芦沢壮寿さん論文集
         (北士会メーリングに投稿の論文をそのまま掲載させていただいております)

人口減少に向かう日本の再生

2024年正月 芦沢壮寿

 

 今、日本は30年余に及ぶ長期停滞から抜け出して、新たな日本に生まれ変わる好機にあります。そのことについては昨年11月に発信した『歴史的転換点にある日本経済』で述べましたが、今回はそれを掘り下げて、人口減少に向かう日本が再生する方策について考えてみることにします。

 

1.日本の人口減少対策

 今年の19日に、日本製鉄名誉会長 三村明夫氏が議長となり、元総務相 増田寛也氏が中心となって民間有識者がまとめた『人口ビジョン2100』が発表された。この提言は、岸田首相に戦略の立案や実施の司令塔として政府内に「人口戦略推進本部」を設置することを要求し、2100年に日本の人口を8000万人台で安定させ、高齢化率(65歳以上の人口比率)を30%程度に保つ「定常化戦略」と、その状態で成長力のある社会を築く「強靭化戦略」を提示している。

 三村明夫氏は、長期経済停滞の原因として、家計が消費を控えて貯蓄し、企業が下請け企業にコスト削減を強要して、資金を設備投資に向けずに現預金を積み上げ、政府が社会保障や少子化対策を先送りして「痛みの分配」を避けてきたことによる「家計・企業・政府の共同謀議」だと指摘している。

 日本の人口減少の実態を見ると、戦後間もない第1次べビーブームの頃に4.0以上もあった合計特殊出生率(1人の女性が生涯を通して生む子供の数の平均値)が急激に減って、1961年に1.9となり、197174年の第2次ベビーブーム期に2.14にまでもち直したものの、それ以降は減り続けて2022年には1.26にまで下がった。また、第1次ベビーブーム期に年間240万人だった出生数は、1961年に160万人にまで減少し、第2次ベビーブーム期に210万人に回復したものの、現在は70万人にまで減少した。

 『人口ビジョン2100』の定常化戦略は、2022年に1.26にまで下がった合計特殊出生率を2040年に1.62050年に1.8に回復させ、2100年に人口維持に必要な2.07まで、できるだけ引き上げることである。

 強靭化戦略は、教育の質を向上させ、生産性を上げるために企業・産業・地域の構造改革を行い、移民政策を高い技術者を受け入れて永住させるように変更することによって、1%に近い経済成長のできる社会を築くことである。

 もし、現状のままで放置したとすれば、日本の人口は2100年にピーク時(2010年頃)の半分の6300万人にまで落ち込むという。2040年以降は総人口が毎年70万人を超すペースで急減する減少期に入り、国内市場も急激に縮小するために投資が国内に向かわなくなる。そうなると、果てしない縮小の渦に呑み込まれて格差が急拡大し、世代間の対立が激化して再分配もできなくなってしまい、日本社会は崩壊していく。それを回避するには、今、行動を起こさなければならないのだ。

 提言で注目すべき点は、人口減少局面でも国民1人当たりのGDPを増やして経済を成長させることと、人口減少を外国人で補う補充移民政策を否定し、生産性を高める一環として高技能者を受け入れることである。非高技能者を受け入れると、生産性の低い企業が低賃金の外国人で人手不足を補うことになり、生産性の向上に逆行するからだ。

 

2.日本再生の指針

 日本経済新聞が元旦から『昭和99 ニッポン反転』という特集を連載した。『昭和99 ニッポン反転』は、今年が昭和99年に当たり、日本は今年から昭和の古いシステムから反転して生まれ変わることを意味する。敗戦後の日本を世界第2位の経済大国に成長させた昭和のシステムは、経験がものをいう製造業の世界では良く適合したが、1990年代以降のインターネットとデジタルによる急速な技術進歩の世界には合わなくなった。日本を昭和の古き良き時代のシステムから解き放って、若者向きのデジタル経済に向かって反転する時は今だと主張しているのだ。以下では、この特集をもとにして、人口減少に向かう今後の日本が再生するための指針について考えてみる。

 

@日本の古い制度を解き放って世界に出て行く

 日本の過保護な年功序列の社会では変化が生まれない。下積みを経て処遇が上がっていく年功序列制度では、若者の力を引き出せないからだ。今や世界中の若者がインターネットでつながっている。安泰な文化を捨てて、野心を持って世界に出て行く若者たちを応援して投資することが肝要となる。

 日本の企業が変わってきた。ホンダは、「第二の創業期」を宣言し、もう一度ゼロからスタートして世界と勝負する決意を込めて、2040年に世界の新車を全て電気自動車(EV)と燃料電池車(FCV)にすると表明した。地球温暖化に挑むカーボンニュートラルの時代をリードしていく会社に生まれ変わるという決意を新たにしたのだ。

 2023年には、日本企業がインド工科大学(世界の企業が卒業生の採用を競っている)から世界で最も多い160人を採用した。

 J-POPのエイベックスはガールズグループXGXtraordinary Girls)を最初から世界でデビューさせ、23年に米ビルボードの一部チャートで首位となった。

 山梨県の農業法人アグベルは、農業高齢者が手放す農地をまとめて、収益性を高める好機と捉えて取り組んでいる。

 デジタル経済に向かって日本を再生するには、高度経済成長を支えた過保護で居心地のよい年功序列制度を捨てて、世界に出て行かなければならないのだ。

 

A異能を育ててイノベーションが生まれる環境をつくる

 日本は、世界から引用される上位10%に入る論文のシェアで、19992001年に4位だったが、20192021年には13位に沈んだ。

 高度な科学力を保つ国は、異能や変人をイノベーションを生む宝とみなす。米国ではノーベル賞物理学者の過半が21歳以下で大学を卒業する。そして異能や変人の知が共振してイノベーションが生まれる。そうした環境を提供することが「公平・公正な競争」なのだ。

 日本の学校では、平等主義のもとに同年齢が同じ内容を学ぶので、特別な才能を持つ異能や変人を締め出してしまう。日本の大学の講座制は、米欧の知識に追いつくことを優先した戦後の教育では機能したが、斬新な研究は生まれにくい。日本の教育が平等主義に安住して、公平・公正な競争を避けてきた結果として、科学力が没落してしまったのだ。日本の博士号取得者は減少している。世界でも博士号取得者が増えているのは米国と中国だけである。

 今のデジタル世界にイノベーションを起こしたプラットフォーム創始者は全て異能であった。日本をイノベーションの生まれる国にするには、教育の平等主義をやめて公平・公正な競争の制度に変え、異能が育つ環境にしなければならない。

 

B失敗を恐れずに挑戦する企業文化の創造

 古い慣習が残る日本企業をJTCJapanese Traditional Company)と言う。最も典型的なJTCNTTが「失敗カンファレンス」という社内イベントを始めた。このイベントにはオンラインも含めて2千人が参加し、互いに自分の失敗を発表し合って会場が沸いている。このイベントの目的は、失敗を恐れ、挑戦を避ける社内の空気を変えることであった。JTCの硬直的な年功序列制度は、出世の階段からはずれることを恐れ、無意識に責任逃れや失敗の回避を優先する企業文化を生み出して意欲の低下を招いていた。NTTは、年功序列をやめて「抜てき」をするようになって、成長のスイッチが入ったという。

 これからのデジタル社会では、失敗を恐れずに挑戦して、素速く試行錯誤を繰り返すことによって早く成果をあげ、競争に勝つことが肝要となる。

 

Cコンテンツを日本の基幹産業に育てる

 日本政府は、2003年に「知的財産戦略本部」を設置し、2010年には「クールジャパン海外戦略室」を設置してコンテンツ政策を進めてきたが、期待された役割を果たせなかった。失敗の原因は、政策の目標が不明確なために、戦略的・一元的な取り組みが不十分であったという。

 一方、韓国は、2009年に「韓国コンテンツ振興院」を設けて音楽・映画・漫画などのコンテンツ産業の海外展開で成果を挙げてきて、2021年には112億ドルの黒字を出している。

 日本はアニメ市場が大きくて安定していたから、日本国内で独自の低リスク志向で発展してきた。しかし、それでは限界がある。その限界を突破するには、海外にジャンプするしかない。

 最近になって米ネットフリックスが配信を始めた日本のアニメ「PLUTO」は、1話が3億円超となり、従来の45倍となった。米国は日本のアニメの潜在力に着目し、巨額を投じて買いあさっている。しかし、海外の巨大配信会社が日本のアニメ制作を主導する流れは、もろ手を挙げて喜べない。収入が制作費のみに制限され、関連商品などの2次展開が制限されるからだ。2022年の日本の著作権関連の国際収支は1.5兆円の赤字であった。コンテンツ産業では、自前の制作力を高めないと「植民地」になってしまう。

 ヒュ−マンメディアによると、日本発コンテンツの海外市場は、2022年に4.7兆円と2012年の3倍に急成長し、半導体に迫っている。経団連は2033年にコンテンツの海外市場を自動車に匹敵する最大20兆円にして、次代の基幹産業に飛躍させる計画を掲げている。

 今年は、日本の人気アニメ「ドラゴンボール」が生誕40周年の節目を迎え、完全新作のアニメとしてよみがえる。その主人公の孫悟空が復活の地として選んだのは米国であった。昨年10月、ドラゴンボールのプロデューサーを務める伊能昭夫社長がニューヨークの世界最大級のポップカルチャー祭典「コミコン」で「ドラゴンボール」の新作を宣言した。日本の作品が評価される今こそ、プロデュース力で勝負するチャンスだ。

 手塚治虫や藤子不二雄などの昭和のマンガの巨匠たちを生んだアパート「トキワ荘」の令和版を創る試みが始まっている。少年ジャンプの編集者であった持田修一社長が設立した「熊本コアミックス」である。持田社長は、イタリア人の編集者、オーストラリア人、フィンランド人などの若者と一緒になって、日本と世界の感性を融合して新しいアニメを創作しようとしている。

 

D人口減少に対処するための「令和の大合併」

 2023年の統一地方選では町村長選の56%、町村議選の33%で定数を超える候補者が現れずに無投票となった。選挙をしないと政策点検の機会がなくなり、民主主義の根幹がくずれる。無投票選挙の要因は地域の人口減少にある。

 明治・昭和に市町村の大合併があり、1999年に地方分権が叫ばれて「平成の大合併」が実施された。平成の大合併によって約2100の自治体が合併し、約3200の市町村が2010年までに約1700となった。この合併によって、合併した市町村の人口1万人当たりの職員数が非合併自治体を10人ほど上回り、不足が目立つ医師や土木技師といった専門職も増加した。一方、非合併の市町村のうち4割近くが2010年時点で人口が1万人を下回った。こうした事実から「平成の大合併」は効果があったのだ。

 2010年から本格的な人口減少に転じた日本は、これから一層の人口減少によって地方の過疎化が進む。民主政治の基本となる選挙によって民意を反映させるためには、「令和の大合併」をしなければならない。

 キャノン会長兼社長の御手洗富士夫氏は、国家の大転換として「道州制」の導入を提唱している。今の都道府県を開放して、日本を10程度の道州にくくり直し、米国の州のように、各道州が自主性をもって、地域の特徴を活かして発展を競い合わせるというのだ。

 

E人手不足をロボットやAIで補うための「社会保障投資」の推進

 かつての日本は家族が介護するのが普通だった。一方では介護が必要な「寝たきり老人」が病院に長く入院し、医療保険給付の肥大化を招いていた。

 20004月に現在の介護保険制度ができて、所得に関係なく誰でも介護サービスを受けられるようになった。家族が行っていた介護を社会化したのだ。その方法は、被保険者の要介護・要支援の程度を評価する基準を設け、被保険者が受けられる介護サービスの量をデイサービスや介護ヘルパーなどの保険適用業務の量として明確にした。これにより、寝たきり老人も入院期間をなるべく短くして、自宅で生活できるようになった。

 介護労働安定センターの調査によると、今、ヘルパーの7人に1人が70歳以上だという。また、高齢の夫婦どうしや高齢の子供が親を介護する「老老介護」が広がっている。

 高齢者人口は、今後も増加するが、2040年代に減少に転じる。それでも2040年には最大60万人の介護者が不足すると予測されている。日本の高齢化・人口減少問題は2040年までが勝負所なのだ。

 こうした問題に対処するには、ロボットやAIを使って介護の人手不足を補う必要がある。あるいは、社会全体のデジタル化によって生まれる余剰人員を介護に回すことが考えられる。

 このような国家的社会保障の大改革を行うには、「社会保障投資」の仕組みを作り、その投資資金を使って社会保障に必要なデジタル化を推進することが望ましい。

 

F外国人も輝く国に

 日本では1989年に「改正出入国管理法」が成立し、日系3世までの外国人に「定住者」などの10種類の在留資格を新設して、南米出身日系人の定住化を進めた。1993年に「技能実習制度」、2019年に「特定技能制度」が新設された。現在、日本には320万人を超す在留外国人が暮らしている。

 日本政府は、研修・実習・留学などの表看板を掲げて外国人材の受け入れを拡大してきたが、「移民政策はとらない」との姿勢を貫いてきた。外国人を労働力不足の穴埋めとみなし、社会を成長させる「仲間」とは認めていないのだ。

 日本企業は、外国人の苦手な日本語力を重視して、外国人の持つイノベーション力を無視してきた。それが、イノベーションの停滞する原因となっている。

 日本人の凝り固まった「ムラ社会」の価値観をほぐし、かけ声だけの「外国人共生」から踏み出して、外国人を社会の対等な構成員として認め、権利や待遇を改善することが日本を成長させる突破口となる。

 米国の大手旅行雑誌「コンデナスト・トラベラー」による2023年の読者投票では、「再訪したい国」の1位に日本がなった。外国人にとって日本は魅力的な国なのだ。今でも日本への外国人旅行者が急増して観光産業を潤している。日本が在留外国人にも輝く国になれば、国際社会から好感を持たれるようになり、安全保障や外交面でもメリットが生まれる。

 

G食糧安保を重視する農業政策への転換による農業の再生

 1993年の記録的な冷夏と長雨により、全国の米生産量は783万トンと前年より273万トンも減った。政府はタイや米国から計259万トンを緊急輸入したが、タイ米は敬遠されて輸入量の4割近くにあたる98万トンが売れ残って廃棄された。日本は、国際的なコメ価格を急騰させて評判を落とした。その影には日本の戦後農政の不作為があった。

 日本政府は、1970年に減反政策を始め、需要に合わせて生産を減らすことで価格維持と農家保護に走った。減反政策は、「農家から工夫を奪った」と言われ、与党が農家を保護の対象に位置づけ、補助金を出すことで選挙で有利にするためだった。また、農業協同組合に頼る販売は、農家から消費ニーズの意識を薄れさせた。本来なら、国内で消費しきれない米を輸出に回して稼ぎ、有事の際に国内に流通させることで混乱を緩和できたはずだ。

 国内の主食米の需要が2014年以降減り続けて、農業の縮小が止まらない。全国の田畑面積は2022年に432万ヘクタールとなり、ピークだった1961年から3割減った。それに気候変動が追い打ちをかけた。昨年は観測史上最も暑い年になり、高温や渇水で農作物に甚大な被害を与えた。

 国連食糧農業機関(FAO)によると、日本の農業生産者1人当たりの付加価値額は2020年に18,037ドル(約260万円)で1991年以降ほとんど増えず、韓国やギリシャ、デンマークにも抜かれた。

 穀物の一大輸出国のウクライナの危機が転機となり、食糧安全保障の重要性が浮かび上がった。日本経済の競争力が下がって円安に振れたことで、輸入による安価な調達が期待できなくなった。海外産の値上がりはコスト競争力で負けてきた日本の農業の好機となる。政府は2030年度に生産額ベースの食糧自給律を75%まで上げることを目標とした。これからの日本農業は、食糧自給律を75%まで上げる食糧安保を目指し、農地の集約や連携で経営の質を高めて、収益の上がる新たな成長産業にしていくのだ。それには、農業でも成長産業としてAIやロボットを活用したデジタル化が必要となる。

 

H個をつないで誰もが安心して暮らせる「日本モデル」の創造

 日本の標準家族像は昭和の高度成長期に固まった「夫婦と子供2人」であった。1960年代に地方から若者が都市部に流入し、都市郊外に多摩ニュータウンのような大規模団地が建設され、核家族化が進んだ。

 その後の日本は、合計特殊出生率の減少に伴って若者が減少する一方で、高齢化が進んで高齢化率(65歳以上の人口の比率)が29.1%となり、世界のトップとなった。さらに非婚の若者が増え、結婚しても3分の1が離婚するようになった。その結果として、「単独」の世帯が増加し、今や「単独」の世帯が38%を占めるまでになった。かつて標準家族であった「夫婦と子供」の世帯が減少して25%となり、「夫婦だけ」の世帯が20%、「1人親と子」の世帯が9.0%、「3世代など」の世帯が7.7%となった。

 単独世帯の増加によって、日本は社会制度の改革に迫られている。身元保証人がいないと入院・入所ができないという一般病院や介護保険施設が15.1%あるが、そこでは単独世帯者の入院・入所が面倒になっている。また、「介護は家族がする」という前提が完全に崩れてしまい、介護の全てを社会が行うような制度に改革する必要に迫られている。

 単独所帯の個がつながって協力し合っている実例として、兵庫県尼崎市に住む7080代の7人の単身女性が作っている「個個セブン」というグループがある。普段の生活は独立しているが、不測の事態が起きると互いの部屋に駆けつけて協力し合う。人間関係には煩わしさもあるが、不測の事態に協力し合える仲間がいれば、人生が充実して安心もできる。神奈川県大和市では、「おひとりさま生活課」を設けて、単独生活者に交流の場の紹介や終活支援に取り組んでいる。

 世界で一番早く高齢化が進んでいる日本は、世界に先駆けて単独所帯の個をつないで、誰もが安心して暮らせる「日本モデル」の社会を築いていかなければならない。

 その「日本モデル」でも、個をつないで互いに安心して暮らせる仕組みとしてデジタル・システムが必要になる。日本はデジタル化では遅れをとっているが、日本には地域の住民が協力し合う「和」の文化があり、高齢者の介護に必要なロボット技術では世界の先端にある。こうした日本の得意分野を活かして高齢社会のデジタル化の「日本モデル」を作れば、それが海外の高齢社会デジタル化の手本となって、日本がデジタル分野で発展するチャンスにもなる。、

 

I移動弱者を救済する地域固有の公共交通の創造

 人口増を前提に造ってきた公共交通のインフラがほころび、中小民鉄や第三セクターなど95社の鉄道事業の96%が赤字になっている。人口減少に伴い鉄道事業の環境がますます厳しくなっているが、一方では、高齢化に伴う「移動弱者」の足を保つために、公共交通の置かれた状況を改革する必要性に迫られている。2023年には、移動弱者が急増する75歳以上の人口が200万人を超え、政府は「改正地域公共交通活性化再生法」を施行して、ローカル線のあり方をめぐる本格的な対策に動き出した。

 公共交通政策を専門とする名古屋大学の加藤博和教授は、「住民の暮らしを守るために重要な公共交通は、運営費や要員確保の観点から主要路線を鉄道・バスで維持し、その先のローカルな交通機関は、地元のニーズに応じた交通手段を作って乗り継ぐようにすべきだ」と指摘している。

 その実例として、島根県邑南町では、特例を活用して自家用車を使い、地元の住民団体のメンバーが運転する予約制の乗り合いタクシーを始めている。

 

J日本をデジタルで稼げる国にするには、「壊」より始めよ

 2001年に森喜朗内閣がIT基本法に基づく国家戦略として「eJapan戦略」を掲げ、日本はITの活用による新産業の創出や人材の育成を目指した。その戦略の目標の1つだった「高速インターネットを3千万世帯、超高速インターネットを1千万世帯に整備する」という目標は達成した。しかし、最大の目標であった「IT投資や新たなビジネスモデルへの構造転換を進める」ことは達成できなかった。

 200009年の10年間のIT投資は、米国が1.7倍、英国が1.5倍、フランスが2.2倍に増えたのに対して、日本は10%も減少した。戦後の高度経済成長で世界第2位の経済大国となった日本は、2022年の1人当たりの名目GDPでは世界32位になり下がった。

 三菱総合研究所によると、2023年に日本企業が米企業のクラウドに支払ったデジタル赤字は56千億円になるという。赤字額は年々増加し、この10年で2.6倍になった。米大手3社のプラットフォーマーが国際競争力のあるクラウド基地のシェアの66%を占めている。日本企業はそのクラウドを使ってDX(デジタル・トランスフォーメーション:企業がクラウドのビッグデータやITを利用して、市場の変化に対応して、社内の組織・文化・社員の変革を牽引し、優位性のある製品・サービスの価値を創出すること)を進めている。言わば日本企業はクラウドを提供する米企業に56千億もの年貢を貢ぐ「デジタル小作人」なのだ。2001年に大型汎用機で世界の4割を握っていた日本は、クラウドでは殆どゼロに近く、デジタルでは稼げない国となった。

 クラウドの草分けの米アマゾン・ドット・コムは、リスクのある投資を重ねてコンピューター・サービスの新市場を創出した。日本のIT企業の誤算は「変化の速さ」というデジタルの本質を見失っていた点にある。米企業はサービスを運用しながら顧客と対話を重ね、失敗を恐れずに素速く新たなサービスを作り変えていく。日本のIT企業は、製造業と同じように、ソフトウェアを顧客の要望に綿密に擦り合わせて作るために時間がかかり過ぎ、変化についていけない。オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステード博士が開発した国民文化のモデルによると、日本は不確実性を回避する傾向がロシアに続いて高く、世界で2番目に完璧さを好む国だという。完璧さを好む国は変化を恐れるためにデジタル競争力が落ちるという。逆に、変化を恐れない傾向が顕著な北欧はデジタル競争力で上位を占めている。

 デジタル・システムの場合、古いシステムを作り変えるより、ゼロから作り直した方が早いという。今後のデジタル世界で日本が稼げる国に生まれ変わるには、過去のデジタル・インフラを壊して、新しいインフラを作り直した方が早くできる。この節のタイトル『「壊」より始めよ』とはそういう意味である。

 日本のスタートアップ企業のMujinは、無数の産業用ロボットをつなぎ、無人で運用できる基本ソフト(OS)を開発した。このOSが産業用ロボットのプラットッフォームとなれば、世界シェアの4割を持つ日本のロボットがますます売れるようになる。

 

3.あとがき

 日本は、地震・気候変動などの自然災害に見舞われ、少子化・人口減少・人手不足などの人口問題を抱えながら、世界で最も早く高齢社会に向かっています。こうした困難の中で『昭和99 ニッポン反転』の取材で日本各地をまわった日経新聞の記者たちは、「ピンチの今こそ飛躍のチャンスだ」と言う多くの日本人に出会ったと言っています。

 今年の春闘は企業側が物価上昇以上の賃上げをする形勢にあり、日銀もプラス金利に回帰しそうで、まさに『昭和99 ニッポン反転』が実現しそうな気配になってきました。

 2章で述べた「日本再生の指針」の11個の指針に共通することは、日本の人口減少と高齢化に伴って発生する諸問題を解決する手段として「デジタル化」が必要だということです。ところが、Jで述べたように、日本人の「完璧さ」を好む国民性がデジタル化の「変化の速さ」にうまく対応できなかったために、日本はデジタル化で遅れてしまいました。

 日本ではいまだに「マイナンバーカード」を健康保険証として使うことでトラブルが発生しています。人口減少と老齢化が進む日本の国家・地方の行政の人手を減らして効率化するには、全体の行政システムをデジタル化する必要があり、そのためには絶対にマイナンバーカードが必要となります。日本国民がデジタル化を嫌って抵抗しても、デジタル化に代わって人口減少と老齢化を乗り切る手段はありません。日本政府は、デジタル化の目的と意義を国民に正しく説明して、国民が理解して納得するように導かなければならないのです。

 それにしても、我々が受けた戦後の「平等主義の教育」や我々が活躍した高度経済成長期の「年功序列制度」がデジタル化の時代には弊害として抹殺されるという激烈な文化の変化には、「驚き」と同時に「寂しさ」を感じます。

 しかし、人類史上でこうした大きな文化の変化を引き起こすイノベーションは、これが最後になると筆者は考えます。昨年11月に発信した『歴史的転換点にある日本経済』で述べたように、デジタル化の最後は人類の進化の行き着く最終到達点と言われる「汎用型AIAGI)」だからです。もし、次のイノベーションが起こるとすれば、22世紀になって人類全体の人口が減少し始めた時に、人類が存続するためのルールとして、戦争などの争いをやめ、協力し合うためのルールを作るイノベーションになると思います。

 最後に筆者の「私事」を書いて終わることにします。

 1章の「日本の人口減少対策」で述べたように、2040年は日本の大きな節目の年となりますが、その年は筆者が百歳になる年に当たります。

 筆者は、『2040年に介護者不足が最大となり、それ以降は高齢者が減少していくので、2040年までが高齢化問題の勝負所となる。もし出生率を上げる対策をとらなければ、2040年以降に人口減少によって国内市場が急激に縮小し、投資が国内に向かわなくなって格差が急拡大して日本社会は崩壊に向かう』ということを知りまして、百歳まで生きて2040年に日本がどうなっているかを確かめてみたいという気持ちが湧いてきました。

 筆者としては、この冊子をできるだけ多くの方に読んでもらい、希望を持って積極的に「人口減少に向かう日本の再生」に参加してもらいたいと考えています。最後までお読み戴き、ありがとうございました。     (以上)

 

 歴史的転換点にある日本経済

                         202311月 芦沢壮寿

 

 今、日本が直面している異常な物価高に対して、政府は所得税・住民税の減税で対処しようとしています。この政府の対応に日経新聞論説委員長の藤井彰夫氏が「これが未来に向いた対策か」と言って批判しています。藤井氏は、現在の物価高が四半世紀にわたるデフレ経済から脱却する「日本経済の歴史的転換点」になりうるチャンスだと主張しているのです。そのへんのについて、日経新聞の論説をもとにして考えてみることにします。

 

1.今の物価高は何を意味するか

 日本は、1990年代のバブル崩壊後にデフレ経済に陥り、四半世紀にわたって物価も賃金も上がらない低迷状態が続き、日本経済のダイナミズムや市場機能が失われてきた。バブル崩壊前の1990年度の日本の潜在成長率は3.7%だったが、バブル崩壊後のデフレ経済では成長力を失い、昨年度(2022年度)の潜在成長率でも0.4%に留まっている。

 このデフレ経済を脱却するために、10年前から黒田前日銀総裁のもとで年2%の物価上昇目標を掲げて異次元の金融緩和を進めてきた。しかし、デフレ経済を脱却することができなかった。

 ところが、2020年に始まった新型コロナウィルス禍と、それに続くウクライナ危機に伴う世界的なインフレと円安という外的ショックにより、日本でも物価高騰が起こり、いとも簡単にデフレ経済が打破された。

 こうした状況変化をとらえて日経新聞の論説は、「今、日本は、四半世紀ぶりにデフレから脱して、名目GDPが増える本来の経済に戻る歴史的な転換点にある」と述べ、「このチャンスを活かすには、未来に向けた長期的な経済対策をとる必要がある」と説いている。

 日経新聞の論説によると、今回の物価高は日米金利差による円安が大きく影響している。足元で米国の長期金利が4.9%程度、日本が0.95%前後だが、円相場は1ドル当り151円まで円安が進んで、1990年以来33年ぶりの安値となった。円は他の通貨に対しても弱含みで全面安となっている。これは、市場が日本経済の潜在成長率が低く、金利の上昇余地が乏しいと見ているからだ。

 経済協力開発機構(OECD)によると、2022年の潜在成長率が米国1.8%、カナダ1.5%、フランス1.2%に対して日本の潜在成長率は0.6%だという。日本の潜在成長率が1%を割っている状態では金利の引き上げができないとみなされて、円安が進んでいるのだ。その結果、石油や食糧などの輸入品の価格が高騰して物価高となっている。この円安により日本のGDPがドイツに抜かれて第4位に転落する一方で、円安によって輸出が伸びたトヨタが最高益を記録するという。なお、日本のGDP2026年にインドに抜かれて第5位となる。

 日銀の植田総裁は長短金利操作(YCC:イールドカーブ・コントロール)によって長期金利を1%超まで容認する政策をとっている。従来の伝統的な金融操作は、短期金利のみを操作対象としたのに対して、長短金利操作では残存年限(満期までの期間)ごとの金利をつなげた利回り曲線(「イールドカーブ」という)を全体的に押し下げるように操作する。日銀は、長短金利操作で長期金利を上げて市場機能を改善しようとしているが、それにも限界がある。

 

 

 

2.日本の未来に向けた長期経済対策

 日経新聞の論説は、今が長年にわたって苦しんできたデフレ経済を脱却するチャンスだと捉え、それを実現するには日本の潜在成長率を米欧並みの1%以上に引き上げるための長期経済対策が必要だと指摘している。その長期経済対策では、既に始まっている人口減少によるマイナスの生産性を補った上に、日本全体の名目GDPの成長率を1%以上にしなければならない。つまり、これから目指す「日本の未来に向けた長期経済対策」は、人口減少への対応と生産性の向上の両方を目指して、それらを同時に達成できるように「日本経済の体質を改善しなければならない」のだ。

 日本政府は、112日に37兆円規模の経済対策を公表し、労働力の底上げや国内投資を促して、潜在成長率を1%に引き上げることを目指すと発表した。しかし、過去の対策を見ると日本経済の体質改善が進んでおらず、潜在成長率を1%に引き上げる見通しが全くたっていない。

 政府の経済対策には、労働力を増やすための「年収の壁」(年収が106万円以上になると社会保険料の負担が増えて手取りが減るために、それ以上働かなくなる壁)の打開策、半導体や蓄電池などの戦略物資の国内投資をうながす補助、成長分野に労働力を移動させるための教育訓練に対する補助、企業の省力化投資に対する補助などを掲げている。しかし、これでは従来のバラマキ的な政策の延長であり、とても潜在成長率を1%にすることはできない。

 日本経済の潜在成長力を妨げている最大の問題は、日本がいまだにアナログ世界に固執してデジタル化に抵抗し、AIなどの最先端デジタル技術の利用を敬遠する人が多いことだ。日本企業の72%が生成AIの利用を禁止しているという。

 9月にシンガポールで開かれた最先端のデジタル技術の展示会に世界から多くの企業や投資家が集まったが、日本勢の影は薄かった。この展示会には情報管理の最先端をいく「Web3(ウェブスリー)」(注)の技術が展示されていたが、日本の企業はそれに関心のある企業が少ない。

 

(注)情報管理の初期段階は、情報の発信者と閲覧者が固定されて、情報が一方向に伝わる「Web1.0」であった。次の段階は、中央集権型のプラットフォーム事業者に情報を集中させて、SNSのように情報の発信者と閲覧者の双方向でコミュニケーションをする「Web2.0」となった。その次に出てきたのが特定のプラットフォームに依存しない新しいインターネットの在り方の「Web3」であった。Web3は、個人に関連する情報を自分自身で保有し、自分自身の判断によって管理することを前提とした仕組みで、コンテンツの売買や送金などの取引を個人間で行うことが容易になる。Web3の最大の特徴は、『非中央集権』で、中央管理者を持たないブロックチェーン技術を利用することによって、プラットフォームを介さずに個人同士で情報のやり取りができるようになり、誰でも情報の管理に参加できる。

 

 日本人は、デジタル化に逆らう傾向があり、社会をより効率的にする意欲よりも、現状を維持しようとする力の方が強いようだ。そのことを示す実例として、一般ドライバーが自家用車を使って有料で顧客を送迎する「ライドシェア」について見てみる。

 ライドシェアを行う米国生まれのアプリ「ウーバー」は、世界中の国で受け入れられているが、日本ではタクシー業界の反発と乗客の安全や運転手の身分保障への懸念から、ライドシェアを規制してきた。日本は近い将来に人口減少に伴って運転手が30%も不足すると予測されているが、それを解決するにはライドシェアのようなデジタル技術を使って運転手不足を補わなければならない。そのためには、ライドシェアを規制するのではなく、ライドシェアに不都合な規制の改善や法律の改定をする必要がある。

 幸いなことに、116日に開かれた政府の規制改革推進委員会で、ライドシェアの都市導入を目指すことが決定された。

 諸外国では、社会的な活動を効率化するために法律を変えようとするが、日本人は「違法=悪い」と捉え、法律を変える流れにならない。こうした日本人の文化を変えることが今後の「潜在成長率を1%以上にする長期的経済政策」では肝要となる。

 

3.デジタル化による社会の変貌

 今後、日本の人口が減少していく中で潜在成長率を1%以上にするには、デジタル化を進めてロボットやAIに人間の仕事を代替させるしかない。それは、潜在成長率を1%以上にするためだけでなく、世界中がデジタル化の時代となり、全ての国がデジタル化していくからだ。しかし、日本はデジタル化を積極的に進められる社会に早く変わる必要性に迫られている。

 デジタル化された社会で人間に代わってAIAIを組み込んだロボットが得意とする仕事は、論理的思考や専門的知識を要する仕事と言われる。専門知識を要する病院の医者、法律事務所の弁護士など、今まで専門家として尊敬されてきた人々がAIやロボットにとって代わる。人間がする仕事は、AIが不得意とされる接客力・管理力・創造力を必要とする仕事になる。また、AIが活躍する領域が広がるにつれて、人間が「人間とAIとのインターフェイス」として働くことが多くなる。人間は、AIとユーザーの間に介在して、AIにデータを入力し、AIからの出力結果をユーザーに「笑顔と柔らかい口調」で伝える役割を担うのだ。

 デジタル化された社会では、ホワイトカラー(一般職)とブルーカラー(専門職)の立場が逆転する。今までは多方面の能力・知識を持つホワイトカラーの価値が高かったが、ホワイトカラーの「均質的な価値」、「誰がやっても同じ作業」はAIが代行するようになり、むしろ、「専門性」を持つブルーカラーを今後も人間が担当することになる。

 英国オックスフォード大学のカール・フレイ教授らの研究者は、今後20年間で米国の労働の47%がAIとロボットに代替される可能性が高いという。

 また、世界で最も早く高齢化が進む日本では、2025年〜35年の間に49%の仕事がAIやロボットにとって代わると予測している。

 ところが、ドイツの欧州経済センターのメラニー・アルンツ氏らは、フレイ教授らの予測が色々な職種の職業が同質であるという仮定に基づいた予測であって、各職業の中の実際の業務についての多様性や異質性を考慮すると、AIやロボットに代替される仕事は20%程度だと指摘している。つまり、AIは人間を補完的に助けるものであり、必ずしも人間の仕事がAIに奪われるといった悲観的なものではないと言うのだ。

 人間の仕事の20%がAIに代替されれば、日本の人口減少問題が一時的に緩和される。しかし、日本の人口が1億人程度に減少するまでに人口減少問題を解決しないと、いずれ日本は滅亡することになる。

 ここでAIの問題点について考えてみる。最も懸念される問題は、AIが悪用されてフェイクニュースやフェイクの画像・文章が社会に出回ることだ。これを防止するために、今、日米欧中のAI研究者、AI企業の首脳、政府関係者が集まって、「AIの悪用阻止」の枠組みを構築しようとしている。

 次にAIには、読み込ませた学習データの偏りによる「バイアス」の問題がある。プライバシーなどの人権を無視する国では、AIに人権を無視した経験データを学習させるために、人権を尊重するAIは生まれない。国によって学習する経験データが違うので、AIには「お国柄」が出るのだ。

 なお、現在のAIでは、犬と猫の違いを学習させるのに1万枚もの犬と猫の写真を学習させる必要がある。ところが、5歳児ほどの人間のように「犬」、「猫」という概念を認識・識別する学習アルゴリズムができていれば、将来は犬と猫の写真を1枚ずつ与えるだけで、犬・猫の認識・識別ができるようになるという。従来から、「ビッグデータを所有する者がAIを制す」と言われてきたが、そうではなくなる可能性が出てきた。

 

4.あとがき

 現在のAIは囲碁、翻訳などの用途に限定された「特化型」のAIだ。これに対して、人間の知能のように様々な用途や場面に応用がきくAIを「汎用型」(AGIArtificial General Intelligence)と言う。AGIは、自分で知識を獲得する自立性があって、状況を読み解いて推論する能力があるという。AGIが実現可能かどうかは研究者によって異なるが、AGIこそが人類の進化の行き着く最終到達点だと言われる。

 AGIが完成すれば、その瞬間からテクノロジーの発展は人間の手から離れて、AGIによって行われるようになるという。つまり、その時点で人間は地球上で最も知能の高いという地位をAGIに明け渡すことになるというのだ。そうなると、AGIが間違えれば「人類の滅亡」の危機を引き起こすことにもなりかねない。しかし、この理論は何かが間違っていると筆者は考える。そこで、その間違いについて考えてみることにする。

 人類の進化の最終到達点となるというAGIに至るの歴史は、人類が道具を発明し、道具を使うことによって発展してきたテクノロジーの歴史の延長線上にある。道具は人間の役にたち、人間の能力を拡張してくれるものだが、使い方を誤ると人間に害を与えることにもなるから、人類は危険な道具(刀・銃など)の使用について厳格に規制してきた。従って、「人類の滅亡」という最も危険なリスクを有するAGIにテクノロジーの開発・発展をまかせるべきではないのだ。それは、能力のある人間が常に道徳的に正しいとは言えないのと同じように、AGIが能力的に人間を超えたからといって論理的・倫理的に正しい判断ができるとは限らないからだ。

 このことについて、認知科学者スティーブン・ハルナッドが提起したAIの「記号接地問題」について考えてみる。「記号接地問題」とは、記号(=言葉)の意味が人間の身体的な経験に根ざしているということだ。例えば、「メロン」という言葉の本当の意味は、人間の感覚を通して得られるメロンの色、模様、香り、味、舌触りなどの経験に基づいている。だから、人間と同じ身体的な経験のできないAIには、人間が使う「メロン」という言葉の本当の意味を理解することは不可能だと言うのだ。 

 つまり、人間の経験データを記号として処理して学習しているAIは、生身の人間が感じている「美」「音」「味」や「心の苦しみ」「恋愛感情」などの経験データを論理的なつながりとして理解してしているだけであり、その理解は生身の人間の理解と本質的に異なるというのだ。

 従って、生成AIが描く絵は学習した人間の経験データの絵を模倣しているに過ぎない。そこには、生身の人間が自らの感性によって創作する独創性が全くなく、理論的なデータ処理によって生成されるだけなのだ。

 AGIは自分で知識を獲得する自立性があると言うが、デジタル機械である点ではAIと同じだから、生身の人間の感情や心の動きをデータとして理解できても、微妙な感情や心の動きまでは理解できない。従って、本当の人間の感情や心が理解できないAGIにテクノロジーの開発・発展をまかせるわけにはいかないのだ。AIAGIはあくまでも人間の道具であって、道具として人間に危害を加えないように規制しながら使っていくしかないのだ。

 さて、これからのデジタル化が進んだ社会の自然観は、デジタル・テクノロジーによって仮想現実(メタバース)の世界と現実の世界が一体となって、「デジタル・ネイチャー」と言われる自然観になるという。そして、古来から人類の夢であった「不老不死」がテクノロジーによって可能になると言われる。

 そうしたデジタル社会について、道徳哲学・規範的倫理の観点で研究している米エール大学のシェリー・ケーガン教授が次のように述べている。

 不老不死のテクノロジーとは、人間の脳の中の意識を電子的に保存しておき、死んだ人間の細胞からクローン技術で再生したクローン人間が成長したある時点で、保存していた意識をクローン人間に移植するのだという。

 しかし、クローン人間にとって、自分が誰かの模造品だと知った時に、どんな気持ちになるだろうか。それは、「人間としての存在に対するこの上ない残酷な嘘をついたことになる」とケーガン教授は指摘している。人間のクローンを作ることは、道徳的・倫理的に絶対に許されないことなのだ。

 また、ケーガン教授は、仮想現実の技術についても批判的だ。例えば、仮想現実の技術を使って脳を直接刺激して、実際の経験と同じように感じられる装置が発明されたとする。そうした仮想現実の装置は本当に有用なのだろうか。例えば、エベレスト登山の仮想体験ができる装置で、いくら素晴らしい体験をしたとしても、実際にエベレストに登ったという達成感・満足感は湧いてこない。本当に心が満たされる満足感は、現実の世界でしか体験できないのだ。ケーガン教授は「現実でこそ心は満たされる」と指摘している。

(以上)

人類史の転換点に向かう世界の今と未来 2023 年 4 月 芦沢壮寿
2 月に送りました『人類学的アプローチから見えてくる人類史』の続編とし て、今回は『人類史の転換点に向かう世界の今と未来』というテーマで考えて みることにします。エマニュエル・トッドは著書『我々はどこから来て、今ど こにいるのか?』の中で、「人類は、原初の自由で平等な社会から来て、また 原初のような社会に戻りつつある」と指摘しました。これは、人類の未来が「農 業革命以降の男性優位・女性蔑視の歴史から大きく転換して、原初のような自 由で平等な社会に向かっていく」ことを示唆しています。しかし、今の世界は、 米中対立やウクライナ戦争などで世界が分断され、ますます悪くなっていくよ うに思われます。 先に結論を言いますと、人類の未来が「原初の自由で平等な社会に向かって いく」というトッドの指摘を人類学的・文化的な観点から考察した結果、トッ ドの指摘が本当になりそうな「希望」が見えてきました。どんな時代でも人間 が生きていくためには、「希望」を持つ必要があります。正しい希望をもって、 その希望に向かって進んでいけば、希望が実現します。 以下では、次に示すプロセスで考察していくことにします。1 章の「 人間 とは何者か」では、主にイスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サ ピエンス全史』をもとにして人類史を振り返り、人間の本質について考えます。 2 章の「人類史の転換点にさしかかる今の世界」では、今世紀中に世界人口 が減少に転じ、経済が成長の限界に達して人類史の転換点に達すること、米中 対立によって世界が分断されている現状を考察します。3 章の「人類の未来」 では、転換点後の世界がトッドの指摘する「原初の社会に戻る」ことの意味を 考察し、その社会で形成される新たな世界秩序について考えます。4 章の「あ とがき」では、人類の未来まで含めた人類史全体を文化の観点から総括した上 で、今後の日本のあり方について考えます。 1.人間とは何者か 1.1 自然の破壊者の誕生 人類が属する「ヒト科」は「猿人」から始まる。猿人は、700 〜 600 万年前 にアフリカで生まれ、多くの「属」を形成した。生物学では生物を「科」−「属」 −「種」に分類する。しかし、現在、地球上に生存する人類は「ヒト科−サピ エンス属−サピエンス種」だけが生存する異常状態になっている。 440 万年前に骨盤の形が横長になって、木の上でも二足歩行するようになっ た猿人が現れ、オスがメスをめぐって争うことを止めて、一夫一婦制の家族を - 2 - 形成し、夫婦で助け合って生きていくようになった。人類は最初から一夫一婦 制が基本だったのだ。 やがてアフリカ東部で南北に山脈が隆起し、その東側が乾燥して草原化が進 むと、猿人は地上におりて二足歩行するようになった。二足歩行により両手で 食糧を持って家族の所に運べたことが生存上優位に働いた。両手が自由に使え るようになった猿人は、240 万年前頃から石器を道具として使うようになった。 猿人は、180 万年前頃に体毛がなくなり、火を使って肉食をするようになっ てから消化に使われるエネルギーが少なくなり、脳が 2 倍に大きくなって「原 人」へと進化した。原人はアフリカを出てユーラシア大陸に拡散していった。 各地の原人(北京原人、ジャワ原人、ハイデルベルク原人など)の脳がさら に発達して「旧人」(ネアンデルタール人など)へと進化した。旧人は、舌を 微妙に動かせるようになって色々な音を出す発音機能が発達し、沢山の言葉を 使って会話するようになった。人類は会話することによって精神面が発達し、 言葉を話すことが人類にとって必要不可欠となった。 遺伝子による進化を「生物学的進化」と呼ぶ。生物学的進化は、何万年とい う歳月をかけてゆっくりと進化するために、自然の生態系の中で互いに相手の 進化に合わせて進化できるから、生態系が破壊されることがない。旧人類まで は自然の生態系に融合して生存し、自然を破壊することがなかった。 20 万年前に現生人類(ホモ・サピエンス)の「新人」がアフリカで生まれ た。7 万年前にホモ・サピエンスの頭脳に突然変異が起こり、架空のこと(フ ィクション)を考えて仮想的な伝説・神・神話などを創造し、架空の計画を立 てられるようになった。これを「認知革命」という。 この認知革命こそが旧人や他の生物を差別化して、新人が自然の破壊者とな る決定的な原因であった。認知革命を経験したホモ・サピエンスは、神話や集 団の規則といった「文化」を持つようになり、その文化を言葉で子孫に伝える ことによって「文化による進化」を獲得したのだ。ホモ・サピエンスは、世代 ごとに猛スピードで進化するようになり、全ての生物を圧倒するようになった。 ホモ・サピエンスは、5 万 5 千年前にアフリカを出て世界中に拡散していっ た。拡散していった集団は、大きく分けてアジア方面に向かって南北に分かれ た「北方モンゴロイド」の集団と「南方モンゴロイド」の集団、それにインド からヨーロッパに分散した「インド・ヨーロッパ系」の集団の 3 つである。北 方モンゴロイドはヒマラヤ山脈の北側のユーラシア草原地帯からシベリアに分 散し、さらに南北アメリカ大陸にも拡散して行った。南方モンゴロイドは中国 南部から東南アジアに分散し、太平洋の島々へと拡散して行った。これらの集 団の語系体形は、北方モンゴロイドが「膠着語」(言葉に接辞が膠着すること によって、その言葉の文法的な意味を表す言語形体)、南方モンゴロイドが「孤 - 3 - 立語」(個々の言葉が孤立していて、文中における言葉の位置によって、その 言葉の文法的な意味を表す言語形態)、インド・ヨーロッ系が「屈折語」(言葉 の語尾が屈折することによって、その言葉の文法的な意味を表す言語形態)の 3 つの言語形態に分かれた。日本語・韓国語は膠着語、中国語は孤立語である。 ホモ・サピエンスは、各地で狩猟によって大型動物を絶滅させた。シベリア ではマンモス、毛サイなどを絶滅させ、オーストラリアやアメリカ大陸では、 ほとんどの大型動物を絶滅させた。各地に生存していた旧人のネアンデルター ル人も今から 1 万 3 千年前頃までに絶滅してしまい、現在、地球上の人類はホ モ・サピエンスしか存在しなくなった。 今までにホモ・サピエンスは、自然破壊の第1波として、狩猟によって地球 上に生息していた体重 50 kg以上の大型陸上哺乳動物 200 属のうちの半分を 絶滅に追い込み、第2波として、農耕の広がりとともに森林を破壊し農薬によ って多数の小動物を絶滅させ、第3波として、産業革命以降の産業活動によっ て地球温暖化による自然破壊を引き起こしている。 一方、ホモ・サピエンスは、文化を共有することによって大きな集団を形成 できるようになった。しかし、共通の遺伝子を引き継ぐ動物たちは共通の本能 に基づいて行動するので自然に集団のルールが保たれるが、文化によって行動 するホモ・サピエンスは、集団のルールを維持するために、ルールを守らせる ための学校教育と警察、裁判所などの社会機構が必要になった。 1.2 狩猟採集時代に形成された人間の本能 猿人が石器を使い始めた 240 万年前頃から、ホモ・サピエンスが定住して農 業を始めた 1 万 1 千年前頃までの間、人類は移動しながら狩猟採集生活をして いた。つまり、240 万年前から現在までの間に定住して農耕生活をしたのは最 近の 1 万 1 千年だけで、ほとんどが移動しながら狩猟採集生活をしていたのだ。 従って、現代人の遺伝子に蓄積されている本能(精神構造)は、全て原初の狩 猟採集時代に形成されたのだ。 狩猟採集生活をしていた人類は、支配階級のない男女対等の集団を形成し、 病気が少なく(天然痘や結核などの感染症は農耕以降に家畜から移った病気だ った)、食べるだけの食糧を狩猟採集する労働時間は農耕をする労働時間より 短く、しかも多様性のある食物を食べて、飢えや栄養不足になることが少なか った。一夫一婦制の核家族を基本としていたが、親類どうしが集まって集団を つくり、男たちが集団の守りと狩猟、女たちが子育てと食糧採集を分担してい た。また、食糧が乏しい時には、集団どうしが食糧を分け合い、協力し合って 生き延びてきた。人々は驚くほど気前がよく、男女とも自由にパートナーを替 えてセックスを快楽として楽しんでいた。 - 4 - 狩猟採集民は、「アニミズム」(動植物や自然現象には人間と同じように意識 と感情があり、人間と同等の存在であるという考え)を信じていた。後の農耕 民が人間より上位に万物の秩序を司る神がいると信じる「有神論」と比べると、 狩猟採集民のアニミズムは全ての生物が平等であった。 こうした長い狩猟採集時代にホモ・サピエンスの精神構造が形成され、それ が遺伝子の中に組み込まれ、現代人にも引き継がれている。現代人が「平等」 「協力」「健康」「心の豊かさ」などを本能的に望み、それらに「幸福」を感じ るのは、狩猟採集時代に形成された精神構造の遺伝子を引き継いでいるからだ。 狩猟採集時代に男は狩猟や集団の守りに、女は子育てや採集に適した脳の使 い方になったと考えられる。脳は右脳と左脳に分かれていて、一般的に右脳は 感性を司り、左脳は理性を司る。右脳は芸術・形・空間を認識する時に働き、 左脳は論理的思考や言葉を話すときに働く。男たちは、狩猟の色々な場面で右 脳と左脳を別々に使ってきた。一方、共同で子育てし採集をしていた女たちは、 何時も仲間で話しをして暮らしていたので、話し相手の顔や服装や動作を認識 する右脳と相手の話を理解し、自分が話すことを考える左脳を同時に使うよう になった。また、男たちは狩猟に失敗した悪いことより、狩猟に成功した良い ことを記憶するようになったのに対して、女たちは、子供に怪我をさせたりし た悪いことを記憶するようになった。こうした男・女の脳の使い方の違いは、 狩猟採集時代に形成され、現代人にも引き継がれていている。そのために現代 人は、男女間の脳の働き方の違いから誤解が生まれ、夫婦喧嘩の原因となって いる。 1.3 農業革命以降に生じた人類の苦悩 農業への移行は食料の総量を増やしたが、それは人口の爆発的な増加と飽食 のエリート層を生み出したものの、農耕民はかえって貧しくなり、忙しくなっ た。ホモ・サピエンスは、自然との親密な共生関係を捨てて、定住して家と土 地を持つようになった。すると、「我が家」への愛着が生まれて自己中心的に なり、他人を疎外して自己の強欲の赴くままに走り出した。近隣の村落どうし が土地と所有物をめぐって争うようになり、戦いが頻発するようになった。 農耕民は、干魃や洪水などの未来に対する懸念に備えて、蓄えを残すために 自分が消費する以上のものを生み出さなければならなくなり、そのための労働 の過重と「未来に対する不安」というストレスにさいなまされ続けることにな った。しかも、農耕民の蓄えは新たに台頭した支配者やエリート層に吸い上げ られ、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。これが「農業革命」 の実態である。サピエンスは農耕という「罠」にはまってしまったのだ。 農業革命以降にサピエンスは神話という「想像上の秩序」によって結ばれる - 5 - ようになり、神話を共有することによって大規模な協力のネットワークが構築 されるようになった。それから、古代メソポタミアの都市を始めとして、古代 エジプト王国、アッカド帝国、アッシリア帝国、古代バビロニア帝国などの帝 国が興った。100 万人を超える人々の協力ネットワークを維持するには「神々 が定めた正義」という理由をつけた「想像上の秩序」が必要であった。小集団 の動物たちは、共通の本能に基づく行動によって自ずと集団の秩序が保たれる が、本能を超えて大集団となったサピエンスの社会ではそれが不可能となった。 現代の社会でも同じことが言える。「自由」「平等」「人権」などの普遍的価 値は国民が協力し合うネットワークを維持するための「想像上の秩序」である。 普遍的価値であっても客観的な正当性がないから、それを維持するには社会的 な努力が必要になる。その努力とは、全ての子供に普遍的価値をよく教え込む ことによって「共同主観的秩序」(全員が共有している主観的秩序)とするこ とと、警察、裁判所、監獄などの「社会制度」によって強制的に守らせること だった。そのために、子供を社会の一員として生きていける成人に育てる期間 として、社会の「文化」、即ち「共同主観的秩序」を 15 年以上かけて教育する 「成長期」が必要になった。子供は、言語によって共同主観的秩序を学んで初 めて一人前の成人となるのだ。 人間の赤ちゃんには生まれながらに言語習得能力が備わっていることをロシ ア人の言語学者チョムスキーが発見した。チョムスキーはそれを「普遍文法 (Universal Grammar」と言った。普遍文法とは、「どんな言語でも生成できる 文法」という意味である。どんな言語の国に生まれた赤ちゃんでも、親や周囲 の人が話すことを聞いているだけで話ができるようになるのは、普遍文法が本 能として脳の中に形成されているからだというのだ。普遍文法は、人種や民族 に関係なく全サピエンスの遺伝子に共通に備わっていて、どの言語にも有効に 働き、ある言語環境にいる子供が言語を聞いただけで、その言語の法則を自分 なりに作れるようにする。つまり子供は、大人の言葉を模倣して覚えるのでは なく、聞いた言葉の使い方の法則を普遍文法を使って作っているのだ。よく「子 供は詩人だ」と言われるが、それは、言葉の使い方の法則を使って大人の及び もつかない表現をするからだ。 子供が普遍文法を使って習得した言語が「母語」(第 1 言語)となる。母語 は、話す言語であると同時に、思考するときの言語となる。 普遍文法には期限があり、有効に働くのは思春期(12 〜 16 才)までだ。そ れを過ぎると母語の習得が不可能になる。思春期は、成長期から生殖期への移 行期間だが、この間に普遍文法の遺伝子の働きがオフになる一方で、生殖機能 を司る遺伝子の働きがオンになる。実際に、インドでオオカミに育てられた子 供が思春期を過ぎて人間世界に戻ったが、最後まで人間の言葉が話せなかった - 6 - という実話がある。 母語を習得した後に学ぶ外国語を「第 2 言語」という。第 2 言語は、普遍文 法ではなく、母語を使って習得するので、思春期を過ぎても習得が可能となる。 但し、第 2 言語は、母語を介して学ぶので、理解が遅くなり、理解度も落ちる。 なお、2 種類の言葉を話す親のもとで育った子供は、普遍文法で同時に 2 種 類の言葉を母語として習得し、バイリンガルとなる。 1.4 競争の文化が引き起こす「文明の暴走」 南太平洋のイースター島で 4 〜 16 世紀に起こった「文明の暴走」は、人類 の競争の文化の危険性を示唆している。 4 世紀に南太平洋のイースター島に上陸した南方モンゴロイドは、部族ごと に町をつくり、豊かなヤシの実の食料に恵まれて人口が増加していった。7 世 紀頃に 50 以上もあった部族が自分達の力を誇示するために、亡くなった部族 長のモアイ像を造って、海岸近くの部族の墓の祭壇に並べた。モアイ像は標高 200 メートルのラノラナク山の凝灰岩をくりぬいて造り、像を立てたままで何 10 キロもの道のりを運んだ。像の高さは最初 2 メートル程度であったが、次 第に競い合って高くなり、15 世紀には 11 メートルになり、重さが 100 トンを 超えた。それでも各部族は競ってモアイを造り続けた。島の人口が増え続け、 船を造るためにヤシの木を切ったためにヤシの森がなくなった。 16 世紀になると、人口が 1 万人となり、部族どうしが衝突するようになって 互いに他部族のモアイを倒し始め、最終的には全てのモアイが倒されてしまっ た。1774 年にイギリス人がイースター島に上陸した時には、900 体ものモアイ 像が全て顔を下にして倒されていた。それでもモアイの製造場所には造りかけ の巨大な像が多数遺っていて、人々が島を放棄する間際までモアイを造り続け ていた様子が窺えた。人々は自らの文明を破壊して、島を去ったのだ。 これは、人間の過剰な競争心が引き起こした文明の暴走であった。文明の暴 走はイースター島に限ったことではない。動物はメスをめぐってオスどうしが 競争する本能を持っているが、もって生まれた共通の本能で競争するので暴走 することはない。文化で競争する人間は、競争をエスカレートさせるばかりで、 未だに競争をコントロールする文化を持ち合わせていない。人間の競争には常 に暴走のリスクがつきまとう。 1.5 科学革命と経済の急成長 近代以前の人類は、何千年もの間、1人当たりの生産量がほとんど変化しな かった。それが近代になって急増するようになり、1500 年以降の 500 年間に 世界全体の人口が 5 億人から 70 億人に、年間生産価値が 2500 億ドルから 60 - 7 - 兆ドルに、1日当りのエネルギー消費量が 13 兆カロリーから 1500 兆カロリー に急増した。そうなった最大の理由は、科学研究によって新たな経済力を生み 出せると信じるようになったからだ。これを「科学革命」という。 中世の人々は、この世の中で重要なことは全て聖書・コーラン・経典などの 書物に書かれていると考えていたが、近代になって人間は無知であることを認 めて、自然を観察し始めたことから近代科学が生まれた。 近代前期(1500 〜 1750 年)は、トルコのオスマン帝国、ペルシャのサファ ヴィー帝国、インドのムガール帝国、中国の明朝・清朝の黄金時代であり、1775 年における世界経済の 8 割はアジアが占めていた。それが、産業革命以降の 1750 〜 1850 年にヨーロッパ人が相次ぐ戦争でアジアの列強を倒して、世界の 覇権がヨーロッパに移った。そうなったのは、ヨーロッパで芽生えた新しい帝 国主義と近代科学と近代資本主義にあった。 ヨーロッパでは、1620 年にフランシス・ベーコンが「知は力なり」と言って 科学研究を技術開発に結びつけたことから、近代科学と資本主義経済が結びつ いて経済が急速に発展し始めた。 1710 年に英国で蒸気機関が発明されて産業革命が起こり、ヨーロッパ中に 広がっていった。そして、科学研究が新たな経済力を生み出し、その経済力で 新たな資源が生まれ、その資源を科学研究に投資するという近代資本主義の好 循環が生まれて、経済が急速に発展するようになった。 2.人類史の転換点にさしかかる今の世界 2.1 人口減少による人類の成長限界 2022 年 7 月に国連が世界人口の新推計を公表した。それによると、世界人 口が 2022 年中に 80 億人を突破し、2068 年に 104 億人をピーク(ワシントン 大学の推計では 2065 年に 97 億人をピーク)にして、その後は減少に転じると いう。人類は人口の増加とともに経済を成長させてきたが、ついに成長の限界 に達する。人類は、まさに今、人類史の転換点にさしかかっているのだ。 世界人口の増減に大きな影響を与えているのはアジアとアフリカの人口であ る。アフリカの人口爆発は 2100 年以降も続くが、アジアは 2050 代をピークに して減少に転じ、世界全体として 2060 年代から減少に転じるというのだ。中 南米もアジアと同じ頃に減少に転じ、欧州は既に僅かながら減少している。北 米とオセアニアは今後も微増し続けるという。 日欧の先進国では、「経済成長の副作用」「寿命の延び」「市民の自由拡大」「女 性の高学歴化」などが影響し合って出生率が低下し、人口が減少しているのだ。 人口首位国であった中国が 2022 年から減少し始め、2023 年 1 月時点でイン ドが 14 億 2203 万人となって人口首位国となった。国際通貨基金(IMF)によ - 8 - ると、現在、世界 3 位の日本の GDP は、2027 年にインドに抜かれるという。 しかし、インドでも 2060 年代に人口減少に転じる。 中国は、1980 〜 2016 年の「一人っ子政策」と並行して経済が急成長を遂げ、6 を超えていた合計特殊出生率が今や 1.28 にまで減少した。中国は、国民が先 進国レベルの豊かさになる前に人口が減少して、経済成長がストップするため に、その後の老齢化社会における高齢者の貧困対策が困難になる。インドも中 国の後を追う可能性が高い。なお、その後の老齢化社会における高齢者の貧困 対策が困難になる。なお、日本は豊かになった後の 2008 年から人口減少に転 じた。人口減少は地球温暖化と相まって経済を停滞させ、やがて世界経済はマ イナス成長に転じる。 資本主義は、将来にわたって経済が成長するという信用制度に基づいて、「資 本は時間とともに増加する」という前提の上に成り立っている。しかし、経済 成長ができなくなると資本主義の前提が失われてしまい、資本主義経済を修正 せざるを得なくなる。 2.2 米中対立と世界の分断 中国は、伝統的に「中華思想」を継承し、自国が世界の中心にあるべき国と 考える権威主義の国である。そうした中国にとって、19 世紀に西側先進国に 国土を蹂躙された屈辱が大きな恨みとして残っている。中国は、その恨みを晴 らして中華思想の威信を取り戻すために、先進国を騙して西側の資本と技術を 取り込み、世界一の経済大国となって再び世界の中心になることを目指してき た。この敵を騙して自分に有利なように利用する策略は、2400 年も前の戦国 時代の「兵法」であり、それが今の中国共産党にも引き継がれている。その策 略では、形勢が自分に有利に傾く好機(「勢」という)を捉えて反撃に転じる。2008 年に米国で起こったリーマンショックで西側諸国の経済が大混乱に陥ると、中 国はそれを「勢」と捉えて、それまでの化けの皮を捨て、東シナ海・南シナ海 への海洋進出や「一帯一路」による世界進出に乗り出した。 しかし、中国は、「勢」の判断を誤り、米国の予想外の反撃に合って苦戦し ている。中国共産党の最大の弱点は、国際情勢を正しく判断できないことだ。 一方、米国は、したたかなアングロサクソンの伝統を引き継ぎ、常に敵対者 を探して攻撃し、破壊することによって国家の統一を図る危険な国である。か つて米国は、敵対者を誤ってベトナムやイラクに侵攻した前歴を持つ。 2003 年に国際社会の反対を押し切って強行した米国のイラク侵攻は、イラ ク国内の統治に失敗し、混乱を収拾することなく撤退した。この失敗を機に米 国の指導力の衰えが顕著になった。「アラブの春」ではエジプトのムバラク政 権の体制崩壊をあっさりと認め、続くシリア内戦ではオバマ大統領(当時)が - 9 - 「米国は世界の警察官ではない」と言い切った。2019 年に同盟国のサウジア ラビアの石油施設がイラクに攻撃された時に米国は動かなかった。エネルギー 自給を実現して中東の石油に依存する必要がなくなった米国は、オバマ大統領 以降、米国の安全保障の軸足を中東からアジアに移した。 トッドは、「中国は人口減少に転じ、近い将来に国力の衰退が明らかだから、 むやみに追い詰めない方が良い」と指摘している。米国は、米中対立に過剰反 応するのではなく、忍耐強くじっと待つことが対中勝利への最良の道だという のだ。実際に中国の若者の間では、親・教師・社会からの絶え間ないプレッシ ャーに反発する「寝そべり族」が増加している。 フランスの経済学者ジャック・アタリは中国について次のように述べてい る。中国は、人口の急減で労働市場が逼迫し、社会が豊かになる前に高齢化し、 介護・医療費の急増に悩まされて、やがて経済が失速する。現在でも中国共産 党が独裁的に企業を統治する姿勢が明らかになるにつれて、中国国内や外国の 投資家が中国での投資に消極的になり、中国の企業家は活動拠点を外国に移し、 西側の多数の企業が中国から生産・販売拠点を外国に移しているが、この動き は今後も継続する。やがて中国では混乱が起こり、1990 年代のロシアのよう な政治的混乱を招き、似たような道をたどるだろう。 米国は日本と敵対して中国を支援してきたが、習近平になって中国に騙され ていたことがわかると中国と敵対し、今や民主党・共和党が一体となって中国 を攻撃している。一方、日本とは関係を修復して、日米同盟を基軸にして西側 民主主義国を結束し、中国を攻撃しようとしている。 米中対立は様々な領域に飛び火し、国防や産業競争力で相互に禁輸措置を広 げ、新型コロナウィルス禍やロシアのウクライナ侵攻と相まって、食糧・エネ ルギー・半導体などの色々な分野の供給網の世界的な再構築が始まっている。 特に半導体は、台湾有事に備えて、台湾に集中し過ぎている最先端半導体製 造工場を民主主義国に分散する必要性に迫られている。 かつて日本は半導体産業で世界をリードしていた。その日本を敵視した米国 は、1980 年代に日米半導体摩擦を起こして日本の半導体産業を破壊してしま った。今、ハイテク強国を目指す中国と対抗する米国は、中国を排除したハイ テク供給網を構築するために、日本の半導体産業を復活させしようとしている。 台湾の積体電路製造(TSMC)は、米国に半導体製造工場を造り、日本の熊本 にも造る。また、NTT・トヨタ自動車など 8 社が出資するラピダスに米 IBM の技術を供与して北海道の千歳市に最先端半導体製造工場を造る。 中国は、国連憲章を中心とする今の国際秩序は米欧がつくったもので、アジ アやアフリカ諸国はわずかしか係わっていないと主張し、グローバルサウス(南 半球を中心とする新興国・途上国)の支持を集めて国際秩序を内部から変えよ - 10 - うとしている。そして、同じ強権主義のロシアと手を組んで民主主義の米欧日 と対抗している。 中国の習近平は、3 期目に入った直後にウクライナ戦争の仲裁案を公表し、 イランとサウジアラビアの外交正常化を仲介して、米国に代わる世界の仲介者 としての役割を誇示した。 最大人口国となったインドのモディ首相は、今年の 1 月にグローバルサウス の 125 カ国を招き、「グローバルサウスの声サミット」を開催し、「人類の 3 分 の 2 が暮らすグローバルサウスが先進国と同等の発言権を持つべきだ」と主張 した。これは、大国として目覚めたインドがグローバルサウスの盟主になろう としていることを表している。 一方、米国のバイデン大統領は、3 月末にオンライン形式で第 2 回「民主主 義サミット」を開き、民主主義勢力の結束を図ろうとした。しかし、共同宣言 に署名したのは、招待した 120 カ国・地域の 6 割にとどまり、インドは署名の 一部を保留し、ブラジル・インドネシア・南アフリカなどは署名しなかった。 グローバルサウスの中で対ロ制裁に参加せず、米中対立の中で中立主義をと る非同盟中立国として、インド・ブラジル・南アフリカ・インドネシア・サウ ジアラビア・イラン・トルコ・カタール・メキシコなどの 25 カ国の人口が世 界人口の 45 %を占め、世界 GDP の 18 %を占めている。これらの非同盟中立 国は、国家の発展のために米欧日と中ロとも貿易取引をしている。今や 1990 年代の米国一極の国際秩序が様変わりして、米中対立の下で国際秩序の支配を めぐってグローバルサウスの争奪戦となってきた。 米国が主導してきた国際秩序は、中ロの挑戦を受ける一方で、最近訪中した マクロン仏大統領が示すように、対中政策をめぐって米欧の温度差が表面化し、 あやうくなっている。今こそ、西側民主義国が結束して、インドと協調しなが ら、現状の国際秩序を維持しなければならない。最大人口国となったインドは、 民主主義国として日米豪との Quad の枠組みに加わる一方で、中国を最大輸入 相手国とし、ロシアとも武器や原油を輸入して関係を維持している。インドは、 今後の世界情勢に大きな影響を与える存在となるだろう。 3.人類の未来 3.1 「原初の平等な社会に戻る」というトッドの指摘は本当か トッドは、人類学的観点から「人類は原初の民主的で男女平等の社会から来 て、また原初のような平等な社会に戻りつつある」と指摘している。このトッ ドの指摘は本当だろうか。 1.2 で述べたように「人間の本能は原初の狩猟採集時代に形成された」こと を考えると、人類は本能的に原初の幸福な社会を願望していると考えられる。 - 11 - そのことを示すために、イスラム世界で起こった「アラブの春」と中国で起こ った「白色革命」について考察する。 2011 年にチュニジアで失業中の若者が焼身自殺をしたのをきっかけに、若 者たちが SNS を使って集結して反政府デモを起こし、それが全年齢層に拡大 して独裁政権を崩壊させた。これを「ジャスミン革命」と言う。 この革命は、長期独裁政権下で若者たちの失業率が高い状態が続いていたア ラブ諸国に瞬く間に伝わっていき、チュニジア・エジプト・リビア・イエメン などで民主政権が生まれた。これを「アラブの春」と言う。 「アラブの春」は、チュニジアでは民主化に成功したが、再クーデターの反 動でイスラム過激派(ISIL)やアルカイダを生み、暴力と経済破綻への扉を開 いて数百万に及ぶ難民を出すことになり、最後は失敗に終わった。しかし、イ ルラム世界でも若者たちが民主化を求めていることが明らかになった。 2022 年 10 〜 11 月に中国各地で政府の極端な「ゼロコロナ政策」に抗議す る群衆のデモが起きた。このデモで群衆が「自由は必要、独裁はいらない」「終 身制はいらない、習近平は退陣せよ」「共産党も退陣せよ」と叫び、A4 サイズ の白紙を掲げて反体制の意志を表明したことから「白紙革命」と呼ばれる。こ のデモは警察力の総動員により封じ込められたが、共産党独裁体制に衝撃を与 え、習近平は「ゼロコロナ政策の打ち切り」を宣言せざるを得なくなった。 中国の民衆がこうした「反体制」の意思表示を公然としたデモは初めてだっ たが、中国の民衆も独裁を嫌い、民主主義を望んでいることが明らかになった。 アラブと中国は、人類の文明の発祥の地であり、女性蔑視のひどい「父系共 同体家族」の地域である。そんなアラブや中国でも、民衆は独裁体制や権威主 義を嫌い、民主主義を望んでいるのだ。 アラブや中国の独裁体制や権威主義は、権力者や支配階級が古色蒼然とした イスラム教や中華思想を自分たちの地位を維持する手段として使っているに過 ぎない。一般大衆は、独裁者が強制する古くさい伝統文化よりも、西側先進国 の民主主義を望んでいるのだ。 上記の考察から人類の未来に対する重要なヒントが得られる。それは、狩猟 採集時代に形成された人間の「本能」が世界中の人々に共通する「幸福感」の 基準となっていることだ。人類は、農業革命以降に支配階級が生まれ、支配階 級の欲望の下で過剰な「文化」の競争が生まれ、その結果として人口が増加し、 経済が発展してきたが、本能的な幸福感ではかえって不幸になってきた。権威 主義・自由主義などの「文化」で競争している限り人類は幸福になれないのだ。 人類史の転換点に向かう今後は、人口の減少と経済の衰退に伴って人類を競 争に駆り立ててきた「文化」が変化していく。その変化の方向は、世界中の人 々に共通する「本能」として遺る「幸福感」にそった社会、即ち「原初のよう - 12 - な平等な社会」に向かっていくことが予想される。これが、トッドの指摘する 「原初の平等な社会に戻る」ことの論理的根拠なのだ。 つまり、権威主義や独裁体制は、農業革命以降に起こった支配階級がつくっ た文化であり、農耕民となった一般大衆を苦しめてきた文化だ。民主主義は、 原初の平等な社会の文化を最も留めていたアングロサクソンが主導してきた文 化である。アラブや中国の一般大衆が民主主義を望んでいるということは、彼 等にも原初の平等な社会の文化が本能として遺っていて、民主主義の方が幸福 になれると感じているからだ。だから、紆余曲折があるにしても権威主義や独 裁体制は滅亡していき、世界は原初の民主的な社会に向かっていくのだ。 3.2 転換点後の新たな世界秩序 現在の世界秩序は、米英のアングロサクソンがつくったと言っても過言では ない。世界秩序の中核となる国連安保理常任理事国の米英仏中ロは、民主主義 国の米英仏と権威主義国の中ロが対立して機能不全に陥っている。 喫緊の地球温暖化問題でも、先進国と新興国・途上国の対立がある。新興国 ・途上国は、「現在の温暖化の責任はそれを引き起こした先進国にある」と主 張し、新興国・途上国に対する支援は先進国の義務だと考えている。 現在の世界秩序は、2 つの世界大戦に勝利したアングロサクソンの文化に基 づいているが、公正さに欠ける。 人類史の転換点を過ぎて衰退に向かう今後は、世界中が協調して人口・経済 を維持し、人類が存続することを最優先させなければならない。そのためには、 今までのような「競争」の文化から「協調」の文化に変えていかなければなら ない。個人の自由を尊重する「競争」の文化は、ストレスがたまって不健全な 社会となり、格差が拡大して不平等な社会となって社会の協調が乱れ、存続不 能に陥る。一方、「協調」の文化は、皆で協力し合い、助け合うことによって 平等で健全な社会となり、原初のような幸福感が生まれて、存続が可能となる。 新たな世界秩序は、文化の対立による争いを起こさないために、公正(フェ ア)でなければならない。民主主義を基本として、個人の「自由」と社会の「平 等」をうまくバランスさせることが肝要となる。勿論、白人のアイデンティテ ィーを維持するために黒人を差別する米国の民主主義や、イスラム文化を批判 して相手の尊厳を傷つけているフランスの「言論の自由」も許されない。 4.あとがき 4.1 文化の人類史 前章までに考察してきたことを「文化」の観点から筆者なりにまとめてみる。 ホモ・サピエンスは 7 万年前に起こった認知革命によって、自然の摂理であ - 13 - る「遺伝子による進化」を離れ、「文化による進化」によって急速に進化し始 め、自然の摂理に従う動植物を圧倒して自然の破壊者となった。それでも現代 人の本能には、人類が石器を道具として使い始めてから農耕革命までの 240 万 年間に及ぶ原初の狩猟採集時代に形成された遺伝子を通して、原初の「自由で 平等な社会に幸福を感じる」という幸福感が受け継がれている。 農業革命から中世末期までの 1 万年余に及ぶ歴史は、個人の自由を束縛する 「文化の全体主義化」の歴史であり、父系化による女性蔑視の文化が世界中に 広がっていった。その影響は文化(文明)の先進地域ほど大きかった。 15 世紀以降の近代になって、西欧で古代の個人主義・自由主義の文化を復 活させるルネサンス運動が起こり、産業革命以降は最も原初の社会の文化を留 めていたアングロサクソンが世界の自由主義・民主主義化を主導してきた。現 在の日米欧の「民主主義」と中ロの「権威主義」の対立は、アングロサクソン の「近代的な民主主義の文化」と「農業革命以降に生まれた支配階級の伝統を 引き継ぐ権威主義の文化」との対立である。この対立は、権威主義が民主主義 を望む現代人の本能によって否定され、民主主義が生き残ることになる。 人類史の転換点を迎える今後は、人類が存続するために、「競争」の文化か ら「協調」の文化へと変わっていかなければならない。それは、原初の社会の 文化に戻ることを意味する。今後の新たな世界秩序は、公正な秩序にして、個 人の「自由」と社会の「平等」をうまくバランスさせることが重要になる。 4.2 人口減少に転じた日本のあり方 日本は世界に先駆けて人口減少に転じている。政府は、「こども家庭庁」を つくり、出産・子育て支援や男性の育児参加を進めて、対応しようとしている。 しかし、それでは問題の根本的な解決にはならない。今世紀中に起こる世界人 口の減少は人類の歴史的大転換の現象だが、その最先端をいく日本は、15 年 前から人口減少に転じて、既に転換点を過ぎているという認識に立つ必要があ る。そして、例えば、最低限 1 億人の人口を維持するといった目標を掲げ、社 会が共同して子育てをするような新しい社会システムに改革していかなければ ならない。原初の社会では、集団の女性たちが共同で子育てしていたので、女 性の出産・育児を司るホルモンを分泌する遺伝子は、共同育児に適応するよう になっている。核家族化した現在の女性たちは、孤独感にさいなまれながら子 育てをしている。新しい社会システムでは、女性が子育てをしながら働けるよ うにして、男性と同じように社会に進出し、男女の本能的な適性に合わせて職 業を分担するようにする。米英仏で女性の社会進出と出生率を高く維持できて いるのは、女性の適性を生かせるサービス業が発展しているからだ。今後の社 会は、男女の適性に合わせて、男は主にモノの生産・製造と保安に、女は主に - 14 - ヒトを相手とするサービス・福祉を担当することが望ましい。トッドが指摘す る「原初のような社会に戻る」とは、「原初の狩猟採集時代に形成された本能 に適した社会になる」ことを意味するのだ。 日本でも FIRE(Financial Independence, Retire Early:早期退職して資産運用 で独立すること)がはやっている。これは、一向に給料が上がらない会社勤め に不安を感じ、早期退職して株や不動産などの運用で独立する若者が増えてい ることを表している。また、年寄りをだましてカネを奪う詐欺や強盗を働く若 者が増えている。人口減少に伴って日本の社会全体が萎縮し、若者達が将来に 不安を感じて、ポジティブな希望を失っているのだ。これは、政府や会社経営 者など社会の指導者たちの責任だ。日本の指導者たちは、旧来の組織を維持し 継続することばかり考えて、本来の指導者としての責任を果たしていない。日 本が既に歴史的転換点を過ぎて、旧来の統治・経営方法を変えなければならな いことを認識していないのだ。それが今日の日本の最大の問題だ。 資本主義経済も変えなければならない。従来の株主を重視し、競争に勝つた めの経営から、協調して助け合う社会を支える経営に変えて行かなければなら ない。特に、人口減少の最先端をいく日本は、人手不足を補うためのロボット や人工知能(AI)を世界に先駆けて開発・実践して、それを世界に広めるこ とがビジネス・チャンスにもなる。 日本は、社会に奉仕するというビジネス文化では、世界の最先端をいく伝統 を持っている。江戸時代の近江商人の「三方よし」の商売は、自分・相手・地 元の三者がよくなるように商売するという文化だった。これは、正に今後の協 調して助け合う社会に通じている。 日本の文化は世界的に人気が高く、日本への旅行者が増えている。今後のグ ローバリズムは、モノの貿易よりも、気に入った文化を求めて旅行・移住する 人が多くなることが予想される。今後の「協調」する世界では、従来の「競争」 に適したアングロサクソンの個人主義・自由主義の文化よりも、集団の「和」 を優先する日本の「和の文化」の方が適しているのだ。JICA 海外協力隊が途 上国の状況に合わせて支援する活動方法は国際社会から高く評価されている。 日本は、民主主義国と協力して、「協調」する世界に導いていくことが期待さ れる。日本が世界に羽ばたいていく時代がこれから始まるのだ。 さて、まだ書き足らない所がありますが、この辺で筆をおくことにします。 筆者は「未来に希望を持つ」ことを念じて考察してきて、人類が本能として持 っている「原初の幸福な世界」に向かっているという希望を持つことができま した。皆さんも未来に希望を持って戴ければ、筆者としてこの上ない喜びです。 (以上)
人類学的アプローチから見えてくる人類史 2023 年 2 月 芦沢壮寿

フランスの歴史人口学者で家族人類学者のエマニュエル・トッドの著書『我 々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋、2022 年 10 月発行)の 上下 2 巻(696 ページに及ぶ学問的な大著)を昨年 12 月から 2 ヶ月をかけて 読み、筆者なりの考察を加えて、その要旨を『人類学的アプローチから見えて くる人類史』としてまとめてみた。 トッドは、国・地域ごとの家族システムの違いや人口動態に着目して、「ソ 連崩壊」や「米国発の金融危機」「トランプ勝利」「英国の EU 離脱(ブレグジ ット)」などを予言したことで知られる。2016 年 6 月のイギリスの国民投票で 決まったブレグジットと 11 月の米大統領選挙でのトランプ勝利を見たトッド は、「西側先進国の社会は、自らの今の状況が理解できないことによる無力感 で覆われている」と指摘する。日本を含む先進国の人々は、不平等が拡大し、 若年層の生活水準が低下して、社会が経済的・社会的に後退局面に入っている と感じているから無力感に陥っているが、それは「全てのことが経済によって 決まるという考え方が現実を直視することを妨げているからだ」とトッドは指 摘する。そうした観点からトッドは『我々はどこから来て、今どこにいるの か?』を執筆したと述べている。 この著書の中でトッドは、経済至上主義的アプローチによって不安に駆られ て当惑している先進国の人々に対して、人間の行動や社会のあり方を政治や経 済よりも深い次元で規定している「教育」「宗教」「家族システム」の動きに注 目する人類学的アプローチによって「今、人類に何が起きているのか?」を分 析した。それは、政治や経済という「意識」のレベルではなく、教育という「下 意識」や宗教・家族という「無意識」のレベルにまで掘り下げて分析すること によって、現在の世の中の動きの本質が見えてくるというのだ。 こうしたトッドの人類学的アプローチによる現生人類(ホモ・サピエンス) の人類史は、今までの政治・経済中心の文明史とは全く違っていて、今まで筆 者が不可解に思っていたことの原因が家族システムにあることが分かり、深い 感銘を受けた。 そこで筆者は、人類学的アプローチの人類史を前編と後編に分け、前編では 人類史の全体的な流れについて述べ、後編では家族型のグループ別に米英仏、 日独、中ロに分けて、グループ別の特徴について述べることにする。 [前編] 1.人類学的アプローチの人類史の概要 人類学的な家族システムの変遷の歴史から見ると、農業革命以降の古代・中 - 2 - 世の歴史は、文明の発達に伴って家族システムの父系化・稠密化が進み、男性 優位・女性蔑視の不平等化の歴史であった。その結果、世界で最初に文明が生 まれたメソポタミアでは、現在、イスラム圏となって女性蔑視が最もひどい不 平等社会になってしまい、近代化の観点から見ると、最も遅れた地域となった。 一方、原初の狩猟採集時代のホモ・サピエンスの集団は、男たちが共同で狩 猟して分け前を平等に分け、女たちは共同で子育てや採集をして、男女が対等 に役割分担する平等な社会であった。 こうした事実から、近代化の歴史はむしろ原初の狩猟採集時代に向かって回 帰しているように見える。実際に、人類学的アプローチから見えてくる近代化 の歴史は、原初の平等な社会に回帰する歴史なのだ。 人類学的アプローチから見ると、17 世紀以降に議会制民主主義や産業革命 を起こして近代化を進め、最近ではグローバル化を主導している英米のアング ロサクソンは、世界で最初に文明が発祥したメソポタミアから遠く離れたユー ラシア大陸の西端に位置していて、文明の発達に伴う女性蔑視の家族システム の影響が及ばず、原初の狩猟採集時代の核家族システムを維持していたので、 近代化が可能になったというのだ。 つまり、家族システムで見る人類学的アプローチによる人類史では、原初の 狩猟採集時代は核家族による男女平等の社会であったが、紀元前 9 千年頃から 始まった農業革命以降、文明の発達に伴って家族システムの父系化・稠密化が 進み、女性蔑視の家族システムの波がメソポタミア・中国などの文明発祥地か ら周辺部に波及していった。しかし、その波がアングロサクソンの住む英国ま では及ばなかったので、原初の男女平等の核家族システムが維持されていたア ングロサクソンが、議会制民主主義と産業革命による近代化を始め、世界の近 代化を主導するようになったというのだ。 今、近代化しつつある世界中の国々で核家族化が進んでいる。それは、原初 人類の男女平等の社会に回帰しつつあることを意味する。 トッドの著書のタイトル『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の答 えは、「人類は、原初の民主的で男女平等の核家族型の社会から来て、今、ま た原初のような男女平等の社会に戻りつつある」となる。だから「先進国の人 々が無力感になることはない」とトッドは主張しているのだ。 2.家族システムの変遷と地理的波及の人類史 現生する唯一の人類種であるホモ・サピエンスは、20 万年前にアフリカで 生まれた。アフリカの赤道付近の熱帯雨林で暮らすピグミー諸民族と南アフリ カに住むサン人(ブッシュマン)のクン族は、ホモ・サピエンスの最も古い集 団と見なされている。彼等の家族システムは、核家族を基本とし、女性のステ - 3 - ータスが高くて、女が子育てと食糧採集、男が集団の守りと狩猟を分業してい ることを特徴とする。つまり、狩猟採集生活をしていた原初のホモ・サピエン スは、一夫一婦制の夫婦と子供からなる核家族を基本として、親類どうしが集 まってグループをつくり、そうしたグループがいくつか集まって集団をつくっ て移動しながら狩猟採集生活をしていたと考えられる。その集団は、父方親族 の集団、母方親族の集団、あるいはその両方が混合した集団であったが、結婚 する配偶者は集団外から求める「外婚」が一般的であった。外婚は交叉イトコ (父の姉妹の子供や母の兄弟の子供)との結婚までは許された。 10 万年前にホモ・サピエンスはアフリカを出て中東に進出し、世界中に広 がっていった。原初の人類は移動することが特徴であったのだ。 紀元前 9 千年頃に中東のメソポタミアからシリア・パレスチナ・エジプトに 到る「肥沃な三日月地帯」で農業が生まれ、紀元前 8 千年頃に中国の長江・黄 河流域でも農業が生まれた。紀元前 3000 年にメキシコで、紀元前 1000 年には ペルーのアンデス山地でも農業が生まれた。ホモ・サピエンスは定住して農耕 生活をするようになった。これを「農業革命」という。農業を始めてから 6000 年が経過した頃に文明が生まれ、家族システムに変化が起こった。 その口火を切ったのはメソポタミア南部にいたシュメール人であった。紀元 前 3300 年頃にシュメール人が世界で最初の文明を生み、楔形文字を発明した。 エジプト文明、ギリシャ文明やインダス文明はメソポタミア文明が波及した文 明である。エジプトでは紀元前 3000 年頃に文明が生まれ、紀元前 2900 頃にア ルファベットの元になる象形文字が生まれた。中国でも紀元前 1500 年頃に文 明が生まれ、紀元前 1400 年頃に漢字のもととなる甲骨文字が生まれた。 人類学には「周辺地域の保守性原則」という理論がある。言語・家族システ ムなどの文化・文明は時代とともに変化するが、その変化の仕方は、まず文化 ・文明の中心地域で変化が起こり、その変化が周辺地域に伝わっていく。この 理論に従えば、中心地域から離れた地域ほど古い言語・家族システムが現存し ていることになる。 原初の核家族型の国・地域は(4 ページの図 1、5 ページの図 2 を参照)、英 国、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの英語圏の遺産相 続が不平等な「絶対核家族」、フランスのパリ盆地、スペイン、ポルトガル、 イタリア南部などの遺産相続が兄弟姉妹で平等に分けられる「平等主義核家族」 がある。両者の遺産相続の違いが「平等」に対する価値観の違いとなっている。 絶対核家族の国は不平等であっても受け入れるので社会が安定するが、平等主 義核家族の国は不平等に対して敏感であるために社会が不安定になりやすい。 また、両親との一時的同居を伴う核家族の国・地域として、東南アジアのタ イ、カンボジア、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの、 - 4 - 妻の側の親と一時的に同居する「母方居住核家族」、ユーラシア大陸の遊牧民 であったトルコ、モンゴルや遊牧民が遊牧する草原地帯であったウクライナ、 ルーマニアなどの、夫の側の親と一時的に同居する「父方居住核家族」、ポ− ランド、ベルギーなどの、いずれの側の親でもかまわない「双処居住核家族」 がある。 図1 ユーラシア大陸の主な家族システム こうした核家族の国・地域は、文明の発祥地から遠く離れているために、あ るいは遊牧民として移動生活をしていたために、家族システムの父系化・稠密 化の波が及ばず、原初の核家族システムが維持されたのだ。 今から 5 千年前頃に農業が発展して人類最初の文明が生まれたメソポタミア で、核家族システムに変化が起こり、農地などの資産を長子が継ぐ父系直系家 族システムへと変わっていった。以降、家族システムは、文明の発展とともに 父系化・稠密化して、複数世代が同居する大家族へと変わっていった。父系化 ・稠密化とは、父親の系列で複数世代が同居して1つの家族を構成することで ある。父系化・稠密化が進むにつれて、女性のステータスが低下していき、男 女不平等の社会へと変質していった。そこで、父系化による男女の格差の程度 を「父系化レベル」で表し、原初の核家族の父系化レベルを 0 として、不平等 化が進むごとに父系化レベルを 1、2、3 と上げていく。こうした父系化の進ん - 5 - だ家族システムが各地の文明発祥地から周辺部に広がっていったのだ。 家族システムの父系化・稠密化の一般的なプロセスは、まず核家族型から父 親の系列で複数世代の親子が同居する「父系直系家族型」へと変わる。父系直 系家族は、一般的に長男が跡継ぎになり、財産の全てを継承する。そのために、 長男の権威と兄弟の不平等を軸とする価値観の社会へと変質する。父系直系家 族では長男が特権化されるので、父系化レベルが 1 となる。しかし、女性のス テータスは比較的高い。 図2 欧州における家族システム 父系直系家族型の国・地域は、日本、韓国、ドイツ、フランス南西部である。 - 6 - 日本と韓国は中国から父系直系家族型が伝わり、ドイツとフランス南西部はメ ソポタミアから伝わったと考えられる。日本で支配階層が長男相続を始めたの は鎌倉時代の 13 世紀であり、数世紀をかけて全国に普及していった。 ユーラシア大陸の草原地帯で移動しながら遊牧生活を送る遊牧民の父系制は メソポタミアと中国から伝わった。農地を持たない遊牧民は長子相続の必要が なかったので、息子たちは対等に核家族として父系制原則に基づいて父親に結 びつけられるようになって「氏族組織」が形成された。この氏族組織は、遊牧 民の社会的・軍事的構造の基礎となり、やがて軍事的に無敵な騎馬軍団となっ た。アラブ系遊牧民は中東と北アフリカを征服し、モンゴル系とトルコ系の遊 牧民は中国の農耕地帯に侵入し、農耕民を隷属させた。 遊牧民に侵略されるようになったメソポタミアと中国の父系直系家族システ ムは、遊牧民の兄弟の対等性を取り入れて「外婚制共同体家族システム」へ変 わっていった。外婚制共同体家族は、父親家族の下に息子たちの家族が兄弟対 等な立場で同居する。息子たちは親戚以外の女性と結婚し、娘たちは結婚する と家族から出て行く。この外婚制共同体家族システムは、父親の権威、兄弟の 対等性と男性優位が一般原則となり、父系化レベルが 2 となる。社会は権威主 義の価値観が強くなる。 現在、外婚制共同体家族型の国・地域は、中国、ロシア、インド北部である。 中国とロシアは、男性優位の平等主義の価値観の影響で共産主義の国になった。 現在は両国とも権威主義の国となっている。 外婚制共同体家族型がさらに父系化・稠密化が進むと、「内婚制共同体家族 型」へと変わる。これは、父親の家族の下に兄弟の家族が対等な立場で同居し て暮らすが、兄弟の結婚相手はイトコの女性でなければならない。可能ならば 兄弟の子供同士が結婚することを要請するが、それが不可能な場合は又イトコ (親同士がイトコである子)と結婚する。内婚制共同体家族は、兄弟間の情愛 の強さとその持続性を重視し、女性を家庭内に閉じ込めることによる女性蔑視 が一層強くなるから、父系化レベルが 3 となる。 現在、内婚制共同体家族型の国・地域は、世界最初の文明発祥地メソポタミ アのあった中東のイスラム圏のイラン、イラク、エジプト、北アフリカとアフ ガニスタン、パキスタンである。 3.文字・識字化の歴史と経済的発展との関係 人類史上で最初の文字として楔形文字が紀元前 3300 年頃にメソポタミアの シュメールで生まれ、周辺に拡がっていった。紀元前 2900 年頃にエジプトで 象形文字が生まれ、それが伝わって紀元前 1200 年頃に表音文字のフェニキア 文字が生まれ、紀元前 800 年頃にギリシャでアルファベットが生まれた。ギリ - 7 - シャのアルファベットが変形してラテン文字(ローマ字など)やキリル文字(ロ シア文字など)のアルファベットとなった。 フェニキア文字はアジア方面にも伝わり、紀元前 7 世紀頃にアジア系遊牧民 のアラム人がアラム文字を生み出した。アラム文字は、セム語族のシリア語、 ヘブライ語、アラビア語などの文字やインド北部で生まれたブラフミー文字の 基となった。シリア文字は遊牧民のソグド文字、ウィグル文字、モンゴル文字、 満州文字へと派生していった。ブラフミー文字はインドのベンガル文字、タミ ル文字や東南アジアのビルマ文字、ラオス文字、タイ文字、クメール文字、ボ ルネオ文字、タガログ文字の基になった。 漢字の起源となった甲骨文字は、紀元前 1400 年頃に亀の甲羅や牛の肩甲骨 を使った占いから生まれた。紀元前 221 年に初めて中国を統一した秦の始皇帝 が各地でバラバラであった甲骨文字を統一して漢字が生まれた。各地で言葉の 発音が違う中国において、表意文字の漢字で書いた文章の意味が全国に通じる ことから、漢字によって広大な中国を統一して統治することが可能になったの だ。漢字は、東アジアに広がり、日本、朝鮮、ベトナムを含む漢字文化圏をつ くった。 文字は長い間、支配階級だけが使い、識字率は 10 %程度であった。16 〜 17 世紀に識字化(識字率が向上すること)が急速に進んだ。 ヨーロッパでは、1517 年にドイツのプロテスタンティズム(新教)の宗教 改革を始めたマルチン・ルターによって聖書がドイツ語に翻訳され、グーテン ベルクの開発した活版印刷術によって印刷された。引き続いてイタリア語版、 フランス語版などとヨーロッパ各国の言語版の聖書が印刷され、庶民が聖書を 読むようになって、識字率が急激に上昇した。 日本では、1603 年から 3 世紀近くにわたって平和が続いた江戸時代に、庶 民文化が発達し、庶民でも子供を寺子屋に通わせて「読み」「書き」「そろばん」 を習わせたので、江戸庶民の識字率は 80 %を超えた。庶民の間で俳句がはや り、浮世絵や読み物の出版ブーム、盆栽や朝顔の新種開発などの園芸ブーム、 名所・旧跡をめぐる旅行ブームが起こっていた。 宗教改革後のドイツ(神聖ローマ帝国)にフランス・デンマーク・スウェー デンなどの周辺国が侵入して国際宗教戦争となった「30 年戦争」(1618 〜 1648 年)でドイツが敗北し、ドイツは小国連邦の地方分権国家となり、フランスは ルイ 14 世(太陽王)の絶対王政のもとで中央集権国家となっていった。 その頃、ドイツでは核家族から父系性直系家族に変わっていった。それに伴 って女性のステータスが急低下し、結婚年齢が上昇していった。また、ドイツ を中心とする周辺地域で大々的な魔女狩りが行われ、ヨーロッパ全域に肉体の 快楽を否定する雰囲気が広がっていった。この時期にヨーロッパ人の性生活か - 8 - らテーブルマナーまでの生活全般における行動の規律が厳しくなり、ヨーロッ パ人のメンタリティー(精神構造)が大変容した。 ヨーロッパにおける識字化ではドイツが中心となり、アジアの識字化が日本 から始まったこと、それに両国が直系家族の国であることの間には何らかのつ ながりがあるとトッドは指摘する。直系家族の長子相続制は、相続・継承の詳 細を文字表記するから、識字化が進むというのだ。実際に長子相続制の歴史を 見ると、長子相続制の導入に続く時代に技術・芸術などの文明が輝かしい時代 となっているという。 識字化は経済的発展にも影響を与えた。英国で世界最初の産業革命が起こり、 経済的離陸(産業の近代化によって経済が急成長し始めること)が 1780 年に 達成できたのは、1700 年に男性の識字率が 50 %を超えていたからだ。 日本がアジアで最も早く 1885 年に経済的離陸ができたのも、明治維新直後 の 1870 年に男性の識字率が 50 %を超えていたからだ。そのために日本は世界 で 6 番目の経済的離陸により先進国に仲間入りした。ちなみに、1番が英国、 2番がフランス、3・4 番がドイツと米国、5 番がスウェーデンである。ロシア は 7 番目、カナダは 8 番目、イタリアは 9 番目で日本より遅かった。 新教の宗教改革で新教国になった国は、ドイツと北欧諸国の直系家族の地域 と英国などの絶対核家族の地域であった。これらの地域は、兄弟間が不平等で あることで共通する。一方、カトリック(旧教)に留まった地域では、子供を 平等に扱う家族型の地域(フランス、スペイン、イタリア南部、ハンガリー、 チェコなど)と平等に扱う原則を持たない家族型の地域(オーストリア、ポー ランド、リトアニア、スロベニアなど)に分かれた。前者では、キリスト教へ (図 3)各国の高等教育の進展 - 9 - の信奉をやめてしまい、平等主義のイデオロギーを信奉する国へと変わってい き、後者では、カトリックのキリスト教を信奉し続けた。このように、兄弟間 の平等/不平等が違う家族型によって、両者の宗教観が正反対に分裂したのだ。 現代における世界の主要国の高等教育を受けた人々の割合の進展状況を 8 ペ ージの図 3 に示している。日本は 2000 年時点で米国を抜いて世界のトップに ある。先進国では、高等教育を受けた人の割合が男性より女性の方が高くなっ て逆転している。日本でも 1991 年頃に女性が男性を抜いて逆転した。この事 実についてトッドは、「人類史における根元的に新しい何かが顕在化しつつあ る」と述べ、農業革命以降の男性優位・女性蔑視の人類史が大きく転換して、 原初の男女平等の社会に近づいている兆候だと指摘している。 4.各国の産業構造・出生率と家族システムとの関係 第 2 次世界大戦後から 1970 年代までの鉄鋼・自動車・冷蔵庫・テレビとい った実物経済の時代は、実物の生産力を測る指標としての GDP が社会の動き を反映していた。しかし、1980 年代から始まったグローバル化によって産業 構造が変容して、モノよりサービスの割合が高くなってくると、GDP が経済 の実態を表さなくなり、世界はモノの生産よりも消費する「貿易赤字国」と消 費よりも生産する「貿易黒字国」に分かれていった。 米国・英国・フランスなどは、自国の産業基盤を失って貿易赤字国になった。 これらの国は、伝統的に個人主義・民主主義の国で、4 ページの図1に示すよ うに、「核家族」が社会の構成要素となっている国であり、夫側の親と妻側の 親を同等に見なす「双系的核家族」の国である。双系的核家族の国では、女性 のステータスが高くて出生率(1 人の女性が生涯に産む子供数の平均値)も高 く、人口が増加している。 日本とドイツは、民主主義の国だが、夫側の系列を重視する「父系直系家族」 の国であり、父系制のために女性のステータスが米英仏よりも低く、出生率も 低くて人口減少が懸念される。産業構造でもサービス産業(第 3 次産業)より 製造業(第 2 次産業)に強い点で米英仏と異なる。 一方、中国・ロシア・インドは、権威主義的で「父系共同体家族」の国であ る点で共通する。この 3 国は産業大国となり、貿易黒字国となった。中国は工 業完成品の輸出で、ロシアは天然ガスと安価で高性能な兵器の輸出で、インド は医薬品とソフトウェアの輸出で貿易黒字国となった。特に中国は、ケ小平の 改革開放政策と米欧日のグローバル化が重なり、米欧日から資本と技術力を取 り込んで 10%を超える高度経済成長を持続し、「世界の工場」と言われるよう になった。2010 年には日本を超えて世界第 2 位の経済大国となった。 以上のことをまとめると次のようになる。日本・ドイツや中国・ロシア・イ - 10 - ンドなどの「父系制社会」では、モノ造りが男性との親和性が高いことから、 製造業が発展した。しかし、出生率が低くなり、人口が減少する懸念が生じて いる。一方、米国・英国・フランスなどの女性のステータスが比較的高い「双 系制社会」では、サービス業との親和性が高い女性が社会進出することによっ てサービス業が発展し、雇用も増加した。また、出生率も高くて、人口増加率 が小幅ながらプラスを保っている。 このように、各国の産業構造と出生率による人口増減がその国の家族型と強 く関係するのは、社会の構成員である個人が同じ家族型の価値観を共有し、そ の価値観に基づいて社会活動をすることによって、産業構造が決まり、人口の 増減にも影響するからだ。 [後編] 5.世界の近代化をリードしてきた米英仏 世界の近代化とグローバル化をリードしたのは核家族型社会の米英仏であっ た。アングロサクソンの英国は、17 世紀に議会制民主主義の政治改革を行い、18 世紀に産業革命を起こした。1776 年に英国から独立した米国は、合衆国憲法 を制定して近代化の基礎となる個人主義・自由主義・民主主義の政治制度を確 立した。1789 年にフランス革命を起こしたフランスは、平等主義のイデオロ ギーを確立した。 民主主義の原点は、原初人類の自由人の集合体にあった。世界で最初の帝国 を築いたシュメールは権威主義的だったが、その神々は自由で民主的だった。 彼等の祖先の神々は、自由で民主的な原初人類であり、普遍的に自由で民主的 だったのだ。そして、緊急時には統率者を選び、話し合って決める民主的機能 を備えた地域共同体を形成していた。そうした民主的な形態は、古代のインド や中国の村々、インカ帝国やアステカ帝国、北米インディアンのイロコイ族に も見られ、原初の人類では一般的だった。 英国は、ローマ帝国時代に「ブリタニア」と呼ばれてローマ帝国の支配下に あった。英国の中世の荘園は、ローマ時代の「ヴィツラ」という経済的機能と 政治的組織を混合した組織の伝統を引き継いでいて、農民を政治的に統合する 主権集団であると同時に、法的に制御する荘園裁判所でもあった。この荘園裁 判所が英国の法治主義の源泉となった。 1066 年にフランスのノルマンディー公ウィリアムが英国を征服して統一し、 ノルマン朝を開いた。すると英国の支配階級はフランス語を話すようになり、 庶民の話す英語が乱れていった。そして英語は、必ず行為者を表す主語を文頭 に置き、次に述語を言うような語順に固定することによって、文法的な構造が 単純化された言語に変質していった。その結果、行為者を強調する英語を話す - 11 - 英国人(アングロサクソン)は、積極的に自己を主張し、活発に活動する民族 へと変質した。現在、英語が世界中で話されているのも、英語の文法が単純だ からだ。 女王エリザベス 1 世の統治時代(1558 〜 1603 年)に英国は急に活発になっ た。英国人は北米大陸を植民地化するために進出し始めた。海賊船長ドレーク は、エリザベス 1 世の許可を得て、1577 〜 80 年にスペインの銀輸送船団を襲 うなどの海賊行為をしながら世界を一周して戦利品を女王に献上した。さらに、 1588 年には当時世界最強のスペインの無敵艦隊を撃破した。1600 年には東イ ンド会社を設立し、インドに進出して植民地化を進めた。シェークスピアが活 躍したのもこの時代であった。 絶対核家族制で遺産相続が不平等な英国の社会では、個人主義・自由主義・ 不平等主義の社会であったので、子供が自主的に進路を決めて早く独立した。 エリザベス 1 世の時代には、息子や娘が成人すると親元から遠く離れて「住み 込み使用人」になって働き、行き先の土地で結婚して家族を持つのが一般的だ った。それを可能にしたのは、1601 年に制定された「貧困法」であった。残 された両親が高齢になると、教区の上層農民が自主的に世話する救済システム が確立されていたのだ。英国は福祉や社会保障の面で世界の先頭を走っていた。 1642 〜 51 年に清教徒革命が起こり、チャールズ 1 世が処刑されて共和制と なり、1688 年に名誉革命によって議会制立憲王政が成立し、代表制による統 治方法が確立された。これが近代における議会制民主主主義のさきがけとなっ た。不平等主義の価値観を持つ英国民は、こうした大きな社会的変革を抵抗な く受け入れ、すぐに定着していった。この英国の福祉制度や議会制度は英国で 産業革命が起きる制度的基盤となった。 1765 年に英国人のジェームス・ワットが蒸気機関を発明して、産業革命が 始まった。蒸気機関を動力源として使うことによって工業の生産性が飛躍的に 向上し、近代的な機械工業生産が英国で始まったのだ。この新しい機械工業生 産は、農村の核家族から供給される豊かな労働力によって支えられた。 1776 年に北米大陸の英国の 13 の植民地が独立宣言を議会で採択し、1787 年 に合衆国憲法を制定して民主主義の政治制度を確立した。 1789 年にフランス革命が起こり、絶対王政から共和制に変わった。しかし、 平等主義核家族制のフランスでは、共和制が安定するまでに百年近くを要した。 社会を平等に統一することは難しく、平等主義の強いフランスは社会が不安定 になりやすいからだ。 このようにして、現代社会の基本的なイデオロギーとなっている議会制民主 主義・自由主義・個人主義は英米のアングロサクソンによって確立され、平等 主義はフランスで確立されたのだ。 - 12 - 6.米国の「未開」の感じは何を意味するか 世界中からの移民で形成された米国は、異なる文化や家族制度が持ち込まれ たが、世代の交代につれて地理的に文化が均一になり、水平的になった。移民 たちは、当初は同民族が集まって家族制度を維持して家族や親戚の連帯を強化 したが、世代が代わるにつれて連帯が解除され、米国流の絶対核家族制になっ ていった。米国の産業が繁栄の頂点にあった 1950 年頃の米国の家族は、全体 的に男女それぞれの役割を分離する絶対核家族となった。 一般的にヨーロッパやアジアでは、地域ごとに固有の文化が垂直的に分布し ているが、米国が水平的なったということは、米国が水平的な集団生活を送っ ていた原初のホモ・サピエンスにより近づいていることを意味する。 20 世紀における米国は、経済・テクノロジー・教育で世界のトップランナ ーとなって世界をリードしてきた。しかし、こうした米国の現代性・先進性よ りも、米国の人類学的基底が原始的になり、英国よりも原初のホモ・サピエン スに近づいていることに注目する。 米国人の諸特徴を列挙すると、@州から州へと早いリズムで移動する米国人 の地理的移動性、A自然資源への高い依存性、B身体的暴力による高い他殺率、 C男の空威張りと女性の独立とが奇妙に混合した性的分業、D白人が黒人を排 斥する原因を排除できないこと、などの特徴がある。こうした特徴から、米国 には「モダン」という感じと同時に「未開」という感じがつきまとう。これは、 米国が原初のホモ・サピエンスの普遍的な自由主義・民主主義の社会に近いか らだと考えられる。つまり、米国は、古い文化に洗練されていない「未開」の 地だから、近代化の最先端を走っているのだ。 一方、米国の「未開」とは反対に文明・文化を発明し発展させてきた中東・ ・インド北部の父系共同体家族の社会では、その文化によって女性のステータ スが低下し、創造的自由を破壊された人々は麻痺してしまい、前に進めなくな っている。中東のイスラム国が女性蔑視を抜け出せないのは、イスラム教の文 化が国民の創造的自由を破壊してしまっているからだ。インド北部では女性蔑 視がひどく、女性を家に閉じ込める習慣があり、女の子の死亡率が異常に高い。 米国で銃を使った殺人事件が頻発しているにも拘わらず銃の所持を禁止でき ないのは、米国社会が「未開」であることと関係する。古い文化の国では、既 に一般国民が銃を所持することを禁止し、国民もそれを受け入れているが、古 い文化の洗練を受けていない「未開」の米国では禁止できないのだ。 米国がヨーロッパ系の移民を受け入れて同化する一方で、インディアンや黒 人を拒否しているのは、原初の人類の集団が他民族とオープンに同化するのと 同時に、差別化もしていたことと同じである。 - 13 - 米国の白人が黒人と敵対するのは、白人として存在するためのアイデンティ ティーを保持するためだとトッドは述べている。白人集団としての一体性を維 持するためのアイデンティティーは、絶対的なものではなく、黒人に対する敵 意から生まれ、敵意に依存しているのだ。白人集団内部での一体性・道徳性と 黒人への敵対・暴力が機能的に結合していて、黒人への敵対・暴力を止めると、 白人としての一体性・道徳性もなくなってしまうというのだ。 米国で黒人に対する差別があるから、アジア系を白人扱いに格上げすること が可能になったとトッドは指摘する。アジア系移民は第 1 次世界大戦まで差別 されたが、その後、アジア系を白人社会に受け入れたのは、白人が黒人と敵対 するようになったからだというのだ。 7.直系家族型社会の日本とドイツ 日本は、文字や文明を中国から受け入れたが、文化では自立性を保ってきて、 江戸時代には識字率が向上し、明治になって先進国入りした。しかし、明治以 降の日本は富国強兵の軍国主義に走り、第 2 次世界大戦で敗戦国となった。戦 後は平和主義の国に転じて国際的な役割から退いてきたが、テクノロジーと経 済面では世界の大国となり、1980 年代には日本経済が米国をたじろがせるま でになった。しかし、1990 年代にバブルが崩壊して以降、経済成長が止まっ てしまった。文化面では、日本独自の文学・漫画・和食文化などが異質な文化 として世界中から受け入れられ、賞賛されるようになった。 一方、宗教改革を通して識字率が向上したドイツは、超人的な有能さを発揮 し、1880 〜 1930 年に科学・経済を急進させ、アングロサクソンの英米を相手 に 2 つの世界大戦を戦った。しかし、ドイツは両世界大戦で敗北し、ナチスの ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)という大きな汚点を残した。ナチスは、人類 の普遍的価値観に対する挑戦であった。 長男だけが遺産相続する直系家族型の日本とドイツは、権威主義と不平等主 義の社会になりやすい。この社会は職業や技術が効率良く継承されるから、う まくいけば経済や技術が急成長する。その成長方法は、新しいものを発明する よりも、既存のものをより深く改良することを得意とする。しかし、反対にう まくいかない場合には経済や技術革新を停滞させてしまう。日本・ドイツの経 済・技術が急成長したのは直系家族型の社会だったからだが、反対に日本の現 状の長期停滞もそのせいだと思われる。 日本とドイツは、不平等主義の価値観があるために格差が大きくても社会が 安定に維持される一方で、権威主義の価値観の下で国民が軍国主義やナチズム に走る危険性を内包している。両国民はこのことを子孫に伝える必要がある 直系家族型の日本とドイツは、出生率が低い点でも共通する。2015 年の出 - 14 - 生率で見ると、核家族型社会のフランスが 2.0、英国・米国が 1.9 であるのに 対して、日本とドイツは 1.4 だった。ちなみに、中国は 1.3、韓国は 0.9 と日本 よりも低い。仏英米では、職業についている女性が子供を生んで働き続けられ るような社会の仕組みを作っているのに対して、日独は、子育てを女性の役割 と考えていて、職業についた女性に仕事を継続するか子育てかの選択を迫り、 仕事の継続を選ぶ女性が増えているために、出生率が低下している。直系型社 会でもアイルランドとスウェーデンでは、出生率が 2.0 と 1.9 だから、国の政 策によって出生率を上げることは可能なのだ。 このままいくと日本とドイツは人口面で機能不全に陥る。ドイツは人口を維 持するために、トルコや東欧諸国からの移民に門戸を開けて受け入れ、2012 年時点の在住外国人の割合が 32.1 %になった。内向きな日本は何も手を打っ ていない。移民の受け入れを嫌うのであれば、日本が人口を維持するためには、 出生率を上げるしかない。 8.共同体家族型の中国とロシア 中国とロシアは外婚制共同体家族型の国であり、両国とも共産主義体制の国 になったことで共通する。共産主義体制となった国の分布を見ると、外婚制共 同体家族の分布地域(ロシア、セルビア、アルバニア、中国、ベトナムなど) とがほゞ一致する。外婚制共同体家族型の住民たちは、父親の権威に従順であ り、兄弟の平等意識が強く、共産主義を受け入れる素地ができていたからだと 考えられる。但し、ロシアの共同体家族型の分布はロシアの北西部とベラルー シであり、ウクライナは核家族型で女性のステータスも高い。現在のロシアと ウクライナの対立は家族型の違いに起因している。 人口 13 億 6000 万人の中国は、1980 〜 2015 年の間に世界の工場になった。 これが米英主導による新自由主義のグローバル化であるが、これをトッド流に 解釈すると次のようになる。西側先進国の富裕層が中国に工場をつくり、低賃 金の中国人労働者によって生産された商品を先進国市場で売ることによって超 過利潤を獲得した。中国共産党の指導者たちがしたことは、西側先進国が作っ た生産システムの中に自国の労働力を組み込むことを容認しただけだ。そして、 工場を造る資本も生産技術も全て外国から取り込み、中国企業との合弁や生産 技術の譲渡を強要し、中国人の学生を先進国に留学させて教育してもらうなど、 全て先進国頼みで中国は遅れを取り戻そうとしてきた。そのために、本来なら 経済発展の前に国民の教育レベルを向上させなければならないが、中国で高等 教育を受けた人の割合は 2000 年でも 5 %以下であった(8 ページの図 3 参照)。 上記のような米英の新自由主義者が主導したグローバル化が長続きするはず がない。2017 年にトランプ大統領が出現して状況は一変し、中国と先進国が - 15 - 対立するようになった。 中国は、経済規模では世界第 2 位の経済大国となったが、その GDP の中身 を見ると、外国頼みの貿易黒字と異常に多い設備投資(2016 年の GDP では 43 %を占める)で占められ、安定した経済成長ができる構造にはなっていない。 また、共産党による国家資本主義の市場経済では経済成長が望めない。それに、 出生率が極端に低くて、既に人口が減少に転じている。 そうした状況下で経済的不平等がいちじるしく拡大している。平等主義の価 値観が潜在する中国では、社会的・政治的システムを維持する上で経済的不平 等が脅威となる。習近平はそれを知っているから、腐敗撲滅運動や東シナ海・ 南シナ海に侵出しいるが、それは国内の困難な状況への戦術的調整なのだ。 トッドは「中国の人口減少と国力衰退は火を見るより明らかだから、単に待 っていればいい」と述べている。つまり、中国をロシアのような国際秩序の破 壊者にしたくなければ、中国をむやみに追い詰めない方がいいというのだ。 なお、平等主義価値観の中国の世界ビジョンは、同等の資格の諸国家からな る多極的世界だとトッドは指摘している。 ロシアが共同体家族になった歴史は 17 世紀以降で浅いために、教育の進展 が早く進んだ。2000 年時点で高等教育を受けた人の割合が 35 %となり、世界 トップの日米と同程度となった(8 ページの図 3 参照)。女性のステータスが 比較的に高く、女性の方が男性より高等教育の割合が高くなっている。 ロシアは第一次大戦中に共産主義革命を起こし、共産主義体制を生み出した。 共産主義のロシアは、科学面・軍事面・宇宙開発面で世界の最先端にあって、 米国を超える勢いを持っていた。軍事面では世界で最高峰の戦車 T34 でナチ ス・ドイツを打ち破ったことが特筆される。 1992 年にロシアの共産主義が崩壊し、民主制になった。トッドがそれを予 言した根拠は、1970 〜 74 年にロシアの乳幼児死亡率が急上昇したことだ。 1996 年頃にロシア経済が崩壊寸前になり、その後 10 年間にわたって大混乱 が続いた。そんな時にプーチン大統領が登場して経済を安定させ、乳幼児死亡 率を下げた。プーチンになって権威主義的民主制となり、選挙で圧倒的な強さ で勝ち続けて現在に到っている。こうした長期政権は、共同体家族型の権威主 義の価値観に特有の「恒久性」からきている。直系核家族型の権威主義価値観 が残る日本やドイツの民主制でも、長期政権を維持する政党が現れている。 9.あとがき 筆者なりにトッドの人類学的アプローチの人類史を総括すると、次のように なる。原初のホモ・サピエンスは、男女平等の集団で狩猟採集生活をしながら 移動する水平的生活空間を形成していた。農業革命以降の古代・中世の人類史 - 16 - は、男女の不平等化と地域に定住する垂直化の歴史だった。近代から現代の人 類史は、男女の平等化と、人類の活動領域が世界中に広がる水平化の歴史であ り、原初人類の男女平等と水平的空間を移動する生活に回帰する歴史だった。 古代・中世の女性の差別化は、社会の構成単位である家族の構造が父系化レ ベル 0 の核家族から、1 の直系家族、2 の外婚制共同体家族、3 の内婚制共同 体家族へと変質するにつれて進み、それに伴って社会の価値観が原初の自由・ 平等・民主主義から、不自由・不平等・権威主義へと変わっていった。 英国にいたアングロサクソンは家族型の変質の波が及ばなかったので核家族 型を維持した。そのことがアングロサクソンを近代化のリーダーにしたのだ。 近代における水平化は、まず中世の宗教に抑圧された人間性を開放するルネ サンスから始まり、大航海時代を通して初めて全地球が1つにつながり、産業 革命によって産業のグローバル化へと発展した。 次に日本の人口減少問題について考える。トッドは、「人口を維持すること は将来の経済基盤や社会基盤を支えるための最重要要素と考えるべきだ」と主 張し、一般的に人口を維持するには出生率を 2.1 に保つ必要があると述べてい る。現在、核家族型の国の出生率がフランスで 2.0、英国・米国で 1.9 である のに対して、直系家族型の日本・ドイツが 1.4 になっている。 米英仏は同性婚や LGBT(L:レスビアン 女性の同性愛者、G:ゲイ 男性 の同性愛者、B:バイセクシャル 男性・女性の両方を愛することができる人、 T:トランスジェンダー 出生時の性と自認する性が一致しない人)を認めて いるのに対して、日独は認めていない。こうした状況から、日本が出生率を上 げたければ、同性婚や LGBT を人権として認めて、セクシャルなことにもっ と寛容な社会になる必要がある。 トッドは、家族型に依存する価値観が変わるのは、数百年を要すると指摘し ている。現在の日本人の直系家族型の価値観は、13 世紀の鎌倉時代から 700 年余にわたって 育 まれてきた価値観だから、これをすぐに変えることは不可 はぐく 能だ。日本ではほとんどの家族が核家族になっているから、これから 100 年程 すれば価値観が核家族型に変わっていくだろう。しかし、差し迫っている人口 減少問題はそれを待っていられない。それを解決するには政治しかない。 これからの日本の政策は、社会全体で共働き夫婦やシングル・マザーなどの 子育てを支援する環境をつくり、出生率を少なくとも 2.0 に維持できるように すること、女性のステータスを向上させて新しい男女平等の社会を築くことを 目標とする。そして、古い価値観の年寄りは、この目標を正しく理解して、あ まり出しゃばらずに若者達を支援すること、新しい価値観の若者達に全てを委 ねることが肝要となる。日本人は、それを達成する知力と活力を持っていると 筆者は信じている。 (以上)

一強独裁体制を固めた習近平はどこに向かうのか

                        202211月 芦沢壮寿

一強独裁体制を築いた習近平の新政権

 中国共産党大会が1016日〜22日に開催された。その後の党中央委員会第1回全体会議(1中全会)で今後5年間の共産党の新指導部体制が固まった。

 中国共産党には「党大会時に67歳以下は続投、68歳以上は退任」という不文律があるが、今回の大会では69歳の習近平総書記が続投し、67歳の李克強首相と次期首相候補と目された汪洋全国政治協商会議主席が退任した。李克強・汪洋の両氏は習近平と対立する共産主義青年団(共青団)に所属する。これに対して中国国営の新華社は、中国共産党大会での幹部人事を解説する記事を配信し、李克強・汪洋の両氏は自ら退任を申し出たと報じた。同じく共青団出身で党内での実務能力の評価が高くポスト習候補に挙げられていた胡春華国務院副総理は、メディアを通して習近平に忠誠を誓うことを公表していたが、政治局員からも外されて降格となった。

 22日の党大会閉幕式で胡錦濤前総書記が本人の意志に反して警備員に途中退場させられる様子が動画で放映されるという事件が起きた。新華社は「体調不良のため」と報じたが、わざわざ動画で全世界に放映したことは何を意味するのか。敢えて推測すれば、共青団のトップとして君臨してきて党の長老となっている胡錦濤前総書記を退席させることを公表することによって、今後の習近平政権では党の長老が現政権を監視し抑制する働きが通用しないこと、胡錦濤を首領とする共青団の勢力を党指導部から一掃したことを公表するために仕組まれた事件と思われる。

 3期目に入る習近平政権の最高指導部となる7人の政治局常務委員は、習近平総書記と5人の習派(習の元部下や習によって引き上げられた企業トップなど)、1人の外交・内政ブレーンからなり、24人の政治局員(7人の政治局常務委員も含まれる)は19人を習派で占め、残りの5人が衛生省や外務省などの専門省庁出身の技術官僚(テクノクラート)であった。習派以外の者も習に忠誠を表明していることから、新指導部の全員が習近平の傘下にある。

 習近平は、自身への権力集中と個人崇拝を進め、「建国の父」の毛沢東と並ぶ地位の確立を目指してきたと言われる。そうして一強独裁体制を築いたが、そうなった経緯を習近平の経歴から考察してみる。

 習近平は、中国共産党の革命の英雄で八大元老の一人とされる習仲勲を父とし、高級幹部の子弟が集う「八一学校」で中学まで学んだ。文化大革命で父が反動分子とみなされて迫害されると、知識青年が農村に向かう「上山下郷運動」(下放)で1522歳の青春期を陝西省延安市梁家河村(黄土高原の寒村)で過ごし、マルクス主義や毛沢東思想に傾倒した。その梁家河村で習近平は中国共産党に入党し、党支部書記を務めた。現在この村は、愛国教育の拠点として整備されている。整備したのは、今回、政治局常務委員となった李希であった。李希は、習近平の部下として働いた経験がないが、習が青春期を過ごした梁家河村を愛国教育の拠点として整備したことが高く評価され、習政権の看板である「反腐敗闘争」を主導する党中央規律検査委員会書記となった。習は「陝西は根、延安は魂」と語り、梁家河村は毛沢東思想の「大衆路線」を実践した自身の原点と言っている。

 清華大学を卒業した習近平は、河北省、福建省、浙江省、上海市などに赴任し、各地で将来の側近となる人物を増やしていった。当時の部下は現在「福建閥」「浙江閥」「新上海閥」と呼ばれる。台湾海峡に面する福建省では軍人との交流を深め、軍内で習に忠誠を誓う人脈の構築につなげた。

 今回、共産党の序列2位で首相(国務院総理)となった李強は、習の浙江省時代の秘書であったので「浙江閥」に属する。李は、上海市党書記として今年の3月に新型コロナウィルス対策として上海市を長期間にわたって都市封鎖して市民の不評をかい、混乱の責任を問う声があった。しかし、「都市封鎖の徹底」を説いた習近平に忠実に従った李強を高く評価した習は、李を首相に抜擢した。習近平は、政治的能力よりも自分に対する忠誠心を高く評価するのだ。

 しかし、中国国内では、コロナ対策からの脱却を支援するために、雇用創出と質の高い成長を促進する方法を考えなければならないが、経済を主導する首相となる李強と副首相になる丁薛祥は党務畑を歩んできて経済運営の経験がない。経済に弱い李強と丁薛祥を敢えて首相と副首相にした習近平の意図は何か。敢えて推測すれば、経済に強い現在の李克強首相では、首相に経済面を牛耳られて手出しができなかったからであろう。習近平は、「経済」を良くすることよりも、マルクス主義を復活する「イデオロギー」に関心があるのだ。それを実現するために敢えて経済に弱い李強と丁薛祥を首相と副首相に抜擢したと思われる。つまり、習近平の今回の人事は、ケ小平の「改革開放」の経済路線を否定し、毛沢東の「イデオロギー優先」の政治路線を復活させるための人事であったのだ。しかし、後述するように、不動産業の過剰債務が限界を超え、上場企業の潜在的な不良債権比率が10%に達している現状を解決することは非常に難しい。とても「イデオロギー優先」では解決できない。これが次期習近平政権の大問題となり、政権の危機になる可能性がある。

 2012年に党総書記・中央軍事委員会主席についた習近平は、「反腐敗闘争」を通じて江沢民派(上海閥)の幹部らを粛清し、党や軍の組織改革を進めた。その反腐敗闘争を中央規律委員会書記として指揮したのが下放時代からの盟友であった王岐山だった。王の後の中央規律委員会書記を引き継いだのは趙楽際だった。趙楽際は、陝西省党書記時代に習の父 習仲勲の墓を巨大な陵墓として建て直したことから習に近づき、習の信頼を得た。趙楽際は今回の序列で3位となり、今後は全国人民代表大会常任委員長を務める。

 以上のように、次期習近平政権の新指導部は、共青団などの反習派を全て排除し、政治局が習近平に忠誠を誓うイエスマンばかりの集団となり、習近平の一強独裁体制となった。習近平は、政策面では凡庸だが、親分肌で権力闘争に長けた策略家のようだ。しかし、それでは政治局の中で真の政策検討ができない。習近平は、思い込みが激しく、人の言うことを聞かないと言われるが、そうした習近平を政治局員が正すことは望むべくもない。それどころか政治局員の間で習近平に忠誠をつくして出世することばかりを考えて、権力闘争が生じる懸念すらある。かつてケ小平が文化大革命を引き起こした毛沢東の独走を防止するために定めた「集団指導体制」は、今回の習近平政権で完全に崩壊してしまった。こうしたことが許されるのには、中国共産党内に特別な事情があったと推察される。それは、毛沢東が定めて中国共産党全体の長期目標となっている「世界制覇100年戦略」の中に、世界制覇の目標を達成するために共産党全体で一致団結して当たるという取り決めがあって、「台湾統一」を表明する習近平を応援せざるを得なかったのだと思われる。

 

習近平が改正した党規約は何を意味するか

 今回の共産党大会で改正された党規約には、「二つの擁護」「台湾独立に反対し抑え込む」「2035年までに社会主義現代化を基本的に実現する」「世界一流軍隊の建設」の4項目が新たに明記された。これらは今後の習近平政権が取り組む目標を示している。

 「二つの擁護」とは、党の核心としての習近平の地位と習を中心とする党中央の権威を守ることだ。しかし、党大会前に規約改正の焦点となっていたのは「二つの確立」であった。「二つの確立」とは、党の核心としての習近平の地位と習近平思想の指導的地位を確個たるものとして確立し、全党員に忠誠を義務付けるというものだった。ところが、「二つの確立」は党規約の「個人崇拝の禁止」に抵触するとして見送られた。「個人崇拝の禁止」とは、毛沢東が引き起こした文化大革命の原因が毛沢東に対する個人崇拝にあったとの反省から、ケ小平が党規約に盛り込んだものだ。同様に毛沢東に使われた「」という呼称と、毛沢東が最後まで手放さなかった「党主席」(共産党の最高位のポストを表す)という地位の復活も見送られた。

 「2035年までに社会主義現代化を基本的に実現する」という項目が党規約に明記されたことは、習近平が2035年頃までの超長期政権の布石を打ったとも受け取れる。習近平は、2035年頃までを「習近平の新時代」と称し、2035年までに1人当たりのGDPを中程度の先進国レベルに引き上げることなどを軸にして、今世紀半ばまでに中国を「中国式社会主義現代化強国」と「軍事強国」にすると言っているのだ。

 なお、「習近平思想」を党規約に明記して「毛沢東思想」と同格にする案があったが実現しなかった。「習近平思想」とは、「習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想」を縮めたものだが、党規約には明記されなかったものの、「2035年までに社会主義現代化を基本的に実現する」ことと内容は同じだから、「習近平思想」が今後の中国共産党の政策の基本となることは間違いない。

 今回、「台湾独立に反対し抑え込む」を党規約に明記したことは、それが第3期習近平政権の公約であり、最大の課題であることを示す。今回の軍幹部人事では台湾を念頭において台湾情勢を熟知した幹部を登用している。

 なお、中国が「台湾統一」を急ぐ理由は、中国の体力が衰えないうちに達成したいと考えているからだ。これは、日本の軍部が真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入していった状況と似ている。

 習近平が目指している「中国式社会主義現代化」とは、「マルクル主義の中国化と現代化」を意味する。それは、人々が「競争よりも平等」「出世よりも勤勉さ」を尊び、「物の豊かさよりも心の豊かさ」を重んじる社会を目指すことだという。人々の思考や生活までの全てを共産党が指導することによって、そうした社会を目指すことが習近平の提唱する「共同富裕」の社会だという。

 中国では一人っ子の多い都市部で教育熱が過剰となり、学習塾に通う子供の教育費が高騰していることが若い世代が出産をためらう原因になっているという。それを解決するために中国政府は学習塾を規制・禁止し、高校受験制度を改めて、入学試験の成績順で決まる合格枠を減らして、地元の区や中学への割当枠を増やした。このように、中国共産党が指導する社会は、何でも共産党の意のままになる利点があるが、その社会は、個人の行動が監視され、共産党にとって危険な人物が強制的に排除される社会なのだ。

 習近平は、個人の自由と多様性を尊重する西側諸国の価値観と対決して、中国式社会主義現代化による中国独自の道を行くという。そして、中国式社会主義現代化を世界に提示して、新興国や途上国を中国側に取り込むという。はたして新興国や途上国の国民は、個人の行動が監視され、国家指導者にとって危険な人物が強制的に排除される社会を望むだろうか。

 習近平が中国式社会主義現代化を考えるようになったのは、西側諸国の民主主義社会が格差や新たな分断で混乱していることにあった。極右勢力が台頭して政権を担う国も出てきた。殊に米国でトランプ前大統領一派による連邦議事堂乱入事件は、習近平に民主主義国と対決する決断をさせたと言われる。

 だが、習近平は重大な誤りをしている。マルクスは資本主義の発展で労働者の貧困が加速すると考えたが、実際には分厚い中間層が出現して、経済が大いに発展した。その原動力は、「自由」に裏打ちされた「個人の力」であった。ところが、習近平が目指す「中国式社会主義現代化」は、共産党が全てを指導することによって、「個人の力」を抑え込み、自由な個人の力によって生まれるイノベーションを抑圧してしまう。その結果、イノベーションによる経済成長が阻害され、分配するパイを大きくすることができなくなる。それでは、今後の中国に予想される人口減少問題や経済成長の鈍化を解決できない。

 習近平は、1985年に32歳で福建省アモイ市の副市長に抜擢され、福建省で17年間務める間に台湾企業の誘致に尽力し、台湾の企業経営者たちに中国は決して裏切らないと熱く語ったという。アモイ市から2kmしか離れていない台湾の離島の金門島は既にアモイと強くつながり、福建省の一部となっている。

 台湾海峡を挟む中国の軍事力は、台湾が駆逐艦4隻、潜水艦2隻、戦闘機400機、特殊作戦機30機を有するのに対して、その数倍〜数十倍を有して圧倒している。しかし、日米同盟を中心にして西側諸国の台湾に対する軍事支援を警戒する中国は、「兵貴神速」(三国志に由来する「兵は神速を貴ぶ」という兵法)と称する急襲作戦とサイバー攻撃の「電子戦」により、軍隊と民間業者をかき集めた「軍民総力戦」で一気に台北を攻め落とすという。「軍民総力戦」とは、人民解放軍の輸送能力を補うために、フェリーなどの大型民間船に水陸両用戦闘車などの兵器を乗せて密かに台湾周辺に集結させ、米軍が動く前に一気に攻め込み、ファーウェイ、テンセントなどの民間企業も動員してサイバー攻撃を一斉に仕掛けることだ。中国が密かに大型貨物フェリーを使って数十台の水陸両用戦闘車を運ぶ軍事演習を繰り返している実態が、船舶自動識別データや衛星写真を使った日経新聞の調査から判明している。

 

衰退への道を歩む習近平政権

 中国は、ケ小平の改革開放政策により、外国に中国市場を開放して西側諸国の資本を呼び込み、自由な市場経済を通して高度経済成長を達成した。

 胡錦濤政権時代の2008年に起こったリーマン・ショックでは、4兆元の経済対策によって恐慌の瀬戸際にあった世界を救った。中国は経済面でも外交・安全保障面でもリーマン危機を跳躍台にして米国に次ぐ大国となった。

 ところが、2012年に習近平政権になると、東シナ海・南シナ海への海洋進出を強めて「現状変更」による国際法違反を犯すようになった。また、一帯一路によりアジア・アフリカの新興国・途上国に投資して国外に進出していき、日米欧の民主主義諸国と対決するようになった。

 2010年代前半にポーランド、ルーマニアやバルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)などの中・東欧諸国は、経済協力への期待から中国に接近したが、中国政府の同地域への投資が進んでいないことに失望していた。そんな所にロシアのウクライナ侵攻が起こり、中国がロシアのウクライナ侵攻をかばうような言動を続けていることから、中・東欧諸国(ハンガリーとセルビアを除く)の中国離れが勢いづいている。ソ連時代の苦い経験を持ち、共産党体制へのアレルギーの強い中・東欧諸国にとって、ロシアを支持する中国が許せないのだ。

 ロシアのウクライナ侵攻で引き起こされた食糧危機が直撃するアフリカや中東の諸国でも、ロシア離れが起こっていて、中国がロシア寄りの立場をとり続ければ中国離反が起こりそうだ。

 中国共産党大会明けの株式市場は、次期習近平政権に拒絶反応を示して、元は1ドル=7.3元まで下落した。中国の22年の実質成長率は中国を除く新興アジア地域を下回る見通しとなった。それが210年に及んだ習近平政権の帰結であった。

 習近平政権の3期目は「内憂外患」に満ちている。習近平は、共産党大会における活動報告で「安全保障」と「自立」をキーワードとして繰り返し使った。これは、習近平が国の安全保障の強化と政治・経済の自立を優先させることを意味する。経済では国内消費と自前の技術力によって内需を拡大し、「自給自足」の経済を目指していくことが読み取れる。そうなると、中国に進出した日米欧の企業が中国から閉め出されることになる。

 習近平の「共同富裕」の政策は、少ないパイを共有的な分配によってしのごうとする狙いがあるが、パイを大きくすることができない今後において、これからパイを再分配して国民を満足させる制度(所得の累進課税制度や地方交付税制度など)を構築することは不可能に近い。

 習近平は、米中両国が世界をリードするという「新型大陸関係」を提唱してきたが、それを完全に放棄して、今後は南半球の途上国との関係を強化する「グローバル関係イニシアティブ」へと方向転換するという。また、「一帯一路」は、中央政府の資金不足から縮小し、今後は近隣諸国との貿易や投資を促進する通路に絞り込んで、地方政府が推進するように方向転換するという。

 不動産業の過剰債務が限界を超え、新築住宅の値下がりが止まらなくなった。9月の主要70都市平均の前月比下落率は0.3%となり、13ヶ月連続の下落となった。上場企業の潜在的な不良債権比率は10%に達し、政府統計の6倍近くになっているという。中国経済の3割を占める不動産業が停滞し、さらにゼロコロナによる経済の停滞が加わって、中国経済は活力を失った。

 さらに、習近平が目指す「中国式社会主義現代化」では、経済成長を支えてきた民間企業が国有企業に替わっていき、共産党による指導の下でイノベーションが抑圧され、新しい産業が生まれなくなることが懸念される。

 中国がロシアのウクライナ侵攻を支持していることに抗議する中・東欧諸国、アフリカ諸国、中東諸国の中国離れが進んでいる。西側の民主主義諸国とも対立する中国は、今後、国際社会で孤立化を深めていくだろう。

 以上の考察から、習近平は一強独裁体制を築き、ケ小平が始めた改革開放政策を否定して、失敗に終わったはずのマルクス主義を復活して中国式社会主義現代化を進めようとしている。それは、中国を「強国」「強軍」の国に導くどころか、中国を衰退させることになるだろう。そして中国は、かつてソ連が崩壊していった道と同じ道をたどることが予想される。

 

中国と対決する米国の政策

 米国のバイデン政権は、1012日に発表した「米国家安全保障戦略」の中で、中国を「国際秩序を再構築する意図とそれを実現する経済力、外交力、技術力、軍事力を持つ唯一の競争相手」と位置づけ、「中国との競争において今後10年が決定的な時期になる」と明記した。

 そして、半導体先端技術の中国への輸出規制強化を発表した。規制対象は、米国製の先端半導体(回路線幅が14ナノメートル以下の微細高性能半導体)の輸出規制にとどまらず、米国製の製造装置や技術を使った高性能半導体の全てを対象とし、台湾や韓国、オランダなど中国を除く半導体メーカーの半導体が対象となる。半導体そのものだけでなく、製造装置や設計ソフト、人材も対象に含めて許可制とする。商務省は企業の許可申請を原則拒否する方針なので、規制対象の中国事業が事実上できなくなる。米国は、技術者の就業、取引も含めて、幅広く足並みをそろえるように同盟国に求めた。

 日米は次世代半導体分野の研究開発で協力することで合意した。年内に日米連携の研究拠点を整備し、米IBMやベルギー研究機関とも連携する。その研究成果は、日本のトヨタ自動車、NTT、ソニーグループなど8社がつくった新会社ラピダスが量産につなげる役割を担う。ラピダスは、2ナノメートル以下の次世代半導体を20年代後半までに生産するという。

 以上のような米国の対中政策は、中国との全面的な経済戦争である。バイデン政権は中国と対決し、習近平政権を転覆させることも視野に入れている。米国は、かつての冷戦時代のように、世界を国家安全保障の観点から見て、中国が台頭すればするほど米国の失うものが大きくなるというゼロサム的な見方をするようになった。一方、米国の先端技術輸出規制の強化は中国の台湾統一を強める可能性がある。

 さらに米国は、「現状変更」への制裁を盛り込んだ「台湾政策法案」の審議を進めている。中国を念頭において制裁措置を盛り込んだこの法案は、台湾に5年間で65億ドルの防衛支援を行い、台湾の国際機関への加盟を後押しすることもうたっている。

 米政府は、新たな核戦略の指針となる「核体制見直し(NPR)」を公表した。その中で米政府は、中国が核戦力の拡大と近代化を急ぎ、インド太平洋地域での軍事威嚇に核兵器を使う恐れがあるとして危機感を表し、中国の核使用を抑止するための対策として、米国の核戦力で同盟国への核攻撃を防ぐ「拡大抑止」の強化について日本・韓国・オーストラリアと協議し、同盟国の能力を総動員して「統合抑止力」を高める方針を表明した。

 一方、核・ミサイル開発をやめない北朝鮮に対しては、「核兵器を使用した場合の悲惨な結末を金正恩体制に明らかにする必要がある」と強調し、米国や同盟国へのいかなる核攻撃も容認せず、もし核攻撃すれば「金正恩政権の終焉になる」と警告した。

 

あとがき

 台湾有事が習近平の次期政権中に起こることが確実になってきた。中国は民間企業も総動員して軍民総力で一気に台北を急襲する作戦のようだ。米日韓豪が台湾を軍事的に支援しても、これに対処することはむずかしい。

 最も賢明な方法は、台湾と米日韓豪や西側諸国が連携を強化して、もし中国が台湾に侵攻すれば中国にも甚大な被害が生じることを知らせて、中国に台湾攻撃を思い留まらせることだ。そのためには、米国を始めとするNATO諸国がロシアのウクライナ侵攻を失敗に終わらせて、中国に西側軍事同盟の威力を認識させることが肝要となる。

 その上で、中国が党規約に明記した「台湾独立に反対し抑え込む」ことと矛盾しないで、中国が納得して台湾攻撃をやめるような方法を提案することだ。それは、台湾が「独立しない」こと、今後も「現状を維持し続ける」ことを米中台と関係国の間の約束として条約(非公式の密約?)を結ぶことだ。それが中国と台湾にとっても国際社会にとっても、現実的で最良の妥協点であろう。

 次期習近平政権の「中国式社会主義現代化」は、いずれ失敗に終わるだろう。しかし、共産党独裁の中国には、それに素速く対応する方法がない。民主主義国にける「選挙による政権交代」ができないことが中国の最大の弱点だ。

 米国の「核体制見直し」の提案を日本は受け入れるべきだと考える。日本には「非核三原則」があって現状では受け入れられないが、「非核三原則」を改めるのだ。中国・ロシア・北朝鮮の核保有国と対峙する日本が自国を防衛するには、日米同盟に加えて、米日韓豪とも同盟を結んで「統合抑止力」に頼ることが賢明であり、それが最良の方法であろう。

 その上で、唯一の被爆国としての日本独自の政策として、世界の「核廃絶運動」に積極的に関与していくべきだと考える。今後の日本の防衛は同盟国の「統合抑止力」が有効であり、それと「核廃絶運動」とは矛盾しない。 (以上)

 プーチンのウクライナ侵攻と今後の世界

                                              202210月 芦沢壮寿

 ロシアのウクライナ侵攻のニュースが毎日報道され、暗い気持ちが続くこの頃です。もっと身近な中国が近いうちに台湾に侵攻するというニュースも頻繁に聞くようになりました。戦後の長い平和な世界になじんできた私たちですが、この歳になって急に戦争が間近に迫っていることに戸惑いを感じている人が多いと思います。

 多くの専門家によると、中国が台湾に侵攻して台湾を中国の支配下に入れようとする「台湾有事」は2027年までに起こる可能性が高いと言われています。米国のバイデン大統領は、台湾有事には米国が台湾防衛に参戦すると明言しているので、日本も日米安保同盟の集団的自衛権の行使によって参戦することになりそうです。日本は緊急にその準備をしなければなりません。これからの5年間は、今までとは大きく変わらなければなりません。そのためには、ロシアと中国の実態を正しく認識して、正しく対処する必要があります。

 そこでこの冊子では、ロシアがウクライナに侵攻するに至った歴史的経緯とウクライナ侵攻の実態、中国と台湾の関係の歴史的経緯と中国の実態について考察し、今後の世界の動向について考えてみることにします。

 

中ロの「現状変更」の真相

 英国のフィナンシャルタイムズのチーフ・コメンテータ ギデオン・ラックマン氏は、ロシアのゴルバチョフ氏の死に寄せて、「ゴルバチョフ氏にとって国家の偉大さとは、一般国民の尊厳を守ることだった。ゴルバチョフ氏は、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げ、高度な軍事技術を誇っていても、一般市民に毎日の生活必需品を行き渡らせることができなかったソ連政府の無能ぶりを指摘して、国民を検閲でがんじがらめにする屈辱的な社会を民主主義社会に変える「ペレストロイカ)」(「建て直し」という意味)を進めた」と述べている。ゴルバチョフは、1986年にペレストロイカを始め、1989年にはポーランド、ハンガリー、東ドイツで起こった民主化運動を許容して「ベルリンの壁」を崩壊させる道を開いた。また、同年5月に北京を訪れた際には、天安門広場で民主化を求めて抗議活動をしていた学生たちに歓迎された。1991年にソビエト連邦を解体して冷戦を終結させたが、ロシアでゴルバチョフの偉業が評価されることがなく、ロシアは民主主義国になれなかった。ラックマン氏は、人間の尊厳を否定してロシアを強権国家へと変質させたのはプーチンであり、プーチンが国家の偉大さを取り戻したいという欲望に駆られてウクライナ侵攻に突き進んだと批判している。プーチンは、国家の偉大さが旧ソ連の領土奪還にあると思い込んでいるというのだ。

 プーチンと同じように中国の習近平は、「中華民族の偉大な復興」をスローガンに掲げ、台湾に侵攻して台湾を中国共産党の強権主義の支配下に取り込もうとしている。中ロは、国民を強権によって支配し、過去の栄光を取り戻すために支配圏を拡大しようとしている点で共通する。今後の世界が進む方向は、この中ロの強権主義の拡大に対して世界の国々、特に民主主義を志向する米欧日の西側諸国がどう対処するかによって決まりそうな情勢になってきた。

 ロシアの偉大さを取り戻したいというプーチンの欲望は、旧ソ連時代にロシアがワルシャワ条約の国々を従えて、自由主義陣営と互角に渡り合っていた威信が根源になっている。西欧の近代化に取り残されたロシアは、レーニンに導かれた革命によって共産主義のソビエト連邦となったが、スターリンによって強権主義と恐怖の監視社会の国へと変貌してしまい、最終的に経済が破綻してしまった。ゴルバチョフが19917月にワルシャワ条約を解体すると、ワルシャワ条約に加盟していた東ドイツは西ドイツに編入され、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキア、バルト3国がNATOに加盟することになった。しかし、199112月にソビエト連邦を解体して民主主義体制に舵を切ったロシアは、自らの力で民主主義社会、自由主義経済を築くことができなかった。有能な人物が祖国を捨てて国外に脱出し、新しい産業を起こす技術力・経済力がなくなってしまったからだ。

 プーチンの時代になって再び強権主義の国に変貌すると、旧ソ連邦に属していたウクライナ、ジョージアがNATO加盟に動き出した。過去の威信に染まるプーチンは、それが許せなかった。

 プーチンが「ロシア系住民の保護」を口実にして隣国を侵略し、領土を拡大して国民の求心力を高めようとする手口は、ナチス・ドイツの手口と同じだという。ナチスは、チェコスロバキアのズデーデン地方を併合する際に「弾圧されたドイツ系住民の保護」を大義名分に掲げ、英仏が戦争回避のためにナチスの横暴を認めると、ドイツはポーランドに侵攻し、戦火を拡大していった。

 プーチンは、2014年にクリミア半島を侵略し、住民投票を強行して併合を正当化した。米欧日は対ロ制裁を発動したがプーチンの暴挙を止めらず、「現状変更」の国際法違反を許してしまった。そして今回、2022224日にロシア軍がウクライナに侵攻したのだ。さらにプーチンは、ジョージアからの独立を宣言した南オセチア、モルドバ東部の親ロシア派地域、沿ドニエストル共和国を侵略して併合していくことを目論んでいる。

 2015年にドイツとフランスの仲介でロシアとウクライナの間で「ミンクス合意」がなされた。この「ミンクス合意」は、親ロシア派武装勢力が実効支配するウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の2州に自治権を与えて人民共和国にして戦闘を停止するものであったが、2019年に大統領に就任したゼレンスキーがそれを拒否した。

 ドンバス地方と呼ばれるドネツク州とウガンスク州は、18世紀に石炭が発見されて帝政末期から炭鉱開発が本格化し、旧ソ連時代に炭鉱業や製鉄所が集積して多くのロシア人が労働者として流入した。そのために、ロシア系住民が多くなり現在は約4割を占める。クリミア半島併合時に親ロシア系武装勢力が結成されて一部地域を実効支配し、ウクライナ軍との紛争が続いてきた。

 中国の習近平の「中華民族の偉大なる復興」というスローガンも、1840年の「アヘン戦争」以降に欧米列強に領土を踏みにじられた「恨み」を晴らして、「中華」の威信を取り戻したいという欲望だ。中国は、紀元前2900年頃におこった夏王朝の時代から「中華」(自らが世界の中央に位置する文化国家だと決めつける思想)という権威主義の意識を持ち続けてきた。中国は唐・元・清の時代に北方遊牧民に支配された歴史を持つが、「中華」という思想は維持されてきた。ところが中華思想にドップリつかって近代化が遅れた中国は、欧米日に対して領土を侵略され踏みにじられた「恨み」を抱いた。日中戦争の後の1949年に国民政府との内戦に勝利して中華人民共和国を建国した中国共産党は、建国100年に当たる2049年までに欧米日に対する「恨み」を晴らして「世界制覇」を達成するという目標を掲げ、突き進んできた。そして習近平になって南シナ海・東シナ海に軍事力で侵出するようになった。習近平の「中華民族の偉大なる復興」は、世界制覇の目標に向かって昔の「中華」の世界を取り戻したいという欲望の現れだ。

 本来なら国際秩序の安定に責任を持つべき国連安保理 常任理事国の中国・ロシアが国際法に違反する「現状変更」を強行するのは、昔の栄光を取り戻したいという利己的な欲望によるものだ。中国・ロシアの強権主義は、指導者たちの利己的・独善的な欲望であり、自らの欲望を実現するための手段として、常任理事国の権利を乱用し、国連を機能不全におとしめているのだ。

 

ロシアのウクライナ侵攻と世界情勢の変化

 ロシアの侵攻にウクライナが善戦している。ウクライナ人は軍人だけでなく国民を挙げて士気が高いことが最大の強みとなっている。ロシアや欧州列強の支配を強いられてきた長い歴史を持つウクライナ人は、現在の独立を維持することの重要性を自覚している。「先人たちが渇望した独立をここで手放すわけにはいかない」という強い思いが、多大な犠牲を払ってでもロシアと戦う力となっているのだ。

 ロシアのウクライナ侵攻の最大の問題は、核保有国のロシアが核の使用をちらつかせて戦争を仕掛けたことだ。米国とNATO(北大西洋条約機構)は、第3次世界大戦に発展することを恐れて直接関与を控え、ロシアが核を使うレッドラインを超えない範囲でウクライナに軍事支援をすることにした。その結果、対空ミサイルや対戦車ミサイルまでは供与するが、戦闘機は供与しなかった。

 ウクライナに侵攻したロシア軍の兵士は約15万人だったが、半年間でその半数以上の8万人が死傷し、そのうち死者は約2万人だった。ロシア兵の中には、軍服を脱いで武器を捨てる者も続出しているという。一方、ウクライナ兵の死者は約9千人で、ウクライナの避難民は全人口の3分の1に当たる1700万人に及んだ。思いがけない兵員の減少にあせったプーチンは、825日にロシア軍の兵員数を137千人増員する大統領令に署名した。

 9月に入ってウクライナ軍が反攻に転じ、ロシア軍に占領されていた地域を奪還し始めた。米国から供与された高機動ロケット砲システム「ハイマース」を使い、ロシア軍の補給路を攻撃して、ロシア軍を撤退させている。

 912日にはドネツク州につながる幹線道路が通る東部ハリコン州の中心都市イジュームを奪還したと発表した。しかし、イジュームは8割以上が破壊され、少なくとも市民1千人以上が死亡したという。戦争の国際ルールでは一般市民を攻撃してはいけないことになっているが、ロシア軍はそれを全く無視している。イジュームでは、後ろ手に縛られたまま殺された一般市民の遺体が埋められた墓が多数発見された。彼等は、拷問にかけられて亡くなったのだ。

 ウクライナ軍反攻の作戦には米国が関与していた。米国のアドバイスを受けてウクライナ軍が南部のロシア支配地域を攻撃したことが奏功し、ロシア軍は東部にいる軍を南部に移動させざるを得なくなった。ウクライナ軍は、手薄になったハリコン州を攻撃して、短期間でハリコン州の奪還に成功した。

 米国のシンクタンクの戦争研究所によると、南部でのウクライナ軍の反攻はロシア軍の志気と軍事能力を着実に低下させていて、ロシア軍の損害が急拡大しているという。軍事情報サイトの分析によると、侵攻から9月中旬までにロシア側の破壊されたり、ウクライナ側に奪われたりした戦車や火砲などの兵器の合計は約6100に及び、ウクライナ軍の約16003.8倍にもなった。

 米国のウクライナに対する軍事支援は累計で150億ドルにのぼり、その後も追加されてきている。一方、経済制裁を受けているロシアは、失った兵器の補充に苦労しているようだ。戦車の場合、投入した2927台の4割に当たる1128台が失われた。軍人でも訓練された職業軍人が不足していて、ロシア軍の兵士の不足は深刻な状況にある。

 英国防省によると、ロシア国内の服役囚人を対象に刑期の短縮や金銭と引き換えに、ウクライナでの軍事任務に就く囚人を募って、ウクライナの戦場に送っているという。また、不足する兵器の補充に向けて国内企業に「特別軍事作戦」のための統制を強化しているという。北朝鮮から数百万発にのぼる弾薬を調達する協議を進めているという情報もある。

 ロシア国内では、プーチンの辞任を求める動きがモスクワやサンクトペテルブルクの議会議員の間で出始めた。議員たちは、「プーチンの行動は時代遅れで、ロシアと市民の発展を妨げている」と訴えている。また、ロシアとウクライナ以外でも旧ソ連領内では、アルメニアとアゼルバイジャン、キルギスとタジキスタンなどの国境を接する国々が領土紛争を起こしている。今、旧ソ連領の各地で本当の崩壊が始まっているのだ。

 こうした状況変化からゼレンスキー大統領は、東部とクリミヤを含めて、全てのロシア軍をウクライナから追い出すと宣言するようになった。

 915日にサマルカンドで開催された上海協力機構(中国、ロシア、中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンの4カ国とインド、パキスタンに新しくイラン、ベラルーシが加わった10カ国)の会議に合わせて、プーチンと習近平が会談した。ウクライナの戦況悪化にあせるプーチンと台湾情勢に危機感を強める習近平は、ともに対米での結束を演出した。しかし、中ロは経済で協力できても、ロシアの軍事行動を支援すれば米欧からの経済制裁を恐れる中国は、ロシアへの軍事協力ができない。ロシアは、エネルギー資源のロシア依存をなくそうとするヨーロッパから閉め出され、中国への資源輸出に頼らざるを得なくなる。ロシアは経済的・政治的に中国に従属するリスクに陥り、中国はロシアの反米路線に引き込まれるリスクに陥っている。つまり中ロは、不安要因を抱えながら結束を装っているが、決して強く結束することはありえないのだ。

 921日の国民に対するテレビ演説でプーチンは、親ロシア派武装勢力が実効支配するウクライナ東部のルガンスク州、ドネツク州とロシア軍の占領下にある南部のヘルソン州、ザポロジア州の4州で923日〜27日にロシアへの編入の是非を問う住民投票を実施することを支持すると述べ、4州の併合に踏み切ることを表明した。これは、4州をロシア領土とし、そこを基点にしてウクライナ侵攻を進める策略なのだ。

 なお、920日時点での4州におけるロシア軍の占領地域の割合は、ルガンスク州とヘルソン州が99%と93%、ドネツク州とサボロジェ州が共に65%だった。4州の占領面積はウクライナ国土の14%に当たる。

 演説の中でプーチンは、30万人規模の兵の動員令を出すことを明らかにした。ロシアは1827歳の男性に通常1年間の兵役義務を課しているが、今回の部分動員はウクライナ侵攻で深刻になっている職業軍人の不足を補うためであり、特別な軍事技術・経験を持つ予備役が動員の対象となる。

 動員令を出した翌日の922日になると、ロシア国内の38都市でウクライナ侵攻に反対する抗議デモが発生し、約1400人が治安当局に拘束された。また、徴兵対象となる若者たちが国外に脱出する動きが相次いだ。これは、徴集令状を受け取る前に国外に出れば罰せられないからだ。22日発の航空便でビザを必要としない外国向けのチケットが瞬く間に売り切れ、23日以降の航空便チケットの価格が急上昇した。陸上の国境でも長蛇の車列が発生した。検索サイトのグーグルでは「腕を折る方法」についての検索数が急増したという。

 プーチンは、「国民を守るため」と称して国民にウクライナ侵攻を納得させたが、今や国民の命を脅かす状況に陥ってしまった。ロシア国内で77%の国民がプーチンのウクライナ侵攻を支持していたが、親兄弟が戦場に駆り立てられる事態に至り、また、国連で世界中の国々からロシアの蛮行が批難される状況を見るにつけ、国民や体制内でもプーチン批判が出るようになった。

 ウクライナ東・南部4州のロシア併合を問う住民投票はデタラメであった。投票所の投票が始まる前から投票所の係員が軍人をつれて戸別訪問し、投票を強要するという異常な投票が全体の67割を占めた。そして、即日開票の結果、賛成票が8799%を占めたと発表されたが、選挙結果はあらかじめ用意されていて、住民投票をしたという事実を示すだけの茶番劇だった。4州の親ロシア派は、すぐにロシアへの編入をプーチン大統領に要請した。彼等は、ウクライナの国民でありながら、ウクライナの国内法を全く無視しているのだ。

 プーチンがマイナスの影響の大きい住民投票と部分的動員令を急いだことは、プーチンが相当あせっていたことを意味する。プーチンは、予想外に悪い戦況にあせって、戦況打開の見込みのない住民投票と国民の支持を得ることが難しい部分的動員令を実施した。クリミアの時とは異なり、今回は欧米がロシアに一層強い制裁を科せば、動員令による国民の動揺と相まってロシアの社会・経済が追い詰められ、プーチン体制が揺らぐ可能性が高い。

 プーチンは、930日に4州をロシアに併合すると宣言し、「編入条約」に署名した。国連のグテレス事務総長は4州の併合に「国連憲章と国際法に反し、法的価値を持たない」と批判した。国連憲章2条では、武力によって領土保全を侵すことを禁じている。米欧日の西側諸国はロシアに追加制裁を科し、ウクライナの領土奪還に軍事支援を継続することを誓った。ここにロシアと西側諸国との分断が決定的になった。ロシアは、西側諸国だけでなく、中国・インドの支持も得られなくなり、一段と国際的孤立を深めるだろう。

 演説の中でプーチンは、「すべての手段を使って国土(4州を意味する)を守る」と言い、核兵器使用の可能性を示唆した。

 ウクライナ外務省は、すぐさま「ロシアの占領地域を開放する」と強調し、国際社会に一層の軍事支援と厳しい対ロ制裁を訴えた。

 10月に入ってもウクライナ軍は目覚ましく占領地域奪還を進めている。4州の併合に一層態度を硬化させたゼレンスキー大統領は、プーチンとの交渉は「不可能」だと明記した法令に署名した。今やウクライナはプーチン政権の崩壊を視野に入れて、ロシアに揺さぶりをかけている。日露戦争や第1次世界大戦など、ロシアには「負け戦」の最中に政権が崩壊する伝統があるからだ。プーチンが目下の劣勢を受けて戦争をエスカレートすれば、その行為自体が自らの基盤を揺るがすことになる。プーチンは自ら墓穴を掘っているのだ。

 

台湾を巡る米中対立

 台湾を巡る米中対立の根底には、「一つの中国」についての米中の認識の違いがある。米中が国交を結んだ1978年の米中共同声明では、「米国は中華人民共和国が中国の唯一の合法的国家であることを承認(recognizeする」と明記する一方で、「中国はただ一つで、台湾は中国の一部だとする中国の立場について、米国は認識(acknowledgeする」と表現した。米国は、共産党政権が中国の合法的政府だと承認するが、台湾を中国の一部としたいという共産党政権の立場について認識するけれども、承認するわけではないと言っているのだ。

 米国がこうした「あやふやな表現」に固執するのには、次のような理由がある。日清戦争後の下関条約で日本領となった台湾は、日中戦争で日本が米国に支援された中華民国と戦って破れ、中華民国領となった。その後の内戦で中華民国の国民政府軍が共産党の人民解放軍に敗れ、台湾に逃れて現在に至っている。米国としては、中国本土は共産党の中華人民共和国の領土として認めるが、台湾は中華民国領のままにして民主主義側に留めておきたいのだ。

 米国は、1979年に「台湾関係法」という国内法を制定し、「平和的な手段以外で台湾の将来を決定しようとする試みは、地域の平和と安全の脅威だ」と明記して、その場合に備えて米国が台湾に武器を供与することなどを定めた。台湾支援を国内法で定めているということは、もし中国が台湾に侵攻した場合には、米国は間違いなく台湾防衛に動くことを意味する。しかし米国政府は、敢えてそのことを明らかにしない「あいまい戦略」をとってきた。

 米国は、実際には「現状維持」の政策をとってきた。「現状維持」とは、台湾が中国の支配下に入らず、中国から独立もしない状態を維持することだ。台湾の蔡政権も「現状維持」の政策をとっている。

 台湾は、世界で使われている高性能半導体の92%を生産している。もし中国が台湾を攻撃すれば、半導体のサプライチェーンが崩壊し、世界経済は大打撃を受ける。従って、中国が台湾を攻撃することを阻止しなければならないし、台湾に集中し過ぎている半導体のサプライチェーンを改めなければならない。

 9月にバイデン大統領が、「中国が台湾を攻撃すれば、米国は台湾防衛に軍隊を出動する」と言ってしまった。それに中国が猛反発した。これは、「あいまい戦略」を放棄したことを意味するが、あわてた米政府高官は米国の現状維持政策には変わりがないと主張した。

 もし中国の台湾攻撃に米軍が出動して、仮に台湾が独立することにでもなれば、米国が「現状変更」の国際法違反を犯したことになる。それを避けるために、再び台湾を中国の一部として戻すことは考えられない。つまり、米国の「あいまい戦略」に基づく台湾政策には最初から矛盾があったのだ。従って、バイデン大統領が「あいまい戦略」を放棄したことは正解だったと筆者は考える。

 今後は、「中国が台湾を武力で攻撃しようとすれば、米国はそれを阻止するために軍隊を出動する」と明言し、中台の武力衝突を阻止して、現状を維持することが目的であることを明確にすべきだ。そして、インド太平洋の自由で開かれた現状を維持するために、米国は日本・韓国・オーストラリア・インドや英国・フランス・ドイツとも連携して、インド太平洋を武力で制圧して「現状変更」を進めている中国に対抗することを明確に宣言すべきだ。

 振り返って見れば、米国は、将来、中国が豊かになれば民主主国になるという淡い期待を抱き続けて、中国の経済成長を後押ししてきた。しかし、2012年に習近平が主席になって、完全に中国に裏切られたことを悟り、その反動として米中対立へと突入したのだった。

 中国の習近平にも誤算があった。中国は、過去の恨みをはらして世界制覇を達成し、習近平が唱える「中華民族の偉大な復興」を果たすことを目標にしてきたが、その実現が困難な状況になりつつある。

 中国は今がピーク(最盛期)だという。中国は、2021年の経済規模で米国の76%にせまり、少し前まで米中の経済規模が逆転するのは自明のことと考えられてきた。しかし、最近になって状況が変わりつつある。

 中国の現状は、一部のエリートに富が集中し、人口の4割強に当たる約6億人が月収1000元(約2万円)以下で暮らしている。中国は今まさに「高みから転落」しつつあるか、すでに衰退し始めているという説もある。中国の景気減速は「中所得の罠」(貧しい国がある程度経済成長すると、成長率が鈍化する罠)に陥ったからだという専門家もいる。中国は、人口が拡大から減少に転じつつあり、習近平になって、市場改革の動きが中央集権の国有化によって頓挫し、革新的なテック各社は共同富裕政策で政府に服従を強いられて成長力を失い、政府は不動産への過剰投資による巨額債務問題への対応に苦戦している。

 習近平が始めた広域経済圏構想「一帯一路」は、新興国向け融資の焦げつきが増えている。新興国にとって高い金利が重荷になり、金利を減免する交渉が急増している。中国は新規貸し出しに慎重になり、新興国のインフラや資源開発に向かっていた中国マネーの勢いが完全になくなった。

 かつてケ小平の「改革開放政策」から始まった緩やかな統制による「賢明なる独裁」は習近平になって強権的政府に逆戻りし、ハイテクを駆使した監視社会に変貌した。米欧日の民主主義国は対中貿易を抑制し始めた。

 20213月の米上院軍事委員会において、米インド太平洋軍のデービットソン前司令官が2027年までに中国が台湾を侵攻する可能性が高いと言った。

 米国の2人の戦略地政学者ハル・ブランズとマイケル・ベックリーの新著『危険地帯 来る中国との戦争』によると、台湾有事の危険がすぐそこに迫っていて、10年以内に決着がつくという。中国は今がピークにあり、これから衰退に向かう時期だから、中国は戦争をしてでも台湾を取り込もうとする。それは、大日本帝国が米国から経済封鎖された1941年に真珠湾を奇襲して太平洋戦争に突入したのと同じだというのだ。

 習近平指導部の外交政策に助言する学者の一人とされ、米中関係を専門とする中国人民大学の金燦栄教授が131日の日経新聞に「習近平が2027年までに台湾の武力統一に動く」との見方を示した。金氏は2022年秋の共産党大会で習近平の任期が延びれば、解放軍の建軍100年に当たる2027年までに武力統一に動く可能性が非常に高いと強調した。

 96日の米国外交専門誌フォーリン・アフェアーズに中国共産党高級幹部養成機関の中央党校の元教授の蔡氏(習近平をよく知る彼女は習主席を厳しく批判したことがネット上で拡散したことから米国に亡命した)の『習近平の弱点 狂妄と偏執がいかにして中国の未来を脅かすか』というタイトルの寄稿が掲載された。それによると、習近平の個人的特質は、自らの学歴や知的レベルに対するコンプレックスによる「虚栄」と「偏執」であり、そこから生まれる政治スタイルは、自分と異なる意見に耳をかさず、いかなる反対意見も許さないことだという。習政権下の10年間は、内政と外交上の失敗が重なって、今の中国は内憂外患の最中にあり、共産党幹部と民衆の間で習近平に対する失望や反発が広がっている。10月の党大会で自らの続投を確保するために、党内各派閥と一定の妥協を行っているが、一旦続投が決まって3期目に入ると、政治的野望を今まで以上に膨らませて、ますます独断専行するようになると予測している。そして、中央集権的経済政策と社会統制の強化を進めながら、南シナ海の軍事的支配と台湾併合に突き進むようになる。こうした強行政策に党内と民衆の不満と反発が激化して国内情勢が一層不安定になり、経済危機による社会的動乱が迫ってくる中で、台湾併合戦争へと突入するという。寄稿の最後で蔡氏は、習近平路線を終わらせる唯一の道は「戦争」であり、習近平が台湾併合戦争を発動し、それが失敗に終わって習政権が崩壊すると指摘している。

 以上のように、中国を研究する米国と中国の専門家や学者たちは、一様に2027年までに中国が台湾を攻撃する可能性が高いと指摘している。

 

台湾有事への対応

 前述の金燦栄教授は、台湾有事における中国の戦力について次のように述べている。台湾有事では既に中国の人民解放軍の方が米軍を上回る戦力を保持していて、1週間以内に台湾を武力統一する能力を有している。中国軍は、ミサイル攻撃で米軍艦隊を中国近海に近寄れないようにして、海岸線から180km以内なら米軍であっても打ち負かせる。日本は台湾有事に絶対に介入すべきでない。この問題で米国は既に中国に勝てない。日本が介入するなら中国は日本もたたかざるを得ない。

 上記の金教授の主張は、台湾に対する「策略」だ。中国共産党指導部は「孫子の兵法」を信奉していて、「戦わずして勝利する」ために嘘・偽計・脅しなど何でもする。金教授の狙いは、2024年の台湾総統選挙にあり、習指導部の武力統一を強調して台湾の独立機運を封じ込め、中国に親和的な国民党の総督を誕生させて、国民党政権を中台統一に向かわせようとすることだ。しかし、中国が「一国二制度」に基づく香港の政治的自由を剥奪した様子を見ている台湾国民は、中国の武力行使を恐れて国民党を選択するはずがない。

 結局中国は、武力により台湾を海上封鎖して供給網を停滞させて台湾統一を迫る作戦に出るだろう。その時期は2025年の総統選挙後から2027年の間になる可能性が高い。それに対して米太平洋艦隊の司令官は、「米国と同盟国は中国の海上封鎖を突破する能力が十分にある」と明言している。

 8月初旬に米国のペロシ下院議長が、中国の猛反対を無視して台湾を訪れ、台湾有事の際は米国が軍事支援することを伝えた。これに対して中国は軍事演習と称して、台湾の近海と日本の排他的経済水域を含む海域でミサイル攻撃の演習を行った。この演習は、台米日に対する「見せしめ」であり、金教授が指摘した米軍艦隊をも近寄れないようにするミサイル攻撃だろう。ペロシ氏の後に米国議員団やEU議員団も台湾を訪問した。

 習近平は「反腐敗闘争」を通して、利権を握って腐敗しきっていた軍の幹部らを厳罰に処して粛清し、人民解放軍をトップダウンで動く強軍へと組織改革した。そして、南シナ海・東シナ海を中国の「管轄海域」とするために、海軍や海警局の船だけでなく、漁船・調査船や海底装置・衛星などの情報を統合した情報網を構築し、軍と民間の船を連動させて広大な海域を制圧しようとしている。中国の漁船は全て軍とつながっていて、時には軍事行動もとる。中国は既に台湾有事に備えた軍事的な挙国体制ができているのだ。しかし、中国軍には軍事的に応援する国がなく、国際的に孤立している。

 日本は、台湾有事に関連して防衛の歴史的転換点を迎えている。台湾有事に備えて日本は、防衛費を今までのGDP1%枠を取り除き、2%まで可能にする。台湾有事の際には、2015年に改正した「重要影響事態法」によって、米軍及び台湾軍を支援することになる。場合によっては、オーストラリア軍やインド軍、それにインド太平洋への関与を強めている英仏独軍も加勢するだろう。

 5月の日米防衛相会談においてオースティン国防長官が米国の新たな安全保障の基本戦略として「統合抑止」(Integrated Deterrence)を打ち出した。これは、同盟国の能力を統合し、軍事力だけでなくサイバーや宇宙の領域まで活用して、中国の脅威に対抗するものだ。米国と連携し、補完し合って装備品を整備し、戦略や制度を見直していく。台湾有事が予測される2025年〜2027年までに、これらのことを完了しなければならない。

 日本は台湾有事に初めて「集団的自衛権」を行使することになる。その仕組みは、日本の同盟国の米国が台湾有事に台湾を防衛するために参戦して中国軍と戦い、米国が「存立危機事態」に陥ったと認定された場合に限って日本は集団的自衛権を行使できるようになる。そして、米軍と自衛隊が共同して中国軍と戦うことになる。台湾に近い日本の先島諸島が中国軍の攻撃を受けた場合も同様に、日米同盟によって自衛隊と米軍が共同で中国軍と戦う。

 台湾有事に日米で「統合抑制」を進めるには、両国を統括する「統合司令部」を設けて、台湾有事に向けた統合計画と統合作戦を作らなければならない。

 その統合計画には、沖縄の在日米軍に集中している米軍戦闘機を中国軍から攻撃される前に日本の別の場所に分散・退避させることや、台湾に近い南西諸島で自衛隊の防衛力が空白になっている現状に対処する方法を組み込まなければならない。例えば、陸上自衛隊が与那国島や宮古島に駐屯地を造ったり、石垣島にミサイル部隊を配備する計画などが組み込まれる。

 台湾有事の際に台湾にいる約24千人の日本人を退避保護することや、台湾からの避難民の受け入れも課題になる。また、先島諸島の住民の退避や保護シェルターの整備も課題になる。

 日本の自衛隊の現状の戦闘能力には多くの課題がある。航空機や戦車などの装備品の約5割が稼働不可の状態にある。ミサイルや迎撃ミサイルの弾薬などの備蓄が少なくて有事になれば数日しかもたない。その7割が北海道にあるので台湾有事には弾薬、燃料、食糧などを輸送しなければ戦えない。中でも不足が深刻な迎撃ミサイルの精密誘導弾は1発で数億円〜数十億円もする。

 米国は、台湾周辺や南シナ海で戦闘が起きた場合に、敵に接近して情報収集や攻撃をするために、大型無人潜水艦の開発と配備を急いでいる。大型無人潜水艦は生産コストが安い利点がある。米国は、英国・オーストラリアと結成している安全保障の枠組み「オーカス」により、海中を制する「海中権」を中国に渡さないようにする。現在の米中の軍事能力で米国が中国より圧倒的に優れている唯一の分野が海中能力だという。

 中国が多数のミサイルを発射して米軍海上艦隊の台湾への接近を阻止し、海上封鎖によって台湾への供給網を絶つ作戦に対して、米国は大型無人潜水艦を中国の防衛網の内側に入り込ませ、台湾への上陸や海上封鎖を試みる中国の艦隊を攻撃する作戦をとる。これは、中国の軍事的弱点を突いて中国の台湾侵攻を抑止する狙いがある。

 

米国が目指す「新グローバル化」

 米国は、強権主義の中国・ロシアに対抗して、民主主義諸国による「経済安全保障」と「持続可能性」を重視した新たな枠組みとして「新グローバル化」を目指している。米国の駐日大使エマニュエル氏がその「新グローバル化」の原則について、831日の日経新聞に寄稿した。

 それによると新グローバル化の第1の原則は、今までの「コスト」と「効率」を優先するグローバル化から、「安定性」と「持続可能性」を優先するグローバル化に変えることだ。これは、中国の廉価で豊富な労働力に依存してきた従来のサプライチェーンを再構築することを意味する。

 第2の原則は、ロシアのエネルギー資源の威圧に対抗するために、エネルギーについて新たな戦略に基づいてアプローチすることだ。米国にはクリーンエネルギー(再生可能エネルギー、電池貯蔵、小型原子力、水素など)における国際競争で優位に立てる先端技術と研究能力がある。こうした米国の先端技術を日米欧で共有し、クリーンエネルギー分野の技術力で中国と対抗して、主導権を取り戻すというのだ。

 第3の原則は、新たな世界の先端分野の枠組みとなるデータとデジタル・ルールの整備において、米国は日米協定などの多くの2国間協定に従って、デジタル経済の国際基準構築を主導することだ。デジタル・ルールの構築でも中国と対抗するために米国は日欧と協力するというのだ。

 

あとがき

 民主主義国が協力して結束すれば、ロシアの軍事力による現状変更を阻止できることがウクライナで実証されつつあります。中国の台湾侵攻に対しても、米国を中心にして日・英・独・仏・豪・印などの民主主義諸国が結束して統合抑止力を発揮すれば、阻止できると思われます。

 中国を軍事力で痛めつけることは、中国人に再び恨みを植えつけ、将来に禍根を残すことになります。中国に武力行使を留まらせ、台湾侵攻を抑制することが肝要です。軍事力は使うためにあるのではなく、軍事衝突を抑制するためにあると考えるべきです。日本の自衛力の増強もそう考えなければなりません。

 この冊子を書いてみて、民主主義諸国が協力し結束して対処すれば、中国・ロシアの現状変更を抑えて、国際社会を良い方向に導いていけそうな希望がわいてきました。悲観するのではなく、

ポジティブに考えることが今求められています。

                           (以上)
このままいけば日本の財政破綻は避けられないのか (グラフ省略)  2022 年 6 月 芦沢壮寿

新型コロナ不況への対応で日本の債務残高(財政赤字)が 2021 年 6 月末時 点で過去最大の 1220 兆円になった。これは GDP 比で 250 %を超え、米国の 130 %やドイツの 70 %と比べても、はるかに高くなっている。財政破綻とは、国 債を発行して国民からカネを借りてきた政府がその借金を返せなくなって、債 務不履行(デフォルト)に陥ることを意味する。本当に日本は財政破綻するリ スクに直面しているのだろうか。 そこで、財務省が出している『財政を考える』という小冊子に載っている図 をもとにして日本の財政状態の現状を考えてみることにする。 下図は、バブル経済が崩壊した 1990 年代を境に税収が伸び悩み、それを穴 埋めするために国債を発行して、一般会計歳出と税収との差がワニの口のよう に開いてきた様子を表している。 次ページの図は、日本の 2021 年度予算を表している。右側の一般会計歳入 総額 106.6 兆円のうち、税収等が 59 %で、残りの 40.9 %が国債などの公債金 - 2 - (借金)となっている。また、左側の一般会計歳出総額のうち 22.3%が国債の 償還(返済)に当てられ、33.6 %が社会保障費に、15.0 %が地方交付税交付金 に当てられ、公共事業・文教及び科学振興・防衛は各 5 %台に留まっている。 こうした状況から日本はいずれ財政破綻が避けられないと思われがちだが、 最近はやりの「現代貨幣理論(MMT:Modern Monetary Theory)」という理論 によると、「自国通貨を発行する政府が財政赤字が拡大して債務不履行になる こと、即ち、財政破綻はあり得ない」と言っている。 そこで筆者は、MMT の理論を調べ、色々な経済学者の見解を調べてみた。 以下では、「日本は財政破綻するのか」という問題をめぐって、色々な学者の 主張を考察し、筆者の見解をまとめてみることにする。 「現代貨幣理論(MMT)」とはどんな理論か 現代貨幣理論(MMT)とは、ケインズ経済学・ポストケインズ派経済学の 流れをくむマクロ経済学理論の一つで、現代の貨幣や金融の仕組みのマクロ的 理論の支柱となっている理論である。MMT では、通貨発行権を持つ中央銀行 を政府に所属する組織として、政府と中央銀行(日本の場合は日本銀行)が一 体となった「統合政府」と見なす。日本銀行は、株式を東京証券取引所に上場 していて、その株式の 55 %を日本政府が所有しているから、実際に政府の子 会社なのだ。しかも、日銀は、日本銀行法で金融政策の独立性が認められてい る一方で、政府の財政政策に従わなければならないことが規定されている。従 って、日銀は政府の子会社として政府の連結決算の対象となるのだ。 MMT の基軸は、中央銀行(日銀)と一体となった統合政府の通貨発行権に 焦点を当てて、政府が国民や企業に法定通貨(=中央銀行券の貨幣)で納税す - 3 - る義務を課していることが貨幣に「信用」を与え、貨幣が流通する基盤となっ ているというものだ。つまり、法定通貨として「国家への納税手段として使え る」という基盤的価値が貨幣に信用を与え、その信用のもとに政府発行貨幣が 流通に使われているというのだ。これを「租税貨幣論」という。 こうして信用を得た貨幣は、経済社会における財やサービスの取引(売買) において、財やサービスとの「交換価値があるもの」として使われるようにな った。 MMT では、「貨幣は単なる負債証明書(負債の記録)である」と定義して いる。財やサービスの提供者にその対価として支払われる貨幣は、財やサービ スに対する負債を証明しているというのだ。例えば、壱万円紙幣は 1 万円分の 負債証明書である。 MMT における税の役割は、経済社会(市場)から貨幣を回収することであ る。政府が負債証明書として発行した貨幣を税によって回収するのである。税 で貨幣を回収することによって、法定通貨の流動性を確保し、経済の調整弁と してインフレ率や所得格差を調整する手段となる。 MMT のこうした税の役割からすれば、現在一般的に考えられている「税は 財政の歳入確保のため」という考え方は間違っていることになる。つまり、MMT では、通貨発行権を持つ政府は、税によって歳入を確保する必要がないのだ。 一般的に市場に流通する貨幣の供給量を増やすことによって消費活動が増え て市場が活性化し、減らすことによって加熱しすぎた市場を正常化する効果が あると言われる。こうした中央銀行の金融政策は、マクロ経済学の主流派であ る新古典派経済学の主張である。これと対立する MMT は、因果関係が逆にな る。社会が好景気になると貨幣の需要が増えるから市場の貨幣が増加するので あり、不景気になると貨幣の需要が減るから市場の貨幣が減少するのだ。つま り、「市場の経済活動が先で、貨幣の増減は後になる」のだ。 MMT は次のように主張する。 ・自国通貨を発行できる政府は、財政赤字が拡大しても債務不履行になること はない。1998 年にロシアが財政破綻した理由は、アメリカ・ドル債の負債が 債務不履行になったからだ。2001 年にアルゼンチンが財政破綻したのもアメ リカ・ドル建ての国債を売ったからだ。2015 年のギリシャの財政破綻は政府 の負債がユーロ建てであったからだ。このように自国通貨ではない債務の場合 には債務不履行に陥る可能性があるが、自国通貨を発行している政府には、理 論的に債務不履行はあり得ないし、実際に起こっていない。 ・税と国債の役割は、財源の調達ではなく、通貨の流通を調節し、インフレ率 と金利を適切に調整する手段である。政府は、貨幣を発行して財源を作り、税 と社会保障・地方交付税交付金等の歳出を調整することによって「格差是正」 - 4 - や「完全雇用」などの政策を積極的に推進すべきだ。 財政破綻のリスクを懸念する財務省と学者たちの主張 日本の財務省の官僚たちは、財政破綻のリスクを懸念して「国債発行という 借金を重ね、借金を先送りしてしまえばいいという安易な考え」を批判し、「子 供たちの世代にツケを回すべきでない」と主張して「日本は財政破綻しないと 目が覚めない」と言って嘆いている。そして、「ついに国の借金が過去最高の 1220 兆円になり、国民一人当たり 992 万円の借金になった」と言って国民を おどしている。この財務官僚の主張は、明らかに現代貨幣理論(MMT)の主 張と異なる。財務官僚たちは従来から主流派であった新古典派経済学者の反 MMT の主張に従っているのだ。 財務省が「政府の負債」を減らすことに血道を上げるようになったのは小泉 政権時代からであった。その裏には政府の財布を握る官僚としての独善的な意 識があり、MMT のような最新のマクロ経済理論を全く理解していない。 以下では、インターネット上の「東洋経済 ONLINE」に載っている反 MMT 派の学者である慶応義塾大学大学院准教授 小幡績著の『このまま行けば日本 の財政破綻は避けられない』と、同じく「東洋経済 ONLINE」に載っている MMT 派の学者である京都大学大学院工学研究科教授(安倍政権の内閣官房参与)藤 井聡著の『日本の財政が「絶対破産しない」これだけの理由』の主張を比較し、 どちらの主張に妥当性があるかを検討してみることにする。 反 MMT 派の小幡氏の主張を要約すると次のようになる。 ・日本全体で豊富な対外債権があり、国民にも豊富な貯蓄があっても、赤字額 が年々増えていく政府には、貸しても返ってこないと考えるのが普通だから、 誰も貸さなくなり、政府は財政破綻に陥る。 ・日銀は市場で国債を買うことができる。しかし、政府が新規に発行する国債 を日銀が政府から直接買うことは、法律で禁止されている。そこで現在は、民 間金融機関に買わせて、それに利ざやを乗せて日銀が買い取る「日銀トレード」 という方法をとっている。ところが、今まで以上に政府が国債を発行し続ける と、民間金融機関は日銀トレードを引き受けることを躊躇し、一時的に中止す ることが起こるだろう。そうなると政府は、新規発行国債を日銀に直接引き取 らせるように法律を改定しようとする。しかし、それが報道された瞬間に世界 中のトレーダーが日本売りを仕掛け、投資家もそれに追随して投げ売りし、円 が大暴落して円建ての国債や日本株が投げ売られることになる。つまり、政府 は実質的に「日銀の国債直接引き受け」の法律改定ができない。結局、政府は 実質的で実効的な財政再建策を大規模に進めざるを得ないのだ。 ・政府と日銀を一体と考える「統合政府」という MMT の理論は、上記のよう - 5 - に即金融市場暴落になるから無意味だ。 ・日本がこれまで破綻しなかったのは、政府にカネを貸してくれる人がいたか らだが、今や日銀しかいなくなりつつある。日銀が国債の半分を買わないとい けないという現実は、まもなく破綻することを示している。 一方、MMT 派の藤井氏の主張を要約すると次のようになる。 ・日本銀行には経営の独立性が認められているが、日本銀行法第 4 条に「日本 銀行は、その行う通貨及び金融の調整が経済政策の一環をなすものであること を踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に 政府と連携を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と明記されて いる。つまり、日銀が政府から完全に独立して振る舞うことは法律的に禁じら れている。従って、政府と中央銀行を一体的なものとして捉えるなら、政府自 体が貨幣を作り出すことができると考えられる。 ・実際の政府の借金返済は、税金と国債の発行(借り換え)で行っている。だ から「日本政府が日本円の借金で破綻することはない」というのは、あくまで も「いざとなれば、自分で貨幣を作って返すことが実務的に可能だ」というこ とである。 ・もしも、とんでもない天変地異が起こって、政府に誰もカネを貸してくれな い事態が発生した場合でも、法律で日銀に定められている「最後の貸し手」と しての「日銀特融」という特別措置が発動され、日銀が政府に融資して「政府 の財政破綻」は免れるであろう。日本銀行法の第 38 条には「内閣総理大臣及 び財務大臣の要請があったときは(中略)当該要請に応じて特別の条件による 資金の貸し付け(中略)業務を行うことができる」と明記されている。このよ うに、日本銀行法には特別な事態に陥って政府が財政破綻の危機に瀕しても、 日銀の貨幣を作る機能によって救済する規定があるので、日本政府が財政破綻 することはない。 上記の反 MMT 派の小幡氏と MMT 派の藤井氏の主張は真っ向から対立して いるが、小幡氏の主張は、MMT の理論が間違っていることを論破しようとす る余り、事実に反することをこじつけているように思われる。そこで、両者の 対立点を明らかにして、どちらの主張が妥当かを検討してみる。 ・第 1 の対立点は、政府と中央銀行を一体として捉えることが妥当かというこ とである。これは、国全体の財政をコントロールする機能として、どちらの方 が有効に働くかということで判断すべきだと考えると、明らかに MMT 派の「政 府と中央銀行が一体となった統合政府」として捉える方が有効である。問題は、 現実の社会で MMT 派の主張する「政府と中央銀行が一体」となって機能して いないことである。将来はこの点を改善する必要がある。 ・第 2 の対立点は、現在の日本の財政状態の認識として、反 MMT 派が「現状 - 6 - は、国債を買って政府にカネを貸してくれる人がいなくなりつつあり、日銀が 国債の半分を買っている状況にあって、財政破綻に近づきつつある」「これを 打開するには、政府が実質的で実効的な財政再建策を大規模に進めざるを得な い」と主張するのに対して、MMT 派は「自国通貨の発行権を持つ政府が財政 破綻することはあり得ないから、財政赤字が増大していても、インフレ率を適 正にコントロールし、積極財政を行うべきだ」と言っている。 「日銀が国債の半分(実際は 48 %)を買っている状況にある」という反 MMT 派の指摘は、統合政府の連結バランスシートで見ると、日銀が所有する国債は 統合政府の負債にならないから、統合政府の借金が減ったことを意味する。そ れは、黒田総裁率いる日銀がデフレ脱却のためにとってきた金融緩和政策の結 果であった。金融緩和政策として市場に流通する貨幣量を増やすために、日銀 が貨幣を作って、市場の国債を買い取ること(=借金の返済)によって流通貨 幣を増加させてきた結果として、統合政府の実質的な借金が減ったのだ。つま り、「日銀が国債の半分を保有している」ということは、政府の実質的な借金 が半分になっていて、GDP 比でみると借金が 125 %になり、米国の 130 %と 同程度になっていることを意味する。さらに、「増大する財政赤字のツケを将 来に回す」という最大の問題点は、既にその半分は解消されているのである。 財務省が喧伝している 1 ページの「ワニの口」の半分は既に閉じているのだ。 筆者は、こうした事実を発見して、黒田総裁の賢明なる金融政策に驚嘆すると ともに、MMT 派の主張の妥当性を確信した。 それと同時に、日本がバブル崩壊以降、30 年にわたって経済が低迷してき た根本原因がわかった。それは、政府の財務官僚・経済学者・ジャーナリスト らが日本の本質的な実態を認識せずに、 自 らの誤りを顧みずに、誤った情報 みずか を国民に与えてきたことである。そして、国民は萎縮し積極的な行動をしなく なった。日本の「インテリジェンス」がおかしくなっていることが、本質的な 問題である。 現状の財務政策と MMT による財政政策 現在の日本政府(財務省)の財政政策は、基本的財政収支(プライマリー・ バランス(PB))を見ている。基本的財政収支(PB)=(今期の税収 − 今期 の一般歳出)である。つまり、税収で社会保障・地方交付税交付金等・公共事 業・文教及び科学振興・防衛などの一般歳出をどこまで賄えるかを示す指標で ある。政府は、2025 年度までに PB を黒字化する目標を掲げている。 しかし、一般企業では、少なくとも損益計算書と貸借対照表で財務状況を見 ているが、財務官僚には国の資産・負債状況を表す貸借対照表を理解できる人 が少ないという。ましてや、MMT を理解でき、財政政策に生かせる人間がい - 7 - ないことが問題である。 下図は、1960 年度以降の歳出構造の変化を示している。図において、赤は 「返済国債費」、緑は「社会保障費」、黄は「地方交付税交付金等」、白は「公 共事業・教育及び科学振興・防衛・その他の歳出」を表す。 上図を見ると、返済国債費と社会保障費が増大し、公共事業・教育・防衛な どの歳出が減ってきていることが分かる。これは、日本が少子高齢化社会に変 わり、社会保障費が増大するのに対処するために、やむを得ず公共事業・教育 ・防衛などの歳出を減らしてきた面がある。そのために、日本の教育レベルが 低下し、科学技術の競争力がなくなり、中国と比べて防衛力も見劣りするよう になった。今後、少子高齢化が一層進む中で、カーボン・ニュートラル対策や 自然災害に備えて公共事業を増やしたり、防衛費を増強するには、新たな金融 ・財政政策をとる必要がある。それは、MMT を活用した金融・財務政策であ - 8 - る。筆者は、その骨子をまとめて、次のように提案する。 〔MMT を活用した今後の金融・財政政策の提案〕 @ MMT の財政政策では日銀が発行する貨幣が財源となる。従来の税収を財源 とする財務政策では、財源不足のために抑制されてきた公共事業・教育及び 科学振興・防衛などの計画は、日本の国力の源泉だから、今後は積極的に推 進すべきだ。また、2050 年までにカーボン・ニュートラルの社会を実現す る計画でも同様である。MMT の理論では「市場の経済活動が先で、貨幣の 増減は後になる」から、市場で流通している貨幣量を見て、インフレになら ないように上記の計画を進める必要がある。 A MMT の財務政策における税と国債の役割は、財源の調達ではない。市場に 流通する貨幣量を調節してインフレ率と金利を適切に調整することが本来の 役割だ。税は市場から貨幣を回収して、流通貨幣量を減らすことによってイ ンフレを防ぐ働きをし、国債は日銀が発行した貨幣で市場の国債を買い取る ことによって、市場の流通貨幣量を増やし、デフレを防ぐ働きをする。その ために、インフレを防ぐことを目的とした特別な税を創設して、市場に流通 する貨幣量を臨機応変に微調整できる税が必要となる。 一方、税と社会保障・地方交付税交付金等の歳出により、国民の所得格差と 地方の税収格差を調整する機能を積極的に推進して、平等な社会にする。 B以上のことを行うには、日銀・財務省・国税庁などが一体となって当たる必 要があり、金融・財政・税金を総合的にコントロールする機構を作らなけれ ばならない。この機構は統合政府の金融・財政・税金の業務を MMT に基づ いて実行する司令塔となる。そして、政府が新規に発行する国債を日銀が政 府から直接買うことできるように法律を改定する。そうすることによって MMT の理論を効率的に実行できるようになる。 日本の将来 次ページの図は、今後の日本の人口減少と年齢層別の人口比の変化の予測を 表している。この図を見ると、全体の人口が急速に減少していき、2050 年代 には1億人を割る。20~64 歳の労働人口は既に急速に減り始めていて、65 歳以 上の高齢者人口も 2050 年から減り始めるが、その減少は緩やかである。こう したことから、今後の日本は、社会保障費が高止まりする中で、労働人口の減 少に伴って税収が大きく減少していく。 このような少子高齢化社会では、高齢者の所得が公的年金で安定し、現役世 代でも多くの人が高齢者介護に関係する仕事につくから、社会全体として所得 が安定し、景気の変動が小さくなる。今までのような競争力を競って、景気変 動の激しい社会ではなくなるのだ。そして、人間に変わって人工知能(AI) - 9 - つきのロボットが使われるデジタル社会となり、規則的に動く静かな社会にな ることが予想される。そうした社会で人々は、働くこと(生産面)よりも余暇 の時間の使い方(消費面)に関心を持つようになる。こうした社会の変化に伴 って、政府の役割も大きく変わっていく。 あとがき 1980 年〜 2008 年に大蔵省や内閣ブレーンとして勤めた経験をもつ高橋洋一 - 10 - 氏の著書『データから真実と未来を見抜け! プーチンショック後の世界と日 本』(徳間書店、2022 年 4 月)を読んでみた。そこには、大蔵省(現 財務省) の官僚たちが財務会計とはかけ離れた独特の財政破綻の考え方を持っていて、 一般企業が行っている連結の損益計算書・貸借対照表による財務会計を知らな いと書いてあった。高橋氏の「データから真実と未来を見抜け!」という主張 は、「統合政府で考えるべきだ」「統合政府の連結バランスシートのネット債務 残高(=国債−資産)の GDP 比(GDP に対する%)で考えるべきだ」と述べ ている。政府の財政破綻は「統合政府のネット債務残高」が限度を超えた時に 起こるから、「ネット債務残高」で管理すべきだというのだ。 最後に、今まで考察してきたことについて筆者の見解をまとめてみる。 日本は絶対に財政破綻しないという確信を持つことができた。バブル崩壊か ら 30 年以上も経済が低迷し、所得が増加しない異常状態が続いてきたが、財 政破綻しなかった。しかも、負債(借金)が米国並みで、その負債(国債など) の 86 %を日本国民が所有しているのだから、財政破綻の心配は全くない。 むしろ問題は、財務省の役人や学者・ジャーナリストらが誤った危機感を国 民に植え付け、国民を萎縮させていることだ。国民は、税収が伸びなやんで財 源がないから、仕方がないとあきらめてきた。しかし、こうした閉塞状態を打 ち破る方法があったのだ。それをまとめたのが、8 ページの〔MMT を活用し た今後の金融・財政政策の提案〕に掲げた@〜Bの提案である。その趣旨は、 MMT を使って金融・財政政策を改革して、今後の少子高齢化社会でもデジタ ル化やカーボン・ニュートラルを早く実現できるようにすることだ。 今後の社会を計画する場合に、MMT の理論に従って行えば、財源の心配が なくなる。つまり、MMT の理論では、税収や国債の発行を財源とするのでは なく、政府が発行する貨幣を財源とするからだ。但し、それが可能な事業は、 @で述べたような政府が行う事業、即ち、公共事業、社会福祉事業、教育及び 科学振興事業、防衛事業などの公共目的の事業に限られる。急速な少子高齢化 に対処し、緊急課題のカーボン・ニュートラルに対処する事業は公共目的だか ら問題ない。例えば、公的年金が現役世代の減少に伴って目減りする問題は、 政府が発行する貨幣で補填すれば良い。また、カーボン・ニュートラルに有効 な太陽光発電のスペースが日本では不足している問題を解決するために、あら ゆる建物に太陽光発電設備と蓄電池の設置を義務づけ、設備費の相当部分を国 が支援するようにして、カーボン・ニュートラルの実現とともに国民にもメリ ットを与えることが可能となる。 このように MMT を活用することによって、将来に希望をもつことができる ようになる。そのためには、日本国民の全員が MMT を理解して、今までの閉 塞感を打ち破り、希望に向かって行動を起こすことだ。 (以上
ロシアのウクライナ侵攻を機に一変する世界情勢 2022 年 6 月 芦沢壮寿

核保有国で国連常任理事国のロシアが国際法を犯して 2 月 24 日に始めたウ クライナ侵攻によって、世界が予想外の方向に変化し始めた。ウクライナの NATO 加盟を阻止しようとするプーチンの狙いは完全に外れて、今までロシア を刺激しないように中立を守ってきたフィンランドとスェーデンが NATO に 加盟する情勢になり、欧州各国が軍事費増強やロシアに頼ってきたエネルギー 政策の見直しに動き始め、日本でも中国・北朝鮮の軍事的脅威に備えて軍備拡 充に動き始めた。ヨーロッパ・EU と米国・日本の民主主義国がロシア・中国 の強権国に対して安保体制の団結を強め、ロシア・中国の「力による現状変更」 の拡大主義と対決する姿勢を鮮明にし、経済的にも脱ロシア・中国の方向に進 もうとしている。戦後の国際秩序の枠組みとして、米英仏ロ中の五大国が核保 有を認められて拒否権を持ってきた国連が、今回のロシアの暴挙によって完全 に機能不全に陥っていることが暴露された。これを機に世界秩序の歴史的大転 換が起こり、「新冷戦」とも言える状況になりそうだ。 米国は、民主・共和の与野党が対ロ政策では完全に協力して「武器貸与法」 を成立させ、来年の 9 月末までウクライナと近隣東欧諸国に軍事物資を迅速に 提供する権限を大統領に与えた。この米国の政策は、米国の直接介入によって 第 3 次世界大戦に発展するのを避けながら、ロシアの拡大主義の侵攻を絶対に 許さないという米国の意志を表している。 5 月 12 日の EU ミッシェル大統領・フォンデアライエン欧州委員長と岸田 首相との会談で、今後は、友情によるプーチンと習近平の結びつきに負けない ように、EU と日本が協力してロシア・中国に対抗し、ロシア・中国による情 報操作対策や国防システム開発で連携していくことになった。 日本では 4 月にまとめた自民党の防衛力強化に関する提言で、今まで GDP 比 1 %に抑えてきた防衛費を 5 年以内に 2 %以上に増やすことにした。これは、 来年以降も政権を握ることが予想される習近平が 3 期目に当たる来年以降の 5 年間に台湾に侵攻する可能性が高いことに対処するためだ。今まで中国・ロシ アとの関係を重視してきたドイツでも、国防予算に GDP の 2 %以上を充てる ように方向転換した。 プーチンのウクライナ侵攻に至るロシアとウクライナの歴史 ロシアの最初の王国は、862 年に建国したノヴゴロド王国だが、実質的には 882 年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属するキエフ公国の建国に始まると 言ってもよい。キエフ大公国のウラジミール公が東ローマ帝国(ビザンツ帝国) 皇帝の妹と結婚し、988 年にキリスト教の洗礼を受けてロシア正教が生まれた。 - 2 - プーチンは、ウクライナ侵攻前の 2021 年 7 月に「ロシア人とウクライナ人の 歴史的な一体性」という論文を発表し、その中で「ロシア人、ウクライナ人、 ベラルーシ人は全てキエフ大公国の子孫だ」と述べて、三国の国民は共通の「正 教」のもとに文化的・民族的に一体だと言い、三国の統合を主張した。プーチ ンは、「正教」を三国統合の理念に掲げて、ソ連崩壊後の失地回復を目指して いるのだ。 13 世紀になるとキエフ大公国はモンゴル帝国のキプチャク・ハン国の支配 下に入った。1480 年にモスクワ大公国が自立し、1547 年にイヴァン 4 世がロ シア帝国を樹立した。ロシアは、1613 年からロマノフ王朝となり、17 世紀末 にピョートル 1 世(大帝)が西欧化策の改革を行い、新首都としてサンクトペ テルブルクを建設したが、農奴制を維持するロシアは 1917 年のロシア革命ま で近代化が進まなかった。 19 世紀にロマノフ王朝がアジアに進出するためにウラジオストックを建設 した時に、6 万人のウクライナ人が農民として移住させられた。1917 年のロシ ア革命では革命に抵抗したウクライナ人がシベリアに送られた。第 2 次世界大 戦中にウクライナでヒットラーと連携して独立を試みた勢力がスターリンによ りシベリア送りになった。その中には日本にやってきた人も多く、横綱大鵬の 父親もその一人だった。 今回のウクライナ侵攻でプーチンは、ウクライナの「非軍事化」と「非ナチ ス化」を唱えて、ウクライナ侵攻の正当性を主張したが、この「非ナチス化」 とは、今のゼレンスキー政権をかつてのナチストにつながるネオ・ナチだと勝 手に決めつけたデマを捏造して、ロシア国民をだましているのだ。 1991 年のソ連崩壊でウクライナが独立し、ロシアも政治形態では民主主義 国となった。しかし、ソ連崩壊後の喪失感と経済的な混乱から、ロシア国民は 危険なナショナリズムに立つプーチンを大統領に選出し、プーチンの独裁を生 み出してしまった。旧ソ連の国家保安委員会(KGB)出身のプーチンは、国 民を監視し、敵を欺く工作員(スパイ)としての資質が染みついているために、 民主的・平和的な政治家にはなり得ないのだ。 軍事力でウクライナに侵攻し、国内の異論を抑え込むプーチンの論理は、ヨ ーロッパにありながら人権を尊ぶ西欧思想とはほど遠く、強権による秩序を重 視する社会主義ソ連の記憶に重なる。多数の犠牲者を出した革命や戦争を経験 してきたヨーロッパの歴史において、西欧では生命や人権を尊重する考え方が 育ってきたのに対して、ロシアでは強大な権力による秩序の維持を優先する歴 史をたどってきた。ロシア革命でレーニンが築いた共産党を引き継いだスター リンは、マルクス・レーニンの共産主義の精神を無視して、単に米欧の資本主 義国との経済競争に勝つことを目指して、国民を監視する恐怖政治を行い、シ - 3 - ベリア開発の労働力を確保するために知識人をシベリアに強制連行した。 ソ連が崩壊して、ロシアもウクライナも民主主義国になったが、ロシアは最 終的にプーチンを選んだことによって強権主義の国になってしまった。プーチ ンは、野党指導者やジャーナリストの殺害事件の真相を究明するどころか、む しろそれを脅しに使ってきた。 キエフ生まれでモスクワのテレビ局に 10 年間働いた経験を持つ英国人作家 のピーター・ポマランツェフの著書『プーチンのユートピア』(慶応義塾大学 出版、2018 年)は、ロシアのオカルト的な実態を次のように描いている。ロ シアのテレビは国民の不安をあおり、心の自由を奪っている。プーチンは、大 衆を心理的に威圧して縛りつけた上で、2014 年にクリミアを軍事征服すると いう暴挙に出て、ロシア人の意気を高めることに成功した。今回のウクライナ 侵攻でも、それを狙ったと考えられる。ロシアには、帝政時代とソ連時代を通 じて、「個人が集団に融合することで社会が調和する」という宗教的・精神的 な共同性を意味するロシア正教的な概念・精神が流れている。この精神は、人 権の尊重や私有財産の不可侵を基礎に置く西欧的な近代思想と相いれない。 プーチンの野望とゼレンスキー大統領の驚異的な指導力 ゼレンスキーは、1978 年にユダヤ系ウクライナ人としてウクライナ東部で 生まれ、ロシア語を母語としていた。大学卒業後に人気者のコメディアンとし て活躍していたが、オルガルヒのコモイスキーが経営するテレビ局の「国民の 僕 」というドラマ(2015 〜 19 年)に大統領役で出演し、人気を博した。そし しもべ て、2018 年 3 月に「国民の僕」という政党を立ち上げて 2019 年の大統領選挙 に出馬し、ロシア融和派のポロシェンコ前大統領を破って当選した。今、ウク ライナでは大統領と首相の両方がユダヤ人である。 侵攻前のウクライナは、全く政治経験のないゼレンスキーの下で経済が低迷 し、支持率が低下していた。プーチンは、この機にウクライナに侵攻すれば 2 日ほどでウクライナは内部崩壊すると見ていた。そして、国民にウクライナの 非軍事化と非ナチス化を訴え、ベラルーシとの共同軍事演習と称してウクライ ナ国境に軍隊を集結させ、2 月 24 日にウクライナ侵攻へと踏み切った。 プーチンは今回のウクライナ侵攻を「ハイブリッド戦争」と称し、軍事と情 報の両面で戦争を仕掛けている。しかし、ウクライナのゼレンスキー大統領の SNS を通して世界に訴える情報作戦に苦戦を強いられている。 ロシアの侵攻を受けたゼレンスキーは、驚異的な指導力を発揮するようにな った。ゼレンスキーに対してバイデン大統領が国外に避難する飛行機を差し向 けると言ったが、ゼレンスキーはそれを拒否し、ウクライナに留まって、先頭 に立って指揮し続けている。 - 4 - ゼレンスキーは、国民にウクライナの自由と威信を守ると宣言し、国民を結 束させた。そして国民は、徹底抗戦する覚悟を固めた。ゼレンスキーは、SNS を通して世界中の人々に、敵国のロシア国民に対しても、ロシアの偽りの情報 に対抗して、ロシア軍がウクライナにおいて犯している建物の破壊や一般住民 の殺害など、国際法に違反する実態を示す映像を連日にわたって発信し、世界 中の人々を味方につけることに成功した。何の罪もない一般市民の住宅やビル が破壊され、一般市民が殺されている映像は、世界の人々にショックを与えた。 これらの映像は、ウクライナの「非軍事化」と「非ナチス化」を訴えるプーチ ンの主張が偽りであり、ウクライナ侵攻は明らかな戦争犯罪であって、大国意 識に駆られるプーチンの野望であることを世界中の人々に示した。こんなこと が許されてはならない、絶対阻止しなければ正義が滅んでしまうと気づいた人 々は、自国政府を動かして、軍事支援や難民受け入れ支援に動き出した。そし て、ロシア軍の士気の低下とあいまって、ロシア軍から占領地を奪回する動き に転じるようになった。 ロシア軍は、指揮命令系統に欠陥があり、軍のトップが前線を視察するなど、 本来はあり得ない事態に陥った。さらに、欧米から支援された性能のよい武器 によってロシア軍の戦車が破壊され、半導体の不足から武器の生産に支障をき たして、ロシア軍の精密誘導弾が枯渇したという。侵攻開始から 3 ヶ月間でロ シア軍の死者が 1 万 5 千人となり、かつてロシアが 9 年間にわたってアフガニ スタンに侵攻したときの死者数を超えたという。ロシア側も甚大な被害を被っ ていることが明らかになった。 5 月 23 日にジュネーブの国連代表部に勤務するロシアの外交官ボリス・ボ ンダレフ参事官が SNS で「プーチンが引き起こしたウクライナ侵攻は、ウク ライナ国民だけでなく、おそらくロシア国民に対しても最も重大な犯罪である」 とプーチンを名指しで非難し、「ウクライナ侵攻について、外交官として嘘を つかなければならないことほど恥ずかしいことはない」と言って外交官を辞任 した。また、あるロシア軍人は「戦況の悪化は世界が我々を敵視しているから だ」と言ってプーチンを批判した。これは、ロシア国内にも反プーチンの動き があることを示している。5 月に開催されたダボス会議では、ロシアのウクラ イナ侵攻で持切りだったが、「ウクライナの非ナチス化」と称してソ連崩壊後 の失地回復を目指すプーチンの主張が「時代遅れで滑稽だ」と批判された。こ の批判は「中華民族の偉大なる復興」を唱える中国にも通じる。 現在、ウクライナ軍はロシアに占領された北方地域からロシア軍を撤退させ、 ロシア軍はロシア系住民の多いウクライナ東部 2 州に軍を集中させて、2 州の 独立を狙って攻勢に出ている。しかし、日米欧がそれを許せば、中国の東・南 シナ海における領有権の拡大を阻止することが難しくなる。従って、日米欧と - 5 - しては、何としてもウクライナを支援してプーチンの野望を打ち砕かなければ ならない。今後、欧米の軍事支援により 6 月中旬から本格的な反転攻勢が始ま るという。そうなると、追い詰められたプーチンが核兵器や化学兵器を使う懸 念が生じる。 ロシアのウクライナ侵攻の終結について欧州諸国は、できるだけ早く停戦を 実現する「和平追求派」と、ロシアに多大な代償を負わせるべきだとする「対 ロシア強硬派」に分かれている。和平追求派はドイツ、フランス、イタリアな どで、対ロシア強硬派はポーランド、バルト三国、英国などだ。ウクライナに 既に 140 億ドルを支援し、さらに 400 億ドルの軍事・人道支援を決めている米 国は、まだ明確な目標を示していない。ゼレンスキー大統領は、停戦目標とし て、侵攻前の状態にロシア軍を撤退させることと言った。プーチンは、停戦を 急いでいないようで、東部ドンバス地方を完全制圧し、モルドバの沿ドニエス トル地方をロシア領にすることも狙っている。戦争の終結はプーチンの決断に かかっているが、プーチンが軍事力の劣勢を認めて終戦せざるをえない状況を 作り出す必要がある。それは、非常に難しい問題であり、今年中に解決するか は分からない。 さて、今回のウクライナ侵攻では、建物が破壊される映像や一般の人々が殺 害されて道路にころがっている現場の映像が SNS を通して頻繁に発信され、 連日のように世界中の家庭のテレビに映し出された。多くの人々が初めて経験 するこうした状況に、子供たちの間で「共感疲労」という現象が発生している という。「共感疲労」とは、余りにも生々しく悲惨な映像を毎日見ていると、 戦争で苦しんでいる人々に共感して精神的疲労が続くようになる病気である。 強権主義・拡大主義をとる中国 ロシアと中国は強権主義・拡大主義で共通する。中国は、初代王朝夏に始ま か る 5 千年の歴史を通じて、一人の王・皇帝が国を治める強権主義の国であり続 けた。それが、1840 年のアヘン戦争以降、欧米日の列強に侵略され、中華の 国としての威信を失った。1911 年の辛亥革命で清朝が滅び、1949 年に成立し た中華人民共和国も共産党独裁の強権主義の国となった。 中国共産党は、かつての朝貢貿易を通じて周辺国を冊封体制に組み込んでき た領域が本来の中国の領土だとみなし、失われた領土という悲憤を込めて「国 恥地図」(次ページの図)を描き、愛国教育の教材として教えてきた。その「国 恥地図」の範囲は、朝鮮半島、沖縄を含み、インドシナ半島、ネパール、アフ ガニスタン、タジキスタン〜カザフスタンの中央アジア、モンゴル、ロシアの 沿海州、樺太まで包含する。これを中国の領土と見なすことは、近代の領土概 念とは相いれないが、中華思想の教育を受けている中国人にとっては「中国の - 6 - あるべき姿」を表して いる。中国共産党は、 中華人民共和国の建国 100 年に当たる 2049 年 までに「世界制覇 100 年戦略」を達成し、「中 華 民 族の 偉 大 なる 復 興」を達成しようとし ている。これは、ソ連 崩壊後の失地回復を目 指しているプーチンの 拡大主義と共通する。 中国は、2010 年に GDP で日本を抜き、世界第2位の経済大国になった頃から、南シナ海、東シ ナ海への進出を始めて、拡大主義に転じた。習近平は強権主義・拡大主義を進 めて、武力を使ってでも台湾を中国に統一すると宣言した。 こうした中国共産党の強権主義・拡大主義について、中国国民はどう考えて いるのだろうか。中国に留学し、現在、フリージャーナリストとして活躍して いる中島恵が、幅広い中国人の友人を取材して、ごく普通の中国人が母国をど のように見ているかを書いた『いま中国人は中国をこう見る』(日経プレミア シリーズ、2022 年 3 月刊行)によると、今の中国人の母国に対する心情はと ても複雑で、簡単に中国共産党を支持しているわけではないという。中国人に とって、まずは自分と家族の生活が大事であって、それさえ守れれば、あとは どうでもいいというのが本音のようだ。しかし、中国人は、個人の行動データ、 学歴、勤務先、資産、人脈などのデータを総合した「信用スコア」を使って、 共産党が国民を監視しているこを常に気にしている。信用スコアで共産党に睨 まれることを極端に恐れ、警戒していているのだ。そして、どう行動し、どう 発言するのが賢いかを何時も考えている。例えば、2021 年 7 月 1 日に中国共 産党創立 100 周年を記念する盛大な祝賀式典が天安門広場で開催され、約 7 万 人の人々が色々な組織から徴集され、習主席の演説の要所・要所で一斉に大歓 声を上げていたが、そこに出席した友人は「退屈だった」「あれは単なるお祭 で、熱狂は演出だ」というのが本音だが、SNS に出る多くの投稿は、「自分も きちんと祝っている」「式典の報道をしっかり見た」という証拠を示して、自 分の「信用スコア」を良くするための自己保身だという。 中国の「ゼロコロナ政策」が WHO のテドロス事務局長から「持続可能では ない」と批判され、米欧の衛生専門家の間に「中国のやり方は新型コロナウィ - 7 - ルスを封じ込めるどころか、新しい変異型に対して感染の大爆発を招きかねな い」という声が強まっている。確かに中国のゼロコロナ政策は、感染者と死亡 者を極めて低く押さえ込むことに成功したが、それは殆どの国民が感染してい ないことを意味し、変異型にも効く米欧のワクチンを使っていない中国の国民 は感染力の強い変異型に免疫を持たない比率が極めて高い状態にあって、いま だに感染爆発の恐れがあるという。米欧日では、今や国民のほとんどが変異型 にも免疫を持っているので、「ウィズコロナ政策」のもとに経済活動を復活さ せ始めているが、中国の習近平政権がとってきた「ゼロコロナ政策」は、経済 活動の復活を不可能にする可能性が高いというのだ。 習近平は、「ゼロコロナ政策」を国民に徹底できる共産党統治の方が感染拡 大に苦しんでいる民主主義体制の国より優れていると言って、国民を納得させ てきた。しかし、中国のゼロコロナの実態は、習近平の意図を忖度した側近や 地方政府の幹部らが「ゼロコロナ」を競い合って、政策の欠陥を増幅させてい る。ある地区で感染者が 1 人でも見つかると、その地区は 2 週間にわたって完 全に封鎖され、全員が PCR 検査を受け、たまたまその地区にいた配達員や通 いの家政婦までもそのまま 2 週間留め置かれることになる。このように地方政 府や居民委員会(町内会のようなもの)が住民に厳しく対応するのは、自らが 管理する地区で感染が拡大した場合、彼等自身が厳しく責任を問われ、処分さ れるからだ。中国最大の都市 上海は、変異型の感染拡大によってロックダウ ンとなり、コンテナ輸送による世界貿易に多大な影響を与え、私権を制限され た 2400 万の人々の不満や反発が高まった。 強権主義の中ロと民主主義の日米欧の分断 ロシアのウクライナ侵攻を受けて、米国が中国に対する新戦略を打ち出し、 日本に全面的な協力を求めてきた。その内容は、5 月 23 日の岸田首相とバイ デン大統領の日米首脳会談の共同声明で次のことが明らかになった。 日米は、武力による現状変更で地域の安定を損なっている中国に対し、中国 の軍備増強によって米国のインド太平洋における軍事力の優位性が損なわれつ つあることに対処するために、日本の軍事力を増強し、共同で抑止する体制を 拡大する。日本が攻撃された場合は米国が攻撃されたものとみなし、日米が共 同で反撃することを宣言して、核にまで拡大した「拡大抑止」によって日米の 安保戦略の連動性を向上させる。 この日米首脳会談後の記者会見で、米国の記者が「台湾有事の際に米国は武 力介入するか」と質問したのに対して、バイデン大統領は「Yes」と答えた。 今までの米国の台湾有事に対する戦略は、「戦略的あいまいさ」と称して、あ いまいにしておくことによって中国を牽制することであった。しかし、習近平 - 8 - が武力行使してでも台湾を統一すると明言したことに対して米国は、軍事介入 を明言することによって中国の台湾統一を阻止する方針に変えた。これに対し て中国は、「内政干渉だ」と言って激しく抗議した。 欧州連合(EU)と中国との安定した関係が壊れつつある。中国による新疆 ウィグル自治区のウィグル人に対する人権問題で関係が悪化していたが、ロシ アのウクライナ侵攻で最悪の状態におちいった。この戦争は、欧米の絆を揺る ぎないものにしたが、中国と EU を断絶の危機におとしいれた。しかし、欧州 にとって中国との分断は米国よりも高くつく。 日米欧は、「中国と台湾は一国だ」を認めていながら、中国の台湾統一を認 めなようとしない。一般的にこれはおかしいが、そこには中国共産党の本質を 見抜けなかった米欧の中国に対する「見込み違い」があった。米国は、中国が 豊かになれば民主主義の国なると考え、台湾の国民政府が握っていた国連の安 全保障理事会の常任理事国としての権限を 1971 年に中華人民共和国にわたし、 台湾の中華民国政府を国連から追放することを認めた。これが、今日の米中対 立と国連の機能不全の根本的な原因となっている。第 2 次世界大戦で連合国側 について戦って勝利したのは中華民国であり、中華民国が国連の常任理事国に なったが、その後の内戦で中華民国の国民政府軍が共産党の人民解放軍に敗れ て台湾に逃れ、1949 年に共産党により中華人民共和国が成立した。しかし米 国は、それ以降も台湾の軍事支援を続けて中国の台湾統一を阻止し、台湾を民 主主義陣営に取り込んできた。これが「現状」である。習近平政権になって中 国の民主化があり得ないことが明らかになった今、米国は、台湾を独立させる こともできず、中国の一部である台湾を中国に支配させないという「現状」を 維持し続けるしかないのだ。そして、中国の台湾統一は「力による現状変更」 だから国際法違反だと主張し、軍事介入するというのだ。 米国は、軍事と経済の両面で中国を封じ込め、「台湾侵攻シナリオが浮上し ないように強い抑止力を保つことが最善策だ」と考えてきた。しかし、そこま で中国を圧倒する力は今の米国にはない。民主主義国の仲間と危機感を共有し、 仲間を結集して重層的に備えの厚みを増すというのが、今回のバイデン大統領 の日本訪問の目的であった。 バイデン大統領は、中国に対抗してインド・太平洋の国々が@貿易、A供給 網(サプライ・チェーン)、Bインフラと脱炭素での協力、C税・反汚職、の 4 つの分野で新たな経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の発足を宣 言した。IPEF は、米国・日本に加えて韓国、インド、オーストラリア、ブル ネイ、インドネシア、マレーシア、ニュージーランド、フィリピン、シンガポ ール、タイ、ベトナムの 13 カ国を創設メンバーとして始動し、中国に対抗し てサプライチェーンの再構築やデジタル貿易のルールづくりなどで連携する。 - 9 - この 13 カ国で世界の GDP の 4 割を占めるが、TPP のような関税を削減して市 場を開放することには踏み込んでいないために、米国のアジア経済戦略の空白 を埋めするには力不足のようだ。米国は、民主党支持基盤の労働組合や民主党 左派が「市場を開放すれば米国人の雇用が流出する」という主張に沿うために、 TPP には参加できない。市場開放という魅力に欠ける IPEF にアジア各国をい かにまきこむかが今後の課題となる。 米通商代表部(USTR)の高官によると、@貿易の分野では、デジタル・労 働・環境について新たなルールを設け、企業にサーバーを自国内に設置させて 保存させる「データ・ローカライゼイション」の規制を緩和する。A供給網の 分野では、半導体などの戦略物資について在庫や生産能力といった情報を共有 する体制を整える。Bインフラでは、中国の広域経済圏構想「一帯一路」に対 抗し、低利融資などの支援策をまとめる。各国は、これらの 4 分野の一部にだ け参加することも可能にするという。 さらに日米は、5 月 24 日に東京で日米豪印の 4 カ国の枠組み「Quad(クア ッド)」の首脳会議を開いた。この会議で、中国の海洋進出と力による現状変 更に反対・対抗して、海洋監視情報の共有、太平洋島嶼国の経済支援や気候変 とうしよこく 動対策で協力し、サイバー・宇宙で協議体をつくることで合意した。 グローバル化の再構築 約 30 年前にソ連が崩壊して、新自由主義のもとに世界的な資本市場へのア クセスが拡大してグローバル化が進み、経済効率の高い供給網として中国を中 心とする供給網の構築を進めてきた。しかし、過去 10 年間にナショナリズム が台頭し、今回のウクライナ侵攻を機に国家による安全保障が再び最大の優先 事項になった。これからの世界は、民主主義の国々と強権主義を強める中ロの 間で軍事的・経済的な安全保障体制の対立が先鋭化して、世界が急速に分断さ れていく。今までの中国経済を中心とする効率的なグ−バル化から、民主主義 国の団結を強くして安全保障を重視するグローバル化へと進むというのだ。 日米欧は安全保障を重視して、中国・ロシアへの経済的依存をできる限り減 少させ、より多くの事業を自国内に移管したり、民主主義をとる近隣国や地域 に移したりする。人口増加が続く東南アジアやインド、メキシコ、ブラジルな どが移転で恩恵を得る可能性が高い。 グローバル化の再定義が進むなかで、現在のエネルギーや食糧の世界的なイ ンフレが今後 2 〜 4 年は続く可能性がある。そのインフレは、天然ガスへの再 投資やグリーンエネルギーといった持続可能なエネルギーへの新規投資と供給 物再構築によって、5 年で解消するという。そうしたなかで、今後も米国は世 界の成長エンジンの一つであり、日本は岸田首相の「新しい資本主義」のもと - 10 - で、日本経済を再構築し、低成長から脱却するチャンスになる。 一方、強権主義・拡大主義の中国・ロシアは、今後、人口減少の危機に直面 して国力が衰退していくと予測され、それを打開するために暴発する危険性が あるという。民族の復興を目標に掲げて拡大主義をとる中国とロシアは、その 目標が国力の衰退によって達成できない恐れが生じたときに、無謀なリスクを 犯して暴発するというのだ。これを「衰退する大国のわな」と呼ぶ。かつて、 第 1 次世界大戦前のドイツ帝国や、太平洋戦争前の日本がそうであった。ロシ アのウクライナ侵攻は「衰退する大国のわな」が働いたとみてよい。 中国は、新型コロナウィルス感染拡大の前から中国経済のピークが過ぎてい て、やがて中国の人口は歴史上前例のないペースで減っていく。中国の GDP は一時的に米国を抜くかもしれないが、再度抜きかえされる。中国は、2020 年代後半に米国や同盟国の軍事力に抜かれる前に、「衰退する大国のわな」に 陥って、台湾に侵攻する可能性が高いという。 日本について 「戦争になったら国のために戦うか」という問いに対し、日本人は 13.2 % が「はい」、48.6 %が「いいえ」、38.1 %が「わからない」と答え、「戦う」と 答えた割合が 86 カ国中最下位で、「わからない」と答えた割合が最も高かった。 ちなみに、2 番目に低いリトアニアでも 30 %以上が「戦う」と答えているか ら、日本人の低さが異常であることが分かる。「戦う」と答えたのは、ドイツ でも 44.8 %、米国が 59.6 %、韓国が 67.4 %、ロシアが 68.2 %、台湾が 76.9 %、中国が 88.6 %であった。 これは、日本人の防衛感覚の異常さを如実に表してる。日本人は、自分たち が犯した戦争に対する反省から、普通の国が持っている防衛という意識を失っ てしまい、防衛することにも罪悪感を抱くようになった。平和憲法を守ってい れば日本は安全だと考えるのは、あまりにも人類の歴史と現実世界を知らなす ぎる。歴史から学ぶことは、人類は未だに闘争本能に支配され、プーチンのよ うに危険な指導者を選んでしまう国が多いから、自国の安全を確保する防衛体 制が必要だということだ。必要な防衛力は、相手の攻撃力に合わせて変わって くるから、相手とのバランスをとることが肝要となる。これからの防衛は、日 本独自ではなく、民主主義諸国と共同で中国・ロイア・北朝鮮に対抗して防衛 することになる。そのために日本人は、世界に目を向けて、国際情勢を正しく 判断できるように努力する必要がある。戦力のバランスは時間と共に増大する 傾向があるから、軍備の削減と世界平和を目指す運動が必要になる。日本は、 憲法の平和主義を堅持して、被爆国として原爆のない世界を目指す運動を主導 すべきだと筆者は考える。それは、防衛とは矛盾しない。
(以上)

     現代物理学の歴史とその概要

                       20224月 芦沢壮寿

 現代物理学の基礎となる「相対性理論」と「量子論」は、広大な宇宙や超微細な分子・原子・素粒子の領域を対象とする物理学です。これらは、20世紀前半に成立しましたが、均質な三次元空間と一定の速さで進む時間を前提とした「ニュートン力学」とは全く異なり、難解な数式で記述されているために、一般の人々には難解なものでした。筆者は、中学生時代に科学雑誌に載っていた「ボーアの原子論」を読んで以来、現代物理学に興味を持つようになり、学生時代や社会人になってからも本や新聞に載る新しい発見の記事を記録してきました。この冊子は、そうして収集してきた記録と最近読んだ『量子で読み解く生命・宇宙・時間』(吉田伸夫著)をもとにして、現代物理学が形成されてきた歴史を概観し、「相対性理論」と「量子論」の概要をできるだけ分かりやすく説明してみました。

 

現代物理学の基礎を拓いた人々

 現代物理学の基本となる「質量」を精密に研究して「質量保存の法則」を発見したのはフランス人のラファージュであった。ラファージュは徴税官だったが、自宅の実験室に精密な測定のできる実験装置を造り、妻の助けをかりて実験を繰り返し、物質は化学反応で変化しても物質の総質量は反応前と反応後で変わらないことを証明した。それは、ちょうどフランス革命の時代であったので、徴税官であったラファージュは物理学で貢献したにもかかわらず、1794年に断頭台で処刑されてしまった。

 次に現代物理学の基礎となる発見は、ファラディーによる電磁波とマックスウェルによる電磁波の波動方程式であった。マックスウェルの波動方程式から電磁波の速度は一定であり、それが光速と一致することが分かった。

 運動エネルギーが質量と速度の2乗の積に比例することを発見したのは、フランス貴族の令嬢エミリー・デュ・シャトレーであった。エミリーは、女性でありながら23才の若さで高等数学をきわめ、啓蒙思想家のヴォルテールとも恋をした。その当時、近代科学の建設者といわれたニュートンの「運動量保存の法則」によって、運動エネルギーは質量と速度の積に比例すると考えられていた。エミリーは、オランダ人のツプラーデ・サンデの「玉を軟らかい粘土盤に落下させる実験」で「玉が粘土にめり込む深さは速度の2乗に比例する」という実験結果から、運動エネルギーが速度の2乗に比例することを発見し、1740年に物理学教程に発表した。しかし、エミリーの最後は若い兵士と恋に落ち、その恋人の子を宿して、出産の際に死んでしまった。

 

アインシュタインの相対性理論

 アインシュタインは「現代物理学の父」と呼ばれる。アインシュタインは、自分より前の人々の物理学上の研究成果を使って、現代物理学の基礎となる「時間と空間の関係」「エネルギーと質量の関係」についての新理論を確立した。1905年に発表した5つの論文が現代物理学の基礎を築くものであったので、1905年は「現代物理学の最も奇跡的な一年」と言われる。5つの論文の中に「光の本質についての論文」「特殊相対性理論」「エネルギー・質量・光速の関係の論文」が含まれていた。これらの論文はニュートン以来の物理学の基本的な概念を根底から覆すものであった。アインシュタインは「時間と空間は関連し合う」「エネルギーと質量は交互に変換しうる」と言い、新しい物理学を拓いた。

 自己中心的なアインシュタインは、学校や職場などで周辺のことを全く気にせず、ひたすら「神はこの世界をどのように造ったか」という根源的問題に没頭していた。そして、その当時明らかになった「光の速度はどの   アインシュタイン

ように動いている観測者が測っても不変である」という事実を考えているうちに、「光の速度が不変なら、観測者によって時間の進む早さを変えれば良い」という発想に達した。この発想の転換こそが現代物理学を生む画期的な発見となった。アインシュタインの特殊相対性理論は、「空間」「時間」といった科学の基本概念について、それまでの人類が当然と考えていた「ニュートン・カントの空間・時間」の概念を覆して、全く新しい「4次元時空」という概念を創出したのだ。

 相対性理論の「相対」とは、「絶対」の反対の概念であり、「他のものとの相対的な関係によって成り立つ」ことである。相対性理論は、今では宇宙の法則・原理であることが実証されて理解する人が多くなったが、アインシュタインが相対性理論を発表した当初は、あまりにも科学の常識を覆すものであったので、世界中で理解できる人は数人と言われた。

 「光の速さはどのように動いている観測者が測定しようとも常に一定である」という事実はニュートン力学と矛盾した。ニュートン力学では、光に向って動く観測者は光と同じ方向に動く観測者よりも光速が大きく測定されなければならないからだ。

 一方、マックスウェルが発表していた「電磁波の波動方程式」から電磁波の速度が常に一定であり、後に発見された「光は電磁波である」ことから、光の速度は常に一定となる。電磁波には、波長の長い順に、電波・マイクロ波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線などがあるが、全ての電磁波が光速と同じである。そして、電磁波だけが真空の宇宙空間を伝播できる。マックスウェルの理論はニュートン力学と矛盾していたが、アインシュタインはマックスウェルの方が正しいと判断して、相対性理論を創造したのだ。

 アインシュタインは、特殊相対性理論の中である思考実験を行い、観測者の観測状況によってある出来事の「時間」が違って観測されることを発見した。その思考実験とは、走っている電車の車両の前後につけたランプを同時に点灯させ、それを2人の観測者ABが観測することであった。次ページの「アインシュタインの思考実験図」のように、走っている電車の中にいる観測者Aは車両の中央におり、電車の外にいるBは丁度ランプが点灯した時に車両の中央で進行方向と直角になる線上にいるとする。観測者ABは、互いに「自分は静止しているが相手は動いている」と見ている。これを「相対運動」という。

 まず観測者Bの観測を考える。Bは、ランプが点灯した時に前後のランプから等距離にいるので、2つのランプが同時に点灯したと観測する。しかしAは、ランプが点灯して光がAに到達する間に電車が進んでいるので、前方のランプからの距離が短縮され、前後のランプから来る光の速度は同じだから、距離が短縮された分だけ前のランプの方が早く点灯したと観測する、とBには見える。

 次に観測者Aの観測を考える。Aは、車両前後の アインシュタインの思考実験図

ランプから等距離にあるから、2つのランプが同時に点灯したと観測する。しかしBは、ランプが点灯して光がBに到達する間に電車と反対方向に動いているので、後ろのランプからの距離が前のランプからの距離より短くなり、後のランプの方が早く点灯したと観測する、とAには見える。

 この思考実験は、相対運動している観測者ABによって前後のランプの点灯時間が違うという重大な事実を提示している。観測者ABは、互いに「自分は車両前後のランプが同時に点灯したと観察し、相手は動いている方向にあるランプの方が早く点灯した監察する」と見るのだ。

 相対性理論より前の空間・時間の概念は、「空間は3次元の前後方向に均質に限りなく広がり、時間は1次元の過去から未来へ一定の速さで進む」というもので、それは全ての人々が共通に「純粋直感」として認識できるから「自明のことだ」とカントが言った。アインシュタインの思考実験は、カントの空間・時間に対する「純粋直感」の概念が間違っていると指摘しているのだ。

 相対運動をしている観測者に光速度が一定に見えるということは、観測者ごとに時間と空間の尺度が違うということになる。相対運動をしている2人の観測者は互いに相手の「時間が遅れ」「空間が縮み」「質量が大きく」見える。これは実際に起っていることだが、光の速度に比べて遅い速度では気がつかないほど小さい。もし光速に近い速さのロケットに乗って飛んでいる相手を見ると、相手の時間が遅く進み、相手が小さく見え、相手の体重が増えて見える。

 仮にロケットが光の速さで飛んだとすると、時間の進みはゼロになり、ロケットの質量は無限大になって、それ以上加速することが不可能になる。つまり、光を越えるスピードを出すことは不可能なのだ。

 特殊相対性理論でアインシュタインは、全ての運動に通用する絶対的な空間・時間は存在せず、相対運動する2人の観測者だけに通用する相対的な空間・時間だけが存在し、物理法則は両者に対等に成り立つと言った。そして、時間と空間は、時間が遅く進むと空間が縮み、時間が早く進むと空間が伸びるように関係し合い、一体となって「4次元時空」を形成していると説いた。

 次にアインシュタインは、等速直線運動の特殊相対性原理を加速度運動にまで拡張して、1916年に「一般相対性理論」を発表した。一般相対性理論でアインシュタインは、「加速度運動」と「慣性力」(加速度運動から生まれる力)と「重力」は本質的に同じものだとする「等価原理」を提唱した。

 例えば、エレベータの中にいる人はエレベータが停止している時は重力を感じているが、エレベータのロープが切れて自然落下(=加速度運動)し始めると、重力がなくなって加速度運動に変わる。従って、「重力」と「加速度運動」は等価である。

 回転するドーナツ状の宇宙ステーションの中にいる人は遠心力(=回転速度の方向が変化する加速度運動から生まれる慣性力)を感じるが、それは地球上で感じる重力と全く同じだから、「慣性力」と「重力」は等価である。

 また、加速度運動をするロケットに乗っている人が、ロケットの窓から入ってくる光の進路を観測しているとすると、ロケットの速度が加速するにつれて光の進む方向が曲って進んでいるように見える。光は最短コースを進む性質があり、通常は直線上を進むのが最短コースになるが、その光が曲って進むということは「時空が曲っている」ことを意味する。この「時空の曲り」の原因は加速度運動によるものだから、加速度運動を等価な重力と置き換えて、「重力によって時空が曲る」と考えてもよい。こうしてアインシュタインは、「重力場で時空は曲がる」とする「一般相対性理論」を確立した。この一般相対性理論によってアインシュタインは、太陽の近くを通る光が太陽の重力場で曲げられる角度を予言し、それが皆既日食の時に実証されて、一般相対性理論の正しいことが証明された。それ以降、宇宙に関する理論は一般相対性理論で論じられる「相対的宇宙論」となった。

 一般相対性理論による宇宙の時空は、単なる「容れもの」ではなく、宇宙に存在する多数の星の重力によって曲げられた時空である。その中には強烈な重力によって光も出られなくなる「ブラックホール」と呼ばれる「重力の落し穴」がある。ブラックホールは光さえ出られなくなるから、目に見えない暗黒物質となって宇宙に存在し、宇宙空間の重力場を歪めているのだ。

 

アインシュタインの理論から生まれた核エネルギー

 アインシュタインは、エネルギーと物質の関係について「エネルギーと物質は、質量mの物質がmと光速の2乗の積のエネルギーに変換しうる」と説いた。このアインシュタインの理論は、1gの物質が消滅すると20兆カロリーのエネルギーが発生することを意味する。この理論は、後に核エネルギー開発に理論的根拠を与えた。

 1907年、28才のユダヤ人女性リーゼ・マイトナーがドイツの研究所で後に夫となるオットー・ハーンと放射能の共同研究を始めた。自然界で最大のウラン原子(238個の陽子と中性子からなる)に中性子を打ち込んで自然界には存在しない最大の原子を造る実験をすることにした。ところが、1938年、リーゼはナチスのユダヤ人追放から逃れるために夫のハーンと分かれてドイツから脱出しなければならなくなった。ハーンはドイツに残っで実験を継続していると、ウランより大きい原子ではなく、ウランより小さいラジウムとバリウムが出てきたのであった。スウェーデンに逃れたリーゼは、夫からの手紙でそのことを知り、甥のオットー・フリッシュと散歩しながら考えた。そして、実験結果はウラン原子の核分裂であり、アインシュタインの理論に従えば、核分裂で失われた質量は莫大なエネルギーに変換されたと考えるに至った。リーゼはハーンにその発見を手紙で報せ、ハーンは単独でそれを発表した。ハーンはその功績が認められて、1944年に1人でノーベル賞を受賞した。リーゼの甥のオットー・フリッシュはアメリカに渡って、原子爆弾を開発するマンハッタン計画に参加した。そこで造られた原子爆弾が広島と長崎に投下された。

 ウラン原子が核分裂する時に消滅する質量のエネルギーを使う爆弾が原子爆弾であり、それと同じ原理で発生した熱で水を蒸気に変えて発電するのが原子力発電である。

 水素原子が核融合してヘリウム原子になる時に消滅する質量のエネルギーを使う爆弾が水素爆弾である。それと同じ原理で発生した熱を使って発電するのが核融合発電であるが、まだ実現していない。もし核融合発電が実現したとすれば、二酸化炭素を出さないメリットがあり、しかも、災害時に発電が不安定になっても核融合反応が自動的に止まるので、重大事故を起こすリスクが低くなるメリットがある。また、設備の一部が低レベル放射性廃棄物になるものの、高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)は出さない。さらに、核融合発電の原料は、原子核に1個ないし2個の中性子を含む重水素と三重水素(トリチウム)を使い、いずれも海水中から取り出せるので、原料調達のハードルが低い。このように、核融合発電には多くのメリットがあり、今後の地球温暖化対策として有効な方法になり得る。

 核融合発電は、重水素と三重水素が数千度以上になると原子核と電子が分離して自由に飛び回るプラズマ状態となり、1億度以上になると核融合反応が起こってヘリウム原子核となって膨大な熱を発生し、余分になった中性子が飛び出す。その中性子から熱を回収し、水を沸騰させた蒸気でタービンを回して発電する。核融合発電の技術は日米欧などの主要国・地域が参加する国際熱核融合実験炉(ITER)によって既に目途が立っているが、連続して核融合反応を起こした事例がまだない。実用化は早くて2030年代になりそうだ。

 

宇宙生成理論

 現在の宇宙は138億年前に1つの大爆発から生まれた。これを「ビッグバン理論」という。ビッグバン直後の宇宙は一瞬(10のマイナス43乗秒以内)に急膨張した。これを「インフレーション理論」という。インフレーション理論は、1980年代前半に東大教授であった佐藤勝彦らによって提唱された。

 1948年にジョージ・ガモフがビッグバン理論に基づいて「宇宙背景放射」を予言し、1965年にベル研究所のアーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンが実際に宇宙背景放射の存在を発見して、ビッグバン理論の正しいことが証明された。ペンジアスとウィルソンの2人は1978年にノーベル物理学賞を受賞した。

 宇宙背景放射とは、宇宙のあらゆる方向から地球に降り注いでくる微弱な電波である。生まれて間もない宇宙では、高温のために原子核と電子が分離して飛び交うプラズマ状態であったので、光が通らなかった。そのプラズマ状態が水素原子とヘリウム原子にまとってから宇宙に光が通るようになった。こうした宇宙誕生頃に発生した光が背景放射の源であり、長い道のりを進む間にマイクロ波に変化して今地球に降り注いでいるのだ。言わば背景放射は「宇宙の古文書」であり、それを解読することによって宇宙の生成や構造が分かる。

 誕生後の宇宙は、膨張しながら空中に漂うガスが集まって星ができ、星が集まって銀河が生まれた。地球が属する天の川銀河では、50億年前に太陽が生まれ、46億年前に約10個のミニ惑星が衝突によって合体して地球ができた。

 太陽のような光る星の内部では超高温・超高圧の状態にあり、水素がヘリウムになる核融合反応によって水素の0.72%の質量が失われてエネルギーに変わっている。そこでは、核融合によってヘリウムよりさらに重い原子も作り出される。地球にある物質や人間の肉体の骨・筋肉・血液などの物質を構成する炭素・酸素・窒素・カルシウム、珪素、鉄などの原子はどこかの星で核融合によってできたのだ。

 1930年代にスイスのフリッツ・ツビッキーという天文学者が銀河団の全体の質量を光学的測定方法と力学的測定方法の2つの方法で測定したところ、力学的質量が光学的質量の400倍という結果が出た。光学的質量とは、髪座銀河団から地球に届く光を測定して計算した物質の質量だ。一方の力学的質量とは、髪座銀河団が動く速さを測定して計算したエネルギーを質量に換算したものだ。星を動かすエネルギーの元は重力であり、重力は質量から生まれる。力学的質量が光学的質量の400倍ということは、髪座銀河団は物質の質量から生まれる重力エネルギーの400倍ものエネルギーで動いているのだ。このことは、目に見える物質の他に、その399倍もの目に見えない暗黒の物質とエネルギーが存在することを意味する。

 1970年代にアメリカのヴェラ・ルービンがアンドロメダ銀河のガスの回転速度を測定したところ、中心に近いガスの回転速度と遠いガスの回転速度が同じであった。もし、重力エネルギーで回転しているのであれば、中心から遠いほど速い回転速度で動いていなければならないが、それが同じということは、重力エネルギーの他に正体不明のエネルギーが働いていることを意味する。

 以上の観測結果から、銀河には物質の重力よりもはるかに大きな正体不明のエネルギーが働いていることが分かった。それを「暗黒エネルギー」と呼ぶ。

 現在、宇宙は加速的に膨張しているという事実が発見されている。加速的に膨張させているエネルギーは正体不明の暗黒エネルギーだと考えられる。暗黒エネルギーは斥力として働き、重力の引力に打ち勝って宇宙を加速的に膨張させているのだ。

 1989年、米航空宇宙局(NASA)が衛星の観測データを解析して、ビッグバン理論の正しいことを裏付け、さらに、ビッグバンの残照にはムラがあることを発見した。このムラは2001年に打ち上げられたWMAP衛星の観測データによって精密に解析され、宇宙の年齢が138億年であり、宇宙には目に見える物質が4.9%、暗黒物質(ブラックホールの物質)が26.8%、暗黒エネルギーが68.3%であることが分かった。また、目に見える物質の71%が水素原子、27%がヘリウム原子、残りの2%がその他の原子であることが分かった。

 最近、天の川銀河の中心部に大きなブラックホールがあることが発見され、天の川の星の集団がこのブラックホールの周りを回転していることが分かった。また、他の銀河にも真中にブラックホールがあり、生まれたばかりの銀河にもブラックホールがあることが分かり、ブラックホールは銀河系を形成するための原動力であると考えられるようになった。

 ブラックホールは超新星爆発によっても生まれる。大きな星が大爆発すると中心部分が圧縮されてブラックホールになる。地球の大きさでも半径が9mmの球にまで圧縮するとブラックホールになるという。ブラックホールは周りの星を吸い込んで成長していく。吸い込む星がなくなると成長を止めて休眠に入るが、ブラックホールからは「ジェット」と呼ばれるエネルギーが絶えず噴出していて、ブラックホールは徐々に縮小していく。「ジェット」については、後で述べる。

 2003年に「スローン・デジタル・スカイサーベイ」という国際プロジェクト・チームが20万個の銀河の分布を三次元の宇宙図に精密に表したところ、銀河の分布は一様ではなく、泡のような球の表面上に分布していることが分った。これを「宇宙の大構造」と呼ぶ。宇宙の大構造の球面上に群がっている銀河は重力によって互いに引き合っているので、近くにある2つの銀河が合体することがある。事実、太陽系が属する天の川銀河に向かってアンドロメダ銀河が毎秒300kmの速さで近づきつつあり、30億年後には2つの銀河は一緒になり、2つの銀河のブラックホールが1つになって、新しい銀河系が形成されるという。

 

理論物理学と量子力学

 理論物理学とは、自然界に対する科学的概念と数学を手段として物理法則を探求する学問である。理論物理学は湯川秀樹・朝永振一郎を始めとする日本人の学者の得意分野であり、今までに日本人がノーベル物理学賞を10人も受賞している。

 理論物理学の基本は、ケンブリッジ大学のポール・ディラックが提唱した「物理法則は観測者の視点が変わっても自然界の物理法則を表す数式は変わらない」という思想にある。ディラックは、「物理法則を表す数式は美しくなければならない」と言い、「数式の美しさは対称性にある」と言った。「数式の対称性」とは、観測点の座標を座標変換しても物理法則の数式は変わらないということだ。これは、ディラックの自然に対する概念であり、自然界の物理法則は観測者や観測場所とは関係なく、普遍的であるはずだという思想に基づいている。

 量子力学は、分子・原子・原子核・素粒子などの微視的領域を支配する物理法則を研究する学問である。「量子」という言葉は、1900年にプランクが「電磁波のエネルギー量はhν(hはプランク定数)の整数倍になる」ことを発見したことを受けて、アインシュタインが1905年に発表した「光の本質についての論文」の中で、hνのエネルギーの塊としての光を「エネルギー量子」とか「光量子」と呼んだことに始まる。「量子」とは、存在しうる物理量の最小単位であり、自然界の物理量はその整数倍になっているとアインシュタインが指摘した。

 量子力学は、理論物理学によって発展し、物質を構成する分子・原子・原子核・素粒子について「標準理論」と言われる理論に到達した。以下では「標準理論」について、その概要を説明する。

 物質は分子の集合体であり、分子は複数の原子が結合している。原子はプラス電荷を持った原子核とマイナス電荷を持った電子から構成され、原子核はプラス電荷の陽子と電荷ゼロの中性子から構成される。

 陽子・中性子はさらに細分化されて、uクォーク(電子の電荷の3分の2のプラス電荷を持つ)とdクォーク(電子の電荷の3分の1のマイナス電荷を持つ)という素粒子になる。陽子はuudの3つのクォークが結合してプラス電荷を持ち、中性子はuddという3つクォークが結合して電荷はゼロになっている。陽子・中性子などを重粒子(バリオン:3つのクォークの結合)と呼ぶ。湯川秀樹が予言してノーベル賞を受賞した中間子は1つのクォークと1つの反クォーク(クォークと質量は同じだが電気的性質が正反対)が結合している。クォークにはudの他にscbtの6種類がある。クォークによって物質の殆どの質量が構成される。

 クォークより極端に小さい質量の素粒子として電子、ニュートリノなど6種類のレプトンがある。他に、重力や電気的なクーロン力などの力を担う素粒子として光子(電気的なクーロン力を伝える粒子。光子を交換することによってクーロン力が生まれる)、W粒子(原子核からレプトンを放出する「弱い核力」を生む粒子)、Z粒子(重力を伝える粒子)、グルーオン(クォーク間の「強い核力」を生む粒子)の4種類のゲージ粒子と、素粒子に質量を与えるヒッグス粒子がある。

 ヒッグス粒子は、1960年代にワインバーグとピーター・ヒッグスによって、万物に質量を与える素粒子として提唱された。ビッグバンによって宇宙が生まれてすぐにヒッグス粒子が宇宙を埋め尽くしたことから、素粒子がヒッグス粒子に衝突することによって動きにくくなり、質量を持つようになった。質量の本質は「動きにくさ」にあるのだ。なお、ニュートリノについては、2002年に「宇宙ニュートリノの検出」で小柴昌俊がノーベル物理学賞を受賞した。

 6種類のクォークと6種類のレプトンには、質量などの性質は同じだが電気的性質だけが正反対の反粒子がある。

 結局、標準理論の素粒子は、6種類のクォーク、6種類のレプトン、4種類のゲージ粒子、1種類のヒッグス粒子からなる粒子と6種類の反クォーク、6種類の反レプトンからなる反粒子で構成され、全体で29種類の素粒子からなる。

 ディラックは、電磁波の伝搬速度が光速と一致することを示したシュレディンガーの波動方程式には対称性がないと指摘し、シュレディンガーの波動方程式に「並進対称性」(座標軸の平行移動に対する対称性)、「回転対称性」(座標軸の回転に対する対称性)、「ローレンツ対称性」(アインシュタインの特殊相対性理論における、相対運動をしている2つの慣性系の間の座標変換(ローレンツ変換)に対する対称性)の3つの対称性を持たせたディラック方程式を作った。その数式から計算された電子の電磁気力が測定値と10桁まで一致すことが分かり、ディラック方程式が一般に認められるようになった。それは、量子力学において電磁気力(=クーロン力)を表す数式となり、相対論的量子力学の基礎になる数式となった。

 さらに、ディラックは電子の反粒子として陽電子の存在を予言し、実験によって陽電子が存在することが実証された。

 ディラック方程式を解いていくと、電子のエネルギーが無限大でなければならないことになる。この難問を解決したのが朝永振一郎の「組み込み理論」であった。朝永はこの発見によりノーベル賞を受賞した。

 理論物理学の次の目標は、量子力学の「弱い核力」(=W粒子の力)と「強い核力」(=陽子・中性子などのクォークを結びつけるグルーオンの力)を数式化することであった。アメリカのロバート・オッペンハイマーが「ゲージ対称性」を提唱して数式化を試みた。しかし、第2次世界大戦中に米国政府が原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を推進することになり、オッペンハイマーはマンハッタン計画のロス・アラモス研究所長になった。オッペンハイマーは、1943年7月に原子爆弾の開発に成功し、原爆の生みの親となった。

 オッペンハイマーの後、中国人のチェンニン・ヤンが「非可換ゲージ対称性」を提唱して、「弱い核力」と「強い核力」の数式化に成功した。

 標準理論では現在の宇宙が生まれた瞬間を次のように説明している。ビッグバンによって宇宙が生まれた瞬間は、超高温・超高密度で、粒子と反粒子がぶつかり合って放射エネルギーを出す反応と、放射エネルギーから粒子と反粒子が発生する反応があった。宇宙が少し膨張して温度・密度が下ると、粒子と反粒子がぶつかり合って放射エネルギーを出す反応だけになった。

 その頃の宇宙では粒子と反粒子が同数であったが、現在の宇宙には反粒子が存在しない。その理由は、粒子と反粒子の間に「CP対称性の破れ」という現象が自発的に起こって反粒子がなくなり、粒子だけの「粒子宇宙」ができたというのだ。

 理論物理学では、そのことについて次のように説明している。対称性を持った「弱い核力」と「強い核力」の数式を解くと、全ての素粒子の質量がゼロでなければならないことになった。この難問を解決したのが南部陽一郎の「自発的対称性の破れ」という理論であった。南部の理論は「鉛筆の尖った芯を下にして垂直に立てると、鉛筆は自然に倒れる」というアイディアから生まれた。数式上では完璧に鉛筆を垂直に立てる対称性が可能だが、現実には対称性が自然に壊れて、鉛筆は倒れてしまう。つまり、数式上では対称であっても、現実にはその対称性は自然に破れてしまうのだ。

 宇宙が生まれた瞬間は、粒子と反粒子が対称的に同数だったから、粒子と反粒子がぶつかり合うと放射エネルギーを出してなくなってしまうはずである。しかし、「自発的対称性の破れ」の理論によれば、対称的なクォークと反クォークのペアで埋め尽くされた宇宙において、ある1つのペアの対称性が破れると、そこから飛び出したクォークが別のクォークのペアに衝突して対称性を破り、それが連鎖反応になって対称性が次々に破れてしまうというのだ。南部陽一郎は、「CP対称性の破れ」を唱えた小林誠・益川敏英と共に、2008年にノーベル物理学賞を受賞した。

 「自発的対称性の破れ」によって生まれたクォークは、光のように速く進めなくなった。これは、クォークがヒッグス粒子にぶつかって質量を持つようになったことを意味する。つまり、クォークは「自発的対称性の破れ」から質量を持つようになり、その結果、今のような物質宇宙が生まれたというのだ。

 やがて、クォークが結合して陽子・中性子ができ、さらに、陽子と中性子が結合して原子核ができ、電子をとらえて水素原子とヘリウム原子ができた。素粒子が水素原子とヘリウム原子の形で納まることによって宇宙に光が通るようになった。これを「宇宙の晴れ上がり」という。ビッグバンから「宇宙の晴れ上がり」までは、ほんの一瞬(10のマイナス43乗秒以内)の出来事であった。

 2012年に欧州合同原子核研究機構(CERN)の国際チームによってヒッグス粒子が発見され、1970年代に確立された「標準理論」が完全に実証された。

 

量子論の本質と量子効果

 「量子論」は、基本的に「量子力学」と同じであるが、量子力学が素粒子の本質を「粒子」と捉えているのに対して、量子論は「波動」と捉えるという違いがある。

 「量子力学」は、ボーア、ハイゼンベルク、ディラックらが「素粒子は粒子だと仮定した上で、その振る舞いが波動になることがある」という理論を構築した。彼等は、1927年にハイゼンベルクが提唱した「不確定性原理」(1つの物理系において「位置」と「運動量」の両方の物理量を正確に測定することは不可能であり、測定値は確率的にしか分からないという原理)を取り入れることによって、素粒子が「粒子」と「波動」の両方の性質を持つとして、難解な数式を駆使して理論を展開してきた。しかし、その数式が具体的な物として何を意味するかは不可解である。

 一方、「量子論」は、シュレディンガー、ヨルダンらが「素粒子の本質は波動であるが、外部からの作用が働かない場ではその波動が定在波となり、外部からの作用で乱されない限り、定在波で振動する素粒子は粒子のように振る舞う」という理論を構築した。この理論では、素粒子は「波動だが、安定した定在波になると粒子のように振る舞う」というもので理解しやすい。

 量子論は、現在、生命科学で威力を発揮している。19世紀まで生物は通常の物質とは異なる法則に従うという「生気論」が信奉されてきた。しかし、現在は生命活動が量子論に従っていることが確実になった。

 物質に関わるあらゆる物理現象において、量子論によって初めて説明が可能になる物理的な効果を「量子効果」と言う。生命体が精妙な組織を形成して長期にわたって複雑な形態を維持できるのは、まさに量子効果による。量子効果は、僅かに変化を与えても自然に元に戻る性質を持ち、生命体に構造的安定性を与えている。例えば、生命の基本単位となる細胞の細胞膜は、水となじみやすい量子効果を持つ「親水基」と水と反発する量子効果を持つ「疎水基」が結合した脂質分子が親水基を外側にして二重に重なった閉曲面の構造をしている。こうした構造によって、水との親和性を持つ細胞膜が細胞の内と外の水を安定的に分離している。細胞膜が変形しても水を分離する機能が保たれ、もし細胞膜に小さな穴が空いても、自然に脂質分子が移動して穴が塞がれるので、細胞が安定的に維持される構造になっている。

 量子論は、同種類の素粒子が同じ性質を持つ理由について、素粒子の波動が共鳴(共振)して同じパターンの定在波を形成するからだと説明している。定在波とは、波動が共鳴(共振)して固有振動になった振動パターンである。素粒子の波動が定在波になることによって、波動が安定して持続するようになり、同種類の素粒子が同じ特性を持つようになるのだ。量子効果とは、量子の根底に存在する波動の特性が表面化することだと言ってもよい。

 一般的に原子核は、原子の質量の99.9%以上を占めているが、その大きさは原子の大きさの10万分の1ほどに過ぎない。原子の大きさは、電子の波動が存在するスペースの大きさで決まる。負電荷の電子は、陽電荷の原子核に電気的な引力(クーロン力)で引かれて原子核に吸い込まれてしまうはずだが、実際は原子の大きさは一定に保たれている。この謎を解明したのがシュレディンガーであった。

 20世紀初頭に水素原子の電子のエネルギーを測定する実験で、電子のとり得るエネルギーが整数の2乗に反比例する離散的なエネルギーをとることが発見された。最も低い電子エネルギーを−EEのマイナス符号は電子が原子に拘束されているエネルギーであることを表す)とすると、電子の取り得るエネルギーは、−E、−E4、−E9、…となるというのだ。これを説明するためにシュレディンガーは「電子は波動している」と考えた。例えば、長方形のバスタブの中の水を振動させると、バスタブのにぶつかる入射波と縁から跳ね返る反射波が干渉して合成波ができる。この振動を繰り返していると、水面がバスタブの中心線で水が動かなくなるが生じ、バスタブので大きく上下動する共振状態の波になる。これが定在波である。

 両端を固定した弦を振動させた時に生じる定在波は、両端が節になって、中心が大きく揺れる基本振動となり、さらに振動数を上げると、弦の中心が節となって振動数が基本振動の2倍の定在波が生じ、さらに上げると弦の1/32/3の所が節となって振動数が基本振動の3倍の定在波となる。定在波の波動エネルギーは振幅の2乗に比例し、振幅は振動数に反比例するから、弦の基本振動の定在波の波動エネルギーを−Eとすると、振動数が2倍、3倍になるにつれて定在波の波動エネルギーは−E、−E4、−E9、…となり、水素原子の電子のエネルギー特性と一致する。

 弦の定在波は弦の両端が固定されることによって閉じ込められているが、水素原子の電子の波動では原子核と電子が引き合うクーロン力のポテンシャル(位置エネルギー)が電子の波動を閉じ込める働きをする。シュレディンガーの波動方程式にはクーロンポテンシャル関数が組み込まれて、それを解くと水素原子内における電子の波動エネルギーの分布が分かる。相対性理論によると、ある領域の内部に閉じ込められたエネルギーは、外部から見ると質量として観測されるので、水素分子内の電子のエネルギー分布は電子の質量の確率分布でもある。

 水素分子は、2つの原子核が2つの電子を共有することによって、電子エネルギーが−2Eよりさらに低くなって安定する。電子は、エネルギーの低い状態に移ろうとする性質があるために、複数の原子核に共有されることによって低エネルギーに移行するのだ。複数の原子核が電子を共有する原子結合を「共有結合」という。

 塩化ナトリウム(塩)の結晶は、電子が塩素原子側に偏った状態で束縛されることによって、塩素原子がマイナスイオンになり、ナトリウム原子がプラスイオンになって結合する。これを「イオン結合」という。イオン結合は、共有結合に比べて弱いので、塩を水に入れると溶け出す。このように、化学反応において、原子同士がどのように結合するかは、原子核の位置が移動したことによる電子の共鳴条件の変化に対して、電子の新たな定在波の形(パターン)によって決まるのだ。

 アミノ酸が長くつながって鎖状の巨大分子となる蛋白質分子の形状も、蛋白質分子の電子エネルギーが最も低くなる状態で決まる。そのプロセスは、次のようなものだ。水の中で水分子が蛋白分子にぶつかって形が変わると、蛋白質分子の電子エネルギー状態が変化する。エネルギー状態が低くなる場合はその形で安定するが、高くなる場合は元の形に戻る。そうしたことを繰り返して、電子エネルギーが低くなるように蛋白質分子の鎖が折りたたまれていく。そうして生成された蛋白質分子によって複雑に機能する臓器が作られ、生命活動が維持される。これらのことの全てが量子効果によるものだ。つまり、生命活動は量子効果によって成り立っていると言ってもよい。

 ここで、電子が「波動性」と「粒子性」について考えてみる。真空放電で陰極から発する電子ビーム(陰極線という)の電子は、陰極物質の原子核のクーロン力の束縛から抜け出すと、電子専用の狭い「場」に閉じ込められた定在波になって、粒子のように振る舞うようになる。しかし、2つのスリット(実際は2つのイオン原子)を通して陰極線を散乱させる「二重スリット実験」では、散乱した2つの陰極線をスクリーンに照射すると、スクリーン上に明暗の干渉膜ができ、電子が波動していることを示す。つまり、陰極線は「波動」と「粒子」の両方の振る舞いをする。

 こうした電子の振る舞いは次のように解釈できる。電子は、外部から作用を受けない空間において、電子専用の狭い場の中で定在波を形成する。この定在波が特定のエネルギーを持つ共鳴パターンを示す「エネルギー量子」となり、「粒子」のように振る舞うのだ。一方、「二重スリット実験」で2つのイオン原子によって散乱された電子が「波動」の振る舞いをするのは、イオン原子からの作用によって電子の場の定在波が乱され、エネルギー量子が壊されてしまうからだ。ヨルダンは、電子が「エネルギー量子」となるのは電子専用の「場」がそれを可能にしていると考え、「場の量子論」を確立した。

 量子の基本は波であり、波は重ね合わせることができるという量子論の特性を利用したのが「量子コンピュータ」である。従来のコンピュータが01かを表すビットで演算処理するのに対して、量子コンピュータは「量子ビット」と呼ばれる量子素子の波動状態を|0〉と|1〉で表す。こうした量子ビットの波動を「量子論理ゲート」で重ね合わせることによって演算を行う方式を「ゲートマシン」という。ゲートマシンは、デジタル式の量子コンピュータで汎用的な問題が解けるメリットがある。しかし、ゲートマシンは、重ね合わせ状態が不安定なために、量子ビットを重ね合わせた時の正解率が99.84%ほどで、0.16%ほどがエラーとなり、エラーを修正する仕組みが必須である。それが非常に困難なので、実現には今後数十年がかかりそうだ。

 ゲートマシンの論理素子の一例として、SQUID(超伝導量子干渉計)について説明する。SQUIDは、1ミリに満たない超伝導体のリングからなり、リングの対称点となる2カ所にジョセフソン接合(超薄膜の絶縁層を超伝導体の間に挟んだ接合。リングを流れる電流が大きくなって接合部に電圧がかかると、その電圧に比例した周波数の交流電圧が発生する。この現象は、電子対が絶縁膜をトンネル効果(波動する素粒子がある確率でポテンシャルの壁を抜けること)で通り抜けることによって生じる。これを「ジョセフソン効果」という)を施し、リングの中心にリング面に垂直方向の磁場を作る構造になっている。この磁場を調節することによって超伝導体のリングを流れる電流の大きさや方向(右回り/左回り)が調節できる。超電動状態のSQUIDでは、電子がほとんど粒子性を失って波動的に振る舞うようになる。ジョセフソン効果による交流電圧は電流の流れをオン・オフして電子の波動状態に振動を与える働きをするので、定在波が発生して安定して持続するようになる。SQUIDは、磁場の強さを変更することによって、|0〉と|1〉の波動状態を持つ「量子ビット」になり得る。また、磁場の強さを変更した時に、しばらくは変更前の定在波が持続するという特性を使って、2つの波動状態を重ね合わせる「量子論理ゲート」にもなり得る。なお、ジョセフソンは、1973年にエサキダイオードを発明した江崎玲於奈とともにノーベル物理学賞を受賞した。

 もう1つの量子コンピュータとして「アニーリングマシン」がある。これは、エネルギーが最小になるように動く自然現象をまねて、「組み合わせ最適化問題」を解くことに特化したマシンである。例えば、光が屈折率の異なる媒質を最短ルートで進むように、量子効果を使ってシミュレーションすることによって、輸送コストを最小化する輸送問題を解くのである。アニーリングマシンはアナログ式の量子コンピュータであり、既に製品化されて実用段階に入っている。日本では主にアニーリングマシンが開発されている。

 

人類が到達した究極の「超弦理論」

 理論物理学の究極の難問は、「宇宙はどのように始まったか」「宇宙の未来はどうなるか」ということであり、それを数式で解き明かすことである。車椅子の物理学者として知られたイギリスのスティーブン・ホーキングは、ブラックホールに着目し、アインシュタインの一般相対性理論で提示されるブラックホールに量子力学を組み込むと、どんなことが起こるかを理論的に探究した。その結果、量子力学の「トンネル効果」の作用でブラックホールからエネルギーが放出されることを突きとめた。このエネルギーの放出を「ホーキング放射」とか「ジェット」という。ブラックホールは、一般相対性理論では1度吸い込まれると光さえも出られなくなる隔絶された世界であるが、量子力学ではエネルギーを放出するのである。そして、ホーキングは、ブラックホールの底の状態が宇宙の最初の状態と同じであることを解き明かした。そこでブラックホールの底の状態を数式で表すことが理論物理学者の次の目標となった。

 その方法として、量子力学の「電磁気力」「弱い核力」「強い核力」の3つの力の数式と一般相対性理論の「重力」の数式を合わせた数式を作り、それからブラックホールの底の数式を導き出すことにした。「重力」の数式とは「空間の歪み=物の重さ」という式である。以上の4つの数式から、ブラックホールの空間の歪み(D)はブラックホールの底からの距離(r)の3乗に反比例することが導き出された。しかし、rがゼロになるとDは無限大になってしまう。この無限大は、素粒子を点と考え、ブラックホールの底では点と点が衝突している考えるところに問題があった。

 さらにホーキングは、「ジェットと呼ばれるエネルギーを放出するブラックホールの底では熱運動があるはずだが、素粒子が動けないブラックホールの底で、なぜ熱運動ができるのか」という問題を提起した。これらの問題を解決するために、「超弦理論」(Superstring theory)が注目されるようになった。

 「超弦理論}は、1960年代にイタリアの物理学者ガブリエール・ヴェルネツィアーノが「強い核力」の性質をベータ関数で表し、その式を見た南部陽一郎らの科学者が、その式の構造が弦の振動だと気づいたことに始まる。それからジョン・シュワルツらが研究を進めて、従来の標準理論で粒子と考えていた物質の基本的単位を「振動する1次元の弦」と考え、その弦に超対称性を付加して「超弦理論」を築いた。

 弦には「閉じた弦」と「開いた弦」の2種類が考えられるが、「開いた弦」は標準理論のゲージ粒子(力を媒介する光子、W粒子、Z粒子、グルーオン)に対応し、「閉じた弦」は標準理論の重力子(クォーク、レプトンなど質量を持つ粒子)に対応する。そして、弦の振動の形によって特定の量子が形成されると考える。

 この超弦理論は、一般相対性理論の重力と標準理論の素粒子に働く電磁気力・強い核力・弱い核力の3つの力を包含しているこいとが分かり、「万物の理論」となり得るとして注目されるようになった。しかも超弦理論は、長さを持つ弦が基本体であるので、ブラックホールの底でも空間の歪みが無限大になることはない。

 超弦理論には5つのバージョンがあり、その5つの超弦理論に整合性を持たせるためには10次元空間が必要になる。我々が認識できる次元数は、空間の3次元に時間の1次元を加えた4次元である。残りの6次元は量子レベルのコンパクト化した空間における次元である。例えば、綱渡りをする人にとって動けるのは1次元であるが、綱の表面を動き回れる虫にとっては、綱は2次元になる。このように、コンパクト化することによって次元数の増加が可能になる。超弦理論は、極微細な世界には6次元の空間(カラビアン多様体と呼ばれる)が存在すると言っているのだ。現在、理論物理学者の殆どがコンパクト空間における異次元の存在を信じている。

 ブラックホールの底で熱が発生するメカニズムを問うたホーキングの問題提起に対して、エドワード・ウィッテンが超弦理論を発展させて「M理論」を提唱した。M理論は超弦理論の5つのバージョンを統合する理論として生まれ、基本的物体を「2次元の膜」とした。極微細な6次元の空間の中を膜が動き回ることによって熱が生まれるというのである。それはブラックホールの底でも可能である。

 理論物理学は、科学者の英知によって超弦理論やM理論にまで発展し、目に見える物質と暗黒物質のブラックホールを解明する手段にまで到達した。しかし、それは宇宙の317%のエネルギーの解明であって、宇宙の683%を占める暗黒エネルギーいついての解明は今後の課題として残っている。そこは、まさに深遠なる神の領域であり、人類の英知では到達し得ない所かも知れない。(以上)

日本のデジタル化の問題点

 20223月 芦沢壮寿

 日本は、デジタル化が遅れているが、今後の世界はデジタル経済が主流となり、デジタル化を止めることはできない。そこで筆者は、最近読んだ国際ジャーナリストの著書『デジタル・ファシズム−日本の資産と主権が消える』をもとにして「日本のデジタル化の問題点」について考えてみることにする。「デジタル・ファシズム」とは、米中の大手テック企業が世界中の国々を侵略し、独占的なプラットフォーマーとして、各国政府・自治体の公共サービスや通貨、教育などの公共部門のデジタル化を制圧しようとしていることだ。この「デジタル・ファシズム」に呑み込まれないように「日本のデジタル化」を進めることが肝要となる。

 

1.米中巨大テック企業が日本のデジタル化を狙っている

・データセキュリティに甘い日本政府

 20204月、カナダのトロント大学の研究所が北米で複数のテストを実施したところ、オンライン会議ツールZoomでの暗号化キーが北京のサーバーを経由していたことを公表した。同研究所は、利用目的が秘密の必要が無い会議は別として、スパイの懸念や機密性の高い情報を扱う会議ではZoomの使用をやめた方がよいと警告した。中国の「国家情報法」では、「いかなる組織も人民も政府が要求する全てのデータを提出しなければならない」と規定しているから、Zoomを使うと、会議の内容やユーザー情報が中国当局に渡るリスクがあるのだ。これを受けて台湾行政院は、政府及び特定非政府機関に対しZoomを使用しないように勧告した。米国では、上院、NASAやグーグル、マイクロソフトなどの企業が会議でのZoomの利用を禁止した。しかし、日本政府は、「第三者に盗聴される可能性がある」と注意したものの、国会審議の質問の通知にZoom利用を解禁するなど、機密保持の甘さを露呈している。

 中国企業の動画共有アプリTikTokは、「ユーザー・コンテンツから、顔写真、声紋などの生体識別情報を収集した」ことから、各国の警戒対象になっている。台湾、インドではTikTokサービスを停止させ、米国のトランプ政権はTikTok利用禁止令を出した。これに対しTikTokは、ユーザーとの規約を改めて生体識別情報の収集を可能にし、訴えられないようにした。生体識別情報は「なりすまし」に使われる危険性があり、各国政府はTikTokに対する警戒をさらに強めている。しかし、バイデン政権がTikTok利用禁止令を撤回すると、日本でも菅前政権がTikTokを受け入れることにした。この裏には、親中派の二階前自民党幹事長の働きかけがあった。日本の政治家は「データセキュリティ」に対する認識が驚くほど低いのだ。

 

・日本政府の「スーパーシティ構想」について

 「スーパーシティ」とは、電気・ガス・水道・交通・エネルギーなどのインフラ、医療、教育、行政などの公共機能、企業・農業などのビジネス機能などを総合的にデジタル化した街のことだ。日本の少子高齢化社会に対処するための「地方創生」には、このスーパーシティが重要な役割をはたす。

 日本におけるスーパーシティのモデルケースは、東日本大震災から5ヶ月後の20118月に、世界最大の米系コンサルティング会社アクセンチュアの日本法人が会津若松市に地域創生のイノベーションセンターを設立し、復興支援の名の下に「会津地域スマートシティ推進協議会」(注:「スマートシティ」は「スーパーシティ」と同じ概念)を立ち上げたことに始まる。アクセンチュアは、20151月に会津若松市が「デジタル地方創生モデル都市」として認定されると、三菱UFJリサーチ&コンサルティングと手を組み、地域の住民・企業・観光客にサービスを提供するための「自治体デジタル・プラットフォーム」を全国の自治体に提案した。

 2018年に総務省が「自治体戦略2040構想」を発表した。これは、2040年までに想定される日本の総人口の減少に対処するために、公共サービスのデジタル化・AI(人工知能)化を民間企業に委託し、今の半分の公務員で回せるように自治体行政を改革するものだ。この構想では、民間企業が公共サービスをデジタル化・AI化するアプリを作成し、自治体の少数の公務員がそのアプリの管理者となって、公共サービスを維持していこうというのだ。

 さらにこの構想では、地域の中枢都市とその周りの自治体をまとめて「圏域」という自治体に一体化し、それに入れない小さな自治体は都道府県の傘下にまとめて、都道府県が運営することにしている。これは、地方の過疎化に対処するもので、地方自治の中枢となる地方議会を無視して、国が全国の都道府県や圏域の公共サービスのデジタル化・AI化を統一し、まとめて大手テック企業に委託するという構想だ。しかし、データが最大の産業資源となるデジタル社会において、地域住民の個人情報データを喉から手が出るほど欲しがっている大手テック企業に管理を任せて良いのか、過疎化対策とは言え、民主主義の根幹となる地方自治をろにして良いのかという疑念がわく。

 この公共サービスの民営化によって公務員を減らす動きは、かつての小泉内閣が推進した民営化路線と同じだ。郵便局が民営化され、公共事業のアウトソーシングが増え、国立大学が独立法人化し、非正規労働者が急増した。その結果、国家公務員は7割減となり、日本は公務員数が先進国で飛び抜けて少なくなった。しかし、公共部門を縮小し過ぎて台風被害などの災害時の復旧作業が担いきれなくなり、半数以下になった保健所が今回のコロナ禍では支障をきたした。また、非正規労働者の増加が格差を増大させ、社会不安の源になっている。こうした民営化を担当した竹中平蔵がスーパーシティの「有識者会議」座長を務めていることが気がかりだ。

 20194月、アクセンチュアは、マイクロソフト、フィリプスジャパン、金融のTIS、ドイツ系IT企業のSAPなどの企業を結集して、会津若松市に「スマートシティAiCT」を立ち上げた。この企業集団は、会津若松市でスーパーシティを標準化して日本中に広げることを目指している。

 スーパーシティ分野で世界のトップを走る中国は、最先端のデジタル技術を駆使して、無人銀行、無人ス−パー、無人ホテルなどを次々に実現し、2010年からスーパーシティ計画を武漢市、深?市、杭州市で始め、2017年から河北省の雄安新区など500を超える地域でスーパーシティの建設を進めている。これに目をつけた片山地方創生担当大臣(当時)が20198月に中国政府と「今後スーパーシティ構想に関する情報共有などの協力を強化していく」という覚え書きを交わした。

 こうした状況を受けて、20205月に「改正国家戦略特区法(スーパーシティ法)」が成立した。この法律は、「国家戦略特区」の「一次指定特区」として、東京圏(東京都、神奈川県、千葉市、成田市)、関西圏(大阪府、京都府、兵庫県)、沖縄県、福岡市、新潟市、市を指定し、「二次指定特区」として、愛知県、仙台市、仙北市、「三次指定特区」として広島県、今治市、北九州市を指定した。この特区内では、通常の法規制に縛られずに、ビジネス活動ができるようになる。例えば、東京や大阪の医療特区では、医師法で禁じられている「医師以外の病院経営」「営利を目的とした医療」「病院株式会社」「外国人医師による医療」などが可能になる。また、「営利を目的とした株式会社による学校経営」「外国人が経営し教える学校」も可能になる。しかし、国家戦略特区とは言え、公共性の強い「医療」や「教育」を利益の対象とすることは、「公共サービス」という概念を失う危険性があり問題だ。

 「公共性」が失われた自治体の悲惨な例がある。税金が低所得層や障害者、高齢者福祉に使われることを嫌った富裕層が独立して作った「サンディ・スプリング市」(米国)だ。その市は、行政サービスを全て民営化して「完全民間経営自治体」として法人化され、市長、市議、市の職員の全てが民間企業から派遣され、警察、消防などの全ての公共サービスが民間企業の「効率重視運営」の下で行われた。いわば「富裕層の富裕層による富裕層のための自治体」なのだ。しかし、自分が事故などで働けなくなると、社会福祉などの公共サービスが得られなくなり、市から出て行くしかない。一方、富裕層が居なくなった周辺地域は、財政難に陥り、警察署がなくなって犯罪が多発し、公共サービスが崩壊してしまった。

 もう一つの例として、「福祉」のデジタル化をした米国の例を示す。1974年にルイジアナ州が全米で初めて、福祉システムのデジタル化に踏み切った。失業者、障害者、シングルマザー、高齢者などの多くの困窮者が受けている福祉手当に関する詳細な個人情報をデータベース化したのだ。その目的は、「本来受給資格のない申請者をあぶり出す」ことに重点が置かれた。申請データに少しでも問題があるか、申請とは異なる行動をすると、問答無用で福祉手当の給付が止められた。デジタル化で上がった救済の壁と常に監視されているストレスから、申請自体をやめる人が増えた。その結果、困窮者の半分が受給していた福祉手当が、10年後には10人に1人にまで減ってしまい、実際に支援を必要とする人々に適切な福祉サービスが行き渡らなくなった。デジタル化は、困窮者の救済のためではなく、福祉費用を削減するために使われたのだ。このように、福祉・教育・医療など、政府や自治体による公共サービスのデジタル化では、費用の削減だけを狙うと、本来の公共サービスが台無しになる危険性がある。また、デジタル技術ではカバーしきれなくて、福祉相談員と困窮者が話し合うことが必要な領域もあるのだ。

 

・日本のデジタル庁の問題

 菅前首相が創設した「デジタル庁」は、オンラインの「教育」「医療」、全てが5Gで結ばれる「スーパーシティ建設」、スマホに直接振り込まれる「キャッシュレス給与」、デジタル技術による「少子高齢化対策」「地方の過疎化対策」「貧富の格差対策」など、今後の日本のデジタル社会の全てを包括している。しかし、デジタル庁は、権力が集中し過ぎていて、今世紀最大の巨大権力と利権の館になる恐れがあると言われる。

 20215月、63本の法案からなる「デジタル庁関連法案」が可決された。日本のデジタル庁には3つの特徴がある。第1の特徴は、前述したように権限がとてつもなく大きいことだ。第2の特徴は、巨額の予算(1兆円+年間予算 8千億円)がつくことだ。全国自治体のシステム統合、国税管理、財務省の予算編成、マイナンバーによる全国民情報の一元管理、AIによる監視システムの整備、デジタル教科書の作成、マイナンバーカードと健康保険証の紐づけ、スーパーシティなどのプロジェクトなどに巨額の予算がつく。第3の特徴は、民間企業のIT人材を企業とデジタル庁の間で、出向したり/企業に戻ったりできる「回転ドア」を設けることだ。デジタル庁では、職員600人のうち、200人の管理職・技術職を民間企業から迎え入れる。この方式は、公務員レベルの給与で高給のIT人材を使うことができる一方で、企業から出向した人が政策決定の場に入り、自社に都合の良い政策に誘導した後、再び会社に戻ってインサイダー情報を使って事業を展開し、国家の税金を使って利益を上げるようになる。これは、IT人材費用の削減と税金の無駄遣いの間の「合法的利益相反」の問題だ。米国では、軍事産業、製薬業界、食品、エネルギー、金融業界、教育ビジネスなどにおいて「回転ドア」方式を採用しているために、国と結びついた企業に巨額の税金が流れて巨大な利益を上げている。

 日本の政府機能のデジタル化の最初として、各省庁や地方自治体の間でバラバラになっているデジタル情報を一つにまとめる「政府共通プラットフォーム」を作ることになった。そのベンダーとして、米国のアマゾン・ウェブ・サービス(AWS)が選ばれた。アマゾンは、CIA(米国中央情報局)やNSA(米国安全保障局)との関係が深い企業だ。

 米国政府は、2018年に制定した「クラウド法」で、アマゾンなど米国内に本拠地を持つ企業に対して、国外に保存されているデータでも令状なしに開示要求ができるようになった。

 20201月に発効した「日米デジタル貿易協定」では、米系IT企業が日本でデジタル事業をする際に、情報を管理するデータ設備(データサーバー)を日本に置くように要求できなくなった。これは、デジタル事業を営む外国企業が日本人のデータを管理するデータサーバーを外国に置けるようになり、日本のデジタル主権を外国に明け渡すことを意味する。少なくとも日本国民の行政上のデータは、日本国内にデータサーバーを置くべきだ。

 同協定には、他にも「デジタル製品への関税禁止」「個人情報などのデータは国境を越えて移動させることが可能」「ソースコードやアルゴリズムなどの開示要求の禁止」「SNSのサービス提供者が損害賠償責任から免除される」などが盛り込まれている。この「日米デジタル貿易協定」は、米系大手IT企業のGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)のロビー活動のもとにトランプ政権が結んだもので、日本のデジタル市場が米国に全面的に開放され、日本人の個人情報資産が米国のGAFAに際限なく売り渡され、日本のデータが米国に設置されているデータ設備に蓄積され、CIANSAにさらされることを意味する。これでは、日本のデジタル主権と市場がGAFAに握られ、日本の心臓部が米国に握られているようなものだ。デジタル世界では日本は完全に米国の属国になってしまう。デジタル庁が国民の知らない所でこんなに恐ろしいことを進めていたとは、驚きであり大問題だ。

 EUは、20185月に個人情報の保護を基本的人権とみなす「一般データ保護規制(GDPR)」を施行した。これによって、今後、個人情報の転送や利用には、厳しい規制がかけられることになった。一方、ユーザー側は、企業が集めた自分の個人データにアクセスする権利と不正確な情報を修正したり削除したりする権利を手に入れた。違反した企業には前年度売り上げの4%が罰金として科され、自国企業にこのルールを適用していない国は、EU加盟国に欧州3カ国を加えた31カ国との自由な貿易ができなくなる。それまで無法地帯だったネット空間に、強い法的拘束力でプライバシー保護を導入するこの法律は、世界中の企業のみならず、これまで独裁者のように振る舞い、世界中から吸い上げた個人データで荒稼ぎしてきたGAFAにとって痛恨の一撃となった。

 これを機に、プライバシー保護の潮目が変わった。ワシントンDCとカリフォルニア州で同様の規制法が導入された。ドイツでは違法コンテンツを24時間以内に削除しない場合、プラットフォーム側に罰金を科す。データを収集した企業側でなく、データを提供した個人に所有権を与える「デジタル権利法」を制定する動きも出てきた。

 中国は、国内の14億人の巨大市場でGAFAに対抗してデジタル化を進め、大手IT企業としてBATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)が育ち、GAFAを国内から排除することに成功した。そして、デジタル監視網で個人の行動を追跡し、その監視システムを強権主義国家に輸出している。また、「中国内で発生したデータを国外に持ち出すことを禁止」し、その豊富なデータを使ってAI技術を発展させ、AIの特許では米国を凌ぐほどになった。

 日中韓とASEANの間で締結された貿易協定RCEPでは、「サーバーは必ず自国内に設置しなければならない」という条項が中国の執拗な要求によって削除されてしまった。今後、中国企業が日本国内でデジタル事業に参加する際、サーバーが北京に置かれても文句が言えなくなった。

 

・世界のデジタル化の現状

 行政サービスを全てデジタル化したエストニアについて考えてみる。バルト三国の一つのエストニアは、人口130万人の小さな国だが、デジタル政府のトップランナーとして世界から注目されている。行政サービスは365日何時でもオンラインで即座に対応する。確定申告は、アプリ画面に現れる所得額と控除額を確認し、承認ボタンを押すだけだ。医療や教育もほとんどがオンラインで行っている。婚姻、離婚、不動産売買を除いて、何もかもデジタルで行われ、紙の書類がいらない。

 弱点はサイバー攻撃でサーバーがダウンすることだ。2007年にロシア国内からのサイバー攻撃で行政機能が何時間も麻痺する事件が発生した。これに懲りた政府は、データセキュリティを国の最優先課題に掲げ、NATOと共同でサイバーセキュリティ本部を立ち上げた。現在、エストニアは全てのデジタル情報を保管する多数のデータ大使館を外国に置いている。

 エストニアでは、全国民にデジタルIDをつけ、個人情報を一カ所に集めている。これらのデータの権利は本人に帰属し、いつでも自分のデータを削減する権利も持っている。個人情報を政府や企業が使う時には、必ずログインし、それが職務上必要だと承認された場合にのみアクセスが許可される。ログインするたびに残る履歴は「国の公共サービスの記録」として公的なブロックチェーンに記録される。国民は、自分の情報に何時、誰がどんな目的でアクセスしたかを、ブロックチェーンの記録によって自由に確認できる。こうすることによって透明性が維持され、国民はデジタル政府を信頼するようになった。このデジタル政府では、国が個人情報を要求するのは一度だけで、公的データは中央政府、地方自治体と企業などの間でオンラインで共有される。

 今回のコロナ禍で台湾は、ハッカーが政府に協力し、各薬局のマスク在庫状況をまとめてデジタル地図に公開したことで有名になった。台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンは、「社会のデジタル化をうまく進めれば、民主主義を深めることができる」と主張する。但し、「権力を集中させないこと」という条件をつけている。台湾では、政府が提出した法案を討論するプラットフォーム「vTaiwan」と、市民が行政に対して日常の問題解決のための提案をする「Join」を設置している。台湾国民であれば誰でも自由に意見を書き込むことができ、国民からの提案の賛同者が2ヶ月で5千人を超えると、政府はそれを正式な申請として受け付けなければならないというルールを作った。これは、国民の声を政治に生かす直接民主主義に通じるデジタル化だ。

 世界のあらゆるものをデジタル化する「第4次産業革命」によって、今の資本主義社会をリセットする「グレート・リセット」を呼びかけているエリート集団がある。その集団の主導者は世界経済フォーラム(ダボス会議)の創設者で会長を務めるクラウス・シュワブだ。それを、国連や世界最大のコンサルティング企業アクセンチュア、マイクロソフトのビルゲイツらが応援している。彼等は、デジタルIDをつけたマイクロICチップを全ての人の皮下に埋め込む国際認証プロジェクト「ID2020」を推進している。

 世界最小のマイクロICチップは、2007年に日立製作所が開発した0.05ミリ四方の非接触型ICチップだ。この細かいマイクロICチップは注射器で簡単に体内に埋め込むことができ、特殊な電磁波を当てると中の情報を読み取ることができる。マイクロICチップに記録されたデジタルIDは医療・交通や買い物などで自動的個人認証として使われるようになり、健康保険証・免許証・身分証明書・クレジットカードなどを持ち歩く必要がなくなる。全ての個人情報をデジタルIDで紐づけて管理し、高速の5Gネットワークで全てのものがつながることによって、全ての社会システムが根底から変わることになる。

 国連では、増加し続ける難民や途上国での貧困層を救済する目的で、難民や貧困層にデジタルIDをつけ、一括して管理する「ID2020計画」を進めている。

 EUの裁判所は、フランスの女性がグーグルに「過去のヌード写真を削除して」という訴えに対し、「ネット上の個人情報は、本人に消去する権利がある」と裁定した。これは「忘れられる権利」として有名になったが、「個々の国の規制に従うべきだ」というグーグル側の主張が認められ、適用はEU域内に限定された。大手テック企業から国民の人権を守るのは、各国政府の責任なのだ。

 

 以上の考察を元に、日本政府や自治体の公共サービスのデジタル化についての筆者の見解をまとめてみる。日本人は、デジタル化が苦手で、社会がデジタル化することを嫌っているように見える。その原因は、デジタル化と日本人の「和の文化」との相性が悪いことにありそうだ。しかし、今後の日本の少子高齢化による労働人口の減少と高齢者介護の増加に対処するには、デジタル化が絶対に必要であり、うまくやれば有力な方法となる。

 ところが、日本政府やデジタル庁は、あまりにもデジタル化やデジタル情報のセキュリティについての認識に欠けることが心配だ。それに、国民にデジタル化についてはっきり説明していないことも問題だ。

 日本政府はマイナンバーの目的を国民にはっきり説明せず、国民もマイナンバー制度を警戒しているために、マイナンバーが普及していない。しかし、今後のデジタル社会では個人のデジタルIDとなるマイナンバーは必要不可欠なのだ。デジタル社会で肝腎なことは、公共データを「何の目的で使うか」、公共データの中の「個人情報のプライバシーを如何に守るか」の2点だ。第1の「何の目的で使うか」は、金儲けのために使うことを禁止し、「公共の福祉」と「コミュニティの住民の相互扶助」のために使うことを明確にして、国民が了解することだ。第2の「個人情報のプライバシーを如何に守るか」については、日本でもEUの「一般データ保護規制」に準拠した法律を制定すべきだ。また、個人情報を使った履歴を個人に分かるようにするには、エストニアの「職務上必要な個人情報を使う時には、ログインして承認された場合にのみアクセスが許可され、使用履歴はブロックチェーンに記録され、国民が自分のブロックチェーンの記録で確認できる」という方法が有効だろう。

 政府や自治体の公共サービスのデジタル化に当たって肝腎なことは、日本人の「和の文化」に合うように、「公共」の相互扶助の精神を生かすようにデジタル化することだ。そのための注意点・問題点を列挙する。 @地域のコミュニティにおける相互扶助の精神を育むことを目指して、公共サービスのデジタル化・AI化(「デジタルAIシステム」と呼ぶ)を進めること。デジタルAIシステムは省力化だけを目的にしてはいけない。 A地方自治体の公共サービスのデジタルAIシステムの共通部分を全国で統一するにしても、地方自治を尊重して、地方ごとに特色のある行政ができるようにする必要がある。 Bコンピューター・リテラシーの低い人でもデジタルAIシステムを使えるようにする対策が重要になる。 C自治体職員は、デジタルAIシステムの管理者であり、システムと市民の間の仲介者であり、市民に寄り添って要望を聞いてシステムを改善する役割を担う。自治体職員を減らすことを目指してはいけない。 CデジタルAIシステムではブラックボックスのAIが個人に対するサービスを裁定することになるが、裁定内容を個人に分かりやすくする対策が重要になる。 D全国の自治体のデジタルAIシステムをサイバー攻撃から完全に守ることは不可能であり、全国民のデータのプライバシー保護とセキュリティを完全に守ることは不可能に近いが、そうした場合に備えて、データのバックアップとすみやかにシステムを復旧させる対策を完全にすることが重要だ。

 

2.キャッシュレス決済とデジタル通貨の問題

・キャッシュレス決済に伴うプライバシーと信用スコアの問題

 世界で最も金融デジタル化が進んでいるスウェーデンでは、2018年の国内決済の99.9%がキャッシュレスとなり、人口1000万人のうち約4000人が手の甲に埋め込んだマイクロICチップで決済している。しかし、スウェーデンでも、今、世論調査で7割近くの国民が「現金」という選択肢を残したいと言っている。その理由は、サイバー攻撃などでデジタル・システムがダウンした時に自分を守るががなくなるからだ。

 キャッシュレス化が遅れている日本は、2017年のキャッシュレス決済比率が21.4%だ。ちなみに、韓国が97.7%、中国が70.2%、米国が45.5%でドイツは16.6%で日本より低い。ドイツが低い理由は、ナチス政権の全体主義の監視体制の下でプライバシーを失った苦い経験があるからだ。現金決済は匿名で決済できるが、クレジットカード決済やスマホ決済などのキャッシュレス決済では決済情報に個人名が含まれるから、プライバシーの問題が生じるのだ。韓国は、外資金融機関の圧力を受けてキャッシュレス貸し出しの上限規制を撤廃したことから、一般家庭の手取り収入に占める負債比率が185.8%になった(日本は105.6%)。中国では、偽札が多くて貨幣への信頼度が低いことから、生活上の殆どの買い物で、中国IT大手のアリババのアリペイかテンセントのWeChatPayのどちらかのスマホ決済を使っている。

 アリババとテンセントは、日常的にスマホから集めた個人情報にスマホ決済情報と銀行へのローン返済履歴を合体し、学歴、勤務先、資産、人脈、行動の5項目についてAIで点数化して「信用スコア」を計算している。信用スコアが低くなって自治体が管理するブラックリストに載ると、あらゆる面で経済活動ができなくなり、高スコアになると多くのメリットが与えられる。中国政府は信用スコア制度を全国展開し、信用スコアを使って監視社会を築いた。

 米国でも「信用スコア」を使った審査が合法ビジネスとして認められている。GAFAなどの巨大プラットフォーマーが吸い上げた個人情報を商品化した「SaaSSurveillance as a Service)」が信用スコアとして使われている。

 日本のキャッシュレス化が進まなかった原因は、独占的なNTTデータの決済手数料と全銀システムの送金手数料が高すぎることにある。米国系のカード会社(VISAやマスター)のクレジットカードを使うと、クレジットカード決済手数料の3%が米国のカード会社に流れる。小売店はキャッシュレス決済の手数料で売上高が減るのを嫌っているのだ。そこに風穴を開けたのが、ソフトバンクとヤフーが設立したPayPayと提携したSBIホールディングスの北尾吉孝社長(中国投資協会戦略投資高級顧問)と竹中平蔵社外取締役だ。20206月に成立した「改正資金決済法」によって40年近く続いたNTTデータの高い決済手数料が下がり、同年7月に閣議決定した「成長戦略実行計画案」によって、PayPayのようなノンバンク決済業者が全国銀行協会に加入し、全銀システムで送金ができるようになった。

 日本政府は決済の80%をキャッシュレスにしようとしている。その手段として、20207月に「成長戦略フォローアップ」を閣議決定し、労働基準法の賃金支払いの規制を緩和して、PayPay・楽天ペイ・LINEペイなどの資金移動業者の本人口座に「デジタル給与」として入金できるようにした。会社側のメリットとして、給与の振り込み手数料が節約できる。しかし、預金者の給与口座を持っていた地方銀行にとっては痛手となる。

 

・米中の熾烈なデジタル通貨戦争

 2019年にフェイスブックが「銀行口座を持っていない世界中の人々が安くて速く手軽に送金できるようにする」と言って、仮想通貨「リブラ」の構想を発表した。これに、各国の中央銀行と金融界が通貨発行権と金融利益をリブラに奪われるとして反対し、リブラ構想は潰されてしまった。それから各国が「中央銀行のデジタル通貨(CBDC)」の発行を真剣に検討し始めた。

 現在、大半の国が貿易決済で使っている米ドルは、基軸通貨として強力な政治力を持ち、米国は圧倒的に有利な立場にある。ドルを経由する国際取引には、常に米国のFRBや当局の監視の目が光り、米国の意にそぐわない国に対して、経済制裁の名の下に容赦なくドル決済を止めて、貿易を停止できるからだ。

 2014年からデジタル人民元の構想を進めてきた中国は、CBDCでは世界の先頭を走っている。中国は、国際貿易や為替取引に使われるドル決済の「国際銀行間通貨協会(SWIFT)」の代わりに、「人民元クロスボーダー決済システム(CIPS)」をつくった。現在、全ての国際送金はSWIFTを通して一度ドルで決済する仕組みになっているので、資金の流れや取引情報がFRBSWIFTに筒抜けになっている。そこで中国は、新たな決済システムとして人民元決済のCIPSをつくり、米国の経済制裁に苦しんできた国々をCIPSに呼び込み、人民元を基軸通貨とする経済圏を確立しようとしている。現在、中国の経済的影響の強いアフリカ諸国やマレーシア、トルコなどのイスラム諸国、それにロシアなど89カ国・地域の約1000の銀行がCIPSに参加している。今年から始まるRCEP(日中韓とASEANの経済連携協定)を通してCIPSの利用銀行が増加していき、人民元の基軸通貨化が進む可能性が高い。中国は、国際金融のプラットフォーマーとなり、CIPSで集めたデジタルデータが中国の新たな資産となる。三菱UFJ銀行、みずほ銀行の中国法人を始めCIPSに参加する銀行数が最も多い日本で人民元決済が増加することは確実だ。これは、日本にとっても重大問題となる。RCEP協定では、中国のIT企業が日本でIT事業を行う場合にサーバーを日本に置くことを要求できない。従って、中国のIT企業を使えば日本人の個人情報が中国に流出することになる。

 EUの中央銀行が「デジタル・ユーロ」で重要となる要望のパブリックコメントを募集したところ、「デジタルプライバシーの保護」が最高の41%を占め、次の「安全性」の17%より突出して高かった。民主主義国の日米欧のデジタル通貨に対する国民の要望は、「デジタルプライバシーが確実に保護される」ことなのだ。今後、デジタルプライバシーをめぐって、民主主義国と中国などの強権主義国の対立が激化するだろう。

 20141月の世界経済フォーラム(ダボス会議)でIMF(国際通貨基金)のラガルド専務理事が、基軸通貨発行国の米国の財政赤字が膨張し続け、最終的に財政破綻が避けられないと指摘し、経済成長を維持するには「国際通貨のリセット」が避けられないと述べた。さらに、2019年の世界中央銀行国際会議の場でイングランド銀行総裁マーク・カーニーが「現在の米ドル単一通貨に依存する国際通貨システムを改め、複数国の通貨で構成される新しい国際通貨が必要だ」と発言した。これを受けて、20201月のダボス会議では、日本・カナダ・スイス・英国・EU・スウェーデンの6カ国の中央銀行と国際決済銀行が共同で「国際デジタル通貨」の研究を行う新組織の設立と、各国の中央銀行がデジタル通貨に移行するための政策立案骨子を発表した。これは、ダボス会議のシュワブ会長が主導する「グレート・リセット」に沿うものだ。今後、国際金融の新たな基軸通貨として、複数国のデジタル通貨で構成される「グローバル統一デジタル通貨」を目指して行くことになりそうだ。

 

 以上の考察を元に、キャッシュレス化とデジタル通貨について、筆者の見解をまとめてみる。日本の紙幣は偽札がなくて信頼でき、頻繁に自然災害が発生する日本では災害時でも使える紙幣をなくすわけにはいかない。しかし、生活や経済の利便性を考えると、キャッシュレス決済をもっと増やす必要があろう。その時に、キャッシュレス決済データが、富裕層を優遇し貧困層を不利にする「信用スコア」に使われることが問題だ。「公共の相互扶助の精神を生かすようにデジタル化する」という方針からすれば、キャッシュレス決済データは「貧困層の救済」のために使うべきで、データの使い方次第でデジタル社会は良くも悪くもなる。キャッシュレス決済でもクレジット・カードは手数料が米国カード会社に流れるので止めた方が良い。スマホを持たない高齢者のキャッシュレス決済には、皮下に埋め込んだマイクロICチップを使い、それを一人暮らしや認知症の老人に対する見守りにも使うのが良かろう。

 日本政府が「日米デジタル貿易協定」と「RCEP協定」で、米中のIT企業が日本国内でIT事業を行う場合に、サーバーを日本国内に置かなくても良いことを受け入れたことは大失敗であった。しかし、受け入れてしまった以上、米中のIT企業が収集した日本人データのプライバシーは保護されないと考えなければならない。もし、データのプライバシー保護を完全にしたいなら、米中のIT企業に任せないことだ。その点で、次章で述べる「日本の教育ビジネス」は生徒のプライバシー保護が大事になるが、日本政府は米国IT企業のグーグルに任せようとしている。

 

3.教育のデジタル化の問題

・日本の教育システムがグーグルの手に握られる

 201912月、日本政府は、生徒一人一台のタブレット支給、クラウドの活用、高速大容量インターネット通信環境を全国の国公私立の小中学校に整備することを掲げた「GIGAスクール構想」を発表し、4600億円の予算を計上した。

 この4600億円の教育ビジネスに楽天とソフトバンクが5G接続やプログラミング教育、デジタル教科書を手がけ、パソナグループ(会長は竹中平蔵)がオンライン教育の教員や外国人教師の派遣ビジネスを手がけるという。肝腎な教育システムのプラットフォーマーはグーグルになりそうだ。デジタル庁や地方自治体は、5G接続やプログラミング教育、デジタル教科書などの教育ビジネスを日本企業が押さえれば十分だと考えていて、今後のデジタル経済で大きな資源となる個人データをプラットフォーマーのグーグルが握ることの意味を認識していないようだ。デジタル教育システムのプラットフォームを提供するグーグルは、生徒がインターネット検索などでタブレットを使うたびに、生徒が何に関心があり、何が好きかといった情報を蓄積し、他の色々な情報と合わせて正確で詳細な個人のプロフィールを分析し、加工し、商品化して莫大な利益を生む資源を手に入れるのだ。

 グーグルは、蓄積した生徒の個人データの扱い方について、「文科省のガイドラインに準拠する」と言っている。文科省のガイドラインには「各自治体の個人情報保護条例に従う」とある。しかし、自治体の個人情報保護条例が20215月に成立した「デジタル改革関連法」で大幅に改正され、個人情報保護ルールが緩くなり、今後は全ての自治体が国のルールに合わせるようになった。従来の個人情報保護条例では、自治体は、住民の居住情報、健康保険、年金や所得などの収集には原則として本人の同意を必要とし、犯罪歴、病歴、社会的身分などの「センシティブ情報」は原則として収集が禁止されていた。今後の国のルールでは、「センシティブ情報」の収集禁止がなくなる。デジタル社会では、センシティブな患者個人の「病歴」であっても、様々な医療機関が必要な時にオンラインで患者の病歴を知る必要があるからだ。さらに、新しい国のルールでは、利用目的が明確ならば、今まで個人からの直接収集が原則だった個人情報を間接的に手に入れることも可能になる。そのための政府の方針は、個人情報をマイナンバーで紐づけてデータベース化することだ。生徒の学校での成績もマイナンバーで紐づけられることになる。

 GIGAスクール構想では、学校の授業がオンラインで行われ、生徒がタブレットを見て勉強する。タブレットの中に組み込まれた学習アプリが、子供が立ち止まって考える間もなく、直ぐに間違いを正してくれ、その子の理解に合わせて次のステップに誘導してくれる。だから先生は教室にいる必要がなく、教師は全国で1教科に一人ですむという。その教師に求められることは、タブレットやデジタル教科書の使い方を教えることで、高いデジタル・リテラシーだけが求められる。従来の教師に求められた「授業を面白くする工夫」などはいらないというのだ。

 一方、言語脳科学者の酒井東大教授は、デジタル社会では「自分で考える前にネット検索で調べてしまう」ことに警鐘を鳴らす。人間の本質である「考える」ことがなくなるからだ。また、紙の教科書で付箋をつけたりして学ぶ学習プロセスこそが脳活動を活発化させる最高の学習方法だと指摘する。

 経済協力開発機構(OECD)が、今回のパンデミックを機に、教育のデジタル化を提唱している。それに乗って竹中平蔵がオンライン教育を推奨し、教員の数が少なくてすみ、過疎地でも廃校しなくてすむと言っている。竹中平蔵は、日本の格差問題の中核である非正規労働者を生んだ元凶だが、今、「効率本位のデジタル化」を進めようとしていることが気がかりだ。

 

・米国の教育ビジネスの問題

 1980年代のレーガン大統領が推進した新自由主義の米国で、「学力低下の責任は、公立学校と教員の怠慢や教職員組合にある」という批判が高まり、教育政策が「公教育の民営化」と「新自由主義的教育改革」へと転換した。政府は民間企業が運営する「チャータースクール」にも補助金をつけ、保護者が学校を自由に選べる「バウチャー制度」を導入した。すると、チャータ−スクールに寄付する資産家や企業家が爆発的に増えた。その最大の寄付者がマイクロソフト創業者ビル・ゲイツによるビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。彼等が学校に寄付するのは、公教育に寄付することによって、彼等の会社の「企業イメージが良くなる」、寄付した分が「税金控除の対象になる」、「公金が投入されるあらゆる分野の事業に有利に働く」というメリットが得られるからだ。彼等は、寄付した学校の成績が上がるように、学校運営にも口を出すようになった。こうした教育への寄付は、「ベンチャー型チャリティ」と呼ばれる新たな投資となり、全米でチャータースクールの数が一気に増えた。しかし、チャータースクールは、障害のある子供や成績の悪い子供の入学を拒否するばかりか、生徒の退学率も高くなっている。米国の教育は利益至上主義になってしまい、教育内容の質の低下など、様々な問題が生じている。

 2000年にフロリダ州で全米初の完全オンライン「バーチャル公立高校」のチャータースクールが開校した。それは、画面の中の仮想空間にある学校だ。デジタル化してバーチャルスクールにすることで、校舎がいらなくなり、学校運営にかかる物理的経費を全て削減でき、設備の経年劣化も起きない。また、生徒数はいくらでも増やせるから、利益は無限大に拡大できる。デジタル技術で教室をサイバー空間に移動させることによって、公共の教育が企業の果てしない利益追及の手段になってしまった。

 201912月の大統領選挙でバイデンが「チャータースクールのような営利学校への補助金を廃止する」という公約を掲げた。バイデンは、チャータースクールの利益至上主義の弊害を経験した教員・保護者や市民の多くに支持されて当選した。それから全米各州がチャータースクールへの補助金を凍結するようになり、完全に潮目が変わった。ニューヨーク市は、チャータースクールから賃料を徴収し、その分を公立学校の予算を増やす方針を発表した。企業側は反発して徹底抗戦する構えだが、人々の中に生まれた「子供たちのために公教育の価値を見直そう」という空気は全米に広がっていった。

 中国は、パンデミックを「教育格差縮小のチャンス」ととらえ、国内のデジタル教育市場を一気に進化させることに成功した。党の指名を受けたバイトダンス(動画共有アプリ「TikTok」のメーカー)は、全国民を対象にした無料の教育コンテンツとライブ授業(有名校の教授や講師に授業)の配信を行い、その利用者は4億人を超えた。

 世界銀行とマイクロソフト、フェイスブックがケニア、ウガンダなどのアフリカ途上国に対し、EdTeckEducationThechnology)というデジタル教育投資を行っている。この投資は、月に6ドルで1人の子供が学校でオンライン学習できるようにして、「教育格差解消」を目的としている。しかし、給食費も合わせると月に20ドルになり、アフリカの一般家庭の平均月収の8割に当たる。さらに、それを運営する公設民営学校が巨大な収益を上げていることに、市民団体から批判が寄せられ、問題になっている。

 

 以上の考察を元に、教育のデジタル化について、筆者の見解をまとめてみる。デジタル教育を考えるには、「教育の本質」に立ち返って考える必要がある。教育とは「社会の人と人、仲間と触れ合う文化を学び、考えることによって頭脳を訓練する」ことだと筆者は考えている。つまり、教育の目的は、「社会に適合して幸福になれるように教育し、人間として本質的な「考える」ことを訓練する」ことだ。

 人間は「肉体」と「頭脳」から成り、頭脳は「知識・知能」と「意識・意志」の2つの機能から成ると考えられる。「意識・意志」はいわゆる「心」だ。デジタル教育で問題となるのは、「心」の分野の教育だろう。その理由は、デジタル技術・AIには人間の「意識・意志」の機能がないからだ。AIは、医学的知識や行政・司法の法律知識などの「知識・知能」の分野では人間を超えているから、知識・知能の分野のデジタル教育はよかろう。医療や行政・司法の分野では、公平な立場で深く広い知識に基づいて判断するAIの方が人間より優れているからだ。但し、AIは人との親和性に劣るから、人と接する領域では人間が行わなければならない。

 一方、「生き方」「人生観」などの「意識・意志(心)」の分野の教育は生身の人間にしかできない。人と人との接触が少なくなるデジタル社会だからこそ、人間の先生が子供たちに自助・共助・公助の精神を教えなければならない。特に小中学生は、色々な個性をもった先生と接して、色々な生き方・人生観を学ぶことが重要だ。つまり、「心」の教育は人間の先生が行い、「知識の習得」はデジタル教育で行えば良い。

 人類の「道具」の発達の歴史から見ると、現在進行中のデジタル技術・AIは、最終段階の道具だ。今までに人類が発明した道具は、自動車・電車・飛行機などの交通機関や洗濯機・掃除機などの電化製品は「肉体」を楽にしてくれる道具だった。ラジオ・テレビなどは「知能」に役だつ道具だった。しかし、AIを搭載したスマホなどのデジタル機器では、道具が人間の「意識・意志」の領域に入ってきて人間と対話し、人間が道具のになっている。

 もし、AIが人間と同じように「意志」を持つようになれば、自分の意志で勝手に動くようになり、もはや道具ではなくなる。そのAIは、知識・知能と意識・意志の両方で完全に人間を超えるようになり、人間はAIに支配されるようになる。これは、仮定の話だが、最先端をいくAI科学者は可能性がある話だと言う。人類は、楽をするために道具を作ってきたが、愚かにも道具に支配されるリスクに直面するようになった。今後のデジタル社会では、道具であるデジタル技術やAIに使われないこと、デジタル技術やAIを個人や社会に有益になるように使いこなすことが肝要となる。

 

 

あとがき

 社会のデジタル化には、デジタル化した方が良い面と人間がしなければならない面があることが分かった。また、日本のデジタル庁やその推進者たちは、その辺の所を国民に説明せずに、密かに法律を作り、米中の大手IT企業に押されて協定を結び、国民にとって望ましくない方向に進もうとしていることも分かった。「米国の教育ビジネスの問題」の所で述べたが、企業の利益追及のために、デジタル技術やAIを誤って使うと、デジタル社会は悲惨な状態に陥る。それを抑止するには、国民に「AIに支配されるデジタル社会のさ」と「AIを正しく使った時のメリット」の両方を理解させ、それについて個人個人が十分に考え、社会が間違った方向に進んでいる場合には、皆が協力してストップをかけなければならない。

 その場合に、「和の文化」の日本人は、相手のことを気遣い過ぎて、論理的な思考や説明ができないと言われる。「自分で考え、考えたことを相手に納得させる」ことよりも、「相手の考えを聞き、相手に合わる」ことを優先するからだ。日本人が付和雷同して太平洋戦争に突き進んだのも、「論理的な思考と説明」ができなかったからだ。しかし、今後のデジタル社会では、「自分で論理的に考え、皆に論理的に説明する」ことが重要になる。日本の将来を背負う子供たちを「論理的な思考と説明」ができる人間に教育することは、国の最重要課題と考えなければならない。「考える」ことに向かないデジタル教育ではなく、「論理的な思考と説明」ができる教育方法を考案する必要がある。

 今、大国ロシアの復活を目指すプーチンがウクライナに軍事侵攻し、世界から批判を浴びて孤立している。プーチンを孤立させたのは、民主主義諸国の民衆の抗議する声の力であり、それに勇気づけられた民主主義国の指導者たちだった。米国の力が衰えてG0となる世界で、「力による現状変更」を禁ずる国連憲章に違反するプーチンや習近平を抑えられるのは、専制主義・強権主義を嫌い自由と平和を望む世界の人々の声しかない。日本のデジタル化でも、利権に走る大手テック企業の横暴を抑えて、自分たちの望む方向に向かわせるのは、国民の抗議する声をおいて他にない。そのためにも、子供たちを「論理的な思考と説明」ができる人間に教育することが重要になる。

 最後に、できるだけ多くの方々に、この「日本のデジタル化の問題点」を知ってもらうことを願いながら筆を置くことにする。最後までお読みいただいたことに感謝します。                       (以上)

 『老人支配国家 日本の危機』 を読んで

                        2022年正月 芦沢壮寿

 『老人支配国家 日本の危機』の著者エマニュエル・トッドは、フランスの歴史人口学者・家族人類学者で、「ソ連崩壊」、「米国発の金融危機」、「アラブの春」、「トランプの勝利」、「英国のEU離脱」を予言したことで知られています。トッドは、このような歴史の大きな転換を予測するには、毎日の経済・政治の現象を分析しても分からないが、歴史人口学や家族人類学の分析によって可能になると述べています。そのトッドが昨年11月に発刊された著書 『老人支配国家 日本の危機』で、米中対立の中での日本のあるべき姿を論じ、日本の最大の問題は直系家族に由来する少子化と人口減少にあると指摘しています。

 ここでは、トッドの家族人類学を掘り下げて考察し、家族人類学や歴史人口学に基づいてトッドが推測している今後の米中対立などの世界情勢について、また、日本型家族の問題点について考察してみることにします。

 

1.異なる家族形態の分布と各家族形態の特徴

 トッドによると、家族形態は親子関係、兄弟姉妹関係によって「核家族」、「直系家族」、「共同体家族」に分けられ、歴史的にこの順に古いという。そして、最も新しい共同体家族がユーラシア大陸の中央部に分布し、その周りを直系家族が分布し、核家族はさらに外側に分布している。こうした分布の構造から、ユーラシアの中央部で家族形態が時代とともに変化していき、その変化が外側に伝搬していって現在のような家族形態の分布になったというのである。トッドは、こうした家族形態の分布の形成について、著書 『家族システムの起源』の中で検証している。

 こうした家族形態の分布は、丁度、日本の民俗学者 柳田国男が『考』で実証した言葉の変化の分布と同じである。柳田は、日本の中心にある京都あたりの「デンデンムシ」という呼び方が、京都から遠ざかるにつれて、東は愛知・岐阜あたり、西は岡山あたりで「カタツムリ」に変わり(岡山県では東部がデンデンムシ、中部がカタツムリ、西部がマイマイと言う)、次いで「マイマイ」、「マイマイツブロ」、「カサツムリ」、「タマラク」と変化していき、岩手では「ナメト」と言い、沖縄では「ツンナメ」と言うことを発見した。これは、京都で生まれた新しい言葉が地方に伝搬していった軌跡を表していて、遠方から逆にたどれば言葉の変化の軌跡が分かるのである。

 核家族には「絶対的核家族」と「平等主義核家族」がある。絶対核家族は、英米を中心に分布し、子供が早くから親元を離れ、結婚すると独立した世帯を持つ。絶対核家族では、親子関係は自由だが、遺産相続は親の意思による遺言で決定されることが多いので、兄弟間は不平等である。平等主義核家族は、フランスの北部やパリ周辺、スペイン、イタリア北西部などに分布し、結婚すると独立するのは絶対核家族と同じだが、相続は子供たちの間で男女の差別がなく平等に分け合うことが多い。

 直系家族は、日本、韓国、ドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェーなどに分布し、通常は男性長子(時には末子)が跡取りになり、跡取りだけが結婚した後も親の家に住んで、全ての財産を相続する。直系家族は、親の権威、長男の権威を重視する権威主義的であり、男性が女性より優位、長男が他の兄弟姉妹より優位にある不平等な家族体形である。

 共同体家族は、ユーラシア大陸の中央部の広大なエリアに分布していて、男の子供全員が結婚後も親の家に住み続ける家族形態である。婚姻関係が外婚制(イトコ結婚を許容しない)か内婚制(イトコ結婚を許容する)かによって、「外婚制共同体家族」と「内婚制共同体家族」に分けられる。外婚制共同体家族は、中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部のトスカーナ地方などに分布している。内婚制共同体家族は、アラブ地域、トルコ、イランなどに分布している。

 現在の世界を見ると、近代国家となっている殆どの国で核家族化が進んでいることから、核家族が最も新しい家族体形のように見える。しかし、トッドが実証したように、古代社会では地球上の全ての家族が核家族であった。そこで、それぞれの家族形態が生まれた経緯について、筆者の歴史認識をもとにして考察してみることにする。

 最初の核家族の形態は、1万年ほど前に人類が定住して農耕を始めるようになった時に生まれたと推察される。その前の狩猟採集時代には、人類は集団で移動していたので、はっきりした家族形態がなかったが、定住するようになって家族の基本となる夫婦単位で家族が形成されたのであろう。

 最初の核家族社会から直系家族社会が生まれたユーラシアの中央部とは、最も新しい共同体家族が分布している中国、ロシア、中央アジアや中東のアラブ地域、北インドあたりである。直系家族の形態が中国に出現した時期は、春秋時代(紀元前65世紀)だと推察される。春秋時代に戦乱の社会を安定させる思想として権威主義的な家父長制を唱えた儒教が生まれた。そして、儒教によって直系家族形態が形成され、戦国時代、秦、漢、三国志の時代に至る戦乱の時代を通して中国全土に普及したと考えられる。直系家族は、跡取り以外の兄弟が戦争に出られたので、軍国主義社会にうまく適合したのであろう。

 直系家族は儒教思想を通して中国から日本に伝わった。実際に日本が直系家族に変わったのは、鎌倉時代以降の戦国時代であった。この時期に、日本の政治体制が天皇を中心とする貴族体制から武士を中心とする武家体制に変わり、文化的にも貴族文化から武家文化に変わった。言葉でも古代語から近代語に変わった。例えば、近代ではハ行をha hi hu he hoと言うが、古代にはpa pi pu pe poと言い、平安初期にはfa fi fu fe foと言っていた。日本では、戦国時代を境にして、家族形態が「核家族」から「直系家族」に変わり、それに伴って政治・文化・言語も「古代」から「近代」に変わったのである。

 ユーラシア中央部で共同体家族が生まれたのは、ユーラシア中央部の草原地帯に分布していたモンゴル系・トルコ系などの遊牧民の部族が氏族単位で集団を作り、中国やヨーロッパに侵入するようになった頃であろう。中国では、鮮卑族が中国に侵入して築いた唐王朝(79世紀)から、モンゴル族が侵入して築いた元王朝(1314世紀)までの時代に、直系家族から共同体家族に変わったと考えられる。

 ユーラシア中央部で生まれた新しい家族形態が、時代の経過とともに周辺部に伝搬していったが、西ヨーロッパまでは伝搬しなかった。そのために西ヨーロッパは核家族のままであった。そして、西ヨーロッパのはずれにある英国で、17世紀に議会制民主主義が生まれ、18世紀に産業革命によって産業の近代化が起こり、国民国家が生まれた。その近代化の波が英国から世界中に広まり、近代化した国々で、今、核家族化が進んでいるのである。

 日本では、明治以降の近代化によって殆どの家族が核家族化したが、昔の直系家族社会における親の権威主義や、女性を低く見る不平等意識が未だに残っていて、女性の社会進出を妨げたり、少子化問題を引き起こしている。そのことについては、4.で述べることにする。

 さて、以上の家族形態の変化の歴史を見ると、ユーラシア中央部のアジアが震源地となって歴史が動いてきたことが分かる。近代以降は西ヨーロッパを中心に歴史が動くようになった。今後は、米中対立が示すように、インド・太平洋を中心に歴史が動いていくことになると筆者は考えている。

 

2.グローバル化がもたらしたコロナ犠牲者の増大とEUの危機

 今回のコロナ禍では、個人主義的で女性の地位が高く、グローバル化が進んでいる米英仏などの核家族の国ほど死亡率が高くなった一方で、権威主義的で女性の地位が低い日独韓などの直系家族の国ではコロナ死亡率が低かった。そうなった理由は、核家族の国々は、GDPばかりにこだわってグローバル化を進め、生活や医療に必要不可欠な生産基盤ですら手放して空洞化したために、コロナの感染拡大を防げなかったが、一方の直系家族の国々は、グローバル化の下でも保護主義的作用が働いて、産業空洞化に一定の歯止めがかかり、国内にマスクなどの医療資源の生産基盤を維持していたために、コロナ感染の拡大を防げたというのである。

 今回のコロナ禍で「エセンシャル・ワーカー」(社会にとって本質的に必要な労働者)が再認識され、グローバル化による国内の空洞化や経済のあり方について、国の安全保障政策を改めて問い直すことになった。

 欧州のグローバル化は、EUとユーロの創設という形で進んだ。ユーロの創設は、産業力の強いドイツがマルクより遙かに安いユーロを使うことによって、輸出利益を増大させた一方で、他の国々には不利に働くことになった。

 以前のEUは緩やかな国家連合であったが、現在のEUでは各国の主権がなくなり、EU全体で中央集権化してしまった。

 カタルーニャの分離独立で揺れていたスペインは、EUの中枢であるブリュッセルの指令に従って緊縮財政を実行していて、自国に必要な経済政策を放棄している。スペインはもはや主権国家ではなくなったのである。カタルーニャの指導者は、マドリッドを相手にするのではなく、ブリュッセルを相手に分離独立交渉を続けている。カタルーニャは、日本と同じように直系家族で、「自分たちの文化は他とは違う」という意識が強く、自民族中心主義の傾向が強い。ガウディの建築などで有名な州都バルセロナは、ヨーロッパでも屈指の文化都市である。

 EUの諸悪の根源は単一通貨ユーロにある。単一通貨の根本的な欠陥は、言語・宗教・文化が違い、生活様式や人口動態が多様化している国々に単一通貨を強制して、独自の金融政策、通貨政策による自国経済のコントロールを不可能にしていることである。米国の経済学者が当初から「ユーロは失敗する」と指摘していたにも拘わらず、フランスの政治家が「通貨統合」ばかりを重視してユーロ創設を主導した。その結果、予想された通り、産業力の強いドイツが産業力の弱い国々を犠牲にして、一人勝ちすることになった。ユーロ導入前であれば、産業力の弱い国は、自国通貨の価値を下げることで競争力を得て、生き延びることができたが、それも不可能になった。ドイツだけが勝ち、2番目以降のフランス、イタリア、スペインの産業は破壊され、失業率が上昇した。英国が抜けた後のEUは、もはや「ドイツ帝国」になり変わってしまった。

 そのドイツでも、2017年の総選挙で極右のポピュリズム政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が12.6%まで得票を伸ばした。ポピュリズムは、国家のエリートが民衆の声に耳を傾けず、国民を保護する枠組み作りを怠った時に台頭する。通貨統合によって多様化する国民の要求に対応できなくなったEU諸国には、ポピュリズム政党の発生により、大混乱に陥る懸念が生じている。

 

3.世界をリードし続ける米英と米中対立 

 英国は、1642年に始まる清教徒革命と1688年の名誉革命を経て議会制民主主義を確立した。さらに、18世紀には産業革命が起こって工業化を推進し、大英帝国を築いた。また、「国民(ネイション)」という概念を発明したのも英国であった。1789年のフランス革命は先を行く英国を模倣したのである。

 米国は、177583年の独立戦争の過程で民主主義を創始し、19世紀には目覚ましい経済発展を遂げ、1980年代からはグローバリゼーションを先導した。このように、近代における世界の発展をリードしてきたのは、アングロサクソンの英米であった。

 英米が世界を先導し得た理由は、経済学者シュンペンターの「創造的破壊」という概念にある。創造的破壊とは、自分が創造したものを自分自身で破壊し、新しいものを創り出すことである。英米人が創造的破壊に長けているのは、絶対核家族に由来する。子が親から早く独立し、親とは違う世界を開くことが容易だからである。今後も創造的破壊に長けた英米が世界をリードし続けるとトッドは指摘している。

 英米が世界をリードし続けるもう一つの理由は、人口の大幅な増加である。英国、米国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドを合わせた英語圏の人口は、2015年時点で45000万人、これに対して英国を除いたEU圏は43800万人であったが、2030年には英語圏が56000万人、EU圏が44400万人になると予測され、その後も差が拡大していく。

 米国は、一定数の移民を受け入れ、健全な出生率を保って3億人の人口を抱えているので、人口減少とは無縁である。しかし、かつての米国の強みは、労働者のプロテスタント的勤勉精神と高い教育水準にあったが、中間層の教育水準が低下し、中間層が縮小した。この欠陥を教育水準の高いアジア系移民(最近では年7万人超のインド人)によって補ってきたが、出生率が低下しているアジア諸国からの移民を当てにできなくなる。

 米国は、共産陣営と敵対した冷戦中に共産主義との競合の中で完全雇用を目指すケインズ政策を実施し、社会福祉を充実させたことから社会が安定した。

 冷戦末期の1980年代に、英国のサッチャー首相と米国のレーガン大統領が主導する新自由主義の下で、エリートの白人たちが国内産業の労働者の不利益を顧みずに海外に投資し、中国などに工場を造った。そのために国内産業の空洞化が起こった。グローバル化の恩恵を受けたエリートの白人が高収益を得る一方で、多くの白人労働者が中国の安い賃金との競争にさらされて所得が低下し、格差が拡大して社会が不安定になった。

 ここで、米国の民主主義と黒人差別についてふれておく。米国の民主主義は黒人差別の上に成り立っている。米国を建国した英国人には「人類の平等」という意識がなかったが、先住民や黒人に劣等グループのレッテルを貼ることによって、初めて「白人はみな平等」という意識が芽生えた。しかし、冷戦中に共産陣営の平等主義との競合から黒人解放に踏み切らざるを得なくなり、民主主義を支えてきた黒人差別がなくなって、白人間の平等意識が崩壊してしまった。そのために、冷戦以降に白人のエリートたちが国内の白人労働者を無視してグローバル化に突っ走ったのである。

 現在、米国で起こっている「黒人の命も大事」(Black Life's Matter)運動は、白人と同じ平等の仲間に黒人を入れる運動である。米国は、ウィグルの人権問題で中国を攻撃しているが、中国から黒人問題で逆襲されている。中国と対抗する民主主義国のリーダーにとって、黒人問題がアキレス腱となっている。

 2016年に米国でトランプ政権が誕生し、英国では国民投票でEU離脱(ブレグジット)が決まった。トランプ大統領が支持された背景にはメキシコ移民への反感があり、英国のEU離脱にはポーランドからの大量移民に対する反感があった。米国は高等教育を受けていない白人を中心とするトランプ支持層の共和党と高学歴の白人と黒人・ヒスパニックが支持する民主党の間で国内が分断され、英国はEU離脱の賛否をめぐって国が二つに分裂した。

 かつてトッドは、ソ連の乳幼児死亡率が異常に高くなったことから、ソ連の崩壊を予言して見事に的中させた。現在、人口1000人当たりの乳幼児死亡率が米国5.6人でロシア4.9人を上回り、10万人当たりの自殺率でも米国14.5人に対しロシア11.5人である。これは、米国社会が不安定化していることを表していて、教育レベルの差による米国社会の分断が深刻な状況にあることを示している。一方、ロシアは、ソ連崩壊後の大混乱から回復し、安定に向かっていることを示している。

 トランプ政権は、従来の自由貿易、グローバリズムという基本政策を保護貿易、米国第一主義、孤立主義に転換し、中国と敵対する方向に舵を切った。次のバイデン政権も、トランプ政権の基本政策を受け継いでいる。しかし、バイデン政権には、アフガニスタンからの撤退の不手際など、地政学的な外交面での懸念がある。

 トッドは中国について次のように断言している。中国が米国を凌ぐ大国となり、世界の覇権を握るようになることはあり得ない。その理由は、中国の2020年の女性一人当たりの合計出生率が1.3人という衝撃的な低さであったこと、出生児の男女比が、通常は女子100人対男子106人のところ、中国では女子100人対男子118人という異常値を示したことである。中国は急速に少子化することが確実だという。

 今後の米中対立は、米国を中心とする民主主義陣営と中国を中心とする強権主義陣営の対立となるであろう。民主主義陣営は、2006年に安倍元首相が提唱して結成された日米豪印によるQUADに英仏独とカナダ・ニュージーランド・韓国が加わる。

 一方、中国はロシアを見方につけて、米国と対抗しようとしている。ロシアとしても、ウクライナ問題などで米国やEUからの攻撃に対抗するために中国と組んでいるが、中国と国境を接するロシアは、本来、中国を警戒しているのである。そこで、トッドは、ロシアを攻撃するより、ロシアを取り込んで中国を孤立させた方が得策だと主張している。 

 

4.日本に対するトッドの提言

 トッドは、今後の日本の存亡に関わる問題は、「人口減少」と「少子化」だと指摘している。日本は思い切って積極的な少子化対策を打つこと、日本人になりたい外国人を移民として受け入れることこそ安全保障政策上の最優先課題だというのである。

 直系家族の日本では、家族を重視するあまり、老人介護や子育ての全てを家族にわせようとしている。しかし、家族に全てを負担させることは、現在の核家族化した家族には不可能であり、そのことが「非婚化」を引き起こし、「少子化」を招いている。つまり、日本の少子化は「直系家族病」なのである。これを救うには、公的扶助によって家族の負担を軽減するしかない。

 さらにトッドは次のように指摘している。かつての日本の強みは、直系家族を重視した「世帯間継承による技術・資本の蓄積」「社会的規律と教育水準の高さ」「勤勉さ」にあったが、そうした完璧さは今や短所に反転している。日本が子供を持つことや移民を受け入れるためには、完璧さに固執し過ぎることをやめて、ある種の「不完全さ」「無秩序」「身勝手さ」を受け入れる必要がある。日本人は、そういうことに寛容にならなければならないというのである。

 トッドは日本の移民政策について、次のように助言している。@移民の受け入れは少子化対策と並行して行うこと。A外国人労働者の受け入れは、いずれ定住して家族を呼び寄せることを前提とすること。B移民の受け入れに際しては、移民の文化的背景が日本人の文化と融合しうるかをチェックすること。C移民に対する処遇方法として、「多文化主義」と「同化主義」がある。多文化主義は、英独が採用しているが、移民を隔離することになり、時間がたっても住民との融和が進まない問題がある。同化主義は、フランスが採用しているが、イスラム系移民に対して教条的不寛容の問題が発生している。これらの問題を解決するのは、時間をかけて移民を同化させる「寛容的同化主義」が望ましい。それは、移民の第一世代には異質な文化をそのまま容認し、日本で子供時代を過ごす第二、第三世代には日本の学校や社会で日本文化に同化するようにするのである。D移民の職業レベルや教育レベルはバランスよく受け入れること。E日本の場合は中国出身の移民ばかりが増えることに注意することである。

 直系家族の日本人には、親子間の権威主義から、外部の人を内部に引き入れて包括する「同化主義的傾向」と、兄弟間の不平等主義から、自分たちは特殊で外国人とは異なるとする「隔離主義的傾向」があり、相反する2つの傾向が同居している。今までの日本は、移民に対して隔離主義的傾向が強く出てしまったが、今後は同化主義的傾向が出るように組織的に制御すべきである。

 次に、日米関係であるが、米国との同盟関係は不可欠としても、衰退しつつある米国の「核の傘」の危うさに注意しなければならない。トッドは、米国が日本防衛のために核兵器を使えば、米国自身が核の攻撃を受けることになるから、核兵器は原理的に自国防衛以外には使えないと指摘し、日本に核武装化を提案している。核兵器は、軍事的駆け引きから抜け出すための手段であり、むしろパワーゲームのに自らを置くことを可能にする。つまり、核は戦争を不可能にし、戦争を防止するものだというのである。

 

あとがき

 最近、筆者は、友人からの手紙で、米国では「近いうちに中国が台湾を攻撃し、沖縄をも占領する」という情報がSNS上で飛び交っていることを知った。これは、単なるデマだが、米国の人々がそれほど深刻に中国を受け止めていることを表している。そこで筆者は、米中対立の最近の情勢と今後の動向について、筆者の見解を述べてみることにする。

 中国は、確かに軍事力を増強して米国の太平洋地域の軍事力を超えたことは事実だが、中国共産党は本質的に戦争をしたくないと考えている。中国共産党の長期戦略は、戦争をしないで経済力で米国を凌ぎ、途上国を取り込んで「中華世界」を復興させることである。台湾と戦争して国内経済が大混乱に陥り、国民の支持を失って共産党の権威が失墜することを何よりも恐れている。中国共産党は、よほどのことがない限り台湾と戦争しないであろう。

 習近平は、「台湾が一線を越えた場合には軍事力の行使をわない」と宣言したが、その一線とは台湾が独立することであろう。台湾の蔡英文政権は、それを承知しているから、「現状維持」を目指している。現在、台湾の国民は現状維持派が55.7%で過半数を占めている。香港の一国二制度の崩壊を見て独立派が17%になったが、微増に留まっている。

 米国は、1979年に米中国交を樹立したときに、台湾が中国の一部であることを認めた。しかし、同時に「台湾関係法」を成立させて、台湾が中国に占領されないように軍事援助を持続することを決めた。そして、台湾に武器を供与し、最近では米軍の指導者が台湾に常駐していることが分かった。元々、内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ国民党の蒋介石を支援してきた米国は、中国が豊かになれば民主主義国になると思い込んで、国交樹立時に台湾を中国領として認めたのである。しかし、習近平になってその予想がはずれたことがはっきりして、中国と敵対するようになった。

 中国と敵対する日米欧にしても、日用品や医療品の生産を中国に依存している現状では、中国と戦争することは自分で自分の首を締めるようなものである。結局、台湾をめぐる戦争は、中国と日米欧の両者とも不可能であり、「現状維持」を持続するしかないのである。

 トッドが指摘しているように、米国の国内分断は深刻な状況にある。トランプ前大統領が打ち出した「米国第一主義」「保護貿易」「EUとの分断」「TPPからの離脱」は、グローバル化で被害を被った大多数の低学歴白人労働者に支持されていることが判明し、バイデン大統領もそれを継承せざるを得なかった。国内の分断から、米国の民主主義陣営のリーダーとしての統率力が弱体化していることが明らかになった。特に米国とEUの間に溝ができたことが痛かった。

 こうした状況下で中国と対抗するには、米国とEUの間を取り持つことができる日本の役割が非常に重要になる。米国の統率力を支えられるのは、日本をおいて他にない。また、中国に近い地政学的位置にある日本には、かつて福田ドクトリンによってASEAN諸国に信頼されるようになり、最近では安倍元首相が「自由で開かれたインド・太平洋」と「日米豪印の連合(QUAD)」を提唱した経緯があることから、ASEANを始めとするインド・太平洋の諸国を牽引していく使命がある。そうすることが日本の国益にもつながる。

 国際社会にとって中国の脅威は、「巨大人口」と「強権的専制主義」にある。14億人の中国は、日本の1.2億人、米英豪などのアングロサクソン英語圏の4.5億人、EU4.4億人を合わせた10.1億人よりも人口が多い。中国の経済的な強さは、巨大人口の生産力と消費力にあり、日米欧の資本がそれに引き寄せられて中国に工場を造り、中国を世界の工場に発展させ、図らずも中国を経済大国に押し上げてしまった。そして、強大化した中国は、南シナ海に侵出し、領有権を主張して軍事基地を造った。さらに中国は、デジタル技術を駆使して国民を監視し、言論の自由を抑え、ウィグル族を漢民族の文化に洗脳して強制労働を強いる強権的専制国家になってしまった。そして、監視国家・警察国家の強権的専制主義の国家システムをアジア、アフリカ、中南米の途上国に移入して、途上国を中国共産党の支配下に引き込んでいる。

 20206月の第44回国連人権理事会において、「香港国家安全維持法」(香港の一国二制度を当初予定より27年も早く終結させ、中国が香港を実効支配する法律)に関する票決が行われたが、反対が民主主義国の27カ国に対し、賛成が中国の影響を強く受けている途上国の53カ国になり、賛成が反対の約2倍になった。賛成したのは、国家体制を維持するために市民への統制を強め、反政府組織を厳しく弾圧している独裁的な国々や、一帯一路で中国から多額の資金を受け入れ、債務超過に陥っている国々であった。中国の一帯一路では、165カ国で13,400件の開発事業が行われたが、そのうちの35%で汚職・労働問題・環境汚染問題が発生していると言われる。国連維持費の負担率では米国が22%、中国が12%、日本が8%であるが、中国は一帯一路などの狡猾な戦略で大多数の途上国を取り込み、国連を牛耳っているのである。

 中国は、紀元前2900年頃に興った夏王朝以来、王の権威を伝統として受け継いできた権威主義の国である。その伝統を受け継いだ中国共産党は、共産党の権威(=国家主権)の維持を第一に掲げ、国民の人権を無視する。中国国民は民主主義から遮断されているので、強権的専制主義しか知らない。そうした中国の強権的専制主義が、一帯一路の策略によって、大多数の途上国に蔓延し、言論の自由が奪われ、常に監視される国になり変わろうとしている。これは、人類史上の大危機であり、なんとしても食い止めなければならない。それには、途上国が中国の一帯一路の罠にはまらないように、民主主義陣営が途上国のインフラ開発を支援する必要がある。

 中国の一帯一路に対抗するために、20216月のG7サミットで、バイデン大統領が「ビルト・バック・ベターの世界版(B3W)」を提唱し、途上国の債務や環境に配慮したインフラ開発をすることを決めた。それを受けて、202112月にEUのフォンデアライアン欧州委員長が途上国のインフラ支援戦略として「グロ−バル・ゲートウェー」を発表した。それによると、民主主義、法の支配、人権、環境という価値観に沿って途上国を支援し、2027年までに官民合わせて約29兆円を投資するという。こうした米欧の構想は、まだ絵に描いた餅である。途上国の支援を推し進めるには、日本の政府開発援助(ODA)とJICAで培ってきた日本のノーハウが模範となり、日本が重要な役割を担うことになる。

 日本のODAは、途上国の所得水準に合わせて融資する利率や融資期間を決めているので、途上国が債務超過に陥ることはない。また、ODAの二国間援助を引き受けているJICAは、相手国の立地条件や生活文化に合わせて対応することが高く評価されている。日本が米欧と連携して成功例を重ねることが大事な局面になっている。

 中国は、2030年にGDPで米国を抜くと予想されている。しかし、今まで高成長を続けてきた中国ではあるが、2030年以降は成長率がゼロになり、急速に少子化が進むという。そして、米国に抜き返されるという。

 最後に、日本の核武装化についてのトッドの提案について、筆者の見解を述べたい。国際的に考えればトッドの提案には一理ある。しかし、日本政府が国民に核武装化を納得させることは不可能であろう。また、中国・韓国やアジア諸国からも反発されて、日本の国益にはならないと考える。これから戦争が起こるとすれば、国対国ではなく、民主主義陣営と専制主義陣営の戦争になるから、日本が核武装しようが、しまいが大差ないと考える。

      (以上)

      近現代史における日本の戦争

                        202112月 芦沢壮寿

  最近読んだ加藤陽子著の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』をもとにして、「近現代史における日本の戦争」について考えてみることにします。

 加藤氏は、東京大学文学部教授で、昨年の日本学術会議の新会員候補に推薦されたが菅内閣によって任命を拒否された5人の候補の1人です。研究分野は世界恐慌後の1930年代におけるアメリカと日米開戦前の外交を専門としています。この著書は、神奈川県の有名私立高校 栄光学園の中高生向けに行った講義をもとにして書かれ、2010年に小林秀雄賞を受賞しました。

 

日清戦争

 日清戦争(1894年7月〜954月)は、有史以来、東アジアの盟主として君臨してきた中国に対して、日本が東アジアの覇権をかけて戦った戦争であった。それまでの東アジアでは、文人といえば中国や朝鮮の知識人であったが、日本が勝ったことによって、日本は東アジアの盟主となり、日中の立場が逆転した。これは、中国・韓国が信奉してきた儒教的秩序を破壊し、西欧式の近代化に乗り出した日本の力を示すものであった。

 当時は帝国主義の時代であった。日清戦争は、英国が日本を、ロシアが中国を応援したことから、国際的な代理戦争でもあった。英国は開戦直前に日英通商航海条約を結び、日本を応援することによってロシアの南下を防ごうとした。この条約で英国は、日本に治外法権の撤廃と相互平等の最恵国待遇を認めた。

 日清講和条約(下関条約)では、当時の日本の国家予算の約3倍に当たる3.6億円の賠償金が支払われ、台湾が日本領となり、大連、旅順のある遼東半島が日本に租借されることになった。しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に遼東半島を清国へ返すように要求すると、まだ国力の弱い日本は返還せざるを得なかった。これを「三国干渉」という。

 日本国民は政府の弱腰に失望した。そして、14千人もの戦死者を出して得た遼東半島を民意に反して返還したことに対して、多くの国民が政治・外交に民意を繁栄させるには「普通選挙」を勝ち取らなければならないと考えるようになった。当時の選挙は、15円以上の国税を納めている地主などの金持ちしか選挙権がない「制限選挙」であった。普通選挙を求める運動は、長野県の松本で民権運動家の中村太八郎や木村尚江たちが結成した「普通選挙期成同盟会」を拠点として推進されていった。

 1898年に自由党と進歩党が合同して憲政党が結成され、初めての政党内閣が成立した。1900年に衆議院選挙法が改正され、選挙権が10円以上の納税者に与えられ、被選挙権者は基本的に納税資格がなくてもよくなった。

 三国干渉は、日本のメンツをつぶしたばかりでなく、ロシアの言いなりになる日本を見た朝鮮と中国をロシアになびかせることになった。朝鮮の朝廷内で日本に不満をもつ勢力が親露派の皇后 (高宋の妃)のもとに集まるようになり、朝鮮政府内に親露派が多くなった。これに驚いた日本の三浦公使が閔妃を暗殺し、国王の高宋がロシア公使館に逃げこむ事件が起きた。清国もロシアに接近し、1896年と1898年の2度にわたって「露清防敵相互援助条約」という秘密条約を結んで、黒竜江省・吉林省を通ってウラジオストックに通じる中東鉄道の敷設権をロシアとフランスの銀行に与え、さらに、遼東半島の大連・旅順を25年間租借する権利と中東鉄道の途中のハルビンで分岐して大連・旅順へと至る中東鉄道の南支線の敷設権まで与えた。これ以降、ロシアは満州に中東鉄道を敷設し、旅順の不凍港にロシア軍の要塞を築いていくのである。

 

日露戦争

 1900年に中国各地で西欧列強の宣教師を襲撃する「義和団の乱」が発生し、清国と列強の間で「北清事変」が起きた。これを機にロシアは、軍隊を派遣して満州の黒竜江省・吉林省・遼寧省の3省を占領した。

 この頃、清朝内で立憲君主制に改革する動きがあり、日本への留学がブームになり始めた。そして、留学生たちによって1905年に東京で革命結社が結成され、これが1911年に清朝を倒した「辛亥革命」へとつながっていく。

 当時の日本は、桂首相・小村寿太郎外相らの政府や元老の伊藤博文・山県有朋が日露戦争に慎重であった。小村外相は、ロシアと交渉して、ロシアに満州を与える代わりに、朝鮮における日本の優越権をロシアに認めさせようとした。しかし、当時の帝国主義の国際社会では、弱小の日本が大国のロシアと交渉すること自体が無理であった。

 日露戦争も国際的な代理戦争であった。1900年頃から満州は、大豆の生産で世界の市場として拡大の一途をたどっていた。1903年に米国と日本は、ともに清国と通商条約の改定を行った。これは、満州の市場を世界に門戸開放することを意味し、米国が満州を独占しようとするロシアを牽制して、日本を支援するものであった。また、南アフリカ戦争(ボーア戦争)をしていた英国は、1902年に日英同盟協約を締結して、日本を支援することを明らかにした。

 一方、ロシアがヨーロッパに進出してくるのを怖れていたドイツとフランスは、ロシアをアジアに向かわせるために、ロシアに財政支援をしていた。

 19042月に始まった日露戦争では、日本の陸軍が19051月までに89千人もの死傷者を出して旅順を陥落させ、5月の日本海海戦で東郷元帥率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊をせん滅して、日本の勝利となった。

 日露戦争では日本の陸軍と海軍が見事に連携した。日本海海戦前に陸軍が旅順軍港を陥落させたことが、日本海海戦の勝利につながる最大の要因となった。

 日本は、米国から20億円を借りて日露戦争を戦ったことから、「20万の犠牲者と20億のカネを出して満州を獲得した」と言われるようになった。大国のロシアに勝った日本は、西欧列強から一等国として認められ、それまで公使館しかおけなかった大国に大使館をおくことを許された。イギリスでは190512月に日本の公使館が大使館に格上げされた。

 日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で日本は、樺太南部、北方四島と南満州(ハルビン以南の中東鉄道南支線)の権益を獲得したが、ロシアから賠償金がとれなかった。政府は戦費を賄うために「非常特別税法」を制定し、時限付きで増税して、1904年には地租・営業税・所得税を年に2回徴集した。しかし、当てにしていた30億円の賠償金が入らなかったことから、時限を外して戦後も非常特別税を続けることになった。その結果、10円以上の納税者からなる選挙権者が2倍に増えて、それまでの選挙権者のほとんどが地主であったのが、会社経営者や銀行家なども選挙権者になり、国会や地方議会の議員の質が変わった。1908年の選挙では選挙権者が150万人を超え、商工業者・産業家・実業家の議員が登場するようになった。

   

1次世界大戦

 第1次世界大戦は、19147月〜1811月にイギリス・フランス・ロシア・セルビアなどの連合国とドイツ・オーストリア・トルコなどの同盟国が戦った初の世界戦争であった。日本は、日英同盟協約を理由にして19148月にドイツに宣戦し、ドイツ領であった中国の山東半島に上陸し、ドイツ領南洋諸島(サイパン島、マリアナ諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島など)を占領した。これらの戦争を3ヶ月で終えた日本の戦死傷者は1250人だけであった。しかし、4年余に及んだヨーロッパ戦線では、初めて飛行機や戦車が使われ、全体で戦死者が約1千万人、戦傷者が約2千万人にもなった。

 この戦争中の1917年にロシアで革命が起きてロマノフ王朝が崩壊し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。オーストリア・ハンガリーのハプスブルク帝国でも、191810月にブダペストで暴動が起きて名門のハプスブルク家が崩壊し、オーストリア共和国、ハンガリー共和国、チェコスロバキア共和国になった。また、ドイツでも191811月に労働者の武装蜂起があり、ウィルヘルム2世が逃亡してホーエンツレルン朝のドイツ帝国が崩壊し、ドイツ共和国になった。さらに、1922年にトルコのオスマン帝国が崩壊し、青年将校であったアタチュルクが大統領となってトルコ共和国を建国した。このように総力戦で戦って膨大な死傷者を出した第1次世界大戦は、それまでの帝国主義を支えてきたロシア・ハプスブルク・ドイツ・オスマンの4つの帝国を崩壊させ、王政に代わる新しい社会契約として「共和国」をもたらした。

 第1次世界大戦がもたらしたもう1つの大きな変化は、帝国主義の時代には当たり前であった「植民地」に対して批判的になったことである。それは、植民地獲得競争が大戦の原因の一つになったという深い反省に基づくものであった。帝国主義とは、ある国が他国を支配して植民地化・保護国化することが国際的に堂々と認められた国際秩序である。1518世紀の絶対王政のヨーロッパ諸国は、帝国主義のもとに植民地を獲得して、本国と植民地との間の有利な貿易差額によって国富を増大させる「重商主義」の経済政策をとっていた。その帝国主義に代わって新たな国際秩序を維持する組織として「国際連盟」が設立され、国際連盟がある地域の統治を委任する形をとる「委任統治制度」ができた。日本が獲得した旧ドイツ領の南洋諸島は、国際連盟から日本に委任統治権が与えられたものである。

 第1次世界大戦の講和会議として19191月から半年にわたってパリ講和会議が開かれた。この会議は「世紀の見物」と言われ、会議に直接関係する外交官以外にも多くの若く有能な人材が世界中から集まった。若き日の近衛文麿もパリに来ていた。近衛は後に会議の感想として、「第一に感じることは、力の支配という鉄則が今なお厳然としてあることだ」と述べている。日本からも多くのジャーナリストが参加し、連日「欧米と日本の差」などの記事を日本に伝えたことから、日本は変わらなければ国が滅びるという危機感を訴える多数の集団が生まれた。彼らは、「普通選挙」、「身分的差別の撤廃」、「官僚外交の打破」、「労働組合の公認」、「税制の改革」などの国家改造論を盛んに唱えた。

 中国と米国が参戦したのは終戦前年の1917年の2月と3月であった。パリ講和会議で、米国を後ろ盾にしていた中国は、参戦したことを理由に山東は中国のものだと主張した。これについては日英仏露伊の5カ国の間で「日本が連合国の地中海における兵員輸送の警備に当たることの見返りとして、講和会議の植民地分割では互いに認め合う」という密約が1917年に結ばれていた。英国首相ロイド・ジョージは、「中国と米国の参戦は遅かった。最も苦しかった時期に戦っていた国同士が密約を結んで何が悪い」という趣旨のことを平然と言い、「山東は日本のもの」という日本の主張を是認した。

 パリ講和会議で最大の問題は、ドイツの賠償金が過重すぎたことであった。その原因となったのは、軍需品を米国から購入した英仏伊の借金を賠償金で賄うことであった。英国が42億ドル、フランスが68億ドル、イタリアが29億ドルの借金をしていた。米国大統領ウィルソンは、英仏伊の借金を取り戻すために、ドイツに過度の賠償金を課したのであった。これに対し、英国代表として会議に出席していた経済学者のケインズは、ドイツが早期の産業復興を果たして賠償金を支払い続けることができるように、賠償金の額をできるだけ少なくするとともに、米国に対して英仏伊が負っている戦債の支払い条件の緩和を求めた。しかし、ウィルソンには過重な賠償金をドイツに課すことが世界経済に与える綿密な配慮がなかった。ケインズは途中で会議を退出して帰国し、「ウィルソンの構想は雲のようにあいまいで、不完全なものだ」と批判した。このウィルソンの軽率な賠償金構想から、2029年に世界恐慌が起こり、ドイツでナチスが生まれ、第2次世界大戦を引き起こすことになったと言われる。

 ウィルソンは、19181月の米国議会で「民族自決主義」を宣言し、世界の植民地の人々に希望を抱かせた。この影響を受けて日本統治下の朝鮮でも、19193月、ソウルで「三・一独立運動」が起きた。

 パリ講和会議でウィルソンが提唱した「国際連盟」がヴェルサイユ条約に規定され、19201月に国際連盟が成立した。しかし、米国は、議会の反対によって国際連盟に加盟しなかった。米国議会は、欧州の帝国主義国間の抗争に米国が利用されることを恐れて、モンロー主義(1823年にモンロー大統領が欧米両大陸の相互不干渉を宣言した米国の外交政策)を押し通したのである。

 

満州事変と日中戦争

 192910月に起きたニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌へと発展していった。日本の農家の平均収入が1929年の1326円から1931年には650円へと半分以下になった。そうした状況下で19319月に関東軍参謀の藤原らの謀略により満州事変が勃発した。

 満州事変は、関東軍が南満州鉄道(日露戦争後にロシアから譲渡された中東鉄道南支線)の柳条湖付近で鉄道路線を爆破し、それを中国軍のしわざだとして起こした謀略戦争であった。関東軍というのは、日露戦争で獲得した南満州の領地と南満州鉄道を守備する軍隊である。藤原らは、3年間にわたって綿密な計画をたて、満州事変を起こした。頭の切れる藤原は、1923年にドイツに留学し、ドイツが負けた原因を調べて、経済封鎖を生き延びて敵の消耗戦略に負けずに戦争を続けることの重要性に目覚め、日本が列強の経済封鎖や消耗戦を戦うには(南満州と東内蒙古)が重要になると考えていた。

 藤原らの謀略計画とは、当時、満州を統治していた張学良の19万人の軍隊に1万人余の関東軍で勝つための謀略であった。藤原らは、日本の特務機関に華北で反乱を起こさせて張学良とその軍隊11万人を華北に引きつけておき、満州に残る8万人の軍隊が守る軍事拠点を一挙に占領してしまった。さらに、張学良の11万人の軍が戻ってくるのに備えて、日本の植民地になっていた朝鮮から朝鮮軍の兵力を満州に越境させた。兵の越境には奉勅命令(天皇の命令)が必要であり、その前に閣議の同意が必要であったが、朝鮮軍は独断で越境して既成事実とした。閣議では、国際連盟で問題になるのを怖れて、出兵の事実は承認しないが、出兵に伴う経費は認めることにした。ここに軍部の独断専行と閣議の追認という構図が生まれ、それが繰り返されて、日本は日中戦争から太平洋戦戦争へと突き進むのである。

 当時、ほとんどの日本国民が、満蒙について、武力行使してでも守らなければならない日本の生命線だと考えていた。そして、満州事変が起こると、日本中が関東軍の謀略戦争を支持する報道であふれた。日清・日露戦争の時代には朝鮮半島が日本の生命線であったが、1930年代になって満蒙が日本の生命線になったのは、次のような経緯による。

 日露戦争後、日本とロシアは協調するようになり、日露は、満州の主権者である清朝をさしおいて、1907年の第1回日露協約の秘密条項で、満州の鉄道・電信などの権益を勝手に分割してしまった。中国で1911年に辛亥革命が起きて清朝が倒れ、1912年に中華民国が成立した。この新しい中国に対して、英国は米独仏を誘って資本投下による影響力を強めようとしていた。資本力・技術力で劣る日本とロシアは、1912年の第3回日露協定の秘密条項で、内蒙古を東経11627分の線で東西に分割し、東を日本の勢力範囲、西をロシアの勢力範囲とした。それからの日本は、陸軍・外務省・商社が一体となって、満蒙の特殊権益を中国や欧米列強に認めさせるために、満蒙が日本の勢力範囲にあるという既成事実をでっちあげていった。そして、1926年に日本の満蒙への投資額が14億円になり、日本国民の間に「満蒙は日本の生命線」という意識が強くなっていった。

 19319月に満州事変が起きたときに、中国の国民政府主席 蒋介石は、国際連盟に訴えて仲裁を求めた。それを受けて連盟理事会で、英国のリットン伯爵を委員長とし、米仏独伊の委員からなるリットン調査団の派遣が決まった。

 19323月、「満州国」が建国された。リットン調査団一行は、19322月から日本・中国・満州を視察し、10月に報告書を公表した。この報告書では、日本の満州における経済的な権益(中国の対日ボイコットの禁止、日本人の全満州への居住権・土地貸借権の擁護)を認めたが、中国の主権下にある満州における「満州国」の建国は、民族自決ではなく、関東軍の力を背景に生み出された国家であるとした。つまり、満州の主権は中国にあり、満州国には正当性がないということである。これに対して日本の知識人 吉野作造は「噂より日本に不利なので、新聞の論調が険悪だが、公平にみて、あれ以上日本の肩を持てば偏執のそしりを免れない」と言っている。

 日本海軍が19321月に上海を攻撃した「上海事件」に対して、中国が国際連盟に連盟規約第15条の「国交断絶にいたるおそれのある紛争」に当たるとして提訴した。一方、日本の内閣と天皇は、19332月に張学良の軍隊が残留する満州国南部の熱河省に陸軍を侵攻させる計画に対して承認を与えた。ところが、熱河省に軍隊を侵攻させる陸軍の行動は、連盟規約第16条の「第15条による約束を無視して戦争に訴えた連盟国は、他の連盟国に対し、戦争行為をなしたるものと見なす」に当たる恐れが生じた。つまり、日本は満州国内で軍隊を動かしていると考えているが、満州国を承認していない国際連盟から見れば、第15条で中国から提訴されている日本が中国内て軍隊を動かすことは、明らかに第16条違反となるのである。すると、日本は全ての連盟国の敵となり、第16条で定める通商上・金融上の経済制裁を受けることになり、除名という不名誉な事態も避けられなくなるのである。そのことに気づいた斉藤首相は、天皇のところに駆け込み、熱河作戦を決定した閣議決定を取り消し、天皇の裁可も取り消すように頼んだ。しかし、侍従武官や元老は、天皇が一度出した裁可を撤回すれば、天皇の権威が決定的に失われると助言し、結局、天皇の裁可は取り消されなかった。その2日後、日本軍は熱河に侵攻した。そして、19333月、日本は国際連盟を脱退した。

 このように日本が戦争に突き進んでいる時に、日本の政党は全く戦争反対の声を上げなかった。その理由として、早くから中国に対する日本の侵略や干渉に反対してきた日本共産党員やその周辺の人々1288名が治安維持法によって起訴され、投獄されていたことが考えられる。

 19377月、北京郊外の盧溝橋で偶発的に起こった日中の小さな武力衝突がきっかけで「日中戦争」が始まった。当時の日本軍は、「中国が日本との条約を守らなかったから、守らせるための戦闘行為である」と主張し、エリート官僚は「英米の資本主義とソ連の共産主義の支配下にある世界に対する東亜の革命である」と主張した。東亜とは、日本・台湾・韓国、満州国と中国を指す。つまり、日本は「これは戦争ではない」と考えていたのである。満州事変が計画的に起こされた謀略戦争であったのに対して、日中戦争は戦争をする気がないまま起こった偶発的な戦争であった。

 日本では、満州事変の勃発から日中戦争に至るまでの6年間に、25歳以上の男子による普通選挙が行われ、政友党と民政党による政党内閣の時代になった。しかし、政党は、世界恐慌が波及して借金に苦しむ農村に冷淡であった。

 そんな時に陸軍は、46.8%の国民が従事する農業と最も多くの兵隊の供給源である農村に着目して、「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットを作った。その中で、国防は「国家生成発展の基本活力」と言い、「国民生活の安定を図り、勤労者の生活保障、農山魚村の疲弊の救済は最も重要な政策である」と断言した。さらに、農民救済のために「義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護」といった項目を掲げ、労働問題では「労働組合法の制定、適切な労働争議調停機関の設置」などを掲げていた。国民はこうした陸軍に引きつけられ、期待するようになった。

 北京郊外の華北地方で勃発した日中戦争は、華中地方の上海・南京・武漢へと飛び火し、上海では激しい航空戦で陸海軍合わせて3万人を超える戦死傷者を出した。中国軍は予想以上に強かったのである。それでも日本軍は、193810月までに武漢を陥落させ、重慶を空爆し、日本海軍が海岸線を封鎖した。中国は、常識的には降伏する状態になっていた。

 それでも中国が降伏しなかったのは、「日本切腹、中国論」を唱えて国民政府に抜擢された胡適(北京大学教授で社会思想家)の作戦があったからである。胡適は、蒋介石の前で堂々と「日本の勢いを抑止できるのは米国の海軍力とソ連の陸軍力しかない。日本は米ソが軍備を完成しないうちに中国に決定的なダメージを与えようとするであろう」と述べ、「米ソを日中戦争に巻き込むには、中国が日本との戦争を正面から引き受けて、34年負け続けることに耐える必要がある」と言った。これが日本を切腹へと向かわせる方策であり、中国は34年耐えることによって、日本の切腹の介錯をすることになるというのである。この胡適の「日本切腹、中国介錯論」は、日中戦争前の1935年時点での予測であるが、1941年に日米が開戦し、1945年にソ連が日本に宣戦し、日本が負けるまでの歴史を正確に言い当てていた。胡適は1935年に駐米大使になった。なお、米国が日中戦争で中国を応援したのは、中国の巨大市場を日本に独占されるのを防ぐためであった。

 

太平洋戦争

 194112月、日本は、米英に宣戦布告して太平洋戦争に突入した。米国は、国民総生産が日本の12倍、鋼材が17倍、石油が721倍の圧倒的な大国であり、一流の知識人らは日本が非常識で無謀な戦争を仕掛けたと考えていた。戦後に東大総長となる政治学者の南原繁は、開戦の日に「人間の常識を超え 学識を超えて 日本世界と戦う」という短歌を詠んだ。しかし、日米の絶対的な差を承知して戦争を仕掛けた軍部は、むしろそれを利用して「大和魂」を煽り、国民に精神力を強調した。開戦当初の国民の多くは、爽やかな気持ちで開戦を受け入れた。日中戦争は弱いものいじめで気が進まなかったが、強い米英を相手とする太平洋戦争は明るい気持ちで戦えると感じたのである。

 日本政府は、大国の米英と戦って勝ち、戦争を終結させる方法をどのように考えていたのだろうか。開戦前の19419月の御前会議で、近衛首相・東条陸相らが米英相手の開戦に後ろ向きの昭和天皇を説得した論理は、「英米蘭に対する戦争の目的は、東亜における英米蘭の勢力を駆逐して、帝国の自存自衛を確立し、あわせて大東亜の新秩序を建設することにある」というものであった。10月に首相となった東条が陸海軍の課長級に作らせた「対英米蘭戦争終結に関する腹案」では、「19416月から戦争していたドイツとソ連の間に日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対英戦に集中させて、英国を屈服させる。英国が屈服すれば米国の継戦意欲が薄れるから、戦争は終わる」というのであった。この論理は、一方的な希望的観測であり、ドイツの軍事力に頼る他力本願であって、何の根拠もない空論に過ぎなかった。胡適の深謀遠慮な戦略に基づく中国の国民政府と比べると、陸海軍の課長級に作らせた日本政府の戦略は、あまりにも幼稚でお粗末であった。

 実際に戦争が始まると、日本の甘い予想が崩れていった。物資を運ぶ輸送船や海軍艦艇の消耗予想は、戦争1年目が80100万トン、2年目が6080万トン、3年目が70万トンであったが、実際の消耗は戦争1年目が96万トンと予想内であったものの、2年目が169万トン、3年目が392万トンと予想をはるかに超えた。また、飛行機の製造能力では、1939年時点で米国が年間2,141機、日本が4,467機で、日本の方が2倍以上優位にあったが、1941年になると米国の製造能力が19,433機に飛躍し、日本が5,088機になって、米国の製造能力は日本の約4倍となり、終戦までこの倍率は変わらなかった。日本は、民主主義の米国を軟弱な国だと考えていたが、米国民は日本から売られた喧嘩に本気になって奮起し、日本のお粗末な予想を完全に打ち砕いたのであった。

 以下では、太平洋戦争に至る世界情勢の変化を見ていくことにする。19391月、米国は航空機部品などの対日輸出を禁止し、日米通商条約の破棄を通告した。3月には英国が中国に借款を行い、仏印(仏領インドシナ:現在のベトナム・ラオス・カンボジア)から香港・広州を通るルート(援蒋ルート)で中国に物資を送った。英米ソが中国に味方し、日本は世界で孤立した。

 19399月、ドイツがポーランドに進駐し、英仏がドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まった。ドイツは40年前半までに周辺国を占領し、6月にはパリに入ってフランスに傀儡政権(ヴィシー政権)をつくった。

 19409月、日本は、日独伊の「三国軍事同盟」を締結して、仏印北部に進駐した。その目的は、援蒋ルートを押さえることと、東南アジアの資源(オランダ領インドシナの石油など)を獲得して自給自足圏を手に入れることであった。蒋介石は、後妻の宋美齢の弟 宋子文(国民政府を支える浙江財閥の中心人物)を6月に渡米させて、米国に軍事援助を要請した。米国は、日本の仏印進駐を見て、1億ドルの借款を中国に与え、その借款で米国製飛行機の購入を認めた。米国は、英国首相チャーチルの「米国が参戦しないから英国は米国に代わって戦争している」というぼやきに対して、413月に英国に無償で武器援助する「武器貸与法」を成立させた。

 19414月頃の日本の松岡外相は、日ソ中立条約を結び、全体主義の日独伊ソをまとめて四国同盟とし、英米の民主主義国と対抗することを目指していた。ところが、独ソ不可侵条約を結んでいたドイツが6月にソ連に侵攻して独ソ戦争が勃発し、松岡の構想はぶち壊された。それまでのドイツは、資源獲得のためにソ連・中国に兵器を売って合理的な経済関係を維持していたが、ソ連が世界の共産化を目指していることを知り、防共・反共に転じたのであった。

 日本では、外務省と参謀本部がドイツとともにソ連を攻撃する北進論を主張したのに対し、陸軍省軍務局と海軍が南部仏印へ進駐する南進論に動いた。そして、7月の御前会議で南部仏印進駐が決定された。米国は、この決定に強く反発し、在米日本資産の凍結を断行し、石油の対日全面禁輸に踏み切った。この米国の対応を予想していなかった日本は、南部仏印進駐によって米国を敵に回してしまった。結局、日本は、ドイツと同盟を結んだことから、米英中ソを敵に回すことになった。国土が広大で人的物的資源が豊富な米国、中国、ソ連、それに世界中に植民地帝国を築いてきた英国は、持久戦に耐え得る大国である。一方、資源の乏しい日本とドイツは持久戦に耐えられない。

 194112月、日本は、電撃戦に勝機を託して、海軍航空部隊がハワイの真珠湾で米国太平洋艦隊を、マレー沖で英国極東艦隊の主力部隊を壊滅させ、大きな戦果をあげた。開戦を機に中国が日本に宣戦布告したことから、アジアの戦争であった日中戦争が第2次世界大戦へと組み込まれることになった。英仏に米中ソが加わった連合国は圧倒的に有利になった。

 太平洋戦争で勝敗の分岐点となったのは、19426月のミッドウェー海戦であった。この海戦の前に日本海軍の暗号が解読されたために、日本の艦隊が米国側に待ち伏せされて、空母4隻と全ての艦載機を失った。この海戦以降、日本軍は劣勢になっていった。そして、19446月のマリアナ沖海戦で勝敗の決着がついた。この海戦で日米の空母の機動部隊同士が戦い、日本側は空母、航空機の大半を失った。太平洋戦争の戦死者の9割は44年から終戦までの1年半の間に生じた。補給路を断たれた日本軍は戦死者の多くが飢えで亡くなった。そして、殆どの戦死者が死んだ場所、死んだ時が分からないまま、戦死だけが遺族に伝えられた。こんな国は日本以外に存在しない。日本政府と軍部は、44年時点で日本の敗戦が分かっていたにも拘わらず、終戦手続きに入らないまま無益な戦争を続け、国民を無駄死にさせた。広島・長崎への原爆投下を招き、満州・北方領土では多くの犠牲者と戦争孤児を出した。

 第二次世界大戦の終結について、ハーバード大学の歴史・政治学者アーネスト・メイは、1973年の著書『歴史の教訓』の中で、「米国のルーズベルト大統領が日本の無条件降伏にこだわったために、日本のポツダム宣言受諾が遅れて満州や北方領土へのソ連の侵略を招いた」と述べている。ルーズベルトが無条件降伏にこだわった理由は、第一次世界大戦の終結でウィルソン大統領がドイツに14カ条の休戦条件を示して休戦し、後で英国・フランスの反対によって休戦条件が葬られた歴史を教訓としていたからだと言う、しかし、メイは、第2次世界大戦末期のソ連の態度を見れば、既に米ソ冷戦に入っていたのだから、日本・ドイツに対する降伏条件を緩和すべきであったと批判し、これは、政治や外交の政策形成者(意志決定者)が陥ってきた「歴史の誤用」であると述べている。

 

歴史的真理から見えてくる日本国憲法の真実

 18世紀のフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「戦争は、国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃である」と述べている。このルソーの指摘は、その後の1920世紀の戦争にも当てはまる歴史的真理である。

 近現代の多くの戦争を見ると、「巨大な数の人民が死ぬ戦争の後には、新たな社会契約が必要になる」という歴史的真理が見えてくる。その良い例が18631119日に南北戦争の激戦地ゲティスバーグで行ったリンカーンの演説である。その演説の中でリンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治:The government of the people,by the people,for the people 」という新たな理念・目標を提唱して、南北に分裂したアメリカを再統合するための新たな社会契約とした。北軍が74千人、南軍が11万人もの戦死者を出した南北戦争の後で、分断されたアメリカを再建するには、新たな理念・目標に基づく新たな社会契約が必要であったのである。

 以上に述べた2つの歴史的真理を太平洋戦争後の日本に当てはめてみる。

 「日本国憲法はGHQに押し付けられたものだ」という議論がある。それは、ルソーが指摘したように、戦勝国の米国が敗戦国の日本の社会契約に対する攻撃であって、一般的な歴史的真理なのである。また、310万人もの国民を亡くした太平洋戦争の後では、軍部の独走を許した大日本帝国憲法に代わって、新しい社会秩序として民主主義に基づく日本国憲法が必要であったのである。

 軍部の独走を許した旧大日本帝国憲法の「統帥権の独立」は、自由民権運動に怖れをなした山県有朋が、自由民権運動の軍隊内への波及を防ぐために、政治面での指導者と軍事面での指導者を分離したことに由来する。そのために日本は、政治・外交と軍事の連携が緊密にとれなくなり、満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと留まるところなく戦争を拡大していった。

 大日本帝国憲法と日本国憲法の本質的な違いは、「国体」(天皇制)にある。戦争に負けた後でも日本の指導者は「国体の維持」を最も重要視していた。しかし、GHQは「国体の維持」を「象徴天皇制」として認め、主権を国民に移して「主権在民」とした。日本国憲法の前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権限は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とある。「国政の権限は国民に由来し」とは「人民の政治」を意味し、「国政の権力は国民の代表者がこれを行使し」とは「人民による政治」であり、「国政の福利は国民がこれを享受する」とは「人民のための政治」であるから、日本国憲法の前文は米国憲法の「人民の、人民による、人民のための政治」と同じ理念・目標をうたっているのである。

 

あとがき

  『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)は、明治以降に日本が行った日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争について、日本人がそれぞれの時代の国際情勢を判断して戦争を選んできた歴史的背景について考察している。それらの戦争は、日本独自の戦争ではなく、複数の国が日本の味方になり、敵になって戦った国際戦争であった。

 日清戦争から第1次世界大戦までは、帝国主義の時代であり、弱小国の日本は真剣になって国際情勢を判断して戦争を行った。その結果として日本は勝ち続けることができた。第1次世界大戦後の世界は、米英仏などの民主主義国と日独伊などの全体主義国に分裂した。戦争に勝ち続けてきた日本は、大国意識を持つようになり、国際情勢を独自で判断するようになって、日本独自の全体主義による判断の誤りが重なり、米英中ソの大国を敵に回すことになった。これが太平洋戦争に負けた最大の原因だと考える。確かに、軍部の独走を許した「統帥権の独立」も大きな原因であるが、独走を止められなかったのは「日本独自の全体主義の誤り」の方が大きかったと思われる。

 「日本独自の全体主義の誤り」とは、日本人の「和の文化」の弊害である。日本人は会議でも全体の和を重んじて相手を傷つけないようにする。それでは深い議論ができないから、本質的な問題を解き明かせない。軍部の独走が国際的にどんな問題を引き起こし、日本がどうなるのかも分からない。政府や軍部のリーダーたちは分からないまま、ことの重大さに対する責任感もなく、ずるずると軍部の独走を許した。その結果、米英中ソの大国と戦うことになり、最後は食糧補給のないまま、南方の孤島で莫大な数の兵士を飢え死にさせた。

 全体主義の日本人は、戦争責任も国民全体の連帯責任だと考えていて、A級戦犯をも靖国神社に合祀した。そして、戦争で犯した自らの過ちの本質を理解していないために、同じ過ちを繰り返す可能性がある。

 全体主義は個人の自由な発想を抑制する。これは、均一な物を大量生産していた時代にはよかったが、個人の好みの多様性に対応する現在のデジタル社会では不利に働く。ここ30年、日本の生産性が伸びず、賃金が上がらない原因は、「日本独自の全体主義の誤り」にあると筆者は考えている。  (以上)

誤解だらけの新型コロナ対策     202110月 芦沢壮寿

 最近、筆者は西村秀一著の「もうだまされない 新型コロナの大誤解」(幻冬舎、第6刷)を読んでみました。そこには、日本の新型コロナの感染防止対策が誤解に基づくものが多く、新型コロナを恐れ過ぎて、かえって感染防止に反することや、あまり効果がないことに無駄な労力を使っている実態が書かれていました。これらは、新型コロナの属する「呼吸器系ウィルス感染症」とは違った分野の専門家が新型コロナ対策に乱入して発せられた誤った情報によって、誤った理解が氾濫しているからだと書いてあります。

 著者の西村氏は、1994年から2年間、米国のCDCCenters for Disease Control and Prevention)のインフルエンザ部門で研究し、帰国後は国立感染症研究所でインフルエンザ研究室の主任研究員をしていました。現在は、国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウィルスセンター長をしています。インフルエンザと新型コロナは同じ呼吸器系ウィルス感染症ですから、インフルエンザの専門家である西村氏は、新型コロナの専門家でもあるのです。西村氏は、日本における呼吸器系ウィルス感染症の中心人物の一人となっています。

 これから人類は新型コロナと永久に共生していかなければなりません。それは100年前にパンデミックとなったインフルエンザ(当時は「スペイン風邪」と言った)と同じだと西村氏は言います。インフルエンザは今でも毎年流行していますが、私たちはそれを恐れることなく、適切に共生する方法を知っています。それと同じように、新型コロナと共生するには、新型コロナを過剰に恐れることをやめて、正しく理解しなければなりません。そこで以下では、新型コロナと早く共生できるようになるために、西村氏が著書の中で指摘していることの要点をまとめてみることにします。

 

1.誤解に満ちた現在の新型コロナ対策

 新型コロナについての誤解は、「呼吸器系ウィルス感染症」の専門家ではない自称専門家を名乗る学者たちが行政やメディアに発した情報から生まれた。現在、誤った情報にもとづく誤った対策が至る所で行われている。専門外の自称専門家とは、感染症の専門家であっても細菌の専門家であったり、ウィルスだとしても呼吸器系ではなく血液系の専門家であったり、あるいは感染症以外の有名科学者たちである。彼らが発する情報は、確かめられることもなくメディアや行政に取り上げられ、呼吸器系ウィルス感染症の対策としては笑ってしまうような対策が社会にまん延していると西村氏は指摘している。

  誤解を生み出した最大の原因は、新型コロナウィルスが飛沫で運ばれる「飛沫感染」だということにある。これは、感染力の強い「はしか」、「水疱瘡」、「結核」などの細菌が空気中を浮遊して感染するのが空気感染であって、咳などの飛沫で感染する新型コロナは空気感染ではないと言う古い考え方に固執する専門家の主張である。

 「〜感染」とは感染症を引き起こす細菌やウィルスを「何が運ぶか」を表しているのであって、新型コロナウィルスを含んだ飛沫も空気で運ばれるから「空気感染」と言うのが現在の新しい考え方である。例えば、水の中のウィルスによる感染を「水系感染」、血液中のウィルスによる感染を「血液感染」と呼ぶのと同じである。

 新しい考え方は、重力で落下する飛沫を除いて、空気中を浮遊する飛沫と飛沫核(飛沫から水分がなくなって残った物)を「エアロゾル」と呼び、新型コロナウィルスはこのエアロゾルに乗って空気で運ばれるから、空気感染だと考える。エアロゾルは、空気の流れの強さによって浮遊する飛沫の大きさの上限が変わるから、「空気の流れ」が感染防止対策の重要な要素になる。新型コロナをエアロゾルによる空気感染だと捉えないと、感染対策を誤ることになる。

 今まで「飛沫感染」という古い考え方のもとに、食堂や店のカウンターで飛沫を防ぐためにパーティションやビニールカーテンで仕切ってきた。しかし、新しい考え方では、パーティションやビニールカーテンが換気の妨げになってウィルスを含んだエアロゾルを滞留させ、かえって感染リスクを増すことになる。すぐに落ちる大きな飛沫は、掃除機並みの吸引力がないと吸い込めないから、それを人間が吸い込む心配はない。飛沫が食べ物に落ちたとしても、消化器系で感染することはないから、それを食べても感染しない。また、後述するように、新型コロナウィルスを含んだ飛沫をあびた物を通して感染する接触感染もない。結局、飛沫を防ぐためのパーティションやビニールカーテンは必要がなく、かえって逆効果になるのである。

 こうした誤った感染対策がとられるようになったもう1つの原因は、理化学研究所のスーパーコンピュータ富岳による「1回の咳で出る粒子の飛散」を示すシミュレーション画像である。1回の咳で飛沫の粒子が広がっていくシミュレーション画像が公開され、それが専門家を惑わし、誤った対策をとらせることになった。しかし、実際には、1回の咳で出るウィルスは10個程度であり、その中で生きているウィルスは110011000であって、1回の咳で感染することはあり得ない。感染は何回かの咳のエアロゾルが滞留することによって起こるのである。こうした現実の生活空間とはほど遠く、不完全なシミュレーションの結果を信じ、それを恐れるあまり無意味な対策がとられることになった。行政はパーティションやビニールカーテンを感染対策のお手本とし、感染対策補助の要件としてきたが、これも誤解にもとづく政策であった。

 ダイアモンド・プリンセス号の事件で、新型コロナが接触によって感染する「接触感染」という誤った情報が生まれた。西村氏は、臨時検閲官として実際にダイアモンド・プリンセス号に乗り込んで調べたところ、船内の空調が感染者がいる船室の空気を吸い込み、それを全体の空気と一緒に温度調節した後、各船室に送り込む方式になっていたことが原因であり、やはり空気感染であることをつきとめた。

 生活環境の中の物の上で新型コロナウィルスが生き続ける時間を測定した実験も感染対策を誤らせる原因となった。物によってウィルスの寿命が決まるのではなく、実際は、最初のウィルスの数が多いほど、1カ所に集まっているほど最後の1個が死ぬまでの時間が長くなるのである。

 ここで、ウィルスが「死ぬ」とはどういうことかを説明しておく。ウィルスに感染するとは、ウィルスが体の中の細胞に入って増殖し始めることである。感染できる状態のウィルスを「活性がある(=生きている)」と言い、活性を失うと「失活(=死ぬ)」と言う。新型コロナウィルスは、RNA遺伝子が「エンベロープ」と呼ばれる二重層脂質で包まれ、そこに「スパイク」と呼ばれる蛋白質の突起がついている。失活する(死ぬ)とは、スパイクやエンベロープがなくなってRNA遺伝子だけになり、感染ができなくなることである。ウィルスが死んでも、後述するように、PCR検査では陽性に出る。

 ウィルスと細菌の違いは、細菌が1つの細胞からなり、物の上でも生き続けることができて、細胞分裂によって倍々に増殖するのに対して、ウィルスは、物の上では短時間で死んでしまうが、細胞の中ではRNA遺伝子をコピーすることによって爆発的に増殖することである。物の上で生き続ける細菌には接触感染があり得るが、生き続けられないウィルスには接触感染が殆どあり得ないというのが、世界の専門家のコンセンサスになっている。現在、店や施設の中のテーブル、椅子、ドアノブ、床などをひっきりなしにアルコール消毒しているが、これは無意味であり、労力の無駄である。

 過去にアフリカで起こったウィルス感染症のエボラ出血熱が遺体の体液や血液に触っただけで感染したことから、新型コロナで亡くなった遺体についてもビニールの納体袋に入れて密閉し、遺族との対面が許されなかった。しかし、呼吸しない遺体から生きた新型コロナウィルスが出てくることはあり得ない。こうした西村氏の発信により、今では遺体との対面が許されるようになった。

 新型コロナは、皮膚や目から感染することはない。皮膚はいくつもの層からなり、一番外側の角質層には病原体から体の内部を保護するバリア機能がある。角質層は剥がれ落ちる寸前のほぼ生きていない細胞なので、ウィルスは角質層の細胞では生きていけない。また、インフルエンザや新型コロナのような呼吸器系ウィルスは角質層が傷ついていたとしても、そこから感染することはない。むしろ、過剰な手洗いやアルコール消毒は、皮膚のバリア機能を破壊することになり、かえって害となる。

 空気中のエアロゾルのウィルスが目から感染することはない。これは、インフルエンザに関するボランティアの実験で明らかになっている。従って、フェイスシールドやゴーグルをすることも全く無意味である。

 鼻についても、鼻の入り口を指で触ったくらいでは感染しない。鼻毛が生えている範囲は皮膚だから、皮膚からは感染しない。

 以上のように、新型コロナはエアロゾルで空気感染する呼吸器系ウィルス感染症であり、目や鼻からの飛沫や接触による感染や食べ物などによる消化器系からの感染はないのである。

 

2.エアロゾルによる空気感染を防ぐ方法

 エアロゾルによる空気感染を防ぐ方法は、「マスク」をすること、「換気」を良くすること、長時間の「三密(密閉・密接・密集)」を避けることであり、これらは従来と全く変わらない。2mの「ソーシャル・ディタンス」も有効である。ソーシャル・ディスタンスが有効な理由は、エアロゾルが2mほど飛ぶ間に空気で希釈されて感染リスクが下がるからである。

 風邪程度ですむか、重症化するかは、ウィルスが鼻腔の粘膜や咽頭などの「上気道」に付着するか、気管支や肺の「下気道」に付着するかによって決まる。上気道と下気道のどちらに付着するかは、エアロゾルの飛沫粒子の大きさと吸い込む勢いによって決まり、飛沫粒子の大きさは空気中の湿度の影響を受けて変わる。湿度が高いときは、粒子の乾燥が遅いために粒子が大きいままで鼻から吸い込まれて上気道に付着し、風邪程度ですむことが多い。湿度が低いときは、粒子の乾燥が速く、粒子が小さくなって広く拡散し、吸った息とともに下気道にまで到達して重症化することが多い。これからの冬場は空気が乾燥するので、重症化しやすくなるから注意しなければならない。

 一般的に子供は新型コロナに感染しても重症化することが少ない。従って、子供には大げさな規制をするのを止めて、なるべく正常な育成方法を維持した方が良い。

 マスクは、「素材性能」と「密着性」が生命線となる。素材性能では、着け心地がソフトで息もしやすいポリウレタンは、エアロゾルの粒子除去効果が殆どないから、止めた方がいい。不織布マスクは、0.30.5?の微粒子でも90%以上除去し、医療用サージカルマスクと同程度の性能がある。しかし、不織布マスクでもスカスカのものもあるから、フィルタ性能表示のPFE(微粒子濾過効率)とBFE(細菌の濾過効率)が95%以上のものを選ぶこと。

 マスクの密着性を高める方法は、あらかじめマスク上端のワイヤを鼻の稜線と頬の上部にピッタリと合わせた形にすることである。さらに密着性を高めるには、マスクを横に二つ折りにして、両端の紐を根元で結び、両端にできた穴を粘着テープでふさぐ。そうするとマスクが医療用のN95マスクのように立体的になり、息がしやすくなって、密着性も増す。走ったり、前屈みや上を向くと、隙間ができて密着性が失われるから注意しなければならない。

 なお、フェイスシールドやマウスシールドは、隙間から飛沫が入って滞留するので、かえって危険である。

 外のオープンスペースではマスクをしなくてもよい。先を歩く感染者が出したエアロゾルの中を通ったとしても、空気の拡散運動によって通過する短い時間に生きたウィルスを吸い込む確率は極端に低い。戸外では地面からの上昇気流を含めて必ず風が吹いているから、危険性はさらに少なくなる。

 密室ではないが注意しなければならない場所は、人々が一定の方向に進むエスカレータなどである。こうした場所で危ないと思ったら、マスクの上から手で押さえたり、通過する間だけ吸い込む息を小さくするとよい。

 換気をよくするには、部屋の両側の窓を開け、扇風機をうまく使って空気の流れをつくることである。

 空気感染を防ぐには、「手洗い」よりも、「うがい」、「鼻うがい」、「口ゆすぎ」を積極的にすることである。できれば、「ヨード液(イソジン)」でうがいをした方がよい。寝る前に適度なヨード液で口の中のウィルスを減らしておけば、重症化する確率は確実に減らせる。

 「緑茶」も新型コロナウィルスを殺す作用がある。そのためには、緑茶とウィルスが13分接触する必要があるから、口の中でぶくぶくするようにして、何回か飲むとよい。カラオケで歌う前に緑茶を飲むことも感染防止になる。 

 

3.新型コロナの検査方法について

 PCR検査は、鼻の奥の粘膜をぬぐった液や唾液を検査対象とし、その中に新型コロナウィルスのRNA遺伝子の一部の「特徴的な遺伝子の塩基配列」があるかを検査する。こうしたPCR検査では、死んだウィルスでも陽性(偽陽性)となる。前述したように、エアロゾルの中で生きているウィルスは1/1001/1000であり、9999.9%のウィルスが死んでいることになるから、偽陽性に検出される確率はかなり高いはずである。

 なお、検体中のウィルス遺伝子の量は、検体中の酵素の働きによって、時間の経過とともに減っていくから、検体を採取したら速やかに検査しなければなならい。また、ウィルスのRNA遺伝子の塩基配列を検査するPCR検査は、変異株のウィルスが出現して検査する塩基配列部分が変わった場合には、その部分を変更する必要がある。

 日本では新型コロナ感染の初期段階において、PCR検査キットの不足から、PCR検査をする目安として「37.5度以上の熱が4日間以上続いている」という条件を定めて、PCR検査を受ける人を絞り込んだ。それがPCR検査の回数不足として問題になったが、西村氏によると、これは正解であったという。もし、条件を付けずに多くの人をPCR検査していたら、偽陽性の人が多く検出されて、本当に治療を受ける必要のある患者を選別できず、医療崩壊を起こしていたというのである。

 PCR検査は、陽性か陰性かを判別する方法が主流になっているが、従来通りのやり方をすれば定量的なウィルス量の情報まで分かる。西村氏は、本人の重症化のリスクと周囲に感染を広げるリスクを判断するには、定量的なPCR検査を複数回行って、定量的な変化を見るのが有効だと指摘している。

 新型コロナの検査方法として、PCR検査以外に「抗体検査」と「抗原検査」がある。抗体検査は「過去に新型コロナに感染したことがあるかどうか」を調べる検査である。しかし、現在、感染していないことの証明にはならない。PCR検査を含むどんな検査でも、「今、感染していない」と証明することはできないという。抗体検査には、簡易キットを使った定性的な検査と、精密な機器を使って抗体の量を定量的に測定する方法がある。

 抗原検査は、採取した検体の中に「ウィルスの蛋白質(抗原)があるか」を調べる検査である。抗原検査キットは、感染性ウィルスがいるかを判定する能力が90%以上あり、1015分で検査結果が出るので、コンサートなどの催し物会場の入り口で入場者のチェックに使える。政府は、9月の規制改革会議で車両による移動式のPCR検査・抗原検査を解禁した。

 

4.新型コロナとの共生

 新型コロナと共生する方法を考えるときに、同じ呼吸器系ウィルス感染症で100年の歴史を持つインフルエンザが参考になる。新型コロナとインフルエンザは、ウィルスが鼻や喉で増えるために体外に出やすく、エアロゾルによる空気感染であることも共通する。2003年に流行したSARS(重症性呼吸器症候群)や2012年に流行したMERS(中東呼吸器症候群)は、ウィルスがおもに患者の肺の中で増えるために体外に出にくかったために、感染収束後は再び流行することがなかった。新型コロナは、症状が出る前から感染力がある点でインフルエンザよりもやっかいである。

 インフルエンザは1918年に新しい呼吸器系ウィルス感染症として出現してパンデミックとなった。当時の世界人口は18億人(現在の4分に1)であったが、2千万人から1億人とも言われる人々が死亡し、日本では40万人近い死者が出た。その当時、日本ではコレラが35年間隔で大流行していて、その都度10万人前後の死者が出ていて、1923年には関東大震災が起こって10万人の死者が出た。

 その後インフルエンザは、新型ウィルスが3回出現してパンデミックを繰り返してきた。そして、パンデミックとパンデミックの間は比較的おとなしい流行が毎年繰り返された。今後、新型コロナも新型の変異株が何回か出現して、パンデミックを繰り返すことになるが予測される。

 感染症の長い歴史を見ると、一般的に感染が広がるほどウィルスの弱毒化が起こり、病原性が弱まっていくことが分かる。最初のうちは毒性が強くて亡くなる人が多いが、宿主である人を殺してしまうとウィルス自体が生き残れなくなるから、長期的には人を殺さない程度に毒性が弱いウィルスの方が優勢になって生き残るからである。新型コロナも長い年数で見れば、毒性が弱まっていき、インフルエンザと同じようになっていくと予測される。

 これから新型コロナと共生する社会を築くには、まず新型コロナを正しく理解して、現在の誤解に満ちた対策(パーティション、ビニールカーテンなど)を見直し、感染対策を立て直さなければならない。また、感染を恐れる余りに可能性の低いリスク(接触感染リスクなど)まで対応していたら、社会が成り立たなくなる。「恐れすぎ」からくる差別の問題にも対応する必要がある。

 

あとがき

 ここでは最近の新型コロナの状況と今後のコロナとの共生について述べる。 9月末時点における新型コロナの感染者累計数は、世界全体で233百万人、日本では1.7百万人であり、死亡者累計数は、世界全体で477万人、日本では1.76万人である。人口当たりで見ると、日本の感染者数は世界平均の約半分であり、死亡者数は約4分の1であるから、日本人は新型コロナにかかりにくく、死亡する人も少ないことが分かる。こうなる理由として、日本人はハグやキスをする習慣がなく、マスクをする習慣があるからだと西村氏は指摘している。

 日本では、20202月頃から新型コロナの感染が始まり、現在までに5回に及ぶ感染の波が繰り返された。最初の緊急事態宣言が20204月に発せられ、その後、何回か緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が絶え間なく出されて、人々の行動自粛を促してきた。グーグルによる人流データを基に外出自粛率を分析したところ、人々の自粛に影響を与えたのは、宣言や重点措置よりも感染者の増減情報の方が大きかったことが分かった。また、緊急事態宣言の回数を重ねるにつれて宣言の効果が小さくなった。

 日本では20212月からワクチン接種が始まり、医療従事者・高齢者から現役世代へと行き渡り始め、922日の時点で2回接種者が50歳代で58%、40歳代で41%に達した。9月末時点でワクチンを1回接種した人の割合は、日本が70.7%で米国を抜き、英国の71.6%、フランスの74.4%に迫っている。

 第5波では、新型コロナウィルスが変異したデルタ株が流行し、その感染力が当初のウィルスの約1.5倍もあることから、感染が急拡大した。幸いにも、ワクチン接種者が増えたことから、かろうじて医療崩壊を免れることができた。ワクチン接種者の重症化率が8分の1に、死亡率が3分の1に減少したからである。そして、820日頃をピークにして全国的に新規感染者が減少し始め、病床使用率も50%を切って減少してきた。これを受けて政府は、101日をもって19都道府県の緊急事態宣言と8県の重点措置を解除した。

 デルタ株は2回のワクチン接種者にも感染する「ブレイクスルー感染」を引き起こした。オックスフォード大学の研究によると、ブレークスルー感染したワクチン接種者が他人にうつすリスクは未接種者のリスクの35%になるという。つまり、2回接種したワクチンのデルタ株に対する予防効率は65%ということである。それでも他人にうつすリスクがあるのだから、ワクチン接種済みでも検査やマスク着用などの感染対策を続けなければならなくなった。

 ワクチン接種が最も進んでいるイスラエルでも、今、ブレークスルー感染による感染者が増えていて、3回目のワクチン接種(「ブースター接種」という)をしている。イスラエルの研究によると、ブースター接種はブレークスルー感染にも有効であり、免疫が持続するようになるという。今後のワクチン接種は3回するのが一般的になるであろう。

 日本では緊急事態宣言が全て解除されたが、これで安心してはいられない。ブースター接種をしなければならないし、パンデミックは全く収まっていないから、今後、第6波が必ず起こると考えなければならない。しかも、これから冬にかけて乾燥する季節を迎える日本では、重症化が増える恐れがある。

 また、今まで緊急事態宣言の犠牲になってきた飲食店・ライブハウス・観光業などの経済活動を再開して、多少の感染者が出ても医療逼迫を防ぎながら、経済活動を持続できるようにする方法を確立しなければならない。

 それには、体制の強化が急務となる。まずは、検査体制の強化をしなければならない。感染を防ぎながら飲食店・ライブハウス・観光業などの経済活動を続けられるようにするには、客と接する従業員についてPCR検査や抗原検査を無料化して、検査回数を週1回程度にしなければならない。

 次に、医療体制の強化である。日本は人口当たりの病床数が世界のトップにあるが、実際に対応できる医師や看護師が確保できないために、実効性のある病床が確保できていない。これに対処するには、臨時医療施設や宿泊療養・在宅療養に対して、オンライン診療を強化することによって医師や看護師の不足を補うことが急務となる。また、大病院が受け入れる患者を病院での治療が必要な患者に絞り込むシステムを構築する必要がある。諸外国では、既に無症状や軽症の患者は自宅療養が原則となっていて、限られた病床を必要な患者に有効活用している。英国では、資格を持つ総合診療医が幅広い症状に対して入院の要否を判断している。こうした医療体制の強化は、地域の開業医を巻き込んだ地域医療体制の再構築となり、高齢化社会にも有効な医療体制となる。

 日本の水際対策が欧米主要国と比べて厳しすぎて、今後の経済復興の妨げになることが懸念される。日本の現在の水際対策は、入国者の上限を1日に3500人以内に制限し、出国時と入国時の両方の検査と、入国後14日間(接種済者は10日間)の待機を義務づけている。米国とフランスは出国前の検査だけ、英国とドイツはワクチン未接種者に限って出国前の検査だけを義務づけ、入国者数の制限や入国後の待機措置は行っていない。日本の水際対策は「恐れすぎ」であり、ワクチン接種者の増加に伴って感染リスクが低減していることを全く考慮していない。コロナと共生して経済活動を持続させる「ウィズコロナの戦略」とは、医療体制が許容し得る感染者数・重症者数の範囲内で、経済活動をできるだけ大きくできるように、「規制を緩めていく」ことである。日本の「規制」は、水際対策のように、安全を見過ぎている。これでは、コロナと共生する社会を築くことは不可能である。

 ここで、国産の新型コロナワクチンの実用化予定についてふれておく。新型コロナワクチンには色々な種類がある。日本で使われている米国のファイザーとモデルナのワクチンは、ウィルスの遺伝情報を使う「メッセンジャーRNAmRNA)」と呼ぶ新しいタイプのワクチンである。英アストラゼネカや米ジョンソン・エンド・ジョンソンのワクチンは、無害なウィルスを生かした「ウィルスベクター」と呼ばれるワクチンである。この他に、感染力をなくしたウィルスを使う「不活化」型、遺伝子組み換えで作ったウィルスの一部を活用する「組み換え蛋白」型、ウィルスに似た構造を生かした「VLP」型などがある。国内勢では、塩野義製薬が「組み換え蛋白」型の開発を進めていて、20223月の実用化を目指している。また塩野義製薬は、鼻や喉の粘膜の免疫をつけて感染を防止するために、鼻に噴霧する方法の臨床試験を2022年度から始める。この他に、第一三共が「mRNA」型を2022年中に、KMバイオロジクスが「不活化」型を20233月までに実用化する予定である。なお、田辺三菱製薬が植物由来の「VLP」型で本年中の実用化を目指しているが詳細は不明である。

 最後に、今までに発生した新型コロナの変異株について述べる。各変異株には名称としてギリシャのアルファベット(アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、…)がついている。WTOは、変異株を感染力の強いVOC(懸念される変異株)とVOI(注目すべき変異株)の2種類に分けている。VOCには、20209月にイギリスで見つかった「アルファ」、20205月に南アフリカで見つかった「ベータ」、202011月にブラジルで見つかった「ガンマ」、202010月にインドで見つかった「デルタ」がある。今までに感染した国数は、アルファが171カ国で最も多く、次いでデルタが146カ国である。日本でも、アルファ株が20213月〜5月に主流になり、20216月以降はデルタ株が主流になった。なお、日本でも今までにベータ株が114例、ガンマ株が115例だけ検出されている。VOIには、複数の国で見つかった「イータ」、アメリカで見つかった「イオタ」、インドで見つかった「カッパ」、ペルーで見つかった「ラムダ」、そして、最も新しい変異株は20211月にコロンビアで見つかった「ミュー」の5つの変異株がある。VOIの変異株が感染した国の数は、3177カ国であり、VOCと比べて少ない。日本ではそれぞれ127例しか検出されていないが、全ての変異株が日本に入ってきている。

 さて、今までに発生した変異株が最初に見つかった年月を調べると、全ての変異株が20205月〜20211月の9ヶ月間に見つかっていることが分かる。その後は現在まで見つかっていない。また、欧米の研究者が指摘しているように、最初の新型コロナが20199月に中国で発生していたとすれば、最初の変異株が見つかるまでに9ヶ月を要したことになる。このことから、新型コロナには約18ヶ月の周期があって、約9ヶ月ごとに流行期と変異期を繰り返してきたように見える。                                     (以上)

世界の今

                                                     20218 芦沢壮寿

 今、世界は米中対立のもとに急速に変化しています。そうした世界の変化の最新の状況を考察して、世界の行方を考えてみることにします。

 

1.通貨覇権の争い

 世界の通貨制度は1944年まで金を基準に各国の通貨価値を固定する「金本位制」であった。第2次世界大戦末期の1944年に開かれた連合国のブレトンウッズ会議で、金ドル本位の「固定相場制」の通貨制度が固まってドルが基軸通貨となり、ドルの覇権が確立された。これを「ブレトンウッズ体制」という。金ドル本位の固定相場制とは、1トロイオンスの金を35ドルに固定し、1ドルに対する各国の為替相場を固定するもので、米国が海外からの金への交換要請に応じた。その時に日本円は1ドル360円に固定された。

 ブレトンウッズ体制は、今から50年前の1971年に起こったニクソン・ショックによって崩壊し、世界は「変動相場制」へと移行した。その当時の米国は、日本やドイツからの輸入増加で国際収支が赤字に転じ、ベトナム戦争の戦費拡大で財政が悪化し、金ドル本位制を維持することが困難になっていた。そこで米国は、日欧に通貨調整の責任分担を求めたのである。変動相場制には国際収支の不均衡を自動調節するメリットがあり、金融のグローバル化が進んで世界経済が発展したが、一方では世界的な金融危機が頻発するようになった。1980年代にラテンアメリカ諸国で債務問題が発生し、1997にアジア通貨危機が起き、2008年にリーマン・ショックが起きた。変動相場制になっても、世界の貿易決済の半分近くがドル建てで行われることによって世界の経済情報が米国に集まり、米ドルは貿易や投資の国際取引の基軸通貨であり続けた。

 しかし、変動相場制になって50年間に、金に対するドルの価値が98%も下落した。世界銀行によると、50年間に世界の通貨供給量が国内総生産(GDP)の6割から1.3倍になり、生産性が3.2倍になったが、1時間当たりの賃金は1.4倍に留まったという。これは、経済成長の成果の個人への分配率が低下し、貧富の格差が拡大したことを意味する。こうした状況にドル離れが進み、中国は外貨準備のドル依存度を20年間で8割から6割に下げ、世界の外貨準備のドル比率はピークの87%から59%に下がった。

 中国の台頭もドル覇権を脅かしている。既にモノの貿易では、ここ50年間で米国の貿易額が世界全体の13%から11%に低下したのに対して、中国は1%から13%になって米国を抜いた。2030年までに経済規模で中国が米国を追い抜くという試算がある。さらに、購買力平価(国が違っても同じ製品の価値は同じと考えた場合の交換レート)で経済規模を比べると、既に2017年に米中の経済規模が逆転したという。

 ここで、日本経済と円相場の動きについてふれる。日本は、ニクソン・ショック後に円高が進み、1ドル7532銭の最高値をつけるまで長期円高となり、輸出主導で成長してきた日本経済の重荷となった。ところが最近では、円安に逆戻りして状況が一変している。企業が海外に生産拠点を移したために国内からの輸出が減る一方で、化石燃料の輸入が年17兆円に膨らんで貿易基調が赤字に転じ、円安はマイナス効果となっている。今後、2050年を目標にカーボンゼロやデジタル化を進めることによって輸出入の構造が変わっていくが、2050年における日本経済でも「円安はマイナス効果」という状況は変わらない。エネルギー源が再生可能エネルギーになって化石燃料の輸入が減ったとしても、日本のデジタル化が遅れているために、海外のソフトウェア、クラウド、ネット通販といったサービスやIT機器の輸入が増えるからである。日本は、円高是正に重点を置いて付加価値の低い産業を延命させてきたが、そのために付加価値の高い産業へのシフトが遅れて、賃金が上がらず、消費が低迷する悪循環に陥っている。経済協力開発機構(OECD)によると、主要国の平均年収が2000年以降に14割上昇したのに対して、日本は横ばいであった。日本の賃金水準は、韓国より1割近く低くなり、新興国の水準に近づきつつある。

 今、世界各国が「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」の発行を急いでいる。そのきっかけを作ったのは、米フェイスブックが20196月に発表したデジタル通貨「リブラ」である。リブラは、ビットコイン(仮想通貨)と異なり、ドル、ユーロ、円などの法定通貨を裏付け資産とする。世界で28億人のフェイスブック・ユーザーがリブラを使えば「世界通貨」となる可能性が高い。そうなれば、主権国家の中核機能となっている通貨発行権が民間企業に奪われてしまう。そのことに気づいた各国の金融当局が「リブラつぶし」で団結した。

 なお、ビットコインなどの仮想通貨は、マイニング(採掘)に大量の電力を浪費し、価格変動も激しいことから、世界的に規制される動きにある。既に中国当局はマイニングを全面禁止した。</