林厚男街道を歩く


国道16号一周歩記
                
林 厚男

国道16 一周歩記第八回 

第八回                          林 厚男

6413日(土曜日)    天気晴 気温21度   歩行数28,500

柏駅〜小室駅

柏駅の東口を出発、まっすぐ進みます。大きな信号が旧水戸街道との交差点となります。信号の先右手の病院を見て思い出しました。建物からして、落ち着いていて歴史がありそうな病院「産婦人科(欠席とん)石堂(せきどう)病院(びょういん)調べてみる(昭和12)年開業ルーツをたどると江戸時代の漢方医まで遡る。歴史は重ねつつも伝統にとらわれることなく、最新の医療技術や設備 が整っているとのこと。保育園経営もしているようだ

又、信号の向こうの左手にお寺が見えたので、この後、神社仏閣に会えないかと想像をし、今日、一日の安全をお願いに立ち寄りました。曹洞宗戸張山「長全寺」。この辺りは昔戸張村であって「戸張氏」の城があってその戸張家菩提寺だったと記されています。

戸張城は千葉常胤の子で相馬氏初代当主・相馬師常の三男、戸張八郎行常の居城だと伝わっています。以降、代々戸張氏200年にわたって本拠としたとされた。本堂の中も立派で写真に納めましたが、目で見ると違っているので、載せませんでした。仁王門も立派な山門でした。又椎の木の大木が二本鎮座しておりました。門を出て進みます。ちょっと面白い名前の居酒屋「べこたん」牛たん料理の専門店があった。国道16号線との大きな交差点を右に曲がり、ここから16号線を歩きます。次の信号を渡ります。そこは柏ふるさと公園の入り口です。公園に向かう並木の年月が経っているので古い公園が想像できます。何回かなかった16号のバス停がありました。朝と夕方は一時間に10回あり昼でも57回あります。この辺りの16号線はもともと生活道路であったのでしょう?何処まで行っているかわかりません。戸張入り口の信号に来ますと「開智国際大学入り口」と信号機の所の印です初めて聞く名前ですので調べてみました。1904年に日本橋で女学校として開校した。その後いろいろ合併等あり、小学校ら高校までの学校で大学はここ柏に2000年に開校した。しばらく歩と、目の前にトンネルが来ました。多分16号線にトンネルはここだけだと思いますで写真に納めた。トンネルの手前の向こう側には、外車販売店が3軒並んでいます。「ミニ」・「BMW」・「ジャガー」それぞれ特徴が違うのでライバル意識を良いのでこんな状態があるのかな?ジャガーの販売店は今までに初めて見ました。ジャガーの販売店があったので思いだしたのは、千葉に居たとき柏市のお客さんに挨拶に行ったとき、社長がジャガーに乗っているいうことで、手を引くことにしましたが、間に合わなかった嫌な思い出がありました。

長さが200mぐらいのとんねるを抜けると、景色が一変しました。両側が田園風景となりました。この田園風景が終わるころ橋を渡ります「上沼橋」下を流れている川は「大津川」千葉県鎌ケ谷市・柏市を流れる利根川水系の一級河川。上流の手賀沼から流れていて、手賀川流域の24.2%を占め、手賀沼最大の流入河川となっている。

この辺りは手賀沼の南に当たるので「湘南」と読んでいるようだ。道路の向こう側に大きな建物があり「あおいの里・柏」としてある。多分老人ホームかと思います。左手はデベロッパーが開発した低層マンションが何棟もあり一つの町ができている。ここを過ぎると急に目にはいってきたのが石でできているモアイ像群、他に色々の動物の石像が沢山ある。石屋さんの玄関回りです。道路の向こう側に大きな公園があり公園のフェンスに看板が付いているので渡ってみると「びゃくしん類植栽規制区域」としてあります。初め何だかわかりませんがよく読んで見ると、「かいずかいぶき」など、びゃくしん類の植木は寄生樹なり梨の赤星病の大敵だから、植木として庭に植えないでくれとの通達でした。この辺りから船橋市・市川市・鎌ヶ谷市などは梨の産地であります。公園の入り口を過ぎたところに。いろいろ作業に使う工具類の中古品を扱っている店があり入ってみましたが、本当に何でもあるのです。見ていると面白いのとほしいものとが入り乱れ、店をすぐには出られない様なことでしたが・・・

「大島田」の大きな信号を渡ると、左手に鳥居がありましたので、(みち)(なか)ばのお参りをしました。安房栖(あわす)神社」で大島田の鎮守様だったとのこと。隣にお寺がありましたが、寄らずに進む。市街を外れると左手から「ルートイン」の大きなビジネスホテル、右手はヤマダ電機・ニトリ・オートバックス等々東京にある店より規模が一段と大きい。

左手は「セブンパークアリオ柏」一休みするためにここに入りましたが、敷地が広いのと建物が広くて中に入ると、いる位置が分からなくなるほど広い、いろいろの店がありますが、普段と違っていて各店が扱う品物が専門化していて、普段は「ドンキホーテ」で済ませるものが、一部は他の店に行かないとない、(かえ)って不便だった。道路の両側は道路沿いがお店関係で裏側は湘南工業団     セブンパークアリオ柏    

地」とメーカーななどの流通倉庫です。一休みして国道に戻ります。そんなところを通り過ぎると、藤ヶ谷地域に入ってきます。両方側とも梨畑が多くなってきます。道路はだらだら坂の連続です。柏市を過ぎて白井市に入ってきました。

しばらく歩くと食堂がありましたので、時間を見ると1130分だったので入りませんでしたが面白い食堂で、建物は一つで経営者は同じであると判断しましたが、左が「江戸切ソバゆで太郎」右が「もつ煮定食もつ次郎」。そこを通り過ぎたところにこんなお店があ

りました。「世界民芸雑貨店」中には入りませんでしたが店先にも色とりどり品物が並べてあります。中には外人客も見えました駐車場の一角には木の木っ端で作った像が2頭置いてありました。

国道(すじ)にはこういった面白いお店も商売になるのでしょうか?店から離れてしばらくすると橋があり渡ります。「神崎川」と言います。橋の中間地点で川を見ます。流れが右手から左に流れています。地元の人間でないのでどうにも逆だとおもえる。右側が東京湾になるから。先ほど歩いて来た「大津川」は手賀沼から出て右に流れていました。県道59号線の大きな信号をわたるとファリミリーレストランなど食堂関係が何軒かありますので、入ることにしました。あと目的まで1q余の判断からです。途中何店舗かあったり、広告塔があったりで、ファミレスの「ばんどう太郎」に入りました。多摩関係にはまだないわけです。水戸市が本拠地ですから。私の注文は金額の割にはあまり美味しいとはおもわなかった。

他のお客さんのを見ると殆どが鍋で持ってきている「煮込みうどん」でした。まだ機会があるので食べてみたいと思っております。レストランを出て進むと右手に大きな建物が見えて「ナカノ商会」と名前が出ています。初めて聞く名前なので調べて見ると。

ナカノ商会は、荷主企業から小売・消費者へとモノを流通させるためのあらゆる業務を担う「総合物流企業」である。何年も仕事から離れているうちに、成長著しい会社が続々と現れているのだなと思わされました。

複雑な立体交差を渡り今日の目的地「小室駅」に着きました。驚いたことにこの駅は林の中にポツンとあるだけ改札も一つだけで駅の前に民家が少しある。店と名の付くものは何もありませんでした。駅について生ビールを飲んでと思っていましたが、変更して良かったと胸をなでおろしました。近くに「小室ハイランド」と言う団地があってその人たちの乗る、降るだけの駅でした。「北総鉄道」に初めて乗ることになりました。

来る電車が全て成田空港から羽田空港行きでした。

記し忘れがありました。国道沿いの梨畑の花は今が満開でした。

 

                    第八回完

国道16 一周歩記第七回 

第七回                          林 厚男

6330日(土曜日)  天気晴  気温25度 歩行数30,110

野田市役所〜柏駅

野田市いうと何といっても茂木一族が築き上げた「キッコウマン醤油」です。今では日本はもとより世界の醤油の60%を占めているとの事。千葉カントリークラブの3コースも筆頭株主になっていると思います。紫カントリークラブの「あやめコース」「すみれコース」も関係あるとの記憶です。昔、あやめコースで会社のコンペを台風の時に行ってゴルフにならなかった記憶がよみがえる。今度歩いて知ったのですがびっくりしたのが「キッコウマン総合病院」も経営していることでした。

 

今回は、天気予報は暑いとのことで、前日に野田市役所の隣の「ルートインインホテル」一泊いたしました。宿泊する当日電話しましたらシングル部屋が一部屋空いていました。学校が春休みのせいか家族連れが多く、九州や関西のナンバーのくるまが何台も停っていました。 ホテルを750分出発しました。右手に野田市文化会館、市役所を見て文化会館の染井吉野は異常に太く、寿命が来ているかと思いまます。枝はたくさん切られているし、残っている枝にはほとんど花芽がついておりません。

隣が市役所になり、森の中に存在をしているように見えます。この広い森は説明版によりますと「東京理科大」と野田市民のふれあいの杜とのことまっ平らな広い森です。市役所を過ぎると右奥に「キッコウマン総合病院」と左の道路の向こう側に「小針総合病院」病院、どちらも大きな病院です。野田市は人口15万余の人口ですが、総合病院が、まだ2つぐらいあるようです。私の住んでいる日野市は19万人弱ですが、総合病院は市民病院1つだけです。道路の両側は食べ物屋さんだらけで、名の知れたチェーン店が勢ぞろい。

急に右手奥に大きくて高い「観覧車」が目に入ってきました。なんでこんなところにと思い路地を入っていくと

大きな看板がある「霊波の光」どうもそこが作った公園らしい。 国道に戻ってきて進んでいると道路の向かいには広い森があります。「千葉カントリ梅郷コース」です。我凡人には梅郷コースぐらいしかできなかった記憶です。野田工業団地を左に見て進みますが、その一角にピアノの販売会社の大きな倉庫兼事務所があります。来る途中にも同じようなピアノの販売の大きな会社が2軒ありました。集中している理由が何かあるのでしょうね?此処を過ぎると右側に大きな看板が出ています。長い参道の向こうに色々の建物が見えます。国道の反対が側には大きな体育館。来るときの電車の中にもビラがありましたし、柏駅の改札口の所にも大きな看板もありました。どなたでも気軽にお参りくださいなんていうキャッチフレーズをしてあります。厳しい宗教でないかも?しれません。

隣は「東京理科大学」のグランドでグランドの奥がキャンパスです。宗教の建物群と並んでいます。「薬学部」と「創?工学部」があるようです。そこを過ぎると広大な面積の工事を行っています。柏インターチェンジが近いので流通センターですが、名前は出ておりません。ゼネコンが名古屋の業者なので施主も名古屋でしょうか?そこを過ぎると、川に差し掛かります。「利根運河」です。人間が作った河川ですが土手高く大きな川で少しビックリ「利根運河」は、利根川と江戸川を結ぶ全長8.5qの運河です。 明治半ばから昭和初期まで、関東の物流を支える重要な役割を担っていました。内陸部に作られた珍しい運河だそうです。橋を渡ると野田とは別れて「柏市」に入ってきました。坂道を下ったところに神社があり今日の安全をお願いする。「妙見見神社」といいます。2回目ぶりのお参りとなりました。少し進んだところが「常磐自動車道」「柏インターチェンジ」です。大きなインターチェンジで、抜けるのに時間がかかる。周りは大きな流通倉庫ばかりです。抜けたところが十余二(とよふた)工業団地」この十余二(とよふた)と言う名前は昔千葉にいたとき仕事で何回か来たことがあり、懐かしい名前に出会いました。突然と目の前にマンション群が現れたわけですが地図を見ると「つくばエクスプレス」の電車を通して一つの町を作ってしまった。周りにはほとんど何もない。これは昔の団地を造った時と同じで2030年すると過疎化してしまうような気がいたします。開発は長い年月の将来を見て行うべきではないかと思います。

それでも努力はしているようです。千葉大のキャンパスや東京大学キャンパス、ガン研センターなどを持ってきていている。駅名が「柏の杜キャンパス駅」。「つくばエクスプレス」のガードを潜り進んで若葉の交差点に来ました。右角にお寺がありましたので3回目ぶりに入ることにいたしました。

真言宗豊山派「長覚寺」面白いお寺で本堂より「観音堂」の方が立派な建物です。明治・大正に大いに栄え、縁日には近郷近在はもとより、遠く茨城県や埼玉県からも馬に化粧をして手綱を引く人などが多く集まり、見世物なども出てたいへん賑わったということです。行基(ぎょうき)上人(しょうにん)が遍歴の途中白い馬に乗って来た。と言うことで馬を大切にする習わしで白馬の彫り物が本堂にあるとの説明札です。本堂には入れませんでした。写真の真ん中が白い馬の彫り物です。ここは珍しく神社仏閣が一緒でお宮は「六所神社」

「金運を強く上げる護符」だそうですが10円で聞いてくれるでしょうか?お参りを済ませて若葉の信号を渡り進みますと町並みらしくなってきました。ケーズデンキ・ヤマダ電機・イオン・コーナンなどが並んでいます。

そこを過ぎると下り坂で、下りきった右に「柏署」があり、大堀川の橋を渡ると、今度は今日初めての登坂になります。登りきると国道6号線との立体交差点です。右手に折れて1qほど進んだ信号を左に折れて柏駅と進みました。今日は桜祭りなのでしょうか?人通りも多く町内の方がボランティアでしょうか?交通整理を行ってくれていました。ビルの地下の食堂に降りて昼食を済ませて帰路

6回と7回共、住宅街ほとんどなく、工業団地・流通センターの倉庫などが多く、産業道路となっていて2回ともバス停が一つもありませんでしたし、私の歩いている時間範囲ではタクシーは1台も見かけませんでした。それと道路の真っすぐのところが多く大変閉口いたしました。

                        第七回完

国道16 一周歩記第六回 

第六回                          林 厚男

 令和6316日(土曜日)  天気 晴 気温22度 歩行数32,600

春日部駅〜野田市役所
第六回出発について、旧国道16号的道路は春日部で終わっていて、春日部から野田に行く道路は16号関係なくあちこちを通って行く道路はあった。国道16は新しい道路を作って16号とした。調べてもこんなことだと思ったのが以上です。

 

春日部駅に降りましたが、前には西口から乗りましたので気が付きませんでしたが

東口に降りるのに、乗っている車両によりやたらと歩かされる駅になっていた。

東口を出て県道2号線(旧国道16号)まっすぐ歩きます。二つ目信号が以前に旧日光街道を歩いた時の交差点粕壁(そうか)宿〈春日部宿〉です。左右宿場を見ると町おこしのためきれいな通りになっています。交差点を過ぎてすぐに橋のたもとに出ました。

左が車道で歩道があって中間に広場を設けてあってアールのドーム状のものは夜になると9種類のイルミネーションが楽しめるとの説明書き。下の川は「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」江戸時代前は利根川の本流だったとのこと。今は下流で中川に合流です。橋の名前は「古利根公園橋」。少し歩くと「国道4号線(日光街道)」との交差点で、渡ると市街地はなくなってきて自動車関係の会社が多くみられます。少し進みますと16号線と合流交差点です。信号(春日部市場前交差点)の向こうは春日部市場と青果市場が見えます右に曲がって16号線を歩きます。しばらくは右も左も田園風景です。 

「中川」を渡り橋を下り終えた右側は「イオンモール」です。写真の建物は一部にすぎません。こんなに大きな「イオンモール」初めて見ますが、あらゆる業者がはいっていました。街道沿いには店じまいをしたお店や空き家の建物が幾つも見受けられます。この敷地が終わると国道4号線パイパスとの立体交差点「庄和インター」の信号。4号線かかっている橋は「庄和大凧橋」です。潜るとすぐに長い立体交差点の陸橋です。下には「県道42号線」と「省内領用水路」があります。この大きな立体交差橋には専用歩道がなく大型自動車が来るときは歩みを止めて避けていた。陸橋を下りると金崎交差点で向こうがわに大きな総合公園があり休みたかったが、行って帰って来るのに大変であきらめた。その奥に「庄和道の駅」があります。

「庄和大凧」について、テレビで此処の大凧をあげているのを見たことがありますが由来については簡単に、江戸時代後期、養蚕の豊凶占いとして凧揚げを行った事が、庄和地区での大凧揚げの由来となっています 以降、お祭りとして盛んとなるに従い、凧も大型となっていきました。 日本一を誇っている大凧だそうです。

色々の説明は道の駅に行くとよくわかるとのことです。

又「首都圏外部放水路」地底探検ミュージアムがこの先意1.5q先あると大きな看板が出ていますが、首都圏で行っている地下放水路がセットされていて見学ができるのだろうか?又ここは春日部と合併する庄和町の中心地であったようで、向こう側に結構なお寺と神社が見えますがこれもスルーしました。

通り過ぎると大きな橋が見えてきました。川は「江戸川」です。この川は昔は利根川だった。坂東太郎いう暴れ川だった。銚子に利根川の放水路を作って暴れ川を収めた。今は逆に江戸川が利根川の放水路となっている感じで、水量がとても少ない。かかっている橋は「金野井大橋」と言う名前。地図を見ると千葉県野田市が「東金野井」埼玉春日部が「西金野井」県が違うのに同じ地名を使っているのは珍しいのではないか。

橋を渡ると「千葉県野田市」と大きな標識が出ています。6回目にして東京都埼玉県におさばらとなりました。左に一本の満開の「コブシ」が見えます。今年初めてこぶしを見たことになりますが、少し早い満開だと思います・・その奥に森が見えますが「千葉カントリークラブ川間コース」です。右手が主体となっている「中里工業団地」入ってきました。一番目についたのが「COOP」の大きな配送センタでした。中里の立体交差点を過ぎると道路が一直線となります。私としては一番疲れが出るコースとなります。ただひたすらに4キロほど歩きましたか?「流山街道」との合流地点で平家の建物に何人も並んでいます。看板もなければ旗もたっていないし、建物には窓もないし、ただ入り口があり、名前のない暖簾があるだけ、食べ物屋さんか中で物を売っているのかわからないので、お客さんに聞きましたら「ラーメン屋さん」との事。ドライバーには何もわからないので地元の固定客のみで商いをしているようだ。信号を渡ると道路の向こうはゴルフ場の入り口です。「千葉カントリークラブ野田コース」看板に書いてあることは912日〜915日、日本シニアーオープンゴルフの案内です。

野田市と言うと何日か前にパソコンに乗っていました。ここ出身で高校2年生(現在3年生?)の時プロ合格でツアーに出ている「香川 友」と言うゴルファーがいて、目標はマスターズの優勝と世界一の賞金王になることだと出ていました。将来が楽しみです。
ゴルフ場を過ぎたところに「霊波の光」の建物あります。宗教とすぐわかりましたが

初めて聞く宗教なので調べてみまいた。昭和43年に発足した。本部や礼拝堂はこの先の野田市山崎にある。御本尊がなんだかわかりまませんが、世界が平和でありますようにとのようですが・・有名芸能人では北斗晶佐々木健介高橋大輔山下智久相葉雅紀大杉勝男出羽海親方(元鷲羽山)風美圭 ・・・

詳しい方がありましたら教えてください。

柳沢の信号を渡ると本日終点の「野田市役所」となります。昼食を済ませて「愛宕駅」より帰宅をしましたが、「つくばエクスプレス」に初めて乗ることができました。秋葉原が終点ですが乗り換えに時間がかかり閉口しました。

今日は気温の上昇で最後は大変疲れたと思いましたが昼食を済ませたら疲れが一気に直りました。

 

第五回                          林 厚男

  令和6118日(木曜日)  天気 晴 気温13度 歩行数31,800

大宮駅〜春日部駅

電車も便利になって、府中本町駅から直通大宮駅行きがあって乗り換えなしでいけるようになっていた。西口で降りて県道2号線に出た。右に折れて進みます。新幹線のガードを潜ると今度はJRの在来線は陸橋となります。坂を下り終えた交差点は旧中山道との交差点です。信号を渡って進むと左に、建物の間から立派な山門が見えるので路地を入っていきます。地図に載っていませんでしたが「東光寺」と言う曹洞宗のお寺です。総(けやき)作りの新しい大きな仁王門です。中に入っていくと工事中の小さい建物で「鐘楼」でした。屋根は銅板葺で高級感がすごかった。お参りして山門をくぐらず横手を出て進む有名な大宮「氷川神社」(武蔵1の宮)参道に出ました。今日の安全をと思い参道を歩いたのですが、長いので今日の歩く距離を考えて途中から引き返し、鳥居のところで頭を下げて県道2号線の「氷川神社お入口」の交差点に出ました。左に折れて「産業道路」との交差点を渡り進みますと、趣のある料亭らしき店があるので名前を控えてきました。「新道山家」と言う割烹料理家さんで、「しんどうやまや」と読みます。調べてみたら、金額は¥10,000〜からで政府登録国際観光旅館の認定を受け、宿泊もできるとのことで創業が明治21年と言うから140年くらいになるのでしょう。料理の研鑽(けんさん)とお客さんもてなしが素晴らしいのでしょう。進みますと両側が大きな県立公園で「大宮第二公園」と「大宮第三公園」ですが氷川神社の裏側にあるのが第一公園でしょうか?公園を過ぎると「芝川」です。ここは今、新しい橋の工事中で仮橋を渡ります。芝川の土手はサイクリングロードになっています。橋を渡り終えると歩道がなくなり長いだらだら坂を上がります。今日の歩きで唯一坂道らしい坂はここだけでした。大きな信号に来ましたが「大和田」の信号で「第二産業道路」との交差点になります。標識を見るとここから右が「県道1号線」左が「県道5号線」となります。昔ここは町か村の中心地であったのでしょうか銀行などの建物が何軒かあります。今日の天気予報は1日中曇りだったが反して晴となってしまい、身を整えるためにトイレを借りて水の補給で一休み。この街道を歩いて気が付きましたが、コンビニ、スーパー、食堂関係、専門店などいたるところにある。県の主要道路であり、合併前の町や村が幾つもありそれぞれの中心地がこの街道にあったからだと思います。ただしこの街道は工場関係がほとんどない。そんな中で、歩き始めると大きな会社があったので、道路の向こう側に渡る。正面に「TAMURON「タムロン」英語とカタカナと両方の名盤です。

帰宅の後調べると、カメラの交換レンズの専門会社.本社もここのようだ。

カメラ会社のどのメーカーにも合うものをつくっている。写真が趣味の方々だったら誰でも知っていることでしょう。神社の鳥居があるので参道を歩いていくとこじんまりとした神社がある。()(っと)()天神社」(ふっとのてんじんじゃ)と読みます。お参りしてから左手を見ると左の写真です。周りが4.5m、高さ40mの杉の木だったが、何回かの落雷で折れたりして枯れてしまったが、御神木であったため下部を元のまま「()(っと)()村」の氏子で保存した。との説明です。この神社は京都が本社で「菅原道真」が祭ってある。横手から街道に戻り、少し進むと「宮ヶ谷塔(西)」の信号、前に歩いた「日光御成街道」との合流地点です。またすぐの信号が「宮ヶ谷塔」の信号、ここで国道16号線とクロスします。御成街道を歩いた時と全く同じところを渡りました。宮ヶ谷塔と言うから何か塔がどこかにあるかと調べたら、塔は関係なくただ地名だった。昔は「宮ヶ谷塔」村だった。交差点を渡るとすぐに「綾瀬川」を渡ります。この川は葛飾区小岩で中川と合流している。渡るるとすぐに消防車が2台サイレンを鳴らして来て目の前で止まりました。道路の向こう側の平家が火事です。煙だけで火の粉はまだみえません。少し見ていましたが消防車が89台きました。これ以上大きくなることはないだろうと思い去りました。

国道122号線の立体交差を潜ると、ここから「市宿通り」となります。ご存じの通り岩槻は人形の町です。店先に3月のひな人形を並べた店が何軒もありました。御成街道を歩いた時はまだこの辺りは工事中でしたが、完全に終わっていて素晴らしい通りとなりました。大きな宿場であったので、面影のある建物がいくつかあります。ここは「太田道灌」の出身地であり、埼玉県の県庁の初めはこの地にあった。その建物も一部残っていました。道灌ゆかりのお寺「浄国寺」は前回見ているので山門を見ながら進みます。写真は「日光御成道高札場」と書かれた立札です。右の写真は前回歩いた時に建築中であった「岩槻人形博物館」です。敷地内には「太田道灌」銅像とか市制の時の記念碑がありました。

博物館を過ぎたところの交差点「渋江」の信号までが岩槻宿です。信号を左が「日光御成街道」で前と同じ案内の立札が信号の向こうに見えました。「岩槻城址公園」右に見て進みますと「元荒川」です。ここも橋の架け替え工事で仮橋を渡りした。ひたすら歩くことになりましたが、こんなところに「シャトレーゼ」の店があり少し驚きました。

東岩槻の交差点のところに「ケーヨーデーツー」がありこの敷地の終わりから、「さいたま市岩槻区」は終わりで、「春日部市」に入りました。少し進んだとところで、名前は聞いたことはありませんが、大きなスーパーが閉店解体工事を行っていました。

春日部市に入ってから暑さに体が疲れ気味で、モールに入って休憩所で水分補給と体を冷やし一枚シャツを脱いで、体を整えて出発。12時を過ぎていましたが、約2.5qの直進を黙々と歩き、駅に到着。昼食を済ませて帰路。

 

                 第五回完

4回                          林 厚男

  

令和51229日(金曜日)  天気晴  気温15度 歩行数30,400

川越新宿北交差点〜大宮駅

川越駅で降りて、歩行者にすると複雑な「新宿(にいじゅく)(きた)」の信号に出て、今日の出発です。5分も歩かないとこに神社があったので今日の安全をお願いに。急な階段を上がって参拝しました。「浅間神社」小さな神社ですが立札の説明によると由緒ある神社らしい「源頼義」が奥羽成敗の時にここで分霊、その後太田道灌が再霊した。子宝に恵まれるということで年間1万人もの人がお参りに来るとのことです「折り上げ(ごう)天井(てんじょう)になっているようですが、中は見えなかった。信号を渡り100m余歩くとまた神社「愛宕神社」浅間神社と同じで小さ丘の上にあり急な階段なので下で参拝しました。麻疹に良く効く神社の説明です。浅間神社が母塚でこちらが父塚との事。階段の手前左に大きな塚が立っていてそれは松尾芭蕉の句の石碑です。

       名月や 麓の霧や 田の曇り

この句は神社と関係ないが、江戸末期、川越が句会が盛んになり、有志が建てたとのことで、松尾芭蕉が故郷の伊賀上野で詠んだ句で、この句を詠んだ約二カ月後に亡くなったとのことです。神社を出てすぐに道路の向こう側に「天然寺」と言うお寺がありましたが、寄りきれないのでそのまま進む、橋を渡るのですが、江戸時代船が盛んな時の流通川「新河岸川」桜並木が続いているので素晴らしいお花見ができるのでしょう。渡るとこの辺りは仙波(せんば)地域。道路の両側は外車を含めた自動車販売会社が並んでいます。それを過ぎると今度はラブホテル街、きんきらきんの凄いホテルが何軒かある。写真はガソリンスタンドの面白い価格表示です。川越警察の前を通り過ぎると国道245号線との立体交差点「小仙波(こせんば)(中)」ここを抜けると両側はいろいろのデスカウントストアーの団地。道路は右折れします。すると右側は「川越斎場」「川越市民聖苑」広くて大きな古めかしい建物が幾つもあります。市民のよい憩いの場所でもあるのでしょう。

過ぎたところに「ビックモータ―」があったが規模が小さな構えで営業をしていない感じ。そこを過ぎると広い田園風景となります。バス停留所で水の補強と一休み。誰も通らず民家もほとどなく見る所もないので、昔懐かしき春日八郎・三橋美智也・青木光一等々の歌を思い切り歌って進みます。何曲も歌っているうちに荒川に架かる橋に来ました。

(かみ)上江橋(ごうはし)と言います。友達が橋からは右側を歩けとの指示をいただいていたので右の歩道を歩きました。ここまでもほとんど右側を歩いてきましたけど。名前の由来は橋の所在地である大字古谷上の異名である「上郷」から取り「上江橋」と命名されたと、簡単な説明です。向こうが霞んで見えるくらい長そうだ。雲一つないので遠くがよく見わたせるのでは、中間当たりで見ましたが、今日は温度が高いためかすんでしまっている。荒川の流れがなだらかと言うかほとんど流れていない感じで、ボートを止めて釣りを何人か行っていてのどかです。中間を過ぎると右下の河川敷にゴルフ場(川越グリーンクロス)29日だからいっぱい入っているようです。橋を歩き終って時間を見ると20分近くかかった。渡り終えたところに立札があって1620m日本で一番長い橋」としてありました。長かったけれど、日本一長い橋(河川に架かる橋だと思います)を渡れたことで疲れが取れました。

直ぐに、16号パイパスと16号旧道(現在は県道2号線)のインターチェンジになっていて、旧道を歩くので右側に折れていきます。橋の左側の歩道を歩いてくる旧道に入るのに結構歩くことになる。友はこれを指示してくれたのだと感謝です。坂を下り旧道を進みます。昔立派なお屋敷であっただろう家が朽ち果ててしまっている前を通り、JR川越線のガードを潜ります。

次の信号が(さし)(おうぎ)駅」しせんと読むとばかり思っていた)に行く信号ですが交差している道路も車数が多く、浦和(旧)と鴻巣を結ぶ重要な県道のようだ。この県道2号線は元国道であったわけだが歩道は設けてあるが柵がないので少々危険。バスもよく通ているのでどこ行きか見ていると「西遊馬」行になっている。何分か歩くとまた「西遊馬」行きが来た。信号で止まっていたので見るとローマ字で書いてあるところが「NISIASUMA西遊(にしあす)()と読む。そこの土地だけが分かっている読み方は今までもあちらこちらにありました。昼食も近くなて来たので食べ物屋さんが気にかかるようになってきた。うどんの看板が出ていて正面に来ると、なんと駐車場は待ち車はあるし、40人ほど並んで待っている。麺も製造しているようで、今はやりの並んで待つ食べ物屋さんでした。大宮駅までの距離を見ると12時半前後には到着できるなと思い食べ物屋さんはあきらめることにした 

歩いても歩いても電柱に書いてある住所が「(さし)(おうぎ)」だ。この町名はそうとう広いようだやっと「三橋」の町名になったところが国道17号線のパイパスです。交差点の右側に建っている8階建てのこのビルは日本で初めての準木造のビルのタレ札か出ています。初めて見るわけですが、中に入って行ってみないと。外からは分かりません。今後木造のこのようなビルが多くなってくるかと思います。業者は「AQGroup・アキュラホーフム」なっていましたが、元々は建売住宅会社のようです。大宮のビル街が目の前に見えるので先を急ぎますが進んでいるうち道路向こう側に小さなお稲荷さんがあるので、無事に終わろうとしているので御礼の参拝に入っていく。おばさんが花を添えたりきれいにしていました。月に何日か来て管理しているのでしょう。

賽銭箱は小さなガラスのお椀?で一円が入っていました。私もお賽銭を入れて御礼の参拝。中に狐の置物が沢山置いてあるので、おばさんにお稲荷の守り神は狐ですが、なんで狐かお判りですかと、生意気に聞いてしまいました。知らない返事でしたので話をしたら、良くわかりましたと喜んでいただきました。

写真を撮りたいのですがと、お願いすると心良く横に移動をしてくれました。

道路に戻り進みます。国道17号線の交差点を渡るとすぐに大宮駅です。駅の少し手前で昼食をとり帰宅です。」

                         第四回完

国道16 一周歩記第3回                

林 厚男

令和51223日(土曜日)  天気 晴時々曇り 気温20度 歩行数28,200

入間駅(河原交差点)〜川越市新宿北交差点(川越駅)

 

駅に降りて坂道を下りますと国道463号線(千人同心日光街道)に出て西武線のガードを潜ると河原町交差です。前回終点の交差点。まっすぐ行くと前に歩いた「千人同心日光街道」です。右に折れて16号線を歩き始めます。

歩き始めてすぐに写真の建物。「旧石川組製糸西洋館」国登録有形文化財、大正時代の迎賓館との事。大正から昭和の初めにかけて全国有数の製糸会社であった石川組製糸により外国商人を招くための迎賓館として、いまから約100年前に建てられた洋風木造建築です。当時の入間市域の繊維業と石川組製糸の繁栄を知ることができるとても貴重な歴史的遺産です。部屋ごとに特色のある天井や床の造形、照明器具をはじめ、玄関ホールの大理石製の暖炉、一木で作られた階段の手すり、特注の調度品などは最高級の材と職人の技術を惜しみなく使って作られており建物としても非常に見応えがあります。との説明です。この日は休みなのか入れませんでした。どうも開館がランダムになっている様子です。

鎌倉街道を歩いた時も製糸の成金の邸宅が記念館になっていたことを思い出しました。

入れないので、写真をとってひたすら歩きます。左側に「ビックモーター」が店を開いておりますが、買取りの車は駐車場が大分空いておりますし、店の中も気のせいか活気が見えません。歩道の並木はここは関係ないようだ。50mも離れていないところに同業の「ガリバー」があり車はめいっぱいあります。幟旗(のぼりはた)も多く中でも「買取り日本一」の旗が沢山立っていて目立ちます。

大きな交差点があり、ここは陸橋しか渡る方法がないので階段を上がると、すぐ左下に「入間川」「富士見橋」が見えます。この陸橋が入間市と狭山市の境になり、右手の先には「狭山市役所」が見えます。市役所が市のはずれにあることになり、市民の足も大変かと・・・階段を下りると右側は「イオンモール」です。次の信号が「狭山駅」に行く信号です。狭山署の隣が大きな消防署でその隣がまた「イオンモール」になっていますが、「ヤマダ電機」多くを使用しているようです。上奥富(北)の信号を渡るとすぐにお寺の看板ありました。新しい街道は神社仏閣が少ないので寄りたいなと思いました。「安永寺」宗派を調べましたがないようです?「気軽にどうぞ」と書いてあるのですが、入り口が一般住宅と同じようになっていて入りにくいので入らず。

中は最新式の本堂になっているようで、2018年ウッドデザイン賞林野庁長官賞受賞の本堂をどなたでも式場としてご利用いただけます。一日一組限定。としてありました。

「上奥富」の信号を渡って一寸一休み。ここより約5qちょっと苦手な直進道路になります。道路の向こう側にヤマダ電機が使用してたい大きな建物が空きになっています。先ほどにあったイオンモールに引っ越したようだ。

右手は、「川越・狭山工業団地」初めにあるのがファミリーレストランの「ロッテリア」があり隣が「ロッテ狭山工場」です。工場の高いところにXYLITOLの大きな看板があるので、ガム工場だとおもいます。ガム工場は新大久保の山手線沿いにあったのがここに引っ越してきたのでしょう。ロッテの裏にあるのが「本田技研」の狭山工場ですが、この工場は車種はなにを作っているのでしょう?大きな工場が並んでいますが、聞いたことのない会社の工場があるのでいくつか調べてみました。

1・・東洋エアゾール工業()  本社は東京

    薬メーカー塗料メーカーなどの各メーカーのスプレーの充填を行っている会社で

   す。缶などは親会社の「東洋製罐梶vが生産をしている。

1・・ダイナパック梶@     本社 名古屋 

   各種段ボール、紙器、軟包装、緩衝材、パルプモールド、パレットなどの包装材の設計・製造・販売。包装・梱包のトータル・ソリューション・プロバイダーです。

  昔流で言えばダンボー屋さん。

1・・サンフィ梶@       本社 東京新宿

   拠点はフランスとのことです。

   免疫疾患、先天性疾患・希少疾患、オンコロジー、糖尿病、循環器疾患、内科系疾患領域の医療用医薬品やワクチンなど、幅広(はばひろ)い領域の製品を提供。

1・・光村(みつむら)印刷梶@  本社 東京品川

    商業印刷を始め、高級図鑑・学校図鑑・立体販促ツールや店頭プロモーション、デジタルメディア、電子部品などの幅広い製品・サービスを取り扱っています。                    などでした。

狭山から川越にかけて、16号線は二つの市のメイン国道通りとなっているので、自動車

販売会社、自動車関連会社、ファミリーレストをはじめとした食べ物屋さんばかりです。「関越高速道路」を潜りインターチェンジ入り口を過ぎたところに「ハーレーダビットソ」店があり、ちょっと覗いた。まず価格にビックリ。全て800万円以上。私の車が三台も買えてしまう。そうとうのマニアか金持ちでないと買うことができない。社員がいたので少し離れてから写真を撮りました。

12時も過ぎて昼食時間になっています。市街がもうすぐですが、土曜日で市街に行くと

食堂関係は混んでいると思い、昼食をとりました。レストランから出て歩き始めると工事現場の表示があります。何の工事だろうと見ると「川木建設本社新築」20255月完としてあります。昔を思い出しました。八王子営業所にいるときお世話になりました。なんで仕事をいただいていたかと言うと、仕事をまじめにやっていて政治等のしがらみがないから発注するのだと、そんな記憶がよみがえってきました。そんな会社が本社はとっくに建てていると思っていました。調べてみると明治3年の創立でした。まじめの会社はやはり長続きをするのだと改めて感心いたしました。よみがえりながら歩いていると「脇田新町」の大きな信号で、ここで直線道路はおわりました。直角に右に折れて西武新宿線の陸橋を渡り「川越中央署」の前をまた直角に左に折れてすぐに変則五差路の「新宿北」の信号です。橋の下は東武東上線とJR川越線が走っている。この交差点は以前に「旧川越街道」を歩いた時にここで合流しており、信号を渡るのにややこしかった思い出。ここで今日は完了です。

時間が思ったより早かったので、町並みを少し見学して、西武線にて帰宅につきました。

                        第三回完


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平成51123日(水曜日)  天気晴    気温度20 歩行数28,700

米軍横田基地正門(福生駅)〜入間駅

八高線の「東福生駅」で降りました。無人駅で改札口を出て西と東に降りられのですが東に降りのは私一人でした。休日と言うこともありますが・・・

横田基地の正門からスタートです。正門を過ぎると、商店街はなくなり、学校、病院、住宅などすべて米軍基地の施設です。施設の終わりが大きなキリスト教会、隣が「東京出入国在留管理局」があり、ここまでが基地関係の建物で、後は全て日本の建物です。初めの建物が「ドン・キホーテ」で、4階に上がってトイレを済まして、写真を撮った。飛行機は四機ともジェットエンジンが4発付いていた。輸送機だと思います。遠くに民間の飛行機が一機とまっていた。水を購入して歩き始めました。16号線パイパスと旧道(現在は都道166号線)と別れます。パイパスをまたぐことになり進みますと、横田基地とお別れです。来た信号は、新青梅街道との立体交差で上を通ります。左に「八高線」の「箱根ヶ崎駅」を左に見ながら進みますと坂道になってきて交差点の先に鳥居が見えます。「狭山神社」です。休憩ついでに、今日の安全の祈願のお参りを、鳥居をくぐり急な階段を上がるときれいなお社が目に入りました。神の創立年代等不明であるが、往昔は箱根権現とも三社大権現とも称していました(10461050年)に源頼義が奥州征伐の途上立ち寄り、戦勝祈願をしたと伝えられる古い歴史があるとの事。狭山丘陵の西端にあるので名前はここからきているようだが、大きな神社で大阪にもある。これは大阪狭山市にあり名前は大阪との関係はなにもないようです。一休みして道路に戻り坂道を超えると、交差点がありここは「千人同心

日光街道」とクロスしている。以前の「千人同心日光街道」を歩いときはここを横切っていったわけです。交差点の角に案内板が立っていて「狭山神社」の裏山は「狭山()多来里(たくり)(さと) で「カタクリの群生地」になっています。右の小高い丘(山)は「都立野山北・六道山公園」です。坂道を下ったところから、苦手な直線道路が3q余続きます。

途中「狭山平」の交差点で16号パイパスと併合となり。この辺りは前にも歩いた時に気になっていましたが、富士山と言う地名があります。地図には駒形富士山となっています。由来は浅間神社(富士山)をものすごく信仰をする村で、富士山村と名前を付けていた。隣村が駒形村で、明治に合併して、駒形富士山となった。今は瑞穂町の一部となっている。さらに進みますと「二本木」の信号から入間市で「埼玉県」に入ってきました。

真っすぐの道が終わるところが宮寺南の交差点で、日光街道と交わるのですが、日光街道はすぐに左に向かっていきます。次の宮寺の信号を過ぎるとだらだら坂で、上がりきったところ左に、「三井アウトレッドパーク入間」がある。休日なので16号線の上も下りも一車線が500m以上混んでいた。

アウトレッドを通り過ぎると、圏央道のインターチェンジ入り口となります。歩道は地下道になっていて地上にあがってきて、すぐの信号で日光街道と併合します。道路の右側が名門ゴルフ場「武蔵カントリークラブ豊岡コース」です。

遊びの清算をチョコレートで行っていた時代に23回プレーを行ったことがあり、18ホールに108のバンカーがあります。煩悩を払うためと聞いておりましたが・・・18番ホールのショートホールは3番アイアンで打った記憶だけ残っています。

ゴルフ場を通り越すと、国道463号線(パイパス)との交差点になり、横断歩道は全て陸橋になっています。次の信号が(扇町屋南)変則五差路になっています。真っすぐが日光街道で入間市街に入っていきます。日光街道とはここですべてお別れです。16号線は左にカーブしていきます。曲がったところで昼食をとりました。昼食後は、だらだら坂を下り、「霞川」を渡ると今度はちょっときつい登坂。高台に来ると右上に入間市の町並みが見えました。神社があったので入りました。もうすぐ入間駅になるので、無事に歩けた御礼にお賽銭。「高倉氷川神社」創建年代等は不詳ながら、大宮氷川神社遥拝所(ようはいじょ)として創建された。柱は4本だけで建てられているのが珍しい建築だとのことですが・・・「高倉ばやし」が有名で、市の無形民俗文化財に指定されている。神社を出て今度は下り阪。降りたところが国道463号線との交差点の信号を右折れて霞川の橋を渡り坂道を上がったところが入間駅で、今日の歩記は完了。

1

平成5118日(水曜日)  天気 晴    気温22度 歩行数26,900

 

八王子市東町東交差点〜米軍横田基地正門(福生駅)

 

国道16号線を歩くにあたり、少し説明が必要かと?地図が見にくいのですが、右下が八王子駅になります。赤の丸印が「八日町交差点」で出発と最終到着点となります。信号を渡り出発です。ここだけ300mほど国道20号線と併合です。歩き始めるとシンガーソングライターのユーミンこと「荒井(松任谷)由実」の実家の「荒井呉服店」があるのですが

落ち着いたお店でしたがいつのまにか建て替えて3F以上はマンションになっていました。またこの辺り江戸時代は「八幡宿」であったと石碑が立っています。ただ不思議でならないのが新しい時代になって国道が何で鍵型になっているのかです?パイパスができるまでこれが災いしてこの辺り大変の混雑となっていました。八幡町(はちまんちょう)の交差点を右折れして進行です。

「浅川」・「川口川」を渡ると、坂道にさしかかってきますが、稲荷坂と名前がついているようだ。またここが峠になっていて「ひよどり峠」と言っていた。山は「ひよどり山」と言います。山を切り開いているので簡単な峠になっている。峠の頂上に有名なハンバーグ・ステーキ屋「ジョージ」がある。23回来たことがある。ステーキもあるが、やはりハンバーグが良い、格安でとてもおいしい。混んでいるので少し時間をずらしたほうがよいです。

坂道を下りてくると、外車の販売店が3軒ある、「ベンツー」・「ミニクーパー」・一段と大きいのが、「BMWです。八王子では有名な、"家具は村内八王子"とテレビなどで宣伝をしていた「村内家具」があり、ここ が「BMWの販売店でした。「村内家具」の入り口のところに大きな石碑があるので、読んでみますと、ここは「左入城」がった。そうとう広い敷地で「中丸淡路守」の居城であった。この史実を残すために村内家17代当主「村内道昌」が建てたとある。

村内家も何代も続いているので由緒ある家系かと調べてみると、そうでもなさそうだ。戦争で八王子が八割ほど焼けてしまい、学校の机と椅子に目をつけて、製作販売がはじまりとしてある。

ここらあたりを広く土地の購入をして、家具の販売をはじめて財を成した。隣に東京都に認められている「村内美術館」がある。通り過ぎて,八王子インターチェンジの下を潜り抜けます。左側に「新明神社」があるので、今日の1日の安全を願いに階段を登る。1024年の設立で天照大神を祭ってあり、こじんまりしているが(おもむき)のあるお社だ。中には

2基のお神輿が置いてありました。階段を下りて進むと、大きな交差点「左入町」です。国道20号線パイパスと国道16号の別れの信号になる。右方向が横浜方面です。左入の信号を渡ると登坂になる頂上に達したころ「滝山城址」の案内図、この城は八王子城と同じ北条氏の城で八王子城は山城だったが、滝山城は戦国時代には珍しく平城だったと記憶しております。坂を下り始めると左に車検場があり隣には村山家具のBMWのストックヤードです。

坂を下りて行くと右側に高い焼却場の煙突がある。この焼却場は多摩川の西側にあるにもかかわらず、昭島市の焼却場。これが問題を起こしたいわくつきの焼却場です。八王子にしたら大問題。公害があるとすると全て八王子市の負担となるからです。

右に焼却場を見ながら、「拝島橋」を渡りました。この橋は527mあります。多摩川に架かっている橋では一番長いのではないでしょうか?渡り終えて少し進んだところの信号は「旧奥多摩街道」の信号です。「仙人同心日光街道」を歩いた時はここを左に曲がって「拝島大師」に立ち寄りました。今日は拝島大師を左に見て、坂道を上がりきったところが新奥多摩街道と交差します。90度左に折れ、新奥多摩街道と併合です。ここから黙々と歩きました。併合と別れて右斜めに進みます。大きな拝島陸橋を渡るわけですが、青梅線・五日市線・八高線・玉川上水を渡る陸橋なので長い坂道で大変でした。陸橋を渡り終えて坂道を下ると右側は、「米軍横田基地」が始まります。今まで関心がありませんでしたが、BIGモータ」福生店がありましたがここは歩道の植木は関係なかったようです。写真が小さくてよくわかりませんが、国道の右側はすべて基地ですが、軍を対象にした商店街で、その商店街の店をすべて写真で日本語と英語で店の名前を案内しております。前には気が付きませんでした。今回きずきましたが「タトー(刺青)」の店がありまた。流石、横田基地。日本人も来るのでしょうか?基地の正門に来ました。今日はここまでにして福生駅より帰宅しました。

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山手線一周歩記第七回(完)               

林 厚男

第七回

平成51022日(日曜日)  天気 晴    気温19度  歩行数19,500

 

目黒駅(駅番号JY22) 

駅名は目黒駅であるが、住所は品川区大崎である。昔は大崎村に属していたからです。設置場所については、蒸気機関車煙や振動が農作物に悪影響を与えると心配した地元農民の反対運動のため、目黒川沿いに鉄道を建設する当初計画が変こうした。目黒駅が大崎から渋谷までのほぼ直線上になった路線上にあることに着目し、目黒川沿いに鉄道を敷いた場合のコストを考慮した上で路線が計画され、結果的に現在の設置場所に目黒駅が設けられたのではないかとされる。このような経緯から、当駅周辺では落語目黒のさんまに因んで、品川区側と目黒区側の両方で「目黒のさんま祭り」がそれぞれ別の団体によって異なる日に開催されている。通路の天井は「ハロイウィーン」の飾りです。

乗車人員83,770/日(降車客含まず)

目黒駅東口を出て、今日の歩記の出発です。目黒通りぶつかり左に折れて山手線の東側は道がないので橋を渡って左側を歩きます。「伊藤ハム」の本社の前を通り線路沿いに歩きたかったが、工事中で歩けず。「日の丸自動車学校の裏を通り新しくできた大きな「三田橋」を渡り恵比寿ガーデン側にわたります。写真は裏を一度通った日の丸自動車学校(日の丸グループ)のシンボルです。渡ったところの「恵比寿ガーデンプレス」昔は「サッポロビール(エビスビール)」工場の跡地です。大きなタワービルやレトロな建物、「東京都写真美術館」、「サッポロビール本社・記念館」などなどがありました。このビール工場は高校の修学旅行が静岡県・神奈川県・東京であった時、東京での見学に当時「サッポロビール」が予定にあり見学をしたのだが、生徒はオレンジジュースか何かで、先生たちは搾りたてビールであった。今考えると先生たちのための見学であったのではないか。ガーデンの中を通り抜けて、動く歩道「スカイウォーク」が恵比寿ガーデンから恵比寿駅まで続いていて時間短縮になってらくらくと駅に到着です。

 

恵比寿 駅(駅番号JY21) 

ヱビスビールを製造・販売していた日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)の工場がかつて、恵比寿ガーデンプレイスがある場所に存在していた。工場に隣接する山手線上に1901年、ビール出荷専用の貨物駅が開設された。ビールの商標に因み名も「恵比寿」(当初「ゑびす」と表記)と命名される。駅開設当時の地名は「下渋谷」であった。後に、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、1928に駅周辺の地名も「恵比寿通」と名付けられた。駅前の恵比寿神社は、戦後に成立したものである。

乗車人員112,602/日(降車客含まず)

駅の両側に「アレス」の建物ができて、あまりにも様変わりに驚きました。昔は西側口がメインと記憶していまして、「恵比寿銀座」がまだ残っていました。信号を渡り裏通り的な山手線の左側を歩きます。道端に大きな銀杏の木があり、小さな石の観音様があり供え物を

してあって気持ちがほっと致します。線路の向こうに高い煙突があり、渋谷区のごみ焼却場のようですが、こんなところに?都内の副都心のひとつの象徴になってしまっています。豊島区もそうでした。国道246号手前も再開発を行っていて、何ができるのでしょうか?駅の改札口がこちらにも?246号を渡り駅の写真を撮って、ハチ公広場に信号を渡ると今日は日曜日でもあり渋谷を思わせる人、人、で身動きができない30%以上外人でしょう。急いでスクランブル交差点を渡りました。

 

渋谷 駅(駅番号JY20

東京3副都心の一角である渋谷に位置するターミナル駅である。JR私鉄地下鉄など複数の路線が集積しており、多くの郊外の通勤通学利用者が都心方面への乗り換えで当駅を利用する。日本鉄道の駅として開業した1885明治18年)当時は新宿池袋と同様に駅周辺は田園地帯が広がる東京市郊外の田舎の駅に過ぎなかったが、東京市電玉川電鉄(玉電)などの路面電車や私鉄路線が乗り入れるようになり、また東京大都市圏が、拡大発展するにつれて郊外路線の沿線人口が大幅に増加し、東京南西部のターミナル駅として成長してきた。渋谷駅はいろいろの線が乗り入れているため、乗り換えるのに大変だ。床にはそれぞれ乗り換の線を色違いでリードしてくれているが、時間が10分ほどかかる乗り換えには閉口したことがある。

乗車人員 292,631/日(降車客含まず)

                    

りの開発で、渋谷駅がみすぼらしい。改修工事が始まっているようだ。

渋谷を思わせるハチ公の写真では面白くないので、現在をおもわせる写真を撮りました。いろいろ書いた旗がいたるところに、掲げてありました。区長が訴えておりましたが、今日の混雑でもわかりましたが、考えてみるともすごく怖いことだと思う。それともう一つの写真は、ここに来る前も何回かゴーカートで大きな音を立てた集団がありましたが、走っているところで写真を撮れませんでしたが信号で止まった1集団を撮りました。昔、破竹の勢いで渋谷に乗り込んできた西武百貨店(今は東急が新宿の西武駅の前に乗り込んで来た)の前を通り原宿に向かいます。「国立代々木競技場」の前の坂道を登りきります。線路の反対側に「キリンビール本社」があったが、工事を行っているので本社の建て替えかとおもい「水無橋」を渡って行くとマンションの工事です。キリンビールの本社はどこかに移転(中野区役所の隣?)。もとに戻って「五輪橋」を渡り原宿駅に到着。

 

原宿 駅(駅番号JY19

駅名は、開業当時に近隣にあった地名である原宿東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿)から原宿の玄関口であり、駅東側は表参道竹下通りを中心にファッション・ショッピングの街が広がり、若者を中心に賑わいをみせている。一方、西側は明治神宮代々木公園の森林に接している。

乗車人員57,724/日(降車客含まず)

原宿駅は新しくなって初めてです。街中は歩かず、すぐに「神宮橋」を渡り「明治神宮」に何十年ぶりかに入りました。参道は結構な人出です。外人も多く、開放感があるのかマスクをしている人は100人に一人ぐらいです。この御苑は大名加藤家、井伊家の庭園であった。面積は83,000u(約25,000坪)です。第6回の時の三菱グループの「関東閣」がここの約半分になりますが「関東閣」も相当広いことになる。神宮の森は人工的なものであったので林だった。参道の脇は手入れをするが中は手入れなしで100年も過ぎているので現在は森であるとテレビで言っていた。途中に明治天皇製でこんな句の碑あった。

       うつせみの 代々木のしずかにて 都のほかのここちこそすれ

こんな句の碑もあった。

明治天皇製 ちはやふる 神のをしべをうけつぎし 人のここぞただしかりしけり

昭憲皇太后御歌 人ごとの よしきもあしきもこころして きけばわが身のためとこそなれ 

参道の途中に酒樽の奉納があったが、沢山で写真に入りきらなかった。数えはしませんでしたが、150以上はあるでしょう。珍しいのか外人がやたらと写真を撮っていた。最後の鳥居をくぐり抜けて、山門を通りお参りを済ませて、神社横から抜けて初めての代々木入り口に向かう。タクシー観光バスなどはこちらか入っていた。こちらの入り口から入った方がアプローチも長くて広いし「神社本庁」もこちらにある。信号を渡り代々木駅に向かう。だらだら坂を上がると「代々木駅」です。

代々木 駅(駅番号JY18

当駅に近かった代々木村に因む。ただし、当駅所在地は代々木村(駅開業時点は合併して代々幡町)ではなく千駄ヶ谷町であり、在来の代々木地域には含まれない。地元住民にとって代々木といえば、当駅周辺より上原富ケ谷といった地域を指していた。開業当時、「代々木村」に駅がなく(小田急小田原線京王線は開通前)人口が多かった(合併後で7万人)ことが背景と見られる。北隣の新宿駅が度重なる改良工事で当駅方に相次いで延長された。そのため、2016年現在で新宿駅56番線ホーム南端と当駅のホーム北端はわずか100m程度しか離れていない。山手線の運転士にとって新宿駅から代々木駅への進入は、ホームに入ってからもカーブがあり見通しが悪く、アップダウンもあるためブレーキのタイミングが計りづらい、山手線随一の難所ともされた。乗車人員51,096/日(降車客含まず

昼食の時間なので、新宿に着いてからでもと思いましたが、日曜日で大変混雑すると思い代々木で済ますことにして、店に入る。昼食の献立は4種類と決まっているにもかかわらず30分以上待たされた。昼食でこんなに待ったのも初めて、これも勉強か?店を出て新宿駅に向かいます。山野愛子美容学校の前を通りすぎたところに日本理容連合会のビルがありその前に銅像がありました。床屋の前にあって クルクル回っている看板は初めて知りましたが「有平(アルヘイ)棒言う。赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表している。銅像なので色はついておりませんが、片手にハサミを持っている「ちょきちゃん」と言う名前です。

小田急電鉄の踏切に来ました。

この踏切は、ラッシュ時には開かずの踏切となるわけですが、地形的にどうにもならない踏切です。人間は踏切の右手前を階段で上がっていて、陸上歩道(イーストデッキ)になり新宿駅に行けます。「小田急サザンタワー・ホテルセチュリーサザンタワー」・「JR本社ビルなどの前を通り、新宿到着です。

 

新宿 駅(駅番号JY17

東京の副都心新宿に位置するターミナル駅である。1885日本鉄道により当時の南豊島郡角筈村に現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。4年後の1889には南豊島郡「淀橋町となる。この当初は東京市(現在の東京23)には含まれておらず、東京市の郊外として周辺は田畑が広がっていた。開業時から新宿を副都心にする計画が発表されるまでは当駅周辺はまだ街の外れで閑散としており利用客は少ないものだった。1923関東大震災をきっかけに、浅草銀座日本橋といった地盤が弱い下町の繁華街が壊滅的な被害を受け、表層地盤が比較的強い武蔵野台地上の新宿や東京西部の郊外に人口がシフトしていった。次第に東京の市街地が西側(山の手)に拡大するにつれ、東京市西部のターミナル駅として多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、1931には私鉄日本国有鉄道(国鉄)などを合わせた利用者数で日本一になった。

1日平均乗降者数は約353万人(2017年)と世界一ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿駅新宿西口駅まで含めると約377万人(2017年)となり、この数字は横浜市静岡県の人口に匹敵している。

 

7回にて山手線巡りは完了いたしました。今までで一番楽な「歩記」でした。昔の面影が残っている町並み、駅、また大きく変わって町並、駅、開発によってそれぞれの変化に驚きもありました。どこかが発展すれば、どこかが朽ちて行く弱肉強食も致し方のないことでは済まされないかと思います。

山手線巡り歩記完了


山手線一周歩記第六回                

林 厚男

第六回

平成5年10月日(土曜日)  天気 晴   気温23度     歩行数17,700

田町駅〜高輪ゲートウェイ駅〜品川駅〜大崎駅〜五反田駅〜目黒駅

 

田町 駅(駅番号JY27) 

田町という駅名は、三田口(西口)周辺一帯に広がっていたかつての町名からとられたものである。「文政町方書上」によると江戸時代に田畑が町屋へと移り変わったため、田町と呼ばれるようになったという。 明治初期は頭にを付けて「芝田町」と呼ばれていた。海岸に面した細長い範囲の町で、この海岸線に沿った海上防波堤の上に鉄道が敷設された。乗車人員98,213/日(降車客含まず)。

 

55日に第五回を歩いて5カ月ぶりの山手線歩記をいたしました。写真の入り口は西側

(慶応義塾大学側)。写真を撮ってから今まで東口に行ったことがないので、そちらを歩くことといたします。山手線はひかれたときは、東口側は海だったわけです。当時は漁港が線路の内側にあったため、運河が線路の下を走っていたとの事。下に降りて歩き始めると右に「東京工業大学付属化学技術高等学校」あり、その信号を右に曲がったところに説明立札があり説明書きは、大正10年に「東京工芸学校」ができて、我が国のラジオ放送の発想の地である。大正143月に、その図書館から日本で最初のラジオ電波が送り出され、日本放協会は当地に「放送記念碑」を建立した。碑は見ることはできませんでした。

橋を渡って右に「芝浦警察署」を見ながら進むと、山手線の内側の田町駅から品川駅に

かけての大開発に伴いそことの関係する開発が東側も工事が進められており、歩ける道路が分からなくなっており、工事関係者、警備の人、歩いている方等に訊いてやっとこ、大きくて広い「芝浦水再生センター」の平行道路に出ました。「高輪ゲートウェイ駅」はこちらからは工事中でいけませんでしたが西側の大開発のほんの一部が見えましたので写真に撮さめました。しかし都内のほかでもあちこちで大きな開発をしておりますが、入る人、入る会社が限定されるわけですから・・・?私の心配することではなのですが。大開発が済めば、駅の乗り降りは大変な賑わいかと思います。但し、朝と夕方に限定されるかもしれない。再生センターの脇の道路は、再生された後の産物で舗装をしてある説明でしたがとても歩きやすかった。10分も歩かないのにすぐに品川駅についてしまった。

 

高輪ゲートウェイ駅(駅番号JY26) 

JR東日本は2014平成26年)6月3田町駅から約1.3 km品川駅から約0.9 km付近の位置に新駅を建設し、2020東京オリンピックパラリンピック開催にあわせて暫定開業させる計画を発表した新駅設置は、山手線では1971に開業した西日暮里駅以来。(令和2年)3月14ダイヤ改正にあわせて開業した。写真は八十八か所巡りの時のものを使用した。

駅名については、 20186月にJR東日本が行った駅名の公募では64,052件、13,228種類の応募があり1位が「高輪」で応募数は8,398件、2位が「芝浦」で4,265件、3位が「芝浜」で3,497件、4位が「新品川」と「泉岳寺」で同数の2,422件だった。正式駅名に採用された「高輪ゲートウェイ」は130位、応募数は36件であった。                            乗車人員 7,867/日(降車客含まず)

 

品川 駅(駅番号JY25) 

駅名は東海道宿場町である品川宿に由来するが、所在地は品川区ではなく港区である。 駅東側の港南口はもともと戦前からの埋立地として企業の工場や倉庫などが立ち並んでいたような場所だったが、1998に旧国鉄品川駅東口貨物ヤード跡地に品川インターシティと呼ばれる大規模な複合商業ビル群が開業。2003東海道新幹線の品川駅が開業して以降は、再開発により大規模なオフィスビルタワーマンションを中心とした超高層ビル街へと発展し、駅利用者数が大幅に増加した。品川駅の西口側は三田 - 高輪台に跨る台地の裾野に位置する。開業当初、線路は海岸線に沿って建設され、線路よりも東側は海(東京湾)だった。港南側の大部分は明治時代以降に埋め立てにより造成された土地である。日本初の鉄道として知られる新橋 - 横浜間の正式開業は1872年(明治5年)1014日(一般運輸開始は翌15日から)であるが、これに先行して同年612日に品川 - 横浜間で仮開業しており、乗務員の訓練が行われた。

乗車人員 14,794/(降車客含まず)

品川駅の東口の写真を写してから、本来の西口に移動しました。旧来の西口は改造のため

工事が始まっていて、写真は撮れませんで、見納めもできませんでした。信号を渡り大崎駅に向かって進みます。右手は「御殿山」になってきていると思います。右手にある

赤いレンガの大きな高級マンション「ペアシティルネッサンス高輪」は、三浦友和・山口百恵が結婚した当時住んでいたという記憶している。調べたら賃貸マンションでした。

高い石垣に沿って長いだらだら坂を上がりきると写真の「関東閣」の名前の付いた石の門です。長い坂の石垣の中は全て同じ敷地になります。帰って調べましたら、「伊藤博文」の邸宅があり三菱創立者の岩崎家が買い取り岩崎家の高輪別宅であった。11,200坪(約40,000u)ある。岩崎家が三菱に寄贈して、現在は三菱グループの「倶楽部」となっていて、イギリス人の設計で素晴らしい洋館が立っているようだ。許可がなければ入れませんので建物を見ることができませんでした。少し歩いて地図を見ると進んでいる方向が違っていて、左に折れて大崎駅に向かう。この辺りは高級なマンションと高級なビジネスビルばかりです。ソニーの本社などができてから急に伸びてもう昔の面影がありません。駅の南に「安川電機」の大きな工場がありましたが、今はマンションとオフィスビルとなり、駅と改札口が高架になってしまい、駅の周りに商店が殆どありません。

 

大崎 駅(駅番号JY24

島式ホーム48線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。相互直通運転している関係でJR東日本・東京臨海高速鉄道で駅舎・改札内・ホーム・着発線を共用している。 鉄道資産としてはJR東日本・東京臨海高速鉄道の折半所有であり、両社の財産境界は5 - 8番線の途中に設定されている。TWRりんかい線とJR大崎支線が共に記された終点標が設置されている。ただし駅管理はJR東日本が行っており、駅名標など案内サインはJまた、すべての着発線がJR東日本東京圏輸送管理システムの運行管理下にある

乗車人員 103,733/(降車客含まず)

地上駅を下に降りて、電車を頭の上に見て線路伝い五反田駅に向かいます。山手通りの下をくぐって進むとちょっと面白いものがありましたので写真にしました、再開発「セントラルタワー」ビルの脇に立ってるのですが、髭のおじいさんの人形の頭から伸びていて10mはあります。しかしなにも説明書きがないので、どうゆうものかはわかりませんでした。目黒川の橋に出ました。川を渡らずに川の淵を散策しながら、「東急池上線の五反田駅」に着く。東急池上線はここから鎌田駅に行っておりますが、有名な「戸越銀座」はここから乗っていきます。昔、仕事で2〜3回行ったことがありますが、にぎやかな町の印象があります。駅前を通り突き当りが「五反田駅」となります。昔とあまり変わっていないので大崎駅と比べると様変わりですが、消費者の街です。にぎやか差は大崎とは雲泥の差があります。ここで昼食を済ませた。

 

五反田駅 駅(駅番号JY23

1911、官設鉄道が荏原郡大崎町上大崎子の神(現在地)に駅を開設したが、近隣の下大崎の字で、街が形成されつつあった五反田(現在の品川区東五反田一・二丁目の一部)を駅名に採用した。なお、五反田とは「五」を意味する(一反は約992 m2)。

乗車人員48,571/(降車客含まず)

 

食事を済ませて駅前に戻り、目黒に向かいます、ここからは山手線の脇を電車と共に進みます。首都高速目黒線の下をくぐると坂道になりますが、この通りは「花房通り」ですいままで結構歩いてきているので少々きつい。山手線の向こうに、変わった建物が見えますが、「杉野服飾大学」のキャンパスです。私の住んで居るところの百草園山の向こうに杉野幼稚園」と大学のグランドがあります。この大学はどこにあるのかなと思っていましたのがここで解けました。坂を上がりきった右側に40階のマンションが3棟と40階建てのオフィスビルがあり上を見るのに苦労します。突き当りが目黒駅となり今日はここで完了として帰宅致しました。

                             第6回  完了


山手線一周歩記第五回                

林 厚男

第五回

平成555日(金曜日)  天気晴  気温26度   歩行数16,800

東京駅〜有楽町駅〜新橋駅〜浜松町駅〜三田駅

東京 駅(駅番号JY1)

ドイツから招聘(しょうへい)されて、日本の鉄道建設を指導していた技術者フランツ・バルツァーにより駅の位置や規模、構内の配置が決められた。駅舎は繁華街のある東側(現在の八重洲側)ではなく、陸軍の練兵場跡地だった西側(現在の丸の内側)と決まった。皇居の正面と対峙(たいじ)することになり、国家の象徴的な位置付けであった。プラットフォームレンガ積の高架式48線で、新橋駅まで複々線の高架橋が計画された。東側には貨物ヤードが置かれることになった(後に車両基地に変更)。バルツァーは日本風の駅舎を提案していたが、日本側に反対意見が多くバルツァーの構想は実現しなかった。 駅舎は辰野金吾葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった豪壮(ごうそう)華麗(かれい)な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。レンガは埼玉産で施工は大林組だったとの事です。

乗車人員282,638/日(降車客含まず)新幹線乗車員32,080/日(降車客含まず)

東京駅で降りて通路を八重洲口に向かうと食べ物屋が以前よりはるかに多いそれも沢山の店が並んで待っているにはびっくりした。八重洲中央口出ると、前の八重洲口との様変わりにも驚いた。結構な広場になっていてJR高速バスの発着所にもなっています。思いがけないところにも言っている。草津温泉、鹿島神宮、大阪行きなどが待機していた。そんなところを見ながら出発しました。「鍛治町の信号」に来て左手を見ると大きな「ブリヂストン」本社ビルが見えるが、以前は八重洲通りあったと思ったが?信号を渡り右に折れて線路伝いにと思っていくと道がないので戻る。

高速道路の下を進み右に折れて、ガードを潜ると右側は「東京国際フォーラム」の建物。ここは昔「都庁」があったところです。元に戻り線路伝いに進みます。左手に「交通会館」がありますが、昔はビザの申請はみなここに来ました。各県の出先も何県かビルの中にあったと思います 。その隣が「読売新聞」だか読売会館だった。右は「有楽町駅」です 。いろいろ出口があって、どこがメーンの改札口かわからない。

有楽町 駅(駅番号JY30

1950(昭和25年)当時は当駅ホームの駅名標は「いうらくちやう」「ゆうらくちよう」2種類が存在した。今、東京駅地下から発車している「京葉線」もここから乗り継ぎができるようだが、切符の扱いが、ややっこしいらしい。京浜東北線は、1030分頃から1530分頃にすべての列車が快速運転となり当駅を通過する。

乗車人員102,785/日(降車客含まず)

有楽町は色々の思い出があります。昭和33年(高校2〜3生だと思う)「フランク永井」「有楽町であいましょう」が大ヒットした。これは「そごう百貨」が東京進出で宣伝キャンペーンにおけるキャッチフレーズ使用したものです。その後「そごう百貨店」は閉鎖されて今は「ビックカメラ」になっていますが、建物の持ち主は読売新聞のもののようだ。東京に出てきてからどのくらい待ち合わせをしているか休みの日に有楽町まで見に行った記憶がある。地下鉄丸ノ内「銀座駅」は当時「西銀座駅」と言っていた。その後銀座線と一緒に丸ノ内線も「銀座駅」となった。フランク永井の次の歌が「西銀座駅前」でこれも大ヒットした。「君の名は」が大ヒットして風呂屋がその時間がらがらになったと聞いていたが、東京に出てきて見にいったころは、川は埋められて「数寄屋橋の欄干」だけが残っていた記憶があります。現在、名前は「数寄屋橋交差点」の名前と小さな「数寄屋橋公園」が残っている。また当時は写真のごとく昭和8年完成の建物「日劇」があった。右の小さな写真は現在の建物です。中にミユージックホールまであった。有楽町でもその時代にはありましたが私は入っていません。亡くなった俳優の「あき竹城」は、ここの出身と聞いていたが?・・・・

今日はどこまでの目的はなので、並木通りに「長野県ショップチャンネル」があるので行ったがまだオープンになっていなかったので元に戻りましたが、食べ物店の前にはあちこちオープンを待つお客が列を作っているお店が幾つも見受けられた。11時からの様子。

線路と高速道路が並行しているところは歩いています。初めの交差点でガードのあるところに来ます。潜った左が「帝国ホテル」で道路の突き当りが「日比谷公園」となる。

日比谷公園に行くには今まではすべて信号になるわけですが、陸橋を作る計画があり、それには公園の中の樹木を何本か切らねばならない、反対運動が起きているのをテレビでやっていましたが、人間のために良くすることは自然を壊すことになりジレンマになります。高速道路の下はほとんどが居酒屋・レストランを含めたお店街です。この通りは「銀座コリドー通」となっています。銀座と新橋をつなぐ通りと言う意味なのでしょうか?中間あたりに来た時に4050人ほど店の前に並んで待っています。よく見ましたらよくテレビで放送する「銀座美登里寿司店」銀座のはずれになるのですが、美味しくて格安なのでしょう。

通りが終わってすぐに外堀通りの信号を渡ると新橋駅です。駅の中を通り西側のSL広場に出て写真を撮りもとに戻りました。

新橋 駅(駅番号JY29

1872明治5年)に日本初の鉄道路線として初代・新橋駅〜 横浜駅(現・桜木町駅)間が開業し、新橋日本の鉄道発祥の地として知られる。なお、当駅自体は路線開通後の1909に開業したものである。1914本鉄道上野駅まで線路を延伸し中央駅である東京駅が開業するまで、当駅は東海道本線の起点駅として旅客・貨物両方で東京の玄関口であった。1909には、後に現在の新橋駅となる烏森駅(からすもりえき)が開業。当時は現在の山手線に相当する電車専用駅であった。1914大正3年)の東京駅完成により東海道本線の起点が変更され、同時に烏森駅を新橋駅に改称するとともに、初代の新橋駅は汐留駅に改称され、荷物列車貨物列車の専用駅となった。 乗車人員167,406/日(降車客含まず)

東口の正面を通り過ぎ、ユリカモメ駅の前を過ぎると、右手に碑があります。昭和32年に建てたもので、「鉄道唱歌」を作詞した「大和田健樹(たけき)の生誕100周年と鉄道開業85周年に当たる記念碑でした。

そこを過ぎると、汐留駅だったところの再開発の建物が幾つもあります。「日本テレビ」

「凸版印刷本社」・「共同通信本社」などが目に入りました。そこを過ぎて道路の向こうに渡りたいのですが複雑になっていて遠回りしてやっと向う側に。やっと渡ったところの角に

「日比谷神社」があります。新しい建物で小さいがしっかりした神社。帰って調べてみると

歴史の始まりが分からないが、日比谷公園のところにあって、開発のために2〜3ヶ所移動をして平成に入ってやっと此処に落ち着いたとの説明です。線路の左側が歩けないので、右側に移りしばら歩くと坂道を上がって路地はイタリア街となっていて、そこにイタリア風のもの凄い豪華な建物。外壁はすべて石貼りです。JRAのビルで場外馬券売り場を兼ねているようです。名称は「ウインズ汐留」競馬フアンの多額のご寄付?によるものでしょう。豪華な有料の指定席もあるとの事。これも汐留再開発の一つということです。突き当りを左に折れ線路伝いに進みます。線路の向こうに「浜離宮庭園」の一部が見えます。だらだら坂を下ると信号で右に「文化放送」のビルがあり女の子の5人組が歌っていてフアンが大勢声援を送っています。この「文化放送」は四谷の2丁目にあったものがここに移転です。四谷の前の建物がまだ残っています。以前京王電鉄のウオーキング会に文化放送の社員の人がいて見学に来たことがありました。左に行くと「竹芝桟橋」で伊豆諸島、小笠原諸島はここから就航しております。右に行くと芝「増上寺」です。信号を渡ると「浜松町駅」

浜松町 駅(駅番号JY28)     乗車人員96,933/日(降車客含まず)

 大正3年に東京駅が開業し、これに合わせて東京駅を起点とする市街高架線が東海道本線となり、当駅も東海道本線上の駅となった。引き続き近距離の電車のみの停車する駅であった。東京駅開業に合わせて京浜線電車(後の京浜東北線)が運転を開始し、当駅にも停車するようになった。山手線外回り・京浜東北線南行ホームの田町寄りに像がある。名称は小便小僧で、季節によって衣装を変えることで知られる

北口がそもそもメーン改札口であったが、今度変わるのでしょうか?北口を含めた駅前の再開発を行っていて、南口に行くのにあちこち通路が変わったり、通行止めになっていたりで苦労しました。やっと南口の写真を撮り、駅ビルの一階に降りることができた。

歩き始めるとすぐに道が突き当たる。目の前に今に時代に珍しい「網定」と言う船宿です。建物からして古く暖簾の宿であったのでしょう。左が突き当たりでいけませんので

右に進むと第一京浜(国道15線)です。左に進みますと

直ぐに金杉橋で、下は「古川」というようですが、船宿の裏側になり海からの運河になっていて船宿の屋台船やら釣り船が沢山泊まっていた。

線路伝いに歩けなさそうなので第一京浜をそのまま行きすと、「芝4丁目の信号」になり、渡ると大きな再開発の現場です。ここは「三菱重工」本社がありました。完成してからは、管理会社やら出資会社でしょうか?何件かの名前がありましたがやはり主体は三菱重工本社だと思います。敷地の隅に碑を写真にして説明の札が立っていました。

この敷地は、明治維新前夜慶応43月14日陸軍「勝海舟」が江戸100万人を守るため「西郷隆盛」と会見し江戸無欠の開城を取り決めた「勝・西郷会談」薩摩藩の屋敷跡。この蔵屋敷(現在地)の裏は砂浜で当時は薩摩藩から船で来た荷物を陸揚げしていた。明治5年に鉄道が轢かれ、さらに埋め立てられて海までは遠くなった。この付近は最後まで残った海岸線です。有名な落語の「芝浜」の話はこの浜だった。という説明でこの大切な記念碑は必ず残しますとのことです。「森永製菓」の本社ビルの前を通り越すと三田駅です。

八十八ヶ所巡りの時美味しかった記憶があったのでそこで昼食を済ませて、地下鉄三田駅から帰宅をしました。

                      第五回完


山手線一周歩記第4回                

林 厚男

4

平成5420日(曜日)  天気晴  気温25度   歩行数19,795

上野駅〜御徒町駅〜秋葉原駅〜神田駅〜東京駅

 

上野の駅で降りて、改札口に向かう前に懐かしい東北本線や常磐線・信越本線の発着ホームを見に行きましたが、今は使用されていないようでひとっこ一人見られません。昔、集団就職の皆さんの出発点だったわけですが。駅の正面に出まして陸橋に上って懐かしい上野駅舎を久しぶりに見ました。井沢八郎の「あゝ上野駅」の歌が大ヒットしましたが、集団就職の皆さんも、この駅舎を見て、故郷を思い涙したものだったのでしょうか?
昔懐かしい駅舎はそのままですが、この駅舎の乗客はほとんど使用しておりません。陸橋から見ていると、これから乗ろうとしているお客がわずかに見えます。

 

上野駅 駅 (駅番号JY5)

1883明治16年)に日本鉄道の駅として開業。山手線北東部のターミナル駅であり、多数の在来線新幹線地下鉄路線が乗り入れる。かつては鉄道が電化されるまでは皇居付近への乗り入れが認められておらず、また東京市戦前私鉄の都心乗り入れを認めなかったことから、北は上野駅、南は新橋駅、東は両国駅、西は万世橋駅3副都心の駅(新宿駅渋谷駅池袋駅)及び上野駅・浅草駅は郊外へと伸びる路線のターミナル駅として発達した。

乗車員122,085/日(山手線のみ降車客含まず)

 

広い「パンダ橋」を渡って公園口に移ります。次の移動を考えて中方面には入らず、公園入口に向かって移動します。「寛永寺清水観音堂」に今日の安全のお参り。京都の清水観音堂がモデルとなっています。本堂の正面を舞台造りにして、不忍池の景色を眺められるようにつくられています。初めてです。小さい建物ですが結構混んでいたので、何か有名なのでしょうか?西郷ドンの銅像を見て公園の入り口を出ます。

信号を渡り路地を入ると「アメヤ横町」になります。戦後の物がない時代、当時は貴重品だった飴を売る店がガード下に並んだことからアメヤ横丁と呼ばれるようになり、やがて米軍物資や舶来品を売る店が集まってアメリカ横丁とも呼ばれたのが、名前の由来といわれています。今、アメヤはありません。写真は上野からの入り口です。線路伝いアメ横はあります。上野からの入り口からは初めてですので、今までわからなかったのですが、右斜めに同じような商店街がありました。

「上中商店街」(うえちゅん)と言うんだそうです。アメ横は平日ですが結構混んでいて

路地にちょいと入ってみるとシルバ仲間とか、女子会とか何組も、ホルモン焼きとか

もつ煮で朝から一杯やっていて、いいご機嫌のようでした。

昔この方面に仕事で来ると、立ち寄って干し貝柱の崩れているものが安く、良く購入して毎日1年ほど食べて健康診断で、コレステロール値がものすごく上がって医者が不思議がった。これが原因でした。やめたら、半年でもとに戻りました。今は貝柱も高い、1sあたり3〜5万以上していて金(手)が届きません。昔ほどアメ横もあまり安くありません。商店街が終わって信号を渡ると「御徒町駅」です。

 

御徒町 駅 (駅番号JY4)

島式ホーム24線を有する高架駅である。出口は北口と南口の2か所がある(写真は北口)。1番線の東側には、中距離電車が上野東京ラインおよび回送に使用する3本の線路があり、当駅付近で進行目的の線路 に転線するポイントが設置されているため、上野東京ラインは当駅通過ながらも減速して通過している。 2021乗車人員JR東日本管内の駅では武蔵小金井駅に次いで第66位。1993年度をピークに減少傾向にある。

昭和通りを挟んで駅までが貴金属、時計、宝石問屋街となっている(ジュエリータウンおかちまち)。1989(平成元年)頃には御徒町地区だけで1,000社以上もあるといわれていたが、過当競争と景気低迷で数が次第に減り、2000年代に入ってからは半分程度になったということです。 乗車員49,721/日(山手線のみ降車客含まず)一番多かった時の約半分になっている。

 

線路の右側は歩いたことがあったので、左側にガードを通り抜けます。

歩き始めると、道路の右側(山手線のガード下はすべて飲食店です。左側はすべてジュエリーのお店で変わったところではサンゴの専門店がありました。秋葉原のとの中間点に来ますと、飲食店もジュエリー店もなくなってしまったので、左に折れて「昭和通り」に出て、神田松永町に昔お世話になった会社があったので、どうなっているかと?9階建てのビルになっていてほとんどが、テナントになっていました。秋葉原駅の昭和通り口(昔たここが主力だった)に来てみると駅の入り口アプローチは、ほとんど変わりがなかった。

 

秋葉原 駅 (駅番号JY3

秋葉原の名の由来は、元々この地にあって人々が秋葉社(あきばしゃ)と呼んだ神社であり、「秋葉社の原っぱ」が語源である。なお、同社は1890年(明治23年)の駅開設に伴い台東区松が谷3丁目移転されている。駅の西側にある神田明神のお祭りでは駅構内に神輿が巡幸する。また、秋葉社が当駅内に分祀されており、こちらの祭事はJRの駅長が行うことになっている。電気街の形成には、二つの要因があった。一つは終戦直後、近くに位置する現在の東京電機大学の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大盛況となり、ラジオ部品を供給する電器関係の露天商が集中したことである。 

もう一つの要因は卸売業者や二次卸し店が仕入れの目的で多く訪れたことである。その結果、秋葉原は安いという評判が広まり、交通の結節点ということもあって、一般客も集まるようになっていった。乗車人員161,529/日(降車客含まず)

 

「昭和通り口」から電機商店街に移動をしますが、昔、貨物扱であったところだと思いますが駅の北側になります。広場ができて新しく出来た改札口(写真)が秋葉原駅の正面口となっていた。初めてだったので驚きました。

この駅は総武線とクロスしていて昔、乗り換えの際、何回も間違えたことが懐かしい。同じところをグルグル回ってしまって乗り替えに苦労した思い出があります。電機街に来ると、結構な人出があり、「電機オタク」と思われる方が見受けられる。商店街から離れ、神田川に架かる「万世橋」に来ました。橋の向こうに「肉の万世」のビルが見えた。「肉の万世」の本社ビルですが。名前の由来を初めて知った。屋上に「赤い牛と万世の字」が見えます。橋を渡ってビルの前に来ると、9階のビルの5階までがレストランになっていて各階がみな違った料理で、洋食、和食などをやっていて価格はピンからキリまでです。昼食には少し早かったが、こんな機会なので昼食をとることにして5階に上がりました。一人なので窓の外に向かって座りました。眼下に中央線が見えます。存在していた「万世橋駅」のホームがそのまま残っています。神田駅にあまりにも近いので、昭和18年に終了しているようですが。

ステーキは手が出ませんので、中間を頂きました。済ませて玄関を出てビルの左わきに来ますと、テイクアウトとラーメンをやっていましたが、ラーメンに全てステーキが入っていて1000円前後です。

山手線のガードを潜って、左側を歩きます。すぐに神田駅になりした。ガーの下はすべて飲食店になっていいて、ちょうど昼食時期で、サラリーマンの人たちでにぎやか。

秋葉原の商店も同じだったのですが、東京三大祭りの一つである「神田明神祭」が来月あるため、(のぼり)があちらこちらに立っていて、商店の関係の方達は法被(はっぴ)を着ていて、祭りの盛り上げに一役かっています。

 

神田 駅(駅番号JY2

島式ホーム36線を有する高架駅で、東北新幹線東京ラインエスカレーターはホームと北改札との間を連絡するが、ホームと南改札との間には設置されていない。34番線に通じるエスカレーターは1コンコースからそのままホームへと通じている。 改札口は南北に2か所。北改札(秋葉原・御茶ノ水寄り)から東口と北口が、南改札(東京寄り)から西口と南口が利用できる。銀座線への乗り換えは北改札の北口側からとなる。写真は東口。昔、京浜東北線に乗り換えによく利用したが時間がかかる乗り換えだったと思う。また、地下鉄銀座線で浅草方面の乗り換えにも利用した。

線路伝いに進みますと「新常盤橋」信号です。線路伝いに行くのにはは新常盤橋を渡るのですが、渡らずにまっすぐ進み「日本銀行本店」の前を通ります。つい先日「日銀総裁」の交代がありました。「常盤橋」の信号を右に折れて日本橋川に架かる「常盤橋」を渡りますと右手に小さな「常盤公園」がありそこは、江戸城の常盤橋門があった場所。常盤橋門は大手口とも呼ばれ、江戸城外郭の正門として機能し、大番所や番所も備えた警備上重要な門だった。門の周りの石垣が今も残っている。小石川の水戸屋敷を出発する水戸徳川家などが登城する際は、常磐橋を渡りこの常盤橋門を通って江戸城へ向かった。公園の入ったところに渋沢栄一の大きな銅像が建つています。銅像がここに建つ理由は、渋沢栄一が生涯歩んできた道を辿ってみれば見えてくる。攘夷(じょうい)の志に燃え江戸に出てきた渋沢は、ひょんなことから対抗する幕府側の一橋慶喜(一橋家)に仕えることなり、やがて慶喜が十五代将軍となると、今度は幕臣に。つまり、江戸城を守る常盤橋門の場所は銅像が建つ場所としてふさわしいといえる。銅像の目は渋沢栄一の設立した旧「第一銀行」の方角を見ているというのだが?線路伝い戻ると左側「朝日生命」などの跡地の大きな再開発の工事が始まっています。上階はホテルになるのでしょう?

「永代通り」にぶつかり左に曲がり、東京駅に行かず日本橋に用がありそちらに向かう。

東京に来た時には火災で有名な「白木屋百貨店」があって、その後「東急百貨店」が引き継いでいたと思います。どうなっているのか?東急百貨店も店じまいをしていたので・・・

ビルがそのまま空き家になって残っているビルだと思います。その火事は女性店員が10何名もなくなり女性の下着革命火災ともいわれた。ズロースの始まりだった。

日本橋の交差点に来ると、「野村証券」の本社と他に何社かを含めた大規模開発の工事がここも施工中で48階建て、令和8年完成上階はホテルでしょう。

「日本橋高島屋」に孫が務めているので顔を見によったら今日は休みでした。リックサックを背負って、変な爺さんが宝石売り場に現れたので大分警戒をした様で、返事が来るまで時間がかかった。さすが高島屋というのか、今は珍しいエレベータガールが活動をしていた。

店を出て、元の道を戻り東京駅八重洲口に向かいます。鉄鋼ビルの前を通るのですが、以前は2棟あったビルを再開発で1棟に建て替えて、26階建ての大きなビルになっていた。

前のビルは仕事で何回か来ました。広島のゼネコンの「増岡組」の持ち物です。今もほんの一部を使用していて、後はテナント。なんでこんな一等地に広島の業者が?と思ったものです。鉄鋼ビルの向かいでも再開発のビルが工事中だった。

 

東京駅から帰宅。      第四回完 


山手線一周歩記第三回                

林 厚男

第三回

平成5330日(曜日)  天気 晴  気温19度  歩行数20,100

駒込駅〜田端駅〜西日暮里駅〜日暮里駅〜鶯谷駅〜上野駅

前回の時に(りく)()(えん)のちょっと説明を忘れました。五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が綱吉から賜った地に下屋敷を造り、そこに造成した庭園である。通常5月の2030日にかけてのしだれ桜が良いようです。私も2回ほど入りました。秋口と11月に入りましたが紅葉もよかった。

駒込駅を降りて信号を渡ったところに「大国神社」地元の鎮守様でしょう。小さいけどしっかりした神社、前回のアクシデント大事に至らなかったお礼と今日の安全をお願いしました。地図を見ると「染井よしのさく公園」とありますので、寄ってみたくなり「染井通」を歩きます。歩き始めてすぐのところにゴルフガーデンがあり、その庭に見たことのない大木あるので入っていくと「レバノン杉」、区の指定銘木になっていました。 説明版を見ると、ヒマラヤ杉属との事でした。「本郷高・中」を過ぎた右側に公園の案内があるので入っていくと、小さな公園で、染井よし桜を作り出した「こひがんさくら」「大島さくら」が一本ずつあるだけです。どうもおかしいと思い裏の方に廻ってみると広い同じく「染井よしのさく公園」がありました。桜祭りを行っていましたが、もう散り始めていました。公園の前にお寺があったので寄ってみた。「西福寺」というお寺で江戸時代はこの辺りに沢山の「植木屋」があり、その菩提寺となっている。公園と寺の間を通り抜けたところに「門と蔵のある広場」があり、植木で財を成した「丹羽家」の蔵と門がある。写真の蔵は鉄筋工クリートできていて昭和11年築で、国の重要有形文化財に指定れていて、木造の門は東京都の有形文化財に指定されていた。駅に戻り、線路伝いに駅のホームを右下に見て歩きます。坂を下りたところが「駒込銀座通」道路の手前は豊島区ですが、向こう側は北区中里となる。電車のホームも1部は北区に入っています。坂を下りたので電車と平行になり、又、線路と共にだらだら坂になり広い道路に出ます。この道路を右に曲がるとすぐに「山手線」唯一の「踏切」です。なぜここだけ踏切が残ったかと言うと「湘南新宿ライン」(昔は貨物専用線だった)と池袋方面から並行してくるわけですが「湘南新宿ライン」が右側を走っていて、大宮方面に行くので左に曲がっていき、山手線は上野方面に、右に曲がって行くためクロスするからです。山手線がまたいでいます。湘南新宿ラインは下を走っているので橋が架かています。この踏切も2025年にはなくなると少し前にテレビでやっていましたが工事もやっていませんし、車も通れるには何処にどんなものができるのでしょう。写真で線路の向こうに見える白い丸いものは直径4mの「ゴルフボウル」です。            

会社の玄関わきにありました「ライ株式会社」という会社です。調べてみるとゴルフに関した小物を制作している会社でした。練習場のマットとかマーカー・ティーとか言ったもののようです。踏切を渡って内側に入りましたが線路伝いに歩けないので町中を少し歩いて、田端駅に出ました。

 

 田端 駅 (駅番号JY 9

田端駅にて改札口を見るのは初めてです。昔はよく京浜東北線と山手線とのホームにての乗り換えにはよく利用しました。改札は北口と南口の2か所がある。北口は橋上駅舎となっている。2008730日に、人工地盤上に地上3階建ての駅ビル「アトレヴィ田端」が開業している。地理的に発展しようなく、周辺に大きな商店や繁華街がないことを逆手にとり、成城石井TSUTAYAなどのテナントで入っていました、乗降客や乗り換え客をターゲットとした駅ビル運営が行われている。南口は北口とは対照的に小さな駅舎でありますが駅員は常駐しておらず、インターホンで呼び出すようになっている。

乗車員34,916/日(降車客含まず)

「田端ふれあい橋」を渡って外側を歩くつもりでいましたが、右側(内側)の土手の上に桜並木が見えるので階段を上がって土手の上に出ます。南口に行く階段が急で長いので南口で乗り降りに行かれるお客は大変だ。見晴らしがよく幹線の電車がすべて見ることができます。新幹線の見たことのないベージュ色の列車が走っていましたがどこ行きだろうか?だらだら坂を下りましたら西日暮里駅のガード下に出ました。右手の高い山が「道灌山」で太田道灌の城があったところです。八十八か所巡りの際立ち寄ったところです。道路が谷中墓地にまっすぐに繋がっています。今は公園となっています。

 

西日暮里 駅 (駅番号JY 8

1969昭和44年)12月20帝都高速度交通営団(営団地下鉄)千代田線の駅が開業。ただし、国鉄の架道橋改良工事の関係で、ホームは北千住寄りの半分ほどだけ使用していた。1971(昭和46年)3月20:営団千代田線大手町 - 霞ケ関間が開業、これに合わせて当駅もすべての駅施設を使用開始4月20:営団千代田線との乗り換え駅として国鉄の駅が開業。山手線の中では高輪ゲートウェイ駅に次ぐ2番目に新しい駅である。オープン当時の乗り換えは改札口を出て乗り換えたと思います。 乗車人員76,556/日(降車客含まず) 

3年ほど前に東京モノレール舎人(とねり)ライナー」にここで少し歩いて乗りました、「多摩モノレール」に比べる中が狭く低く圧迫感があった。

駅の外側に出て、飲み屋街を通り1キロも歩いたら、「日暮里駅」に着きました。

西口は「谷中銀座」や「谷中墓地」に行くときに利用しましたが、谷中銀座は何回も行っているので今回は省きました。

東口駅前が再開発で綺麗になっていてびっくりでした。駅前に「太田道灌像」と少し離れたところに 「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」 の娘が山吹を抱えた銅像があり、説明札には歌ととともに説明があり、この里伝説はあちらこちらにあり荒川七丁目・新宿区新宿・埼玉県越生町・豊島区高田は八十八か所巡りの時ありました。

南東側には繊維問屋街がある、「せんい通り」となっていて,久しぶりなので少し歩いてみた。女性の洋服の生地屋ばかりです。こども服などは少女もので、既製服でしでした。

だから客はほとんど女性。男が時々見えましたがすべて夫婦であると思いました。

かつては駅前に駄菓子問屋」が並んでいて、全国の駄菓子はほとんどがここからと聞いておりましたが開発で見当たりません。交番で聞いたところ近くの高層ビルの中に入っているとのことでしたが行きませんでした。

 

日暮里 駅 (駅番号JY7

駅の西側には昔ながらの商店街谷中銀座谷中霊園がある。反対に駅の東側では駅前再開発が行われている。日暮里・舎人ライナーの乗り入れに伴う駅前再開発で建設されたサンマークシティがあり、山手線日暮里駅直結の3棟の高層マンションおよび付属施設で構成され、3棟ともに居住・商業施設が一体となっている。

京成電鉄の日暮里駅はJRとの乗り換は、知っている人はほとんどがここで行います。上野が終点ですがJRに乗り換えには結構歩かなければないからです。駅員もここに集中して発着駅の上野にはあまりいないと聞いております。

乗客人員 82,115/日(降車客含まず)

 

昼食を済ませて、次に向けて出発しました。45 分歩いたとところに有名な「羽二重団子本店」がありました。よくテレビには出てきます。お土産にと思って見ると高くて手が出ませんでした。途中から線路伝いの道路を歩けそうなのでそちらに移動。住所は「根岸」となります。確か「海老名家(落語家林家一族)」は根岸だったと思いましたが。

鶯谷 駅 (駅番号JY6)

島式ホーム24線の地上駅である。北側市街地と上野公園を結ぶ陸橋がこれらを跨いでいる[1]。出口は北口と南口の2ヶ所がある。北口は地上駅舎になっていてホームに行くには一段下がって線路の下を潜っていくようだ、南口は橋上駅舎になっていて「上野寛永寺」「国立博物館」方面に行く。駅名の「うぐいす」にあやかって、朝の時間帯にはプラットホーム上のスピーカーから、の鳴き声を流している。

 京浜東北線快速運転時間帯(10 - 15時の間)は全列車が当駅を通過するため、この時間帯に乗り降りできるのは23番線の山手線のみである、今までにこの駅は1回も利用したことはありません。写真は北口です。乗り降りは「高輪ゲートウェイ」ができるまでは乗客が一番少なかった。   乗客人員18,890/日(降車客含まず)

 

駅の手前からラブホテルが多い、駅を過ぎてもラブホテルその前を歩いていると先方から私の顔を見ていてニコニコ笑って近づいてくる。知り合いではないようだが、近づいたらタイ系のすごい美人「お兄さん?遊んでいきませんか?」・・だって、もう用を達成できませんし、遊べる年ではありません。線路わきの道路が突き当たっていて行けなくなり左に折れて進むのですがここも、ものすごいラブホテル。何十軒あるのでしょうか?風俗店がないために治安は案外いいとのことです。

根岸が終わると広い道路に出て、上野駅に向かって進みます。左に「岩倉高校」があります。昔は鉄道学校だったが今は違った学科もあるようです。「岩倉具視」にゆかりがある。

前を通り越して上野駅の入谷口より入り帰宅した。

 

日暮里駅前の 店ですました。店の前に今日の日替わり定食は「?丼」としてあった。見たことのない漢字だったが魚へんは好きなので入った。店員さん「これください」と頼んで何と読むのですかと聞きまました。〇〇ですと教えてくれました。帰ってから調べましたら。漢和辞典にも国語辞典にもなくてパソコンと「漢語林」には載っていました。

                      第三回 完


山手線一周歩記第二回                林 厚男

第二回

平成5228日(水曜日)  天気 晴  気温19度  歩行数18,500 歩

池袋駅〜大塚駅〜巣鴨駅〜駒込駅

池袋の西口から見学です。昭和343月末、母親と東京に出てきて、まず伯母が住んでいた西口に降りて伯母の家に、立教大学の手前でした。大学の手前はまだ空き地が多く西口は当時バラックの飲食店のドヤ街で、伯母の家に遊びに来て夜帰るときは、その中を通るので「田舎ッぺ」には大変怖かった記憶。駅で降りて名前の知れている商店の多い商店街の長い地下道を出たらもう「立教大学」の少し手前だった。「立教大学」の手前には結婚式場、宴会場をやっていた有名な「白雲閣」。戦前は薪、炭など400人もいた燃料屋だったが戦争が終わってこれからは「飲食こそわが仕事」ということで、上諏訪で見つけた240坪の2階建て総檜造り旧豪族御殿を移築。料亭「白雲閣」開業した。昔のところの前に来ましたがどうしてもイメージがわかない、手入れをしていた植木屋さんに聞いた。「あまりにも変わっていてびっくりしたでしょう?」名前は現在「リビエラ東京」。敷地も昔の2倍になっていると言っていた。写真の左が昔の「白雲閣」、右が現在です。西側は今も開発が進んでいて、昔の面影は立教大学を除いて何もありませんでした。地下に入らず表を歩いて駅に向かい、昔駅の北側に東側との地下道があったので行って見ると残っていました。以前は暗くて不気味でしたが現在は大変明るく人通りも多かった。東側に出ると、昔、目の前には「三越百貨店」がありましたが、現在は「山田電機」になっていた。「ビックカメラ」もすぐ近くにある。駅の東南に60階建て「池袋サンシャイン」がありますが、それまでは赤煉瓦の「巣鴨刑務所(拘置所)」だった。その右となりは豊島区役所がありますが、敷地が広かったため区役所と49階建てマンションを建築しマンションの分譲で区役所の建物は無料でできた。と話は聞いております。東京市による最初の区名原案は「池袋区」だった。その後区名案が「目白区」に変更され、その後各所から寄せられた様々な陳情を受け、東京府会に於いて「豊島区」と再変更した。豊島群に属していたことから来ているらしく、豊島区には豊島と名のある町内はありません。駅の正面に向かいますと左が日本で一番長い「西武百貨店」右が「パルコ」ですが私東京に来た時は「丸物百貨店」だった。「丸物百貨店」は新宿?にも店があった記憶です。渋谷新宿に比べると駅前の発展が遅れているようです。何年前もまえからあまり変わらない。

池袋 駅 (駅番号JY 13

山の手エリア3副都心の一つ・池袋に位置するターミナル駅。全体の1日平均の利用者数は約264万人(年間に直すと約96420万人)であり、新宿駅渋谷駅に次いで世界第3の利用者数となっている。各社内の駅の中ではJR東日本は新宿駅に次ぐ第2位、東武・西武・東京メトロは第1位の乗客数である。 埼玉県方面の郊外ベッドタウンを結ぶJRや私鉄路線と、池袋駅から都心方面に伸び山手線地下鉄の通勤・通学客が郊外から都心方面への乗り換えで当駅を利用する。その鉄道交通の利便性の高さから当駅周辺には百貨店ファッションビルといった大型商業施設、多数の飲食店が密集しており、東京でも有数の大規模な繁華街歓楽街が形成されている。俗に言う駅の東に「西武百貨店」がり、西に「東武百貨店」がある。これは電車の駅がそれぞれそうなっているからですが、東に東武百貨店があり、西に西武百貨店があったら、どうなっていたことでしょうか。今度西武百貨店に「ヨドバシカメラ」が入ることが決定しているようで、豊島区長の発言が問題になっていますが。

山手線のみで407,490/日(降車客含まず)

 

信号を渡り山手線に戻り、公園の中を線路を左に見て進みます。

線路の向こうに見えるのは、ごみの焼却所煙突ですが、100メートル以上あるのでは?低い建物には良いのですが、高層のマンションには影響があるのではないでしょうか?

少し歩くと、「六つ又ロータリー」の信号の脇に出ます。

昔は真ん中に緑地帯があって六つ又になっていましたが今はロータリーは存在しておらず、名前だけが残っていました。

線路の右側に道路がないので陸橋を渡り右側に出ます。ここから線路は堀となり、下に見ながら進みます。明治通りの信号までは道路が整備されて、良い道路になっていました。信号を渡ると、ここからは645前と全く変わっていな道路です。自動車がやっと通れる道路で今見てもこんな狭いところを良く車でと思ってしまう。

ここは思い出があって、一つは担当していたお客さんがあって、全くそのままの名前で仕事をいている様子です。も一つはやはり同じ時期の夜、その客さんに寄って帰るときに

一人の人間とすれ違った。ライトの光ではっきりしませんがどうしても似ていると思い降り後を追って話かけた。高校の時の同級生だった。実家を継いでいたのでまさかと思った。

親戚がこの近くで、用事があって上京したとの事でした。大塚駅がすぐそこに見えますが

田舎の同級生が嫁いだ酒屋さんが近くだと聞いていたので、陸橋を渡りそれべきところに行くと、存在していました。彼女は何年か前に亡くなっていましたが、酒屋を営んでいて(休日で休みの様子)上は5階建てのマンションでした。

大塚 駅 (駅番号JY 12

南口からガードを通り北口へ、表はやはり北口です。 山手線の駅は、日本鉄道が当時の目白停車場付近から田端停車場までを短絡する路線を敷設した際に設置された。当初は現在のびっくりガード付近から分岐して田端までを直線的に結ぶ計画だったが2度の変更を経て現在の山手線の経路で着工することになった。工事着工のころは巣鴨村大塚だった。(ビックリガードは前回歩いた時の西武電鉄本社ビルのところの東より西に潜る地下道です)

現在の都電と交差しておりますが、以前は東京都電車の大塚駅前停留場としては、現存する荒川線の他に、春日、上野広小路方面への路線の停留場もあった。ただし、飛鳥山停留場の場合と異なり、現在の荒川線とは線路は繋がっていなかった。

この都電は、八十八か所巡りの時「学習院下駅」から巣鴨の「庚申塚駅」乗ったのですが、急いで乗ったので出口から乗ってしまった様子。前から「パスモ」で降りようとしたら、「お客さん出口は後ろです」運転手さに言われて結果ただ乗りの結果となってしまった。いつか乗る機会がありましたらお支払いをしたいと思います。(一律170円)

戦前は結構な花街であったようです。東京に来た頃はまだ一部残っておりましたが、現在はまったくその気配はありません。第二次世界大戦前はデパート花街もあり賑わっていたため、大塚に地下鉄を乗り入れる計画があったが、大塚駅一帯は低地で、地下鉄を通す技術が難しかったこともあり、実現しなかった。

乗車人員 44,393/日(降車客含まず)

 

駅を離れて次の目的地に行くのですが、その前に独身の時会社の寮がいっぱいになって

寮を追い出されたとき、近くのアパートで1年少しだったか住んでいたことがあったので、うら覚えに行って見たが、変わってしまっていて、見つかりません。

巣鴨警察(大塚の駅前にあるのに)の前を通り脇の道路に出る前に、天満宮の境内で一休み。大塚駅と巣鴨駅の中間点になりますが、道路が整備され広く桜並木になっています。

標識は「巣鴨桜並木通り」となっています。相当の老木ですが、桜の名所になっているのでしょう。国道17号線にぶつかります。突き当りが「巣鴨駅」となります。

 

巣鴨 駅 (駅番号JY 11

 

「巣鴨」の地名の由来はよく分かっていないが、昔はこの地は湿地帯で所々にあった大池にが群生しておりたくさんの巣を作っていたこと、またはが茂る中にあちこちにがあったことから「巣鴨」という地名が生まれたという説がある。

都営地下鉄の三田線が乗り入れ、接続駅となっている。

昔、板橋区の「志村清水町 」に工場と支店がありそこにいて、本社秋葉原があって本社の帰りは、山手線の巣鴨で降りて都電の志村坂上か志村坂下行きに乗って帰った。今この駅はお客の大半がシルバー銀座「巣鴨地蔵通り」ではないかと思います。ここ二年ぐらいに3回も来ていたので、今日はとげぬき地蔵には立ち寄らなかった。国道17号の駅の次の信号が「駕籠町」という信号があり誰でも知っている名前だが今はなくなってしまった。地名もなくなったが学校などその名前で残っている。

乗車人員 56,737/1日(降車客含まず)

 

駅の横手から裏に廻って進みます。先ほどの桜並木が残っている、この辺りは昔の駒込村に入ってきているのではないか。帰ってきて調べて分かったのですがここらあたりは駒込村染井地域になり桜の「染井よしの桜」の生まれたところと分かりました。江戸時代の末期に「こひがんさくら」「おおしまさくら」の交配により生まれた。当時、植木とか盆栽が盛んな地域だった。そんなところからか、豪邸が二軒同じ名字で通りにあった。

広い「染井霊園」が近くにあるようです。次回には「染井よしのさくらの里公園」に立ち寄ります。巣鴨駅と駒込駅はい1qぐらいしかないのではないかすぐに到着しました。

 

駒込 駅 (駅番号JY 10

J地形が傾斜しており、西側が掘割、東側が盛土上にホームがある構造となっている。山手線ホームの最東端は北区中里に位置している。みどりの窓口が営業されていたが廃止され、多機能券売機数機が設置されている。 駅構内の掘割の斜面にあるつつじの植栽が有名で、これにより関東の駅百選にも認定されているとのこと。

乗車人員 37,053/1日(降車客含まず)

山手線二番目に乗客の少ない駅となります。平日の昼間は駅のすぐ近くにある(りく)()(えん)と王子に向かったところの「旧古河庭園」のお客さんが多いかと思います。年寄夫婦が多くみられました。六義園は駅に近い北口が閉鎖になっています。経費の問題でしょうが正面入り口までは距離があって大変だ。経済圏ではないので、乗客は少なく、今後の発展もなさそうなひっそりとした駅前でした。食事をしたいのすでが、あまり食べ物屋がないので巣鴨にでも行って思っていたら、ちょっとしたアクシデントがあり、そこで済ませて帰宅。        第2回完


山手線一周歩記第一回

             林 厚男

暖かくなって来て、又歩記(歩き)たくなってきました。今度は山手線一周をしてみたくなりました。山手線現在は31駅あります。東京駅より上野・田端・池袋駅方面が外回り新橋・品川・渋谷駅方面が内回り、山手線にも駅に番号が付きました。JY記号で、東京駅がJY1で外回りに番号が進みます。

私は昭和34年に東京に出てきて(途中三年間静岡県と長野県)、それぞれの思い出の駅であったり、周辺に思いでの所もあり、記憶していることなど記して、昔を偲んでみたくなりました。1日の歩く距離や駅などを決めずにぶらぶら歩きたいと思っています。そんなことで歩く前に、一寸補足として「小林 旭」のヒット曲で「恋の山手線」という歌がありました。外回りです。「新王久保駅と浜松町駅」は出てきません。歌詞にすることが難しかったのではないかと思います。「西日暮里」も出てきませんが、新しい駅で歌の方が先にできていたからでしょう。

〇・・上野オフィスの かわいい子 声は鶯 谷わたり 日暮里笑った あの笑くぼ

田端ないなア 好きだなア 駒込したことア ぬきにして グッと巣鴨がいかすなアー

〇・・初め大塚 びっくりに デートさそいに 池袋 ところが男が 目白押し

   そこを何とか 連れ出して 高田バー(馬場)で 酔ったとき

   胸の新宿 うちあけた あゝ恋の山手線

〇・・代々木泣くのは およしなさい 原宿ならば 食べなさい 

渋谷顔など いやですわ 顔は恵比寿に かぎります

目黒のさしみか 天ぷらで あたし五反田 いただくわ

〇・・今日はあなたの 月給日 まず大崎は 買い物よ どの品川が いいかしら

   田町が宙に 浮くような 無理な新橋 かけないわ うんと有楽 (ちょう)だいな

   あゝ恋の山手線

〇・・素ッ東京な ことばかり なんだ神田の 無駄使い 僕はいささか 秋葉原

   御徒(町)な 恋だと 云われても 山手花咲く 日も近い

   青くホームの 灯がゆれる あゝ恋の山手線 

第一回

平成5218日(土曜日)  天気 晴 気温 15度 歩行数 17,270

新宿駅〜新大久保駅〜目白駅〜池袋駅

新宿、京王線を降て山手線外回りを逆回(時計回り)り行きます。小田急百貨店の前を通りますが、今は解体中で建て替えです。地下5階地上48階建ての建物が予定されております。上の方はホテルになるのでしょう。新宿の西口に高い建物ができて違った西口になってくと思います。「思い出横丁」に来ますと、こんな朝早くから、観光客がガイドさんの説明を受けておりました。

店も何店舗か営業をしており、客も結構、入っています。通り抜けたとところが「大ガード」です。大ガードでは新宿の歴史の写真展をやっていました。都庁の建築とか,淀橋浄水場、都電とかありました。大ガードを抜けると、「大ガード東」と云う交差点ですが、昔は(つの)(はず)と言って都電がここ始発で飯田橋方面と、四谷を通り銀座から築地に行く都電の発着場でした。住所も角筈だった。西武新宿線の新宿駅が左になり、左に折れて進みますが。右手がパチンコ店で、オープンを待っている人が土曜日であるからか、線路沿いの道路と路地の道路に400人以上はいました。ここは広い道路ができて線路沿い新大久保までできていて驚きました。西武新宿線の駅前に、東急の建物で「東急トレイシャー」?と言うと思いますが一階がバスターミナルで、建物は48回でほとんどがホテルのようです。もうすぐオープンになるようで、新宿で新しい名称になるのでは・・・

「職安通り」の信号を渡り、大久保地域に入ってきました。昔、この辺り一帯は連れ込みホテルでなく、連れ込み旅館がいっぱいありました。ご利用の方もおられたのではないですか?途中で線路をくぐれるガードがありましたので、潜って西側に出ます。商店街を歩くのですが、このところの商店街は東南アジアの国のいたるところの店が並んでいます。面白いものが売っているので買いたいのですが、荷物になってしまうのであきらめる。新大久保駅の前に出ました。

新大久保駅  ( 駅番号JY16

もう60年以上になっておりますが、昔、新大久保駅は木造平屋で、小さな駅でした。今はビルになっていますが改札口は相変わらずで、4つしかありません。改札口を出ると広場はなく、直ぐに歩道で土曜なので改札口がごった返しています。乗客は平成30年がピークで1日平均56,000人(降人客は含まず)JR東日本では「西荻窪駅」に続いて100番目駅。また、平成13126日構内で韓国の留学生が線路に落ちた。乗客を助けようと線路に降り死亡した事故がありました。テレビで今年もお母さんが供養に来られたと放送をしておりました。客転落時における事故防止のための転落検知マットやホームに上がるためのステップがホーム下にセットされました。当駅周辺に日本語学校が多くあり、通学する留学生の利用が多いことなどから、24カ国語で構内放送を流していると言うのですが、ホームに行かないとわからない?新大久保駅目白駅2駅は、山手線では単独駅となっている。ガードを潜って東側に出ますとすぐのところにクレープ屋さんがあり、女性客が並んで待っています。その店で10円パンを打っていますが、どんなパンか見ようとしましたが、中に入れません。東側は朝鮮料理店や韓流(はんりゅう)グッズ店が連なっていて今は東京のコリア・タウンとして有名になってしまった。土曜日で若者が一杯です。                          

前は、線路沿いには車がやっと通れるような道でしたが、大通りになっています。「つつじ通り」の名前がついていました。もう一つ隣の路地は「ロッテ」のガム工場があり、通ると良い香りがしたものです。今は住宅街になっていました。線路沿の道路に昔よくお世話になった社長の会社があって、どうなっているのかなと、近くに来ると、道路拡張でなくなっていた。ラクビーの強豪の「保全高校」右に見ながら、中間点ぐらいのところ来ると新しい広い道路できておりガードを潜りお滝橋の信号で早稲田通りと合流している。諏訪通り言う名前になっている。信号を渡ると「高田馬場」地域に入ってきます。昔、この辺りは泌尿器科の医者が56軒ありましたが、今考えますと、性病の治療医だったのではないか?今はなく、耳鼻咽喉科の医者が一軒ありました。「ビックボックス」を左に見ながら駅の正面に出ます。

高田馬場駅 (駅番号JY15

駅名は赤穂浪士堀部安兵衛高田馬場の決闘1694あったことで知られている高田馬場から、地元では「上戸塚駅」「諏訪之森駅」を希望する声もあったがすでに神奈川県戸塚駅があったので、戸塚で一番有名な高田馬場の名前を駅名にしたという。読み方を「たかたのばば」ではなく「たかだのばば」としたのは、駅が本来の馬場と離れているので、わざと濁らせたという話です。現在、当駅周辺の町名は「高田馬場」と称されているが、これは(昭和50年)の住居表示実施時に、高田馬場駅が所在することに倣って、当駅周辺の町名を「高田馬場」に合わせたものである。実際には、史実の「高田馬場」は、西早稲田三丁目にあったと伝えられ、当駅からは若干の距離がある。西武新宿線の新宿駅でのJR乗り換えは遠いため、この駅が乗り換え、昔から大混雑をする。乗車人員150,734/日(降車客含まず)。

山手線のガードを潜り、山手線から外れます。斜めに商店街を通り神田川の橋の渕に出ました。この辺り一帯は、得意先が高田馬場にあって、学校や会社の建築に何件も携さわってきて今どうなっているか?見てみたかった。富士短期大学、この学校は経理学校だった。神田川の両側に建物がありますが、本校舎はそのまま残っていた。今は「日本富士大学」と言う4年制大学になっていた。キャンパスはほかにあるのでしょう。皆さんもご存じでご家庭にあるかと思いますが、芳香剤や虫除けなどの「エステー」当時は小さな町工場だった。今では全国誰でも知っていて、1部上場もしている会社となっている。その他何社か、みな発展した会社になっていた。ここは第二医薬品とか、指定医薬部外品などの会社が多い、近くに「大正製薬」の本社もあります。

神田川沿いを歩いて線路沿いの道に戻ります。ここからはだらだら坂を左に「学習院大学」の脇に通り、登りきった左が「目白駅」で右手が大学の玄関です。大きな敷地です。目白1丁目がすべて「学習院大学」。目白通りに面したところは、1kmはあるのではないでしょうか?道路の対面これも有名な「川村学園」いまは大学まであるようです。その先には「日本女子大学」、「椿山荘」などがあります。

学習院正面門

目白駅 (駅番号JY14

当駅には山手線電車のみが停車し、それ以外の列車は通過する。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および「東京山手線内」に属している。当駅は「東京山手線内」のJR駅で、中心駅(運賃計算上の基準駅)である東京駅から最も遠い。町の発展は学習院が大きな面積を占めているために発展が望めない。乗車人員 26,325/日(降車客含まず)

昼食をとりたいと思ったが、ほとんどない状態です。陸橋の上から池袋の駅が見えます。この辺り山手線は堀になっています。右側には道がないので上から電車を見ながら左を歩きます。西武池袋線のガードの下に来ました。ここは目白駅と池袋駅の中間点になっていて、昔、車の通れる手動の遮断機付がついていて、踏切番がいた踏切がありました。今でも思い出すと、恐怖だった大変な思いであります。踏切の近くにお得意様があり、反対側には遠回りしなくてすぐに反対側に行けるので時々利用しておりました。踏切に来ると向こうにいる踏切番が、早く渡ってて来いとの指示です。入っていくと丁度中間あたりで車がガス欠になってしまい、右を見ると電車は池袋駅を発車しております。私も慌てましたが、踏切番はもっと慌てました。私はセルで動き、踏切番が二人で車を押して、やっと踏みきりを渡り終えた途端に電車すれすれに通りました。ガス欠の後どうして帰ったかは記憶からは消えております。今は人と自転車が通れる陸橋になっています。陸橋を渡って、西武線と山手線の間を通り「明治通り」に出て池袋駅前に、気候的に暑くて大変疲れたので昼食を済ませて帰宅。           第一回完



千人同心日光街道歩記

第5回    令和3115日(金曜日)

坂戸宿〜高坂宿〜松山宿  天気快晴 温度19度 歩行115q(143q)

 

9時に駅着で東口に降りると北風が強く今日は総て風に逆らって進むことになる。前回の東上線の踏切の手前に進みすぐに踏切を渡って宿場に入る「坂戸宿」。 

坂戸宿は高萩宿から6qほど離れており民家180軒連ねていたと言う。かっては小田原、八王子の二城(八王子城・滝山城)から鉢形、上川厩橋へ往来の源であった。仙人同心の日光への往きの宿場だった。踏切を渡るとすぐに「坂戸神社」があり鳥居をくぐると説明版がありこの神社は(写真がよく見えないが)「9の神様」を祀ってあります。境内でおばさんたちが3人で掃除をしていましたが、順番で毎日掃除をしているとの事でとてもきれいになっています。小さな神社でしたが、町の守り神社で大切にしていることがうかがえました。信号の所に大きな石地蔵があってその向かいが大きな旅籠「角屋」があった。宿場を表すものはこの説明と「本町」と「元町」の町名だけである。それらしき建物が一軒ありましたが窓がアルミサッシになってしまっている。三叉路にぶつかります。ここで宿場は終わりのようだ。右が文化会館でぶつかりが坂戸小学校、そこに道路標が立っていて右は読めませんが「左日光道」になっていて左に進みます。小さな薬師道がありましたが入らず進みます。東上線の陸橋を渡り「溝端町」の信号を右に折れます。溝端公園を右に見ながら進みます。大きな団地があります。此処は「住宅公団北坂戸団地」です。私事ですが50年ほど前になりますか?団地が出来てそのために北坂戸駅が出来きる。駅が近いしと思って申し込みをしたら分譲が当選になってどうしようかと迷ったがキャンセルをしたことを思い出しました。ここに住んでいたらどういう人生だっただろうと考えながら進みました。団地が過ぎてコンビニで水分の補給。道路に戻り進みますと川の土手にぶつかることになります。昔は渡しになっていたのでしょう。右に道路は進み東上線のガードを潜りますとひさしぶりに国道407と合流します。信号を左折れるとすぐに川を渡ります。

川の名前は(おつ)()(がわ)橋は「高坂橋」水源地には高い山がないのに大きな川で橋も長く不思議な気が致しました。渡ると東松山市高坂になります。この辺りは毛塚と言う地名です。又国道と離れ斜め左に旧道に入ります。市民センターを右に見て川を渡ります。用水路となっているようですが川の名                                                  名前は「九十九川」橋の名前は「九十九橋」渡り終えて左奥に公園が見えたので昼まで時間もあるので休むことにして入って行きました。「どんぐり山公園」となっています。此処は古墳です。高さは7~8mはあります。誰だか名前は分かっていないが偉い人の墓だった1600年ぐらい前のものらしい、東松山市内で500基ほどあったが殆どが壊されてしまい保存のためにここを公園にして残したとの説明です。旧道に戻り坂道をあがったところが「高坂宿」になりますが駅入り口を中心に1キロ少しほどの宿場だったらしい。戦国時代に高坂刑部太輔が高坂館を建設した宿場で、江戸時代に入ると川越・児玉往還の馬継場とした。千人同心も高坂宿を通ったことから江戸時代後半から明治にかけて大変にぎやかだった。今は道路も広くして両サイドも広く歩道を作り宿場の面影はなにもありませんでした。宿場を過ぎて坂道を下ると、又、川になります。左下の河川が広いリバーサイドパークになっています。先ほどの川と同じく大きく橋はこちらの方が長いようだ。都幾(とき)(がわ)で橋が「東松山橋」この川も「()(つべ)(がわ)水源は同じ方向になるが続いて大きな川が2つあったことになる。時間があるので右の結構遠くに社の森が見えた。遠回りになるが向かっていきまました社そのものは小さいですが、いわれのある神社のようです。毎年秋祭りに1人立ちの3匹獅子舞で構成が幾つもある。又、洪水があり堤防を作った際2度とないように絵巻を収めた。双方もそれぞれ無形民謡文化財、有形文化財にしてされている。名前は「八幡神社」。安全に歩けたお礼をして駅に向かう。今日はお寺に は寄るべきところがなかった。宿場に入らずに駅に向かいました。東松山の駅舎は高級感あり立派だ。結構なホテルも駅の向かいにあります。駅前で昼食をとり帰路となりました。今日はただひたすらに歩く部分が多く距離の割には疲れました。

     第5回完




第4回    令和31018日(月曜日)

扇町屋宿(入間駅)〜根岸宿〜高萩宿〜坂戸宿(坂戸駅)

天気晴 温度16度 歩行15.3q(20q)

 

入間駅よりYの字信号に戻ります。国道右側にはいります。国道463号になり黒須坂と名前の付いた坂を下る左側に古風で大きな割烹料理店(高そう)

「魚いち」を見ながら進んで、西武線のガードを潜ります。潜ると打って変わって町の姿が一変して何もありません。霞川を渡り黒須地区入ると歩道橋の脇に古い建物がある。歩道橋を渡り見に行くと説明書きには明治42年に「黒須銀行本店」として建てられ「渋沢 栄一」から「道徳銀行」の名を与えられ成績を伸ばしたが第一次世界大戦の不況にて武州銀行と合併して、その後昭和18年に埼玉銀行(現在埼玉りそな銀行)の豊岡支店となり昭和35年まで営業をしていた。銀行からの寄付により現在は入間市の指定有形文化財となっている。路地を挟んだ隣が創業200年を超えている「繁田醤油」と言う歴史をしのぶ醤油屋さん。戦前は貴族等も訪れたと言う老舗。製品は「亀甲(きっこう)()」と言う。門から中を覗いてみたが、中は静かで製造をしているのかなと思う感じでした。この道路の向かいにはここも老舗と思える建物で昔は大きな酒の販売をしていたのだろうか?現在は生ビールのタル(アルミ製)が山ほど積んであります。

そんな街並みを見ながら進むと入間川になり結構長い橋を渡ります。渡ると狭山市に入ります。渡ったすぐの信号を国道と離れ旧道は右斜めに進みますと、この辺りから「根岸宿」になります。民家が30軒予、旅籠がなかった小さな宿場だったようだ。

中ほどに来たところに「明光寺」と言うお寺があり入り口の所に大きな石碑で「奉安(ほうあん)(いい)(ずな)大権現高尾山主張所」高尾山が本山になるのだろうか?明光上人が962年に開山との事です。参道を入って行くと途中が寺の経営の幼稚園があり、指定文化財がある様なので見たいと思い門を潜ろうとするとじいさんばあさんが境内一杯になり太極拳をやっていて引き返す。道路に出た向かいが宿場の問屋を勤めた久下家がある。門の脇に「日光脇循環」の標柱があつた。先に進むと四ッ角があり左に行くと飯能市に右に行くと川越市になるようだ。角に和菓子と焼団子のお店あり大きな看板に平安神宮、明治神宮献上「銘菓石森」としてある。街道筋なので当時は結構有名であっただろう。焼き団子を食べたかったが朝まだ早く食すことが出来なかった。

団子屋を過ぎると宿場も終わり、国道407と合流します。なだらかな金山坂を登りきると目の前が開けた。ここからは右手一体狭山工業団地になっていて小岩井牛乳の大きな工場などを見ながら進みますが、工業団地の中では何軒も工事のタワーが立っていて先の見通しを建て景気のいい会社の工場でしょう。

圏央道の狭山日高インターが近いためインターに入るところの信号の所で大きなショッピングセンターが建設中、その信号の脇にお地蔵さんが寂しくぽつんと・・・・・

快晴で温度は低いのですが水分のため一休みと思って歩いているのですがコンビニが一つも見当たりません。この信号を過ぎたところから「日高市」に入りました。日高市と言いますと巾着田公園の彼岸花(曼殊沙華)が有名ですが今年も中止との事でした。ただ中止だとお客が来てしまうので全部刈り取ったとのニュースをテレビか何かで見ました。圏央道を潜り坂道をあがったところにようやくコンビニに、トイレと水分補給と足の小指のケアーと。今日は距離があるので休みを少しで出発です。鎌倉街道と言う信号から杉並木です。並木の右は「日高カントリークラブ」昔2回ほど来たことがあります。途中に日光街道の杉並木保存の案内板がありましたが、ここの並木は杉が一部残っているだけでヒノキ並木になってしまっている。中には相当太いものもあります。丁度1`ほどゴルフ場と並木の間を歩いたでしょうか並木が終わったところが高萩の信号です。ここから又国道とはなれ左斜めに旧道に入ります。高萩宿になってきます。

高萩宿、交通の要衝であったため後北条氏は新宿を定め市も許可をし、戸数40軒もあった。戦国時代に開かれた宿場がそのまま江戸時代に引き継がれたと言われている。

まず宿場の初めがお寺の(こく)雲寺(うんじ)山門をくぐると左右が寺経営の幼稚園。1643年建創とあるが本堂も山門も立て替えて新しい、本堂の所に立派な鐘楼があるが建てたばかりのようだ。調べてみると、これと言ったいわれはないが、生越(おごせ)にある「龍穏寺」の末寺あることだけわかっている。隣に神社仏閣が一緒で「高萩神社」あったが裏になるのでお参りはしなかった。又、寺の入り口の所に「高麗神社の」案内があったので向かったがそれらしものが見えないの通りに戻った。坂道を下ったところが大きな信号の交差点になっているがこの辺りが高萩宿の中心だったようだ。宿場を思わせる建物等は何もありませんが、JR川越線のガードを潜ってすぐ右側に「金比羅大権現」の大きな石の碑が立っていてその隣に宿場の説明板がありました。戦国時代に開かれ宿場江戸時代と引き継がれていったが、旅籠は2〜3あっただけで本陣もなく大名関係は使用しなかった。問屋が2軒あり継中宿として利用されていて無料で中継ぎを強い

られいて貧乏な宿場だった。説明板の右半分は、地元に大変貢献をした「清水吉右衛門万次郎)」の説明。任侠のところあり「清水の次郎長」と結構深い関係であった。

読み終わって進みますと古風な建物明治13年に建てられて少し手を加えてあるとの説明ですが、ほとんどがそのままの状態で残っている。これは明治11年に「犬竹権次郎」が「七等郵便取扱役」辞令を受けて創設した「郵便局」。配達も南は川越し北は坂戸市までを受け持っていた。左の建物は大竹家です。初めは「高萩郵便局」だったが昭和33年に「日高郵便局」となり入り口の上にはそのままになっていた。

進みますと国道と合流いたします。ここからまた日光街道杉並木になります。杉並木の中に歩道を作って有るので自動車の関係の事は心配ない気持ちよく歩く事が出来きます。この並木は前と違って杉の木が結構残っています。1`ぐらい歩いたところに「日光街道」の標識が立っていて左にはここより「鶴ヶ島市」の標識です。昼時になっていて空腹感が出てきました。もう並木も終わりに近いかな?思っていましたが、なんと2`以上歩く結果になりました。

鶴ヶ島市に入てから、街道の両側にお茶畑が見受けられました。沿道にお茶園の看板が幾つもありましたので結構栽培しているようだ、ここに来ても品名は「狭山茶」となっていた。「高倉天神」の大きな信号に来たところで、旧道と国道が分かれます。国道側に何軒か食べ物店があり昼食を済ませて、旧道を歩きます。杉並木はまだ旧道の方に続いており急に桜並木となる。鶴ヶ島中学校の門の隣に案内板があり、戦後この辺り台風により殆どが倒れてしまい、見かねた「川上庄作」と言う人物が私財にて植樹した。

もう結構な老木になっていますが、春には桜祭りが行われる。右手に庚申塔と馬頭観音

塔を見ながら(すね)(おり)(さい)道木(どうぎ)の信号に来ました。面白い名前ですが名前の意味は分かりません。(すね)(おり)と言う町名あります。川越街道との交差点に道標が立っていて、4方の行き先の案内を書いてあるが読めません。重要な交差点であったことを示しているかと思います。少し進んだところに、小さな公園があってそこに大きな石の碑が立っているので入って見ると「田中省翁頌徳碑」と大きな字で書は「高橋 是清」としてあります。裏に説明を彫ってあるが全然読めません。田中省・・・・なる人物はどんな人物か請う?

お寺の山門が右手の奥に見えましたが、結構入っているので、取りやめとしました。

「善能寺」と言うお寺でした。すぐに神社があり今日の最後になりそうなので入りました。(しら)(ひげ)」奈良時代の創設で、旧埼玉入間郡に20数社あった。そいえば来る途中2~3か所小さな社がありました。神域がこの辺り七ヶ村の総鎮守である。

四年に一度行われる国選択無形民俗文化財脚折雨乞(すねおりあかごい)。巨大龍神を作って神社で入魂されて、渡御(とぎょ)に向う。案内板を見ると案内と共に写真がありますが、巨大な龍で何百人かで担いでいます。神社の裏に県の天然記念物で、九百余年の「楠木の大木」があります。周りが7mで高さ17m35mあったが台風で折れてしまい一部の枝が残っている。枝がないので大木が立っていて、少々威圧感がありました。

神社を出て目的の坂戸駅に向かいます。関越自動車道を潜ります。全国展開している「餃子の満州」の店があり、隣に工場があり駅にも店がある。餃子の「王将」と同じで

関西系かと思い調べてみたら本社は川越市だった。京王線聖跡桜ヶ丘駅のそばにも店があり何回か利用していました。東武電車の川越線の踏切を渡ると「坂戸宿」(坂戸宿の事は次回)に入ってきました。東武東上線の踏切の手前を右に折れて坂戸駅に着きました。立派な大きな駅でびっくりしました。

この先の小川駅発の急行に乗りましたが、これが新宿を通り渋谷から東急東横線に入り横浜の元町まで行ける。一つも乗り換えなしで、座ったまんまでこれまたびっくり!でした。           

 第四回完

 





第三回    令和3年6月1日(火曜日)

箱根ヶ崎宿〜二本木宿〜扇町屋宿(入間駅)天気晴 温度25度 歩行12q(155q)

 

箱根ヶ崎駅を降り、旧16号(都道166号)を渡り横町を抜け「千人同心日光街道」に出ました。ここはもう昔の宿場になります。宿場の中心が旧青梅街道との交差点になります。どちらからも交通のかなめと大変賑わった宿場だった。江戸時代後期には商品の輸送も増え、日光参拝や、富士講、御岳(みたけ)講などで旅籠が軒を並べていた。交差点の角に明治5年創業の「漢方曾田」と言う漢方の薬屋さんと、土蔵を構えた「関谷」の表札の架かった大きな屋敷が4~5軒あり、これらが当時の宿場を思わせるにとどまっています。           

残堀川の大橋を渡り、右に庚申塚とお地蔵さんを見ながらだらだら坂を上がって下ったとこの信号が都道166号(旧国道16号)渡った所の左に都立「野山北六道山公園」カタクリの里の案内、春先に来ればカタクリの花が見られるのではないか?

そこから間もなくして左側に「耕心館」と言う建物がある。周囲を堀でめぐらし豪壮な母屋と2棟の土蔵からなる邸宅は屋敷森に囲まれた武蔵野の旧家の佇まい。当地の豪農で醤油醸造を営んでいた細矢家の邸宅、瑞穂町が買い取り少し改良を加えて社会教育として、日ごろ忙しさに追われている事を忘れて、ゆったりした気持ちで、工芸・美術・音楽など教養を高めるための施設ですと説明してありました。食事もできるようになっていた。

この建物の隣は建築されたばかりの、ゆったりとした「瑞穂町郷土資料館」がありました

過ぎたあたりから両側茶畑があります。瑞穂町でも「狭山茶」を結構栽培を生産しているようだ。街道を進むと新国道16号の信号に来ました。車の往来が激しいので歩道橋です。信号名は「富士山」です。歩道橋の上からは富士山が見えるのだと思いますが今日はあいにく、雲がかかっていて見えませんでした。昔は下からも見えたのでしょう。この辺り一帯は「瑞穂町駒形富士山」と言う町名です。すぐに「元狭山神社」の鳥居がありましたので入って行く石段をあがったところが「元狭山神社」。神社由来の案内に、埼玉県入間郡狭山村の四つ神社を大正7年に合祀したとある。当時此処は埼玉県だったのか(現在は瑞穂町二本木になる)また新しい神社ですが、能の舞台がありました。

此処を過ぎると「二本木宿」になってくる。二本木宿は千人同心日光街道が出来てから成立した宿場です。青梅市から川越市に至る新河岸街道が合流したので当時は大変賑わった宿場場だった。

ややこしいので説明しておきますと、住所的に「瑞穂町二本木」と「入間市二本木」があ

る。初めの十字路の信号が瑞穂町二本木、約300m先のTの字信号が入間二本木信号でこちらが合流地点なります。その間に埼玉県入間市の標識が立っています、土蔵を構えた豪邸が何軒かある。これが宿場を示しているだけです。右に折れていきますが角に1744年に建てた標識がある。日光脇往還と青梅か新河岸に至る河岸街道との合流点に建てられた道標で「左 大山 八王子」「右 青梅」とあります。少し歩いたところの農家の庭に小さな小屋があるので、ちょいとお邪魔をするとそれは懐かしき「つるべ井戸」蓋をしてあるので中は見られませんでしたが小屋には滑車が残してありました。

信号のある交差点に来て、案内板に左に「二本木神社」右に「寿昌寺」とありましたが神社は500mぐらいありそうなので200mぐらい入っているお寺の方に行きました。本堂はたいした建物ではないのですが、観音堂が立派な建物で中には本尊で重要文化財の「木造観音菩薩立像」が祀ってあるのですが見られないようにしてありました。街道に戻ります。道路の向こう側に何かあるので渡ってみますと説明書きが何もありませんが、珍しい木造の「常夜灯」です。あちこち街道を歩いてまいりましたが。木造の常夜灯ははじめてでした。保存に勤めていてくれることがありがたいことです。                      

進んできますと国道16号と合流の信号になるのですが、街道は信号を渡らずに右斜めに行きますと大きな公園を兼ねた「入間市博物館」今日は結構蒸し暑いので公園に入って木陰で一休み。だらだら坂をあがったところが狭山小学校で、この先が左一体工業団地と

右一帯が住宅街で、それにより街道がなくなっています。仕方がないので国道16号に出る道を選びました。住宅街を歩いているとき今回も珍しい苗字の表札がありましたので記します「北古味(きたこみ)」調べてみると全国で60人ぐらいとの事です。

国道16号に出ますと、入間インターチェンジ入り口の一つ手前の信号でした。インターチェンジの入り口の歩道は地下道になっていてそこを渡りました。出たあたりは名前のしれた食べ物屋が並んでいます。16号は右にカーブしています、曲がりきっと所の右側は「武蔵CC豊岡コース」の入り口です。名門コースで50年ほど前2回ほど行いました。除夜の鐘と同じで108個のバンカーがると記憶しております。

直ぐに小谷田(こやだ)の信号」です。大きな信号で歩行は総て大きな歩道橋を渡ることになります。この信号は右に国道463号で越谷まで(どちらが起点?)、左が国道299号です。

これは此処が起点で秩父から長野県の佐久に出て八ヶ岳の山麓を越えて茅野市までです。

この国道は佐久に抜ける峠はものすごい所を通ります。一度お試しを如何でしょうか?

歩道橋を渡ると又すぐに大きな「扇町屋南」の信号」変則五差路になっていて、16号線は左にカーブして行きます。日光街道は信号を渡り「扇町屋宿」へと入って行きます。

「扇町屋宿」650mほどあり90軒近くもの宿があった。千人同心は、この扇町屋で

往きは昼食を取り(八王子から歩いて昼には着いていた)日光の帰りは宿泊をした。

地名の由来は「愛宕神社」の神体が五本骨の扇であることかこの名前になったとのこと。

初めに目に入って来たのがこの建物で他にも宿場を思わせるものが23あったが説明もなければ、商売もやっていないのでわからなかった。但し昔の宿場なので酒屋、米屋、呉服屋等、専門店で商売をしていた。建物は新しいが長い間商売をしている暖簾の雰囲気があった。そんな暖簾に交じって近代的な店で香り売っている専門も見受けられました。

次は「長泉寺」に入りました。門をくぐった右側に「道元」の銅像があり、寺としては珍しく大黒様を祭ってあり山門の所は寺の名前でなく「大黒天」となっている。曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦如来像。甲子(きのえね)様と親しまれ、遠方の人たちからも商売繁盛、家内繁栄の大黒様を安置する寺としてあつく信仰されている。今度は「愛宕神社」に入りました。                                                           

多くの古木に囲まれた神社。南朝の忠臣新田(にった)(よし)(おき)が多摩川の「矢口の渡し」で従者13人と共に謀殺され、1361年に従者と共に霊を祀った。1の鳥居も2の鳥居も石でできている。初代首塚の松が伊勢湾台風で枯れてしまったが株の所を保存してありました。鳥居の脇にはお祭りの際に引く屋台も保管してある。また階段に上がるわきには、ここに立ち寄ったとは書いてないが、「松尾芭蕉」の句の碑がありました。

街道に戻り先に進むと道路はY字路となりこの豊岡の交差点で宿場は終わりでしょう。

街道はYの字の左に行くのですが、今日はこれで終わりなので右に行きます。次回はこの交差点まで戻ってくることになります。駅までの街並みはビルも沢山あり、人でも結構あります。手前で昼食を済ませて駅に行きましたが、駅が町並みの隅にあり駅の向こう何もありません。宿場に出来た街だからと言うことでしょうか?入間市の思い出は50年ぐらい前と思います。自衛隊の入間基地に航空ショーを見に来てインパレスに感激をしました。

1つ前の「稲荷山公園駅」でした。        

第三回完  


第二回    令和352日(日曜日)

拝島宿(拝島駅)〜箱根ヶ崎宿  天気晴 温度23度 歩行8q(11.5q)

 

拝島駅の北口出ました。この拝島駅は一部福生市なっていて北口は福生市になります。

出てきたところが日光街道です。歩き始めてすぐに橋になりますが「日光橋」です。明治24年に近代的な技術を用いて作られたレンガアーチ橋で時代の流れで昭和25年に前の橋は残して両端をコンクリート足して車が通れるようにした。この橋は国内に現存する最古の道路レンガアーチ橋との説明。下を流れているのは「玉川用水」です。橋を渡ると直ぐの信号が複雑になっている。国道16号五日市街道、日光街道、わらうけ街道が交差している。

光街道は斜め前ですぐに横田基地に阻まれている。要する基地の中を通っていて箱根ヶ崎まで切断状態です。16号を歩く事になりますが、信号を渡ると左斜めに「わらうけ街道」の標識が出ている。16号と並行しているのでそちらを歩いて見ることにした。結構広い道路であるがほとんど車も人も通らない(日曜日だからか?)ところどころに「わらうけ街道」の標識があるが何もありません。多分日光街道から分かれて当時地元では重要な道路であったのだろう。八高線の東福生駅のあたりで終わっているので16号に出ました。出たところ道路の右側は総て「横田基地」です。

店は急に外人向けの商店街となります左が各店の案内図で、右が基地の正面玄関です。

土曜日(日本は日曜日)なので正面の出入りは少ないようです。

何の用事で入ったか忘れましたが昔、一回誰かに連れていかれて中に入ったことがありました。立川の基地と統一されて、そちらにあった住宅も総てこちらに移りその住宅を見に行ったような気が致します。正門を通り越していきますと、左側一帯が米軍ハウスです。住宅(基地の中にもある)とか学校とかの施設もこちらになっている。ここで働く方の出入りは12ゲートを利用しておるようです。米軍ハウスはこの12ゲートから真っすぐ入る様になっていて、ハウスからの出口には逆に入れないように車がパンクする仕掛けをしてあり、日本語でも書いてあります「車がパンクします」と、出るときは其の装置が倒れるようになっていました。

少し歩いたところに「ドンキホーテ」の派手な4回建ての店があり免税品も扱っているようで、中を見ながらトイレを借りることにしました。

トイレがある4階に上がると休憩所がありそこから基地の中がすべて見渡せました。

目の下の所に「アトラス航空」のジャンボ機(727型)が一機、「ハワイ航空」787型が一機駐機しております。多分旅行で貸し切りでしょう。乗客はどうなっているかわかりません。軍の飛行機は(オスプレイ?)56機滑走路の奥に見えるだけです。あまりにも少ないのに驚きです。アトラス航空のジャンボ機が動き出したので見ていると飛び立っていきました。ドン・キホーテの中を少し見ましたが安いのにびっくりしました。アイスキャンデーを買っただけですが半値でした。

16号に出て少し歩くと後ろで大きな音がするので振り返ると、ハワイアン航空の飛行機も飛び立っていきました。左に都営住宅を見ながら進むと16号線はパイパスとなって地下に入って行きます。旧道16号(今は都道166号)は新道16号をまたぐ形で飛行場の脇を進みます。横田基地が終わると同時に大きな6差路の交差点です。新青梅街道の交差点を渡ります。

日光街道は200m右に行ったところですが今日は箱根ヶ崎駅で終わりなのでこのまま進みます。右に神社があるので入ると「加藤神社」となっている。説明によると、武田氏の滅亡後、その家臣の「加藤丹後守影忠」は妻子と数名の家来を連れて当地まで来たが

入間郡に入れずにこの地で果てた。村民が哀れみ塚を築き「加藤八幡宮」として神社を

建立した。石塔が4基有るが上野原の加藤氏の跡継ぎが立てたとの事。神社の墓なので笠が付(神社の屋根を表しています。神社を出てすぐに駅からの信号になりますが、昼食を取りたいので「箱根ヶ崎の信号」まで進みます。この交差点は旧青梅街道との交差点で16号パイパスが出来るまではものすごい渋滞で何十分もかかったものでした。角に食堂がありましが隣が大きなお寺「円福寺」次回時間がかかると思うので今日の終わりにと思って入りました。山門をくぐると目の前に大きな総欅造仁王門、写真では見えませんが一刀彫の大きな仁王様が両側に、まだ新しい感じが致しました。1573年に建創、江戸時代には寺領11石の御朱印を拝領下の事なので、権威はあったのでしょう。立派な鐘楼もありました。

裏の墓地も段々になっていて広い墓地でした。見学の後ゆっくりと昼食の時間を取りました。今日は交通の関係で距離を余り歩いておりませんがこれで終わりです。

                                  第二回完



第一回     令和3426日(月曜日)

八王子宿(千人町)〜拝島宿(拝島駅) 天気晴 温度19 歩行 13.5q(18q)

出発前に千人同心について簡単に、山梨の武田家の滅亡により徳川家康が管理することになる。その時に残党がいてその人間を八王子に移し同心を作り日光東照宮の火番をさせたり、江戸城の防衛に当たらした。初めは10人だったのが1000人までになった。江戸城の大手門を入って行くと「同心番所」、「100人番所」など残っている。江戸時代の終わりと共になくなった。八王子にまだその名残が「千人町」として残っている今の西八王子駅の周りとなる。千人同心の事をよく知りたい方は、インターネットに詳しく載っていますのでそちらにて。甲州街道(国道20号)の千人町の信号を出発点といたします。

この信号の路地に「馬場横丁」碑が立って居ましが横町の先に同心の「馬場」があったとの説明です。この20号線は追分の信号から高尾まで銀杏並木で秋は銀杏拾いが恒例に行われます。歩き初めたとき、マンションの建築反対の旗が何本も立っています。張り紙も沢山あり、貼り紙にはこんな言葉が「お金は一時、日陰は一生」ちょっと笑えました。その隣が「了法寺」と言うお寺があって看板がキャラクターなどの派手な絵になっております。何か宣伝のためかと思いますが、お寺さんも色々工夫が必要になってきた時代を感じます。

 少し歩くと「追分の信号」です。交番の脇に道標が立っていて「右安木道(陣馬街道)」「左甲州道中高尾山道」と刻んである。そのわきには大きな碑が立ってあり「千人同心屋敷跡記念碑」とある。そのわきには1000人同心の細かい説明が記してあります。真っすぐ行くと20号線パイパスで、右に曲がります。この辺りが「八王子宿」であった。蔵が一棟、お店が一棟(今は商いはしていない)宿場の名残があった。八幡町の交差点に行く前に勤めていた会社の八王営業所に勤めていて今どうなっているだろうと見に行きました。隣が、八王子でも名の知れた「耳鼻咽喉科」の医者でしたが、どちらももろともナシ、マンションの駐車場になっている感じでしただけ。八幡町の信号を左に曲がり国道16号線となります。国道20号パイパスの信号を渡ると寺で「宝樹寺」「稲荷神社」、神社仏閣一緒になっていて神社の敷地に山車の格納庫がある。どちらも地元では非常に大切なものであることが分かる。

お寺は「時宗」になっていて珍しいので覚えていますが、箱根駅伝を歩いた時に

藤沢市に「遊行寺」という本山があったことを思い出しました。

境内を出て少し歩いたら道路の向こうにお寺がるので又かと思ったが山門が立派なので道路を渡る。浄土宗「極楽寺」なている。山門の扉には葵の大きな御紋が付いてる。徳川に関係があるだろうし、敷地が大きいし本堂も大きいので入りたいのだが門が閉まっている右も左も入ると事だがない入れるところは裏側になっているのだろう。諦めて浅川の「浅川橋」を渡りました。16号線もこの辺り、パイパスが出来るまで昔は連日ものすごく混んでいたものです。今は道もガラガラで道も倍の広さ、やることが逆だ。坂道になってきました。稲荷坂となります。途中から右に入り日光街道です。坂の途中の「ひよどり公園」で一休み。坂道を上がった右側が「うかい鳥山グループ」の「うかい鳥山停(ステーキハウス)」です。私個人的なことですが、40何年か前の話になります。あるメーカーの入社2~3年の社員の方に会社の稟議が下りたので接待を受けてくださいと言われ、真面目な青年でしたので快く受けました。その青年はいまだに友好を続けております。人格の備わった人は何年過っても忘れないものです。そんな思い出がありましたが、ここはおいそれと行けるところではありません。うかい鳥山亭を過ぎたところに「グランドヒルズ八王子クラブ」言う高級な建物があったが調べたがよくわからない。何か高級なクラブで我々庶民には関係がないような気がした。あちこちにある様だが・・・・・

左に「ひよどり中学校」を見て、左が都立「小宮公園」を見て進みます。公園の向こう側はまだ見に行ったことはありませんが「北島三郎」1500坪の敷地だと聞いております。そこを過ぎると左にカーブして急坂を下りると中高速道の真上に着きます。道路では丁度覆面パトカーに一台の乗用車が捕まったとこでした。橋を渡りインターセンジの下を潜り高級懐石料理鶯啼(おうてい)(あん)前を通り16号に出ました。

次の信号が16号のパイパスと合流です。

信号を渡るとすぐに左入の信号を渡ると登坂になる頂上に達したころ「滝山城址」の案内図この城は八王子城と同じ北条氏の城で八王子城は山城だったが、滝山城は戦国時代には珍しく平城だった記憶しております。坂を下り始めると左に車検場があります。多摩地方は昔車検すべてここで行っていた。坂を下ると右側に高い焼却場の煙突がある。この焼却場は多摩川の西側にあるにもかかわらず、昭島市の焼却、これが問題を起こしたいわくつきの焼却場です。昭島市には問題はないのですが、八王子にしたら大問題。昔、多摩川の流れのいたずらで(だと思いますが)昭島市

の土地が八王子側に出来てしまった。なので昭島市とすればこれ幸いと焼却場を作った。焼却場の臭いなどのクレームの問題が総て八王子市になってしまう。そんなことを考えながら多摩川の「拝島橋」を渡ります。この橋は長いです。400~500mあるのではないか?羽田までに多摩川に架かっている橋で一番長いような気が致します。渡り終えたところの信号の左は「宅急便ヤマト」の多摩地域のセンターと「佐川急便」のセンターがある。どちらも大きなセンターです。次の信号が「拝島橋信号」で左に曲がります。今は「旧奥多摩街道」です。直ぐに立派さ山門です。上を見ると「拝島大師」です。参道を歩いて仁王門を入ると本堂、六角堂、五重塔、鐘楼を初め色々の建物があり総て撮影禁止でした。名前は聞いておりましたがこんなに大きなお大師様でびっくりいたしました。中が撮影禁止だったので一回戻って山門を写真に収めた次第。路地を挟んで神社仏閣がそろってあります。これも大きな「大日堂」の寺と立派な「日吉神社」。大日堂は北条氏が厄除けに建てたもので

仁王門は都の指定文化財になっている。庭には樹齢600年の藤棚。寺は何時でも見られるが藤棚は時がる。丁度満開でしたので写真にしてきました。日吉神社は豪華絢爛な社で、大日堂の守護社だとの説明だった。広い敷地の中に色々見るものあり一見のお勧めです。道路に戻る。この辺りが「拝島宿」上宿・中宿、下宿とあり旅籠も何軒かありにぎわった宿場であったそうです。「拝島宿」の名前は多摩川の中州に大日如来像が流れ着き、村人が尊像をお堂に安置して拝んだことから起こったと云われている。直ぐにまた「普明寺」参拝だけいたしました。この寺は大日堂の八坊の一つになるお寺です。またすぐに神社の案内版「天神社」菅原道真を祭ってありました。社は小さいが、楠の大木が2本あり歴史のある神社でしょう。道路に戻りしばらく歩くと大きな「小荷田」の信号16号と合流です。左に行くと新奥多摩街道になり16号は真っすぐ行くことになります。左に4回建ての建物が二棟、4階建てだから学校かと思いましたらやはり学校で「多摩工業高校」モダンな学校と言うことになります。武蔵野橋南の信号を右に16号と別れて旧道に入りました。少し歩いたところが拝島駅です。日光街道は駅を横切ることになりますが今日は此処でおしまいです。ちょっと遅い昼食を済ませて帰宅の途。

 

         第一回完


  大山街道ぶらり歩記

第四回 令和3416日(金曜日)

千頭〜粕谷宿(石倉) 天気(曇り)温度(18度)歩距離13q(155q)

 

千頭のバス停に930着、「小鮎川」と並行に道路が走っているのでバス停は土手になります。小鮎川の「千頭橋」を渡りながら出発です。すぐに坂道を上がります。

丁度中間ぐらいに「本厚木カントリークラブ」入り口です。昔、どこかのコンペに出席しましたが、素晴らしいチャンピオンコースだったと思います。

右には「東京工芸大学」があります。厚木キャンパスのようです。坂を上がりきると左が本厚木カントリークラブで、右側に林の中でよく見えませんが飯山ゴルフスクエアになっています。

相当広いようですので調べてみるとゴルフ練習場で、コースに見立てた練習場で、ミドルコースとか、池越えのショートコース等があるとの事です。

ゴルフ場を過ぎるとS型の下り坂になります。中間に「白山神社」があり下り終えたところに「白山坂」の碑が立っていました。もう一つの碑に説明があるのですが古くて読めません。この辺りが昔の村の中心地だったのでしょう。過ぎると「諏訪神社」がありましたので、急な長い階段を上がって参拝をして、降りてきて一休み。50mくらい歩いたでしょうか「妙昌寺」と言うお寺です。神社と同じ階段数を上がります。住職が本堂で、お勤めのお経をあげていました。扉を開けて中に入りお賽銭と一礼をして表に出ました。境内には銀杏の大木がありますので歴史のあるお寺と言うことと、隣の神社は昔住職が寺の土地に建造したと言うことだけは分かりました。村には寺だけでなく神社も必要と思って民のために建造したものではないかとの想像。お寺の掲示板にこんな文章が貼ってありました。おとこのしわざは女の力なり」「「次に来た信号が「森の里」と言う入り口の信号です。右に上がっていくわけですが丘陵地なので公園かなと思って地図を見るとたしかに公園有るが「森の里15丁目」・「森の里若宮」・「森の里青山」住居・学校施設・企業の研究開発所と区別される。住民は大よそ7000人、学校は松蔭大学キャンパス・小学校・中学校・高校とある。企業は富士通・NTT・東洋テクニカ・日産などの研究開発センターだ。

これは昭和50年より厚木市が丘陵地を造成して誕生したニュータウンです。施工面積は192.7ヘクタール(約584,000坪)この辺りは愛名(あいな)と言う場所です。

右に大きなカーブを曲がると目の前が開けて大山が目の前に迫って見えます。複雑な交差点を渡ると「玉川」が流れていて「小野橋」を渡ります。橋の中間より撮りました大山です。今日渡りました。「小鮎川」・「玉川」は大山の表より流れている川です。裏側は「中津川」に流れているわけで、この山から二つの結構大きな川になっていますが、ちょっと考えられないが、谷が多いのだろうと考えられる。旧道は橋を渡り、少し下流に行ったところになりますが調べると開発のためあちこちで途切れているようでしたので、神社・寺などがある様ですが63号線を進みました

左の道路の上に大きな工場が二つあります。道路からの入り口に大きな看板で「マルマテクニカ厚木工場」「三司馬物産叶_奈川営業所」どちらも聞いたことのない会社。神社仏閣を見られない代わりに会社の内容を調べました。前者は建設産業機械に別の機能を製作しセットする。総て注文による製作をしている。特殊な技術を持った会社。後者は()司馬(しま)と言う名前なので中国かと思いましたが調べるとれっきとした日本。こちらは自動販売機の修理、メンテ、保存などを行っている。得意先は飲料メーカー、お菓子メーカー・ビールメーカー等。自動販売機を持っている会社だ。こちらも全国展開。一般人が知らない会社で、特殊な技術と特殊のノウハウを持っている。内容は良いのではないかと思います。そうこうしているうちに坂を上り始めます。左の丘の上は大きな建物が幾つも「日産テクニカルセンター」です。これは相当の面積になっているようだ。その入り口を過ぎると坂道の頂上になります。ここから伊勢原市となる。日産の隣に成城学園のグラウンドと合宿所がありその隣が専修大学の総合グランド一部キャンパスのあるのではないか?下ったところが「分かれ道交差点」で真っすぐ行くと「粕谷宿」行くのだが工事中で通れない。地図を見ると「粕屋宿」の方に「産業能率大学」があるのでそれを目指して歩き始めると、学生がゾロゾロとそちらに向かって歩いていく、これは其の大学に行くのだなと思い後をつけて行けばと付いていくと途中から方向が少し違う、おかしいと思いもう一度地図を見ると大山の山付き大きな建物がある。どうもそちらに向かっているようだ、そこは専修大の研修所で総合グラウンドからそちらへの移動だった。少し回り道をしてしまったが粕谷宿にたどり着いた。ここは今「新東名道路」工事中で「伊勢原大山インタチェンジ」工事中でそれに伴って周りも開発中です。大きな流通センター?完成しておりました。
高速道路は山付きを走り秦野の山付きに抜けていくようだ。粕屋宿の事は次回に。帰りのバスは「産業大学」の学生と一緒になりぎゅうぎゅうでした。

第三回 令和3329日(月曜日)

高田橋(田名宿)〜荻野宿〜千頭(せんづ)  天気晴 気温度24度 歩行距離12q(15.5q)

 

相模原駅よりバスにて田名水郷のバス停留所(終点)より、高田橋に来ました。渡る前に、此処の事をもう少し書いておきたいと思います。この近くに行きつけのゴルフ場があり、上流に道が出来るまでは総てこの橋を行き来しなければならなかった。今も橋のたもとにリバーサイド分譲マンションがあります。当時(バブル期)に20階建ての億ションだったのですが、販売するころはバブルがはじけて売れなくなり、ほんの数軒だけ売れた状態、要するに幽霊マンションです。今はもっと少ない感じだが・・・

それと写真ありますが、鯉のぼりが川の向こうの山からこちらの岸まで、200m以上あるかと思いますが4本の鯉のぼり(約1200匹)です。当時は日本一と言っていたと思います。ゴルフの行き帰りに何回か見てきました。「今年は何日からですか」と訊きましたところ、昨年はコロナ禍で中止にして、これを機会に32回の歴史に幕を閉じたとの事、残念。そんな思い出を持ちながら橋を渡りましたが、この橋について説明がしてありましたので記します。名前は右岸の高峰村と左岸の田名村から頭文字で「高田橋」大正13年に木造の橋の完成でそれまで街道は渡し船だった。名前は久所(くぞ)の渡し」その後昭和4年架け替え、平成2年に架け替え三回の橋の写真付きになっていました。渡ってすぐを左に折れて、又すぐに右に折れます(県道63号線)曲がってすぐに旧道が左にありますが、そのまま進みます。

まもなく坂道になるのですが、昔からこの坂は有名な坂だそうでなかなか急坂できつい、中間に来たあたりに案内板が出ていて崖の右上は「小沢城址」敷地は5,700uあり室町時代初期の築城だが1477年に「太田道灌」に攻撃され落城した。今は少しの壕跡に留まる。この坂道は長さも700m前後あるのではないか?やっとの登りきる左に旧道と合流していましたが、旧道は舗装されているが車は入れず、ほとんど歩いた形成もなさそう。旧道を歩かなくて正解でした。

登りきったところが大きな信号があり左方面が中津工業団地方面、真っすぐが旧大山街道があるのだが、住宅造成の際完全になくなっている。右に折れて県道65号に、郵便局信号で併合し左に折れる。この道路が愛川町の主要道路となっているようで、車が良く通る。何もおもだったものがないので、商店の名前など見ながら進む、それらしき名前だが、飲み屋で「ふうらいぼう」定食屋で「ハラペコ」床屋で「髪きり虫」など。一本松の信号の所に「八菅神社」と大きな看板が出ているの立ち寄りたく思ったが、地図を見ると結構距離があるので止めました。その信号を過ぎると桜台の変則の大きな信号です。左斜めに65号がここで別れです。63号は右斜めに進みます。下り坂が始まると頭上に水路が二つ頭上に掛かっています、何だろうと説明を読みますと、旧相模陸軍飛行場の排水路橋だとの説明。舗装されていなかった飛行場が雨天時ぬかるみなるのを防ぐために作られた排水設備の遺構だとの事、今は使われていないのではないだろうか?この坂は「坂本坂」と言う名前がついていまして大きなヘヤピンカーブを曲がっていくと大きく視界が開けます。広い田園風景です。道は中津川土手になりますがここの河川敷は愛川少年広場になっていまして、見事に桜が咲いていて、本数を100本まで数えたが、そこから推定300本はあるかと、綺麗でしたので写真にしておきます。

橋のふもとの信号で右に曲がると中津川に架かっている「才戸橋」この中津川も昔は渡しがあって渡り終えたところに公園がありその入口の片隅に「才戸の渡し」の碑が立っておりました。信号を渡り坂道を上がりきると「荻原宿」です。

左に「リコー厚木事業所(工場)」広い敷地です。ここは何を製作しているのかわかりませんが、コピー機に関するものには間違いないでしょう。その隣が「神奈川工科大学」

結構大きなキャンパスですが、何の学科が知られているのでしょうか?。厚木駅より通学するのでしょうが交通不便で大変な気が致します。昼時になったので大学の向かい側に「夢庵」があり「富山名産丼」と大き旗が幾つもなびいるので、ひさしぶりに富山を味わってみたく入りました。注文もそのものです。すると女店員がこの注文にはこれを差し上げますと言って高岡市の「国宝瑞龍寺」の「疫病退散」のお札をくれました。このお寺は高岡に仕事でよく言ったので23回行った覚えがあります。素晴らしい山門の記憶が残っています。加賀100万石、前田家の2代目「前田利長」の菩提寺だそうです。店員さんに「これでコロナはイチコロですか?」と訊くと「はい、イチコロです」との答え、本当にイチコロになってもらいたいものです。食事を終えて午後の歩きに入ります。「荻原新宿」の大きな信号に来ますと、この辺りがこの町の中心になっていと思われる。角に大山街道を歩いている証の碑と後ろは「日吉神社」、境内に500600年物の銀杏大木がありますが、高さ3mぐらいところで総て枝を切ってしまているが、手入れを考えるとこれま仕方のないことか?もう一つの角が大きな空き地に成っている、地図を見たら「華屋与兵衛」の店だった

町の中心部ではお客が来ない。

信号を過ぎると500m以内に3軒もお寺がありましたが、まず「法界寺」小田原城主「北条直政」の命によってできた寺で、小田原城落城の時焼け落ちその後ももう一度火災ににあい、山門だけが焼けずに残っていた。確かに寺の建物から比べて山門は立派でした。お参りをして次の寺に移る前に少し入ったところに、屋根が銅葺きで大きな屋敷があったので、ちょいと見学。窓の上に総て庇屋根がありその上に本屋根がある造り、総て銅葺きです。屋根に使用している銅だけで家が一軒建ってしまうのではないか、大変驚いて見て来ました。次のお寺が「千光寺」説明するものが何もないので帰って調べましたが、どう言う寺かわかりません。

山門もない小さなお寺ですが、昭和18615日秩父宮紀勢津子殿下ご来場記念碑」がありました。戦争最中に何でこんなところに?思いましたがこれも何もないのでわかりませんでした。

「龍田神社」が境内にあり、神社仏閣一緒でした。次のお寺「光徳寺」参道が長く入っていきました。山門と本堂が一緒になったような建物です。親鸞上人が巡錫(じゅんしゃく)した当地に、息子の善鸞上人のために建てた寺。幕府より寺領29石3斗の御朱印状を受領したとありますからそれなりに由緒ある寺かと。ここで「荻野宿」は終わりとなりますが、江戸からの参道とここで交わるので大きな宿場であっただろうと思います。面影はほとんどありませんでした。県道に戻り坂を下りたところが「荻野川」橋を渡り坂を上がりきって少し進んで県道60号との交差点です。ここは千頭(せんづ)と言うところで、バス路線がここにありますので今日はここまでです。1時間に2本のバス、1分待ちでバスがきました。

第三回完

第二回 令和3年3月18日(木曜日)

橋本宿〜高田橋(田名水郷)    天気 晴  気温18度 歩距離8q(12.5q)

橋本駅で降りて、前回最後の「香福寺」まで戻り出発しました。5分も歩いたでしょうか前回なかった神社がもうあります。長い参道を入って行くと「橋本神明大神宮」です。ここにはあと二つ神社があります。左に「橋本天満宮」右に「大鷲神社」です。境内も広く地元の方々の守り神としているのでしょう。広くて大きい割には宮司はいません。11月の「酉の市」は大変に賑やかとの事です。ピンクの枝垂桜が満開でした長い参道を戻り、歩き始めると横浜線の踏切です。踏切は大山街道踏切と示してあります。間違いなく大山街道を歩いているようです。踏切を渡ると大きな建築現場です。「新幹線のリニア橋本駅」の工事です。中はよく見えませんので止まらずに歩きますと、渋滞で名高い「橋本の五差路」の大きな交差点です。立体交差などにして昔程混んではいませんがやはり混んでおりました。歩道は総て地下道になっていて向こうに渡るため入って行きましたが、中が複雑な通路になっていて出口が8か所もあります。それらしき出口に出ましたが、行くべき県道63号線が分かりません。複雑な交差点でなお且つ地図と状況が違います。これが歩いていて一番迷う原因です。交番があり、常駐ではないようですが巡回に来ていたお巡りさんに訊きました。私の持っている地図では現れていないので、お巡りさんも迷っていましたが、地元の大きな地図で説明頂きほっとしました。今日は暑いからよく水分を補給して気を付けて行って下さいと何回も親切を頂きました。県道63号線がこれから始まりです。しばらくして下り坂を進みますと、左に「新明坂」の碑が立っていて、写真ではよく見えませんが奥に「子育地蔵」がありました。今の道路は真っすぐ下っていますが旧道はカーブしていたらしくここだけ30~40mほど残っていました。坂の下の信号は「相州大山街道」の地名として残っている

「下九沢(くざわ)の信号です。上溝方面にいく道路との交差点で複雑な交差点になっています。信号を過ぎると「鳩川」を渡ります。橋の名前は「九沢橋」結構大きな川ですが水が全然流れておりまん。歴史のある川なのでしょうが開発の関係でこうなっているのだと思われる。距離的にあまり歩いていなかったが、お巡りさんに言われたとうり大福を食すとともに水分補強で一休みしました。一息ついたので歩き始めます。道路の左側に沢山のクレータワーが見える現場に来ます。此処は以前には「キャタビラ三菱」の工場でブルトーザーなど建設機械を作っていた工場跡地です。写真ですとよくわかりませんがタワークレンが15機ありました。とにかく大きいので規模を調べてきました。記しておきます。敷地295,000u(90,000坪)建物は地下1階地上6階延べ床面積約660,000u(約200,000坪)工期が20201月〜20269月) これで大きさがわかるかと、流通センターだそうですが、圏央道の「相模原・愛川インタチェンジ」が近いので、益々の車の渋滞が予想されます。竹中工務店と東急建設のJVでした。又道路の右側は「三菱重工業相模原製作所」です。こちらの方が敷地面積は大きく感じます。又三菱重工のラクビーチームはこの工場に所属しているようです。製作品はターボチャージャ・エンジン・特殊車両などです。そんな間を通り越します。田名の中心部に進んできましたが何もありません。大きな屋敷が何軒かあるところを通り過ぎると村はずれなるのでしょうか?写真のようにお地蔵さんとか庚申塚、馬頭塔などが何か所かに見られます。長い大きな下り坂を下りますと田名の河川敷になり、田名水郷です。高田橋の手前まで進み、田名の町中に戻りました。ここから先はバスがなく橋を渡るとバス路線が厚木市の方になるので、今日は此処までです。今回はお寺が1軒も見受けられませんでした。

後先になりますが、この田名水郷は過去はどのような街だったか、昔、地元の方に訊いた話ですが、料亭も旅館も沢山あって、芸者も沢山いて夜の街として大変にぎわっていたとの事。時代も変わり今は料亭を兼ねた旅館などが23軒見受けられるだけになっていて人通りもなく大変寂しい町と化していました。       

                                                                 第二回目完



第一回 令和3年2月2日(月曜日)

八王子横山町〜橋本     天気 晴 気温22度  歩距離912q)
又、歩記の虫が騒ぎ出しまして、出来るだけ沢山を歩いてみたくなりました。今回は

大山街道です。これは皆さんもご存知かと思いますが、神奈川県伊勢原市にあります

小山阿夫(おやまあふ)()神社(じんじゃ)詣での街道です。調べてみると鎌倉街道以上に道路が複雑にあり

ますが色々沢山ありますので書きませんが、鎌倉街道と併合しているところもある様です。今回は「大山八王子街道」です。

これは埼玉県の中山道の熊谷からです。とりあえず八王子からと距離は短いのですが

歩いてみます。何で八王子からかと言いますと、八王子千人町から熊谷の手前までは「千人同心日光街道」と併合していますので、終わりましたら「千人同心日光街道」を栃木県の現在の佐野市の「例幣使街道」合流地点まで出来れば行きたいことが目標です。京王線八王子駅から、八王子のメインストリートである東町通りを歩き、国道20号線と16号線接点の横山町信号に立ちました。大山街道この辺りは16号と併合となっていますので16号を歩き始めました。昔からの古い佇まいの専門店が見受けられます。中央線の踏切を渡り右に入り旧道を歩きますと、早速お寺があり「観音寺」の山門前です。山門の説明札が立っていてこの山門は千人同人頭の「中村左京」の家の門を移したものであると言うことです。幕末の終わりか明治に入ってからの移動と思われるが、150年は経っていと思われるが、総欅で立派なものです。

境内に入ると弘法大師の銅像がありますので真言宗と分かります。本堂屋根の上に両側におおきな擬宝珠(ぎぼし)が乗っかっています。本堂に擬宝珠は珍しいかと思いました。

又、国道に戻り「八王子消化器病院」を右に見ながら進みます。この病院はアルバイトをしているとき良く仕事で入りましたが、業者が入るのは厳しかったことを想いだしました。評判は大変良かったようでしたが・・・

過ぎたところから坂道になり、上がりきるところの左は「八王子医療刑務所」です。通称「八刑」と言うそうですが、医療刑務所は全国4か所だそうです。登りきると今度は下りになります。京王線のガードを潜りますと大きな信号は北野街道との交差点です。左に折れて旧道に入ります。湯殿川を渡りJR横浜線の片倉駅を右に見てガード潜るとすぐに川にぶつかる、兵衛川と言う。橋もないし道路がなく進むことができないので川沿いに国道16に出る。この川沿いは両側に桜の木が沢山あり、片倉駅5分ぐらいだし右の丘の上は「片倉城址」があり城址公園のカタクリの花と共にお花見にいかがでしょうか?衛川を渡ると、坂道になります。左に「日本文化大学」がありますが旧道はそのあたりになるのではないかと思いながら無視。この大学名はあまり聞いたことがないので、ちょいと調べてみましたら法学部一本で警察官合格率が10年間大学ではトップとの事でした。片倉の信号を渡ります。この辺り住宅は何もありませんが面白い店が何軒かありました。錦鯉販売、水槽が沢山あって見に入ろうとしましたが「いらっしゃいませ」の声がかかりそうなので止めました。ヨーロッパの高級中古家具、大使館・駐留軍払下げ品販売の店など。左側は、山を切り開いて開校した「東京工科大学」キャンパスです。話は昔になりますが、蒲田駅の近くにあり「東京工科専門学校」だったと思います。時代の波の乗っていたのでしょう。

登りきったところが「御殿峠」です。三叉路の信号があります。車の時は感じませんでしたが2qはあったでしょうか?歩くと結構な急坂できつかった。信号を左に入ると「生糸の道」に行きます。角には「山野美容芸術短期大学」があります。交通便が悪い所で通学が大変?こんどは下り坂となります。右に「八王子日本閣」があり結婚式場ですが1階は高級レストらにもなっていました。この辺りは交通的には不便ですが、インド料理・イタリアン料理・ステーキ屋など高級料理店があります。

国道16号のパイパスを潜って進むと大きな「大法寺」と言う寺がありましたので入って行きました。寺の上は広―イ墓地です。寺が新しいので墓地開発と共に建築したのではないかと思います。日蓮宗です。境内に「斎藤茂吉」の歌の碑があって、これが曹洞宗の永平寺で詠んだもの記してあります。うつし身の 苦しみ(なげ)く心さえ はや淡々(あはあは)し 山のみ寺」歌の内容の説明はどなたかお願いします。但しこの寺の境内には、しだれ桜の木が4〜5本あってその時期には見に来る価値がありそうです。鑓水(やりみず)の信号を渡ると食べ物屋が何軒かあり昼食といたしました。短い坂道を上り、下ったところが「境川」この川は鎌倉街道の時も何回か出会いました。わたると相模原市となります。まず目に入ってきたのが写真のように民家の門です。写真を撮ってから入り口に行きますと次のように説明してありました。

"この長屋門は桁行17.1m梁行4.5m建築年代は近世末と推定されます。軒のセガイは

柱に腕木を?差(ほぞさ)しとする古い形式です。部材は全体に太く、冠木(かぶき)丈は42p、その上に乗る梁は30p" 相模原市登録有形文化財です。中は普通の民家なので入って行けません。近代的な大きな建物が2棟たたっていました。表札が2つありました。

又この回りは、大きな屋敷が沢山あり門構えの家も4軒ほどありました。今まで見てきた中では、このようなところ同姓の家が多いのですが殆どが別姓でした。

中ごろに参道があり大きなお寺があるので入って行きました。曹洞宗「瑞光寺」です。

山門をくぐると目の前に本堂がありまだ新しい。本堂を平成22年に立て替えたとの事

歴史は、八王子の臨済宗の寺から引き継いだものと言うことです。明治まで長い間寺子屋を開設していたとの事。境内には樹齢630年と言う(かや)(のき)大木があり雌木で実が沢山なるようです。本堂は写真撮りませんでしたが、境内の鐘楼の前に「お掃除小僧」がマスクをしていたので写真に納めてきました。

そこを出てしばら歩くと又お寺があり、入りながら橋本駅に向かうことにしました。臨済宗「香福寺」境内に鐘楼もあり、高野(こうや)(まき)の大木がありました。こんなに大きな高野槙は初めてです。小さなお寺ですが歴史を感じます。少々不思議だったのは「瑞光寺」も「香福寺」も山号が「橋本山」でした。今回は珍しく神社も小さな社もまたりませんでした。今日は高田橋まで行きたかったのですが、昼食で休んだ後、少々股関節が故障を起こし始めましたので帰宅といたしました。

第一回完


旧鎌倉街道散歩上道(かみのみち)

          

 

旧鎌倉街道上道(かみつみち)の食べ歩き散歩を鎌倉まで歩いてみることにしました。

一人旅も良かったが今回は仲間と二人で歩くことにしました。簡単なまとめにいたしました。何か参考になることがありましたら幸いです。

鎌倉街道と言いますと、皆さんもどこかで鎌倉街道の標識など目にしていると思います。鎌倉時代、都であった鎌倉にあちらこちらからから鎌倉につながっていたわけです。「いざ鎌倉」はこれから来たのでは?

鎌倉より北方面で、下道(しものみち)は今の水戸街道の延長に近く都内から海側になり、中道(なかのみち)は日光街道及び御成街道の延長になり、上道(かみのみち)は中山道を高崎から日高かを通り府中から町田に抜けて、横浜を通り鎌倉へとつながっていった。

第一回 令和元年116日 晴

聖跡桜ヶ丘〜小野路(宿場)

関戸の信号から旧道に入り、少し歩いたところに熊野神社がありこのお宮の総代の名字が辞書を調べてもパソコンで調べてもない文字で何と読むかわからなかった。

何日か後に仲間の方がしらべて教え頂いた。ここでは手書きになるので記することができないので残念ですが、多摩市役所の前を通り、多摩ニュータウンの中を抜けて、恵泉女子大学の横から山の中に入り小野路へと抜けた。10何年振りかに小野路に来ましたが、びっくりしたのは昔のイメージがほとんどなく、道路を広げて古い建物は一部残してありましたが、町興しで観光的の宿場町になっていた、食べ物からお茶屋からお土産まで扱っている粋なお店が出来ていて、こんな不便なところにお客さん(おばさん達グループとか、年寄り夫婦が多かった)結構来ていた。           

この町にも少し珍しい名前がありました。「()(ごく)、おばさんに訊くと地の方との事。この日は此処まで終わり、バスにて多摩センター駅に戻りモノレールの駅のガード下の「ペッコリ」で昼食をとった。ステーキ定食で1,182円値段の割に美味しかった。

 

第二回 令和元年1116日 晴

小野路〜町田駅

多摩センター駅からバスにて移動、前回と同じく晴天に恵まれました。小野路の宿場出発です。丘の上を歩く形になっております。山を切り開いて高校とかろうあ学校とか市の運動施設などがある、そんなことで旧道の鎌倉街道が途切れていたりして探したり聞いたりで時間がかかる。また一山向こうに大きなマンションがたたっているのが見えた。ちょっと異様な感じがした。

写真の神社は小野路宿を通り越したところにあって平安時代よりの神社「小野神社」歴史的なことは書きせんが、珍しくここの狛犬の雌に大きな子どもがいます。写真でよく見えませんが手の下に小さく映っております。

元に戻ります。一度丘を降りて又次の丘を登っていくと先ほど異様に見えたマンションの脇に来ました。「シーハイハイツ」と言って丘の北面を整地して      

17階の大きな建物が13棟建っている。帰ってから調べてみましたら、デベロパーは伊藤忠商事、ゼネコンは竹中工務店で約1,000戸、バブル時に立てたものなのか中古で安い、交通便を考えず静かに暮らすのなら安いようだしお勧めかもしれない。

販売は不動産会社大手6社の様だ。旧道の道が狭くてわからなくなり少々道を間違えて遠回りとなりましたが、新鎌倉街道と接点の「今井戸」交差点につきました。

新旧の鎌倉街道をしばらくありき「菅原神社」の交差点に来ます。この神社は大きな神社で町田市の守神ようだ。神社に行きませんでしたが、16日(土曜日)なので七五三で賑わっている様子。

左の旧道に入り、市役所の前からJRの町田駅に向かい今日の昼食目的の柿島屋(かきじまや)

に入る。馬肉専門店で100余年の老舗で大変混んでおりました。仲間が馬肉は初めてとの事大変美味しいと絶賛でした。町田にお越しの節は是非のお店です。

平日は夕方から、土・日・祭日は昼からです。

今回は上記のほかに何軒か神社があったが、お寺は見当たらなかった。

 

第三回 令和元年1219日 曇り一時雨

町田駅〜南町田グランベリーパーク駅

旧道がJR町田駅前を通過するので駅に降りてから線路沿いの通りを進みますと旧道は少し歩いたところから右折れて線路(横浜線)を渡ります。渡った所が写真の「町田八幡宮」菅原道真を祭ってあります。東の

「菅原神社」(菅原道真には関係ない)と共に町田の大きな神社のようです。道真が牛を可愛がったと言うことでここには「臥牛像」が二つありました。      

この境内には摂社(せっしゃ)(旧社殿)があり、色々の神様を祭ってありました。

旧道はお宮を取り巻くような道路になっていて少し歩いたところから広くなり、都道56号をしばらく歩くと又狭い旧道になります。杉山神社が2か所にあり、間違いなく旧道だとの実感。実感している先で、地図によると道が突き当っているはずが臨場は大きな道路になって突き抜けている。大きな道路が開通したばかりのよう。

トイレが必要になってきたので、コンビニ声をかけて借りた、店を出ようとしたら雨が降ってきてまった。仲間は折り畳みを持っていたが、私は雨合羽を買う羽目になり河童を身に着けて5分くらいありたら雨がやんでしまった。

先に田園都市線らしき線路が見えるので、横切って線路の下を潜り左に曲がる

大きな「鶴舞公園」がありその隣が「グリンベリーモール」やたらと広く大きい

少し見て回ったが、金が無い者と、年寄りには関係のない所の様だ。それにしても平日なのに混んでいるのにはびっくり。昼食時となったので探して歩いたが、和食、中華食店は何もなし、スイーツ屋と洋食屋ばかりです。それもすべての店が外に並んで待っている、これもびっくりです。

又、ここには「スヌーピーミュージアム」が青山からこちらに引っ越してこのモールにあるとテレビでやっていたが、興味はありませんあ見つけたのですがちょっと見当たらなかった。

地図を見るとここの駅は「南町田駅」となっているが今はこのモールのための駅となっており「南町田グリーンパーク駅」と名前が変わっていました。

しょうがないから長津田駅に出たががここは駅前に食堂などはなにもなし。仕方がないので町田まで戻り「南国軒」と言う中華店に入りました。餃子とタンメンがセットで870円、これがとても美味しかったがタンメンの量が多くて、仲間はペロリとたいらげたが、私は食べきれずに残した。それでも食べ過ぎて3日間胃の調子が悪かった。

ひとまず今年は此処で終わりにして来年春に歩きたいと思っております。

 

第四回  令和236日(金曜日)天気晴 14

                       本日の 歩行距離19q

南町田グランペリーパーク駅〜ゆめが丘駅

今日は一人。ウイルスで電車もガラガラ、降り立ったグランペリーパークモールもガラガラです。隣接している大きな「鶴間公園」リニュアルした様で樹木は古いが公園が新しく感じて気持ちが良い。中を横切って道路に出て地図で見る、目やすである「鶴間小学校」が見えない。通りがけの中学生3人に訊く、丁寧に教えてくれた。場所が一段下がった所にあったので近くに来ていたが見えなかった。

脇を通り越して次の目安が「東京女学館大学」。学校がなくなっている。

長谷工コーポレーションが敷地のすべてにマンション600戸の工事が始まった所です。聞いたことのない大学なので帰宅後調べてみると、都内の広尾に中学校・高校とある様で偏差値も高いとのこと。以前は短大で大学にしていたが閉校なったとの事です。国道246号陸橋を渡り245号道路と並行に進む、町田市と別れて横浜瀬谷区に入る五貫目の信号を過ぎたところが有名な「目黒の交差点」この信号は昔、関東混雑信号ベスト3に入っていた。246号が立体なったが渡った所にもう一つ県道の交差点があるので大変な渋滞になっていた。

その信号を左に折れて県道401号を進む。左に大きな建物があるのでなんだと思って門の所に行くと「日本経済新聞」第二印刷工場だった。

「名高速道路」のガードを潜った所に神社があるので階段を上がってみた。

若宮八幡宮」東名高速の工事でここに移したと記されてある。公園が隣接していた桜の木が沢山あり花見には良いかと思う。

直ぐに「王様の湯」がります。私の自宅の近くにもあり、時たま行くのですがこちらは天然温泉になっています。

この辺りから旧鎌倉街道に入るはずだと思い小さな道だが右斜めの進むとすぐにお寺があったので間違いなし「妙興寺」がありすぐに又「禅昌寺」があり、そこを過ぎると、急に左右に大きな門替えの大きなお屋敷が何軒もあり、中間どころに

「瀬谷銀行跡」の立札がある。門構えで中に入れない。人は住んでいないと思うが大きな屋敷だ。小島家としてある。

この辺りは明治40年ごろ養蚕盛んで製糸工場もあり江戸中期より続いている小島家は代々「政五郎」を名乗り瀬谷銀行を明治40年に創業され、30年に渡り地域金融事業の中心となり、実業界・政界に大きな影響を与えるとともに地域の発展に貢献した。又大きなケヤキ並木が続いている。大きな屋敷の中にも、相続者がいないのか管理しきれないのか?住宅の分譲の立札が立っていた。それを見るとその敷地内に20軒の分譲と16軒の分譲があった。いいかに広い敷地かがわかる。その部落を過ぎたところに「日枝神社」があるので入る。写真だと何の木かわからないが、35m以上ある銀杏の木でした。何にも手入れをいていないのでこのようになったとの説明、葉がないとそばで見ても銀杏に見えなかった。

通りの表札もよく見て歩きますが、今回もおもしろい名字です。何と読むのか少々わかりませんのでご存知の方がありましたらお教え願います「佐別当」。昔、プロ野球に「別当薫」(べっとうかおる)と言う強打者がいました。だから「さべっとう」と言うのでしょうか?県道10号線の信号に来ました。昼時でしたので角の「瀬谷そば・うどん」と言う店に入りました。お薦めは大根そば・大根うどんとの事。地元では暖簾の様です。お客さんは地元の方が多いようでそのためにご飯ものの定食もやっていました。私は海老天ぷらうどん食べました。かつおだしが良くきいていておいしかった。このキャッチフレーズが「エビ天食べたい人は、このエビとまれ」でした。信号を渡りしばらく歩くと「西福寺」と言うお寺があり、この寺にくっついている神社がありました。かたちは神社仏閣が一緒になっている。この神社()馬社(ばしゃ)と言う珍しいなまえ、ここは珍しく「梵鐘(ぼんしょう)」のある神社です。この神社は境川沿いに藤沢にかけて鯖・佐波・佐馬などの七つ名前になっていて、祈願に七サバ社(小さなもまで入れると12社あるとの事)をめぐると「麻疹(はしか)疱瘡(ほうそう)・百日咳」に効くとの事でした。祭ってあるのは「源左馬守義朝」中原街道の信号に来ますと角に「宗川寺」と言うお寺に入りますと山門の両脇に大きな銀杏の木があり夫婦銀杏と言うそうですが、枝を全部落としてしまって丸坊主。

本堂の両脇に大きな枝垂れ桜があり、季節に来ればきれいな桜がみられると思います。中原街道を渡って少し歩くと又右側に大きなお寺があったので表に回るのが面倒でお墓の中を通り境内に入る。写真は仁王門ですが本堂は大きかった。表の山門に来て寺名前を見ると「日蓮宗本山本興寺」となっている。日蓮の愛弟子で本山の許しを受けていたとの事。寺を過ぎて鎌倉街道は一旦環状4号線と交わります。坂道を上がった所を右に4号線と別れます。道路を広くしてしまい、歴史に残るものは何もないと言うことか。道路の両側は大きな造園屋さんが何軒かありました。道路は「東海道新幹線」の陸橋に来ました。上から新幹線を見たことがないので5分ほど立ち止まりました。上り下りの列車がものすごいスピード走っていきました。ひたすら相鉄いずみ野線の「ゆめが丘駅」に歩きました。

今回は案外と旧鎌倉街道わかりやすかったが、それでも2回ほど道を間違えた。

3差路などの道の真ん中に道祖神・庚申塚・お地蔵などが何か所もあって助かった。

生活道路とが十字路になっているところは分かり安いのですがYの字の所は生活道路のほうが使用度が高いので間違えやすい。又、今回は今までと違いお寺が多く、規模も大きかった。

 

 

第五回 令和2319日(木曜日)天気 晴 21

                       本日歩行距離 17q

 ゆめが丘駅〜湘南深沢駅

ゆめが丘駅で降りたのは23人だけ、周りに何もなく大きく造成をしているところです。その中を通り旧鎌倉街道にでる。出たところに前回に書きました「左馬社」があった。県道ではないですが結構車が通る。相模鉄道いずみ野線のガード潜った所に小さな富士塚公園があり大きな石碑あるので見に行くと「富士塚城址」としてある。形跡はないが小さな城があったのでしょう。鎌倉街道の何か役目があった

のか?少し歩いたところにお宮の鳥居と寺の山門が並んで立っている神社は「琴平神社」寺は「東泉寺」神社仏閣が一緒になっているのは珍しい。山門の両側に横浜市の指定銘木になっている銀杏の木がある(500600年になるかと思う)左側は枯れてしまったらしく切り倒されて根子だけが残っていた。相模国八十八か所巡りの札所(59番目)になっていた。境内には芭蕉の弟子で「美濃(しゅん)(こう)」の句「人もかく 老いて秋たつ 眉毛(まゆげ)(かな)」の碑もありました。県道の下飯田の信号を渡り林の脇を過ぎたところで急に前が開けている。道路から真下に公園がある「境川遊水公園」と記してある。まだ新しい公園で、テニスコートが5面、サッカー場が一面、野球場が2面あり大きな駐車場も完備されている。東京の高尾山の方から流れている境川がこの辺りまで来ると大きな川になっていて、もう一つ小さな川と合流しているところに大きな沼地がありそれを埋め立てだろうと思います。右側を見ながら歩いているうち境川の脇に来てしまった。見て歩いているうちに道を間違えたらしい。少し遠回りをしてしまった。それらしき道に来ると神社があったので間違いなし。左の丘の上に高い建物が見える、こんなところにと思って地図をよく見ると、どうも「横浜薬科大学」の建物らしい。「俣野観音堂」の信号に来ました。この観音堂は小さいが交差点の名前にまでなっているのできっと有名な観音堂などであろう。鍵がかかっていて境に入れなかった。

信号を渡ろうとしたら、その先は明治学院大学のグラウンドになっている。鎌倉街道はどこに行っていしまったのか?先の信号渡りグランドの脇を少し歩くと、それらしき道路に来た。田んぼの中を歩いていると又わからなくなった交差点、丘の上の方に神社らしき建物が見えるが遠回りになるので真っすぐ進む。坂道を上がり少し進んだところに、鳥居、道祖神、庚申塚などある交差点に来た。

やはり少し道を間違えてカットしてしまったようだ。旧鎌倉街道の説明の立札があり鎌倉街道であることを示してくれていた。右手に大きな「俣野中央公園」の脇を通り、長いだらだら坂を歩いていて、おばあさんに訊き間違いなく街道を歩いていることを確認する。登りきると、おばあさんが教えてくれたヤマト運輸の建物にきた。それを過ぎたところが国道1号線(東海道)の交差点「藤沢パイパス出口」ここに来て思い出しました。箱根駅伝を歩いた時、旧東海道と国道一号線の分かれ道です。歩道橋を渡って旧東海道(県道30号線)に進みますとすぐに藤沢市に入りました。駅伝はこちらを走ります。1週間後に来れば桜並木の満開が見られたでしょう。旧名が残っている「鉄砲宿」を過ぎて昼食をとりことにしました。「シンドニ」と言う焼肉及び韓国料理屋です。中に入る綺麗で高級感があり価格も手ごろでした。交通便の悪い所であり平日なのに結構お客が入っていました。地元のお客さんに人気がある様な感じです。ゆっくりした食事をすませて店を出ました。桜並木の続きを進んで大きな信号を左に進みます。長い坂道を降りると大きな信号があり渡った所を過ぎて斜めに上がる道に入ります。旧道なので狭くなっている、下ってきた分だけこんどは上がります。登り切ったら中学校にぶつかってしまった。

丁度、卒業式から帰ってきた親子に道を教えて頂き、進むことができました。目やすだった大きなスーパー「オリンピック」があり其の脇の道路を上がる予定だったが、隣に大きなお寺があるので見学をする。(てん)嶽院(がくいん)大きな禅寺、敷地も相当広い、案内によると鎌倉時代までは真言宗で「不動院」と言った。鎌倉幕府が倒れた後は曹洞宗に変わり今の名前になった。仁王門の右側には大きな観音像も立っています。左の方には六地蔵がありました。左から、いきいき・すくすく・にこにこ・ふくふく・らくらく・ほかほか・地蔵です。(写真が小さくて字が見えない)戻って脇の道を上がっていけばよかったのですが、お寺を過ぎて廻っていけばそちらの道と合流するだろう思ったのが間違いのもと。迷いに迷よってしましたが何とか東海道線の陸橋を渡ることができた。どうも路地を一つ間違えていたようだ。薬局の姉さんに訊いて旧鎌倉街道に戻りモノレールの「湘南深沢駅」到着大船に出て、藤沢より小田急で帰る。こんな時期だったが大船駅も、藤沢駅とすごくにぎやかな人出でした。東海道線も混んでいてびっくりでした。

第六回 令和21020日(曜日)天気 晴 19

 

湘南深沢〜鎌倉八幡宮               11q

 

モノレール湘南深沢駅出発が940分です。駅の西側が大きな空き地に成っていて前回帰るとき何の空き地だろうとおもっていた。9月のテレビで鎌倉市の市役所が出る予定で、市民が大反対をしている放送だった。空き地の外れは藤沢市となる。市民とすると市役所が市の外れになるので遠い人が多くなると言う反対とのこと。この空き地は元国鉄(JR東日本)の工場の跡地だったようだ。

富士見小学校前の信号の先を右に折れて、旧鎌倉街道に入る。すぐに「大慶寺」(臨済宗)の山門の前に来る。山門が珍しく茅葺屋根で「関東十刹」の一つ十刹については後で記す)この辺りは寺分大工谷と言われた。鎌倉時代、大慶寺はじめ周りの寺の修復をした工匠が住んでいたとのこと。今も町名が寺分(てらぶん)1~3丁目)で残っている。出てすぐに又お寺があった。真言宗 で「東光寺」関東八十八巡礼の一つになっていて、弘法大師も立ち寄っている言うこと弘法大使の立派な像がありました。小さいが有名なお寺?かもしれない。

お寺を過ぎると急坂になる左に折れて、右に市立深沢中学校を見ながら坂道を上がる、地図で見るとき坂道は分からないのでこう言うときペースがくるってくる。学校を過ぎて前を見ると急坂が続いています。

両側は、何年も前に高級分譲住宅だったのでしょう。大きなうちばかりですが年月が経っているので、2世帯住宅が多い、苗字が違うのでマスオさんが多いのかも、500mほどあったでしょうか?登りきったところで地図を見た。

道を間違えたようだ。調べていく地図は拡大したりするので、距離の感覚がくるってしまう。学校の所まで戻り、一本右の道路を又上がりきった。ここからは

「山の上通り」を歩く、高級住宅街が終わるころ一軒の住宅を改造したフランス料理店があった。高級な感じがする。但しこの道路は地元の人しか通らない感じなので、ほとんどが予約客だろうと思えました。

高級住宅街が終わると道路のアップダウンが激しくなってくる。左は山で高い所まで家が建っている。玄関は山の向こうを廻っていくのだと思いますが、道路側からも長い階段がついている。階段を下りたところに自転車が置いてあるのだが、ちょっと町に出るときは階段を下りてきて自転車で・・・と言うことだろうと思う。道路の右を見降ろすと深い谷が見えてやはり家が建っている。日が差しても半分ぐらいでしょう。ここまでしても鎌倉に住みたいのだろうか?

それを過ぎると右側が有名な「源氏山公園」が地図を見ながら、進んでいると

大きな三叉路の信号にぶつかった。

右に曲がり、鎌倉駅方面に向かって進むとすぐに「北鎌倉駅」だ、あれどこで道を間違えたのだろう。間違えたところが分からなくなってしまったので、駅に隣接している臨済宗大本山「円覚寺(えんがくじ)に入った。入場料金300円を払い山門を通り本堂にて拝み、入場料を払っているのでお賽銭は気持ちだけ、大きなお寺の割には本堂小さく感じた。本堂の両脇にお寺には珍しい「ビャクシン」大木が鎮座している、広い境内を少し散策して山門をカメラに収め、後にする。         横須賀線の踏切を渡り道路に出る。やはり鎌倉だ、結構人が歩いていて、(いき)なお店がたべ物屋ともども両側にあります。

歩記はじめてすぐの所に、臨済宗円覚寺派「東慶寺(とうけいじ)と言うお寺があり中に入って行きませんでしたが、このお寺は北条時宗の奥さんが、尼寺として建創して駆け込み寺とした。との説明でした。しばらく歩いて踏切を渡ると又大きなお寺。円覚寺はよく聞きますが、私としてはあまり聞いたことのない名前。

臨済宗大本山「建長寺」です。案内図を見ても円覚寺より境内が広いようです。

時間がないので中に入りませんでしたが入場料が500円となっていました。円覚寺より高いので格式が上なのか?見るべきものが多いのか?創建はこちらの方が何十年か早いようですが。どちらも北条家なのと、こんな近きに大本山が2つもあることに少々ビックリ。この二つをうまく説明ができる方乞う。

1ページにありました「関東(鎌倉)十刹」について、これは臨済宗だけが使う言葉で、京都十刹とか奈良十刹と大本山がありその周りの十のお寺の事だそうです。結構十のお寺は権威があったのでしょう。鎌倉は円覚寺派、建長寺派合わせて十刹だったとの事です

刹とは寺と言うこと漢語林出ていました。

道路に帰り、トンネル抜けて下った所から階段を上がると。鶴岡八幡宮八幡神社本宮の裏手に出た。表に回ってお参りをして階段を下りて神木であった台風で倒れてしまった銀杏の切り株を見ると、小さな何本かの芽が出ていいましたが、脇の方に改めて植えた2世の銀杏がありました。もう何年も経っていると思いますが、まだ幹は細かった。此処からは、あまり知らないことについて期します。写真の石は「よしべい石」と言います。途中のトイレの前にありますが、鎌倉の飯島海岸で、感動大震災の際、海底が隆起して出てきた石です。事故の多い海岸で縁起を担いで漁師たちが神社の境内に収めた。太鼓橋を渡るとそこからは石燈籠の参道になります。400500くらいあるでしょうか。写真は「二の鳥居」の下から神社に向かって撮った写真です。これは鳥居の所から太鼓橋の所までが道の広さが違います。これは攻められたとき遠く感じさせるために手前を広く奥を狭くしてあります。とテレビで説明をしておりましたが、私の考えでは先が狭くなっているので窮屈になりスピードが落ちる事もあるのではないかと思います。ちなみにメジャーを持って行って測ってみまし                                                た。手前が4,8m、奥が3.0mでした。1.8m(1間)違いでした。2の鳥居の脇に「豊島屋本店」があり鳩サブレを土産に買って、旧鎌倉街道上の道はこれで終わりです。感想は歴史が古いため道が途中で切れていたり、狭い所があり、交差するとこで間違える、地図を見ることに時間を取られました。鎌倉は456年?ぶりでした。

(追記)この歩記は、グルメも兼ねておりましたが、途中では1~2軒しか食べれませんでしたが鎌倉は良く調べたり、テレビで見ていて控えて置いたりした中から食べてきました。

住所等記しておきます。鎌倉に行かれたら参考にしてください。

(やま)(すけ)本店この店の歴史については、そもそも「しらす」の卸問屋で、いまだにシラスをはじめ店頭でいろいろな魚類(加工物が多い)を売っていて、食堂は店の奥になります。私の食べたのは、シラス釜揚げと生本マグロのミックス丼です。マグは切り身が大きくて厚い、赤みも中トロも大トロも美味しかった。価格も手ごろでした。欠点が混んでいませんでしたが30分ぐらい待たされる。

倉市御成町78(御成通り) 鎌倉駅(西口)から3分。東京にも支店があります。

もう一軒参考に

「津久井(お好み焼き)」西口駅前 「お米焼」きが有名 。お米のお好み焼きバージョンです。

帰りは、鎌倉から藤沢まで全線「江ノ電」に乗ったことがなかったので乗りたかったのですが、横浜に用事があり残念でありました。

神奈川で機会があったら横浜の芝漁港の「穴子丼」のダブルを食べたいと思っています。

                            旧鎌倉街道完 



旧川越街道の歩記第四回添付いたします。
長い間、私のつたない「歩記」にお付き合いいただき有難うございました。
一つの宿場のある街道を完歩することはこれを最後にしたいと思っております。
今まででも
NPO東京ウォーキング協会・財団法人日本ウォーキング協会のイベントに参加して楽しんで来ましたのでそちらに重点を置いて、自宅に近い鎌倉街道・大山街道な
ぶらぶら食べ歩きをしながら到着の際はお参り、見学をしたいと思います。
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2019年春「旧川越街道」歩記です

旧川越街道歩記

                   歩記者 林 厚男

第四回

 平成31年4月12日(金曜日)        天気曇り 温度 12

大井宿〜川越宿            地図距離8q 歩行距離15.5q


上福岡駅に降りて川越街道に出て出発です。緑地帯の銀杏並木が少しあって、終わった所が旧道に分かれます。そこの信号の先からが川越市となります。ここからの旧道は市道になります。「川越宿」まで宿場はないので、途中の神社仏閣は全て立ち寄るつもりでおりましたら、三叉路の左にもう神社がありました。参道の入り口に神社とは別に大きな「厄除け地蔵尊」あります。

「鶴が丘八幡宮神社」小さな社でしたが結構古いようで石の鳥居は頭に当たるかと思うほど低かった。この神社は住所的にはふじみ野市に入る様です。

神社を出ると藤間地域になってきましたが、この辺りは昔村の中心地であったのでしょうか、大きな屋敷ばかりです。有山・沢田・新井の姓が多い、中ごろに来た時「新井本家」(現在は煎餅を作っているらしい)があってそこに小さな石碑が立っているので見ると「藤馬宿」(宿場は藤馬、現在住所は藤間)跡としてある。説明札があるが古くて字が見えなかった。

帰ってきてから調べてみると、どうも大井宿と川越宿の中間にあったようだ。それも上宿・中宿・下宿とあったとの事。バス停も藤間下・藤間中・藤間上とあった。宿場の外れになるだろうか「東光寺」,寺は小さいが山門は立派でした。幼稚園の経営をしていて名前も東光幼稚園。茅の大木がありました。東光寺を過ぎると「砂新田」地域に入ってきました。「砂新田春日神社」案外新し歴史の神社の説明ですが、中の本殿の彫刻が文化財としてあります。小さな窓から中が見えませんでした。ここの境内にて一休みをいたしました。歩き始めと大きな菩薩が立っています。「開明地蔵大菩薩」この地蔵は首切り菩薩と言って川越藩の処刑場にあったものをここに江戸中期に移したとの事です。ここ砂新田も大きな屋敷があります。小峰の姓が多くみられました。

大きな洋館風のお屋敷があった。何かきっと名の知れた人かもしれないと思って控えてきました「鈴木英明」としてありました。調べてみますと、私は学がないのでわかりませんが、その方では有名な彫刻家らしいのですが、間違っていたらごめんなさい。詳し方がおりましたらお知らせください。

「不老川」を渡ると岸町地域となりますが、川を渡った所から旧川越になるのでしょうか急に川越宿の一部らしき建物があります。中は見えませんがデイサービスセンターになっていました。市の経営なのでしょうパンフレットがあったので読んでみますと通所介護(要介護1〜5)自己負担1〜3割だそうです。 

そこを過ぎると坂道に差し掛かります。立札が立っていて市の指定史跡烏頭坂(うとうさか)

新河岸川船が盛んのころ岸町から荷物を問屋街に運ぶのに必ず通らなければならないところで難所だった「うとう坂 こえて苦しき行く末を やすかたとなく 鳥の音もかな」と歌が残っている。すぐ隣に階段があり上がっていくと「熊野神社」です。神社の写真ではつまらないので境内にあったものを映してきました。横の立札には子宝に恵まれろとしてありました。大きなものをぶら下げていたので子宝間違いないと思います。

神社から降りて、登り切った所が5差路の複雑な信号,国道254選はこの交差点が終点です。よく地図を見て斜めにわたり、東武線の陸橋を渡ると町なかに入ってきました。ここからは旧川越街道は県道39号線になります。この道路をひたすら歩きます。東武線の川越駅入り口を過ぎたところに神社入り口の案内,入っていくと「川越八幡宮」です。歴史は古いようで神主も巫女さんもいて川越では大きな神社ではないか。縁結び、夫婦円満、特に足腰しにきく神様だそうです。街道に戻ります。城下町の街道には必ずあるクランク道路を過ぎて、大きな信号を右に曲がります。終点行く前に立ち寄りたいところがありました。川越大師「喜多院」初めて知ったのですが、地図を見ると敷地が広いようなので大きなお寺だろうと見たからです。曲がってからすこし歩きました。参道の入りの右側には「成田山新勝寺」の別院がありました。これも大きな建物です。参道が突き当たった所が目的地、これは家康が訪れたときに、建築を支持して「喜多院」と名づけた。その後大火にあって、三代将軍家光が再建した。家光の乳母であった「春日局」の部屋があるとの説明です。広い敷地の中に「東照宮」「日枝神社」「五百羅漢」「大黒天」などがあった。ボランティアのおばさんに町の見学などについて聞き、ここを後にして先ほどの交差点に戻った。又、道路が大きなクランクになる。ここは江戸時代には(かぎ)の手と言って跡が現在保存されていた。ここから終点の大手門跡までが江戸に出発する起点となり、江戸町の地名であった(現在は大手町)信号が来て渡った所が市役所で市役所の脇に「大手門跡」の碑が立っていて旧川越街道はここが終点です。川越城は市役所を正面に見て右に行ったところですが行きませんでした「川越城本丸御殿」があり県の指定文化財の様です。「旧川越街道歩記」も終了したので、戴いて来た観光案内地図広げて見学に入るため札の辻の信号に向かいました。信号を左に曲がると写真のような通りとなります。この通りは「一番街(蔵通り)」と言って昔蔵だったところです。人通りが少ない所を狙って写真を撮りました。少し進んだところを左に入ったとこ所に「時の鐘」が立っています。蔵通りと並んで川越の象徴です初めは江戸時代の初期に建てられたが何回か火災に遭って建て替えられ現在のものは明治26年川越大火の翌年に再建され、薬師神社の門として高さ16メートルが建っていました。観光案内を見るとこの周りにはやたらと寺があります。きっと各大名の菩提寺になっているのではないかと思われる。昼食時期になったので、寺には寄らず昼食の店探し、と言ってもウナギを食べるつもりでいたので探しましたが何軒もあってどこにしようかと迷いました。昼食を済ませ「大正浪漫通り」を見ながら駅方面に向かいました。通りの終わりに「熊野神社」があったので入ってみますと境内に「山車」の格納庫がありました。街中を歩いているときも何か所か「山車」の格納庫がありましたが、記憶によると各町内の山車が出て有名な祭りがあったことを思い出した。神社を過ぎると古い街並みも終わりとなります。

最後の所に(れん)馨寺(けいじ)と言う結構大きなお寺がありましたので、今日の無事完歩のお礼し、寺を後にして西武線の本川越駅に向かい帰路につきまいた。

余談ですが皆さんも一度、小江戸と言われる川越の町にいかがでしょうか?平日でも結構な人通りですので休日は大変混むと思います。平日をお勧めです。私は今日、街道は8q残っていただけですが、町の一部を見学しただけなのに倍近い距離となってしまいました。一日を予定してくれば結構な見学ができるしょう。

駅で降りたら真っすぐ進むだけである、西武線を利用された方が便利で楽でしょう。

 

     

                旧川越街道完

 

 

                                   

第三回 

平成31326日                天気 曇後晴 温度18

成増駅〜白子宿〜膝折宿〜大和田宿〜大井宿 地図距離19.5q  歩行距離23q

東上線成増駅より川越街道(国道245号と同行)に出て物の300mも歩くと245号と別れて旧川越街道右に平行的に進みます。急な下り坂新田坂(しんでんさか)に差し掛かり(写真の後ろに坂の勾配が分かります)「子育て地蔵」の旗が立っていたので入ってみると(地蔵は写真の一番奥)説明によるとこの辺りの石像をここに集めたとの事。常夜灯・庚申塚などがうかがえます。脇に皇太子(平成天皇)の御降誕(ごこうたん)の碑が立っていました。坂を下り切った所に「新田宿八坂神社」があります。この神社は京都の八坂神社より 勧請(かんじょう)されたものとの説明です。このところからわずかの距離ですがここから白子川までが「新田宿」だったようです。白子川を渡りますが「白子橋」の欄干に童謡の「くつが鳴る」を刻んだ銅版が埋め込んでありました。帰ってから調べてみると作詞家の「清水かつら」が4歳で実母をなくし義母に育てられたが関東大震災で疎開した先が、義母の実家のある白子村で生涯を過ごした。との事で納得。川までは東京都板橋区で川を渡ると「白子宿」埼玉県和光市になります。

渡った所から旧川越街道は県道109号線です。突き当りの信号を左に折れ進みますと右に大きな屋敷があって蔵が3蔵もある。この宿場の要になっていたのではないかと思われる。宿場は此処で終わりです。急坂を上り始めると左の看板です。湧水が出ていて宿場の大事な水だった。坂は大坂と言う名前です。」80mぐらいの長さですが勾配のきつい坂でした。登り終へた所は全て住宅街ですが、下の湧水はどこから来るのでしょう?

新しい道路が出来て、地図にない複雑な信号で10分ほど迷いそうになってしまった。下に東京外環道がありそれに付随した道路が出来ていたので迷いました。何とか109号に戻ることができた。ここからは真っすぐ歩くのみ。和光市を過ぎて朝霞市に入ってきます。朝霞警察の前を過ぎると下り坂になります。進んで行くと国道245号と接近しますが旧道は右にカーブをして「(ひざ)(おり)宿(しゅく)へと進みます。右奥に「一乗院」と言うお寺がありましたので入りました。このお寺は建物が火事などで新しいが歴史は古いようで、明治の初めには小学校として使用したり、役場とも使用していた説明です。膝折村の要であったようです。街道に戻ります。少し進んだところに郵便局があってここが本陣跡の立札があった。

その斜め前にあったのが膝折宿の脇本陣です。「高麗家住宅」18世紀末に立てられた重要建物です。人は住んでいません。説明によるとこの宿場は室町時代からの宿場で、江戸時代末には民家が立ち並び地方の商業の中心として栄えたとの事。今は駅も遠くさびれてしまっています。この建物の隣が門構えの大邸宅がありますが、現在の高麗家の建物ではないかと思います。ここを過ぎて旧道は109号と別れて左に曲がり結構大きな川で「黒目川」渡ります。渡った所に宿場らしき建物があるのでここまで宿場は続いていた模様。坂道を上がっていくと109号線と合流します。坂道を上がったあたりから「新座市」に入ってきました。野火止と言う地域名に入ってきましたが「野火止用水」で知られた名前です。小平市の玉川上水より引いている。水路は見当たりませんでしたが今でも水が流れていると思います。小平市も青梅街道沿いの民家は広い敷地に大きな住宅、ここ野火止も同じく広い敷地と大きな住宅が街道の両側に何軒もあります。水の力が大きいことを感じます。「横町の六地蔵」とありましたので写真に収めてみました。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)に迷いを転ずる人々を救う菩薩としてありました。ここを過ぎると大きな交差点がありそこに平林寺の石碑が立っています。「平林寺」の参道の入り口になる印有名なお寺です。もともとは岩槻市にあったものを川越城主の「松平信綱」がここ野火止に移したと記されております。秋の紅葉時はとくに素晴らしいと聞いております。1回如何でしょうか?見る価値がある様です。豪農の家々はどんな苗字が多いか見ながら歩きます。新井・森田などが何軒かありその他は結構バラバラでした。ご当地の鎮守「神明神社」に参拝をいたしました。稲荷神社もありました。武蔵野線のガード潜って行きますと大きな馬頭観音があります。これは主人に忠実な名馬(おに)鹿毛(かげ)を忍んで立てた観音です。ここから何もないのでもくもく歩きます。

何キロか歩きますと、「大和田宿」につきましたが、ここの宿場はそれらしきものが何もありません。宿場を過ぎると国道254と合流です。結構大きな「柳瀬川」を渡ると国道463号との大きなインターチェンジになっている。インターチェンジに来ると歩道は遠回りになるから苦労する。254号は此処まで片側2車線だったのが急に一車線となりました。坂道を上がった所が「跡見学園女子大学」です。歴史のある大学と聞いているが、こんな不便なところに何部があるのだろうか?

大学を左に見て通り越すと、三芳町になり、川越街道で有名な道路の緑地帯のケヤキ並木です。道路の両側にもケヤキ並木になっている。古い大木もあるが年数の低い幹も見られる。新芽が少し出てきました。芽吹き終わるとまぶしいくらいの緑が鮮やかになることでしょうが、秋を過ぎた落ち葉が大変になることが想像される。3キロ近くの並木がいったん終わった所で昼食をとりました。食事が終わって歩き始めると、歩いて来た割には快適でビックリ。体重を減らしたのが功を奏したのか?道路の向こうにお寺が見えるので渡って入っていく「廣源寺」と言う寺で明治の初めにここも小学校が開校されたとある。このお寺の珍しいのは、仁王様は普通、山門の両側に立っているのだが、本堂の両側に立っている、初めてのケースでした。お参りを済ませ街道に戻り、街道を進みます。大きな藤久保の信号を超えると緑地帯があり今度は赤松の並木です。赤松は排気ガスに弱いのでだいぶケヤキなどに植え替えられています。並木が終わると「ふじみ野市」に入ってきました。

ここは昔の大井町です。「大井宿」に入ってきました。直ぐに「徳性寺」と言うお寺があるので入りましたが、ここは石佛関係が沢山並んでいる寺で宿場のかなめであったようです。

寺を過ぎたところに「大井宿本陣跡地」の碑が立つていて、僅かのそれらしきものが残っていた。本陣があったが、当時は小休と人馬の継ぎ立てだけ行われていた。明治に入って3度の大火にあって、宿場の街並みは消失してしまった。

そこを過ぎると大井第1小学校の1画に、元大井町役場の建物が残されていて、国の登録有形文化財となっています。建物は使用されていません。写真で見るとよくわかりませんが木造の古い建物です。昔大井町の中心部であったようです。中に入ることはできません。

中心部を過ぎたところに「地蔵院」と言うお寺がり、中に入りま せんでしたが枝垂れ桜が咲いていて、何組かがお花見をやっていました。このお寺は枝垂れ桜が有名なのでしょう。又すぐ先になりますが亀久保の信号の所に「亀久保神明神社」の祠が見えました。寄りませんでした。又緑地帯の並木道になります。今度は全てが銀杏並木になっています。よくわかりませんが、銀杏はギンナンのならない、オスの木ばかりあると願っています。並木の途中ですが上福岡駅の案内板がありましたので途中ですが、駅に向かって帰途につきました。

                   第三回完          

2

平成31年3月13日(水曜日)            天気 晴  温度18

庚申塚〜平尾宿(板橋宿)〜上板橋宿〜下練馬宿〜成増駅  歩行距離12.5q


 眞性寺と六江戸地蔵尊

    (鴨さざえ)

   亀の子束子本店

   アーケードハッピー大山朱店街 

     下頭橋

   練馬区唯一の下練馬宿

   富士嶽神社と富士塚 

都電の庚申塚駅に降りても巣鴨駅でおりても、時間的にあまり変わらないので巣鴨駅に降りてもう一度「巣鴨とげぬき地蔵通り」を歩くことにいたしました。商店街に入る入り口左に大きな地蔵尊のある「江戸六地蔵尊眞性寺」をお参りして商店街にはいって「高岩寺」「とげぬき地蔵」にお水をかけて、とげを抜いて?来ました。流石に今日は、縁日でもない平日なのでお地蔵さんにはおばさんが一人いただけでした。商店街も人が少なく先日歩いた時と違ってあっと言う間に出口につきました。出口に右側に「猿田彦大神庚申堂」がありこれもお参りをいたしました。出てきて信号を渡る、ここからは「庚申塚商店街」となるが渡った所の1つ目のお店が「うな菊」と言う地蔵通りの有名なウナギ屋さんです。前回探しても見つからないはずです。地蔵通りでなく、庚申塚商店街に属していた。都電の踏切を渡っても商店街は続いております。都電に乗って国道17号線を超えて行ったところにお寺が10寺ほど集中しており、その中にはお岩さんのお墓、遠山金四郎の墓、芥川龍之介親子の墓などがいくつかのお寺に点在してあるとの事。こちらにお出かけの節はどうぞ。進んで行きすと右側に古い建物が見えますので前にいってみますと「東京種苗梶vと書いてあります。江戸時代から種子を扱っていたようで、建物は明治初期のものでその当時は相当手広くやっていたのではないかと建物からうかがえます。現在は商売はやっていなくて、豊島区の需要文化財。そこを過ぎたところで目の前に八角形の不思議な建物が見えてきました。宗教臭いが入っていく「すがも(おう)(だい)観音堂(かんのんどう)としてあります入場無料としてあるので入りました。中の回路は往路と復路が交わらない二重螺旋構造になっていた。どうも何だかわからないと思って周りを見ると大きな建物が6〜7    見えます。ここは「大正大学」でした。この大学は仏教大学から始まっていたことは知って いたので納得。ここで庚申塚商店街は終わりで明治通りの信号を渡ると北区に入り「滝野川銀座通り」となっていますが、銀座は昔のことで大変寂しいものになっています。中間地点のあたりに来ると大正時代の建物があり、看板が出ているので建物の前に行くと「亀の子束子西尾商店本店」となっている。明治40年の創業だそうです。テレビで何回か和歌山工場は見たことがあります。本店だけあって裏には大きな倉庫があり、その他敷地も広かった。正面を覗くと中では束子その他を陳列してあり販売も行っている様でした。埼京線の踏切に来ると、滝野川銀座も終わりです。左がすぐに板橋駅となりますが、昔は「池袋、赤羽線」と言っていたような気が致します。地図を見ると板橋駅の南口には「近藤勇」の墓とありますが、見に行きませんでした。踏切を渡ると板橋区に入り「平尾宿(板橋宿)」です。面影は何もありません。平尾宿の手旗が各街灯に縛りつけてあるだけです。通りが終わると国道17と合流になり、板橋郵便局の前を通り過ぎて行くと、何も面影はありませんが「平尾追分」となり。中山道と別れて、ここからが「旧川越街道」です。山手通りの信号を渡りますと、駅より東側の「遊座大山商店街」こちらはアーケードになっていませんが朝から結構人出があります。5600mほどあるかと思います。東上線の踏切を渡ると今度は「ハッピー大山商店街」となり5600mアーケードになっています。

スーパーの前に椅子が何個か置いてあるのでお茶を買って水分補強に一休みをしました。アーケードの商店街を抜けたところが国道254(新川越街道)と合流です。254号は池袋からきております。合流地点に大山地域の守り神である「大山福地蔵尊」をお参りして300mほど歩く、日大板橋病院入り口の信号を254号と別れて右斜め旧道に入ります。ここからは「上板橋宿」となります。この宿場は伝馬役を任されていたので休憩宿場だった。(とよ)(けい)稲荷神社」の境内に昭和の初めの縮図がありましが、街中には宿場を表すものはほとんど残っていません。ただ一つ「町鳶(火消も兼ねていた)」が残っていた。当時は町鳶が中心になってここは収まっていたのだと感じます。町鳶の前を通り越したときに、早い昼食を済ませたのか町鳶の親方だと思いますが出てきました。着流しの法被に股引と雪駄履いていまして、雰囲気が出ていました。宿場の終わりが「石神井川」に架かっている「下頭橋」、区の指定文化材になっていますが、いわれが橋のたもとに碑が立っていますが、川越城主が江戸に就くさい家臣がここまで迎えに来て頭は下げたなどいろいろに説があってわからないとのこと、橋を渡ってすぐに左斜めに進みますと、又254号と合流です。 環七との立体交差点になっている。254号を1qくらい歩きますと右側斜めに旧道に入る。結構人が歩いていました。今までもそうでしたが旧道に入るとほとんどが商店街になっていて、結構活気のあるところが多いのでびっくりしておりました。道が狭いのと車が少ないこと駅に近い回りが住宅街が影響しているのだろうか?上板橋商店街が終って信号を渡ると写真の状態。練馬区で練馬区唯一の宿場「下練馬宿」。商店街は「北町1商店街」と次に行く「北町2商店街」と別れていて、1の方が宿場となります。入ったすぐに宿場の案内図があり本陣と当時の町の様子が書かれておりましたがすべて跡地の案内です。すべてが商店街で店ばかり。但しここの町は本陣などがあり、川越街道では唯一の宿がある宿場だったようです。町も綺麗でした。中ごろに来ますと急に広々した所に出ました。下は環八道路でした。この広場に江戸時代に富士・大山信仰のために旧川越街道と大山道の分岐点に印のために立てられた大きな石碑が立てられている「下練馬の参道土標」があります。ここを通り越して宿場の終わりに「富士嶽神社」がありました。写真で見にくいですが左の鳥居の奥の山が「富士塚」です。一合目から10合目(頂上)まで合目を記した石碑があります。信仰者が山を作ったようです。春先には山開きを行うとの説明です。丁度12時となったので商店街の食堂にて昼食としました。食堂を出て北町2商店街を歩きます。ちょっとこちらの方が劣るかな? 商店街の外れに来ますと「北町観音堂」があり、色々の石像があり、小さな山門の両側に仁王像がありますが、これも石像です。練馬区文化財の指定になている観音石像などは27メートルもあります。商店街も終わってひたすら歩きます。新大宮パイパスとの信号を渡ります。このパイパスが国道17号線になっていました。中山道の方が17号線で此方は支線ですが・・・・しばらく歩くと又254号と合流です。合流した向こう側に川越街道名残の杉並木が残っていました。254号の両側はまだ都内のせいか大きな高いマンションなどが並んでいます。60年ぶりくらいに通りますので町の変わりようにびっくりしました。この後「白子宿」まで歩くつもりでしたが、コンビニにてお茶を購入した時に地図を落としてしまった様子。白子宿の道路が複雑になっているので2qを残して成増駅より帰宅いたしました。


旧川越街道歩記

                       歩記者 林 厚男

第一回目

平成31224日           天気晴     温度11

本郷追分〜庚申塚                  4q


   ほうとく地蔵

    とげぬき地蔵

  赤パンツの「マルジ」

  赤パンツの「マルジ」

旧川越街道を調べてみると、戦国時代の「太田道灌」が川越城と江戸城を築いて江戸と川越を結ぶ重要な街道であった。江戸時代は、川越は、江戸の北西を守る要となり藩主には、老中格の譜代大名が配置された。家康以下、三代将軍も、鷹狩りや参詣に街道を往来、「松平信綱」が川越城主なってからはさらに整備された街道なった。江戸城からは13里ぐらいになり「栗(九里)より(四里)よりうまい十三里」と川越の美味しいサツマイモの宣伝になった。そんなことで距離はありませんが六ケ所の宿があったので歩いてみることにいたしました。地下鉄「南北線東大前駅」で降りて地上に上がると、そこは東大農学部前で「本郷追分」となる本郷追分まで「中山道」「御成街道」「川越街道」は同行であり、この追分にて「御成街道」直進となり「中山道」と「川越街道」が左に折れて同行となる。ここまでの内容は「御成街道歩記」を読んで頂きます。今日はちょっと変わった「歩記」になっていまして、「巣鴨とげぬき地蔵通り」を見学するため3人仲間を誘いました。とりあえず「本郷追分」からは2人が参加にて中山道を歩き始めました。今日はqが少ないためにゆっくりと歩くことにいたしました。歩き初めてすぐに右手奥にお寺があるので入っていきます「大圓寺」言うお寺ですがここの境内に「ほうとく地蔵」があり「八百屋お七」を祭ってあります。写真ではよくわかりませんが両側に吊ってあるのが折り鶴で、茶色の積んであるお皿がホウトク(浅い素焼きの土鍋)真ん中に黒く見えるのが地蔵で頭にホウトクを被っていました。首から上の病気が治るとの説明です。お七の墓は近くの「円乗寺」ある様です。家に帰ってから調べてみますとこのお寺ら3,500人がなくなったと言う天和の大火(1,683年)の火元との事不名誉のことなので、さすがに説明板には書いてありませんでした。八百屋お七一家はこの大火で焼きだされて、寺に避難をして再建された家に戻ってから、実家に火をつけて鈴ヶ森で火あぶりの刑になった。家は少し燃えただけで消し止められたその頃は放火の罪はきびしかったことが分かります。実際にはお七のことはよくわかららないようですが?焼け出されたこと、実家に火をつけたこと、火あぶりの刑、だけが分かっているとのことのようです。白山上の信号を過ぎると左側一帯は東洋大学です。箱根駅伝何回か優勝をして、今でも競合大学です。わが故郷の出身の相撲力士の「御嶽海」の母校です。大学の多きな建物を過ぎると千石町の三叉路の大きな信号です。左に折れると後楽園、水道橋を通り大手町に行きます。左に曲がって少し歩きますと千石一丁目の信号ですが昔はこの辺りは「駕籠町」と言っていました。昔、人にこの辺りの地図を教えるときは駕籠町の信号は必ず話の中に出てきものです。もう約60年の昔の話ですが・・・御成街道はやたらとお寺がありましたがこの中山道はこれまでの所お寺が一軒だけでした、神社に至っては何もありませんどうしてか?が疑問に残りました。信号を過ぎると巣鴨駅がすぐに来ました。もう一人がここでの待ち合わせでしたが探してもいません。携帯にかけても電源を切ってありつながりません。ちょいとした意思の疎通ができていなかったようでしたが、なんとか合流になり国道17号(中山道)と別れて「とげぬき地蔵通り」に入ります。ここから旧中山道になります。ここは4の日が縁日でそれを狙って14日に来ました。賑やかであることは分かっておりましたが、寒い2月なのでたいしたことはないだろうと思って来ましたが日曜日と重なってか、物凄い人出でびっくりやっと歩けるほど、「おばあちゃんの原宿」と言うだけあってほとんど年寄りです。感心したことで、他の盛り場と違って外国人はほとんど見かけませんでした。少し進んだとこらが、「高岩寺」です。ここの商店街は800mに及ぶそうですが、この寺の門前として発展をした。この境内に「とげぬき地蔵」がありすごく並んでいて30分以上待たないと水かけ供養ができません。体のとげを抜くことができないので本堂をお参りして通りに戻りました。初めて知りましたがここは赤いパンツでも有名と言うことが分かりました。元気と幸福をお届けする「マルジの赤パンツ」どこが元気になるのでしょうか?4店舗もあります。とげぬき地蔵とは何も関係なく昭和27年に出店し長い歴史がありそれで有名になっただけのことのようです。女性物が殆どで、4人とも買いませんでした。多分お土産に買っても履かない?でしょうね。但し店の写真は撮ってきました。 昼時ですが入りたいと思うところは並んで待っている。商店街の半ばを過ぎるとやった少し歩き易くなって一軒の食堂を覗くと丁度4人テーブルが終わるところだった。まずアルコールで体を清めた。この店の看板娘か?幼稚園児だと思うが箸とお手拭を挨拶をしながら持ってきてくれたが、またこの子がものすごく可愛かった。店を出て少し散策、庚申塚の信号を渡ると、都電が走っています。大塚駅まで都電に乗りましたが、約60年ぶりになるでしょうか?休日のせいか良く混んでおりました。




今回は日光御成街道を歩きます

 第四回 

平成301220日(木曜日)     天気晴    気温13

岩槻宿〜幸手宿        地図上17.5q 実質的距離 21.5