田山永代護摩木山」と刻んであります。新しいものだと戦後のものもありましたが、一番下の「木山」の意味が解りません。成田山に詳しい方々がいましたら教えてください。松並木であったとされる800mを過ぎると街道は国道51号線を斜めに横切ります。進んだところに案内板にて「浄泉寺」千葉一族による建立寺との事でしたので見てみたかったのですが、少々歩くようなので諦めて道路わきに帽子をかぶったのどかなお地蔵さん立っていたので写真に収めました。

坂道を上がると国道51号線に交わります。少し歩いたところから成田市に入ってきました。この辺りは各自動車販売会社が両サイドに並んでおります。

「公津の杜」入り口の信号を渡って次の信号を51号線と分かれて右斜めに進みます200300m歩いたところで国道409号線と合流です。坂道を上がった所に小さな神社がありここで一休み。今度国道51号線の信号を斜めにわたります。国道409号線はここが終点です。200300m歩いたところが国道464号線の信号で渡ります。今日は大変道路が複雑でしたが、迷わずにここまで来ることができました。これから「新勝寺」までは一本道になります。ほっとしたところに成田に住んでいる田舎の同級生より電話が入ってきました。今の居場所を知らせ、次のアクションを打ち合わせてして歩きます。

この一本道は、「一本松通り」と名前がついております。碑があったので写真を撮って由来を裏に回ってみたのですが白っぽい石に刻み込んだ字が白いので読めませんでした。また隣には馬頭観音の碑も一緒に立っています。そうこうしているうちに駅前に来ました。左が「JR駅成田駅」右が「京成成田駅」この駅前までは店屋さん関係はほとんどなかったのですが、駅前からの参道は店屋だらけ。同級生に駅前にいることを伝え途中にいることの返事です。

ここのからは歩行者天国で、今日は何とか祭りでとの事ですげ笠をかぶって、浴衣を着ているおばさんたちが沢山、皆美人?に見えます。土曜日に重なってお客さんも道一杯です。成田では有名な「よねやの羊羹」の店が何店舗かある様です。栗羊羹の考案者と聞いておりましたが。中間まで来た頃ですがどこかのオジサンがすり寄ってきたのでびっくりして顔を見たら同級生でした。山門の方で待っているとの電話だったと思っていたものですから。同級生の説明でここが終点「成田道路元標」新勝寺の原点である「薬師堂」の前に立っていました。山門をくぐり「新勝寺」に今日の無事到着の感謝と、健康で次の歩きも完歩できる事を願いました。1080年祭で人出が多かった。皆さんも記念祭に成田山にいかがでしょうか。

左手に移動をしていきます。昔は占い師が沢山いたことを話をすると同級生は、今は半分になっているとの事でした。よく当たる占い師のところには並んでいたような記憶がありました。成田さんに来たらもう1つお稲荷さんにと思って行くと並んで待っているので諦めて、鳥居のところで一礼です。憎k(だき)()天尊」「出世稲荷」との事で毎年2月2日が祭礼との事、歩き友が自分の誕生日と同じだと喜んでいました。裏道を抜けて望みの「鰻重」の店に、参道ではウナギ屋さんは並んで待っていたので心配をしましたが、友達が観光客の来ない支店に案内をしてくれました。生ビールをぐっと飲みながら昔話に花が咲き、とても楽しいひと時でした。

帰りは駅まで送ってもらい、再開を約束して車中の人となりました。成田街道完

旧成田街道ウォーキング

                  平成30430日 林 厚男

 第4回

  臼井宿〜佐倉宿〜酒々井宿           距離 12q


  雷電為衛門の碑

   鹿島川に架かる鹿島橋

    呉服商 駿河屋

    佐倉藩知事の「定」

  現代の「佐倉市民憲章


    1858年の順天堂病院

   二軒の島田家の建物

前回、道を間違えてしまって「臼井宿」を通ることができなかった。とりあえず駅を降りて旧道に戻った。歩き初めが「妙覚寺」と言うお寺で街道の道端に「雷電為衛門」碑があった。

雷電の碑が何でここにあるのか?出身は長野県。現在の東御市であったが、雷電の妻「おはん(後に八重)」は臼井宿街道沿いの甘酒茶屋「天狗」の一人娘で、雷電が「天狗」に立ち寄った折り、見初めて妻にした。引退後の余生を妻の郷の臼井宿で過ごした。碑に「天下第一流 力士雷電之碑」文字が刻んである。文字については佐久間象山の筆です。同じ長野県出身ということか?写真の左に少し見えているが手形があって当ててみると私の手は第二関節で終ってしまいました。又彫り込んである体の大きさは等身大との説明。この辺りが宿場の中心と思われ それらしき建物は見当たらないが、おおきな旧家が何軒か目に入った。旧街道を真っすぐ進んでTの字を右に折れて下った頃が旧国道296号線、左に折れてぶつかった所が「臼井T字路」右に又折れる。左奥の方に臼井城址があるとの案内が出ていましたが取りやめました。宿場を兼ねた小さな城下町であったのでしょう。話のタネにと一軒「長源寺」と言うお寺に入っていきました。何か石仏像があるということで入っていきましたが、わからずじまい。でも季節に来れば裏山がツツジで綺麗だろうなと歩き友と話していたら、住民の方がそれを聞いていて、左側の藤棚も素晴らしいと言っていました。

街道に戻りますとすぐに京成電鉄の踏切を渡り、臼井宿を離れます。国道ですが旧道なので歩道がなく歩きにくい、そろそろ一休みと思い神社の鳥居が見えてきました。八幡神社でしたが、急な階段で結構高いので取りやめて休むのを先送りで進みますと橋が見えてきました。

橋は「鹿島橋」川は「鹿島川」千葉県にもこんな大きな川と大きな橋があるものだなと関心をいたしました。調べてみますとこの川は千葉市の奥から流れてきて、「印旛沼」に濯いでいるようだ。中間に踊り場がありそこで一服。実は昔仕事でお世話になった友人が佐倉に住んでいるので、1516年ぶりに合う連絡を取っていたので電話をすると、300m先のセブンイレブンで待っているとの事で休憩もそこそこに橋を渡る。渡った所に川魚料理を兼ねた食堂が二軒、ウナギの看板も出ている昔はウナギなども沢山とれたことでしょう。

友人も(同じ年齢)少し太った感じ、顔にはそれまでの歴史が刻まれていた。せっかく誘って頂いた一休みも時間が許さず記念写真に納まり、また元気での再会を約束して別れた。

道路の向こう側に「う"くける佐倉」佐倉市の特産物を扱ったり観光案内をしたりしていると思う「う"くける」は何を言っているのか地元の方言だろうと思います。佐倉の友この言葉を問う。

この辺りは城下町になっている。お濠が残っている右の高い丘が「佐倉城」跡で今は城址公園で「国立歴史民俗博物館」がある。右に見ながら旧道を歩いて国道と交わる。右方向に佐倉市役所がある。市役所の隣に「海隣寺」と言うお寺があり山門がしっかりしているので入っていく宗派「時宗」とあった珍しい宗派なので気になった。どこかにあったなと思った。思い出しました藤沢にあった時宗総本山「遊行寺」だった。しばらくして296号のパイパスと合流する。左に折れていくとこの辺りから「佐倉宿」に入っいく。296号を直角に左に折れたと處からメインストリートで銀行の建物の間などに旧建物がたくさん残っている。写真はその一つ明治の呉服商「駿河屋(今井家住宅)」ここは江戸時代の旅籠で「油屋」の跡地で桂小五郎などが宿泊した宿帳が残っているとの事。先に進むと鍵型の道路を右に折れる

少し歩くと又鍵型に左に折れる。やはり城下町だということが分かる。その角に来た時、その角のお寺の鐘がゴーンとなった。時間を見たらちょうど12時。昼の時を告げているようなので入っていった。つき終わってお住職らしき人がおりてきたので聞いたところ、欠かさずに打ち続けているとの事杖を使っている住職らしき人トレーナーを着ていた。

古い建物の前にこんな立札が立っていた、左が佐倉藩の知事の「定」で右が昭和45年に制定した「佐倉市民憲章」です。いずれも素晴らしい町を守っていこうとするところが良く見えます。

そろそろ宿場も終わりかなと歩いていると「旧佐倉順天堂病院」の立札です。要約しますと、オランダ医学を学んだ「佐藤 泰然(たいぜん)オランダ医学塾を起こした泰然の養子の「佐藤 (たか)(なか)」が長崎でオランダ医学を学び統計的な医学教育を取り入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍をした。尚中は新政府から現東大医学部の最高責任者としてまぬかれた後、御茶ノ水に「順天堂医院」を開設した。

一方佐倉は「佐倉順天堂病院」としての(たけ)(なか)の養子「佐藤 (しゅん)(かい)が継いだ。

今でもこの建物の隣に病院を開業いているようだ。この近くに順天堂大学のキャンパスがある、何の部かわかりませんが。そのほかこの宿場には潟Aマニ味噌屋・市の指定文化財として「三谷住宅」「旧堀田亭」「武家屋敷」「旧但馬家住宅」などが目に入ったが写真を入れきれない。佐倉市の名前はよく知っていたがこんな大きな宿場で、お寺が沢山、歴史が沢山あることに驚いた。順天堂病院のあるところの本町の信号を渡ると「酒々井町」にはいっていきます。しばらく歩いて国道296号に合流してすぐに国道と別れ旧成田街道に入る。古風な大きな住宅街になってきたので「酒々井宿」に入ってきたようだ。宿場にしては珍しく、同じ苗字の家がない、その中で旧家であるので地元の方であると思いますが「莇」と言う名字の家があった。皆さんに問う。

「島田長右衛門」家「島田政五郎」家です。江戸時代に徳川幕府の()()御用を務めていたとの事敷地が広大だったようだ(立札の図面による)野馬とは何を意味しているのかは分かりません。明治になってからは商家だった。建物も二軒とも明治になっての建物です。

「酒々井八坂神社」の脇をとうり過ぎると「伝説酒々井の井の碑」があります。孝行息子の家の井戸から酒が湧き出た。ことから酒々井との名前が付いた、の碑でした。

左遠くに広い田園を見て坂道を下ると酒々井の町の中心部が急に開けています。

住民の人に駅を確認して、左に信号を渡り駅に出ました。1時半になっていて、駅前の食堂にて飲んだビールのうまかったこと。             第四回完


旧成田街道ウォーキング

               平成30422日 林 厚男

第三回              

八千代緑が丘駅〜大和田宿〜京成臼井駅(臼井宿) 歩行距離 12q


     色々の石塔群

   大和橋から見た水門 

  道標及び常夜灯

    社のない神社

駅で降りて待ち合わせをしている際、ゴルフ客が相当降りてきた。よく考えてみるとここは八千代パブリックゴルフ場があることが分かりました。相当昔はよく行ったものだ。車の移動と電車の移動は感覚が違ってくる。そんな行動を見ているとごルファーの中に混ざって友が来た。

今日はほとんどが成田街道は国道296と同行となるので地図の必要は薄れるとおもう。駅前より街道に出る左に曲がって出発です。

歩き始めるとすぐに石塔群が目に入る(写真に入りきらない)よく見ると馬頭観音塔9、26夜講塔8、牛魂碑1があり、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)巡礼講塔9がある、平成13年の「26夜講塔」があり、いまだに信仰をしているのがうかがえた。左側に鳥居があって宗教法人「神明社」の立札があった。お参りは友が中に行ってきて言うには菊の紋がついていたとの事、帰ってきて調べてみてみると、伊勢神宮が本社で本部は横浜市にあり全国的にある様で「天照大神」を祭ってあること。神明社のことをよくわかった人がおりましたら説明を乞う。

左に大きな工場が見えてきた「興眞乳業梶vの工場だ。東京の人でないとわからないと思いますが、大手三社に次ぐ牛乳屋さんで特に23区の北部では相当飲まれていた記憶があります。大塚と多摩にも工場がありました。

又左側に石仏群が見えます。ここは先ほどと違って「十九講」「子安講」「女人講」

が幾つも立っています。しばらく進みます。

道路の左に日蓮宗の「長妙寺」右に真言宗の「圓光寺」があり、長明寺には「八百お七」の母親が骨の一部を拾ってここにお墓を作った。お寺が何軒か存在してきましたのでこの辺りが「大和田宿」なるのでしょう。

ここまで神社が沢山ありましたが、みな小さなものばかりだった。大きな森をなしていたので結構な神社があると思って、階段を上がって見学をすることにした。参道には椎ノ木の老木が何本もある「時平神社」となっている。敷地が大きいが社は小さかった。どうも火災にあって立て直すに金のかかることで、そのようにしたようだ。1時間以上歩いたし今日は温度も高いので(千葉は28度と言っていた)一休みする。この神社は平安時代の左大臣「藤原 時平」からきていて、八千代市に4社あるだけの神社。階段を下りて街道に戻ると左に大きな碑が立っている「明治天皇行在(あんざい)之處碑」としてある。宿場もこの辺りで終の感じです 。新川の橋を渡りかけると左に大きな水門が見えます。印旛沼から流れてくるだけの水門と思われるが小さな川で水量もたいしたことがないと思うのに、何でこんなに大きな水門なのだろうか!大きな目的があって作ったものと思いますが・・・だらだら坂を上がっていくと国道16号との交差点で16号が陸橋になっています。登り終えて少し進んだところに石塔群があります。今までも小さな成田街道の道標が何ヶ所か見てきましたがこれは少し目立ちます。立札を要約しますと右側が歌舞伎の名優七代目「市川団十郎」の建立(こんりゅう)「天はちち 地はかかさまの清水かな」と呼んだ句が刻まれている。真ん中の碑は信集講社(しんしゅうこうしゃ)の「岩田長兵衛」が立てたもの、途中にあった道標も長兵衛が立てたもの、後ろに高くそびえているのは常夜灯です。信集講社が何なのか、岩田長兵衛が何者なのか、まったくわかりません。千葉に在住の方はお願いいたします。                                   

右下に大きな公園で「上座総合公園」を下に見ながら進みます。鳥居に神社の名前が書いてありますが右から読みます。皇産(みむす)()神社(じんじゃ)」(みむすびじんじゃ)と読みます。鳥居があって社はありません。碑が立っていてすべて

出羽三山の「羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社」の名前を書いてあります。この碑が社になっていると想像をいたしました。        

歩き初めにもありましたがこの辺りはでは出羽三山の信者が多いのだろうと思います。しばらくして「ユーカリが丘駅」前に出てきました。20何年振りに来ましたので変わりようにびっくり!!いたしました。駅の上にとロータリーの右側にと大きなホテルがあります。高級に見えますが、成田空港へのお客が利用をしているのでしょうか?この駅にはモノレールもあって大きな分譲団地が出来てそのモノレールが団地の中をぐるりと回ってくるようになっている。東京への通勤ができる事をたてまえにて開発をしたような記憶があります。

12時を少し過ぎましたが、今日の目的地に着いて昼食にしようと思って焦ってしまったのか、今日は全てが国道296と号と同行と言うことが頭にあって最後に道を間違えてしまい駅に到着することになってしまった。少し残ってしまった分はこの次の時といたします。

                           完   


旧成田街道ウォーキング

                平成30324日(土)林 厚男

 

第2回                    歩行距離 15q 

下総中山駅〜船橋宿〜八千代緑が丘駅 



       常盤神社


 つないだ血流地蔵道道標

下総(しもそう)中山駅」。この駅は働いている頃は「下総(しもふさ)中山」と呼んでいた。いつの間にかシモフサシモソウに変はっていた。歩き友達に指摘されてわかった。そんな駅を9時過ぎに出発となった。街道(国道14号線)に出て歩き始めると左側は特に大きな屋敷ばかり並んでいる。これは国道14号線と別れて総武線の地下道を潜るところまで続いていた。潜り出ると船橋市街(旧)となる。

「海老川」と言う川に来ました。立派な橋が架かっていて、川べりは公園のようになっていて、趣のある木造の立札を読むと、昔は農業用水、防火用水、漁業、船運、生活用水などで、生活の糧となっていたので元の川に戻そうという趣旨のものでした。ウナギなども相当取れたのでしょう。古い暖簾であろうウナギ屋さんがありました。川を渡ると商店街になり宿場に入ってきた。ほとんど近代建築になっていますが2軒だけ宿場を思わせる建物があり写真の建物は女将さんに訊くと明治初期だと言っていました。商売は現代の高級そうな女性の洋品を扱っていました。駅にいくメーンストリートに来ますと昔とまるっきり変わっている。昔は狭い道路で車がいっぱい、いっぱいで走っていた。今は道路も広く

建物も新しくなって綺麗な商店街になっていました。商店街も終わると大きな三叉路の交差点に来て真ん中のところに大きな鳥居があり階段を上がると (おお)富比(いの)神社(船橋大神宮)戊辰(ぼしん)船橋戦争で旧幕府の本陣とされた(道理で境内は広いわけだ)社殿や宝物は全て消失してしまった。明治13年に再建されたので新しい。伊勢神宮(屋根は伊勢神宮そのもの)とのつながりで、遷宮の際のあまり材を受けて一部に使用をしているとの説明です。また境内の丘の上に指定文化財の六角形の「灯明台」があり、当時は光の到達郷里は11qあり、船橋沿岸を航行の船は目印とした。そんなことで漁民の信仰が厚い神社でもある様だ。又境内に徳川家康400年記念「常盤神社」があり、浅間神社もあったとの事でこの神社はどうなっているのか?よくわかった方がいたら乞う説明。立派な相撲の土俵もありましたが、奉納相撲でやるのだろうか。一休みしてから県道に戻りました。しばらく歩きますと国道296号線の信号です。直角に左に折れたところにここより「成田街道」の道標が立っていました。この信号まで来てしまうと、一見したかった「了源寺」を通り越してしまったようだ。この寺は幕府の大砲の試射場跡があり一番古い和時計が所蔵されているようだったのですが。それにしても旧成田街道と国道296号線を兼ねているのか車が混んでいてぎっしりだ。新京成電鉄の踏切を渡り少し歩いたところの「前原駅入り口」の信号を渡り昼食です。ファミレスに入りました。

自宅に帰る時間がありましたので、今日の目的は「八千代緑が丘駅」でしたが予定時間以上に掛かってしまうといけないので、時間を聞きました。自分の地図を見た感覚では2時間はかからないだろと思いましたが、3時間ほどかかる。これは店長まで聞いてくれた返事の時間でした。お礼をいてファミレスを後に少し歩いたところでミニパトに乗ったお巡りさんが食堂の駐車場出るところだったので時間をもう一度確かめたくて後を追ったのですが、気が付かずに行ってしまった。諦めて歩き始めていると、お巡りさんが追っかけ来てくれました。私の行動に気の付いたドライバーさんが知らせてくれたようです。恐縮をして尋ねるとお巡りさんは2時間少々です。自衛隊まで行くと半分になります。との答えを頂き何回もお礼を言って歩きました。途中街道を思わせる門構えの家もありました。50分ほど歩いたでしょうか?「航空自衛隊習志野駐屯基地」の正門に来ました。これで時間を読むことができました。この自衛隊は確か落下傘部隊であると思います。今日は土曜日なので休みの様だ。道路の右側が2キロほど自衛隊の敷地です。基地が終わったので小さな公園で一休み。公園を出るとすぐに信号を渡ります。渡った所に「血流地蔵道」道標がありました。ここから左に「木下(きおろし)街道」を4q行った「貞福寺」にある。この道標は半分だけ置いてあって下の半分は道路の下に埋没させていて、貴重な資料なので掘り返してつないだとの立札の説明。道路の向かいに「成田山」の道標があり両方が交通史の重要文化財との事です。まだ先が長いと思い15分ほど歩いたら「八千代緑が丘駅」入り口の信号です。1時間20分そこそこで着いてしまった。予定より1時間早く帰るはめになってしまった。時間に追われていたので神社仏閣は一か所で終ってしまった。今日の反省、現代は車社会になってしまい皆、車の時間はわかるが歩く時間の感覚が分からなくなっている。お巡りさんですらわかっていなかった。歩く時間だけは自分だけが頼りと言うことになってしまいました。

               完


 旧成田街道ウォーキング

               平成30年2月14日   林 厚男

第一回   新宿(にいじゅく)〜市川宿〜下総中山駅 


         随神門

       鰤の骨

            大祖師堂

2月14日(水曜日)亀有駅集合に旧水戸街道に出て中川橋を渡りますと昔の第一回目の宿場新宿(にいじゅく)今は葛飾区新宿町(にいじゅくちょう)なっています。水戸街道と別れて右に下っていきます。国道6号線を横切り市川宿へと向かいます。道路が狭いので少々戸惑いをして迷かけました。進みますと町お越しで 歴史的街道で「さくらどうり」の案内

1キロ余の桜並木で、帝釈天が近いので両方合わせて時期に来ればきれいでしょう。終わると江戸川の土手に出ました。江戸川より取り入れた昔の用水路が散策を兼ねています。昔の人の割には進歩的な考えだったかも・・・気持ちがいいので成田街道と並行していると思い1`用水道を歩いていたら少々違ったところに出てしまい、地場のご夫婦に訊いて街道に出た。ここは国14号線となります。江戸川の橋を渡り「市川宿」に入ります。元関所跡が江戸川の土手に形跡があり見学の後街道に戻る、昔と違って道路が倍の広さ、30年前に来たくらいだから町の様子がガラッと変わっています。市川駅入り口の信号を通り越して本八幡に向かいます。

仲間が、ぼつぼつ昼飯にと言うことで、道路の向こうに焼肉屋「(けん)」があり入る。

韓国の人が経営をしておりビルをもってその二階で商っているようで、成功をしたのでしょう。昼は焼肉はやらず韓国料理の定食¥との事で、二人で「石焼きビビンバ」を注文まだ40前後の主人で「山に行ってきたのですか?」と話しかけられ、歩きの目的を話すと関心をして自分もやってみたいので教えてくれとの事で、話が弾んでしまい焼きビビンバの混ぜ方を披露してくれて、美味しい焼き立ての卵焼きのサービスです。

帰るときに日本の言葉で「一期一会」を知っていますかと聞きますと、知っています。

嬉しく思いますと言ってくれました。こちらもビビンバのお礼を言って見送られました。プラ野球のピッチャーの色紙が何枚か貼ってありまして、時々来てくれますとの話でしたので、地元では知られた店なのでしょう。

ここまでに神社仏閣が沢山ありましたが、ほとんど入りませんでしたが昼食の後、歩き始めてすぐに大きな鳥居があり入っていきました「葛飾八幡宮」この神社は明治維新の神仏分離までは上野寛永寺の末寺があり、寺が神社を管理していた。だから写真の山門は寺としての山門で仁王門だった。仁王像を行徳の「徳願寺」に移し、仁王像の代わりに左大  右大臣を配し随神門してしまった。このよう寺の山門を神社の山門に切り替えた珍しい山門となっています。釣鐘が着いた鐘楼がそのまあ残っていますが、神社なので突くことはできなくしてあります。境内には1,200年の銀杏の大木もあり、山門と共に指定有形文化財になっています。源頼朝が下総国府へ入った時、参詣し社殿を修復させたとの説明があるので相当古い神社だと思います。

後書きになってしまいますが市川市に入ってから小さな神社ですが胡録(ころく)神社(じんじゃ)が二つほどありました。聞いたことのない神社なので大社はどこにあるのだろうと帰ってから調べてみますと、船橋から南小岩にかけて10(やしろ)ほどあり大社はなさそう。

昔、安房の国の商人が船で江戸に向かうおり海の嵐に会い、神頼のみして助かった時に神社を作ったとの事で海に面したそれぞれの地域の安全祈願にて作った神社?

本八幡駅前の信号を過ぎると左手大きな工事現場が始まっている。市役所の建て替え現場で、ガードマンに訊くと2年後完成との事。相当大きな建物になりそうだ。下総中山駅に向かって進むと面白い食べ物屋さん。ぶり専門の店で写真はぶりの骨です。二つ吊るしてありました。

「下総中山駅」入り口の信号に来た。今日は「船橋宿」まで行きたかったのだが。取りやめてお寺見学に切り替えて信号を左に入る。駅より真っすぐの道で寺まで参道になっている。門前商店街を抜け大きな山門をくぐると本堂までに左右に5ッづつ並んでお寺があり桜並木になっている。友達はこんなにお寺が並んでいてどの様にして食べているかと心配をしていました。

こんな時期に結構参拝者がいる。桜の時期は結構な参拝者になることでしょう。駅から近いので機会があったら花見時に如何か。

日蓮宗大本山「正中山(しょうちゅうざん) 法華経寺」です。大本山だけあって大きなお寺だ。大本山があるくらいなので、市川市に仏教にちなんだ名前が多い

稲荷(とうか)()」「(みょう)(でん)」「上下(じょうげ)(みょう)(でん)などあり特にわからないのが北方(ぼっけ)大きな町になっている。地元以外は読める人がいないので今の呼び名は「きたかた」となったと何年か前に聞きました。この地域の名前「中山(なかやま)」は山号の「正中山(しょうちゅうざん)」から来たような気が致します。第一回ですが二人道中も大変楽しいものでした。次は何が待っていいてくれるでしょうか?楽しみにしております。


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2017年2月「旧水戸街道」がスタートしました
今年は旧水戸街道を歩いてみること致しました。

第七回

平成291128日             天気 曇り 気温 14

長岡宿〜水戸(本町)      地図帳距離11.8q  実質距離14.0q 


 東京からの標識

      山門から本殿

      備前堀

     終点本町二丁目交差点


この宿は、いくつもの県の高校野球部が利用していて廊下に沢山貼ってあった。合宿に適したグランドあるのか?試合が良く行われるのか?昨晩は客私一人でした。日光街道を歩いた時も1回は一人でした。旅館も客が一人ということは寂しいものです。交通便の良くないところは(鉄道のない町)発展も遅れているし、旅館も大変と思います。交通網はバスで水戸行きがありますが朝晩だけです。窓を開けると曇りです。曇りだと風も出ないし今日は歩くのには最高と思って出発いたしました。信号を渡り長い坂道を上がったところが県道2本と、国道6号線の立体交差こちらは6号線と合流したいのですが、複雑な交差になっていて200300m余分な歩きをしてしまった。何とか6号線の大きな歩道に出て歩きます。左にイオンモールがありましたが、今まで見たモールでは一番大きいと思う。中を歩いたたら大変だと思うほど大きい。通り過ぎると北関東自動車道路を渡るのですが、インターチェンジが一緒に絡んでいて陸橋をいくつも上がったり下りたりここだけで、大分疲れが出てしまった。 ほっとして歩き始めると、東京から100qと水戸まで7qの表示の標識と同時に「水戸市」に入ります。少し先から三叉路になり6号線は右方向に行き、旧道は左方向に進みます。この先コンビニ等はなくトイレに困ると思い「茨城交通安全協会」の建物に入り快くお借りでき、お礼を言って街道に戻る。すぐまた三差路に来た。地図と違って県道より市道の方が広いし車の量も多いということがよくある。狭い県道の方に入り少し歩いたところで、30代らしい奥様に訊く「ここは旧水戸街道ですか?」「わかりません」「この先に熱田神宮があれば旧水戸街道ですが」「じゃあ間違いありません」いつもですが地元の方は、よくわかっていない人が多い。ここは吉沢町になります が中間点ぐらいに進んだ時、石の門がある豪邸が「吉沢家」だった旧家の家の名字が村や町の名前で残っているとところが時々ありました。長い吉沢町抜けるころ、この町中に最後の一里塚が残されてあり、樹齢300年の榎が2mのところで上がなくなっていて何本かの幹が創生されていた。国道50号線との交差点を渡り、又すぐに県道235号線を渡ると、県道、国道に車も人もそちらに流、往来がほとんどなくなりました。静かなところ歩いていると左に変わった建物があります。宗教でした。阿含宗(あごんしゅう)とゆう宗教です。帰って調べてみるとチベット仏教に関係していて「ダライマラ」に関係しているのか?よくわかりませんが新しい宗教で本山は京都で、芸人ではタモリ、小堺一機花田ファミリー(相撲)などが信者とか?そんなところを見ながら町の中心に近づくとやはり城下町、道路がクランクになっていました。ここから終点までクランクなっているところが5か所ありました。三つ目のクランクを過ぎて坂道を下った所の左に神社があり入ることにしました。参道を通り急な階段を上がります。踊り場のところに、周りが13m、樹齢300年としてある欅、この太だと500年は立っているのでは?ないかと思いました。今までの経験です。この神社は式念遷宮が行われる大社で常陸三宮に当たる。祭神は日本武尊とのこと。もう少し歩くのが残っていますが、無事完歩のお礼にお参りしようと鈴鳴らそうとしたら、中で七五三の祝詞(のりと)を挙げていたので止めてお参りをしました。元に戻って斜めに進みますと「備前堀」に出ました。これは徳川家から命令で「伊奈備前守忠次」が「千波湖」からの用水を兼ねて溢水(いっすい)を防ぐために築いた堀、今は農業用水に使用しているとの説明ここに架かっている橋が(たま)(げ)(はし)ここの説明版を見ると江戸から2919町(約116q)当時は23日の工程だった。ここの橋で江戸からの友と別れたので名前が付いた。橋を渡り路地を歩いて突き当りを右に曲がって少し歩いたところが終点となりますが、駅からこんなに離れたところに趣のある商店街があるということは、昔は街道の終点だったので店が繁盛していたのでしょう。

駅から遠いので足周りのことを考えて、おばあちゃん二人に訊くと、国道に出ればバスが1時間に3〜4ぐらい駅行があると教えてくれた。ほっとして終点に歩きだしたら「そっちではないよ、こっちだよ」との親切心。水戸街道の終点がすぐこの先です。話したらやはりこんなお年寄りでもわからなくて、反ってお礼を言はれた次第。道路の両脇にたっている石が印の碑となります。ちょっとあっけない終点でした。国道に出てバスにて水戸駅に出ました。やはり県庁所在地にぎやかで活気がありました。昼食を済ませて帰路につきました。

                            第七回完


第六回

平成291127日             天気 晴後曇 気温14

府中宿(石岡)〜竹原〜片倉〜小畑〜長岡   地図上距離20.5q 実質距離23.5q


 分厚い土の扉

 加藤家の復旧の門

 本陣を思わせる本多家

  カエルが二匹

        高橋

まだ府中宿は終わっていなかったので、石岡の駅を出て前回終了点の国道355号線に戻る。

駅から突き当りなので右に曲がって進む。ここには「常陸総社宮」がある、日本武尊に関係があり漫画家の「手塚治」の先祖はここのようです。中に入っていくにので先を考えて立ち寄りません。街並みの中に造り酒屋があり蔵の窓の扉が分厚いのにびっくり。5〜6分歩くと旧水戸街道は信号を右に折県道52号線となり常磐線の陸橋に出ました。右下に石岡駅を見て渡った所に説明碑、ここは松平藩で徳川家の信頼が厚くここより2qにわたり、立派な杉並木があった。水戸街道ではここだけが杉並木が許されていたとの事。今はその気配すらありません。 

坂道を上がったところに「府中(石岡)1里塚」の後、推定400年の榎があったが平成14年の台風にて倒木二代目榎が植えてあり結構太くなっていた。この県道は歩道が広く歩きやすくて距離が進みます。黙々とあるいているなかで、日本刀研磨の店「忍」とありましたがこれで生活をしているのだろうか?長い真っすぐな県道もしばらく歩くと少し右にカーブをしていきますが、記者は真っすぐ旧道に入っていきました。左に指定文化財「木造不動明王座像」とあるので見に入ったが扉が木造でのぞき窓しかないのでのぞいたが中が真っ暗で何も見えません宿場でもないのに何軒かの豪邸を見ながら坂道を下っていきますと、県道52号の信号になり、右角にセブンイレブンがあるはずなのにない、道を間違えたかなとよく見ると、閉鎖をしてしまっていた。信号を渡って「小美玉市」に入ってきました。この道路は市道になります。広い田園風景を見ながら坂道にかかります。途中右に神社があり「竹原神社」となっている急な階段を上り終わると小さな社だが総欅で趣がある。説明を読むとお祭りには長い歴史のある神輿が出るとのことです。名前からして「竹原宿」し入ってきたことになります。神社を後にすると宿場らしく古い建物が何軒か見かけましたが、小さな宿場だったという佇まいでした。信号を左に曲がりますと国道6号線と合流です。しばらく歩いたところに「北辰一刀流故大貫先生の碑」と言う大きな石碑が立っているので写真に撮り、帰ってきて調べてみると免許皆伝をしていたぐらい、地元の出身ということで碑を建てた様子。大きくカーブを回ると大きな桜の木の並木、道路計画で片側を切り倒してしまったようだ。長い桜並木を過ぎると旧道は三叉路を左に入ります。入っていくと左に、「Meiji」の茨城工場(明治乳業)があり通り過ぎろと左手に「小美玉市役所」が見えてきました。この辺りから「片倉宿」(現在住居表示は堅倉となっている)入ってきたようだ。左に大きなお寺が見えるので今日はお寺に入っていないのでと思い入っていくと民家だった。

大きな宿場だったようで、道路がクランクになっている。宿場の中心に来ると、門だけが残っていた。左の碑を見ると水戸藩の加藤家から別家して、この宿場で名主宿であったため幕末の反乱軍「天狗党」により母屋や焼かれ、門も焼かれたが柱が残った。歴史を残すため現在の加藤さんが復旧をしたとの説明です。よく見ますと、復旧の門だけです。中には屋敷はありません。写真はその隣になるので加藤家がこちらに改めて建てたのではないかと思ってお門札を見ると「本多家」でした。加藤家はどこに住まいがあるのだろうか?中心地を過ぎと左に折れます。宿場が終わってくると茨城名物、干し芋を作っていて大きなビニールハウスが沢山ありました。だらだら坂を上がった左に何百年とたっている欅が二本、榎が一本、神社かなと思い路地を入っていくと、大きな民家でした。六号線の信号に来ました。渡って旧道が進むのですが昼になりましたので、国道6号線を歩いて食堂探しです。丁度良いような和食やさんありました、本日休業。隣に弁当屋さんがあり中に入ると広いので中で食べたかったのですが、断られ外の駐車場の擁壁に座ってむなしい昼食をすます。この辺り一帯には、自動車会社の何社かのモータープールやトラックステーションンなど車の関係の店などが沢山あった。ここを過ぎたところから「茨城町」に入ります。信号を右に曲がり旧道に戻りました。両側は田んぼ、畑ばかり竹林と林を過ぎると県道どうしの信号で、渡った所にお寺があって急に宿場になりました。「小畑宿」になります。「法円寺」と言うお寺の境内で石椅子に座ったこの寺は昔旅籠だった。一休み、少し休んでいかないと本日の終点に早く着きすぎてしまう。この宿場は今までの宿場に増した豪邸がありましたが、他の宿場と違うところは、門と蔵だけ残っているだけで雑草が生えている、お金がないのか大きな家とか門が朽ち果てる、こんな家が何軒かありました。門の上にカエルが鎮座していたのでパチリ宿場を過ぎるとすぐに田んぼと畑となります。周りに何もない宿場ですから、残念ながらだんだんと廃れてしまうのでしょうか?坂道を上がったところが、国道6号線と合流しました。進んだところの左に新しい校舎の「茨城東高校」あります。新しい建物ですが、並木が結構太いので校舎は建て替えたのでしょう。「東関東自動車道」の陸橋を渡るのですが下を見ると自動車がほとんど走っていません。行く行くは鹿島から成田につながっていくのでしょうが、地元の発展のためには国道とか県道を充実させた方が良いのではないだろうか。6号線と別れて旧道は右斜めに県道18号線へと進みます。まだ宿には早くついてしまうので小高いところに神社があるので急な階段を上っていくと「御霊神社」でした。小さな神社ですが境内のあちことに手で持てそうな神社が幾つもまつってありました。降りてきて、街中にはいいてきて県道43号線との交差点周りが、銀行とか町役場、農協、県の関係の出先関係があります。終わると「涸沼」の流れている「涸沼川」結構大きな川で、架かっている橋「高橋」渡った所が旧町並みで「平岡宿」旅館が「中多屋旅館」と言うのですが街道筋に見当たらない、道の向こう側に交番があるので入る。歴史のある旅館と聞いているのでお巡りさんがすぐに教えてくれるとおもったら、答えがない。番地がわかっているので言うと今度は町の地図を持っていき開きだした。いろいろ私が言うので上がってしまったのか全然違ったところ見ている。地図を手渡してもらって調べたらすぐに分かった。旧道の、旧道のような道路がありその街並みの中にあった。交番から歩いて3分。1530到着。夜は外で食べて、そこのご夫婦と話があってしまい一時間ほどお邪魔をしてしまった。宿のご夫婦も、食堂のご夫婦も年の割には茨城訛りが一つも出ませんでした。

第六回完


第五回

平成291116日             天気 晴   気温 15

土浦宿〜中貫宿〜稲吉宿〜府中宿(石岡) 距離178q 実質距離21q


 右に見える黄色の旗が高安関の旗

 指定文化財観音堂

 日光街道唯一の松並木

  中貫宿本陣

  本陣 坂本家

   旅籠 木村家


   恋瀬橋 

     筑波山

  金比羅神社


霞ケ浦が近のか霧のかかった土浦駅に降りてから、土浦宿の出発点である大町交差点まで約1q歩いて出発です。

城下町の入り口に「南門」があったと碑立っています。さすが城下町で10m歩いて右に折れ20m歩いて左に折かぎ型になっていました。すぐに寺が二軒並んでおります。「東光寺」と「等覚寺」等覚寺が昔の難しい字でしたので、読むことができずに寺の前の和菓子屋さんの親父さんに聞きました。珍しい銅鐘があるとの話でしたが、お礼を言って前に進みます。右に曲がり10mで左に折れ此処もかぎ型、ここより大手町になり、石畳にしてありました。「土浦宿」水戸街道では大きな宿場で本陣が二軒(山口家・大塚家)旅館も多数あったようだ。また古い建物がたくさん残っています。写真のように土蔵つくりになっています。江戸時代の終わりかに大火になって、火事にあっても燃えないような建築にしたとの事、5〜5軒あり建物は古いが中身は酒屋を除き、喫茶店や食堂や、小間物などを営んでいます。また各店ともご当地出身の大関「高安」の旗が立ててあります。古い建物は「県指定建物」です。メーンの通りを抜けると左に折れます。少し歩きまして左にお折れます。角に小さいですが「月読神社」がありました。お稲荷さんです。地図に載っているので小さいが地元としては由緒あるのでしょう。すぐにまた右に折れ所に「北門」後の石碑が立っておりました。ここで城下町が終わりなのでしょう。両岸に桜並木のある新川を渡り、つくば国際大学のおおきな高校を右に見て進みますと、古い和菓子屋さんが「九万五千石」というお菓子をキャッチフレーズにありましたが、これで「土浦城」は九万五千石だったなと思いました。ほとんど市外になっているのに、左側と右側に大きなビルが2棟あって塔屋に「延増」となっています。貸しビルのようですが気になって帰ってきて調べてみると、有名な「中川ヒューム管株式会社」グループの不動産の会社でした。土浦が本社だったのだ。またグループ企業が沢山あるようです。国道125号線との交わりを、バス停にいたおじさんに聞いて進み、信号を渡り上がり始めた右にお寺があるので入っていきました。「善応寺」言う小さなお寺でしたが指定文化財が境内等に色々あるのですが時間の関係にて観音堂だけを写真に納めました。本堂はまだ新しかった。また階段の入り口に「照井の井戸」と言って湧水が出ていて、地元では知られているのでしょう汲みに来ていました。真鍋通りに戻ります。だらだら坂を上がっていくのですが、ここは宿場として載っていないのですが「真鍋宿」と言って宿場だった。3〜4軒そのものの建物が残っています。土浦宿が城下町なので一般人がこちらに宿泊したのか?坂道が上がりきったところが国道125号線と合流です。右側に「県立土浦第一高校」です。歴史がある学校なのでしょう、校内に旧県立土浦中学校の本館が残っていて耐震補強の工事の立札があった。歩きながら左を見ると天気が良いので向こうに筑波山がくっきりと見えております。

大きな信号の交差点に来ました。国道125号線は左に曲がります。右が国道354号線になり真っすぐが県道64号線となり、信号を渡った所で旧道は斜め右に入っていきます(五差路)。旧道に入った所の小高いところにどでかい工場があり「株SHカッパープロダクツ」という。聞いたことがないので帰って調べてみると日立金属が100%株主で日立の電子材と電池材で日産の電気自動車の電池を製造しているようだ。

ここより水戸街道で唯一残っている松並木です。古い松の木は30%ぐらいで、後はかけた後に新しく植えたものです。「板谷の1里塚」があり右側に大きな土浦厚生病院ですが、場所が場所だけに大きな老人ホームも一緒です。先に進んだ左に「大山ねずの命神示教会関東第一偉光会館」という宗教があった。本部は横浜市営地下鉄蒔田駅の周りにあり、全国にあり相当大きな宗教らしいが、どのような宗教かわかりませんが何方か知った方は?・・・その隣が「立正佼成会」その隣がこれもなんだかわかりませんが真新しい立派な石の門柱に「佛立山 本門寺」本堂は普通の家で外壁に「本門佛立宗本門寺」と記してある。夫婦だろうか?二人で玄関のところで何かをしていた。何だかわからないところを通り過ぎると、約1.5qの松並木も終わりとなり県道64号線と合流となります。少し進んで国道6号線(水戸街道)の陸橋を超えたのですが、複雑に入り込んでいてわかりにくい、どうもそれらしき田んぼの中の道を歩いているとおばさんが来たので聞くと間違いないようだ。坂道を上がりだすと大きな墓地が左側に広がっている坂道を上がりきってもお寺があって見当たらない。三叉路があって右は車がやっと通れるぐらいで左が少し広いのでそちらに行った。それが間違っていて道に迷い元の三叉路に戻って右に少し歩くと「中貫宿」に入ってきた。写真は本陣です。そのまま残っており一番奥の建物は茅葺で銅板瓦にて保存と防火を兼ねて覆うっていた。この宿場は23軒あったようでほとんどの家が本陣をまねてか対抗の為か、門構えの豪邸でした。中間に来ると「安穏寺」という寺がありこれがさっきの墓地の寺だった。広い墓地の割にはこじんまりしたお寺です。坂道を降りて登りきったところが国道6号線と合流です。

ここより「かすみがうら市」です。以前は千代田町だった。しばらくは黙々と歩きまました。だいぶ進んだところで左に陶陶酒製造の工場がります。一時宮下さんがゴルフの時好んで飲んでいたことを思い出しました。過ぎてから国道6より旧道を左斜めに入っていきます。宿場に入りかけたところに「刀工 渡辺家」の立札があるので、刀を作っているのか研ぐだけか?見たいと思って入っていくと大きな犬に吠えられて戻った。

今度は「稲吉宿」です。ここの本陣は一般の住宅より一段と高くなっている玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定門「笹りんどう」つけられていた。右は水戸街道で当時のままで保存されている旅籠は、ここだけと説明されている。どちら住まいとして使用されていて見学もできると説明されていた。水戸街道で本陣が残されているところは「取手宿」・「中貫宿」「稲吉宿」だけとなります。又一般住宅は「中貫宿」のように門はないが豪邸のところはこちらの方が多い。何で水戸街道の宿場には豪華な豪邸が多いのだろう。疑問が残ったままです。宿場外れに「香取神社」があるが参道が150mほどありそうなのでやめた。鳥居の前に宿場の案内図があり各旅籠であった家々の屋号が記されていた。坂道を下って川を渡り、坂道を上がった所の左が「かすみがうら市役所」と消防本部・農業センターとありました。過ぎたあたりから果樹園が多くあり、観光果樹園が何件もありました。      

この家も観光農園太りをしたのか?素晴らしい門があり「どうだんつつじ」がきれいだったので写真に収めました。昼食時間が来たのですが旧道の宿場を歩いていると食べ物屋さんを一つもありません。必ずあるのは郵便局だけです。やっと国道6号線と合流になり、ラーメン専門店があるので入ろうとしたら、こんな片田舎で回りにも民家が少ないのに大勢並んで待っていた。仕方がないので道路の向こうの中華店に入る。頼みもしない物が余分に出てきて食べきれなかった。

今度は国道6号線を歩きます。進んだところに「常磐高速道路」に行く千代田石岡インターチェンジを潜ります。道路の向こう側の高いところに「千代田一里塚」がありますが、渡るところがないので諦めた。坂道を上がりきったところで、また国道6号線と別れて旧道を左に入ります。まだこの辺も果樹園が多く、結構な住宅で「茅場」・「押野」という名字が多くみられます。国道6号線と合流してすぐに「恋瀬川」の「恋瀬橋」渡ります丁度中間にて筑波山がくっきりと見えましたので写真に納めました。渡り終えるとここから「石岡市」です。進んだところで三叉路になり、右が国道6号線です。

左が国道355号線となり石岡市内に入ります。長い坂道を上がって少し進んだところから「府中宿(石岡)」となり、「金比羅神社」が見えましたので入っていく。今日の歩記が無事済みそうなのでお礼参りをした。何か碑があるので見ますと、正岡子規が第一高等学校の学友を水戸に訪ねた際、石岡で2泊した。その時読んだ句があり125年記念にその句の碑を建てたとの説明にて二日路は 筑波にそうて 日ぞ長き」が刻んでありました。通りに戻りますと、説明の立札がありました。それは文化庁保存指定になっている、3軒並んでいる住まい兼用商店で 砂糖屋さん・薬屋さん・蕎麦屋さん店中は当時のままに商売をしておりました。商店街を中間まで歩きますと、駅に行く信号に来ましたので右に折れて、駅にてすぐ来た電車で帰路に就く。

                         第五回 完


 

第四回

平成29112日             天気 晴  気温20

牛久宿〜荒川沖宿〜中村宿〜土浦宿    地図上距離15.7q 実質距離18.5q


  鐘楼と四天王

  10個の床屋看板

   中根一里塚 

    旅籠佐野屋

  タバコ屋? 鶴田屋

 同じような建物が裏にも一棟

   茅葺屋根の山門 

   素晴らしい旧家

10月に2回ほど歩きたかったのですが、雨続きにて11月に入ってしまいました半年ぶりになるので少々心配の第四回目のスタートになりました。天気もまあまあというところで牛久駅を9時出発です。100mも歩くと第四回にして初めての旧水戸街道が6号線(水戸街道)と同行です。牛久宿の外れとなります。左に「薬師寺」の大きな石碑です。参道の杉並木が牛久市指定の文化財になっています。が惜しいことに右側に何もありません。民家の日陰になるために切り倒したものとみられる。

この杉並木は1116年の「永久四年百首」"いなり山 しるしの杉を尋ねきて あまねく人の かずさ今日かな" とあるとの事・山門をくぐると大きな立派な鐘楼があり本堂より(新しい)立派なので映してきた。またこの鐘楼の四隅に3mもあろうかという四天王が立っている。このお寺、歴史は古いが幕末より100年近くも住職がいなくて荒廃していたとの説明。又 山門の入ったところに「鹿島神宮」の小さな祠に工芸文化財があると立札があるが扉が閉まっていて見えない。街道に戻り前に進みます。まだ古い街並みが続いており、道の向こうに歴史ある手焼きせんべい屋さんが23軒見えました。草加せんべだけではないようだ。町はずれに来ますと、どこも同じですがスーパー、ディスカウントなどが立ち並びます。その一角に理容店の面白い看板が回っていましたので写真を撮りました。床屋さんの店先にある例の赤と青のクルクル回る看板が10個も稼働しておりました。

しばらく歩きますと、面白いいというか、よくわからないというか「真浄寺」と言うお寺?駐車場の向こうに民家の窓回り、雨戸柱、破風などをペンキで赤く塗って一応お寺と言うことでしょう。駐車場の奥には手作りの鳥居が2〜3立っていてそれはお稲荷さんということか?道路沿いに長屋のようなお店が並んでいて、その一軒に、一般的には指圧とか整体という看板ですがこの店の名前が「ほぐし屋さん」としてありました。なんとなく柔らかな感じがして入りやすいかもしれません。これも一つのアイデアでしょう。旧牛久の町も終わりでしばらく歩き圏央道の下をくぐりますと「小野川」という、小さいですが一級河川を渡ると牛久市中根町に入ってきました。合併の前は一つの町だったんでしょう。両側に農家がほとんどだと思いますが、立派な家ばかりです。「細谷」という名札が多くみらます。ゴルフ仲間に「細矢」さん、がいますが彼は群馬県安中と言っていました。西大通り入り口の信号に来ました。この信号はつくば学園都市の西口側に行く道路です。

メモをしながら信号を待っていると、私のように地図をもって歩いているらしき人が後ろからきて、先に信号を渡っていきます。水戸街道を歩いている様子でしたのでちょっと話をしたかったのですが、少し私より歩くのが早いようで離れて行ってしまいました。次の信号が「ひたち野うしく駅」西入口の信号ですが、駅の両側にマンションがぎっしりと何棟もたっていて、その周りは分譲住宅です。よく見ると新しい駅ができ、周りを開発しベッタウンの町が出来ていました。

ベットタウン通り過ぎると、ここより「土浦市」の標識です。その標識の直ぐ右側に「中根一里塚」があり。江戸から17番目になり、68qぐらいになる。これは牛久市指定文化財となっていて道路の向こう側は「荒川沖一里塚」こちらは土浦市になります。どちら側にも一里塚があることが初めてです。それも向こうは土浦市の文化財です。なぜ向かいにあって、指定の行政が違うのかと地図を見ると、道路の真ん中で市の境がかぎ型になっていてちょいと珍しいことになっていました。「中根一里塚」の方が手入れが行き届いておりました。ここで先ほどのおじさんに追いつくのですが、写真を撮り終えて出発してしまいました。土浦市に入ると同時に、荒川沖地域になっています。しばらく歩くと6号線と旧道が分かれます。旧道に入りますと、「荒川沖宿」になってきます。入ってすぐに「鶴田皮膚科」という病院がありましたが、これが病院もすごかったのですが自宅がこの土地に似合わないよな洋館の豪邸。中間地点が荒川沖駅入り口です。ここにはマンションが一つだけで、開発的のものは一つも見られません。やはり古い町の再開発は地権絡みで難しいのでしょう。ますます町が廃れて行ってしまうのに。前を歩いていたおじさんは、荒川沖駅入っていきました。そのあと行き会うことがありませんでしたので、今日はここまででお帰りなるのでしょうか?宿場らしき建物などが中間までありませんでしたが、過ぎたあたりに木造の門と上部が白壁の板塀の「宇野家」がありそれを過ぎると二軒茅葺屋根の家が並びます。左が「旅籠佐野屋」右がやはり旅籠であった思われますが、中をのぞくとタバコらしきものを置いてありましたが、商売っ気がないのか看板もありません。その頃の時代は旅籠であった思います。帰ってから調べてみますと、この宿場は小さな旅籠が何件か武士宿も一軒であったとの事でした。それにつけても佐野家は立派な建物でしたので庄屋か何かだったんでしょう。皮膚科の病院もそうでしたがここは「鶴田」と言う名字が多かった。宿場が終わると6号線と合流します。合流してすぐの大きな交差点が「学園東大道り入口」です。つくば学園都市の東側に通じている道路。交差の左側にも大きなモールがありましたが、信号を渡った道路両サイドが「ジョイフル本田」大きなヂスカウントと色入りのスポーツジム相当広い土地を使用しておりました。大きいわけですね、調べてみたら本社は土浦市でした。歩き始めると、また国道と別れます。旧道に入っていきますと[中村宿]かと思っているとそれらしきものは何もありません。そうこうしてているうちに6号線との交差点に出てしまいました。6号線と交差しているので渡って旧道に入って行きます。ここが中村宿だったんだと思った。写真のような豪邸が30件ほど並んでいて本陣跡がありましたが当時の示す建物はありませんでした。荒川沖宿場と3キロほどしか離れていないのでこちらの方が大きな宿場だたんだろう。坂道を降りていくとつくば学園都市につながる国道354との信号を渡り「花室川」

を渡るとすぐに「大聖寺」いう真言宗豊山派の寺の参道を入っていきます。茅葺の屋根の山門が二つ続きます。大きなお寺で一つの丘がお寺の敷地です

笠に形どった松の木。弘法大師、観音像などが銅像です。近くを通りましたら、一見のお寺です。鐘楼の鐘もいつでもつくことができるとの案内もありました。旧道に出て坂道を上がりきると橋があって下は国道6号線4車線になっています。高速道路と勘違いをしました。わたり終えると国道354線と合流です。丁度12時だったので角に「すき家」があったので、昼食です。一回「すき家」の「うな牛」を食べてみたかった。牛肉が少ゝ、少ない感じが致しましたがウナギは柔らかくておいしかった。一回はお勧め。店を出て今度旧水戸街道は354号線と同行です。この辺りは大きな立派な家が何件もあり、それぞれが庭に凝っているようで、みんな素晴らしい庭が見えました。写真の家だけが庭はたいしたことはありませんでしたが、建物が古いが門、蔵、母屋とも木造の素晴らしい建物なので写真にしました。豪邸の家ゝのところを過ぎると、354号線が左にカーブして行き、旧道は真っすぐ進みます。少し進んだところに「独立行政法人国立病院機構霞ケ浦医療センター」と言う総合病院が林の中に見えます。どう言う意味の国立病院なのかわかりませんが、森の中にあり環境が素晴らしく、こんな病院だったら直りが早いのではないかと感じました、坂道を下っていきます。愛宕神社、常福寺が階段を上がところなので、疲れてきたので上がりません。浄福寺には国宝の何かがあるようでしたが・・・大きな「桜川」「銭亀橋」を渡ります。23キロも行けば霞ケ浦に注いでいるのでしょう。わたり終えると土浦市街に入ってきました。大町という交差点にて今日は終わりです。信号を渡ったと頃より「土浦宿」なります。右に折れて約1qほど歩いて土浦駅より帰路につきました。今日は思ったより早く歩けました。旧道が国道と同行したり、平行になっていたので、途中のチェックしながらが必要なかった。

                             第四回 


第三回

平成29427日             天気曇り     気温18

取手宿〜藤代宿〜若柴宿〜牛久宿    地図上距離185q  実質距離22.5



  新六本店・田中酒造店

    旧取手本陣染野家住宅

    染野屋取手営業所

       信楽寺

     八坂神社

   500m.両側がすべて豪邸 

  坂の名前の立て札

門脇に立っている「明治天皇行幸碑

    宮崎利兵衛商店

前回は取手駅の西口から乗車をしたので取手宿場には到達していなかった。東口を降りて宿場の出発点に向かう、街道に出る前に「長禅寺」があったので階段を上がって行く。この寺は931年に創建者「平将門」と記してある。山門には、「相馬霊場総本地」の札が掛けてある。新四国相馬霊場八十八ヶ所の総本地で、一番・五番・八十八番の霊場になっている。又一茶の下総の 四国廻りや 閑古鳥句碑もあった。一茶も結構あちこち歩いているようだ。その他、県の指定文化財も幾つかあった。階段を下りて街道に出る。出たところは宿場に入っていて老舗が二軒ならんでいた。左の建物が利根川の回船問屋をしていて明治元年奈良漬に転じた「新六本店」右が操業360年になる「田中酒造店」奈良漬屋の店が開いていたのでひやかしに入って、試食をしたら美味しかったので荷物にならない量を購入、隣が酒屋さんで酒粕がすぐ手入って良いですね」と聞いたところ「酒粕は他の酒屋さんから購入しています」店員の話。隣でありながら昔から何か因縁があるのでしょう。進むと道路の向こうに「八坂神社」があります。取手の総鎮守だけあって、小さいがしっかりしたお宮でした。少し進むと取手本陣の立て札、入って行くと茅葺の本陣がありました。「旧取手本陣染野家住宅」でした。街道に出たところに「染野屋」との会社があります。文久二年創業の豆腐屋さん。軽自動車が20台近くある、若い店員さんがいたので聞いたところ、豆腐に関した商品を、すべて巡回(行商)販売で店頭売はやっていないとの事。帰ってから調べてみると全国展開で大きな会社でした。このような商売で現在も成り立っていることに大変に関心をいたしました。訊き忘れてしまったが多分染野家の関係であると思います。大きく左に曲がって進むと、本願寺と言うお寺の案内がありましたが、中にはいているので行かずに県道229号を進んでいると、「水戸街道道標識」が立っていて側面に「江戸与利十里二十二丁」と刻まれている。傍らに樹齢202年のサイカチの大木がある。取手市の保存樹木に指定されていた。この辺りに来るとほとんど田園風景になって来ます。ただ歩くだけですが、1つわからないことがありました。水路が田んぼより低いのですが、どうやって田んぼに水を引くのだろうか?聞きたいのですが人が見当らない。右側に結構大きな「東取手病院」がありますが、手狭になったのでしょうか直ぐ近くにその病院の新築工事をやっております。小さな「相野谷川」があり脇に道標があり「来應寺七丁」「水戸十八里」と刻まれている。橋を渡った所、左に「東日本ガス(株)」工場がある。天然ガスとあるので此処で天然ガスが採れているのだろうか大きな工場でした。田園を進みます。これで一級河川と思うような小さな川ですが「西浦川」を渡り終えると藤代町(取手市)に入って来ます。常磐線の線路を渡って旧六号線と合流します。渡ったところで一休みです。10分ほど休んで出発、左にきれいな建物で取手市藤代庁舎がありましたのでトイレをお借りいたしました。旧六号線に戻り藤代駅入口の信号を右に折れます。もう藤代宿に入ってきているのですが町おこしなるものは何もありません。本陣も跡地だけです。信楽寺(しんぎょうじ)に立ち寄りました。これと言った説明もありませんのでわかりませんでしたが、亡くなられ軍人の碑が幾つかありました。街道に戻り宿場であっただろう街並みを歩きますとそれでも宿場らしき建物が12見受けられました。宿場のはずれに来ると神社が見えるので入って行くと同じ敷地に「八坂神社」「熊野神社」があり別々に駐車場があるが、何なのか?「八坂神社」の建物が神社らしくない建物でしたので写真に収めました。そこを過ぎるて旧6号線と合流すると同時に大きな川「小貝川」のたもとに出て「文巻(ふみまき)橋」を渡ります。ここからは「竜崎市」に入ります。旧道は渡ったあたりから右斜めに進むのだと思いますが、常磐線に阻まれて一部旧道ではなくなります。牛久沼からきている川を渡りますが、この川は何川になるのだろうと?丁度地元の人らしきお爺さんに聞いたところこれも小貝川になるのだと教えてくれました。渡ってすぐの信号が小通(こどおり)幸谷(こうや)と言う交差点(三叉路)ここを右に曲がって行きます。本当は真っ直ぐ言って牛久沼のうなぎを食べたかったのだが(一キロも真っ直ぐ行けば)今回知ったのですが「牛久沼」は全て竜ケ崎の住所であることを知りました。曲がった両側が大きなショッピングモールになっていていろいろの店がいっぱい、この先、食堂がなさそうなのでここで昼食といたしました。交差点に出て来て出発です。県道5号線です。旧水戸街道が右折れて考えられないほどほど遠回りをしているのは牛久沼がはるかに今より大きかったのだろう。大きな陸橋を渡ります。陸橋よりすぐそこに「佐貫駅」が見えます。二つ目の信号を左に曲がって行くのですが、ここから牛久宿までは全て市道になります。これに苦労させられました。まず市道に入って馴芝小学校の前を通り越したまでは良かったのですが、地図によく出ておりません。途中で間違えて佐貫駅に向かっていた様で、駐車場の管理をしているおじさんに聞いて間違っていることを知り小学校まで戻ることになった。ここで1qほど余分に歩いてしまった。順調に進んでいるようですが道路田んぼのど真ん中ですし、車も余り通りません。坂道にさしかかって来ますと立て札が「ここより若柴宿」間違いなむ進んでいたようです。坂道を上がったところがクランク(宿場町特徴)に左に折れるのですがその右上に「八坂神社」あります。神社に入らずに宿場に入ります。この宿場は明治以後火災で全て焼けてしまい江戸時代の建物は何も残っていない。又牛久宿と藤代宿が近いため本陣がなかった。その代わり500m.の渡両側が豪邸ばかりよくわからない。又高台にあったため南側の路地の先は全て坂になっていて各路地に写真のような立て札立っていて坂の名前が書いてある。500m.歩いた先が又クランクで右に折れる。その角の奥が「金龍寺」と言うお寺で奥の方なので行かなかったが、クランクになっている上のところに何の樹木か見てもわからなかったが、朽ち果てそうな大木があった。星宮神社の前を通り、畑の中を歩きます。新しくできた広い県道「矢代庄兵衛新田線」の信号を渡り道路は林の中へと入って行きます。ここより牛久市に入ります。牛久につながる道路なので車が結構通り、車がすれ違うたびに立ちどまり避けました。畑の中に「成井一里塚」立て札が建っていましたが草ぼうぼうで跡地ともわからないくらい。1つの信号を渡ると一転して道路が広くなり素晴らしい歩道になっていて田んぼと畑と雑木林の中を進みますが、とても気持ちよく進みます。思ったよりすぐに向台主学校の信号に来てしまい。ここで道を間違えて1q遠回りをしてしまった。6号線を渡って牛久の宿場と入って行きます。まず目に入って来たのが「明治天皇牛久行在所跡」黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇(白い石碑)にある明治天皇が明治17年の行幸の際の宿所を記念した碑。右の写真は看板に「慶應4年創業宮崎利兵衛商店」と右から書いてある。酒屋さんであったと思います。今では米なども扱っているようですが、今迄の長い信用で商売が成り立っているのでしょう。店先のベンチを借りて靴の履き直しをさせてもらいました。この宿場も何軒かそれらしき建物がありました。少し歩くと国道6号線と今日初めて  交流します。交流したところの左の小高いところに5メートルはある石碑が2つ立っていたので登って行ったが字が読めなく何の碑か解らずじまいです。300m.ほど6号線を歩いたでしょうか駅に入る信号のところにこんな看板が出ていました「小川(う)(せん)(本名茂吉)取手宿の「長禅寺」も碑がありましたので気になって調べてみました。昭和13年没農業をやりながらの画家で有名の様です。名前の由来は、画を売って芋を買えるほどのお金を戴ければ良いとの事から付けたとあります。絵のことはまるで知らないので初めて聞いた画家でした。今回と前回は6号線と同行がほとんどなく、1部の道路が地図に良く乗っていないような部分があって苦労をいたしました。これも良い経験で         第三回完  


第二回

平成29年4月13日(木曜日)          天気 晴れ 気温14

小金宿〜我孫子(あびこ)宿(しゅく)〜取手宿(駅)      地図上距離18.7q 実質距離22q



小金井宿場の記念碑

  左が「右水戸街道」碑 

    「柏神社」

   大豪邸が立ち並ぶ並ぶ一軒

マンションの前に立っている 

   脇本陣小熊家

   成田街道の分岐点

      芝崎神社

   大きな旧家の一軒

  1.2qの大利根橋

北小金駅に降りて、旧水戸街道に出ると、次世代に向けた伝統の継承を祈念して小金井宿場の記念碑が建っています。内容はおおまかにまとめると「小金井地域は約3万年前から人が住み、約6千年前の縄文時代には、緑豊かなこの台地に暮らしていた集落があったことが幸田貝塚より推測される。大きなお寺が幾つもあり駅の北には有名な紫陽花寺「本土寺」などがあり今は松戸市に合併して60年になるが当時の町の時は8,000人だったのが現在は43,000人なっている」等。此の碑のところが道路がカギ型になっている訳です。

地図があればかりやすいのですが、何で街道が三角形の一辺で行

かずに、態々二辺になっているのでしょう?一辺のところに沼か何かの障害物があったからではないかと思われる。このカギ型を右に折れたところに、「八坂神社跡地」「右水戸街道」言う碑が立っておりますが「右水戸街道」は江戸時代に建てたもの「八坂神社跡地」は新しく建てたもので跡地にはイオンのスーパーで上は大きなマンションになっております。この前を通り進みます。

国道6号線の(ね)木内(ぎうち)の信号を渡ります。坂道を上がった左側に根木内城跡」の案内があり、登って行ったところが城跡、空堀、土塁が残っています。此の城は秀吉が小田原城をせめて落城と同時にこの城も落城したとの事。街道に戻り「根木内城址橋」の架かっている上富士川を渡りますと左に「一幸」と言う寿司、創作料理のお店がありました。大きなお店で気になりましたので調べてみますと、千葉・茨城・埼玉に28店舗も持っているお店でした。祝事、法事等の予約を主体としたお店との事。機会があったら・・・

坂道を上がりかけたところから「柏市」の標識です。500mも歩くと今度は「流山市」の標識です。柏市に流山市の一部が食い込んできておるようです。

今日初めてのお寺「行年寺」と言うお寺があり、歴史は古いようですが江戸時代に火災になってからは、小金宿の東漸寺(とうぜんじ)に所属していたが戦後復活させたとの事で小さな本堂がコンクリートでした。そのすぐ先に一里塚の碑が立っています。「香取神社」の参道の一部になるようですが、以前は大きな榎木があったが朽ち果ててしまい、何も残らないので新しく碑を建てたとの説明、一理塚によく植えてある木は榎が多いのは日影と一時の雨宿りになるとの説明があります。下陰を さがしてよぶや 親の鳥」 と言う一茶の句も添えてありましたが、一里塚と一茶は関係ないようです。

1qぐらい歩いたでしょうか、柏市に戻りました。南柏駅入口の信号を通り越しました信号は「日光東往還」と言って関宿,結城と言った城下町を経て雀宮宿で日光街道に合流する街道の出発点だった。信号を渡り右手の八坂神社の入り口にこのあたりは松並木が沢山あったとの写真入りの説明札、このあたりは「小金牧」と言って広大な原野で旅人が道に迷うため、水戸藩から資金が出て千本の松の木を植えて目印とした。昭和50年ごろまで残っていたが老木になり全て切ってしまった。

今度は「豊受稲荷本宮」小さいですが本宮となっていますので、お参りをいたしました。今度は、「新明神社」小さな祠のお宮ばかり。前回とはまるっきり違っております。柏市は宿場町ではなかったからか?またお寺の見当たらないようだ。東武野田線のガードを潜り大きな信号を渡ると柏市の商店街が始まります。柏駅の東口の方が旧道の為盛んであっただろうが、鉄道が開通してからは西口が繁華街となってしまったが街道には昔懐かし専門店が結構残っています。

東口の中心となる駅の入り口の手前に「柏神社」があります小さいですがやっと神社らしい神社があり一休みと共お参りをしました。休んで入る間にぽつぽつとお参りの人が来ておりました。この神社は京都八坂神社と山形の羽黒山神社の合祀とのこと。         

銀杏の大木もある。信号を渡り商店街を進むと右手に古い建物であるが落ち着いていて品がある病院でしたが産婦人科の専門病院です。(けん)石堂(せきどう)病院(びょういん)こんなに大きな産婦人科の病院は初めて見ました。地元ではきっと有名でしょう。病院を通り越すと、ビルの入り口からスーツを着た人たちがぞろぞろと2030人以上出てきました。なんだろうとみていると一軒先のコンビニに行って灰皿の前で煙草を吸い始めた。高級感のあるこのビルの会社は何者かとみても会社の名前がない。中に入って見ると「アニューズ柏」となっていて今日のビルの利用者の名前が沢山書いてある、これは柏市の建物で色々の利用に開放しているらしい。一番上の階が会議室になっていて「広島建設株式会社使用」になっている。このビルはきっと禁煙になっているようだとわかりました。広島建設と言えば昔会社の千葉支店にいた時に柏に来ると建売住宅をしていた小さな会社だった。こんなに社員がいる大きな会社になったんだと関心をした次第。此処を過ぎると柏の街並みもなくなってきます。左に「明治天皇柏御小所碑」がある。明治13年行幸の折りとしてある。明治13年はあちこちに行幸されたのだな・・・

甲州街道も確か13年だったと思う。其処を過ぎると直ぐに「諏訪神社」があった。社は柏神社と同じようなものだった。庚申塚が沢山境内に並んでいる。

国道16号線の信号を渡り進んで行くと常磐線の陸橋を渡ります。渡ったところに大きな高級な洋館風の建物「ハート柏迎賓館」結婚式をはじめとしたイベントを行えるものと思うがきっと相当高い感がある。こんなところで成り立つのかな、他人事ながら心配などいたしました。線路沿いに進み左に折れると国道16号の信号です。「手賀沼」の河口であり立体交差の始まりであるため歩行者は向こうに渡るのに回り道をしなければならない違反をして向こうに渡ってしまった。立体交差を下に降りると目の前にループ状の立体駐車場と大きな建物、建物に名前を記してないので門の入り口までいてみると「アサヒ飲料」の建物でした。坂を上り切ると北柏駅の入り口になります。左にお寺があるようでしたが寄らずに進みます。北柏を過ぎると我孫子に入って行きますが我孫子にかけて写真のような立派な大邸宅が何軒もあります。この辺りは「根戸宿でかつては大いに栄えた。我孫子に入ってから街道は右大きくカーブするが、かつては直進する道は「布施弁天」の参道となっていた。国道16号との交差点です。少し早目でしたが、今迄の経験で旧道に食堂等が見つかりませんので歩道橋を渡ったところで昼食を取りました。此処からは国道365号線となります。歩き始めた左側一帯は大きなマンションが立ち並んでおります。「我孫子駅」に近いし、我孫子駅は始発の駅となっているためベットタウンになっている。現に14階建て大きなマンション(戸数は書いてない)の工事が始まっていました。歩道橋を渡り常磐線の東側に行きます。

我孫子駅前の信号を過ぎると「我孫子宿」に入ってくると思いますが道路拡張にて古い建物が見当たりません。進みますと左に大きくカーブいたしますがカーブの右奥に「大光寺」と言うお寺あります。やっと宿場らしいお寺ですが、境内に大きな建物の幼稚園があり少し派手なのでアンバランス。曲がってすぐに「我孫子宿本陣跡」の碑があり跡地はマンションです。大きな宿場だったので脇本陣もあった。本陣跡の碑の反対側で写真がそうです。問屋兼名手を務め脇本陣を担っていた。門が閉まっているが人が住んでいるようだった。我孫子市は宿場に対する関心がないのか 説明も何もされていない。        

又、右に大きくカーブします。その角に「鈴木屋」と言う大きなうなぎ割烹旅がありましたが、その他にもう一軒やはり大きな割烹旅館が残っていました。しばらく歩きますと三叉路の分岐点があります。正面向こうが歩いてきた旧水戸街道で右に曲がって行きます。左が「成田街道」(ここが起点)成田街道は参拝客があちこちからくるので、何ヶ所もあります。我孫子宿もここで終わり。

我孫子から出ている成田線の踏切をわたってから下り坂を下りて信号を左に曲がって常磐線のガードを潜り右に曲がり直ぐに左に曲がって進むと「天王台駅」方面に行きます。変わった建物も大きな「特別養護老人ホーム」が右にあって、左にこれも大きな「介護老人ホーム」があります。下りた所が天王台駅から来た道にぶつかります。左に丘があってそこに「柴崎神社」があります。参道を上がって行きます。創建は938年と古いのですが、伊勢神宮、出雲大社を思わせる新明造りは30年前に新築したもので趣があってどっしりした感じ、社務所も新築したばかり氏子の金持ちが多いのでしょうか?この神社は日本武尊が東国討伐の途中武運を祈り、平将門も祈願所として敬拝したとの事。                       違った参道の階段を下りて街道に出ます。神社の裏には二軒の寺がありました。

少し歩くと写真のような門構えの大きな屋敷が3軒ならんでいて右にも一軒ありました。宿場でもないし利根の河原の豪農なのか?なんでここだけに集中しているのか?通り過ぎた所の信号が国道6号線です。旧道は6号線に土手まで沿っていて、昔は渡し船で向こう岸にいったのでしょう。

結果は橋を渡ることになるので次の信号を渡って橋に向かう、道路の左下は広い田園がダダ広く上流に伸びて行っています。昔は暴れ利根川の河原だったのでしょう。橋を渡り始めて下を見ると土手と河原は菜の花で黄色の"じゅうたん"です。又橋の下には河川敷のゴルフ場があります。考えてみると、今から40年はまえになるだろう、日野市から車でここまでゴルフに来たことを思い出しました。高速道路もなかったのに、何時間かかっただろうか?橋も中間点を越えて「茨城県」に入って来ます。ことら側にも河川敷ゴルフ場が見えます。どうゆう訳なのかこちらの方がはるかにヘヤウエーの芝が青い。15分近くかかりました。調べてみると約1・2qありました。こんなに長い橋を歩いて渡るのは初めてです。渡り終えて下に降りて取手駅に向かいました。

追伸

我孫子市から茨城県の取手市にかけてこれと言った桜並木はありませんでしたが、丁度満開でいた。

今回歩いて見てなんでこんなに道があっちにこっちに曲っているのだろうか?疑問が残りました。障害物はなんであったのだろうか?沼があちらこちらにあったのだろうか?道路が入り乱れていて間違わないように結構時間がとられました。

3月から4月10日までいろいろ予定が入っていて歩くのが久しぶりだったので足が疲れましたが起きた次の朝はほとんど残っていませんでした。

                              第二回完    

第一回

平成29年2月25日(土曜日)          天気 晴   気温12度 

千住宿〜新宿(にいじゅく)〜松戸宿〜小金宿      地図上距離17q 実質距離21q


    新しい水戸橋

   堀切香取神社

  本田 速人 像 

   半田神社

       松戸神社 

35体の石仏像(表情がみな違う)

    「金山神社」

500個余の酢壺?の石垣

       仁王門

     旅籠「玉屋」

日本五街道は、東海道、中仙道、甲州街道、日光街道、宇都宮で別れて奥州街道、水戸街道これに続く街道。参勤交代が多かったため相当数が水戸街道を利用していたとの事です。旧水戸街道は歩くつもりはありませんでしたが、徳川ご三家の一つがあし、良く調べてみましたら現在の国道6号線(水戸街道)と同行しておらず、色々当時のものが旧道に残されているところが多いようです。旧道をよく調べてから歩かないと大変歩きにくそうです。又これも楽しみの一つです。そんなことで「成田街道」はこの次といたします。まず北千住宿より出発ですが、今の日光街道(国道6号線)は浅草からになっているのになんで旧水戸街道は浅草からではないのでしょうか?どうして、「旧水戸街道」は千住宿まで(成田街道も同じ)日光街道と一緒なのでしょうか?幕府の知恵なのでしょうと思います。参勤交代の際攻め込められないように江戸に入るのを管理するために一か所に集中させたのでしょうね。ところが昭和10年前後に荒川の治水工事により小菅までが「旧日光街道」が荒川となってしまい一部街道がなくなってしまいました。そんなことで東武線の「小菅駅」に降りました。駅から右に折れて荒川の土手の下に出ます。左に曲がり都道を、川に沿って歩くと、すぐに「東京拘置所」(小菅刑務所)の入り口です。面会者は此処からは入れません。矢印がありますので裏側に回るのでしょう。10階ぐらいの建物が幾つもあり、でかい大学でもあるのではないかと感じます。麻原彰晃もここに入っているのでしょうが、死刑の順番が三十何番目とかの事のようで、当分先話の話の様子です。早いケリを望む一人です。

入り口を過ぎると左に「小菅万葉公園」があります。昔は相当重要な水路であったとの事、少しの水路は残ってありますが埋め立てて公園になっています。進みますと左斜めの道路を入って行くのですが、ここからが「旧水戸街道と」なります。昔からの道幅なのでしょう狭いので一方通行になっています。しばらく歩きますと道路が突き当たります。「水戸橋」の案内板、今は突き当りですが、昔此処に橋が真っ直ぐ架かっていたのです。橋の石組の土台だけが残っていました。明治ごろの写真が案内板にありましたが、人通りの激しい橋であったことが伺えます。今の橋は50mほど川上に新しい橋がありこれを渡って又水戸街道に戻ります。戻ったところに「小菅神社」の案内が出ておりましたが、ちょっと入った所なので行きませんでした。左に大きな工場があります。レンゴー株式会社葛飾工場です。段ボール箱とか紙板のメーカーです。製紙会社とか段ボールメーカが一緒になって作った会社であったと記憶しております。名前もその連合からきていると思います。工場を通り越しますと「蓮昌寺」と言う日蓮宗のお寺があり、なかなか立派の門があり本堂もりっぱなものでした。大きな信号なの角に住宅は立派な木造で敷地内に近代的なコンクリートの建物があり「水門」と言う名前になっています。何か宗教ポイところもあるので信号待ちしている23人に聞きましたが誰も答えてくれませんでした。右側には「上千葉稲荷神社」あり大きな立派なお宮です。七福神も祭ってあります。この近くに「普賢寺」と言うお寺がありそこの所有物であるとの事。この辺りは旧千葉村と言い千葉氏一族の領地であり、近くに城跡もあるようです。神社も寺も村の鎮守であったのでしょう。少し進んだところでアクシデントが起きてしまいました。マンションの駐車場の土間のコンクリートの打ちをしており誘導をしてくれたのですがこの誘導が良くなかた。足を少し踏み外してしまい、打ったばかりの生コンの中に倒れ込んでしまいました。ズボンとカバンの一部が生コンだらけ、主任の人と一生懸命生コンを取りましたが帰って来るまで真っ白でした。其の主任に道を聞いて歩いているうちに気が付いたのですが地図を見たら道を少し間違えていたのです。間違えずに歩いていればこんな災難に遭わずに済んだのにと後から悔やまれました。大きな交差点に来ました。コンビニがありまましたので、トイレを借りながら先ほどの被害の処理、手を洗ったりティッシュでズボンの生コンを拭いたり・・・大きな信号(曳舟上水橋信号)を渡り、道路が広いので渡ってから見ますとこ道路の真ん中が公園になっております。案内板を見ますと「曳舟川親水公園」とあります。昔、船を馬に引かして荷物の運搬の川だった。今は埋め立てて公園の長さが約3qあるという。3qより下流は東京湾に繋がっていて船の往来に今でも使用をしているとの事です。渡った所の角に大きなビルがあり、何者のビルだろうとみると「亀有信用金庫本社」としてあります。一地方で、ましてやこの辺りには中小企業ばかりであると思うのにこれだけのビルを持っている言うことは、地元で信用があり、町の発展に寄与しているのだなと感心いたしました。このビルの前に銅像があった。写真の銅像は漫画でおなじみの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」通称「こち亀」香取 慎吾の主役でテレビドラマにもなっていました。写真は良く見えませんが漫画の主人公ではなく「本田 速人」の銅像です。ちなみに亀有駅前に主人公「両津 勘吉」の大きな銅像があるようです。進みまして環状七号線の大きな信号を渡り、中川の橋を渡ります。この川は以前日本一きたない川で臭くてばい菌も住めないと言われたくらいでした。今は臭いしませんし魚も跳ねておりますが水はまだ濁っております。渡り終える新宿(にいじゅく)に入って来ます。宿場らしきものはお寺が100m四方内に4つもあることくらい、最初の寺だけお参りをしてきました「寶蓮寺」と言うお寺で、荒川辺八十八ヶ所75番札所でした成田街道(佐倉街道)は此処より別れて行きます。分岐点になっておりますので道が複雑に成っており、間違えて国道6号線(水戸街道)に出ていしまいました。500600mで旧道になるのでそのまま進みました。この辺りは葛飾区の行政関係がまとまってお有り。郵便局、消防署、文化センター・図書館など、その1「亀有警察署」があり久しぶりに警察署でトイレを借りることに致しました。トイレに用足しに来たおまわりさんにお礼を言って警察署を後にいたします。歩くと直ぐに「金町警察署」があります。管轄が違うのでしょうか、なんでこんな近くに警察署が二つもあるのだろう?旧道との交流地点に来ますと同時に「京成電鉄金町線」の踏切を渡りました。この線は「柴又帝釈天」に行っています。昼も近くなってきたのか、ラーメン屋さんが3軒ならんでいて2軒は並んで待っています。少し歩くとここにも沢山並んでいる、持ち帰り牛肉弁当屋(一つ390円)ラーメン屋と言い弁当屋と言いこんなところでこれも不思議。大きな立体交差点に来ました。右に行くと6号線(水戸街道)左が旧水戸街道。街道に入って少し進むと左奥に由緒ありそうな神社が見えたので入って行きます。「半田神社」と言い、11世紀の建物で、麻疹(はしか)疱瘡(ほうそう)・安産の神様と言う事ですが、なぜか境内の周りの石の欄干?と言うのか、ほとんどが魚河岸の関係の名前です。題目は書きませんが歌舞伎にもあるよお宮とのこと。左奥にはお稲荷さんが祭ってあります。ここまで見てきたお宮にか必ずお稲荷さんが一緒にありました。都立「水元公園」の入り口を通り越すと江戸川の葛飾橋を渡ります。今日は思ったより温かで汗をかいたので橋を渡るときの風がさわやかでした。東京と別れて千葉の松戸市に入ってきました。川添を少し歩いてから町中に向かいます。三叉路があってここを左に曲がったところから「松戸宿」なります。街灯が提灯の形をしていて「松戸宿」と記入さてています。河津桜祭りを行っているようですが、何処に咲いているのだろう?江戸川の土手の方かな?思いながら歩いていると右の路地の向こうに「松戸神社」が見えましたので入って行きました。神社の手前に川があってその川縁に河津桜が丁度満開でした。それなりに人が出ていました。この川は「坂川(さかかわ)」となっていますが昔に江戸川が増水すと逆流してくるので昔は逆川(さかがわ)だったとの事、江戸時代に治水工事の行って逆流しなくなって今の名前になったとの説明標札。松戸市全体の鎮守だけあって写真よりどっしりしています。平成18年には「三笠宮様」が参拝と高野薪の植樹した。又、宇宙飛行士の「山崎 直子」さんが安全祈願とお礼参りをしたとの事です。お百度参りの設備もあり、お稲荷さんも祭ってあります。土曜日と桜まつりなのか人出が結構ありました。街道に戻ります。街道の商店街ですので呉服屋の大きな店とか乾物屋、その他専門店など、都内では見かけない古い暖簾のお店が見受けられます。12時を回りましたので食事の店を捜しながら歩いてりるとお寺が三軒ならんでいます。一番手前のお寺「宝光院」入り口に説明の標札がありましたので読んでみますと、この寺の境内の隣に「北辰一刀流 千葉周作」の道場があった。千葉周作の父は馬医者をしており、周作が15歳の時に岩手県よりここに転移して、道場を開いた。周作が入門した先生と、周作の父の墓所がこの寺にある。寺は派手な朱色です。寺よりも35体の石仏が並んでいてこちらの方がすごかった。通りに出まして、食道探し「坂川」の橋を当たると右に大きな建物「伊勢丹」見えます。伊勢丹と言えば府中店は閉鎖と聞いた。地方のこの一都市の店は大丈夫なのか、他人なれど少々の心配をします。百貨店の時代は過ぎました。自分の食事の心配の方が大事かもしれません。1軒宿場時代の建物で、高級サイクリング自転車を販売しているお店、アンバランスで面白いです。通リ過ぎて松戸駅前入り口の信号の手前にこれまた老舗でしょう、古い建物で天丼・天重・アナゴ丼専門店アナゴ丼を頼みましたが、美味しかったが具が少し硬すぎだった。このお店は他に手打ち蕎麦屋、寿司屋を市内にあるとの事、「関宿屋」松戸行かれ時に如何でしょうか?昼食が遅かったので1時過ぎの出発となりました。宿場は松戸駅の入り口信号で終わっているようです提灯街灯が此処で終わっていました。出発して直ぐに(まん)満寺(まんじ)の山門が見えます。余りにも立派なので入って行きました。この山門を潜るとその奥にまた素晴らしい仁王門があります。右側の仁王様をよく見ると股くぐりりが出来ようになっています。帰って調べて見ましたら正月の3ヶ日御開帳になり厄除けに潜れるとの事です。本堂も結構なものですが、この山門と仁王門には位負けをしております。街並みもこのあたりで終りとなります。少し進んだところに右の小高いところに神社が見えます。「金山神社」です。入って行くと常磐線の上に陸橋があってそれを渡ると境内に行けますが、下に降りて階段を上がって行きますと途中に「九合目」の立て札があります。登り切ったところが社です。どうもこの神社は富士山信仰お宮で神社が富士山の頂上と言う事のようだ。陸橋を渡り街道に戻り少し歩くと旧水戸街道を常磐線が横切っているのです。陸橋があって人間は陸橋を渡り線路の向こうの街道に繋がりました。自動車は先の方に新しくできた陸橋を渡って国道6号線に出るようになっておましす。少し歩くと6号線と合流しました。北松戸駅駅入り口を通り過ぎてしばらくすると6号線と別れて左斜めに進みます。馬橋駅入口をとうり過ぎて坂道を登って行くと又6号線と合流します。56分歩くと二ツ木と言う信号がありここらら又旧道に入りますが、信号の向こうにきれいな神社が見えましたので信号を渡りました。蘇羽(そば)(たか)(曽場鷹)神社」綺麗なしっかりした神社です。城の跡地に千葉氏が建てた神社で千葉氏の守護神となっている、境内には榎の大木が2本ありした。信号を戻り旧道に入ります。武蔵野線のガードを潜って行きます民家の家の石垣の代わりに「酢壺」か何かの壺で石垣代わりざっと計算したら500個以上あります。崩れたら大変。この辺は上ったり下りたり坂道が続きます。上がり切った信号が6号線との信号を突っ切りますと「小金宿」に入って来ました。北小金駅に向かって進みます。骨董市の旗がひらめいております。近づいてみると寺の境内で市をやっています。長い参道で奥の方に立派な山門が見えましたので入って見ることに致しました。まずまず第一門をくぐりますますと参道の両側に40件ほどの店が出ていて店仕舞いが始まっていました。写真が第二の門三葉蒼のご紋の付いた「仁王門」です。第三の門をくぐると右に立派な鐘楼があって突き当りがやっと三つ葉蒼のご紋の付いた本堂です東漸寺(とうぜんじ)このお寺は簡単に案内標示を纏めると、第十七世住職が徳川家の授戒師を務め、二代将軍秀忠にも信任が厚く、秀忠の葬儀では大師導を務めた。枝垂れ桜が有名で、エドカンザクラであり実生苗より育てられた希少な桜です。その他色々あるようです。こちらに来た時はぜひ立ち寄ってみる価値のお寺です。「東漸寺」と前後してしまいましたが「旅籠玉屋」です。小金宿は大きな宿場で旅籠も多く現在残っている「玉屋」は鈴木家のもので代々「惣右衛門」を名乗っていて徳川家の宿泊旅籠であった。外観しかみることが出来ません。駅はすぐそこになります。この日の水戸街道はとにもかくにも、お寺と神社がやたらありました。それも立派なものばかり、全てを見てきたら3日はかかるのではないでしょうか?写真も選んで挿入しましたが選ぶのが大変でした。本当はゆっくりとそれぞれの勉強をしてくれば良いのでしょうが、歩くことが目的ですのでご理解ください。

                    旧水戸街道第一回完



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2016年2月「旧日光街道」がスタートしました

昨年に引き続きウォーキングをやろうかなと思い、どこが良いかと検討致しましして峠のもないし坂道もない旧日光街道が浮かんできまして、決定いたしました。身体との相談もありますので、成し遂げることができないかもしれませんが、一つの挑戦であります。なれては来ておりますので、楽しみながらおモットーに、往けるけるところまででよいと言う気持ちでまいりたいと思います。地図でも見ながら読んでいただければ解りやすいかと思います。 歩記者 林 厚男

第十回

平成28127日(水曜日)            天気 雲後晴れ 気温9

今市宿〜鉢石(はついし)宿(しゅく)(日光)       地図上距離9.5q 実質距離12.5q      


      追分地蔵

     フクロウの像の家

            重連水

         東武日光駅

     ゴヨウマツの大木

         神  橋 

新宿より直通の特急にて日光に1時間半余の旅、今日は今までの歩記で初めての試み同年のゴルフ友達であり、ウォーキング友達と同行です。下今市駅で降りて駅前の小さなラーメン屋、これがとても美味しかった。街道の小倉町の信号を右に曲がり杉並木に入りました。気温は低いが風がないので気持ちの良い出発です。並木を少し歩くと国道119号線と合流する。道路の向こうに祠が見えるので渡って境内に入って行くと「追分地蔵」となっている。丸彫座像の石地蔵として東日本郵有数のもので、製作年代は室町時代ではないか、日光街道と「日光例幣使街道」との分岐点であるためその名が付いたと記してあります。日光例幣使街道を調べてみると中山道を来て今の高崎市より佐野市に出て鹿沼市に出てこの地蔵さんのところで日光街道と合流。今で言う寄付金を日光に寄付金を収めるための街道で日光街道の裏道となっていて寄付の為に決められていたのでしょう。街道に戻り進みますとこのあたりが「今市宿」中心地になるのでしょう大きな地酒屋・たまり醤油屋がありました。日光名物に「たまり醤油漬」がありますので此処が発祥でしょうか?道路の左に「今市宿」の碑が立っていて、その反対側には写真のような古い建物がありした。よく見えないのですが二つの石像が見えますが 大きなフクロウの像です。意味が分かりませんが、趣のある建物ではありました。古い建物で市場らしき建物はこのくらいでした。街並み を過ぎると又杉並木に入ります。此処から長い杉並木に入って行きます。車もほとんどこの辺りから通行止めです。そのために杉の枯れ葉が沢山落ちていて歩きにくい。それだけ保存が必要になってきているのだと思います。通 行止めになっているくらいですので、道路は舗装をしておりませんし、美しいて歩きやすい石畳になっている区分が結構ありました。又、 並木の途切れた一部分には家並みが右左何軒かあり、家は新しくなったりしておりますが、石畳になっていて両側にきれいな小川が流れて いて、昔のままになっているので、保存指定区域となっています。小さなお宮が何軒かありますがお寺のような祠も何軒かありますがさび れていたりして通りすぎます。その中に「報徳二宮神社」と、これも小さな神社でしたが二宮尊徳は、馬次郎(うまじら)から日光にかけ て土地の開拓に設計から工事指導まで手広く携わっていたことが分かります。右側に「杉並木公園」の看板がありましたので入って行きました。いろいろのものがありますが、写真の「重連水車」がありましたので 入れてみました。水が豊富なので二台を繋げば力が相当出たでしょう。自動車道路は並木の向こうなのでこの大きな公園は地元の人しか利 用しないのではないか、もったいない。公園の半ばから並木に戻り進みます。今日は天気も良いのか何人か方向者に会います。少し歩いた ところに、ほとんど形跡がありませんが滝川一里塚、日本橋より34里になります。一休みして出発です。説明看板があります。「砲弾打込 杉」説明によると、付近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠こもり幕府を攻撃した際、前哨戦を行ったところで、この杉の幹の凹んでいると こは砲弾が当たって破裂したところである。としてありますが言われてみてあれがそうかと23か所それらしきもの。一つの並木を過ぎま たすぐに並木に入るところに「杉太郎」の看板説明には並木の中で一番太く姿も良いのでその名を付けた。とありましたが今まで歩いてと ころにそのような大木はいくらでもあったように思うが・・・この並木が切れて次の並木に入る手前に「龍蔵寺」跡とありますが、この寺 は後で分かるのですが日光の町の中心地に30年ほど前に新築をしてありました。通行止めの長い並木を過ぎると、並木の道路と119号と合流します。これが大変危ないのです。自動車と一緒に進み歩道がありません。対面 するとも避けてくれますがこちらも土手の方に寄ります。こんなに危ないところですが、前を少し足が悪そうなおばさん(65歳ぐらいか な)歩いております。避けて頂いたので御礼を言ってついでに聞いてみますと日光まで1人で歩いているとの事。追い越してしばらく行くと「明治天皇七里御小休所跡」とあります。門の中に小さな建物が保存されていました。右側に並木の切れ間にJR日光駅です。すぐに並木が終わります。急に街並みになり、右が東武日光駅です。街並みが整理されてきてさすが「世界遺産日光」というところです。整備は一部ですが、これから綺麗な町全体が見られるようになるでしょう。こんな季節でも人が良く歩いていて活気があって益々の発展があること間違いなしと思います。そんな街並を歩いて行くと右の奥に「龍蔵寺」があり行って見ると先ほど書きましたがまだ新しい。「重慶」を弔ってあり戊辰戦争で戦死し た芸州藩士の墓がるとの事です。沿って歩きますと市役所もそうでしたが消防署が和風式の建物、このような建物の消防署は初めて見まし た。友達が道路を渡れとの指示で渡って路地を入ったところに個人の家ですが写真のような「ゴヨウマツ」(ヒメコマツ)の大木、樹高   2.1m・周囲3.2m・枝張東西13m・南北15mびっくりいたしました。そこを終わってもう1つ案内を頂いた。一筆で龍を画くお店。何時か昔ど こかで見たことがありましたが、3.000円ぐらいから10万円するくらいまでありました。又 元祖○○羊羹「綿半」というお店もありました。市役所と「観音寺」を左に見て「神橋」到着です。此処が日光街道の終点となります。宿場の名前「鉢石」は「はちいし」でなくて「はついし」と読みます。旅館に到着後、なんで「日光宿」と言わずに「鉢石」ですかと聞きましたが、地元の人は例によって誰もわかりません。読み方だけ教えてくれただけです。日光開山祖「勝道上人」が托鉢の途中川辺の石に座って日光山を仰いだ。その石が鉢を伏せた形をしていた。というのが由来と帰って調べて分かりました。日光の東照宮が出来るよりはるか昔の話と言うことです。又「神橋」は東照宮より後から出来たと思っておりました。が、これも又「勝道上人」が開山してから霊峰二荒山(男体山)神の鎮まり給う山として「日光二荒山神社」を作った。二荒山神社の歴史がはるかに古く日光東照宮は軒下を少し分けて貰ったようなものなのでしょう。「神橋」より歩いて5分の所の川縁にある「小槌の宿 鶴亀大吉」に着きました。夜は二人で楽しい夕宿が出来「旧日光街道を歩記」第十回をもって完了いたしました。

                   完 

追記

日光・中禅寺湖等何回も来ていますが、東照宮に23回寄っただけ、寄っても時間に左右されて良く見れなかったり、今回は時間に縛られずにゆっくりと思ってきました。

日光は朝8時より見学することがでます。旅館を9時に出発して、前を真っ直ぐ上がると東照宮に行きます。参道は人が少なく気持ちが落ち着きます。まず初めての「二荒山神社」にお参りをしました。東照宮に移動です。現在、中はどのようになっているか、今後行かれる方に参考にして頂ければと思いまして記してみます。入場料1,300円払い表門を入ります。すぐ左が「神厩舎」です。前は木で作った馬がいたと思いますが?そこに「三猿」(見ざる・言わざる・聞かざる)がありますが現在はレプリカでした。今補修中です。次は「陽明門」此処も補修中ですが、春先までは完了するのではないでしょうか?補修したところが結構見見えていまして、とても綺麗になっています。春になればとてもきれいな陽明門が見られると思います。「眠り猫」は改修が終わり、きれいになっていました。眠り猫の下を潜り、これも初めての「奥宮」(家康の墓)階段がきつかった。降りてきて「本社」入りましたが、此処は外回りが改修中です。これも間もなむ終わりかと思います。それから「本地堂」(鳴龍)に入りましてから表門を出ました。帰り道になりますがこれも初めての「輪王寺」正式名は「輪王寺大獣院」(りんのうじだいゆういん)三代将軍家光の法名とのこと、今大改修をしております。鉄骨で全て建物を囲っています。「馬頭観音像」・「阿弥陀如来像」「100手観音像」(三仏像)をはじめすべての仏像関係は仮設建物に入っています。鉄骨の建物は上まで上がることができ、改修のしている屋根より高く行けて、屋根の下地の作業をしているところが上から見えました。ビルの10階ぐらいあるでしょう。一番上は外回りにガラス張りの廊下があって、日光市を見下ろすことが出来ました。町に出て商店街を歩き昼食を済ませ。東武特急にて帰路につきました。

東京からは今、電車がすごく便利になっています。ゆっくり見学ができて日帰りが簡単にできます。是非もう一度日光見学をおすすめします。

        



第九回

平成281123日(水曜日)      天候 晴 気温13度 

大沢宿〜今市宿          地図上距離7.5q 実質距離8.5q

 


      王子神社

     王子神社

   空洞の杉大木

   下今市駅の陸橋より日光連峰

朝、6時頃起きた時は、強い北風で外は寒そう。朝食を済ませ「べっぴんさん」を見る頃は北風がピタッとやみました。挨拶をしてご主人に昨日の所まで送って頂きました。話の中で今日、日光街道を歩く人が一人宿泊するとの話でした。私のような馬鹿者が結構いるのでしょう。荷物を整えて出発です。直ぐに大沢中学校・小学校が並んでいて小学校の門を入ったところに二宮尊徳の石像が建っています。昭和10年に建てたものです。事実と反したものなので残して置いて良いものやら。その隣に「王子神社」源為朝を祭ってありました。

狩りにこの地に来ていたとの説明です。少し歩くと又杉並木の119号線と一般道の119号線と別れます。この並木か大木が相当朽ち果てており倒木になりそうなので車は通行止めです。人間が歩いても上を見て歩きました。2qほど歩いたでしょうか?水無の信号の一般119号線を横切ります。少し街並みを歩くと又杉並木です。此処は車が通れますが上からの一本通行になっていて砂利道です。両側に水が流れていて昔の雰囲気を味わうことができます。水無一里塚があり江戸から32里。1q位歩くと一般道と合流です。街並みを少し歩きますと右に「来迎寺」これと言ったものはありませんでしたが、参道に如来像他4像ぐらいがあって全て立膝です。今「正座と日本人」と言う本を読んでいるのですが今の正座は新しいもので立膝は平安時代から江戸時代中期?まで、立膝は当時の正座であったとありましたのでちょっと興味がありました。3qほどある長い並木に入ります。朽ちた大木はほとんどなく綺麗な並木です。初めにあったのが写真ではよくわかりにくいのですが「桜杉」と命名してありましたが、半分杉の木で半分桜です。華が咲いている時に来たいものです。1q位歩きますと右側に「七本桜一里塚」(江戸より33里)桜はありませんでしたが、塚の真ん中に写真のように中が空洞であり、人間だと67人は入れそうです。これは「並木ホテル」と命名してあります。外人の二人連れが入ったりして写真を撮っていました。ここを離れて進みますと、杉の木を切り開いて一軒の家が建っています。今では許せないことなので戦後のどさくさ紛れに杉の木を何本か切り倒し立ったものだと思いわれます。知った人に聞きたいものですが周りにはいませでした。ここを後にして歩きますと東武日光線のガードを潜ります。通り過ぎますと大きな交差点でそこには歩道橋があり、左に行くと「JR日光駅」、右に行くと東武日光線の「下今市駅」駅です。

昨日と今日を歩いてみて皆さんに進めたいのは、杉並木を歩くことを本当は進めたいのですが、多分駄目な方々が多いと思います。車でしたら、有料日光道路を走らない東北道宇都宮インターで降りて日光街道を走るか、先に日光に行って日光街道を下りて来るか。下りてくれば一方通行の並木道が上からになっています。是非、杉並木に・・・

此処から「鉢石宿(日光宿)」まで8qたらず。今日簡単に歩けしまうのですが、帰ります。理由は最終回にわかります。そんな訳で東武電車の特急に乗って帰るつもりで駅に来ましたら、新宿行きの特急があるではありませんか。あと十五分で出発です。今市にいますが今日はイマイチでなくホンイチでした。美味しいそうな駅弁と缶ビールを購入して車中の人に、鹿沼市から栃木市を通り埼玉の栗橋でJR線に乗り入れて大宮から池袋,新宿。1時間50分で到着でした。写真は左に日光連峰で左が「男体山」です。 23日は良い天気で24日は歴史的東京積雪と11月の初雪50年ぶりとかできっと今日(24日)はこの山も1日違いで真っ白になったことでしょう。歯医者の予約をキャンセルして1日早い行動で雪に遭わずに済みました。これも一つの思い出となるのでしょうか?        第九回


第八回

平成281122日(火曜日)         天気晴れ 気温19

宇都宮〜徳次郎宿〜大沢宿       地図上距離21q  実質距離24.5q



桂林寺」と「琴平神社」

   安産子育地蔵尊

   光明寺の山門鐘楼

  大谷石でできている庄屋?

  智賀都神社夫婦欅

  杉並木の入り口

    此処より杉並木の碑 

朝の福島沖地震で電車が大宮に50分遅れで到着、新幹線に乗るはめとなってしまった。そのお蔭かどうか、宇都宮には予定より早く着けた。市内バスで伝馬町に出て、旧日光街道入り口で、熱いのでジャンバーを脱いで出発です。

歩き始めると、左にお寺がる。前回はあまりお寺がなかったので、その反動で今回は少し覗いてみようとまず「宝勝寺」と言うお寺に入った。別に普通のお寺だが、私は何も知りませんが江戸時代の有名な川柳の達人「前田雀郎」の墓があると言う事だけが分かりました。少し進んだところに「桂林寺」結構な山門があり寺そのものも大きな立派な本堂がありました。ここには変人で儒学者の「蒲生君平(がもう くんぺい)の墓があるとの事、この方もなにも知りません。又山門の隣に鳥居が見えますが「琴平神社」前にも書きましたが、日光街道には神社仏閣が一緒のところが多いです。

このあたりが宿場の中心となるのでしょうか?宿場の建物が何軒か残っていて、一軒 などは宿場の建物で仕事はソフトの仕事をしている。不釣り合いですが現代を表しています。又一軒は和菓子と食堂をやっていたのだが店じまいをしておりました。「長い間お世話になりました」という張り紙です。このあたりは街の県庁の裏になるようですが街並は古いし近くの人がわずかに買いに来るだけでし商売には難しいでしょう。119号線の抜け道になっているようで車だけは、ひっきりなし走っております。古い建物もなくなってきましたので宿場も終わりの様です。

少し歩いたところが松原」三丁目の交差点、此処で119号線と合流して、一つの日光街道となります。左に大きな建物「栃木県体育館」と銀杏の色づいた美しさ見ながら進みますと、左に面白そうな建物があるのではいいっていくと、高尾神社の境内の端に地蔵尊を祭ってある建物でした。「薬師如来妙吉安産子育地蔵尊」前回辺りから、地蔵尊などは大谷石のものが多く、地蔵尊などは赤と白の布をぐるぐる巻きしてあります。多分、風化してボロボロになってしまわない為のものであると思われる。しばらく歩くと大きな交差点に来ました。右からは宇都宮市を通り越した4号線から新しくできた119号線、左に行くと前回歩いた雀の宮に行く県道です。これを過ぎた所から日光街道の並木に入っていくのですが、まず桜並木です。大木になっておりますので吉野桜ではないようです。並木は1.5mほど高いところに植えてあってその左側が歩道になっているため、車の音はあまりしないし、危険はないし、最高と言ったとこです。桜が少し減って来て、檜の大木が多くなり、モミジ、銀杏が混ざってきて緑に紅葉が混ざりきれいです。杉の木は一切ありません。

左にこんもりと「上戸祭(かみとまつり)一里塚」があります。東京から28里(約112q)その隣に大きな大学あります。名前が「文星芸術大学」としてあります。短大もあるようです。調べてみると宇都宮学園(高校・中学)が1911年からあり、そこの運営で大学は1999年設立となっている。少し進んだところに「レオン自動機(株)」の工場があります何かどっしりしていて趣のある工場です。気になりますので帰って来て調べてみると一部上場をしており内容も良き会社の様子。お菓子とか食料に関係の機械を作っていて、ものによっては世界の8割を占めているものもあるようです。この並木も23qでいったん切れまして一般道となり民家、商店など並んでおります。

ファミリーマートでトイレを借りて一休みして出発です。光明寺と言うお寺があってちょっと変わった山門なので写真に撮りました。上は鐘楼になっていて、関東八十八か所霊場の二十三札と書いてありました。日光街道には珍しく道路がカーブになっていて曲がったあたりから左右に素晴らしい竹林があります。筍を栽培しているので、竹林をしっかり手入れをしてありました。竹林を過ぎると又桜と檜の並木入りました。この並木は1q程度で終わり、119号線のパイパスとの立体交差点に来ました。パイパスが「東北高速道路」宇都宮インターに行っている訳ですが、日光街道の119号線もインターチェンジの直ぐそばで食べ物屋が沢山あり昼食をと思ってきましたら何もここにはなくガードを潜った所にファミレスがありました。行く先を見たが食べ物屋が見当たりません。ファミレスには中にカンターがあり椅子が5個ほどありここで済ますことにしました。日光の手前だけに昼食はイマイチ(今市)でした。又今までと同じような並木に入り、冨屋小学校前で並木が切れます。この辺りが「下徳次郎宿」となりますがそれ示すべきものは見当たりません。ただ右に案内板が出ていて300m先に「徳次郎城址」としてあります。小さな丘が見えますそこなのでしょう?大きな交差点を過ぎるとこのあたりが「中徳次郎宿」となります。

庄屋さんだったのか当時の建物で、裏に蔵が何個かあり、別の建てもあり全てが大谷石です。写真の建物も壁からすべて大谷石で2階の屋根は瓦ですが一回の庇屋根は大谷石です。

この辺りが中心なので、本陣もこの近くにあったのであると思われる、宿場を町おこしの為に利用しようとは思わないのでしょう。何も説明とか案内とかが何もありません。「上徳次郎宿」に入ってきました。道路を渡って「智賀都(ちかつ)神社」入口に見える欅は夫婦欅と記してあり、県の天然記念物で700年の老木です。神社を出たところで家の外に居たおじさんに聞きました。上徳次郎宿場はどこで終わりですか?少し先に見えましたが、道路の分離帯に当時の「徳次郎六本杉」を再現してあるのですが、そこが宿場の終わりですと教えてくれました。又、この三つの宿場は喧嘩をしないように、一か月を三つ見分けてそれぞれに営業をしていたとの事でした。今度は宿場ではないのですが昔は「石那田(いしなだ)村」へと入って来ました。「船生(ふなふ)街道入り口」と言う信号に来ました。昔は街道の分岐点になっていたのでしょうか?この周りには目の前に「石那田一里塚(江戸から30里)やら「日光街道植樹記念碑」・「十九夜塔」・「道祖神」などは一ヶ所に並んでいます。道祖神の前にて一休み。進みますと道路の向こうに「二宮尊徳先生遺跡 石那田堰 100mと標識が建っています。土手を下りて道路を渡り100m.降りて行くと田川と言う川が流れていて川のほとりに二宮尊徳に関する碑が3〜4個小さな祠が一つ。尊徳がこの川の堰を設計から工事の指導をして村に大きな貢献をしたのだろう。その記念に建てられたのでしょう。碑の字が古くなっていて読めませんでした。

街道に戻って進ますと田川の橋を渡って、道路の向こう側に大きな門のある「廣田家」があります。こちらには「石那田八坂神社」があり境内の脇には「廣田家」の何代も続いているお墓があります。村の大物だったのでしょう。過ぎた所より又並木が続きます。此処はほとんど檜に大木の並木です。2キロほど歩いたでしょうか地蔵尊の祠がありましたので時間も思ったより早いので祠の敷石に座って一休み。此の地蔵さんも布でぎりぎり巻「占い地蔵」と書いてあります。小さな説明がついていたので読んでみると、昔このあたりに疫病が流行り子供が亡くなって行く「八代将軍吉宗」が疫病封じに建造したとありました。

太陽も少し傾き始めたので進みます。この並木も終わるころ、此処より「日光市」の標識です。檜並木が終わって119号線を右に渡ります。写真を見ますと左側が119号線新道、右に真っ直ぐ入ると119号線(旧日光街道)、200mほど進むと左の写真の碑が立っていてここからが日光街道の杉並木となります。左の碑には「特別史跡 特別天然記念物日光杉並木街道」と書いてあり右の立て札は此処からの杉並木を植樹して寄進をした相模野玉縄藩初代藩主「松平 正綱」の事が書いてあります。杉並木の出発です。この並木は枯れそうな木は1本なく大木が切り立っていて、霊感あらたかと言うのか気持ちが落ち着き車も通らないし人も1人もいない、静かすぎて怖いくらいでです。1キロぐらい歩いたでしょうか119号線との信号に出ました。この辺りが「大沢宿」となります。

今日はここまでです。ユースホステルに電話をして今日泊りの宿から迎えに来て頂きました。宿に着くと430ころでした。此処の30歳代らしきご主人が経営している剣道の道場が繋がっていて、明日が祭日なので、ちびっこ剣士が遅くまで練習をしていました。このご主人が物静かで優しそうな顔をしていて、剣道6段との事驚き。

夜、震度3の余震がありました。                    第8回完


第七回

平成28年月日( )      天候晴れ  気温13度 

石橋宿〜雀宮宿〜宇都宮        地図上距離13q 実質距離15.5q




  日本橋より100q

   国道119号と4号の分

朝、目を覚ますとはれ。昨日の予報だと風が強く寒いとの事だった。

朝食ののち830分ホテルを出発、下野警察署を右に見ながら進みます。昨日の後半からですが宇都宮に近くなって来たので各家の蔵と塀が大谷石にて建造されております。柔らかいために年月が経つと風化してきており触るとボロボロになったとこころが多い、また家の名札の苗字が「福田」「渡辺」が多い(県知事は福田)そんなところを眺めながら歩いていると、面白い商売の店がありました。肖像画の店です。地元の人の顔はわかりませんが、芸能人の顔はそっくりでした。写真を見ているようでした。通り過ぎてから右に「鞘堂地蔵尊」お堂があるので覗いてきました。地蔵の首だけを祭ってあります。室町時代の足利義光時代に戦場になってお寺があったが焼かれてしまい大勢の戦死者が出てしまい、死者の方なの鞘(さや)を集めて焼け跡に埋めてお堂を作りその中に地蔵を安置した。昭和の初めごろまで桜並木があって、祭りには露天商など出て賑わったが、戦後老化により解体してしまい其の後今のお堂を作ったとの説明立て札。おばあちゃんが何人かで日向ぼっこをしながら私を不思議そうに見ておりました。国道に出て少し進むと宇都宮市の「雀の宮宿」に入って行きます。暑くて仕方がないのでコンビニでトイレを借りて水分補給をして、ジャンバーを脱いで出発「北関東自動車道」の下を潜ると左に公園らしき森のようなところが見えます。五分以上歩いてもまだ途切れません。信号に来ましたら、「陸上自衛隊宇都宮駐屯地」の入り口でした。それにしても広いなあと感心しました。自衛隊駐屯地を過ぎた所に私立の病院で大きな「うつのみや病院」病院の前に松並木があって、こういう病院だと癒されるにではないかと思う。落ち着けて直りが早いのではないだろうか?

雀の宮宿に入ってきているようですが、宿場であった面影は何もありません。ただ小さな神社で「雀宮神社」がありました、このくらいでしょうか?またこの神社の境内の銀杏に枝が折れるのではないかと銀杏の実がなっています。来る途中でも民家の庭に同じような木がありました。今年は当たり過ぎの年の様ですが、話に聞いたのですがあまりにもなると木が枯れると聞いたのですが本当だろうか?神社の前をとうり過ぎると東京から100q(日本橋)の標識です。国道の距離の標識なので旧日光街道は何キロか伸びます。年のせいか一昨年の甲州街道より100km歩くのに時間が掛った気が致しました。区切りとなるので先のコンビニでトイレを借りて1休みと思い入ったら使用中、なかなか外のベンチを借用出発して直ぐに自衛隊基地が又あります。「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」となっています。

規模は先の基地より少し小さいようです。ヘリコプターが降りたり、離陸したりしていたので、目的が違うのでしょうね。雀の宮宿を過ぎると旧宇都宮市内に入って行きます。道路の両側は栃木県の各自動車メーカーの出先と販売店の本社がひしめいております。

国道121号線との大きな交差点を渡りますと、(すう)(きょう)真光(まひかり)というなんだかわからない宗教の大きな建物、帰宅ののち調べてみると本部は岐阜高山市、高山に行った時宗教の大きな建物がありましたがそれかもしれません。芸能人では 勝野 洋・アントニオ猪木・沢田雅美などが入会している模様。通り過ぎますと大きな三叉路の信号右に行くのが国道4号線、真っ直ぐが此処より「国道119号線(日光街道)」4号線とはここでお別れです。まっすぐ進みます。左に大きな「富士重工業(スバル)」宇都宮工場、正門は厳重な警戒です。自衛隊のシートをかぶせたトラック2台先導車がいて出て行きました。どうも自衛隊に関する物を製造してるなとわかりました。後は飛行機に関するもの宇宙ロケットなどに関す    る物を作っているのではないか?自動車(スバル)は此処では一台も作っていない。

JR日光線のガード潜って二人のおじさんを追い抜き、不動尊の信号でこのあたりで旧日光街道は左に行くはずだと思い地図を見ていると、さっきのおじさん二人が何処へ行くのだとの質問。日光街道を歩いていることを話すとまっすぐ行って突き当りを左との説明、おかしいなとは思ったが、まっすぐ進んだ。一人のおじさんが追っかけてきて、実は日本橋まで歩く予定をしているのでのこと、初めから無理をすると続かないから10qからと説明と心がけを話しました。歩いていると日光街道には間違いないが、旧道ではなかった。さっきの信号の左斜めに行くのが正解だった。東武電車の宇都宮駅に来た。東武百貨店が駅舎と一緒になっていてちょっとトイレ休憩、国道119号を左に曲がって次回の道路の確認を行い、バスに乗って宇都宮駅に出て、宇都宮名物の餃子を食べに駅前の平日なのに並んで待っている「典満餃子」と言う店に入って、餃子をたら腹と生ビールで昼食にした。安くて美味しかった。次回も帰りによって食べたいな思い帰途。  

 第七回完了     


第六回

平成28118日(火曜日)      天候 曇り   気温15度 

小山宿〜太田新田宿〜小金井宿〜石橋宿      地図上距離18q 実質距離21.5q



  よく見えない三本の欅

  本陣の門と現代建築の豪邸

 昔の屋号が記してある

   小金井一里塚

    立派な鐘楼

   ケヤキの山門

  豪華な下野市役所

  丸大食品の慈母観音


横須賀の方でホームに人が降る事故があり電車が遅れて小山駅を
PM11.30スターとなった。

旧日光街道(県道265号線)に出て右に曲がります。まだ宿場が続いていて、街路灯に

「日光街道小山宿」の旗がなびいております。このあたり昔からの和菓子屋さんが多く見られます

「○○本店」と何軒もあります。でも時代でしょうかもともとの和菓子も店先に置いてありますが、パイのお菓子などの近代的なお菓子が半分を占めております。

500mぐらい歩いたでしょうか?小山宿の終わりです。右にはあまり見かけない剣道具専門店がありましたが、専門店で成り立っているのでしょうか?宇都宮法務局小山出張所の前のラーメン屋で「ちょい辛ネギ味噌ラーメン」の昼食です。寒いので大変あったまって出発です。

両毛線(小山駅〜高崎駅)の踏切を渡ります。この両毛線の名前はどこからとった名前なのでしょうか?しばらく進みますと急に左に大きな工場「小平産業(株)」があります。名前の横に特装車製造と看板が出ております。トレーラー・ダンプカーなどのボディーを製造しています。ダンプカーもちょっと変わった車体やら、大きな25トンダンプカーなどがおいてあります。特殊車体は新明和工業とか加藤ボディーなどの会社は頭の中にありましたが、初めて聞く会社なので勉強になりこれからは道路で気を付けてボディーの後ろのKODAIRAネームを発見しよう。

喜沢分岐点と記してありますが、何も説明がない昔街道の分岐点であったのでしょう。そこを少し進むと国道4号線と合流です。「須賀神社」の鳥居が見えてきました。前回はやたらにお宮とお寺がありましたが、今回はやたらと少なかった。あっても小さな祠程度でした。まあまあのお宮でしたので記します。長い参道でシンボルであり、市の指定文化財の400年以上のケヤキ三本、奥には300年以上の杉並木でした。社殿は小さいのですが、裏山は祇園城という城があり土塁が今でも残っているとの説明です。此処を過ぎたあたりより「太田新田宿」に入ってきたようです。

羽川小学校があって大きな銅像があり「菅沼良太翁寿像」とありましたが、裏の説明が良く見えません。宿場の名残は門のなどが残っていて、左の写真が門の柱に本陣の名札が付いていました。中の家は近代建築です。右の写真は各家がほとんど近代建築で門のところに宿場の時の屋号が記されていて1213軒ありました。

みんな立派に家ばかりでしたが一軒だけ古い大きな社屋があり、物置小屋(納屋)に軽四輪の貨物車と外車の高級車が止まっていて、現代的不釣り合い?微笑みました。

宿場のはずれに「幕府代官屋敷跡」の建て看板があるが何も残っていず、物置が二つ置いてあっただけ、その奥がお宮になっていた。通り越すと「下野市」に入って来ました。コンビニでトイレを借りて水を購入して一休みです。小金井宿場に入って来ましたが、ここの宿場は12軒の家で門のそれらしきものが残っているだけでした。但し国定指定跡「小金井一里塚」があります。

こんなに大きな一里塚は初めです。説明札を要約すると日光街道を整備着手が1,604年で国道4号線が明治17年(1,884年)日光街道としては約280年使われていた。此処は江戸から22里(一里は3.927q)写真の大木は手前が何代目かの榎で、真ん中が何時生えて来たかわからない椚(こんな大木の椚は初めて見ました)奥が欅。一里塚を離れて少し歩きますとお寺に来ました「慈眼寺」です。国道より入ると右に大黒様の大きな石像が鎮座しておりその脇には二十三夜塔、初めて見ますが二十六夜塔、十九夜塔(どちらも説明できません)前には欅の立派な山門をくぐると奥に見えるのは朱塗りの観音堂、右にはなかなか見られない立派な「鐘楼」です。本堂は火事にでもあったのでしょうか鉄筋コンクリ―トでした。 又参道の灯篭には菊のご紋が使用されておりましたが、徳川とのかかわりがあったのか?説明されるものがありませんので分かりせんが・・・ 慈眼寺を後にします。国道に戻ります。ここらあたりは田園風景となります。国道沿いに大きな桑畑があります。このあたりで養蚕をやっているようです。桑畑の桑が切られておりますので間違いなく飼育をしているようです。話は変わりますが先日東京駒ケ根会があって市長の話の中で、駒ケ根市も養蚕を始めて、その料理も始めたとの話、蚕のさなぎだと思います。私事、蚕のさなぎが好きなので帰省の折に買ってきます。生糸にしろさなぎにしろ、昔の良いこが見直されて来たことと思います。「自治医大駅」入口の信号です。駅の向こうには大きな大学の校舎が見えます。左は「下野市役所」、6万人足らずの人口の市役所にしては豪華すぎるのではないか、自治医科大学と大きな附属病院があるからでしょうか?進んで付属病院の入り口信号を過ぎると右側が大きな赤松の並木です。松くい虫でしょうか一部枯れてきていて残念です。

Tキロ余ある並木の中間あたりの食堂の休憩所を借りて一休み。並木が終わると左に大きな観音様が見えてきました。写真に撮りましたがハムで有名な「丸大食品」の関東工場の門のところに立っています。会社が立ったもので、国道の交通の安全祈願と社員の安全祈願の為なのではないでしょうか?工場の道路の反対には、黒豚とんかつ「合掌」という、どでかいとんかつ屋。観光バスが止まっておりましが大きなバスが20台は入れるような駐車場です。

今回の国道沿いには、スーパーとかパチンコ屋の駐車場がダダ広いのでびっくりします。

このあたりから石橋宿に入って来ております。国道のすぐわきに二か所に渡り、お寺がないのにお墓が並んでおります。少々異様な感じがしました。国道365号線との交差点を過ぎると街並みが石橋宿に入ってきていると思うのですが、この街並には宿場らしきものは何もありません。

少し薄暗くなってきて、町には明かりが付き始めました。石橋の街並みをすぎて10分ほど過ぎて宿泊のビジネスホテルに430分予定通りの時間で到着です。今日の国道はほとんどが真っ直ぐの道路で変化がなく面白味も半減と言うところでした。

 第六回完

第五回

平成281010日(月曜日)      天候 曇り  気温19 度 

古河宿~野木宿〜間々田宿〜小山宿         地図上距離18q 実質距離22.5q


   古河宿道標

   カナルハウス

   豪邸の一軒

 八十八か所巡礼めぐり

  どっしりの蔵と小川家

西堀酒造酒蔵 「若盛」


 珍しい商売のヘビ屋さん

 美しい須賀神社の参道 

6月に行っておくべきコースが、急に暑くなって今日になってしまった。古河駅を8:25分に改札口を出てロータリーへ、前回帰るときにロータリーにあった大きな碑が気になっていたので、観てみると説明書きがありましたが、よくわからないが万葉集にこの土地の事の歌が二つ載っているとの説明「渡良瀬川」にちなんだ恋物語の歌の要でした。直進をして前回の「古河本陣跡」の信号を右に折れます。これが旧の日光街道となります。

次の信号で道路がぶつかります(今は抜けています)ここも信州の「蔦の木宿」と同じで道路がクランクになっています。その角に「日光街道古河宿道標」常夜灯も上についております。文化財・有形民俗文化財との立て札のお説明。左日光街道・右江戸街となっています。説明しにくいのですが、クランクになっているのでこのようになっています。又このあたりが宿場の中心になるのでしょうか4軒のお寺が目に入りました。例によって日光街道の宿場には寺が多すぎて寄る気がせず、すぐに又クランクを右にまがいます。「日光街道古河宿」の旗が各街灯に挙げてありきれいな街並みなっています。商店街が終わるころ「宿道標」のところを突き抜けてい る道路と交わります。ここまでが「古河宿」です。宿場を離れると、左側に白い建物がありマリヤのような像が入口に

いくつかあり、中を見ると2階建てですが大きな建物です。きっとキリスト教の関係かなと思い中に入るのはためらいました。名前は英語で「カナルハウス」としてあります。帰って来て調べてみますと教会結婚式場で日本であるために、神式結婚式場にもなっているようだ。こんな田舎でこんな大きな式場で成り立つのかな他人ながら・・・。                          

少し進んだ並びに、「マーケットシティー古河」スーパーその他何軒もの店があるようで、モールになっています。広いので周りの人口を考えるとやって行けるのかなと考えさせられました。これも他人事ながら。開店前なのでしょうか人が一人もいない。 

此処を過ぎると、茨城県は終わり栃木県となります。同時に国道4号線と交わります。「野木宿場」の野木町です。左に「野木神社」の案内がありましたが700mの参道です。少々長いので行きませんでしたが案内板を読みますと関東奇祭の一つで「提灯竿もみ祭り」と言って竹竿の先に提灯を着けてそれぞれ火を消しあうのだとの事。又道路の向こう側に何か見えるので渡ってみると素晴しい山車が格納してありました。野木神社のものだと思いますが1億円はかかるのでしょう。何日か前に岸和田のだんじりの山車は1億円だとテレビでやっていたものと何ら引けを取らないように感じました。元に戻りますとそこに「野木宿道標」が立っていて説明を読みますと。日光街道は宇都宮まで奥州街道と重複をしていて荷物の輸送や往来する人々で混んいたので日光に行く人の為の近道が此処からあったとの道標でした。野木宿場は古河宿と間々田宿に近いためか野木宿場跡のしるしはありましたが、それらしき建物はありません。その代わりと言う訳ではないでしょうが道路の両側豪邸ばかりです。不思議だったのはそれぞれの宿場には何々家という家が必ず何軒かあるはずですが、小林家が二軒だけありましたが此処は全てが違う苗字だった。左に開山400年大法要との大きな立て札が出ていたので行って見ましたが、普通のお寺。ただ法要を529日に       行ったとの事で、確か美空ひばりと同じ月日だなと思っただけでした。野木町役場の案内の信号を過ぎた所に「大草本家」言う名札が出ていものすごい門構えの家でしたが、他に大草家の家は街道筋には見当たりません。大草家の門の前を通り過ぎると左手に山門があって仁王様が鎮座しているので、それべきのお寺と思って入って見ました。真言宗なので「弘法大師」の銅像があり写真ですとよく見えませんが周りに四国八十八か所のお寺の名前を書いた敷石があって、周りをまわると八十八か所回った御利益があるという説明ですが、たったの十秒ですヨお寺の名前は「法音寺」です。左には芭蕉の句の碑があり 道端の むくげは馬に 喰いにけり 

と刻んであります。案内の説明を見ると此の句はここで詠んだものではなく、静岡の掛川市のあたりで詠んだ。そんな句をなんでここの日に刻んであるのかの説明はない。芭蕉の弟子の曽良の「曽良旅日記」に野木を通過して間々田宿に宿泊したことが記されている。そんなことから地元の出身の句師が願望で碑を建てたのではないかとの説明で、1780年に建てた。

結構なお宮「八幡神社」が来たのでぼつぼつ休み時間かな、時計を見るとまだ10時を少し過ぎたばかり、又10分ほど歩きました。また八幡神社。まだ早い、先の方に神社らしき森が見えるのでそこまで行くことして行って見ると八幡神社、栃木県に入ってから気が付きましたが、相変わらずお寺はやたらとありますが、神社もやたらとあるようになりました。鳥居のところで休みましたが入って行くと左に大きな阿弥陀如来像がある。神社仏閣一緒になっている。2つのことが一緒に出来て良いことだ。ある時代に神社仏閣を一緒にしたとの話を聞いたこともあるし、時々見かけることもあります。少し進むと直ぐにここから「小山市」の標識です。場所は間々田乙女と言う住所になります。左手に大きくて綺麗な病院、私立病院で地方ではこれだけ大きな病院はなかなかないでしょう。大きな老人ホームとリハビリー棟も隣に並んであります。このあたりが「間々田宿」になるのでしょう。本陣等の建物はないのですが「小山市立車屋美術館」の看板です。写真だとよくわかりませんが昔の庄屋さんか何かであったのでしょう。大きくてどっしりした蔵と大きな品格のある母屋、住宅は小川家の住まいになっております。蔵も住宅も指定文化財で中を見学することができます。車屋美術館は敷地が広いため土地を小川家が提供して別に二棟美術館として立っております。全て無料です。まだオープンの時間ではありませんでした。

道路に帰り進みますと「間々田ひも(紐)」という紐屋さん。テレビの真田丸でやっていた「真田紐」と同じ理屈の紐であると思いますが、製造販売をしているようですが祭日で中に入れません。

それにしてもこの時代に商売になっているわけですから、何に使用しているのでしょう。しらべてみましたら現在は帯紐として使用しているようです。詳しく知りたい方はインターネットにて・・・

左に「間々田八幡宮」の案内標識です。大きな神社の要で市の公園も神社の寄付によりあるようですが参道が800m.もあるようで入りませんでした。進むと古い造り酒屋があり蔵が「国登録有形文化財指定酒蔵」となっております。西堀酒造と言う会社で銘柄は「若盛」です。酒屋を後にして進むと道路の向こうに「ロッククラフト」屋さんがある、こんな町はずれのところであるが結構やっていました。東京オリンピックの種目に入りましたから、繁盛している様でした。此処を過ぎると国道4号線は左に緩やかなカーブをしており、真っ直ぐが旧日光街道この大きな信号が「粟宮の信号」で左手に神社の参道があり「安房神社」となっています。紀元前からある神社で由緒あるようですが、やはり参道が長くていけませんでした。まっすぐ進んで旧道に入って行きます。ここからが小山市街となります。小山警察署入口の信号を渡ると宿場に入って来ます。新井という表札の架かった凄い門の家の前にやはり古い民家があり、庭に車が何台も止まっているのでよく見る小さな木板の看板に仏蘭西料理店と書いてあります。中には客がいっぱい。地元では知られた料理店なのでしょう。店先を通り国道50号線の踏切を渡りますと「小野塚イツ子記念館」 がありその敷地の中に大きな看板で「蛇しま」とあります。記念館で蛇の何をしているのだろう・・とはじめは思いました。蛇屋のほうは路地の奥にあるのだなと分かり入っていくと写真のとおりです。                                         

店の名前が「蛇しま」です。蛇類の粉、面白いのは、とんぼ・カタツムリの粉、蛇、熊の肝など・・・きれいなお店です。こんなところで商売が成り立っているようだが、まか不思議です。「小野塚イツ子」に戻ります。文学に弱いのですが、文学関係でそんな人いたのかな?記念館が休みなので帰って調べてみました。小野塚家は江戸時代から続く商家で、「万久」の商標で醤油を醸造。2003年に逝去されイツ子さんの遺言で16区画の土地・建物。預貯金 9千円、有価証券など4億円が小山市に寄付された。記念館は醤油工場の跡地に建てられものでしょうゆ工場・土蔵・四角なレンガ煙突が歴史遺産として保存されておりました。きっと後続者がいなかったのでしょう。

此処を過ぎたあたりから、街並みになって来ます。歩道を広く取り、町おこしのため街頭には「小山宿」の旗が掲げてあります。左に何か大きな碑が立っていますのでよく見る「小山宿脇本陣跡」で明治天皇の行在所であった。建物が小さいですが由緒ある建物が保存されております。

宿場と示すものはそのくらいで他には見当たりませんでした。左に鳥居があり「須賀神社」の参道入り口です。小山駅にも近いし今回は神社に行くこととしました。

広い綺麗な参道です。並木も何百年の経っているケヤキと銀杏ですが、両側は民家が多いためだと思いますが幹を10m位のところで切ってあり枝もみんな短く切ってあります。大変な落葉の量になるからだ思います。参道が400m.位でしょうか。大鳥居を潜ると神社としては、珍しく神門(寺では山門)があり両サイドは仁王様でありません。神様になります。笏を両手で持った白木の座像です。向かって右の神像は「櫛磐?(くしいわまどの)(みこと)」左の神像は「豊磐?(とよいわまどの)(みこと)門も神像新しく建てたりしたもので全て木曾の檜を使用しているとの説明。お参りをして街道に戻り「町の駅」を覗いて駅に向か小山駅は古河とは大分違って駅は賑やかです。ホームの下は綺麗なお店沢山並んでおりました。新幹線も止まりますし栃木県では宇都宮に続く都市でもあるからでしょう。「とちおとめ」のジャムを挟んだお土産を持って帰途につきました。

旧日光街道歩記第五回完

第四回

平成28514日(土曜日)      天候 晴   気温25度 

幸手宿〜栗橋宿〜中田宿〜古河宿     地図上距離19 q 実質距離21.5q


  休憩所としての建物?

     正福寺 

     顕正寺

   お墓の団体

よく見えませんが利根川橋


 椎の木の大木の並木

 常夜灯ここからが宿場

  石畳の肴町通り

 古河城下本陣跡の碑

昨日は28度もあって今日の暑さを心配しましたが少し薄い雲がかかったような天気で助かりました。幸手の駅を降りて拡張された美しい駅前通りを歩き左に折れて前回の旧日光街道を進みます。右手に小さな公園があり中に入って見ますと、此処は「問屋場跡地」で次のような説明がしてありました。もともとは奥州に通じる道筋の古い集落であった。「日光東照宮社殿」の竣工を期に幕府が作った宿場で宿としては勿論ですが、休憩宿場としての機能が主体だった。年間、昼夜休むことなく仕事を義務付けられていた。写真の建物は当時をしのばせるもので、問屋場と接していました。このような建物は他にも何軒か見受けられました。又もう一つ案内板がありこの説明は、7月15日に近い土、日曜日に祇園祭として七台の山車が引きずりまわされる勇壮な祭りがあるとの事。八坂神社があるわけではないようです。そういえば田舎でも7月15日ごろ祇園祭がありました。少し歩くと道路はSの字に曲がって行きますが、突き当りがお寺になっております。此処で宿場は終わりとわかりました。幸手宿場は初めてのお寺なので入って行くとコンクリート2階建の平坦な建物で、歴史は古いようですが、火事にあったのか、古くなって老化現象がひどかったのか・・・街道に戻りSの字を曲がり切り進みます。大きな3階建の高級感のある建物が左手に見えましたが、近づくと素晴らしい老人ホームでした。用水路の橋を渡ります。この橋は「筋違橋」と銘板がありましたが、川とは直角ですし意味が良く分かりません。国道4号線(日光街道)と合流しました。その角を左に入って行くと八幡神社があるようですが参道になっていて神社が見えませんので無視と言う事にしました。進んできますとおおきな標識で「権現堂公園」と記してあります。此処の公園は先日NHKテレビの「小さな旅」番組でやっておりましたが関東でもベスト10の桜の名所で、戦前は3000本の桜があったとの事です。今は戦後植えた桜が1,000本で1qにわたっていて土手の上は桜、土手の下は菜の花畑。春の桜の時には10万人の人で賑わうと放送でいた。「中川」の土手になるわけですがこの中川は都内に流れていて東京湾の手前で江戸川に流れ込んでおります。昔は都内で一番汚い川で有名でしたが、今、下流はどうなっておるのでしょうか?中川の橋を渡ると食堂がありましてエビ料理となっております。この中川でエビがいまだに取れていると言う事なんでしょう?橋を渡ったところから片側2車線の広い道路となります。国道に関わらず歩道がありません。土手の下の道路を歩2q歩きました。歩道がやっとあったと思ったところが又「権現堂公園」となっています。少し入ったところが調節池(権現堂川)になっており、さっきの権現堂公園とこの公園は繋がっていたのです。この権現堂川は中川と利根川が結ばれていて洪水になった時の調節池の様です。この公園で一休みです。水と少々のお菓子を頬張りました。国道に戻ると少し歩道を歩くと、今度は歩道が側道となっていて、道路側は見えませんが権現堂川に沿って歩く形となりました。東北新幹線の下を潜り国道の下を潜って旧日光街道に出ました。此処から「栗橋宿」になります。お寺を一軒通り越し又すぐに次のお寺です。境内の中をのぞくと人物象が見えたので入って行きました。親鸞上人の石像でしたが、説明はされておりません。中には寄木で作った「阿弥陀如来」立像があり、目玉が水晶でできていて文化財であるとのことで靴を脱いで中に入って見ようとしたが鍵がかかっていて入れません。又「池田鴨之介」の墓の案内板墓地に入って行くと、この方は幕府に願い出てこの宿場を村民と共に作った方だった。その墓の右に変わった墓があったので写真にしました。真ん中に碑が立っていて、お墓がぎっしり並んでいます。その名前が全部違っていました。お墓の寄り合いとでも言いましょうか。このお寺を出て来ると道路の向いにもお寺があります。この街道はそのたびお寺が多すぎていやになって来ます。建物もそれらしきものは残っておりますが、明治からになるのでしょうか呉服屋さん、下駄屋さん、荒物屋さんなどが古い建物のまま店が開いておりました。「池田家本陣」の前を通り宿場の終わりに「八坂神社」があります。関東三大神輿、100人で担ぐみこし、栗橋の誇りとしているとの事。その脇で大きな建物跡の遺跡の発掘をしておるようでしたが、土曜日でみんな休んでいて何の発掘か聞くことができませんでした。土手を駆け?上がると有名な「利根川」です。橋を渡り始めると橋の真ん中あたりに「茨城県 古河市」の標識写真で橋がもっとよく写っていると思いましたが小さく見えるだけ「利根川橋」を渡った歩数から650m.くらいでしょう。河川敷ではゴルフをやっていました。渡り切って左に降りて旧日光街道、此処は宿場と言うよりは関所があったとの事で関所跡を捜したが見つかりません。通り越してしまったようだ。街道の道をちょっと見失ったが地図など見てもとに元に戻す。「光了寺」古そうなお寺なので入って行くここは聖徳太子象も祭ってあるとの事ですが、有名なのは「静御前」を葬ってあるとの事です。静御前が義経を追って来てここで義経の死を知りこのお寺にお世話になったが帰ろうとしていたが、栗橋宿で悲しみの余りそこで亡くなったて光了寺に葬ったとの事です。隣が「鶴峰八幡宮」此処は鎌倉の鶴岡八幡宮と千葉の香取神社を祭ってあって当時は此のあたり広い範囲で力を持っていたようです。宿場の面影はほとんどありまが出来たばかりのようなお寺が二軒ありました「本願寺」と「顕正寺」顕正寺は同じ名前で栗橋宿にありました。食事時間ですが旧日光街道にはほとんど食堂はありません。何時も昼食時期は旧道を歩くことになってしまう。しょうがないから古河宿に向かってもくもくと歩きます。東北本線の踏切を渡ると旧道ですが道が広く歩道も自転車道と歩行者区別がついた広い歩道です。その歩道の真ん中に黒松が植えてありました。旧古河市に入って来たのでしょう。2qほど歩いたらやっとレストランに入ることが出来ました。ホッと一息食事を兼ねてゆっくり休むことが出来ました。食堂のお姉さんに古河駅まで時間はどのくらい掛かるのか尋ねると歩くのですか?とビックリしているから、1時間も見ておけばよいですか?「ハイ」と言う返事、幸手から歩いてきましたから大丈夫。年寄りだから気を使ってくれたのでしょうね。そんな歳に見られたかとちょっとがっかり・・・左に工業団地を見ながら進みますと右にこんもりした森が見えてきました。近づくと「県立古河第二高等学校」でした。正門の両側に並木になっております。開高100年たっていてその時の記念樹との説明、高さ17m.幹回り2.7m.の「椎の木」です。その並木の外側に「ヒマラヤ杉」の並木があるのですが自動車の排気ガスでしょう残念ですが半分くらいが枯れてきておりました。大弾幕が幾つもあって全国大会に文武共で出現が決まっている学校の様です。此処を過ぎると街中に近づいてきた雰囲気です。三叉路の信号に来るとその角にこれより「古河宿」の常夜灯が建っております。きれいな街並です。道路も広く歩道も広く並木は花水木と石楠花です。ただ残念なのは古い建物等壊してしまって何もなく、跡地、跡地の案内ばかりです。又この宿場昔は全長5qの素晴らしい松並木だったと説明の立て札、現地では老舗であろうと思われる、菓子屋などが見受けられます。又古河の名物は「フナの甘露煮」の様です。老舗が3〜4軒見受られた、臭そうなので土産には買いませんでした写真は路地で昔、城の裏木戸に直結していた通りとの事、通称「肴町」と言って米、お茶、お酒などの食糧を収めていたお店だった。今も食料関係を扱う店とか食堂とか、絵の展示場とか、和菓子屋さんとかあり近代的なものを扱っている割には良くマッチしております。その他の路地にもそれぞれ古い建物が残っていました。

今日は古河駅までと言う事で、駅に行く信号に来ました。三叉路なので駅からくると突きあたりとなります。信号待ちをしていたら、本陣跡の碑が立っているのが目に入りました。この跡地に銀行(写真左)正面がコの字の二階建て派手な建物、写真を撮っていたら説明に来てくれた人が東南アジアの顔です。良く建物を見ると、インド・フイリッピン・ビルマ・韓国等の店が78店舗入っております。説明のおっさんがこの先に行き路地の何か所かに、古い建物があるから見学をしていってくれと進めてくれましたが、今日はここで終わりであることを説明いたしました。宿場の町に建物がアンバランス、と一所懸命宿場の説明を外国の人から勧められて、なんだか面白いと言うか、何かが違うんではないかと思った今日の終わりでした。

                                         

                           第四回完

第三回

平成28426日(月曜日)      天候 晴   気温25度 

せんげん台駅〜粕壁宿(春日部)〜杉戸宿〜幸手宿 地図上距離21q 実質距離23q



     豪邸(森泉家)

      ユニークな便利屋さん

       東陽寺

   七階建の「匠大塚」

 懐かしい郵便ポストが残してある

 素晴らしい仁王様が鎮座している山門

   観音院 仁王門

    北緯360度記念碑

      400年記念の旗

  角穀跡 小島定右衛門邸

なかなか時間が取れず、やっと第三回実行できました。せんげん台駅に8時40分到着して少し準備体操をして早速日光街道に進みました。2前回目でも説明してありますが、国道4号線が2本走っています。日光街道とパイパスになります。300m.も歩きますと「新方川」を渡たって「春日部市」に入りました。国道の右側に「会之堀川」国道と平行をしていて川添を歩きます。どちらの川も地元では昔は清流であっただろうと思いますが、下水関係が行き届いていないのでしょうドブ川です。左にお寺があり入って行くとお宮も同じ境内にありました。説明の立て札を見ると、寺の檀家の人達が五穀豊穣の神様がほしいのでとの話し合いにて築いたとありました。昔は大枝村であったので「大枝香取神社」としてありました。この町にもありました。豪邸です。国道より100mの引き込み道路があって写真だと中の建物と、赤松の素晴らしい大木が三本あり門も重量感がありましたが写真ではそう見えません。国道に戻って少し進みますと便利屋さんがあって看板がおもしろいので写真を撮りました。家のすべてのトラブルに対応すると言うことで、写真の右上に見えますが「人生相談」まで受けている。田舎はのどかでよいですね。道は大枝地域を過ぎて備後と言う地域に入って来ました。昔は備後村と言ったのでしょう。進んで行きますと、お寺が二軒ならんであります。小さいのですが綺麗なお寺でした。一軒は幼稚園の経営を行っています。先ほどのお寺らと言い「浄土宗」のお寺です。派が3軒とも違っていました。道路の向こうに大きな酒屋さん。製造をしている酒屋さんと思ってよく見ると販売だけの酒屋さんでした。地方に来ると大きなスーパーやディスカウントなどありますが、名前と信用で店が成り立っているのでしょう。今日はお寺の出会いが多いようです。又2軒のお寺との出会いです。入って見ると特別なことがありませんでしたのでお参りだけといたしました。此処もどちらも「浄土宗」でした。国道に出て進みますと白装束の外人(インド人らしい)とすれ違いました。ヒンズー教でしょうか修業で歩いている様子、話かけて聞こうと思いましたが、日本語で話してくれなかたったらどうしようか?と思ってしまって話しかけれなかった。此のあたりに来ると、注文の家具を製造している個人的なお店もありましたし、別途に大型工場もありました。東武電車の「野田線」ガードを潜り抜けたところで一休み、散歩中の犬がなれなれしく寄って来てくれましたので気持ちが癒されました。出発して進みますと旧日光街道と4号線の日光街道が分かれます。もちろん旧道を選んで左に入って行きます。此処に立て札があり「此処より粕壁宿(春日部)」道も広く歩道も広くしてあり道路も歩道も綺麗です。旧道に入ると直ぐに左と右にお寺があり、右の「東陽寺(曹洞宗)」に山門をくぐり入って行きました。このお寺は奥の細道の一泊目のお寺との事、北千住の出発点から40q以上はあるはず昔の人は良く歩きました。「芭蕉宿泊の寺」との標柱と、巡行した曽良の「曽良日記の碑」が建っております。商店街は皆新しく街並みがきれいで地方に見られるシャッター商店街とはほど遠い、春日部の町だけどうしたのだろう。不思議に思って歩いていると右側に異様に大きな建物と大きな駐車場の建物、なんだろうと思い建物の横に警備員がいたので訊きました。家具屋ですぶっきらぼうの返事、それ以上話さないと思い歩道に戻る。丁度おばあさんが来たので訊きました。大塚家具の元社長(父)が娘とのけんかの末「匠大塚」という会社を改めて作り春日部の出身で故郷の町おこしの為に家具屋の出店との事、それで街並みも綺麗なのだ。手造り家具を主体に夏のオープンと大きな垂れ幕が出ていました。街道筋に家具を製造しているところがあり納得、今後のこの町の発展を祈りたいです。街並みが綺麗になったことは良かったですが通りに面するところはでは、宿場の面影は写真の「東屋田村本店」の建物だけです。これは本陣跡のすぐわきになります。でも町のいたるところに「粕壁宿」の案内の標柱が立っていています。きっと宿場案内図があって宿場めぐりが出来るようになっているのだと思います。春日部駅の入り口の信号を過ぎて、旧道は次の信号を右に折れるのですがこの宿場は奥が突き当たっているようで大きなお寺が見えるので行って見たくなり進みました。此処は説明の立て札を読むと春日部市寺町になり私の見ただけでも四軒ありました。それぞれの宗派のお寺です。一軒の寺の山門が素晴らしかったので写真にしました。中には素晴らしい仁王様があります。突き当りのお寺が一番大きく徳川のお墨付きの様でした。お宮はこの寺町を左に行くと「春日部八幡神社」の大きな社があるようですが遠くなので、行きませんでした。旧道の信号に戻り左に進みますと大きな川があります大落(おおおとし)古利根川(ふるとねがわ)で家康が江戸に入る前は利根川だった。架かってる橋が「しんまち橋」です。粕壁宿は江戸時代「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」あったと立て札案内に記してありました。春日部宿は宿場めぐりで1日過ごせるほど大きな宿場であると思います。 春日部宿の終わりに来ました。一里塚があり追分になっていた所です。旧家が2軒ほどあります。追分の為商売か何かで財を成したのでしょう。敷地が広く大木が生い茂って中が良くわかりません。家の周りの黒塀の瓦が落ちたりしていて建物の保存にも大変なのでしょう。一軒の家では門の中で奥さんらしき人が芝生の手入れを剪定刈込鋏で作業を行っていた。ここで4号線と合流します。国道16号線の信号も一緒になったような交差点(小渕の信号)で信号を二回にわたって渡ることが出来ました。16号線を左に行くと大宮、川越を通り八王子、相模原と抜けていきます。信号を渡ってすぐに「小渕山 観音院」左側にあって山門が素晴らしかったので入って行きました。山門(仁王門)は時代も相当過ぎているのでしょう両側にある仁王様が相当くたびれております。寺そのものは小さいのですが「円空」が長い滞在をしていたとの事で「円空仏」が何体かあるようですが中に入れません。芭蕉の句「ものいえば 唇さむし 秋の風」の碑がありますが、寄るとすると5月になるので此処で作った句ではないようですが・・・又作家の「森敦」NHK「奥の細道紀行」の取材で寄ったのでしょか、碑が建ててありました。若い住職がいましたが、近いうちにお祭りか何かあるのでしょうか?職人の方と忙しそうに仕事をしておりましたので挨拶だけで去りました。此処を過ぎると直ぐに「杉戸町」に入って来ました。駐車場になっていて写真の記念碑がありましたが、この町は北緯36度になることでその記念碑です。東経は13642分です。杉戸町のキャッチフレーズが中学生の考えた「すきすきすぎーと36記念碑と共の説明が立て札にありました。此処を過ぎるとただひたすら直進を歩くのみです。少しカーブのところにさしかかって来ると又旧道と別れます。直ぐにお寺がありましたが寄りません。300m.も歩きますと4号線と又交わりました。しばらくすると右手にまたお寺です。きれいな山門がありましたので、入って行きました。「馬頭院観音寺」お寺は新しく建て直していますが本尊は「伝教太師(最澄)」とあり、山門の脇には銅像が立っていました。10分ほど歩きましたでしょうか四号線と別れて又旧道に入ります。「処より杉戸宿」の標柱。12時になるし旧道に入ると食堂もままならないので分かれるところで昼食といたしました。宿の出発点に戻りました。旧道と4号線の間に素晴らしい並木と歩道があります。少し歩いてみることにしました。街の人達の憩いの場所となっていることでしょう、少し歩いて旧街道に戻ります。宿場らしい建物が表れてきました。写真を写そうとしたら酒蔵です。細々ではあるが酒を造っているようでした。右に「近津神社」の鳥居があり参道が奥まで続いています。鳥居の脇に立て札があり、神社の説明かなと見ますと、この神社は平成13年に不審火で消失してしまったため新たに社殿を立てたいので御浄財を賜りたいとのお願いの立て札でした。街の要となると思いますので早い建造を祈るのみです。隣がキリスト教会です。まさかキリストが腹を立てて・・・・・ではあるまいな?この宿場は粕壁宿の様にはいきませんが写真の建て旗が各お店の前に立ててあります。今年が宿場400年になりその記念を兼ねて町起こしの為です。「宿」の字を見てください。考えてありますね。この宿場はやたらと長い宿場でどこまで続くのだろうと思いながら歩いていると道路がカーブしていて突き当りに古い建物が見えてきました。町の説明の立て札によると、「角蔵」宿場の特徴の一つである町端の「桝型」米穀問屋で江戸の四つの商店と情報を共有して相場の変動にあわせた米取引を行っていた。コメの輸送については近くを流れる「大落古利根川」利用していた。個人邸でまだ使用しているので中には入れないとの事です。後先になってしまいましたがここ杉戸町の駅は宿場の中間をすぎたあたりになりになりまして有名な「東武動物公園駅」となります。左にお寺が又ありました。寺があったので宿場とお別れになりますが大きな土塀の家が見えてきました。門のところから中を見ますと大きな建物はおろか大きな蔵が3蔵あります。その蔵は先ほどの「角穀」の蔵を上まっており蔵の窓の扉が50cmもありそう。説明札がないのでわかりませんんが「角穀」と同じよう商売をしていたのではないか、丁度、隣の家の庭におじいさんがいたので話を聞くとなんだか知らないが昔から「御大臣」と呼んでいてもう10代以上続いていとの話。門札に「渡辺啓慶太郎(勘左衛門)」となっていました。代々「勘左衛門」を継いでいるのではないかと思います。帰ってから調べてみると、明治時代に銀行を立ちあげた人の様です。ここを過ぎると4号線と一緒になりました。「幸手市(幸手宿)」に入って来ました。少し歩いたところに「倉松川」があり10mも幅がないのに1級河川です。あの小田原にあった大きな川「酒匂川」が2級河川でこの小さなどぶ川が1級河川、何で決めているのでしょう。長さにて決めているのでしょうか?よくわかりません。直線約4qひたすら歩きました。直線を歩き終わると「首都圏中央連絡道(通称圏央道)」ガード下に来ました。商店モールでしょうか馬鹿でかい流通の施設がオープンしたばかりです。駐車場の中を歩くだけで疲れてしまうほど大きいです。くぐって「幸手宿」に入って来ました。左手が幸手駅になり前日もゴルフで歩いていたので少々疲れ気味本日はここまで。 第三回完了

第二回

平成2835日(土曜日)      天候 雲    気温17度 

梅島駅〜草加宿〜越谷宿〜せんげん台駅    地図上距離20.50q 実質距離 23q


  緑の「黒?塀」

  毛長川

   瀬崎浅間神社 

  瀬崎浅間神社 

 河合曾良の銅像 

 草加せんべい発祥の碑

 伝右橋  真鍮?の欄干

    歩道橋  

 歩道橋より松並木を望む

   清蔵院の山門 

 宿場の建物を改造した店舗

  木造三階建の豪邸    

前回、帰りに梅島駅で乗った時、階段を上がったところがホームの一番後ろだったので、今回降りる時一番前に乗って行けば、早く改札口に出られるかなと思っていたら、階段がまた一番後ろ。

このホームどうなっているかなと思いましたら、帰るとき気が付きませんでしたが、竹とんぼを思い出して頂くとわかりやすいのですが、ホームが一直線になっていて、真ん中の心棒がホームからの階段で、羽根の部分の左右が上り下りのホームになっていた。あちこちにあるだろうが自分としては初めての経験。ガード下の改札口を出て出発です。ガードを抜けたところの路地の入口に大きな看板で「梅島八幡」と出ていたので歩き初めて百歩もしないうちにもう見学か思いながら路地を入って行きました。看板に騙されました。看板より小さな神社。神社と言うより祠、でも地元の人たちにとっては大事な守り神様なのでしょう。足立区ですが旧道なので、古い大きく立派な家が右左に何軒かあります。大きな信号に来ましたら、此処は「環七」の信号です。左に行くと北区、中野区などを通り大森へといている。右に行くと葛飾区などを通り、ディズニーランドへと行っている。信号を渡り、次の信号が「増田橋跡」五差路の信号ですが、そこに古い碑が立っていて「西へ旧赤山道」調べてみると現在の川口に「赤山城」結構大きな城下町だったのでしょう。

此のあたりに民家が多くなってきます。写真では良く見えませんが、昔の黒塀を植木でやってある家があって、相当の年をかけて作ったと思われる珍しい物でした。その先に行きますと、相当の歴史を刻んできたであろう肉屋さんがありましたが、表は肉を商っていて路地の奥は(店の裏)家を改造してとんかつ屋を営んでいましたが、一石二鳥ではありますが、を売るだけでは続かないのでしょう。此のあたりまで梅島駅から道路は真っ直ぐでした。少し右に曲がると「法華寺」という、お百度参りが出来るお寺があって、隣に足立十全病院があって、裏の道路のむこうが 「都立足立病院」がある。これで「メモリアル」があれば完璧だだなと思った次第です。大きな立体交差点に出ました。「西保木間立体交差点」です。この交差点は千住新橋を渡って別れた国道4号線の交差点です。潜り抜けて進むと「けなが(毛長)川」に出ました。東京もはずれとなると、下水関係がいき届いていないのか結構汚いです。県境でもあるし、どちらの責任になっているのか?橋を渡ると埼玉県「草加市」となりました。                               

少し進むと信号はないのですが、三叉路があって何か見たことがあるような?右に入ってりきます。此処は勤めていた会社の鉄筋の加工場を兼ねていた倉庫があったところです。加工場と共に他の場所に新築したようですが、今は内装建材の会社の配送センターになっているようでした。

街道に戻って歩きだしたのですが、ものすごく歩きにくいのです。原因は道路の方が建物の土地より高くなっているため歩道が斜めになっているためですが、越谷に入ってもありました。

右手に神社が見えてきました。「浅間神社」富士山を霊山として信仰している富士行人たちが当地にいて、一般民衆も誘って富士登山をおこない、その人たちが建てたお宮との事です。境内には能の舞台もありました。此のあたりから草加の宿の一部になるのでしょう。少し進んだところにものスゴーイ家があります。どのような人の家なのでしょうか?敷地も広く内部には建物が幾つもあるようです。大きな門の表札が、難しい字で分かりかねますが多分「書間」(かくま又はかきまさん)と読むのではないかと思います。草加はご存知の「草加せんべい」で有名です。店が何軒もあるのですが、趣のあるせんべい屋さんに入ってお土産を買いながら先ほどの名前を聞いたのですが、若い店員さんだったので、有ることは知っていたが名前が分からなかた。街の中心に向かって行きますとYの字の道路のところに「今様草加宿」の碑が立っていた左斜めが旧街道で右斜めが現在の街道、「現代風草加宿の碑」町おこしのPRの為のものとの事でした。右に進みました。写真のような碑が立っていて説明版を見ると、明治天皇が明治八年の奥羽巡幸と明治十四年の東北・北海道巡幸2回にわたり(や)古宇村(こうむら)名主「大川弥惣右衛門」の行在所(宿所)とされた。これが史跡名勝天然記念物に指定され本体は、歴史民俗資料に移されてしまいレプリカでした。大川家の建物は平成四年に解体され跡地はレプリカの碑だけとなりました。草加宿はこの辺が中心だったのでしょう。草加駅への信号も過ぎておりぼつぼつ草加宿場も終わりかなと思っていると左に「おせん公園」がありました。                                                                                           

せんべいの町で付いた名前でしょうね。銅像は奥の細道の芭蕉に随伴した「河合曾良」の像です。                     

信州上諏訪の出身との事、同級生のお友達が芭蕉の紀行を車で回ってまとめた本に書入れあったような気がしますが、これではっきりとわかりました。曾良は旅日記も書いているようなので読んでみたいと思います。右が「草加せんべい発祥地」の碑です。そのすぐ右側に芭蕉奥の細道紀行が平成3年に細道紀行300年となっており 記念碑が立っていました。公園を出て右側に渡り進んで伝右(でんう)(かわ)の「伝右橋」を渡ると札場(ふだば)河岸公園」おせん公園とは100m位離れているだけです。綾瀬川の川岸になるわけですが、昔は江戸から中川を上がって此の「札場河岸」まで船が相当行き来をして賑やかだっただろうと思います。個人的な河岸で屋号が札場と言ったとありました。河岸が残っていますが保存のため入ることができませんでした。芭蕉の銅象が此の公園にあります。曾良と同じ人の作です。芭蕉の目は曾良を見つめていて、曽良は芭蕉に気使いしている目線であると言う。望楼も新しく建てあり当時の使用した道具、工具などを展示してありました。市民の憩いの公園であることが伺えます。綾瀬川の水が少し汚かった。此処で草加宿とお別れとなります。

公園を後にすると目の前に、アーチ状になった横断歩道橋が目に入って来ました。信号を渡らずに歩いてみました。木造の手すりに見えますが実際はアルミ?に木目のプリントをしてあります。

景観をなるべく壊さないで長持ちをせる工夫にはこれでよいのではないでしょうか。下りた所から綾瀬川の岸辺に黒松並木は1.5qの長さなっております。徳川家康の命令で当時植えたとの説明ですが素晴らしい街道がいまだに残っていました。日本の道100選にもなっていて、600本から成り立っているとのこと、植え替の物が半分以上と思われますが石畳があり散策にはもってこいの場所です。地元の人が多いのでゴミが一つもない快適な道路です。日光街道は並木道路と左に平行に走っておりますが、その道路の向こう側は「松原団地」があり当初はマンモス団地だった。仕事で何回かきたことがありました。今は新しく建て替えてまた素晴らしい団地になっている様子が見えておりました。歩道橋も同じようなものがもう一つ中間点にありました。松並木が終わると、今度は桜並木です。桜のころに又来てみたいものですが・・・並木が終わると川の向こうにでかい草加南水門が見えますが、以前に綾瀬川の氾濫があって放水路を作ったのでしょう。「東京自動車外環道」が上を走り、下は国道268線です。その下を潜って進みますと橋のたもとに出ます。此処で日光街道と合流して綾瀬川の橋を渡ると、「越谷市」に入って来ました。蒲生地域になります。合併する前は蒲生町(がもうまち)だったと思います。蒲生寺地蔵院があったので入って見ました。山門を入って左にお地蔵が六体祠に祭ってあった。長い間住職がいなかったお寺で歴史がはっきりわからないお寺とのことの説明、500mも進まないのに日光街道との交わるところの左にまたお寺があり、此処も入って見ました。「清蔵院」という寺で山門が市の有形文化財です。1638年に関西の工匠の作、山門の龍は金網で囲われている。龍は「左甚五郎」作とされ、夜な夜な山門を抜け出し畑を荒らしたことから、金網で囲った。街道に戻り、12時も少し過ぎ、蒲生駅入り口の信号を過ぎた所で30分間の昼食と休憩をいたしました。30分休むと疲れが出てきます。気合をいれて歩き始めました。武蔵野線の南越谷の駅のホームを見ながらガードを潜って、越谷宿と入って行きます。此処も日光街道の旧道に入って行きます。長く結構な商店街になっていて、思ったよりシャッター商店街になっておりません。宿場らしい建物もいくつかあり、写真のように昔の宿場の建物を改造して、日用雑貨などを打っている店が何軒かあります。又人形を手作りしていて中では人形の着物を縫っているところが見受けられました。路地の向こうを見るとお寺が見へたので入って行って街道を渡り(指導と旧道がすぐ近く並行して走って入る)入っていたお寺「照蓮院」千徳丸と言って武田勝頼の遺児で、この地に落の延びていたが早世してしまったため、その菩提を弔ったお寺。宿場のはずれに来ますと、川縁に出ます。結構大きな川で、信号を渡って橋を渡ったのですが、川の名前の看板がないので渡り終えた時におじいさんがいたので、地元の人であることを確かめ川の名前を聞きました。橋の名前は大橋です川は大沢川と教えてくれましたが怪しい、渡ったところに八百屋さんがあり中に入って聞きました。「元荒川」と教えてくれた。昔利根川と荒川が合流していた時は本流荒川だったと言う事でした。案外地元の人は知らない、ここでもそうでした。北越谷駅前のスーパーでトイレをお借りしながら一休み。街道に戻り出発です。歩き始めてしばらく進むと旧道が東武線を越えて回り道になっており、行くと「宮内庁埼玉鴨場」があるが、中に一般は入れないとの事で、線路伝いの道路を少し歩いて線路の向こうから廻って来た旧道と合流し少し行きますと大きな立体交差点出ました。「下間久里立体交差」これは千住新橋を渡ったところで別れた4号線バイパスと合流及びクロスしています。バイイパスは右に行き、日光街道と旧街道も別々にクロスしています。此処からは日光街道もバインパス国道四号線です。4号線が二本になって宇都宮まで行って二本が合流して東北と進んでいきます。草加からここまでの日光街道はどうして4号線でなく県道になってしまっているのだろうか?埼玉にお住いの方々(特に草加にお住の方)教えてください。                   ガードを潜るといきなりの木造三階建の豪邸、このほかにも豪邸が並んでいます。面白いことにこのあたりは、自宅の敷地内に一軒一軒の墓地がそれぞれあることでした。途中で旧4号線(日光街道)合流してしばらく歩いてから東武伊勢崎線の「せんげん(千間)台駅」より電車人となり南越谷で武蔵野線に乗り換えて帰宅いたしました。もう一駅行きたかったのですが、二日前の二ヶ月ぶ

りのゴルフで疲れが取れず帰りました。                         

追記 この日光街道で私の見たお寺が結構あり全てが、派は違っていたが「真言宗」だった。

   神社は少なく、大きな神社は見ることが出来なかった。日光の東照宮が関係しているのか?

 

第二回完

第一回

平成28219日(木曜日)      天候 雲後晴れ 気温11度 

日本橋〜千住宿〜梅島駅         地図上距離12q 実質距離 15q


   日本国道路元標

    三越本店正面玄関

   柳橋の屋台舟

     柳橋

   第六天榊神社

    駒形どぜう店」

    雷門と人力車

  公園からのスカイツリ-

  御神輿や太鼓のお店

  素戔雄神社ひな壇の一部

  奥の細道の出発点

   宿場の表記

   文化財横山家住宅 

  日本橋から9q

 名刹「善立寺」山門はありません

  千住小塚原の「首切地蔵

昨年の箱根駅伝往路完歩で味を占めまして、もお一度挑戦と言う事で、旧日光街道140qに挑戦を挑むことに致しました。地下鉄東西線の日本橋で降りて、日本橋のたもとに出てきました。皆さんご存知の通り日本橋の橋の中心が(真ん中)「日本国道路元標」があります。日本の道路の距離ここからの距離です。日光街道なので橋を渡って北に向かいます。国道4号線、6号線、17号線同時スタートです。橋を渡ったすぐの信号を左に曲がりますと、箱根駅伝の決勝ゴールに行きます。又道路の右側には江戸時代にあった魚河岸の碑も立っておりました。信号を渡って歩きだすと「三越本店」です。ライオン像が有名ですが、何の目的で置いたのかが分かりません又ライオン像が、4月から1030分開店になりますと言う看板をライオンが抱えておりました。時代が変わってお客さんが早く来ないのでしょうね?本店前を過ぎると左側では「室町三丁目再開発」と言う   大きなビルの建設が始まっておりました。その他に道路の反対側や近くに大きなビル現場がいくつも行われているようで、建築ブーム到来かと思える気が致します。其処の信号を右に曲がります。旧日光街道はこの道になります。もう一つ先の信号をまっすぐ行くと17号線、4号線と6号線は右に曲がります。旧甲州街道を進むと昭和通りにぶつかり立体交差になっていて向こうに渡ることができません。やも得ず4号線、6号線の信号に移動真っ直ぐが4号線で右に折れて6号線を進みます。小伝馬町、馬喰町と進みます。此のあたりは私たちが東京に来た頃は繊維ブームでメリヤス、洋装品、服地などの問屋さんが沢山あり賑わっていました。同級生も何人か此のあたりに就職いたしました。でも今では面影にとどまっているだけとなったようです。「エトワール海渡」は頑張っていました。少し歩きましたら大きな信号です(変則交差点)浅草橋の信号です。右に行くとここから国道14号線で千葉方面に行きます。信号を渡ると直ぐに浅草橋です。もともとは浅草寺に行く橋であったため昔は「浅草御門橋」と言われたとの事です。下は神田川が流れていて屋台船がまだ残っておりますが、全盛時代は(直ぐに隅田川になるのですが)数え切れないほど屋台舟であふれていたと、1ヶ月ほど前に読んだ「江戸の橋散歩」と言う本に書いてありました。橋を渡り終えると左側に浅草見附の立て札が建っていました。渡ると丁目が柳橋になります。昔の名残があると思い路地を入って行きます。料亭が何軒か残っておりましたが利用はあまりされていないような感じです。川の縁に茶屋店が結構並んでいます。地元のおじいさんにちょっと尋ねました。この川は神田川ですね?芸者さんはまだいますか?どちらもノーの答え、案外地の人はわからないものですね。川縁に行きますと「柳橋」があってほとんど人も車も通りません。通りに戻りJR総武線のガードを潜ります。駅は浅草橋です。直ぐに交番があり、芸者さんのことを聞きました。今はゼロとの話でした。川の向こうの向島より出張してくる?のかしら・・この浅草橋周辺は有名な人形屋さんが多いです。ひな祭り、五月人形で忙しいでしょう。右手奥に神社が見えます。今、初めての神社だと思い路地を入り境内に入ります「日本武尊」が蔵前に110年に建て1719年に柳橋に移して昭和3年に同じ柳橋の現在のところに移転したと記してありました。「榊神社(第六天榊神社)」鳥居とか狛犬が紀元2600年(小生の生まれた年)に記念に建造されたとしてありました。これはわかるのですが、わからないのが、愛知県稲沢市出身で明治9年生まれ「海軍大将男爵 大角岑生(みねお)と言う碑が立っておりました。何の説明なしに。少し歩きますともう蔵前の信号に来ました。右に行きますと、蔵前橋になるのですが手前に昔「蔵前国技館」があったのです。今はどうなっているのだろうと行って見ました。大きな建物があって空いているところに建物の工事を行っていました。警備員さんに聞きますと大きな建物は都の水道局の建物で工事を行っている建物も水道局の建物と言う事でした。蔵前の交差点に戻りました。角にブリキおもちゃの専門店がありまして、この辺は子供のおもちゃとか花火とか子供の物の問屋さんがあります。今はひっそりと商売を行っているようでした。(うまや)(ばし)の信号を渡りますと、駒形に入って来ます。道路の向こうに東京では有名などじょう屋さん「駒形どぜう」何かと言えば必ずと言っていいほどテレビなどに出てきます。一度食べたいと思っており、絶好のチャンと思って行くと11時からでした。昼食にも早かったわけですが、皆さんも機会があったら立ち寄ってみてください。渋谷にも支店があるようです。どじょう屋さんを過ぎると、駒形橋西詰の信号(変則五差路)駒形橋はすぐ右です。橋の向こうに朝日ビールのきんとう雲の看板(ウンコ雲)の向こうに「東京スカイツリー」見えます。五差路の先に浅草寺の「雷門」が見えものの5分ぐらいで門の前に到着です。平日で時間もまだ午前中、凄い人出で外人が40%人力車の客引きも盛んです。車引きは若者が多い、大学生のアルバイトでしょうか?門の前の立て札を読んでみますと雷門は何度か消失して、現在の雷門は1960年(昭和35年)に松下電器(現パナソニック)創業者「松下幸之助」の寄進により再建されたものことです。何回もの火事で仁王様はその都度どうなっていたのでしょうか?「浅草寺」「仲見世」何回か来ているのと、人出が多く立ち寄りません。雷門を右に折れて直ぐに吾妻橋の信号です(変則5差路)左に折れ、信号を渡り左に東武電車の「浅草駅(上は松屋百貨店)」を見て進み東武電車のガードを潜ると右は隅田公園です。中に入ってトイレを済まし一休み。眼のまえは隅田川の向こうに「東京スカイツリー」がそびえていまして見あげないと頂上まで見えません。通りに戻ると言問橋の信号です(変則5差路)此処から橋の真正面に見えるスカイツリーももっと雄大に見えました。この信号を右に折れていくのが国道6号線で水戸方面に行きます。国道6線とはお別れです。都道464号線(旧日光街道)を千住に向けて歩きます。さすが浅草ですね。御神輿や太鼓を作ったり売ったりしている店がありました。左の写真のお店です。店を過ぎていきますと「よしの橋」と言う橋があり川は埋め立てられて「山谷堀公園」となっており橋の欄干は其のまま面影を残してあるわけでしょう。都立浅草高校を右に見て進みますとちょっと変った高級な7〜8建のビルがあります。「西法寺」と言うお寺です。中に入るととてもありがたい感じが致しました。今、はやりの室内(全天候性)の墓地でビルの中がすべて墓地になっているのでした。東浅草交番前の信号で右を見るとどこかで見た名前だなと思ったら私の田舎の実家の部落出身方のお店でした。信号を渡って見たのですが社長はいないようなのでもとに戻って進みますとその店の弟さんの店が(名前で分かる)ありました。何十年もあっていないので尋ねて話をと思いましたが、きっと長引いて前に進めないのであきらめました。路地の左奥にお寺がありますので入って行く手前の角に、又同じ部落の出身の方のお店です。ビックリした次第です。此処も寄りません。皆さんたいした方々です。自分のお店(会社)を持っているわけですから。後ろ髪を引かれて進みます。泪橋の信号を渡りますと、ここからは「荒川区」に入ります。南千住駅を下に見て陸橋を渡りました。しばらく歩きますと大きな南千住の交差点に出ました。此処で国道4号線と交わります。信号を渡りますと大きな神社があり素戔神社「スサノオオオカミ」と「アスカオオカミ」を祭ってあって、荒川区四十一町を氏子に持つ大きな神社で、都内では珍しい二天棒の神輿が有名との事、又時期なのでしょう。神社のいたるところにひな壇を飾ってあって、社務所の中は横が10m以上もある見事な祭壇でした。もっと見たり読んだりしたかったのですが先に進みました。隅田川の大橋を渡ると「北千住」になります。渡り終えると左斜めが4号線真っすぐが旧日光街道、街道に入ると右に「中央卸売市場足立市場」があり入口を過ぎたころに「松尾芭蕉」 石像があり、奥の細道の出発点との事です。又ここから江戸時代の千住の「やっちゃ場」で、一軒の淡水魚の問屋さんが商売をしているだけです。でも明治時代まで相当にぎやかだったようです。案内板があって明治時代のにぎやかさの写真がありました。町おこしの為に各建物の前には当時のお店の名前の名札がかけてあります。沢山かけてあり相当の数の店があった様子です。中央市場があるのも頷けます。又その一角に芭蕉の句で「鮎のこの 白魚おくる 別れかな」の碑がありました。此のあたりから本町通り商店街になっており北千住駅に行く信号まで1qほどあります平日なのに結構にぎやかでした。
北千住駅への信号を過ぎると、続けて「千住宿通り商店街」此処も1qくらいの商店街です。中間で路地に入って昼食を済ませて、と通りに戻ました。丁度このあたりが「千住宿場」となっていたようです。「千住宿」は品川宿・新宿・板橋宿と4大宿場の一つ北日本の要となっていて大変にがやかだったと記してありました。左の写真が宿場後の碑と看板です。右は北千住宿の一つの特徴で写真ですとはっきり見えませんが旅籠の戸口が通路より一段低くなっております。お客さんよりへりだっていたとの説明です 写真は撮りませんでしたが、この宿場もお寺が2〜3軒ありそれぞれ由緒ありお寺の様でした。旧道斜めに進みますと4号線と交流しそこが荒川に架けられた「千住新橋」です。千住橋は荒川に架けられた最初の橋で、幕府は江戸防衛の東の要衝である荒川への架け橋を千住橋以外長らく認めなかった。旧日光街道の千住橋は現在の橋より300400m上流にあった。又この橋ができるまでは渡しであって今の橋より下流にあった。橋の長さは450m位あり橋の中間点が日本橋からの4号線の距離となっております。渡り終えるとおのずから左に折れ土手の脇の道路を上流に進みました。此処から足立区になりました。旧日光街道は信号を右に折れますが(旧千住橋を渡って来た所)右の角に新しいタイプの大きなお寺があり「善立寺」。帰ってから調べてみましたら以下の様なお寺でした。応仁二年(1468)三河安城に草創して、岡崎に遷り、江戸内幸町に移り、その後江戸下谷に移り足立区梅田の現在地に昭和2年に移転新築との事です。日蓮宗江戸三大触頭(ふれがしら)の一つに連なる名刹との事です。神社で言えば1の宮神社みたいな存在だったのでしょうか?ここから梅島駅まで2q位でしたでしょうか。途中には子供の咳に御利益がある 「八彦尊道碑」があっただけでした。
追記

さすが日光街道です。書きたい事、出したい写真などありましたが、ただ一つだけ肝心なものを落としました。追記します。千住の小塚原の「首切地蔵」南千住の駅を過ぎた所にありました。江戸のおし置き場(刑場)前に箱根駅伝の書きました「鈴ヶ森」と江戸に二つの刑場があり明治の初、埋没とは名ばかりで、土中に浅く掘られた穴に薄くかけた程度であったため、雨の日などはその一部が露わになることも頻繁で、夏には臭気が鼻をつき、野良犬が群がる、この世の修羅場であったと言う。首切り地蔵は、この刑死者を弔うために造られたものである。国事犯である橋本佐内、頼三樹三郎、吉田松陰なども此処に眠っている。との説明でした。都内は見るところが多く、進行がはかどりません。次回からはあまり見るとこもないのではないかと思いますので距離を延ばすことが出来たら有り難いと思っております。それより全て完歩できるかが心配ではあります。  (第一回完)     



第6回 (完)                箱根駅伝を歩記歩記者  林 厚男

平成271111日〜12日     天気11日・12日とも曇り 温度度1617

箱根湯本駅〜小涌園〜箱根湖畔  認定距離q18.06q(9.088.98)実質22q位


     旭 橋

    蛙の滝

  富士屋ホテルの一部

 もと御用邸であった菊華邸

   小涌園入口 

   最高地点の標識

    最高地点の標識

  磨崖仏(元箱根石仏群)

   箱根神社の大鳥居

  箱根神社の大鳥居

箱根の山登りは、なめていけないだろうと思いまして一泊をしての予定を立てまして、まず一日目は「箱根湯本」で昼食を取り12時の出発です。商店街がなくなるところを右に行って橋を渡ると「吉池」「大成荘」等のある湯本温泉街です。街が終わって「旭橋」を渡ると箱根の山に入って行きます。前は渡ると直ぐに前は「函嶺洞門」を通っておりましたが、今は全て通行禁止で 「もみじ橋」「桜橋」の二つの橋を早川にかけてバイパシを作りました。直ぐに元の道路に戻りますが千歳橋を渡ると「塔ノ沢温泉」に入って来ました。道が狭く建物が接近していて歩道がありません。温泉場を過ぎるとここからは全て山の中です。歩道がなくて道路が狭く、カーブの連続です。車が急に表れるため緊張の連続です。太平台までは約4キロありましたが、途中は椎の木の大木と写真の「蛙(かわず)の滝」があっただけ、何で蛙の滝と言ったかと言う案内標識「むかし、この辺り(家らしきものは何もないが)に悪い病気がはやった時、この滝の近くに住んでいた蛙が村人の夢枕に立ち、木かげを作ってくれるなら病気をなおしてあげようと言いました。村人が言うとおりにすると、病気がなおったことから名付けられた。」 此の箱根路で一番のヘヤーピンカーブを通り上がったところの左が「大平台駅」があり突き当りが太平台の鎮守である「山神(さんじん)神社」があります。案内を読むと戦国時代にはあったようですので結構古いと思いますが、こんなところまで上がって来て人が住んでいたのだと思うと昔の人はものすごい生命力があったのだなと関心をいたします。大平台温泉までは坂が結構厳しかったですが、ここから少し和らいできた感が致します。宮ノ下まで約二キロこの間も建物はなく山だけでした。途中一軒だけ大きな門があって「秋元」と言う名札がついておりましたが、門の上の方に豪邸があるのではないかと言う感じが致しました。小さな橋を渡って左に少しの空き地があってそこに案内が立っております。古くなっていて字がよく読めないのですが、大きな見出しの字だけはっきり見えます。 「道銭微収所跡」としてあります。大体の内容については、宮ノ下の「富士屋ホテル」の創設者「山口仙之助」が私財で湯本から宮ノ下までの道路を作ったため通行料を取った。当時の料金で工事代、馬車とか、人力車人とか細かく書いてあるようですが良く読めなくなっていました。30分前後歩いたでしょうか、坂道を上がってカーブを曲がると前がひらけて宮ノ下の街並みになって来ました。駅に上がって行く道の前をとうり過ぎて、箱根町の観光案内書の分室がありそこに立ち寄って町の「観光マップ」を頂くと共に今夜の夕食を購入するためにこれから先のお店の場所などを聞き御礼を言って道路に戻ります。道路の右側に「エクシブ・箱根龍宮」と言うものすごい豪華な建物があります。帰って来てから調べてみると初めて聞く名前ですが「エクシブグループ」があって、豪華な分譲リゾートホテルをあちこちで経営しているとの事ですが分からないのではっきりしません。その庭のもみじが真っ赤できれいでした。150mも歩けばかの有名な「富士屋ホテル」です。写真はホテルの一部ですが、此処のモミジはこれからです。きっと真っ赤になることでしょう。此の富士屋ホテは外人向けに建てたと聞いております。チャップリン・ヘレンケラー・ジョンレノン等が泊まったようです。今日も外人の方々が多いようです。結婚式も扱っているようで白無垢の花嫁さんが歩いておりました。信号をまっすぐ行くと、ここから国道138号線で仙石原を通り御殿場へとつながっております。東海道は左に曲がりますが、その角に「菊華荘」とあって元御用邸と記してあります。中は昼食などもできるようでメニューを見ると相当高そうです。また木細工の展示も開いているようです。曲がった所が本当の富士屋の門となるようでその門の石垣で一休み。此処から蛇骨橋までの500m前後が大変だった。歩くのにもやっと言える急坂です。選手の何人かがここで体力を消耗するのではないかと思えます。放送には入りませんし、ここでは撮影は無理かと思います。私の想像ですが何人かはここだけは歩いているのではないかと思います?聞く機会があったら聞いてみたいですね。此処から少し滑らかになります。小涌谷の温泉街に入って来ます。大きなカーブを過ぎて、次の大きなカーブにさしかかりますと左手が箱根町消防本部なのです。こんな山の中が「消防本部」(消防車3台・救急車1台)ちょっと考えられません。でもよく考えて見ますと東のはずれが箱根湯本、西のはずれが芦ノ湖湖畔の箱根、北には強羅その先が仙石原、ここが町の中心なのです。その右側には「宮ノ下郵便局(宮ノ下ではないのに)」宮ノ下には建てる余裕がないのでしょう。カーブを曲がり終ると、「箱根登山鉄道」唯一の踏切で、丁度電車が通るところで踏切がおりました。昔、電車が優先で選手は足踏みをして待っているテレビ画面がありました。待っている選手と後から追いついた選手のアクシデントが此処で起きて悲劇、喜劇があったわけです。今は選手が優先になっています。人が優先の踏切は日本でここだけではないでしょうか?  コンビニ(セブンイレブン)が右に見えてきました。宮ノ下で聞いてきたコンビニだと思って夕食買いました。強羅方面に行く県道723号線の信号を渡り今日の目的地に進みます。左側に「翠松園」と言う高級そうなホテルがあり少し玄関近くまで行って見ましたが、私のようなものが来るような所ではなさそうです。湯本から歩いて来てこのようなホテルなどがいたるところにあります。さすが箱根と言うのでしょうか?そこを過ぎると今日の目的地「小涌園」前に出てきます。小涌園の手前にもコンビニ(ファミリーマート)があった。宮ノ下ではここを教えてくれたのだなと気が付きましたが、時すでに遅し。一帯は、丁度モミジ真っ盛りで小涌園のモミジがきれいだったので代表で写真撮りましたが、見た目とはちょっと違いました。何日か前に宿泊交渉で、小涌園も、ルネッサンスも1人は受付をしてくれなかったが、さすが藤田観光一人泊りの「B&Bパンシオン箱根」を経営していて、紹介され一泊約4200円(朝食付)の予約で地図には少し先国道沿い込んで先に進んでしまい「恵明学園」学園を過ぎ、笛塚の停留所を過ぎてもない2キロ以上も過ぎたので道路工事をしていた方々に聞きました。国道沿いでなくて小涌園から強羅に抜ける県道沿いで、2キロ以上戻る羽目になりました。この周辺は全て藤田観光の関係の建物ばかりで小涌園の裏の方にはマンション幾棟もあるようですし「椿山荘」もありました。目を覚ますとどんより曇っていて、雨を心配しましたが空が明るくなり朝食を済ませて小涌園前より昨日の筆塚の停留所までバスで出ました。二日目の出発です。小涌園までは急坂部分が多いのですがここからは少し滑らかにはなってきております。10分ぐらい歩いたところに「鎌倉古道」案内板がありました。何でこんなところに?旧東海道はずーと向こうになりますが、それより以前は旧東海道よりここに来て元箱根に行っていた道だなと思いました。これはもう少し歩いて分かったことですが・・・歩いているうちに木陰の向こうにちらちら噴煙が上がってあります。このあたりに温泉が噴き出しているようだ。前がひらけたところに上がって来ました。「芦の湯」地域、此処が頂上かなと前を見ると200mほど下ってその先は又登っております。下りかけた所の左の奥にさっきの噴煙が見えます。道路を少し入って行くとなんと箱根町の焼却場でした。がっかりしながら坂道を上がって行きますと今度は本当に頂上です。874m北風が強く当たりとても寒いです。海抜もあるためこのあたりはほとんど落葉しておりました。余りにも寒いのでサイクリングの人達が一枚防寒のため記混んでおりました。さあ、ここから下りです。少し進んだところに碑が見えます。下り行ってみると、「曽我兄弟・虎御前の墓」1295年(永仁三年)に建てて事が刻まれております。左二つが兄弟です。虎御前は調べると兄の妾と記してあります。その時代のような石畳の狭い道がありそこを進む国道の下をトンネルで抜けております。向こう側に出ると岩に仏像が刻まれております。地蔵菩薩だと説明してありました。この岩だけで23体道路の反対側の岩にも何体か刻まれております。その他にも掘られた岩が敷石の道の脇に何か所かありました。刻み始めたのが1293年(永仁元年)となっており、何か曽我兄弟との関係があったのでしょうか?歩いて行くと「精進池」の脇に出ます。池の縁の道が終わると国道に出ます。こんなことでここの道はさっきの「鎌倉古道」に繋がって行くことが分かります。5分ぐらい歩きますと右側は別荘地帯でしょう。会社の山の家もあるようです。大芝と言う信号に来ました。大きなカーブになっておりますが右行くのが県道で桃源台を通って仙石原に出て宮ノ下から来た国道138号線に出ます。直ぐに又大きなカーブになります。この信号が三叉路になっていてここで旧東海道(今は県道732号線)と交わります。大きなヘヤーピンカーブを二つ曲がって下りた所が元箱根の信号(三叉路)となりました。半分は中国人で朝から観光客で賑わっていました。信号を左に曲がり、大鳥居を潜ってコンビニでトイレを借りて旧東海道の杉並木の道に入って行きます。国道一号線と平行していて一キロほどでしょうか、夏は涼しいでしょう。並木も終わり信号を渡って、時間が思ったより早く着きましたので箱根の関所を15分ほどシルバー価格で見学致しました。当時を再現していますが女性は身体検査が大変だったことが伺えました。「入り鉄砲に出女」箱根関所は特に厳しかった。鉄砲はわかりますが、女性の意味が分かりません。知っている方教えを乞う。国道に戻り67分歩いて信号を右に曲がりゴールです。1045分でした。写真はゴールの碑ですが、反対側は「東京箱根間大学駅伝競走復路スタート」と彫り込でありました。結局記念碑があったのは一区の中継所とゴールだけでした。ゴールの碑の手前に「箱根駅伝ミュージアム」がありそこをひやかして、裏にバス停がありバスに乗って宮ノ下まで来てまだ乗ったことのない「箱根登山鉄道」乗りました。スイチバックが多くて乗っている時間より長く感じた。湯本で昼食を摂り帰宅の途に着きました。

    感想

「箱根駅伝」歩きも最後の山登りをもって完了いたしました。距離は各区間を合計していきますと少々矛盾がありますが、調べて初めて知ったのですが往路107.5q、帰りは歩きませんが復路109.6q。「往路」「復路」が、約2.06q違いがあることが分かりました。大磯の街中で国道1号線が複雑になっているため行き帰りが約0.5q、10区では馬場先門の信号を右に折れて、京橋の信号を左に折れ、日本橋を渡り左に折れて読売新聞本社ゴール此処で約1.5qです。

箱根の山は旧東海道ではなかったり、箱根駅伝コースの歩きに関しましてはあまり書くことがないのではないかと思っておりましたが結構歴史に関することがあったり自分の記憶と違っていたり、全て国道一号線(東海道)を走っていると思ったら県道や違った国道を結構走っていたり、大変勉強になりました。それにしても選手は20q前後走るわけですが大変なことだなとつくづく思いました。帰りにどこかの大学生かわかりませんが箱根の山を走る選手だと思いますが走っておりましたが、箱根の山登りは思ったより大変であることが分かりました。体力があり、若葉の季節になりましたら箱根湯元より芦ノ湖湖畔まで、「旧東海道」を歩いてみたいなと思っております。

                                      以上  林 歩記           

  第五回

  平成27103日(火曜日)           天気晴れ   温度20

     二宮駅〜小田原〜箱根湯本駅    認定距離16.53q   実質20.5q


手に抱いているのがうさぎ

  日本橋より72q

       車坂の史碑

   酒匂の松並木

   酒匂川大橋

  小田原宿場の表示

   見附と一里塚

    蛙石(かわずいし)

  正面門(馬出門?)

  黒の電話ボックス

昨日は雨で寒い一日でしたが今日快晴の二宮駅に降り立ちました。広場のどこかに「二宮尊徳(金次郎)」の銅像があると思っている訳です。二宮尊徳の銅像はありませんが、写真の「ガラスのウサギ」の銅像があります。説明書きを読んでみますと、児童文学作家「高木敏子」が疎開をしていて父親がガラス細工の職人で、この地で空襲に会い死んでしまったがガラスで作ったウサギが無事だった。これは映画にもなっているようですが、映画の事も高木敏子の事も皆目わかりません。二宮尊徳に関した事は何もありません。後で昼食の時食堂の親父さんに聞いて分かったのですが二宮町の出身ではなかった。小田原市栢山(かやま)生まれということがわかりました。二宮の名前は他に二宮一族がいて其れからきているようです。無知過ぎました。今回は大変勉強になりました。二宮尊徳の銅像と言えば、私の小学校、中学校には銅像はありませんでしたが、昔はあちこちの学校にあって教育のシンボルみたいになっていました。しかし取り壊した学校が全国的にはあると聞く、理由、子供は、「重いのに背負ったまま歩きながらでは疲れる荷物を降ろして座って読んだらいいのに」先生。親「背負ったままで歩いて本を読んでいれば危なくて心配だ」今の先生・親はなにを考えているのか教育の中身は何を教えようとしているのかを考えないのでしょうか?おじさんは(おじいさんかな?)腹が立って仕方がない。先生と親の教育が必要だ。横道にそれました。国道1号線に出て歩き始めると、右側に精密機械を作っている工場があってその工場の庭のようなかたちで松並木が残っております。通り過ぎて進みますと、「梅沢川・吾妻橋」の標識があります。橋はクラシックでしたが、下を見ると川などありません。道と家が建っているだけ、きっとどこかで他の川と合流でさせてしまったのでしょう。一理塚の碑が立っているところに来ました。碑の横にも刻んでありますが江戸より(日本橋)18里(18番目の一里塚)となっております。国道の日本橋からの標識が73.5qになっているので昔でも相当距離には正確であったことが伺えます。この一里塚は大磯宿と小田原宿の中間にあたり旅人目当ての茶屋や商店が並び「梅沢の立場」と呼ばれ大変賑わっていたとの事。道路の反対側に茶店の跡が残っておりました。坂を下り、橋を渡ると小田原市になります。50m位進むと又二宮町になり又50mほど進むと小田原市になります。間にもう一つ川があり私の判断ですと水害などがあり川が移動したのではないかと思われる。坂道を上がると、浅間神社の入り口の信号で過ぎると、目の前に小田原の海と町が眼下にみえ、海の向こうには真鶴半島が突き出ております。正面には箱根の山々がくっきりと見えます。右手には富士山が見えるはずだが雲がかかっていて見えませんでした。坂道を下りると、左に西湘パイパスがあって下は直ぐに海です。今日は海が静かの様です。右側には「史跡車坂」があり三人の歌が書いてありました。江戸や鎌倉、箱根に行くときにここで詠んだと説明です

@    太田道灌     鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ふゆ立の空

A   源 実朝     浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れに蹴るかも

B   北林禅尼(阿仏尼)浦路行く こころぼそさを浪間より 出でて知らする 有明の月

右に「近戸神社」を見ながら坂道を上がった信号が「国府津駅」入口の信号過ぎて下って行くのですが、昔の宿場の面影の建物が残っておりました。「国府津」言えば、私のはしたない記憶では東海道本線はここから御殿場を通り「沼津駅」に行っていた。「丹那トンネル」が出来て本線がそちらに行ったため、「国府津〜御殿場〜沼津」は御殿場線となった。下ったところが「親木橋」と言う大きな信号で渡ると直ぐに「山近記念病院」と言う大きくて綺麗な総合病院があります。その庭先に太い松並木が8〜9本残っていて病院をますます引き立てています。病院を少し過ぎると又綺麗な松並木が表れてきました。100m位でしたが。このあたりは町名が「酒匂(さかわ)」です。真っ直ぐな道路が続きます。このあたりは小田原に近いせいなのかお寺が何軒か存在しております。昔は町か村であったのでしょう。結構の間「酒匂」になっておりましたから。平らな真っ直ぐの道路をしばらく歩きますと軽い上り坂になります。そこが有名な暴れ川「酒匂川」です。こんな大きな川が2級河川になっていますちょっと信じられません。第四回目の平塚に架かっていました「湘南大橋」とほぼ同じくらい長く(600m以上ありそう)橋は揺れずにしっかりとしております。橋からは小田原の町は目と鼻の先、箱根山もすぐそこ右手の奥には富士山が雲の間から覗いておりました。橋を渡り終えると旧小田原の町「山王」という街に入って来ます。Tキロも歩かないのにお寺が7件もあります。凄い所は二軒ならんでお寺があります。東京の信濃町のお寺群と同じで、大名たちがそれぞれお寺を持っていてここに集中いたのではないかとの私の判断です。山王の町が途切れると、小田原宿の碑が立っておりました。そのすぐ前に「江戸見付及び一里塚跡」の碑が立っておりましたが、昼夜兼行で見張りをしていたようです。20番目の一里塚も兼ねていたようで日本橋より80qになります。このあたりより小田原城の手前まで新宿町と表示がしてありました。此処で写真などを撮っていたら、バス停で待っていたおばあちゃんが、話しかけてきて地元では有名なお稲荷さんがあるので着いてこいとの事、バスを待っているし腰も曲がっているので申し訳ないと思い断っていましたがどうしてもと事で後をついて行きました。路地を3〜4回曲がって突き当ったところでした。お礼を言ってバス停に戻って頂きました。案内説明を見ると、400年ほど前に「北条稲荷」が当地に建てられた小さな稲荷神社ですが、「蛙石(かわずいし)」と言って写真のように自然の石がカエルに見えるわけですが、明治35年の大津波にも、大正12年の大地震にも少しの移動もなかったので掘り出そうと試みたところ、3m以上掘っても下部に達しなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかと言う。小田原に異変があると鳴き声を発した。特に北条時代小田原落城の際は夜なく盛んに泣いた。国道に戻ります。少し歩きますと町の中心部となって来ます。城下町であるために国道1号線でもクランクになっております。小田原市民会館にぶつかる形になります。向こうに渡り1号線を外れて小田原城の正門(東面)に着きました。天守閣は耐震の工事を行っていて足場が掛かっております。時間がかかってしまうので中に入るのはまたの機会といたします。南面に移動すると城の左に白い三階建ての大きな建物で屋根は瓦葺き。なんだろうと正面にいてみると小田原市立「三の丸小学校」城と合わせているわけです。あちらこちらで城下町とか門前町なので見かけますがこの小学校はすばらしかった。公衆電話ボックスも街中に有るものは全て写真如きでした。学校に沿って左に曲がりますと学校のグランドのはずれに中門の跡が石垣で残っておりました。国道一号線に出て真っ直ぐに箱根湯本に向かいます。このあたりの1号線は旧東海道であったと言う証拠で、古い建物で桶屋さん、木の器の店、和菓子さんなどが昔の職人の息をつないでおります。このあたりが小田原中継所(4区から5区への)のはずだが、ここも印すものはないようです。12時を過ぎております。丁度このあたりは食べ物さんがありません。進んで、東海道本線、新幹線、小田急線(箱根登山鉄道)のガードをくぐり終えると左に「箱根板橋駅」がありその入り口に食堂がありそこに入って昼食です。此処で二宮尊徳の話等を聞いた訳です。このあたりからだらだらの登坂になり30分近く休みましたので初めは少々きついです。高速道路のインターチェンジが何か所かあるので道路が複雑になっております。そんなところを道に迷いながら「鈴廣」に到着しました。お土産と思い自宅に電話すると、蒲鉾よりほかの物と言う事でさつま揚げを少し購入しました。出て来ると箱根から車が混んできております。そこからは歩く方が早くなります。30分くらいで箱根湯本の駅前に来ましたが、今日は大名行列があると言う事で道路脇、川の縁など見物の人達でごった返しです。正面の改札口に行けず箱根方面からの入り口に回されたため10分ほど時間がかかってしまった。大名行列も初めてなので見たいと思ったのですが、帰りの電車の混雑を考えて車中の人となりました。

                    完

第四回

平成2710月日(曜日)      天気快晴   温度25

藤沢〜平塚第三中継所〜二宮駅前     認定距離23.07q  実質28q


三棟の蔦屋本屋の建物

 松下政経塾の正面入り口

 遠くに江の島がのぞめます

 サザンビーチの標識

「湘南游歩道」の完成碑

    湘南大橋

  大磯の松並木

 日本橋からの距離

  血洗川

吉田邸の引込み道路

講和条約門(内門)

素晴らしい秋晴れで、小田急藤沢駅より藤沢銀座を通り前回の藤沢橋に向かいます.少し路地を間違えて県道30号線に出たので確認のため店前で店主らしき60過ぎの方に話しかけました。「此処県道30号線ですよね?」「何号線かわからないが県道です」「旧東海道ですか?」「さあわからななあ」「大学駅伝が此処を通りますね?」「はい通ります」長い間住んでいても地元の方なんてこんなものなんですね。旧東海道は藤沢橋を右折れて行っているようです。進行方向に向かって出発です。直ぐに「小田急線」のガードを潜ります。と直ぐに「東海本線」の陸橋を渡り大きな三叉路に来ました。左方向に行くと鵠沼海岸方面、右方向に行くのですが横断歩道が交差点より離れたところあるので、信号無視をして渡りました。渡ってひょいっと前を見ると大きな建物があります「藤沢警察」でした。おまわりさんに見られなくてよかった?ですが悪いことをしてはいけませんよとの警鐘です。この辺に元の会社の営業所があったと思ったが、富士見橋を渡って行くと右側の信号の向こうに真っ白い派手な建物(写真)が3棟見えます。一番前の建物に「蔦屋本店」となっています。対面のコンビニで水を買いながら聞きましたが、本屋の蔦屋ですが何をしているかわからないとの事でした。コンビニの裏の方になるのでしょうか、元の会社の藤沢工場があって鵠沼海岸に海の家があり、大昔の話ですが家族で海水浴に行きました。この海岸は海水浴禁止ではなく注意となっておりました。一部潮の流れが沖に向かって流れています。それに乗ってしまったのか振り向いたら沖から大分離れしまっていて泳いでもすすみません疲れて来るしこのまま死んでしまうのなと思っていると、マットのウキにつかまっているアベックがこに進んできたので、大声で呼んで助けてもらいました。今になっても時々その時のことを思い出すと鳥肌が立ちます。左に2m以上ある石垣あり中はどうも大邸宅か何か施設でも、門のところに来ると幅が10メートルにもならんとするステンレスの門扉が閉まっております。とても乗り越えれる様なものではありません。中は玄関に向かって道路が斜めになっていますので中が見えませんがどうも大邸宅です。ローマ字で「MATUDA HIDEO」となっています。裏に回ったら何かわかるかなと思い行きました。塀を挟んで藤沢市役所の図書館も併設の辻堂支所があります。此処なら教えてくれると思い中に入って何人にも聞きましたところ、解らないと言います。そんなはずはなかろうと思いながらいかしかたがないので次に進もうと県道に出て来るとボランティアで歩道の清掃をしていたおじさんがいたので聞きました。「良くわからないが右翼の親分だとの話だ」との事、役所の従業員の人達の「わからない」と言う意味が分わかりました。それにしても物凄い邸宅でした。このあたりは自動車販売会社があるが、「フォルクスワーゲン」販売店が深刻な朝礼をやっているよう見へましたが気のせいでしょうか?左に大きな辻堂団地に来ました。古い団地で一部を取り壊し大きな「ナギサモール」の建設中、建築主は北海道札幌の住所でした。団地も段々と様変わりをしていきます。「茅ヶ崎市」に入って来ました。キャンパスのような広い敷地にさしかかって来ました。なんだろうと思って進むと正面です。「松下政経塾」です。湘南と聞いて今いたが此処にあったんだ。多数の政治界・経済界に出ておりますが一期生は誰たちだろう(インターネットでどうぞ)?松下幸之助さんはたいしたものですね、名前も物も残していったのですから。塾の外には素晴らしい宿舎も見えます。少し歩きますと、鎌倉、江の島方面から来た国道134号線に突き当ります。「浜須賀」の大きな交差点です。全て歩道陸橋になっていて、ベンチなどもある素晴らしい歩道です。陸橋から直に海岸にも降りて行けます。歩き始めて1時間半ぐらいになりますのでこの陸橋の上のベンチで一休み、写真の奥に見えます島は「江の島」です。海岸の脇には鵠沼〜柳島まで7.7キロに亘り歩道を兼ねたサイクリング道路となっております。一休み終わって国道に降りて浜の香りをかぎながら出発しました。道路の両方は黒松並木です。左         側は日影になりますので助かります。快適に歩けますが何もありませんので話がそれますが朝、来るときの電車の中で「内館牧子」のエッセイの本を読んでいたら面白い記事がありましたので記します。彼女は秋田出身で大学卒業の後、三菱重工の横浜造船所に勤めていた、場所がら神奈川出身者が多い、横浜の女はどこかで東京を下に見ている。鎌倉の女は横浜をどこかで下に見ている。茅ヶ崎や辻堂、江の島、葉山、逗子の湘南女に至っては、湘南以外は全て下に見ていて、東京なんぞは「田舎者が好きな都市」と切り捨てる。挙句、同じかながわの市名をあげ、「××市や▽▽市が湘南ズラするのは迷惑。あれは湘南じゃないわ」と言い、車に同じ湘南ナンバーを付けるのがいたりすると、いたくご不満のようす。面倒なことに、神奈川には横須賀女というのもいて、これは湘南さえも下に見ている。そのくせ「対東京」とか「対神戸」という状況になると全員で一致団結する。40分近く歩いたでしょうか松並木がピタッとなくなる。左がビーチと小さな漁港がある。そこがサザンビーチです。信号に標識が付いていました。「サザンオールスターズ(桑田佳祐)」たいしたものですね。場所の名前をもらってしまうんだから、小さな町の一角を過ぎると両側又松並木になります。このあたりに来ると時間のこともあるのでしょうが、真っ黒に日焼けした定年を過ぎたであろう、おっさが自転車の脇に台を付けて、それにサフィーンボードのっけて走ってる。大磯に行くまでに何人にも会いました。自宅が近くにあると言う事です。2030分歩いたでしょうかまた急に松並木がなくなりました。此処で鵠沼からのサイクリングを兼ねた歩道が国道に繋がって7.7qが終点の柳島です。奥に碑が見えましたので入って行きました。この碑は観光と住宅の開発と失業対策のため昭和610年に完成した「湘南游歩道」の完成碑で、長い松並木も防砂のため植えたもので、ここ松の木の管理を任されていた人の働きが素晴らしかったとの記念碑も隣にありました。出て来ると左前に大きな建物があり初め市役所か何かと思っていますと、神奈川県水道公社の建物で「相模川左岸終末処理場」となっていました。もの凄い広い敷地になっています。其処の一角で一休みです。さあ昼までは休まず歩きます。大きな信号があり右に曲がりますと新湘南パイパスに入ります。坂道を上がって行くと此処より「平塚市」の標識があり相模川に架かる「湘南大橋」です。左には海が見えて、前方の目の前は平塚市街、右の奥は丹沢連峰の「大山」が見え斜め右手の奥は「富士山」「足柄山」その左手には箱根の山々が見えます。少しカスミが掛かり写真にはうまく映りません。しかしこの橋はダンプカーなど荷物を積んだ大型車が通ると足がもつれるんではないかと思うほど良く揺れます。渡って見ると結構長く700mはあるのではないか?渡り終えると又大きな三叉路の信号です。右に行きますと厚木橋本に行く国道129号線、信号を過ぎると又両側が松林になりますが、これが少し困った左側だけ歩道がありません。今までと全く条件が同じなのになんで作ってないのか、カンカン照の下を黙々と歩きます。12時を過ぎようとしているのに松林だけで食堂等が何もありません。しょうがないから大磯まで頑張ろうと30分ほど歩き川のふもとに出ます。標識が「金目川(かなめがわ)」となっています。おかしいな地図には「花水川」となっています。これは参った大磯はまだ先なのかなと思いましたが、丁度そこに信号があり釣り帰りのお父さんがいたので訊きました。河口に来ると名前が金目川に変わる、時々戸惑う人がいると笑っていました。良かった橋を渡って「大磯町」入りです。渡ったところに食堂がありゆっくりと昼食です。店の斜め前方に信号があるのですがこのあたりが「第三平塚中継所」お店のお姉さん聞いたところ信号の手前がそうだが此処は何も示すものありません。にわか造りで平塚第二中継所と全く同じ、がっかり。1qほど進むと直進が西湘パイパスに繋がる国道一号線、右に折れて300mほど進むと藤沢パイパスから来た国道1号線と接続して、国道134号線はここまで。この信号が大磯駅入り口、町の中心部の様です。左に曲がり国道1号線を歩きます。大磯消防署の前を通り、少し行きますと道路の下に小さな沢があって、茅葺き屋根の建物があって「鴫(しぎ)立庵」と書いてありました。重要建物としてありました。入場料を取っていました。時間がないので階段を上がって来て出発。少し歩きますと、東海道の松並木が300400m続いて昔の面影が残っております。大磯は小高い丸い山がいくつもあり、緑が茂っており目の前には海があり住みたくなるのは当たり前です。国道沿いには農家の民家も見られますが、裕福そうな建物ばかりです。松並木を抜けて進みますと日本橋より70qの標識です。国道一号線とマラソンコースのかけ離れたとこが結構あるのですが、ここまでの歩いている感じで1qも違っていなのではないかと思います。直進道路を進んでいますと葛川と言う川にクラシクの20m位の橋が架かっており欄干を見ると昭和12年に架けられた橋です。80年間近くもびくともせず働いていました。又少し進んだところに10mない小さな橋があって欄干に「血洗川」となっております。これは何かあるなと思い帰って調べました。全長1.6q川で血荒川の近くに切通しの岩窟中に地蔵があった。源為朝為朝が鶴岡八幡宮を参拝した際、狼藉を働いたものがおり、梶原景時の子、悪太郎影義が疑いかけられ、この地蔵に帰依していた悪太郎がお参りに来た際、畠山重忠に討たれた。だが悪太郎の身体には傷はなく、代わりにこの地蔵が血を流し、その腕も刀傷を受けたかのようだった。その時地蔵が流した血を洗った。短い掘割を抜けると信号があって右に入ったところが「神奈川県立大磯城山公園」です。信号を過ぎた左側が「吉田茂」の元の邸宅ここも道路の反対ですが城山公園の一角となっています。写真の門は「内紋(兜門とも言う)」サンフランシスコ講和条約を記念し建てられ門で、別名「講和条約門」ともいわれている屋根は「檜皮葺き(ひわだぶき)」です。此の門から入って庭が広いです。左の高台には放火で火事になった後の「吉田邸」が2棟建築中でした。管理の伯父さんたちに聞いたところ2棟とも復元との事でした。バラ園もあります。時間もないので庭を少し見学して、お邪魔をいたしました。もう大磯町mも終りかなと思ってあたり「大磯警察」がありトイレを借りることにいたしました。挨拶をしてお借りして、帰りに挨拶がてら二宮駅のまでの時間を聞きました。20分ぐらいと答えて頂き「気を付けて行ってくださいね」と激励も戴きました。5分も歩いたでしょうか、右側に大きな鳥居があり相模国総社 六所神社」となっております。初めて訊くお宮ですので行って見たいと思い進みましたが、東海道線の下を潜り1kmほどありそう、またの機会にと思い、戻りました。少し進むと「二宮町」に入って来ました。町の中心の信号が駅です。ホームに入ると直ぐに電車が来て、茅ヶ崎で相模線に乗り換え八王子廻り帰宅でした。今回はほとんど坂がなく距離を稼ぐことが出来ました。

                   完  

第二回

平成27919日  (月曜日)   天候 晴   26

鶴見第一中継所〜戸塚第二中継所       認定距離11.72q 実質20q

今日は花の二区です。やっと歩ける季節となり、第2回目を歩こうと鶴見第一中継所に830分に立ちました。


  生麦駅前信号シャッター商店

ケチャップ発祥の地

     面白い案内標識

    崎陽軒本社

    総持寺山門

      本堂

 石原裕次郎(裕ちゃん)の墓

今日スタートの時はTシャツでは寒いくらいでした。歩き始めると大きな複雑の信号が二つもあり主要道路(国道15線)でありながら信号待ちがひどく500m歩くのに15分もかかりました。でも歩道も広く歩きやすいので我慢、我慢。まず、来ましたところが昔は日本一汚いと言われておりました鶴見川の橋に来ました。今はどうなんでしょうか?まだまだ汚いようでしたが、釣りをしている人がいましたので大分良くなってきたのでしょう。橋を渡り5分もしたでしょうか左に「鶴見区役所」道路を一つ渡ると「鶴見警察」甲州街道を歩いた時にはよくトイレを借りましたので今回も思いましたが先ほど駅で済ませて来たばかり、鶴見駅入り口(JR・京浜急行)の信号を過ぎますと急に国道15線が狭くなります。歩道もそれに合わせて狭くなっております。進んできますと、JR鶴見線のガードに来ました。今では工業地帯に繋がっている大切な線になっていると思います。そのガードが駅になっていましてズバリ「国道」と言う駅でした。「生麦」地域に入って来ました。この生麦はなんで有名かと言いますと幕末に「生麦事件」が起き場所です。私もよく知りませんが薩摩藩がイギリス人を切り殺してしまって「薩摩・イギリス戦争」にまでなったぐらいまではわかります。「生麦駅入り口」の入り口の信号を過ぎて進みますと横浜港引込み線のガードが見えてきました。国道の上は新しい首都高速道路の大きな工事の施工中です。新しい道路ができるとその先のどこかで渋滞が確実です。 両方の下を潜りますと左が「キリンビール横浜工場」(キリンビバレッジ)の入り口です。何処のビール会社も同じで見物客が来ております。団体も居るようで観光バスが止まっておりました。余談ですが私もサントリーの武蔵野工場に4回ぐらい言っておりますが、ビールを飲むことでいっぱいで、工場の説明など聞いておりません。此処の工場も同じなんだろうな、一人で笑いがこみ上げてきました。東海道本線の上に「浅野学園」見えます。この学校は浅野財閥(日本セメント)の創立者?浅野総一郎氏で、調べてみると神奈川県の私立高校ではベスト3に入っているとの事また「浅野工業専門学校」は建築科の学校で(4年生)ここも優秀と聞いております。務めていた会社の時も何人か入社してきて優秀だったと記憶しておりました。

歩き始めて6qにならんとしているのでボツ、ボツ一休みと思っていたのですが、公園も、お寺も、神社も何もありません。するとやっと左に小さな公園がありました。 おじいさん二人がボランティアで公園の掃除をしていて「何か物を食べないでください」と注意をされてしまいましたが それがきっかけで色々聞くことが出来ました。「私もボランティアで何ヶ所か公園掃除をしており、皆さんの気持ちはよくわかります。私の顔は捨てる顔をしておりますか?」これが話の始まりで、公園も、お寺も神社もないのは京浜急行の脇の道路の方にある、「生麦事件」の碑など駅の方にあるとの事。昔の東海道と今の国道は違っているとの事、納得、御礼をいって出発いたしました。子安に入って来て先に進みますと今日初めて見る「碑」が立っております。良く見ますと写真の通りです。「トマトケチャップ発祥の地」工場が近くに見えません、メーカーだったのか、はたまた個人の人だったのか?右に曲がりますと20mだけ県道111号線で20m東海道線と京浜鉄道のガードになるのですがそこから先は国道と言う事です。国道1号線は300mほど先にあってそこにぶつかっているわけです。管理行政がうまくいっていない見本ですね。国道が港に近いと所を通っている証拠のようなお店を見ました。ロープ屋さんで船を岸壁などにつないでおくロープです。ものすごい太物までありました。ロープ一本で店を開いているのを初めて見ました。いよいよ横浜東口と入って来ます。先ほどの標識よりもっとわかりにくく成っており複雑極まりない、昔、東口はひっそりとしていたのですが、そごうが出来て、みなとみらいが出来てきたため狭いところを広く使用するところから困難道路が出来たのでしょうか?国道15号線が「坂町差点」右に折れます。おれなくとも真直ぐ行く道路があるわけです。でも右に折れて220300m進むと「青木通」の信号です。この交差点は三等分の三叉路になっていてここで国道1号線とつながる訳です。むかしの第二京浜フランク永井の「夜霧の第二国道」が此処で終わりです。また15線も此処が終点です。此処からは国道1号線となります。200300mほど進むと「栄町交差点」から真っ直ぐ来た道路とつながるわけです。書いてる本人が良く説明できません、読んでいる方々はもっとわからないでしょう。絵にかきませんとだめですね。橋を渡ると百貨店「そごう」です。「そごう」の1階がバスターミナルになっているため歩道が何処かに行ってしまった。仕方がないので通行止めになっているバスターミナル真ん中を横切ってしまいました。歩道橋を向こうにわたって「崎陽軒」の本社ビルの前に出ました。やっとここにきて小さいですが公園がありました。まだ店が開いておりませんでしたがここで食べますと作りたてがありますので美味しいです。崎陽軒は「しゅうまい」「シュウマイ」とは書きません「しうまい」「シウマイ」と書きます。これは「うまい」「ウマイ」を強調するためと以前に工場見学をした際に説明を受けました。左にみなとみらいを見て進みます。又三叉路に来ました。この案内標識もわかりずらい、本当は16号線は左に曲がって行き1号線は右に曲がって行くわけですが標識はどちらも直線案内板です。でも何とか右に曲がってJR根岸線のガードをくぐりました。右手に「戸部警察署」見ながら進んで京浜急行電鉄のガード潜ります。歩行計からして「保土ヶ谷駅」に近づいて来てるはずだ、駅にスムーヅ行けるよう右側に渡り進みます。駅がそこに見へてきました。急に左側にお寺が見えます。初めて見るお寺なので、歩道橋を渡り取りあえ境内に入りました。真言宗高野山「安楽寺」500年ほどになるようですが、これと言った歴史的なものはあまりないようでした。出てきて駅に向かって歩きはじめるとまたお寺ですこれも真言宗高野山「円福寺」歴史的にはこちらは600年ぐらいの様です。どちらもおなじところの出でお隣同士の寺は今までに初めてでした。どちらもこじんまりして綺麗なお寺でした。彼岸の入りですのでどちらも家族連れの参拝者が来ていました。「円福寺」は階段を上がって行きますがこの階段が少々歩きずらい、説明しにくいのですが階段がハスに出来ていて人間もハスに歩かないと上がり降りできない。又この寺には高野山のマスコットの「こうやくん」の大きな人形を置いてありました。寺の先の信号を渡り「保土ヶ谷駅」です。今回はタスキを渡すことが出来ませんでした。駅伝の道を歩いているせいか、今回は東海道らしきものが一つとして見当たりません。歴史的なものが何もなく残念でした。

今回は箱根駅伝に関係ありませんが、時間がありましたので、帰りに鶴見の曹洞宗大本山「総持寺」に寄りました。他の宗派の本山は結構あちこち参拝をしておりますが「総持寺」は初めてになります。理由は実家が曹洞宗になります。「永平寺」は何回も言っておりますが、あそこ修業寺です。参道を上がって行き総門を入り、大きな山門をくぐります。又ここの仁王様も大きいことその先も門をくぐり本堂に寄り参拝し左手に回りそれぞれ参拝をして裏手の門をくぐってい行くと墓地に出ます。やたらに広い墓地です。お寺の墓地でこんなに広い墓地は初めて見ます。参考にと少し中に入って行きますと裕ちゃんの(石原裕次郎)墓と言う案内が出ております。思い出しました。此処が菩提寺でした。フアンでもなく好きでも嫌いで有りませんでしたがお参りしていこうと思いまして、案内の立て札に沿って入って行きます。行けども、行けどもなかなか着きません。ほとんど一番奥にありました。立派なお墓でした。入口の両側に良く見えませんが「裕次郎」と彫り刻んであります。此のお寺は皇室も来ているようで大きな門がもう一つ有り、菊のご紋章がついておりました。境内の中は飾り気がなくあっさりしていて気持ちがよろしいです。周りには総持寺関係の鶴見大学、短大、高校などがあります。そういえば「駒澤大学」もそうだと思います。JR鶴見駅に近く一度ご参拝をおすすめいたします。

今回は8月の初めに、ゴルフ場で土手の下にボールが行ってしまい打ち上げて土手を上がってくるとき45度もあるかと思う土手を駆け上がる勢いで上がってきまいたら、股関節の筋を痛めてしまって、一か月ほどあまりウォーキングが出来ておりませんでした。歩きに不安がありまして花の二区でしたが、半分を慣らしに歩いてみました。大丈夫でした。でも今後、電車の関係にて中継点でその日を終わることができません。ご諒承ください。

第一回

平成2766日(土曜日)天候 曇り時々晴れ  気温 23

読売新聞本社〜鶴見第T中継所   認定距離 21,3q (実質24q)


   読売新聞本社 

     読売新聞本社 

   山門及び東京タワー

   反対看板は無駄でしょう! 

     泉岳寺山門

    2階建ての品川駅舎 

 岩場の上の吹流しが良く見えない

      磔台と火焙台 

   鈴森山 大径寺

  鈴森山 大径寺

  六郷橋より川崎ビル街

     鶴見第一中継所 

5月に1回は行っておきたかったのですが、旅行等予定も結構あったこともありましたが思いがけなく高温続きにて予定が取れませんでしたが、天気予報ですと午前は雨とのこと、朝、目を覚ますと止んでおりましたし気温も23度とのことで急遽、出発と言う事で大手町の読売新聞の正面に立ちました。 

読売新聞本社前の国道一号線を930(箱根駅伝より1時間遅い)スターいたしました。休日の大手町は静かです。直ぐに進んで大手町の信号を渡って左に曲がります。左にビル街を見、右に外堀を見て進みます。土曜日でトイレは各ビルは休みで入れません。和田倉橋の交番でトイレを聞きますと、公園の中にあると教えて頂き、「和田倉橋」を渡り公園に入りました。出口は「馬場先門」の信号に出ました正面に東京駅の正面玄関が見ます。いろいろの観光バスが東京駅から出てきますし皇居にも向かって行きます。又外堀を歩きますと、明治安田生命ビル(明治生命本社ビル)と帝国劇場を見て、その隣が「第一生命」ビル、この建物は昭和13年に建てられたもので戦災に合わずに戦後は一時「連合軍最高司令部(GHQ)」の本部として使われたものです。写真で見るように前面の古い建物の一部を祈念物として残し、後ろに同じ色の高層ビル(本社)を建てたのです。古い建物の入り口の会社の表示銘板は右からになっておりました。もうそこの信号が日比谷の信号になり、国道1号線は右に折れて桜田門の信号左に曲がって横浜方面に向かいます。日比谷の信号を左に曲がりますと銀座4丁目に行きます。歩記者は真っ直ぐに信号を渡りました。此処から道路は都道409です。渡った右側日比谷公園で一角をなして、大きいので公園が「千代田区日比谷公園」と言う一つの町名になっておりました。公園を過ぎた左側は帝国ホテルになりますが昔の玄関が素晴らしかったので何か物足りません。昔の玄関だけが愛知県の犬山市の「明治村」に保存をされていて2回ほど見に行っております。そこは内幸町の信号になりますが、信号を渡った右側に昔は「NHK」があった記憶です。その隣が三井物産の高層ビルになりますが裏には旧三井ビルが残してありました。もうそこからは港区に入って来ます。西新橋の信号を過ぎ少し進みますと大きな信号に出ました。東西に大きな道路が出来ております。右を見ますと今度できた虎の門「高層森ビル」に抜けて行っております。左に行きますと「晴海埠頭」方面に抜けていると思いますが、昔はなかったのでびっくりでした。各建物を動かし、取り壊しをしてこれだけ大きな道路の設置には大変だったのではないでしょうか。歩道も素晴らしい報道になっておりました。「御成門」の信号を渡りますと右側が芝公園です。此処は公園の中に、誰でも知っているとおみます「増上寺」「東京タワー」とプリンスホテルがあります。山門に来ましたので写真を一枚「増上寺」は山門の陰で見えませんが向こうに東京タワーが見えます。東京タワーは333mですが高さを決める時昭和333月の予定で始まったので、その高さになった?世間の話で聞いたことがあります。33年完成したが3月ではなかったようです。「スカイツリー」も武蔵の国ゴロ合はせで634(むさし)に決めたと聞きましたが、タワーのような物体は覚えやすくするために高さを決めることがあるのだと聞いております。又写真を撮った背面に「大門」があります。テレビで放送しておりましたが此の門の年数がたつので損傷が激しくなったため商店街で「増上寺」に修理を申し入れたところ、大正時代だかに現在の「港区」に贈呈してあった。港区も調べたら古い書類に記載されていて、修理も千万円単位で必要になり今更と言う事で区役所も困っている。との放送でした。大事な建造物なのできちんとして残しておきたものです。歩いてたので気が付いたのですが、この芝公園の道路の反対側にも一部公園があって、ここには樟の大木が何本ありました。公園のはずれには、増上寺と並んで「東京東照宮」の神社があります。さすが家康の菩提寺ですね神社もありました。増上寺は家康の墓はありませんが徳川家将軍の何人の墓所があるとの事です。公園を過ぎると「芝園橋」久しぶりに通りますのですが、この橋は「赤羽橋」と記憶していたつもりだったので名前が変わったのではないかと錯覚いたしました。赤羽橋(国道1号線)で一つ上の橋でした。大きなNEC(日本電気)の本社の前を通り越すと国道15線にぶつかります。この国道は日本橋を出て京橋、銀座、新橋を通り抜けてここにきております。要するに第一京浜道路で昔は国道T号線であったと思います。右に曲がって品川方面に向かいます。左に三菱自動車本社・森永本社があり、山手線の「田町駅」です。信号を過ぎたところに大きな住友不動産所有の大きなビルがあって、その隣が2,000坪以上はあるでしょう。空き地で、以前になにがここにあったのでしょうか?一部レンタカー会社の自動車置き場に使われていましたが。少し歩きますと「泉岳寺」です。少し入り込んでおりますが立ち寄って行きたいと思い入って行きました。写真の右が山門で左が山門の手前のもう一つの門ですが、テレビでもすったもんだやっておりましたが、門の隣に8階建てマンションが工事中です。反対の看板を出しても工事は進んでいるのに・・余計に汚く感じます。行政も違反建築でもないので直ぐに許可を出してしまう訳です。文化的なものは行政ももっと考えほしいものです。ちなみに建設会社は「ナカノフドー建設(中野組・不動建設の合併)」でした。浅野長矩(内匠頭)と赤穂士四十七(実際には四十八士)の墓があります。線香が絶えませんが、時代の違いですが、私の考えは、吉良上野は歩記者と同じ皮肉を言うことが好きであった。浅野長矩は肝っ玉が小さくて皮肉をまともに考えた。喧嘩は両成敗では駄目でしょうか?何年か前に赤穂市と吉良町(今は西尾市仲直りをしたなんてテレビでやっていましたね。相変わらず団体客が入っておりました。外人も興味を持って見ておりました。泉岳寺より下りてきて国道に戻ります。歩きはじめますと国道の向こうで工事を行っておりますが今度「田町駅」「品川駅」間に山手線の新駅ができます。多分その工事だと思います。西日暮里の駅が出来て40年以上ぶりでしょう。駅の名前は決まっていましたでしょうか?しばらく歩きますと右側にホテル街となって来ました。その左が「JR品川駅」です。中が広く大きいのですが、駅舎の小さなこと、駅の向こうは大きな会社のビル群です。今はこの駅より各新幹線が結構発着をしております。駅の正面を通り山手線の線路の脇を平行に歩きます。線路の下は沢山の食べ物屋さん、ここで昼食を澄ましてしまおうかな思いましたが、まだちょっと早いし歩くキロ数が少ないので、午後のためを思って進みました。山手線などの陸橋にさしかかって来ました。三叉路で右に行くと五反田方面、昔は第一京浜で国道1号線だと思いました?そうすると昔「フランク永井歌で「夜霧の第2国道(第二京浜)」ありましたが今はどこへ行ってしまったのかな?話はそれてしまいましたが、左に曲がり陸橋を渡って進みます。この道路は昔「産業道路」と言ったと思いましたが?これも記憶がさやかではありません。陸橋を越えますと途端に大きな建物がなくなりました。今度は京浜急行の線路と共に歩きます。新馬場駅の近くに来ますと土曜日でにぎやかにお祭りをやっておりました。駅に通じる商店街が素晴らしい商店街です。品川区には有名な「戸越銀座商店街」などがありますが、下町に来ますと今でもあちこち素晴らしい商店街がいまだに残っております。結構どこも賑やかです良いことです。                        進んで行きますと、御寺街と言うのか、結構なお寺が道路の右に2軒左に二軒あります。檀家はどうなっていることでしょう。下町と言いながらさすがは東京です。駅の近くに来るとマンションが必ず何軒か建っております。このあたりまで来ますとあちらこちらの電柱に海抜を記入にてありました。津波の為だと思いますが2〜3メートの記入です。土を掘ったら水が直ぐに出てくるのではないでしょうか?青物横丁駅をとうり過ぎました。此処もよい商店街があります。京浜急行のガードくぐります。今度は線路が右側に行きました。鮫洲駅前を通り越してから、小さな公園があって公園の脇が20区画くらいの貸農園で、その奥がマンションです。何軒か農園におりましたが、街中にこのような風景はほっとさせます。立会川駅を過ぎると又ガードを潜りました。大森まで行って昼食と思って信号を渡ったところに小さなうなぎ屋さんがありました。地元のお店で相当前からお店をやっている感じ、品物に間違いはないだろうと入りました。やはりお役さんは地元の方たちの様です。口に入れると溶けしまうほど柔らかくて美味しかった。夫婦2人たりだけのお店でしたが女将さんが少しうなぎを食べ過ぎている感じでした。表に出て歩き始めると、左側に色々と碑が立っております。中に入いって行ってみますとなんと有名な「鈴ヶ森刑場跡」です写真の左側に角型の穴の開いた角型の石の台が見えます。立て札にこう記してあります (はりつけ)台

「丸橋忠弥罪人がこのされた真中角材てられその上部けて刺殺したのである

 写真の右側は丸い石に丸い穴の開いた石の台です。この立て札にはこう記してありました。   火炙台 「八百屋をはじめ火炙処刑者この石上きたまゝされた真中鉄柱足下をつみりつけて処刑されたのである その他にいろいろの碑が立っておりました。又右の写真は近代的な小さなお寺です。もともと受刑者だけのためにあった寺で檀家がないので維持できず一度は潰れてしまったが、あるお寺の住職が新しく建てたものでした。名前は「鈴ヶ森山 大径寺」です。道路に戻りました。日差しが強くて暑いので道路を右側に渡り、JR大森駅の入り口を過ぎていきますと小さな「大森神社」がありましたので入りますとものすごい大きな三階建の社務所、神社は小さいがお祭りは大きなお祭りになるのでしょう。この神社には関東ではあまり見かけない「お百度参り」の碑?がありました。直ぐ右手に神社ですので百回歩くのが楽でしょう。大森から蒲田にかけて道路拡張工事を行っていますが、建物はマンションが8割と言ったところです。「京急蒲田駅」前に来ました。羽田に行く鉄道が複線になって高架になってその先の環状8号線の道路工事も絡んで街の様子がらっと変わってしまいました。JRの大森駅入り口のあたりからでしたが、ゼッケンをつけて走っている人達がすれ違うようになりだんだん増えてきます。よく見ると箱根湯元から浦安まで走っているようです。信号で止まる人がいましたので訊いてみました。浦安市の走る会の人達で、箱根湯元からの人・茅ヶ崎からの人・横浜から人、それぞれ自分の力にあったところを走っていているとの事、それぞれゼッケンの色で区別をしてありましたし、どこからどこまでとゼッケンに書いてありました。ただ歩くなんてたいしたことではないなぁと思った次第です。何十人かすれ違っているうちに多摩川に近くなってきます。此処でもにぎやかに御神輿も出てお祭りをやっております。祭りを過ぎたと所にこのあたりでは見かけない大きな建物、いろいろの医療関係の会社病院などが入っているようです。「六郷橋」を渡り始めますと右前方に川崎市のビル街が見えます。渡り切ったところの左の少し下がったところに小ちゃな公園があり一休み。此処に碑があって明治元年9月20日「明治天皇」が京都から江戸に「御幸行」の際ここを渡った。但しまだ橋がなかったので船を30隻多摩川に並べてその上に板を引いて歩いて渡った。と言う内容の碑が立ておりました。此処より川崎市です。坂道を降りると左に大きな神社があるので何かあるのではないかと立ち寄りました。「稲毛神社」です。此処の狛犬さんちょっと見たことのない狛犬さんです。記念物となっている千年以上経っている大銀杏があり「安藤広重」の画にこの銀杏が描かれた画があると立て札が建っていました。又正岡子規が此処で詠んだ句「六郷の 橋まで来たり 春の風」も立っておりました。国道に戻ります。道路がこのあたりから広く車は三車線ですが歩道と自転車区別されていてこれも車道と同じくらい広い、外国に行った感じです。気持ちが大きくなります。しばらくこの道を歩くことが出来ました。神社から15分ほど歩いたでしょうか、前方に中継所らしき欅の並木が見えてきます。歩道橋を過ぎたところに第一回の中継所の碑が立っておりました。写真に納めて歩道橋を渡って京急の「鶴見市場駅」と家路につきました。今度の箱根駅伝の「歩記」は中継所で交通の便の悪そうなところが何か所かありそうです。中継所に行かずに終わったり、途中で中継所になったりするかもしれません。あしからずお付き合いくださいませ。

 

               (第一回完)


「歩記」パート2  国道20号線及び旧甲州日本橋〜日野宿
                                                                           歩記者   林 厚男 

20号線完歩編(田舎への歩記で岡谷市長地〜天竜川に沿って、伊那谷方面に下ったため、20号未踏破分、補完です)

平成27426日 木曜日 天候晴  温度18

岡谷市長地〜塩尻(20号線終点)         14・5Km


  真っ黒な墓の集まり

  今井家小休本陣

「左しおじり峠」右しもすわ」

  焼肉屋えんむすび

  明治天皇野立跡碑 

  塩尻峠の頂上の歩道橋

    東山橋

  高ボッチ案内板

「小佐田公園道の駅」

 「世界文化友好協会」

  ピンクの枝垂れ桜

  赤澤一族の一軒

  20号線の終点看板


今回、甲州街道は下諏訪で終点になり、
20号線を目的なので中山道についての記事は少ないです。又、20号線と中山道は併合していないところがほとんどの様です。高速バスにて岡谷の長地に降りる。降りた目の前に「長地村役場跡」の碑がある。岡谷市と合併前は長地村だったんだ。今はJAの建物が立っていた。準備体操を少しして長地の信号を右に渡る。歩き始めると「京セラ(株)長野岡谷工場」となっている。以前此処は「八洲精機?」「カメラヤシカ」の工場だった。京セラに吸収合併?だったと思いますが・・・一時カメラを作っていたと思いますが今は何を作っているのでしょうか?少し歩きますと横河川に来ました。昨日の雨のせいか水量が多いようです。この川は高ボッチ・鉢伏山からの水でしょう?両岸の桜を期待してきましたが川下に満開の桜が見えましたがその場と川上には桜はありません。赤羽3丁目の信号を過ぎ今井の信号に来ました。昔は岡谷発上諏訪行のバスが今井回りか長地周りかで結構走っておりましたが今はどうでしょうか。今井の信号を渡り前に進むと左に真っ黒の御影石ばかりの墓場が左にあります。よく見るとほとんどが「今井家」の物です。異様に感じました。左を見ると門構えのすごい家が見えてきましたので入って行きました。ここは中山道になります。此処も今井家です。周りも今井家の素晴らし家が何軒か見えます。(国の登録有形文化財)門のところに碑が立っており、明治13624「明治天皇今井家御小休所」と記されております。甲州街道の「歩記」にある明治天皇が移動した碑が此処にも記されてたのです。脇に説明がありまして、山梨・三重・京都方面に御巡幸の時、これでやっとどこまで行ったのかがわかりました。 立て札の文を少し引用しますと「旧今井村は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって。古来交通上の要衝でここに御休憩本陣が設けられ幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の諸大名の人馬も激しく、多くはこの家に御小休になった」旧今井村となっておりますが人の苗字と同じ名前の町とか市とかが残っているところがありますね。東京の「羽村市」もそうです。昔からの大地主が何軒か羽村と言う苗字です。旧中山道を少し歩くと20号線に出る前に「中山道」の碑が立っていて、「左しほじり峠」「右しもすは」と刻んでありました。もう目の前が中央高速(長野道)の「岡谷インターチェンジ」です。インターチェンジの下を過ぎるといよいよ塩嶺峠の坂道に入りました。この峠の岡谷側はものすごいヘヤーピンカーブですがあまり急坂ではありません。しばらく進みますと「岡谷塩嶺病院」の前に来ました。この病院は戦後結核療養所と聞いておりました。歌手で作曲家の「平尾 昌晃」も結核で療養していたと昔の記憶です。今は外来なしで「市立岡谷病院」のリハビリ‐関係専門と聞きました。岡谷病院も大きな改築工事を行っておりましたが、ここも大きな増築工事を行っていました。大きなヘヤーピンカーブを2つ3つ?曲がったでしょうか峠を越して昼食と思いましたが体力つけるにはここだと12時を少し過ぎておりましたので入りましてた。焼肉屋さんにしては珍しい名前です。ジンギスカンにしましたが、ジンギスカン用の鍋が今までとまるっきり違いました。鍋そのものは平たく鍋の真ん中に丸い鍋がもう1つセットされていてここに塩水が入っていて野菜は全てその鍋で茹でて食べるのです。使い方が分からず聞いてしまいました。野菜に塩味がついておいしくいただけました。店を出てカーブを曲がった所が塩嶺峠の頂上です。諏訪湖が見え岡谷・下諏訪・上諏訪の町が見えてその向こうに八ヶ岳が見えるのですが温度が高いので春霞で写真を見せることができません。写真の右に見えるのが明治天皇の「野立ち」の跡地です。「八ヶ岳国定公園塩嶺御野立」とありますが此処が国定公園ではなく 八ヶ岳国定公園を見たところとの事であります。国道に戻りますと丁度頂上です。岡谷側からは丁度4qの坂道でした。道端あるいは山の中の桜を予定してきましたが一本として桜も山桜もありませんでした。少々疲れが多かったことでしょう。又しっかりした歩道が少なかった。この歩道橋は丁度頂上になるわけですがこちらの歩道から向こうの歩道にわたるだけのものです。向こうは塩尻市になり標高1,012mの表示になっていました。此処から全て下りで8キロ強あります。下りで足を痛める確率が高いので心して出発です。塩尻側は歩道が広く多少右に行ったり左に行ったりですがとても歩きやすい。北アルプスを遠方に眺めながら歩いて行くと橋が見へ来るのですが「東山橋」と橋の向こうとこちらに国交省の案内標識が立っているので特別の橋だと思いますが、橋の下に行けるので行って見ましたが解りません何か構造的なものなのか橋の下に川が流れていない橋なのか?解決のないままその場を離れました。このあたりから旧中山道と20号線が平行に進んだり交差したり何回も繰り返します。旧中山道の宿場ツアーもあるようですし旧中山道の道案内がいたるところに立っておりました。少し進みますと「高ボッチ・鉢伏山」に案内板及び道路標識があります。車で上がれて5月になるとレンゲツツジで山が燃えてきます。少し下りますと「いの字山の由来」案内板がありましたが、よくわかりませんが江戸時代には有名な山だった。名勝「いの字山」の名は後世にも引き継がれ、山裾のいの字原は吉川英治の「宮本武蔵」や中里介山の「大菩薩峠」に、宮本武蔵と棒術名人夢想権之助・机竜之介と若侍数人の決闘の場所として登場する。との事のこと、勉強不足でよくわかりません。このあたりまで下りてきますと桜の花が少し開いてきております。諏訪地域は満開でしたのですが、海抜は変わらないと思いますが大分遅いようです。こぶしの花が満開でした。カーブをまがった右側の上の方に大きな建物が2つあり私から見るとどうしても宗教に関係しているとしか思えません。少し進んだところに両側に獅子が立っていて参道?の様で桜が2部咲、も少しすると綺麗な桜並木になるでしょう。「世界文化友好協会」となっております。パソコンで調べるとNOPの団体となっておりますが地元の一人に聞きましたらなんだかわからないが宗教だといっておりました。

「小佐田公園道の駅」2キロ先と案内標識、時間も一時間以上経つのと先の予定が見えてきましたのでゆっくり休んでいくつもりで進みます。道の駅の出前に枝垂れ桜がきれいでしたので写真に収めてみました。丁度満開です。道の駅に到着しますと大きな公園と一緒です。道路の向こう側に行くのには一回左下の公園に降りて道路をくぐって行く仕組みになっております。(上り方面は関係ありませんが)行きましたがお店等は一番奥です。行って帰ってくだけで疲れてしまいそうです。トイレが手前の方にありましたのでそれだけすませて近くで少し休憩して出発です。お蔭様で下りの負担が足に来ず快適に進んでおります。高速道路の「塩尻インター」を過ぎ前方に終点らしき景色が見えてきました。国道の日本橋からの距離の標識は221qとなっております。そこを過ぎるとやっと平地となりました。道路の左に写真のような家が2〜3軒見えます。広い国道を走って渡り写真に収めました。皆「赤澤家」でした。一族なのでしょ「赤澤家」一族のお墓も近くにありました。小さな橋を渡って終点の道案内標識があります。国道19号線が右からきて直角に折れて木曾・名古屋方面です。名古屋まで181qの表示です。左からは国道153号線の終点です。写真にもありますように20号線の標識の下に終点と標識版セットしてあります。余談です。「千国街道(国道19号線)」「三州街道(国道153号線)」私の知ってる範囲を記したいと思います。千国街道は松本・大町(中信・南信)を経て新潟の糸魚川を通じて富山方面からの塩道だった。三州街道は三河からの塩の道で南信を通りこの塩尻で繋がっていた。又長野市・上田方面(北信・東信)新潟からの塩道だった。そんなことで塩の道によって文化が違っていた。信州・信濃は1231日に「お歳取り」といってお魚を食べる習慣がある。中信・南信は富山湾から鰤が入って来るので鰤を食べた。年に一回の鰤が楽しみだった。その切り目も大きかった。あの切り目を東京で探してもありません。築地に行けばあるかも?しれないが。北信・東信は新潟からは鮭が入ってきて鮭を食した。この文化の違いかどうか松本と長野が仲が悪く信濃と信州が別々の県になるはずであった。議員の一人の寝返りで分県が流れて一県になった。ある常識者が一名の議員を口説いて回避をしたと聞いている。こんなことから「日本銀行」「信州大学」が県庁所在地になく松本にあるのは長野県だけでしょう。そんなことで県民の歌「信濃の国」できたのかもしれません。話はそれてしまいましたが、国道20号線の「歩記」はこれにて完了です。

                  (完了)           

第四回

平成27313日( 曜日) 天気晴れ     気温15

府中宿(番場宿)〜日野宿〜八王子高倉町 道路標示距離12q (実質16q)


 老木の神木欅

  府中高札場

  凄い門構えの民家

綺麗な石積みの古墳(熊野神社)

   谷保天満具

  「一妙寺」

旧甲州街道を示した標識

  日野宿本陣 

  幸寿宝泉寺本堂

井上源三郎の墓の裏側

  民家の門


府中駅で降りてケヤキ並木に出ました。
「大國魂神社」の鳥居と神木のケヤキです。老木になってしまい風前の灯火状態です。旧甲州街道が左から右に行っているわけですが、正面に向かって「天然記念物大國魂神社欅並木」となっております。Tキロ以上続いており昔はその先に一の鳥居があったとのことです。そのケヤキ並木は「源頼義・源義家」親子が勝利の願掛けで作った並木だったが、現在の並木は「徳川家康」が植えた並木との事。それでも年代が立っているため半分は植え替えてあります。この神社は「大国魂大神」と言う国神で「出雲大社」と同神だそうです。道理で御紋は菊のご紋章です。1900年の歴史があり武蔵の国を守る要だったのです。5月の連休には有名な暗闇祭りがあります。又この神社に関連する神社が6社?あり大太鼓が町を練り歩きます。大太鼓は見に行きましたが暗闇祭りは行っていません。徳川家康の作った相撲土俵もありそのころは奉納相撲を行っていたとの事。長くなりましたが地方の方はあまり知られていませんが、大変な神社ですので長くなりました。長い参道を歩いて今日の安全と今後の安全と、良縁をお願いして(ここは縁結びの神様)街道に戻り歩き始めました。直ぐに碑がありましたが神戸(ごうど)という部落にて中宿場の始まりと記してあります。 直ぐに来るのが大きな交差点です。今では「川崎街道」と「旧甲州街道」の交差点ですが、江戸時代は「甲州街道」「川越街道」「相州街道」が交差していて宿場の中心を占めていた。写真の建物は東京指定旧跡「府中高札(こうさつ)場」これは江戸時代に、「禁制」「法令」等を伝えるために掲げた板札でこれを「高札」と言った。街道がいくつも交差していたので皆に知らせるために作ったものだそうです。屋根付きの「高札場」ですから結構なものだった。ここの交差点にはもう一つ古い老舗があります。「中久本店」と言う古い建物と裏の酒蔵の建物がありますが「国府鶴」の造り酒屋で「大國魂神社」関係していて大変な名主であったようです。今は全国の銘酒を販売したり「蔵」と言う食べ物と喫茶などをやっておりました。「国府鶴」はここでは作っている様子がないので他社に製造を依頼して販売だけをしているのではないかと思いました。少し進んだところにこの宿場の由来などの碑がありました。そもそも府中宿は三つの宿場が繋がっていた大きな宿場だった。街道が重なっていたのでにぎやかであったのでしょう。一番西側が「番場宿」で元の名前は「茂右衛門宿」だった。そんな碑を見ながら進むと「高安寺」と言うお寺がありましたので入って行きました。平安時代からのお寺で藤原・源・新田などがかかわっていたようです。そんことから途中権力争いになど巻き込まれ足りして「臨済宗」から「曹洞宗」に変わったり、火災にあったりで、本堂はたいしたことはないのですが山門が立派です。この山門の上は鐘楼になっております。そんなお寺であったので敷地がものすごく広く幼稚園もありました。京王線の「分倍河原駅」のホームを左に見て踏切を渡ります。道路の両側に写真のような立派な門構えの民家が3軒ほど見受けられました。一軒は木造の門が朽ち果てのではないかと思いますが石の門に変わっておりました。少し中に入って行くと大きな釜が置いてありましたので、使用人等が大勢いたのでしょう。56分も歩いたでしょうか?20号線と交わりました。調布の芝崎にて旧道に入った以来となります。大きな交差点になりました。ここは20号線と新府中街道の交差点ですがやはり昔は渋滞の交差点でした。信号を渡った所に古い常夜灯があって説明碑がありました。この辺は昔「本宿村」だった。多摩川より高台になるため水がなく火災が起きるとどうにもならなかったとのことで、夜道の明かりと共に願掛けとして用いられたとのことで、立川にかけて34か所残っておりました。道路の向こうに小さなお宮ですが大きな案内が立っております。「国史跡武蔵府中熊野神社古墳」としてあります。府中市で改めて最近再現をしたものです。神社に古墳なんて珍しい、綺麗に石を積んであり見事なものでした。手前に事務所を兼ねた博物館がありその中に古墳の中のレプリカがあり、体験できるようになっておりました。入って出て来るとヘルメットを用意してあるので・・・と言われましたが入った後でした。皆さん見学に行かれたら事務所に行ってヘルメットを借りてからにしてください天井が低いです。神社は平安時代と言うことで歴史は大変古いものなのでしょう。南武線の上を渡り国立市に入って来ました。直ぐの信号が新しくできた20号線パイパスです。今までの20線はここから八王子高倉まで都道になってしまいました。この20線は「都八(とうはち)道路」の予定でしたが国分寺からの「都八道路」の延長が不可能になったための道路です。道路の右側を進んでいたのでわかったのですが広い敷地の民家があります。中を見ますと大きな茅葺屋根です。実際には防火上トタン板で囲って有りますがこんなところにもまだ残っていたのだなと感心いたしました。住まいは隣の建物で、茅葺屋根には住んでおりませんでしたが・・・その隣の家がやはり大きな平屋建ての家ですが入口に小さな看板が手書きで「カフェ」出ていたので入って行って見ると民家そのままの家で、昼時だけ食事ができるようになっていました。中を見る普通の部屋にテーブルが3〜4個置いてあります。暇でしょうがないので食堂でもやってみるか?といった感じです。道路の向こう側に碑が見えましたので、反対側にに渡りました。「関谷かなどこ跡」と言う碑です。ここは「鋳物ご三家」(矢沢・森窪・関)の1家で像・釣鐘などを鋳造していた。朝、立寄りました「高安寺」の釣鐘、その後通り過ぎた「南養寺」の釣鐘は「関家」で作られたものと釣鐘に印てあるとの事。遺品が残されていると記してあったのでそこの大きな建物の中にあるのではと思い玄関の方に回って行きましたらJAが管理している大きな斎場でした。きっと中に展示しあるのではと思いましたが本日は休みでした。34分で「保谷天満宮」につきました。東日本における天満宮としては一番古く「湯島天神」「亀戸天神」と並び関東三大天神になります。この神社で珍しいものは。普通神社は階段を上がって行くのですが此処は階段を降りて行きます。それはどう言うことかと言うと、徳川家康が甲州街道を開く前府中の大國魂神社の方から古い街道が2〜300m南を通っていてそちらが参道だったことの様です。又ここは上がるぐに甲州街道になり、全て民家で山らしいものは何もありませんが湧き水が結構沢山出ております。何処からしみ出て来るのでしょうか?又35060本と言われている梅林が満開でした。少し歩きますと「南養寺」「青柳稲荷神社」と続けて参道がきますが、先ほど述べましたが古い街道の方に前の参道があったため甲州街道からの参道が非常に長いので、入って行くのを諦めました。南養寺」は本堂・「青柳稲荷神社」共国立市の指定文化財になっているようです。少し歩いたところに小さなお寺と書いてありましたが小さいばかりではありませんこれがお寺に見えますか。間口は5メートルあるでしょうか、外壁はALC板でしょうか?とにかくお寺です。立川に入って来ました。前から車で通るとき大変気になっておりましたが「至誠学園」検索してみましたら「社会福祉法人 至誠学園学舎立川」福祉専門の法人でした。戦前から続いていて相当手広くあちこちに保育園・老人ホームなどあるようです。立川だけでも広い敷地です。今の敷地の隣に大きな工場の跡地がありますが其処も施設が建設する表示がしてありました。知りたい方はパソコンでどうぞ。其処を過ぎると、以前は毎日の道路情報で放送していたくらい混雑で有名な日野橋5差路の交差点です。此処の一角の敷地内に食べ物屋さんが何軒もあるので少し早いが昼食を済ませました。旧甲州街道も日野橋を渡っていたと思っておりましたが、斜めに入って行っている奥多摩街道が一部の間併行していました。甲州街道はこちらに行くんですよと標識が出ておりました。曲がって下ると立川市立の「柴崎体育館」です。ここは公園になっていて桜の名所でもあります。抜けると新奥多摩街道に出ます。右に曲がって3400mで信号を左に曲がります。上をモノレールが走っていて多摩川にかかっている橋がまだ新しい橋で「立日(たっぴ)橋」です。旧甲州街道はこちらに昔は渡しがあったようです。渡り終えると日野市に入って来ます。右に体育中央公園を見て来た信号が日野橋を渡ってくる旧20号線の信号です。右に旧20号線を歩きます。左に信号を曲がると川崎街道になります。「高幡不動」の前を通り川崎と抜けていきます。直ぐの小さな路地が旧川崎街道になるのですが過ぎたところが「日野宿本陣」です。江戸時代は都内五街道に10の本陣があって現在は唯一残っている本陣です。日野本郷名手の「佐藤彦五郎」が本陣兼自宅として使用した。この人は剣の達人で、道場を開いて、近藤勇・沖田総司・土方歳三・井上源三郎など新撰組に所属した人も沢山弟子としていた。前は無料で入れたり、蕎麦も食べれた。文化財指定なってからか?蕎麦は市役所の近くに「日野宿本陣」と店を出している。明治天皇の遊説の際の休憩した碑が此処にも立っていた。甲州街道の本陣もここと相模湖の 「小原宿」だけだ。それを過ぎたところが「八坂神社」だです。大きなお宮ではありませんがこの周りの要になっていたと思います。神主さんは女性で祝詞をあげる時は頭のてっぺんから声がしてきます。9月にお祭りがあって御神輿が盛んですが、もう1つ面白いことをやります。昔、通りすぎにチラッと見ただけでしたので詳しいことを聞きたくて社務所に行くと留守でした。通りに出てタバコ屋のおじさんに10分ほど話を聞くことが出来ました。それは皆が青竹を持って甲州街道の両方から道路の真ん中を叩い進んでいきます。おじさんの話ですとこれは神輿の通り道を清める儀式で、お宮に入って神輿に引き継ぎ、それから神輿が神社から通りに出てゆくとの事でした。御礼を言って20号線を左に曲がって旧甲州街道を歩くと直ぐに中央線の踏切で前は渡って行けたのですが今は通れません。引き返してくると右に「宝泉寺」と言うお寺があります。このお寺は新撰組の「井上源三郎」の菩提寺です。写真の墓は裏側ですが「新撰組六番隊長」と見えます。この墓は新しく建て替えたものです。このお寺は平成13年に長野県下伊那郡町川町の「生田木材技研(株)」5年かけて建てたものです。社長の名前と専務の名前が立札に記載してありました。お寺を出て中央線のガードを潜り旧甲州街道を大坂上へと上がりました。少し歩きますと又旧甲州街道に合流です。合流すると同時に右側は日野自動車の本社工場です。日野自動車も本社もろとも羽村工場に移転の話も出ました。税収も減りますので行かないでほしい、とだれでも日野市民なら思っているでしょう。工場の敷地が過ぎると左に「コニカミノルタ」日野工場であり事業所になっていると思います?昔は「小西六写真工業(株)」と言っておりました。富士フイルムは緑が良く出て、小西六(桜フイルム)は赤が良く出る(プロ向き)と記憶しております。直ぐ近くの八王子の地域にも工場があります。南側は桜の時期になるとライトアップなどでとてもきれいだったのですが20号線パイパスの工事で一部切られてしまい残念です。「小西六写真工業」はもともと薬屋さんだったと前に聞いたことがありましたが本当うだろうか?綿屋さんが鉄屋さんをやっているから不思議はありませんが。工場の敷地を過ぎると即八王子市となります。写真の門構えの家も民家で何軒か街道の北側だけにありました。高倉の信号です。ここで20号線パイパスと旧甲州街道が合流します。田舎に歩いた時パイパス歩いたのですが今日の歩きと3キロぐらい並行して歩いたことになります。ここからは『田舎へ歩記』第一回に繋がります。今回はゆっくり歩いていろいろ楽しんで6回ぐらいに歩きたいと思っておりましたが、ねがせっかちなもですから結果は4回でした。都内の時は名物等がなんとかありましたが街道筋には歴史のあるお菓子屋さんがあるかと思いましたがほとんどありませんでした。昼飯を2回食べるわけにもいきませんし。東京近郊に住いの方々はついでの祭立ち寄り頂く参考になればと思います。私も都内・都下に出歩いたときは何かの発見の為にあちこちに立ち寄りたいと思っております。


第三回

平成27224日(火曜日) 天気曇り    気温13

明大前〜府中宿(府中駅)    道路標示距離17q    ( 実質20.5q)


  古い籠屋さん象も竹細工

  長泉寺の赤松の老木

  総ケヤキの山門

  茅葺屋根「馬宿川口屋」

  金龍寺の山門

  写真より重量感のある門

   そうじ小僧

  近藤 勇の銅像

  細長い「常久神社」

   武蔵国府八幡宮


京王線明大前駅で降りて甲州街道に出る。今日は道中あまりポイントがないと思うから府中までと予定を立てて出発です。旧甲州街道と国道
20号線と新宿から併走が続いております。頭の上も首都高速が併走です。明治大学を右に見て進みます。少し進みますと向こう側に桜並木があるので「玉川上水」あるのだなと渡って見ますと、埋め立てて公園になっておりました。笹塚の方の1部は埋め立てずにそのまま残っていたのに?ここからは相当先まで信号がなさそうですのでそのまま進みます。20号線の拡張工事の際古い町並みは全て跡かたがなくなっていると思い進んでいると古い竹細工の籠屋さんがありました。写真だとよく見えませんが「象」は竹で編んでありました。店前には「ビク」「籠」など陳列されています。甲州道は(20号線)はケヤキ並木が調布インターまで続いて行っているわけですが、多摩地域のケヤキ並木のことを少し述べます。特に「旧青梅街道」に行きますと、ケヤキの大木が各家の庭に相当残っております。なんで欅なのか?夏は葉っぱが生い茂り素晴らしい日陰になります。秋になると散り落て集めると堆肥になり、枝がみな細いために冬になると日差しの邪魔になりません。昔の人はちゃんと考えて植樹もやっていたと言うことです。「下高井戸駅」「桜上水駅」入口の信号を通りすぎると変則三叉路の大きな信号に出ます。手前の信号が「鎌倉街道(中道)」の信号になり、先の信号が荻窪方面に行く信号になり、首都高速も荻窪方面の道路と共に20線と別れます。首都高速が離れていきましたので国道もそれなりに狭く感じます。環八道路との立体交差点を渡りまして直ぐに行く国道20号線と別れて旧甲州街道は斜め左に入って行きます。芦花公園駅の信号です。駅の先には「芦花公園(徳冨芦花)」今日は先が長いので立ち寄りません。このあたりが「高井戸宿」であったのでしょうが、その時代からあったんでしょう古い注文家具屋があっただけで面影はありませんでした。期待をしておりましたが。旧道に入って思ったより道が広く車があまり通りません。何十年も前に帰った気持ちになり気持ちがゆったりし歩くペースもゆったりになります。また町を歩いている人も何かのんびりしているようです。但しこんな人も余り通らない、車も通らない町の商店がシャッター商店街になっていないのがちょっと不思議な感じが致しました。高級なステーキ屋さん高級な京都料理の割烹屋さん、高級な洋食屋さんこれも!でした。そんな街中に小さなお寺があり入って見ますと面白い老木の赤松がありましたので写真を収めて見ました。烏山に入ってきておりますが信号に「烏山下宿」とありましたのでこのあたりまで宿場が続いていたのでしょう。1里塚もありました。烏山駅前の信号を過ぎていきますと今日初めての坂道となり下り着ると「仙川」の橋を渡ります。この川は三鷹の方から流れてきていると思います。今度は坂道を登り切りますと、又20線と合流します。「仙川の三叉路」信号です。又騒音と化しました。ケヤキ並木を歩いていますと道路の反対車線の向こうにお寺が見えましたので信号を渡ります。「昌翁寺」と言うお寺で、元は今川義元の家臣で徳川家康に帰属して大名となり仙川一帯の領主の菩提寺で、火事になり本堂は昭和の初めに建て直した小さなお寺でしたが、山門が総ケヤキ造りの素晴らしい山門(建てたばかり)でしたので写真に収めました。又山門の右手に碑があって「世を愛し、人材を愛し、草木を愛す」と刻んでありました。このお寺を過ぎたあたりにキュウピーマヨネーズの工場あるはずだ。新しい大きな工場になっていてびっくりでした。そこを過ぎると下り坂になって来ます。道を向こうにわたりほんの300mほど旧道になっております。その旧道の入り口に「龍坂旧道」と言う碑があり、その上に写真にあるようにかやぶき屋根(防火のためにトタン板がかぶせてある)の家で「馬宿川口屋」となっておりました。そのまま残っていたようで、普通に家族が住んで生活をしていましが、旧道を歩き始めるとマンションの工事の立て札が立っておりました。敷地も広いし大きなものが建たるのでしょう。惜しい気が致しますが時代の変化にはどうにもならないのでしょうね。坂を下って進むともう20号線と合流です。そのまま右を歩いていますとまたお寺がありました。このお寺も写真に収めました。創立が1206年で古いお寺で甲州街道から参道が長く真っ赤な山門があり、中に大きな「道元禅師御尊象」があり「十八羅漢の像」があちこちに置かれいる他ひときわ目立って「閻魔象」が鎮座しておりました。敷地が広く裏には経営している大きな幼稚園がありました。市の指定の大銀杏も植わっておりました。道元像が門の右側の下の方のところにかすかに見えておりますが・・・甲州街道に戻りつつじが丘駅入り口の信号を渡り道路の左を歩きますと、クラシックカーを陳列してあるマンションが二つ並んでおります。珍しいのでガラス越しに観ましたが、これはマンションオーナーの道楽の様です「野川」の馬橋を渡ります。この川は小金井の野川公園の池より流れてきております。今は綺麗な川になってきております。いよいよ昼飯ですが丁度このあたりだけレストランが街道筋にありません。そうこうしているうちに又20線と旧甲州街道が分かれます。右にカーブして行くのが20号線です。旧道に入り仙川の通りのように食堂があると思っていましたが有りません。国領駅前まで歩くことにいたしました。国領は再開発したことはわかっておりましたがすごい街になっておりこんな広いところがどこにあったのだろうか?一般の店はなくビルの中にチェン店が何軒か入っておりましたが平日にも関わらずどの店も並んで待っております。暇なおばちゃんたちが多くみられます。あきらめて布田・調布の商店街まで来てやっと済ませました。午後の部始まりです。調布のメーンのスクランブル交差点を渡りました。このあたりを中心として「布田五ケ宿」になります。通り越してきた「国領・下布田」現在いるところの「上布田(調布)」これから行くところの「下石原・上石原(西調布)」合わせて「布田五ヶ宿」5つ合わせても10軒ほどの旅籠しかなく本陣もなかったとのことで、商人宿場であったのではないか?直ぐの路地に重量感のあるものすごい門構えの邸宅が(古い)あって門から路地の奥まで100m以上ある敷地です。戻って通り面したところに小さな事務所があるので聴きに入りました。奥さんらしき人が今は作っていないのですが、醤油屋さんでしたとの事でした。今は道路の反対側で自動車の販売(ホンダ)を細々と営んでいるようでした。街道に戻るとこのあたりから西中府にかけてものすごい豪邸宅ばかりです。中村一族・石坂一族の家が多かった。少し進んだところに「源正禅寺」と言う禅寺があって何かあるかなとも思ったら写真の「そうじ小僧」と言う石像があった。説明がついていないので何のための像だかサッパリわかりませんでした。写真と一礼して戻ります。西中府に向かっているとまたお寺があり「西光寺」と言うお寺があり写真の「近藤 勇」の像がありました。旧姓「宮川家」の三男としてこのあたりで生まれたとの事、府中?の「近藤家」に養子行っているので菩提寺はありません。檀家の人たちが生まれたところなのでただ記念碑として戦   後に築造したもであると説明立札がありました。稲城方面に行く高速道路を潜ると西調布になって来ます。此処にも豪邸があって田中一族・林一族家が多いです。そこに見たことのある「林和男」門札の邸宅があります。思い出しました。林建設(3多摩では2番に大きな会社)の社長宅でした。この会社は昔ノンプロ(職業野球)の野球チームを持っておりました。その邸宅の2軒隣の他の林家がマンションを建築中でしたが「林建設」ではありません。四国の建設会社でした。どうなっているのやら・・・少し進みますと人も車もあまり通らない旧道に「ユニクロ」がありました。これも不思議20号線に出店するのが道理と言うものでしょう。もう給田駅前の信号です。ここはすぐ右側になります20号線に「味の素スタジアム」があります。又39年の「東京オリンピック」のマラソンの折り返し地点の碑があります。信号を過ぎると府中市に入って来ます。「村野儀右衛門」と言う大きな表札があって「村野商店」と言う酒類の大きな問屋さんですが元は酒屋さんではなかったかと思います。大きな敷地で中の方に倉庫に成っておりますが、酒蔵のあとのようにみえました。このあたりも豪邸が多く鹿島一族・大塚一族の表札が多く見られました。東府中駅の少し手前に「常久(つねひさ)神社」と言う神社があります。旧道と20号線とつながっている長細い神社です。いわれが書いてありましたので簡単に記します。このあたり今は若松町1丁目になっておりますが、以前は「若松町恒久町」になっていた。今から360年ほど前に多摩川の水害で35所帯ぐらいがここに移り住んで部落を作ってその部落をまとめていた人が「常久」と言う名まえの人だった。東府中駅前に来ました。ここは複雑になっていて電車が競馬場行の発着駅になっており斜め左に線路が行っていて、旧甲州街道と20号線が交わっていて、旧甲州街道が京王線の本線を踏切で渡って行きます。従って今まで旧甲州街道は京王線の右に位置しておりましがここから左になります。踏切を渡ってすぐに今では珍しい「炭屋」が大きな店構えをしております。蒔きも沢山、炭と一緒に積んでありました。商売になっていることが驚きです。炭屋さんを過ぎたところに「八幡宿」の碑が立っていてそこから長い参道を入って行くと、競馬場行の電車の踏切があり、渡ったところ直ぐに鳥居と素晴らし山門があります(写真では良く見えない)「武蔵国府八幡宮」と言い敷地が広くて名前が大きい割には山門より小さな神社です。「国分寺」(国分寺市ある)関係していて、国府神社の或るところには必ず国分寺があると説明あり。次回に記述する「大国魂神社」と関係あるようです街道に戻って府中宿場の手前で府中駅にな りますので、南口の大きな再開発の現場を見ながら帰路に着きました。


第二回

平成27212日(木曜日)天気晴  気温13

四谷見附〜内藤新宿〜明大前  道路の標示距離 8・5q   (実質140q)


 服部半蔵の墓

  徳川信康の碑         韓国大使館

石樋で作った四谷大木戸跡碑

     新宿御苑入口

 「江戸六地蔵」

      新宿末広亭

  六号通り商店街


今日は四谷見附(四ツ谷駅)より歩く予定でしたが、まず確かめたいことがありまして「信濃町駅」
で降りて四谷警察者方面に向かって歩きます。左前は「慶應大学病院」右手は「創価学会」本部「創価新聞」本社等、学会の建物ばかり、少し先の「左門町」の信号を右に入ります。地図を見て頂くと四谷2丁目にかけてお寺ばかりです。地図の下のところは並んであります。ここを歩いたわけです。昔、何かでここを歩いて、寺がなんで多いか誰かに聞いた答えが、罪人がここらで処刑(首切り)されてその供養のためだ。と聞いておりそれを確かめるためでした。朝10時前ですので人がいません。丁度オマワリさんがきましたので、聞いてみると「よくわからないが、お墓が沢山あったと聞いている」との事、心の中では寺が出来てからお墓が出来るのではないかと心の中では思いました。一番後のお寺を過ぎると下り坂になり、昔は結構深い谷だった思います。その谷は左から右流れていて今は商店街になっており、ある、歴史のありそうなお店にはり、ご主人からおおよそのことが聞けました。まず一つは寺の門のところの案内も書いた寺もありましたが。もともとここにあった寺もあったが、ほとんどが麹町等から引っ越してきているとの事、これは江戸城に近いところの寺があまりあってほ良くないから、二つは街の区画整理など、三つは商店街になっているところ昔は深い谷があり川が流れていて人が立ち入るような所ではなかった。ほとんどのお寺が麹町にあったので大名が絡んだお寺の様です。(○印が全て寺ですが地図ない寺もありました)処刑場はここにはなかった。但し歩いて来る途中に(この寺だけ道路の北側)に「勝興寺」と言う寺がありここに代々200年以上も続いた刀の「試し切り役人」がいてこれが罪人の首も切っていてその歴代のお墓があるとの話。納得して谷であった坂道を上がり四谷に向かう。途中の「西念寺」に寄った。ここは槍の名手「服部半蔵」が織田信長より切腹命じられた徳川家康の長男「信康」の介添え役を命ぜられ、家康より信頼されていた半蔵にはどうしてもできずに仏門に入り名前を「西念」とした。これで家康はますます半蔵を敬い、半蔵門と名前まで付けたわけです。寺を建てるように命令したが建てる前半蔵は他界してしまい其のあとに出来たと、説明してありました。半蔵の墓には絶えない線香の後の様子が伺えました。それぞれの寺に歴史があるようです。機会がありましたら皆さんも探訪は如何でしょうか。そんなわけで新宿界隈はお寺が多いようです。四谷見附の信号より出発いたしました。次の路地を左に入り「若葉」(鯛焼き屋)の写真を撮り鯛焼きを食べながら本線を歩きます。四谷二丁目に来て、今は浜松町に引っ越ししましたが「文化放送」の跡地を確認し20号線に戻る。直ぐに三丁目の信号です。左に行きますと今朝降りた信濃町駅に行きます。右に行きますと牛込方面となります。三丁目一つ路地を入ると(旧甲州)昔ながらの料亭が多いです。東京に来てからも昼でも三味線の音がしていましたが・・今は?そういえば歌手の「一節 太郎」のお店もありましたが・・四丁目に入って来て有名なパン屋さんが有るので買おうとしたら見当たりません。そこにはそのパン屋さんの敷地も含めて大きな「韓国大使館」が建たっています。ちょっとびっくり、余りにも大きいのでその場では写真が取れません。信号を反対側にわたり撮りました。その少し先に以前はなかったと思いますが落ち着いた木造の建物で「四谷十三里屋」と言うサツマイモ専門のお菓子屋さんがあったのでパンの代わりに土産として買いました。もうそこは四谷四丁目の信号です。この信号の直ぐそばに前は関係会社全体の独身寮でしたが大きなビルが出来て等価交換の9階に2年ほど通勤しておりました。ここの信号は以前「大木戸」と言う交差点でした。此処はなんで有名かと言いますと、玉川上水がここまで流れていました。玉川上水の歴史等は長くなりますので記しませんが。ある兄弟が幕府の命令により1年半で完成し羽村市の取り入れ口から大木戸まで40余qで落差100mを1昼夜で流れたと言われております。コンクリートでないのに、考えられない技術がそんな昔にあったと言うことです。大木戸の石畳や石垣はありませんが、跡地として国道20号線のトンネルの脇に東京都指定有形文化財(古文書)明治28年完成の幅2m30p高さ4m60pの「水道碑記」(高いのと古くて読めません)と写真の石樋で作られた「大木戸跡碑」が建てられておりました。此処で分水されて、石樋と木の樋にて江戸の町に流されて行ったとのことです。新宿に向かって歩き始めると直ぐに「新宿御苑」の入り口です。新宿一帯は170180年も続いていた高遠の殿様の土地で内藤新宿と言って「新宿御苑」はほんのその一部だったのです。高遠城は前の城主の「保科正之」の後を継いでいたのでしょうか?内藤家の先祖は「藤原鎌足」と記してありました。5萬石大名にしてはたいした者ではありましたね。徳川家に繋がっていたからか。此処は新宿1丁目になります。元の会社が手狭で四谷より移転してきているビルの前を通りすぎて新宿2丁目に入って来ました。信号を左にわたり旧道に移動しました。ここにお寺のあることは知っておりましたが、中に入りますと案内版があり高遠藩主内藤家の「菩提寺」でした。中にはミニ博物館があって文化財やら内藤新宿の歴史館にもなっているようです。新宿の歴史等知りたい方はどうぞ。写真は出入り口にある「江戸六地蔵」の一つである銅像地蔵菩薩です。寺から出て、東京の人(古い人達)たちは知っている有名な新宿2丁目です。今は新宿一丁目になっていますが、花園町があり社宅を兼ねた独身寮があって寮も社宅も利用しまして、東京の人にはすごいところに住んでいるなと言われたものです。休日の日など2丁目周りの店などに行きますと、女なものの着物を着てお化粧をしていて、1夜過ぎているので口の周りが青くなっている人が太い声で「お大根頂戴」などと言う声が聞こえたものです。私も一度知り合いがこの真面目(今でも真面目ですが)男をからかってやれと思ったのでしょう。店に入って行くと角刈りの黒いセーターを着たガッチリした男がカウンターの中に座っていた。そのうちに着物を着てお化粧をした女性?が出て来るものと思っておりまた。ところがカウンターに手を乗っけていると「角黒」がいきなり私の手を握り「あら素敵なお兄さんね」足の先から頭のてっぺんまでゾーと鳥肌が立った過去でした。お客には女役の大男と小さな男役のカップルも来ておりましたね。今ではお店も半分以下になっておりました。懐かしい?思い出です。大通りを渡り新宿三丁目に入って行きます。路地の突き当りにあるのが、今東京では一番古?名前も知られている「新宿末広亭」です。独身寮に居た時は下駄ばきで何回か聴きに来て、頭をすっきりして帰ったものです。通りすぎた路地を進むと「伊勢丹」前にでます。左に曲がって信号を渡って、これも東京では大変有名な「新宿追分だんご」屋さんで団子を買ったその昔はここらあたりが追分になっていたのでしょう。其のあと信号に戻り左に折れて国道20号線と合流です。新宿4丁目の信号になり右に曲がって陸橋を上がっていき新宿南口にさしかかりますと20号線の向こうに線路の上は3階建てか何かで大きなバスターミナルになるようで、将来は高速バスはここから発着するのでしょう。その建物とくっついて新宿高島屋の並びに高層ビルが建ってきております。どこが入るのでしょうか?新宿駅の南口を過ぎ陸橋を渡りきり信号を渡って「ヨドバシカメラ」の建物に入りトイレを済ませて、近くの並んで待つ安いステーキ屋さんで昼食を済ませて、20線に戻りましたが「内藤新宿の宿場」はヨドバシカメラあたりになるようです。ここからは20号線がやたら広くなります。向こう側にわたるのに信号は長いは、距離はあるは丁度渡りたいとこに横断歩道がなく地下に降りて向こう側に出ます。五分以上かかってしまったでしょう。上に登ってくると昔「文服装学園」と言う学校があったのですが、驚きました。25階建てくらいの大きな建物が4棟もくっついて建っているではありませんか。京王線で新宿に出ますがこのあたりは地下になっているので何年も気が付かなかったです。「外国語専門学校」「ファッション大学院」「文化学園大学」今迄の「文化服装学園」女性の美に関することをやれば必ず発展すると言うことは本当ですね。ただ、ただ驚いて進むと「西参道口」の交差点を渡ります。このあたりから頭の上は「首都高速道路」が走っています。東京ガスの本社高層ビルや東日本NTT高層ビル、オペラシティ(新国際劇場のも一緒)高層ビルを右に見て進みます。20号線の左は元京王電鉄が路上を走っていた時の土地が公園になっていて「笹塚駅」手前まで続いております。笹塚には沖縄の人たちがほとんどの商店街があるとテレビなどでやっていたので信号を20号線の向こうにわたり、「六号通り商店街」を入って行きました。結構長く昼間でもお客さんがそれなりにいて活気があるように感じました。ずーと歩いてみましたがどうも沖縄の雰囲気が感じられません。又長い信号を渡り前に進んでいくとまた向こう側にさっきと同じような商店街が見えます。今度は「十号通り商店街」此処かなと思ったがどう雰囲気がありません。何処にあるのでしょうか?知っている方は教えてください。また信号を渡り前に進みます。大原交差点に来ました。環状七号線との交差点です。立体交差点になる前は、東京1番に込む交差点でスモッグに悩まされたものです。今は環状八号線もありスムーズに車が走っておりました。次の信号が松原の交差点、右に行きますと井之頭街道で吉祥寺に行きます。左に行きますと渋谷に出ます。交差点を過ぎてしばらくすると明大前の信号に出ました。ここは明大前の駅にも近いので、今日はここまで。

追記 打ち終わって見ると余白が沢山あることと、新宿のこと色々思い出しましたので述べおきます。まず新宿駅より東口方面です。有名な「花薗饅頭」を忘れておりました。ここは「追分だんご」より知られた大きな店です。和菓子のほかに「濡れ甘納豆」が有名です。末広亭に近かったのにその時は思いださず購入できませんでした。又の機会に・・・この近くには結構大きな「花園神社」があり、盛大なお祭りでも知られております。前の花薗町と結構離れておりますが、昔は花園町だった思います。この神社の裏の方が遊郭だったのです。このお宮は其の遊女たちの心の差さえだったと聞いております。だから知っていた人は花園町に住んでいると言うと「すごいところに住んでいるね」と言われたわけです。又この先の方に、今は大ガードと言っているところが都電の終点「角筈」がありました。又 上京した時は新宿駅西口一帯、町名「淀橋」だった。そこには大きな「淀橋浄水場」があり、現在の高層ビル街はほとんどが浄水場の跡地です。代わりの浄水場はどこに行ってしまったのか?警察も学校もみんな淀橋の名前がついておりましたが全て「西新宿」となってしまったでしょう。警察は「新宿警察」です。全てのもが西新宿になってしまい「淀橋」と言う名まえは全てなくなってしまったでしょう。東京は昔の名前がどんどん消え行っています。でも水道橋から神保町(じんぼうちょう)にかけて昔の名前に変える運動も起きているとの事をテレビでやっていました。西新宿に「新宿警察」があって新宿(東)に「四谷警察」があります。この四谷警察は四谷になくて信濃町に近い左門町にあります。ちなみに「四谷郵便局」が信濃町の住所で信濃町駅前にあります。淀橋浄水場の隣が「十二社(じゅうにそう)」と言う町名がありここはほとんどが「花町」でした。たしかここの芸者さんは「淀橋芸者」と言っていたと思いましたが・・・ここも開発高層ビル街と西新宿中央公園になってしまいました。その開発で土地を手放し引っ越してきている方も私のすが近くにおられます。わからない方々は面白くなく、わかっている方々はもっと面白ない「追記」にお付き合い頂き有難う御座いました。

 

                                 林 歩記より

 


 

第一回

平成2724日(水曜日)天気晴れ 気温9

日本橋〜四谷見附(四ツ谷駅) 道路の標示版距離 5・5q  (実質125q)



 東京駅北口

同心番所     

天守閣台

三階建四ツ谷駅

第一回

平成2724日(水曜日)天気晴れ 気温9

日本橋〜四谷見附(四ツ谷駅) 道路の標示版距離 5・5q  (実質125q)

今年も歩記をと勇んで出発をして、新宿で地下鉄丸ノ内線に乗って新宿御苑前駅の手前で25分ストップしたきりになりました。早々調子が出ません。なんとか日本橋に到着。ご存知の通り日本の道路の距離はここが原点でまずゼロメートルです。都内には色々思い出などありまして時間のかかることを肝に銘じて出発です。出発は国道1号線になり20号線・246号線はい1号線に含まれています。日本橋を新橋方面に向かって信号を右に曲がますが、この信号の近くにのところには「栄太郎本舗」「野村證券本社」など結構古い暖簾の会社(店)等があります。特に近江商人である布団で有名な「西川産業」(西川ふとん店)日本最古の会社と聞いておりますが?450年を越しているのではないでしょうか?「松下幸之助翁」が会社は生き物だから何時かは消えてなくなるが徳川(江戸)時代(約260年)に勝てる会社にしたいと言ったと聞いております。そんなところからすると素晴らしい会社ですね。右に曲がると呉服橋の信号の手前左に、昭和34年に上京して来た時には「白木屋」と言う有名な百貨店がありました。この「白木屋」がなんで有名と言うと昭和の初めに火災があって女性の店員さんが何人も亡くなった。原因は着物を着ていたからで飛び降りることが出来なかったのだと聞いております。その火事から女性が下着(ズロースと言うやつ)を着けるようになり、制服も洋服に代って行ったと昔聞いておりました。「白木屋」は後に「東急百貨店」となりその後閉店になり今は普通のビルになっておりました。古い東海道は(1号線)この呉服橋の信号を左に折れ現在の東京駅の八重洲北口から丸の内側の北口に抜けて皇居の内濠まで行っていたようです。本人は丸の内北口に出て右に線路づたいに1号線に戻り大手町信号にでます。国道1号線はこの信号を左に曲がるのですが本人は真っ直ぐに行って大手門の信号に行きました。

初めて知りましたが大手門から中には入れることが分かり寄り道をすることにしました。無料で年末年始が有料となり許可証?がいるようです。(月曜日金曜日は休みです)門をくぐり受け付けで入場許可札を頂き一歩を踏み込みました。「宮内庁三の丸尚蔵館」があって「明治天皇」「邦を知り国を治める」展を3月8日まで行っておりました。明治天皇は近代国家にとして歩み始め全国を6回にわたって歩き、写真を広く活用したとのことで各地方の復興の現場・災害の現場・景色など写真と画があり見入って来ました。甲州街道歩記の際「明治天皇」碑があちこちにありました意味がこれで分かりました。城に通じるところに3つの門があり最初の門のところに「同心番所」があり次の門のところに100人番所」有り次の門に「大番所」がありました。3つとも建物がそのまま残っておりました。二の丸跡地を過ぎて塩見坂を登って本丸跡地へと進む上にあがると、やたら広い本丸跡地に出る右に見えてきますのが「天守閣」台です。写真ですとあまり大きく見えませんが積み石も大きく結構高いです。ここから降りて右に歩いて行きますと「松の廊下跡地」がありますが映画などで見る様な立派で前がひらけていたような所ではなかったと思います。本丸の西の丘の付け根になって居たところですから。左下の写真は「本丸跡地」より丸の内ビル街を撮ったものですがさすが江戸城ですね半端の広さではありません。大奥・中奥・前奥も存在をしていたわけですから、入口から出てくるまで1時間半見学をしていたことになります。この辺一帯を「皇居東御宛」と言うのだそうです。大手門を出て大手門の信号に戻りますと12時を越えておりました。昼休みなりますので皇居の周りを走っている人たちが沢山います。周りが4k強ぐらいと聞いております。走る人には手ごろかもしれません。芸能人の「猫ヒロシ」も走っておりました。さすがに早かったです。そのまま皇居の周りを歩くことにしました。まず最初が内桜田門(桔梗門)です。ここからは中には入れません。左に折れて次に行ったところは「坂下門」です。警備しているおまわりさんに聞きましたところ、陛下の出はいりはほとんど此の門で、時々二重橋の「正門」を使用するとのことでした。次に「二重橋」に行きましたが「正門」は工事中でした。このあたりに旅行客が多くいましたがほとんどが中国人の様です。二重橋前を桜田門に向かっていきますと皇居一体の案内図があって見ていると外人(アメリカ人?)に声を掛けられました。あちこちに案内図がありましたが全て下に英語文字が入っていましたが、この看板だけ英語の説明が入っていません。どうも今いる場所が案内版のどこに当たるのかを聞いているようでした。手振りで示すとOKサインが出たのでわかったのでしょう?桜田門に着きました。2つあって内側が大きな「渡櫓門」外側が「高麗門」2つ合せて桜田門、正式には「外桜田門」と案内板に記してありました。「桜田門外の変」は「高麗門」の前に行われたことになります。国道1号線の日比谷の信号を回らずに桜田門を出た。すぐ目の前が「警視庁」こんなに近いのだからそのころ警視庁があれば「井伊直弼」も直ぐ駆けつけてくれて助かったでしょう。桜田門信号を真っ直ぐいくと国道1位号線で、右折れるとここから20号線の表示となっております。左に国会議事堂を見ながら進みます。大きな三叉路が」「三宅坂」の信号です。左に行くとここから246号線になり、20号線との角が「最高裁判所」でその隣が「国立劇場」「国立演芸場」です。歌舞伎と落語をやっているようでした。

「半蔵門」の信号に来ました。20号線は左に曲がるわけですが

甲州街道はここが起点だと思います。横断歩道の上から撮った写真ですが、甲州街道が直接皇居に繋がっております(写真の奥が半蔵門)前にも記しましたが他の街道は全て途中で切れております。攻められたときの逃げ道だったのです。左に折れて麹町に入って行きました。1時を過ぎてしまい腹が減ってしまい食堂探しです。田舎への歩きと違って1歩裏路地に入ると、食べ物屋さんがいっぱいあり今度は何を食べたら良いか迷ってしまいました。中華屋さんに入りましたが此処がすべて中国人、従業員どうしは中国語で何言っているかわかりません。食事を済ませて通りに戻ると日本橋から5qの表示があり歩行器を見るともう10q歩いておりました。このあたりは麹町4丁目になりますが、麹町の名前の由来など記したカンバン立っており道路の南側が大名屋敷で北側は火事の延焼を避けるための「火除地」になっていて名前の由来は「小路地」が多かった・「大豆の麹」を作っていた・「国府路」だった。但し麹の蔵が地下から出土していた。結論は書いてありません。

四谷に向かって歩きます。四谷見附の手前に「上智大学」があり大きな建築がはじまっておりました。少子化になってきているのに他人事ながら大丈夫なのでしょうか?そう言えば自宅の近くに「帝京大学」がありますが此処も大きな建物の建築中です。良い設備を行ったところに学生が集まるのでしょうか?四ツ谷駅に来ました。お世話になっていた会社が四ツ谷駅前で信号待ちがなければ12分でした。ここに10年通勤しました。出先を歩いて来て(出向を含めて)戻ってきたときは手狭になっていて別のとこに通勤となりました。この駅は外堀の埋め立ての上に出来ていて駅の東側が「四ツ谷門」になって居まして、今もその跡が石垣で残っております。四谷門の由来など書いた看板があります。玉川上水の水は此処で本丸や吹き上げなどに分水をしていたようです。駅の東側の20号線の橋は大正2年に完成した橋でいまだに使用させており沢山の車が通るにも関わらずびくともしておりません。またこの四ツ谷駅は再開発で高層ビルが建たる計画があり具体化した?記憶が残っておりますが「迎賓館」「東宮御所」が近いため攻撃の対象になると言うことで流れてしまって今はこんなに低い駅舎です。

歩行器を見の予定で出発しましたが帰ることにして、懐かしき「新道通りをブラつき、東京では有名な「わかば」という60年続いている「たい焼き屋」さんがありお土産にと思って寄りますと午後の2時過ぎですが20人ほど待っております。ここのたい焼きは皮が薄く尻尾まで小豆粒あんがぎっしり詰まっております。次回の出発時に購入することで帰りました。この写真は当日人が大勢いて取りにくかったので2回目の出発の時で開店してすぐでした。お客さんが一人おりました。

色々で紹介されている門・建物・橋などは皆さんお分かりなのでなるべく紹介されていない初めて見るような写真を入れてみましたが如何でしょうか?



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友人林厚男君が東京・日野から故郷・駒ケ根まで甲州街道を歩く道中記〈歩記〉です

甲州街道こうしゅうかいどう

街道地図

五街道のひとつ甲州街道は、江戸日本橋を起点に、内藤新宿、下高井戸、上高井戸、布田五宿、府中、日野、八王子を通り小仏峠から甲府を経て信州の下諏訪に至る、200キロ強にも及ぶ約53里の道である。甲州街道は当初、江戸城と甲府城を結ぶ軍事目的を主眼としたものだったが、江戸城に危機が及んだときの避難路だったという説もあり、これは甲府城を有する甲府藩が親藩であること、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置し、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためである。そして、江戸中期頃から、甲州・信州などから江戸への流通の道として重要性を増して行き、甲府城に詰める武士「甲府勤番」(こうしゅうきんばん)や八王子千人同心、富士講(富士山信仰の組織)にさらに毎年4月には、幕府御用達の宇治茶を江戸まで届けるお茶壺道中も通り、街道筋は賑わいを見せ、江戸100万人の生活を支える動脈として発展した。

甲州街道の見どころ

江戸中期頃から、甲州・信州などから江戸への流通の道として重要性を増し、江戸100万人の生活を支える動脈として発展、様々な名所旧跡や景勝地、歴史的なエピソードの残る街道です。日野宿(東京都内で唯一現存する本陣)・小原宿(神奈川県内唯一の本陣)・上諏訪宿(下諏訪宿本陣の問屋場跡)の3軒の本陣建物が残っており、遺跡・遺構も多く見られます。また、犬目宿の「犬目の兵助の墓」を振り返ると、葛飾北斎が冨獄三十六景を完成させた際に甲列犬目峠からの富士山を描いたと言われる富士の絶景が現れます。こういった情景溢れる景色の良さも甲州街道の特徴で、行楽シーズンには大勢の人出で賑わいます。しかし、難所と呼ばれる小仏峠笹子峠などでは、場所によって道が荒れているので十分な注意が必要です。歴史的な遺構としては、武田信玄や新撰組にまつわる資料館や寺社などを随所に見ることができます。

下記新聞報道の通り平成24年12月3日無事駒ケ根到着、厚男君おめでとう


  第十二回平成26122日       
  
      天気 曇り雪が舞う風強     3温度

      伊那部宿(伊那市バスターミナル)〜赤須上穂宿(駒ケ根市役所)14.2q          

       スタート8:10分〜 12:30分着


最終回にふさわしい?様な天気となりました。昨日の天気とはうって変ってしまいました。北風の方が追い風になって楽でしたが、天気予報通り南西の風となり8m前後は吹いていたでしょう。寒いので準備体操もせず バスターミナルを出発いたしました。旧道は歩道もあり車が少なくて助かります。右に「春日上城址公園」を見ながら進みます。春先にはツツジがきれいに咲き乱れるのでしょうね。滑り出しは順調です。左に「伊那バス株式会社」を見ながら少し進みますと街はずれとなって来ます。電柱に西町の表示、両側にすごい庭園を持った家が立ち並んでおります。相当年月の過った庭なのでどのような方々の家なのだろう。一軒の庭先に「三つ葉ツツジ」が可憐に狂い咲をしておりました。進みますと小黒橋と言う橋です。駒ヶ岳の裏側?より流れてきている「小黒川」にかかっています。確か上流には古い民家で手打ち蕎麦屋さんがあった記憶があります。また中央道のサービスエリアは「小黒川パーキングエリア」ですね。合併前は伊那市と西春近村の境となっていのでしょう。もうこのあたりから防寒完全フル装備で来ましたので汗をかき始めました。西春近の上島地域に入って来ました。右側に小さな石碑がありますのでよく見ますと古くてよく見えませんが、「右、飯田西京伊勢道・左、駒ケ岳・御嶽参道」とありましたが旧道が一本あるだけなのでよくわかりませんが、写真の碑が右にあり、上がって行く小さな道路の脇に立っていたのでその道路が左になり、右が旧国道153号線を示しているのか?この碑の裏には大きな竹林があり、窪が川になっており新しい水車小屋が立っておりましたが、町おこしのために建設したのでしょうが機能が発揮されていない様子。少し進みますと大きな碑が三碑立っております。よく見てみるのですが内容は日蓮上人が650年前にここを訪れたというような内容だと思います。「南無妙法蓮華経」の字だけはよく見えました。100メートルほど進んだところに右に上がって行く参道ががあり高いところに少し見えますが「日蓮宗」の大なお寺の様です。三つの碑と関係しているのだと思います。お寺の名前をメモ紙に記入しようと思ってポケットにボールペンをさがしましたが先ほどの道路案の碑のところで記入しあと紛失をしてしまったようです。一生懸命名前を覚えておこうと何回も繰り返してインプットを試みましたが、次の沢渡のあたりで完全に忘れてしまいました。由緒ありそうなお寺なので帰省した時に寄って見るつもりでおります。

下島駅の踏切を過ぎで行きますと国道153線のとの「沢渡(さわんど)」の信号です。20メートルも歩かずにもう153号線と別れて旧道に入りました。沢渡駅の踏切を渡りますともう何もありません。宮田に着くまでに道祖神と庚申塚が1〜2か所あっただけで、ひたすら宮田に向かっ歩きました。到着時刻がありますので宮田に何時に着けるか心配しながら表木の坂道を一生懸命に登って行きました。伊那市立南西春近小学校を過ぎ宮木駅の踏切を渡ってもまだ伊那市です。道路を右に曲がったところで伊那市と宮田村の境の標識が出てきました。ホッとしました。これで到着時間にゆとりが出来てきました。街並みに入って来ますと「宮田宿」を思わせる名残の建物が2〜3ほど見当たります。街並みの中間に来ますと下り坂に差し掛かる前に右に「宮田小学校」左に「津島神社」暴れ神輿で知られていると思います。子供の時に見たくて見たくていたのですが、親に反対されてついに見ることが出来なかった記憶があります。機会を作って見てみたいものです。坂を下りきり進みなすときれいな「河原橋」と銘板が付た橋に来ました。下に流れている川は「小田切川」でした。左が東伊那にいき右に上がって行くと菅の台に行ける信号だと思います。小さな標識で「宮田宿本陣・旧新井家住宅」とありました。28キロも上がって行くのでその日は行けませんでしたが、帰京の日に行きました。屋根に石を敷いてある家は戦後しばらくは何軒か見たことがありました。県の指定文化財になっておりましたが入ることができませんでした。元のところから移設をしてしまっているのですが、私の勝手な考えですが元のところで頑張っていてほしかった。しばらく歩きますと国道153号線との信号です。ここからは国道を歩きます。少しの坂道を下って信号で、信号の手前左側に村の文化財と言う碑があります「従是北高遠領」とありましたが、津島神社の境内にも同じ碑がありましたが如何なっているのでしょうか?これより南はどこの領なのか?信号を過ぎて大田切川になります。標識が立っていて海抜643mをを表示しております。この橋は(昔の)高校に3年間自転車で通った思い出の橋です。昔の橋の時欄干を酔っぱらって端から端まで歩き切った人がいたと聞いた記憶がありますが、素面では怖くて歩けなかったのでしょうか?渡り切って坂道を登り切り153号線のパイパスと旧道に分かれます。旧道に入り飯田線の陸橋をわたります。右に「龍水社」と言う製糸工場がありましたが、今は製糸工場ではなく。近代的な大きな工場になっております。年数は忘れておりますが、子供のころ「龍水社」が大きな火事になったことだけは覚えております。又この工場の前あたり国道沿いに朝鮮部落があり、汚くて臭くてたまらなかったときがありましたが何時ごろ消えてしまったのか記憶にありません。その向い側あたりに高校の入学祝いに親から買ってもらった腕時計の時計屋さんが今でも残っており少々驚きました。進むとコンビニのある信号です。右に行くと駒ケ根インターチェンジに行きます。信号を渡った所に「松尾芭蕉」句碑の様ですが私の学力では読めませんでした。芭蕉がここと通っていないはずなのに、何の句か知りたいものです。町の中心部になって来ました。駅から来た信号で左を持ますとイルミネーションが広小路の商店街に飾り付けになっております。昔のような活気のある商店街になってもらいたく祈るばかりです。「赤須上穂」宿の中心はこのあたりだったのでしょうか?それらしき建物は伺うことができません。私も赤穂の宿場名を初めて知り「赤穂」と言う名前がここから来たのだと初めて知りました。物知らずもはなはだしい、笑って戴いて結構です。到着時間に若干の余裕がりましたので右に曲がって「安楽寺」の参道を進みました。12回の安全達成のお礼をいたしました。国道に戻り到着点の「駒ケ根市役所」に向かいました。市役所入口の信号を左に曲がり100mほどを左に曲がりました。ここは卒業した高校跡地です。市役所の建物を見るより大勢の出迎えの方々にただ、ただ、にビックリです。小学校、中学校の同級生も6人来て頂きました。自分でのゴールと言う感激はあまりありませんでした。ただ到着できたなと言う気持ちだけでした。杉本 幸治市長はじめ市職員の大勢の方々の出迎えは大変な驚きと、大変な感激と感謝でした。

第十二回完了

田舎へ歩記  第十二回追記

                  歩記者 林 厚男

平成26123日(水曜日) 天候 晴  温度 

宮田宿〜東伊那塩田(実家)       4q  スタート103011:30着

初めの予定の終着目的が実家だったので、こちらもけじめをつけておきたく歩きをいたしました。

「宮田宿」旧道の津島神社より出発です。河原西の信号を左に曲がって東伊那に向かいました。国道153号線を横切り「ガッチョウ坂」に向かいます。この名前は子供の時言っていたのでそのまま、漢字ではどんな字なのか愚兄に聞きましたが知らないということです。昔は堀になっていました。道路を広げたのと左に行く道が出来たため堀の面影がなくなりましたが、上に見える水路管、昔は支えがなく一本ものでした。ここで「長谷川一夫」主演の「伊那の勘太郎」時代物、縞の合羽に三度笠で歩いている頭の上に水路管が映っていたのです。今では消せることのできる技術があるからよいのですが、当時はありません。昔は結構このような映画の場面が相当あったのでしょうね。坂道を下り真っ直ぐな道路を進みますと大田切橋から降りてきた道路と交差します。大田切橋までの道路は今でこそ工業地帯になりましたが、昔は素晴らしい松林の防風林でした。少し左にカーブを切って大久保橋となります。左に吊り橋の柱が残っております。バスやトラックが通るとすごく落ち込み恐いほどでした。高校三年終わってまだ吊り橋でしたが、いつの日か頑丈な鉄の橋となりましたが、渡った向こうがクランクになっているため、道路と間直ぐな橋に計画があるとのことです。県道ですがあまり重要な道路ではないような気が致します。段々遅れてくるのではないかと地元の弁。下は天竜川で上流は「伊那峡ダム」、「下がり松」と共によく泳ぎました。又伊那峡ダムが一度上がって放水して下がるとダムの下の水が急になくなるので、魚が拾えるニュースを大久保の同級生が持ってきて、学校の帰りに魚を拾いに行った覚えがあります。橋を渡って坂道を上がって行き大久保部落を過ぎ箱畳部落に入って来ました。抜けると我が故郷の実家が目の前に見えてきました。土地改良を行っているのでまっすぐの道路路です。昔は赤穂の祇園祭の帰りは遅くなっておりますのでホタルの行動がなくなりホタルの光で道路が明るかった記憶があります。無事到着の記念に、妻のシャターで記念写真を収めておきました。右写真は前日の到着の際写真を撮ることを忘せれましたので自宅到着の後、家内と一緒に市役所まで行って納めた写真です。

第十二追記完




第十一回

平成2611月12日(水曜日)   天気 曇り 17温度

平出宿(辰野町)〜伊那部宿(伊那市バスターミナル21q 9:50スタート〜1445

辰野サービスエリアに降りました。少し雨がぱらついておりましたがスタートです。10回目の時に記しました平出の宿場跡の裏にある気になっていたお寺に戻りました。「見宗寺」と言うお寺で門が桜門と言って辰野町の重要有形文化財になっており、通し柱がないということの様ですなんとここには「戦艦大和」の艦長であった当地出身の「海軍中将」であった「有賀幸作」氏が眠っておられました。碑はお寺になく近くに「法性神社」にあるとお店のおばさんに聞きました。何か遠い昔に聞いたようなことがあったかな?とにかくビックリでした。あの辺りは昔朝日村だった。お参りをして伊那に向かいます。その前に、前回書けなかった参勤交代と国道152号線について少々記したいと思います。152号線は上田市を出て、白樺湖の脇を通って茅野市に抜けて杖突峠を抜けて高遠より大鹿に抜け、静岡の浜松市に秋葉街道としてつながっているわけです。この国道は長野県と静岡県の県境が一部、人間もやっと通れるようなとこがある過酷な国道です。参勤交代で飯田藩・高遠藩・高島藩だけが中山道を通らずに甲州街道を登って行っている訳です。この3藩だけが甲州街道をなぜ通ったのかよくわかっていないと言うことです。飯田藩・高遠藩は杖突街道(152号線)を歩いた。153号線は(三州街道)は商業の道としていたと思われるからです。実際には藤沢から甲州街道の金沢宿に抜けたようです。今でも長藤、藤沢に宿場が残っており本陣跡もあります。1つは単純な考えで、3藩とも茅野(金沢宿)および諏訪から下諏訪宿(中山道)へ戻って行くことになり大変だった。もう1つは、甲府藩は徳川家じきじきが管理をしていたのと、高遠藩も徳川家の関係だったので(保科正之は三代将軍家光の異母兄弟)そこを通れば中山道を行くよりしっかりと監視が出来たと言う考えです。どなたかなんで3藩だけが甲州街道でよかったのか知っている方がありましたら教えてください。平出の交差点から岡谷街道(県道14線)を歩き町の中心部を通ります。商店街を過ぎると岡谷にもありました。ややこしい川、こちらは字が違いますが「横川川」結構大きな川です。渡ったあたりにパルプ工場があって町中が臭かったがどこに引っ越していってしまったのでしょうか?IHIの第二工場がありましたがこのあたりだったはず。IHIの第一工場を過ぎると国道153号線との信号です。此処は三州街道になり「宮木宿」右に行くと小野宿を通り塩尻に出て千国街道となり新潟の糸魚川に続く、左に行くと飯田を過ぎ根羽村を抜け愛知県の足助町と続いていた。商業の道、要するに「塩の道」だった。宿場の面影は何もありません。伊那に向かって進みます。ここから伊那まで続いてありましたが、ドウダンツツジ・もみじ・銀杏と、各家の庭木、神社、お寺、街路樹として、とてもきれいでした。昔と違って気候のせいか一か月は完全に遅くなっている気が致しました。辰野の町を過ぎてくると国道に歩道の部分がなくなって来ます。何時も記していますが、少しでよいので国道には歩道がほしい、ここもガードレールにトラックが来るとへばりつきました。そんな中にもこんな田舎に(怒られるかな)イタリアンレストランがありました。Tキロも歩きますと歩道の工事を行っていて歩道が続いているようです。此処も少したまげましたが、工事を行っているところ歩道があるところ道路の両側みんな素晴らしい家ばかりになっております。高額な歩道になってしまっているようですが広くてとても快適でした。そんな歩道を歩き終ったところが大きな信号で「伊北インターチェンジ」に入る信号です。その信号を渡ったところから「箕輪町」となりました。町を示す標識を見ると海抜731mです。その先からが153線がパイパスと旧道に分かれます。どちらも153号線となっております。昼食時間に近くなったのでパイパスを進んだ方が食堂はあるだろうと思いましたが、「松島宿(箕輪町)」古い宿場で歴史的なものが多くあるだろう。町の商店街等がどうなっているか。又知り合いの方の実家があるのか?そんなことで旧道に迷わず入りました。旧道に入って来て直ぐにこんな旧跡がありました。枯れた大木の根元が2本あって間をまっすぐ上がって行くのが春日街道、左に行くと三州街道(153号線)です。この街道のことは初めての知識です。活字にするよりもリアルと思い写真を乗せました。読めない方は虫メガでお願いいたします。少し進みますと「大永寺」と言う小さなお寺があり中に何か字を書いてある碑がたたっていますので入っていきますと下記の立て札がありました。

十返舎一九書画会開催の寺」 

文政二年(1819年)の秋、大出村門屋岡右エ門(名主)の招きで十返舎一九が江戸より來村、大永寺にて書画を開いた。飯田・高遠・松本・諏訪・の城下まで刷り物を配って 、大入りにて開催された。

滑稽旅賀(こっけいたびが)(ら)寿(す)」の一文この大出村というは、伊那街道より少し脇道に入る所にて辺地なり。かかる辺土にしていかがあらんと思いしは、案の外にて、人の集まることおびただし。会席はさしも広き大寺なれど居所もなきほどに群集したり。

少し坂道を降り始めると、大出城跡の立て札、急な小高い丘があってその上が城跡です。桜の名所でもあるようです。少し歩いたとところが「追分公園」としてあり石の碑がやたらと立っています。枝垂れ桜の並木になっており春には素晴らしい公園になると思えました。どこが追分になっているんだと思い進んでいった信号が追分の信号でした。辰野に向かって「右に行くと諏訪街道、左に行くと名古屋・飯田街道(三州街道)」と言う石の碑が立っておりました。写真ではよく見えませんが電柱のところに碑が立っていてその奥の両側に枝垂れ桜が見えます。昔の大きな追分だったのが碑の数で分かりました。街に入って来ましたので食堂探しに専念です。食堂はけっこあるようですが、水曜日休みでどうにもなりません。中心部に来てみると道路を拡張して駅からの商店街もきれいになっておりました。中心部ならと思いましたが休みです。食堂などは話し合いで半分づつでも休んだらお客さんも助かるし、お店の方も商売になると思うのですが、如何の物か。探し歩いているうちに木下の町に入ってきてしまいました。やっと一軒見つかり昼食を済ますことが出来ました。出発前にトイレを借り貸した。こんな街中でもまだ水洗トイレになっていませんでしたので少々驚きはいたしました。ここ木下は箕輪の中心部では見られなかったのですが、宿場の建物が4〜5軒見受けられます。一軒の宿場の建物の前にこんな札が掲げてありました。「木下陣屋高札場跡」。その手前右奥に「嶺頭院」と言う大きなお寺が見えます。何かありそうなので入って行きました。境内の中には入りませんでしたが山門が桜門と言って辰野の「見宗寺」全く同じ造りの門です。ここは文化財になっておりませんでしたが同じ宮大工の建造物であると思います。そろそろ木下の街並みも終わるのかなと言う時分に「箕輪南宮神社」の境内が見えてきて中に入りますと、今まで見たことのないような欅の大木が三本あります。樹齢が600年で回りが8.5mとの立て札がありましたが帰って来てわかったのですが、近くにこのお宮の飛地があり樹齢1,000年で周りが10.5mのある大木があると知りました。残念でしたが近くを通った際はぜひ見たいと思います。箕輪町は思ったよりいろいろあって楽しく通過ることが出来ました。古い街で大きな宿場であったことは、お寺が多くその中で大きなお寺が多く見受けられました。全て曹洞宗でした。ちなみに辰野町は浄土宗でした。木下の街並みも終わりますと南箕輪村海抜669mの標識です。南箕輪村は全てが上の段だけと思いましたら結構下にあり行政はほとんど下にあるようです。少し国道を歩いていたのですがどうも右側に家並みが見えますのではいいていきますと昔の旧道でした。北殿地域になっておりました。北殿を抜けて田畑地域に入って来ました。此処は素晴らしい家ばかりで北殿もそうでしたが裕福な村であることが伺えます。田畑に入ってからは特に加藤姓のうちが何件かあり全てものすごい家ばかり。又すべての家に屋号の名札が掛かっておりました。又このあたりの家には蔵が多く蔵の扉に必ず「寿」の字が大きく書いてありました。田畑を過ぎると又153号線と合流です。少し歩いたところで又153の旧道とパイパスに分かれます。旧道に入ると伊那市の住所となります。右手の少し入ったとこ今では珍しい大きな茅葺屋根の家が見えます。屋根の萱が新しいので建物を保存しているのでしょう。出てきた道路の反対側に「祥雲寺(曹洞宗)」、お寺があってそのお寺の入り口に沢山の碑の中に写真のような「鬼瓦」が碑の上に鎮座しております。寺の屋根を見ますと屋根鬼瓦を含めて全て銅葺き屋根になっています。長い間の記念として取ってあるようです。伊那インターチェンジに行く信号です。信号を過ぎると急に商店街となって来ました。坂を下り降り終わると直ぐに伊那北駅となりました。駅前の信号がいくら待っても青になりません。何度か待ってみました。よく見ると歩行者はボタンを押せとのこと。入船の信号に来ました。昔、親に連れられてきたころは入船の商店街が一番にぎやかだった?様な記憶がありますが、又ここには「本間呉服店?」だかあって「本間千代子」と言う歌手だか俳優だかがそこの生まれだと聞いておりましたが。歌手の「守屋ひろし」と結婚したと思いました。この信号は、今は高遠から木曾までの短い距離ですが国道361号線となっているようです。高遠と伊那の余り米を、権兵衛峠を越えて行った重要な道路だったのでしょう。また子供のころ大人が伊那の「土手八」「土手八」と話をしていましたが何のことかわからないでいましたが大人になって意味が解りました。どこにあったのでしょうか?小沢川の橋の端に写真の碑が立っておりました。「高遠から江戸へ」重要な道路のしるしと町おこしの一環でしょう。橋を渡り通町、ここもシャッター商店街になってしまったようです。これからの町の発展はここをなんとかしねばなりません。考えているうちにバスターミナルに着きました。伊那に住んでいる昔の同僚と50年ぶりに会い、一時間余の時間がアッと過ぎて、高速バスの車人となり帰途につきました。

                        第十一回完



田舎へ歩記

                歩記者 林 厚男

第十回

平成2610月日( 曜日)   天候 晴のち曇りのち雨  温度 16

上諏訪宿〜下諏訪宿〜岡谷市〜辰野町 21キロメートル 9:20スター〜1420分着

上諏訪の駅のホームに降り立ちました。大発見です。前回の帰りに諏訪駅西の踏切を渡った時、どうしても線路が2本しかなかったと思っていて頭から離れずにいて改札口を出る前に駅員さんに話しかけました。上諏訪駅の少し手前から岡谷駅の間はどうしても単線のような気がしますが、間違っていたらすみません。「その通り単線です」との答え、中央線は全線複線と思っていたのは浅はかな私だけでしょうか?要するにこの間は線路を引く余地がまるでないのです。悩みも解決をして秋晴れの上諏訪駅前を出発しました。問題の踏切を渡り、20号線を一路下諏訪へと向かいました。旧甲州街道は前回立ち寄りました「宮坂醸造」の信号を山手に上がってそのまま下諏訪宿へと行っています。左に「東京月島のもんじゃ焼き」と大きなお店の看板です。東京では月島に何十軒も、もんじゃ焼き屋ならんでいて有名です。線路が右を走っていて大きな踏切の向こうは、前が以前の「諏訪精工舎」の本社の建物、後ろがエプソンの大きな建物(エプソンの本社?)。これだけ大きな建物が2つあるわけだからもんじゃ焼き屋も大きくなるわけです。左に味噌で有名な「信州タケヤ味噌」の工場を見ながら25分ぐらい歩いたでしょうかもう下諏訪の住所になり、東京(日本橋)から202qの表示です。すると上諏訪駅前が丁度200qになります。前回そんな気がして見つけて写真を乗せようと思いましたが見つからなかったのです。202キロで我慢いたしましょう。(100路の時は載りましたが)左に「赤彦記念館」の大きな建物が見えていきました。その建物の向こうは湖畔道路を隔てて直ぐに諏訪湖です。歌人「島木赤彦」は諏訪の出身だったのですね。3.5キロ地点で右に踏切を渡り急な坂道を上がり、旧甲州街道を歩くことにしました。旧道なので行けば諏訪神社に繋がるだろうと思ったからです。上がってみると諏訪湖、下諏訪の町・岡谷の町が全部見渡せます。またこの旧街道はこのあたりから古い建物も、新築の建物も素晴らしいう家が多いのです。裏直ぐに山だのによくわかりません。この辺から諏訪大社に関係しているのでしょう。案の定道路は諏訪大社秋宮にぶつかりました。お賽銭を少しはずんで(幾らかな?)今まで事故なく来られた御礼と、完歩までの無事故をお願いいたしました。ここでもひとつ疑問があり、巫女さんに尋ねました。ある本?だかに、全国の諏訪神社の大社は「秋宮」と記してあったからです。上諏訪の「前宮大社」「諏訪大社」下諏訪の「下諏訪春宮大社」「下諏訪秋宮大社」4社とも同等の大社と言いました。諏訪大社と言えばなんてったって日本三大奇祭の一つである御柱です。7年に一回で再来年だそうです。私もまだ現地で一回も見ておりませんので再来年が最後のチャンスと言うことになります。それも豪快である秋宮の山落としを見て冥土の土産としたいのですが、かなうでしょうか?又御柱と言えば諏訪の御柱で隠れてしまっているのですが塩尻の「小野神社」・松本の「千鹿頭神社」も御柱をやっている様です。諏訪大社と何か関係があるように思えます。50何年か前になりますが、松本に居た時に飲み屋のおばちゃんに教わった言葉があります。「人を見たけりゃ諏訪の御柱、喧嘩見たけりゃ小野の御柱、○○○見たけりゃ(ち)鹿頭(かとう)の御柱松本の千鹿頭神社他に比べて小さば、人も一番少なかったのでしょう。お客さんを一人でも多く呼ぶための言葉のような気もしないではありません。○○○は松本地方の言葉です。大鳥居に戻りお宮沿いに旧甲州街道を右に行きますと、中山道との合流地点です。甲州街道はここで終わりです。左が合流地点の碑で、右がそのすぐ裏にある問屋場(といやば)跡地です。写真では見えませんが問屋場の左側では温泉が湧いており手も洗えるようになっておりました。周りの建物はすべて木造で当時の面影を残しています。中山道は次の和田の宿場まで和田峠を越えて30キロほどあったのだから越える方々も大変だったろうし宿場も大きかったのでしょう。時間があればこの周りを見ておきたかったのですが合流の碑の前を、今度は旧中山道になりますが20号線に向かって降りて行きます。ここの両側も旅館とかお店もすべて木造の建物で、少しでも当時の面影をと努力してあります。下りた5差路の信号が20号線で、左に曲がれば秋宮神社の大鳥居です。右斜めに信号を渡り岡谷とへと向かいました。10分も歩きますと、春宮大社の入り口の信号です。右手の真っ直ぐな道路の突き当りに大鳥が見える。どうも1キロはありそうで見学など入れると往復30分以上かかりそうです。取りやめて少し先にある「林家うなぎ店」が本当は目的でした。テレビなどで放映をしていましたし、違う番組でも並ぶ時があるなんて言ってたものですから、前回の「歩記」時の同級会で岡谷の「水門」と言ううなぎ屋さんで(有名だそうです)食べたにもかかわらずまた食べるつもりでした。なんと水曜日休みでした。春宮大社のバチが当たったようです。何時か時間を作って春宮大社のお参りと共にうなぎを食べます。拡張工事中の富士見橋を渡ると岡谷市入ってきました。長地の信号を左に曲がって県道14号線、通称岡谷街道に入りました。ここで何回もお世話になった国道20線とお別れです。20号線は塩嶺峠をこえて塩尻市の国道19号線で終点です。街並みに何もありませんので住宅の名札等を見ながら歩いていると、「横河川」というややこしい名前の川の橋を渡りました。宮坂姓が多く見受けられる。そういえば以前ラジオ番組で放送をしていましたが、岡谷には宮坂さんと言う苗字の人が5000人いる。今はなくなりましたがTBSラジオで「小沢昭一てき心」と言う何十年も続いた番組があって話の人物を何時も「宮坂さん」と言うことにしていた。それを岡谷の宮坂さんと言う方がラジオを聴いていて手紙を書いた訳です。岡谷には宮坂が5,000人も居て神社まである、一回岡谷に来てほしい。そんなわけで小沢昭一さんが岡谷に来たというわけです。それが小沢昭一さんの本の中の一部にあったわけです。又有名なお坊さんの兄弟もいるようですが、なんで有名なのか忘れた本を出版したり外国に行っていたりしているようです。宮坂姓は岡谷では2番目(一番は小口かな?)上諏訪では3番目(一番は藤森かな?)、下諏訪では5番目、茅野市、原村まで分布していて、全国のほとんどが諏訪に集中しているようです。橋を渡って少しすると、住所が銀座になっている、こんなところまでで銀座なのだ、結構歩いて岡谷で一番大きな市役所の信号ここから岡谷駅の手前までが銀座だと、昔記憶していたのだが。市役所の手前に、諏訪地域消防本部の建物の脇に大きな7〜8トンは少なくともありそうな三波(さんば)(せき)が置かれていました。群馬県の富岡市から送られたものでした。岡谷市と同じ製糸工場があって友好都市になっているようです。「三波石」は群馬県西毛地域の庭石の名産地です。岡谷市からは市の木である「いちいの木」を送ったと記されてありました。市役所の隣が岡谷病院ですが、今その隣に大きな岡谷病院の建設中でした右手に名門「豊島屋」のスタンドと、「御渡り」と言う甘口のお酒の酒蔵を見つつ進んでいきます。私の田舎の林とは全然関ないのですが、豊島屋はじめ、昔の国会議員(共産党)でもあり「三鷹事件」の主任弁護士でもあった林百郎、前に市長を務めた林さん、岡谷では「林家」は名門が多いです。岡谷に入ってからもう1時間になります。コンビニでおにぎりか弁当を買って伯母のところで食べようと思っていたのですが、長地からここまで一軒もなし。そうこうしているうちお寺の前に出てきました。真言宗「照光寺」と言う写真ではわかりませんが裏にも色々建物があり大きなお寺です。東京から歩いて来て甲府の善光寺の次に大きかったです。あとから伯母に聞いて分かったのです宮坂姓の有名な坊さんがいるといっておりました寺でした。小学生が2クラスほど勉強に来たのかお説教を聞きに来たのか、境内で坊さんと写真を撮っていました。直ぐに本町の三叉路の信号に来てしまいました。左に行くと200メートルくらいで駅、右に行くと辰野方面です。直ぐ近くに伯母がいますので立ち寄りました。88歳くらいになると思います。顔色もよくとても元気です。高校生時代に何回かと、就職して一時からだの具合が悪かったときアルバイトでお世話になりました。その際毎朝早く大きな声で物売りが来るのです。どうしてもわたしは「あっさり死んじめえー」としか聞こえません。毎朝来るのでどうもおかしいと思い聞いてみますと「アサリ、シジミ」だったのでした。大笑いになりましたが、アサリは取れませんがシジミは諏訪湖でたくさん取れます。納豆売り屋さんも毎朝泣きそうな声で来ておりました。前回のお礼をしお茶一杯頂いて三叉路に戻り左に行きます。長野中央道の橋げたが見えてきました。見あげてみると80メートルはあるのではないでしょうか?とにかく高いです。少し進むと中央本線のガードを潜ります。昔は辰野を回っていたので此処にはなかったのですが・・このあたりからにわかに曇って来て雨がパラパラしてきました。今のところコウモリだけで歩けますので進みます。右に「鶴峰公園」を見て、ここはツツジで有名な公園です五月にはどうぞ。左には元養命酒工場の跡地がありますが全て駒ケ根に移ってしまっていて空き地の部分が多くありました。天竜川の橋を渡ります。台風の後なのか水量が多いようです。昔は諏訪湖も天竜川もうなぎがすごく取れて水門からここ川岸地域までにうなぎ屋が30軒以上もあったと何かで聞きました。橋を渡りますと今度は飯田線の陸橋を渡りますが、このあたりから雨がひどくなり川岸駅の待合室に飛び込みトイレをお借りして、合羽を取り出し雨よけの準備をいたしました。無人駅で一人ひとっ子いません。準備もできて合羽とコウモリを差して出発。県道14号は右に線路とその向こうに天竜川で平行に走っております。益々雨もひどくスニーカーも上側がメッシュになっているので靴の中はぐちゃぐちゃです。道は又飯田線の陸橋になりましたがこのあたりから全て歩道はなくなってしまい大型トラックが通りますと、ガードレールにへばりつきです。気が付いてスピードを落として避けてくれるのですが対向車のある場合はそうもいきません。30分も歩いたでしょうか南の空が明るくなって雨もやみました。岡谷市と辰野町の境の看板にきました。名古屋まで210キロと書いてあります。東京都・名古屋の中間点が岡谷市の町の中心になるのでしょうか。辰野町に入ってくると飯田線は左になり、右は直ぐに天竜です。川を見ながら歩いておりますと「ホタルの里」の公園に来ました。辰野町は「源氏ホタル」で大変有名ですが高遠の桜と同じでわずかの期間のみのお客さんとなってしまいます。何か過疎期の対策が必要です。管理人が草刈りをしていただけで大きな駐車場には一台もありません。民家が見えてきて旧道に入って中央道の辰野サービスエリアを確かめのためにおばちゃんに聞いて町へと入って行きます。此の県道14号線(岡谷街道)交通量も多く岡谷からは松本方面、諏訪方面、上田方面とつながる主要道路と思われるのに何で国道ではないのでしょうか?政治力不足でしょうか?県道14号・県道50号・県道18号の交差点に来ました。右に曲がると国道153号線です。真っ直ぐが18号竜東道路です。左に曲がると有賀峠から諏訪市にでます。この交差点が平出交差点です。竜東道路方面に渡るとその角に「平出宿場跡地」の碑が立っている、ここに宿場があったのだと初めて知りました。立て札を読んでみると商人主体の宿だった様です。諏訪から東京方面に行く人は有賀峠を越えていく、岡谷、上田方面の人は岡谷街道と言う拠点であったかもしれません。裏側に歴史のありそうなお寺が見えましたが、中央道のバスの時間に追い込みを掛けられて、次回の時に回すこととして、辰野サービスエリアより帰路に付きました。

第十回完


田舎へ歩記

                    歩記者  林 厚男

第九回

平成2610月2日(木曜日)  天候曇り    温度25度

富士見峠〜金沢宿〜上諏訪宿        20・5キロメート  スタート11:20〜16:10着

第八回目と同じ特急に乗るつもりで家を出ましたが、忘れ物をしたと思い家に帰って来ても探してもなくさんざん探した結果リュックサックの下の方に入っておりました。そんなわけでスタート時間が1時間30分遅れてのスタートになりました。富士見駅より20号線に出まして、まず富士見峠の信号まで10分この信号が甲州街道(20号線)では海抜が一番高いと思います。ですからここから下りとなります。又ここを左に上がって行きますと富士見パノラマスキー場です。旧甲州街道は、第八回の「瀬澤大橋」袂より山里に入って行きパノラマスキー場の駐車場のところを通り金沢宿場へと向かっていきます。昼食時間になるので食堂に一足入れましたが、時間の遅れを考え国道に戻る、ここから写真のごとく歩道がなくなりました。国道なので歩く人はあまりいないと思いますが、危険防止のために狭くても歩道がほしいものです。ここを抜けていきますと20号線より左に上がって行く道があります。ここを上がって行くと「カゴメトマトジュース富士見工場」もう40年も前になるでしょうか?お盆に実家に帰ると1〜2日はトマトの収穫をやりました。きっとここにきてジュース・ケチャップになったのでしょう。両側に何もないところを歩いていきますと、突然街並みになります。アレ、もう「金沢宿」に来たのかなと思い信号の上を見ると御射山(みさやま)神戸(ごんど)となっております。この信号が旧甲州街道との接点です。電柱にはまだ富士見町住所になっております。前方を見ますと空き地におばあさんが立っているので聞くことにしました。先ず御射山(みさやま)神戸(ごんど)とは?昔は「御射山神戸村」村の名前だったのです。今は富士見町と合併しています。名前のいきさつはわからないとのこと。また街道の建物が宿場の建物に似ています。大きさが違いますがこれは「お蚕」を飼っていた名残だそうです。そのおばあさんの居たその空き地に大きな碑が立っております。「小川平吉誕生乃碑」でした。名前は聞いておりましたが良く知りませんでした。この息子の「小川平二」は昔、私たちが子供のころは長野県選挙4区の代議士でした。こんな田舎から日本を動かしたような政治家が出ていたのでびっくりいたしました。どちらもいろいろの大臣をしており、他に有名な政治家との親戚関係もあります。もっと知りたい方はインターネットにてお願いをいたします。小川家だけで1ページとられてしまいます。おばあさんの話では小川家の関係は此の碑があるだけでこの村には何もありませんとのこと、でもすごい小川家ではあります。「御射山神戸」の家並みを通り越し進みます。次の信号が中央道「南諏訪インターチェンジ」に行く信号です。そこのコンビニで水とおにぎりを購入して、少し進んだエプソンの施設の入り口のところで一休みがてら昼食といたしました。その脇の畑がソバ畑になっており中箕輪町でなければ見られない赤そばの花でした。箕輪に行きますと赤いそば粉の蕎麦屋さんがあって昔食べに行ったことがありました。他のそばと味は変わらなかった記憶がありますが?ただ珍しいということではないか思います。短い昼食を終え出発です。わずかな時間で「金沢宿」に入って来ました。この金沢宿からは茅野市となります。宿場の建物は結構残っていますが人が住んでおりませんので傷みが激しいです。この家の人たちはどこにいるんだろう。と立ち止り裏を見ると近代的な素晴らしい住まいが同じ敷地内にどの家も立っております。宿場の建物は保存のために残してあるのでしょうか?どこの宿場には神社仏閣があり、みんな素晴らしい大きな建物になっており何時も檀家・氏子がどこに沢山いるのだろうかと他人事なが心配(してないか?)しております。金沢宿もありました。20号線から参道を50〜60メーター入って行きますと素晴らしい梵鐘ありました。曹洞宗「長泉寺」禅寺でした。いろいろの碑が立っていましたが時間の関係で読まずに国道に戻りました。この宿場にも本陣または本陣跡があるのではないかと探したが見当たりません。大きな宿場の建物に一軒だけ人が住んでおりましたので、ここが本陣だったのだろうか?カーブを曲がると金沢橋、ここが宿場の終わりです。信号を過ぎると「木船」と言う部落に入って来ました。宿場には関係ないようですが、歴史のある部落のような感じが致しました。部落を過ぎると旧甲州街道は右手に入って行きます。20号線は左にカーブをして「板室橋」を渡ります。信号がきますと写真のようにトンネル(左)側が新しく開通しました20号線パイパスです。右側が20号線となります。右側を本日唯一の坂道を500mほど上がります。ここで10分ほど一休み。出発して下り坂を降り切りますと旧甲州街道の接点になり、宮川にかかっています「板室橋」を渡り街並みを通り越し中央高速の下を抜けます。先ほどの木船橋よりこのあたりまで板室地域となるのでしょうか?坂を降り切りますと宮川と言う変則の四差路の交差点です。左に行きますと、先ほどの開通したパイパスとつながります。右に曲がりますと、「鎌田實先生」有名な「諏訪中央病院」に行きます。私は斜めに旧20線(現在県道197号線)行きますが、ちょっと鎌田實さんの本が好きでほとんど読んでおりますのでそのことに関して、その中で茅野市が日本一の長寿の市になったことを記したいと思います。長野県、昔は短命でワーストベスト3に入っていたわけですが佐久病院の医院長先生(名前は忘れました)の指導と県民の努力により現在では日本一の長寿県となったわけです。鎌田實先生も佐久病院の先生と共に運動をしたわけですが、先生は茅野市の住民であります。茅野市が日本一短命の自治体であったため婦人会を口説いて寒天を入れた料理なので現在は日本一になった。県道197号線に戻ります。このあたりが昔のか移動であったため一番の商店街であったような雰囲気が残っております。少し進みますと各宿場などにありました明治天皇の休憩所跡碑です。やはり明治13年6月となっております。一日の移動が当時とすると結構距離的に移動をしております。この日の隣には写真はありませんが御柱の時の準備などする神社のような建物がありました。川のふもとに出てきました「上川」と言う川ですが結構大きな川ですので諏訪湖に流れ込んでいる川では一番大きな川であると思います。川上橋を渡ると道路が区画されており。きれいな商店も駅前までありましたが、わずかなものです。何時も茅野市に来ると思うのですが、メーンストリートはどこなのかな。駅前に大きな鳥居がありました。「諏訪神社上社」向かって立っています。御柱の時は此の鳥居をくぐって上社に向かって引っ張られていくのでしょう。大きな信号に来ました。右に行きますと蓼科、佐久地方に行く国道です。交差点を通り越してバス停のベンチで一休み、前にはアルピコのバスの大きな駐車場です。出発すると直ぐに20号線との合流の信号となり右曲がって諏訪市に向かって一直線になります。旧道の20号線(甲州街道も一緒)は線路を渡って向こう側とのります。新しい20部線は(でも40年ぐらいは立っているのでは)真直ぐに伸びて行って一番向こうが見えません。歩いていて一番うんざりするのがこのような道です。ここは両方がメイカー工場や会社の建物だけです。ただ漠然と歩くのみなので疲れがきます。中間ぐらいなところでもう一休み、立ち上がりまた頑張ることにしました。茅野市との境を通り越したときに信号の地域が「神戸」となっておりました。富士見の時と同じで「ごうど」と読ましているので何か関係があるのでしょう。やっと踏切に来ました。ここまでのまっすぐの道路は5〜6キロあったようです。渡ったところが旧道との合流で少しの坂道を上がると諏訪市の街並みとなってきます。はじめの信号(三叉路)右に行くと霧ヶ峰に行きます。左が造り酒屋の「真澄」で知られている「宮坂醸造」です。代表して宮坂醸造を写真に収めておきましたが、マップにありように創業200年〜350年の造り酒屋が400500mの間に5件もあります。建物はみな同じように古い木造の建物です。なんでこんなところに5件も、ここは霧ヶ峰からの伏流水が大量に湧き出ているのです。上諏訪の宿場も酒屋さんの建物が似ているところからこのあたりなるのでしょうか?3週間ほど前ですか、NHKの深夜放送の「明日への言葉」のコーナーで宮坂醸造の社長が「日本吟醸酒協会」の会長をしている関係で話をしておりましたが今、日本酒は全盛期の製造は半分以下ですが、吟醸酒を作る様になり売上金額は落ちていない。又この吟醸酒が外国人の口に合うとのことで輸出が伸びてきていて、先は明るいと言っておりました。こんなに近くに5件もあるが製品はライバルでもとてもうまくいっており様です。「飲みあるき」イベントを年に何回や5件で企画をして何回か行っており、一回の会費が2,000円でお客が一回に何千人も来るようです。お酒の好きな方は色々の種類の酒を沢山飲めて、如何でしょうか。あと諏訪市には花火があります。815日と9月第一土曜日の来年の試作品、私はどちらもきれいに見えましたが、天気が良くとも風向で半減してしまのが欠点の様です。酒蔵通りを通り過ぎ上諏訪駅に到着となりました。駅の反対側にわたり、今日は丁度同級会と重なりました。大体思った時間に皆の待っている「浜の湯」の玄関に入ることが出来ました。今回は出発時間を間違えてしまい、あまり脇道に入れず少し残念でした。

第九回完

田舎へ歩記

                  歩記者 林 厚男


第八回

平成26年9月12日(曜日)天候晴れ     24温度

武川町(宿泊旅館)〜富士見峠(国道20号線)24:00キロメートル10:00スタート16:10着

第七回と同様「歩記」は富士見より武川になります(東京に向かっております)

第八回

平成26年9月12日(曜日)天候晴れ     24温度

武川町(宿泊旅館)〜富士見峠(国道20号線)24:00キロメートル10:00スタート16:10着

第七回と同様「歩記」は富士見より武川になります(東京に向かっております)

富士見に止まる特急あずさにて富士見駅におりましたまだ朝方なので寒いくらいでした。駅より20号線まで下って行き本日の出発です。30分ほど歩きましたでしょうか?20号線唯一のヘヤーピンカーブを通り越し、すぐに釜無川の支流の立場川の「瀬澤大橋」になります。渡る手前を右に入って行く道路が旧甲州街道で山里の方に上がって行き、次回に歩く金沢宿で合流となります。橋を渡り進んでおりますと左の民家の門の中に碑が見えますので入ってみますと、明治天皇が水を飲んだ「明治天皇御膳水」の碑でした。いまだに水が湧き出ております。しばらくすると「信州蔦木宿」に入って行きました。この宿場は面影が相当残っており、各建物に「屋号」が全て掲げてあります。取り壊して、ない建物の場所にはあったべき「屋号」の立て札が立っておりました。屋号をつけてあるのも町おこしの一環なのでしょう。この宿場の建物の特徴は、他の宿場の間口の一軒分に三軒間分の間口があることに気付きました。それも屋根と屋根がくっついていて見分けがつかないくらいです。その分だけ奥行きがあるようです。ですので、写真のように軒数が多く数えてみますと130軒前後あったようです。写真を見るとわかりますが「枡形道路」になっており侵入者の直進を制御していたようです。これはこの宿場だけです。宿場町の案内板を過ぎるとすぐに本陣跡石碑が立っておりました。本陣「大坂屋」となっておりました。大きな碑が明治天皇の宿した記念碑です。これは第四回に大月の本陣で明治13618日と記してありました。ここは23日になっておりましたのでここまで5日間掛かっていたことになります。次の日に先ほど記しました水飲み場で水を飲んで行ったのでしょう。どこの宿場にも神社仏閣がつきものです。ここもありました。お宮はたいしたことはないようでしたが、お寺が素晴らしい大きなお寺です。「三光寺」と言う大きなお寺、上がって行きましたが大きくてきれいなお寺で写真に撮りようがなく取り入口のとこらだけです。国道に案内が出ておりますお通の節は是非一見を、しかしこんな小さな宿場町にこんな素晴らしいお寺、檀家はどこの範囲まで入っているのやら、他人事ながら心配をしてしまいました。宿場町ともお別れをして、しばらく進みますと、「信州蔦木宿道の駅」です。ここはよく田舎より帰るときに立ち寄ります。野菜、山菜を買います。丁度12時近かったので昼食をとることにしました。中に入って席を取りますと、おばちゃんが来て、どこかを歩いているのですかと話しかけてくれました。事情を説明し、今日は武川まで行き、明日は韮崎までと話したところ、少々おどろいておりました。食事を終えて出発の際は皆さんでお気を付けてと送り出していただきました。この道の駅は天然の温泉があります。暇と、体の疲れがありましたらゆっくり体をやすめられたら如何でしょうか。5〜6分も歩くと信号があり左に上がって行きます清里方面です。信号を過ぎると釜無川に橋がありここが山梨と長野県の県境となります。まだ中央道が開通していないときは橋の両方側に、それぞれ「国境」と言う食堂がありどちらもものすごく栄えていたことを思い出します(特に山梨県側)ここは食堂をやめてセブンイレブンのコンビニになっておりましたが、店じまいをしてしまったようです。その跡地の片隅にこの土地の生まれだと書いてあり「山口素堂」の大きな碑が立っています。「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」と彫り込んであります。そんことで長野県側は現在、結構繁盛しているようでした。山梨県側の店の並びには昔はラブホテルが3〜4軒あり夜など通るとギンギラと繁盛しおりましたが、今は全て閉鎖になっており草ぼうぼうです。国境の釜無川橋を渡るときに気が付きましたが、上流側はなっておりませんが、下流側は結構な渓谷になっていてビックリ!第7回に記しますがここから韮崎まで28qあるわけです。宿場に入る前に山口関所跡があり信州に入る人間のチェックしていたのでしょう。碑が立っておりますがよく読み取ることができませんでした。山梨県に入ってくると教来(きょうら)(いし)の宿」に入って来ました。20号線に分かれて旧道に入って行きます。小さな宿場だったんでしょう。宿場の面影は何もありませんでしたが、丁度中間点と思われるところに「明治天皇御膳水」と碑が立っており、ここでやはり一休みして水を飲んで行ったんでしょう。ここも水が湧き出ておりました。少し歩きますと20号線に戻されます。この宿場は「下教来石」が入口で「上教来石」が出口と言うことになります。写真の右に湧き水が解りますね20号線に戻って来まして、前からここを通る度に気になっておりました「熊本県果実連白州工場」大きな倉庫と大きなトラックが何台か止まっておりました。ジュース工場らしいが工場らしきものが見えずにいたので、なにかなと脇に入って行きますどでかい工場です。後ろの山付まで工場が行ってありますビックリでした。サントリーとかグリコとか、各、大きなメーカーのいろいろのジュースを作っているようです。少し進んで今度はかの有名な「サントリー白州工場」です。上までいけませんので引き込み道路の入り口です。この工場は皆様も見学をされたことがお有だと思いますが高級ウイスキーと、ミネラルウォーターを作っております。見学の際ここしか売っていないウイスキーの瓶、売れて行った番号が書いてあります。私も2〜3回購入しておりますが瓶を捨てえしまいましたので番号は覚えておりませんがももう何百万と言う番号になっていることでしょうね。行ってない方は是非見学をお勧めいたします。(サントリーから頼まれたわけではありません)。しばらく行きますと左側にサントリーウイスキーの樽を作っている工場が目に入りました。小さな橋を渡った所の信号を左に上がって行くとお菓子のメーカー「シャトレーゼ」の工場に行きます。前にゴルフの帰りに皆で工場見学に寄ろうとしましたが、予約と時間待ちがあるため引き返しましたが一度は行って観たいと思います。この会社金があるのでしょう山梨県だけでもゴルフ場を三つも買い取り運営をしております。ゴルフ仲間でおせわになっております。目の前がたいへん開けてきました。稲穂の実りの銀色とそばの花も白い色が一面に見渡させてきれいです。稲刈りがすぐに始まることでしょう。思ったより早く白州町の道の駅に着きました。このまま行くと旅館に早く着きすぎてしまうので、ゆっくり休むことにいたしました。家にメールを打ったり、お菓子を頬うばんだり、ここもよく山菜、野菜などをよく買います。信州蔦木の道の駅と白州道の駅の休みが一緒で、どちらも買うことができませんでしたが、今は休みの日にちを変えておりますのでどちらかで買うことができます。またこの裏の方にシャルマンと言うワイン工場があり通り掛けにほしいときによって購入しております。信号を渡って行きますと、20号線と別れ左に入ります。ここが「台ケ原宿場」になります。ここは甲州街道でも一番大きかったのではないでしょうか?流通のかなめにもなっていたんではないかしら、問屋とか色々の商売の形跡が見えます。中間ぐらいのところに左側にお宮が見えましたので入って行くと大したことがないお宮でしたその前方大きなお寺がありました。大きな割には町中に案内がが出ておりませんでした。開運なんとか尊の像が8体ありました直ぐに宿に戻ります。この宿場には代々続いている有名なお店が二軒あります。まず「金精軒」山梨では有名な信玄餅の元祖です。今年の6月に筋向いのご夫婦と立ち寄った時におかみさんと話が弾み、「歩記」の話をいたしました。その時はぜひとも立ち寄ってくださいとの話を頂いておりましたので立ち寄りましたが団体客が2組も来ていてなかなか空きません。美人のおかみさんなので、この次立ち又寄り話をしたいと思っております。もう一軒作り酒屋300年の歴史を持つ「七賢」このお店も山梨では有名な一軒です。お酒は少々高いものが多く、すぐに手が出ませんが、大衆向きのものもあるようです。写真には表れておりませんが左が宿になっていたのです。それも高貴な人だけの様でした。上から相当信頼があり結構な地位があったのではないででしょうか。以前に中の部屋などを案内付きで見学をしたことがありましたが、明治天皇が泊まった部屋のシャンデリアは、鑑定で200万ほどするものだとのことでした。やはりここも明治13年6月に宿泊の碑が立っています。(写真の左側になり映っていませんが「七賢」は駐車場の奥の蔵を改造して、昼だけの食事処をやっている。機会をを見て食べてみたいと思っている。宿場の中心を過ぎたところに、本陣の碑が立っておりましたが建物は近代的な建物になっておりました。このほかにこの宿場には「つるべ井戸」「火の見やぐら」なども見受けられました。「台ケ原宿場」と別れて20号線の信号を向こう側にわたります。ここからは旧道にもなっておりますが、「古道」が残っておりました。旧道を行かずに古道を歩きます。左の写真は20号線に出るところに新しく建てた碑ですが写真の右側に見えるところが古道です。馬と人がやっと通れるような道です。尾白川沿いに「台ケ原宿場」に抜けて行っているわけです。右の写真はその途中に小さな丘がありその上に立っておるわけですが、古道沿いに無名の「大石塔」と案内が出ていました。登って行ってみますと180p4方で高さは5メートル少しあります。この大きな石は岡の上にあったものを加工したのではないかと思いますが、欠いたかけらがどこにも見当たりません。字の掘り込みも何もなく本当に「無名の大谷石塔」でした。古道入口の碑のところが20号線です。尾白川の橋を渡りますと三吹地域に入って来ました。すぐに旧道に入りました。ここに来ましたら旧道の両側には豪邸が並んでおり庭もそれぞれ素晴らしいのです。なんでこんなだろうと宿に来てから女将に聞いたのですが、農業だけでしていて、わかりませんとの答でした。何か農業のほかに商売をしていたのではないかと思われますが、但しこの辺は「武川米」産地です。大きな田んぼがたくさん有りました。苗字が山梨県らしく深澤、輿石などが見当たります。輿石と言うと民主党の元幹事長の輿石東さんがいますのでここの出ではないかと旅館の女将に聞きましたが解りませんでした。しらべてみますと輿石さん韮崎高校の出身のようですのでここの出の様な気が致しました。この辺の武川米は釜無川の水なのでおいしい、が武川の南側は武川の水なので美味しくないと旅館の女将は言っていました。要するに山が石灰石なので精製させてきれいすぎて栄養もないということになります。田んぼの中を少し歩いて20号線に戻りました。ここの信号が「舞鶴の松」入口信号となっておりました。前はここよりTキロほど入った「萬休院」と言う小さなお寺の庭に樹齢450年と言う山梨県指定の天然記念物として枝ぶりの素晴らしい赤松の木があったのですが、2年ほど前に立ち寄りましたら枯れてしまい根っこの切り株の保存と、二代目「舞鶴の松」が植えてありました。又450年後に訪ねてくれば素晴らしい松の木が見られることでしょう。武川の橋を渡り旅館「近江屋」に16:00少し過ぎに到着いたしました。明日は予約でいっぱいでしたので本日の実行となりましたが、お客さんはお坊さん3人と一緒でした。疲れもあり(とこ)が変わりましたが思ったよりぐっすりと眠ることが出来ました。 

                         第八回完 

田舎へ歩記

                                   歩記者 林 厚男


   神代桜


  佐田啓二事故現場

  

 韮崎観音

   7里ケ岩

第七回

平成26年9月12日(金曜日)天候     温度

韮崎宿〜北杜市武川町(宿泊旅館まで)13・5キロメートル 8:15スタート〜11:15着

歩記を書く前にこぴっとお断りをしておきます。今回は2日間にわたって歩いきました。理由は、韮崎より富士見の間が交通のべんが良くないために一泊をして2日間の予定を立てました。実際には韮崎より教来(きょうら)(いし)までバスが3〜4往復ほどありました。韮崎から歩いて台ケ原で一泊して、と思って3日前に電話をしたら旅館より5日ほど予定があって休みにしますとのこと、この辺には宿泊が少ないため武川の北杜市武川支所に電話して旅館を教えてもらいました。どうしても1日目を沢山歩きたいのでこのコースだけ逆に歩きましたので、ご承知頂きお読ください。7時過ぎに朝食を取り8::15スタートです。結構朝は寒かった、30分ほど上に薄い長袖をきての出発でした。ここ武川は、エドヒガンザクラの「神代桜」が有名です。天然記念物に指定されていて樹齢18002000年と言われております。10年ほど前に行きましたが風前の灯火でしたが、保護と手入れを行ったので写真を見る限りでは又復活をしてきておるようです。実相寺(日蓮)の境内にあり、ここには枝垂桜もあります。枝垂桜と咲く時期がずれるので一緒に観れるのは無理かと思います。又それより1キロほど上がって行ったところに、(さね)(はら)桜並木」戦後入植者が発展を願って200本のソメイヨシノを植えたとのこと750メートルに咲き乱れで「鳳凰三山」のバックと牧場の緑も色添えをしてとても綺麗でした。神代桜と一緒に見られるので一見をお勧めいたします。国道20号線に出て。「鳳凰三山」を写真に収めてご披露と思いましたが生憎、三山とも頂上が雲に隠れておりました。10分も歩くともう韮崎市に入ります。入ると同時に旧道に入りました。内野と言う地域になります。ここも昨日の三咲の旧道と同じで素晴らしい家ばかりです。ここは庭も素晴らしいのですが門構えのうちが三咲と違って多かった。門だけは残したいのでしょう。中は現代建築、門は百何年かの歴史の家も何件かあり、このアンバランスまた良い。ここは「内藤」姓の家が多かった。20号線沿いに「内藤ハウス」と言う仮設ハウスと段ボールを作っている大きな工場がありますが納得です。ここを過ぎるとまた20号線と交差します。今回は旧道を歩くと色々がみえて楽しいので、信号を渡り旧道を歩こうかなと思いましたが、ここからの道は県道になりますが静岡に抜けていく道なので車の量も多くどうも歩道がないようです。この信号は釜無川にかかっている「穴山橋」のところになります。橋を渡り20号線を行くことにして渡りました。この橋はなんで有名かと言いますと、ほとんどの方々はご存知と思いますが、俳優の「佐田啓二」さん(中井貴一のお父さん)が車の事故で無くなっているからです。その時は20号線と橋が直角になっていたので欄干の主柱に激突したわけです。写真を見てください欄干の主柱はなく名盤は横についていて車では読むことができませんので車の人は標識の柱の向こうに立て看板が見えます。今は道路と橋とがアールになっており、いくらぶつけても今は死ぬことができません。橋を渡ったところにあるコンビニで一休みです。コンビニの裏の道路が上にあがって行っているのですが、そこに案内板が出ていました。「新府城跡」この城は武田勝頼が西からの攻めを防ぐために築いた城だったのですが、長篠の戦いで敗れ追われてきて築いてわずかなのに火つけて逃げていって自決に至ったわけです。ここからは20号線左が田んぼ、右が釜無川のほぼまっすぐで4kmひたすら歩きました。その信号が旧道との接点で旧道は右に釜無川を渡って行きます。静岡に行く県道に出ます。今は橋が架かっていますが昔は渡しか何かあったのでしょうか?私は左に折れて旧道に入ります。入った所に写真のように「九頭龍大神」「道祖神」「和気大神」その他(古くて読み取れません)きっとここで一休みして安全祈願をして川を渡って行ったのでしょう?この旧道は市内に近くなってきたので面影はわずかです。市営住宅など新しい建物がほとんどになってきておりました。しばらく歩くと又20号線に合流です。大きな信号に来て左に行くとトンネルを抜けて韮崎インターチェンジに行きます。まっすぐが20号線です。私は斜めに旧甲州街道に入って行きます。もうここは完全に町に入ります。信号を左に曲がりますと駅方面になりますが私は「韮崎観音」に登ぼることにいたしました。二日間の歩きで足に結構きております。上を見てこの坂道を上がって行けるのかな?ちょっと躊躇しました。でも2度と来ることができないので登ことにしました。ところが不思議上まですいすいと休むことなく登れたのです。人間の体不思議ですね、二日間下りがほとんどの歩きでしたので、登りの筋肉をほとんど使っていなかったのだとわかりました。下りはその分大変でした。降りたところに窟観音があり、弘法太師などをまつってありました。「韮崎観音」(平和観音と呼びます)は高崎観音・大船観音と関東三大観音のひとつになっているようです。この観音様は昭和361013日開眼した。皇太子殿下(平成天皇)のご結婚記念と、国民の幸せと平和を祈って建てられたと記してありました。高さ(台座を入れて)18.3m顔の長さ2.16m体重305トン昼食時間ですが、駅の周りに食べ物屋さんがあまりありません思ったものは食べれませんでしたが、ゆっくり済ませて帰路の電車に乗りました。 ここで少し韮崎などのことを記します。T週間ほど前にNHKの深夜放送で元「のど自慢」の司会を何年も務めたアナウサーがあちらこちら歩いてきていますので、そこの郷土の案内をしている番組です。韮崎市、北杜市周えんと言うことで話していました。覚えている範囲でですが読んでみてください先ず韮崎市の名前の由来から、ここは八ヶ岳が十何万万年前に大噴火をし3,000m級の山が一つなくなっている。溶岩が28キロにわたり流れ出して現在の韮崎駅の所で止まっているわけです。これを「7里ケ岩」と言ううそうだ。切り立っており最後は広い大地の先がとがった形になっております。歩いてみて県境から韮崎の先まで丁度28qになります。大地の両側は釜無川と塩川にけずられて岩肌が出て絶壁になっており釜無川側はこの絶壁が韮崎から県境まで続いておりこれが丁度7里(28k)にわたっております。八ヶ岳のふもとより流れて韮崎のところまで来ている姿がニラの葉っぱに似ているところからニラの先で韮崎と名前が付いたということです。塩川側は絶壁が少ないので、釜無川の方が水も多く(あら)び川だったのでしょう。写真のように溶岩であったことがよくわかります。この台地に武田信玄は3つの道を小諸の方に抜けていくのに作ったようです。この道を棒道と言うことです。今でも棒道は残っているようです。なんで俸道なのか、なんで三本かは忘れました。茅野に抜けて立科町に抜けて行ったのでしょう。又小海線の甲斐泉駅の近くに「三分一湧水」がありますがこれは武田信玄が、農民たちが喧嘩をしないように三つに分ける装置を作ったようです。今でも湧き水が大量に出ているようで、機会があれば見てみたいです。この台地は昔中央線の駅で3〜4か所スイチバックがありましてね。又韮崎は「武田氏」の発祥の地なのです。釜無川の西側に歴史が残っております。源氏の出で韮崎に来て初代が武田信義といって館を儲けたこれは鎌倉幕府の歴史より古いようです。又近くに武田八幡宮があります。躑躅ヶさきにある「武田神社」は大正時代にできたもので新しいのです。「武田八幡宮」が氏神様だったのですね。武田勝頼の正妻が長篠の戦いで敗れた後祈願と共に重臣の裏切りの恨みつらみが記した書が保管してあったようですが今は武田神社に移っている様です。武田勝頼と言う武将は行きあったりばったりで重臣の言うことは聞きいれなかったようで、簡単に滅びても仕方がなかったのでしょう。「武田信義館跡」も「武田八幡宮」も地図に載っておりますし武田と地名もあります。ちなみに武田信玄は19代目になるようです。阪急電鉄を入手し「宝塚歌劇団」を設立した「小林一三」翁は韮崎出身でした。

今回は二日間とも誰にも会いませんでした。歩いているバカは私一人だけでした。

第七回完

追伸 早くしないと忘れてしまうので、何とかまとめましたが2回分です。つながらないところがたびたび有るかと思いますが想像しながら読んでください。それでもわからないところがありましたら、個別に受け付けます。

田舎へ歩記

                歩記者 林厚男

第六回

平成2652日(金曜日)天候晴れ 温度27

石和宿〜韮崎宿(韮崎駅) 約215キロメートル(善光寺往復1キロ込) 900スタート1420


小林中翁銅像

善光寺参道と山門

サイカチの老木

藤の花の満開

甲斐市双葉町(旧双葉町)の街並み

今日は中央高速バスで日野バス停より乗って石和宿に向かいました。野山の木の芽の黄緑がまぶしく光っております石和のバス停には時間通り到着いたしました。石和温泉バス停は、社会で働いてきた方々はご存知と思いますが経済界のドンと言われるくらいの人だった「小林中翁」の実家跡地で町に寄付をして大きな公園になっております。なぜ生家でないかと言うと養子に入ったと説明の立て札が出ておりました。素晴らしい銅像も立っておりました。足湯も有りました。少し体操をして旧甲州街道(20号線、現在は411号線)をスタートいたしました。6〜7分近くも歩いたでしょうか「平等橋」と言う小さな橋を渡ると甲府市になり、そこに碑が立っていて、石和宿を思わせます。道なみに40分ほど歩きますと、箱根駅伝では常に出場している「山梨学院大学」の正門です。平日ですが学生が一人ひとっこ見当たりません。私立の学校はいいですね、学校の方針で連休にしているのでしょう。道路の右も左も一面山梨学院の建物ばかりです。またしばらく歩きますと甲府の「善光寺」の案内標識です。三叉路を右に折れ参道を通り、突き当りが善光寺です。建物も、山門も長野善光寺とよく似ております。温度が上がらないうち距離を稼ぎたいので、以前にも参拝しているし山門にて失礼させていただきました。国道より往復1キロメートルぐらいでした。国道に戻ると目の前がJR身延線のガードです。善光寺駅が有ります。ガードをくぐると道路がクランクになっております。またしばらく歩くとクランクになっております。この先もクランクになっているところが何か所かありますが、以前はこれが車の渋滞の原因でした。しかし江戸時代には大変重要なことだったのです。敵に攻められたときに相手の戦力の低下のためだったのです。どこの城下町に行って観ても何らかの攻めにくい工夫をしてあると思います。ここ甲府は、武田家の時は歌にも歌われている「躑躅ヶ崎」は館だったのですね。人は石垣、人は城だった。今の甲府駅の北2キロ少々ですか、山梨大学の前を通って突き当りがその跡地で堀も残っており「武田神社」なっており武田信玄を祭ってあるわけです。一度行って観ておくべきです。江戸時代になって「舞鶴城」ができてからクランク道路になったのだろうか?では江戸城どうだったのだろうか。江戸城は東海道・中仙道・水戸街道・川越街道など、江戸城の手前で全て突き当りになっていたり横にそれて行っていたり攻めにくく成っていました。但し甲州街道だけは直に江戸城につながっています。なんでなんでしょうか?ここだけは攻められたときの逃げ道になっていたのです。それがいまだに名前が残っている半蔵門交差点です。麹町にかけて護衛のための藩とか大名とか、伊賀とかの忍者などいくつも住んでいたのです。服部半蔵は一番信用と力があったのでしょうか?江戸城に一番近ところに居て名前もいまだに残っているわけですから。甲府の町の中心部に入って来ました。国道411号線もどこかで終わりになっていると思います。一番の繁華街にある「田島百貨店」入りました。いらっしゃいませ、有難う御座いました。と言っていただきましたが、トイレを借りしだけです。誠に申し訳ありませんでした。駅前通りを左に折れ又少し行った信号を右に折れ国道52号線(旧甲州街道20号線)となります。ここからは道を広くして素晴らしい道路になっております。もう中心部を外れました。右手に丸の内郵便局がありますが、このあたりが「甲府柳町宿」だったようです。ここで今日初めてのひと休みをいたしました。出発をして荒川と言う川があり、東京の荒川と同じ名前で結構大きな川です。河川敷にグラウンド、テニスコートなど、結構な施設が沢山あり驚きました。橋を渡るとまっすぐが52号線のバイパスとなって南アルプス市に抜けていきます。歩記者は右折れして52号線(旧甲州街道を)を進みます。クランクになっている角に「サイカチの木」の老木が記念物になっておりましたが、歩記者も初めて見る樹木なので説明しようがありませんが、葉っぱはアカシアと山椒の葉を足して2で割った感じです。花が咲いて実がなると、30pぐらいのさやになり薬用になるようです。又直進になりしばらくすると、左に山梨県立の美術館の森が見えてきました。ここは確かミレーの「落穂拾い」?だった、と思います。何年か前に観に来ました。NHK 朝ドラの「村岡花子」展も行っているところです。興味のある方は「落穂拾い」と一緒に観れますのでどうでしょうか?但し「落穂拾い」が留守をする時がありますので確認のうえ行かれたがよいかと思えます。中央道のガードをくぐって20号線のバイパスに向かって進みます。旧道はパイパスの手前を右に入って行くのですが、12時近くなり腹も減ってくるし旧道を行くと多分食堂がないと思い、バイパスの竜王陸橋の下に出て昼食をとりました。本当は旧道を行くと神社仏閣が結構あろ様でしたが・・・食事と休憩で30分ほど休み午後の出発となりました。ここからは少しの間パイパスです1キロほど歩いたとが出発から14キロ地点になり、ここまで道路に坂道がなく全て平らでした。1キロ程度の坂道を上がと又平らな道路となります。長い間バイパス工事を行っておりましたがきれいに完成をしておりました。ほうとうの「小作」の前を進みますと山梨県はちょうど藤の花の満開のころ多くきれいでした。心の安らぎに添えておきます。ものの5分ぐらいで旧道と一緒になります。バイパスは左に曲がり釜無川のほとりに向かっていきますが、旧道は直進となります。この辺から暑さがこたえてきました。少し進む「泣石」言う大きな石があり割れ目から水が落ちていたとのことで、中央線の工事を行ったところ、渇水してしまったので道路わきに移動したとの説明でしたが全部割れていなくて移動の際、重くて仕方なく全て割って移動をしたのではないかと思いました。餅のおそなえようになっております。甲斐市双葉町(旧双葉町)の街並みに入って来ますが、写真のごとく街道に何軒もこのような家がありますので驚きましたが、なんでだろうと思うのに歩記者の独断の考えですが、釜無川の水害による有名な「信玄堤」があったところで特殊な技術を持っており藩より委託をされて釜無川に設置したり管理をしたり・・それともこの辺の収めを任されていたとか・・・それぞれ皆様想像をしてみては如何でしょうか?清里の方より流れている塩川を渡ると韮崎市になり右に折れますと韮崎の町に入って行きます。ここから駅までが長かった。途中に「鰍沢横丁」と言う狭い路地がありましたが駿信の流通のための道路だったようです。石碑がありました。商店街を通り越して町がなくなってしまうんではないこと思うところまで来て、右に曲がりますと駅の方に行きます。又駅の改札口は繁華街の反対が側にある分けです。これでは町は発展しませんね。町の商店街は3分の1シャターが閉まっている状態です。改札口側は駅の下に大きなスーパーなどが出来ており、ますます足を引っ張っているのではないかと思います。地元の発展を考えていかないと町の展は望めません。何か経済評論家になった気分です。電車に乗って、水分を取ってうとうとと一寝入りしましたら、疲れは全部飛んでしまいました。家には17時少し過ぎに着きました。
次回は途中で一泊して2日間歩くような工程になるのでないかと思いっております。

追記

余談です。「武田節」がありますがこれは山梨の県民のために作ったわけでなく、昭和28〜29年ごろと思いますが、「三橋美智也」が全盛のころでそのために作った曲で、それがまたまたヒットしてしまい結局は山梨県に民謡がないために、貢献した形になったわけの様です。時代が過ぎ三橋美智也の名前もわからない時代になったら完全な山梨の民謡となり、長野県の「信濃の国」ではないですがすべての県民が山梨の民謡として歌う時代がすぐそこに来ているのでしょう。詩吟"風林火山"と共に。

右の写真は甲斐白根三山です。昨年の山の海抜の測定をしたところ、
間ノ岳が1メートル
高かったことが分かり、穂高岳と同じになった。
その
ため富士山が一番で、白根北岳が2番で3番が穂高岳と間ノ岳が
一緒しなったことになり、日本の山の一番から
3番は山梨県に
所属することになったわけです。
山も動いているのでしょうか?
測定ミスなのでしょうか。10何年前になりますか甲斐駒ヶ岳も
1m違っていました。今回の全国測定で何か所かあったとのことです。

  農鳥岳          間ノ岳          白根北岳

  3026m          3190m          3193

 

お願い
記中の歴史のことなど歩記者の記憶範囲内です。間違っているところもあると思います。間違いがありましたら是非ご指導をお願いいたします。

                          第六回完


田舎へ歩記D

                         歩記者  林 厚男

第五回

平成26412日(土曜日)天候晴 温度 20


開通記念碑

近藤勇の像

大善寺山門(本堂が国宝)

桃源郷の一角・これで我慢してください

黒野田宿(笹子駅)〜石和宿(石和駅)約25・5キロメートル 8:40スタート〜2:40着 笹子の駅の改札口を出ますと大きな碑が立っております6メートはあると思います。鉄道の笹子トンネルが明治3511月開通の記念碑です。4656mあると記してあり、当時東洋一であったようです。その前で少々体操をして出発です。桜が満開ですが、その裏山にはまだ雪が残っておりました。20号線に出まして、黒野田宿(笹子)に入って来ました。笹子峠の前にしては小さな宿場だったようです。1〜2軒の面影の建物がありました。2キロmほど坂道を上がって行きますと、ヘヤーピンカーブになるわけですが、カーブの始まるところを左に入って行きますと、笹峠(旧甲州街道)です。私の前を笹子駅より歩いておりました夫婦と、外人(アメリカ人?横田基地から?)6人のサイクリンググループ    が上がって行きました。旧甲州街道はほとんど車も人も通りません。途中でおかしくなっても助けてくれる人もありませんし、トンネルも歩いてみたかったと言うことで、峠は歩きません。但し旧道の笹子峠を登っていきますと、途中に有名な「矢立の杉」があります。何回か車で通った時観ましたが、1000年以上たっていると思います。中が空洞になっていて、入ると空が見えるのです。何年か前に通った時は保護のため柵を作って中に入れなくなっておりました。でも一度は必見でしょう。直ぐそばには杉良太郎が寄付した良太郎地蔵(身代わり地蔵)もあります。ヘヤーピンカーブを曲がり上がったところが、笹子トンネルが有料だった時の料金所の跡になります。まだ面影は残っておりました。ここからは今日、登坂はひとつもありません。ほとんどが下りとなります。笹子トンネルと言うと、私事で思い出すのは、昭和37年だと思いますが松本に居た時に、当時休みは日曜日しかありません。三人で得意先のライトバンを借りて土曜日のよる、毛布だけを1枚ずつ持って、上田に出て日光へ行きました。東京に出て20号線をひた走り帰路に向かった。一人が運転をしており、2人は後ろの座席を倒して爆睡です。勝沼のあたりに来た時に起こされて、トンネルをはるかに通りこしてしまったが、料金所があったようだ、騒いでいたけれどそのまま来てしまったが、戻って払うべきかとの相談、距離的に帰るのは大変だからと言うことでそのまま無視、進行して諏訪で片倉会館の温泉に(24時間やっていたので)朝5時ごろ入りました。そのころ入湯料は10円でした15円でしたか?松本に戻り仕事に付きました。トンネルの入り口で、スコッチライトを帽子や服に貼り付けて、LEDの青白く光るライトを首からぶら下げて2953mを出発です。入口は温度計が10度を示していましたが中は思ったより暖かでした。歩く幅はほとんどありませんが、対面する、上り車線を歩きますので車が来るまでは自由に歩けました(上り車線の方が、車が少なく感じました)。乗用車はあまり心配ないのですがトラックの時は壁に張り付くようにして止まって避けました。でも大型トラックもほとんどが対向車のないときはウインカーを出してよけてくれ、対向車のある時はスピードを落として対応をしてくれました。一台だけすり寄って来て嫌がらせをされましたが・・・またこのトンネルは歩いているとどこかに感知器が付いていて、「歩行者がいます注意してください」とサインが出ておりました。40分弱で無事トンネルを通過いたしました。出たところでおっさん達四人(70歳とどかず?)対面になりましたので、トンネルを歩くのなら自動車と対面を歩かないと危ないですよ。ところが彼らは甲斐大和駅(昔の初鹿野駅)で降りて勝沼に出て桃源郷を見て石和で一泊とのこと、4人もいて駅から逆方向に2キロ近くも歩いていて気が付かないのかとびっくりいたしました。トンネルを出るとすぐ右手に甲斐大和の「道の駅」です。彼らと別れて一休みです。もうここからは全て下りとなります。歩き始めるとすぐに日川の橋を渡ります。この日川の右手奥が、昔、武田勝頼が長篠の戦いで織田信長・徳川家康に敗れて甲斐に逃げてくるわけですが、織田・徳川に追われて、第4回に出てきました岩殿城(岩殿山は4回の時書き忘れましたが高さはスカイツリーと同じ634mです)に助けを求めるわけです。小山田氏に寝返りをされて受け入れてもらえなく、笹子峠を越えられずこの地で自刃をしたわけです。小山田氏も信長に恩知らずと言うことで殺されてしまい、信長もそのあと本能寺にて最後を迎えるわけです。こんな記憶をしておりましたが、間違いでしたらお知らせください。少し進むと信号がありこの信号を右に曲がりますと、日川沿いに武田勝頼のお墓のある景徳院を通って大菩薩峠の下に出て塩山に抜けていきます。ここでアメリカ人の6人組が笹子峠を越えて20号線を上がって来て、大菩薩の方に行くところでした。私の流暢な?日本語で、大菩薩の下を通って奥多摩に出ていくのですか?と聞いたところ、一人がニコッと笑って手でサインを出しました。きっと日本語が解った?のだと勝手に判断をいたしました。直ぐに「甲斐大和駅(以前の初鹿野駅)」です。帰りの「勝沼ぶどう郷駅」の桜と同じく満開できれいでした。ものの10分も下りますと「大和橋西詰」と言う交差点でここが旧甲州街道と接点です。「駒飼宿」は左に折れて笹子峠に向かって歩かねばいけません。結構な坂道ですし、距離もあるので行きませんでした。又10分ほど歩きますと「鶴瀬宿」、宿と言うより「関所」だったようです。面影は全くなく関所の碑と宿場の碑は立っておりました。ここからは歩道が右に行ったり左に行ったりで、車が結構通るので走って渡ることが何回もありました。前方が開けてきました信号が深沢入口です。ここを上がって行きますと、深沢部落があってすごいところに住んでおります。この部落が「お・も・て・な・し」の文化があって、家に立ち寄りますと隔たりなくお茶などでもてなしてくれます。昔経験をいたしました。そこには中央本線の廃坑になった「旧大日影トンネル」があって、トンネルが遊歩道になっており、勝沼ぶどう郷駅まで歩けます。ここも往復したことがあります。その深沢入口の交差点角に「近藤勇」の像がたっている。何でこんなところにと思い裏に回ると説明書がありました。この辺りは「柏尾」と言う地域で、官軍が甲府を占領していて幕府軍(近藤勇)が奪い返すためにここで戦った。一時間ほどで幕府軍が負けてヘイヘイの態で江戸に逃げ帰った。このあたりが柏尾古戦場になるようです。5分も歩きますと、「大善寺」と言うお寺です。ここは本堂が国宝になっていて、結構入場者がいました。ここで又4人のおっさん達と会うことになりました。先ほどのお礼を言って中に入って行きました(有料)勝沼インターのすぐ近くなので、近くにこられたら、立ち寄っては如何でしょうか。私は一軒寄りたいところがあったので入らずに先に進みました。勝沼の町に入ったところでその寄りたいところへ行くため左に曲がって日川の川岸に降りて行きましたが、休みでした。「東夢」と言って社長が東電を定年退職して、退職者を募り、後継ぎのないブドウ畑をかりてワインを作っている。そんな社長の顔を見たいのと、ワインを買ってこようと行きましたら休みでした。でも勝沼の裏通りに、しゃれたワイン工場やら、レストラン・食堂など何軒あったりして、ビックリいたしました。表通り(旧甲州街道で有り旧20号線)戻り食事をとりました。「勝沼宿」のことを聞きますと,丁度このあたりが中心だったとのことでしたが、昔からブドウ園ばかりでしたので面影は何もありません。お礼をいって午後の出発です。歩いていると1件の大きな2階建ての旧家があり、庭も素晴らしいが縁側とか庭などに2030人の人が見えます。よく見るとどうも食堂らしい、入って行ってみると皆さん記入をして順番をまっているようです。玄関のところに「皆吉」(みなき)と書いてありました。「ほうとう」が主体でもつ煮込みとか、竹の子ごはんなどもありました。これだけ順番を待っているようだときっと人気があるのでしょう。機会があったら寄ってみたいと思います。皆さんもよかったら、但し看板の何も出ていないし普通の住宅なので分かりにくいです。このあたりから住所的には「栗原宿」になるのですが何もありませんし、碑も見当たりません。ラクビーの強い日川高校の前を通り抜けて日川の橋を渡るときに左手を見ますと、川沿いはズーと桃源郷です。今がちょうど桃の花が満開です。このあたりから右左桃畑が見えてきれいです。川沿いを橋の上から写真を撮りましたが、目で見るようにいきません。この橋を渡ったところからまっすぐに2キロ強が「桃太郎通り」となっておりました。この通りが終わると笛吹川に突き当たります。川の向こうに石和温泉が見えてきました。この土手からは山梨県の山々が今日は全て見えて、素晴らしい天気でした。あと1キロ一寸かなと思いながら歩いて橋を渡ると、そこは石和温泉です。元宿場の方には行かないで駅を目指しました。理由は勝沼からの距離が思ったより2キロ以上も多くなったことです。23キロ前後と読んでおりましたが、26キロ近くになってしまいました。笛吹川の橋から駅まで2キロ以上ありました。石和温泉は私が昭和  34年4月に東京に出てくる時はまだありませんでした。出た時は36年だそうですが、鉄道?と聞いておりましたが工事をしていたら急に湧き出したと聞いたことがあります。地元に聞いてみましたら小さな旅館が温泉を掘りあてるつもりでボーリングしたようです。相当量湧き出してそのあたりがお湯びたしになったとのことでした。駅の近くで新しくできて結構大きなホテルの日帰り温泉に入って帰路につきました。次回は石和宿〜韮崎宿の予定です。

                    第五回完

 

田舎へ歩記C                       

               
歩記者 林 厚男


猿橋の橋げた

本陣 星野家

山本周五郎の碑

第四回

平成26年3月22日(土曜日)天候晴 温度13度 

鳥沢宿(鳥澤駅)〜黒野田宿(笹子駅) 約21、5キロメートル 9:00スタート〜14:00着

鳥沢駅で降りると登山客が30人前後降りてきました。扇山と言う登山山があるようです。その中でただ一人甲州街道に向かいました。30歩ぐらいで20号線に出て左に折れます。前回に続き鳥澤の宿で、宿場は1キロぐらいになるでしょうか。建物も20軒ぐらいは残っているでしょう。ものの5分も歩いたところに「明治天皇休憩所」明治13年6月18日とありました。30分近く歩いたでしょうか、20号線の新猿橋を渡り信号を右に折れて80メートルもしないで猿橋です。日本3奇橋のひとつ言われ羽根木で支えられた珍しい橋、橋げたができない地形なのですね。3奇橋とは猿橋・錦帯橋・徳島のかずら橋(または日光の神橋)の様です。ここの渓谷はすごく狭いのでサルがそれぞれ尻尾を持って連なりぶらぶらゆすって向こう岸につかまり渡り終えた。それを見ていて参考にして作った橋だ、と言うことになっていると聞いておりました。朝早かったので私一人でしたが、帰るときに多摩ナンバーの車が2台ほど到着をしたところでした。ここには宿場の面影は全然ありません。名物は厚焼きせんべいですが店はまだ閉まっていて買えませんでした。国道に戻り少し歩いてから猿橋の駅の入り口です。ここにも駅の上の方に桂台団地と言う(中央道から見える)大きな分譲団地、四方津と同じように、エスカレーターが あったが、いつの間に取り壊してしまった?のか見当たりません。駒橋発電所の上を通り越しますと、右手に有名な岩殿山(岩殿城)中央道の上に見えてきました。これは武田氏や武田二十四将の一人、小山田氏が、国境警備の拠点として築いた、岩殿城は堅固な不落の要塞と言われたところです。もうここは駒橋宿です。猿橋宿からやたらと宿場が続くわけですが、原因は何なのでしょうか?駒橋宿は宿場の建物が10軒前後あり、一番大きな宿場であったと思われます。少し進むともう大月宿です。街並みになっているので、面影はありませんが、結構大きな神社で三嶋神社がありますので、この辺が宿場であっただろうと思われます。この大月の町は昔何の産業があったのだろうと思っておりましたが、神社の前のあたりに大きな建物で「織物会館」がありました。織物の盛んな町であったんだと気が付きました。そう言えば20年、もっと前になりますか衣料・寝具などの大きな問屋があって、何で知ったかしれませんが一年に一度関係者に対するバーゲンがあって、今使用している羽毛布団とか、飽きずにいまだ着ているシャツとか、背広も2〜3着作った会社があったので、その会社のあったところに行ってみましたが、ビルが空きビルになっておりました。きっと時代の流れで閉鎖した感じでした。  ものの10分も歩いたでしょうか、もう花咲宿です。大月の料金所の一帯が花咲と言う地名のようです。この宿場を示すものは、ただ1つ「星野家住宅」と言う本陣で国指定重要文化財になっており、写真にある碑は明治天皇休憩所とあり明治13年6月18日と記してあります。鳥沢の宿であった碑と同じ日にちになっておりました。10キロも離れていて同じ日にと言うことは、其のころ移動は何を使用していたのでしょうか?駕籠は考えられません、馬だったのでしょうか馬車だったのでしょうか?花咲カントリーの入り口を過ぎ、中央道大月、富士吉田線を潜り大月の街はずれとなってきました。右側に新しく出来た「大月警察署」が見え来ました。前回に続きトイレをかりることにいたしました。話は余談ですがこの日の2〜3日前に国道16号線横浜のパイパを一泊旅行で走っておりましたが道路が混んでいてどうにもならなくなり、インターを降りましたところが、「旭区警察署」でした。すぐに飛び込みました。「トイレは警察署に限る」(落語、目黒のさんまより)腹もへって来て時間も12時近くなりましたが、何とか初狩宿まで午前中に行っておきたく、歩き続けることにいたしました。其のお蔭でしょうか、逆に東京に向かって歩いている人と話すことが出来ました。今日は大月までだと言っておりました。写真を趣味にしているとのことでした。同じ方向ににも、大月からは私の前を歩いておりましたが、初狩で駅に行ってしまいました。いよいよ初狩宿に入るなと言うところが写真にあるように、日本橋から100キロメートル地点です。宿に入って来ますと右側に「山本周五郎」の出生地の碑がありましたが、生家とは記してありませんがでしたが、写真のように、宿場の建物です。私は生家であると判断をいたしました。ここも鳥澤宿に匹敵する大きな宿場だったと思えます。10軒以上建物が存在しております。なかなか食堂が見つかりません。駅前に行けばあるだろうと行ってみましたが、旅館が一軒あるだけでした。結構大きな町ですが、やっと一軒ありました。やっとありつけましたが昼は定食で夜は寿司をやっている感じです。駐在所のおまわりさんと一緒でした。おかみさんとの話では、中央道のサービスエリアが目の前ですので町の人は食事にそこに行ってしまうとのこと。おまわりさんとおかみさんに笹子までの距離など聞いて飴玉を三個頂いて食堂を後にしました。10分ほど歩いたところが白根宿、このあたりがそうなんだなくらいしか面影がありません。少々坂がきついところが出てきました。登り終えたところに 自動車修理工場があり、ここに「甲斐犬」がいました。初めて見ました。甲斐犬は忠実で猟に長けていると記憶しておりますが?・・・その先ではパイパスと旧道が別れて平行に通っていまして旧道に入っていきましたが、ここが「阿弥陀宿」です。道路も広く街並みもきれいで静、宿場の建物多く、市で保存の指定でもしている感じです。笹子川の橋を渡ると笹子の町になります。初めにあるのが山梨では有名な「笹子酒造」です。「笹一」と言う酒と、今はワイン、焼酎も製造をしており酒遊館があり、酒類とともに山梨県の特産品も並べてあります。蔵元見学もできます。なんといってもギネスブック認定の世界一大きな「世界平和太鼓」必見。お酒を少々買い求めて駅に向かいます。ここ笹子は「笹子餅」も有名で本舗で購入しようと思って立ち寄りましたところ、昔の笹子餅はありません、大福とか草餅などになっていてがっかりいたしました。今回の道路は手すりおよびガードレールがあまりありませんでしたが、歩道と称する一段高くなった排水が多かったです。でも歩きやすかったです。今迄で一番長い距離でしたが靴を変えてみましたところ疲れが全然違いました。靴はけちってはいけません足の指先がゆったりしたものが良いようです。ちなみに厚焼きせんべいは、花咲宿の星野家の向いにお店が開いていて買うことが出来ました、瓦せんべいの厚いものと考えて頂ければ結構です。次回は桃源郷に合わせれば最高ですが。

                      第四回完 



                                        田舎へ歩記B

                                 歩記者 林 厚男

第三回

平成2638日(土曜日)」天候晴れ 温度9度  風強し

藤野駅〜鳥沢駅(鳥沢の宿)約20.5キロメートル 9:10スタート〜13:35着

今日は吉野宿(現、藤野町藤野駅)からスタートです。駅から約20メートルで国道20号線です。

右に曲がって歩き始めると、旧甲州街道は直ぐに左に降りて行っておりました。私はあくまで国道20号線です。吉野宿を後にしたわけです。先月の大雪で野山の北斜面はまだ真っ白です。旧道とは別れてしまったので道路沿いには昔の面影や旧跡はないものと覚悟をしておりましたが、ものの15分ほど歩きますと小淵と言うところで増珠寺と言うお寺の階段があってその脇に説明書があり、1820年ごろの相撲取りで「追手風善太郎」の出身地とのこと、上がって碑が立っているようなので、上がろうとしましたが、20号線からすぐに階段が危ないようで鎖がついており上がって行けませでした。現在でも「追手風部屋」があるので関係あるのでしょうか?Tキロほどの坂道を上がり切ったところが上野原の町の始まりであり(新町交差点)旧甲州街道との合流点です。酒まんじゅうの元祖であるということで、窓越しに蒸かしているのが見えました。早速暖かなまんじゅうを頂きました。前回藤野駅前で買いました「ひなづる漬」上野原でも売っているとのことで聞きましたところ、スーパーに行かねばないとのこと、国道沿いにはスーパーはなく入り込んだところ、今日はキロ数も歩くので残念ですが買うことができませんでした。それにしてもこの小さな商店街に酒まんじゅう屋と和菓子屋の多いこと、歩いてみてびっくりしましたが、この町並みは犬の鼻先が町を出ているのに、尻尾の先がまだ町の外に残っているほど小さかった。5〜6分で通りこしましたから。町のはずれに素晴らしい上野原警察署がありましたので入っいきました。田舎の警察署は暇なんでしょうね、3〜4人一斉に立ち上がりました。ビックリしましたが、「トイレを貸して下さい」大きな声、一人が出てきて案内をしてくれました。今はおまわりさんも親切になりました。御礼を言って出てくると、目の前にものすごい大きな市民会館の建物、上野原市民25,000人がみんな入ってしまうほど、維持費がかかって大変だろうな・・人の行政など心配しないで自分の身体を心配しろ?・・ごもっとも。下り坂を降りると鶴川宿(交差点の信号は上野原高校入口)鶴川は浅川より大きいのには驚きました。旧甲州街道はここか右に折れて、中央道の上野原インターを過ぎ談合坂に上がる手前に写真にある高い陸橋と平行になり談合坂サービスエリアの手前より中央道をまたぎサービエエリア(下りの)北に見える里山に上がっていき、野田尻宿と犬目宿を通り、サンメンバーズゴルフ(冠さんのホームコース。以前の西八王子ゴルフ)のまだ上を通り大月カントリークラブを抜けて、20号線の鳥沢宿で合流ということになります。20号線とは1山向こう側に離れて行っているわけです。鶴川宿→野田尻宿→犬目宿→鳥沢宿は、田舎まで完歩の暁には番外編で報告をしようと思っております。(元気であれば)鶴川からは中央本線と桂川と平行です。相模川は大月の合流からの名前と思っておりましたが、県境で名前が変わっているようです。桂川の渓谷が大月まで続いているようです。怖いほど高くすばらしい渓谷です。だらだらと上り坂が続き向い風が強くこれが約10キロあたり連続です。歩いて10キロ地点になりますか、四方津駅に来ました。ここは何年前でしょうか駅の上のほうが大きな分譲地となり、駅から20号線をアーケードでまたぎ、エスカレーターで登り降りをしています。東京まで相当の通勤者がいると聞いております。右の写真の右上に一部見えておりますが、エスカレーターのカバードームです。長さは200m近くあるように見えますが自治会の費用も大変でしょうね?・・・これも余計なお世話、ごもっとも。この団地には一回行ったことがありますが相当大きな団地でした。四方津を過ぎると大月市に入っていきます。14キロ地点で食堂に入り昼食をとりました。3回目にして初めてゆっくりした食事がとれました。おかみさんと話をすると、時々歩いている人がいて食事に立ち寄ると言っておりました。ゆっくりできたのでスタートです。ほとんどここまで休んでおりませんでしたので、体も元に戻ったくらい楽になり足取りも軽やかです。時間に少し余裕ができたので少しペースを落としていましたが、50分も歩いて坂道を上がりきりましたところに鳥沢橋(中央線の陸橋)を渡ったところが旧甲州街道の合流点の交差点でした。そこからが鳥沢宿の街並みになります。昔の宿の建物が残っていて、街並みが続いており、大きな宿場町であったことが伺えます。昔は大月より主体制があっただろうと思えました。ちょうど街中と思える信号を左に曲がって20メートルぐらいで駅でした。思ったより30分早く着いてしまい、予定の電車より一電車早く乗れることとなり、和菓子屋さんに入りお土産を買うと同時におばちゃんと少し話が出来ました。私がその店に入る30分ほど前に5人組が寄ってから大月方面に行ったとのこと、会うことがなかったので多分旧道を歩いてきたのだと思われました。今回は歩いている人は見かけませんでしたが、マラソンの選手の人の練習か?走っている人に3人ほどすれ違いました。天気が良いということで急遽行くことにしましたが、半分以上が登坂で、向い風が強く、追い風だったら相当楽だったかもしれません。でも次の日に疲れは残っておりませんでした。

次回は鳥澤宿〜笹子宿を予定しております。

                               第三回完

追伸 関取の「追手風善太郎」は関脇まで行ったと記してありました。

第三回の補足   平成27年5月2日(土曜日)    天気晴れ      温度28

上野原宿〜鶴川宿〜野尻宿〜犬目宿〜鳥澤宿   歩行155q

岡谷〜塩尻を歩く前に、このコースは桜を見ながらと予定をしていたところ予定日が2日間とも雨で流れて今日になってしまい残念ではありました。


  新築に近い宿場の建物一礼

  廿三夜塔

  此処より野田尻の案内板

   犬島神社の舞台

     西光寺

写真より大きな石垣エンジニヤリング

     豪 邸

       

  此処より犬目宿

 犬目平助の墓

「葛飾北斎冨嶽三十六景」犬目の富士

      恋塚一里塚  

     養蚕農家

第三回の「歩記」の際トイレでお世話になりました「大月警察署」出発です。今回もトイレを借りました。道中食事の心配があって隣のコンビニにて取りあえずおにぎりを2個ゲット警察署の裏が甲州街道になっており進行を始めました。道が狭くなり急坂を下りますと国道20号線の上に出まして陸橋歩道を向こうに渡ります。20号線と直角になりますので、此処より完全に離れていきます。少し下りまして鶴川の橋を渡りますと此処より「鶴川宿」の立て札です。小さな宿場ですが、面影があり当時の建物も何軒か見られましたが、写真のように新築の建物は昔の建物の面影を残して宿場町を維持しようとした建物が何軒もありました。市の方針なのでしょうか?宿場町がとてもきれいでした。これは次から出てくる宿場町も同じでした。同じ上野原市ですから。ヘヤピンカーブを曲がりますと急な上り坂となりました。短かったのでやれやれと思ったらまた長い急坂となって来ました。今日の先々は思いやられると言った気持ちで上がって行きます。やっとで登り切りますと中央道の脇に出ました。脇を300mほど平行に歩き陸橋を渡り高速道路の南側に出ます。高速道は今日五月の連休の第一日で下りの車が多い、上りも結構走っておりました。渡ったところから堀割になっていて又急坂です。短かったですが上がり切ったところに「大椚一里塚跡」の碑が立っておりましたが本当は堀割の途中にあったのだと説明の立て札があった。先に進みますと結構立派な民家が出てきました。ここ「大椚」と言う地名の様で、「大椚宿場」の発祥地と言う立て札がありましたがどこを調べても「大椚」と言う宿場は載っておりません。それらしくおもへないでもありませんが。部落に入った所と通りすぎた部落のはずれの「吾妻神社」と境内の中にも写真のような「廿三夜」と言う碑がありましたが何を意味するのでしょうか?月の23日には何か催しがあったのでしょうか?わかる方があったらお教えください。「吾妻神社」には杉の大木があって占め飾りが回してありました。珍しいことにこの神社には神社のほかに祠があって、中に大きな「千手観音菩薩」「大日如来像」が祭ってあり、一部お寺も兼ねているのか?部落を過ぎると高速道路の脇に出ました。約1キロ先に談合坂下りサービスエリア」が見えるのですがサービスエリアに入りたい車が此処込んできております。道路の左側に「長峰砦跡」碑が立っております。案内板を纏めてみますと武田信玄の家臣である「加藤丹後守」の出城で甲斐の国の東口の守りであった。場所はわかっていて中央道の工事の時に一緒に発掘した。当時の武器などが沢山出て来たと説明でした。少し進んだところに「此処より野田尻宿」の立て札です。先方にサービスエリアを見ながら高速道路の陸橋を渡る。案内札は甲州街道が分かりやすく陸橋の手前に立ててくれてあるようでした。陸橋を渡り掘割を下ります。そこからが「野田尻宿」です。この宿場は談合坂サービスエリアの真下になっております。新しく建て替えられた家は鶴川宿と全く同じでここはまして大きな家が多いようです。「和智」と言う苗字の家が多く多分当時の宿場は此の一族に支配されていたのではないこと思えました。次の犬目の宿場まで行きたかったのですが、気温が高く疲れが出てきておりましたので、宿場のはずれの「犬嶋神社」で一休み、この神社には珍しく「舞台」がありました。今は物置のようになっておりましたが昔はお祭り芝居やら、踊やらを行ったのでしょう。思い出しましたが我が故郷の小さな神社にも大きな舞台があって、父親の踊やら部落の青年会の芝居やら獅子舞を見た記憶が蘇りました。出発して直ぐに「西光寺」と言うお寺が目の前に現れてきました。「野田尻宿」は大きな宿場だったことがこのお寺で分かります。但し途中で真言宗から臨済宗に変わったとの説明書き。過ぎると今度は中央道の下を潜りました。潜ったところを左に上がったところが下りのサービスエリアです。昼食と思いましたが少し時間が早すぎるので坂道を上がって行きました。高いところに出たので中央道を今度は見下ろすことになります。少し平行して進み「談合坂上りサービスエリア」を左下に見ながら中央道の陸橋を西側にわたります。いよいよここからは山里になります。坂道を上がり始めますと、旧甲州にもう一つ旧々甲州街道があることが分かりました。旧々甲州街道を上がって見ます。ものすごい急な上り坂になります。道も狭くなり二人並んで歩けません。昔の人はすごい健脚であったことが伺えます。立て札がありこのあたりで北条氏と武田信玄の家臣である小山田氏が戦ったとありましたがこんな狭いところでどのように戦ったのか疑問です。民家の庭先を歩く状態になります。民家の方々はなれたもので我々が歩いていても簡単に挨拶をしてくれます。眼下にはサービスエリア(上り車線)全体が良く見えます。だんだんと山の中に入って行ってしまうし急坂でひどくなってきましたので途中から下に降りて旧甲州街道と合流です。しばらく歩いて新田部落を過ぎるとやっと平らになりした。道路の向こうに山里にしがみついた綺麗な大きな建物が見えます。こんなところにあるので何かの宗教の家だなと思って進んでいきます。此処より「犬目宿」立て札を過ぎていきますと先ほど遠くから見ました宗教らしい建物の前に来ました。「石垣エンジニヤリング」と言う会社の建物でした。よくわからないので帰ってからインターネットで調べてみると特殊な技術を持っている精密ハイテク会社でした。スイスのイメージでここに建てた。と書いてありました。健康と製品の為にはもってこいの場所であると思いました。このかい会社の前をとうり過ぎると本来の犬目宿です。この宿でも凄い住宅があります。庭も住宅も3分の1しか写真に撮れません。宿場の中ほどに来ますと・義民『犬目の兵助』の生家・の案内板があります。この人は「甲州一揆」の頭取の一人で一揆の首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐために『書き置きの事』妻への『離縁状』に帰って来た『逃亡日誌』と共に生家『水田屋』に残されていると記してありました。近くの急坂を上ったところに兵助のお墓がありましたので手を合わせてきました。宿場が終わると道路は90度に右に折れます。少し進むとお寺が右に見えてきました。宿場も終はりだし一休みしていくか。此処もきつに坂道を上がって行きました。曹洞宗「宝勝寺」と言うお寺です。この冬の大雪で屋根瓦が相当量落ちてしまって吹き替えているところでした。境内の左側にまだ新しく建てたばかりの一本の石から掘られた大きな「慈母観音像」がありその隣に「葛飾北斎の冨嶽三十六景」歌川広重の不二三十六景」の書かれた場所との立て札、そこに石で作った長椅子、「阿吽の椅子」と書いてありましたがそこに座って「葛飾北斎」「歌川広重」が見たであろう富士山を、おにぎり頬張りながら同じ?気持ちで杉の大木の間か見ることができました。偶然でした。むしが知らせたと言う事だったでしょうか。簡単な食事でしたが済ませて街道に下りました。下のゴルフ場を取り巻くように道路は進みます。恋塚と言う部落になって来ました右に上がって行くと「君恋温泉」がありました。一泊も日帰りもできる温泉のようす。過ぎたところにこんもりと「恋塚一里塚」があります。今迄でも一里塚の「碑」はあってもこのように塚が残っているのは珍しいです。少し下り始めたところに右側に旧々街道があり石畳が20メートルほど残っているところが見えました。ぬかるみになって滑らいために作ったのでしょう。此処までが「上野原市」でここからは「大月市」となります。10kmかけて登って来た高さを4kmで下るわけですから急勾配の下り坂となります。ゆっくりと進みました。もうことらには何もありません。丁度中間点あたりでしょうか里山に私の田舎で言う「小豆葉(あずっきぱ)」このあたりの人たちは食べないのですね、15分ほど摘み草をしてきました。夜、おしたしにして食べましたが美味しかったです。そこを過ぎると民家が現れてきました。何軒か写真のような家が見受けられましたが多分養蚕をしていたのではないかと思えました。中央道の高い橋を頭の上に見て国道20号線の信号に来ました。此処からは「鳥澤の宿」15分ほど歩いて鳥澤駅です。電車にて帰宅の途につきました。ゴールデンウィークでしたので途中から電車が込みました。                 これで20号線の完歩と旧甲州街道の宿場は全て通過することが出来ました。甲州街道の宿場は44か所とか47か所とかそれぞれの取り方が違うようです。でもすべてを通過したことには間違いありません。歩いてみて感じたことを少々述べてみます。終わって見て宿場の歴史及び文化にもっと触れておけばよかったと思った事と同時、にそれぞれの行政の都合もあるとは思いますが、宿場の歴史・文化を大事にして次の代に残そうとしているところと、朽ちはててしまいそうな宿場の差があり過ぎていた。少しでも次の時代に出来るだけ残しておいてほしいものです。又車で知らずに通り越していたところにいろいろの歴史・文化・人物名などが少し頭に入ってきたので人に説明などが少できるのでないかと思います。もし皆様に興味の或るところがありましたら車でよろしいのでその場所に行って見ることをお勧めいたします。またどこかを歩いて皆様に報告できれば幸いです。

田舎へ歩記A

                                      歩記者 林 厚男

小原本陣

第二回

平成26年1月25日(土曜日)天候曇 温度11度

京王高尾山口〜中央線藤野駅 約18キロメートル  9:30スタート〜13:40着

高尾山口駅は山登りの人で賑わっておりました。今や高尾さんは年間300万人と言っております。私だけ左に折れて甲州街道へ、昼食場所がはっきりつかめないので、駅で弁当かおにぎりをと思っていたら、時間が早すぎてまだ販売されておらず、一回目に続き昼食が不安定、近くのコンビニで購入、誰も歩いておらず一人歩きです。圏央道の高尾インターの下を潜り抜け峠道に入っていきます。ここの街道筋には「うかい竹亭」「うかい鳥山」「ごん助」など料理屋多く、「ごん助」は昔どぶろくが飲めました。また素晴らしいラブホテルが沢山、死ぬまでに一度はと思っておりましたがもう駄目です。冥土の土産話が一つ減ります。大垂水峠の最後の道に入る前に一休み、こんな処を歩いているバカは私一人と思っておりましたら、休んでいるところを同年輩の様なおっさんが通り過ぎていきました。大垂水峠より高尾山に向かうのかと思っていると、通り抜けていきました。峠を越して千木良(ちぎら)に降りるまで同じ歩き方だったのか間隔が保たれたまました。この20号線の大垂水峠は昭和8年に自動車も通れるように回収工事を行ったようです。その碑がありました。下りに入るとやたらと糞が歩道にありました。犬はこんなところまで来ないし、考えてみましたらおそらくサルの糞ではないかと思います。思ったより峠越えは楽でして、千木良には予定より30分早く着きました。10分ぐらい進むと底沢橋に出ます。ここは江戸時代の甲州街道と合流します。昔の甲州街道は高尾の駅を過ぎてJR中央線の下を潜ってすぐの信号右に入り駒木野宿を通り中央道、中央線と平行に進み高尾山の裏の小仏峠を越えて中央道の高い陸橋の下に出ます。駒木野と言いますと、ここにはアルコール中毒の専門病院、駒木野病院があります。相当意志が強くないとまた戻ってくると聞いたことがあります。皆さん酒は飲むもので飲まれるものではありません。ご用心を・・・・小原の郷という、小原宿の資料館があります。ここに入りお姉さんにお願いをしておにぎりの昼食をとらさせて頂きました。世間話などして、訪問のサインをすませると出発の際本陣の見学を進められ3〜4分の所にありましたので、立ち寄りました。神奈川県の指定重要文化財になっており、11月3日には大名行列の祭があるとのこと、甲州街道を利用したのは信州の高島藩、高遠藩、飯田藩の大名と        甲府勤番の役人などがこの本陣に宿泊したと、立て札に記してありました。中には素晴らしい駕籠などが展示してあります。20号線沿いに宿場の建物が4〜5件残っており当時の様子が伺えます。相模湖町の駅前商店街を歩いてみたが何もありませんでした。20号線に戻り藤野に向かって歩き始めますと、峠で歩いていたおっさんが前を歩いているではありませんか。相模湖駅で帰ったと勝手な想像をしておりましたので、一寸ビックリいたしました。昼食後で疲れが出たのか少し歩くと私のペースが追いつく形になってきました。午前中から私が後ろを歩いていることが分かっていたようでしたので、追いついたらどこまで行かれるのか、話をしたく思っていると、道の向こうに渡って休憩を取ってしまったので、話すことができなくて残念でした。相模湖、藤野インター入口を通り過ぎ藤野に入ってきました。ここは昔、吉野宿だった地名が残っていました。20分ぐらい歩き本日終点の藤野駅に無事到着です。駅前のお店に「ひなずる漬」入荷とありましたので購入してきました。藤野町だけ販売をしいるとのことです。カブだそうですが20pほどあり葉っぱもよく漬かっており帰ってきてから食べましたがとてもおいしかったです。次が出発点ですのであったら買ってこようと思います。今度歩いてみて気の付いたこと、道の両脇に捨てゴミが多いことと、国道の歩道が少ないことが大変残念に思いました。酒粕も地元の酒蔵のものでビックリするほど安く、粕汁がものすごく美味しかった。

                         第二回完

田舎へ歩記(あるき)@  

                       歩記者 林 厚男

まず始めに・・・今、富士山裾野一周めぐりツアーに出ておりまして、月一回、17ヶ月で終了となります。5回目を終り、とても楽しく参加をしております。そんなとこらから、国道20号線を田舎へも歩いてみたくなりました。気ままに行きたいと思います。1〜2年ぐらいあれば大丈夫だろうと思いまして、とりあえず第一回目を下記のごとく行なってみました。道端の景色とか情況などとか、昼食等々など記し見たくなり皆様に押し付けの道中を気が向いたら読んで戴こうかと思いまして、何回になるかわかりませんが興味のある方は読んでみてください。邪魔くさい方は手を煩わしますが、直ぐに消してください。 
 第一回目

平成26113日(月曜日成人の日) 天候 晴れ 北風強し 温度は7度

自宅か〜高尾山口駅 約19キロメートル自宅を9:30スタート万願寺より国道20号に出まして、パイパスを八王子に向かって、中央線の陸橋で丁度一時間(約5キロ)少し先のユニクロでトイレと小休です。八王子の市内は旧道20号線を歩き、元横町に野原産業の営業所が昔あった時、そこに勤めいてよく食事に行ったところを昼食に予定をしていきましたら、40年も前になるので店はありませんでした。追分の交差点を左に曲がりましたら、小さなお店ですが、アナゴ丼専門店(カウンターで五人くらいは入れそうな店)が有り、入ろうかと思いましたが少し歩けば、中央図書館の隣にご存知の方もいらっしゃると思いますが、「伍衛門」と言うラーメン屋で餃子と共に食べてみたくなり、行きましたらなんと休み、こんなことならアナゴ丼を食べてくればと後悔を致しました。隣のラーメン屋で済ませ(ここには餃子なし)中央図書館でトイレと小休止、追分の交差点からは高尾駅までほぼ真直ぐ。高尾駅(JR・京王)までの予定で行きましたが、中央図書館から3キロでしたので、次の予定のことも考慮して高尾山口駅まで歩いてしまいました。それにしてもあのアナゴ丼が頭から離れず近いうちに食べに行きます。歩いてみて分かったのですが、街道筋に旧家で、でかい家が多いことにびっくりいたしました。