芦沢壮寿さん論文集
         (北士会メーリングに投稿の論文をそのまま掲載させていただいております)

人口減少に向かう日本の再生

2024年正月 芦沢壮寿

 

 今、日本は30年余に及ぶ長期停滞から抜け出して、新たな日本に生まれ変わる好機にあります。そのことについては昨年11月に発信した『歴史的転換点にある日本経済』で述べましたが、今回はそれを掘り下げて、人口減少に向かう日本が再生する方策について考えてみることにします。

 

1.日本の人口減少対策

 今年の19日に、日本製鉄名誉会長 三村明夫氏が議長となり、元総務相 増田寛也氏が中心となって民間有識者がまとめた『人口ビジョン2100』が発表された。この提言は、岸田首相に戦略の立案や実施の司令塔として政府内に「人口戦略推進本部」を設置することを要求し、2100年に日本の人口を8000万人台で安定させ、高齢化率(65歳以上の人口比率)を30%程度に保つ「定常化戦略」と、その状態で成長力のある社会を築く「強靭化戦略」を提示している。

 三村明夫氏は、長期経済停滞の原因として、家計が消費を控えて貯蓄し、企業が下請け企業にコスト削減を強要して、資金を設備投資に向けずに現預金を積み上げ、政府が社会保障や少子化対策を先送りして「痛みの分配」を避けてきたことによる「家計・企業・政府の共同謀議」だと指摘している。

 日本の人口減少の実態を見ると、戦後間もない第1次べビーブームの頃に4.0以上もあった合計特殊出生率(1人の女性が生涯を通して生む子供の数の平均値)が急激に減って、1961年に1.9となり、197174年の第2次ベビーブーム期に2.14にまでもち直したものの、それ以降は減り続けて2022年には1.26にまで下がった。また、第1次ベビーブーム期に年間240万人だった出生数は、1961年に160万人にまで減少し、第2次ベビーブーム期に210万人に回復したものの、現在は70万人にまで減少した。

 『人口ビジョン2100』の定常化戦略は、2022年に1.26にまで下がった合計特殊出生率を2040年に1.62050年に1.8に回復させ、2100年に人口維持に必要な2.07まで、できるだけ引き上げることである。

 強靭化戦略は、教育の質を向上させ、生産性を上げるために企業・産業・地域の構造改革を行い、移民政策を高い技術者を受け入れて永住させるように変更することによって、1%に近い経済成長のできる社会を築くことである。

 もし、現状のままで放置したとすれば、日本の人口は2100年にピーク時(2010年頃)の半分の6300万人にまで落ち込むという。2040年以降は総人口が毎年70万人を超すペースで急減する減少期に入り、国内市場も急激に縮小するために投資が国内に向かわなくなる。そうなると、果てしない縮小の渦に呑み込まれて格差が急拡大し、世代間の対立が激化して再分配もできなくなってしまい、日本社会は崩壊していく。それを回避するには、今、行動を起こさなければならないのだ。

 提言で注目すべき点は、人口減少局面でも国民1人当たりのGDPを増やして経済を成長させることと、人口減少を外国人で補う補充移民政策を否定し、生産性を高める一環として高技能者を受け入れることである。非高技能者を受け入れると、生産性の低い企業が低賃金の外国人で人手不足を補うことになり、生産性の向上に逆行するからだ。

 

2.日本再生の指針

 日本経済新聞が元旦から『昭和99 ニッポン反転』という特集を連載した。『昭和99 ニッポン反転』は、今年が昭和99年に当たり、日本は今年から昭和の古いシステムから反転して生まれ変わることを意味する。敗戦後の日本を世界第2位の経済大国に成長させた昭和のシステムは、経験がものをいう製造業の世界では良く適合したが、1990年代以降のインターネットとデジタルによる急速な技術進歩の世界には合わなくなった。日本を昭和の古き良き時代のシステムから解き放って、若者向きのデジタル経済に向かって反転する時は今だと主張しているのだ。以下では、この特集をもとにして、人口減少に向かう今後の日本が再生するための指針について考えてみる。

 

@日本の古い制度を解き放って世界に出て行く

 日本の過保護な年功序列の社会では変化が生まれない。下積みを経て処遇が上がっていく年功序列制度では、若者の力を引き出せないからだ。今や世界中の若者がインターネットでつながっている。安泰な文化を捨てて、野心を持って世界に出て行く若者たちを応援して投資することが肝要となる。

 日本の企業が変わってきた。ホンダは、「第二の創業期」を宣言し、もう一度ゼロからスタートして世界と勝負する決意を込めて、2040年に世界の新車を全て電気自動車(EV)と燃料電池車(FCV)にすると表明した。地球温暖化に挑むカーボンニュートラルの時代をリードしていく会社に生まれ変わるという決意を新たにしたのだ。

 2023年には、日本企業がインド工科大学(世界の企業が卒業生の採用を競っている)から世界で最も多い160人を採用した。

 J-POPのエイベックスはガールズグループXGXtraordinary Girls)を最初から世界でデビューさせ、23年に米ビルボードの一部チャートで首位となった。

 山梨県の農業法人アグベルは、農業高齢者が手放す農地をまとめて、収益性を高める好機と捉えて取り組んでいる。

 デジタル経済に向かって日本を再生するには、高度経済成長を支えた過保護で居心地のよい年功序列制度を捨てて、世界に出て行かなければならないのだ。

 

A異能を育ててイノベーションが生まれる環境をつくる

 日本は、世界から引用される上位10%に入る論文のシェアで、19992001年に4位だったが、20192021年には13位に沈んだ。

 高度な科学力を保つ国は、異能や変人をイノベーションを生む宝とみなす。米国ではノーベル賞物理学者の過半が21歳以下で大学を卒業する。そして異能や変人の知が共振してイノベーションが生まれる。そうした環境を提供することが「公平・公正な競争」なのだ。

 日本の学校では、平等主義のもとに同年齢が同じ内容を学ぶので、特別な才能を持つ異能や変人を締め出してしまう。日本の大学の講座制は、米欧の知識に追いつくことを優先した戦後の教育では機能したが、斬新な研究は生まれにくい。日本の教育が平等主義に安住して、公平・公正な競争を避けてきた結果として、科学力が没落してしまったのだ。日本の博士号取得者は減少している。世界でも博士号取得者が増えているのは米国と中国だけである。

 今のデジタル世界にイノベーションを起こしたプラットフォーム創始者は全て異能であった。日本をイノベーションの生まれる国にするには、教育の平等主義をやめて公平・公正な競争の制度に変え、異能が育つ環境にしなければならない。

 

B失敗を恐れずに挑戦する企業文化の創造

 古い慣習が残る日本企業をJTCJapanese Traditional Company)と言う。最も典型的なJTCNTTが「失敗カンファレンス」という社内イベントを始めた。このイベントにはオンラインも含めて2千人が参加し、互いに自分の失敗を発表し合って会場が沸いている。このイベントの目的は、失敗を恐れ、挑戦を避ける社内の空気を変えることであった。JTCの硬直的な年功序列制度は、出世の階段からはずれることを恐れ、無意識に責任逃れや失敗の回避を優先する企業文化を生み出して意欲の低下を招いていた。NTTは、年功序列をやめて「抜てき」をするようになって、成長のスイッチが入ったという。

 これからのデジタル社会では、失敗を恐れずに挑戦して、素速く試行錯誤を繰り返すことによって早く成果をあげ、競争に勝つことが肝要となる。

 

Cコンテンツを日本の基幹産業に育てる

 日本政府は、2003年に「知的財産戦略本部」を設置し、2010年には「クールジャパン海外戦略室」を設置してコンテンツ政策を進めてきたが、期待された役割を果たせなかった。失敗の原因は、政策の目標が不明確なために、戦略的・一元的な取り組みが不十分であったという。

 一方、韓国は、2009年に「韓国コンテンツ振興院」を設けて音楽・映画・漫画などのコンテンツ産業の海外展開で成果を挙げてきて、2021年には112億ドルの黒字を出している。

 日本はアニメ市場が大きくて安定していたから、日本国内で独自の低リスク志向で発展してきた。しかし、それでは限界がある。その限界を突破するには、海外にジャンプするしかない。

 最近になって米ネットフリックスが配信を始めた日本のアニメ「PLUTO」は、1話が3億円超となり、従来の45倍となった。米国は日本のアニメの潜在力に着目し、巨額を投じて買いあさっている。しかし、海外の巨大配信会社が日本のアニメ制作を主導する流れは、もろ手を挙げて喜べない。収入が制作費のみに制限され、関連商品などの2次展開が制限されるからだ。2022年の日本の著作権関連の国際収支は1.5兆円の赤字であった。コンテンツ産業では、自前の制作力を高めないと「植民地」になってしまう。

 ヒュ−マンメディアによると、日本発コンテンツの海外市場は、2022年に4.7兆円と2012年の3倍に急成長し、半導体に迫っている。経団連は2033年にコンテンツの海外市場を自動車に匹敵する最大20兆円にして、次代の基幹産業に飛躍させる計画を掲げている。

 今年は、日本の人気アニメ「ドラゴンボール」が生誕40周年の節目を迎え、完全新作のアニメとしてよみがえる。その主人公の孫悟空が復活の地として選んだのは米国であった。昨年10月、ドラゴンボールのプロデューサーを務める伊能昭夫社長がニューヨークの世界最大級のポップカルチャー祭典「コミコン」で「ドラゴンボール」の新作を宣言した。日本の作品が評価される今こそ、プロデュース力で勝負するチャンスだ。

 手塚治虫や藤子不二雄などの昭和のマンガの巨匠たちを生んだアパート「トキワ荘」の令和版を創る試みが始まっている。少年ジャンプの編集者であった持田修一社長が設立した「熊本コアミックス」である。持田社長は、イタリア人の編集者、オーストラリア人、フィンランド人などの若者と一緒になって、日本と世界の感性を融合して新しいアニメを創作しようとしている。

 

D人口減少に対処するための「令和の大合併」

 2023年の統一地方選では町村長選の56%、町村議選の33%で定数を超える候補者が現れずに無投票となった。選挙をしないと政策点検の機会がなくなり、民主主義の根幹がくずれる。無投票選挙の要因は地域の人口減少にある。

 明治・昭和に市町村の大合併があり、1999年に地方分権が叫ばれて「平成の大合併」が実施された。平成の大合併によって約2100の自治体が合併し、約3200の市町村が2010年までに約1700となった。この合併によって、合併した市町村の人口1万人当たりの職員数が非合併自治体を10人ほど上回り、不足が目立つ医師や土木技師といった専門職も増加した。一方、非合併の市町村のうち4割近くが2010年時点で人口が1万人を下回った。こうした事実から「平成の大合併」は効果があったのだ。

 2010年から本格的な人口減少に転じた日本は、これから一層の人口減少によって地方の過疎化が進む。民主政治の基本となる選挙によって民意を反映させるためには、「令和の大合併」をしなければならない。

 キャノン会長兼社長の御手洗富士夫氏は、国家の大転換として「道州制」の導入を提唱している。今の都道府県を開放して、日本を10程度の道州にくくり直し、米国の州のように、各道州が自主性をもって、地域の特徴を活かして発展を競い合わせるというのだ。

 

E人手不足をロボットやAIで補うための「社会保障投資」の推進

 かつての日本は家族が介護するのが普通だった。一方では介護が必要な「寝たきり老人」が病院に長く入院し、医療保険給付の肥大化を招いていた。

 20004月に現在の介護保険制度ができて、所得に関係なく誰でも介護サービスを受けられるようになった。家族が行っていた介護を社会化したのだ。その方法は、被保険者の要介護・要支援の程度を評価する基準を設け、被保険者が受けられる介護サービスの量をデイサービスや介護ヘルパーなどの保険適用業務の量として明確にした。これにより、寝たきり老人も入院期間をなるべく短くして、自宅で生活できるようになった。

 介護労働安定センターの調査によると、今、ヘルパーの7人に1人が70歳以上だという。また、高齢の夫婦どうしや高齢の子供が親を介護する「老老介護」が広がっている。

 高齢者人口は、今後も増加するが、2040年代に減少に転じる。それでも2040年には最大60万人の介護者が不足すると予測されている。日本の高齢化・人口減少問題は2040年までが勝負所なのだ。

 こうした問題に対処するには、ロボットやAIを使って介護の人手不足を補う必要がある。あるいは、社会全体のデジタル化によって生まれる余剰人員を介護に回すことが考えられる。

 このような国家的社会保障の大改革を行うには、「社会保障投資」の仕組みを作り、その投資資金を使って社会保障に必要なデジタル化を推進することが望ましい。

 

F外国人も輝く国に

 日本では1989年に「改正出入国管理法」が成立し、日系3世までの外国人に「定住者」などの10種類の在留資格を新設して、南米出身日系人の定住化を進めた。1993年に「技能実習制度」、2019年に「特定技能制度」が新設された。現在、日本には320万人を超す在留外国人が暮らしている。

 日本政府は、研修・実習・留学などの表看板を掲げて外国人材の受け入れを拡大してきたが、「移民政策はとらない」との姿勢を貫いてきた。外国人を労働力不足の穴埋めとみなし、社会を成長させる「仲間」とは認めていないのだ。

 日本企業は、外国人の苦手な日本語力を重視して、外国人の持つイノベーション力を無視してきた。それが、イノベーションの停滞する原因となっている。

 日本人の凝り固まった「ムラ社会」の価値観をほぐし、かけ声だけの「外国人共生」から踏み出して、外国人を社会の対等な構成員として認め、権利や待遇を改善することが日本を成長させる突破口となる。

 米国の大手旅行雑誌「コンデナスト・トラベラー」による2023年の読者投票では、「再訪したい国」の1位に日本がなった。外国人にとって日本は魅力的な国なのだ。今でも日本への外国人旅行者が急増して観光産業を潤している。日本が在留外国人にも輝く国になれば、国際社会から好感を持たれるようになり、安全保障や外交面でもメリットが生まれる。

 

G食糧安保を重視する農業政策への転換による農業の再生

 1993年の記録的な冷夏と長雨により、全国の米生産量は783万トンと前年より273万トンも減った。政府はタイや米国から計259万トンを緊急輸入したが、タイ米は敬遠されて輸入量の4割近くにあたる98万トンが売れ残って廃棄された。日本は、国際的なコメ価格を急騰させて評判を落とした。その影には日本の戦後農政の不作為があった。

 日本政府は、1970年に減反政策を始め、需要に合わせて生産を減らすことで価格維持と農家保護に走った。減反政策は、「農家から工夫を奪った」と言われ、与党が農家を保護の対象に位置づけ、補助金を出すことで選挙で有利にするためだった。また、農業協同組合に頼る販売は、農家から消費ニーズの意識を薄れさせた。本来なら、国内で消費しきれない米を輸出に回して稼ぎ、有事の際に国内に流通させることで混乱を緩和できたはずだ。

 国内の主食米の需要が2014年以降減り続けて、農業の縮小が止まらない。全国の田畑面積は2022年に432万ヘクタールとなり、ピークだった1961年から3割減った。それに気候変動が追い打ちをかけた。昨年は観測史上最も暑い年になり、高温や渇水で農作物に甚大な被害を与えた。

 国連食糧農業機関(FAO)によると、日本の農業生産者1人当たりの付加価値額は2020年に18,037ドル(約260万円)で1991年以降ほとんど増えず、韓国やギリシャ、デンマークにも抜かれた。

 穀物の一大輸出国のウクライナの危機が転機となり、食糧安全保障の重要性が浮かび上がった。日本経済の競争力が下がって円安に振れたことで、輸入による安価な調達が期待できなくなった。海外産の値上がりはコスト競争力で負けてきた日本の農業の好機となる。政府は2030年度に生産額ベースの食糧自給律を75%まで上げることを目標とした。これからの日本農業は、食糧自給律を75%まで上げる食糧安保を目指し、農地の集約や連携で経営の質を高めて、収益の上がる新たな成長産業にしていくのだ。それには、農業でも成長産業としてAIやロボットを活用したデジタル化が必要となる。

 

H個をつないで誰もが安心して暮らせる「日本モデル」の創造

 日本の標準家族像は昭和の高度成長期に固まった「夫婦と子供2人」であった。1960年代に地方から若者が都市部に流入し、都市郊外に多摩ニュータウンのような大規模団地が建設され、核家族化が進んだ。

 その後の日本は、合計特殊出生率の減少に伴って若者が減少する一方で、高齢化が進んで高齢化率(65歳以上の人口の比率)が29.1%となり、世界のトップとなった。さらに非婚の若者が増え、結婚しても3分の1が離婚するようになった。その結果として、「単独」の世帯が増加し、今や「単独」の世帯が38%を占めるまでになった。かつて標準家族であった「夫婦と子供」の世帯が減少して25%となり、「夫婦だけ」の世帯が20%、「1人親と子」の世帯が9.0%、「3世代など」の世帯が7.7%となった。

 単独世帯の増加によって、日本は社会制度の改革に迫られている。身元保証人がいないと入院・入所ができないという一般病院や介護保険施設が15.1%あるが、そこでは単独世帯者の入院・入所が面倒になっている。また、「介護は家族がする」という前提が完全に崩れてしまい、介護の全てを社会が行うような制度に改革する必要に迫られている。

 単独所帯の個がつながって協力し合っている実例として、兵庫県尼崎市に住む7080代の7人の単身女性が作っている「個個セブン」というグループがある。普段の生活は独立しているが、不測の事態が起きると互いの部屋に駆けつけて協力し合う。人間関係には煩わしさもあるが、不測の事態に協力し合える仲間がいれば、人生が充実して安心もできる。神奈川県大和市では、「おひとりさま生活課」を設けて、単独生活者に交流の場の紹介や終活支援に取り組んでいる。

 世界で一番早く高齢化が進んでいる日本は、世界に先駆けて単独所帯の個をつないで、誰もが安心して暮らせる「日本モデル」の社会を築いていかなければならない。

 その「日本モデル」でも、個をつないで互いに安心して暮らせる仕組みとしてデジタル・システムが必要になる。日本はデジタル化では遅れをとっているが、日本には地域の住民が協力し合う「和」の文化があり、高齢者の介護に必要なロボット技術では世界の先端にある。こうした日本の得意分野を活かして高齢社会のデジタル化の「日本モデル」を作れば、それが海外の高齢社会デジタル化の手本となって、日本がデジタル分野で発展するチャンスにもなる。、

 

I移動弱者を救済する地域固有の公共交通の創造

 人口増を前提に造ってきた公共交通のインフラがほころび、中小民鉄や第三セクターなど95社の鉄道事業の96%が赤字になっている。人口減少に伴い鉄道事業の環境がますます厳しくなっているが、一方では、高齢化に伴う「移動弱者」の足を保つために、公共交通の置かれた状況を改革する必要性に迫られている。2023年には、移動弱者が急増する75歳以上の人口が200万人を超え、政府は「改正地域公共交通活性化再生法」を施行して、ローカル線のあり方をめぐる本格的な対策に動き出した。

 公共交通政策を専門とする名古屋大学の加藤博和教授は、「住民の暮らしを守るために重要な公共交通は、運営費や要員確保の観点から主要路線を鉄道・バスで維持し、その先のローカルな交通機関は、地元のニーズに応じた交通手段を作って乗り継ぐようにすべきだ」と指摘している。

 その実例として、島根県邑南町では、特例を活用して自家用車を使い、地元の住民団体のメンバーが運転する予約制の乗り合いタクシーを始めている。

 

J日本をデジタルで稼げる国にするには、「壊」より始めよ

 2001年に森喜朗内閣がIT基本法に基づく国家戦略として「eJapan戦略」を掲げ、日本はITの活用による新産業の創出や人材の育成を目指した。その戦略の目標の1つだった「高速インターネットを3千万世帯、超高速インターネットを1千万世帯に整備する」という目標は達成した。しかし、最大の目標であった「IT投資や新たなビジネスモデルへの構造転換を進める」ことは達成できなかった。

 200009年の10年間のIT投資は、米国が1.7倍、英国が1.5倍、フランスが2.2倍に増えたのに対して、日本は10%も減少した。戦後の高度経済成長で世界第2位の経済大国となった日本は、2022年の1人当たりの名目GDPでは世界32位になり下がった。

 三菱総合研究所によると、2023年に日本企業が米企業のクラウドに支払ったデジタル赤字は56千億円になるという。赤字額は年々増加し、この10年で2.6倍になった。米大手3社のプラットフォーマーが国際競争力のあるクラウド基地のシェアの66%を占めている。日本企業はそのクラウドを使ってDX(デジタル・トランスフォーメーション:企業がクラウドのビッグデータやITを利用して、市場の変化に対応して、社内の組織・文化・社員の変革を牽引し、優位性のある製品・サービスの価値を創出すること)を進めている。言わば日本企業はクラウドを提供する米企業に56千億もの年貢を貢ぐ「デジタル小作人」なのだ。2001年に大型汎用機で世界の4割を握っていた日本は、クラウドでは殆どゼロに近く、デジタルでは稼げない国となった。

 クラウドの草分けの米アマゾン・ドット・コムは、リスクのある投資を重ねてコンピューター・サービスの新市場を創出した。日本のIT企業の誤算は「変化の速さ」というデジタルの本質を見失っていた点にある。米企業はサービスを運用しながら顧客と対話を重ね、失敗を恐れずに素速く新たなサービスを作り変えていく。日本のIT企業は、製造業と同じように、ソフトウェアを顧客の要望に綿密に擦り合わせて作るために時間がかかり過ぎ、変化についていけない。オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステード博士が開発した国民文化のモデルによると、日本は不確実性を回避する傾向がロシアに続いて高く、世界で2番目に完璧さを好む国だという。完璧さを好む国は変化を恐れるためにデジタル競争力が落ちるという。逆に、変化を恐れない傾向が顕著な北欧はデジタル競争力で上位を占めている。

 デジタル・システムの場合、古いシステムを作り変えるより、ゼロから作り直した方が早いという。今後のデジタル世界で日本が稼げる国に生まれ変わるには、過去のデジタル・インフラを壊して、新しいインフラを作り直した方が早くできる。この節のタイトル『「壊」より始めよ』とはそういう意味である。

 日本のスタートアップ企業のMujinは、無数の産業用ロボットをつなぎ、無人で運用できる基本ソフト(OS)を開発した。このOSが産業用ロボットのプラットッフォームとなれば、世界シェアの4割を持つ日本のロボットがますます売れるようになる。

 

3.あとがき

 日本は、地震・気候変動などの自然災害に見舞われ、少子化・人口減少・人手不足などの人口問題を抱えながら、世界で最も早く高齢社会に向かっています。こうした困難の中で『昭和99 ニッポン反転』の取材で日本各地をまわった日経新聞の記者たちは、「ピンチの今こそ飛躍のチャンスだ」と言う多くの日本人に出会ったと言っています。

 今年の春闘は企業側が物価上昇以上の賃上げをする形勢にあり、日銀もプラス金利に回帰しそうで、まさに『昭和99 ニッポン反転』が実現しそうな気配になってきました。

 2章で述べた「日本再生の指針」の11個の指針に共通することは、日本の人口減少と高齢化に伴って発生する諸問題を解決する手段として「デジタル化」が必要だということです。ところが、Jで述べたように、日本人の「完璧さ」を好む国民性がデジタル化の「変化の速さ」にうまく対応できなかったために、日本はデジタル化で遅れてしまいました。

 日本ではいまだに「マイナンバーカード」を健康保険証として使うことでトラブルが発生しています。人口減少と老齢化が進む日本の国家・地方の行政の人手を減らして効率化するには、全体の行政システムをデジタル化する必要があり、そのためには絶対にマイナンバーカードが必要となります。日本国民がデジタル化を嫌って抵抗しても、デジタル化に代わって人口減少と老齢化を乗り切る手段はありません。日本政府は、デジタル化の目的と意義を国民に正しく説明して、国民が理解して納得するように導かなければならないのです。

 それにしても、我々が受けた戦後の「平等主義の教育」や我々が活躍した高度経済成長期の「年功序列制度」がデジタル化の時代には弊害として抹殺されるという激烈な文化の変化には、「驚き」と同時に「寂しさ」を感じます。

 しかし、人類史上でこうした大きな文化の変化を引き起こすイノベーションは、これが最後になると筆者は考えます。昨年11月に発信した『歴史的転換点にある日本経済』で述べたように、デジタル化の最後は人類の進化の行き着く最終到達点と言われる「汎用型AIAGI)」だからです。もし、次のイノベーションが起こるとすれば、22世紀になって人類全体の人口が減少し始めた時に、人類が存続するためのルールとして、戦争などの争いをやめ、協力し合うためのルールを作るイノベーションになると思います。

 最後に筆者の「私事」を書いて終わることにします。

 1章の「日本の人口減少対策」で述べたように、2040年は日本の大きな節目の年となりますが、その年は筆者が百歳になる年に当たります。

 筆者は、『2040年に介護者不足が最大となり、それ以降は高齢者が減少していくので、2040年までが高齢化問題の勝負所となる。もし出生率を上げる対策をとらなければ、2040年以降に人口減少によって国内市場が急激に縮小し、投資が国内に向かわなくなって格差が急拡大して日本社会は崩壊に向かう』ということを知りまして、百歳まで生きて2040年に日本がどうなっているかを確かめてみたいという気持ちが湧いてきました。

 筆者としては、この冊子をできるだけ多くの方に読んでもらい、希望を持って積極的に「人口減少に向かう日本の再生」に参加してもらいたいと考えています。最後までお読み戴き、ありがとうございました。     (以上)

 

 歴史的転換点にある日本経済

                         202311月 芦沢壮寿

 

 今、日本が直面している異常な物価高に対して、政府は所得税・住民税の減税で対処しようとしています。この政府の対応に日経新聞論説委員長の藤井彰夫氏が「これが未来に向いた対策か」と言って批判しています。藤井氏は、現在の物価高が四半世紀にわたるデフレ経済から脱却する「日本経済の歴史的転換点」になりうるチャンスだと主張しているのです。そのへんのについて、日経新聞の論説をもとにして考えてみることにします。

 

1.今の物価高は何を意味するか

 日本は、1990年代のバブル崩壊後にデフレ経済に陥り、四半世紀にわたって物価も賃金も上がらない低迷状態が続き、日本経済のダイナミズムや市場機能が失われてきた。バブル崩壊前の1990年度の日本の潜在成長率は3.7%だったが、バブル崩壊後のデフレ経済では成長力を失い、昨年度(2022年度)の潜在成長率でも0.4%に留まっている。

 このデフレ経済を脱却するために、10年前から黒田前日銀総裁のもとで年2%の物価上昇目標を掲げて異次元の金融緩和を進めてきた。しかし、デフレ経済を脱却することができなかった。

 ところが、2020年に始まった新型コロナウィルス禍と、それに続くウクライナ危機に伴う世界的なインフレと円安という外的ショックにより、日本でも物価高騰が起こり、いとも簡単にデフレ経済が打破された。

 こうした状況変化をとらえて日経新聞の論説は、「今、日本は、四半世紀ぶりにデフレから脱して、名目GDPが増える本来の経済に戻る歴史的な転換点にある」と述べ、「このチャンスを活かすには、未来に向けた長期的な経済対策をとる必要がある」と説いている。

 日経新聞の論説によると、今回の物価高は日米金利差による円安が大きく影響している。足元で米国の長期金利が4.9%程度、日本が0.95%前後だが、円相場は1ドル当り151円まで円安が進んで、1990年以来33年ぶりの安値となった。円は他の通貨に対しても弱含みで全面安となっている。これは、市場が日本経済の潜在成長率が低く、金利の上昇余地が乏しいと見ているからだ。

 経済協力開発機構(OECD)によると、2022年の潜在成長率が米国1.8%、カナダ1.5%、フランス1.2%に対して日本の潜在成長率は0.6%だという。日本の潜在成長率が1%を割っている状態では金利の引き上げができないとみなされて、円安が進んでいるのだ。その結果、石油や食糧などの輸入品の価格が高騰して物価高となっている。この円安により日本のGDPがドイツに抜かれて第4位に転落する一方で、円安によって輸出が伸びたトヨタが最高益を記録するという。なお、日本のGDP2026年にインドに抜かれて第5位となる。

 日銀の植田総裁は長短金利操作(YCC:イールドカーブ・コントロール)によって長期金利を1%超まで容認する政策をとっている。従来の伝統的な金融操作は、短期金利のみを操作対象としたのに対して、長短金利操作では残存年限(満期までの期間)ごとの金利をつなげた利回り曲線(「イールドカーブ」という)を全体的に押し下げるように操作する。日銀は、長短金利操作で長期金利を上げて市場機能を改善しようとしているが、それにも限界がある。

 

 

 

2.日本の未来に向けた長期経済対策

 日経新聞の論説は、今が長年にわたって苦しんできたデフレ経済を脱却するチャンスだと捉え、それを実現するには日本の潜在成長率を米欧並みの1%以上に引き上げるための長期経済対策が必要だと指摘している。その長期経済対策では、既に始まっている人口減少によるマイナスの生産性を補った上に、日本全体の名目GDPの成長率を1%以上にしなければならない。つまり、これから目指す「日本の未来に向けた長期経済対策」は、人口減少への対応と生産性の向上の両方を目指して、それらを同時に達成できるように「日本経済の体質を改善しなければならない」のだ。

 日本政府は、112日に37兆円規模の経済対策を公表し、労働力の底上げや国内投資を促して、潜在成長率を1%に引き上げることを目指すと発表した。しかし、過去の対策を見ると日本経済の体質改善が進んでおらず、潜在成長率を1%に引き上げる見通しが全くたっていない。

 政府の経済対策には、労働力を増やすための「年収の壁」(年収が106万円以上になると社会保険料の負担が増えて手取りが減るために、それ以上働かなくなる壁)の打開策、半導体や蓄電池などの戦略物資の国内投資をうながす補助、成長分野に労働力を移動させるための教育訓練に対する補助、企業の省力化投資に対する補助などを掲げている。しかし、これでは従来のバラマキ的な政策の延長であり、とても潜在成長率を1%にすることはできない。

 日本経済の潜在成長力を妨げている最大の問題は、日本がいまだにアナログ世界に固執してデジタル化に抵抗し、AIなどの最先端デジタル技術の利用を敬遠する人が多いことだ。日本企業の72%が生成AIの利用を禁止しているという。

 9月にシンガポールで開かれた最先端のデジタル技術の展示会に世界から多くの企業や投資家が集まったが、日本勢の影は薄かった。この展示会には情報管理の最先端をいく「Web3(ウェブスリー)」(注)の技術が展示されていたが、日本の企業はそれに関心のある企業が少ない。

 

(注)情報管理の初期段階は、情報の発信者と閲覧者が固定されて、情報が一方向に伝わる「Web1.0」であった。次の段階は、中央集権型のプラットフォーム事業者に情報を集中させて、SNSのように情報の発信者と閲覧者の双方向でコミュニケーションをする「Web2.0」となった。その次に出てきたのが特定のプラットフォームに依存しない新しいインターネットの在り方の「Web3」であった。Web3は、個人に関連する情報を自分自身で保有し、自分自身の判断によって管理することを前提とした仕組みで、コンテンツの売買や送金などの取引を個人間で行うことが容易になる。Web3の最大の特徴は、『非中央集権』で、中央管理者を持たないブロックチェーン技術を利用することによって、プラットフォームを介さずに個人同士で情報のやり取りができるようになり、誰でも情報の管理に参加できる。

 

 日本人は、デジタル化に逆らう傾向があり、社会をより効率的にする意欲よりも、現状を維持しようとする力の方が強いようだ。そのことを示す実例として、一般ドライバーが自家用車を使って有料で顧客を送迎する「ライドシェア」について見てみる。

 ライドシェアを行う米国生まれのアプリ「ウーバー」は、世界中の国で受け入れられているが、日本ではタクシー業界の反発と乗客の安全や運転手の身分保障への懸念から、ライドシェアを規制してきた。日本は近い将来に人口減少に伴って運転手が30%も不足すると予測されているが、それを解決するにはライドシェアのようなデジタル技術を使って運転手不足を補わなければならない。そのためには、ライドシェアを規制するのではなく、ライドシェアに不都合な規制の改善や法律の改定をする必要がある。

 幸いなことに、116日に開かれた政府の規制改革推進委員会で、ライドシェアの都市導入を目指すことが決定された。

 諸外国では、社会的な活動を効率化するために法律を変えようとするが、日本人は「違法=悪い」と捉え、法律を変える流れにならない。こうした日本人の文化を変えることが今後の「潜在成長率を1%以上にする長期的経済政策」では肝要となる。

 

3.デジタル化による社会の変貌

 今後、日本の人口が減少していく中で潜在成長率を1%以上にするには、デジタル化を進めてロボットやAIに人間の仕事を代替させるしかない。それは、潜在成長率を1%以上にするためだけでなく、世界中がデジタル化の時代となり、全ての国がデジタル化していくからだ。しかし、日本はデジタル化を積極的に進められる社会に早く変わる必要性に迫られている。

 デジタル化された社会で人間に代わってAIAIを組み込んだロボットが得意とする仕事は、論理的思考や専門的知識を要する仕事と言われる。専門知識を要する病院の医者、法律事務所の弁護士など、今まで専門家として尊敬されてきた人々がAIやロボットにとって代わる。人間がする仕事は、AIが不得意とされる接客力・管理力・創造力を必要とする仕事になる。また、AIが活躍する領域が広がるにつれて、人間が「人間とAIとのインターフェイス」として働くことが多くなる。人間は、AIとユーザーの間に介在して、AIにデータを入力し、AIからの出力結果をユーザーに「笑顔と柔らかい口調」で伝える役割を担うのだ。

 デジタル化された社会では、ホワイトカラー(一般職)とブルーカラー(専門職)の立場が逆転する。今までは多方面の能力・知識を持つホワイトカラーの価値が高かったが、ホワイトカラーの「均質的な価値」、「誰がやっても同じ作業」はAIが代行するようになり、むしろ、「専門性」を持つブルーカラーを今後も人間が担当することになる。

 英国オックスフォード大学のカール・フレイ教授らの研究者は、今後20年間で米国の労働の47%がAIとロボットに代替される可能性が高いという。

 また、世界で最も早く高齢化が進む日本では、2025年〜35年の間に49%の仕事がAIやロボットにとって代わると予測している。

 ところが、ドイツの欧州経済センターのメラニー・アルンツ氏らは、フレイ教授らの予測が色々な職種の職業が同質であるという仮定に基づいた予測であって、各職業の中の実際の業務についての多様性や異質性を考慮すると、AIやロボットに代替される仕事は20%程度だと指摘している。つまり、AIは人間を補完的に助けるものであり、必ずしも人間の仕事がAIに奪われるといった悲観的なものではないと言うのだ。

 人間の仕事の20%がAIに代替されれば、日本の人口減少問題が一時的に緩和される。しかし、日本の人口が1億人程度に減少するまでに人口減少問題を解決しないと、いずれ日本は滅亡することになる。

 ここでAIの問題点について考えてみる。最も懸念される問題は、AIが悪用されてフェイクニュースやフェイクの画像・文章が社会に出回ることだ。これを防止するために、今、日米欧中のAI研究者、AI企業の首脳、政府関係者が集まって、「AIの悪用阻止」の枠組みを構築しようとしている。

 次にAIには、読み込ませた学習データの偏りによる「バイアス」の問題がある。プライバシーなどの人権を無視する国では、AIに人権を無視した経験データを学習させるために、人権を尊重するAIは生まれない。国によって学習する経験データが違うので、AIには「お国柄」が出るのだ。

 なお、現在のAIでは、犬と猫の違いを学習させるのに1万枚もの犬と猫の写真を学習させる必要がある。ところが、5歳児ほどの人間のように「犬」、「猫」という概念を認識・識別する学習アルゴリズムができていれば、将来は犬と猫の写真を1枚ずつ与えるだけで、犬・猫の認識・識別ができるようになるという。従来から、「ビッグデータを所有する者がAIを制す」と言われてきたが、そうではなくなる可能性が出てきた。

 

4.あとがき

 現在のAIは囲碁、翻訳などの用途に限定された「特化型」のAIだ。これに対して、人間の知能のように様々な用途や場面に応用がきくAIを「汎用型」(AGIArtificial General Intelligence)と言う。AGIは、自分で知識を獲得する自立性があって、状況を読み解いて推論する能力があるという。AGIが実現可能かどうかは研究者によって異なるが、AGIこそが人類の進化の行き着く最終到達点だと言われる。

 AGIが完成すれば、その瞬間からテクノロジーの発展は人間の手から離れて、AGIによって行われるようになるという。つまり、その時点で人間は地球上で最も知能の高いという地位をAGIに明け渡すことになるというのだ。そうなると、AGIが間違えれば「人類の滅亡」の危機を引き起こすことにもなりかねない。しかし、この理論は何かが間違っていると筆者は考える。そこで、その間違いについて考えてみることにする。

 人類の進化の最終到達点となるというAGIに至るの歴史は、人類が道具を発明し、道具を使うことによって発展してきたテクノロジーの歴史の延長線上にある。道具は人間の役にたち、人間の能力を拡張してくれるものだが、使い方を誤ると人間に害を与えることにもなるから、人類は危険な道具(刀・銃など)の使用について厳格に規制してきた。従って、「人類の滅亡」という最も危険なリスクを有するAGIにテクノロジーの開発・発展をまかせるべきではないのだ。それは、能力のある人間が常に道徳的に正しいとは言えないのと同じように、AGIが能力的に人間を超えたからといって論理的・倫理的に正しい判断ができるとは限らないからだ。

 このことについて、認知科学者スティーブン・ハルナッドが提起したAIの「記号接地問題」について考えてみる。「記号接地問題」とは、記号(=言葉)の意味が人間の身体的な経験に根ざしているということだ。例えば、「メロン」という言葉の本当の意味は、人間の感覚を通して得られるメロンの色、模様、香り、味、舌触りなどの経験に基づいている。だから、人間と同じ身体的な経験のできないAIには、人間が使う「メロン」という言葉の本当の意味を理解することは不可能だと言うのだ。 

 つまり、人間の経験データを記号として処理して学習しているAIは、生身の人間が感じている「美」「音」「味」や「心の苦しみ」「恋愛感情」などの経験データを論理的なつながりとして理解してしているだけであり、その理解は生身の人間の理解と本質的に異なるというのだ。

 従って、生成AIが描く絵は学習した人間の経験データの絵を模倣しているに過ぎない。そこには、生身の人間が自らの感性によって創作する独創性が全くなく、理論的なデータ処理によって生成されるだけなのだ。

 AGIは自分で知識を獲得する自立性があると言うが、デジタル機械である点ではAIと同じだから、生身の人間の感情や心の動きをデータとして理解できても、微妙な感情や心の動きまでは理解できない。従って、本当の人間の感情や心が理解できないAGIにテクノロジーの開発・発展をまかせるわけにはいかないのだ。AIAGIはあくまでも人間の道具であって、道具として人間に危害を加えないように規制しながら使っていくしかないのだ。

 さて、これからのデジタル化が進んだ社会の自然観は、デジタル・テクノロジーによって仮想現実(メタバース)の世界と現実の世界が一体となって、「デジタル・ネイチャー」と言われる自然観になるという。そして、古来から人類の夢であった「不老不死」がテクノロジーによって可能になると言われる。

 そうしたデジタル社会について、道徳哲学・規範的倫理の観点で研究している米エール大学のシェリー・ケーガン教授が次のように述べている。

 不老不死のテクノロジーとは、人間の脳の中の意識を電子的に保存しておき、死んだ人間の細胞からクローン技術で再生したクローン人間が成長したある時点で、保存していた意識をクローン人間に移植するのだという。

 しかし、クローン人間にとって、自分が誰かの模造品だと知った時に、どんな気持ちになるだろうか。それは、「人間としての存在に対するこの上ない残酷な嘘をついたことになる」とケーガン教授は指摘している。人間のクローンを作ることは、道徳的・倫理的に絶対に許されないことなのだ。

 また、ケーガン教授は、仮想現実の技術についても批判的だ。例えば、仮想現実の技術を使って脳を直接刺激して、実際の経験と同じように感じられる装置が発明されたとする。そうした仮想現実の装置は本当に有用なのだろうか。例えば、エベレスト登山の仮想体験ができる装置で、いくら素晴らしい体験をしたとしても、実際にエベレストに登ったという達成感・満足感は湧いてこない。本当に心が満たされる満足感は、現実の世界でしか体験できないのだ。ケーガン教授は「現実でこそ心は満たされる」と指摘している。

(以上)

人類史の転換点に向かう世界の今と未来 2023 年 4 月 芦沢壮寿
2 月に送りました『人類学的アプローチから見えてくる人類史』の続編とし て、今回は『人類史の転換点に向かう世界の今と未来』というテーマで考えて みることにします。エマニュエル・トッドは著書『我々はどこから来て、今ど こにいるのか?』の中で、「人類は、原初の自由で平等な社会から来て、また 原初のような社会に戻りつつある」と指摘しました。これは、人類の未来が「農 業革命以降の男性優位・女性蔑視の歴史から大きく転換して、原初のような自 由で平等な社会に向かっていく」ことを示唆しています。しかし、今の世界は、 米中対立やウクライナ戦争などで世界が分断され、ますます悪くなっていくよ うに思われます。 先に結論を言いますと、人類の未来が「原初の自由で平等な社会に向かって いく」というトッドの指摘を人類学的・文化的な観点から考察した結果、トッ ドの指摘が本当になりそうな「希望」が見えてきました。どんな時代でも人間 が生きていくためには、「希望」を持つ必要があります。正しい希望をもって、 その希望に向かって進んでいけば、希望が実現します。 以下では、次に示すプロセスで考察していくことにします。1 章の「 人間 とは何者か」では、主にイスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの『サ ピエンス全史』をもとにして人類史を振り返り、人間の本質について考えます。 2 章の「人類史の転換点にさしかかる今の世界」では、今世紀中に世界人口 が減少に転じ、経済が成長の限界に達して人類史の転換点に達すること、米中 対立によって世界が分断されている現状を考察します。3 章の「人類の未来」 では、転換点後の世界がトッドの指摘する「原初の社会に戻る」ことの意味を 考察し、その社会で形成される新たな世界秩序について考えます。4 章の「あ とがき」では、人類の未来まで含めた人類史全体を文化の観点から総括した上 で、今後の日本のあり方について考えます。 1.人間とは何者か 1.1 自然の破壊者の誕生 人類が属する「ヒト科」は「猿人」から始まる。猿人は、700 〜 600 万年前 にアフリカで生まれ、多くの「属」を形成した。生物学では生物を「科」−「属」 −「種」に分類する。しかし、現在、地球上に生存する人類は「ヒト科−サピ エンス属−サピエンス種」だけが生存する異常状態になっている。 440 万年前に骨盤の形が横長になって、木の上でも二足歩行するようになっ た猿人が現れ、オスがメスをめぐって争うことを止めて、一夫一婦制の家族を - 2 - 形成し、夫婦で助け合って生きていくようになった。人類は最初から一夫一婦 制が基本だったのだ。 やがてアフリカ東部で南北に山脈が隆起し、その東側が乾燥して草原化が進 むと、猿人は地上におりて二足歩行するようになった。二足歩行により両手で 食糧を持って家族の所に運べたことが生存上優位に働いた。両手が自由に使え るようになった猿人は、240 万年前頃から石器を道具として使うようになった。 猿人は、180 万年前頃に体毛がなくなり、火を使って肉食をするようになっ てから消化に使われるエネルギーが少なくなり、脳が 2 倍に大きくなって「原 人」へと進化した。原人はアフリカを出てユーラシア大陸に拡散していった。 各地の原人(北京原人、ジャワ原人、ハイデルベルク原人など)の脳がさら に発達して「旧人」(ネアンデルタール人など)へと進化した。旧人は、舌を 微妙に動かせるようになって色々な音を出す発音機能が発達し、沢山の言葉を 使って会話するようになった。人類は会話することによって精神面が発達し、 言葉を話すことが人類にとって必要不可欠となった。 遺伝子による進化を「生物学的進化」と呼ぶ。生物学的進化は、何万年とい う歳月をかけてゆっくりと進化するために、自然の生態系の中で互いに相手の 進化に合わせて進化できるから、生態系が破壊されることがない。旧人類まで は自然の生態系に融合して生存し、自然を破壊することがなかった。 20 万年前に現生人類(ホモ・サピエンス)の「新人」がアフリカで生まれ た。7 万年前にホモ・サピエンスの頭脳に突然変異が起こり、架空のこと(フ ィクション)を考えて仮想的な伝説・神・神話などを創造し、架空の計画を立 てられるようになった。これを「認知革命」という。 この認知革命こそが旧人や他の生物を差別化して、新人が自然の破壊者とな る決定的な原因であった。認知革命を経験したホモ・サピエンスは、神話や集 団の規則といった「文化」を持つようになり、その文化を言葉で子孫に伝える ことによって「文化による進化」を獲得したのだ。ホモ・サピエンスは、世代 ごとに猛スピードで進化するようになり、全ての生物を圧倒するようになった。 ホモ・サピエンスは、5 万 5 千年前にアフリカを出て世界中に拡散していっ た。拡散していった集団は、大きく分けてアジア方面に向かって南北に分かれ た「北方モンゴロイド」の集団と「南方モンゴロイド」の集団、それにインド からヨーロッパに分散した「インド・ヨーロッパ系」の集団の 3 つである。北 方モンゴロイドはヒマラヤ山脈の北側のユーラシア草原地帯からシベリアに分 散し、さらに南北アメリカ大陸にも拡散して行った。南方モンゴロイドは中国 南部から東南アジアに分散し、太平洋の島々へと拡散して行った。これらの集 団の語系体形は、北方モンゴロイドが「膠着語」(言葉に接辞が膠着すること によって、その言葉の文法的な意味を表す言語形体)、南方モンゴロイドが「孤 - 3 - 立語」(個々の言葉が孤立していて、文中における言葉の位置によって、その 言葉の文法的な意味を表す言語形態)、インド・ヨーロッ系が「屈折語」(言葉 の語尾が屈折することによって、その言葉の文法的な意味を表す言語形態)の 3 つの言語形態に分かれた。日本語・韓国語は膠着語、中国語は孤立語である。 ホモ・サピエンスは、各地で狩猟によって大型動物を絶滅させた。シベリア ではマンモス、毛サイなどを絶滅させ、オーストラリアやアメリカ大陸では、 ほとんどの大型動物を絶滅させた。各地に生存していた旧人のネアンデルター ル人も今から 1 万 3 千年前頃までに絶滅してしまい、現在、地球上の人類はホ モ・サピエンスしか存在しなくなった。 今までにホモ・サピエンスは、自然破壊の第1波として、狩猟によって地球 上に生息していた体重 50 kg以上の大型陸上哺乳動物 200 属のうちの半分を 絶滅に追い込み、第2波として、農耕の広がりとともに森林を破壊し農薬によ って多数の小動物を絶滅させ、第3波として、産業革命以降の産業活動によっ て地球温暖化による自然破壊を引き起こしている。 一方、ホモ・サピエンスは、文化を共有することによって大きな集団を形成 できるようになった。しかし、共通の遺伝子を引き継ぐ動物たちは共通の本能 に基づいて行動するので自然に集団のルールが保たれるが、文化によって行動 するホモ・サピエンスは、集団のルールを維持するために、ルールを守らせる ための学校教育と警察、裁判所などの社会機構が必要になった。 1.2 狩猟採集時代に形成された人間の本能 猿人が石器を使い始めた 240 万年前頃から、ホモ・サピエンスが定住して農 業を始めた 1 万 1 千年前頃までの間、人類は移動しながら狩猟採集生活をして いた。つまり、240 万年前から現在までの間に定住して農耕生活をしたのは最 近の 1 万 1 千年だけで、ほとんどが移動しながら狩猟採集生活をしていたのだ。 従って、現代人の遺伝子に蓄積されている本能(精神構造)は、全て原初の狩 猟採集時代に形成されたのだ。 狩猟採集生活をしていた人類は、支配階級のない男女対等の集団を形成し、 病気が少なく(天然痘や結核などの感染症は農耕以降に家畜から移った病気だ った)、食べるだけの食糧を狩猟採集する労働時間は農耕をする労働時間より 短く、しかも多様性のある食物を食べて、飢えや栄養不足になることが少なか った。一夫一婦制の核家族を基本としていたが、親類どうしが集まって集団を つくり、男たちが集団の守りと狩猟、女たちが子育てと食糧採集を分担してい た。また、食糧が乏しい時には、集団どうしが食糧を分け合い、協力し合って 生き延びてきた。人々は驚くほど気前がよく、男女とも自由にパートナーを替 えてセックスを快楽として楽しんでいた。 - 4 - 狩猟採集民は、「アニミズム」(動植物や自然現象には人間と同じように意識 と感情があり、人間と同等の存在であるという考え)を信じていた。後の農耕 民が人間より上位に万物の秩序を司る神がいると信じる「有神論」と比べると、 狩猟採集民のアニミズムは全ての生物が平等であった。 こうした長い狩猟採集時代にホモ・サピエンスの精神構造が形成され、それ が遺伝子の中に組み込まれ、現代人にも引き継がれている。現代人が「平等」 「協力」「健康」「心の豊かさ」などを本能的に望み、それらに「幸福」を感じ るのは、狩猟採集時代に形成された精神構造の遺伝子を引き継いでいるからだ。 狩猟採集時代に男は狩猟や集団の守りに、女は子育てや採集に適した脳の使 い方になったと考えられる。脳は右脳と左脳に分かれていて、一般的に右脳は 感性を司り、左脳は理性を司る。右脳は芸術・形・空間を認識する時に働き、 左脳は論理的思考や言葉を話すときに働く。男たちは、狩猟の色々な場面で右 脳と左脳を別々に使ってきた。一方、共同で子育てし採集をしていた女たちは、 何時も仲間で話しをして暮らしていたので、話し相手の顔や服装や動作を認識 する右脳と相手の話を理解し、自分が話すことを考える左脳を同時に使うよう になった。また、男たちは狩猟に失敗した悪いことより、狩猟に成功した良い ことを記憶するようになったのに対して、女たちは、子供に怪我をさせたりし た悪いことを記憶するようになった。こうした男・女の脳の使い方の違いは、 狩猟採集時代に形成され、現代人にも引き継がれていている。そのために現代 人は、男女間の脳の働き方の違いから誤解が生まれ、夫婦喧嘩の原因となって いる。 1.3 農業革命以降に生じた人類の苦悩 農業への移行は食料の総量を増やしたが、それは人口の爆発的な増加と飽食 のエリート層を生み出したものの、農耕民はかえって貧しくなり、忙しくなっ た。ホモ・サピエンスは、自然との親密な共生関係を捨てて、定住して家と土 地を持つようになった。すると、「我が家」への愛着が生まれて自己中心的に なり、他人を疎外して自己の強欲の赴くままに走り出した。近隣の村落どうし が土地と所有物をめぐって争うようになり、戦いが頻発するようになった。 農耕民は、干魃や洪水などの未来に対する懸念に備えて、蓄えを残すために 自分が消費する以上のものを生み出さなければならなくなり、そのための労働 の過重と「未来に対する不安」というストレスにさいなまされ続けることにな った。しかも、農耕民の蓄えは新たに台頭した支配者やエリート層に吸い上げ られ、農耕民は生きていくのが精一杯の状態に置かれた。これが「農業革命」 の実態である。サピエンスは農耕という「罠」にはまってしまったのだ。 農業革命以降にサピエンスは神話という「想像上の秩序」によって結ばれる - 5 - ようになり、神話を共有することによって大規模な協力のネットワークが構築 されるようになった。それから、古代メソポタミアの都市を始めとして、古代 エジプト王国、アッカド帝国、アッシリア帝国、古代バビロニア帝国などの帝 国が興った。100 万人を超える人々の協力ネットワークを維持するには「神々 が定めた正義」という理由をつけた「想像上の秩序」が必要であった。小集団 の動物たちは、共通の本能に基づく行動によって自ずと集団の秩序が保たれる が、本能を超えて大集団となったサピエンスの社会ではそれが不可能となった。 現代の社会でも同じことが言える。「自由」「平等」「人権」などの普遍的価 値は国民が協力し合うネットワークを維持するための「想像上の秩序」である。 普遍的価値であっても客観的な正当性がないから、それを維持するには社会的 な努力が必要になる。その努力とは、全ての子供に普遍的価値をよく教え込む ことによって「共同主観的秩序」(全員が共有している主観的秩序)とするこ とと、警察、裁判所、監獄などの「社会制度」によって強制的に守らせること だった。そのために、子供を社会の一員として生きていける成人に育てる期間 として、社会の「文化」、即ち「共同主観的秩序」を 15 年以上かけて教育する 「成長期」が必要になった。子供は、言語によって共同主観的秩序を学んで初 めて一人前の成人となるのだ。 人間の赤ちゃんには生まれながらに言語習得能力が備わっていることをロシ ア人の言語学者チョムスキーが発見した。チョムスキーはそれを「普遍文法 (Universal Grammar」と言った。普遍文法とは、「どんな言語でも生成できる 文法」という意味である。どんな言語の国に生まれた赤ちゃんでも、親や周囲 の人が話すことを聞いているだけで話ができるようになるのは、普遍文法が本 能として脳の中に形成されているからだというのだ。普遍文法は、人種や民族 に関係なく全サピエンスの遺伝子に共通に備わっていて、どの言語にも有効に 働き、ある言語環境にいる子供が言語を聞いただけで、その言語の法則を自分 なりに作れるようにする。つまり子供は、大人の言葉を模倣して覚えるのでは なく、聞いた言葉の使い方の法則を普遍文法を使って作っているのだ。よく「子 供は詩人だ」と言われるが、それは、言葉の使い方の法則を使って大人の及び もつかない表現をするからだ。 子供が普遍文法を使って習得した言語が「母語」(第 1 言語)となる。母語 は、話す言語であると同時に、思考するときの言語となる。 普遍文法には期限があり、有効に働くのは思春期(12 〜 16 才)までだ。そ れを過ぎると母語の習得が不可能になる。思春期は、成長期から生殖期への移 行期間だが、この間に普遍文法の遺伝子の働きがオフになる一方で、生殖機能 を司る遺伝子の働きがオンになる。実際に、インドでオオカミに育てられた子 供が思春期を過ぎて人間世界に戻ったが、最後まで人間の言葉が話せなかった - 6 - という実話がある。 母語を習得した後に学ぶ外国語を「第 2 言語」という。第 2 言語は、普遍文 法ではなく、母語を使って習得するので、思春期を過ぎても習得が可能となる。 但し、第 2 言語は、母語を介して学ぶので、理解が遅くなり、理解度も落ちる。 なお、2 種類の言葉を話す親のもとで育った子供は、普遍文法で同時に 2 種 類の言葉を母語として習得し、バイリンガルとなる。 1.4 競争の文化が引き起こす「文明の暴走」 南太平洋のイースター島で 4 〜 16 世紀に起こった「文明の暴走」は、人類 の競争の文化の危険性を示唆している。 4 世紀に南太平洋のイースター島に上陸した南方モンゴロイドは、部族ごと に町をつくり、豊かなヤシの実の食料に恵まれて人口が増加していった。7 世 紀頃に 50 以上もあった部族が自分達の力を誇示するために、亡くなった部族 長のモアイ像を造って、海岸近くの部族の墓の祭壇に並べた。モアイ像は標高 200 メートルのラノラナク山の凝灰岩をくりぬいて造り、像を立てたままで何 10 キロもの道のりを運んだ。像の高さは最初 2 メートル程度であったが、次 第に競い合って高くなり、15 世紀には 11 メートルになり、重さが 100 トンを 超えた。それでも各部族は競ってモアイを造り続けた。島の人口が増え続け、 船を造るためにヤシの木を切ったためにヤシの森がなくなった。 16 世紀になると、人口が 1 万人となり、部族どうしが衝突するようになって 互いに他部族のモアイを倒し始め、最終的には全てのモアイが倒されてしまっ た。1774 年にイギリス人がイースター島に上陸した時には、900 体ものモアイ 像が全て顔を下にして倒されていた。それでもモアイの製造場所には造りかけ の巨大な像が多数遺っていて、人々が島を放棄する間際までモアイを造り続け ていた様子が窺えた。人々は自らの文明を破壊して、島を去ったのだ。 これは、人間の過剰な競争心が引き起こした文明の暴走であった。文明の暴 走はイースター島に限ったことではない。動物はメスをめぐってオスどうしが 競争する本能を持っているが、もって生まれた共通の本能で競争するので暴走 することはない。文化で競争する人間は、競争をエスカレートさせるばかりで、 未だに競争をコントロールする文化を持ち合わせていない。人間の競争には常 に暴走のリスクがつきまとう。 1.5 科学革命と経済の急成長 近代以前の人類は、何千年もの間、1人当たりの生産量がほとんど変化しな かった。それが近代になって急増するようになり、1500 年以降の 500 年間に 世界全体の人口が 5 億人から 70 億人に、年間生産価値が 2500 億ドルから 60 - 7 - 兆ドルに、1日当りのエネルギー消費量が 13 兆カロリーから 1500 兆カロリー に急増した。そうなった最大の理由は、科学研究によって新たな経済力を生み 出せると信じるようになったからだ。これを「科学革命」という。 中世の人々は、この世の中で重要なことは全て聖書・コーラン・経典などの 書物に書かれていると考えていたが、近代になって人間は無知であることを認 めて、自然を観察し始めたことから近代科学が生まれた。 近代前期(1500 〜 1750 年)は、トルコのオスマン帝国、ペルシャのサファ ヴィー帝国、インドのムガール帝国、中国の明朝・清朝の黄金時代であり、1775 年における世界経済の 8 割はアジアが占めていた。それが、産業革命以降の 1750 〜 1850 年にヨーロッパ人が相次ぐ戦争でアジアの列強を倒して、世界の 覇権がヨーロッパに移った。そうなったのは、ヨーロッパで芽生えた新しい帝 国主義と近代科学と近代資本主義にあった。 ヨーロッパでは、1620 年にフランシス・ベーコンが「知は力なり」と言って 科学研究を技術開発に結びつけたことから、近代科学と資本主義経済が結びつ いて経済が急速に発展し始めた。 1710 年に英国で蒸気機関が発明されて産業革命が起こり、ヨーロッパ中に 広がっていった。そして、科学研究が新たな経済力を生み出し、その経済力で 新たな資源が生まれ、その資源を科学研究に投資するという近代資本主義の好 循環が生まれて、経済が急速に発展するようになった。 2.人類史の転換点にさしかかる今の世界 2.1 人口減少による人類の成長限界 2022 年 7 月に国連が世界人口の新推計を公表した。それによると、世界人 口が 2022 年中に 80 億人を突破し、2068 年に 104 億人をピーク(ワシントン 大学の推計では 2065 年に 97 億人をピーク)にして、その後は減少に転じると いう。人類は人口の増加とともに経済を成長させてきたが、ついに成長の限界 に達する。人類は、まさに今、人類史の転換点にさしかかっているのだ。 世界人口の増減に大きな影響を与えているのはアジアとアフリカの人口であ る。アフリカの人口爆発は 2100 年以降も続くが、アジアは 2050 代をピークに して減少に転じ、世界全体として 2060 年代から減少に転じるというのだ。中 南米もアジアと同じ頃に減少に転じ、欧州は既に僅かながら減少している。北 米とオセアニアは今後も微増し続けるという。 日欧の先進国では、「経済成長の副作用」「寿命の延び」「市民の自由拡大」「女 性の高学歴化」などが影響し合って出生率が低下し、人口が減少しているのだ。 人口首位国であった中国が 2022 年から減少し始め、2023 年 1 月時点でイン ドが 14 億 2203 万人となって人口首位国となった。国際通貨基金(IMF)によ - 8 - ると、現在、世界 3 位の日本の GDP は、2027 年にインドに抜かれるという。 しかし、インドでも 2060 年代に人口減少に転じる。 中国は、1980 〜 2016 年の「一人っ子政策」と並行して経済が急成長を遂げ、6 を超えていた合計特殊出生率が今や 1.28 にまで減少した。中国は、国民が先 進国レベルの豊かさになる前に人口が減少して、経済成長がストップするため に、その後の老齢化社会における高齢者の貧困対策が困難になる。インドも中 国の後を追う可能性が高い。なお、その後の老齢化社会における高齢者の貧困 対策が困難になる。なお、日本は豊かになった後の 2008 年から人口減少に転 じた。人口減少は地球温暖化と相まって経済を停滞させ、やがて世界経済はマ イナス成長に転じる。 資本主義は、将来にわたって経済が成長するという信用制度に基づいて、「資 本は時間とともに増加する」という前提の上に成り立っている。しかし、経済 成長ができなくなると資本主義の前提が失われてしまい、資本主義経済を修正 せざるを得なくなる。 2.2 米中対立と世界の分断 中国は、伝統的に「中華思想」を継承し、自国が世界の中心にあるべき国と 考える権威主義の国である。そうした中国にとって、19 世紀に西側先進国に 国土を蹂躙された屈辱が大きな恨みとして残っている。中国は、その恨みを晴 らして中華思想の威信を取り戻すために、先進国を騙して西側の資本と技術を 取り込み、世界一の経済大国となって再び世界の中心になることを目指してき た。この敵を騙して自分に有利なように利用する策略は、2400 年も前の戦国 時代の「兵法」であり、それが今の中国共産党にも引き継がれている。その策 略では、形勢が自分に有利に傾く好機(「勢」という)を捉えて反撃に転じる。2008 年に米国で起こったリーマンショックで西側諸国の経済が大混乱に陥ると、中 国はそれを「勢」と捉えて、それまでの化けの皮を捨て、東シナ海・南シナ海 への海洋進出や「一帯一路」による世界進出に乗り出した。 しかし、中国は、「勢」の判断を誤り、米国の予想外の反撃に合って苦戦し ている。中国共産党の最大の弱点は、国際情勢を正しく判断できないことだ。 一方、米国は、したたかなアングロサクソンの伝統を引き継ぎ、常に敵対者 を探して攻撃し、破壊することによって国家の統一を図る危険な国である。か つて米国は、敵対者を誤ってベトナムやイラクに侵攻した前歴を持つ。 2003 年に国際社会の反対を押し切って強行した米国のイラク侵攻は、イラ ク国内の統治に失敗し、混乱を収拾することなく撤退した。この失敗を機に米 国の指導力の衰えが顕著になった。「アラブの春」ではエジプトのムバラク政 権の体制崩壊をあっさりと認め、続くシリア内戦ではオバマ大統領(当時)が - 9 - 「米国は世界の警察官ではない」と言い切った。2019 年に同盟国のサウジア ラビアの石油施設がイラクに攻撃された時に米国は動かなかった。エネルギー 自給を実現して中東の石油に依存する必要がなくなった米国は、オバマ大統領 以降、米国の安全保障の軸足を中東からアジアに移した。 トッドは、「中国は人口減少に転じ、近い将来に国力の衰退が明らかだから、 むやみに追い詰めない方が良い」と指摘している。米国は、米中対立に過剰反 応するのではなく、忍耐強くじっと待つことが対中勝利への最良の道だという のだ。実際に中国の若者の間では、親・教師・社会からの絶え間ないプレッシ ャーに反発する「寝そべり族」が増加している。 フランスの経済学者ジャック・アタリは中国について次のように述べてい る。中国は、人口の急減で労働市場が逼迫し、社会が豊かになる前に高齢化し、 介護・医療費の急増に悩まされて、やがて経済が失速する。現在でも中国共産 党が独裁的に企業を統治する姿勢が明らかになるにつれて、中国国内や外国の 投資家が中国での投資に消極的になり、中国の企業家は活動拠点を外国に移し、 西側の多数の企業が中国から生産・販売拠点を外国に移しているが、この動き は今後も継続する。やがて中国では混乱が起こり、1990 年代のロシアのよう な政治的混乱を招き、似たような道をたどるだろう。 米国は日本と敵対して中国を支援してきたが、習近平になって中国に騙され ていたことがわかると中国と敵対し、今や民主党・共和党が一体となって中国 を攻撃している。一方、日本とは関係を修復して、日米同盟を基軸にして西側 民主主義国を結束し、中国を攻撃しようとしている。 米中対立は様々な領域に飛び火し、国防や産業競争力で相互に禁輸措置を広 げ、新型コロナウィルス禍やロシアのウクライナ侵攻と相まって、食糧・エネ ルギー・半導体などの色々な分野の供給網の世界的な再構築が始まっている。 特に半導体は、台湾有事に備えて、台湾に集中し過ぎている最先端半導体製 造工場を民主主義国に分散する必要性に迫られている。 かつて日本は半導体産業で世界をリードしていた。その日本を敵視した米国 は、1980 年代に日米半導体摩擦を起こして日本の半導体産業を破壊してしま った。今、ハイテク強国を目指す中国と対抗する米国は、中国を排除したハイ テク供給網を構築するために、日本の半導体産業を復活させしようとしている。 台湾の積体電路製造(TSMC)は、米国に半導体製造工場を造り、日本の熊本 にも造る。また、NTT・トヨタ自動車など 8 社が出資するラピダスに米 IBM の技術を供与して北海道の千歳市に最先端半導体製造工場を造る。 中国は、国連憲章を中心とする今の国際秩序は米欧がつくったもので、アジ アやアフリカ諸国はわずかしか係わっていないと主張し、グローバルサウス(南 半球を中心とする新興国・途上国)の支持を集めて国際秩序を内部から変えよ - 10 - うとしている。そして、同じ強権主義のロシアと手を組んで民主主義の米欧日 と対抗している。 中国の習近平は、3 期目に入った直後にウクライナ戦争の仲裁案を公表し、 イランとサウジアラビアの外交正常化を仲介して、米国に代わる世界の仲介者 としての役割を誇示した。 最大人口国となったインドのモディ首相は、今年の 1 月にグローバルサウス の 125 カ国を招き、「グローバルサウスの声サミット」を開催し、「人類の 3 分 の 2 が暮らすグローバルサウスが先進国と同等の発言権を持つべきだ」と主張 した。これは、大国として目覚めたインドがグローバルサウスの盟主になろう としていることを表している。 一方、米国のバイデン大統領は、3 月末にオンライン形式で第 2 回「民主主 義サミット」を開き、民主主義勢力の結束を図ろうとした。しかし、共同宣言 に署名したのは、招待した 120 カ国・地域の 6 割にとどまり、インドは署名の 一部を保留し、ブラジル・インドネシア・南アフリカなどは署名しなかった。 グローバルサウスの中で対ロ制裁に参加せず、米中対立の中で中立主義をと る非同盟中立国として、インド・ブラジル・南アフリカ・インドネシア・サウ ジアラビア・イラン・トルコ・カタール・メキシコなどの 25 カ国の人口が世 界人口の 45 %を占め、世界 GDP の 18 %を占めている。これらの非同盟中立 国は、国家の発展のために米欧日と中ロとも貿易取引をしている。今や 1990 年代の米国一極の国際秩序が様変わりして、米中対立の下で国際秩序の支配を めぐってグローバルサウスの争奪戦となってきた。 米国が主導してきた国際秩序は、中ロの挑戦を受ける一方で、最近訪中した マクロン仏大統領が示すように、対中政策をめぐって米欧の温度差が表面化し、 あやうくなっている。今こそ、西側民主義国が結束して、インドと協調しなが ら、現状の国際秩序を維持しなければならない。最大人口国となったインドは、 民主主義国として日米豪との Quad の枠組みに加わる一方で、中国を最大輸入 相手国とし、ロシアとも武器や原油を輸入して関係を維持している。インドは、 今後の世界情勢に大きな影響を与える存在となるだろう。 3.人類の未来 3.1 「原初の平等な社会に戻る」というトッドの指摘は本当か トッドは、人類学的観点から「人類は原初の民主的で男女平等の社会から来 て、また原初のような平等な社会に戻りつつある」と指摘している。このトッ ドの指摘は本当だろうか。 1.2 で述べたように「人間の本能は原初の狩猟採集時代に形成された」こと を考えると、人類は本能的に原初の幸福な社会を願望していると考えられる。 - 11 - そのことを示すために、イスラム世界で起こった「アラブの春」と中国で起こ った「白色革命」について考察する。 2011 年にチュニジアで失業中の若者が焼身自殺をしたのをきっかけに、若 者たちが SNS を使って集結して反政府デモを起こし、それが全年齢層に拡大 して独裁政権を崩壊させた。これを「ジャスミン革命」と言う。 この革命は、長期独裁政権下で若者たちの失業率が高い状態が続いていたア ラブ諸国に瞬く間に伝わっていき、チュニジア・エジプト・リビア・イエメン などで民主政権が生まれた。これを「アラブの春」と言う。 「アラブの春」は、チュニジアでは民主化に成功したが、再クーデターの反 動でイスラム過激派(ISIL)やアルカイダを生み、暴力と経済破綻への扉を開 いて数百万に及ぶ難民を出すことになり、最後は失敗に終わった。しかし、イ ルラム世界でも若者たちが民主化を求めていることが明らかになった。 2022 年 10 〜 11 月に中国各地で政府の極端な「ゼロコロナ政策」に抗議す る群衆のデモが起きた。このデモで群衆が「自由は必要、独裁はいらない」「終 身制はいらない、習近平は退陣せよ」「共産党も退陣せよ」と叫び、A4 サイズ の白紙を掲げて反体制の意志を表明したことから「白紙革命」と呼ばれる。こ のデモは警察力の総動員により封じ込められたが、共産党独裁体制に衝撃を与 え、習近平は「ゼロコロナ政策の打ち切り」を宣言せざるを得なくなった。 中国の民衆がこうした「反体制」の意思表示を公然としたデモは初めてだっ たが、中国の民衆も独裁を嫌い、民主主義を望んでいることが明らかになった。 アラブと中国は、人類の文明の発祥の地であり、女性蔑視のひどい「父系共 同体家族」の地域である。そんなアラブや中国でも、民衆は独裁体制や権威主 義を嫌い、民主主義を望んでいるのだ。 アラブや中国の独裁体制や権威主義は、権力者や支配階級が古色蒼然とした イスラム教や中華思想を自分たちの地位を維持する手段として使っているに過 ぎない。一般大衆は、独裁者が強制する古くさい伝統文化よりも、西側先進国 の民主主義を望んでいるのだ。 上記の考察から人類の未来に対する重要なヒントが得られる。それは、狩猟 採集時代に形成された人間の「本能」が世界中の人々に共通する「幸福感」の 基準となっていることだ。人類は、農業革命以降に支配階級が生まれ、支配階 級の欲望の下で過剰な「文化」の競争が生まれ、その結果として人口が増加し、 経済が発展してきたが、本能的な幸福感ではかえって不幸になってきた。権威 主義・自由主義などの「文化」で競争している限り人類は幸福になれないのだ。 人類史の転換点に向かう今後は、人口の減少と経済の衰退に伴って人類を競 争に駆り立ててきた「文化」が変化していく。その変化の方向は、世界中の人 々に共通する「本能」として遺る「幸福感」にそった社会、即ち「原初のよう - 12 - な平等な社会」に向かっていくことが予想される。これが、トッドの指摘する 「原初の平等な社会に戻る」ことの論理的根拠なのだ。 つまり、権威主義や独裁体制は、農業革命以降に起こった支配階級がつくっ た文化であり、農耕民となった一般大衆を苦しめてきた文化だ。民主主義は、 原初の平等な社会の文化を最も留めていたアングロサクソンが主導してきた文 化である。アラブや中国の一般大衆が民主主義を望んでいるということは、彼 等にも原初の平等な社会の文化が本能として遺っていて、民主主義の方が幸福 になれると感じているからだ。だから、紆余曲折があるにしても権威主義や独 裁体制は滅亡していき、世界は原初の民主的な社会に向かっていくのだ。 3.2 転換点後の新たな世界秩序 現在の世界秩序は、米英のアングロサクソンがつくったと言っても過言では ない。世界秩序の中核となる国連安保理常任理事国の米英仏中ロは、民主主義 国の米英仏と権威主義国の中ロが対立して機能不全に陥っている。 喫緊の地球温暖化問題でも、先進国と新興国・途上国の対立がある。新興国 ・途上国は、「現在の温暖化の責任はそれを引き起こした先進国にある」と主 張し、新興国・途上国に対する支援は先進国の義務だと考えている。 現在の世界秩序は、2 つの世界大戦に勝利したアングロサクソンの文化に基 づいているが、公正さに欠ける。 人類史の転換点を過ぎて衰退に向かう今後は、世界中が協調して人口・経済 を維持し、人類が存続することを最優先させなければならない。そのためには、 今までのような「競争」の文化から「協調」の文化に変えていかなければなら ない。個人の自由を尊重する「競争」の文化は、ストレスがたまって不健全な 社会となり、格差が拡大して不平等な社会となって社会の協調が乱れ、存続不 能に陥る。一方、「協調」の文化は、皆で協力し合い、助け合うことによって 平等で健全な社会となり、原初のような幸福感が生まれて、存続が可能となる。 新たな世界秩序は、文化の対立による争いを起こさないために、公正(フェ ア)でなければならない。民主主義を基本として、個人の「自由」と社会の「平 等」をうまくバランスさせることが肝要となる。勿論、白人のアイデンティテ ィーを維持するために黒人を差別する米国の民主主義や、イスラム文化を批判 して相手の尊厳を傷つけているフランスの「言論の自由」も許されない。 4.あとがき 4.1 文化の人類史 前章までに考察してきたことを「文化」の観点から筆者なりにまとめてみる。 ホモ・サピエンスは 7 万年前に起こった認知革命によって、自然の摂理であ - 13 - る「遺伝子による進化」を離れ、「文化による進化」によって急速に進化し始 め、自然の摂理に従う動植物を圧倒して自然の破壊者となった。それでも現代 人の本能には、人類が石器を道具として使い始めてから農耕革命までの 240 万 年間に及ぶ原初の狩猟採集時代に形成された遺伝子を通して、原初の「自由で 平等な社会に幸福を感じる」という幸福感が受け継がれている。 農業革命から中世末期までの 1 万年余に及ぶ歴史は、個人の自由を束縛する 「文化の全体主義化」の歴史であり、父系化による女性蔑視の文化が世界中に 広がっていった。その影響は文化(文明)の先進地域ほど大きかった。 15 世紀以降の近代になって、西欧で古代の個人主義・自由主義の文化を復 活させるルネサンス運動が起こり、産業革命以降は最も原初の社会の文化を留 めていたアングロサクソンが世界の自由主義・民主主義化を主導してきた。現 在の日米欧の「民主主義」と中ロの「権威主義」の対立は、アングロサクソン の「近代的な民主主義の文化」と「農業革命以降に生まれた支配階級の伝統を 引き継ぐ権威主義の文化」との対立である。この対立は、権威主義が民主主義 を望む現代人の本能によって否定され、民主主義が生き残ることになる。 人類史の転換点を迎える今後は、人類が存続するために、「競争」の文化か ら「協調」の文化へと変わっていかなければならない。それは、原初の社会の 文化に戻ることを意味する。今後の新たな世界秩序は、公正な秩序にして、個 人の「自由」と社会の「平等」をうまくバランスさせることが重要になる。 4.2 人口減少に転じた日本のあり方 日本は世界に先駆けて人口減少に転じている。政府は、「こども家庭庁」を つくり、出産・子育て支援や男性の育児参加を進めて、対応しようとしている。 しかし、それでは問題の根本的な解決にはならない。今世紀中に起こる世界人 口の減少は人類の歴史的大転換の現象だが、その最先端をいく日本は、15 年 前から人口減少に転じて、既に転換点を過ぎているという認識に立つ必要があ る。そして、例えば、最低限 1 億人の人口を維持するといった目標を掲げ、社 会が共同して子育てをするような新しい社会システムに改革していかなければ ならない。原初の社会では、集団の女性たちが共同で子育てしていたので、女 性の出産・育児を司るホルモンを分泌する遺伝子は、共同育児に適応するよう になっている。核家族化した現在の女性たちは、孤独感にさいなまれながら子 育てをしている。新しい社会システムでは、女性が子育てをしながら働けるよ うにして、男性と同じように社会に進出し、男女の本能的な適性に合わせて職 業を分担するようにする。米英仏で女性の社会進出と出生率を高く維持できて いるのは、女性の適性を生かせるサービス業が発展しているからだ。今後の社 会は、男女の適性に合わせて、男は主にモノの生産・製造と保安に、女は主に - 14 - ヒトを相手とするサービス・福祉を担当することが望ましい。トッドが指摘す る「原初のような社会に戻る」とは、「原初の狩猟採集時代に形成された本能 に適した社会になる」ことを意味するのだ。 日本でも FIRE(Financial Independence, Retire Early:早期退職して資産運用 で独立すること)がはやっている。これは、一向に給料が上がらない会社勤め に不安を感じ、早期退職して株や不動産などの運用で独立する若者が増えてい ることを表している。また、年寄りをだましてカネを奪う詐欺や強盗を働く若 者が増えている。人口減少に伴って日本の社会全体が萎縮し、若者達が将来に 不安を感じて、ポジティブな希望を失っているのだ。これは、政府や会社経営 者など社会の指導者たちの責任だ。日本の指導者たちは、旧来の組織を維持し 継続することばかり考えて、本来の指導者としての責任を果たしていない。日 本が既に歴史的転換点を過ぎて、旧来の統治・経営方法を変えなければならな いことを認識していないのだ。それが今日の日本の最大の問題だ。 資本主義経済も変えなければならない。従来の株主を重視し、競争に勝つた めの経営から、協調して助け合う社会を支える経営に変えて行かなければなら ない。特に、人口減少の最先端をいく日本は、人手不足を補うためのロボット や人工知能(AI)を世界に先駆けて開発・実践して、それを世界に広めるこ とがビジネス・チャンスにもなる。 日本は、社会に奉仕するというビジネス文化では、世界の最先端をいく伝統 を持っている。江戸時代の近江商人の「三方よし」の商売は、自分・相手・地 元の三者がよくなるように商売するという文化だった。これは、正に今後の協 調して助け合う社会に通じている。 日本の文化は世界的に人気が高く、日本への旅行者が増えている。今後のグ ローバリズムは、モノの貿易よりも、気に入った文化を求めて旅行・移住する 人が多くなることが予想される。今後の「協調」する世界では、従来の「競争」 に適したアングロサクソンの個人主義・自由主義の文化よりも、集団の「和」 を優先する日本の「和の文化」の方が適しているのだ。JICA 海外協力隊が途 上国の状況に合わせて支援する活動方法は国際社会から高く評価されている。 日本は、民主主義国と協力して、「協調」する世界に導いていくことが期待さ れる。日本が世界に羽ばたいていく時代がこれから始まるのだ。 さて、まだ書き足らない所がありますが、この辺で筆をおくことにします。 筆者は「未来に希望を持つ」ことを念じて考察してきて、人類が本能として持 っている「原初の幸福な世界」に向かっているという希望を持つことができま した。皆さんも未来に希望を持って戴ければ、筆者としてこの上ない喜びです。 (以上)
人類学的アプローチから見えてくる人類史 2023 年 2 月 芦沢壮寿

フランスの歴史人口学者で家族人類学者のエマニュエル・トッドの著書『我 々はどこから来て、今どこにいるのか?』(文藝春秋、2022 年 10 月発行)の 上下 2 巻(696 ページに及ぶ学問的な大著)を昨年 12 月から 2 ヶ月をかけて 読み、筆者なりの考察を加えて、その要旨を『人類学的アプローチから見えて くる人類史』としてまとめてみた。 トッドは、国・地域ごとの家族システムの違いや人口動態に着目して、「ソ 連崩壊」や「米国発の金融危機」「トランプ勝利」「英国の EU 離脱(ブレグジ ット)」などを予言したことで知られる。2016 年 6 月のイギリスの国民投票で 決まったブレグジットと 11 月の米大統領選挙でのトランプ勝利を見たトッド は、「西側先進国の社会は、自らの今の状況が理解できないことによる無力感 で覆われている」と指摘する。日本を含む先進国の人々は、不平等が拡大し、 若年層の生活水準が低下して、社会が経済的・社会的に後退局面に入っている と感じているから無力感に陥っているが、それは「全てのことが経済によって 決まるという考え方が現実を直視することを妨げているからだ」とトッドは指 摘する。そうした観点からトッドは『我々はどこから来て、今どこにいるの か?』を執筆したと述べている。 この著書の中でトッドは、経済至上主義的アプローチによって不安に駆られ て当惑している先進国の人々に対して、人間の行動や社会のあり方を政治や経 済よりも深い次元で規定している「教育」「宗教」「家族システム」の動きに注 目する人類学的アプローチによって「今、人類に何が起きているのか?」を分 析した。それは、政治や経済という「意識」のレベルではなく、教育という「下 意識」や宗教・家族という「無意識」のレベルにまで掘り下げて分析すること によって、現在の世の中の動きの本質が見えてくるというのだ。 こうしたトッドの人類学的アプローチによる現生人類(ホモ・サピエンス) の人類史は、今までの政治・経済中心の文明史とは全く違っていて、今まで筆 者が不可解に思っていたことの原因が家族システムにあることが分かり、深い 感銘を受けた。 そこで筆者は、人類学的アプローチの人類史を前編と後編に分け、前編では 人類史の全体的な流れについて述べ、後編では家族型のグループ別に米英仏、 日独、中ロに分けて、グループ別の特徴について述べることにする。 [前編] 1.人類学的アプローチの人類史の概要 人類学的な家族システムの変遷の歴史から見ると、農業革命以降の古代・中 - 2 - 世の歴史は、文明の発達に伴って家族システムの父系化・稠密化が進み、男性 優位・女性蔑視の不平等化の歴史であった。その結果、世界で最初に文明が生 まれたメソポタミアでは、現在、イスラム圏となって女性蔑視が最もひどい不 平等社会になってしまい、近代化の観点から見ると、最も遅れた地域となった。 一方、原初の狩猟採集時代のホモ・サピエンスの集団は、男たちが共同で狩 猟して分け前を平等に分け、女たちは共同で子育てや採集をして、男女が対等 に役割分担する平等な社会であった。 こうした事実から、近代化の歴史はむしろ原初の狩猟採集時代に向かって回 帰しているように見える。実際に、人類学的アプローチから見えてくる近代化 の歴史は、原初の平等な社会に回帰する歴史なのだ。 人類学的アプローチから見ると、17 世紀以降に議会制民主主義や産業革命 を起こして近代化を進め、最近ではグローバル化を主導している英米のアング ロサクソンは、世界で最初に文明が発祥したメソポタミアから遠く離れたユー ラシア大陸の西端に位置していて、文明の発達に伴う女性蔑視の家族システム の影響が及ばず、原初の狩猟採集時代の核家族システムを維持していたので、 近代化が可能になったというのだ。 つまり、家族システムで見る人類学的アプローチによる人類史では、原初の 狩猟採集時代は核家族による男女平等の社会であったが、紀元前 9 千年頃から 始まった農業革命以降、文明の発達に伴って家族システムの父系化・稠密化が 進み、女性蔑視の家族システムの波がメソポタミア・中国などの文明発祥地か ら周辺部に波及していった。しかし、その波がアングロサクソンの住む英国ま では及ばなかったので、原初の男女平等の核家族システムが維持されていたア ングロサクソンが、議会制民主主義と産業革命による近代化を始め、世界の近 代化を主導するようになったというのだ。 今、近代化しつつある世界中の国々で核家族化が進んでいる。それは、原初 人類の男女平等の社会に回帰しつつあることを意味する。 トッドの著書のタイトル『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の答 えは、「人類は、原初の民主的で男女平等の核家族型の社会から来て、今、ま た原初のような男女平等の社会に戻りつつある」となる。だから「先進国の人 々が無力感になることはない」とトッドは主張しているのだ。 2.家族システムの変遷と地理的波及の人類史 現生する唯一の人類種であるホモ・サピエンスは、20 万年前にアフリカで 生まれた。アフリカの赤道付近の熱帯雨林で暮らすピグミー諸民族と南アフリ カに住むサン人(ブッシュマン)のクン族は、ホモ・サピエンスの最も古い集 団と見なされている。彼等の家族システムは、核家族を基本とし、女性のステ - 3 - ータスが高くて、女が子育てと食糧採集、男が集団の守りと狩猟を分業してい ることを特徴とする。つまり、狩猟採集生活をしていた原初のホモ・サピエン スは、一夫一婦制の夫婦と子供からなる核家族を基本として、親類どうしが集 まってグループをつくり、そうしたグループがいくつか集まって集団をつくっ て移動しながら狩猟採集生活をしていたと考えられる。その集団は、父方親族 の集団、母方親族の集団、あるいはその両方が混合した集団であったが、結婚 する配偶者は集団外から求める「外婚」が一般的であった。外婚は交叉イトコ (父の姉妹の子供や母の兄弟の子供)との結婚までは許された。 10 万年前にホモ・サピエンスはアフリカを出て中東に進出し、世界中に広 がっていった。原初の人類は移動することが特徴であったのだ。 紀元前 9 千年頃に中東のメソポタミアからシリア・パレスチナ・エジプトに 到る「肥沃な三日月地帯」で農業が生まれ、紀元前 8 千年頃に中国の長江・黄 河流域でも農業が生まれた。紀元前 3000 年にメキシコで、紀元前 1000 年には ペルーのアンデス山地でも農業が生まれた。ホモ・サピエンスは定住して農耕 生活をするようになった。これを「農業革命」という。農業を始めてから 6000 年が経過した頃に文明が生まれ、家族システムに変化が起こった。 その口火を切ったのはメソポタミア南部にいたシュメール人であった。紀元 前 3300 年頃にシュメール人が世界で最初の文明を生み、楔形文字を発明した。 エジプト文明、ギリシャ文明やインダス文明はメソポタミア文明が波及した文 明である。エジプトでは紀元前 3000 年頃に文明が生まれ、紀元前 2900 頃にア ルファベットの元になる象形文字が生まれた。中国でも紀元前 1500 年頃に文 明が生まれ、紀元前 1400 年頃に漢字のもととなる甲骨文字が生まれた。 人類学には「周辺地域の保守性原則」という理論がある。言語・家族システ ムなどの文化・文明は時代とともに変化するが、その変化の仕方は、まず文化 ・文明の中心地域で変化が起こり、その変化が周辺地域に伝わっていく。この 理論に従えば、中心地域から離れた地域ほど古い言語・家族システムが現存し ていることになる。 原初の核家族型の国・地域は(4 ページの図 1、5 ページの図 2 を参照)、英 国、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの英語圏の遺産相 続が不平等な「絶対核家族」、フランスのパリ盆地、スペイン、ポルトガル、 イタリア南部などの遺産相続が兄弟姉妹で平等に分けられる「平等主義核家族」 がある。両者の遺産相続の違いが「平等」に対する価値観の違いとなっている。 絶対核家族の国は不平等であっても受け入れるので社会が安定するが、平等主 義核家族の国は不平等に対して敏感であるために社会が不安定になりやすい。 また、両親との一時的同居を伴う核家族の国・地域として、東南アジアのタ イ、カンボジア、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの、 - 4 - 妻の側の親と一時的に同居する「母方居住核家族」、ユーラシア大陸の遊牧民 であったトルコ、モンゴルや遊牧民が遊牧する草原地帯であったウクライナ、 ルーマニアなどの、夫の側の親と一時的に同居する「父方居住核家族」、ポ− ランド、ベルギーなどの、いずれの側の親でもかまわない「双処居住核家族」 がある。 図1 ユーラシア大陸の主な家族システム こうした核家族の国・地域は、文明の発祥地から遠く離れているために、あ るいは遊牧民として移動生活をしていたために、家族システムの父系化・稠密 化の波が及ばず、原初の核家族システムが維持されたのだ。 今から 5 千年前頃に農業が発展して人類最初の文明が生まれたメソポタミア で、核家族システムに変化が起こり、農地などの資産を長子が継ぐ父系直系家 族システムへと変わっていった。以降、家族システムは、文明の発展とともに 父系化・稠密化して、複数世代が同居する大家族へと変わっていった。父系化 ・稠密化とは、父親の系列で複数世代が同居して1つの家族を構成することで ある。父系化・稠密化が進むにつれて、女性のステータスが低下していき、男 女不平等の社会へと変質していった。そこで、父系化による男女の格差の程度 を「父系化レベル」で表し、原初の核家族の父系化レベルを 0 として、不平等 化が進むごとに父系化レベルを 1、2、3 と上げていく。こうした父系化の進ん - 5 - だ家族システムが各地の文明発祥地から周辺部に広がっていったのだ。 家族システムの父系化・稠密化の一般的なプロセスは、まず核家族型から父 親の系列で複数世代の親子が同居する「父系直系家族型」へと変わる。父系直 系家族は、一般的に長男が跡継ぎになり、財産の全てを継承する。そのために、 長男の権威と兄弟の不平等を軸とする価値観の社会へと変質する。父系直系家 族では長男が特権化されるので、父系化レベルが 1 となる。しかし、女性のス テータスは比較的高い。 図2 欧州における家族システム 父系直系家族型の国・地域は、日本、韓国、ドイツ、フランス南西部である。 - 6 - 日本と韓国は中国から父系直系家族型が伝わり、ドイツとフランス南西部はメ ソポタミアから伝わったと考えられる。日本で支配階層が長男相続を始めたの は鎌倉時代の 13 世紀であり、数世紀をかけて全国に普及していった。 ユーラシア大陸の草原地帯で移動しながら遊牧生活を送る遊牧民の父系制は メソポタミアと中国から伝わった。農地を持たない遊牧民は長子相続の必要が なかったので、息子たちは対等に核家族として父系制原則に基づいて父親に結 びつけられるようになって「氏族組織」が形成された。この氏族組織は、遊牧 民の社会的・軍事的構造の基礎となり、やがて軍事的に無敵な騎馬軍団となっ た。アラブ系遊牧民は中東と北アフリカを征服し、モンゴル系とトルコ系の遊 牧民は中国の農耕地帯に侵入し、農耕民を隷属させた。 遊牧民に侵略されるようになったメソポタミアと中国の父系直系家族システ ムは、遊牧民の兄弟の対等性を取り入れて「外婚制共同体家族システム」へ変 わっていった。外婚制共同体家族は、父親家族の下に息子たちの家族が兄弟対 等な立場で同居する。息子たちは親戚以外の女性と結婚し、娘たちは結婚する と家族から出て行く。この外婚制共同体家族システムは、父親の権威、兄弟の 対等性と男性優位が一般原則となり、父系化レベルが 2 となる。社会は権威主 義の価値観が強くなる。 現在、外婚制共同体家族型の国・地域は、中国、ロシア、インド北部である。 中国とロシアは、男性優位の平等主義の価値観の影響で共産主義の国になった。 現在は両国とも権威主義の国となっている。 外婚制共同体家族型がさらに父系化・稠密化が進むと、「内婚制共同体家族 型」へと変わる。これは、父親の家族の下に兄弟の家族が対等な立場で同居し て暮らすが、兄弟の結婚相手はイトコの女性でなければならない。可能ならば 兄弟の子供同士が結婚することを要請するが、それが不可能な場合は又イトコ (親同士がイトコである子)と結婚する。内婚制共同体家族は、兄弟間の情愛 の強さとその持続性を重視し、女性を家庭内に閉じ込めることによる女性蔑視 が一層強くなるから、父系化レベルが 3 となる。 現在、内婚制共同体家族型の国・地域は、世界最初の文明発祥地メソポタミ アのあった中東のイスラム圏のイラン、イラク、エジプト、北アフリカとアフ ガニスタン、パキスタンである。 3.文字・識字化の歴史と経済的発展との関係 人類史上で最初の文字として楔形文字が紀元前 3300 年頃にメソポタミアの シュメールで生まれ、周辺に拡がっていった。紀元前 2900 年頃にエジプトで 象形文字が生まれ、それが伝わって紀元前 1200 年頃に表音文字のフェニキア 文字が生まれ、紀元前 800 年頃にギリシャでアルファベットが生まれた。ギリ - 7 - シャのアルファベットが変形してラテン文字(ローマ字など)やキリル文字(ロ シア文字など)のアルファベットとなった。 フェニキア文字はアジア方面にも伝わり、紀元前 7 世紀頃にアジア系遊牧民 のアラム人がアラム文字を生み出した。アラム文字は、セム語族のシリア語、 ヘブライ語、アラビア語などの文字やインド北部で生まれたブラフミー文字の 基となった。シリア文字は遊牧民のソグド文字、ウィグル文字、モンゴル文字、 満州文字へと派生していった。ブラフミー文字はインドのベンガル文字、タミ ル文字や東南アジアのビルマ文字、ラオス文字、タイ文字、クメール文字、ボ ルネオ文字、タガログ文字の基になった。 漢字の起源となった甲骨文字は、紀元前 1400 年頃に亀の甲羅や牛の肩甲骨 を使った占いから生まれた。紀元前 221 年に初めて中国を統一した秦の始皇帝 が各地でバラバラであった甲骨文字を統一して漢字が生まれた。各地で言葉の 発音が違う中国において、表意文字の漢字で書いた文章の意味が全国に通じる ことから、漢字によって広大な中国を統一して統治することが可能になったの だ。漢字は、東アジアに広がり、日本、朝鮮、ベトナムを含む漢字文化圏をつ くった。 文字は長い間、支配階級だけが使い、識字率は 10 %程度であった。16 〜 17 世紀に識字化(識字率が向上すること)が急速に進んだ。 ヨーロッパでは、1517 年にドイツのプロテスタンティズム(新教)の宗教 改革を始めたマルチン・ルターによって聖書がドイツ語に翻訳され、グーテン ベルクの開発した活版印刷術によって印刷された。引き続いてイタリア語版、 フランス語版などとヨーロッパ各国の言語版の聖書が印刷され、庶民が聖書を 読むようになって、識字率が急激に上昇した。 日本では、1603 年から 3 世紀近くにわたって平和が続いた江戸時代に、庶 民文化が発達し、庶民でも子供を寺子屋に通わせて「読み」「書き」「そろばん」 を習わせたので、江戸庶民の識字率は 80 %を超えた。庶民の間で俳句がはや り、浮世絵や読み物の出版ブーム、盆栽や朝顔の新種開発などの園芸ブーム、 名所・旧跡をめぐる旅行ブームが起こっていた。 宗教改革後のドイツ(神聖ローマ帝国)にフランス・デンマーク・スウェー デンなどの周辺国が侵入して国際宗教戦争となった「30 年戦争」(1618 〜 1648 年)でドイツが敗北し、ドイツは小国連邦の地方分権国家となり、フランスは ルイ 14 世(太陽王)の絶対王政のもとで中央集権国家となっていった。 その頃、ドイツでは核家族から父系性直系家族に変わっていった。それに伴 って女性のステータスが急低下し、結婚年齢が上昇していった。また、ドイツ を中心とする周辺地域で大々的な魔女狩りが行われ、ヨーロッパ全域に肉体の 快楽を否定する雰囲気が広がっていった。この時期にヨーロッパ人の性生活か - 8 - らテーブルマナーまでの生活全般における行動の規律が厳しくなり、ヨーロッ パ人のメンタリティー(精神構造)が大変容した。 ヨーロッパにおける識字化ではドイツが中心となり、アジアの識字化が日本 から始まったこと、それに両国が直系家族の国であることの間には何らかのつ ながりがあるとトッドは指摘する。直系家族の長子相続制は、相続・継承の詳 細を文字表記するから、識字化が進むというのだ。実際に長子相続制の歴史を 見ると、長子相続制の導入に続く時代に技術・芸術などの文明が輝かしい時代 となっているという。 識字化は経済的発展にも影響を与えた。英国で世界最初の産業革命が起こり、 経済的離陸(産業の近代化によって経済が急成長し始めること)が 1780 年に 達成できたのは、1700 年に男性の識字率が 50 %を超えていたからだ。 日本がアジアで最も早く 1885 年に経済的離陸ができたのも、明治維新直後 の 1870 年に男性の識字率が 50 %を超えていたからだ。そのために日本は世界 で 6 番目の経済的離陸により先進国に仲間入りした。ちなみに、1番が英国、 2番がフランス、3・4 番がドイツと米国、5 番がスウェーデンである。ロシア は 7 番目、カナダは 8 番目、イタリアは 9 番目で日本より遅かった。 新教の宗教改革で新教国になった国は、ドイツと北欧諸国の直系家族の地域 と英国などの絶対核家族の地域であった。これらの地域は、兄弟間が不平等で あることで共通する。一方、カトリック(旧教)に留まった地域では、子供を 平等に扱う家族型の地域(フランス、スペイン、イタリア南部、ハンガリー、 チェコなど)と平等に扱う原則を持たない家族型の地域(オーストリア、ポー ランド、リトアニア、スロベニアなど)に分かれた。前者では、キリスト教へ (図 3)各国の高等教育の進展 - 9 - の信奉をやめてしまい、平等主義のイデオロギーを信奉する国へと変わってい き、後者では、カトリックのキリスト教を信奉し続けた。このように、兄弟間 の平等/不平等が違う家族型によって、両者の宗教観が正反対に分裂したのだ。 現代における世界の主要国の高等教育を受けた人々の割合の進展状況を 8 ペ ージの図 3 に示している。日本は 2000 年時点で米国を抜いて世界のトップに ある。先進国では、高等教育を受けた人の割合が男性より女性の方が高くなっ て逆転している。日本でも 1991 年頃に女性が男性を抜いて逆転した。この事 実についてトッドは、「人類史における根元的に新しい何かが顕在化しつつあ る」と述べ、農業革命以降の男性優位・女性蔑視の人類史が大きく転換して、 原初の男女平等の社会に近づいている兆候だと指摘している。 4.各国の産業構造・出生率と家族システムとの関係 第 2 次世界大戦後から 1970 年代までの鉄鋼・自動車・冷蔵庫・テレビとい った実物経済の時代は、実物の生産力を測る指標としての GDP が社会の動き を反映していた。しかし、1980 年代から始まったグローバル化によって産業 構造が変容して、モノよりサービスの割合が高くなってくると、GDP が経済 の実態を表さなくなり、世界はモノの生産よりも消費する「貿易赤字国」と消 費よりも生産する「貿易黒字国」に分かれていった。 米国・英国・フランスなどは、自国の産業基盤を失って貿易赤字国になった。 これらの国は、伝統的に個人主義・民主主義の国で、4 ページの図1に示すよ うに、「核家族」が社会の構成要素となっている国であり、夫側の親と妻側の 親を同等に見なす「双系的核家族」の国である。双系的核家族の国では、女性 のステータスが高くて出生率(1 人の女性が生涯に産む子供数の平均値)も高 く、人口が増加している。 日本とドイツは、民主主義の国だが、夫側の系列を重視する「父系直系家族」 の国であり、父系制のために女性のステータスが米英仏よりも低く、出生率も 低くて人口減少が懸念される。産業構造でもサービス産業(第 3 次産業)より 製造業(第 2 次産業)に強い点で米英仏と異なる。 一方、中国・ロシア・インドは、権威主義的で「父系共同体家族」の国であ る点で共通する。この 3 国は産業大国となり、貿易黒字国となった。中国は工 業完成品の輸出で、ロシアは天然ガスと安価で高性能な兵器の輸出で、インド は医薬品とソフトウェアの輸出で貿易黒字国となった。特に中国は、ケ小平の 改革開放政策と米欧日のグローバル化が重なり、米欧日から資本と技術力を取 り込んで 10%を超える高度経済成長を持続し、「世界の工場」と言われるよう になった。2010 年には日本を超えて世界第 2 位の経済大国となった。 以上のことをまとめると次のようになる。日本・ドイツや中国・ロシア・イ - 10 - ンドなどの「父系制社会」では、モノ造りが男性との親和性が高いことから、 製造業が発展した。しかし、出生率が低くなり、人口が減少する懸念が生じて いる。一方、米国・英国・フランスなどの女性のステータスが比較的高い「双 系制社会」では、サービス業との親和性が高い女性が社会進出することによっ てサービス業が発展し、雇用も増加した。また、出生率も高くて、人口増加率 が小幅ながらプラスを保っている。 このように、各国の産業構造と出生率による人口増減がその国の家族型と強 く関係するのは、社会の構成員である個人が同じ家族型の価値観を共有し、そ の価値観に基づいて社会活動をすることによって、産業構造が決まり、人口の 増減にも影響するからだ。 [後編] 5.世界の近代化をリードしてきた米英仏 世界の近代化とグローバル化をリードしたのは核家族型社会の米英仏であっ た。アングロサクソンの英国は、17 世紀に議会制民主主義の政治改革を行い、18 世紀に産業革命を起こした。1776 年に英国から独立した米国は、合衆国憲法 を制定して近代化の基礎となる個人主義・自由主義・民主主義の政治制度を確 立した。1789 年にフランス革命を起こしたフランスは、平等主義のイデオロ ギーを確立した。 民主主義の原点は、原初人類の自由人の集合体にあった。世界で最初の帝国 を築いたシュメールは権威主義的だったが、その神々は自由で民主的だった。 彼等の祖先の神々は、自由で民主的な原初人類であり、普遍的に自由で民主的 だったのだ。そして、緊急時には統率者を選び、話し合って決める民主的機能 を備えた地域共同体を形成していた。そうした民主的な形態は、古代のインド や中国の村々、インカ帝国やアステカ帝国、北米インディアンのイロコイ族に も見られ、原初の人類では一般的だった。 英国は、ローマ帝国時代に「ブリタニア」と呼ばれてローマ帝国の支配下に あった。英国の中世の荘園は、ローマ時代の「ヴィツラ」という経済的機能と 政治的組織を混合した組織の伝統を引き継いでいて、農民を政治的に統合する 主権集団であると同時に、法的に制御する荘園裁判所でもあった。この荘園裁 判所が英国の法治主義の源泉となった。 1066 年にフランスのノルマンディー公ウィリアムが英国を征服して統一し、 ノルマン朝を開いた。すると英国の支配階級はフランス語を話すようになり、 庶民の話す英語が乱れていった。そして英語は、必ず行為者を表す主語を文頭 に置き、次に述語を言うような語順に固定することによって、文法的な構造が 単純化された言語に変質していった。その結果、行為者を強調する英語を話す - 11 - 英国人(アングロサクソン)は、積極的に自己を主張し、活発に活動する民族 へと変質した。現在、英語が世界中で話されているのも、英語の文法が単純だ からだ。 女王エリザベス 1 世の統治時代(1558 〜 1603 年)に英国は急に活発になっ た。英国人は北米大陸を植民地化するために進出し始めた。海賊船長ドレーク は、エリザベス 1 世の許可を得て、1577 〜 80 年にスペインの銀輸送船団を襲 うなどの海賊行為をしながら世界を一周して戦利品を女王に献上した。さらに、 1588 年には当時世界最強のスペインの無敵艦隊を撃破した。1600 年には東イ ンド会社を設立し、インドに進出して植民地化を進めた。シェークスピアが活 躍したのもこの時代であった。 絶対核家族制で遺産相続が不平等な英国の社会では、個人主義・自由主義・ 不平等主義の社会であったので、子供が自主的に進路を決めて早く独立した。 エリザベス 1 世の時代には、息子や娘が成人すると親元から遠く離れて「住み 込み使用人」になって働き、行き先の土地で結婚して家族を持つのが一般的だ った。それを可能にしたのは、1601 年に制定された「貧困法」であった。残 された両親が高齢になると、教区の上層農民が自主的に世話する救済システム が確立されていたのだ。英国は福祉や社会保障の面で世界の先頭を走っていた。 1642 〜 51 年に清教徒革命が起こり、チャールズ 1 世が処刑されて共和制と なり、1688 年に名誉革命によって議会制立憲王政が成立し、代表制による統 治方法が確立された。これが近代における議会制民主主主義のさきがけとなっ た。不平等主義の価値観を持つ英国民は、こうした大きな社会的変革を抵抗な く受け入れ、すぐに定着していった。この英国の福祉制度や議会制度は英国で 産業革命が起きる制度的基盤となった。 1765 年に英国人のジェームス・ワットが蒸気機関を発明して、産業革命が 始まった。蒸気機関を動力源として使うことによって工業の生産性が飛躍的に 向上し、近代的な機械工業生産が英国で始まったのだ。この新しい機械工業生 産は、農村の核家族から供給される豊かな労働力によって支えられた。 1776 年に北米大陸の英国の 13 の植民地が独立宣言を議会で採択し、1787 年 に合衆国憲法を制定して民主主義の政治制度を確立した。 1789 年にフランス革命が起こり、絶対王政から共和制に変わった。しかし、 平等主義核家族制のフランスでは、共和制が安定するまでに百年近くを要した。 社会を平等に統一することは難しく、平等主義の強いフランスは社会が不安定 になりやすいからだ。 このようにして、現代社会の基本的なイデオロギーとなっている議会制民主 主義・自由主義・個人主義は英米のアングロサクソンによって確立され、平等 主義はフランスで確立されたのだ。 - 12 - 6.米国の「未開」の感じは何を意味するか 世界中からの移民で形成された米国は、異なる文化や家族制度が持ち込まれ たが、世代の交代につれて地理的に文化が均一になり、水平的になった。移民 たちは、当初は同民族が集まって家族制度を維持して家族や親戚の連帯を強化 したが、世代が代わるにつれて連帯が解除され、米国流の絶対核家族制になっ ていった。米国の産業が繁栄の頂点にあった 1950 年頃の米国の家族は、全体 的に男女それぞれの役割を分離する絶対核家族となった。 一般的にヨーロッパやアジアでは、地域ごとに固有の文化が垂直的に分布し ているが、米国が水平的なったということは、米国が水平的な集団生活を送っ ていた原初のホモ・サピエンスにより近づいていることを意味する。 20 世紀における米国は、経済・テクノロジー・教育で世界のトップランナ ーとなって世界をリードしてきた。しかし、こうした米国の現代性・先進性よ りも、米国の人類学的基底が原始的になり、英国よりも原初のホモ・サピエン スに近づいていることに注目する。 米国人の諸特徴を列挙すると、@州から州へと早いリズムで移動する米国人 の地理的移動性、A自然資源への高い依存性、B身体的暴力による高い他殺率、 C男の空威張りと女性の独立とが奇妙に混合した性的分業、D白人が黒人を排 斥する原因を排除できないこと、などの特徴がある。こうした特徴から、米国 には「モダン」という感じと同時に「未開」という感じがつきまとう。これは、 米国が原初のホモ・サピエンスの普遍的な自由主義・民主主義の社会に近いか らだと考えられる。つまり、米国は、古い文化に洗練されていない「未開」の 地だから、近代化の最先端を走っているのだ。 一方、米国の「未開」とは反対に文明・文化を発明し発展させてきた中東・ ・インド北部の父系共同体家族の社会では、その文化によって女性のステータ スが低下し、創造的自由を破壊された人々は麻痺してしまい、前に進めなくな っている。中東のイスラム国が女性蔑視を抜け出せないのは、イスラム教の文 化が国民の創造的自由を破壊してしまっているからだ。インド北部では女性蔑 視がひどく、女性を家に閉じ込める習慣があり、女の子の死亡率が異常に高い。 米国で銃を使った殺人事件が頻発しているにも拘わらず銃の所持を禁止でき ないのは、米国社会が「未開」であることと関係する。古い文化の国では、既 に一般国民が銃を所持することを禁止し、国民もそれを受け入れているが、古 い文化の洗練を受けていない「未開」の米国では禁止できないのだ。 米国がヨーロッパ系の移民を受け入れて同化する一方で、インディアンや黒 人を拒否しているのは、原初の人類の集団が他民族とオープンに同化するのと 同時に、差別化もしていたことと同じである。 - 13 - 米国の白人が黒人と敵対するのは、白人として存在するためのアイデンティ ティーを保持するためだとトッドは述べている。白人集団としての一体性を維 持するためのアイデンティティーは、絶対的なものではなく、黒人に対する敵 意から生まれ、敵意に依存しているのだ。白人集団内部での一体性・道徳性と 黒人への敵対・暴力が機能的に結合していて、黒人への敵対・暴力を止めると、 白人としての一体性・道徳性もなくなってしまうというのだ。 米国で黒人に対する差別があるから、アジア系を白人扱いに格上げすること が可能になったとトッドは指摘する。アジア系移民は第 1 次世界大戦まで差別 されたが、その後、アジア系を白人社会に受け入れたのは、白人が黒人と敵対 するようになったからだというのだ。 7.直系家族型社会の日本とドイツ 日本は、文字や文明を中国から受け入れたが、文化では自立性を保ってきて、 江戸時代には識字率が向上し、明治になって先進国入りした。しかし、明治以 降の日本は富国強兵の軍国主義に走り、第 2 次世界大戦で敗戦国となった。戦 後は平和主義の国に転じて国際的な役割から退いてきたが、テクノロジーと経 済面では世界の大国となり、1980 年代には日本経済が米国をたじろがせるま でになった。しかし、1990 年代にバブルが崩壊して以降、経済成長が止まっ てしまった。文化面では、日本独自の文学・漫画・和食文化などが異質な文化 として世界中から受け入れられ、賞賛されるようになった。 一方、宗教改革を通して識字率が向上したドイツは、超人的な有能さを発揮 し、1880 〜 1930 年に科学・経済を急進させ、アングロサクソンの英米を相手 に 2 つの世界大戦を戦った。しかし、ドイツは両世界大戦で敗北し、ナチスの ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)という大きな汚点を残した。ナチスは、人類 の普遍的価値観に対する挑戦であった。 長男だけが遺産相続する直系家族型の日本とドイツは、権威主義と不平等主 義の社会になりやすい。この社会は職業や技術が効率良く継承されるから、う まくいけば経済や技術が急成長する。その成長方法は、新しいものを発明する よりも、既存のものをより深く改良することを得意とする。しかし、反対にう まくいかない場合には経済や技術革新を停滞させてしまう。日本・ドイツの経 済・技術が急成長したのは直系家族型の社会だったからだが、反対に日本の現 状の長期停滞もそのせいだと思われる。 日本とドイツは、不平等主義の価値観があるために格差が大きくても社会が 安定に維持される一方で、権威主義の価値観の下で国民が軍国主義やナチズム に走る危険性を内包している。両国民はこのことを子孫に伝える必要がある 直系家族型の日本とドイツは、出生率が低い点でも共通する。2015 年の出 - 14 - 生率で見ると、核家族型社会のフランスが 2.0、英国・米国が 1.9 であるのに 対して、日本とドイツは 1.4 だった。ちなみに、中国は 1.3、韓国は 0.9 と日本 よりも低い。仏英米では、職業についている女性が子供を生んで働き続けられ るような社会の仕組みを作っているのに対して、日独は、子育てを女性の役割 と考えていて、職業についた女性に仕事を継続するか子育てかの選択を迫り、 仕事の継続を選ぶ女性が増えているために、出生率が低下している。直系型社 会でもアイルランドとスウェーデンでは、出生率が 2.0 と 1.9 だから、国の政 策によって出生率を上げることは可能なのだ。 このままいくと日本とドイツは人口面で機能不全に陥る。ドイツは人口を維 持するために、トルコや東欧諸国からの移民に門戸を開けて受け入れ、2012 年時点の在住外国人の割合が 32.1 %になった。内向きな日本は何も手を打っ ていない。移民の受け入れを嫌うのであれば、日本が人口を維持するためには、 出生率を上げるしかない。 8.共同体家族型の中国とロシア 中国とロシアは外婚制共同体家族型の国であり、両国とも共産主義体制の国 になったことで共通する。共産主義体制となった国の分布を見ると、外婚制共 同体家族の分布地域(ロシア、セルビア、アルバニア、中国、ベトナムなど) とがほゞ一致する。外婚制共同体家族型の住民たちは、父親の権威に従順であ り、兄弟の平等意識が強く、共産主義を受け入れる素地ができていたからだと 考えられる。但し、ロシアの共同体家族型の分布はロシアの北西部とベラルー シであり、ウクライナは核家族型で女性のステータスも高い。現在のロシアと ウクライナの対立は家族型の違いに起因している。 人口 13 億 6000 万人の中国は、1980 〜 2015 年の間に世界の工場になった。 これが米英主導による新自由主義のグローバル化であるが、これをトッド流に 解釈すると次のようになる。西側先進国の富裕層が中国に工場をつくり、低賃 金の中国人労働者によって生産された商品を先進国市場で売ることによって超 過利潤を獲得した。中国共産党の指導者たちがしたことは、西側先進国が作っ た生産システムの中に自国の労働力を組み込むことを容認しただけだ。そして、 工場を造る資本も生産技術も全て外国から取り込み、中国企業との合弁や生産 技術の譲渡を強要し、中国人の学生を先進国に留学させて教育してもらうなど、 全て先進国頼みで中国は遅れを取り戻そうとしてきた。そのために、本来なら 経済発展の前に国民の教育レベルを向上させなければならないが、中国で高等 教育を受けた人の割合は 2000 年でも 5 %以下であった(8 ページの図 3 参照)。 上記のような米英の新自由主義者が主導したグローバル化が長続きするはず がない。2017 年にトランプ大統領が出現して状況は一変し、中国と先進国が - 15 - 対立するようになった。 中国は、経済規模では世界第 2 位の経済大国となったが、その GDP の中身 を見ると、外国頼みの貿易黒字と異常に多い設備投資(2016 年の GDP では 43 %を占める)で占められ、安定した経済成長ができる構造にはなっていない。 また、共産党による国家資本主義の市場経済では経済成長が望めない。それに、 出生率が極端に低くて、既に人口が減少に転じている。 そうした状況下で経済的不平等がいちじるしく拡大している。平等主義の価 値観が潜在する中国では、社会的・政治的システムを維持する上で経済的不平 等が脅威となる。習近平はそれを知っているから、腐敗撲滅運動や東シナ海・ 南シナ海に侵出しいるが、それは国内の困難な状況への戦術的調整なのだ。 トッドは「中国の人口減少と国力衰退は火を見るより明らかだから、単に待 っていればいい」と述べている。つまり、中国をロシアのような国際秩序の破 壊者にしたくなければ、中国をむやみに追い詰めない方がいいというのだ。 なお、平等主義価値観の中国の世界ビジョンは、同等の資格の諸国家からな る多極的世界だとトッドは指摘している。 ロシアが共同体家族になった歴史は 17 世紀以降で浅いために、教育の進展 が早く進んだ。2000 年時点で高等教育を受けた人の割合が 35 %となり、世界 トップの日米と同程度となった(8 ページの図 3 参照)。女性のステータスが 比較的に高く、女性の方が男性より高等教育の割合が高くなっている。 ロシアは第一次大戦中に共産主義革命を起こし、共産主義体制を生み出した。 共産主義のロシアは、科学面・軍事面・宇宙開発面で世界の最先端にあって、 米国を超える勢いを持っていた。軍事面では世界で最高峰の戦車 T34 でナチ ス・ドイツを打ち破ったことが特筆される。 1992 年にロシアの共産主義が崩壊し、民主制になった。トッドがそれを予 言した根拠は、1970 〜 74 年にロシアの乳幼児死亡率が急上昇したことだ。 1996 年頃にロシア経済が崩壊寸前になり、その後 10 年間にわたって大混乱 が続いた。そんな時にプーチン大統領が登場して経済を安定させ、乳幼児死亡 率を下げた。プーチンになって権威主義的民主制となり、選挙で圧倒的な強さ で勝ち続けて現在に到っている。こうした長期政権は、共同体家族型の権威主 義の価値観に特有の「恒久性」からきている。直系核家族型の権威主義価値観 が残る日本やドイツの民主制でも、長期政権を維持する政党が現れている。 9.あとがき 筆者なりにトッドの人類学的アプローチの人類史を総括すると、次のように なる。原初のホモ・サピエンスは、男女平等の集団で狩猟採集生活をしながら 移動する水平的生活空間を形成していた。農業革命以降の古代・中世の人類史 - 16 - は、男女の不平等化と地域に定住する垂直化の歴史だった。近代から現代の人 類史は、男女の平等化と、人類の活動領域が世界中に広がる水平化の歴史であ り、原初人類の男女平等と水平的空間を移動する生活に回帰する歴史だった。 古代・中世の女性の差別化は、社会の構成単位である家族の構造が父系化レ ベル 0 の核家族から、1 の直系家族、2 の外婚制共同体家族、3 の内婚制共同 体家族へと変質するにつれて進み、それに伴って社会の価値観が原初の自由・ 平等・民主主義から、不自由・不平等・権威主義へと変わっていった。 英国にいたアングロサクソンは家族型の変質の波が及ばなかったので核家族 型を維持した。そのことがアングロサクソンを近代化のリーダーにしたのだ。 近代における水平化は、まず中世の宗教に抑圧された人間性を開放するルネ サンスから始まり、大航海時代を通して初めて全地球が1つにつながり、産業 革命によって産業のグローバル化へと発展した。 次に日本の人口減少問題について考える。トッドは、「人口を維持すること は将来の経済基盤や社会基盤を支えるための最重要要素と考えるべきだ」と主 張し、一般的に人口を維持するには出生率を 2.1 に保つ必要があると述べてい る。現在、核家族型の国の出生率がフランスで 2.0、英国・米国で 1.9 である のに対して、直系家族型の日本・ドイツが 1.4 になっている。 米英仏は同性婚や LGBT(L:レスビアン 女性の同性愛者、G:ゲイ 男性 の同性愛者、B:バイセクシャル 男性・女性の両方を愛することができる人、 T:トランスジェンダー 出生時の性と自認する性が一致しない人)を認めて いるのに対して、日独は認めていない。こうした状況から、日本が出生率を上 げたければ、同性婚や LGBT を人権として認めて、セクシャルなことにもっ と寛容な社会になる必要がある。 トッドは、家族型に依存する価値観が変わるのは、数百年を要すると指摘し ている。現在の日本人の直系家族型の価値観は、13 世紀の鎌倉時代から 700 年余にわたって 育 まれてきた価値観だから、これをすぐに変えることは不可 はぐく 能だ。日本ではほとんどの家族が核家族になっているから、これから 100 年程 すれば価値観が核家族型に変わっていくだろう。しかし、差し迫っている人口 減少問題はそれを待っていられない。それを解決するには政治しかない。 これからの日本の政策は、社会全体で共働き夫婦やシングル・マザーなどの 子育てを支援する環境をつくり、出生率を少なくとも 2.0 に維持できるように すること、女性のステータスを向上させて新しい男女平等の社会を築くことを 目標とする。そして、古い価値観の年寄りは、この目標を正しく理解して、あ まり出しゃばらずに若者達を支援すること、新しい価値観の若者達に全てを委 ねることが肝要となる。日本人は、それを達成する知力と活力を持っていると 筆者は信じている。 (以上)

一強独裁体制を固めた習近平はどこに向かうのか

                        202211月 芦沢壮寿

一強独裁体制を築いた習近平の新政権

 中国共産党大会が1016日〜22日に開催された。その後の党中央委員会第1回全体会議(1中全会)で今後5年間の共産党の新指導部体制が固まった。

 中国共産党には「党大会時に67歳以下は続投、68歳以上は退任」という不文律があるが、今回の大会では69歳の習近平総書記が続投し、67歳の李克強首相と次期首相候補と目された汪洋全国政治協商会議主席が退任した。李克強・汪洋の両氏は習近平と対立する共産主義青年団(共青団)に所属する。これに対して中国国営の新華社は、中国共産党大会での幹部人事を解説する記事を配信し、李克強・汪洋の両氏は自ら退任を申し出たと報じた。同じく共青団出身で党内での実務能力の評価が高くポスト習候補に挙げられていた胡春華国務院副総理は、メディアを通して習近平に忠誠を誓うことを公表していたが、政治局員からも外されて降格となった。

 22日の党大会閉幕式で胡錦濤前総書記が本人の意志に反して警備員に途中退場させられる様子が動画で放映されるという事件が起きた。新華社は「体調不良のため」と報じたが、わざわざ動画で全世界に放映したことは何を意味するのか。敢えて推測すれば、共青団のトップとして君臨してきて党の長老となっている胡錦濤前総書記を退席させることを公表することによって、今後の習近平政権では党の長老が現政権を監視し抑制する働きが通用しないこと、胡錦濤を首領とする共青団の勢力を党指導部から一掃したことを公表するために仕組まれた事件と思われる。

 3期目に入る習近平政権の最高指導部となる7人の政治局常務委員は、習近平総書記と5人の習派(習の元部下や習によって引き上げられた企業トップなど)、1人の外交・内政ブレーンからなり、24人の政治局員(7人の政治局常務委員も含まれる)は19人を習派で占め、残りの5人が衛生省や外務省などの専門省庁出身の技術官僚(テクノクラート)であった。習派以外の者も習に忠誠を表明していることから、新指導部の全員が習近平の傘下にある。

 習近平は、自身への権力集中と個人崇拝を進め、「建国の父」の毛沢東と並ぶ地位の確立を目指してきたと言われる。そうして一強独裁体制を築いたが、そうなった経緯を習近平の経歴から考察してみる。

 習近平は、中国共産党の革命の英雄で八大元老の一人とされる習仲勲を父とし、高級幹部の子弟が集う「八一学校」で中学まで学んだ。文化大革命で父が反動分子とみなされて迫害されると、知識青年が農村に向かう「上山下郷運動」(下放)で1522歳の青春期を陝西省延安市梁家河村(黄土高原の寒村)で過ごし、マルクス主義や毛沢東思想に傾倒した。その梁家河村で習近平は中国共産党に入党し、党支部書記を務めた。現在この村は、愛国教育の拠点として整備されている。整備したのは、今回、政治局常務委員となった李希であった。李希は、習近平の部下として働いた経験がないが、習が青春期を過ごした梁家河村を愛国教育の拠点として整備したことが高く評価され、習政権の看板である「反腐敗闘争」を主導する党中央規律検査委員会書記となった。習は「陝西は根、延安は魂」と語り、梁家河村は毛沢東思想の「大衆路線」を実践した自身の原点と言っている。

 清華大学を卒業した習近平は、河北省、福建省、浙江省、上海市などに赴任し、各地で将来の側近となる人物を増やしていった。当時の部下は現在「福建閥」「浙江閥」「新上海閥」と呼ばれる。台湾海峡に面する福建省では軍人との交流を深め、軍内で習に忠誠を誓う人脈の構築につなげた。

 今回、共産党の序列2位で首相(国務院総理)となった李強は、習の浙江省時代の秘書であったので「浙江閥」に属する。李は、上海市党書記として今年の3月に新型コロナウィルス対策として上海市を長期間にわたって都市封鎖して市民の不評をかい、混乱の責任を問う声があった。しかし、「都市封鎖の徹底」を説いた習近平に忠実に従った李強を高く評価した習は、李を首相に抜擢した。習近平は、政治的能力よりも自分に対する忠誠心を高く評価するのだ。

 しかし、中国国内では、コロナ対策からの脱却を支援するために、雇用創出と質の高い成長を促進する方法を考えなければならないが、経済を主導する首相となる李強と副首相になる丁薛祥は党務畑を歩んできて経済運営の経験がない。経済に弱い李強と丁薛祥を敢えて首相と副首相にした習近平の意図は何か。敢えて推測すれば、経済に強い現在の李克強首相では、首相に経済面を牛耳られて手出しができなかったからであろう。習近平は、「経済」を良くすることよりも、マルクス主義を復活する「イデオロギー」に関心があるのだ。それを実現するために敢えて経済に弱い李強と丁薛祥を首相と副首相に抜擢したと思われる。つまり、習近平の今回の人事は、ケ小平の「改革開放」の経済路線を否定し、毛沢東の「イデオロギー優先」の政治路線を復活させるための人事であったのだ。しかし、後述するように、不動産業の過剰債務が限界を超え、上場企業の潜在的な不良債権比率が10%に達している現状を解決することは非常に難しい。とても「イデオロギー優先」では解決できない。これが次期習近平政権の大問題となり、政権の危機になる可能性がある。

 2012年に党総書記・中央軍事委員会主席についた習近平は、「反腐敗闘争」を通じて江沢民派(上海閥)の幹部らを粛清し、党や軍の組織改革を進めた。その反腐敗闘争を中央規律委員会書記として指揮したのが下放時代からの盟友であった王岐山だった。王の後の中央規律委員会書記を引き継いだのは趙楽際だった。趙楽際は、陝西省党書記時代に習の父 習仲勲の墓を巨大な陵墓として建て直したことから習に近づき、習の信頼を得た。趙楽際は今回の序列で3位となり、今後は全国人民代表大会常任委員長を務める。

 以上のように、次期習近平政権の新指導部は、共青団などの反習派を全て排除し、政治局が習近平に忠誠を誓うイエスマンばかりの集団となり、習近平の一強独裁体制となった。習近平は、政策面では凡庸だが、親分肌で権力闘争に長けた策略家のようだ。しかし、それでは政治局の中で真の政策検討ができない。習近平は、思い込みが激しく、人の言うことを聞かないと言われるが、そうした習近平を政治局員が正すことは望むべくもない。それどころか政治局員の間で習近平に忠誠をつくして出世することばかりを考えて、権力闘争が生じる懸念すらある。かつてケ小平が文化大革命を引き起こした毛沢東の独走を防止するために定めた「集団指導体制」は、今回の習近平政権で完全に崩壊してしまった。こうしたことが許されるのには、中国共産党内に特別な事情があったと推察される。それは、毛沢東が定めて中国共産党全体の長期目標となっている「世界制覇100年戦略」の中に、世界制覇の目標を達成するために共産党全体で一致団結して当たるという取り決めがあって、「台湾統一」を表明する習近平を応援せざるを得なかったのだと思われる。

 

習近平が改正した党規約は何を意味するか

 今回の共産党大会で改正された党規約には、「二つの擁護」「台湾独立に反対し抑え込む」「2035年までに社会主義現代化を基本的に実現する」「世界一流軍隊の建設」の4項目が新たに明記された。これらは今後の習近平政権が取り組む目標を示している。

 「二つの擁護」とは、党の核心としての習近平の地位と習を中心とする党中央の権威を守ることだ。しかし、党大会前に規約改正の焦点となっていたのは「二つの確立」であった。「二つの確立」とは、党の核心としての習近平の地位と習近平思想の指導的地位を確個たるものとして確立し、全党員に忠誠を義務付けるというものだった。ところが、「二つの確立」は党規約の「個人崇拝の禁止」に抵触するとして見送られた。「個人崇拝の禁止」とは、毛沢東が引き起こした文化大革命の原因が毛沢東に対する個人崇拝にあったとの反省から、ケ小平が党規約に盛り込んだものだ。同様に毛沢東に使われた「」という呼称と、毛沢東が最後まで手放さなかった「党主席」(共産党の最高位のポストを表す)という地位の復活も見送られた。

 「2035年までに社会主義現代化を基本的に実現する」という項目が党規約に明記されたことは、習近平が2035年頃までの超長期政権の布石を打ったとも受け取れる。習近平は、2035年頃までを「習近平の新時代」と称し、2035年までに1人当たりのGDPを中程度の先進国レベルに引き上げることなどを軸にして、今世紀半ばまでに中国を「中国式社会主義現代化強国」と「軍事強国」にすると言っているのだ。

 なお、「習近平思想」を党規約に明記して「毛沢東思想」と同格にする案があったが実現しなかった。「習近平思想」とは、「習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想」を縮めたものだが、党規約には明記されなかったものの、「2035年までに社会主義現代化を基本的に実現する」ことと内容は同じだから、「習近平思想」が今後の中国共産党の政策の基本となることは間違いない。

 今回、「台湾独立に反対し抑え込む」を党規約に明記したことは、それが第3期習近平政権の公約であり、最大の課題であることを示す。今回の軍幹部人事では台湾を念頭において台湾情勢を熟知した幹部を登用している。

 なお、中国が「台湾統一」を急ぐ理由は、中国の体力が衰えないうちに達成したいと考えているからだ。これは、日本の軍部が真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入していった状況と似ている。

 習近平が目指している「中国式社会主義現代化」とは、「マルクル主義の中国化と現代化」を意味する。それは、人々が「競争よりも平等」「出世よりも勤勉さ」を尊び、「物の豊かさよりも心の豊かさ」を重んじる社会を目指すことだという。人々の思考や生活までの全てを共産党が指導することによって、そうした社会を目指すことが習近平の提唱する「共同富裕」の社会だという。

 中国では一人っ子の多い都市部で教育熱が過剰となり、学習塾に通う子供の教育費が高騰していることが若い世代が出産をためらう原因になっているという。それを解決するために中国政府は学習塾を規制・禁止し、高校受験制度を改めて、入学試験の成績順で決まる合格枠を減らして、地元の区や中学への割当枠を増やした。このように、中国共産党が指導する社会は、何でも共産党の意のままになる利点があるが、その社会は、個人の行動が監視され、共産党にとって危険な人物が強制的に排除される社会なのだ。

 習近平は、個人の自由と多様性を尊重する西側諸国の価値観と対決して、中国式社会主義現代化による中国独自の道を行くという。そして、中国式社会主義現代化を世界に提示して、新興国や途上国を中国側に取り込むという。はたして新興国や途上国の国民は、個人の行動が監視され、国家指導者にとって危険な人物が強制的に排除される社会を望むだろうか。

 習近平が中国式社会主義現代化を考えるようになったのは、西側諸国の民主主義社会が格差や新たな分断で混乱していることにあった。極右勢力が台頭して政権を担う国も出てきた。殊に米国でトランプ前大統領一派による連邦議事堂乱入事件は、習近平に民主主義国と対決する決断をさせたと言われる。

 だが、習近平は重大な誤りをしている。マルクスは資本主義の発展で労働者の貧困が加速すると考えたが、実際には分厚い中間層が出現して、経済が大いに発展した。その原動力は、「自由」に裏打ちされた「個人の力」であった。ところが、習近平が目指す「中国式社会主義現代化」は、共産党が全てを指導することによって、「個人の力」を抑え込み、自由な個人の力によって生まれるイノベーションを抑圧してしまう。その結果、イノベーションによる経済成長が阻害され、分配するパイを大きくすることができなくなる。それでは、今後の中国に予想される人口減少問題や経済成長の鈍化を解決できない。

 習近平は、1985年に32歳で福建省アモイ市の副市長に抜擢され、福建省で17年間務める間に台湾企業の誘致に尽力し、台湾の企業経営者たちに中国は決して裏切らないと熱く語ったという。アモイ市から2kmしか離れていない台湾の離島の金門島は既にアモイと強くつながり、福建省の一部となっている。

 台湾海峡を挟む中国の軍事力は、台湾が駆逐艦4隻、潜水艦2隻、戦闘機400機、特殊作戦機30機を有するのに対して、その数倍〜数十倍を有して圧倒している。しかし、日米同盟を中心にして西側諸国の台湾に対する軍事支援を警戒する中国は、「兵貴神速」(三国志に由来する「兵は神速を貴ぶ」という兵法)と称する急襲作戦とサイバー攻撃の「電子戦」により、軍隊と民間業者をかき集めた「軍民総力戦」で一気に台北を攻め落とすという。「軍民総力戦」とは、人民解放軍の輸送能力を補うために、フェリーなどの大型民間船に水陸両用戦闘車などの兵器を乗せて密かに台湾周辺に集結させ、米軍が動く前に一気に攻め込み、ファーウェイ、テンセントなどの民間企業も動員してサイバー攻撃を一斉に仕掛けることだ。中国が密かに大型貨物フェリーを使って数十台の水陸両用戦闘車を運ぶ軍事演習を繰り返している実態が、船舶自動識別データや衛星写真を使った日経新聞の調査から判明している。

 

衰退への道を歩む習近平政権

 中国は、ケ小平の改革開放政策により、外国に中国市場を開放して西側諸国の資本を呼び込み、自由な市場経済を通して高度経済成長を達成した。

 胡錦濤政権時代の2008年に起こったリーマン・ショックでは、4兆元の経済対策によって恐慌の瀬戸際にあった世界を救った。中国は経済面でも外交・安全保障面でもリーマン危機を跳躍台にして米国に次ぐ大国となった。

 ところが、2012年に習近平政権になると、東シナ海・南シナ海への海洋進出を強めて「現状変更」による国際法違反を犯すようになった。また、一帯一路によりアジア・アフリカの新興国・途上国に投資して国外に進出していき、日米欧の民主主義諸国と対決するようになった。

 2010年代前半にポーランド、ルーマニアやバルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)などの中・東欧諸国は、経済協力への期待から中国に接近したが、中国政府の同地域への投資が進んでいないことに失望していた。そんな所にロシアのウクライナ侵攻が起こり、中国がロシアのウクライナ侵攻をかばうような言動を続けていることから、中・東欧諸国(ハンガリーとセルビアを除く)の中国離れが勢いづいている。ソ連時代の苦い経験を持ち、共産党体制へのアレルギーの強い中・東欧諸国にとって、ロシアを支持する中国が許せないのだ。

 ロシアのウクライナ侵攻で引き起こされた食糧危機が直撃するアフリカや中東の諸国でも、ロシア離れが起こっていて、中国がロシア寄りの立場をとり続ければ中国離反が起こりそうだ。

 中国共産党大会明けの株式市場は、次期習近平政権に拒絶反応を示して、元は1ドル=7.3元まで下落した。中国の22年の実質成長率は中国を除く新興アジア地域を下回る見通しとなった。それが210年に及んだ習近平政権の帰結であった。

 習近平政権の3期目は「内憂外患」に満ちている。習近平は、共産党大会における活動報告で「安全保障」と「自立」をキーワードとして繰り返し使った。これは、習近平が国の安全保障の強化と政治・経済の自立を優先させることを意味する。経済では国内消費と自前の技術力によって内需を拡大し、「自給自足」の経済を目指していくことが読み取れる。そうなると、中国に進出した日米欧の企業が中国から閉め出されることになる。

 習近平の「共同富裕」の政策は、少ないパイを共有的な分配によってしのごうとする狙いがあるが、パイを大きくすることができない今後において、これからパイを再分配して国民を満足させる制度(所得の累進課税制度や地方交付税制度など)を構築することは不可能に近い。

 習近平は、米中両国が世界をリードするという「新型大陸関係」を提唱してきたが、それを完全に放棄して、今後は南半球の途上国との関係を強化する「グローバル関係イニシアティブ」へと方向転換するという。また、「一帯一路」は、中央政府の資金不足から縮小し、今後は近隣諸国との貿易や投資を促進する通路に絞り込んで、地方政府が推進するように方向転換するという。

 不動産業の過剰債務が限界を超え、新築住宅の値下がりが止まらなくなった。9月の主要70都市平均の前月比下落率は0.3%となり、13ヶ月連続の下落となった。上場企業の潜在的な不良債権比率は10%に達し、政府統計の6倍近くになっているという。中国経済の3割を占める不動産業が停滞し、さらにゼロコロナによる経済の停滞が加わって、中国経済は活力を失った。

 さらに、習近平が目指す「中国式社会主義現代化」では、経済成長を支えてきた民間企業が国有企業に替わっていき、共産党による指導の下でイノベーションが抑圧され、新しい産業が生まれなくなることが懸念される。

 中国がロシアのウクライナ侵攻を支持していることに抗議する中・東欧諸国、アフリカ諸国、中東諸国の中国離れが進んでいる。西側の民主主義諸国とも対立する中国は、今後、国際社会で孤立化を深めていくだろう。

 以上の考察から、習近平は一強独裁体制を築き、ケ小平が始めた改革開放政策を否定して、失敗に終わったはずのマルクス主義を復活して中国式社会主義現代化を進めようとしている。それは、中国を「強国」「強軍」の国に導くどころか、中国を衰退させることになるだろう。そして中国は、かつてソ連が崩壊していった道と同じ道をたどることが予想される。

 

中国と対決する米国の政策

 米国のバイデン政権は、1012日に発表した「米国家安全保障戦略」の中で、中国を「国際秩序を再構築する意図とそれを実現する経済力、外交力、技術力、軍事力を持つ唯一の競争相手」と位置づけ、「中国との競争において今後10年が決定的な時期になる」と明記した。

 そして、半導体先端技術の中国への輸出規制強化を発表した。規制対象は、米国製の先端半導体(回路線幅が14ナノメートル以下の微細高性能半導体)の輸出規制にとどまらず、米国製の製造装置や技術を使った高性能半導体の全てを対象とし、台湾や韓国、オランダなど中国を除く半導体メーカーの半導体が対象となる。半導体そのものだけでなく、製造装置や設計ソフト、人材も対象に含めて許可制とする。商務省は企業の許可申請を原則拒否する方針なので、規制対象の中国事業が事実上できなくなる。米国は、技術者の就業、取引も含めて、幅広く足並みをそろえるように同盟国に求めた。

 日米は次世代半導体分野の研究開発で協力することで合意した。年内に日米連携の研究拠点を整備し、米IBMやベルギー研究機関とも連携する。その研究成果は、日本のトヨタ自動車、NTT、ソニーグループなど8社がつくった新会社ラピダスが量産につなげる役割を担う。ラピダスは、2ナノメートル以下の次世代半導体を20年代後半までに生産するという。

 以上のような米国の対中政策は、中国との全面的な経済戦争である。バイデン政権は中国と対決し、習近平政権を転覆させることも視野に入れている。米国は、かつての冷戦時代のように、世界を国家安全保障の観点から見て、中国が台頭すればするほど米国の失うものが大きくなるというゼロサム的な見方をするようになった。一方、米国の先端技術輸出規制の強化は中国の台湾統一を強める可能性がある。

 さらに米国は、「現状変更」への制裁を盛り込んだ「台湾政策法案」の審議を進めている。中国を念頭において制裁措置を盛り込んだこの法案は、台湾に5年間で65億ドルの防衛支援を行い、台湾の国際機関への加盟を後押しすることもうたっている。

 米政府は、新たな核戦略の指針となる「核体制見直し(NPR)」を公表した。その中で米政府は、中国が核戦力の拡大と近代化を急ぎ、インド太平洋地域での軍事威嚇に核兵器を使う恐れがあるとして危機感を表し、中国の核使用を抑止するための対策として、米国の核戦力で同盟国への核攻撃を防ぐ「拡大抑止」の強化について日本・韓国・オーストラリアと協議し、同盟国の能力を総動員して「統合抑止力」を高める方針を表明した。

 一方、核・ミサイル開発をやめない北朝鮮に対しては、「核兵器を使用した場合の悲惨な結末を金正恩体制に明らかにする必要がある」と強調し、米国や同盟国へのいかなる核攻撃も容認せず、もし核攻撃すれば「金正恩政権の終焉になる」と警告した。

 

あとがき

 台湾有事が習近平の次期政権中に起こることが確実になってきた。中国は民間企業も総動員して軍民総力で一気に台北を急襲する作戦のようだ。米日韓豪が台湾を軍事的に支援しても、これに対処することはむずかしい。

 最も賢明な方法は、台湾と米日韓豪や西側諸国が連携を強化して、もし中国が台湾に侵攻すれば中国にも甚大な被害が生じることを知らせて、中国に台湾攻撃を思い留まらせることだ。そのためには、米国を始めとするNATO諸国がロシアのウクライナ侵攻を失敗に終わらせて、中国に西側軍事同盟の威力を認識させることが肝要となる。

 その上で、中国が党規約に明記した「台湾独立に反対し抑え込む」ことと矛盾しないで、中国が納得して台湾攻撃をやめるような方法を提案することだ。それは、台湾が「独立しない」こと、今後も「現状を維持し続ける」ことを米中台と関係国の間の約束として条約(非公式の密約?)を結ぶことだ。それが中国と台湾にとっても国際社会にとっても、現実的で最良の妥協点であろう。

 次期習近平政権の「中国式社会主義現代化」は、いずれ失敗に終わるだろう。しかし、共産党独裁の中国には、それに素速く対応する方法がない。民主主義国にける「選挙による政権交代」ができないことが中国の最大の弱点だ。

 米国の「核体制見直し」の提案を日本は受け入れるべきだと考える。日本には「非核三原則」があって現状では受け入れられないが、「非核三原則」を改めるのだ。中国・ロシア・北朝鮮の核保有国と対峙する日本が自国を防衛するには、日米同盟に加えて、米日韓豪とも同盟を結んで「統合抑止力」に頼ることが賢明であり、それが最良の方法であろう。

 その上で、唯一の被爆国としての日本独自の政策として、世界の「核廃絶運動」に積極的に関与していくべきだと考える。今後の日本の防衛は同盟国の「統合抑止力」が有効であり、それと「核廃絶運動」とは矛盾しない。 (以上)

 プーチンのウクライナ侵攻と今後の世界

                                              202210月 芦沢壮寿

 ロシアのウクライナ侵攻のニュースが毎日報道され、暗い気持ちが続くこの頃です。もっと身近な中国が近いうちに台湾に侵攻するというニュースも頻繁に聞くようになりました。戦後の長い平和な世界になじんできた私たちですが、この歳になって急に戦争が間近に迫っていることに戸惑いを感じている人が多いと思います。

 多くの専門家によると、中国が台湾に侵攻して台湾を中国の支配下に入れようとする「台湾有事」は2027年までに起こる可能性が高いと言われています。米国のバイデン大統領は、台湾有事には米国が台湾防衛に参戦すると明言しているので、日本も日米安保同盟の集団的自衛権の行使によって参戦することになりそうです。日本は緊急にその準備をしなければなりません。これからの5年間は、今までとは大きく変わらなければなりません。そのためには、ロシアと中国の実態を正しく認識して、正しく対処する必要があります。

 そこでこの冊子では、ロシアがウクライナに侵攻するに至った歴史的経緯とウクライナ侵攻の実態、中国と台湾の関係の歴史的経緯と中国の実態について考察し、今後の世界の動向について考えてみることにします。

 

中ロの「現状変更」の真相

 英国のフィナンシャルタイムズのチーフ・コメンテータ ギデオン・ラックマン氏は、ロシアのゴルバチョフ氏の死に寄せて、「ゴルバチョフ氏にとって国家の偉大さとは、一般国民の尊厳を守ることだった。ゴルバチョフ氏は、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げ、高度な軍事技術を誇っていても、一般市民に毎日の生活必需品を行き渡らせることができなかったソ連政府の無能ぶりを指摘して、国民を検閲でがんじがらめにする屈辱的な社会を民主主義社会に変える「ペレストロイカ)」(「建て直し」という意味)を進めた」と述べている。ゴルバチョフは、1986年にペレストロイカを始め、1989年にはポーランド、ハンガリー、東ドイツで起こった民主化運動を許容して「ベルリンの壁」を崩壊させる道を開いた。また、同年5月に北京を訪れた際には、天安門広場で民主化を求めて抗議活動をしていた学生たちに歓迎された。1991年にソビエト連邦を解体して冷戦を終結させたが、ロシアでゴルバチョフの偉業が評価されることがなく、ロシアは民主主義国になれなかった。ラックマン氏は、人間の尊厳を否定してロシアを強権国家へと変質させたのはプーチンであり、プーチンが国家の偉大さを取り戻したいという欲望に駆られてウクライナ侵攻に突き進んだと批判している。プーチンは、国家の偉大さが旧ソ連の領土奪還にあると思い込んでいるというのだ。

 プーチンと同じように中国の習近平は、「中華民族の偉大な復興」をスローガンに掲げ、台湾に侵攻して台湾を中国共産党の強権主義の支配下に取り込もうとしている。中ロは、国民を強権によって支配し、過去の栄光を取り戻すために支配圏を拡大しようとしている点で共通する。今後の世界が進む方向は、この中ロの強権主義の拡大に対して世界の国々、特に民主主義を志向する米欧日の西側諸国がどう対処するかによって決まりそうな情勢になってきた。

 ロシアの偉大さを取り戻したいというプーチンの欲望は、旧ソ連時代にロシアがワルシャワ条約の国々を従えて、自由主義陣営と互角に渡り合っていた威信が根源になっている。西欧の近代化に取り残されたロシアは、レーニンに導かれた革命によって共産主義のソビエト連邦となったが、スターリンによって強権主義と恐怖の監視社会の国へと変貌してしまい、最終的に経済が破綻してしまった。ゴルバチョフが19917月にワルシャワ条約を解体すると、ワルシャワ条約に加盟していた東ドイツは西ドイツに編入され、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロバキア、バルト3国がNATOに加盟することになった。しかし、199112月にソビエト連邦を解体して民主主義体制に舵を切ったロシアは、自らの力で民主主義社会、自由主義経済を築くことができなかった。有能な人物が祖国を捨てて国外に脱出し、新しい産業を起こす技術力・経済力がなくなってしまったからだ。

 プーチンの時代になって再び強権主義の国に変貌すると、旧ソ連邦に属していたウクライナ、ジョージアがNATO加盟に動き出した。過去の威信に染まるプーチンは、それが許せなかった。

 プーチンが「ロシア系住民の保護」を口実にして隣国を侵略し、領土を拡大して国民の求心力を高めようとする手口は、ナチス・ドイツの手口と同じだという。ナチスは、チェコスロバキアのズデーデン地方を併合する際に「弾圧されたドイツ系住民の保護」を大義名分に掲げ、英仏が戦争回避のためにナチスの横暴を認めると、ドイツはポーランドに侵攻し、戦火を拡大していった。

 プーチンは、2014年にクリミア半島を侵略し、住民投票を強行して併合を正当化した。米欧日は対ロ制裁を発動したがプーチンの暴挙を止めらず、「現状変更」の国際法違反を許してしまった。そして今回、2022224日にロシア軍がウクライナに侵攻したのだ。さらにプーチンは、ジョージアからの独立を宣言した南オセチア、モルドバ東部の親ロシア派地域、沿ドニエストル共和国を侵略して併合していくことを目論んでいる。

 2015年にドイツとフランスの仲介でロシアとウクライナの間で「ミンクス合意」がなされた。この「ミンクス合意」は、親ロシア派武装勢力が実効支配するウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の2州に自治権を与えて人民共和国にして戦闘を停止するものであったが、2019年に大統領に就任したゼレンスキーがそれを拒否した。

 ドンバス地方と呼ばれるドネツク州とウガンスク州は、18世紀に石炭が発見されて帝政末期から炭鉱開発が本格化し、旧ソ連時代に炭鉱業や製鉄所が集積して多くのロシア人が労働者として流入した。そのために、ロシア系住民が多くなり現在は約4割を占める。クリミア半島併合時に親ロシア系武装勢力が結成されて一部地域を実効支配し、ウクライナ軍との紛争が続いてきた。

 中国の習近平の「中華民族の偉大なる復興」というスローガンも、1840年の「アヘン戦争」以降に欧米列強に領土を踏みにじられた「恨み」を晴らして、「中華」の威信を取り戻したいという欲望だ。中国は、紀元前2900年頃におこった夏王朝の時代から「中華」(自らが世界の中央に位置する文化国家だと決めつける思想)という権威主義の意識を持ち続けてきた。中国は唐・元・清の時代に北方遊牧民に支配された歴史を持つが、「中華」という思想は維持されてきた。ところが中華思想にドップリつかって近代化が遅れた中国は、欧米日に対して領土を侵略され踏みにじられた「恨み」を抱いた。日中戦争の後の1949年に国民政府との内戦に勝利して中華人民共和国を建国した中国共産党は、建国100年に当たる2049年までに欧米日に対する「恨み」を晴らして「世界制覇」を達成するという目標を掲げ、突き進んできた。そして習近平になって南シナ海・東シナ海に軍事力で侵出するようになった。習近平の「中華民族の偉大なる復興」は、世界制覇の目標に向かって昔の「中華」の世界を取り戻したいという欲望の現れだ。

 本来なら国際秩序の安定に責任を持つべき国連安保理 常任理事国の中国・ロシアが国際法に違反する「現状変更」を強行するのは、昔の栄光を取り戻したいという利己的な欲望によるものだ。中国・ロシアの強権主義は、指導者たちの利己的・独善的な欲望であり、自らの欲望を実現するための手段として、常任理事国の権利を乱用し、国連を機能不全におとしめているのだ。

 

ロシアのウクライナ侵攻と世界情勢の変化

 ロシアの侵攻にウクライナが善戦している。ウクライナ人は軍人だけでなく国民を挙げて士気が高いことが最大の強みとなっている。ロシアや欧州列強の支配を強いられてきた長い歴史を持つウクライナ人は、現在の独立を維持することの重要性を自覚している。「先人たちが渇望した独立をここで手放すわけにはいかない」という強い思いが、多大な犠牲を払ってでもロシアと戦う力となっているのだ。

 ロシアのウクライナ侵攻の最大の問題は、核保有国のロシアが核の使用をちらつかせて戦争を仕掛けたことだ。米国とNATO(北大西洋条約機構)は、第3次世界大戦に発展することを恐れて直接関与を控え、ロシアが核を使うレッドラインを超えない範囲でウクライナに軍事支援をすることにした。その結果、対空ミサイルや対戦車ミサイルまでは供与するが、戦闘機は供与しなかった。

 ウクライナに侵攻したロシア軍の兵士は約15万人だったが、半年間でその半数以上の8万人が死傷し、そのうち死者は約2万人だった。ロシア兵の中には、軍服を脱いで武器を捨てる者も続出しているという。一方、ウクライナ兵の死者は約9千人で、ウクライナの避難民は全人口の3分の1に当たる1700万人に及んだ。思いがけない兵員の減少にあせったプーチンは、825日にロシア軍の兵員数を137千人増員する大統領令に署名した。

 9月に入ってウクライナ軍が反攻に転じ、ロシア軍に占領されていた地域を奪還し始めた。米国から供与された高機動ロケット砲システム「ハイマース」を使い、ロシア軍の補給路を攻撃して、ロシア軍を撤退させている。

 912日にはドネツク州につながる幹線道路が通る東部ハリコン州の中心都市イジュームを奪還したと発表した。しかし、イジュームは8割以上が破壊され、少なくとも市民1千人以上が死亡したという。戦争の国際ルールでは一般市民を攻撃してはいけないことになっているが、ロシア軍はそれを全く無視している。イジュームでは、後ろ手に縛られたまま殺された一般市民の遺体が埋められた墓が多数発見された。彼等は、拷問にかけられて亡くなったのだ。

 ウクライナ軍反攻の作戦には米国が関与していた。米国のアドバイスを受けてウクライナ軍が南部のロシア支配地域を攻撃したことが奏功し、ロシア軍は東部にいる軍を南部に移動させざるを得なくなった。ウクライナ軍は、手薄になったハリコン州を攻撃して、短期間でハリコン州の奪還に成功した。

 米国のシンクタンクの戦争研究所によると、南部でのウクライナ軍の反攻はロシア軍の志気と軍事能力を着実に低下させていて、ロシア軍の損害が急拡大しているという。軍事情報サイトの分析によると、侵攻から9月中旬までにロシア側の破壊されたり、ウクライナ側に奪われたりした戦車や火砲などの兵器の合計は約6100に及び、ウクライナ軍の約16003.8倍にもなった。

 米国のウクライナに対する軍事支援は累計で150億ドルにのぼり、その後も追加されてきている。一方、経済制裁を受けているロシアは、失った兵器の補充に苦労しているようだ。戦車の場合、投入した2927台の4割に当たる1128台が失われた。軍人でも訓練された職業軍人が不足していて、ロシア軍の兵士の不足は深刻な状況にある。

 英国防省によると、ロシア国内の服役囚人を対象に刑期の短縮や金銭と引き換えに、ウクライナでの軍事任務に就く囚人を募って、ウクライナの戦場に送っているという。また、不足する兵器の補充に向けて国内企業に「特別軍事作戦」のための統制を強化しているという。北朝鮮から数百万発にのぼる弾薬を調達する協議を進めているという情報もある。

 ロシア国内では、プーチンの辞任を求める動きがモスクワやサンクトペテルブルクの議会議員の間で出始めた。議員たちは、「プーチンの行動は時代遅れで、ロシアと市民の発展を妨げている」と訴えている。また、ロシアとウクライナ以外でも旧ソ連領内では、アルメニアとアゼルバイジャン、キルギスとタジキスタンなどの国境を接する国々が領土紛争を起こしている。今、旧ソ連領の各地で本当の崩壊が始まっているのだ。

 こうした状況変化からゼレンスキー大統領は、東部とクリミヤを含めて、全てのロシア軍をウクライナから追い出すと宣言するようになった。

 915日にサマルカンドで開催された上海協力機構(中国、ロシア、中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンの4カ国とインド、パキスタンに新しくイラン、ベラルーシが加わった10カ国)の会議に合わせて、プーチンと習近平が会談した。ウクライナの戦況悪化にあせるプーチンと台湾情勢に危機感を強める習近平は、ともに対米での結束を演出した。しかし、中ロは経済で協力できても、ロシアの軍事行動を支援すれば米欧からの経済制裁を恐れる中国は、ロシアへの軍事協力ができない。ロシアは、エネルギー資源のロシア依存をなくそうとするヨーロッパから閉め出され、中国への資源輸出に頼らざるを得なくなる。ロシアは経済的・政治的に中国に従属するリスクに陥り、中国はロシアの反米路線に引き込まれるリスクに陥っている。つまり中ロは、不安要因を抱えながら結束を装っているが、決して強く結束することはありえないのだ。

 921日の国民に対するテレビ演説でプーチンは、親ロシア派武装勢力が実効支配するウクライナ東部のルガンスク州、ドネツク州とロシア軍の占領下にある南部のヘルソン州、ザポロジア州の4州で923日〜27日にロシアへの編入の是非を問う住民投票を実施することを支持すると述べ、4州の併合に踏み切ることを表明した。これは、4州をロシア領土とし、そこを基点にしてウクライナ侵攻を進める策略なのだ。

 なお、920日時点での4州におけるロシア軍の占領地域の割合は、ルガンスク州とヘルソン州が99%と93%、ドネツク州とサボロジェ州が共に65%だった。4州の占領面積はウクライナ国土の14%に当たる。

 演説の中でプーチンは、30万人規模の兵の動員令を出すことを明らかにした。ロシアは1827歳の男性に通常1年間の兵役義務を課しているが、今回の部分動員はウクライナ侵攻で深刻になっている職業軍人の不足を補うためであり、特別な軍事技術・経験を持つ予備役が動員の対象となる。

 動員令を出した翌日の922日になると、ロシア国内の38都市でウクライナ侵攻に反対する抗議デモが発生し、約1400人が治安当局に拘束された。また、徴兵対象となる若者たちが国外に脱出する動きが相次いだ。これは、徴集令状を受け取る前に国外に出れば罰せられないからだ。22日発の航空便でビザを必要としない外国向けのチケットが瞬く間に売り切れ、23日以降の航空便チケットの価格が急上昇した。陸上の国境でも長蛇の車列が発生した。検索サイトのグーグルでは「腕を折る方法」についての検索数が急増したという。

 プーチンは、「国民を守るため」と称して国民にウクライナ侵攻を納得させたが、今や国民の命を脅かす状況に陥ってしまった。ロシア国内で77%の国民がプーチンのウクライナ侵攻を支持していたが、親兄弟が戦場に駆り立てられる事態に至り、また、国連で世界中の国々からロシアの蛮行が批難される状況を見るにつけ、国民や体制内でもプーチン批判が出るようになった。

 ウクライナ東・南部4州のロシア併合を問う住民投票はデタラメであった。投票所の投票が始まる前から投票所の係員が軍人をつれて戸別訪問し、投票を強要するという異常な投票が全体の67割を占めた。そして、即日開票の結果、賛成票が8799%を占めたと発表されたが、選挙結果はあらかじめ用意されていて、住民投票をしたという事実を示すだけの茶番劇だった。4州の親ロシア派は、すぐにロシアへの編入をプーチン大統領に要請した。彼等は、ウクライナの国民でありながら、ウクライナの国内法を全く無視しているのだ。

 プーチンがマイナスの影響の大きい住民投票と部分的動員令を急いだことは、プーチンが相当あせっていたことを意味する。プーチンは、予想外に悪い戦況にあせって、戦況打開の見込みのない住民投票と国民の支持を得ることが難しい部分的動員令を実施した。クリミアの時とは異なり、今回は欧米がロシアに一層強い制裁を科せば、動員令による国民の動揺と相まってロシアの社会・経済が追い詰められ、プーチン体制が揺らぐ可能性が高い。

 プーチンは、930日に4州をロシアに併合すると宣言し、「編入条約」に署名した。国連のグテレス事務総長は4州の併合に「国連憲章と国際法に反し、法的価値を持たない」と批判した。国連憲章2条では、武力によって領土保全を侵すことを禁じている。米欧日の西側諸国はロシアに追加制裁を科し、ウクライナの領土奪還に軍事支援を継続することを誓った。ここにロシアと西側諸国との分断が決定的になった。ロシアは、西側諸国だけでなく、中国・インドの支持も得られなくなり、一段と国際的孤立を深めるだろう。

 演説の中でプーチンは、「すべての手段を使って国土(4州を意味する)を守る」と言い、核兵器使用の可能性を示唆した。

 ウクライナ外務省は、すぐさま「ロシアの占領地域を開放する」と強調し、国際社会に一層の軍事支援と厳しい対ロ制裁を訴えた。

 10月に入ってもウクライナ軍は目覚ましく占領地域奪還を進めている。4州の併合に一層態度を硬化させたゼレンスキー大統領は、プーチンとの交渉は「不可能」だと明記した法令に署名した。今やウクライナはプーチン政権の崩壊を視野に入れて、ロシアに揺さぶりをかけている。日露戦争や第1次世界大戦など、ロシアには「負け戦」の最中に政権が崩壊する伝統があるからだ。プーチンが目下の劣勢を受けて戦争をエスカレートすれば、その行為自体が自らの基盤を揺るがすことになる。プーチンは自ら墓穴を掘っているのだ。

 

台湾を巡る米中対立

 台湾を巡る米中対立の根底には、「一つの中国」についての米中の認識の違いがある。米中が国交を結んだ1978年の米中共同声明では、「米国は中華人民共和国が中国の唯一の合法的国家であることを承認(recognizeする」と明記する一方で、「中国はただ一つで、台湾は中国の一部だとする中国の立場について、米国は認識(acknowledgeする」と表現した。米国は、共産党政権が中国の合法的政府だと承認するが、台湾を中国の一部としたいという共産党政権の立場について認識するけれども、承認するわけではないと言っているのだ。

 米国がこうした「あやふやな表現」に固執するのには、次のような理由がある。日清戦争後の下関条約で日本領となった台湾は、日中戦争で日本が米国に支援された中華民国と戦って破れ、中華民国領となった。その後の内戦で中華民国の国民政府軍が共産党の人民解放軍に敗れ、台湾に逃れて現在に至っている。米国としては、中国本土は共産党の中華人民共和国の領土として認めるが、台湾は中華民国領のままにして民主主義側に留めておきたいのだ。

 米国は、1979年に「台湾関係法」という国内法を制定し、「平和的な手段以外で台湾の将来を決定しようとする試みは、地域の平和と安全の脅威だ」と明記して、その場合に備えて米国が台湾に武器を供与することなどを定めた。台湾支援を国内法で定めているということは、もし中国が台湾に侵攻した場合には、米国は間違いなく台湾防衛に動くことを意味する。しかし米国政府は、敢えてそのことを明らかにしない「あいまい戦略」をとってきた。

 米国は、実際には「現状維持」の政策をとってきた。「現状維持」とは、台湾が中国の支配下に入らず、中国から独立もしない状態を維持することだ。台湾の蔡政権も「現状維持」の政策をとっている。

 台湾は、世界で使われている高性能半導体の92%を生産している。もし中国が台湾を攻撃すれば、半導体のサプライチェーンが崩壊し、世界経済は大打撃を受ける。従って、中国が台湾を攻撃することを阻止しなければならないし、台湾に集中し過ぎている半導体のサプライチェーンを改めなければならない。

 9月にバイデン大統領が、「中国が台湾を攻撃すれば、米国は台湾防衛に軍隊を出動する」と言ってしまった。それに中国が猛反発した。これは、「あいまい戦略」を放棄したことを意味するが、あわてた米政府高官は米国の現状維持政策には変わりがないと主張した。

 もし中国の台湾攻撃に米軍が出動して、仮に台湾が独立することにでもなれば、米国が「現状変更」の国際法違反を犯したことになる。それを避けるために、再び台湾を中国の一部として戻すことは考えられない。つまり、米国の「あいまい戦略」に基づく台湾政策には最初から矛盾があったのだ。従って、バイデン大統領が「あいまい戦略」を放棄したことは正解だったと筆者は考える。

 今後は、「中国が台湾を武力で攻撃しようとすれば、米国はそれを阻止するために軍隊を出動する」と明言し、中台の武力衝突を阻止して、現状を維持することが目的であることを明確にすべきだ。そして、インド太平洋の自由で開かれた現状を維持するために、米国は日本・韓国・オーストラリア・インドや英国・フランス・ドイツとも連携して、インド太平洋を武力で制圧して「現状変更」を進めている中国に対抗することを明確に宣言すべきだ。

 振り返って見れば、米国は、将来、中国が豊かになれば民主主国になるという淡い期待を抱き続けて、中国の経済成長を後押ししてきた。しかし、2012年に習近平が主席になって、完全に中国に裏切られたことを悟り、その反動として米中対立へと突入したのだった。

 中国の習近平にも誤算があった。中国は、過去の恨みをはらして世界制覇を達成し、習近平が唱える「中華民族の偉大な復興」を果たすことを目標にしてきたが、その実現が困難な状況になりつつある。

 中国は今がピーク(最盛期)だという。中国は、2021年の経済規模で米国の76%にせまり、少し前まで米中の経済規模が逆転するのは自明のことと考えられてきた。しかし、最近になって状況が変わりつつある。

 中国の現状は、一部のエリートに富が集中し、人口の4割強に当たる約6億人が月収1000元(約2万円)以下で暮らしている。中国は今まさに「高みから転落」しつつあるか、すでに衰退し始めているという説もある。中国の景気減速は「中所得の罠」(貧しい国がある程度経済成長すると、成長率が鈍化する罠)に陥ったからだという専門家もいる。中国は、人口が拡大から減少に転じつつあり、習近平になって、市場改革の動きが中央集権の国有化によって頓挫し、革新的なテック各社は共同富裕政策で政府に服従を強いられて成長力を失い、政府は不動産への過剰投資による巨額債務問題への対応に苦戦している。

 習近平が始めた広域経済圏構想「一帯一路」は、新興国向け融資の焦げつきが増えている。新興国にとって高い金利が重荷になり、金利を減免する交渉が急増している。中国は新規貸し出しに慎重になり、新興国のインフラや資源開発に向かっていた中国マネーの勢いが完全になくなった。

 かつてケ小平の「改革開放政策」から始まった緩やかな統制による「賢明なる独裁」は習近平になって強権的政府に逆戻りし、ハイテクを駆使した監視社会に変貌した。米欧日の民主主義国は対中貿易を抑制し始めた。

 20213月の米上院軍事委員会において、米インド太平洋軍のデービットソン前司令官が2027年までに中国が台湾を侵攻する可能性が高いと言った。

 米国の2人の戦略地政学者ハル・ブランズとマイケル・ベックリーの新著『危険地帯 来る中国との戦争』によると、台湾有事の危険がすぐそこに迫っていて、10年以内に決着がつくという。中国は今がピークにあり、これから衰退に向かう時期だから、中国は戦争をしてでも台湾を取り込もうとする。それは、大日本帝国が米国から経済封鎖された1941年に真珠湾を奇襲して太平洋戦争に突入したのと同じだというのだ。

 習近平指導部の外交政策に助言する学者の一人とされ、米中関係を専門とする中国人民大学の金燦栄教授が131日の日経新聞に「習近平が2027年までに台湾の武力統一に動く」との見方を示した。金氏は2022年秋の共産党大会で習近平の任期が延びれば、解放軍の建軍100年に当たる2027年までに武力統一に動く可能性が非常に高いと強調した。

 96日の米国外交専門誌フォーリン・アフェアーズに中国共産党高級幹部養成機関の中央党校の元教授の蔡氏(習近平をよく知る彼女は習主席を厳しく批判したことがネット上で拡散したことから米国に亡命した)の『習近平の弱点 狂妄と偏執がいかにして中国の未来を脅かすか』というタイトルの寄稿が掲載された。それによると、習近平の個人的特質は、自らの学歴や知的レベルに対するコンプレックスによる「虚栄」と「偏執」であり、そこから生まれる政治スタイルは、自分と異なる意見に耳をかさず、いかなる反対意見も許さないことだという。習政権下の10年間は、内政と外交上の失敗が重なって、今の中国は内憂外患の最中にあり、共産党幹部と民衆の間で習近平に対する失望や反発が広がっている。10月の党大会で自らの続投を確保するために、党内各派閥と一定の妥協を行っているが、一旦続投が決まって3期目に入ると、政治的野望を今まで以上に膨らませて、ますます独断専行するようになると予測している。そして、中央集権的経済政策と社会統制の強化を進めながら、南シナ海の軍事的支配と台湾併合に突き進むようになる。こうした強行政策に党内と民衆の不満と反発が激化して国内情勢が一層不安定になり、経済危機による社会的動乱が迫ってくる中で、台湾併合戦争へと突入するという。寄稿の最後で蔡氏は、習近平路線を終わらせる唯一の道は「戦争」であり、習近平が台湾併合戦争を発動し、それが失敗に終わって習政権が崩壊すると指摘している。

 以上のように、中国を研究する米国と中国の専門家や学者たちは、一様に2027年までに中国が台湾を攻撃する可能性が高いと指摘している。

 

台湾有事への対応

 前述の金燦栄教授は、台湾有事における中国の戦力について次のように述べている。台湾有事では既に中国の人民解放軍の方が米軍を上回る戦力を保持していて、1週間以内に台湾を武力統一する能力を有している。中国軍は、ミサイル攻撃で米軍艦隊を中国近海に近寄れないようにして、海岸線から180km以内なら米軍であっても打ち負かせる。日本は台湾有事に絶対に介入すべきでない。この問題で米国は既に中国に勝てない。日本が介入するなら中国は日本もたたかざるを得ない。

 上記の金教授の主張は、台湾に対する「策略」だ。中国共産党指導部は「孫子の兵法」を信奉していて、「戦わずして勝利する」ために嘘・偽計・脅しなど何でもする。金教授の狙いは、2024年の台湾総統選挙にあり、習指導部の武力統一を強調して台湾の独立機運を封じ込め、中国に親和的な国民党の総督を誕生させて、国民党政権を中台統一に向かわせようとすることだ。しかし、中国が「一国二制度」に基づく香港の政治的自由を剥奪した様子を見ている台湾国民は、中国の武力行使を恐れて国民党を選択するはずがない。

 結局中国は、武力により台湾を海上封鎖して供給網を停滞させて台湾統一を迫る作戦に出るだろう。その時期は2025年の総統選挙後から2027年の間になる可能性が高い。それに対して米太平洋艦隊の司令官は、「米国と同盟国は中国の海上封鎖を突破する能力が十分にある」と明言している。

 8月初旬に米国のペロシ下院議長が、中国の猛反対を無視して台湾を訪れ、台湾有事の際は米国が軍事支援することを伝えた。これに対して中国は軍事演習と称して、台湾の近海と日本の排他的経済水域を含む海域でミサイル攻撃の演習を行った。この演習は、台米日に対する「見せしめ」であり、金教授が指摘した米軍艦隊をも近寄れないようにするミサイル攻撃だろう。ペロシ氏の後に米国議員団やEU議員団も台湾を訪問した。

 習近平は「反腐敗闘争」を通して、利権を握って腐敗しきっていた軍の幹部らを厳罰に処して粛清し、人民解放軍をトップダウンで動く強軍へと組織改革した。そして、南シナ海・東シナ海を中国の「管轄海域」とするために、海軍や海警局の船だけでなく、漁船・調査船や海底装置・衛星などの情報を統合した情報網を構築し、軍と民間の船を連動させて広大な海域を制圧しようとしている。中国の漁船は全て軍とつながっていて、時には軍事行動もとる。中国は既に台湾有事に備えた軍事的な挙国体制ができているのだ。しかし、中国軍には軍事的に応援する国がなく、国際的に孤立している。

 日本は、台湾有事に関連して防衛の歴史的転換点を迎えている。台湾有事に備えて日本は、防衛費を今までのGDP1%枠を取り除き、2%まで可能にする。台湾有事の際には、2015年に改正した「重要影響事態法」によって、米軍及び台湾軍を支援することになる。場合によっては、オーストラリア軍やインド軍、それにインド太平洋への関与を強めている英仏独軍も加勢するだろう。

 5月の日米防衛相会談においてオースティン国防長官が米国の新たな安全保障の基本戦略として「統合抑止」(Integrated Deterrence)を打ち出した。これは、同盟国の能力を統合し、軍事力だけでなくサイバーや宇宙の領域まで活用して、中国の脅威に対抗するものだ。米国と連携し、補完し合って装備品を整備し、戦略や制度を見直していく。台湾有事が予測される2025年〜2027年までに、これらのことを完了しなければならない。

 日本は台湾有事に初めて「集団的自衛権」を行使することになる。その仕組みは、日本の同盟国の米国が台湾有事に台湾を防衛するために参戦して中国軍と戦い、米国が「存立危機事態」に陥ったと認定された場合に限って日本は集団的自衛権を行使できるようになる。そして、米軍と自衛隊が共同して中国軍と戦うことになる。台湾に近い日本の先島諸島が中国軍の攻撃を受けた場合も同様に、日米同盟によって自衛隊と米軍が共同で中国軍と戦う。

 台湾有事に日米で「統合抑制」を進めるには、両国を統括する「統合司令部」を設けて、台湾有事に向けた統合計画と統合作戦を作らなければならない。

 その統合計画には、沖縄の在日米軍に集中している米軍戦闘機を中国軍から攻撃される前に日本の別の場所に分散・退避させることや、台湾に近い南西諸島で自衛隊の防衛力が空白になっている現状に対処する方法を組み込まなければならない。例えば、陸上自衛隊が与那国島や宮古島に駐屯地を造ったり、石垣島にミサイル部隊を配備する計画などが組み込まれる。

 台湾有事の際に台湾にいる約24千人の日本人を退避保護することや、台湾からの避難民の受け入れも課題になる。また、先島諸島の住民の退避や保護シェルターの整備も課題になる。

 日本の自衛隊の現状の戦闘能力には多くの課題がある。航空機や戦車などの装備品の約5割が稼働不可の状態にある。ミサイルや迎撃ミサイルの弾薬などの備蓄が少なくて有事になれば数日しかもたない。その7割が北海道にあるので台湾有事には弾薬、燃料、食糧などを輸送しなければ戦えない。中でも不足が深刻な迎撃ミサイルの精密誘導弾は1発で数億円〜数十億円もする。

 米国は、台湾周辺や南シナ海で戦闘が起きた場合に、敵に接近して情報収集や攻撃をするために、大型無人潜水艦の開発と配備を急いでいる。大型無人潜水艦は生産コストが安い利点がある。米国は、英国・オーストラリアと結成している安全保障の枠組み「オーカス」により、海中を制する「海中権」を中国に渡さないようにする。現在の米中の軍事能力で米国が中国より圧倒的に優れている唯一の分野が海中能力だという。

 中国が多数のミサイルを発射して米軍海上艦隊の台湾への接近を阻止し、海上封鎖によって台湾への供給網を絶つ作戦に対して、米国は大型無人潜水艦を中国の防衛網の内側に入り込ませ、台湾への上陸や海上封鎖を試みる中国の艦隊を攻撃する作戦をとる。これは、中国の軍事的弱点を突いて中国の台湾侵攻を抑止する狙いがある。

 

米国が目指す「新グローバル化」

 米国は、強権主義の中国・ロシアに対抗して、民主主義諸国による「経済安全保障」と「持続可能性」を重視した新たな枠組みとして「新グローバル化」を目指している。米国の駐日大使エマニュエル氏がその「新グローバル化」の原則について、831日の日経新聞に寄稿した。

 それによると新グローバル化の第1の原則は、今までの「コスト」と「効率」を優先するグローバル化から、「安定性」と「持続可能性」を優先するグローバル化に変えることだ。これは、中国の廉価で豊富な労働力に依存してきた従来のサプライチェーンを再構築することを意味する。

 第2の原則は、ロシアのエネルギー資源の威圧に対抗するために、エネルギーについて新たな戦略に基づいてアプローチすることだ。米国にはクリーンエネルギー(再生可能エネルギー、電池貯蔵、小型原子力、水素など)における国際競争で優位に立てる先端技術と研究能力がある。こうした米国の先端技術を日米欧で共有し、クリーンエネルギー分野の技術力で中国と対抗して、主導権を取り戻すというのだ。

 第3の原則は、新たな世界の先端分野の枠組みとなるデータとデジタル・ルールの整備において、米国は日米協定などの多くの2国間協定に従って、デジタル経済の国際基準構築を主導することだ。デジタル・ルールの構築でも中国と対抗するために米国は日欧と協力するというのだ。

 

あとがき

 民主主義国が協力して結束すれば、ロシアの軍事力による現状変更を阻止できることがウクライナで実証されつつあります。中国の台湾侵攻に対しても、米国を中心にして日・英・独・仏・豪・印などの民主主義諸国が結束して統合抑止力を発揮すれば、阻止できると思われます。

 中国を軍事力で痛めつけることは、中国人に再び恨みを植えつけ、将来に禍根を残すことになります。中国に武力行使を留まらせ、台湾侵攻を抑制することが肝要です。軍事力は使うためにあるのではなく、軍事衝突を抑制するためにあると考えるべきです。日本の自衛力の増強もそう考えなければなりません。

 この冊子を書いてみて、民主主義諸国が協力し結束して対処すれば、中国・ロシアの現状変更を抑えて、国際社会を良い方向に導いていけそうな希望がわいてきました。悲観するのではなく、

ポジティブに考えることが今求められています。

                           (以上)
このままいけば日本の財政破綻は避けられないのか (グラフ省略)  2022 年 6 月 芦沢壮寿

新型コロナ不況への対応で日本の債務残高(財政赤字)が 2021 年 6 月末時 点で過去最大の 1220 兆円になった。これは GDP 比で 250 %を超え、米国の 130 %やドイツの 70 %と比べても、はるかに高くなっている。財政破綻とは、国 債を発行して国民からカネを借りてきた政府がその借金を返せなくなって、債 務不履行(デフォルト)に陥ることを意味する。本当に日本は財政破綻するリ スクに直面しているのだろうか。 そこで、財務省が出している『財政を考える』という小冊子に載っている図 をもとにして日本の財政状態の現状を考えてみることにする。 下図は、バブル経済が崩壊した 1990 年代を境に税収が伸び悩み、それを穴 埋めするために国債を発行して、一般会計歳出と税収との差がワニの口のよう に開いてきた様子を表している。 次ページの図は、日本の 2021 年度予算を表している。右側の一般会計歳入 総額 106.6 兆円のうち、税収等が 59 %で、残りの 40.9 %が国債などの公債金 - 2 - (借金)となっている。また、左側の一般会計歳出総額のうち 22.3%が国債の 償還(返済)に当てられ、33.6 %が社会保障費に、15.0 %が地方交付税交付金 に当てられ、公共事業・文教及び科学振興・防衛は各 5 %台に留まっている。 こうした状況から日本はいずれ財政破綻が避けられないと思われがちだが、 最近はやりの「現代貨幣理論(MMT:Modern Monetary Theory)」という理論 によると、「自国通貨を発行する政府が財政赤字が拡大して債務不履行になる こと、即ち、財政破綻はあり得ない」と言っている。 そこで筆者は、MMT の理論を調べ、色々な経済学者の見解を調べてみた。 以下では、「日本は財政破綻するのか」という問題をめぐって、色々な学者の 主張を考察し、筆者の見解をまとめてみることにする。 「現代貨幣理論(MMT)」とはどんな理論か 現代貨幣理論(MMT)とは、ケインズ経済学・ポストケインズ派経済学の 流れをくむマクロ経済学理論の一つで、現代の貨幣や金融の仕組みのマクロ的 理論の支柱となっている理論である。MMT では、通貨発行権を持つ中央銀行 を政府に所属する組織として、政府と中央銀行(日本の場合は日本銀行)が一 体となった「統合政府」と見なす。日本銀行は、株式を東京証券取引所に上場 していて、その株式の 55 %を日本政府が所有しているから、実際に政府の子 会社なのだ。しかも、日銀は、日本銀行法で金融政策の独立性が認められてい る一方で、政府の財政政策に従わなければならないことが規定されている。従 って、日銀は政府の子会社として政府の連結決算の対象となるのだ。 MMT の基軸は、中央銀行(日銀)と一体となった統合政府の通貨発行権に 焦点を当てて、政府が国民や企業に法定通貨(=中央銀行券の貨幣)で納税す - 3 - る義務を課していることが貨幣に「信用」を与え、貨幣が流通する基盤となっ ているというものだ。つまり、法定通貨として「国家への納税手段として使え る」という基盤的価値が貨幣に信用を与え、その信用のもとに政府発行貨幣が 流通に使われているというのだ。これを「租税貨幣論」という。 こうして信用を得た貨幣は、経済社会における財やサービスの取引(売買) において、財やサービスとの「交換価値があるもの」として使われるようにな った。 MMT では、「貨幣は単なる負債証明書(負債の記録)である」と定義して いる。財やサービスの提供者にその対価として支払われる貨幣は、財やサービ スに対する負債を証明しているというのだ。例えば、壱万円紙幣は 1 万円分の 負債証明書である。 MMT における税の役割は、経済社会(市場)から貨幣を回収することであ る。政府が負債証明書として発行した貨幣を税によって回収するのである。税 で貨幣を回収することによって、法定通貨の流動性を確保し、経済の調整弁と してインフレ率や所得格差を調整する手段となる。 MMT のこうした税の役割からすれば、現在一般的に考えられている「税は 財政の歳入確保のため」という考え方は間違っていることになる。つまり、MMT では、通貨発行権を持つ政府は、税によって歳入を確保する必要がないのだ。 一般的に市場に流通する貨幣の供給量を増やすことによって消費活動が増え て市場が活性化し、減らすことによって加熱しすぎた市場を正常化する効果が あると言われる。こうした中央銀行の金融政策は、マクロ経済学の主流派であ る新古典派経済学の主張である。これと対立する MMT は、因果関係が逆にな る。社会が好景気になると貨幣の需要が増えるから市場の貨幣が増加するので あり、不景気になると貨幣の需要が減るから市場の貨幣が減少するのだ。つま り、「市場の経済活動が先で、貨幣の増減は後になる」のだ。 MMT は次のように主張する。 ・自国通貨を発行できる政府は、財政赤字が拡大しても債務不履行になること はない。1998 年にロシアが財政破綻した理由は、アメリカ・ドル債の負債が 債務不履行になったからだ。2001 年にアルゼンチンが財政破綻したのもアメ リカ・ドル建ての国債を売ったからだ。2015 年のギリシャの財政破綻は政府 の負債がユーロ建てであったからだ。このように自国通貨ではない債務の場合 には債務不履行に陥る可能性があるが、自国通貨を発行している政府には、理 論的に債務不履行はあり得ないし、実際に起こっていない。 ・税と国債の役割は、財源の調達ではなく、通貨の流通を調節し、インフレ率 と金利を適切に調整する手段である。政府は、貨幣を発行して財源を作り、税 と社会保障・地方交付税交付金等の歳出を調整することによって「格差是正」 - 4 - や「完全雇用」などの政策を積極的に推進すべきだ。 財政破綻のリスクを懸念する財務省と学者たちの主張 日本の財務省の官僚たちは、財政破綻のリスクを懸念して「国債発行という 借金を重ね、借金を先送りしてしまえばいいという安易な考え」を批判し、「子 供たちの世代にツケを回すべきでない」と主張して「日本は財政破綻しないと 目が覚めない」と言って嘆いている。そして、「ついに国の借金が過去最高の 1220 兆円になり、国民一人当たり 992 万円の借金になった」と言って国民を おどしている。この財務官僚の主張は、明らかに現代貨幣理論(MMT)の主 張と異なる。財務官僚たちは従来から主流派であった新古典派経済学者の反 MMT の主張に従っているのだ。 財務省が「政府の負債」を減らすことに血道を上げるようになったのは小泉 政権時代からであった。その裏には政府の財布を握る官僚としての独善的な意 識があり、MMT のような最新のマクロ経済理論を全く理解していない。 以下では、インターネット上の「東洋経済 ONLINE」に載っている反 MMT 派の学者である慶応義塾大学大学院准教授 小幡績著の『このまま行けば日本 の財政破綻は避けられない』と、同じく「東洋経済 ONLINE」に載っている MMT 派の学者である京都大学大学院工学研究科教授(安倍政権の内閣官房参与)藤 井聡著の『日本の財政が「絶対破産しない」これだけの理由』の主張を比較し、 どちらの主張に妥当性があるかを検討してみることにする。 反 MMT 派の小幡氏の主張を要約すると次のようになる。 ・日本全体で豊富な対外債権があり、国民にも豊富な貯蓄があっても、赤字額 が年々増えていく政府には、貸しても返ってこないと考えるのが普通だから、 誰も貸さなくなり、政府は財政破綻に陥る。 ・日銀は市場で国債を買うことができる。しかし、政府が新規に発行する国債 を日銀が政府から直接買うことは、法律で禁止されている。そこで現在は、民 間金融機関に買わせて、それに利ざやを乗せて日銀が買い取る「日銀トレード」 という方法をとっている。ところが、今まで以上に政府が国債を発行し続ける と、民間金融機関は日銀トレードを引き受けることを躊躇し、一時的に中止す ることが起こるだろう。そうなると政府は、新規発行国債を日銀に直接引き取 らせるように法律を改定しようとする。しかし、それが報道された瞬間に世界 中のトレーダーが日本売りを仕掛け、投資家もそれに追随して投げ売りし、円 が大暴落して円建ての国債や日本株が投げ売られることになる。つまり、政府 は実質的に「日銀の国債直接引き受け」の法律改定ができない。結局、政府は 実質的で実効的な財政再建策を大規模に進めざるを得ないのだ。 ・政府と日銀を一体と考える「統合政府」という MMT の理論は、上記のよう - 5 - に即金融市場暴落になるから無意味だ。 ・日本がこれまで破綻しなかったのは、政府にカネを貸してくれる人がいたか らだが、今や日銀しかいなくなりつつある。日銀が国債の半分を買わないとい けないという現実は、まもなく破綻することを示している。 一方、MMT 派の藤井氏の主張を要約すると次のようになる。 ・日本銀行には経営の独立性が認められているが、日本銀行法第 4 条に「日本 銀行は、その行う通貨及び金融の調整が経済政策の一環をなすものであること を踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に 政府と連携を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と明記されて いる。つまり、日銀が政府から完全に独立して振る舞うことは法律的に禁じら れている。従って、政府と中央銀行を一体的なものとして捉えるなら、政府自 体が貨幣を作り出すことができると考えられる。 ・実際の政府の借金返済は、税金と国債の発行(借り換え)で行っている。だ から「日本政府が日本円の借金で破綻することはない」というのは、あくまで も「いざとなれば、自分で貨幣を作って返すことが実務的に可能だ」というこ とである。 ・もしも、とんでもない天変地異が起こって、政府に誰もカネを貸してくれな い事態が発生した場合でも、法律で日銀に定められている「最後の貸し手」と しての「日銀特融」という特別措置が発動され、日銀が政府に融資して「政府 の財政破綻」は免れるであろう。日本銀行法の第 38 条には「内閣総理大臣及 び財務大臣の要請があったときは(中略)当該要請に応じて特別の条件による 資金の貸し付け(中略)業務を行うことができる」と明記されている。このよ うに、日本銀行法には特別な事態に陥って政府が財政破綻の危機に瀕しても、 日銀の貨幣を作る機能によって救済する規定があるので、日本政府が財政破綻 することはない。 上記の反 MMT 派の小幡氏と MMT 派の藤井氏の主張は真っ向から対立して いるが、小幡氏の主張は、MMT の理論が間違っていることを論破しようとす る余り、事実に反することをこじつけているように思われる。そこで、両者の 対立点を明らかにして、どちらの主張が妥当かを検討してみる。 ・第 1 の対立点は、政府と中央銀行を一体として捉えることが妥当かというこ とである。これは、国全体の財政をコントロールする機能として、どちらの方 が有効に働くかということで判断すべきだと考えると、明らかに MMT 派の「政 府と中央銀行が一体となった統合政府」として捉える方が有効である。問題は、 現実の社会で MMT 派の主張する「政府と中央銀行が一体」となって機能して いないことである。将来はこの点を改善する必要がある。 ・第 2 の対立点は、現在の日本の財政状態の認識として、反 MMT 派が「現状 - 6 - は、国債を買って政府にカネを貸してくれる人がいなくなりつつあり、日銀が 国債の半分を買っている状況にあって、財政破綻に近づきつつある」「これを 打開するには、政府が実質的で実効的な財政再建策を大規模に進めざるを得な い」と主張するのに対して、MMT 派は「自国通貨の発行権を持つ政府が財政 破綻することはあり得ないから、財政赤字が増大していても、インフレ率を適 正にコントロールし、積極財政を行うべきだ」と言っている。 「日銀が国債の半分(実際は 48 %)を買っている状況にある」という反 MMT 派の指摘は、統合政府の連結バランスシートで見ると、日銀が所有する国債は 統合政府の負債にならないから、統合政府の借金が減ったことを意味する。そ れは、黒田総裁率いる日銀がデフレ脱却のためにとってきた金融緩和政策の結 果であった。金融緩和政策として市場に流通する貨幣量を増やすために、日銀 が貨幣を作って、市場の国債を買い取ること(=借金の返済)によって流通貨 幣を増加させてきた結果として、統合政府の実質的な借金が減ったのだ。つま り、「日銀が国債の半分を保有している」ということは、政府の実質的な借金 が半分になっていて、GDP 比でみると借金が 125 %になり、米国の 130 %と 同程度になっていることを意味する。さらに、「増大する財政赤字のツケを将 来に回す」という最大の問題点は、既にその半分は解消されているのである。 財務省が喧伝している 1 ページの「ワニの口」の半分は既に閉じているのだ。 筆者は、こうした事実を発見して、黒田総裁の賢明なる金融政策に驚嘆すると ともに、MMT 派の主張の妥当性を確信した。 それと同時に、日本がバブル崩壊以降、30 年にわたって経済が低迷してき た根本原因がわかった。それは、政府の財務官僚・経済学者・ジャーナリスト らが日本の本質的な実態を認識せずに、 自 らの誤りを顧みずに、誤った情報 みずか を国民に与えてきたことである。そして、国民は萎縮し積極的な行動をしなく なった。日本の「インテリジェンス」がおかしくなっていることが、本質的な 問題である。 現状の財務政策と MMT による財政政策 現在の日本政府(財務省)の財政政策は、基本的財政収支(プライマリー・ バランス(PB))を見ている。基本的財政収支(PB)=(今期の税収 − 今期 の一般歳出)である。つまり、税収で社会保障・地方交付税交付金等・公共事 業・文教及び科学振興・防衛などの一般歳出をどこまで賄えるかを示す指標で ある。政府は、2025 年度までに PB を黒字化する目標を掲げている。 しかし、一般企業では、少なくとも損益計算書と貸借対照表で財務状況を見 ているが、財務官僚には国の資産・負債状況を表す貸借対照表を理解できる人 が少ないという。ましてや、MMT を理解でき、財政政策に生かせる人間がい - 7 - ないことが問題である。 下図は、1960 年度以降の歳出構造の変化を示している。図において、赤は 「返済国債費」、緑は「社会保障費」、黄は「地方交付税交付金等」、白は「公 共事業・教育及び科学振興・防衛・その他の歳出」を表す。 上図を見ると、返済国債費と社会保障費が増大し、公共事業・教育・防衛な どの歳出が減ってきていることが分かる。これは、日本が少子高齢化社会に変 わり、社会保障費が増大するのに対処するために、やむを得ず公共事業・教育 ・防衛などの歳出を減らしてきた面がある。そのために、日本の教育レベルが 低下し、科学技術の競争力がなくなり、中国と比べて防衛力も見劣りするよう になった。今後、少子高齢化が一層進む中で、カーボン・ニュートラル対策や 自然災害に備えて公共事業を増やしたり、防衛費を増強するには、新たな金融 ・財政政策をとる必要がある。それは、MMT を活用した金融・財務政策であ - 8 - る。筆者は、その骨子をまとめて、次のように提案する。 〔MMT を活用した今後の金融・財政政策の提案〕 @ MMT の財政政策では日銀が発行する貨幣が財源となる。従来の税収を財源 とする財務政策では、財源不足のために抑制されてきた公共事業・教育及び 科学振興・防衛などの計画は、日本の国力の源泉だから、今後は積極的に推 進すべきだ。また、2050 年までにカーボン・ニュートラルの社会を実現す る計画でも同様である。MMT の理論では「市場の経済活動が先で、貨幣の 増減は後になる」から、市場で流通している貨幣量を見て、インフレになら ないように上記の計画を進める必要がある。 A MMT の財務政策における税と国債の役割は、財源の調達ではない。市場に 流通する貨幣量を調節してインフレ率と金利を適切に調整することが本来の 役割だ。税は市場から貨幣を回収して、流通貨幣量を減らすことによってイ ンフレを防ぐ働きをし、国債は日銀が発行した貨幣で市場の国債を買い取る ことによって、市場の流通貨幣量を増やし、デフレを防ぐ働きをする。その ために、インフレを防ぐことを目的とした特別な税を創設して、市場に流通 する貨幣量を臨機応変に微調整できる税が必要となる。 一方、税と社会保障・地方交付税交付金等の歳出により、国民の所得格差と 地方の税収格差を調整する機能を積極的に推進して、平等な社会にする。 B以上のことを行うには、日銀・財務省・国税庁などが一体となって当たる必 要があり、金融・財政・税金を総合的にコントロールする機構を作らなけれ ばならない。この機構は統合政府の金融・財政・税金の業務を MMT に基づ いて実行する司令塔となる。そして、政府が新規に発行する国債を日銀が政 府から直接買うことできるように法律を改定する。そうすることによって MMT の理論を効率的に実行できるようになる。 日本の将来 次ページの図は、今後の日本の人口減少と年齢層別の人口比の変化の予測を 表している。この図を見ると、全体の人口が急速に減少していき、2050 年代 には1億人を割る。20~64 歳の労働人口は既に急速に減り始めていて、65 歳以 上の高齢者人口も 2050 年から減り始めるが、その減少は緩やかである。こう したことから、今後の日本は、社会保障費が高止まりする中で、労働人口の減 少に伴って税収が大きく減少していく。 このような少子高齢化社会では、高齢者の所得が公的年金で安定し、現役世 代でも多くの人が高齢者介護に関係する仕事につくから、社会全体として所得 が安定し、景気の変動が小さくなる。今までのような競争力を競って、景気変 動の激しい社会ではなくなるのだ。そして、人間に変わって人工知能(AI) - 9 - つきのロボットが使われるデジタル社会となり、規則的に動く静かな社会にな ることが予想される。そうした社会で人々は、働くこと(生産面)よりも余暇 の時間の使い方(消費面)に関心を持つようになる。こうした社会の変化に伴 って、政府の役割も大きく変わっていく。 あとがき 1980 年〜 2008 年に大蔵省や内閣ブレーンとして勤めた経験をもつ高橋洋一 - 10 - 氏の著書『データから真実と未来を見抜け! プーチンショック後の世界と日 本』(徳間書店、2022 年 4 月)を読んでみた。そこには、大蔵省(現 財務省) の官僚たちが財務会計とはかけ離れた独特の財政破綻の考え方を持っていて、 一般企業が行っている連結の損益計算書・貸借対照表による財務会計を知らな いと書いてあった。高橋氏の「データから真実と未来を見抜け!」という主張 は、「統合政府で考えるべきだ」「統合政府の連結バランスシートのネット債務 残高(=国債−資産)の GDP 比(GDP に対する%)で考えるべきだ」と述べ ている。政府の財政破綻は「統合政府のネット債務残高」が限度を超えた時に 起こるから、「ネット債務残高」で管理すべきだというのだ。 最後に、今まで考察してきたことについて筆者の見解をまとめてみる。 日本は絶対に財政破綻しないという確信を持つことができた。バブル崩壊か ら 30 年以上も経済が低迷し、所得が増加しない異常状態が続いてきたが、財 政破綻しなかった。しかも、負債(借金)が米国並みで、その負債(国債など) の 86 %を日本国民が所有しているのだから、財政破綻の心配は全くない。 むしろ問題は、財務省の役人や学者・ジャーナリストらが誤った危機感を国 民に植え付け、国民を萎縮させていることだ。国民は、税収が伸びなやんで財 源がないから、仕方がないとあきらめてきた。しかし、こうした閉塞状態を打 ち破る方法があったのだ。それをまとめたのが、8 ページの〔MMT を活用し た今後の金融・財政政策の提案〕に掲げた@〜Bの提案である。その趣旨は、 MMT を使って金融・財政政策を改革して、今後の少子高齢化社会でもデジタ ル化やカーボン・ニュートラルを早く実現できるようにすることだ。 今後の社会を計画する場合に、MMT の理論に従って行えば、財源の心配が なくなる。つまり、MMT の理論では、税収や国債の発行を財源とするのでは なく、政府が発行する貨幣を財源とするからだ。但し、それが可能な事業は、 @で述べたような政府が行う事業、即ち、公共事業、社会福祉事業、教育及び 科学振興事業、防衛事業などの公共目的の事業に限られる。急速な少子高齢化 に対処し、緊急課題のカーボン・ニュートラルに対処する事業は公共目的だか ら問題ない。例えば、公的年金が現役世代の減少に伴って目減りする問題は、 政府が発行する貨幣で補填すれば良い。また、カーボン・ニュートラルに有効 な太陽光発電のスペースが日本では不足している問題を解決するために、あら ゆる建物に太陽光発電設備と蓄電池の設置を義務づけ、設備費の相当部分を国 が支援するようにして、カーボン・ニュートラルの実現とともに国民にもメリ ットを与えることが可能となる。 このように MMT を活用することによって、将来に希望をもつことができる ようになる。そのためには、日本国民の全員が MMT を理解して、今までの閉 塞感を打ち破り、希望に向かって行動を起こすことだ。 (以上
ロシアのウクライナ侵攻を機に一変する世界情勢 2022 年 6 月 芦沢壮寿

核保有国で国連常任理事国のロシアが国際法を犯して 2 月 24 日に始めたウ クライナ侵攻によって、世界が予想外の方向に変化し始めた。ウクライナの NATO 加盟を阻止しようとするプーチンの狙いは完全に外れて、今までロシア を刺激しないように中立を守ってきたフィンランドとスェーデンが NATO に 加盟する情勢になり、欧州各国が軍事費増強やロシアに頼ってきたエネルギー 政策の見直しに動き始め、日本でも中国・北朝鮮の軍事的脅威に備えて軍備拡 充に動き始めた。ヨーロッパ・EU と米国・日本の民主主義国がロシア・中国 の強権国に対して安保体制の団結を強め、ロシア・中国の「力による現状変更」 の拡大主義と対決する姿勢を鮮明にし、経済的にも脱ロシア・中国の方向に進 もうとしている。戦後の国際秩序の枠組みとして、米英仏ロ中の五大国が核保 有を認められて拒否権を持ってきた国連が、今回のロシアの暴挙によって完全 に機能不全に陥っていることが暴露された。これを機に世界秩序の歴史的大転 換が起こり、「新冷戦」とも言える状況になりそうだ。 米国は、民主・共和の与野党が対ロ政策では完全に協力して「武器貸与法」 を成立させ、来年の 9 月末までウクライナと近隣東欧諸国に軍事物資を迅速に 提供する権限を大統領に与えた。この米国の政策は、米国の直接介入によって 第 3 次世界大戦に発展するのを避けながら、ロシアの拡大主義の侵攻を絶対に 許さないという米国の意志を表している。 5 月 12 日の EU ミッシェル大統領・フォンデアライエン欧州委員長と岸田 首相との会談で、今後は、友情によるプーチンと習近平の結びつきに負けない ように、EU と日本が協力してロシア・中国に対抗し、ロシア・中国による情 報操作対策や国防システム開発で連携していくことになった。 日本では 4 月にまとめた自民党の防衛力強化に関する提言で、今まで GDP 比 1 %に抑えてきた防衛費を 5 年以内に 2 %以上に増やすことにした。これは、 来年以降も政権を握ることが予想される習近平が 3 期目に当たる来年以降の 5 年間に台湾に侵攻する可能性が高いことに対処するためだ。今まで中国・ロシ アとの関係を重視してきたドイツでも、国防予算に GDP の 2 %以上を充てる ように方向転換した。 プーチンのウクライナ侵攻に至るロシアとウクライナの歴史 ロシアの最初の王国は、862 年に建国したノヴゴロド王国だが、実質的には 882 年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属するキエフ公国の建国に始まると 言ってもよい。キエフ大公国のウラジミール公が東ローマ帝国(ビザンツ帝国) 皇帝の妹と結婚し、988 年にキリスト教の洗礼を受けてロシア正教が生まれた。 - 2 - プーチンは、ウクライナ侵攻前の 2021 年 7 月に「ロシア人とウクライナ人の 歴史的な一体性」という論文を発表し、その中で「ロシア人、ウクライナ人、 ベラルーシ人は全てキエフ大公国の子孫だ」と述べて、三国の国民は共通の「正 教」のもとに文化的・民族的に一体だと言い、三国の統合を主張した。プーチ ンは、「正教」を三国統合の理念に掲げて、ソ連崩壊後の失地回復を目指して いるのだ。 13 世紀になるとキエフ大公国はモンゴル帝国のキプチャク・ハン国の支配 下に入った。1480 年にモスクワ大公国が自立し、1547 年にイヴァン 4 世がロ シア帝国を樹立した。ロシアは、1613 年からロマノフ王朝となり、17 世紀末 にピョートル 1 世(大帝)が西欧化策の改革を行い、新首都としてサンクトペ テルブルクを建設したが、農奴制を維持するロシアは 1917 年のロシア革命ま で近代化が進まなかった。 19 世紀にロマノフ王朝がアジアに進出するためにウラジオストックを建設 した時に、6 万人のウクライナ人が農民として移住させられた。1917 年のロシ ア革命では革命に抵抗したウクライナ人がシベリアに送られた。第 2 次世界大 戦中にウクライナでヒットラーと連携して独立を試みた勢力がスターリンによ りシベリア送りになった。その中には日本にやってきた人も多く、横綱大鵬の 父親もその一人だった。 今回のウクライナ侵攻でプーチンは、ウクライナの「非軍事化」と「非ナチ ス化」を唱えて、ウクライナ侵攻の正当性を主張したが、この「非ナチス化」 とは、今のゼレンスキー政権をかつてのナチストにつながるネオ・ナチだと勝 手に決めつけたデマを捏造して、ロシア国民をだましているのだ。 1991 年のソ連崩壊でウクライナが独立し、ロシアも政治形態では民主主義 国となった。しかし、ソ連崩壊後の喪失感と経済的な混乱から、ロシア国民は 危険なナショナリズムに立つプーチンを大統領に選出し、プーチンの独裁を生 み出してしまった。旧ソ連の国家保安委員会(KGB)出身のプーチンは、国 民を監視し、敵を欺く工作員(スパイ)としての資質が染みついているために、 民主的・平和的な政治家にはなり得ないのだ。 軍事力でウクライナに侵攻し、国内の異論を抑え込むプーチンの論理は、ヨ ーロッパにありながら人権を尊ぶ西欧思想とはほど遠く、強権による秩序を重 視する社会主義ソ連の記憶に重なる。多数の犠牲者を出した革命や戦争を経験 してきたヨーロッパの歴史において、西欧では生命や人権を尊重する考え方が 育ってきたのに対して、ロシアでは強大な権力による秩序の維持を優先する歴 史をたどってきた。ロシア革命でレーニンが築いた共産党を引き継いだスター リンは、マルクス・レーニンの共産主義の精神を無視して、単に米欧の資本主 義国との経済競争に勝つことを目指して、国民を監視する恐怖政治を行い、シ - 3 - ベリア開発の労働力を確保するために知識人をシベリアに強制連行した。 ソ連が崩壊して、ロシアもウクライナも民主主義国になったが、ロシアは最 終的にプーチンを選んだことによって強権主義の国になってしまった。プーチ ンは、野党指導者やジャーナリストの殺害事件の真相を究明するどころか、む しろそれを脅しに使ってきた。 キエフ生まれでモスクワのテレビ局に 10 年間働いた経験を持つ英国人作家 のピーター・ポマランツェフの著書『プーチンのユートピア』(慶応義塾大学 出版、2018 年)は、ロシアのオカルト的な実態を次のように描いている。ロ シアのテレビは国民の不安をあおり、心の自由を奪っている。プーチンは、大 衆を心理的に威圧して縛りつけた上で、2014 年にクリミアを軍事征服すると いう暴挙に出て、ロシア人の意気を高めることに成功した。今回のウクライナ 侵攻でも、それを狙ったと考えられる。ロシアには、帝政時代とソ連時代を通 じて、「個人が集団に融合することで社会が調和する」という宗教的・精神的 な共同性を意味するロシア正教的な概念・精神が流れている。この精神は、人 権の尊重や私有財産の不可侵を基礎に置く西欧的な近代思想と相いれない。 プーチンの野望とゼレンスキー大統領の驚異的な指導力 ゼレンスキーは、1978 年にユダヤ系ウクライナ人としてウクライナ東部で 生まれ、ロシア語を母語としていた。大学卒業後に人気者のコメディアンとし て活躍していたが、オルガルヒのコモイスキーが経営するテレビ局の「国民の 僕 」というドラマ(2015 〜 19 年)に大統領役で出演し、人気を博した。そし しもべ て、2018 年 3 月に「国民の僕」という政党を立ち上げて 2019 年の大統領選挙 に出馬し、ロシア融和派のポロシェンコ前大統領を破って当選した。今、ウク ライナでは大統領と首相の両方がユダヤ人である。 侵攻前のウクライナは、全く政治経験のないゼレンスキーの下で経済が低迷 し、支持率が低下していた。プーチンは、この機にウクライナに侵攻すれば 2 日ほどでウクライナは内部崩壊すると見ていた。そして、国民にウクライナの 非軍事化と非ナチス化を訴え、ベラルーシとの共同軍事演習と称してウクライ ナ国境に軍隊を集結させ、2 月 24 日にウクライナ侵攻へと踏み切った。 プーチンは今回のウクライナ侵攻を「ハイブリッド戦争」と称し、軍事と情 報の両面で戦争を仕掛けている。しかし、ウクライナのゼレンスキー大統領の SNS を通して世界に訴える情報作戦に苦戦を強いられている。 ロシアの侵攻を受けたゼレンスキーは、驚異的な指導力を発揮するようにな った。ゼレンスキーに対してバイデン大統領が国外に避難する飛行機を差し向 けると言ったが、ゼレンスキーはそれを拒否し、ウクライナに留まって、先頭 に立って指揮し続けている。 - 4 - ゼレンスキーは、国民にウクライナの自由と威信を守ると宣言し、国民を結 束させた。そして国民は、徹底抗戦する覚悟を固めた。ゼレンスキーは、SNS を通して世界中の人々に、敵国のロシア国民に対しても、ロシアの偽りの情報 に対抗して、ロシア軍がウクライナにおいて犯している建物の破壊や一般住民 の殺害など、国際法に違反する実態を示す映像を連日にわたって発信し、世界 中の人々を味方につけることに成功した。何の罪もない一般市民の住宅やビル が破壊され、一般市民が殺されている映像は、世界の人々にショックを与えた。 これらの映像は、ウクライナの「非軍事化」と「非ナチス化」を訴えるプーチ ンの主張が偽りであり、ウクライナ侵攻は明らかな戦争犯罪であって、大国意 識に駆られるプーチンの野望であることを世界中の人々に示した。こんなこと が許されてはならない、絶対阻止しなければ正義が滅んでしまうと気づいた人 々は、自国政府を動かして、軍事支援や難民受け入れ支援に動き出した。そし て、ロシア軍の士気の低下とあいまって、ロシア軍から占領地を奪回する動き に転じるようになった。 ロシア軍は、指揮命令系統に欠陥があり、軍のトップが前線を視察するなど、 本来はあり得ない事態に陥った。さらに、欧米から支援された性能のよい武器 によってロシア軍の戦車が破壊され、半導体の不足から武器の生産に支障をき たして、ロシア軍の精密誘導弾が枯渇したという。侵攻開始から 3 ヶ月間でロ シア軍の死者が 1 万 5 千人となり、かつてロシアが 9 年間にわたってアフガニ スタンに侵攻したときの死者数を超えたという。ロシア側も甚大な被害を被っ ていることが明らかになった。 5 月 23 日にジュネーブの国連代表部に勤務するロシアの外交官ボリス・ボ ンダレフ参事官が SNS で「プーチンが引き起こしたウクライナ侵攻は、ウク ライナ国民だけでなく、おそらくロシア国民に対しても最も重大な犯罪である」 とプーチンを名指しで非難し、「ウクライナ侵攻について、外交官として嘘を つかなければならないことほど恥ずかしいことはない」と言って外交官を辞任 した。また、あるロシア軍人は「戦況の悪化は世界が我々を敵視しているから だ」と言ってプーチンを批判した。これは、ロシア国内にも反プーチンの動き があることを示している。5 月に開催されたダボス会議では、ロシアのウクラ イナ侵攻で持切りだったが、「ウクライナの非ナチス化」と称してソ連崩壊後 の失地回復を目指すプーチンの主張が「時代遅れで滑稽だ」と批判された。こ の批判は「中華民族の偉大なる復興」を唱える中国にも通じる。 現在、ウクライナ軍はロシアに占領された北方地域からロシア軍を撤退させ、 ロシア軍はロシア系住民の多いウクライナ東部 2 州に軍を集中させて、2 州の 独立を狙って攻勢に出ている。しかし、日米欧がそれを許せば、中国の東・南 シナ海における領有権の拡大を阻止することが難しくなる。従って、日米欧と - 5 - しては、何としてもウクライナを支援してプーチンの野望を打ち砕かなければ ならない。今後、欧米の軍事支援により 6 月中旬から本格的な反転攻勢が始ま るという。そうなると、追い詰められたプーチンが核兵器や化学兵器を使う懸 念が生じる。 ロシアのウクライナ侵攻の終結について欧州諸国は、できるだけ早く停戦を 実現する「和平追求派」と、ロシアに多大な代償を負わせるべきだとする「対 ロシア強硬派」に分かれている。和平追求派はドイツ、フランス、イタリアな どで、対ロシア強硬派はポーランド、バルト三国、英国などだ。ウクライナに 既に 140 億ドルを支援し、さらに 400 億ドルの軍事・人道支援を決めている米 国は、まだ明確な目標を示していない。ゼレンスキー大統領は、停戦目標とし て、侵攻前の状態にロシア軍を撤退させることと言った。プーチンは、停戦を 急いでいないようで、東部ドンバス地方を完全制圧し、モルドバの沿ドニエス トル地方をロシア領にすることも狙っている。戦争の終結はプーチンの決断に かかっているが、プーチンが軍事力の劣勢を認めて終戦せざるをえない状況を 作り出す必要がある。それは、非常に難しい問題であり、今年中に解決するか は分からない。 さて、今回のウクライナ侵攻では、建物が破壊される映像や一般の人々が殺 害されて道路にころがっている現場の映像が SNS を通して頻繁に発信され、 連日のように世界中の家庭のテレビに映し出された。多くの人々が初めて経験 するこうした状況に、子供たちの間で「共感疲労」という現象が発生している という。「共感疲労」とは、余りにも生々しく悲惨な映像を毎日見ていると、 戦争で苦しんでいる人々に共感して精神的疲労が続くようになる病気である。 強権主義・拡大主義をとる中国 ロシアと中国は強権主義・拡大主義で共通する。中国は、初代王朝夏に始ま か る 5 千年の歴史を通じて、一人の王・皇帝が国を治める強権主義の国であり続 けた。それが、1840 年のアヘン戦争以降、欧米日の列強に侵略され、中華の 国としての威信を失った。1911 年の辛亥革命で清朝が滅び、1949 年に成立し た中華人民共和国も共産党独裁の強権主義の国となった。 中国共産党は、かつての朝貢貿易を通じて周辺国を冊封体制に組み込んでき た領域が本来の中国の領土だとみなし、失われた領土という悲憤を込めて「国 恥地図」(次ページの図)を描き、愛国教育の教材として教えてきた。その「国 恥地図」の範囲は、朝鮮半島、沖縄を含み、インドシナ半島、ネパール、アフ ガニスタン、タジキスタン〜カザフスタンの中央アジア、モンゴル、ロシアの 沿海州、樺太まで包含する。これを中国の領土と見なすことは、近代の領土概 念とは相いれないが、中華思想の教育を受けている中国人にとっては「中国の - 6 - あるべき姿」を表して いる。中国共産党は、 中華人民共和国の建国 100 年に当たる 2049 年 までに「世界制覇 100 年戦略」を達成し、「中 華 民 族の 偉 大 なる 復 興」を達成しようとし ている。これは、ソ連 崩壊後の失地回復を目 指しているプーチンの 拡大主義と共通する。 中国は、2010 年に GDP で日本を抜き、世界第2位の経済大国になった頃から、南シナ海、東シ ナ海への進出を始めて、拡大主義に転じた。習近平は強権主義・拡大主義を進 めて、武力を使ってでも台湾を中国に統一すると宣言した。 こうした中国共産党の強権主義・拡大主義について、中国国民はどう考えて いるのだろうか。中国に留学し、現在、フリージャーナリストとして活躍して いる中島恵が、幅広い中国人の友人を取材して、ごく普通の中国人が母国をど のように見ているかを書いた『いま中国人は中国をこう見る』(日経プレミア シリーズ、2022 年 3 月刊行)によると、今の中国人の母国に対する心情はと ても複雑で、簡単に中国共産党を支持しているわけではないという。中国人に とって、まずは自分と家族の生活が大事であって、それさえ守れれば、あとは どうでもいいというのが本音のようだ。しかし、中国人は、個人の行動データ、 学歴、勤務先、資産、人脈などのデータを総合した「信用スコア」を使って、 共産党が国民を監視しているこを常に気にしている。信用スコアで共産党に睨 まれることを極端に恐れ、警戒していているのだ。そして、どう行動し、どう 発言するのが賢いかを何時も考えている。例えば、2021 年 7 月 1 日に中国共 産党創立 100 周年を記念する盛大な祝賀式典が天安門広場で開催され、約 7 万 人の人々が色々な組織から徴集され、習主席の演説の要所・要所で一斉に大歓 声を上げていたが、そこに出席した友人は「退屈だった」「あれは単なるお祭 で、熱狂は演出だ」というのが本音だが、SNS に出る多くの投稿は、「自分も きちんと祝っている」「式典の報道をしっかり見た」という証拠を示して、自 分の「信用スコア」を良くするための自己保身だという。 中国の「ゼロコロナ政策」が WHO のテドロス事務局長から「持続可能では ない」と批判され、米欧の衛生専門家の間に「中国のやり方は新型コロナウィ - 7 - ルスを封じ込めるどころか、新しい変異型に対して感染の大爆発を招きかねな い」という声が強まっている。確かに中国のゼロコロナ政策は、感染者と死亡 者を極めて低く押さえ込むことに成功したが、それは殆どの国民が感染してい ないことを意味し、変異型にも効く米欧のワクチンを使っていない中国の国民 は感染力の強い変異型に免疫を持たない比率が極めて高い状態にあって、いま だに感染爆発の恐れがあるという。米欧日では、今や国民のほとんどが変異型 にも免疫を持っているので、「ウィズコロナ政策」のもとに経済活動を復活さ せ始めているが、中国の習近平政権がとってきた「ゼロコロナ政策」は、経済 活動の復活を不可能にする可能性が高いというのだ。 習近平は、「ゼロコロナ政策」を国民に徹底できる共産党統治の方が感染拡 大に苦しんでいる民主主義体制の国より優れていると言って、国民を納得させ てきた。しかし、中国のゼロコロナの実態は、習近平の意図を忖度した側近や 地方政府の幹部らが「ゼロコロナ」を競い合って、政策の欠陥を増幅させてい る。ある地区で感染者が 1 人でも見つかると、その地区は 2 週間にわたって完 全に封鎖され、全員が PCR 検査を受け、たまたまその地区にいた配達員や通 いの家政婦までもそのまま 2 週間留め置かれることになる。このように地方政 府や居民委員会(町内会のようなもの)が住民に厳しく対応するのは、自らが 管理する地区で感染が拡大した場合、彼等自身が厳しく責任を問われ、処分さ れるからだ。中国最大の都市 上海は、変異型の感染拡大によってロックダウ ンとなり、コンテナ輸送による世界貿易に多大な影響を与え、私権を制限され た 2400 万の人々の不満や反発が高まった。 強権主義の中ロと民主主義の日米欧の分断 ロシアのウクライナ侵攻を受けて、米国が中国に対する新戦略を打ち出し、 日本に全面的な協力を求めてきた。その内容は、5 月 23 日の岸田首相とバイ デン大統領の日米首脳会談の共同声明で次のことが明らかになった。 日米は、武力による現状変更で地域の安定を損なっている中国に対し、中国 の軍備増強によって米国のインド太平洋における軍事力の優位性が損なわれつ つあることに対処するために、日本の軍事力を増強し、共同で抑止する体制を 拡大する。日本が攻撃された場合は米国が攻撃されたものとみなし、日米が共 同で反撃することを宣言して、核にまで拡大した「拡大抑止」によって日米の 安保戦略の連動性を向上させる。 この日米首脳会談後の記者会見で、米国の記者が「台湾有事の際に米国は武 力介入するか」と質問したのに対して、バイデン大統領は「Yes」と答えた。 今までの米国の台湾有事に対する戦略は、「戦略的あいまいさ」と称して、あ いまいにしておくことによって中国を牽制することであった。しかし、習近平 - 8 - が武力行使してでも台湾を統一すると明言したことに対して米国は、軍事介入 を明言することによって中国の台湾統一を阻止する方針に変えた。これに対し て中国は、「内政干渉だ」と言って激しく抗議した。 欧州連合(EU)と中国との安定した関係が壊れつつある。中国による新疆 ウィグル自治区のウィグル人に対する人権問題で関係が悪化していたが、ロシ アのウクライナ侵攻で最悪の状態におちいった。この戦争は、欧米の絆を揺る ぎないものにしたが、中国と EU を断絶の危機におとしいれた。しかし、欧州 にとって中国との分断は米国よりも高くつく。 日米欧は、「中国と台湾は一国だ」を認めていながら、中国の台湾統一を認 めなようとしない。一般的にこれはおかしいが、そこには中国共産党の本質を 見抜けなかった米欧の中国に対する「見込み違い」があった。米国は、中国が 豊かになれば民主主義の国なると考え、台湾の国民政府が握っていた国連の安 全保障理事会の常任理事国としての権限を 1971 年に中華人民共和国にわたし、 台湾の中華民国政府を国連から追放することを認めた。これが、今日の米中対 立と国連の機能不全の根本的な原因となっている。第 2 次世界大戦で連合国側 について戦って勝利したのは中華民国であり、中華民国が国連の常任理事国に なったが、その後の内戦で中華民国の国民政府軍が共産党の人民解放軍に敗れ て台湾に逃れ、1949 年に共産党により中華人民共和国が成立した。しかし米 国は、それ以降も台湾の軍事支援を続けて中国の台湾統一を阻止し、台湾を民 主主義陣営に取り込んできた。これが「現状」である。習近平政権になって中 国の民主化があり得ないことが明らかになった今、米国は、台湾を独立させる こともできず、中国の一部である台湾を中国に支配させないという「現状」を 維持し続けるしかないのだ。そして、中国の台湾統一は「力による現状変更」 だから国際法違反だと主張し、軍事介入するというのだ。 米国は、軍事と経済の両面で中国を封じ込め、「台湾侵攻シナリオが浮上し ないように強い抑止力を保つことが最善策だ」と考えてきた。しかし、そこま で中国を圧倒する力は今の米国にはない。民主主義国の仲間と危機感を共有し、 仲間を結集して重層的に備えの厚みを増すというのが、今回のバイデン大統領 の日本訪問の目的であった。 バイデン大統領は、中国に対抗してインド・太平洋の国々が@貿易、A供給 網(サプライ・チェーン)、Bインフラと脱炭素での協力、C税・反汚職、の 4 つの分野で新たな経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の発足を宣 言した。IPEF は、米国・日本に加えて韓国、インド、オーストラリア、ブル ネイ、インドネシア、マレーシア、ニュージーランド、フィリピン、シンガポ ール、タイ、ベトナムの 13 カ国を創設メンバーとして始動し、中国に対抗し てサプライチェーンの再構築やデジタル貿易のルールづくりなどで連携する。 - 9 - この 13 カ国で世界の GDP の 4 割を占めるが、TPP のような関税を削減して市 場を開放することには踏み込んでいないために、米国のアジア経済戦略の空白 を埋めするには力不足のようだ。米国は、民主党支持基盤の労働組合や民主党 左派が「市場を開放すれば米国人の雇用が流出する」という主張に沿うために、 TPP には参加できない。市場開放という魅力に欠ける IPEF にアジア各国をい かにまきこむかが今後の課題となる。 米通商代表部(USTR)の高官によると、@貿易の分野では、デジタル・労 働・環境について新たなルールを設け、企業にサーバーを自国内に設置させて 保存させる「データ・ローカライゼイション」の規制を緩和する。A供給網の 分野では、半導体などの戦略物資について在庫や生産能力といった情報を共有 する体制を整える。Bインフラでは、中国の広域経済圏構想「一帯一路」に対 抗し、低利融資などの支援策をまとめる。各国は、これらの 4 分野の一部にだ け参加することも可能にするという。 さらに日米は、5 月 24 日に東京で日米豪印の 4 カ国の枠組み「Quad(クア ッド)」の首脳会議を開いた。この会議で、中国の海洋進出と力による現状変 更に反対・対抗して、海洋監視情報の共有、太平洋島嶼国の経済支援や気候変 とうしよこく 動対策で協力し、サイバー・宇宙で協議体をつくることで合意した。 グローバル化の再構築 約 30 年前にソ連が崩壊して、新自由主義のもとに世界的な資本市場へのア クセスが拡大してグローバル化が進み、経済効率の高い供給網として中国を中 心とする供給網の構築を進めてきた。しかし、過去 10 年間にナショナリズム が台頭し、今回のウクライナ侵攻を機に国家による安全保障が再び最大の優先 事項になった。これからの世界は、民主主義の国々と強権主義を強める中ロの 間で軍事的・経済的な安全保障体制の対立が先鋭化して、世界が急速に分断さ れていく。今までの中国経済を中心とする効率的なグ−バル化から、民主主義 国の団結を強くして安全保障を重視するグローバル化へと進むというのだ。 日米欧は安全保障を重視して、中国・ロシアへの経済的依存をできる限り減 少させ、より多くの事業を自国内に移管したり、民主主義をとる近隣国や地域 に移したりする。人口増加が続く東南アジアやインド、メキシコ、ブラジルな どが移転で恩恵を得る可能性が高い。 グローバル化の再定義が進むなかで、現在のエネルギーや食糧の世界的なイ ンフレが今後 2 〜 4 年は続く可能性がある。そのインフレは、天然ガスへの再 投資やグリーンエネルギーといった持続可能なエネルギーへの新規投資と供給 物再構築によって、5 年で解消するという。そうしたなかで、今後も米国は世 界の成長エンジンの一つであり、日本は岸田首相の「新しい資本主義」のもと - 10 - で、日本経済を再構築し、低成長から脱却するチャンスになる。 一方、強権主義・拡大主義の中国・ロシアは、今後、人口減少の危機に直面 して国力が衰退していくと予測され、それを打開するために暴発する危険性が あるという。民族の復興を目標に掲げて拡大主義をとる中国とロシアは、その 目標が国力の衰退によって達成できない恐れが生じたときに、無謀なリスクを 犯して暴発するというのだ。これを「衰退する大国のわな」と呼ぶ。かつて、 第 1 次世界大戦前のドイツ帝国や、太平洋戦争前の日本がそうであった。ロシ アのウクライナ侵攻は「衰退する大国のわな」が働いたとみてよい。 中国は、新型コロナウィルス感染拡大の前から中国経済のピークが過ぎてい て、やがて中国の人口は歴史上前例のないペースで減っていく。中国の GDP は一時的に米国を抜くかもしれないが、再度抜きかえされる。中国は、2020 年代後半に米国や同盟国の軍事力に抜かれる前に、「衰退する大国のわな」に 陥って、台湾に侵攻する可能性が高いという。 日本について 「戦争になったら国のために戦うか」という問いに対し、日本人は 13.2 % が「はい」、48.6 %が「いいえ」、38.1 %が「わからない」と答え、「戦う」と 答えた割合が 86 カ国中最下位で、「わからない」と答えた割合が最も高かった。 ちなみに、2 番目に低いリトアニアでも 30 %以上が「戦う」と答えているか ら、日本人の低さが異常であることが分かる。「戦う」と答えたのは、ドイツ でも 44.8 %、米国が 59.6 %、韓国が 67.4 %、ロシアが 68.2 %、台湾が 76.9 %、中国が 88.6 %であった。 これは、日本人の防衛感覚の異常さを如実に表してる。日本人は、自分たち が犯した戦争に対する反省から、普通の国が持っている防衛という意識を失っ てしまい、防衛することにも罪悪感を抱くようになった。平和憲法を守ってい れば日本は安全だと考えるのは、あまりにも人類の歴史と現実世界を知らなす ぎる。歴史から学ぶことは、人類は未だに闘争本能に支配され、プーチンのよ うに危険な指導者を選んでしまう国が多いから、自国の安全を確保する防衛体 制が必要だということだ。必要な防衛力は、相手の攻撃力に合わせて変わって くるから、相手とのバランスをとることが肝要となる。これからの防衛は、日 本独自ではなく、民主主義諸国と共同で中国・ロイア・北朝鮮に対抗して防衛 することになる。そのために日本人は、世界に目を向けて、国際情勢を正しく 判断できるように努力する必要がある。戦力のバランスは時間と共に増大する 傾向があるから、軍備の削減と世界平和を目指す運動が必要になる。日本は、 憲法の平和主義を堅持して、被爆国として原爆のない世界を目指す運動を主導 すべきだと筆者は考える。それは、防衛とは矛盾しない。
(以上)

     現代物理学の歴史とその概要

                       20224月 芦沢壮寿

 現代物理学の基礎となる「相対性理論」と「量子論」は、広大な宇宙や超微細な分子・原子・素粒子の領域を対象とする物理学です。これらは、20世紀前半に成立しましたが、均質な三次元空間と一定の速さで進む時間を前提とした「ニュートン力学」とは全く異なり、難解な数式で記述されているために、一般の人々には難解なものでした。筆者は、中学生時代に科学雑誌に載っていた「ボーアの原子論」を読んで以来、現代物理学に興味を持つようになり、学生時代や社会人になってからも本や新聞に載る新しい発見の記事を記録してきました。この冊子は、そうして収集してきた記録と最近読んだ『量子で読み解く生命・宇宙・時間』(吉田伸夫著)をもとにして、現代物理学が形成されてきた歴史を概観し、「相対性理論」と「量子論」の概要をできるだけ分かりやすく説明してみました。

 

現代物理学の基礎を拓いた人々

 現代物理学の基本となる「質量」を精密に研究して「質量保存の法則」を発見したのはフランス人のラファージュであった。ラファージュは徴税官だったが、自宅の実験室に精密な測定のできる実験装置を造り、妻の助けをかりて実験を繰り返し、物質は化学反応で変化しても物質の総質量は反応前と反応後で変わらないことを証明した。それは、ちょうどフランス革命の時代であったので、徴税官であったラファージュは物理学で貢献したにもかかわらず、1794年に断頭台で処刑されてしまった。

 次に現代物理学の基礎となる発見は、ファラディーによる電磁波とマックスウェルによる電磁波の波動方程式であった。マックスウェルの波動方程式から電磁波の速度は一定であり、それが光速と一致することが分かった。

 運動エネルギーが質量と速度の2乗の積に比例することを発見したのは、フランス貴族の令嬢エミリー・デュ・シャトレーであった。エミリーは、女性でありながら23才の若さで高等数学をきわめ、啓蒙思想家のヴォルテールとも恋をした。その当時、近代科学の建設者といわれたニュートンの「運動量保存の法則」によって、運動エネルギーは質量と速度の積に比例すると考えられていた。エミリーは、オランダ人のツプラーデ・サンデの「玉を軟らかい粘土盤に落下させる実験」で「玉が粘土にめり込む深さは速度の2乗に比例する」という実験結果から、運動エネルギーが速度の2乗に比例することを発見し、1740年に物理学教程に発表した。しかし、エミリーの最後は若い兵士と恋に落ち、その恋人の子を宿して、出産の際に死んでしまった。

 

アインシュタインの相対性理論

 アインシュタインは「現代物理学の父」と呼ばれる。アインシュタインは、自分より前の人々の物理学上の研究成果を使って、現代物理学の基礎となる「時間と空間の関係」「エネルギーと質量の関係」についての新理論を確立した。1905年に発表した5つの論文が現代物理学の基礎を築くものであったので、1905年は「現代物理学の最も奇跡的な一年」と言われる。5つの論文の中に「光の本質についての論文」「特殊相対性理論」「エネルギー・質量・光速の関係の論文」が含まれていた。これらの論文はニュートン以来の物理学の基本的な概念を根底から覆すものであった。アインシュタインは「時間と空間は関連し合う」「エネルギーと質量は交互に変換しうる」と言い、新しい物理学を拓いた。

 自己中心的なアインシュタインは、学校や職場などで周辺のことを全く気にせず、ひたすら「神はこの世界をどのように造ったか」という根源的問題に没頭していた。そして、その当時明らかになった「光の速度はどの   アインシュタイン

ように動いている観測者が測っても不変である」という事実を考えているうちに、「光の速度が不変なら、観測者によって時間の進む早さを変えれば良い」という発想に達した。この発想の転換こそが現代物理学を生む画期的な発見となった。アインシュタインの特殊相対性理論は、「空間」「時間」といった科学の基本概念について、それまでの人類が当然と考えていた「ニュートン・カントの空間・時間」の概念を覆して、全く新しい「4次元時空」という概念を創出したのだ。

 相対性理論の「相対」とは、「絶対」の反対の概念であり、「他のものとの相対的な関係によって成り立つ」ことである。相対性理論は、今では宇宙の法則・原理であることが実証されて理解する人が多くなったが、アインシュタインが相対性理論を発表した当初は、あまりにも科学の常識を覆すものであったので、世界中で理解できる人は数人と言われた。

 「光の速さはどのように動いている観測者が測定しようとも常に一定である」という事実はニュートン力学と矛盾した。ニュートン力学では、光に向って動く観測者は光と同じ方向に動く観測者よりも光速が大きく測定されなければならないからだ。

 一方、マックスウェルが発表していた「電磁波の波動方程式」から電磁波の速度が常に一定であり、後に発見された「光は電磁波である」ことから、光の速度は常に一定となる。電磁波には、波長の長い順に、電波・マイクロ波・赤外線・可視光線・紫外線・X線・ガンマ線などがあるが、全ての電磁波が光速と同じである。そして、電磁波だけが真空の宇宙空間を伝播できる。マックスウェルの理論はニュートン力学と矛盾していたが、アインシュタインはマックスウェルの方が正しいと判断して、相対性理論を創造したのだ。

 アインシュタインは、特殊相対性理論の中である思考実験を行い、観測者の観測状況によってある出来事の「時間」が違って観測されることを発見した。その思考実験とは、走っている電車の車両の前後につけたランプを同時に点灯させ、それを2人の観測者ABが観測することであった。次ページの「アインシュタインの思考実験図」のように、走っている電車の中にいる観測者Aは車両の中央におり、電車の外にいるBは丁度ランプが点灯した時に車両の中央で進行方向と直角になる線上にいるとする。観測者ABは、互いに「自分は静止しているが相手は動いている」と見ている。これを「相対運動」という。

 まず観測者Bの観測を考える。Bは、ランプが点灯した時に前後のランプから等距離にいるので、2つのランプが同時に点灯したと観測する。しかしAは、ランプが点灯して光がAに到達する間に電車が進んでいるので、前方のランプからの距離が短縮され、前後のランプから来る光の速度は同じだから、距離が短縮された分だけ前のランプの方が早く点灯したと観測する、とBには見える。

 次に観測者Aの観測を考える。Aは、車両前後の アインシュタインの思考実験図

ランプから等距離にあるから、2つのランプが同時に点灯したと観測する。しかしBは、ランプが点灯して光がBに到達する間に電車と反対方向に動いているので、後ろのランプからの距離が前のランプからの距離より短くなり、後のランプの方が早く点灯したと観測する、とAには見える。

 この思考実験は、相対運動している観測者ABによって前後のランプの点灯時間が違うという重大な事実を提示している。観測者ABは、互いに「自分は車両前後のランプが同時に点灯したと観察し、相手は動いている方向にあるランプの方が早く点灯した監察する」と見るのだ。

 相対性理論より前の空間・時間の概念は、「空間は3次元の前後方向に均質に限りなく広がり、時間は1次元の過去から未来へ一定の速さで進む」というもので、それは全ての人々が共通に「純粋直感」として認識できるから「自明のことだ」とカントが言った。アインシュタインの思考実験は、カントの空間・時間に対する「純粋直感」の概念が間違っていると指摘しているのだ。

 相対運動をしている観測者に光速度が一定に見えるということは、観測者ごとに時間と空間の尺度が違うということになる。相対運動をしている2人の観測者は互いに相手の「時間が遅れ」「空間が縮み」「質量が大きく」見える。これは実際に起っていることだが、光の速度に比べて遅い速度では気がつかないほど小さい。もし光速に近い速さのロケットに乗って飛んでいる相手を見ると、相手の時間が遅く進み、相手が小さく見え、相手の体重が増えて見える。

 仮にロケットが光の速さで飛んだとすると、時間の進みはゼロになり、ロケットの質量は無限大になって、それ以上加速することが不可能になる。つまり、光を越えるスピードを出すことは不可能なのだ。

 特殊相対性理論でアインシュタインは、全ての運動に通用する絶対的な空間・時間は存在せず、相対運動する2人の観測者だけに通用する相対的な空間・時間だけが存在し、物理法則は両者に対等に成り立つと言った。そして、時間と空間は、時間が遅く進むと空間が縮み、時間が早く進むと空間が伸びるように関係し合い、一体となって「4次元時空」を形成していると説いた。

 次にアインシュタインは、等速直線運動の特殊相対性原理を加速度運動にまで拡張して、1916年に「一般相対性理論」を発表した。一般相対性理論でアインシュタインは、「加速度運動」と「慣性力」(加速度運動から生まれる力)と「重力」は本質的に同じものだとする「等価原理」を提唱した。

 例えば、エレベータの中にいる人はエレベータが停止している時は重力を感じているが、エレベータのロープが切れて自然落下(=加速度運動)し始めると、重力がなくなって加速度運動に変わる。従って、「重力」と「加速度運動」は等価である。

 回転するドーナツ状の宇宙ステーションの中にいる人は遠心力(=回転速度の方向が変化する加速度運動から生まれる慣性力)を感じるが、それは地球上で感じる重力と全く同じだから、「慣性力」と「重力」は等価である。

 また、加速度運動をするロケットに乗っている人が、ロケットの窓から入ってくる光の進路を観測しているとすると、ロケットの速度が加速するにつれて光の進む方向が曲って進んでいるように見える。光は最短コースを進む性質があり、通常は直線上を進むのが最短コースになるが、その光が曲って進むということは「時空が曲っている」ことを意味する。この「時空の曲り」の原因は加速度運動によるものだから、加速度運動を等価な重力と置き換えて、「重力によって時空が曲る」と考えてもよい。こうしてアインシュタインは、「重力場で時空は曲がる」とする「一般相対性理論」を確立した。この一般相対性理論によってアインシュタインは、太陽の近くを通る光が太陽の重力場で曲げられる角度を予言し、それが皆既日食の時に実証されて、一般相対性理論の正しいことが証明された。それ以降、宇宙に関する理論は一般相対性理論で論じられる「相対的宇宙論」となった。

 一般相対性理論による宇宙の時空は、単なる「容れもの」ではなく、宇宙に存在する多数の星の重力によって曲げられた時空である。その中には強烈な重力によって光も出られなくなる「ブラックホール」と呼ばれる「重力の落し穴」がある。ブラックホールは光さえ出られなくなるから、目に見えない暗黒物質となって宇宙に存在し、宇宙空間の重力場を歪めているのだ。

 

アインシュタインの理論から生まれた核エネルギー

 アインシュタインは、エネルギーと物質の関係について「エネルギーと物質は、質量mの物質がmと光速の2乗の積のエネルギーに変換しうる」と説いた。このアインシュタインの理論は、1gの物質が消滅すると20兆カロリーのエネルギーが発生することを意味する。この理論は、後に核エネルギー開発に理論的根拠を与えた。

 1907年、28才のユダヤ人女性リーゼ・マイトナーがドイツの研究所で後に夫となるオットー・ハーンと放射能の共同研究を始めた。自然界で最大のウラン原子(238個の陽子と中性子からなる)に中性子を打ち込んで自然界には存在しない最大の原子を造る実験をすることにした。ところが、1938年、リーゼはナチスのユダヤ人追放から逃れるために夫のハーンと分かれてドイツから脱出しなければならなくなった。ハーンはドイツに残っで実験を継続していると、ウランより大きい原子ではなく、ウランより小さいラジウムとバリウムが出てきたのであった。スウェーデンに逃れたリーゼは、夫からの手紙でそのことを知り、甥のオットー・フリッシュと散歩しながら考えた。そして、実験結果はウラン原子の核分裂であり、アインシュタインの理論に従えば、核分裂で失われた質量は莫大なエネルギーに変換されたと考えるに至った。リーゼはハーンにその発見を手紙で報せ、ハーンは単独でそれを発表した。ハーンはその功績が認められて、1944年に1人でノーベル賞を受賞した。リーゼの甥のオットー・フリッシュはアメリカに渡って、原子爆弾を開発するマンハッタン計画に参加した。そこで造られた原子爆弾が広島と長崎に投下された。

 ウラン原子が核分裂する時に消滅する質量のエネルギーを使う爆弾が原子爆弾であり、それと同じ原理で発生した熱で水を蒸気に変えて発電するのが原子力発電である。

 水素原子が核融合してヘリウム原子になる時に消滅する質量のエネルギーを使う爆弾が水素爆弾である。それと同じ原理で発生した熱を使って発電するのが核融合発電であるが、まだ実現していない。もし核融合発電が実現したとすれば、二酸化炭素を出さないメリットがあり、しかも、災害時に発電が不安定になっても核融合反応が自動的に止まるので、重大事故を起こすリスクが低くなるメリットがある。また、設備の一部が低レベル放射性廃棄物になるものの、高レベル放射性廃棄物(核のゴミ)は出さない。さらに、核融合発電の原料は、原子核に1個ないし2個の中性子を含む重水素と三重水素(トリチウム)を使い、いずれも海水中から取り出せるので、原料調達のハードルが低い。このように、核融合発電には多くのメリットがあり、今後の地球温暖化対策として有効な方法になり得る。

 核融合発電は、重水素と三重水素が数千度以上になると原子核と電子が分離して自由に飛び回るプラズマ状態となり、1億度以上になると核融合反応が起こってヘリウム原子核となって膨大な熱を発生し、余分になった中性子が飛び出す。その中性子から熱を回収し、水を沸騰させた蒸気でタービンを回して発電する。核融合発電の技術は日米欧などの主要国・地域が参加する国際熱核融合実験炉(ITER)によって既に目途が立っているが、連続して核融合反応を起こした事例がまだない。実用化は早くて2030年代になりそうだ。

 

宇宙生成理論

 現在の宇宙は138億年前に1つの大爆発から生まれた。これを「ビッグバン理論」という。ビッグバン直後の宇宙は一瞬(10のマイナス43乗秒以内)に急膨張した。これを「インフレーション理論」という。インフレーション理論は、1980年代前半に東大教授であった佐藤勝彦らによって提唱された。

 1948年にジョージ・ガモフがビッグバン理論に基づいて「宇宙背景放射」を予言し、1965年にベル研究所のアーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンが実際に宇宙背景放射の存在を発見して、ビッグバン理論の正しいことが証明された。ペンジアスとウィルソンの2人は1978年にノーベル物理学賞を受賞した。

 宇宙背景放射とは、宇宙のあらゆる方向から地球に降り注いでくる微弱な電波である。生まれて間もない宇宙では、高温のために原子核と電子が分離して飛び交うプラズマ状態であったので、光が通らなかった。そのプラズマ状態が水素原子とヘリウム原子にまとってから宇宙に光が通るようになった。こうした宇宙誕生頃に発生した光が背景放射の源であり、長い道のりを進む間にマイクロ波に変化して今地球に降り注いでいるのだ。言わば背景放射は「宇宙の古文書」であり、それを解読することによって宇宙の生成や構造が分かる。

 誕生後の宇宙は、膨張しながら空中に漂うガスが集まって星ができ、星が集まって銀河が生まれた。地球が属する天の川銀河では、50億年前に太陽が生まれ、46億年前に約10個のミニ惑星が衝突によって合体して地球ができた。

 太陽のような光る星の内部では超高温・超高圧の状態にあり、水素がヘリウムになる核融合反応によって水素の0.72%の質量が失われてエネルギーに変わっている。そこでは、核融合によってヘリウムよりさらに重い原子も作り出される。地球にある物質や人間の肉体の骨・筋肉・血液などの物質を構成する炭素・酸素・窒素・カルシウム、珪素、鉄などの原子はどこかの星で核融合によってできたのだ。

 1930年代にスイスのフリッツ・ツビッキーという天文学者が銀河団の全体の質量を光学的測定方法と力学的測定方法の2つの方法で測定したところ、力学的質量が光学的質量の400倍という結果が出た。光学的質量とは、髪座銀河団から地球に届く光を測定して計算した物質の質量だ。一方の力学的質量とは、髪座銀河団が動く速さを測定して計算したエネルギーを質量に換算したものだ。星を動かすエネルギーの元は重力であり、重力は質量から生まれる。力学的質量が光学的質量の400倍ということは、髪座銀河団は物質の質量から生まれる重力エネルギーの400倍ものエネルギーで動いているのだ。このことは、目に見える物質の他に、その399倍もの目に見えない暗黒の物質とエネルギーが存在することを意味する。

 1970年代にアメリカのヴェラ・ルービンがアンドロメダ銀河のガスの回転速度を測定したところ、中心に近いガスの回転速度と遠いガスの回転速度が同じであった。もし、重力エネルギーで回転しているのであれば、中心から遠いほど速い回転速度で動いていなければならないが、それが同じということは、重力エネルギーの他に正体不明のエネルギーが働いていることを意味する。

 以上の観測結果から、銀河には物質の重力よりもはるかに大きな正体不明のエネルギーが働いていることが分かった。それを「暗黒エネルギー」と呼ぶ。

 現在、宇宙は加速的に膨張しているという事実が発見されている。加速的に膨張させているエネルギーは正体不明の暗黒エネルギーだと考えられる。暗黒エネルギーは斥力として働き、重力の引力に打ち勝って宇宙を加速的に膨張させているのだ。

 1989年、米航空宇宙局(NASA)が衛星の観測データを解析して、ビッグバン理論の正しいことを裏付け、さらに、ビッグバンの残照にはムラがあることを発見した。このムラは2001年に打ち上げられたWMAP衛星の観測データによって精密に解析され、宇宙の年齢が138億年であり、宇宙には目に見える物質が4.9%、暗黒物質(ブラックホールの物質)が26.8%、暗黒エネルギーが68.3%であることが分かった。また、目に見える物質の71%が水素原子、27%がヘリウム原子、残りの2%がその他の原子であることが分かった。

 最近、天の川銀河の中心部に大きなブラックホールがあることが発見され、天の川の星の集団がこのブラックホールの周りを回転していることが分かった。また、他の銀河にも真中にブラックホールがあり、生まれたばかりの銀河にもブラックホールがあることが分かり、ブラックホールは銀河系を形成するための原動力であると考えられるようになった。

 ブラックホールは超新星爆発によっても生まれる。大きな星が大爆発すると中心部分が圧縮されてブラックホールになる。地球の大きさでも半径が9mmの球にまで圧縮するとブラックホールになるという。ブラックホールは周りの星を吸い込んで成長していく。吸い込む星がなくなると成長を止めて休眠に入るが、ブラックホールからは「ジェット」と呼ばれるエネルギーが絶えず噴出していて、ブラックホールは徐々に縮小していく。「ジェット」については、後で述べる。

 2003年に「スローン・デジタル・スカイサーベイ」という国際プロジェクト・チームが20万個の銀河の分布を三次元の宇宙図に精密に表したところ、銀河の分布は一様ではなく、泡のような球の表面上に分布していることが分った。これを「宇宙の大構造」と呼ぶ。宇宙の大構造の球面上に群がっている銀河は重力によって互いに引き合っているので、近くにある2つの銀河が合体することがある。事実、太陽系が属する天の川銀河に向かってアンドロメダ銀河が毎秒300kmの速さで近づきつつあり、30億年後には2つの銀河は一緒になり、2つの銀河のブラックホールが1つになって、新しい銀河系が形成されるという。

 

理論物理学と量子力学

 理論物理学とは、自然界に対する科学的概念と数学を手段として物理法則を探求する学問である。理論物理学は湯川秀樹・朝永振一郎を始めとする日本人の学者の得意分野であり、今までに日本人がノーベル物理学賞を10人も受賞している。

 理論物理学の基本は、ケンブリッジ大学のポール・ディラックが提唱した「物理法則は観測者の視点が変わっても自然界の物理法則を表す数式は変わらない」という思想にある。ディラックは、「物理法則を表す数式は美しくなければならない」と言い、「数式の美しさは対称性にある」と言った。「数式の対称性」とは、観測点の座標を座標変換しても物理法則の数式は変わらないということだ。これは、ディラックの自然に対する概念であり、自然界の物理法則は観測者や観測場所とは関係なく、普遍的であるはずだという思想に基づいている。

 量子力学は、分子・原子・原子核・素粒子などの微視的領域を支配する物理法則を研究する学問である。「量子」という言葉は、1900年にプランクが「電磁波のエネルギー量はhν(hはプランク定数)の整数倍になる」ことを発見したことを受けて、アインシュタインが1905年に発表した「光の本質についての論文」の中で、hνのエネルギーの塊としての光を「エネルギー量子」とか「光量子」と呼んだことに始まる。「量子」とは、存在しうる物理量の最小単位であり、自然界の物理量はその整数倍になっているとアインシュタインが指摘した。

 量子力学は、理論物理学によって発展し、物質を構成する分子・原子・原子核・素粒子について「標準理論」と言われる理論に到達した。以下では「標準理論」について、その概要を説明する。

 物質は分子の集合体であり、分子は複数の原子が結合している。原子はプラス電荷を持った原子核とマイナス電荷を持った電子から構成され、原子核はプラス電荷の陽子と電荷ゼロの中性子から構成される。

 陽子・中性子はさらに細分化されて、uクォーク(電子の電荷の3分の2のプラス電荷を持つ)とdクォーク(電子の電荷の3分の1のマイナス電荷を持つ)という素粒子になる。陽子はuudの3つのクォークが結合してプラス電荷を持ち、中性子はuddという3つクォークが結合して電荷はゼロになっている。陽子・中性子などを重粒子(バリオン:3つのクォークの結合)と呼ぶ。湯川秀樹が予言してノーベル賞を受賞した中間子は1つのクォークと1つの反クォーク(クォークと質量は同じだが電気的性質が正反対)が結合している。クォークにはudの他にscbtの6種類がある。クォークによって物質の殆どの質量が構成される。

 クォークより極端に小さい質量の素粒子として電子、ニュートリノなど6種類のレプトンがある。他に、重力や電気的なクーロン力などの力を担う素粒子として光子(電気的なクーロン力を伝える粒子。光子を交換することによってクーロン力が生まれる)、W粒子(原子核からレプトンを放出する「弱い核力」を生む粒子)、Z粒子(重力を伝える粒子)、グルーオン(クォーク間の「強い核力」を生む粒子)の4種類のゲージ粒子と、素粒子に質量を与えるヒッグス粒子がある。

 ヒッグス粒子は、1960年代にワインバーグとピーター・ヒッグスによって、万物に質量を与える素粒子として提唱された。ビッグバンによって宇宙が生まれてすぐにヒッグス粒子が宇宙を埋め尽くしたことから、素粒子がヒッグス粒子に衝突することによって動きにくくなり、質量を持つようになった。質量の本質は「動きにくさ」にあるのだ。なお、ニュートリノについては、2002年に「宇宙ニュートリノの検出」で小柴昌俊がノーベル物理学賞を受賞した。

 6種類のクォークと6種類のレプトンには、質量などの性質は同じだが電気的性質だけが正反対の反粒子がある。

 結局、標準理論の素粒子は、6種類のクォーク、6種類のレプトン、4種類のゲージ粒子、1種類のヒッグス粒子からなる粒子と6種類の反クォーク、6種類の反レプトンからなる反粒子で構成され、全体で29種類の素粒子からなる。

 ディラックは、電磁波の伝搬速度が光速と一致することを示したシュレディンガーの波動方程式には対称性がないと指摘し、シュレディンガーの波動方程式に「並進対称性」(座標軸の平行移動に対する対称性)、「回転対称性」(座標軸の回転に対する対称性)、「ローレンツ対称性」(アインシュタインの特殊相対性理論における、相対運動をしている2つの慣性系の間の座標変換(ローレンツ変換)に対する対称性)の3つの対称性を持たせたディラック方程式を作った。その数式から計算された電子の電磁気力が測定値と10桁まで一致すことが分かり、ディラック方程式が一般に認められるようになった。それは、量子力学において電磁気力(=クーロン力)を表す数式となり、相対論的量子力学の基礎になる数式となった。

 さらに、ディラックは電子の反粒子として陽電子の存在を予言し、実験によって陽電子が存在することが実証された。

 ディラック方程式を解いていくと、電子のエネルギーが無限大でなければならないことになる。この難問を解決したのが朝永振一郎の「組み込み理論」であった。朝永はこの発見によりノーベル賞を受賞した。

 理論物理学の次の目標は、量子力学の「弱い核力」(=W粒子の力)と「強い核力」(=陽子・中性子などのクォークを結びつけるグルーオンの力)を数式化することであった。アメリカのロバート・オッペンハイマーが「ゲージ対称性」を提唱して数式化を試みた。しかし、第2次世界大戦中に米国政府が原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を推進することになり、オッペンハイマーはマンハッタン計画のロス・アラモス研究所長になった。オッペンハイマーは、1943年7月に原子爆弾の開発に成功し、原爆の生みの親となった。

 オッペンハイマーの後、中国人のチェンニン・ヤンが「非可換ゲージ対称性」を提唱して、「弱い核力」と「強い核力」の数式化に成功した。

 標準理論では現在の宇宙が生まれた瞬間を次のように説明している。ビッグバンによって宇宙が生まれた瞬間は、超高温・超高密度で、粒子と反粒子がぶつかり合って放射エネルギーを出す反応と、放射エネルギーから粒子と反粒子が発生する反応があった。宇宙が少し膨張して温度・密度が下ると、粒子と反粒子がぶつかり合って放射エネルギーを出す反応だけになった。

 その頃の宇宙では粒子と反粒子が同数であったが、現在の宇宙には反粒子が存在しない。その理由は、粒子と反粒子の間に「CP対称性の破れ」という現象が自発的に起こって反粒子がなくなり、粒子だけの「粒子宇宙」ができたというのだ。

 理論物理学では、そのことについて次のように説明している。対称性を持った「弱い核力」と「強い核力」の数式を解くと、全ての素粒子の質量がゼロでなければならないことになった。この難問を解決したのが南部陽一郎の「自発的対称性の破れ」という理論であった。南部の理論は「鉛筆の尖った芯を下にして垂直に立てると、鉛筆は自然に倒れる」というアイディアから生まれた。数式上では完璧に鉛筆を垂直に立てる対称性が可能だが、現実には対称性が自然に壊れて、鉛筆は倒れてしまう。つまり、数式上では対称であっても、現実にはその対称性は自然に破れてしまうのだ。

 宇宙が生まれた瞬間は、粒子と反粒子が対称的に同数だったから、粒子と反粒子がぶつかり合うと放射エネルギーを出してなくなってしまうはずである。しかし、「自発的対称性の破れ」の理論によれば、対称的なクォークと反クォークのペアで埋め尽くされた宇宙において、ある1つのペアの対称性が破れると、そこから飛び出したクォークが別のクォークのペアに衝突して対称性を破り、それが連鎖反応になって対称性が次々に破れてしまうというのだ。南部陽一郎は、「CP対称性の破れ」を唱えた小林誠・益川敏英と共に、2008年にノーベル物理学賞を受賞した。

 「自発的対称性の破れ」によって生まれたクォークは、光のように速く進めなくなった。これは、クォークがヒッグス粒子にぶつかって質量を持つようになったことを意味する。つまり、クォークは「自発的対称性の破れ」から質量を持つようになり、その結果、今のような物質宇宙が生まれたというのだ。

 やがて、クォークが結合して陽子・中性子ができ、さらに、陽子と中性子が結合して原子核ができ、電子をとらえて水素原子とヘリウム原子ができた。素粒子が水素原子とヘリウム原子の形で納まることによって宇宙に光が通るようになった。これを「宇宙の晴れ上がり」という。ビッグバンから「宇宙の晴れ上がり」までは、ほんの一瞬(10のマイナス43乗秒以内)の出来事であった。

 2012年に欧州合同原子核研究機構(CERN)の国際チームによってヒッグス粒子が発見され、1970年代に確立された「標準理論」が完全に実証された。

 

量子論の本質と量子効果

 「量子論」は、基本的に「量子力学」と同じであるが、量子力学が素粒子の本質を「粒子」と捉えているのに対して、量子論は「波動」と捉えるという違いがある。

 「量子力学」は、ボーア、ハイゼンベルク、ディラックらが「素粒子は粒子だと仮定した上で、その振る舞いが波動になることがある」という理論を構築した。彼等は、1927年にハイゼンベルクが提唱した「不確定性原理」(1つの物理系において「位置」と「運動量」の両方の物理量を正確に測定することは不可能であり、測定値は確率的にしか分からないという原理)を取り入れることによって、素粒子が「粒子」と「波動」の両方の性質を持つとして、難解な数式を駆使して理論を展開してきた。しかし、その数式が具体的な物として何を意味するかは不可解である。

 一方、「量子論」は、シュレディンガー、ヨルダンらが「素粒子の本質は波動であるが、外部からの作用が働かない場ではその波動が定在波となり、外部からの作用で乱されない限り、定在波で振動する素粒子は粒子のように振る舞う」という理論を構築した。この理論では、素粒子は「波動だが、安定した定在波になると粒子のように振る舞う」というもので理解しやすい。

 量子論は、現在、生命科学で威力を発揮している。19世紀まで生物は通常の物質とは異なる法則に従うという「生気論」が信奉されてきた。しかし、現在は生命活動が量子論に従っていることが確実になった。

 物質に関わるあらゆる物理現象において、量子論によって初めて説明が可能になる物理的な効果を「量子効果」と言う。生命体が精妙な組織を形成して長期にわたって複雑な形態を維持できるのは、まさに量子効果による。量子効果は、僅かに変化を与えても自然に元に戻る性質を持ち、生命体に構造的安定性を与えている。例えば、生命の基本単位となる細胞の細胞膜は、水となじみやすい量子効果を持つ「親水基」と水と反発する量子効果を持つ「疎水基」が結合した脂質分子が親水基を外側にして二重に重なった閉曲面の構造をしている。こうした構造によって、水との親和性を持つ細胞膜が細胞の内と外の水を安定的に分離している。細胞膜が変形しても水を分離する機能が保たれ、もし細胞膜に小さな穴が空いても、自然に脂質分子が移動して穴が塞がれるので、細胞が安定的に維持される構造になっている。

 量子論は、同種類の素粒子が同じ性質を持つ理由について、素粒子の波動が共鳴(共振)して同じパターンの定在波を形成するからだと説明している。定在波とは、波動が共鳴(共振)して固有振動になった振動パターンである。素粒子の波動が定在波になることによって、波動が安定して持続するようになり、同種類の素粒子が同じ特性を持つようになるのだ。量子効果とは、量子の根底に存在する波動の特性が表面化することだと言ってもよい。

 一般的に原子核は、原子の質量の99.9%以上を占めているが、その大きさは原子の大きさの10万分の1ほどに過ぎない。原子の大きさは、電子の波動が存在するスペースの大きさで決まる。負電荷の電子は、陽電荷の原子核に電気的な引力(クーロン力)で引かれて原子核に吸い込まれてしまうはずだが、実際は原子の大きさは一定に保たれている。この謎を解明したのがシュレディンガーであった。

 20世紀初頭に水素原子の電子のエネルギーを測定する実験で、電子のとり得るエネルギーが整数の2乗に反比例する離散的なエネルギーをとることが発見された。最も低い電子エネルギーを−EEのマイナス符号は電子が原子に拘束されているエネルギーであることを表す)とすると、電子の取り得るエネルギーは、−E、−E4、−E9、…となるというのだ。これを説明するためにシュレディンガーは「電子は波動している」と考えた。例えば、長方形のバスタブの中の水を振動させると、バスタブのにぶつかる入射波と縁から跳ね返る反射波が干渉して合成波ができる。この振動を繰り返していると、水面がバスタブの中心線で水が動かなくなるが生じ、バスタブので大きく上下動する共振状態の波になる。これが定在波である。

 両端を固定した弦を振動させた時に生じる定在波は、両端が節になって、中心が大きく揺れる基本振動となり、さらに振動数を上げると、弦の中心が節となって振動数が基本振動の2倍の定在波が生じ、さらに上げると弦の1/32/3の所が節となって振動数が基本振動の3倍の定在波となる。定在波の波動エネルギーは振幅の2乗に比例し、振幅は振動数に反比例するから、弦の基本振動の定在波の波動エネルギーを−Eとすると、振動数が2倍、3倍になるにつれて定在波の波動エネルギーは−E、−E4、−E9、…となり、水素原子の電子のエネルギー特性と一致する。

 弦の定在波は弦の両端が固定されることによって閉じ込められているが、水素原子の電子の波動では原子核と電子が引き合うクーロン力のポテンシャル(位置エネルギー)が電子の波動を閉じ込める働きをする。シュレディンガーの波動方程式にはクーロンポテンシャル関数が組み込まれて、それを解くと水素原子内における電子の波動エネルギーの分布が分かる。相対性理論によると、ある領域の内部に閉じ込められたエネルギーは、外部から見ると質量として観測されるので、水素分子内の電子のエネルギー分布は電子の質量の確率分布でもある。

 水素分子は、2つの原子核が2つの電子を共有することによって、電子エネルギーが−2Eよりさらに低くなって安定する。電子は、エネルギーの低い状態に移ろうとする性質があるために、複数の原子核に共有されることによって低エネルギーに移行するのだ。複数の原子核が電子を共有する原子結合を「共有結合」という。

 塩化ナトリウム(塩)の結晶は、電子が塩素原子側に偏った状態で束縛されることによって、塩素原子がマイナスイオンになり、ナトリウム原子がプラスイオンになって結合する。これを「イオン結合」という。イオン結合は、共有結合に比べて弱いので、塩を水に入れると溶け出す。このように、化学反応において、原子同士がどのように結合するかは、原子核の位置が移動したことによる電子の共鳴条件の変化に対して、電子の新たな定在波の形(パターン)によって決まるのだ。

 アミノ酸が長くつながって鎖状の巨大分子となる蛋白質分子の形状も、蛋白質分子の電子エネルギーが最も低くなる状態で決まる。そのプロセスは、次のようなものだ。水の中で水分子が蛋白分子にぶつかって形が変わると、蛋白質分子の電子エネルギー状態が変化する。エネルギー状態が低くなる場合はその形で安定するが、高くなる場合は元の形に戻る。そうしたことを繰り返して、電子エネルギーが低くなるように蛋白質分子の鎖が折りたたまれていく。そうして生成された蛋白質分子によって複雑に機能する臓器が作られ、生命活動が維持される。これらのことの全てが量子効果によるものだ。つまり、生命活動は量子効果によって成り立っていると言ってもよい。

 ここで、電子が「波動性」と「粒子性」について考えてみる。真空放電で陰極から発する電子ビーム(陰極線という)の電子は、陰極物質の原子核のクーロン力の束縛から抜け出すと、電子専用の狭い「場」に閉じ込められた定在波になって、粒子のように振る舞うようになる。しかし、2つのスリット(実際は2つのイオン原子)を通して陰極線を散乱させる「二重スリット実験」では、散乱した2つの陰極線をスクリーンに照射すると、スクリーン上に明暗の干渉膜ができ、電子が波動していることを示す。つまり、陰極線は「波動」と「粒子」の両方の振る舞いをする。

 こうした電子の振る舞いは次のように解釈できる。電子は、外部から作用を受けない空間において、電子専用の狭い場の中で定在波を形成する。この定在波が特定のエネルギーを持つ共鳴パターンを示す「エネルギー量子」となり、「粒子」のように振る舞うのだ。一方、「二重スリット実験」で2つのイオン原子によって散乱された電子が「波動」の振る舞いをするのは、イオン原子からの作用によって電子の場の定在波が乱され、エネルギー量子が壊されてしまうからだ。ヨルダンは、電子が「エネルギー量子」となるのは電子専用の「場」がそれを可能にしていると考え、「場の量子論」を確立した。

 量子の基本は波であり、波は重ね合わせることができるという量子論の特性を利用したのが「量子コンピュータ」である。従来のコンピュータが01かを表すビットで演算処理するのに対して、量子コンピュータは「量子ビット」と呼ばれる量子素子の波動状態を|0〉と|1〉で表す。こうした量子ビットの波動を「量子論理ゲート」で重ね合わせることによって演算を行う方式を「ゲートマシン」という。ゲートマシンは、デジタル式の量子コンピュータで汎用的な問題が解けるメリットがある。しかし、ゲートマシンは、重ね合わせ状態が不安定なために、量子ビットを重ね合わせた時の正解率が99.84%ほどで、0.16%ほどがエラーとなり、エラーを修正する仕組みが必須である。それが非常に困難なので、実現には今後数十年がかかりそうだ。

 ゲートマシンの論理素子の一例として、SQUID(超伝導量子干渉計)について説明する。SQUIDは、1ミリに満たない超伝導体のリングからなり、リングの対称点となる2カ所にジョセフソン接合(超薄膜の絶縁層を超伝導体の間に挟んだ接合。リングを流れる電流が大きくなって接合部に電圧がかかると、その電圧に比例した周波数の交流電圧が発生する。この現象は、電子対が絶縁膜をトンネル効果(波動する素粒子がある確率でポテンシャルの壁を抜けること)で通り抜けることによって生じる。これを「ジョセフソン効果」という)を施し、リングの中心にリング面に垂直方向の磁場を作る構造になっている。この磁場を調節することによって超伝導体のリングを流れる電流の大きさや方向(右回り/左回り)が調節できる。超電動状態のSQUIDでは、電子がほとんど粒子性を失って波動的に振る舞うようになる。ジョセフソン効果による交流電圧は電流の流れをオン・オフして電子の波動状態に振動を与える働きをするので、定在波が発生して安定して持続するようになる。SQUIDは、磁場の強さを変更することによって、|0〉と|1〉の波動状態を持つ「量子ビット」になり得る。また、磁場の強さを変更した時に、しばらくは変更前の定在波が持続するという特性を使って、2つの波動状態を重ね合わせる「量子論理ゲート」にもなり得る。なお、ジョセフソンは、1973年にエサキダイオードを発明した江崎玲於奈とともにノーベル物理学賞を受賞した。

 もう1つの量子コンピュータとして「アニーリングマシン」がある。これは、エネルギーが最小になるように動く自然現象をまねて、「組み合わせ最適化問題」を解くことに特化したマシンである。例えば、光が屈折率の異なる媒質を最短ルートで進むように、量子効果を使ってシミュレーションすることによって、輸送コストを最小化する輸送問題を解くのである。アニーリングマシンはアナログ式の量子コンピュータであり、既に製品化されて実用段階に入っている。日本では主にアニーリングマシンが開発されている。

 

人類が到達した究極の「超弦理論」

 理論物理学の究極の難問は、「宇宙はどのように始まったか」「宇宙の未来はどうなるか」ということであり、それを数式で解き明かすことである。車椅子の物理学者として知られたイギリスのスティーブン・ホーキングは、ブラックホールに着目し、アインシュタインの一般相対性理論で提示されるブラックホールに量子力学を組み込むと、どんなことが起こるかを理論的に探究した。その結果、量子力学の「トンネル効果」の作用でブラックホールからエネルギーが放出されることを突きとめた。このエネルギーの放出を「ホーキング放射」とか「ジェット」という。ブラックホールは、一般相対性理論では1度吸い込まれると光さえも出られなくなる隔絶された世界であるが、量子力学ではエネルギーを放出するのである。そして、ホーキングは、ブラックホールの底の状態が宇宙の最初の状態と同じであることを解き明かした。そこでブラックホールの底の状態を数式で表すことが理論物理学者の次の目標となった。

 その方法として、量子力学の「電磁気力」「弱い核力」「強い核力」の3つの力の数式と一般相対性理論の「重力」の数式を合わせた数式を作り、それからブラックホールの底の数式を導き出すことにした。「重力」の数式とは「空間の歪み=物の重さ」という式である。以上の4つの数式から、ブラックホールの空間の歪み(D)はブラックホールの底からの距離(r)の3乗に反比例することが導き出された。しかし、rがゼロになるとDは無限大になってしまう。この無限大は、素粒子を点と考え、ブラックホールの底では点と点が衝突している考えるところに問題があった。

 さらにホーキングは、「ジェットと呼ばれるエネルギーを放出するブラックホールの底では熱運動があるはずだが、素粒子が動けないブラックホールの底で、なぜ熱運動ができるのか」という問題を提起した。これらの問題を解決するために、「超弦理論」(Superstring theory)が注目されるようになった。

 「超弦理論}は、1960年代にイタリアの物理学者ガブリエール・ヴェルネツィアーノが「強い核力」の性質をベータ関数で表し、その式を見た南部陽一郎らの科学者が、その式の構造が弦の振動だと気づいたことに始まる。それからジョン・シュワルツらが研究を進めて、従来の標準理論で粒子と考えていた物質の基本的単位を「振動する1次元の弦」と考え、その弦に超対称性を付加して「超弦理論」を築いた。

 弦には「閉じた弦」と「開いた弦」の2種類が考えられるが、「開いた弦」は標準理論のゲージ粒子(力を媒介する光子、W粒子、Z粒子、グルーオン)に対応し、「閉じた弦」は標準理論の重力子(クォーク、レプトンなど質量を持つ粒子)に対応する。そして、弦の振動の形によって特定の量子が形成されると考える。

 この超弦理論は、一般相対性理論の重力と標準理論の素粒子に働く電磁気力・強い核力・弱い核力の3つの力を包含しているこいとが分かり、「万物の理論」となり得るとして注目されるようになった。しかも超弦理論は、長さを持つ弦が基本体であるので、ブラックホールの底でも空間の歪みが無限大になることはない。

 超弦理論には5つのバージョンがあり、その5つの超弦理論に整合性を持たせるためには10次元空間が必要になる。我々が認識できる次元数は、空間の3次元に時間の1次元を加えた4次元である。残りの6次元は量子レベルのコンパクト化した空間における次元である。例えば、綱渡りをする人にとって動けるのは1次元であるが、綱の表面を動き回れる虫にとっては、綱は2次元になる。このように、コンパクト化することによって次元数の増加が可能になる。超弦理論は、極微細な世界には6次元の空間(カラビアン多様体と呼ばれる)が存在すると言っているのだ。現在、理論物理学者の殆どがコンパクト空間における異次元の存在を信じている。

 ブラックホールの底で熱が発生するメカニズムを問うたホーキングの問題提起に対して、エドワード・ウィッテンが超弦理論を発展させて「M理論」を提唱した。M理論は超弦理論の5つのバージョンを統合する理論として生まれ、基本的物体を「2次元の膜」とした。極微細な6次元の空間の中を膜が動き回ることによって熱が生まれるというのである。それはブラックホールの底でも可能である。

 理論物理学は、科学者の英知によって超弦理論やM理論にまで発展し、目に見える物質と暗黒物質のブラックホールを解明する手段にまで到達した。しかし、それは宇宙の317%のエネルギーの解明であって、宇宙の683%を占める暗黒エネルギーいついての解明は今後の課題として残っている。そこは、まさに深遠なる神の領域であり、人類の英知では到達し得ない所かも知れない。(以上)

日本のデジタル化の問題点

 20223月 芦沢壮寿

 日本は、デジタル化が遅れているが、今後の世界はデジタル経済が主流となり、デジタル化を止めることはできない。そこで筆者は、最近読んだ国際ジャーナリストの著書『デジタル・ファシズム−日本の資産と主権が消える』をもとにして「日本のデジタル化の問題点」について考えてみることにする。「デジタル・ファシズム」とは、米中の大手テック企業が世界中の国々を侵略し、独占的なプラットフォーマーとして、各国政府・自治体の公共サービスや通貨、教育などの公共部門のデジタル化を制圧しようとしていることだ。この「デジタル・ファシズム」に呑み込まれないように「日本のデジタル化」を進めることが肝要となる。

 

1.米中巨大テック企業が日本のデジタル化を狙っている

・データセキュリティに甘い日本政府

 20204月、カナダのトロント大学の研究所が北米で複数のテストを実施したところ、オンライン会議ツールZoomでの暗号化キーが北京のサーバーを経由していたことを公表した。同研究所は、利用目的が秘密の必要が無い会議は別として、スパイの懸念や機密性の高い情報を扱う会議ではZoomの使用をやめた方がよいと警告した。中国の「国家情報法」では、「いかなる組織も人民も政府が要求する全てのデータを提出しなければならない」と規定しているから、Zoomを使うと、会議の内容やユーザー情報が中国当局に渡るリスクがあるのだ。これを受けて台湾行政院は、政府及び特定非政府機関に対しZoomを使用しないように勧告した。米国では、上院、NASAやグーグル、マイクロソフトなどの企業が会議でのZoomの利用を禁止した。しかし、日本政府は、「第三者に盗聴される可能性がある」と注意したものの、国会審議の質問の通知にZoom利用を解禁するなど、機密保持の甘さを露呈している。

 中国企業の動画共有アプリTikTokは、「ユーザー・コンテンツから、顔写真、声紋などの生体識別情報を収集した」ことから、各国の警戒対象になっている。台湾、インドではTikTokサービスを停止させ、米国のトランプ政権はTikTok利用禁止令を出した。これに対しTikTokは、ユーザーとの規約を改めて生体識別情報の収集を可能にし、訴えられないようにした。生体識別情報は「なりすまし」に使われる危険性があり、各国政府はTikTokに対する警戒をさらに強めている。しかし、バイデン政権がTikTok利用禁止令を撤回すると、日本でも菅前政権がTikTokを受け入れることにした。この裏には、親中派の二階前自民党幹事長の働きかけがあった。日本の政治家は「データセキュリティ」に対する認識が驚くほど低いのだ。

 

・日本政府の「スーパーシティ構想」について

 「スーパーシティ」とは、電気・ガス・水道・交通・エネルギーなどのインフラ、医療、教育、行政などの公共機能、企業・農業などのビジネス機能などを総合的にデジタル化した街のことだ。日本の少子高齢化社会に対処するための「地方創生」には、このスーパーシティが重要な役割をはたす。

 日本におけるスーパーシティのモデルケースは、東日本大震災から5ヶ月後の20118月に、世界最大の米系コンサルティング会社アクセンチュアの日本法人が会津若松市に地域創生のイノベーションセンターを設立し、復興支援の名の下に「会津地域スマートシティ推進協議会」(注:「スマートシティ」は「スーパーシティ」と同じ概念)を立ち上げたことに始まる。アクセンチュアは、20151月に会津若松市が「デジタル地方創生モデル都市」として認定されると、三菱UFJリサーチ&コンサルティングと手を組み、地域の住民・企業・観光客にサービスを提供するための「自治体デジタル・プラットフォーム」を全国の自治体に提案した。

 2018年に総務省が「自治体戦略2040構想」を発表した。これは、2040年までに想定される日本の総人口の減少に対処するために、公共サービスのデジタル化・AI(人工知能)化を民間企業に委託し、今の半分の公務員で回せるように自治体行政を改革するものだ。この構想では、民間企業が公共サービスをデジタル化・AI化するアプリを作成し、自治体の少数の公務員がそのアプリの管理者となって、公共サービスを維持していこうというのだ。

 さらにこの構想では、地域の中枢都市とその周りの自治体をまとめて「圏域」という自治体に一体化し、それに入れない小さな自治体は都道府県の傘下にまとめて、都道府県が運営することにしている。これは、地方の過疎化に対処するもので、地方自治の中枢となる地方議会を無視して、国が全国の都道府県や圏域の公共サービスのデジタル化・AI化を統一し、まとめて大手テック企業に委託するという構想だ。しかし、データが最大の産業資源となるデジタル社会において、地域住民の個人情報データを喉から手が出るほど欲しがっている大手テック企業に管理を任せて良いのか、過疎化対策とは言え、民主主義の根幹となる地方自治をろにして良いのかという疑念がわく。

 この公共サービスの民営化によって公務員を減らす動きは、かつての小泉内閣が推進した民営化路線と同じだ。郵便局が民営化され、公共事業のアウトソーシングが増え、国立大学が独立法人化し、非正規労働者が急増した。その結果、国家公務員は7割減となり、日本は公務員数が先進国で飛び抜けて少なくなった。しかし、公共部門を縮小し過ぎて台風被害などの災害時の復旧作業が担いきれなくなり、半数以下になった保健所が今回のコロナ禍では支障をきたした。また、非正規労働者の増加が格差を増大させ、社会不安の源になっている。こうした民営化を担当した竹中平蔵がスーパーシティの「有識者会議」座長を務めていることが気がかりだ。

 20194月、アクセンチュアは、マイクロソフト、フィリプスジャパン、金融のTIS、ドイツ系IT企業のSAPなどの企業を結集して、会津若松市に「スマートシティAiCT」を立ち上げた。この企業集団は、会津若松市でスーパーシティを標準化して日本中に広げることを目指している。

 スーパーシティ分野で世界のトップを走る中国は、最先端のデジタル技術を駆使して、無人銀行、無人ス−パー、無人ホテルなどを次々に実現し、2010年からスーパーシティ計画を武漢市、深?市、杭州市で始め、2017年から河北省の雄安新区など500を超える地域でスーパーシティの建設を進めている。これに目をつけた片山地方創生担当大臣(当時)が20198月に中国政府と「今後スーパーシティ構想に関する情報共有などの協力を強化していく」という覚え書きを交わした。

 こうした状況を受けて、20205月に「改正国家戦略特区法(スーパーシティ法)」が成立した。この法律は、「国家戦略特区」の「一次指定特区」として、東京圏(東京都、神奈川県、千葉市、成田市)、関西圏(大阪府、京都府、兵庫県)、沖縄県、福岡市、新潟市、市を指定し、「二次指定特区」として、愛知県、仙台市、仙北市、「三次指定特区」として広島県、今治市、北九州市を指定した。この特区内では、通常の法規制に縛られずに、ビジネス活動ができるようになる。例えば、東京や大阪の医療特区では、医師法で禁じられている「医師以外の病院経営」「営利を目的とした医療」「病院株式会社」「外国人医師による医療」などが可能になる。また、「営利を目的とした株式会社による学校経営」「外国人が経営し教える学校」も可能になる。しかし、国家戦略特区とは言え、公共性の強い「医療」や「教育」を利益の対象とすることは、「公共サービス」という概念を失う危険性があり問題だ。

 「公共性」が失われた自治体の悲惨な例がある。税金が低所得層や障害者、高齢者福祉に使われることを嫌った富裕層が独立して作った「サンディ・スプリング市」(米国)だ。その市は、行政サービスを全て民営化して「完全民間経営自治体」として法人化され、市長、市議、市の職員の全てが民間企業から派遣され、警察、消防などの全ての公共サービスが民間企業の「効率重視運営」の下で行われた。いわば「富裕層の富裕層による富裕層のための自治体」なのだ。しかし、自分が事故などで働けなくなると、社会福祉などの公共サービスが得られなくなり、市から出て行くしかない。一方、富裕層が居なくなった周辺地域は、財政難に陥り、警察署がなくなって犯罪が多発し、公共サービスが崩壊してしまった。

 もう一つの例として、「福祉」のデジタル化をした米国の例を示す。1974年にルイジアナ州が全米で初めて、福祉システムのデジタル化に踏み切った。失業者、障害者、シングルマザー、高齢者などの多くの困窮者が受けている福祉手当に関する詳細な個人情報をデータベース化したのだ。その目的は、「本来受給資格のない申請者をあぶり出す」ことに重点が置かれた。申請データに少しでも問題があるか、申請とは異なる行動をすると、問答無用で福祉手当の給付が止められた。デジタル化で上がった救済の壁と常に監視されているストレスから、申請自体をやめる人が増えた。その結果、困窮者の半分が受給していた福祉手当が、10年後には10人に1人にまで減ってしまい、実際に支援を必要とする人々に適切な福祉サービスが行き渡らなくなった。デジタル化は、困窮者の救済のためではなく、福祉費用を削減するために使われたのだ。このように、福祉・教育・医療など、政府や自治体による公共サービスのデジタル化では、費用の削減だけを狙うと、本来の公共サービスが台無しになる危険性がある。また、デジタル技術ではカバーしきれなくて、福祉相談員と困窮者が話し合うことが必要な領域もあるのだ。

 

・日本のデジタル庁の問題

 菅前首相が創設した「デジタル庁」は、オンラインの「教育」「医療」、全てが5Gで結ばれる「スーパーシティ建設」、スマホに直接振り込まれる「キャッシュレス給与」、デジタル技術による「少子高齢化対策」「地方の過疎化対策」「貧富の格差対策」など、今後の日本のデジタル社会の全てを包括している。しかし、デジタル庁は、権力が集中し過ぎていて、今世紀最大の巨大権力と利権の館になる恐れがあると言われる。

 20215月、63本の法案からなる「デジタル庁関連法案」が可決された。日本のデジタル庁には3つの特徴がある。第1の特徴は、前述したように権限がとてつもなく大きいことだ。第2の特徴は、巨額の予算(1兆円+年間予算 8千億円)がつくことだ。全国自治体のシステム統合、国税管理、財務省の予算編成、マイナンバーによる全国民情報の一元管理、AIによる監視システムの整備、デジタル教科書の作成、マイナンバーカードと健康保険証の紐づけ、スーパーシティなどのプロジェクトなどに巨額の予算がつく。第3の特徴は、民間企業のIT人材を企業とデジタル庁の間で、出向したり/企業に戻ったりできる「回転ドア」を設けることだ。デジタル庁では、職員600人のうち、200人の管理職・技術職を民間企業から迎え入れる。この方式は、公務員レベルの給与で高給のIT人材を使うことができる一方で、企業から出向した人が政策決定の場に入り、自社に都合の良い政策に誘導した後、再び会社に戻ってインサイダー情報を使って事業を展開し、国家の税金を使って利益を上げるようになる。これは、IT人材費用の削減と税金の無駄遣いの間の「合法的利益相反」の問題だ。米国では、軍事産業、製薬業界、食品、エネルギー、金融業界、教育ビジネスなどにおいて「回転ドア」方式を採用しているために、国と結びついた企業に巨額の税金が流れて巨大な利益を上げている。

 日本の政府機能のデジタル化の最初として、各省庁や地方自治体の間でバラバラになっているデジタル情報を一つにまとめる「政府共通プラットフォーム」を作ることになった。そのベンダーとして、米国のアマゾン・ウェブ・サービス(AWS)が選ばれた。アマゾンは、CIA(米国中央情報局)やNSA(米国安全保障局)との関係が深い企業だ。

 米国政府は、2018年に制定した「クラウド法」で、アマゾンなど米国内に本拠地を持つ企業に対して、国外に保存されているデータでも令状なしに開示要求ができるようになった。

 20201月に発効した「日米デジタル貿易協定」では、米系IT企業が日本でデジタル事業をする際に、情報を管理するデータ設備(データサーバー)を日本に置くように要求できなくなった。これは、デジタル事業を営む外国企業が日本人のデータを管理するデータサーバーを外国に置けるようになり、日本のデジタル主権を外国に明け渡すことを意味する。少なくとも日本国民の行政上のデータは、日本国内にデータサーバーを置くべきだ。

 同協定には、他にも「デジタル製品への関税禁止」「個人情報などのデータは国境を越えて移動させることが可能」「ソースコードやアルゴリズムなどの開示要求の禁止」「SNSのサービス提供者が損害賠償責任から免除される」などが盛り込まれている。この「日米デジタル貿易協定」は、米系大手IT企業のGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)のロビー活動のもとにトランプ政権が結んだもので、日本のデジタル市場が米国に全面的に開放され、日本人の個人情報資産が米国のGAFAに際限なく売り渡され、日本のデータが米国に設置されているデータ設備に蓄積され、CIANSAにさらされることを意味する。これでは、日本のデジタル主権と市場がGAFAに握られ、日本の心臓部が米国に握られているようなものだ。デジタル世界では日本は完全に米国の属国になってしまう。デジタル庁が国民の知らない所でこんなに恐ろしいことを進めていたとは、驚きであり大問題だ。

 EUは、20185月に個人情報の保護を基本的人権とみなす「一般データ保護規制(GDPR)」を施行した。これによって、今後、個人情報の転送や利用には、厳しい規制がかけられることになった。一方、ユーザー側は、企業が集めた自分の個人データにアクセスする権利と不正確な情報を修正したり削除したりする権利を手に入れた。違反した企業には前年度売り上げの4%が罰金として科され、自国企業にこのルールを適用していない国は、EU加盟国に欧州3カ国を加えた31カ国との自由な貿易ができなくなる。それまで無法地帯だったネット空間に、強い法的拘束力でプライバシー保護を導入するこの法律は、世界中の企業のみならず、これまで独裁者のように振る舞い、世界中から吸い上げた個人データで荒稼ぎしてきたGAFAにとって痛恨の一撃となった。

 これを機に、プライバシー保護の潮目が変わった。ワシントンDCとカリフォルニア州で同様の規制法が導入された。ドイツでは違法コンテンツを24時間以内に削除しない場合、プラットフォーム側に罰金を科す。データを収集した企業側でなく、データを提供した個人に所有権を与える「デジタル権利法」を制定する動きも出てきた。

 中国は、国内の14億人の巨大市場でGAFAに対抗してデジタル化を進め、大手IT企業としてBATH(バイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ)が育ち、GAFAを国内から排除することに成功した。そして、デジタル監視網で個人の行動を追跡し、その監視システムを強権主義国家に輸出している。また、「中国内で発生したデータを国外に持ち出すことを禁止」し、その豊富なデータを使ってAI技術を発展させ、AIの特許では米国を凌ぐほどになった。

 日中韓とASEANの間で締結された貿易協定RCEPでは、「サーバーは必ず自国内に設置しなければならない」という条項が中国の執拗な要求によって削除されてしまった。今後、中国企業が日本国内でデジタル事業に参加する際、サーバーが北京に置かれても文句が言えなくなった。

 

・世界のデジタル化の現状

 行政サービスを全てデジタル化したエストニアについて考えてみる。バルト三国の一つのエストニアは、人口130万人の小さな国だが、デジタル政府のトップランナーとして世界から注目されている。行政サービスは365日何時でもオンラインで即座に対応する。確定申告は、アプリ画面に現れる所得額と控除額を確認し、承認ボタンを押すだけだ。医療や教育もほとんどがオンラインで行っている。婚姻、離婚、不動産売買を除いて、何もかもデジタルで行われ、紙の書類がいらない。

 弱点はサイバー攻撃でサーバーがダウンすることだ。2007年にロシア国内からのサイバー攻撃で行政機能が何時間も麻痺する事件が発生した。これに懲りた政府は、データセキュリティを国の最優先課題に掲げ、NATOと共同でサイバーセキュリティ本部を立ち上げた。現在、エストニアは全てのデジタル情報を保管する多数のデータ大使館を外国に置いている。

 エストニアでは、全国民にデジタルIDをつけ、個人情報を一カ所に集めている。これらのデータの権利は本人に帰属し、いつでも自分のデータを削減する権利も持っている。個人情報を政府や企業が使う時には、必ずログインし、それが職務上必要だと承認された場合にのみアクセスが許可される。ログインするたびに残る履歴は「国の公共サービスの記録」として公的なブロックチェーンに記録される。国民は、自分の情報に何時、誰がどんな目的でアクセスしたかを、ブロックチェーンの記録によって自由に確認できる。こうすることによって透明性が維持され、国民はデジタル政府を信頼するようになった。このデジタル政府では、国が個人情報を要求するのは一度だけで、公的データは中央政府、地方自治体と企業などの間でオンラインで共有される。

 今回のコロナ禍で台湾は、ハッカーが政府に協力し、各薬局のマスク在庫状況をまとめてデジタル地図に公開したことで有名になった。台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンは、「社会のデジタル化をうまく進めれば、民主主義を深めることができる」と主張する。但し、「権力を集中させないこと」という条件をつけている。台湾では、政府が提出した法案を討論するプラットフォーム「vTaiwan」と、市民が行政に対して日常の問題解決のための提案をする「Join」を設置している。台湾国民であれば誰でも自由に意見を書き込むことができ、国民からの提案の賛同者が2ヶ月で5千人を超えると、政府はそれを正式な申請として受け付けなければならないというルールを作った。これは、国民の声を政治に生かす直接民主主義に通じるデジタル化だ。

 世界のあらゆるものをデジタル化する「第4次産業革命」によって、今の資本主義社会をリセットする「グレート・リセット」を呼びかけているエリート集団がある。その集団の主導者は世界経済フォーラム(ダボス会議)の創設者で会長を務めるクラウス・シュワブだ。それを、国連や世界最大のコンサルティング企業アクセンチュア、マイクロソフトのビルゲイツらが応援している。彼等は、デジタルIDをつけたマイクロICチップを全ての人の皮下に埋め込む国際認証プロジェクト「ID2020」を推進している。

 世界最小のマイクロICチップは、2007年に日立製作所が開発した0.05ミリ四方の非接触型ICチップだ。この細かいマイクロICチップは注射器で簡単に体内に埋め込むことができ、特殊な電磁波を当てると中の情報を読み取ることができる。マイクロICチップに記録されたデジタルIDは医療・交通や買い物などで自動的個人認証として使われるようになり、健康保険証・免許証・身分証明書・クレジットカードなどを持ち歩く必要がなくなる。全ての個人情報をデジタルIDで紐づけて管理し、高速の5Gネットワークで全てのものがつながることによって、全ての社会システムが根底から変わることになる。

 国連では、増加し続ける難民や途上国での貧困層を救済する目的で、難民や貧困層にデジタルIDをつけ、一括して管理する「ID2020計画」を進めている。

 EUの裁判所は、フランスの女性がグーグルに「過去のヌード写真を削除して」という訴えに対し、「ネット上の個人情報は、本人に消去する権利がある」と裁定した。これは「忘れられる権利」として有名になったが、「個々の国の規制に従うべきだ」というグーグル側の主張が認められ、適用はEU域内に限定された。大手テック企業から国民の人権を守るのは、各国政府の責任なのだ。

 

 以上の考察を元に、日本政府や自治体の公共サービスのデジタル化についての筆者の見解をまとめてみる。日本人は、デジタル化が苦手で、社会がデジタル化することを嫌っているように見える。その原因は、デジタル化と日本人の「和の文化」との相性が悪いことにありそうだ。しかし、今後の日本の少子高齢化による労働人口の減少と高齢者介護の増加に対処するには、デジタル化が絶対に必要であり、うまくやれば有力な方法となる。

 ところが、日本政府やデジタル庁は、あまりにもデジタル化やデジタル情報のセキュリティについての認識に欠けることが心配だ。それに、国民にデジタル化についてはっきり説明していないことも問題だ。

 日本政府はマイナンバーの目的を国民にはっきり説明せず、国民もマイナンバー制度を警戒しているために、マイナンバーが普及していない。しかし、今後のデジタル社会では個人のデジタルIDとなるマイナンバーは必要不可欠なのだ。デジタル社会で肝腎なことは、公共データを「何の目的で使うか」、公共データの中の「個人情報のプライバシーを如何に守るか」の2点だ。第1の「何の目的で使うか」は、金儲けのために使うことを禁止し、「公共の福祉」と「コミュニティの住民の相互扶助」のために使うことを明確にして、国民が了解することだ。第2の「個人情報のプライバシーを如何に守るか」については、日本でもEUの「一般データ保護規制」に準拠した法律を制定すべきだ。また、個人情報を使った履歴を個人に分かるようにするには、エストニアの「職務上必要な個人情報を使う時には、ログインして承認された場合にのみアクセスが許可され、使用履歴はブロックチェーンに記録され、国民が自分のブロックチェーンの記録で確認できる」という方法が有効だろう。

 政府や自治体の公共サービスのデジタル化に当たって肝腎なことは、日本人の「和の文化」に合うように、「公共」の相互扶助の精神を生かすようにデジタル化することだ。そのための注意点・問題点を列挙する。 @地域のコミュニティにおける相互扶助の精神を育むことを目指して、公共サービスのデジタル化・AI化(「デジタルAIシステム」と呼ぶ)を進めること。デジタルAIシステムは省力化だけを目的にしてはいけない。 A地方自治体の公共サービスのデジタルAIシステムの共通部分を全国で統一するにしても、地方自治を尊重して、地方ごとに特色のある行政ができるようにする必要がある。 Bコンピューター・リテラシーの低い人でもデジタルAIシステムを使えるようにする対策が重要になる。 C自治体職員は、デジタルAIシステムの管理者であり、システムと市民の間の仲介者であり、市民に寄り添って要望を聞いてシステムを改善する役割を担う。自治体職員を減らすことを目指してはいけない。 CデジタルAIシステムではブラックボックスのAIが個人に対するサービスを裁定することになるが、裁定内容を個人に分かりやすくする対策が重要になる。 D全国の自治体のデジタルAIシステムをサイバー攻撃から完全に守ることは不可能であり、全国民のデータのプライバシー保護とセキュリティを完全に守ることは不可能に近いが、そうした場合に備えて、データのバックアップとすみやかにシステムを復旧させる対策を完全にすることが重要だ。

 

2.キャッシュレス決済とデジタル通貨の問題

・キャッシュレス決済に伴うプライバシーと信用スコアの問題

 世界で最も金融デジタル化が進んでいるスウェーデンでは、2018年の国内決済の99.9%がキャッシュレスとなり、人口1000万人のうち約4000人が手の甲に埋め込んだマイクロICチップで決済している。しかし、スウェーデンでも、今、世論調査で7割近くの国民が「現金」という選択肢を残したいと言っている。その理由は、サイバー攻撃などでデジタル・システムがダウンした時に自分を守るががなくなるからだ。

 キャッシュレス化が遅れている日本は、2017年のキャッシュレス決済比率が21.4%だ。ちなみに、韓国が97.7%、中国が70.2%、米国が45.5%でドイツは16.6%で日本より低い。ドイツが低い理由は、ナチス政権の全体主義の監視体制の下でプライバシーを失った苦い経験があるからだ。現金決済は匿名で決済できるが、クレジットカード決済やスマホ決済などのキャッシュレス決済では決済情報に個人名が含まれるから、プライバシーの問題が生じるのだ。韓国は、外資金融機関の圧力を受けてキャッシュレス貸し出しの上限規制を撤廃したことから、一般家庭の手取り収入に占める負債比率が185.8%になった(日本は105.6%)。中国では、偽札が多くて貨幣への信頼度が低いことから、生活上の殆どの買い物で、中国IT大手のアリババのアリペイかテンセントのWeChatPayのどちらかのスマホ決済を使っている。

 アリババとテンセントは、日常的にスマホから集めた個人情報にスマホ決済情報と銀行へのローン返済履歴を合体し、学歴、勤務先、資産、人脈、行動の5項目についてAIで点数化して「信用スコア」を計算している。信用スコアが低くなって自治体が管理するブラックリストに載ると、あらゆる面で経済活動ができなくなり、高スコアになると多くのメリットが与えられる。中国政府は信用スコア制度を全国展開し、信用スコアを使って監視社会を築いた。

 米国でも「信用スコア」を使った審査が合法ビジネスとして認められている。GAFAなどの巨大プラットフォーマーが吸い上げた個人情報を商品化した「SaaSSurveillance as a Service)」が信用スコアとして使われている。

 日本のキャッシュレス化が進まなかった原因は、独占的なNTTデータの決済手数料と全銀システムの送金手数料が高すぎることにある。米国系のカード会社(VISAやマスター)のクレジットカードを使うと、クレジットカード決済手数料の3%が米国のカード会社に流れる。小売店はキャッシュレス決済の手数料で売上高が減るのを嫌っているのだ。そこに風穴を開けたのが、ソフトバンクとヤフーが設立したPayPayと提携したSBIホールディングスの北尾吉孝社長(中国投資協会戦略投資高級顧問)と竹中平蔵社外取締役だ。20206月に成立した「改正資金決済法」によって40年近く続いたNTTデータの高い決済手数料が下がり、同年7月に閣議決定した「成長戦略実行計画案」によって、PayPayのようなノンバンク決済業者が全国銀行協会に加入し、全銀システムで送金ができるようになった。

 日本政府は決済の80%をキャッシュレスにしようとしている。その手段として、20207月に「成長戦略フォローアップ」を閣議決定し、労働基準法の賃金支払いの規制を緩和して、PayPay・楽天ペイ・LINEペイなどの資金移動業者の本人口座に「デジタル給与」として入金できるようにした。会社側のメリットとして、給与の振り込み手数料が節約できる。しかし、預金者の給与口座を持っていた地方銀行にとっては痛手となる。

 

・米中の熾烈なデジタル通貨戦争

 2019年にフェイスブックが「銀行口座を持っていない世界中の人々が安くて速く手軽に送金できるようにする」と言って、仮想通貨「リブラ」の構想を発表した。これに、各国の中央銀行と金融界が通貨発行権と金融利益をリブラに奪われるとして反対し、リブラ構想は潰されてしまった。それから各国が「中央銀行のデジタル通貨(CBDC)」の発行を真剣に検討し始めた。

 現在、大半の国が貿易決済で使っている米ドルは、基軸通貨として強力な政治力を持ち、米国は圧倒的に有利な立場にある。ドルを経由する国際取引には、常に米国のFRBや当局の監視の目が光り、米国の意にそぐわない国に対して、経済制裁の名の下に容赦なくドル決済を止めて、貿易を停止できるからだ。

 2014年からデジタル人民元の構想を進めてきた中国は、CBDCでは世界の先頭を走っている。中国は、国際貿易や為替取引に使われるドル決済の「国際銀行間通貨協会(SWIFT)」の代わりに、「人民元クロスボーダー決済システム(CIPS)」をつくった。現在、全ての国際送金はSWIFTを通して一度ドルで決済する仕組みになっているので、資金の流れや取引情報がFRBSWIFTに筒抜けになっている。そこで中国は、新たな決済システムとして人民元決済のCIPSをつくり、米国の経済制裁に苦しんできた国々をCIPSに呼び込み、人民元を基軸通貨とする経済圏を確立しようとしている。現在、中国の経済的影響の強いアフリカ諸国やマレーシア、トルコなどのイスラム諸国、それにロシアなど89カ国・地域の約1000の銀行がCIPSに参加している。今年から始まるRCEP(日中韓とASEANの経済連携協定)を通してCIPSの利用銀行が増加していき、人民元の基軸通貨化が進む可能性が高い。中国は、国際金融のプラットフォーマーとなり、CIPSで集めたデジタルデータが中国の新たな資産となる。三菱UFJ銀行、みずほ銀行の中国法人を始めCIPSに参加する銀行数が最も多い日本で人民元決済が増加することは確実だ。これは、日本にとっても重大問題となる。RCEP協定では、中国のIT企業が日本でIT事業を行う場合にサーバーを日本に置くことを要求できない。従って、中国のIT企業を使えば日本人の個人情報が中国に流出することになる。

 EUの中央銀行が「デジタル・ユーロ」で重要となる要望のパブリックコメントを募集したところ、「デジタルプライバシーの保護」が最高の41%を占め、次の「安全性」の17%より突出して高かった。民主主義国の日米欧のデジタル通貨に対する国民の要望は、「デジタルプライバシーが確実に保護される」ことなのだ。今後、デジタルプライバシーをめぐって、民主主義国と中国などの強権主義国の対立が激化するだろう。

 20141月の世界経済フォーラム(ダボス会議)でIMF(国際通貨基金)のラガルド専務理事が、基軸通貨発行国の米国の財政赤字が膨張し続け、最終的に財政破綻が避けられないと指摘し、経済成長を維持するには「国際通貨のリセット」が避けられないと述べた。さらに、2019年の世界中央銀行国際会議の場でイングランド銀行総裁マーク・カーニーが「現在の米ドル単一通貨に依存する国際通貨システムを改め、複数国の通貨で構成される新しい国際通貨が必要だ」と発言した。これを受けて、20201月のダボス会議では、日本・カナダ・スイス・英国・EU・スウェーデンの6カ国の中央銀行と国際決済銀行が共同で「国際デジタル通貨」の研究を行う新組織の設立と、各国の中央銀行がデジタル通貨に移行するための政策立案骨子を発表した。これは、ダボス会議のシュワブ会長が主導する「グレート・リセット」に沿うものだ。今後、国際金融の新たな基軸通貨として、複数国のデジタル通貨で構成される「グローバル統一デジタル通貨」を目指して行くことになりそうだ。

 

 以上の考察を元に、キャッシュレス化とデジタル通貨について、筆者の見解をまとめてみる。日本の紙幣は偽札がなくて信頼でき、頻繁に自然災害が発生する日本では災害時でも使える紙幣をなくすわけにはいかない。しかし、生活や経済の利便性を考えると、キャッシュレス決済をもっと増やす必要があろう。その時に、キャッシュレス決済データが、富裕層を優遇し貧困層を不利にする「信用スコア」に使われることが問題だ。「公共の相互扶助の精神を生かすようにデジタル化する」という方針からすれば、キャッシュレス決済データは「貧困層の救済」のために使うべきで、データの使い方次第でデジタル社会は良くも悪くもなる。キャッシュレス決済でもクレジット・カードは手数料が米国カード会社に流れるので止めた方が良い。スマホを持たない高齢者のキャッシュレス決済には、皮下に埋め込んだマイクロICチップを使い、それを一人暮らしや認知症の老人に対する見守りにも使うのが良かろう。

 日本政府が「日米デジタル貿易協定」と「RCEP協定」で、米中のIT企業が日本国内でIT事業を行う場合に、サーバーを日本国内に置かなくても良いことを受け入れたことは大失敗であった。しかし、受け入れてしまった以上、米中のIT企業が収集した日本人データのプライバシーは保護されないと考えなければならない。もし、データのプライバシー保護を完全にしたいなら、米中のIT企業に任せないことだ。その点で、次章で述べる「日本の教育ビジネス」は生徒のプライバシー保護が大事になるが、日本政府は米国IT企業のグーグルに任せようとしている。

 

3.教育のデジタル化の問題

・日本の教育システムがグーグルの手に握られる

 201912月、日本政府は、生徒一人一台のタブレット支給、クラウドの活用、高速大容量インターネット通信環境を全国の国公私立の小中学校に整備することを掲げた「GIGAスクール構想」を発表し、4600億円の予算を計上した。

 この4600億円の教育ビジネスに楽天とソフトバンクが5G接続やプログラミング教育、デジタル教科書を手がけ、パソナグループ(会長は竹中平蔵)がオンライン教育の教員や外国人教師の派遣ビジネスを手がけるという。肝腎な教育システムのプラットフォーマーはグーグルになりそうだ。デジタル庁や地方自治体は、5G接続やプログラミング教育、デジタル教科書などの教育ビジネスを日本企業が押さえれば十分だと考えていて、今後のデジタル経済で大きな資源となる個人データをプラットフォーマーのグーグルが握ることの意味を認識していないようだ。デジタル教育システムのプラットフォームを提供するグーグルは、生徒がインターネット検索などでタブレットを使うたびに、生徒が何に関心があり、何が好きかといった情報を蓄積し、他の色々な情報と合わせて正確で詳細な個人のプロフィールを分析し、加工し、商品化して莫大な利益を生む資源を手に入れるのだ。

 グーグルは、蓄積した生徒の個人データの扱い方について、「文科省のガイドラインに準拠する」と言っている。文科省のガイドラインには「各自治体の個人情報保護条例に従う」とある。しかし、自治体の個人情報保護条例が20215月に成立した「デジタル改革関連法」で大幅に改正され、個人情報保護ルールが緩くなり、今後は全ての自治体が国のルールに合わせるようになった。従来の個人情報保護条例では、自治体は、住民の居住情報、健康保険、年金や所得などの収集には原則として本人の同意を必要とし、犯罪歴、病歴、社会的身分などの「センシティブ情報」は原則として収集が禁止されていた。今後の国のルールでは、「センシティブ情報」の収集禁止がなくなる。デジタル社会では、センシティブな患者個人の「病歴」であっても、様々な医療機関が必要な時にオンラインで患者の病歴を知る必要があるからだ。さらに、新しい国のルールでは、利用目的が明確ならば、今まで個人からの直接収集が原則だった個人情報を間接的に手に入れることも可能になる。そのための政府の方針は、個人情報をマイナンバーで紐づけてデータベース化することだ。生徒の学校での成績もマイナンバーで紐づけられることになる。

 GIGAスクール構想では、学校の授業がオンラインで行われ、生徒がタブレットを見て勉強する。タブレットの中に組み込まれた学習アプリが、子供が立ち止まって考える間もなく、直ぐに間違いを正してくれ、その子の理解に合わせて次のステップに誘導してくれる。だから先生は教室にいる必要がなく、教師は全国で1教科に一人ですむという。その教師に求められることは、タブレットやデジタル教科書の使い方を教えることで、高いデジタル・リテラシーだけが求められる。従来の教師に求められた「授業を面白くする工夫」などはいらないというのだ。

 一方、言語脳科学者の酒井東大教授は、デジタル社会では「自分で考える前にネット検索で調べてしまう」ことに警鐘を鳴らす。人間の本質である「考える」ことがなくなるからだ。また、紙の教科書で付箋をつけたりして学ぶ学習プロセスこそが脳活動を活発化させる最高の学習方法だと指摘する。

 経済協力開発機構(OECD)が、今回のパンデミックを機に、教育のデジタル化を提唱している。それに乗って竹中平蔵がオンライン教育を推奨し、教員の数が少なくてすみ、過疎地でも廃校しなくてすむと言っている。竹中平蔵は、日本の格差問題の中核である非正規労働者を生んだ元凶だが、今、「効率本位のデジタル化」を進めようとしていることが気がかりだ。

 

・米国の教育ビジネスの問題

 1980年代のレーガン大統領が推進した新自由主義の米国で、「学力低下の責任は、公立学校と教員の怠慢や教職員組合にある」という批判が高まり、教育政策が「公教育の民営化」と「新自由主義的教育改革」へと転換した。政府は民間企業が運営する「チャータースクール」にも補助金をつけ、保護者が学校を自由に選べる「バウチャー制度」を導入した。すると、チャータ−スクールに寄付する資産家や企業家が爆発的に増えた。その最大の寄付者がマイクロソフト創業者ビル・ゲイツによるビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。彼等が学校に寄付するのは、公教育に寄付することによって、彼等の会社の「企業イメージが良くなる」、寄付した分が「税金控除の対象になる」、「公金が投入されるあらゆる分野の事業に有利に働く」というメリットが得られるからだ。彼等は、寄付した学校の成績が上がるように、学校運営にも口を出すようになった。こうした教育への寄付は、「ベンチャー型チャリティ」と呼ばれる新たな投資となり、全米でチャータースクールの数が一気に増えた。しかし、チャータースクールは、障害のある子供や成績の悪い子供の入学を拒否するばかりか、生徒の退学率も高くなっている。米国の教育は利益至上主義になってしまい、教育内容の質の低下など、様々な問題が生じている。

 2000年にフロリダ州で全米初の完全オンライン「バーチャル公立高校」のチャータースクールが開校した。それは、画面の中の仮想空間にある学校だ。デジタル化してバーチャルスクールにすることで、校舎がいらなくなり、学校運営にかかる物理的経費を全て削減でき、設備の経年劣化も起きない。また、生徒数はいくらでも増やせるから、利益は無限大に拡大できる。デジタル技術で教室をサイバー空間に移動させることによって、公共の教育が企業の果てしない利益追及の手段になってしまった。

 201912月の大統領選挙でバイデンが「チャータースクールのような営利学校への補助金を廃止する」という公約を掲げた。バイデンは、チャータースクールの利益至上主義の弊害を経験した教員・保護者や市民の多くに支持されて当選した。それから全米各州がチャータースクールへの補助金を凍結するようになり、完全に潮目が変わった。ニューヨーク市は、チャータースクールから賃料を徴収し、その分を公立学校の予算を増やす方針を発表した。企業側は反発して徹底抗戦する構えだが、人々の中に生まれた「子供たちのために公教育の価値を見直そう」という空気は全米に広がっていった。

 中国は、パンデミックを「教育格差縮小のチャンス」ととらえ、国内のデジタル教育市場を一気に進化させることに成功した。党の指名を受けたバイトダンス(動画共有アプリ「TikTok」のメーカー)は、全国民を対象にした無料の教育コンテンツとライブ授業(有名校の教授や講師に授業)の配信を行い、その利用者は4億人を超えた。

 世界銀行とマイクロソフト、フェイスブックがケニア、ウガンダなどのアフリカ途上国に対し、EdTeckEducationThechnology)というデジタル教育投資を行っている。この投資は、月に6ドルで1人の子供が学校でオンライン学習できるようにして、「教育格差解消」を目的としている。しかし、給食費も合わせると月に20ドルになり、アフリカの一般家庭の平均月収の8割に当たる。さらに、それを運営する公設民営学校が巨大な収益を上げていることに、市民団体から批判が寄せられ、問題になっている。

 

 以上の考察を元に、教育のデジタル化について、筆者の見解をまとめてみる。デジタル教育を考えるには、「教育の本質」に立ち返って考える必要がある。教育とは「社会の人と人、仲間と触れ合う文化を学び、考えることによって頭脳を訓練する」ことだと筆者は考えている。つまり、教育の目的は、「社会に適合して幸福になれるように教育し、人間として本質的な「考える」ことを訓練する」ことだ。

 人間は「肉体」と「頭脳」から成り、頭脳は「知識・知能」と「意識・意志」の2つの機能から成ると考えられる。「意識・意志」はいわゆる「心」だ。デジタル教育で問題となるのは、「心」の分野の教育だろう。その理由は、デジタル技術・AIには人間の「意識・意志」の機能がないからだ。AIは、医学的知識や行政・司法の法律知識などの「知識・知能」の分野では人間を超えているから、知識・知能の分野のデジタル教育はよかろう。医療や行政・司法の分野では、公平な立場で深く広い知識に基づいて判断するAIの方が人間より優れているからだ。但し、AIは人との親和性に劣るから、人と接する領域では人間が行わなければならない。

 一方、「生き方」「人生観」などの「意識・意志(心)」の分野の教育は生身の人間にしかできない。人と人との接触が少なくなるデジタル社会だからこそ、人間の先生が子供たちに自助・共助・公助の精神を教えなければならない。特に小中学生は、色々な個性をもった先生と接して、色々な生き方・人生観を学ぶことが重要だ。つまり、「心」の教育は人間の先生が行い、「知識の習得」はデジタル教育で行えば良い。

 人類の「道具」の発達の歴史から見ると、現在進行中のデジタル技術・AIは、最終段階の道具だ。今までに人類が発明した道具は、自動車・電車・飛行機などの交通機関や洗濯機・掃除機などの電化製品は「肉体」を楽にしてくれる道具だった。ラジオ・テレビなどは「知能」に役だつ道具だった。しかし、AIを搭載したスマホなどのデジタル機器では、道具が人間の「意識・意志」の領域に入ってきて人間と対話し、人間が道具のになっている。

 もし、AIが人間と同じように「意志」を持つようになれば、自分の意志で勝手に動くようになり、もはや道具ではなくなる。そのAIは、知識・知能と意識・意志の両方で完全に人間を超えるようになり、人間はAIに支配されるようになる。これは、仮定の話だが、最先端をいくAI科学者は可能性がある話だと言う。人類は、楽をするために道具を作ってきたが、愚かにも道具に支配されるリスクに直面するようになった。今後のデジタル社会では、道具であるデジタル技術やAIに使われないこと、デジタル技術やAIを個人や社会に有益になるように使いこなすことが肝要となる。

 

 

あとがき

 社会のデジタル化には、デジタル化した方が良い面と人間がしなければならない面があることが分かった。また、日本のデジタル庁やその推進者たちは、その辺の所を国民に説明せずに、密かに法律を作り、米中の大手IT企業に押されて協定を結び、国民にとって望ましくない方向に進もうとしていることも分かった。「米国の教育ビジネスの問題」の所で述べたが、企業の利益追及のために、デジタル技術やAIを誤って使うと、デジタル社会は悲惨な状態に陥る。それを抑止するには、国民に「AIに支配されるデジタル社会のさ」と「AIを正しく使った時のメリット」の両方を理解させ、それについて個人個人が十分に考え、社会が間違った方向に進んでいる場合には、皆が協力してストップをかけなければならない。

 その場合に、「和の文化」の日本人は、相手のことを気遣い過ぎて、論理的な思考や説明ができないと言われる。「自分で考え、考えたことを相手に納得させる」ことよりも、「相手の考えを聞き、相手に合わる」ことを優先するからだ。日本人が付和雷同して太平洋戦争に突き進んだのも、「論理的な思考と説明」ができなかったからだ。しかし、今後のデジタル社会では、「自分で論理的に考え、皆に論理的に説明する」ことが重要になる。日本の将来を背負う子供たちを「論理的な思考と説明」ができる人間に教育することは、国の最重要課題と考えなければならない。「考える」ことに向かないデジタル教育ではなく、「論理的な思考と説明」ができる教育方法を考案する必要がある。

 今、大国ロシアの復活を目指すプーチンがウクライナに軍事侵攻し、世界から批判を浴びて孤立している。プーチンを孤立させたのは、民主主義諸国の民衆の抗議する声の力であり、それに勇気づけられた民主主義国の指導者たちだった。米国の力が衰えてG0となる世界で、「力による現状変更」を禁ずる国連憲章に違反するプーチンや習近平を抑えられるのは、専制主義・強権主義を嫌い自由と平和を望む世界の人々の声しかない。日本のデジタル化でも、利権に走る大手テック企業の横暴を抑えて、自分たちの望む方向に向かわせるのは、国民の抗議する声をおいて他にない。そのためにも、子供たちを「論理的な思考と説明」ができる人間に教育することが重要になる。

 最後に、できるだけ多くの方々に、この「日本のデジタル化の問題点」を知ってもらうことを願いながら筆を置くことにする。最後までお読みいただいたことに感謝します。                       (以上)

 『老人支配国家 日本の危機』 を読んで

                        2022年正月 芦沢壮寿

 『老人支配国家 日本の危機』の著者エマニュエル・トッドは、フランスの歴史人口学者・家族人類学者で、「ソ連崩壊」、「米国発の金融危機」、「アラブの春」、「トランプの勝利」、「英国のEU離脱」を予言したことで知られています。トッドは、このような歴史の大きな転換を予測するには、毎日の経済・政治の現象を分析しても分からないが、歴史人口学や家族人類学の分析によって可能になると述べています。そのトッドが昨年11月に発刊された著書 『老人支配国家 日本の危機』で、米中対立の中での日本のあるべき姿を論じ、日本の最大の問題は直系家族に由来する少子化と人口減少にあると指摘しています。

 ここでは、トッドの家族人類学を掘り下げて考察し、家族人類学や歴史人口学に基づいてトッドが推測している今後の米中対立などの世界情勢について、また、日本型家族の問題点について考察してみることにします。

 

1.異なる家族形態の分布と各家族形態の特徴

 トッドによると、家族形態は親子関係、兄弟姉妹関係によって「核家族」、「直系家族」、「共同体家族」に分けられ、歴史的にこの順に古いという。そして、最も新しい共同体家族がユーラシア大陸の中央部に分布し、その周りを直系家族が分布し、核家族はさらに外側に分布している。こうした分布の構造から、ユーラシアの中央部で家族形態が時代とともに変化していき、その変化が外側に伝搬していって現在のような家族形態の分布になったというのである。トッドは、こうした家族形態の分布の形成について、著書 『家族システムの起源』の中で検証している。

 こうした家族形態の分布は、丁度、日本の民俗学者 柳田国男が『考』で実証した言葉の変化の分布と同じである。柳田は、日本の中心にある京都あたりの「デンデンムシ」という呼び方が、京都から遠ざかるにつれて、東は愛知・岐阜あたり、西は岡山あたりで「カタツムリ」に変わり(岡山県では東部がデンデンムシ、中部がカタツムリ、西部がマイマイと言う)、次いで「マイマイ」、「マイマイツブロ」、「カサツムリ」、「タマラク」と変化していき、岩手では「ナメト」と言い、沖縄では「ツンナメ」と言うことを発見した。これは、京都で生まれた新しい言葉が地方に伝搬していった軌跡を表していて、遠方から逆にたどれば言葉の変化の軌跡が分かるのである。

 核家族には「絶対的核家族」と「平等主義核家族」がある。絶対核家族は、英米を中心に分布し、子供が早くから親元を離れ、結婚すると独立した世帯を持つ。絶対核家族では、親子関係は自由だが、遺産相続は親の意思による遺言で決定されることが多いので、兄弟間は不平等である。平等主義核家族は、フランスの北部やパリ周辺、スペイン、イタリア北西部などに分布し、結婚すると独立するのは絶対核家族と同じだが、相続は子供たちの間で男女の差別がなく平等に分け合うことが多い。

 直系家族は、日本、韓国、ドイツ、フランス南西部、スウェーデン、ノルウェーなどに分布し、通常は男性長子(時には末子)が跡取りになり、跡取りだけが結婚した後も親の家に住んで、全ての財産を相続する。直系家族は、親の権威、長男の権威を重視する権威主義的であり、男性が女性より優位、長男が他の兄弟姉妹より優位にある不平等な家族体形である。

 共同体家族は、ユーラシア大陸の中央部の広大なエリアに分布していて、男の子供全員が結婚後も親の家に住み続ける家族形態である。婚姻関係が外婚制(イトコ結婚を許容しない)か内婚制(イトコ結婚を許容する)かによって、「外婚制共同体家族」と「内婚制共同体家族」に分けられる。外婚制共同体家族は、中国、ロシア、北インド、フィンランド、ブルガリア、イタリア中部のトスカーナ地方などに分布している。内婚制共同体家族は、アラブ地域、トルコ、イランなどに分布している。

 現在の世界を見ると、近代国家となっている殆どの国で核家族化が進んでいることから、核家族が最も新しい家族体形のように見える。しかし、トッドが実証したように、古代社会では地球上の全ての家族が核家族であった。そこで、それぞれの家族形態が生まれた経緯について、筆者の歴史認識をもとにして考察してみることにする。

 最初の核家族の形態は、1万年ほど前に人類が定住して農耕を始めるようになった時に生まれたと推察される。その前の狩猟採集時代には、人類は集団で移動していたので、はっきりした家族形態がなかったが、定住するようになって家族の基本となる夫婦単位で家族が形成されたのであろう。

 最初の核家族社会から直系家族社会が生まれたユーラシアの中央部とは、最も新しい共同体家族が分布している中国、ロシア、中央アジアや中東のアラブ地域、北インドあたりである。直系家族の形態が中国に出現した時期は、春秋時代(紀元前65世紀)だと推察される。春秋時代に戦乱の社会を安定させる思想として権威主義的な家父長制を唱えた儒教が生まれた。そして、儒教によって直系家族形態が形成され、戦国時代、秦、漢、三国志の時代に至る戦乱の時代を通して中国全土に普及したと考えられる。直系家族は、跡取り以外の兄弟が戦争に出られたので、軍国主義社会にうまく適合したのであろう。

 直系家族は儒教思想を通して中国から日本に伝わった。実際に日本が直系家族に変わったのは、鎌倉時代以降の戦国時代であった。この時期に、日本の政治体制が天皇を中心とする貴族体制から武士を中心とする武家体制に変わり、文化的にも貴族文化から武家文化に変わった。言葉でも古代語から近代語に変わった。例えば、近代ではハ行をha hi hu he hoと言うが、古代にはpa pi pu pe poと言い、平安初期にはfa fi fu fe foと言っていた。日本では、戦国時代を境にして、家族形態が「核家族」から「直系家族」に変わり、それに伴って政治・文化・言語も「古代」から「近代」に変わったのである。

 ユーラシア中央部で共同体家族が生まれたのは、ユーラシア中央部の草原地帯に分布していたモンゴル系・トルコ系などの遊牧民の部族が氏族単位で集団を作り、中国やヨーロッパに侵入するようになった頃であろう。中国では、鮮卑族が中国に侵入して築いた唐王朝(79世紀)から、モンゴル族が侵入して築いた元王朝(1314世紀)までの時代に、直系家族から共同体家族に変わったと考えられる。

 ユーラシア中央部で生まれた新しい家族形態が、時代の経過とともに周辺部に伝搬していったが、西ヨーロッパまでは伝搬しなかった。そのために西ヨーロッパは核家族のままであった。そして、西ヨーロッパのはずれにある英国で、17世紀に議会制民主主義が生まれ、18世紀に産業革命によって産業の近代化が起こり、国民国家が生まれた。その近代化の波が英国から世界中に広まり、近代化した国々で、今、核家族化が進んでいるのである。

 日本では、明治以降の近代化によって殆どの家族が核家族化したが、昔の直系家族社会における親の権威主義や、女性を低く見る不平等意識が未だに残っていて、女性の社会進出を妨げたり、少子化問題を引き起こしている。そのことについては、4.で述べることにする。

 さて、以上の家族形態の変化の歴史を見ると、ユーラシア中央部のアジアが震源地となって歴史が動いてきたことが分かる。近代以降は西ヨーロッパを中心に歴史が動くようになった。今後は、米中対立が示すように、インド・太平洋を中心に歴史が動いていくことになると筆者は考えている。

 

2.グローバル化がもたらしたコロナ犠牲者の増大とEUの危機

 今回のコロナ禍では、個人主義的で女性の地位が高く、グローバル化が進んでいる米英仏などの核家族の国ほど死亡率が高くなった一方で、権威主義的で女性の地位が低い日独韓などの直系家族の国ではコロナ死亡率が低かった。そうなった理由は、核家族の国々は、GDPばかりにこだわってグローバル化を進め、生活や医療に必要不可欠な生産基盤ですら手放して空洞化したために、コロナの感染拡大を防げなかったが、一方の直系家族の国々は、グローバル化の下でも保護主義的作用が働いて、産業空洞化に一定の歯止めがかかり、国内にマスクなどの医療資源の生産基盤を維持していたために、コロナ感染の拡大を防げたというのである。

 今回のコロナ禍で「エセンシャル・ワーカー」(社会にとって本質的に必要な労働者)が再認識され、グローバル化による国内の空洞化や経済のあり方について、国の安全保障政策を改めて問い直すことになった。

 欧州のグローバル化は、EUとユーロの創設という形で進んだ。ユーロの創設は、産業力の強いドイツがマルクより遙かに安いユーロを使うことによって、輸出利益を増大させた一方で、他の国々には不利に働くことになった。

 以前のEUは緩やかな国家連合であったが、現在のEUでは各国の主権がなくなり、EU全体で中央集権化してしまった。

 カタルーニャの分離独立で揺れていたスペインは、EUの中枢であるブリュッセルの指令に従って緊縮財政を実行していて、自国に必要な経済政策を放棄している。スペインはもはや主権国家ではなくなったのである。カタルーニャの指導者は、マドリッドを相手にするのではなく、ブリュッセルを相手に分離独立交渉を続けている。カタルーニャは、日本と同じように直系家族で、「自分たちの文化は他とは違う」という意識が強く、自民族中心主義の傾向が強い。ガウディの建築などで有名な州都バルセロナは、ヨーロッパでも屈指の文化都市である。

 EUの諸悪の根源は単一通貨ユーロにある。単一通貨の根本的な欠陥は、言語・宗教・文化が違い、生活様式や人口動態が多様化している国々に単一通貨を強制して、独自の金融政策、通貨政策による自国経済のコントロールを不可能にしていることである。米国の経済学者が当初から「ユーロは失敗する」と指摘していたにも拘わらず、フランスの政治家が「通貨統合」ばかりを重視してユーロ創設を主導した。その結果、予想された通り、産業力の強いドイツが産業力の弱い国々を犠牲にして、一人勝ちすることになった。ユーロ導入前であれば、産業力の弱い国は、自国通貨の価値を下げることで競争力を得て、生き延びることができたが、それも不可能になった。ドイツだけが勝ち、2番目以降のフランス、イタリア、スペインの産業は破壊され、失業率が上昇した。英国が抜けた後のEUは、もはや「ドイツ帝国」になり変わってしまった。

 そのドイツでも、2017年の総選挙で極右のポピュリズム政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が12.6%まで得票を伸ばした。ポピュリズムは、国家のエリートが民衆の声に耳を傾けず、国民を保護する枠組み作りを怠った時に台頭する。通貨統合によって多様化する国民の要求に対応できなくなったEU諸国には、ポピュリズム政党の発生により、大混乱に陥る懸念が生じている。

 

3.世界をリードし続ける米英と米中対立 

 英国は、1642年に始まる清教徒革命と1688年の名誉革命を経て議会制民主主義を確立した。さらに、18世紀には産業革命が起こって工業化を推進し、大英帝国を築いた。また、「国民(ネイション)」という概念を発明したのも英国であった。1789年のフランス革命は先を行く英国を模倣したのである。

 米国は、177583年の独立戦争の過程で民主主義を創始し、19世紀には目覚ましい経済発展を遂げ、1980年代からはグローバリゼーションを先導した。このように、近代における世界の発展をリードしてきたのは、アングロサクソンの英米であった。

 英米が世界を先導し得た理由は、経済学者シュンペンターの「創造的破壊」という概念にある。創造的破壊とは、自分が創造したものを自分自身で破壊し、新しいものを創り出すことである。英米人が創造的破壊に長けているのは、絶対核家族に由来する。子が親から早く独立し、親とは違う世界を開くことが容易だからである。今後も創造的破壊に長けた英米が世界をリードし続けるとトッドは指摘している。

 英米が世界をリードし続けるもう一つの理由は、人口の大幅な増加である。英国、米国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドを合わせた英語圏の人口は、2015年時点で45000万人、これに対して英国を除いたEU圏は43800万人であったが、2030年には英語圏が56000万人、EU圏が44400万人になると予測され、その後も差が拡大していく。

 米国は、一定数の移民を受け入れ、健全な出生率を保って3億人の人口を抱えているので、人口減少とは無縁である。しかし、かつての米国の強みは、労働者のプロテスタント的勤勉精神と高い教育水準にあったが、中間層の教育水準が低下し、中間層が縮小した。この欠陥を教育水準の高いアジア系移民(最近では年7万人超のインド人)によって補ってきたが、出生率が低下しているアジア諸国からの移民を当てにできなくなる。

 米国は、共産陣営と敵対した冷戦中に共産主義との競合の中で完全雇用を目指すケインズ政策を実施し、社会福祉を充実させたことから社会が安定した。

 冷戦末期の1980年代に、英国のサッチャー首相と米国のレーガン大統領が主導する新自由主義の下で、エリートの白人たちが国内産業の労働者の不利益を顧みずに海外に投資し、中国などに工場を造った。そのために国内産業の空洞化が起こった。グローバル化の恩恵を受けたエリートの白人が高収益を得る一方で、多くの白人労働者が中国の安い賃金との競争にさらされて所得が低下し、格差が拡大して社会が不安定になった。

 ここで、米国の民主主義と黒人差別についてふれておく。米国の民主主義は黒人差別の上に成り立っている。米国を建国した英国人には「人類の平等」という意識がなかったが、先住民や黒人に劣等グループのレッテルを貼ることによって、初めて「白人はみな平等」という意識が芽生えた。しかし、冷戦中に共産陣営の平等主義との競合から黒人解放に踏み切らざるを得なくなり、民主主義を支えてきた黒人差別がなくなって、白人間の平等意識が崩壊してしまった。そのために、冷戦以降に白人のエリートたちが国内の白人労働者を無視してグローバル化に突っ走ったのである。

 現在、米国で起こっている「黒人の命も大事」(Black Life's Matter)運動は、白人と同じ平等の仲間に黒人を入れる運動である。米国は、ウィグルの人権問題で中国を攻撃しているが、中国から黒人問題で逆襲されている。中国と対抗する民主主義国のリーダーにとって、黒人問題がアキレス腱となっている。

 2016年に米国でトランプ政権が誕生し、英国では国民投票でEU離脱(ブレグジット)が決まった。トランプ大統領が支持された背景にはメキシコ移民への反感があり、英国のEU離脱にはポーランドからの大量移民に対する反感があった。米国は高等教育を受けていない白人を中心とするトランプ支持層の共和党と高学歴の白人と黒人・ヒスパニックが支持する民主党の間で国内が分断され、英国はEU離脱の賛否をめぐって国が二つに分裂した。

 かつてトッドは、ソ連の乳幼児死亡率が異常に高くなったことから、ソ連の崩壊を予言して見事に的中させた。現在、人口1000人当たりの乳幼児死亡率が米国5.6人でロシア4.9人を上回り、10万人当たりの自殺率でも米国14.5人に対しロシア11.5人である。これは、米国社会が不安定化していることを表していて、教育レベルの差による米国社会の分断が深刻な状況にあることを示している。一方、ロシアは、ソ連崩壊後の大混乱から回復し、安定に向かっていることを示している。

 トランプ政権は、従来の自由貿易、グローバリズムという基本政策を保護貿易、米国第一主義、孤立主義に転換し、中国と敵対する方向に舵を切った。次のバイデン政権も、トランプ政権の基本政策を受け継いでいる。しかし、バイデン政権には、アフガニスタンからの撤退の不手際など、地政学的な外交面での懸念がある。

 トッドは中国について次のように断言している。中国が米国を凌ぐ大国となり、世界の覇権を握るようになることはあり得ない。その理由は、中国の2020年の女性一人当たりの合計出生率が1.3人という衝撃的な低さであったこと、出生児の男女比が、通常は女子100人対男子106人のところ、中国では女子100人対男子118人という異常値を示したことである。中国は急速に少子化することが確実だという。

 今後の米中対立は、米国を中心とする民主主義陣営と中国を中心とする強権主義陣営の対立となるであろう。民主主義陣営は、2006年に安倍元首相が提唱して結成された日米豪印によるQUADに英仏独とカナダ・ニュージーランド・韓国が加わる。

 一方、中国はロシアを見方につけて、米国と対抗しようとしている。ロシアとしても、ウクライナ問題などで米国やEUからの攻撃に対抗するために中国と組んでいるが、中国と国境を接するロシアは、本来、中国を警戒しているのである。そこで、トッドは、ロシアを攻撃するより、ロシアを取り込んで中国を孤立させた方が得策だと主張している。 

 

4.日本に対するトッドの提言

 トッドは、今後の日本の存亡に関わる問題は、「人口減少」と「少子化」だと指摘している。日本は思い切って積極的な少子化対策を打つこと、日本人になりたい外国人を移民として受け入れることこそ安全保障政策上の最優先課題だというのである。

 直系家族の日本では、家族を重視するあまり、老人介護や子育ての全てを家族にわせようとしている。しかし、家族に全てを負担させることは、現在の核家族化した家族には不可能であり、そのことが「非婚化」を引き起こし、「少子化」を招いている。つまり、日本の少子化は「直系家族病」なのである。これを救うには、公的扶助によって家族の負担を軽減するしかない。

 さらにトッドは次のように指摘している。かつての日本の強みは、直系家族を重視した「世帯間継承による技術・資本の蓄積」「社会的規律と教育水準の高さ」「勤勉さ」にあったが、そうした完璧さは今や短所に反転している。日本が子供を持つことや移民を受け入れるためには、完璧さに固執し過ぎることをやめて、ある種の「不完全さ」「無秩序」「身勝手さ」を受け入れる必要がある。日本人は、そういうことに寛容にならなければならないというのである。

 トッドは日本の移民政策について、次のように助言している。@移民の受け入れは少子化対策と並行して行うこと。A外国人労働者の受け入れは、いずれ定住して家族を呼び寄せることを前提とすること。B移民の受け入れに際しては、移民の文化的背景が日本人の文化と融合しうるかをチェックすること。C移民に対する処遇方法として、「多文化主義」と「同化主義」がある。多文化主義は、英独が採用しているが、移民を隔離することになり、時間がたっても住民との融和が進まない問題がある。同化主義は、フランスが採用しているが、イスラム系移民に対して教条的不寛容の問題が発生している。これらの問題を解決するのは、時間をかけて移民を同化させる「寛容的同化主義」が望ましい。それは、移民の第一世代には異質な文化をそのまま容認し、日本で子供時代を過ごす第二、第三世代には日本の学校や社会で日本文化に同化するようにするのである。D移民の職業レベルや教育レベルはバランスよく受け入れること。E日本の場合は中国出身の移民ばかりが増えることに注意することである。

 直系家族の日本人には、親子間の権威主義から、外部の人を内部に引き入れて包括する「同化主義的傾向」と、兄弟間の不平等主義から、自分たちは特殊で外国人とは異なるとする「隔離主義的傾向」があり、相反する2つの傾向が同居している。今までの日本は、移民に対して隔離主義的傾向が強く出てしまったが、今後は同化主義的傾向が出るように組織的に制御すべきである。

 次に、日米関係であるが、米国との同盟関係は不可欠としても、衰退しつつある米国の「核の傘」の危うさに注意しなければならない。トッドは、米国が日本防衛のために核兵器を使えば、米国自身が核の攻撃を受けることになるから、核兵器は原理的に自国防衛以外には使えないと指摘し、日本に核武装化を提案している。核兵器は、軍事的駆け引きから抜け出すための手段であり、むしろパワーゲームのに自らを置くことを可能にする。つまり、核は戦争を不可能にし、戦争を防止するものだというのである。

 

あとがき

 最近、筆者は、友人からの手紙で、米国では「近いうちに中国が台湾を攻撃し、沖縄をも占領する」という情報がSNS上で飛び交っていることを知った。これは、単なるデマだが、米国の人々がそれほど深刻に中国を受け止めていることを表している。そこで筆者は、米中対立の最近の情勢と今後の動向について、筆者の見解を述べてみることにする。

 中国は、確かに軍事力を増強して米国の太平洋地域の軍事力を超えたことは事実だが、中国共産党は本質的に戦争をしたくないと考えている。中国共産党の長期戦略は、戦争をしないで経済力で米国を凌ぎ、途上国を取り込んで「中華世界」を復興させることである。台湾と戦争して国内経済が大混乱に陥り、国民の支持を失って共産党の権威が失墜することを何よりも恐れている。中国共産党は、よほどのことがない限り台湾と戦争しないであろう。

 習近平は、「台湾が一線を越えた場合には軍事力の行使をわない」と宣言したが、その一線とは台湾が独立することであろう。台湾の蔡英文政権は、それを承知しているから、「現状維持」を目指している。現在、台湾の国民は現状維持派が55.7%で過半数を占めている。香港の一国二制度の崩壊を見て独立派が17%になったが、微増に留まっている。

 米国は、1979年に米中国交を樹立したときに、台湾が中国の一部であることを認めた。しかし、同時に「台湾関係法」を成立させて、台湾が中国に占領されないように軍事援助を持続することを決めた。そして、台湾に武器を供与し、最近では米軍の指導者が台湾に常駐していることが分かった。元々、内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ国民党の蒋介石を支援してきた米国は、中国が豊かになれば民主主義国になると思い込んで、国交樹立時に台湾を中国領として認めたのである。しかし、習近平になってその予想がはずれたことがはっきりして、中国と敵対するようになった。

 中国と敵対する日米欧にしても、日用品や医療品の生産を中国に依存している現状では、中国と戦争することは自分で自分の首を締めるようなものである。結局、台湾をめぐる戦争は、中国と日米欧の両者とも不可能であり、「現状維持」を持続するしかないのである。

 トッドが指摘しているように、米国の国内分断は深刻な状況にある。トランプ前大統領が打ち出した「米国第一主義」「保護貿易」「EUとの分断」「TPPからの離脱」は、グローバル化で被害を被った大多数の低学歴白人労働者に支持されていることが判明し、バイデン大統領もそれを継承せざるを得なかった。国内の分断から、米国の民主主義陣営のリーダーとしての統率力が弱体化していることが明らかになった。特に米国とEUの間に溝ができたことが痛かった。

 こうした状況下で中国と対抗するには、米国とEUの間を取り持つことができる日本の役割が非常に重要になる。米国の統率力を支えられるのは、日本をおいて他にない。また、中国に近い地政学的位置にある日本には、かつて福田ドクトリンによってASEAN諸国に信頼されるようになり、最近では安倍元首相が「自由で開かれたインド・太平洋」と「日米豪印の連合(QUAD)」を提唱した経緯があることから、ASEANを始めとするインド・太平洋の諸国を牽引していく使命がある。そうすることが日本の国益にもつながる。

 国際社会にとって中国の脅威は、「巨大人口」と「強権的専制主義」にある。14億人の中国は、日本の1.2億人、米英豪などのアングロサクソン英語圏の4.5億人、EU4.4億人を合わせた10.1億人よりも人口が多い。中国の経済的な強さは、巨大人口の生産力と消費力にあり、日米欧の資本がそれに引き寄せられて中国に工場を造り、中国を世界の工場に発展させ、図らずも中国を経済大国に押し上げてしまった。そして、強大化した中国は、南シナ海に侵出し、領有権を主張して軍事基地を造った。さらに中国は、デジタル技術を駆使して国民を監視し、言論の自由を抑え、ウィグル族を漢民族の文化に洗脳して強制労働を強いる強権的専制国家になってしまった。そして、監視国家・警察国家の強権的専制主義の国家システムをアジア、アフリカ、中南米の途上国に移入して、途上国を中国共産党の支配下に引き込んでいる。

 20206月の第44回国連人権理事会において、「香港国家安全維持法」(香港の一国二制度を当初予定より27年も早く終結させ、中国が香港を実効支配する法律)に関する票決が行われたが、反対が民主主義国の27カ国に対し、賛成が中国の影響を強く受けている途上国の53カ国になり、賛成が反対の約2倍になった。賛成したのは、国家体制を維持するために市民への統制を強め、反政府組織を厳しく弾圧している独裁的な国々や、一帯一路で中国から多額の資金を受け入れ、債務超過に陥っている国々であった。中国の一帯一路では、165カ国で13,400件の開発事業が行われたが、そのうちの35%で汚職・労働問題・環境汚染問題が発生していると言われる。国連維持費の負担率では米国が22%、中国が12%、日本が8%であるが、中国は一帯一路などの狡猾な戦略で大多数の途上国を取り込み、国連を牛耳っているのである。

 中国は、紀元前2900年頃に興った夏王朝以来、王の権威を伝統として受け継いできた権威主義の国である。その伝統を受け継いだ中国共産党は、共産党の権威(=国家主権)の維持を第一に掲げ、国民の人権を無視する。中国国民は民主主義から遮断されているので、強権的専制主義しか知らない。そうした中国の強権的専制主義が、一帯一路の策略によって、大多数の途上国に蔓延し、言論の自由が奪われ、常に監視される国になり変わろうとしている。これは、人類史上の大危機であり、なんとしても食い止めなければならない。それには、途上国が中国の一帯一路の罠にはまらないように、民主主義陣営が途上国のインフラ開発を支援する必要がある。

 中国の一帯一路に対抗するために、20216月のG7サミットで、バイデン大統領が「ビルト・バック・ベターの世界版(B3W)」を提唱し、途上国の債務や環境に配慮したインフラ開発をすることを決めた。それを受けて、202112月にEUのフォンデアライアン欧州委員長が途上国のインフラ支援戦略として「グロ−バル・ゲートウェー」を発表した。それによると、民主主義、法の支配、人権、環境という価値観に沿って途上国を支援し、2027年までに官民合わせて約29兆円を投資するという。こうした米欧の構想は、まだ絵に描いた餅である。途上国の支援を推し進めるには、日本の政府開発援助(ODA)とJICAで培ってきた日本のノーハウが模範となり、日本が重要な役割を担うことになる。

 日本のODAは、途上国の所得水準に合わせて融資する利率や融資期間を決めているので、途上国が債務超過に陥ることはない。また、ODAの二国間援助を引き受けているJICAは、相手国の立地条件や生活文化に合わせて対応することが高く評価されている。日本が米欧と連携して成功例を重ねることが大事な局面になっている。

 中国は、2030年にGDPで米国を抜くと予想されている。しかし、今まで高成長を続けてきた中国ではあるが、2030年以降は成長率がゼロになり、急速に少子化が進むという。そして、米国に抜き返されるという。

 最後に、日本の核武装化についてのトッドの提案について、筆者の見解を述べたい。国際的に考えればトッドの提案には一理ある。しかし、日本政府が国民に核武装化を納得させることは不可能であろう。また、中国・韓国やアジア諸国からも反発されて、日本の国益にはならないと考える。これから戦争が起こるとすれば、国対国ではなく、民主主義陣営と専制主義陣営の戦争になるから、日本が核武装しようが、しまいが大差ないと考える。

      (以上)

      近現代史における日本の戦争

                        202112月 芦沢壮寿

  最近読んだ加藤陽子著の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』をもとにして、「近現代史における日本の戦争」について考えてみることにします。

 加藤氏は、東京大学文学部教授で、昨年の日本学術会議の新会員候補に推薦されたが菅内閣によって任命を拒否された5人の候補の1人です。研究分野は世界恐慌後の1930年代におけるアメリカと日米開戦前の外交を専門としています。この著書は、神奈川県の有名私立高校 栄光学園の中高生向けに行った講義をもとにして書かれ、2010年に小林秀雄賞を受賞しました。

 

日清戦争

 日清戦争(1894年7月〜954月)は、有史以来、東アジアの盟主として君臨してきた中国に対して、日本が東アジアの覇権をかけて戦った戦争であった。それまでの東アジアでは、文人といえば中国や朝鮮の知識人であったが、日本が勝ったことによって、日本は東アジアの盟主となり、日中の立場が逆転した。これは、中国・韓国が信奉してきた儒教的秩序を破壊し、西欧式の近代化に乗り出した日本の力を示すものであった。

 当時は帝国主義の時代であった。日清戦争は、英国が日本を、ロシアが中国を応援したことから、国際的な代理戦争でもあった。英国は開戦直前に日英通商航海条約を結び、日本を応援することによってロシアの南下を防ごうとした。この条約で英国は、日本に治外法権の撤廃と相互平等の最恵国待遇を認めた。

 日清講和条約(下関条約)では、当時の日本の国家予算の約3倍に当たる3.6億円の賠償金が支払われ、台湾が日本領となり、大連、旅順のある遼東半島が日本に租借されることになった。しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に遼東半島を清国へ返すように要求すると、まだ国力の弱い日本は返還せざるを得なかった。これを「三国干渉」という。

 日本国民は政府の弱腰に失望した。そして、14千人もの戦死者を出して得た遼東半島を民意に反して返還したことに対して、多くの国民が政治・外交に民意を繁栄させるには「普通選挙」を勝ち取らなければならないと考えるようになった。当時の選挙は、15円以上の国税を納めている地主などの金持ちしか選挙権がない「制限選挙」であった。普通選挙を求める運動は、長野県の松本で民権運動家の中村太八郎や木村尚江たちが結成した「普通選挙期成同盟会」を拠点として推進されていった。

 1898年に自由党と進歩党が合同して憲政党が結成され、初めての政党内閣が成立した。1900年に衆議院選挙法が改正され、選挙権が10円以上の納税者に与えられ、被選挙権者は基本的に納税資格がなくてもよくなった。

 三国干渉は、日本のメンツをつぶしたばかりでなく、ロシアの言いなりになる日本を見た朝鮮と中国をロシアになびかせることになった。朝鮮の朝廷内で日本に不満をもつ勢力が親露派の皇后 (高宋の妃)のもとに集まるようになり、朝鮮政府内に親露派が多くなった。これに驚いた日本の三浦公使が閔妃を暗殺し、国王の高宋がロシア公使館に逃げこむ事件が起きた。清国もロシアに接近し、1896年と1898年の2度にわたって「露清防敵相互援助条約」という秘密条約を結んで、黒竜江省・吉林省を通ってウラジオストックに通じる中東鉄道の敷設権をロシアとフランスの銀行に与え、さらに、遼東半島の大連・旅順を25年間租借する権利と中東鉄道の途中のハルビンで分岐して大連・旅順へと至る中東鉄道の南支線の敷設権まで与えた。これ以降、ロシアは満州に中東鉄道を敷設し、旅順の不凍港にロシア軍の要塞を築いていくのである。

 

日露戦争

 1900年に中国各地で西欧列強の宣教師を襲撃する「義和団の乱」が発生し、清国と列強の間で「北清事変」が起きた。これを機にロシアは、軍隊を派遣して満州の黒竜江省・吉林省・遼寧省の3省を占領した。

 この頃、清朝内で立憲君主制に改革する動きがあり、日本への留学がブームになり始めた。そして、留学生たちによって1905年に東京で革命結社が結成され、これが1911年に清朝を倒した「辛亥革命」へとつながっていく。

 当時の日本は、桂首相・小村寿太郎外相らの政府や元老の伊藤博文・山県有朋が日露戦争に慎重であった。小村外相は、ロシアと交渉して、ロシアに満州を与える代わりに、朝鮮における日本の優越権をロシアに認めさせようとした。しかし、当時の帝国主義の国際社会では、弱小の日本が大国のロシアと交渉すること自体が無理であった。

 日露戦争も国際的な代理戦争であった。1900年頃から満州は、大豆の生産で世界の市場として拡大の一途をたどっていた。1903年に米国と日本は、ともに清国と通商条約の改定を行った。これは、満州の市場を世界に門戸開放することを意味し、米国が満州を独占しようとするロシアを牽制して、日本を支援するものであった。また、南アフリカ戦争(ボーア戦争)をしていた英国は、1902年に日英同盟協約を締結して、日本を支援することを明らかにした。

 一方、ロシアがヨーロッパに進出してくるのを怖れていたドイツとフランスは、ロシアをアジアに向かわせるために、ロシアに財政支援をしていた。

 19042月に始まった日露戦争では、日本の陸軍が19051月までに89千人もの死傷者を出して旅順を陥落させ、5月の日本海海戦で東郷元帥率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊をせん滅して、日本の勝利となった。

 日露戦争では日本の陸軍と海軍が見事に連携した。日本海海戦前に陸軍が旅順軍港を陥落させたことが、日本海海戦の勝利につながる最大の要因となった。

 日本は、米国から20億円を借りて日露戦争を戦ったことから、「20万の犠牲者と20億のカネを出して満州を獲得した」と言われるようになった。大国のロシアに勝った日本は、西欧列強から一等国として認められ、それまで公使館しかおけなかった大国に大使館をおくことを許された。イギリスでは190512月に日本の公使館が大使館に格上げされた。

 日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で日本は、樺太南部、北方四島と南満州(ハルビン以南の中東鉄道南支線)の権益を獲得したが、ロシアから賠償金がとれなかった。政府は戦費を賄うために「非常特別税法」を制定し、時限付きで増税して、1904年には地租・営業税・所得税を年に2回徴集した。しかし、当てにしていた30億円の賠償金が入らなかったことから、時限を外して戦後も非常特別税を続けることになった。その結果、10円以上の納税者からなる選挙権者が2倍に増えて、それまでの選挙権者のほとんどが地主であったのが、会社経営者や銀行家なども選挙権者になり、国会や地方議会の議員の質が変わった。1908年の選挙では選挙権者が150万人を超え、商工業者・産業家・実業家の議員が登場するようになった。

   

1次世界大戦

 第1次世界大戦は、19147月〜1811月にイギリス・フランス・ロシア・セルビアなどの連合国とドイツ・オーストリア・トルコなどの同盟国が戦った初の世界戦争であった。日本は、日英同盟協約を理由にして19148月にドイツに宣戦し、ドイツ領であった中国の山東半島に上陸し、ドイツ領南洋諸島(サイパン島、マリアナ諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島など)を占領した。これらの戦争を3ヶ月で終えた日本の戦死傷者は1250人だけであった。しかし、4年余に及んだヨーロッパ戦線では、初めて飛行機や戦車が使われ、全体で戦死者が約1千万人、戦傷者が約2千万人にもなった。

 この戦争中の1917年にロシアで革命が起きてロマノフ王朝が崩壊し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。オーストリア・ハンガリーのハプスブルク帝国でも、191810月にブダペストで暴動が起きて名門のハプスブルク家が崩壊し、オーストリア共和国、ハンガリー共和国、チェコスロバキア共和国になった。また、ドイツでも191811月に労働者の武装蜂起があり、ウィルヘルム2世が逃亡してホーエンツレルン朝のドイツ帝国が崩壊し、ドイツ共和国になった。さらに、1922年にトルコのオスマン帝国が崩壊し、青年将校であったアタチュルクが大統領となってトルコ共和国を建国した。このように総力戦で戦って膨大な死傷者を出した第1次世界大戦は、それまでの帝国主義を支えてきたロシア・ハプスブルク・ドイツ・オスマンの4つの帝国を崩壊させ、王政に代わる新しい社会契約として「共和国」をもたらした。

 第1次世界大戦がもたらしたもう1つの大きな変化は、帝国主義の時代には当たり前であった「植民地」に対して批判的になったことである。それは、植民地獲得競争が大戦の原因の一つになったという深い反省に基づくものであった。帝国主義とは、ある国が他国を支配して植民地化・保護国化することが国際的に堂々と認められた国際秩序である。1518世紀の絶対王政のヨーロッパ諸国は、帝国主義のもとに植民地を獲得して、本国と植民地との間の有利な貿易差額によって国富を増大させる「重商主義」の経済政策をとっていた。その帝国主義に代わって新たな国際秩序を維持する組織として「国際連盟」が設立され、国際連盟がある地域の統治を委任する形をとる「委任統治制度」ができた。日本が獲得した旧ドイツ領の南洋諸島は、国際連盟から日本に委任統治権が与えられたものである。

 第1次世界大戦の講和会議として19191月から半年にわたってパリ講和会議が開かれた。この会議は「世紀の見物」と言われ、会議に直接関係する外交官以外にも多くの若く有能な人材が世界中から集まった。若き日の近衛文麿もパリに来ていた。近衛は後に会議の感想として、「第一に感じることは、力の支配という鉄則が今なお厳然としてあることだ」と述べている。日本からも多くのジャーナリストが参加し、連日「欧米と日本の差」などの記事を日本に伝えたことから、日本は変わらなければ国が滅びるという危機感を訴える多数の集団が生まれた。彼らは、「普通選挙」、「身分的差別の撤廃」、「官僚外交の打破」、「労働組合の公認」、「税制の改革」などの国家改造論を盛んに唱えた。

 中国と米国が参戦したのは終戦前年の1917年の2月と3月であった。パリ講和会議で、米国を後ろ盾にしていた中国は、参戦したことを理由に山東は中国のものだと主張した。これについては日英仏露伊の5カ国の間で「日本が連合国の地中海における兵員輸送の警備に当たることの見返りとして、講和会議の植民地分割では互いに認め合う」という密約が1917年に結ばれていた。英国首相ロイド・ジョージは、「中国と米国の参戦は遅かった。最も苦しかった時期に戦っていた国同士が密約を結んで何が悪い」という趣旨のことを平然と言い、「山東は日本のもの」という日本の主張を是認した。

 パリ講和会議で最大の問題は、ドイツの賠償金が過重すぎたことであった。その原因となったのは、軍需品を米国から購入した英仏伊の借金を賠償金で賄うことであった。英国が42億ドル、フランスが68億ドル、イタリアが29億ドルの借金をしていた。米国大統領ウィルソンは、英仏伊の借金を取り戻すために、ドイツに過度の賠償金を課したのであった。これに対し、英国代表として会議に出席していた経済学者のケインズは、ドイツが早期の産業復興を果たして賠償金を支払い続けることができるように、賠償金の額をできるだけ少なくするとともに、米国に対して英仏伊が負っている戦債の支払い条件の緩和を求めた。しかし、ウィルソンには過重な賠償金をドイツに課すことが世界経済に与える綿密な配慮がなかった。ケインズは途中で会議を退出して帰国し、「ウィルソンの構想は雲のようにあいまいで、不完全なものだ」と批判した。このウィルソンの軽率な賠償金構想から、2029年に世界恐慌が起こり、ドイツでナチスが生まれ、第2次世界大戦を引き起こすことになったと言われる。

 ウィルソンは、19181月の米国議会で「民族自決主義」を宣言し、世界の植民地の人々に希望を抱かせた。この影響を受けて日本統治下の朝鮮でも、19193月、ソウルで「三・一独立運動」が起きた。

 パリ講和会議でウィルソンが提唱した「国際連盟」がヴェルサイユ条約に規定され、19201月に国際連盟が成立した。しかし、米国は、議会の反対によって国際連盟に加盟しなかった。米国議会は、欧州の帝国主義国間の抗争に米国が利用されることを恐れて、モンロー主義(1823年にモンロー大統領が欧米両大陸の相互不干渉を宣言した米国の外交政策)を押し通したのである。

 

満州事変と日中戦争

 192910月に起きたニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌へと発展していった。日本の農家の平均収入が1929年の1326円から1931年には650円へと半分以下になった。そうした状況下で19319月に関東軍参謀の藤原らの謀略により満州事変が勃発した。

 満州事変は、関東軍が南満州鉄道(日露戦争後にロシアから譲渡された中東鉄道南支線)の柳条湖付近で鉄道路線を爆破し、それを中国軍のしわざだとして起こした謀略戦争であった。関東軍というのは、日露戦争で獲得した南満州の領地と南満州鉄道を守備する軍隊である。藤原らは、3年間にわたって綿密な計画をたて、満州事変を起こした。頭の切れる藤原は、1923年にドイツに留学し、ドイツが負けた原因を調べて、経済封鎖を生き延びて敵の消耗戦略に負けずに戦争を続けることの重要性に目覚め、日本が列強の経済封鎖や消耗戦を戦うには(南満州と東内蒙古)が重要になると考えていた。

 藤原らの謀略計画とは、当時、満州を統治していた張学良の19万人の軍隊に1万人余の関東軍で勝つための謀略であった。藤原らは、日本の特務機関に華北で反乱を起こさせて張学良とその軍隊11万人を華北に引きつけておき、満州に残る8万人の軍隊が守る軍事拠点を一挙に占領してしまった。さらに、張学良の11万人の軍が戻ってくるのに備えて、日本の植民地になっていた朝鮮から朝鮮軍の兵力を満州に越境させた。兵の越境には奉勅命令(天皇の命令)が必要であり、その前に閣議の同意が必要であったが、朝鮮軍は独断で越境して既成事実とした。閣議では、国際連盟で問題になるのを怖れて、出兵の事実は承認しないが、出兵に伴う経費は認めることにした。ここに軍部の独断専行と閣議の追認という構図が生まれ、それが繰り返されて、日本は日中戦争から太平洋戦戦争へと突き進むのである。

 当時、ほとんどの日本国民が、満蒙について、武力行使してでも守らなければならない日本の生命線だと考えていた。そして、満州事変が起こると、日本中が関東軍の謀略戦争を支持する報道であふれた。日清・日露戦争の時代には朝鮮半島が日本の生命線であったが、1930年代になって満蒙が日本の生命線になったのは、次のような経緯による。

 日露戦争後、日本とロシアは協調するようになり、日露は、満州の主権者である清朝をさしおいて、1907年の第1回日露協約の秘密条項で、満州の鉄道・電信などの権益を勝手に分割してしまった。中国で1911年に辛亥革命が起きて清朝が倒れ、1912年に中華民国が成立した。この新しい中国に対して、英国は米独仏を誘って資本投下による影響力を強めようとしていた。資本力・技術力で劣る日本とロシアは、1912年の第3回日露協定の秘密条項で、内蒙古を東経11627分の線で東西に分割し、東を日本の勢力範囲、西をロシアの勢力範囲とした。それからの日本は、陸軍・外務省・商社が一体となって、満蒙の特殊権益を中国や欧米列強に認めさせるために、満蒙が日本の勢力範囲にあるという既成事実をでっちあげていった。そして、1926年に日本の満蒙への投資額が14億円になり、日本国民の間に「満蒙は日本の生命線」という意識が強くなっていった。

 19319月に満州事変が起きたときに、中国の国民政府主席 蒋介石は、国際連盟に訴えて仲裁を求めた。それを受けて連盟理事会で、英国のリットン伯爵を委員長とし、米仏独伊の委員からなるリットン調査団の派遣が決まった。

 19323月、「満州国」が建国された。リットン調査団一行は、19322月から日本・中国・満州を視察し、10月に報告書を公表した。この報告書では、日本の満州における経済的な権益(中国の対日ボイコットの禁止、日本人の全満州への居住権・土地貸借権の擁護)を認めたが、中国の主権下にある満州における「満州国」の建国は、民族自決ではなく、関東軍の力を背景に生み出された国家であるとした。つまり、満州の主権は中国にあり、満州国には正当性がないということである。これに対して日本の知識人 吉野作造は「噂より日本に不利なので、新聞の論調が険悪だが、公平にみて、あれ以上日本の肩を持てば偏執のそしりを免れない」と言っている。

 日本海軍が19321月に上海を攻撃した「上海事件」に対して、中国が国際連盟に連盟規約第15条の「国交断絶にいたるおそれのある紛争」に当たるとして提訴した。一方、日本の内閣と天皇は、19332月に張学良の軍隊が残留する満州国南部の熱河省に陸軍を侵攻させる計画に対して承認を与えた。ところが、熱河省に軍隊を侵攻させる陸軍の行動は、連盟規約第16条の「第15条による約束を無視して戦争に訴えた連盟国は、他の連盟国に対し、戦争行為をなしたるものと見なす」に当たる恐れが生じた。つまり、日本は満州国内で軍隊を動かしていると考えているが、満州国を承認していない国際連盟から見れば、第15条で中国から提訴されている日本が中国内て軍隊を動かすことは、明らかに第16条違反となるのである。すると、日本は全ての連盟国の敵となり、第16条で定める通商上・金融上の経済制裁を受けることになり、除名という不名誉な事態も避けられなくなるのである。そのことに気づいた斉藤首相は、天皇のところに駆け込み、熱河作戦を決定した閣議決定を取り消し、天皇の裁可も取り消すように頼んだ。しかし、侍従武官や元老は、天皇が一度出した裁可を撤回すれば、天皇の権威が決定的に失われると助言し、結局、天皇の裁可は取り消されなかった。その2日後、日本軍は熱河に侵攻した。そして、19333月、日本は国際連盟を脱退した。

 このように日本が戦争に突き進んでいる時に、日本の政党は全く戦争反対の声を上げなかった。その理由として、早くから中国に対する日本の侵略や干渉に反対してきた日本共産党員やその周辺の人々1288名が治安維持法によって起訴され、投獄されていたことが考えられる。

 19377月、北京郊外の盧溝橋で偶発的に起こった日中の小さな武力衝突がきっかけで「日中戦争」が始まった。当時の日本軍は、「中国が日本との条約を守らなかったから、守らせるための戦闘行為である」と主張し、エリート官僚は「英米の資本主義とソ連の共産主義の支配下にある世界に対する東亜の革命である」と主張した。東亜とは、日本・台湾・韓国、満州国と中国を指す。つまり、日本は「これは戦争ではない」と考えていたのである。満州事変が計画的に起こされた謀略戦争であったのに対して、日中戦争は戦争をする気がないまま起こった偶発的な戦争であった。

 日本では、満州事変の勃発から日中戦争に至るまでの6年間に、25歳以上の男子による普通選挙が行われ、政友党と民政党による政党内閣の時代になった。しかし、政党は、世界恐慌が波及して借金に苦しむ農村に冷淡であった。

 そんな時に陸軍は、46.8%の国民が従事する農業と最も多くの兵隊の供給源である農村に着目して、「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットを作った。その中で、国防は「国家生成発展の基本活力」と言い、「国民生活の安定を図り、勤労者の生活保障、農山魚村の疲弊の救済は最も重要な政策である」と断言した。さらに、農民救済のために「義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護」といった項目を掲げ、労働問題では「労働組合法の制定、適切な労働争議調停機関の設置」などを掲げていた。国民はこうした陸軍に引きつけられ、期待するようになった。

 北京郊外の華北地方で勃発した日中戦争は、華中地方の上海・南京・武漢へと飛び火し、上海では激しい航空戦で陸海軍合わせて3万人を超える戦死傷者を出した。中国軍は予想以上に強かったのである。それでも日本軍は、193810月までに武漢を陥落させ、重慶を空爆し、日本海軍が海岸線を封鎖した。中国は、常識的には降伏する状態になっていた。

 それでも中国が降伏しなかったのは、「日本切腹、中国論」を唱えて国民政府に抜擢された胡適(北京大学教授で社会思想家)の作戦があったからである。胡適は、蒋介石の前で堂々と「日本の勢いを抑止できるのは米国の海軍力とソ連の陸軍力しかない。日本は米ソが軍備を完成しないうちに中国に決定的なダメージを与えようとするであろう」と述べ、「米ソを日中戦争に巻き込むには、中国が日本との戦争を正面から引き受けて、34年負け続けることに耐える必要がある」と言った。これが日本を切腹へと向かわせる方策であり、中国は34年耐えることによって、日本の切腹の介錯をすることになるというのである。この胡適の「日本切腹、中国介錯論」は、日中戦争前の1935年時点での予測であるが、1941年に日米が開戦し、1945年にソ連が日本に宣戦し、日本が負けるまでの歴史を正確に言い当てていた。胡適は1935年に駐米大使になった。なお、米国が日中戦争で中国を応援したのは、中国の巨大市場を日本に独占されるのを防ぐためであった。

 

太平洋戦争

 194112月、日本は、米英に宣戦布告して太平洋戦争に突入した。米国は、国民総生産が日本の12倍、鋼材が17倍、石油が721倍の圧倒的な大国であり、一流の知識人らは日本が非常識で無謀な戦争を仕掛けたと考えていた。戦後に東大総長となる政治学者の南原繁は、開戦の日に「人間の常識を超え 学識を超えて 日本世界と戦う」という短歌を詠んだ。しかし、日米の絶対的な差を承知して戦争を仕掛けた軍部は、むしろそれを利用して「大和魂」を煽り、国民に精神力を強調した。開戦当初の国民の多くは、爽やかな気持ちで開戦を受け入れた。日中戦争は弱いものいじめで気が進まなかったが、強い米英を相手とする太平洋戦争は明るい気持ちで戦えると感じたのである。

 日本政府は、大国の米英と戦って勝ち、戦争を終結させる方法をどのように考えていたのだろうか。開戦前の19419月の御前会議で、近衛首相・東条陸相らが米英相手の開戦に後ろ向きの昭和天皇を説得した論理は、「英米蘭に対する戦争の目的は、東亜における英米蘭の勢力を駆逐して、帝国の自存自衛を確立し、あわせて大東亜の新秩序を建設することにある」というものであった。10月に首相となった東条が陸海軍の課長級に作らせた「対英米蘭戦争終結に関する腹案」では、「19416月から戦争していたドイツとソ連の間に日本が仲介して独ソ和平を実現させ、ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対英戦に集中させて、英国を屈服させる。英国が屈服すれば米国の継戦意欲が薄れるから、戦争は終わる」というのであった。この論理は、一方的な希望的観測であり、ドイツの軍事力に頼る他力本願であって、何の根拠もない空論に過ぎなかった。胡適の深謀遠慮な戦略に基づく中国の国民政府と比べると、陸海軍の課長級に作らせた日本政府の戦略は、あまりにも幼稚でお粗末であった。

 実際に戦争が始まると、日本の甘い予想が崩れていった。物資を運ぶ輸送船や海軍艦艇の消耗予想は、戦争1年目が80100万トン、2年目が6080万トン、3年目が70万トンであったが、実際の消耗は戦争1年目が96万トンと予想内であったものの、2年目が169万トン、3年目が392万トンと予想をはるかに超えた。また、飛行機の製造能力では、1939年時点で米国が年間2,141機、日本が4,467機で、日本の方が2倍以上優位にあったが、1941年になると米国の製造能力が19,433機に飛躍し、日本が5,088機になって、米国の製造能力は日本の約4倍となり、終戦までこの倍率は変わらなかった。日本は、民主主義の米国を軟弱な国だと考えていたが、米国民は日本から売られた喧嘩に本気になって奮起し、日本のお粗末な予想を完全に打ち砕いたのであった。

 以下では、太平洋戦争に至る世界情勢の変化を見ていくことにする。19391月、米国は航空機部品などの対日輸出を禁止し、日米通商条約の破棄を通告した。3月には英国が中国に借款を行い、仏印(仏領インドシナ:現在のベトナム・ラオス・カンボジア)から香港・広州を通るルート(援蒋ルート)で中国に物資を送った。英米ソが中国に味方し、日本は世界で孤立した。

 19399月、ドイツがポーランドに進駐し、英仏がドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まった。ドイツは40年前半までに周辺国を占領し、6月にはパリに入ってフランスに傀儡政権(ヴィシー政権)をつくった。

 19409月、日本は、日独伊の「三国軍事同盟」を締結して、仏印北部に進駐した。その目的は、援蒋ルートを押さえることと、東南アジアの資源(オランダ領インドシナの石油など)を獲得して自給自足圏を手に入れることであった。蒋介石は、後妻の宋美齢の弟 宋子文(国民政府を支える浙江財閥の中心人物)を6月に渡米させて、米国に軍事援助を要請した。米国は、日本の仏印進駐を見て、1億ドルの借款を中国に与え、その借款で米国製飛行機の購入を認めた。米国は、英国首相チャーチルの「米国が参戦しないから英国は米国に代わって戦争している」というぼやきに対して、413月に英国に無償で武器援助する「武器貸与法」を成立させた。

 19414月頃の日本の松岡外相は、日ソ中立条約を結び、全体主義の日独伊ソをまとめて四国同盟とし、英米の民主主義国と対抗することを目指していた。ところが、独ソ不可侵条約を結んでいたドイツが6月にソ連に侵攻して独ソ戦争が勃発し、松岡の構想はぶち壊された。それまでのドイツは、資源獲得のためにソ連・中国に兵器を売って合理的な経済関係を維持していたが、ソ連が世界の共産化を目指していることを知り、防共・反共に転じたのであった。

 日本では、外務省と参謀本部がドイツとともにソ連を攻撃する北進論を主張したのに対し、陸軍省軍務局と海軍が南部仏印へ進駐する南進論に動いた。そして、7月の御前会議で南部仏印進駐が決定された。米国は、この決定に強く反発し、在米日本資産の凍結を断行し、石油の対日全面禁輸に踏み切った。この米国の対応を予想していなかった日本は、南部仏印進駐によって米国を敵に回してしまった。結局、日本は、ドイツと同盟を結んだことから、米英中ソを敵に回すことになった。国土が広大で人的物的資源が豊富な米国、中国、ソ連、それに世界中に植民地帝国を築いてきた英国は、持久戦に耐え得る大国である。一方、資源の乏しい日本とドイツは持久戦に耐えられない。

 194112月、日本は、電撃戦に勝機を託して、海軍航空部隊がハワイの真珠湾で米国太平洋艦隊を、マレー沖で英国極東艦隊の主力部隊を壊滅させ、大きな戦果をあげた。開戦を機に中国が日本に宣戦布告したことから、アジアの戦争であった日中戦争が第2次世界大戦へと組み込まれることになった。英仏に米中ソが加わった連合国は圧倒的に有利になった。

 太平洋戦争で勝敗の分岐点となったのは、19426月のミッドウェー海戦であった。この海戦の前に日本海軍の暗号が解読されたために、日本の艦隊が米国側に待ち伏せされて、空母4隻と全ての艦載機を失った。この海戦以降、日本軍は劣勢になっていった。そして、19446月のマリアナ沖海戦で勝敗の決着がついた。この海戦で日米の空母の機動部隊同士が戦い、日本側は空母、航空機の大半を失った。太平洋戦争の戦死者の9割は44年から終戦までの1年半の間に生じた。補給路を断たれた日本軍は戦死者の多くが飢えで亡くなった。そして、殆どの戦死者が死んだ場所、死んだ時が分からないまま、戦死だけが遺族に伝えられた。こんな国は日本以外に存在しない。日本政府と軍部は、44年時点で日本の敗戦が分かっていたにも拘わらず、終戦手続きに入らないまま無益な戦争を続け、国民を無駄死にさせた。広島・長崎への原爆投下を招き、満州・北方領土では多くの犠牲者と戦争孤児を出した。

 第二次世界大戦の終結について、ハーバード大学の歴史・政治学者アーネスト・メイは、1973年の著書『歴史の教訓』の中で、「米国のルーズベルト大統領が日本の無条件降伏にこだわったために、日本のポツダム宣言受諾が遅れて満州や北方領土へのソ連の侵略を招いた」と述べている。ルーズベルトが無条件降伏にこだわった理由は、第一次世界大戦の終結でウィルソン大統領がドイツに14カ条の休戦条件を示して休戦し、後で英国・フランスの反対によって休戦条件が葬られた歴史を教訓としていたからだと言う、しかし、メイは、第2次世界大戦末期のソ連の態度を見れば、既に米ソ冷戦に入っていたのだから、日本・ドイツに対する降伏条件を緩和すべきであったと批判し、これは、政治や外交の政策形成者(意志決定者)が陥ってきた「歴史の誤用」であると述べている。

 

歴史的真理から見えてくる日本国憲法の真実

 18世紀のフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「戦争は、国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃である」と述べている。このルソーの指摘は、その後の1920世紀の戦争にも当てはまる歴史的真理である。

 近現代の多くの戦争を見ると、「巨大な数の人民が死ぬ戦争の後には、新たな社会契約が必要になる」という歴史的真理が見えてくる。その良い例が18631119日に南北戦争の激戦地ゲティスバーグで行ったリンカーンの演説である。その演説の中でリンカーンは、「人民の、人民による、人民のための政治:The government of the people,by the people,for the people 」という新たな理念・目標を提唱して、南北に分裂したアメリカを再統合するための新たな社会契約とした。北軍が74千人、南軍が11万人もの戦死者を出した南北戦争の後で、分断されたアメリカを再建するには、新たな理念・目標に基づく新たな社会契約が必要であったのである。

 以上に述べた2つの歴史的真理を太平洋戦争後の日本に当てはめてみる。

 「日本国憲法はGHQに押し付けられたものだ」という議論がある。それは、ルソーが指摘したように、戦勝国の米国が敗戦国の日本の社会契約に対する攻撃であって、一般的な歴史的真理なのである。また、310万人もの国民を亡くした太平洋戦争の後では、軍部の独走を許した大日本帝国憲法に代わって、新しい社会秩序として民主主義に基づく日本国憲法が必要であったのである。

 軍部の独走を許した旧大日本帝国憲法の「統帥権の独立」は、自由民権運動に怖れをなした山県有朋が、自由民権運動の軍隊内への波及を防ぐために、政治面での指導者と軍事面での指導者を分離したことに由来する。そのために日本は、政治・外交と軍事の連携が緊密にとれなくなり、満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと留まるところなく戦争を拡大していった。

 大日本帝国憲法と日本国憲法の本質的な違いは、「国体」(天皇制)にある。戦争に負けた後でも日本の指導者は「国体の維持」を最も重要視していた。しかし、GHQは「国体の維持」を「象徴天皇制」として認め、主権を国民に移して「主権在民」とした。日本国憲法の前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権限は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とある。「国政の権限は国民に由来し」とは「人民の政治」を意味し、「国政の権力は国民の代表者がこれを行使し」とは「人民による政治」であり、「国政の福利は国民がこれを享受する」とは「人民のための政治」であるから、日本国憲法の前文は米国憲法の「人民の、人民による、人民のための政治」と同じ理念・目標をうたっているのである。

 

あとがき

  『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著)は、明治以降に日本が行った日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争について、日本人がそれぞれの時代の国際情勢を判断して戦争を選んできた歴史的背景について考察している。それらの戦争は、日本独自の戦争ではなく、複数の国が日本の味方になり、敵になって戦った国際戦争であった。

 日清戦争から第1次世界大戦までは、帝国主義の時代であり、弱小国の日本は真剣になって国際情勢を判断して戦争を行った。その結果として日本は勝ち続けることができた。第1次世界大戦後の世界は、米英仏などの民主主義国と日独伊などの全体主義国に分裂した。戦争に勝ち続けてきた日本は、大国意識を持つようになり、国際情勢を独自で判断するようになって、日本独自の全体主義による判断の誤りが重なり、米英中ソの大国を敵に回すことになった。これが太平洋戦争に負けた最大の原因だと考える。確かに、軍部の独走を許した「統帥権の独立」も大きな原因であるが、独走を止められなかったのは「日本独自の全体主義の誤り」の方が大きかったと思われる。

 「日本独自の全体主義の誤り」とは、日本人の「和の文化」の弊害である。日本人は会議でも全体の和を重んじて相手を傷つけないようにする。それでは深い議論ができないから、本質的な問題を解き明かせない。軍部の独走が国際的にどんな問題を引き起こし、日本がどうなるのかも分からない。政府や軍部のリーダーたちは分からないまま、ことの重大さに対する責任感もなく、ずるずると軍部の独走を許した。その結果、米英中ソの大国と戦うことになり、最後は食糧補給のないまま、南方の孤島で莫大な数の兵士を飢え死にさせた。

 全体主義の日本人は、戦争責任も国民全体の連帯責任だと考えていて、A級戦犯をも靖国神社に合祀した。そして、戦争で犯した自らの過ちの本質を理解していないために、同じ過ちを繰り返す可能性がある。

 全体主義は個人の自由な発想を抑制する。これは、均一な物を大量生産していた時代にはよかったが、個人の好みの多様性に対応する現在のデジタル社会では不利に働く。ここ30年、日本の生産性が伸びず、賃金が上がらない原因は、「日本独自の全体主義の誤り」にあると筆者は考えている。  (以上)

誤解だらけの新型コロナ対策     202110月 芦沢壮寿

 最近、筆者は西村秀一著の「もうだまされない 新型コロナの大誤解」(幻冬舎、第6刷)を読んでみました。そこには、日本の新型コロナの感染防止対策が誤解に基づくものが多く、新型コロナを恐れ過ぎて、かえって感染防止に反することや、あまり効果がないことに無駄な労力を使っている実態が書かれていました。これらは、新型コロナの属する「呼吸器系ウィルス感染症」とは違った分野の専門家が新型コロナ対策に乱入して発せられた誤った情報によって、誤った理解が氾濫しているからだと書いてあります。

 著者の西村氏は、1994年から2年間、米国のCDCCenters for Disease Control and Prevention)のインフルエンザ部門で研究し、帰国後は国立感染症研究所でインフルエンザ研究室の主任研究員をしていました。現在は、国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウィルスセンター長をしています。インフルエンザと新型コロナは同じ呼吸器系ウィルス感染症ですから、インフルエンザの専門家である西村氏は、新型コロナの専門家でもあるのです。西村氏は、日本における呼吸器系ウィルス感染症の中心人物の一人となっています。

 これから人類は新型コロナと永久に共生していかなければなりません。それは100年前にパンデミックとなったインフルエンザ(当時は「スペイン風邪」と言った)と同じだと西村氏は言います。インフルエンザは今でも毎年流行していますが、私たちはそれを恐れることなく、適切に共生する方法を知っています。それと同じように、新型コロナと共生するには、新型コロナを過剰に恐れることをやめて、正しく理解しなければなりません。そこで以下では、新型コロナと早く共生できるようになるために、西村氏が著書の中で指摘していることの要点をまとめてみることにします。

 

1.誤解に満ちた現在の新型コロナ対策

 新型コロナについての誤解は、「呼吸器系ウィルス感染症」の専門家ではない自称専門家を名乗る学者たちが行政やメディアに発した情報から生まれた。現在、誤った情報にもとづく誤った対策が至る所で行われている。専門外の自称専門家とは、感染症の専門家であっても細菌の専門家であったり、ウィルスだとしても呼吸器系ではなく血液系の専門家であったり、あるいは感染症以外の有名科学者たちである。彼らが発する情報は、確かめられることもなくメディアや行政に取り上げられ、呼吸器系ウィルス感染症の対策としては笑ってしまうような対策が社会にまん延していると西村氏は指摘している。

  誤解を生み出した最大の原因は、新型コロナウィルスが飛沫で運ばれる「飛沫感染」だということにある。これは、感染力の強い「はしか」、「水疱瘡」、「結核」などの細菌が空気中を浮遊して感染するのが空気感染であって、咳などの飛沫で感染する新型コロナは空気感染ではないと言う古い考え方に固執する専門家の主張である。

 「〜感染」とは感染症を引き起こす細菌やウィルスを「何が運ぶか」を表しているのであって、新型コロナウィルスを含んだ飛沫も空気で運ばれるから「空気感染」と言うのが現在の新しい考え方である。例えば、水の中のウィルスによる感染を「水系感染」、血液中のウィルスによる感染を「血液感染」と呼ぶのと同じである。

 新しい考え方は、重力で落下する飛沫を除いて、空気中を浮遊する飛沫と飛沫核(飛沫から水分がなくなって残った物)を「エアロゾル」と呼び、新型コロナウィルスはこのエアロゾルに乗って空気で運ばれるから、空気感染だと考える。エアロゾルは、空気の流れの強さによって浮遊する飛沫の大きさの上限が変わるから、「空気の流れ」が感染防止対策の重要な要素になる。新型コロナをエアロゾルによる空気感染だと捉えないと、感染対策を誤ることになる。

 今まで「飛沫感染」という古い考え方のもとに、食堂や店のカウンターで飛沫を防ぐためにパーティションやビニールカーテンで仕切ってきた。しかし、新しい考え方では、パーティションやビニールカーテンが換気の妨げになってウィルスを含んだエアロゾルを滞留させ、かえって感染リスクを増すことになる。すぐに落ちる大きな飛沫は、掃除機並みの吸引力がないと吸い込めないから、それを人間が吸い込む心配はない。飛沫が食べ物に落ちたとしても、消化器系で感染することはないから、それを食べても感染しない。また、後述するように、新型コロナウィルスを含んだ飛沫をあびた物を通して感染する接触感染もない。結局、飛沫を防ぐためのパーティションやビニールカーテンは必要がなく、かえって逆効果になるのである。

 こうした誤った感染対策がとられるようになったもう1つの原因は、理化学研究所のスーパーコンピュータ富岳による「1回の咳で出る粒子の飛散」を示すシミュレーション画像である。1回の咳で飛沫の粒子が広がっていくシミュレーション画像が公開され、それが専門家を惑わし、誤った対策をとらせることになった。しかし、実際には、1回の咳で出るウィルスは10個程度であり、その中で生きているウィルスは110011000であって、1回の咳で感染することはあり得ない。感染は何回かの咳のエアロゾルが滞留することによって起こるのである。こうした現実の生活空間とはほど遠く、不完全なシミュレーションの結果を信じ、それを恐れるあまり無意味な対策がとられることになった。行政はパーティションやビニールカーテンを感染対策のお手本とし、感染対策補助の要件としてきたが、これも誤解にもとづく政策であった。

 ダイアモンド・プリンセス号の事件で、新型コロナが接触によって感染する「接触感染」という誤った情報が生まれた。西村氏は、臨時検閲官として実際にダイアモンド・プリンセス号に乗り込んで調べたところ、船内の空調が感染者がいる船室の空気を吸い込み、それを全体の空気と一緒に温度調節した後、各船室に送り込む方式になっていたことが原因であり、やはり空気感染であることをつきとめた。

 生活環境の中の物の上で新型コロナウィルスが生き続ける時間を測定した実験も感染対策を誤らせる原因となった。物によってウィルスの寿命が決まるのではなく、実際は、最初のウィルスの数が多いほど、1カ所に集まっているほど最後の1個が死ぬまでの時間が長くなるのである。

 ここで、ウィルスが「死ぬ」とはどういうことかを説明しておく。ウィルスに感染するとは、ウィルスが体の中の細胞に入って増殖し始めることである。感染できる状態のウィルスを「活性がある(=生きている)」と言い、活性を失うと「失活(=死ぬ)」と言う。新型コロナウィルスは、RNA遺伝子が「エンベロープ」と呼ばれる二重層脂質で包まれ、そこに「スパイク」と呼ばれる蛋白質の突起がついている。失活する(死ぬ)とは、スパイクやエンベロープがなくなってRNA遺伝子だけになり、感染ができなくなることである。ウィルスが死んでも、後述するように、PCR検査では陽性に出る。

 ウィルスと細菌の違いは、細菌が1つの細胞からなり、物の上でも生き続けることができて、細胞分裂によって倍々に増殖するのに対して、ウィルスは、物の上では短時間で死んでしまうが、細胞の中ではRNA遺伝子をコピーすることによって爆発的に増殖することである。物の上で生き続ける細菌には接触感染があり得るが、生き続けられないウィルスには接触感染が殆どあり得ないというのが、世界の専門家のコンセンサスになっている。現在、店や施設の中のテーブル、椅子、ドアノブ、床などをひっきりなしにアルコール消毒しているが、これは無意味であり、労力の無駄である。

 過去にアフリカで起こったウィルス感染症のエボラ出血熱が遺体の体液や血液に触っただけで感染したことから、新型コロナで亡くなった遺体についてもビニールの納体袋に入れて密閉し、遺族との対面が許されなかった。しかし、呼吸しない遺体から生きた新型コロナウィルスが出てくることはあり得ない。こうした西村氏の発信により、今では遺体との対面が許されるようになった。

 新型コロナは、皮膚や目から感染することはない。皮膚はいくつもの層からなり、一番外側の角質層には病原体から体の内部を保護するバリア機能がある。角質層は剥がれ落ちる寸前のほぼ生きていない細胞なので、ウィルスは角質層の細胞では生きていけない。また、インフルエンザや新型コロナのような呼吸器系ウィルスは角質層が傷ついていたとしても、そこから感染することはない。むしろ、過剰な手洗いやアルコール消毒は、皮膚のバリア機能を破壊することになり、かえって害となる。

 空気中のエアロゾルのウィルスが目から感染することはない。これは、インフルエンザに関するボランティアの実験で明らかになっている。従って、フェイスシールドやゴーグルをすることも全く無意味である。

 鼻についても、鼻の入り口を指で触ったくらいでは感染しない。鼻毛が生えている範囲は皮膚だから、皮膚からは感染しない。

 以上のように、新型コロナはエアロゾルで空気感染する呼吸器系ウィルス感染症であり、目や鼻からの飛沫や接触による感染や食べ物などによる消化器系からの感染はないのである。

 

2.エアロゾルによる空気感染を防ぐ方法

 エアロゾルによる空気感染を防ぐ方法は、「マスク」をすること、「換気」を良くすること、長時間の「三密(密閉・密接・密集)」を避けることであり、これらは従来と全く変わらない。2mの「ソーシャル・ディタンス」も有効である。ソーシャル・ディスタンスが有効な理由は、エアロゾルが2mほど飛ぶ間に空気で希釈されて感染リスクが下がるからである。

 風邪程度ですむか、重症化するかは、ウィルスが鼻腔の粘膜や咽頭などの「上気道」に付着するか、気管支や肺の「下気道」に付着するかによって決まる。上気道と下気道のどちらに付着するかは、エアロゾルの飛沫粒子の大きさと吸い込む勢いによって決まり、飛沫粒子の大きさは空気中の湿度の影響を受けて変わる。湿度が高いときは、粒子の乾燥が遅いために粒子が大きいままで鼻から吸い込まれて上気道に付着し、風邪程度ですむことが多い。湿度が低いときは、粒子の乾燥が速く、粒子が小さくなって広く拡散し、吸った息とともに下気道にまで到達して重症化することが多い。これからの冬場は空気が乾燥するので、重症化しやすくなるから注意しなければならない。

 一般的に子供は新型コロナに感染しても重症化することが少ない。従って、子供には大げさな規制をするのを止めて、なるべく正常な育成方法を維持した方が良い。

 マスクは、「素材性能」と「密着性」が生命線となる。素材性能では、着け心地がソフトで息もしやすいポリウレタンは、エアロゾルの粒子除去効果が殆どないから、止めた方がいい。不織布マスクは、0.30.5?の微粒子でも90%以上除去し、医療用サージカルマスクと同程度の性能がある。しかし、不織布マスクでもスカスカのものもあるから、フィルタ性能表示のPFE(微粒子濾過効率)とBFE(細菌の濾過効率)が95%以上のものを選ぶこと。

 マスクの密着性を高める方法は、あらかじめマスク上端のワイヤを鼻の稜線と頬の上部にピッタリと合わせた形にすることである。さらに密着性を高めるには、マスクを横に二つ折りにして、両端の紐を根元で結び、両端にできた穴を粘着テープでふさぐ。そうするとマスクが医療用のN95マスクのように立体的になり、息がしやすくなって、密着性も増す。走ったり、前屈みや上を向くと、隙間ができて密着性が失われるから注意しなければならない。

 なお、フェイスシールドやマウスシールドは、隙間から飛沫が入って滞留するので、かえって危険である。

 外のオープンスペースではマスクをしなくてもよい。先を歩く感染者が出したエアロゾルの中を通ったとしても、空気の拡散運動によって通過する短い時間に生きたウィルスを吸い込む確率は極端に低い。戸外では地面からの上昇気流を含めて必ず風が吹いているから、危険性はさらに少なくなる。

 密室ではないが注意しなければならない場所は、人々が一定の方向に進むエスカレータなどである。こうした場所で危ないと思ったら、マスクの上から手で押さえたり、通過する間だけ吸い込む息を小さくするとよい。

 換気をよくするには、部屋の両側の窓を開け、扇風機をうまく使って空気の流れをつくることである。

 空気感染を防ぐには、「手洗い」よりも、「うがい」、「鼻うがい」、「口ゆすぎ」を積極的にすることである。できれば、「ヨード液(イソジン)」でうがいをした方がよい。寝る前に適度なヨード液で口の中のウィルスを減らしておけば、重症化する確率は確実に減らせる。

 「緑茶」も新型コロナウィルスを殺す作用がある。そのためには、緑茶とウィルスが13分接触する必要があるから、口の中でぶくぶくするようにして、何回か飲むとよい。カラオケで歌う前に緑茶を飲むことも感染防止になる。 

 

3.新型コロナの検査方法について

 PCR検査は、鼻の奥の粘膜をぬぐった液や唾液を検査対象とし、その中に新型コロナウィルスのRNA遺伝子の一部の「特徴的な遺伝子の塩基配列」があるかを検査する。こうしたPCR検査では、死んだウィルスでも陽性(偽陽性)となる。前述したように、エアロゾルの中で生きているウィルスは1/1001/1000であり、9999.9%のウィルスが死んでいることになるから、偽陽性に検出される確率はかなり高いはずである。

 なお、検体中のウィルス遺伝子の量は、検体中の酵素の働きによって、時間の経過とともに減っていくから、検体を採取したら速やかに検査しなければなならい。また、ウィルスのRNA遺伝子の塩基配列を検査するPCR検査は、変異株のウィルスが出現して検査する塩基配列部分が変わった場合には、その部分を変更する必要がある。

 日本では新型コロナ感染の初期段階において、PCR検査キットの不足から、PCR検査をする目安として「37.5度以上の熱が4日間以上続いている」という条件を定めて、PCR検査を受ける人を絞り込んだ。それがPCR検査の回数不足として問題になったが、西村氏によると、これは正解であったという。もし、条件を付けずに多くの人をPCR検査していたら、偽陽性の人が多く検出されて、本当に治療を受ける必要のある患者を選別できず、医療崩壊を起こしていたというのである。

 PCR検査は、陽性か陰性かを判別する方法が主流になっているが、従来通りのやり方をすれば定量的なウィルス量の情報まで分かる。西村氏は、本人の重症化のリスクと周囲に感染を広げるリスクを判断するには、定量的なPCR検査を複数回行って、定量的な変化を見るのが有効だと指摘している。

 新型コロナの検査方法として、PCR検査以外に「抗体検査」と「抗原検査」がある。抗体検査は「過去に新型コロナに感染したことがあるかどうか」を調べる検査である。しかし、現在、感染していないことの証明にはならない。PCR検査を含むどんな検査でも、「今、感染していない」と証明することはできないという。抗体検査には、簡易キットを使った定性的な検査と、精密な機器を使って抗体の量を定量的に測定する方法がある。

 抗原検査は、採取した検体の中に「ウィルスの蛋白質(抗原)があるか」を調べる検査である。抗原検査キットは、感染性ウィルスがいるかを判定する能力が90%以上あり、1015分で検査結果が出るので、コンサートなどの催し物会場の入り口で入場者のチェックに使える。政府は、9月の規制改革会議で車両による移動式のPCR検査・抗原検査を解禁した。

 

4.新型コロナとの共生

 新型コロナと共生する方法を考えるときに、同じ呼吸器系ウィルス感染症で100年の歴史を持つインフルエンザが参考になる。新型コロナとインフルエンザは、ウィルスが鼻や喉で増えるために体外に出やすく、エアロゾルによる空気感染であることも共通する。2003年に流行したSARS(重症性呼吸器症候群)や2012年に流行したMERS(中東呼吸器症候群)は、ウィルスがおもに患者の肺の中で増えるために体外に出にくかったために、感染収束後は再び流行することがなかった。新型コロナは、症状が出る前から感染力がある点でインフルエンザよりもやっかいである。

 インフルエンザは1918年に新しい呼吸器系ウィルス感染症として出現してパンデミックとなった。当時の世界人口は18億人(現在の4分に1)であったが、2千万人から1億人とも言われる人々が死亡し、日本では40万人近い死者が出た。その当時、日本ではコレラが35年間隔で大流行していて、その都度10万人前後の死者が出ていて、1923年には関東大震災が起こって10万人の死者が出た。

 その後インフルエンザは、新型ウィルスが3回出現してパンデミックを繰り返してきた。そして、パンデミックとパンデミックの間は比較的おとなしい流行が毎年繰り返された。今後、新型コロナも新型の変異株が何回か出現して、パンデミックを繰り返すことになるが予測される。

 感染症の長い歴史を見ると、一般的に感染が広がるほどウィルスの弱毒化が起こり、病原性が弱まっていくことが分かる。最初のうちは毒性が強くて亡くなる人が多いが、宿主である人を殺してしまうとウィルス自体が生き残れなくなるから、長期的には人を殺さない程度に毒性が弱いウィルスの方が優勢になって生き残るからである。新型コロナも長い年数で見れば、毒性が弱まっていき、インフルエンザと同じようになっていくと予測される。

 これから新型コロナと共生する社会を築くには、まず新型コロナを正しく理解して、現在の誤解に満ちた対策(パーティション、ビニールカーテンなど)を見直し、感染対策を立て直さなければならない。また、感染を恐れる余りに可能性の低いリスク(接触感染リスクなど)まで対応していたら、社会が成り立たなくなる。「恐れすぎ」からくる差別の問題にも対応する必要がある。

 

あとがき

 ここでは最近の新型コロナの状況と今後のコロナとの共生について述べる。 9月末時点における新型コロナの感染者累計数は、世界全体で233百万人、日本では1.7百万人であり、死亡者累計数は、世界全体で477万人、日本では1.76万人である。人口当たりで見ると、日本の感染者数は世界平均の約半分であり、死亡者数は約4分の1であるから、日本人は新型コロナにかかりにくく、死亡する人も少ないことが分かる。こうなる理由として、日本人はハグやキスをする習慣がなく、マスクをする習慣があるからだと西村氏は指摘している。

 日本では、20202月頃から新型コロナの感染が始まり、現在までに5回に及ぶ感染の波が繰り返された。最初の緊急事態宣言が20204月に発せられ、その後、何回か緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が絶え間なく出されて、人々の行動自粛を促してきた。グーグルによる人流データを基に外出自粛率を分析したところ、人々の自粛に影響を与えたのは、宣言や重点措置よりも感染者の増減情報の方が大きかったことが分かった。また、緊急事態宣言の回数を重ねるにつれて宣言の効果が小さくなった。

 日本では20212月からワクチン接種が始まり、医療従事者・高齢者から現役世代へと行き渡り始め、922日の時点で2回接種者が50歳代で58%、40歳代で41%に達した。9月末時点でワクチンを1回接種した人の割合は、日本が70.7%で米国を抜き、英国の71.6%、フランスの74.4%に迫っている。

 第5波では、新型コロナウィルスが変異したデルタ株が流行し、その感染力が当初のウィルスの約1.5倍もあることから、感染が急拡大した。幸いにも、ワクチン接種者が増えたことから、かろうじて医療崩壊を免れることができた。ワクチン接種者の重症化率が8分の1に、死亡率が3分の1に減少したからである。そして、820日頃をピークにして全国的に新規感染者が減少し始め、病床使用率も50%を切って減少してきた。これを受けて政府は、101日をもって19都道府県の緊急事態宣言と8県の重点措置を解除した。

 デルタ株は2回のワクチン接種者にも感染する「ブレイクスルー感染」を引き起こした。オックスフォード大学の研究によると、ブレークスルー感染したワクチン接種者が他人にうつすリスクは未接種者のリスクの35%になるという。つまり、2回接種したワクチンのデルタ株に対する予防効率は65%ということである。それでも他人にうつすリスクがあるのだから、ワクチン接種済みでも検査やマスク着用などの感染対策を続けなければならなくなった。

 ワクチン接種が最も進んでいるイスラエルでも、今、ブレークスルー感染による感染者が増えていて、3回目のワクチン接種(「ブースター接種」という)をしている。イスラエルの研究によると、ブースター接種はブレークスルー感染にも有効であり、免疫が持続するようになるという。今後のワクチン接種は3回するのが一般的になるであろう。

 日本では緊急事態宣言が全て解除されたが、これで安心してはいられない。ブースター接種をしなければならないし、パンデミックは全く収まっていないから、今後、第6波が必ず起こると考えなければならない。しかも、これから冬にかけて乾燥する季節を迎える日本では、重症化が増える恐れがある。

 また、今まで緊急事態宣言の犠牲になってきた飲食店・ライブハウス・観光業などの経済活動を再開して、多少の感染者が出ても医療逼迫を防ぎながら、経済活動を持続できるようにする方法を確立しなければならない。

 それには、体制の強化が急務となる。まずは、検査体制の強化をしなければならない。感染を防ぎながら飲食店・ライブハウス・観光業などの経済活動を続けられるようにするには、客と接する従業員についてPCR検査や抗原検査を無料化して、検査回数を週1回程度にしなければならない。

 次に、医療体制の強化である。日本は人口当たりの病床数が世界のトップにあるが、実際に対応できる医師や看護師が確保できないために、実効性のある病床が確保できていない。これに対処するには、臨時医療施設や宿泊療養・在宅療養に対して、オンライン診療を強化することによって医師や看護師の不足を補うことが急務となる。また、大病院が受け入れる患者を病院での治療が必要な患者に絞り込むシステムを構築する必要がある。諸外国では、既に無症状や軽症の患者は自宅療養が原則となっていて、限られた病床を必要な患者に有効活用している。英国では、資格を持つ総合診療医が幅広い症状に対して入院の要否を判断している。こうした医療体制の強化は、地域の開業医を巻き込んだ地域医療体制の再構築となり、高齢化社会にも有効な医療体制となる。

 日本の水際対策が欧米主要国と比べて厳しすぎて、今後の経済復興の妨げになることが懸念される。日本の現在の水際対策は、入国者の上限を1日に3500人以内に制限し、出国時と入国時の両方の検査と、入国後14日間(接種済者は10日間)の待機を義務づけている。米国とフランスは出国前の検査だけ、英国とドイツはワクチン未接種者に限って出国前の検査だけを義務づけ、入国者数の制限や入国後の待機措置は行っていない。日本の水際対策は「恐れすぎ」であり、ワクチン接種者の増加に伴って感染リスクが低減していることを全く考慮していない。コロナと共生して経済活動を持続させる「ウィズコロナの戦略」とは、医療体制が許容し得る感染者数・重症者数の範囲内で、経済活動をできるだけ大きくできるように、「規制を緩めていく」ことである。日本の「規制」は、水際対策のように、安全を見過ぎている。これでは、コロナと共生する社会を築くことは不可能である。

 ここで、国産の新型コロナワクチンの実用化予定についてふれておく。新型コロナワクチンには色々な種類がある。日本で使われている米国のファイザーとモデルナのワクチンは、ウィルスの遺伝情報を使う「メッセンジャーRNAmRNA)」と呼ぶ新しいタイプのワクチンである。英アストラゼネカや米ジョンソン・エンド・ジョンソンのワクチンは、無害なウィルスを生かした「ウィルスベクター」と呼ばれるワクチンである。この他に、感染力をなくしたウィルスを使う「不活化」型、遺伝子組み換えで作ったウィルスの一部を活用する「組み換え蛋白」型、ウィルスに似た構造を生かした「VLP」型などがある。国内勢では、塩野義製薬が「組み換え蛋白」型の開発を進めていて、20223月の実用化を目指している。また塩野義製薬は、鼻や喉の粘膜の免疫をつけて感染を防止するために、鼻に噴霧する方法の臨床試験を2022年度から始める。この他に、第一三共が「mRNA」型を2022年中に、KMバイオロジクスが「不活化」型を20233月までに実用化する予定である。なお、田辺三菱製薬が植物由来の「VLP」型で本年中の実用化を目指しているが詳細は不明である。

 最後に、今までに発生した新型コロナの変異株について述べる。各変異株には名称としてギリシャのアルファベット(アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、…)がついている。WTOは、変異株を感染力の強いVOC(懸念される変異株)とVOI(注目すべき変異株)の2種類に分けている。VOCには、20209月にイギリスで見つかった「アルファ」、20205月に南アフリカで見つかった「ベータ」、202011月にブラジルで見つかった「ガンマ」、202010月にインドで見つかった「デルタ」がある。今までに感染した国数は、アルファが171カ国で最も多く、次いでデルタが146カ国である。日本でも、アルファ株が20213月〜5月に主流になり、20216月以降はデルタ株が主流になった。なお、日本でも今までにベータ株が114例、ガンマ株が115例だけ検出されている。VOIには、複数の国で見つかった「イータ」、アメリカで見つかった「イオタ」、インドで見つかった「カッパ」、ペルーで見つかった「ラムダ」、そして、最も新しい変異株は20211月にコロンビアで見つかった「ミュー」の5つの変異株がある。VOIの変異株が感染した国の数は、3177カ国であり、VOCと比べて少ない。日本ではそれぞれ127例しか検出されていないが、全ての変異株が日本に入ってきている。

 さて、今までに発生した変異株が最初に見つかった年月を調べると、全ての変異株が20205月〜20211月の9ヶ月間に見つかっていることが分かる。その後は現在まで見つかっていない。また、欧米の研究者が指摘しているように、最初の新型コロナが20199月に中国で発生していたとすれば、最初の変異株が見つかるまでに9ヶ月を要したことになる。このことから、新型コロナには約18ヶ月の周期があって、約9ヶ月ごとに流行期と変異期を繰り返してきたように見える。                                     (以上)

世界の今

                                                     20218 芦沢壮寿

 今、世界は米中対立のもとに急速に変化しています。そうした世界の変化の最新の状況を考察して、世界の行方を考えてみることにします。

 

1.通貨覇権の争い

 世界の通貨制度は1944年まで金を基準に各国の通貨価値を固定する「金本位制」であった。第2次世界大戦末期の1944年に開かれた連合国のブレトンウッズ会議で、金ドル本位の「固定相場制」の通貨制度が固まってドルが基軸通貨となり、ドルの覇権が確立された。これを「ブレトンウッズ体制」という。金ドル本位の固定相場制とは、1トロイオンスの金を35ドルに固定し、1ドルに対する各国の為替相場を固定するもので、米国が海外からの金への交換要請に応じた。その時に日本円は1ドル360円に固定された。

 ブレトンウッズ体制は、今から50年前の1971年に起こったニクソン・ショックによって崩壊し、世界は「変動相場制」へと移行した。その当時の米国は、日本やドイツからの輸入増加で国際収支が赤字に転じ、ベトナム戦争の戦費拡大で財政が悪化し、金ドル本位制を維持することが困難になっていた。そこで米国は、日欧に通貨調整の責任分担を求めたのである。変動相場制には国際収支の不均衡を自動調節するメリットがあり、金融のグローバル化が進んで世界経済が発展したが、一方では世界的な金融危機が頻発するようになった。1980年代にラテンアメリカ諸国で債務問題が発生し、1997にアジア通貨危機が起き、2008年にリーマン・ショックが起きた。変動相場制になっても、世界の貿易決済の半分近くがドル建てで行われることによって世界の経済情報が米国に集まり、米ドルは貿易や投資の国際取引の基軸通貨であり続けた。

 しかし、変動相場制になって50年間に、金に対するドルの価値が98%も下落した。世界銀行によると、50年間に世界の通貨供給量が国内総生産(GDP)の6割から1.3倍になり、生産性が3.2倍になったが、1時間当たりの賃金は1.4倍に留まったという。これは、経済成長の成果の個人への分配率が低下し、貧富の格差が拡大したことを意味する。こうした状況にドル離れが進み、中国は外貨準備のドル依存度を20年間で8割から6割に下げ、世界の外貨準備のドル比率はピークの87%から59%に下がった。

 中国の台頭もドル覇権を脅かしている。既にモノの貿易では、ここ50年間で米国の貿易額が世界全体の13%から11%に低下したのに対して、中国は1%から13%になって米国を抜いた。2030年までに経済規模で中国が米国を追い抜くという試算がある。さらに、購買力平価(国が違っても同じ製品の価値は同じと考えた場合の交換レート)で経済規模を比べると、既に2017年に米中の経済規模が逆転したという。

 ここで、日本経済と円相場の動きについてふれる。日本は、ニクソン・ショック後に円高が進み、1ドル7532銭の最高値をつけるまで長期円高となり、輸出主導で成長してきた日本経済の重荷となった。ところが最近では、円安に逆戻りして状況が一変している。企業が海外に生産拠点を移したために国内からの輸出が減る一方で、化石燃料の輸入が年17兆円に膨らんで貿易基調が赤字に転じ、円安はマイナス効果となっている。今後、2050年を目標にカーボンゼロやデジタル化を進めることによって輸出入の構造が変わっていくが、2050年における日本経済でも「円安はマイナス効果」という状況は変わらない。エネルギー源が再生可能エネルギーになって化石燃料の輸入が減ったとしても、日本のデジタル化が遅れているために、海外のソフトウェア、クラウド、ネット通販といったサービスやIT機器の輸入が増えるからである。日本は、円高是正に重点を置いて付加価値の低い産業を延命させてきたが、そのために付加価値の高い産業へのシフトが遅れて、賃金が上がらず、消費が低迷する悪循環に陥っている。経済協力開発機構(OECD)によると、主要国の平均年収が2000年以降に14割上昇したのに対して、日本は横ばいであった。日本の賃金水準は、韓国より1割近く低くなり、新興国の水準に近づきつつある。

 今、世界各国が「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」の発行を急いでいる。そのきっかけを作ったのは、米フェイスブックが20196月に発表したデジタル通貨「リブラ」である。リブラは、ビットコイン(仮想通貨)と異なり、ドル、ユーロ、円などの法定通貨を裏付け資産とする。世界で28億人のフェイスブック・ユーザーがリブラを使えば「世界通貨」となる可能性が高い。そうなれば、主権国家の中核機能となっている通貨発行権が民間企業に奪われてしまう。そのことに気づいた各国の金融当局が「リブラつぶし」で団結した。

 なお、ビットコインなどの仮想通貨は、マイニング(採掘)に大量の電力を浪費し、価格変動も激しいことから、世界的に規制される動きにある。既に中国当局はマイニングを全面禁止した。

 中国政府は、富裕層が秘密裏に人民元を海外に逃避する不正な動きを防止し、10億人超の利用者を抱えるアリババ系「アリペイ」やテンセント系「ウィーチャットペイ」が人民元の国家統制を空洞化させるのを防止するために、CBDCによって国家統制を強化しようとしている。中国は、既にデジタル人民元の実証実験を進めており、来年開催される北京冬季五輪に合わせて発行する。G7は今秋にデジタル通貨に関する新たな原則を明らかにするが、中国の国家統制の強化を目的とするデジタル人民元とは異質なものとなるであろう。

 以上のように、今、世界は、デジタル時代の通貨覇権を巡って、通貨発行の主権と秩序を守りたい国家と、送金手数料を下げて金融サービスの利便性を高めたい巨大テック企業とが競争している。一方では、中国とG7CBDCの発行を巡って競争している。しかし、資本移動の自由を認めない中国には通貨覇権を握る能力も意図もないから、中国が通貨覇権国になることはあり得ない。

 今、米国は、コロナ禍で財政赤字が史上最悪の3兆ドルとなり、経常収支の赤字が12年ぶりの高水準に達し、インフレ率が5%へと高くなり、ドル覇権の維持が危うい状況にある。しかし、国際金融の支配的な座を降りようとせず、そのために各国が米金融政策に振り回され、世界経済が不安定になっている。

 今後の世界通貨制度は、米国が通貨覇権国から退いて通貨覇権国が不在となり、米欧日を中心に民主主義に基づく国際協調を目指すグループと、中国を中心に強権主義に基づく国家統制を目指すグループが対抗するようになると推察される。しかし、通貨覇権国の不在は、国際的な金融危機対応を脆弱化させ、世界経済のブロック化を招くと考えられる。

 

2.カーボンゼロの近況

 現在、世界の平均気温が産業革命から1度ほど上昇しただけだが、それでも日本では大規模な水害や地滑りが多発するようになり、世界でも山火事や水害が多発し、熱波による死者が増えている。気象関連災害による世界の経済損失は年間20兆円を超えるようになった。

 世界は、今、化石燃料を使うのを止めて太陽光や風力による再生可能エネルギーに代え、温暖化ガス排出量を実質的にゼロにする「カーボンゼロ」を目指している。それを「グリーン・トランスフォーメーション(GX)」という。世界の企業は、GXによって企業価値が決められ、選別されるようになった。特に製造業は、カーボンゼロを達成しないと存続がむずかしくなる。炭素税やCO2排出量取引価格などのカーボンプライシングが本格的に導入されると、CO2排出量の多い世界の主要1000社(電力、エネルギー、鉄鋼、セメント、化学などの企業)は2050年までに42兆ドル(4700兆円)を負担することになる。国際エネルギー機関(IEA)によると、カーボンプライシングは2040年にCO2排出量1トンが140ドル(15,400円)となり、CO2排出削減を怠れば主要1000社のうち63%の企業が赤字に転落するという。

 日本勢はカーボンゼロへの対応の遅れが目立つ。1000kw時の電気をつくる場合に、日本で最も安い電源は石炭火力の74ドルであり、太陽光で124ドル、風力で113ドルになる。世界各国で最も安い電源は、中国が太陽光で33ドル、米国が風力で36ドル、英国が風力で42ドルである。世界各国で太陽光や風力が最も安くなっているのに、日本はいまだにCO2排出量の多い石炭に依存し、その価格は米中の太陽光や風力の電力料金の2倍以上であり、日本の太陽光発電料金は中国の3.8倍になる。ここ10年の技術革新と大規模化によって、太陽光は8割、陸上風力は4割安くなった。

 日本政府は、2050年までに再生エネを現状の3倍近い5060%に高める計画である。しかし、日本は森林面積が多いために太陽光パネルが置ける面積が少なく、洋上風力に適した海の面積も少ない。こうした日本の地理的な制約を克服して再生エネを増やすには、太陽光パネルを日本中の建築物や構築物に設置し、再生エネを調達しやすい所に工場を建てるように産業立地を再編する必要がある。もう一つの方法は、再生エネの生産に適した海外で再生エネを生産し、それを使って貯蔵や輸送に適した水素やアンモニアを生産する。それを日本に輸入して、水素は燃料電池車や発電に使う。アンモニアは既存の火力発電所で発電できるメリットがある。

 今年の89日に国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が産業革命前と比べた世界の気温上昇が202140年に1.5度に達するとの予測を公表した。これは、パリ協定で想定していた「2050年までの気温上昇を1.5度以内に抑える」という努力目標が10年も早まったことを意味する。パリ協定では、2050年までの気温上昇を2度未満にすることを目標とし、1.5度以内を努力目標として、二酸化炭素排出を実質ゼロ(=カーボンゼロ)にすることにしていた。予測が10年も早まった理由は、予測モデルに北極圏のデータを入れたからであった。以前から筆者は、日本人研究者の「ツンドラ地帯の永久凍土が溶け始めて、凍土の中に閉じ込められているメタンガス(CH4:炭酸ガスの25倍の温室効果がある)が放出されている」という指摘が気がかりであったが、そのデータを予測モデルに入れたと推察される。これから北極圏では他の地域の2倍超のペースで温暖化が進む。実際にここ20年間でシベリアでは平均気温が5度以上も上がったという。

 1988年に設立されたIPCCは、1990年の第1次報告から「人間の行動と温暖化の因果関係」について56年間隔で公表してきた。今回の第6次報告で初めて「人間の影響が大気・海洋及び陸域を温暖化させていることは疑う余地がない」と断定した。

 今回のIPCCの報告では5つのシナリオを提示した。205060年に温暖化ガスの実質排出量をゼロとする最善のシナリオでは204160年の平均気温上昇が1.6度となり、化石燃料への依存が続く最悪のシナリオでは2.4度となる。平均気温の上昇を1.5度以内に抑えるには、既に産業革命から2019年までに2390ギガトンのCO2排出しているので、今後のCO2排出量を400ギガトン以内に抑える必要がある。現状の年間排出量が3040ギガトンであるから、今後10年間でカーボンゼロを達成することが1.5度以内に抑えるための必須条件となる。

 

3.デジタル経済の弊害とサイバー空間の攻防

 デジタル経済の弊害についてふれる。デジタル経済の最大の弊害は、労働分配率の低下である。20世紀にGDPを生み出す主役は自動車産業などの製造業であったが、21世紀になるとITサービス産業に代わってきた。それに伴って労働分配率が大幅に低下した。例えば、1970年代の米自動車産業の労働分配率は70%であったが、2010年代の米ITサービス産業は33%になった。ITサービスは全産業の平均労働分配率より21%も低く、米巨大ITは年に570億ドル(約6.3兆円)もの富を働き手に分配していないのである。

 次の弊害は、デジタル化されたアイディアが限界費用ゼロでコピーされることによる弊害である。デジタル化されたITサービスは、量産・流通コストがゼロに近づき、優れたアイディアが無限大に広がって勝者総取りとなる。すると、アイディアの多様性がなくなって、消費者の選択肢が奪われ、無名のアーティストが稼げなくなる。フェイスブックやグーグルなどのプラットフォーマーは、商品であるサービスをタダで提供し、商品に付属する広告・宣伝で莫大な利益を上げているのである。

 次にサイバー空間における米中の攻防についてふれる。5G通信の安全保障を巡る米中対立の影響で、中国のファーウェイを使用しない国・地域が増えている。ファーウェイはスマートフォン関連事業でも米政府の輸出規制により、今年16月に30%近い減収となった。

 米バイデン政権は、中国を名指して、中国が国家戦略として少なくとも30を超える民間ハッカー集団にサイバー攻撃を行わせていることを認定し、日本、英国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、EUNATOと共に対抗措置を講じることを言明した。そして、米国のFBINASAが中国ハッカーの手口として、「業務用ソフトウェアの脆弱性を狙って人海戦術で攻撃する手口」、「メールの弱点を攻撃して、遠隔操作ができる仕組みを埋め込む手口」、「ツールの外部との連携機能を使って、悪意のあるソフトウェアを埋め込む手口」、「ユーザーの機密情報などをサーバーから盗み取る手口」など50の手口を公表した。その中には、「ランサムウェア」(身代金要求ウィルス:攻撃対象のコンピュータのファイルを暗号化して使えなくし、暗号を解く代償として身代金を要求する)という悪質な手口がある。日本では、昨年1月に中国人民解放軍を背景に持つハッカーにNECの防衛関連ファイルが不正アクセスされ、今年の4月にJAXAなどの200の組織が攻撃を受けた。米国では100社超の企業が攻撃され、司法省が中国国家安全省の関係者4名を訴追した。EUでは知的財産権の窃盗やスパイ活動を目的として、複数のクラウドサービスが侵略されている。NATOでは重要インフラがランサムウェアのサイバー攻撃を受けた。

 米国は、サイバー空間での中国包囲網として、日本・韓国・東南アジア・オセアニアと広域デジタル貿易協定を結ぼうとしている。米国の構想には経済面の目的と政治面の目的がある。経済面の目的は、「国境をまたいだデータ流通」、「プライバシー保護」、「人工知能の活用」などのルールが整備されたデジタル空間を作って、情報が自由に行き交い、企業が活動しやすいの経済圏を築くことである。政治面の目的は、データ管理や社会の監視で国家統制を強める中国に対抗して、自由主義に基づくデジタル貿易によって結束をより強固にすることである。

 一方、中国の習近平政権は、米中対立の先鋭化を受けて、中国国内の企業に対して個人データの海外への持ち出しを厳しく制限し、中国に差別的な措置を取る外国への対抗措置も盛り込んだ「個人情報保護法」を可決した。この法律は、既に可決されている「インターネット安全法」、「データ安全法」とともにデータ統制の三法を形成する。習近平政権は、個人情報について「個人情報のデータは企業の資産であり、国家の安全にもかかわる」と考えている。

 次に通信費用削減の技術革新についてふれる。5G通信基地局の電波は半径1km程度しか飛ばないので、通信基地局が多くなる。そのために5G通信基地局を整備する費用は、日本国内でもKDDIやソフトバンクで2030年度までに2兆円規模になる。その費用の多くは、アンテナと無線制御、データ処理をする専用機器に費やされる。そこで最近、基地局の無線制御とデータ処理をする部分をクラウド上のソフトウェアに置き換える「基地局のクラウド化」が広がっている。基地局をクラウド化することによって、無線制御とデータ処理をする専用機が不要になり、5Gインフラ費用が4割も削減できる。

 国立研究開発法人によると、世界のIT関連の消費電力量は、このままでは2050年に2018年比で約200倍になると予測される。これを克服するためにNTTは、電子に代えて光子を使うことによって通信の電力消費を100分の1に抑えるプロジェクトを進めている。現在の光通信は、光子を電子に変換して電子回路で通信制御を行っているが、それを光子のまま光子回路で通信制御をするのである。通信インフラの世代交代は約10年ごとに行われるから、2030年以降に普及する6Gで光子回路の実用化を目指している。

 

4.科学研究とAI・量子コンピュータをめぐる米中の競争

 中国が「科学大国世界一」の座を米国から奪おうとしている。注目度の高い論文の引用数上位10%の論文のシェア(201719年の平均)で中国が24.8%となり、米国の22.9%を抜いて首位になった。これは、研究の質の面でも中国が急速に台頭していることを示す。戦後の科学研究をリードしてきた米国の優位が失われつつあり、産業競争力にも影響する可能性がある。ちなみに、3位はイギリスの5.4%、4位はドイツの4.5%で、イタリア、オーストラリア、カナダ、フランス、インドと続き、日本は10位の2.3%であった。11位がスペインで、12位には韓国の2.1%が迫っている。10年前には、米国が1位で34.9%、中国が2位で7.6%、3位・4位がイギリス・ドイツで変わらず、日本は5位で4.3%であった。日本の科学研究の衰退が際立っている。

 中国は、胡錦濤時代の2006年に「国家中長期科学技術発展計画要綱」をつくり、2020年までに世界トップレベルの科学技術力を獲得する目標を掲げて科学研究力の向上に取り組んできた。そして、積極的に科学研究に投資し、科学研究の人材を育成してきた。2019年の研究開発費は購買力平価換算で54兆円となって10年間で2倍となり、首位の米国の68兆円に迫っている。

 AI研究でも独走していた米国を中国が追い越しつつある。米スタンフォード大学の調査によると、学術誌に載るAI関連の研究論文の質を示す論文の引用実績が、2020年における米国の論文が198%に対して中国の論文が207%となり、初めて中国が米国を抜いた。2012年以降のAI論文の数は、中国が24万本で米国の15万本を圧倒する。AIは幅広い産業に組み込まれ、国家の競争力や安全保障を左右する。

 AI関連の学会では、米国の企業や大学の存在感が大きいが、個人に焦点を当てると、2019年における世界最高のAI国際会議「NeurIPS」の発表者の割合が米国出身者の20%に対し、中国出身者が29%で首位であった。近年、中国は、自国での人材育成に力を入れ、AIで著名な清華大学や上海交通大学を始め、浙江大学、ハルビン工業大学、西北工業大学では論文発表の実績を持つ人材がそれぞれ2000人規模でいる。

 中国の強みは、「プライバシーの保護」で制約されることなく、自動車・インフラ設備・ロボットなどで収集された膨大なデータをAIに使えることである。米国は、こうした実態に危機感を露わにして、巻き返しに動く始めた。

 米中は、量子コンピュータの開発競争でも熱を帯びている。量子コンピュータとは、分子・原子・原子核・素粒子などの超微細領域を支配する量子力学を利用したコンピュータである。2019年に米国のグーグルがスーパーコンピュータで1万年かかる問題を量子コンピュータでたったの320秒で解き、「量子超越」(従来のコンピュータでは実用的な時間内に解決できない問題を量子コンピュータで解決できることを証明すること)を実現した。中国でも2020年に「量子超越」を達成した。今のところ米国のグーグルとIBMが先行し、中国の中国科学技術大学とアリババ集団が猛追している。グーグルは2029年に実用的な量子コンピュータの完成を目指している。

 量子コンピューターは、大規模で複雑な物流・金融などの最適解やパンデミックを阻止する新薬の開発、気候変動問題に道を拓く新素材の開発などで、スーパー・コンピューターでは数千年〜数億年かかる計算を数秒〜数日でできるようにする。量子コンピューターは、国の産業競争力と安全保障戦略上でも重要になり、「量子を制する国は次のハイテク覇権を握る」と言われる。

 量子コンピューターには、汎用的な問題を解く「量子ゲート方式」と物流・金融などの最適化に特化した「組み合わせの最適化問題」を解く「量子アニーリング方式」の2種類がある。米国のグーグルやIBMは量子ゲート方式を開発し、日本のNEC、富士通、日立、東芝などはアニーリング方式を主に開発している。

 量子コンピュータの演算は、量子力学の核磁気共鳴や電子スピン共鳴などの量子反応を使って演算する。一つ一つの量子反応は粒子としてのランダムな反応であるが、その総和は波動的な一定の法則を示す。その反応は一瞬であるので、量子コンピュータの演算はとてつもなく早い。

 演算の量子回路は超伝導回路や光子回路を使う。データは量子ビット(01とが確率的に共存する)に記憶される。量子回路は、データを設定する量子ビットと量子演算のアルゴリズムを設定する量子ゲート、演算結果を測定する装置から構成される。量子演算は本質的にアナログ信号処理であり、アナログ処理に伴う誤差が量子コンピュータを実現する上で最大の問題となる。グーグルは量子ビット数を100万個程に増やして誤差を克服しようとしている。

 

5.シーノミクスの今

 習近平の経済政策を「シーノミクス」と言う。習近平政権は、中国が世界に誇るハイテク企業のアリババに独占禁止法違反で3000億円の罰金を課した。さらに、配車最大手の滴滴出行(ディディ)が中国当局の支持を得ないままニューヨークの証券取引所に株式を上場したとして、滴滴のアプリのダウンロードを禁止し、実質的な事業停止に追い込んだ。習近平政権は、滴滴の行為を「陽奉陰違」(表ではあがめ、陰では裏切る)と言い、見せしめのために滴滴を懲らしめている。このように習近平政権は、アリババ、テンセント、美団、シャオミ、京東集団のハイテク主要5社に対して規制強化に転じている。そのために最近1ヶ月で、ハイテク主要5社の時価総額が2割(39兆円)も減少した。

 このことは、2014年に李克強首相が「大衆創業、万衆創新」(大衆が創業し、皆でイノベーションする)と宣言し、中国のユニコーン企業(企業価値10億ドルを超える未上場企業)が米国につぐ数になって、アリババなどが米国で大型上場を成功させてきた大起業時代が終わったことを意味する。アリババの創業者 馬雲(ジャック・マー)は、昨年11月にアリババ傘下の金融会社の株式上場が当局の方針で延期になったのを機に公の場から姿を消した。こうした習近平政権の海外上場に対する規制強化やハイテク企業への規制強化の裏には、2つの狙いがある。第1の狙いは国内の利益や技術の海外流出を阻止すること、第2は中国の通貨をドル決済システムから切り離すことである。今後、中国は企業の資本(株式)を外国に売らないことにしてドルとの縁を切り、米国より優位になった技術の海外流出を防止するのである。こうした習近平政権の政策転換を見ると、中国が香港の一国二制度を破棄した理由が分かる。外資を導入する金融市場としての香港の価値がなくなったからであろう。

 中国の広東省ではマンションが半値で投げ売りされている。中国の業界2位の不動産開発大手が資金繰りに窮して、10軒余りのマンションを一括払いできる人に売り出したのである。その企業の負債は資産の8割を超えて(7割が危険水準とされる)、綱渡りの経営をしている。中国企業の負債は過去10年で急拡大し、シーノミクスのアキレス腱となっている。

 中国では人口減少に備えて「一人っ子政策」を放棄し、二人っ子まで認めたが、子供を増やす夫婦は少ない。その原因は、一人っ子にかける親の期待が大きくて教育熱が過剰になり、教育費が高騰しているからである。北京や上海などの大都市では、高校卒業までの子育て費用が250万元(4,250万円)かかり、北京で働く会社員の平均年収の15倍に上る。中国では、第1子の出生数ですら急激に減っていて、2018年には631万人となり、6年間で半減した。政府は、3人目を認め、子育てを支援し、家での子供のしつけまで介入する法律を検討している。巨大な人口が支えてきたシーノミクスがきしみ始めている。

 習近平政権は「紅の遺伝子の継承」(共産党初期の思想を子供たちに教え込むこと)と称する運動を展開し、子供たちが共産党を崇拝して愛国者になるように指導している。これは、1970年代の毛沢東による文化大革命の亡霊が甦ったように見える。

 今、中国に進出したクアルコム、インテルなどの米ハイテク企業が、先鋭化する米中対立の中で、「自国政府との協調」か「中国との協調」かの踏み絵を迫られている。米ハイテク企業にとって中国は、製品を造る生産地であり、重要な需要地であって、縁を切ることができない状況になっているのである。

 

6.米軍撤収で緊迫するアフガン情勢

 バイデン大統領がアフガニスタン(アフガン)から8月末までに米軍を撤収することを決断した。この決断は、軍を中国対決に集中させる狙いがある。民主主義諸国は、米国の対中国関与の強化に期待する一方で、イスラム過激派が活発化することを懸念している。アフガン情勢が緊迫してきた。

 2001年、米国のブッシュ大統領が9.11同時多発テロを引き起こしたイスラム原理主義のテロ集団アルカイダをかくまったアフガンのタリバン政権に対して宣戦布告し、タリバン政権を倒した。それ以降、米国は、20年間にわたってアフガンに米軍を駐留させて2兆ドルに及ぶ大金を投じ、アフガンが再びイスラム原理主義のテロ集団の温床にならないように、アフガン政府軍に880億ドルを出して訓練してきた。

 しかし、バイデン大統領が米軍撤収を発表すると、アフガンの大統領が国外に逃亡し、政府軍の兵士が戦う意志を失って、タリバンが再びアフガンを制圧した。しかも、米軍が政府軍に与えた最新兵器がタリバンの手に渡り、国際テロ組織に渡る懸念が出てきた。バイデン政権はこうなることを全く理解していなかった。バイデン政権のアフガンでの対処方法を見ると、アフガンで一緒に戦った同盟国(英国、ドイツ、カナダなど)との調整がうまくいかず、軍の撤退に伴う自国民の退避、アフガン難民の受け入れ、同盟軍に協力したアフガン人の安全保障などが未解決のままである。同盟国と協調して中国と対決しようとしているバイデン政権の今回の対応は、同盟国に一抹の不安を与えた。アフガンでは、タリバン政権の復活によって、旧タリバン政権のように、女性の教育・就労などの基本的人権が侵害される恐れが生じ、再び国際テロの輸出拠点になる危険性が生じた。

 中国はアフガンと国境を接する新疆ウィグル自治区のイスラム教徒の独立派組織とイスラム過激派のテロ集団が連携する事態を警戒している。ロシアも勢力圏とみなす中央アジアのイスラム教諸国へのイスラム過激派の流入を懸念している。中ロとも、タリバンと良好な関係を構築して自国の安全保障を維持し、アフガンへの影響力を確保することを狙って、アフガンと接触し始めた。

 米欧は、タリバン政権の早期承認に後ろ向きだが、地域情勢の安定のためには、人権・テロなどでタリバン政権と交渉して承認する方向に進むしかない。

 以上のことから、米国のアフガン侵攻は完全に失敗に終わったこと、バイデン大統領の判断力・統括力に陰りが見え、中国と対決するには日本などの同盟国のサポートが重要になることが明らかになった。

 

7.コロナ禍の近況

 インドで発生したデルタ型コロナウィルスが世界中に蔓延し、猛威を振るっている。米国・フランスではワクチン接種率が5060%になっているが、新規感染者数が急増している。デルタ型コロナではワクチンの効果に限界があるこが分かってきた。米ファイザー製ワクチンは当初のアルファ型(英国型)では94%有効であったが、デルタ型では64%に低下している。6070%の国民がワクチン接種すれば、コロナ禍を克服できて、普通の生活に戻れるという期待は楽観的過ぎることが分かってきた。

 中国でもデルタ型が流行し、感染者、濃厚接触者、さらにその濃厚接触者まで隔離している。中国は、ワクチン接種率が格段に高いが、シノパック製ワクチンの有効性が低く、免疫を獲得している人の割合が非常に低いようである。

 イスラエルは、大規模なワクチン接種がパンデミックに及ぼす影響を示す国家的なデータを提供することを条件に、昨年12月上旬から独ビオンテックと米ファイザー製ワクチンを接種してきた。その結果、今年の3月中旬にはロックダウンを解除し、国民はパーティーに興じた。4月には街でマスク姿を見ることが珍しくなった。しかし、デルタ型が流行し始めた6月上旬から感染者が急増し始め、入院患者も急増した。イスラエル保険当局は、このペースで感染者が増えれば9月上旬までに医療崩壊が起こると予測している。

 イスラエルの国家的データから、ワクチンを接種した人は重症化率が56分の1になるが、ワクチンの効果は高齢であるほど急速に弱まることが分かった。昨年12月上旬から8カ月以上経過している現在、高齢者が重症化しやすくなっている。それに対処するために8月から60歳以上の国民に3回目の接種を開始した。こうしたイスラエルの状況を見ると、ワクチンによるコロナウィルスに対する抗体維持には限界があり、インフルエンザ・ワクチンと同じように、定期的に接種する必要があることが明らかになった。

 現在、日本では、デルタ型の感染拡大に伴って、入院先が決まらない患者が全国で3万人を超えて、医療崩壊が起きている。首都圏を中心に保健所の対応能力が限界を超え、都道府県や医師会に一部の業務を移す動きが出ているが、行政と医師の連携が進まず、医療体制の目詰まりが起きている。

 最大の問題は、どこに病床の空きがあるのか、誰もリアルタイムに把握できないことである。そのために、保健所職員が手当たり次第、病院に電話して空き病床を探すという対応を続けている。また、保健所が濃厚接触者を調べる「積極的免疫調査」でも、電話による方法では手間がかかりすぎる。これを解決するには、病床空き情報の管理をクラウド化して、関係者なら誰でも最新情報が見えるようにすることである。また、自宅療養者のオンライン診察も充実させる必要がある。日本では、医療の指揮系統を抜本的に再構築することと、医療関係のデータ管理のデジタル化が急務となっている。

 

あとがき

 米中の競争を中心にして「世界の今」を考察してきましたが、最後に筆者の見解をまとめてみます。

 総合的に見て、米国の国力と統率力の衰退が目立ち、中国が経済力、科学力で米国を抜きつつある状況が明らかになりました。米国は、ニクソン訪中以降、中国に肩入れして、中国が豊かになれば民主主義国になって米国の良きパートナーとなると信じてきましたが、その期待が裏切られた上に、自分の地位も脅かされる状況に陥っています。中国の科学力が米国を抜くようになった理由は、中国共産党の深謀遠慮の国家計画と国家統制力にありました。しかし、中国経済の発展を支えてきたハイテク主要5社に対する国家統制の強化は、企業の活力を阻害する方向に作用し、不動産バブルや人口減少と相まって、中国経済を衰退させる要素になると筆者は考えます。

 一方、米国は、国力の衰退を同盟国との協調によって補い、中国と対抗しようとしています。中国は経済力で首位になっても、覇権国になる能力も意志もありません。結局、世界から覇権国がなくなり、米国を中心とする自由・民主主義諸国と中国を中心とする強権諸国が競い合う世界へと変わっていくと推察します。そして、自由・民主主義諸国の「民主主義の政治体制」と中国などの強権主義諸国の「独裁的な政治体制」のどちらが国民を満足させられるか、国民の活力を引き出して経済を発展させられるか、国の安全保障を維持できるかを競うことになります。

 日本は、カーボンゼロの対応が遅れ、デジタル化が遅れ、科学研究の衰退が鮮明になっています。確かに東日本大震災の原発事故で原子力発電がゼロになったことがカーボンゼロのダメージになったことは事実ですが、石炭火力にこだわりすぎたことは間違いでした。日本がこうした失敗をする根本的な原因は、日本人が国際情勢に疎く、日本固有の考え方や方法に固執し過ぎているからだと考えます。世界全体が環境・社会・統治(ESG)について共通の持続可能な開発目標(SDGS)に向かって進んでいる時に、日本はそれに背いてきました。また、日本の「規制」が現状の当事者を保護することを目的としているために、現状を改革することを阻害していることもあります。日本は、目標を国際標準に合わせ、国内の規制を国際社会の標準に合わせる改革を行う必要があります。

 今後、国際社会はインド・太平洋を巡って米中の対立が一層激しくなっていき、安倍前首相が提唱した「自由で開かれたインド・太平洋」を守ることが日本にとっての使命となります。特に、台湾海峡、尖閣諸島、南シナ海では軍事衝突のリスクが高まります。半導体委託生産と半導体製造技術で世界の先端を走る台湾と尖閣諸島を巡って、中国は軍事的圧力を強めてくることが予想されます。その時に、民主主義国のアジア代表としての日本は、米国と共同して、オーストラリア・インドやイギリス・ドイツ・フランスなどの民主主義国と共に、中国の軍事的圧力を押さえ込むことが肝要となります。アジア・アフリカ諸国はそれを見ています。それに成功すれば、「一帯一路」で港湾・鉄道・道路建設などで相手国を「債務の罠」に陥れたり、侵略してきた中国からアジア・アフリカ諸国を開放し、民主主義側に引き込むことができます。そのためにも日本人は、もっと国際的な意識を高めて、国際問題や安全保障問題に敏感になり、一方ではカーボンゼロ・デジタル化・科学研究の国際的地位を向上させて、日本の発言力を高めていかなければなりません。許された時間は差し迫っています。対応を速めることが肝要となります。         (以上)

明治維新の正体

                       20217月 芦沢壮寿

 今年は「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一の大河ドラマ『青天を衝け』が放送され、明治維新が新たな視点から見直されています。そんな折、筆者は、近代史研究家の鈴木荘一著の『明治維新の正体 − 徳川、西郷隆盛のテロ』(毎日ワンズ 新書版 2021年第7刷)を読んでみました。このサブタイトルは、徳川慶喜は明治維新の、即ち先駆者であり、西郷隆盛は明治維新を武力倒幕に導いたテロリストであったと言っています。

 著者の鈴木氏は東京大学卒業後、日本興業銀行で企業審査・経済産業調査に従事していましたが、2001年以降、歴史研究に専念して、現在は「幕末史を見直す会」の代表として現代政治経済と歴史を融合した研究を行っています。この『明治維新の正体』には、今まで明治維新の英雄と見なされてきた西郷隆盛や坂本龍馬が英国の日本植民地化戦略に乗せられたテロリストや密輸ブローカーであったと書いてあります。当時のイギリスは国内の反乱勢力を支援して植民地化することを常套手段としていましたが、西郷はイギリス駐日公使パークスの言いなりに武力倒幕に突き進んだテロリストであり、坂本はイギリスの手先となって倒幕のために薩摩・長州を連合させ、そこに最新鋭小銃を売り込んで暴利を貪るブローカーであったというのです。

 鈴木氏は『明治維新の正体』を書いた動機について、大正デモクラシーの政友会と民政党による二大政党制が確立された加藤高明内閣に至る日本憲政史を研究している際に、近代日本における憲政史のスタートが明治元年に明治天皇によって公布された「五箇条の御誓文」にあり、それが半年前に徳川慶喜が朝廷に提出した「大政奉還」の上表文を基にして書かれていることを知ったことにあると述べています。慶喜は、水戸藩で生まれ、「水戸尊皇論」を信奉していました。「水戸尊王論」の本質は、絶対的権力者を認めない「万民平等の思想」であり、日本憲政史の原点になると鈴木氏は指摘しています。水戸尊皇思想の中で育った慶喜が「大政奉還」を断行し、日本が内乱になって諸外国から侵略されるのを避けるために、自ら身を引いて天皇に恭順の意を表しました。その結果として日本は、外国勢力に侵略されずに明治維新を成功させ、議会制民主主義に基づく近代国家になることができたというのです。戦争に勝った薩長連合政府が確立した従来の歴史観では、薩長の武力による尊皇倒幕が明治維新を成功させたことになっていますが、決してそうではありません。鈴木氏は、「勝者が敗者を裁くような歴史観では、真実は見えてこない」と言い、「本書では、幕末維新時の一連の事象を公平かつ冷静に分析して、維新の全体像を浮かび上がらせる」と述べています。そこで筆者は、鈴木氏の『明治維新の正体』をもとにして、幕末から明治維新にかけての日本とアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアなどとの国際的な関係を考慮しながら、日本の近代化の実態を考察し、今までの歴史観の誤りを検証していくことにします。

 

1.水戸尊王論と徳川慶喜

 水戸藩は、将軍家を支える御三家(尾張藩・紀州藩・水戸藩)の中で特異な存在であった。水戸藩は35万石で、尾張藩61万石、紀州藩55万石に比べて石高が少なく、尾張・紀州藩主の官位が従二位権大納言なのに対し、水戸藩主は従三位中納言であった。一方、水戸藩主は「定府」といって常に江戸に在住し、参勤交代の義務がなかった。徳川家康が制定したと言われる「公武法制応勅18箇条」には、水戸家の役割について、水戸藩主を副将軍として将軍の国政をチェックし、よこしまなるときは水戸家の指図で尾張・紀州両家から将軍相続者を見立てて奏聞する。万一、両家がその任に応じられない時は、いずれかの諸侯で天下を治鎮できる人物を奏聞する。この奏聞は水戸家に限るとある。つまり、水戸家は将軍任命権をもつキング・メーカーであったのである。

 水戸藩がこうした使命を果たすための理論的支柱を確立したのが水戸藩第2代藩主 徳川であった。光圀は、水戸藩祖徳川頼房の三男として奥女中久子との間に生まれた。頼房は愛妾お勝への気兼ねから、光圀を堕胎するように家臣に命じたが、家臣は久子を預かり自宅で光圀を産ませた。光圀は幼名を長丸と言い、庶子の子として育てられ、近所の子供たちと一緒に泥んこになって遊ぶ日々を送った。長丸は5歳のときに登城して父頼房と対面した。頼房の跡目はお勝の子の・と長丸の3名が争うことになったが、ときの将軍家光は家老中山備前守を水戸に派遣して3児の人物鑑定をさせた。すると、5歳の長丸が中山備中守に対し、「江戸より下向、大儀!」と凜然と言い放ち、自ら中山に菓子を与えた。中山備中守はこれに驚き、幼少ながら威光を発した長丸を頼房の後継として推薦した。こうして長丸は6歳で世子となり水戸藩江戸小石川藩邸(今の後楽園球場あたりにあった)に入った。長丸は9歳で元服して光圀(当時は光国)となった。18歳頃まで吉原通いなどに熱中して、やんちゃな青春時代を送っていた光圀は、18歳の春に突然変身して、「皇室中心の日本全史編纂に全生涯をかける」と宣言し、『大日本史』の編纂を決意した。この決意は、自分が父の命に逆らって生を得たこと、長幼の序に反して水戸藩主後継者になったことから、道を外れた自分が徳川政権を監察する副将軍としての大役を務める資格があるのかと苦悩し続けた末に到達したものであった。光圀は、水戸藩の幕府御意見番としての使命を果たすための理論的バックボーンとして『大日本史』の編纂を決意したのである。

 光圀は、駒込中屋敷内に彰考館を建て、費用を惜しまず(大学者)を招き、『大日本史』の編纂作業を進めた。諸国を回って史料の収集から執筆までの中心となったのは佐々と安積であった。『水戸黄門漫遊記』に登場する「助さん」は佐々介三郎、「格さん」は安積覚兵衛の名前を借用したものである。その後、光圀は自分の子を他家に養子に出し、兄頼重の子を水戸藩の継嗣(第三代藩主)とした。

 光圀が編纂した『大日本史』から尊皇思想が生まれ、幕府の権力を私利私欲・自己保身のために行使することを戒める「水戸学」が生まれた。光圀は、「権力は正しい為政を成すために行使されるべきで、私利私欲・自己保身のために行使してはいけない」と戒めている。

 光圀の治政は第三代将軍家光、第四代将軍家綱、第五代将軍綱吉の三代の将軍に及んだ。家光は優秀な幕僚を率いて幕藩体制を揺るぎないものにした。家綱の時代になると幕府官僚機構は一段と整備され、将軍は幕閣の建言に対し「左様に致せ」と言うだけで済むようになり、将軍の能力の有無にかかわらず、優秀な幕府官僚群の判断で幕府が運営されるようになった。そして、幕府官僚の頂点に立つ大老が幕府の実権を握るようになった。これに対して水戸尊皇思想は、幕府に対して「独善と横暴を戒め、畏れと自戒の心を忘れるな」と警鐘を鳴らすアンチテーゼとしての役割を果たすようになった。

 徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、1837年に江戸小石川の水戸藩邸で水戸藩主徳川の七男として生まれ、水戸の藩校弘道館で会沢らから学問・武術を教授されて育ち、幼少期から英邁さが注目された。慶喜が9歳となった1846年にアメリカ対日使節ビッドル提督が東インド艦隊の軍艦2隻で浦賀沖に現れ、通商開始を打診した。これに対し斉昭は「外様大名をも参加させて、全国諸藩が一致団結して国難に立ち向かい、日本の独立を守るべし」という主旨の書簡を老中阿部正弘に送った。阿部正弘は斉昭の書簡に賛同すると同時に、第12代将軍の意向ということで、慶喜を御三卿一橋家の世嗣にし、先々は慶喜が将軍候補になるようにした。慶喜は1847年に一橋家の世嗣となった。御三卿とは幕府中興の祖と言われた第8代将軍吉宗の子の一橋家・田安家・清水家の三家からなる。

 

2.ペリーに強制された日米和親条約と当時の世界情勢

 1783年にイギリスから独立したアメリカは、1846年にカリフォルニアを領有していたメキシコと戦って勝ち、太平洋岸までが領土となった。サンフランシスコとサンディエゴの2大両港を手に入れたアメリカは、海洋国家へと変貌し始めた。そして、1853年にペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求したのである。アメリカは、当時世界一の強国のイギリスがまだ手を出していない日本に狙いを定め、日本との間に太平洋航路を開設しようとしていた。

 その当時、アジアの国々は、日本とタイを除いて殆どがヨーロッパ諸国の植民地支配下にあった。インドとインドシナ半島のビルマ、マレーシア、シンガポールと北ボルネオを植民地にしていたイギリスは、1840年に中国の清朝にアヘン戦争を仕掛け、中国の植民地化を進めていた。フランスはインドシナ半島のベトナム、ラオス、カンボシアを仏領インドシナとして支配下に入れていた。日本は徳川幕府の鎖国政策によって独立を維持し、タイはインドシナ半島のイギリス支配領域とフランス支配領域の緩衝地帯として植民地化を免れていた。日本の鎖国時代に長崎での通商を許されていたオランダは、ジャワ、ニューギニア、スマトラを支配していた。15世紀に始まる大航海時代の先駆者として活躍したポルトガルとスペインは、東南アジアの香料貿易で繁栄し、アジアへのキリスト教布教で活躍したが、植民地支配では後続のイギリス、フランス、オランダに遅れをとった。スペインはフィリピンやグアムを植民地化したが、それも1898年に米西戦争でアメリカに奪われた。

 イギリスは、世界に先駆けて1770年代から産業革命が始まり、ヴィクトリア女王時代(18371901年)に世界の工場となって全盛期を迎えた。そして、インド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドを擁して大英帝国を築き、世界一の強国となった。

 ヨーロッパ勢ではロシアが最も早く日本に通商を求めてきた。ロシアのピョートル大帝は、海に進出するために新しい首都サンクトペテルブルクをバルト海沿岸に築き、1705年に日本語学校を開設した。これは、ロシアが極東から太平洋に進出し、日本と通商することに備えるものであった。そして、1792年にエカテリーナ2世が使節ラックスマンを日本に派遣してきた。ラックスマンは、ロシアで日本語学校の教師をしていた大黒屋光太夫らの日本人漂流民を伴い、国書をもって根室に来航し、通商を求めた。幕府が「日本は鎖国している。対外交渉は長崎で行う」と告げると、1804年にレザノフが軍艦で長崎に来航して通商を要求した。幕府が再び拒絶し、こうしたことを何回か繰り返した後、ロシアはヨーロッパに目を転じて地中海への進出を目論むようになった。しかし、ロシアの地中海進出はイギリスの東進政策によって阻まれ、1853年にイギリス・フランス・トルコの同盟軍との間でクリミア戦争が勃発した。そんな時にロシアは、ペリー艦隊の訪日計画の情報をつかみ、急遽、極東艦隊司令長官プチャーチンを対日使節として送り、18537月に長崎に来た。

 それより少し前の18534月、ぺリー艦隊は、まず沖縄の首里王宮を訪問し、次いで小笠原に上陸して沖縄と小笠原に足場を築いた。沖縄には貯炭場を築いて基地とした。それから軍艦4隻で浦賀に向かい、開国を要求する大統領の国書を受け取るように幕府に迫まり、もし開国を受け入れないなら戦争になると言って脅した。首席老中阿部正弘は、ペリー艦隊への対応策について、幕府の中で最も国防の見識が深く、尊皇攘夷を唱えていた前水戸藩主徳川斉昭に意見を求めた。斉昭は、皆が了解するなら幕府がアメリカの国書を受け取っても自分は反対しないと伝えた。阿部正弘は国書を受け取ることを決断し、浦賀奉行所に国書を受け取らせた。ペリーは条約締結のため来年4月か5月に日本を再訪問すると告げ、612日に浦賀を去った。

 その約1ヶ月後の718日にロシアのプチャーチンが長崎に来航したのである。ロシアが提出した国書は、「エトロフ島領有権問題を話し合いで解決した後、北海道と江戸方面の二港を開港してほしい」というものであった。ロシアの見解は、千島列島はロシア領だが、その南端に位置するエトロフ島にはアイヌ人、日本人、ロシア人が混住しているから話し合いで両国の境界を決めようというもので、筋が通っていた。

 ここで、第9代水戸藩主となった徳川斉昭と水戸藩の尊皇攘夷論について触れておく。斉昭は、華美を嫌って倹約を尊び、才気に溢れるが故に狂気と激情が共存した天才肌の名君であった。そのために江戸城大奥の女性には嫌われたが、幕府内では群を抜いて国防の見識が高く、尊皇攘夷を主導していた。斉昭は、少年期に会沢正志斎のもとで水戸学を学んで聡明さを示し、藩主に就くと藩士各層から人材を登用して、会沢正志斎、藤田、安島、武田耕雲斎らを重用した。そして、藩政改革に取り組んで、農民への重税緩和、豊作・凶作のときの米価安定策、貧民救済のための穀物備蓄倉庫の建設などを進めた。

 斉昭や慶喜に水戸学を教えた会沢正志斎の持論は、「三百余の半独立した諸藩を徳川家が束ねる徳川幕藩体制では軍事・外交で外夷に対峙できない。この上に皇室を戴いて国家統治の象徴とし、三百諸藩が団結して一枚岩となって外夷に当たるべきだ」というものであった。会沢正志斎がこの持論を『新論』に著すと、それがベストセラーとなり、「尊皇攘夷論」として広く知られた。また、『弘道館記』などを著して思想家として知られる藤田東湖の尊皇攘夷を歌った『正気の歌』が幕末志士たちに愛好され、全国で高吟されるようになった。このように、尊皇攘夷論の発祥の地は水戸である。

 しかし、関ヶ原の雪辱を果たすために政権奪還を夢見てきた薩摩藩・長州藩や土佐藩の旧臣らの土佐勤王党などは、会沢正志斎や藤田東湖から水戸学の尊王攘夷論を学んだが、その真意を理解せずにポピュリズムの尊王攘夷に走っていくことになる。これを「幕末ポピュリズム」と呼ぶ。彼らは、「皇室の下に三百諸藩が団結して一枚岩となって外夷に当たる」という本来の尊王攘夷論を離れ、外夷イギリスの策略の下に倒幕に走るのである。

 アメリカからは乱暴で威圧的に、ロシアからは礼儀正しく筋の通った国交を申し込まれた幕府は、両国に対する対応方法で揺れた。老中阿部正弘は、幕閣に対して「国禁の鎖国を破るのは遺憾だが、もし国書を拒絶して戦になれば中国のアヘン戦争のような国難になりかねない。今後、皆で協議して、どうするかを決める」と言い、幕府の旧来からの「知らしむべからず、依らしむべし」といった独裁的・強権的な為政方針を改め、幕閣以外の外様大名や庶民も含めて広く意見を聞き、アメリカにどう回答するかを協議することにした。この阿部の対応は「国民的議会主義への胎動」とも言え、「情報公開による民主的手続き」とも言えなくもない。そして、実際に阿部の諮問に対して、諸大名から約250通、幕臣から約450通、さらに江戸庶民からも意見書が出された。それらの意見書の内容は、「条件付きでひとまずアメリカの要求を受け入れるのも仕方がない」とか、「戦争になれば勝利はおぼつかないから、年限を切って交易を許すのもやむを得ない」というようなものであった。阿部正弘は、各層からの意見を集めた上で、御三家代表として徳川斉昭を幕政参与に任じ、親藩代表の越前藩主松平と外様代表の薩摩藩主島津を相談相手として検討を重ねた。斉昭は、「アメリカとロシアは既に談合が成立していると想定されるから、アメリカに対抗するためにロシアと組もうという観念論では危険である。どんなに辛く厳しい交渉であっても、アメリカと真正面から向き合って交渉しなければならない」という冷静かつ現実的な対応策を唱えた。かくして、阿部正弘は、全員参加型の民主的挙国一致体制のもとに「開国やむなし」という合意を得たのである。

 ペリー艦隊は、アメリカに帰還せずに、南シナ海方面で過ごした後、香港に停泊した。その間に本国では共和党政権から民主党政権に代わり、民主党政府はペリー艦隊のやり過ぎを警戒し、琉球・小笠原領有計画に不同意を表明した。また、イギリス、フランス、ロシアなどのヨーロッパ諸国の外交官も強い警戒と反発を示した。特にイギリスの香港駐在のボンハム卿は、イギリスが領有する小笠原の土地をアメリカが購入するのは不当だと言って強硬に抗議した。

 ペリーは、内外の警戒と反発からペリー艦隊の行動が阻止される前に、断固として行動を起こすことを決意した。そして、本国のドッビン新海軍長官のペリー宛急書が届く前に真冬の荒海に乗り出し、約束した4月か5月より遙かに早い116日に江戸湾に入った。そして、前回より奥の金沢沖に7隻の軍艦を停泊させた。驚いた浦賀奉行所が浦和沖に停泊するように言うと、「もしアメリカの要求が通らなければ、いつでも戦闘を始める用意がある。いざ戦争になれば20日以内に本国から100隻の艦隊を集める」と言って脅し、さらに羽田沖まで進出して幕府を挑発した。

 幕府は林大学頭を日本側全権として横浜村に建てた臨時の条約館で日米和親条約締結の交渉に入った。しかし、猛将ペリーの戦争をちらつかせる圧力に抗しきれず、18543月に条約の締結を受け入れた。その内容は、下田・函館を開港し、薪水・食糧供給を定めた日米和親条約を調印するというものである。

 この時、首席老中阿部正弘は36歳であった。若輩ながら正弘は、日本国政の最難関にあって、現在の民主主義にも通じる方法で民意をくみ上げ、開国を決めたのであった。阿部は、急いで「安政の改革」に着手した。まず、武芸・精神力を鍛える「講武所」、外国の知識を吸収する「番所長所」(後の東京大学)を開設し、江戸湾の御台場や大阪湾、函館に砲台を築いて「海防」に取り組み、大砲・小銃を製造するために伊豆に反射炉を建設した。

 当時、世界の軍艦は木造外輪船から鉄製スクリュー船の時代に変わりつつあった。ペリー艦隊の軍艦は木造外輪船か木造帆船であり、時代の趨勢から遅れていた。世界の海軍力は、イギリスを筆頭として2位フランス、3位ロシアと続き、オランダが5位、アメリカは8位であった。幕府はスクリュー式軍艦2隻(咸臨丸と朝陽)をオランダに発注した。そして、オランダから海軍教師団を招き、長崎海軍伝習所を設立した。長崎海軍伝習所では、勝海舟、榎本、五代(後の大阪商工会議所会頭)など、多くの有為な人材を養成した。阿部正弘が行った「安政の改革」は、日本の将来を視野に入れ、日本の近代化に路を開くものであった。阿部正弘は、1855年に老中首座を佐倉藩主堀田に譲り、18576月に過労のために39歳の若さで病死した。

 

3.通商条約の違勅調印と吹き荒れる攘夷の嵐

 18567月、アメリカ総領事ハリスが軍艦に乗って下田に到着し、下田の玉泉寺をアメリカ領事館とした。そして、日米交渉の第2段階として「日米通商条約」の締結交渉に入った。そんな時に清国(中国)で「アロー号事件」が起きた。清国がアロー号を海賊船と見なして臨検した際に、「イギリス国旗を引きずり下ろし、我が国を侮辱した」と言ってイギリスが抗議し、イギリス海軍が広東の市街を砲撃し、1857年末から英仏連合軍が広東に総攻撃を開始して清国を降伏させた事件である。清国は、1858年にイギリス・フランス・アメリカ・ロシアと天津条約を結び、「外交官を北京に駐在させる、イギリス・フランスに賠償金を支払う、外国人は自由に中国内を旅行できる、揚子江を開放する、アヘン貿易を公認する」という屈辱的な条約をのまされることになった。ハリスはこの事件を巧みに使って、条約の締結を渋る幕府を説得した。堀田正睦を始めとする幕閣は「清国の二の舞を演じるわけにはいかない」として、通商条約締結やむなしと考えるようになった。

 そこで幕府は、諸大名に対して通商条約締結の是非について意見を諮問した。これに対し徳川斉昭は「出貿易」を唱えた。出貿易とは、ハリスの要求を受入れることは国難の元になるから、国内での貿易を拒絶し、日本側が国外に出て貿易するというものである。出貿易する場所は、例えば、琉球か小笠原か伊豆大島でもいい。そうすれば外国人が国内に入ってこないで通商ができ、通商利益で富国強兵もできる。だが、諸大名の殆どの意見は「貿易開始はやむを得ない」というものであった。斉昭の出貿易論は確かに名案であるが、既にハリスとの間で条約の文案が作成されていたので、堀田正睦は出貿易論を却下した。しかし、却下の理由を斉昭に意を尽くして納得してもらうことを苦手とする堀田は、自ら斉昭のもとに出向かずに、部下の川路を差し向けて説明させた。これに斉昭は激怒した。斉昭という殿様は、怜悧ではあるが激情で気難しいところがある。この出貿易をめぐる斉昭と幕閣との対立が「安政の大獄」や「桜田門外の変」を引き起こす原因となり、幕末の日本を混乱させることになるのである。

 幕府は、18581月に通商条約14カ条と貿易章程7則を成立させ、それを朝廷に奏上して朝廷から勅許を得ることにした。これまで政治・外交の枠外にあった朝廷を政治の場に引き出し、朝廷を雄藩連合の象徴に据えようとしたのである。これは、前記した会沢正志斎の尊王攘夷論そのものである。

 堀田正睦は、勅許を得るために、「開国通商は世界の大勢であり、鎖国攘夷は日本の大患になる」と説明して公卿衆に根回しし、カネもばらまいた。しかし、孝明天皇は、夷人(西洋人)を極端に嫌い、開国通商は「伊勢神宮や皇祖に対する不孝である」として勅許を拒否した。殊にカネを渡したことが孝明天皇の不興を買った。公卿たちに西洋の事情を話して説得しても、日本の古い気質の公卿たちには理解できなかったのである。結局、朝廷は「通商条約調印問題について、御三家以下の諸大名の意見を聞いた上で、改めて願い出るように」との勅諚を下した。実は、この勅諚は、前述した徳川斉昭の出貿易論を朝廷が知っていて出されたと推測される。

 幕府が勅諚に従って改めて諸大名の意見を諮問すると、徳川斉昭ら御三家から通商条約締結反対論が噴出した。そして、幕府の意見をまとめられないままにハリスとの条約調印日が迫る中で、大老井伊は勅許なしで調印する「違勅調印」を決断した。日米通商条約は、朝廷の勅許を得ないまま、1858619日にポーハンタ艦上で調印された。その後幕府は、710日に日蘭通商条約、711日に日露通商条約、720日に日英通商条約、93日に日仏通商条約と立て続けに調印した。

 違勅調印が行われると、徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平春嶽らが江戸城に押しかけ、「無勅許調印は不敬である」として井伊大老を詰問した。だが、井伊は、その日が定式登城日ではなかったことを理由に反撃に転じ、斉昭に江戸藩邸での謹慎、慶勝と春嶽に隠居慎み、慶篤と一橋慶喜に登城停止の処分を下した。そして、翌日に諸大名に登城を命じ、実子が無かった第13代将軍家定の後継として、紀州藩主徳川を第14代将軍家重に決定した。これは、英明の誉れ高い慶喜を擁立して実行力のある雄藩合議制により難局を乗り切ろうとする「一橋派」と、大老井伊直弼を巨頭として紀州藩主徳川慶b推挙する「南紀派」の対立に決着をつけるものであった。

 孝明天皇は通商条約が調印されたことに激怒し、幕府を差し置いて水戸藩に「の密勅」を下した。その内容は「井伊直弼の無勅許の条約調印を糾弾せよ、諸藩は朝廷を尊重して攘夷・公武合体につとめ、密勅の趣旨を諸大名に回付・伝達せよ」というものであった。これは、水戸藩が幕府転覆の中心になれと言っているのである。この密勅への対応をめぐり、水戸藩は高橋多一郎や武田耕雲斎らに率いられる「激派」(過激派)と会沢正志斎らに率いられる「鎮派」(穏健派)が激しく対立するようになった。鎮派は、井伊大老の求めに応じて密勅を朝廷か幕府に返納することにした。

 業を煮やした井伊大老は、密勅降下に関わったとして水戸藩家老に切腹を命じ、関係した藩士らを斬首や獄門に処した。「安政の大獄」の始まりである。驚いた水戸藩は密勅返納を実行することにした。しかし、激派がこれを実力阻止に出ると、会沢正志斎は激派討伐を決めた。これを知った高橋多一郎らの激派は脱藩し、186033日に「桜田門外の変」を起こし、井伊を殺害した。この5ヶ月後、斉昭は満月を観賞していて心臓発作を起こし、死去した。

 1859年、横浜、長崎、函館の3港が開港され、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアと貿易が始まった。すると、通商貿易に反対する攘夷派によって異人斬りや外国公使館襲撃が頻発するようになった。諸外国から強硬な抗議と来日外国人の安全確保の要求が突きつけられたが、幕府は駐日外交官の安全を保証できなくなった。

 大老井伊直弼は、「桜田門外の変」の少し前の1860119日に、幕府軍の航海技術を試すために軍艦咸臨丸を太平洋横断航海に出帆させ、その3日後に通商条約本書交換のために遣米使節団をアメリカに派遣した。

 咸臨丸は、軍艦奉行並木村を提督、軍艦操練所教授勝海舟を艦長とし、以下士官・水夫等総員96名が乗り組み、アメリカ海軍ブルーク大尉以下10名のアメリカ人船員が同乗した。オランダから購入した咸臨丸は木造で百馬力、300トンであったので、木村は乗組員を絞り込むために日本人水夫10人を下船させた。そんな所に若い福沢諭吉が「自分も乗せて欲しい」と言って来ると、木村は初対面の福沢の願いを受け入れた。サンフランシスコを目指して浦賀を出帆した咸臨丸の航路は、ハワイに寄港せずに最短距離の大圏コースであり、冬の北太平洋を一気に横断する冒険航海であった。サンフランシスコではアメリカ市民の大歓迎を受けた。一方、遣米使節団はアメリカ軍艦ポーハタンで横浜を出航して、石炭補給のためハワイに寄港し、ハワイ王朝のカメハメハ国王や王妃と会見した。その後、サンフランシスコを経て首都ワシントンに入り、大歓迎を受けた。

 咸臨丸の使節団が18605月に帰国し、遣米使節団が9月に帰国した。福沢諭吉がアメリカの少女と撮った写真や購入してきた本の翻訳本が出回ると、「バテレンは決して悪いものではない」という噂が広まり、攘夷で満ちていた世相が変わってきた。

 こうした状況の中で、長州藩目付長井雅楽が出版した『航海遠略策』が攘夷で凝り固まっていた孝明天皇を「開国にも良い面がある」と気づかせることになった。その内容は、「上位の朝廷が幕府に航海を開き武威を海外に振るうように命令すれば、対立が和解し、国民が一致団結して海外展開するので、我が国は富国となり、列強を圧倒するようになる」というものである。

 1861年、皇女和宮(孝明天皇の妹)が江戸に降嫁し、翌年2月に将軍家重との婚儀が盛大に行われた。これは、井伊大老が進めた「公武合体」である。幕府は、和宮降嫁と引き換えに「近い将来、外国を日本から打ち払う」という攘夷を朝廷に誓約した。

 日本は、アメリカを「主軸外交国」に選び、使節団を送って親米色に染まっていった。ところが、1861年にロシア軍艦が対馬に上陸する「対馬事件」が起き、国際情勢が混迷していく。対馬は海の通行路の要所なので英仏も武力占領を狙っていたが、ロシアが先手を打ったのである。その背景にはアメリカで「南北戦争」が発生したことがあった。186011月に奴隷廃止論者のリンカーンが大統領になり、アメリカの政局が一気に激動化した。南部7州は合衆国から離れて「アメリカ連合国」を建国し、アメリカは南北に分裂した。当時のアメリカは、北部の人口が22百万人、南部が95百万人で、北部は工業力でも圧倒していたが、南部は尚武の気風に溢れ、合衆国将校の25%が辞任して南軍に身を投じた。世界の覇者であったイギリスは、綿花の輸入先であった南部を支援し、アメリカの再植民地化を狙った。

 南北戦争で国際舞台から退場したアメリカに代わって幕府が頼ることにしたのはイギリスであった。対日外交の主導権は、アメリカのハリスからイギリス外交官オールコックに移った。オールコックは、幕府の要請を受け入れて、幕府遣欧使節団とイギリス外相ラッセルの間で「ロンドン覚書」を調印し、兵庫開港と大坂開市の5年間延長を認めた。そして、この合意文をフランス・オランダ・ロシアなどへ送って受容させた。オールコックは福沢諭吉も同行していた遣欧使節団一行に国会議事堂、造幣局、大英博物館、軍港、練兵場、銃器工場、造船所、病院、学校などを見学させた。しかし、使節団の帰国後、幕府内で親英的雰囲気は生まれなかった。中国に「アヘン戦争」や「アロー号事件」を仕掛けたイギリスは油断のならない相手であったからである。。

 1862年、全国から先鋭的攘夷倒幕論者が京都に集まり、京都は急進的攘夷論のるつぼと化した。その思想的リーダーは久留米水天宮神主 真木であった。その周囲に薩摩藩士有馬新七、筑前藩士平野、長州藩士らがいてクーデターの謀議を重ね、幕府に味方する関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を血祭りに上げるテロリズム計画を立てていた。そして、九条尚忠の家臣がの標的となって殺害され、首級が四条河原に晒された。和宮降嫁を推進した岩倉具視らの公卿も攘夷派から脅迫され、岩倉は洛北の岩倉村に身を潜めた。京都を守るべき京都所司代の酒井忠義は、身の危険を感じて二条城に逃げ込み、京都の警察機能が無力になった。酒井忠義のような少録の譜代大名を幕府官僚制の要職に就ける伝統的な幕府の人事政策が破綻したのである。そこで幕府は、京都所司代の上に京都守護職を置くことにして、名君の誉れ高い会津藩主松平を就けた。

 この急進的攘夷論の時代に多くの有力藩が内部分裂した。水戸藩は激派と鎮派に分裂し、島津藩では島津久光が財力と兵力を西郷と大久保に横取りされて藩主としての権力を失い、土佐藩では藩主からの信頼が厚かった公武合体派の吉田東洋が武市半平太率いる土佐勤王党に暗殺された。長州藩では「航海遠略策」による公武合体論で一世を風靡した長井雅楽が吉田松陰の一番弟子久坂玄瑞から非難を浴びて失脚し、長州藩では条約破棄・攘夷断行をめぐって保守派と急進派の対立が藩内の内戦へと発展した。そんな中で会津藩は、藩内での抗争がなく、最後まで君臣が一致団結していた希有な藩であった。

 1863年、久坂玄瑞らの長州藩攘夷急進派が関門海峡で停泊中のアメリカ商船を砲撃し、関門海峡に入ってきたフランス通報艦とオランダ軍艦を砲撃した。アメリカとフランスは直ちに報復を行い、全ての砲台を破壊し、武器・弾薬を奪った。これに対して長州藩攘夷派は、すぐさま破壊された砲台を修復・再構築し、さらに、対岸の小倉藩領を武力占領して砲台を築いた。

 外国船を攻撃して攘夷に走る長州藩攘夷派の暴挙を憂えた孝明天皇は、あくまでも公武合体を支持して現実政治を幕府に任せること、将軍後見職の一橋慶喜と京都守護職の松平容保を信頼して和宮のいる徳川を討伐する考えは全くないことを中川宮に伝え、朝廷から長州藩を排除するように指示した。そして、1863818日午前1時、中川宮などの公武合体派の公卿衆と松平容保らが御所に参内して朝議が行われた。その朝議で、攘夷派公家の参内禁止、長州藩の堺町御門護衛の解任などを決定した。これにより宮廷内は公武合体派の公家衆によって占められ、三条ら7人の攘夷派の公家は京都を追われ、長州藩士として長州に下った。これを「8.18政変」と言う。

 8.18政変の後も攘夷の嵐が吹き荒れた。その主なものに「水戸天狗党の乱」と「の変」があるが詳細は省略する。また、この時期に京都守護職の配下で近藤勇・土方歳三らの新撰組が活躍した。

 

 

 

4.イギリスの策略と薩長同盟の成立

 1862年に「事件」(横浜の生麦村を行進中の薩摩藩主島津久光の行列に乗馬のまま近づいたイギリス商人を薩摩藩士が無礼打ちにした事件)が起き、「薩英戦争」へと発展した。ところが、元々、開国論者の薩摩藩は、賠償金25千ポンドを幕府から借用してイギリスに支払い、薩英講和条約を結んだ後、交易や人の交流を通してイギリスとの関係を深めた。

 日本の遣欧使節団を案内するために本国に帰っていたオールコックは、日本に帰任する際に外務大臣ラッセルから「貿易確保のためなら海軍力を使ってもかまわない」と言われた。それ以降、オールコックの対日政策が変わった。オールコックは、長州藩の外国船攻撃に対して、イギリス船が攻撃されていないにも拘わらず、米英蘭を誘って四国連合艦隊を編成し、長州を討つことにした。18647月、四国連合艦隊は下関に向けて横浜を出航した。

 一方、同月に朝廷は、幕府に対し「蛤御門の変」を起こした長州藩を追悼する第一次長州征伐令を下した。幕府は征長総督に前尾張藩主徳川慶勝、征長参謀に薩摩藩軍賦役の西郷隆盛を任命した。

 四国連合艦隊は長州藩砲台を攻撃し、翌日には四国の兵士2600人(内2000人はイギリス兵)が上陸して兵舎を焼き、大砲を破壊し、民家を焼き尽くした。たまらずに長州藩は降伏した。イギリスは、講和条件として「下関海峡通過の安全確保、石炭・食糧・水の供給、台場の修復・新設の禁止、賠償金3百万ドル」を要求した。この講和条件の中の賠償金3百万ドルは、幕府海軍建設に要した軍艦購入総費用142万ドル(この支出により幕府財政が破綻したと言われる)の倍以上であり、法外な金額であった。長州藩はこの講和交渉に高杉晋作が臨んだ。交渉の中で高杉晋作が「長州藩の攘夷行動は朝廷と幕府の命令を実行しただけ」という屁理屈を言うと、オールコックはこれを受け入れ、賠償金3百万ドルを幕府に請求することにした。実際は、幕府が「日本側から攻撃を仕掛けないように」という布告を諸藩に出していたに違反して、長州藩が勝手に攻撃したのである。オールコックの狙いは、幕府を倒して日本を植民地化することであり、そのために幕府と対立する長州を支援することにしたのである。イギリスが外国を植民地化する伝統的な戦略は、「反政府勢力を支援して政権転覆をはかり、その後に親英政権を作って植民地支配する」というものである。幕府と対立する薩長二藩を支援して武力倒幕させることは、まさにイギリスの伝統的植民地化の戦略であった。

 第1次長州征伐が186411月に決行されることになった。存亡の危機を迎えた長州藩は、攘夷派と保守派の対立が深刻化した。ところが、長州征伐参謀の西郷隆盛は「長州藩内が二派に分かれているのに、ともに死地に追いやるは無策」と言い、「保守派の藩主一門の岩国領主と蛤御門の変の責任者である三家老の切腹」などの講和条件をまとめて総攻撃を中止した。この頃の西郷は、薩摩藩を統率し、藩主島津久光の家来であることを超えていた。征長総督の徳川慶勝は、西郷の処置を追認し、第一次長州征伐軍の解散・撤兵令を出した。

 長州征伐軍が撤退すると、攘夷急進派の高杉晋作が決起して大集団を形成し、藩内の戦を勝ち上がっていき、長州藩を制覇した。そして、長州藩の政庁を保守派の拠点の山口から攘夷派の萩に移し、大村益次郎を長州藩兵学教授として軍制の近代化に取りくんだ。大村は、上海に行って軍艦を密売し、その代金で大量の小銃を密輸入した。そして、農民などを徴集して兵士とし、全員に小銃を与える「皆兵武装化」を進めた。長州藩が大砲・小銃を大量に密輸入していることをつかんだ幕府は第二次長州征伐を決定した。

 18655月、駐日イギリス公使がオールコックからパークスに交代した。パークスは20年余も清国に滞在し、広東領事としてアロー号事件に火をつけ、清国に戦争を仕掛けて広東を砲撃し、天津条約を結ばせた人物である。パークスになって英外相ラッセルの訓令が厳しくなり、「兵庫開港・大坂開市を繰り上げること、朝廷の通商条約勅許を得ること、関税を引き下げること」の3条件が満たされない限り、幕府に対する3百万ドルの賠償金の支払延期や減額に応じないことになった。しかし、幕府は3百万ドルを6回に分割し、第1回目として50万ドルを支払ったが、それ以降の支払いが不能の事態に陥った。

 この幕府の窮地を救ったのが禁裏守衛総督となっていた一橋慶喜であった。慶喜が朝廷に参内して朝議の開催を要求し、18651014日の夕方から小御所で会議が開かれた。そこには、孝明天皇と関白・右大臣・左大臣らの公卿衆、幕府から一橋慶喜、松平容保、京都所司代松平が列席した。慶喜は、「条約勅許がなければ諸外国と戦争になる。敗戦は明らかだから我国は外国の属国になる」と熱弁を振るい、公卿衆を説得した。朝議は翌日の夜まで続き、最後に慶喜が「かく申し上ぐるも、ご許可なきにおいては、それがしは責を引いて(切腹)すべし。…それがしが命を捨てなば、家臣ら各方に向かい、如何なることを仕出かさんとも知るべからず」とまで言い切った。すると、最後まで決定の先送りを主張していた公卿衆が抵抗をやめ、孝明天皇も決断され、通商条約の勅許が下された。すると、長州藩・薩摩藩・土佐藩などの攘夷派テロリストによる異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃などがぴたりとやんだ。幕末の攘夷テロの窮地を救ったのは、国を憂える慶喜の熱弁であった。

 長州藩が上海から大量の小銃・弾薬・火薬などを密輸入するルートは上海−下関の直接ルートと上海−長崎−下関の三角ルートがあった。莫大な利益を伴う密貿易を取り仕切っていた最大の武器商人は、長崎を本拠としたイギリス商人トマス・グラバーであった。グラバーは、18歳で上海に渡り、21歳のときに長崎に来て商社事務員を務めた後にグラバー商会を設立し、1865年頃には社員数15名を数える長崎最大の外国商社となっていた。

 この当時、4年に及んだ南北戦争が終結し、アメリカで余剰となった最新鋭の小銃が上海あたりで大量に出回っていた。南北戦争は、両軍の戦死者が62万人に及ぶ大戦争であり、ミニエー銃・ゲベール銃などの最新鋭の小銃が生まれ、小銃の発展に画期的なインパクトを与えたと言われる。

 18655月に英仏蘭米の間で「四国共同覚書」が作成された。これは、幕府と長州藩との戦争に際し、「厳正中立、絶対不干渉、密貿易禁止」を取り決めるもので、日本に対して四国は内政不干渉を誓った。しかし、英国は、1858年に締結された日英通商条約でも「武器輸入は幕府に限る(=諸藩は武器を輸入できない)」と制約されていたが、グラバー商会の長州藩への密貿易は完全に日英通商条約を無視していた。さらにグラバーは、18657月に長州藩の伊藤博文と井上が長崎で密かにグラバーと会見し、小銃7300挺を購入契約した際に、「百万ドルぐらいの金銭はいつでも長州藩に用立てるから、決して心配に及ばない」と申し出た。当時、社員15人のグラバー商会にそれだけの資金力があるはずがない。グラバーは、明治41年に伊藤博文・井上馨連名の申請により、外国人としては異例の勲二等旭日章を受けるが、その申請理由に伊藤・井上は、グラバーが英公使パークスに「幕府は衰えた。政権を天皇に復帰させられるのは薩摩・長州の二藩である。だから英国は薩長二藩を支援すべきだ」と進言したという主旨のことを記述している。つまり、パークスに薩長二藩を支援することを進言したのはグラバーであり、その進言を受けてパークスは「薩長連合による倒幕」という対日政策を決めたというのである。そしてパークスはグラバーに長州の武器輸入に百万ドルも用立する権限を与えたのである。イギリスは、幕府から3百万ドルの借金を取り立て、長州藩には百万ドルの資金融資をして、幕府と薩長の間に差し引き4百万ドルという途方もない資金力の差をつけることによって幕府を倒し、日本を英国の支配下に入れる策略を立てていたのである。

 イギリスは、薩英戦争講和後から新鋭兵器の輸出先となっていた薩摩藩をイギリスと長州藩との密貿易に絡ませて、三角貿易とする仕組みを考案した。それは、長州藩がイギリスから密輸入する武器類を薩摩藩名義にして、幕府探訪方の眼を盗み、同時に慢性的な米不足に悩む薩摩藩に長州藩から米の融通して米不足を補うというものである。このイギリス−薩摩−長州の三角貿易で海上輸送やブローカー業務を行ったのが坂本龍馬率いる亀山社中であった。坂本龍馬は、勝海舟が開設した神戸海軍操練所で土佐藩の仲間と航海術を学び、それを武器に長崎の亀山を拠点に亀山社中を結成し、薩摩藩傘下の出入り業者となった。長州藩とグラバー商会の武器の密輸取引に薩摩藩傘下の亀山社中が介在することによって、四国共同覚書や通商条約をかいくぐる三角貿易が堂々と行われるようになった。つまり坂本龍馬は、イギリスの策略の手先となり、日本人同士が殺し合う内戦で使用される高性能武器を反幕府集団に売り込んで、高利潤を貪る密貿易ブローカーであった。さらに、勝海舟・松平春嶽らの幕府の要人から聞いた秘密情報を商売相手の薩摩・長州やグラバーに話して彼らの関心を買おうとするスパイでもあった。

 18661月、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通と長州の桂小五郎が京都薩摩藩邸で薩長同盟について会談した。しかし、会談は進展しなかった。そこに坂本龍馬が入ってようやく薩長同盟が成立した。これを見ると、坂本龍馬はパークスやグラバーの手先となって薩長同盟を成立させたと推察される。

 18664月、イギリス公使館通訳官のアーネスト・サトウが横浜で発行されていた英字新聞『ジャパン・タイムズ』に『英国策論』を発表した。日本文化に憧れてイギリス外務省の日本語通訳官となったアーネスト・サトウは、19歳の時に横浜に来た。パークスは、日本語で独自の情報を入手するサトウを対日政策の立案者として取り立てた。その後のイギリス公使館の対日政策はサトウが発表した『英国策論』の筋書き通りに展開していく。その内容は、「将軍を大名の地位に引き下げ、将軍に代わって天皇を元首とする諸大名の連合体を支配勢力とし、諸外国は天皇と直接関係を結ぶようにする」というものである。この『英国策論』は和訳され、出版物として発売されて広く読まれた。駐日イギリス公使館は、徳川幕府を否定し、薩摩・長州など西南雄藩を支援して倒幕を視野に入れたことを内外に宣明したのである。

 ところがこの後、イギリス本土で政権交代があり、イギリス外務省の対日政策が「内乱に乗じて政治的影響力を行使する」から「通商を重視して内乱には厳正中立を保つ」へと変わった。しかし、新外相の対日政策変更を指示するパークス宛通信が届いた18665月には、駐日公使パークス、通訳官アーネスト・サトウ、武器商人グラバーらが「反幕府・薩長支持」に熱気をはらんで動き出した後であった。「遅かりし」である。

 18666月にパークスは鹿児島に行って西郷隆盛と腹を割って意見のすり合わせを行った。パークスは「日本人自らが薩摩・長州などの雄藩連合による倒幕を決断すべきだ。イギリスは支援を惜しまない」と言って西郷に迫った。西郷は、このパークスの説得を受け入れてイギリスの軍事支援のもとに武力倒幕することを決意した。それ以降、西郷はパークスの言いなりになるのである。

 幕府の第二次長州征伐は、イギリスが3百万ドルの返済条件を厳しくしたことに対応するために9ヶ月も遅れることになった。この9ヶ月の遅れが幕府の致命傷となった。9ヶ月の間に長州藩はイギリスの支援を受けて十分な戦備を整え、戦力が逆転したのである。18666月に第二次長州征伐が始まると、幕府軍先方の彦根藩兵は、古式ゆかしい赤備えの甲冑を着込み、法螺貝と太鼓を響かせつつ、和流の軍法にのっとって槍先を揃えてゆるゆると押し出していった。それに対して長州藩諸隊は、大村益次郎自慢の近代的な散兵戦で戦った。それは、23人で一組の兵士が広く散らばり、ゲーベル銃で狙撃するものであった。この戦いは幕府軍の惨敗に終わった。

 

5.将軍徳川慶喜の軍制改革と大政奉還

 186612月、慶喜は参内して将軍職に就任した。その直後、孝明天皇が35歳の若さで崩御した。慶喜の最大の理解者であった孝明天皇を失ったことは、慶喜にとって大きなダメージとなった。

 第二次長州征伐が幕府の惨敗で終わると、フランスがイギリスへの対抗心を露わにして親幕府の姿勢を鮮明にしてきた。それを推進したのは、1864年に着任した新フランス公使ロッシュであった。ロッシュは、イギリスに追随した前任公使と異なり、着任早々からイギリスと一線を画す姿勢を強め、幕府首脳に「イギリスは工業製品を売るために他国の侵略を顧みないが、フランスは、芸術・科学と同様に軍事上でも偉大な正義を愛する国である」と公言した。そして、日本に武器を輸出するイギリスに対抗して、フランスは日本から貴婦人のための絹織物用の生糸の輸入を要求した。当時、日本の国際競争力を有する唯一最大の産品が生糸であった。ロッシュは、造船所建設を熱望する幕府に応えて、フランスから技師ヴェルニーを呼び寄せた。ヴェルニーは、造船所に適した地形の横須賀を推薦し、フランスの支援で横須賀製鉄所が建設された。

 18671月、慶喜の弟徳川が渋沢栄一らの随行と共に、パリ万国博覧会に出席するためにヨーロッパに旅立った。パリ万博では日本の展示会場で幕府と島津藩が同等に扱われるというトラブルがあったが、万博の後に昭武一行がヨーロッパ各国を親善訪問して大歓迎を受けると、日本を代表するのは幕府であることがヨーロッパ中で認められた。渋沢栄一は昭武に随行して各国を訪問し、通訳シーボルトの案内で先進的な産業や諸制度を見聞し、株式会社制度を学んだ。昭武はヨーロッパに留学する予定であったが、大政奉還により急遽、帰国することになり、186812月に横浜港に帰還した。

 慶喜はフランスの力を借りて軍制改革に着手した。それまでの旗本軍団を全廃し、複数の旗本を合わせて一隊としてまとめ、統一的な常備軍に編成しなおした。そして、刀と槍を捨てさせ、全員に小銃を持たせる銃隊に組み替えた。こうして1867年末には、歩兵7連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備したのである。余談だが、当初はフランス式で発足した明治陸軍が1885年にドイツ式に転換したのは、フランスが普仏戦争で敗れたことを理由に長州出身の山県有朋がドイツ式に変えたからである。しかし、もしフランス式のままであれば、フランス陸軍には「統帥権独立」の思想がないから、昭和における日本陸軍の日中戦争・太平洋戦争への暴走を防げたはずである。

 18673月、慶喜は、御所で朝廷側と夜8時から徹夜の会議を始め、「長州藩へは寛大な処置を行うこと」、「兵庫開港を勅許されたいこと」の2点を要請した。この会議で慶喜は、京都に近い兵庫の開港を絶対に認めない公家衆に対して「あなた方の日本書紀や古事記から抜け出したような意見は、当世では通用しない」とまで言って説得し、まる一昼夜たった夜8時頃、要請した2点の勅許を得た。そして、1868年元旦から兵庫港を開港し、江戸と大坂に外国人の居留を許す布告を出した。負けた幕府が長州藩に「処分を寛大にする」という勅許を得られたことは、慶喜が整備した陸軍力によるものであるが、政治的には長州に勝利を収めた形になった。こうして慶喜が兵庫開港と江戸・大坂開市を実現すると、日本に対する諸外国の苛烈な要求が全て沈静化した。慶喜は幕府に課せられた全ての課題を解決し、日本の開国を完成させたのである。

 186710月、慶喜は、老中以下、在京の幕府諸役人を二条城に招集し、大政奉還の決意を告げ、『大政奉還上表文草案』を説明した。その日の夜、慶喜は、大政奉還後の新政治体制構想を考案させていた幕府開成所教授を招き、講義させた。西周は、洋学研鑽のため津和野藩を脱藩して1862年に榎本武揚らと一緒にオランダに留学し、法律・国際法・政治経済学などを学んで1865年に帰国し、幕府直属の開成高教授となった。西周は、慶喜のブレーンとして重用され、大政奉還後の新政治体制のあり方を諮問されていた。それに応えて西周は、イギリス議会主義を手本とし、皇室をイギリス王室に、大君(将軍)をイギリス首相になぞらえた制度を提唱し、我が国最初の憲法草案と言われる『議題草案』を起草した。その骨子は、「大君が最高指導者となって行政府を主宰する。立法府は上下二院制とし、上院は1万石以上の大名で構成し、下院は各藩主が1名選任する。大君は上院議長を兼任し、下院の解散権をもつ。天皇は、元号、度量衡制度、叙爵権をもつ」というものである。この西周の草案は、江戸時代の藩を残した地方分権制国家であり、アメリカの連邦制に近い。もしこの草案が採用されていたら、東京に一極集中する日本ではなく、地方に固有の文化が栄える地方分権国家になっていたはずである。

 186710月、慶喜は『大政奉還上表文』を明治天皇に提出した。この『大政奉還上表文』が半年後の明治元年3月に公布された明治天皇による『五箇条の御誓文』の原型となった。例えば、『五箇条の御誓文』の「広く会議を興し万機公論に決すべし」は『大政奉還上表文』の「広く天下の公議を尽くし」からきている。同じく、「上下心を一にして盛に経綸を行うべし。宮武一途庶民に至るまで各其志を遂げ人心をしてまざらしめんことを要す」は「道心協力、共に皇国を保護つかまつり」を分かりやすく丁寧に表現したものである。

 186712月、慶喜の大政奉還に呼応して朝廷から「王政復古」の大号令が発せられた。これを受けて、慶喜が将軍職を辞任した後の王政の基礎を固めるための朝議(小御所会議)が朝廷で開かれた。この会議には、明治天皇、岩倉具視らの公卿衆、尾張藩・越前藩・土佐藩・薩摩藩・安芸藩の藩主と有力藩士が列席した。会議では、まず、公家側から「慶喜の官位(内大臣)の返上と領地の返納を求める」との議題が出された。それに対し土佐藩主山内が「王政の基礎を固めるこの会議に徳川慶喜が召されていないのは公平ではない。早々に加えられたい」と発言し、さらに「政権を奉還した慶喜の忠誠は感嘆にたえない。それに対し今日のような独断による暴挙をする二、三の公卿の意中を推しはかれば、幼い天子(明治天皇)を擁して、権力を私するもの」と言って糾弾した。この当時、「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が流布されていた。岩倉は、慶喜を信頼して公武合体を唱えていた孝明天皇を毒殺し、当時15歳であった明治天皇を抱き込み、薩摩・長州と組んで孝明天皇の意志と全く異なる方向へ朝廷を引っ張っていこうとしていたというのである。この山内容堂の糾弾に対して岩倉具視が「慶喜が本当に反省しているなら、自ら官位を退き、土地を還納すべきである。朝議参加はそれからのことだ」と主張し、薩摩藩士大久保利通も「慶喜に辞官納地を命じ、抵抗するなら討伐すべし」と発言して岩倉を支持した。越前藩松平春嶽、尾張藩徳川慶勝、安芸藩浅野らの大名は山内容堂の意見に同調した。議論は膠着して深夜に及んだ。そして、休憩中に、薩摩藩士岩下左次右衛門が西郷隆盛に会議の様子を知らせると、西郷は「短刀1本で片付くこと」と言い、岩倉に短刀を懐に忍ばせ、明治天皇の前で容堂を刺殺する覚悟を示唆した。岩下から西郷の意向を聞いた岩倉は、西郷の言う通りに短刀を懐に入れ、山内容堂刺殺の決意を浅野茂勲に伝えた。浅野は家来にそれを薩摩藩士後藤象二郎に伝えさせ、後藤は主君山内容堂と松平春嶽に伝えた。すると再開後の会議では、容堂・春嶽らが沈黙した。こうして朝議は徳川慶喜の辞官納地を決定した。この「反対者をテロで抹殺する」という西郷のやり方は、後の日本でしばしば使われる悪弊となった。

 一方、慶喜は、諸外国の公使と引見する席で、外交責任者として外国との条約を守るのは自分であると宣言し、諸外国公使に外交面では徳川幕府が正統的な権限を持っていることを認めさせた。それが奏功して、慶喜の辞官納地の件は、結局、慶喜が諸大名会議を主宰して幕府・諸大名から朝廷への費用献上の分担率を決定することになり、慶喜の粘り腰で形勢が逆転したのである。

 大政奉還により武力倒幕の大義名分を失った西郷隆盛は、江戸で放火・略奪

・暴行・殺人などを仕掛けて騒乱を引き起こし、幕府を挑発して幕府との開戦の口実を作ることにした。そのために総三に密命を与え、江戸薩摩屋敷に送り込んだ。相楽は狼藉者を見つけて薩摩屋敷に囲い込み、総勢5百人ほどのテロ部隊を組織した。相楽はこのテロ部隊に富商・富豪に押し入って金品を強奪させ、その金品で新たな無頼を集めてテロ部隊を増員した。彼らは「御用金を申しつける」と言って強奪し、強奪後に芝三田の薩摩屋敷に逃げ込んだことから、江戸町民は無頼集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。相楽らは幕府が挑発に乗らないことに業を煮やして江戸周辺にまで騒乱を広げた。すると老中稲葉正邦が薩摩藩邸への攻撃を命じ、薩摩藩邸を焼き討ちにした。西郷は「これで開戦の口実ができた」と言ってニヤリと笑ったという。この事件の知らせを聞いた慶喜は冷静さを失い、ついに西郷の挑発に乗ってしまった。1868年元旦、慶喜は『討薩表』を著し、薩摩藩との軍事対決を表明した。こうして186813日早朝に「鳥羽伏見の戦」が勃発した。

 「鳥羽伏見の戦」とそれに続く「戦争」は、明治天皇を取り込んだ薩長軍が錦旗(菊の御紋章のついた旗)を立て、幕府軍を朝敵にしたことで勝負が決した。幕府軍は兵力では勝っていたが、慶喜は松平容保らを伴って大阪城を退去し、大坂湾から軍艦海洋丸で江戸に戻り、恭順謹慎して自ら政権を捨てた。このように慶喜を変心させた陰には、会津藩軍事奉行添役修理の慶喜に対する必死のがあった。神保は「薩長軍に錦旗が授けられた以上、たとえ何者であろうと官軍でございます。最早、兵を撤収して恭順の意を表すべきです」と言い、慶喜はこれを受け入れたのである。

 しかし、薩長が官軍となったことと官軍の印として錦旗を立てたことは、全て岩倉具視らの公家と大久保利通・西郷隆盛らが仕組んだごまかしであった。薩長に対する倒幕の密勅には天皇の名がなく、摂政の署名もない偽勅であり、偽勅を書いた公卿もそれを認めているから、薩長軍は勅命による官軍ではなかったのである。それに、古来から朝廷が将軍に朝敵討伐を命じる印は(天皇が将軍に授ける刀)がわしであって、錦旗を授けることはない。岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らは偽勅によって薩長軍を官軍に仕立て、偽りの錦旗で官軍と偽って敵の戦意を喪失させ、倒幕に成功したのである。

 さらに西郷隆盛は、江戸に進軍するときに、相楽総三に指示して赤報隊を結成させ、幕府領の民衆に「新政府が年貢を半減する」と喧伝するように命じた。それは、幕府領の民衆をだまして、進軍しやすくするための策略であった。しかし西郷は、それが偽りだと露見すると「年貢半減は赤報隊が勝手に触れ回った」と偽り、信州諸藩に赤報隊捕縛命令を下した。そして、西郷の武力倒幕に利用されて用済みとなった相楽総三は、下諏訪宿で情け容赦なく処刑された。

 江戸城無血開城は、幕府と朝廷を仲裁した和宮の努力によって慶喜の助命が得られたから可能になった。西郷隆盛と勝海舟の功績だとする従来の通説は誤りである。和宮による慶喜の助命がなかったら、戊辰戦争は諸外国も介入する大規模な内戦となり、清朝と同様の状態に陥っていたと推察される。

 西郷は、無血開城した江戸城から接収した大量の銃砲類や幕府軍艦を使って奥羽越戊辰戦争を起こし、会津藩を始めとする東北諸藩を完膚無きまでに叩きのめした。その目的は、薩長軍の賞典禄の財源確保であり、東北を摂取と隷属の対象として日本が発展するための踏台とすることであった。西郷は、後に士族救済のために征韓論を唱え、それに敗れると下野し、時代に取り残された士族にがれて西南戦争を起こした。こうした経緯を見ると、西郷隆盛という人物は正義感の強い人物と見られてきたが、実際はイギリスの武力倒幕に加担して冷酷な仕打ちをわなテロリストであり、薩摩・長州を中心とする「幕末ポピュリズム」の大親分であったのである。

 

 

あとがき

 明治維新に敗れた徳川慶喜の側から見た鈴木氏の『明治維新の正体 −徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』を読んで、まさに「明治維新の正体」が見えてきた。それは、サブタイトルに言うように、本当に明治維新をリードしたのは徳川慶喜であり、西郷隆盛はイギリス公使パークスに動かされたテロリストでありポピュリストに過ぎなかった。現在、鈴木氏が代表を務める「幕末史を見直す会」によって、明治維新が見直されつつある。徳川慶喜が明治維新をリードし得た先見性の基には、幕政を監察する水戸藩の務めを遂行するために水戸光圀が作った尊皇思想の「水戸学」があり、その神髄は「万民平等の思想」にあった。慶喜は、その「万民平等の思想」に基づいて立憲君主の議会制を目指していたことを鈴木氏が究明した。一方、鈴木氏は、幕末の国際情勢と日本との関係を調べて、西郷隆盛を始めとする大久保利通・岩倉具視らの倒幕派がイギリスの日本植民地化の策略の下で動いていたことを究明した。彼らは武力倒幕に成功し、植民地にもならずにすんだが、それも徳川慶喜がいさぎよく身を引いて恭順謹慎を示したからである。もし、慶喜が戊辰戦争を戦っていたら日本国内は戦乱の場と化し、イギリスの策略にはまって日本はイギリスの植民地になっていたかも知れない。こう考えると、日本が明治維新に成功して近代国家になり得たのは、聡明な徳川慶喜の先見の明と冷静沈着な行動にあったと言える。慶喜は、従来の通説のような優柔不断でも日和見主義でもなかったのである。一橋家の家臣となり、生涯にわたって慶喜を支えた渋沢栄一は、「徳川慶喜公はいかに侮辱されても国のために命を捨てて顧みない偉大な精神の持ち主であった」と述懐している。徳川慶喜は、明治41年に大政奉還の功績により明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与され、大正2年に77歳の長寿を全うして亡くなった。今、谷中で天皇家と同じ神式の墓に眠っている。

 さて、「明治維新の正体」を探ってきたこの冊子は20ページにもなってしまいました。まだ言い尽くせない所がありますが、この辺で筆をおくことにします。最後までお読み戴いたことに感謝します。          (以上

コロナ後の新しい世界

                       20216月 芦沢壮寿

 

 世界の色々な専門分野の賢人16人がコロナ後の世界について語っている『新しい世界』(講談社現代新書2021)を読んでみました。その内から目ぼしい10人の賢人を抜粋して、その概要をまとめてみました。

 

1.         世界は急変する歴史の渦中に入った

          イスラエルの歴史学者 ユヴァン・ノア・ハラリ

 世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』、『ホモ・デウス』の著者 ユヴァン・ノア・ハラリは、今回のコロナ禍とコロナ後の世界について次のように述べている。今回の新型コロナウィルス感染症(covid-19)は、人類史上で新たな時代を開く画期的(エポック)な出来事となる可能性が高い。普通だと何十年もかかるオンライン授業、ベーシック・インカム、ロボット利用などが、今回のコロナ禍では自然発生的に現れ、いとも簡単に受け入れられてしまった。これはコロナ後も継続される可能性が高い。ハラリは、コロナ後の世界が急変する歴史の渦中に入っていくと推測しているのである。

 ハラリは、今回のコロナ危機が引き起こしている重要な問題として、1つは、「市民に大きな自主性を与える民主主義社会」か「市民を監視して従わせる全体主義的監視社会」のどちらかをグローバルな規模で選ばなければならないこと、もう1つは、コロナ危機を乗り切るには国際的な連携なしには不可能であることの2点を掲げている。

 イスラエルでは、ネタニヤフ首相が市民の健康を保護するという理由で対テロ技術を利用して、市民を監視する独裁国家へと変えてしまった。このように、コロナ後の世界では、民主主義国でも簡単に独裁国家に変わる危険性を孕んでいるのである。

 ハラリは、感染症に打ち勝つための重要な要素として、「しっかりとした公共衛生システムと有能な科学機関を持つこと」、「正しい科学的知識と情報を市民に与えること」、「グローバルに連帯すること」の3点を挙げている。この3点を満たす社会は、無知な国民を監視する独裁社会よりも、常にうまく感染症を乗り切ることができると指摘している。

 

2.市民同士の戦争になりかねない深刻なフランスの国内問題

          フランスの歴史人口学者 エマニュエル・トッド

 歴史人口学者としての洞察力からトランプ大統領の誕生など、幾多の社会変動を予測し的中させてきたエマニュエル・トッドは、今回のコロナ禍で文化が似ている国の死亡率が同じ傾向にあると指摘している。個人主義的な伝統のある国々(米英やスペイン、イタリア、フランスなどのラテン諸国)が今回のパンデミックで被害が大きかったのに対して、権威主義的な伝統のある国々(日本、韓国、ベトナムなど)や規律を重んじる国々(ドイツ、オーストリアなど)はさほどでもなかったと言う。

 一方、フランス・英国・スウェーデンは人口の再生産率が18ほどだが、日本やドイツは15ほどで人口の再生産率が低い。2019年にドイツは20.1万人の人口減少となった。コロナ後の世界では人口の再生産率の高さが経済発展の重要な要素となる。

 トッドは、今回のコロナ禍でフランスがコロナ対策に必要な物資を国内で生産できなかったことに憤慨し、ここまでフランスを無防備な国にしてしまった国立行政院出身の高級官僚や政治家(マクロン、オランドなど)を痛烈に批判している。「マクロンは現実に疎いのか、バカなのか、正気を失っているのかのいずれかだ」と酷評している。マクロン大統領などの超エリートを排出してきた国立行政院は閉鎖の危機に瀕している。

 フランスは、マネーの流れをグローバル化させるゲームにはまってしまい、中国に工場を移してマスクや医薬品を造って輸入し、国内の産業力と医療制度を犠牲にしてしまった。トッドは、フランスをこうした窮地に追い込んだエリートたちを法廷で裁く必要があると主張している。フランスでは社会が暴発する恐れがあり、階級闘争どころか市民同士の戦争になりかねない状況にあると言う。

 

3.国民の分断から生まれる民主主義の危機

          米国の進化生物学者 ジャレッド・ダイアモンド

 ジャレッド・ダイアモンドは、近著『危機と人類』の中で、国家が危機を上手に切り抜けるカギとなるのは「現実的な自己評価」、「他国の優れたところを学び、変えるべきところを変えられる能力」、「他国から学びながら自国の中核的な価値観を維持できる能力」、「社会や政治で妥協できる柔軟性」にあると述べている。その視点で今回のコロナ危機を見ると、シンガポールと台湾が最も危機を乗り越える能力に優れていて、欧米諸国は劣っていることが分かった。シンガポールと台湾は、一国が危機を乗り越える上で重要となる「ナショナル・アイデンティティ(国民意識)」に優れているという。

 ダイアモンドは、日本の問題点として、「現実的な自己評価」、「他国の優れたところを学び、変えるべきところを変えられる能力」に欠けると指摘している。日本は、現実的な自己評価ができないために、日露戦争の勝利後に軍人が尊大になり過ぎ、米国と戦って惨憺たる敗北に帰した。また、現在でも韓国や中国と完全な和解ができず、敵対関係が続いていること、未だに近代社会における女性の役割を国として受け入れていないこと、人口が減少し、保育や介護を担う人が足りないのに移民を受け入れない政策に固執していることなど、日本が現在でも「他国から学び、変えるべきところを変える能力」に欠けていることを表している。

 ダイアモンドは、「国の統治に関わる者の世界観は世界を知った上で作られるべきで、自分の思想に都合の良い世界観であってはならない」と言う。かつて日本は携帯電話で国内競争に明け暮れ、スマホに乗り遅れて「ガラパゴス現象」と揶揄されたように、日本人の世界観には弱点がある。日本の政治家や企業経営者はダイアモンドの指摘を肝に銘じるべきである。

 同じ事が中国にも言える。中国の「中華思想」に基づく世界観は、あまりにも独善的であり、米欧だけでなく世界中から警戒されるようになった。さらに中国の決定的な弱点は、中国は一度も民主政治の経験がないために、国民が共産党の政治指導者の誤りを指摘したり、国全体で議論したりすることができないことである。つまり、中国には民主主義国の統治機構が持っているチェック・アンド・バランスの仕組みがないために、共産党の悪い決定を修正する手段がないのである。

 一方、米欧の民主主義国では国民の分断が深刻化しつつあり、民主主義の機能が正常に働かなくなる危機に直面している。南米のチリは、南米随一の民主主義の歴史を誇る国であったが、たったの数年で国民の対立が激化し、1973年の軍事クーデターの後、残虐な軍事独裁政治が17年間も続くことになった。米欧の民主主義国の政治家は、このチリの例を教訓として、国民を分断させる政策や行動を自重しなければならない。

 米英の社会の分断は、2016年の大統領選挙とEU離脱の国民投票で顕著になった。両国とも、階級や学歴の違いによって人々が隔離された集団として暮らすようになって社会の分断が始まった。低学歴で地元に留まって暮らしている非エリート層(英国では「somewhere族」という)と、高学歴で地元から離れて遠くで暮らすようになったエリート層(英国では「anywhere族」という)の人々が没交渉となり、分断された社会を形成するようになった。2016年の米大統領選挙では、北中西部のsomewhere族がトランプに投票したことからトランプ大統領が生まれたと言われる。英国のEU離脱の国民投票では、anywhere族がEU残留に投票したが、多数を占めるsomewhere族がEU離脱に投票してEU離脱が決まった。

 米国では大手メディアや巨大SNSが思想傾向の同じ人々のグループを形成し、社会の分断を深めている。分断されたグループの間ではコミュニケーションの機会がなくなり、それにつれて思想の違いに妥協する精神がなくなっていき、協調する米国の政治文化が壊れていった。

 ダイアモンドは、今回のパンデミックで世界中の人々が「地球のどこにいても人類全体が運命をともにしている」ことを認識するようになったことを高く評価している。直近40年の歴史を見ても、世界中の人々が共通のグローバル・アイデンティティ(世界的意識)を持つことによって、世界から天然痘を撲滅することに成功し、排他的経済水域を決める合意ができ、全ての国が大気圏からフロン・ガスをなくす合意ができ、深海の鉱物資源についても国際合意に達した。気候変動問題でも、世界の国々が共通のグローバル・アイデンティティを持って一致団結すれば、達成することが可能になると言う。

 

4.コロナ感染症とポピュリズム  

               米国の政治学者フランシス・フクシマ

 日系の政治学者フランシス・フクシマは、今回のコロナ禍でポピュリスト政権国家がコロナ対応への失敗を露呈したと断定している。米国のトランプ、ブラジルのボルソナル、メキシコのロペス・オブライド、ハンガリーのオルバーンなどのポピュリスト政権は、パンデミックを否定し、人気を維持するためにパンデミックを矮小化し、必要な措置を取ることを拒否して国を大惨事に陥れたと批判している。

 

5.リスクこそが次の成長を助ける  

     不確実性問題を究明している ナシーム・ニコラス・タレブ

 ナシーム・ニコラス・タレブは、予測が難しく一度限りの破壊的出来事(「ブラック・スワン(黒い白鳥)」と呼ぶ)が起こったときに大きなインパクトを引き起こす仕組みを明らかにした『ブラック・スワン』を著し、その中でリーマン・ショックを予言したことで知られる。タレブは、無秩序の中から利益を得る金融取引のトレーダーとしての経験から、「反脆弱性」という概念を創った。企業・病院・身体など、あらゆる組織は、リスクやストレスが全くないと脆弱になり、やがて崩壊してしまう。こうした組織の脆弱性を克服するには、リスクやストレスに挑戦して組織を改善・改革することを経験する必要があると言う。タブレはこれを「反脆弱性」と呼んだ。「反脆弱性」とは、日本で言えば、「可愛い子には旅をさせよ」、「苦労は金を出してもやれ」といった諺と同じ意味合いがある。「反脆弱性」から言えば、今回のコロナ禍は組織として次に成長するチャンスであり、これを克服することによって、コロナ後の世界で新たな成長力が生まれるとタブレは指摘している。

 

 

6.巨大IT企業が支配するデジタル・プラットフォームの問題点    ベラルーシ生まれのジャーナリスト エフゲニー・モロゾフ

 ジャーナリストでテクノロジー評論家であるエフゲニー・モロゾフは、フェイスブックなどの巨大IT企業が支配するデジタル・インターネットが万人に開かれた「政治秩序の基盤」として貧弱であると指摘している。フェイスブックは、同社のSNSでトランプ前大統領の言動について監査委員会で審議していると言うが、こうした「表現の自由」に関わる問題を一民間企業に任せている現状を問題視しているのである。

 今回のコロナ禍では、感染抑止のために2種類のソリューショニズム(ITを使った解決方法)が使われた。1つは、「進歩的ソリューショニズム」と言い、アプリを使って正しい情報を適切なタイミングで知らせることによって、人々の行動を変え、公共の利益を損なわないようにするものである。もう1つは、「懲罰的ソリューショニズム」と言い、デジタルの巨大監視インフラを使って人々の行動を監視し、ルールに従うように規制して、それに背く者には懲罰を加えるというのである。

 モロゾフは、今回のコロナ危機でありとあらゆる問題にソリューショニズムのツールが使われ、人々がパンデミックをITソルーションで乗り切れると考えていることに疑問を呈している。現在の民主主義にとって最大の脅威は、民主主義国家がビジネスを目的とする巨大IT企業のデジタル・プラットフォームに極端なまでに依存していることにある。本来なら、社会と政治のインフラとなるデジタル・プラットフォームの主権は「公」が持つべきである。そして、互いに助け合う「連帯」を生み出すためのデジタル・プラットフォームの制度を公に議論して決めるべきである。しかし、現状の巨大IT企業のデジタル・プラットフォームに埋没してしまっている人々には、「公」のプラットフォームを想像できなくなっている。そのこと自体が、民主主義の最大の脅威になっていると言うのである。

 

7.豊かさと幸福の条件       

             フランスの経済学者 ダニエル・コーエン

 フランスの経済学者ダニエル・コーエンは、資本主義の世界における幸福とは、暮らしの豊かさの絶対量ではなく、豊かになっていく過程が幸福をもたらすと言う。しかし、人類の歴史の中で経済成長が幸福をもたらした期間は、産業革命以降の200250年に過ぎなかった。それ以前の世界は、農業が中心であり、必要最低限以上のものを生産できるようになると、すぐに人口が増加して、結局、一人当たりの所得が増えなかったからである。これを「マルサスの法則」と言う。また、年間所得が増えても社会的な緊張(ストレス)を緩和できないと生活の満足度が上がらないという「インスタリンの逆説」がある。結局、人類は「マルサスの法則」と「インスタリンの逆説」によって、未だに豊かにも幸福にもなれないでいるのである。

 日本は、米国と同じように、経済成長の減速を働くことで解決しようとするワーカホリック社会になっている。ヨーロッパ諸国は、バカンスや早めのリタイアへのこだわりがある。中国は、日本をまねて、輸出主導型の製造業モデルで経済成長してきたが、これからは内需主導型に切り替えなければならない。しかし、中国は、1人当たりGDP1万ドルを超える頃から経済成長が難しくなる「中所得国の罠」に直面している。中国にはこれを突破する力があるが、成長率が減速し、貧富の格差が拡大している中で中国の指導者がうまく乗り越えられるかが問題である。

 コーエンは、これからの経済成長が鈍化する中で平穏な日常を過ごす方法について次のように述べている。

 「幸福になろう」と思うのではなく、近しい人とともに時間を過ごし、その人たちと助け合ったり、会話をしたりすること、自分の内の調和を保ち、周りの人たちとも調和を保つことを心掛けること、技術に習熟して、テクノロジーの奴隷になるのではなく、テクノロジーの主人になることが肝要である。

 これからの15年間で大きく変化することは、AISNSに関連することである。在宅勤務、オンライン診療、オンライン教育が普及し、社会のデジタル化が急ピッチで進んで社会のルールも大きく変わる。

 デジタル化がサービス業の生産性を向上させる可能性がある。サービス業の仕事をギグワーカー(暇な時間を使って色々な仕事をする人々)をアルゴリズムで管理することによって、安くて早いサービスができるようになる。これを「社会のウーバー化」と言う。

 今回のコロナ危機でエッセイシャル・ワーカーと呼ばれる人々が社会で果たしている役割の重要性が再認識され、その割には給与水準が悪いことが注目された。こうした問題に対して、新しいテクノロジーを使うことで医療従事者などの仕事の質が向上して多くの患者を診ることができれば、給料を上げることも可能になるであろう。

 

8.格差をなくす仕組みの提言    

               フランスの経済学者 トマ・ピケティ

 トマ・ピケティは、『21世紀の資本』、『資本とイデオロギー』の2つの大著の中で「格差問題」を論じ、格差を是正する独自の方法を提言している。

 ピケティによると、18世紀末に起こったフラス革命は経済格差の解消に失敗し、19世紀は私有財産による格差の黄金時代となり、莫大な私有財産を相続した者が社会を支配するようになった。20世紀は、19世紀の私有財産の格差を引き継いだが、2回の世界大戦の後で起こった超インフレによって格差が大幅に縮小した。ところが、1980年代以降に米国のレーガン大統領が推進した新自由主義に基づくグローバル化によって格差の再拡大が始まり、レーガニズムは失敗に終わった。1980年〜2010年の30年間に、全所得に占める「上位1%の最富裕層」の割合が11%→20%と拡大する一方、「下位50%の貧困層」の割合が20%→ 12%と縮小した。ピケティは、以上のような格差の歴史を分析して、「格差を作るのは政治である」と結論づけた。

 ピケティは、富の集中を防ぐ方法として、3つの提案をしている。第1の提案は、企業の従業員の代表が取締役会に参加し、議決権の半分〜3分の1を握って「労使共同決定」をすることにより、経営者への報酬額を抑制し、従業員が自社に投資できるようにすることである。ピケティは、これを「参加型社会主義」と呼んでいる。これは、既にドイツやスウェーデンで採用されている。

 第2の提案は、私有財産に対して、毎年、累進課税を課すことによって1人の人間が持てる資産の額に時間的制約を設けること、そうして得られた税収を財源にして、25歳になった国民に一律にフランス人の平均的資産の60%に当たる12万ユーロ(約1500万円)の資本を支給することである。ピケティは、この提案を「万人に遺産相続できる仕組み」と言い、私有資産を社会に還元させる「社会化」の制度と称している。この資本を元手にして25歳で住宅を購入したり、務める会社に資本参加したり、起業したりして、社会を活性化させようというのである。そして、資産への課税を可能にするために財産台帳を作り、国際的な情報共有の仕組みを作って、財産台帳に基づいて課税できるようにする。

 第3の提案は、格差拡大の原因となっている教育の格差を是正するために高等教育への投資を増やすことである。

 

9.誰かを犠牲にする資本主義の連鎖を断ち切れ

              ドイツの哲学者 マルクス・ガブリエル

 欧州の企業は、グローバルな新自由主義の資本主義のもとで、賃金を安く抑えるために中国に工場を構えて生産し、国内の労働者の賃金をも低く抑えてきた。このように、国内の労働者を犠牲にするような資本主義はモラルに反する。

 グローバリズムの連鎖は猛烈なスピードで世界を破壊してきたが、その連鎖を断ち切らなければならない。邪悪の連鎖で生産される製品を使っている我々も、犠牲者の苦しみに責任がある。今後の世界経済の新たなモデルは、グローバリゼーションとは異なるものにしなければならない。

 中国は、過去に欧米諸国から受けた仕打ちに対して報復に出ている。そうした中国とは、今後、信頼できるパートナーにはなりにくい。中国とは新たな交友関係を築く方法を見つけなければならない。

 今回のコロナ禍は「生態系の危機に対する訓練」のようなものである。本当の「生態系の危機」は、今後100200年にわたる気候変動によって生態系が危機に瀕し、多くの人命が奪われることである。長期的な気候変動による生態系の危機に備えて持続可能なビジネスのやり方を見つけていくことによって、今後の社会は倫理的になり、連帯感をもった社会になっていくであろう。

 

10.米国を分断する能力主義の闇 

       ハーバード大学教授・政治哲学者 マイケル・サンデル

 ハーバード大学の超人気哲学講座で知られるマイケル・サンデル教授によると、1993年に始まる民主党のビル・クリントン政権から、グローバル化に対応するために能力主義(メリトクラシー)の文化が生まれ、高学歴のエリートが傲慢になり、低学歴の労働者階級を見下すようになったという。そして、学歴によって社会が分断され、低学歴の労働者階級の怒りと不満がたまっていった。2016年の大統領選挙では、ヒラリー・クリントンが労働者階級を「嘆かわしい人たち」と言い、労働者階級の怒りと不満を全く理解していないことを露呈してトランプに敗れた。分断の根源は、米国が学歴によって差別する能力主義文化の国に変わってしまったことにある。

 1958年に英国のマイケル・ヤングによって作られた「メリトクラシー(能力主義)」という言葉は、否定的な意味の言葉であったが、グローバル化を推進したレーガン政権以降、政治家が盛んに使って人々を鼓舞し、成功に導く肯定的な意味の言葉となった。しかし、能力主義の仕組みによってエリートになった人々が謙虚な心を失って低学歴の人々の反感を買うようになり、能力主義に闇が生じた。成功者は自分の実力だけで成功したわけではなく、自分を育ててくれた地域社会、お世話になった教師、人生の巡り合わせなどの「運」による部分が大きいはずであるが、エリート集団はそれを忘れてしまい、傲慢な集団になってしまった。傲慢になったエリート集団に対して、労働者が怒りと不満を持つことは正当な行為であるとサンデルは言う。

 本来の米国では、富裕層と高学歴層が共和党に投票し、労働者が民主党に投票する傾向があった。それが197080年代に変わり始め、民主党が高学歴の官僚やビジネスエリートの価値観に合わせて、労働者階級の支持を失っていき、反対に労働者が共和党を支持するようになった。その結果としてトランプ大統領が誕生した。今後、国内の分断を解決するには、特に民主党が能力主義の闇に気づき、富裕層や高学歴のエリートたちがもっと謙虚になる必要があるとサンデルは指摘している。

 以前から筆者は、米国のような社会の分断が日本で起こらない理由を考えてきたが、上記のサンデルの指摘を読んで納得できた。日本人の富裕層や高学歴のエリートたちは謙虚なのである。日本では首相でも国民に「〜させていただきます」と言う。一国の首相がこんな消極的な表現をすべきではないと考えてきたが、それも日本人の「謙虚さ」の現れであり、それで国が平和に収まるのであれば良かろうと思うようになった。

 話を戻す。40年前に人々がアメリカン・ドリームを抱いていた頃の米国社会は、条件の平等が広くいきわたっていて、お互いに寛大であり、成功者に皆が敬意を表していた。現在の分断された社会を昔のアメリカン・ドリームの社会に戻す方法として、サンデルは、今回のコロナ禍の中で起こった人種差別に対するブラック・ライブズ・マター(BLM)の市民運動に希望を見出している。BLMが世代や階級を越えて、米国社会を一つに結びつける手段になるかも知れないというのである。

 

崩壊の危機にある中国経済

 WiLL5月号の『”コロナ・バブル隠し”習近平が加速する中国崩壊』(朝香豊/石平)には中国の驚くべき実態が書かれていました。ここでは、その概要を述べることにします。

 

 昨年12月、中国銀行の共産党委員会トップ(郭樹清)が限界状態にある中国の不動産バブルを「灰色のサイ」と表現した。「灰色のサイ」とは、バブルが弾けて暴れ出したら手に負えなくなることを意味する。中国は過去2回、不動産売買を凍結してバブル崩壊を防止してきた経緯があり、中国国民は「共産党政府がバブルを弾けさせることはない」という普遍的な心理を持っている。これは、日本のバブル崩壊前の「土地神話(土地は絶対に値下がりしない)」と同じである。しかし、この心理を裏返せば、「バブルの崩壊=共産党政権の終焉」であるから、共産党がバブルを弾けさせることは絶対にないという意味がある。だから、中国人は今でもそれを信じて不動産投資を続けている。

 中国の歴代政権は、自分の政権内ではバブルを崩壊させないために、お金を刷って不動産投資を持続させてきた。バブル崩壊の破綻から逃れるには、お金を刷って不動産投資を持続し、バブルを少しずつ膨らませ続けるしか方法がないのである。今の中国が極端なインフレに陥っていないのは、刷ったお金のほとんどが不動産市場に吸収されているからである。

 しかし、永久にバブルを膨らませ続けることはできない。不動産投資が一度でも止まったら、持ちこたえられなくなってバブルが崩壊する。そして、お金が市場に吐き出されて極端なインフレが起こり、中国経済は崩壊する。

 こうした深刻な国内問題を抱える習近平政権は、国際社会でも日米欧の民主主義国との対立を深めていて、万事休す状況に陥っているように見える。

 シンガポールのシンクタンク「東南アジア研究所」がASEAN各国のオピニオンリーダー約千人に「ASEAN諸国にとって最も有効で信頼できる戦略的パートナーはどこか」という意識調査をしたところ、日本が67%で群を抜いて1位、2位がEU51%、3位が米国の48%であった。中国は156%で、信頼できないが63%にのぼった。ASEAN諸国は、中国を信頼できないと思いながら中国の経済力に依存してきたのである。

 米国の禁輸対象となったファーウェイは、スマホ出荷台数が2位から5位に陥落し、今後の生き残り戦略として養豚産業に進出しようとしている。5Gで世界をリードするはずであったファーウェイが全く落ちぶれてしまった状況を見ると、中国はまだテクノロジーで世界一になる力を備えていないようだ。

 

コロナ禍で露呈した日本の機能不全の実相

 英国で生まれた感染力15倍の変異ウィルスが日本でも流行するようになり、緊急事態宣言を出さざるを得ない状況に陥っています。ここでは、主に日経新聞の「コロナ医療の病巣」という連載記事をもとにして、機能不全に陥っている日本の医療体制の実相を見ていきます。

 

 コロナ感染者数が欧米より桁違いに少なく、人口当たりの病床数でも世界有数の多さを誇る日本が、またもや緊急事態宣言に追い込まれたのは何故なのか。今回で3回目となる緊急事態宣言は、「病床不足」が原因であったが、実は全国の一般病床と感染症病床を合わせた88.9万床のうち37.2万床(42)は空いていた。にもかかわらずコロナ患者を受け入れられないのは、日本の医療体制に欠陥があり、その改革を先送りしてきたことが最大の原因である。

 機能不全の実相は、病床当たりの医療従事者が手薄であるために、病床はあってもコロナ患者対応病床を増やせないこと、重症患者に特化すべき大学病院に軽症患者も多く入院して、患者の状態に応じた役割分担ができていないことなどである。

 日本の医療制度では、集中治療室(ICU)などの「高度急性期病床」、患者の状態が急速に悪化する時期の「急性期病床」、人体機能を回復する「回復期病床」、生活習慣病などで長期的な治療をする「療養病床」の4種類に病床が分類され、さらに看護師1人で何床を担当するかで分けて、医師、看護師などの医療スタッフの配置状況に応じて診療報酬(医療費)が設定されている。

 しかし、実態は、急性期病床を名乗って急性期向けの高い医療費を受け取りながら、十分な診療体制を整えていないために、コロナ患者を積極的に受け入れていない病院が多い。さらに、コロナにハイリスクな高齢者患者が多いために院内感染を恐れて、コロナ患者を受け入れられない病院も多い。

 日本の医療制度のもう1つの問題として、「感染症対応の医師や看護師が不足して疲弊する一方で、感染症以外の医師が暇でも感染症対応に回せない」という問題がある。今回のコロナ禍では、手術を先送りしたり、急な治療を要しない患者を入院させなかったりして、手の空いた医師が増えているにもかかわらず、コロナ患者を診ることができず、コロナ患者の「たらい回し」が起きた。

 海外では、専門外の医師でも感染症専門医の指導のもとに、コロナの軽症患者を診ることができる。日本では臓器ごとに細分化された大学医局が専門医を育て、専門分野しか診ない「縦割り」意識が強すぎる。その結果、感染症を含めた幅広い分野を診る総合診療医の育成が遅れてしまった。

 医師法では、医師個人に「応召義務」を課し、求めがあれば診察しなければならないと定めているが、厚労省は医師の専門性を重視して、専門外の診療拒否を容認している。

 日本の医療体制が小規模で林立する民間病院に支えられている点にも問題がある。昭和期に高齢者の入院を受け入れる小規模の病院が過剰に増えたために、医療人材が分散し、諸外国に比べて治療の効率が悪く、経営に余力のない病院が多くなった。病床の89割を入院患者で埋めてようやく利益が出る経営体質で、コロナ前でも全体の35%が赤字であった。

 こうした民間病院に対して、政府はコロナ対策として1床当たり最大1950万円の補助金を出しているが、感染を恐れる職員の離職や一般患者に敬遠される風評被害といったリスクを恐れて、コロナ対応を受け入れる病院が少ない。政府の民間病院に対するコロナ政策は空回りしているのである。

 こうした日本の医療制度の根本的な問題を改善するには、「医療費支払制度」を改革する必要がある。日本では治療にかかった医療費を積み上げて支払う「出来高払」を採用しているために、病院側は入院期間を長くして医療費を稼ごうとする。その結果、医療資源の活用効率が低下して医療費が高くなっている。

 外国では、1入院当たりで医療費を定額にする制度を導入している国が多い。そうした国では、緊急性の高い治療を脱した患者は退院させて自宅療養にするなど、限られた医療資源を効率的に運用している。また、民間病院は、診療を行うと同時に、日本の保健所のような地域の公衆衛生機能も果たしている。

 日本でも高齢化社会に備えるために1980年代に「1入院当たり医療費定額制」の導入を検討したが、日本医師会の反対で見送られた。しかし、今後のウィルス感染症対策や高齢化社会に対応するには、「医療費支払制度」を改革しなければならない。

 そして、病院・診療所を「急性期型病院」と「長期療養型診療所」の2種類に分けて役割分担をはっきりさせる。病院数は現状の約8200から3500前後に減らし、1病院により多くの職員を集約して機能を向上させ、診療報酬も手厚くする。長期療養型診療所は、デジタル化を進めて、患者の状態を常に把握するシステムを導入して現場の負担を軽減し、病院より割安な診療報酬で患者を引き受ける。軽度の患者は自宅療養ができるようにする。例えば、今回のコロナ禍で注目されたパルスオキシメータ(血液中の酸素飽和度を測定する装置)を患者に装着すれば、病院の管理下で患者が自宅待機できるようになる。

 現状のコロナ禍の緊急対策としては、全ての病院・診療所に国や都道府県に協力するように義務づけ、各病院・診療所がコロナ患者を受け入れている状況を全体的に把握し、各医療機関に上記のような役割分担を徹底させることが最も効果的な緊急対策になると考えられる。

                               (以上)

 

     中国共産党の策略による世界の分断

      −中国共産党の工作『見えない手』を読んで−

                        20212月 芦沢壮寿

 2018年に発刊され6万部を超えるベストセラーとなった『目に見えぬ侵略 −中国のオーストラリア支配計画』(SILENT INVASION China's Influence in Australia:中国共産党がオーストラリアで密かに進める統一戦線工作の危険性を体系的に解説した書物)の著者クライブ・ハミルトン(オーストラリアのチャールズ・スタート大学教授で作家・批評家)が、その第2弾として、欧州における中国の動向を研究しているマレイケ・オールバーグ(ハイデルベルク大学で中国研究の博士号を取得し、現在ジャーマン・マーシャル財団アジア研究部門シニアフェロー)と共著で、『見えない手−中国共産党は世界をどう作り変えるか』(HIDDEN HANDExposing How Chinese Communist Party is Reshaping the World)を発刊した。筆者は、昨年末に発行された日本語訳の『見えない手』を読んで、中国共産党が進めている世界戦略の実態を知った。

 筆者は、5年前(2016年正月)にマイケル・ピルズベリー著の『China 2049−秘密裏に遂行される「世界制覇100年戦略」』を読んで、『中国の台頭と世界の行方』を著し、中国共産党が「世界制覇100年戦略」のもとに、米国や世界の国々を騙し続けてきたこと、2009年頃から南シナ海・東シナ海への海洋進出に乗り出して、世界制覇のラストスパートに入ったことを述べた。今回の『見えない手』は、その続きの中国共産党の策略を実証的に解明した書物である。これは、今後、世界が中国を中心とする強権主義陣営と民主主義陣営に分断されていくことを予告している。そこで筆者は、『見えない手』から見えてくる中国共産党の策略の実態と「世界の分断」について考えてみることにする。

 

中国共産党の野望

 中国共産党は、今年の7月に創立100周年を迎える。今や共産党員が9千万人に達し、200万人の兵力の人民解放軍が共産党に属し、全てのメディアを共産党が所有して統制する。政府、軍隊、学校、企業、社会の全ての団体には共産党員が配属され、出国する全ての代表団にも共産党員が同行する。中国では共産党が全てのことを監視し、支配している。中国は、「中国共産党の国」であり、「中国人の国」ではない。中国について考える時に、「中国=中国共産党」であり、「中国人」とは区別して考えなければならない。

 中国共産党は、1989年の天安門事件と1991年のソ連崩壊の後、世界で孤立した頃から西側諸国とのイデオロギー闘争を始めた。それまでの中国共産党は、タカ派とリベラル派が党内の覇権を巡って争い、タカ派が強権主義体制をリベラル派が自由主義体制を主張して対立してきた。天安門事件を機にタカ派が実権を握るようになったのは、天安門事件を「米国が民主主義のイデオロギーを浸透させるために仕組んだ企みだ」と捉えていたタカ派の主張が中国共産党の指導部に受け入れられたからである。その後、中国共産党は、ソ連の崩壊についても、「ソ連共産党の指導者が西側の敵対勢力によるイデオロギーの浸透を防げなかったからだ」と捉え、それを重要な教訓とした。中国共産党は、2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」でも、中国を不安定化させるための西側諸国による陰謀だと捉え、2019年に始まった香港の抗議行動に対しても西側諸国の陰謀だと捉えた。つまり、中国共産党は、民主主義のイデオロギーを浸透させる西側諸国の陰謀によって、ソ連と同じように中国共産党が滅ぼされることを極端に恐れているのである。これは、中国共産党が被害妄想と権力欲にとりつかれていて、世の中の実態や物事の真実が分からない集団になり下がっていることを意味する。こうした集団は、反対意見や自分たちと異なる思想を一切許さない。従って、香港の民衆が民主的な自由をいくら求めても、中国共産党には通じない。これでは、中国共産党と民主義国が相互に理解し合い、協調していくことは不可能である。こうした中国共産党の体質が世界を分断に導く根本原因になると筆者は考えている。

 習近平を中国共産党のトップに祭り上げたタカ派は、「中華民族の偉大なる復興」には「秩序(Sinocentric:中国は世界の中心であり、文化的に劣る周辺国を従属させて支配するという中華思想に基づく秩序)」の世界を築くことが不可避な要素だと考えている。彼らは、「華夷秩序」の世界を構築する手段として「一帯一路」を考案した。「一帯一路」は、世界の地政学体制を再編するための手段であり、中国が米国を超えて世界の覇者になるための手段である。「一帯一路」の覚書には、ビジネスや経済面だけでなく、シンクタンク(頭脳を資本として、システム開発・企業戦略策定などを商売とする事業体)やメディア、文化・人の交流など、あらゆることが組み込まれている。

 習近平は、「一帯一路」について、「ウィンウィンの協力」、「調和的に協力する大家族」、「平和と東西協力の架け橋」といった甘い言葉で語っているが、共産党内の議論では、「一帯一路」は「世界的な言説の支配(Discourse Power)」と「地政学的支配」を達成することだと述べている。つまり、中国の「一帯一路」の狙いは、大構想を語ることによって言説面で世界をリードすること、米国より地政学的に有利なユーラシア大陸を支配することで米国を超えることである。しかし、「一帯一路」の実態は、言うだけで実行が伴わないこと、相手国の空港・港湾・電力などのインフラを中国の支配下に置く策略だと捉えられて警戒されるようになったことで、中国共産党の狙いが裏目に出ている。

 2013年に習近平は、「思想圏の現状に関する通知」と題するコミュニケを発表し、中国共産党が禁止する誤ったイデオロギーとして、「西側の立憲民主主義制度」、「普遍的価値観」、「市民社会」、「新自由主義」、「西側の報道原則」などを提示した。中国共産党は、「民主主義」と「普遍的人権」のイデオロギーを断固として否定し、厳しく取り締まることを党内に徹底させたのである。習近平は、ケ小平が唱えた「」(爪を隠して力を蓄える)というソフトな対外政策と、自由市場経済によって国民の豊かさを追及する国内政策を完全に放棄してしまった。その根本理由は、民主主義イデオロギーを浸透させて中国共産党を崩壊させようとする西側の陰謀を阻止することにある。そこには、「中国国民のための国家」といった理念は全くない。

 さらに習近平は、中国のイデオロギーの勢力圏を中国共産党に友好的な「赤」、中間的な「灰色」、中国と敵対する「黒」の3つの領域に分け、赤の領域を保持しつつ、灰色の領域に手を出して赤に引き込み、黒の領域で戦うように指示した。これは、中国共産党が西側イデオロギーの浸透を防ぐ「守り」から、中国共産党のイデオロギーを世界に広める「攻勢」に転じたことを意味する。

 中国共産党は、黒の領域の西側諸国と戦うイデオロギー闘争として、「統一戦線工作」と呼ばれる戦術をとる。統一戦線工作の狙いは、中国共産党の強権主義体制が西側諸国の民主主義体制と同等の地位を持ち、強権主義国のグループと民主主義国のグループが両立する世界秩序を確立することである。統一戦線工作では、西側諸国のエリートたちにターゲットを絞り、彼らに金品を与えて厚くもてなし、彼らが中国の利益になるように行動する「友人」となるように仕向ける。

 習近平は、中国経済を「党と企業の複合体」に変えようとしている。企業の自由な経済活動は、共産党の企業統治への介入が強化されて不可能になっている。党の高官と企業との繋がりは、政治的なものだけでなく、個人的なものにまで拡張され、大抵の場合に家族や休眠企業を介在して、金銭的な利害関係を持つようになった。汚職撲滅を掲げる習近平の一族でさえ、海外に莫大な富を隠し持っているという。

 2018年に発表された学術研究によると、中央政治局の25人のメンバーと関係のある企業が、地方自治体の所有する土地を購入した際の値段は、通常価格の半分以下だった。中央政治局の常務委員7人とコネのある企業は、75%の割引を受けていた。値引きを迫られた地方政府の役人たちは、その見返りとして昇進する。昇進した役人は、下層の役人や実業家から賄賂を引き出す。習近平の言う「党と企業の複合体」とは、党の高官、地方政府の役人と企業が絡まって、再び汚職と賄賂を生み出す温床となるであろう。習近平政権は、中国伝統の汚職と賄賂を撲滅したかに見えたが、「法の支配」が定着していない中国共産党には汚職・賄賂を撲滅することは所詮不可能なのである。

 汚職や賄賂を撲滅するには、「法の支配」が必要であるが、中国には西側民主主義国の「法の支配」という概念がない。中国共産党は、自ら法律を定め、その法律を統治の手段として使っているが、それは「法による支配」を行っているのであって、「法の支配」とは全く違う。民主主義国の「三権分立」による相互チェック機能のない中国共産党の統治機構では、「法の支配」は不可能なのである。

 現在の中国では、党の指示に従わない大企業のCEOは、すぐに資産を没収され、トラブルに巻き込まれる。こうした状況では、ファーウェイの創業者が「党からファーウェイの5G通信機器にバックドア(通信情報を盗み取る口)を設置せよと命令されても従わない」と主張することは笑止千万である。

 2017年の「国家情報法」では、全ての国民と組織に「国家情報工作」に協力し、あらゆる指示に従うように義務づけられた。これは、長年行われてきた慣行を公式化したに過ぎないが、法律で公式に制定したことで、逆に欧米からの批難を認めたことになり、自爆行為となった。

 中国共産党は、米国が主導してきた世界統治制度を再構築して、中国の「強権主義的な制度」を国際社会に受け入れさせようとしている。中国共産党の狙いは、まず、国連のような大規模な多国間組織での地位を強化して、米トランプ前政権が放棄した多国間主義の守り手となることである。次に、多国間組織から中国の好ましくないメカニズムを削ぎ落とし、中国が支配する新たな機関を追加していくことである。そうして最終的には、多国間組織から他国を切り離し、中国が常に優勢になれる二国間関係を築くのである。この二国間関係に基づく国際秩序こそが、かつて中国が東アジアの覇権を握っていた「冊封体制」と同じである。中国共産党が狙う「華夷秩序」の世界とは、古代の「冊封体制」の秩序を復活させることである。

 実際に中国は、発展途上国を取り込んで国連での地位を上げてきた。1964年に中国の働きかけで設立された「G77Group of 77)」は、77カ国の発展途上国の利益を代表するグループである。現在、G77は大幅に増加して134カ国になり、国連加盟国全体の約70%を占めている。中国は、G77の活動に協力して取り仕切ることによって、国連における地位を上げてきた。現在、国連の15の専門委員会のうち、「食糧農業機関」、「国際電気通信連合」、「国際民間航空機関」、「国連工業開発機構」の4機関で中国人がトップを務める。常任理事国の米国、英国、フランスでもトップを務めるのは1機関だけである。また、国連の「国連経済社会局」(「持続可能な開発目標(SDG)」などの活動を担当する機関)の局長を中国人が務め、「一帯一路」をSDGに結びつける大規模なプロジェクトを進めている。しかし、このプロジェクトは「自国の利益のために国連を利用している」との批判を受けている。

 一方、中国は、自国にとって非友好的な組織の活動を阻止してきた。例えば、「ジャーナリスト保護委員会」のNGOの認定を4年にわたって阻止し、「被抑圧民族協会」の諮問機関の資格を剥奪しようとした。台湾については、台湾外交官の国連への入場を拒否させたり、台湾の世界保健機関(WHO)への加盟に抵抗するなど、台湾を国際舞台から排除してきた。

 

中国共産党の恐るべき陰謀とオーストラリアの覚醒

 オーストラリアでは、中国共産党のコントロール下に置かれている中国企業によって多くの農地や西部の広大な牧畜用地、タスマニアの風力発電所などの土地が買収され、いつか土地が中国共産党の意のままに使われるかも知れないという危機感が生じている。その危険感の1つは、中国共産党が「蛋白質の赤字」と呼ぶものである。中国共産党は、国内の汚染や環境破壊のために、今後開発可能な耕作可能地が限られて、このままでは14億人の国民を食べさせていけなくなることを「蛋白質の赤字」と呼んで恐れている。中国共産党は、海外からの蛋白質の輸入を確保するために、中国企業にオーストラリアやニュージーランド、アフリカ、ラテンアメリカなどで土地を買収することを奨励している。さらに、中国企業がオーストラリアの送配電網やガス供給システムの相当部分を買収していることもリスクとなっている。

 オーストラリア政府は、遅ればせながら、こうした危険性を防止するために、外国企業による農地や工場、港湾、送配電網などのインフラの買収を制限する法律をつくった。外国企業が土地を購入する際には、外国投資審査委員会のお墨付きを得た後、財務省担当者の承認を得ることが法律で定められた。また、「中枢インフラタスクホース」を設置して、中国のような強権国家の企業へのインフラ売却を禁止した。

 2015年、オーストラリア政府は、北部オーストラリアのダーウィン港を99年間のリースで中国企業に貸与することを許可してしまった。中国が南シナ海で侵略を加速している今、事の重大さに気づいたオーストラリア政府は、ダーウィン港のリース契約を解除しようとしているが、できそうもない。ダーウィン港は、インド太平洋を巡る日米豪印の四国連携と中国が対決する戦略的な要所となっている。中国はダーウィン港の租借権を得た後、西太平洋の国家群に巨額の援助や債務の脅しを使って、攻勢に転じた。オーストラリアは、フィッジーやソロモン諸島などの島嶼国への主要援助国であったが、ここ20年ほど援助を絞ってきた隙をつかれ、中国が「一帯一路」計画の一環として中国の支配圏を確立してしまった。中国は、島嶼国に台湾と断交させている。

 2016年、南シナ海問題で中国の立場を擁護していたオーストラリア労働党の上院議員が中国人実業家から多額の献金をもらっていたことが発覚し、さらに、その上院議員が中国実業家の豪邸に出向き「オーストラリア政府があなたを盗聴しているかも知れないから気をつけろ」と忠告していたことが発覚して大騒ぎとなった。この事件以降、2017年にかけて56人のジャーナリストによって、オーストラリアの政治家と中国系富豪の結託が明らかになるにつれて、オーストラリア国民は社会の裏でく中国共産党の陰謀に覚醒していった。ハミルトンは、中国共産党の陰謀を暴くために『目に見えぬ侵略』を著し、2018年に刊行した。中国共産党の脅威を意識するようになったオーストリア国民は、中国共産党の侵略の実態をタイムリーに説明している『目に見えぬ侵略』を夢中になって読み、ベストセラーとなった。そして、国内で議論が巻き起こり、著書の中で「中国の友人」として実名を挙げられた現役の政治家や元有力政治家たち(2人の元首相を含む)は、著者を「人種差別主義者(racist)」と呼んで酷評したが、多くの国民からは高く評価された。

 なお、『目に見えぬ侵略』が海外で最も多く読まれたのは台湾であり、次いで日本であった。台湾人、日本人の中国に対する関心の高さが分かる。

 以上のような経緯を経て、ここ数年でオーストラリアの中国に対する雰囲気が劇的に変わった。以前は、中国から貿易や投資を呼び込むことが盛んに語られていたが、今や経済から安全保障に舵が切られ、中国の介入に対する警戒感をオーストラリア国民が共有するようになった。特に首都のキャンベルでは対中姿勢が激変した。これに対して中国共産党は、戦略を変えてオーストラリアの州政府や地方自治体との関係強化に動き出した。

 

中国共産党の統一戦線工作

 中国共産党の「統一戦線工作」は、1920年代に考案され、内戦時には小さな政党や少数民族、少数派宗教などを従わせることを目的として活躍していた。現在は、「中央統一戦線工作部」が取り仕切って、西側諸国に対するイデオロギー闘争や海外工作を全党員の責務として行っている。西側諸国では数多くの中国系団体が結成されており、それぞれが統一戦線工作部の運営するネットワークに繋がっている。習近平は、統一戦線工作を世界各地に住んでいる56千万人の華僑にまで拡大し、中華民族の復興と称して、華僑の豊富なコネクションや資産を使っている。2017年には中国の諜報(スパイ)機関が大幅に拡大され、「国家安全部」と「中央軍事委員会連合参謀部」の「情報局」が担当することになった。

 中国共産党は、統一戦線工作の対象となる外国人を様々なカテゴリーに分類している。第1カテゴリーの「友人」は、あらゆることで中国共産党に同意し協力してくれる人々である。第2カテゴリーの「友好的な人々」は、ビジネスマンのように頼りにされるが実際には信頼されていない人々である。第3カテゴリーは、学者やジャーナリストなどのように、中国共産党のことを全て知っているために、工作の対象から除外される人々である。第4カテゴリーは、中国共産主義を嫌っている人々で「敵」に分類され、攻撃の対象となる人々である。最後の第5カテゴリーは、中国を知らないか、関心がない人々で、工作によっては「友人」になり得る人々である。

 「友人」を増やし、「敵」を攻撃する統一戦線工作は、今までに西側諸国の政治家や実業家に対して目覚ましい効果をあげてきた。その最大の目的は、「自分が中国と特別な関係を持っている」と思わせ、中国共産党の政治目標に沿うように誘導することである。とりわけ、政財界の元指導者たちが率いるシンクタンクは、献金や共同研究を通じて取り込まれることが多い。彼らはその術中にはまって「中国が経済的に発展すれば、自然と自由主義国家に変わって行く」と言い続けてきた。その典型が米国のキッシンジャー元国務長官であり、オバマ政権時代のバイデン副大統領であった。

 統一戦線工作部は、世界各地で「華人警民合作中心」(Chinese Community and Politic Cooperation Centers)の設立を支援し奨励して、「中華民族復興の夢」を共有する組織として、華僑を保護し、反体制派を監視する警察活動のグローバル化を進めている。

 2001年に中国が主導する政治・経済・安全保障同盟として「上海協力機構」が設立され、ロシアや中央アジア諸国、インド、パキスタンが加盟した。上海協力機構は、中国の「三股勢力」(Three Evils;三悪)の原則を採用し、中国共産党が「宗教的過激主義」・「分離主義」とみなすものを「テロリズム」と同一視して加盟国に認めさせた。そして、新疆ウィグル自治区のイスラム教徒の強制収容、チベットや反体制派への措置などを正当化している。

 1991年、中国共産党は「対外宣伝弁公室」を設立し、「中国の特色ある人権」について最初の白書を発表した。その白書の基本的な考え方は、個人の「政治的な自由」を過小評価し「社会的・経済的な義務」を過大評価することにある。中国共産党の「人権」には、人類の普遍的権利とされる信教・集会・言論・政治参加の自由が全くない。つまり、中国共産党は「人権」とは言えないものを「中国の特色ある人権」と称して、国際社会に認めさせようとしている。1993年に設立された「中国人権研究会」は、中国の人権に関する米国の年次報告書に対する報復的対応として、中国に有利な言説を広めてきた。2006年に発足した「国連人権理事会」では、中国の影響力の強いアジア・アフリカ諸国が多数参加しているために、中国の人権問題が否決されるようになった。

 2014年以降、中国はで毎年「世界インターネット会議」を開催している。この会議にはアップルやグーグルのCEOを始めとする著名人が集まり、基調講演を行うなど、盛大な会議になっている。中国は、こうした会議を通して、自国内でインターネットを検閲できるようにする「インターネット主権」を求めて、民主国家の規範と同等の地位を獲得することを狙っている。顔認識基準やビデオ監視機能の規格では、国際電気通信連合で認可させることに成功した。そして、中国の規格を海外に輸出し、中国共産党の検閲や監視体制を可能にする技術をアフリカや中南米の都市に輸出している。

 外国の政党、海外NGO、その他の政治団体との連携は「対外連絡部」が担当している。対外連絡部は、2016年に120カ国の240を超える政党、280の著名なシンクタンクやNGOと関わった。中国大使館は、海外の中国企業と中国国内に進出している欧米企業を統一戦線工作の媒介者として使い、海外の中国企業は中国諜報機関を支援する義務があることを法律で規定している。

 中国共産党は、スイスのダボスで開催される「世界経済フォーラム」でも多くの「友人」を抱えていて、ダボス会議を利用して世界のビジネスエリートとの緊密なネットワークを構築している。フォーラムの創設者で会長のクラウス・シュアブを始め、ヨーロッパ中のシンクタンクのかなりの部分を攻略し、中国に同情的な意見を育て、批判的な人々を黙らせることに成功している。

 中国共産党は、2004年に欧米の多くの大学に孔子学院を設置し始め、大学や学術界に影響を及ぼしている。孔子学院は、英語圏に多く、2019年時点で米国に約90カ所、英国に30カ所、カナダに13カ所設置された(なお、トランプ政権になって孔子学院が次々に閉鎖されている)。これは、中国共産党が社会科学、人文科学の分野において、欧米の大学や学術界に中国共産党の世界観を広めて、思想管理しようとする野心的なプロジェクトである。

 中国大使館は、資金不足に苦しむ欧米の大学が中国人留学生に依存していることを逆手に取って、入学する中国人留学生を制限したり、共同プログラムや講座の中止などで脅したりして、中国側の要求に従わせている。資金不足が、欧米の大学運営者たちに、中国の研究機関との連携を求めさせるインセンティブになっている。2018年時点の中国人留学生は、米国が36万人以上、カナダが14万人、英国が10万人以上、オーストラリアが15万人以上であった。

 2003年から外国の大学が中国の大学と合弁会社を設立することで、中国内でキャンパスを開設できるようになった。これにより外国の大学は、中国で新たな収入源を得られるようになったが、中国の法律のもとで学問の自由が損なわれている。2010年に設立された「中国国家社会科学基金」の助成を受けて学術研究の翻訳や出版が行われているが、中国向けの検閲を受けている。

 中国共産党は中国を批判する研究者にビザの発行を拒否すると言って脅し、中国を批判できないようにしている。中国を研究する研究者にとって、中国の滞在ビザを拒否されることは研究上の痛手となり、生活のを失うことになる。ビザ発行拒否という圧力の下で、研究者たちは自ら中国を批判しないように検閲している。これを「自己検閲」という。2018年の学術研究によると、500人のインタビュー対象者のうち68%が、中国系研究者の間で自己検閲が問題になっていると答えた。

 『見えない手』の最後で著者は、中国共産党に対する西側諸国の対応策を次のようにまとめている。中国共産党の統一戦線工作は陰湿で「したたか」であり、これに打ち勝つには西側民主主義諸国が団結して当たらなければならない。その場合に、あくまでも「中国人」と「中国共産党」を区別して考える必要がある。西側民主主義諸国は、自由で開かれた社会の強みを生かして強権主義の中国共産党と対決しなければならない。それには、まず、メディアが社会の陰で行われている中国共産党の陰謀を暴く必要がある。西側諸国の指導者たちは、中国の顔色を窺い、経済面での報復を恐れてきた従来の姿勢を改め、西側諸国が団結して安全保障面を最優先して中国と対決することが肝要となる。また、大学の学者たちは、中国共産党の「言論の自由」、「学問の自由」などの大学の理念そのものを踏みにじる攻撃に対して、口をつぐんで自己検閲に陥るのを止めて、団結して立ち上がらなければならない。また、海外に住む中国系の国民について、彼らが中国に批判的な発言をすれば、中国本土の親族が危険にさらされ、国内でもビジネスを妨害されて、中国共産党の脅威の最大の標的となっている実態を踏まえ、西側諸国の政府は、国内の各地に住む中国系の人々を保護する必要がある。そうすれば、中国共産党の脅しは空虚なものとなると述べている。

 

中国共産党の覇権主義に対する西側民主主義諸国の対決

 中国共産党は、国を挙げて先進技術分野の開発に取り組み、先端技術特許の最多取得国となった。さらに、国際機関で先進技術の国際基準作りを主導して、今後数十年、先進技術分野で中国企業に有利な経済環境を作り出そうとしている。西側の民主主義諸国は、中国の強権主義に基づく先進技術基準を世界標準とするわけにはいかない。これを阻止するには、西側諸国が「技術同盟」を結ぶ必要がある。今後の世界は、最初に技術面で西側の民主主義陣営と中国を中心とする強権主義陣営との分断が起こり、次に政治・経済面での分断へと続いていくであろう。まずは技術面で西側諸国が協力して、中国の技術盗用を阻止し、西側諸国の技術を互いに生かすような同盟を結ぶことが肝要となる。

 技術的な分断は、既に次世代通信規格5Gで起きている。米国のトランプ前大統領が安全保障上の理由から中国のファーウェイの5G製品を排除するように西側諸国に圧力をかけ、EUや東欧諸国も米国が進める「クリーンネットワーク計画」に参加するようになり、西側諸国のほとんどがファーウェイを排除することになった。

 米国のバイデン新政権は、5つの危機に直面していると言われる。その最大の危機は一部のエリート層に富と権力が集中していることによる「政治的危機」である。さらに、国民の多くが愛国心を共有できないでいる「アイデンティティー危機」、低賃金労働と雇用不安による「経済的危機」、コミュニティーとのつながりの衰退による「社会的危機」、結婚年齢の上昇と出産率の低下による「人口危機」がある。バイデン政権は、国内の分断を引き起こしている根強いトランプ支持層の非大卒白人保守派と社会保障制度を強く求める民主党左派にも対応していかなければならない。

 米国は、上記の国内危機に対応するために、「格差是正」と「持続成長」を両立させなければならないが、そのためには中間所得層を増やしていく必要がある。しかし、現実は中間層が衰退して潜在成長率が2%を切り、大企業の市場寡占により起業率が低迷し、コロナ危機で経済格差がさらに拡大している。

 バイデン新政権は、トランプ前政権の「単独行動主義」を修正して「国際協調」を重視し、世界への関与を深めたいと思っている。西側諸国からも中国に対抗する民主主義国の盟主となることを求められている。しかし、内憂に忙殺されて世界を束ねる余力がないのが実情である。これに対して国家安全保障担当の新大統領補佐官ジェイク・サリバンは、「外交目標を格差にあえぐ中流層の救済におく」として、当面は国内優先のトランプ外交と本質的に変わりそうもない。バイデン新政権は、TPPへの復帰どころか、どのような貿易協定の締結も急がないことを表明している。

 一方、中国の習近平政権は、米国が衰退に入ったとみて、米主導の世界秩序を一気に変えようとしている。今や米中の力関係は様変わりし、2028年には名目GDPが逆転する見通しである。日米欧が中国に対抗して、自由で開かれた世界秩序を守るには、衰えた米国を日欧が支えていくしかない。米国のブリンケン新国務長官は、米国のGDPは世界全体の25%で同盟国や友好国を合わせると5060%になると述べて、西側諸国の結束を呼びかけている。

 中国に対する西側諸国の従来の接し方は、ビジネスと政治戦略を天秤にかけてバランスをとることであった。その結果、得したのは西側から技術を奪って経済発展を遂げた中国だけであった。その後の中国は、東シナ海・南シナ海に侵出し、香港の弾圧、ウィグル族の強制収容、台湾への軍事的脅し、インドとの国境紛争、オーストラリアに対する経済制裁など、一気に攻勢に転じた。こうした中国の変貌に対し、米国が既に中国との対決姿勢に入った今、日本と欧州が中国との経済的相互依存と政治戦略を両立させることは難しい。日本と欧州は、米国と協力して中国と対決する決断を迫られている。

 中国が軍事面・経済面で支配権を振るうことを望んでいないアジア諸国は、傲慢な中国に対抗する手段として、米国のアジア関与を受け入れるようになった。米国にとってもアジアは最大の国益を生む地域である。アジアにとっても米国の関与が薄れれば多大な損害を被ることになる。地政学的に中国との縁を切れないアジア諸国は、米中の対立に引きずり込まれないように警戒しながら、米中の両大国とうまくわたりあっていくしかないのである。

 第2次世界大戦以来、米国はアジアの安全を保障し、貿易と開かれた市場を保つ政策を通じて、アジアの繁栄を支えてきた。しかし、トランプ前政権がアジア諸国に「中国と対抗するための駒として利用されるのではないか」という懸念を与えて、信頼関係を壊してしまった。バイデン政権は、アジア諸国に反中を強要するのではなく、米国の技術や経済活力、自由な開放性に引きつけられて、自ら進んで米国に協力するように持って行くことが望ましい。

 英独仏はアジア政策を見直している。ドイツは昨年秋にインド太平洋ガイドラインを決定し、今年には日本への艦船派遣を計画している。インド太平洋に領土を持つ英仏はアジア安保への関与を強めている。

 台湾を巡って米中の攻防が激しくなっている。今年に入って中国軍の戦闘機が台湾の防空識別圏に侵入すると、米国防省は「台湾が十分な自衛能力を維持するように支援していく」と表明した。米中にとって経済面でも台湾の重要性が高まっている。半導体産業が集積する台湾は米中の技術覇権争いを左右するからである。新型コロナウィルスの流行でテレワークが世界で広がったのを受けて、半導体が不足になり、日米独が台湾に半導体の増産を要請した。

 

あとがき

 『見えない手−中国共産党は世界をどう作り変えるか』を読んで、中国の習近平政権が世界中で行っている工作の恐ろしさが明らかになった。中国共産党の本当の怖さは、彼ら自身が被害妄想に陥り、まともな判断ができないことにあると筆者には思える。AIなどの先進技術で最も進んでいる中国は、まさに「気狂いに刃物」である。その中国共産党の狙いは、全世界を制覇することではなく、中国より発展が遅れている途上国を従えて中国共産党の支配圏を確立することにある。それが「中華民族の偉大なる復興」の夢だという。こうした中国共産党の思想の根底に「中国=中国共産党の国」という考えがあり、中国国民もそれを支持しているように見える。なぜ中国人は、こうした特異な考えを持っているのだろうか。それは、中国の歴代王朝の歴史にあると筆者は考える。中国の歴代王朝の中でも国際的に大王朝となった唐・元(蒙古)・清は、いずれも北方の遊牧騎馬民族が中国に侵入して築いた王朝である。中国を征服した王朝にとって、中国という国は、中華民族のための国ではなく、「王朝のための国」であった。中華民族も侵入してきた王朝の支配を受け入れざるを得なかった。こうした歴史から、現在の中国人は「中国=中国共産党(王朝)の国」と考えるようになったのであろう。

 しかし、中国人でも民主主義社会を経験した香港人、台湾人は、中国共産党の強権主義より民主主義の方が良いと思っている。従って、少しでも民主主義に染まったアジア・アフリカの発展途上国の国民は、強権主義の中国共産党の支配下に入ることを望まない。10年前の「アラブの春」で独裁政権を倒した若者たちやタイ・ミャンマーで軍事政権に抗議する若者たちは民主主義を望んでいる。今や、民主主義はインターネットを通して世界の若者たちの憧れとなっている。こうした世界の若者たちの期待に反する強権主義が中国共産党の最大の弱点となるであろう。

 もう一つの弱点は、習近平がケ小平の築いた「自由市場経済体制」を捨てて、中国経済を「党と企業の複合体」に変えてしまったことである。これは、習近平と中国共産党タカ派が「ソ連崩壊」の原因を見誤っていることに起因すると筆者は推察する。前に、ソ連崩壊の原因を「ソ連共産党の指導者が西側の敵対勢力によるイデオロギーの浸透を防げなかったからだ」と中国共産党のタカ派が捉えていると述べたが、実際は「ソ連共産党の計画・統制経済体制が非効率で生産性が低かったために、経済的に行き詰まった」ことが崩壊の原因であった。習近平政権の「党と企業の複合体」の経済体制とは、共産党が企業の経営に干渉して、自由な企業経営ができなくなり、ソ連の計画・統制経済と同じように非効率になって、経済が悪化していくことが予想される。

 実際、「世界の工場」として中国は世界のサプライチェーンの中心であったが、人件費の高騰と米中貿易戦争によって製造業が中国を離れてサプライチェーンが崩壊し、2023年以降は中国の経常収支が赤字に転落すると予想される。しかも、中国の富裕層が資産を密かに海外に持ち出す資本逃避によって、既に対外純資産が激減し、今や日本・ドイツを下回って「一帯一路」に投資する資金にも不足するようになった。さらに、国内ではバブル崩壊のリスクを抱え、国内投資と「一帯一路」の海外投資の不良債権が増大している中国は、「党と企業の複合体」によって何とか乗り切ろうとしているが、事態は一層悪化し、ソ連と同じ運命を辿ると筆者は推察する。

 以上の考察から、今後の世界は、日米欧の民主主義陣営と中国の強権主義陣営が対立して分断されていくが、最終的に中国共産党の強権主義が内包する欠陥によって強権主義陣営は自然に衰退していくと筆者は推察する。

 日米欧の先進国は、中国と対決するのではなく、むしろ発展途上国の民衆を中国の強権主義から救済することを目標として、自国民の経済的・政治的な格差や不平等をなくして自国の民主主義の欠陥を修正することを優先させ、その後で途上国が民主主義陣営に進んで入ってくるように仕向けるのが最良の方法だと筆者は考えている。

 最後までお読み戴いたことに感謝します。           (以上)  

「グリーンリカバリー」を目指して

 2021年正月 芦沢壮寿

 

 新型コロナウィルスが変異して一段と猛威を振るっています。まだ見通しがつきませんが、これからワクチン摂取によって収束に向かう期待が持てます。また、政府が昨年末に温暖化対策として発表した「グリーン成長戦略」は低迷してきた日本を再生させる期待が持てます。

 今後の世界は、ウィルス感染症に対応しうる新しい社会を築くこと、2050年までに温暖化ガス排出量をゼロにする「カーボンゼロ」の社会を築くことを同時に達成していかなければなりません。それを「グリーンリカバリー」と呼びます。ウィルス感染症と温暖化による自然災害は、人類が自然を破壊して動物の領域まで侵害し、温暖化ガスを大気中に撒き散らしてきた結果として起こり、根本の原因が「自然破壊」という点で共通します。2000年以降にサーズ(SARS)、マーズ(MERS)、エボラ熱、新型コロナウィルスと続けて動物からの感染が発生していますが、これは人間が動物の生態系を侵害するようになったことを意味しています。「グリーンリカバリー」とは、自然を破壊することで成り立っている現在の人間社会をリセットして、昔の緑豊かな自然を取り戻し、自然と共生して持続していけるような新しい社会を築くことです。これは大変なことですが、今やらなければなりません。ウィルスや温暖化による自然災害は待ってくれません。

 筆者は、昨年末から年初にかけて日経新聞に連載された「ニューワーカー 新常態の芽生え」、「第4の革命 カーボンゼロ」やNHKの報道特集などをもとにして、「グリーンリカバリー」について考えてみました。そして、以下のようにまとめてみました。興味のある方はお読みください。

 

新型コロナウィルスの感染源

 202012月に英国で新型コロナウィルスの変異が発見され、南アフリカ、ブラジルでも発見されている。変異後のウィルスは最大1.7倍も感染しやすくなり、子供にも感染する危険性が増したという。ウィルスの変異とは、ウィルスの遺伝子がコピーされて増殖するときに、遺伝子の一部が間違ってコピーされることによって起こる。そうしたコピーミスが起こる頻度は新型コロナウィルスの場合に1ヶ月に平均1.9回だという。今までに各国で採集された新型コロナウィルスのサンプルの変異の過程を調べ、その変異が0.53(=11.9)ヶ月毎に起こっているとすると、新型コロナウィルスが動物から人に感染して、人から人に感染し始めたのは、201910月頃からだと推定された。最も早いイタリアの研究者の推定は928日であり、イギリスの研究者は106日と推定した。いづれも中国が初めて武漢で27人の患者の発生を発表した1231日よりも3ヶ月ほど早く発生し、3ヶ月間にウィルスが旅行者によって世界中に拡散されていた実態が明らかになった。イタリアでは、毎日都市の下水のサンプルを取っているが、そのサンプルを調べたところ、1218日のサンプルから新型コロナウィルスが検出され始めたことから、12月中旬にはイタリアでもウィルスが住民に感染していたことが分かった。フランスでは、1215日に原因不明の肺炎患者のサンプルからウィルスが発見されたことから、やはり12月中旬にはフランスでもウィルスが流行し始めていたのである。

 中国のツィッターには11月中旬頃からインフルエンザの書き込みが急増し、その数は44千件に及んだ。実はこの書き込み急増が新型コロナウィルスの感染拡大を示していたのである。ツイッターでは病院がインフルエンザの患者で溢れ、大混乱になっていたというが、その実態は、10月に発生した新型コロナウィルスが1ヶ月後の11月には中国の主要都市に感染が拡大し、海外への感染も39万人の渡航者によって急速に拡大して、12月にはヨーロッパやアメリカでも感染が拡大していたのである。

 中国で初めて新型コロナウィルスを発見したのは、広州の遺伝子解析会社の研究者であった。彼は1224日に遺伝子を発見し、1226日にツイッターに「このウィルスを発見したのは私たちだ」と発信した。しかし、中国の疾病予防センターが介入して、この情報を削除し、中国は情報統制を敷いた。

 中国は、ようやく1231日にウィルスの感染を公表し、202013日にWHOに報告した。111日にシドニー大学のホームズ教授が新型コロナウィルスの遺伝情報を公表し、114日にWHOが新型コロナウィルスであることを発表した。しかし、WHOは、人から人への感染は限定的と発表したが、120日に中国が人から人への感染を認め、123日に武漢の封鎖(ロックダウン)に踏み切った。そして、311日にWHOがパンデミックを宣言した。

 日本で初めてウィルスが発見されたのは115日であった。23日にクルーズ船でウィルス感染が見つかり、700人以上が感染した。この頃に新型コロナウィルスが「無症状でも感染する」、「重症化する患者がいる」ことが分かってきた。

 以上の経過から、新型コロナウィルスが世界中に感染してパンデミックになった原因は、中国の情報隠蔽と初期対応のまずさにあった。ウィルス感染症対策では、情報を速やかに公開してグローバルに共有し、感染防止に協力することが最も重要なのである。

 今後のコロナ対策として、新型コロナウィルスの起源のホットスポットが何処かを究明しなければならない。WTO2021年の年明けに中国に調査員を派遣して、これらの点を徹底調査することにした。しかし、中国は調査員の受け入れを当初は拒み、受け入れを遅らせた。

 その調査の狙いは、動物から人間へのウィルス感染のホットスポットとして、中国の広東省から雲南省に広がる山岳地帯を調査して、新型コロナウィルスの自然宿主の動物を特定することである。自然宿主として最も可能性が高いのは雲南省に住むキクガシラコウモリである。武漢ウィルス研究所(トランプ大統領がウィルスを漏洩したと指摘した研究所)がキクガシラコウモリから採取したウィルス(RaTG13)の遺伝子が新型コロナウィルスの遺伝子と96.2%一致しているからである。雲南省から武漢まで1600kmあるが、その間をキクガシラコウモリからどういう経路で武漢の人に感染したかを解明するのである。

 

コロナ禍が生んだ働き方改革

 新型コロナウィルスの感染拡大を機に、遅々として進まなかった働き方の見直しが進んでいる。事務・営業職は自宅でテレワークするのが当たり前になり、できないと決めつけていたことを見直して、リモートでできる方法を模索するようになった。アサヒビールは、工場の工程管理や機器の監視でも、自宅からリモートでする方法を検討し始めている。

 経済協力開発機構(OECD)によると、2018年の日本の労働生産性は21位で、主要7カ国で最下位にある。その一因は、労働の成果よりも勤続年数や労働時間を重視する日本型雇用方法にあった。コロナ禍がそこに変革を迫り、創造性を問う新たな働き方への扉を開いた。コロナ禍でやむを得ずテレワークを行ったところ、従業員を時間で管理することの不合理性と限界に気づいた。

 従来、日本型雇用の正社員は、会社から命じられた「時間」「場所」「職務」で働くことを義務づけられ、その代償として年功序列と終身雇用が保証されてきた。しかし、高度経済成長期の右肩上がりの給与に見合う仕事が減った現在、日本型雇用は経済的合理性を失った。

 ヤフーは、昨年10月に完全リモートワークを導入し、社員と社外人材の垣根をなくしている。「出社」という概念がなくなって、結果重視の完全リモートになれば、働き方で社員と社外人材の差がなくなる。ヤフーは、外部から副業人材を受け入れ、社員にも副業を積極的に勧めている。損保ジャパンは、年功序列に基づく人事制度を改め、今後はゼロベースで見直すという。

 現在、産業の新陳代謝のスピードが上がり、企業が雇用を守り切るのが難しくなっている実態を受けて、政府は2018年にモデル就業規則を改め、雇用の流動性を高める副業奨励にカジを切った。今回のコロナ禍はその流れを一層速めた。コロナ禍で活況を呈している人材サービス系のスタートアップ企業は、正社員として他企業で働く副業志望者によって牽引されている。彼らはコロナでテレワークが可能になり、自宅で空き時間を使って副業を行い、副業収入を稼いでいる。ライオンは、昨年5月に新規事業の育成を担う副業者の公募を始めた。スキルシェアサービスの国内市場は30年で最大19千億円に達するという。こうした働き方改革に応じて、企業には異なる働き方を差別しない人事制度が求められる。企業組織は様々な契約形態を組み合わせたモザイク状の組織に変わっていくであろう。

 東京都では昨年5月に人口の流出が流入を上回った。7月〜10月も13千人超の流出超過となり、その流れは一過性ではない可能性が高い。大幅な転入超過となったのは、千葉県、茨城県、埼玉県、山梨県など都心から50100km圏内や北海道などであった。テレワークにより好きな所で暮らしながら働くことが夢物語ではなくなった。

 富士通やカルビーは、本人が望まない単身赴任を解消する方向に動いている。テレワークを活用すれば好きな場所で働く可能性が高まる。「メンバーシップ型」と呼ばれる日本型雇用で社命による転勤がなくなれば、自らの能力によって働き場所を手に入れる「ジョブ型」に近づく。場所を問わない働き方が浸透しているIT企業のシステム開発会社は、テレワークを標準的な勤務形態と定め、海外在住の人材も採用するという。そうなれば、ライバルは全世界の同僚となる。

 テレワークによって通勤時間が節約できるようになって、子育て中の女性でもフルタイム勤務が容易になった。テレワークは女性にとってより自由な働き方への道を開こうとしている。

 定年後の「腰掛けシニア」に対しても、一律の処遇をやめて、仕事の内容や成果を給与に反映させる取り組みが広がっている。処遇に変化をつける企業の方が、シニアの意欲が高まるとの調査結果がある。60歳以上が労働人口に占める割合が2019年時点で21%になり、シニアの生産性向上も重要になった。

 

カーボンゼロの革命

 18世紀以降、人類は、まず農業革命で穀物生産を伸ばし、次に産業革命で工業生産を飛躍的に伸ばして人口を急激に増加させてきた。そして20世紀末に第3の情報革命で社会をデジタル化し、経済や雇用の姿を変えた。これから起こる第4の「カーボンゼロの革命」は、人類が産業革命以降に排出し続けてきた二酸化炭素(CO2)を一転して減らし、地球温暖化を解消するための革命である。この革命により、世界の産業や暮らしのあり方が塗り変えられる。

 昨年1026日、菅首相が「2050年までに温暖化ガスの排出量をゼロにする」と宣言した。世界は既に脱炭素に向けて動き出して本格的に勢いを増す直前にあるが、日本はその流れに滑り込みセーフで乗ることができた。これから世界は、脱炭素の主役をめぐって競うことになる。そこで動く資金は日米欧中で8500兆円に及ぶと予想される。日本は排出削減特許で今でも先行しているから、バブルの崩壊以降30年にわたって沈滞してきた日本にとって大きなゲームチェインジとなることが期待される。

 

(注)排出削減の国外出願特許では、日本が2018年に約15000件で2位の米国の17倍となり、09年から10年間連続で首位にいる。各国が関心を寄せる水素関連の特許でも、日本は2位グループの韓国・米国・ドイツを引き離し、01年から首位を保っている。

 

 「カーボンゼロ」とは、企業や家庭から出るCO2などの温暖化ガスを減らし、森林による吸収分などを相殺して実質的にCO2の排出量をゼロにすることである。「カーボンニュートラル」とも言われる。海外では欧州が50年、中国が60年までに「実質ゼロ」にする目標を打ち出している。米国のバイデン新政権も50年までに実質ゼロを目標とすると予想される。

 日本政府は20年末に「グリーン成長戦略」をまとめた。それによると、30年半ばまでに軽自動車も含む新車販売を電動車にするなどして排出量を削減し、温暖化ガスとして排出した炭素に価格をつける「カーボンプライシング」を導入することにした。カーボンプライシングとは、市場メカニズムを活用して、CO2排出量の多い製品の価格を上げ、脱炭素の貢献が高い製品を相対的に安くして売れるようにすることである。カーボンゼロを実現する技術革新の資金源としてカーボンプライシングは欠かせない。

 CO2排出量の多い発電部門では、洋上風力などの再生可能エネルギーを主軸に、火力と原子力を組み合わせてカーボンゼロを達成する。洋上風力は40年に最大4500kwを発電する目標を掲げた。50年時点での電源構成は、再生可能エネルギーの比率を5060%とし、CO2の回収・貯留(CCS)機能をつけた化石燃料による火力発電と原発を合わせて3040%とし、残る10%を水素やアンモニアを使って発電する。

 ここで、参考までにドイツのエネルギー政策について触れておく。ドイツは原子力発電をゼロにして、風力発電と太陽光発電を主力とする再生エネで30年に65%を目標とする。この目標は達成可能になっていて、70%も視野に入れている。風力と太陽光発電は技術の進歩によって、電気料金が20年をピークにして下がり始める。ドイツは地熱や潮力を含めて様々な発電技術を導入したが、その競争を勝ち抜いたのが風力と太陽光であった。水素は、高価であるので、鉄鋼や化学工業のエネルギーとして、あるいは、風力・太陽光のバックアップ電源としてだけ使うという。

 日本は、50年までにカーボンゼロを実現する「グリーン成長戦略」として、3段階の戦略をとる。第1段階は、30年代前半に既に手にしている技術を使って温暖化を抑えることである。家庭に太陽電池を普及させ、快晴の日に使い切れない電気は各家庭の蓄電池にため、地域で互いに連結して使いこなす。新築家屋はCO2排出量をゼロにする。オフィスビルの屋上や壁にも太陽電池を設置し、ビルの多くは断熱性能を極めた「ゼロエネルギービル」にする。

 2段階は、30年代後半に自然界に存在する潜在力を人工的に伸ばして、カーボンゼロに活用する。植物の光合成のバイオテクノロジーを応用して、温暖化の元凶となっているCO2を大気中から吸収し、人工的に光合成を行って、燃料や化学原料をつくる。再生可能エネルギーでも、高層の風を活かす風力発電や潮の流れを使った潮流発電などを開発する。また、化石燃料を使わない航空機や船舶を開発する。こうした技術の開発は、実用化までの期間を短縮するために、人工知能(AI)や超高速コンピューターによるシミュレーションが重要になる。

 3段階は、40年代に想像を超えた革新技術を生み出すことである。宇宙空間に巨大な太陽電池を浮かべて発電し、電気を無線で地上に送る。核融合発電も目標になる。こうした技術の基礎研究は長期にわたる資金力や技術力が必要になるため、一国で達成することは不可能に近い。各国が協力して基礎研究を行う方法をとる必要があろう。

 青色LEDを発明して世界の消費電力削減に貢献し、2014年に赤崎勇・中村修二両博士とともにノーベル物理学賞を受賞した天野浩 名古屋大学教授は、再生エネは「もうかる」と言う。50年のカーボンゼロには165兆円かかり、再生エネ投資でエネルギーを国産化できれば、資源の輸入が減る。再生エネは33年度から単年度で黒字化し、43年に累積赤字も黒字転換できると言う。

 天野は、今、省エネが期待される「窒化ガリウム」の半導体を研究している。電力を制御する従来のシリコン製素子を窒化ガリウムに置き換えれば、10%の消費電力削減になる。窒化ガリウムの半導体を電気自動車(EV)に応用したところ最大65%の電力消費低減に成功した。天野は言う。LED2010年頃に照明分野を革新した。この先、25年頃に生活環境を革新し、30年頃に自動車などのモビリティーを革新する。そして50年にはエネルギーを高度に管理するIoE(Internet of Energy)とカーボンゼロを実現する。日本で新技術が生まれる確率は高い。「自分はできる」、「GAFAを超えるんだ」というマインドセットを持つ若い人を増やすことが重要だと言っている。

 2009年に「ペロブスカイト構造」という軽くて曲げやすい太陽光電池を世界に先駆けて発表した宮坂力(東大院卒後に富士写真フィルムに入社、現 桐蔭横浜大学特任教授)はノーベル化学賞候補になっている。ペロブスカイトという結晶構造をもつ原料をプラスチック製フィルムに塗布し、乾かして電極で挟めば、軽くて曲げやすい電池になる。重いパネルを屋根につける太陽光電池と違い、ペロブスカイトの太陽光電池は、建物の壁面や電気自動車、自動販売機、スマートフォンなどに貼り付けて発電でき、将来はカーテンや衣服でも発電できる。東芝はペロブスカイトの発電効率が世界最高の141%を達成している。宮坂教授は、微量だが環境に有害な鉛が含まれるので、廃棄時に電池を回収する必要があると言い、日本勢は無鉛材料の開発に人材を集中して、世界をリードしたいと述べている。中国はこの電池の研究者が1万人いて、日本の10倍だという。

 カーボンゼロの世界を制するのは「水素」だと言われる。カーボンゼロでは水素が究極の資源となる。EUでは60兆円を投じて、洋上風力発電所を整備し、その電力で海水を電気分解して水素を生み出す「North H2」を進めている。

 水素は製法別に色分けされる。水素を化石燃料から取り出す「グレー」、その製造工程でCO2を回収する「ブルー」、再生エネで水を電気分解する「グリーン」の3色に分けられる。燃焼しても温暖化ガスを出さない水素は、鉄鋼や化学工業などの製造業を脱炭素する鍵となり、ロケットや航空機の燃料となり、発電量が不安定な再生エネの余剰電力を保存することにも使われる。

 水素を普及させるポイントは製造コストを下げることである。先行する欧州でもグリーン水素が1kg 6ドル程度だが、30年に18ドルに下がれば世界のエネルギー需要の15%を水素で満たされると推測されている。

 日本でも家庭用燃料電池「エネファーム」のノウハウを持つ東京ガスが水素開発を進めている。そのポイントは、ガスから取り出した水素と空気中の酸素を化学反応させて電気をつくるエネファームの原理を逆転させることである。

 東北電力は、原子力発電所を建てる予定だった福島県浪江町の土地に「福島水素エネルギー研究所(FH2R)」をつくった。そこで、NEDO(新エネルギー産業技術開発機構)と東北電力に加え、東芝が水素製造システムを統括し、旭化成が電気分解装置を開発する。

 原子力発電でも安全性を高めるために、小型原子炉が有力視されるようになった。米国のスタートアップ企業 ニュースケール・パワーは、数万キロワット級の原子炉を56本まとめてプールに沈めて発電する方法を開発した。原子炉が水につかっているので事故で電源を喪失しても炉心を冷やしやすい。ロシアでは海に浮かべた小型原発が威力を発揮している。日本の50年時点での電源構成における原発は、CO2回収・貯留機能をつけた化石燃料による火力発電と合わせて3040%になっているが、その火力発電コストが1kw時当たり最大19円ほどになり、10円ほどの原発と比べると割高になる。日本は福島の事故から原発について思考停止に陥っているが、カーボンゼロに向かう今、安全性が高まった小型原発を再考してみる必要がある。

 世界のCO2排出で運輸は発電・熱供給に次ぐ2割強を占める。中でも航空機は、乗客1人の移動1km換算で鉄道の5倍のCO2を排出する。欧州のエアバスは、液化水素をガスタービンで燃焼させることによって温暖化ガスの排出をゼロとするコンセプト機「ゼロe」を35年に飛ばすと宣言した。ドイツの新興企業リリウムは、空飛ぶクルマとして電動垂直離着陸機「eVTOL」を開発し、25年の商用化を予定している。

 NTTが全国7300カ所の通信ビルを持つ強みを活かして、「蓄電所」に変わろうとしている。再生エネ発電は自然環境に左右され需給調整が難しい。NTTは、地域の再生エネの受け皿となり、全国に分布するビルに大容量の蓄電池を設置して余剰電力を蓄電し、地域電力の需給を調整する会社になる。全国に1万台強ある社有車は、電気自動車に切り替え、災害時に病院などの施設をバックアップする。

 蓄電池がカーボンゼロ社会を支える生命線となる。オフィスから家庭までの至る所に蓄電池が配備されるからである。しかし、現在、最有力視されるリチウムイオン電池には、その材料となるリチウム原料の埋蔵量の7割がチリなどの南米に偏り、リチウムイオン電池の材料の1つのレアアースは7割以上を中国が握っている。こうした地政学リスクを避けるために、新たな蓄電池の開発競争が起こっている。米のスタートアップ企業マルタは、再生エネを長期貯蔵する新技術として、電気を熱に変え、その熱で溶かされた「塩」を保存する技術を開発している。溶けた塩は大量の熱をタンクに長期保存でき、必要な時に塩の熱と冷気の温度差から電気に戻せる。コストもリチウムイオン電池より安い。リチウムイオン電池が数時間単位の蓄電に向くのに対して、塩の電池は数日から数週間ためておける。東京理科大学などは、ナトリウムを使い、リチウムイオン電池の性能を19%上回る電池の実現に筋道をつけた。

 電気自動車(EV)用のリチウムイオン電池では、電解液の代わりに固体の電解質を使う「全固体電池」の開発競争が激しくなっている。固体を使うことで、気化によるリスクが減り、液漏れもせず、電池を小さくして生産コストを下げ、蓄電容量も増加でき、充電時間も現行EV3分の1に短縮できる。全固体電池の開発では、トヨタが先行しており、保有特許も世界トップで、20年代前半の実用化を目指している。

 信州大学などの国際研究グループの論文によると、世界100都市のCO2排出量は世界全体の18%を占めている。国連の推計では、世界に占める都市人口の割合は18年の55%から50年には68%に伸びるという。こうしたデータから、カーボンゼロの気候対策は都市(自治体)が主役になり、自治体が率先して取り組む必要がある。その先頭を走るのは、25年にカーボンゼロの都市となることを目指しているデンマークの首都 コペンハーゲンである。コペンハーゲンは、12年に計画をスタートして、19年までの7年間にCO2排出量を4割減らした。風力発電を100基造り、下水汚泥からバイオガスを造って暖房に使い、排出されたCO2を北海の古い油田跡に埋めるなど、打てる手を全て打っている。目的達成には自治体の政治的な勇気が必要なのである。

 ニューヨ−クは、温暖化ガス排出量の7割が建物に由来する。中大規模ビルに太陽光発電を導入し、ここ10年でCO2排出量を23%減らした。さらに、19年成立の気候動員法によりビルに排出上限を設け、超過すれば罰則を科す。ビルを提供する不動産屋は効率のよい冷暖房、窓の断熱、エレベータの効率化などを迫られている。カーボンゼロの革命は、都市の暮らしや働き方を根本から見直す必要がある。

 国連が2015年に持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals)を採択し、30年までに達成することを目指して環境・社会・企業統治(ESG)に関する17項目からなる国際目標を決めた。17項目からなる国際目標とは、『1.貧困をなくそう、2.飢餓をゼロに、3.すべての人に健康と福祉を、4.質の高い教育をみんなに、5.ジェンダー平等を実現しよう、6.安全な水とトイレを世界に、7.エネルギーをみんなにそしてクリーンに、8.働きがいも経済成長も、9.産業と技術革新の基盤をつくろう、 10.人や国の不平等をなくそう、11.住み続けられる町づくりを、12.つくる責任つかう責任、13.気候変動に具体的な対策を、14.海の豊かさを守ろう、15.陸の豊かさを守ろう、16.平和と公正をすべての人に、17.パートナーシップで目標を達成しよう』である。この17点の開発目標には、2020年に発生した新型コロナの対策が含まれていない。それを含めた「グリーンリカバリー」としての目標を新たに作る必要がある。

 国連防災機関によると、20001920年間に洪水や台風などの大規模な自然災害が7348件起き、198099年の20年間の17倍に急増した。その経済損失は297兆ドルと18倍になった。こうした自然災害に対応して、世界のマネーがカーボンゼロを先取りして環境・社会・企業統治(ESG)を重視する企業に投資全体の3分の1(約3200兆円)を投資するようになった。投資家は、企業が気候変動対応に真剣かどうかによって選別している。20年に英国の非政府組織 CDPが世界の9526社の気候変動対応を格付けしたところ、日本企業はトヨタ自動車など53社が最高評価となり、国別では米国と並んで最多となった。気候変動対応では日本企業の評価は高いのである。

 

あとがき

 日本の新型コロナウィルス対策が後手後手になっていることが気がかりである。筆者は、製造工程のコンピュータ制御をした経験から、「コロナ対策は、制御をした結果が出るまでの時間遅れが非常に長いシステムを制御するのと同じだ」と考えている。コロナの感染が伝わり、感染の検査結果が出るまでの時間遅れが長いことを考慮しなければならない。結果を見て制御するフィードバック制御ではオーバーシュートを起こしてしまう。色々な要因(空き病床数、医師・看護士の数など)を考慮して、適切なタイミングでフィードフォアード制御(予測制御)をしなければならない。同じ対策を打つにしても、タイミングが遅れたら、ひどい結果になる。タイミングが重要なのである。

 今回のコロナ禍では感染症対策と国民の生活を支える経済対策の両方を同時に制御しなければならない。その場合に政治と科学の役割を明確にする必要がある。経済対策と感染症の科学的対策の両方を一体化した目標を立てて、国と地方、科学と政治が一体となってその目標に向かって進めるようにすべきである。また、コロナウィルスの感染症では予期せぬ事態が発生する恐れがあるので、専門家の警告から政治の判断までの時間を短くして、迅速に対応することが肝要となる。日本に必要なことは、タイミングを逃さないスピード感である。

 筆者がコンピュータ制御システムの開発で工場勤務をしていた頃、日本は国を挙げて「省エネ」に取り組んでいた。第1次と第2次のオイルショックによって石油が高騰し、エネルギー資源のない日本の製造業が生き残るためには省エネが生命線であった。その努力の結果、日本は省エネで世界の先頭を走るようになり、1997年には気候変動に関する国際協力の出発点となった「京都議定書」を取りまとめた。現在、EUがリードして締結された「パリ協定」のもとに動いているが、日本が再びリード役になることを世界から求められている。

 アナログ的な「ものづくり」を得意とする日本は、「デジタル革命」では遅れをとった。しかし、省エネで世界をリードしてきて、今でも排出削減特許で先行する日本は「カーボンゼロ革命」では優位にある。今後のカーボンゼロはデジタル技術のもとで行われるので、日本は早くデジタル化を進めなければならない。そして、デジタルのもとで得意な「ものづくり」の力を発揮して、日本を再びらせるのである。これは夢ではなく、昔の「省エネ」の時のように、「グリーンリカバリー」を目指して国を挙げて「グリーン成長戦略」に取り組めば、日本は必ず甦ると筆者は考える。

 日本では以前から「15年周期説」が唱えられてきた。191530年が大正デモクラシーの時代、3145年が軍国主義と戦争の時代、4660年が戦後民主主義の時代、6175年が高度経済成長の時代、7690年が低成長の時代、912005年がバブル崩壊後の経済停滞時代(国際的には米ソの冷戦が終わり、グローバル化の時代)、200620年が経済の再生模索と政治制度改革の時代(国際的には反グローバル化の動き)となる。今後の2135年は「グリーン成長戦略」の第1段階に当たり、次の3650年は第2段階と第3段階に当たる。こうした15年周期の時代の大きな流れを見ても、今後の「グリーンリカバリー」の30年は、日本が新たな局面に入り、再び甦る時代となることが予測されるのである。

 筆者は今年81歳になるが、せいぜい長生きして、「グリーンリカバリー」で日本が変わっていく様子を見たいものである。

 

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                               (以上)

    米中の対立と世界の行方

                        202011月 芦沢壮寿

 米国の大統領選挙の結果が異常状態に陥り、米国の国内分断の深刻さが露わになっています。トランプ氏は敗北宣言を出していませんが、民主党のバイデン氏が次期大統領になる形勢が決定したようです。一方では、米中の対立が次のバイデン政権にも継続され、むしろバイデン政権の方が中国の人権問題などの独裁的な強権主義を追及し、従来の経済やハイテクの米中対立から、日米欧の民主主義国と中国を中心とする強権主義国との政治形態をめぐる世界的な対立へと発展する可能性が高くなりました。そこで、現状の米中対立の実態を検討した上で、今後の世界的な政治形態をめぐる対立の行方について考察してみることにします。

 

米中のハイテク覇権争い

 米国が半導体の国内生産を促すために250億ドルの補助金を投じる検討に入った。巨額な公的支援で中国に対抗し、インテルなど米国の半導体大手の開発力を底上げするためである。こうした米国の背景には、半導体製造の海外依存を放置すれば、産業競争力の低下に加え、安全保障や軍事力にも響きかねないとの危機感がある。

 現状の半導体の販売シェアでは、米国が47%でダントツの1位で、以降、韓国19%、日本10%、欧州10%、台湾6%、中国5%と続く。しかし、生産能力のシェアで見ると、米国は12%に過ぎない。米国はファブレス(生産工場を持たない)企業が多く、生産は台湾など海外に委託するケースが多い。

 中国の半導体生産能力は、現在15%で米国を上回っていて、10年後には24%に拡大し、台湾を抜いて世界の首位に立つと予想される。

 米国の半導体は、次世代品の微細化技術で台湾のTSMCに後れをとる。それを挽回するために、米国は50億ドルの予算を追加配分する。これには、自由な市場競争をゆがめるWTOルール違反の可能性があるために、日欧などの同盟国と共同で最新半導体を開発する「多国間基金」の創設が盛り込まれている。今後、米中は半導体産業を巡って補助金合戦になる気配になってきた。

 中国はハイテク産業振興策「中国製造2025」で米国企業に依存している半導体の自給率を現状の20%未満から25年には70%まで高める目標を掲げている。しかし、米国の商務省は、そのリード役になる中国の半導体受託生産最大手のSMICを輸出規制の対象とした。SMICの現状の微細技術は14ナノメートルに留まり、TSMC5ナノより2世代以上遅れている。SMICは最先端設備を導入してTSMCやサムスン電子を追い上げる構えであったが、米国の輸出規制によってそれが困難となり、「中国製造2025」の達成も困難になることが予想される。

 米国によるファーウェイ封じ込め政策が同社の5G通信基地局の世界シェアに影響を及ぼしている。ファーウェイの通信基地局設備には、米国の制裁で使えなくなる部品が金額ベースで3割を占めていて、中国製は1割未満に過ぎない。2019年時点で通信基地局の販売シェアは、ファーウェイが34%、スウェーデンのエリクソンが24%、フィンランドのノキアが19%、中国のZTE10%、サムスン電子が9%であったが、米国の強硬措置によってファーウェイは首位の座を陥落することになるであろう。

 ファーウェイなどの中国企業への禁輸措置を強める米国に対抗して、中国も戦略物資やハイテク技術の輸出管理を強化する新しい法律を作っている。安全保障を理由に中国版の禁輸企業リストを作成し、特定企業への輸出を禁止できるようにする。海外企業が中国の政治的な主張に同調しなければ、禁輸リストに載せて不利益を与えるのである。この法律は2021年にも施行される。

 量子コンピュータの性能が上がると、インターネット上の機密情報の暗号が解読される恐れがあることから、現在、米国の国立標準研究所(NIST)が量子コンピュータでも解けない暗号(複雑な数学問題を使った暗号)の候補を世界から募集し、選考作業を進めている。最終候補になっている4つのチームは、米クアルコム、米インテル、スイスのIBMチューリッヒ研究所、日本のNTTの技術の一部が採用されたが、中国の提案はすべて落選した。この暗号は2031年以降に次世代暗号として本格的に利用される見込みである。日本や欧州も米国の暗号に追随する可能性が高い。一方、中国は、専用の量子通信ネットワークで使う量子暗号通信の国際標準を狙っている。中国は、現在進めている第135カ年計画に量子コンピュータと量子暗号通信を掲げ、既に北京〜上海間に2000kmの量子通信ネットワークを構築している。

 

米中の政治体制をめぐる競争

 米中の対立は、「ハイテク覇権争い」から「政治体制の優劣」を競う戦いに発展しつつある。その戦いは、米国を中心とする「民主主義体制」の集団と中国を中心とする「強権主義体制」の集団の戦いである。

 米中は、1972年の国交正常化以来、経済的な相互依存関係を強めてきたが、2017年にトランプ大統領となって対立するようになり、今や、従来の相互依存が対立の原因になっている。

 米中の政治体制をめぐる対立は今後10年以上続くであろう。今後の世界は、民主主義圏と強権主義圏の分断化が進むことになる。しかし、両国とも全面的な武力衝突を望んでいないので、局地的な軍事衝突のリスクはあるが、互いに軍事衝突を回避する努力をするであろう。

 スウェーデンの調査機関によると、2019年に民主主義国の人口が非民主主義国家の人口を下回って逆転したという。19年に民主主義国が世界で87カ国、非民主主義国は92カ国となり、18年ぶりに民主主義国が非民主主義国を下回った。18年にハンガリー、アルバニア、19年にフィリピンなどが非民主主義国に逆戻りしたからである。現在、世界で民主主義国に暮らす人々は46%で、旧ソ連が崩壊した1991年以前の水準に下がっている。

 20206月末の国連人権理事会では、香港国家安全法を支持した国が53カ国、反対した国が27カ国であった。自由・民主主義の原則を訴える日米欧の先進国は反対したが、中国の経済力に引き寄せられる新興国は中国を支持した。

 以上のように、今後は、世界人口の過半数を占める新興国に対して、従来のような「民主主義は善」という欧米流の前提が通用しなくなる。

 

民主主義国の問題点

 ここでは、民主主義勢力が過半数を割るに至った原因について探ってみることにする。産業革命以降の製造業の興隆に伴って発展してきた民主主義は、製造業の時代に最も適していた。1929年に始まる世界恐慌を契機に国家が経済に積極的に介入するケインズの修正資本主義が現れ、国家が富裕層の富を低所得層に分配することによる公平化が進んだ。製造業を中心とする産業構造が投資・生産・消費・分配の好循環を生み、大量生産のために雇用が増大し、再分配によって豊かになった大衆が厚い中間所得層を形成するようになった。その中間所得層が民主主義社会を安定して支えてきた。1970年代には米国の中間所得層が国民の6割を占めるに至った。民主主義の社会が安定的に機能するには、厚い中間所得層の存在が必要なのである。

 民主主義を発展させてきた先進国では、社会の安全網として社会保障制度や福祉制度を整備してきた。病気や労働災害などの際の安全網となる社会保障制度を始めて整備したのは、鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクであった。ビスマルクは、1880年代に疾病・労災・年金保険を相次ぎ制定した。

 福祉国家の基礎を築いたのは、第2次世界大戦中の英国であった。英国では、国が「ゆりかごから墓場まで」の一生の面倒を見る福祉国家となったが、怠けて給付に依存する人々が増えて国の競争力が低下し、「英国病」と呼ばれた。

 1978年に「鉄の女」と言われたサッチャー首相が登場し、小さな政府を掲げて社会保障を見直し、英国病を克服した。サッチャー首相は米国のレーガン大統領とともに、政府の関与を減らして市場原理を重視する新自由主義を主導した。新自由主義のもとで1970年代から金融資本主義が始まり、富が再び富裕層に偏るようになった。その結果、国民の格差が拡大し、2008年には世界金融危機を引き起こした。現在は、ESG(Enviroment:環境、Society:社会、Government:統治)を重視して投資する資本主義になりつつある。ESGは、2015年に国連が採択し、2030年までに達成を目指す17項目の持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals)を表す。ESGの開発目標の項目として、Eに「エネルギーを皆に、そしてクリーンに」、「気候変動に具体的な対策を」など、Sに「全ての人に健康と福祉を」、「男女平等を実現しよう」など、Gに「働きがいも経済成長も」などがある。

 1980年代以降に新自由主義による金融のグローバル化に伴って、先進国の国内製造業が新興国に移転した。そのために、国内の製造業が衰退して中間所得層が縮小したことから、民主主義が不安定になった。

 1990年代以降にインターネットが急速に普及し、世界がSNSで結ばれるようになった。それに伴ってフェイクニュースが氾濫し、民主主義の不安定化に拍車をかけた。また、社会のデジタル化に伴って多額の投資や多くの雇用を必要としないIT企業が台頭し、雇用が減少して中間層以下を疲弊させた。その結果、1988年から2008年の世界金融危機までの20年間の実質所得は、民主主義国で富裕層の所得が60%以上急増したのに対して、中間層以下の所得は停滞したままであった。それに引き換え、新興国の所得は急増した。

 先進国の経済成長率は、2000年を境にして、前の20年間の平均3%から後の20年間の1.5%へと半減した。そうなった原因について、元米財務長官のローレンス・サマーズは、2000年以降に貯蓄が投資を上回る貯蓄過剰になったことを指摘している。家計がためたお金を企業が投資に使わないために、お金が余って金利が下がったが、経済は冷え込んだままであった。

 先進国では、2008年の世界金融危機を経て中央銀行の超低金利政策が定着していった。金利の低下が公的債務の膨張を後押しし、先進国のGDPに対する公的債務の比率が100%を超える異常な状態になった。最も深刻な日本では200%を超えた。

 今回の米国の大統領選挙で、米国の政治的な分断の深刻さが浮き彫りになった。これは「南北戦争以来の分断」と言われる。選挙中に全米で銃が通常の2.2倍も売れ、デモにも銃を携帯し、選挙後に暴動が起こると警戒された。

 分断の原因は、筆者が前回の『高等教育がもたらす社会の分断』で述べたように、「フランス・イギリス・アメリカで高等教育を受けたエリート層と受けない大衆の間で格差が拡大して階層化し、社会が分断されて、民主主義が機能不全に陥った」ことにある。メディアは、「トランプ大統領の異常な資質が米国を分断した」と報じているが、社会を公平な立場で見ることを止めて自らの主張を通そうとするメディアには真の分断の原因が分からない。メディアもエリート層に属するので、分断されてエリート層からみられない下層階級のことは分からないのであろう。そのために、米国のメディアは、前回の大統領選挙で実態とかけ離れた予測をした。

 今回の選挙でも予想に反してトランプとバイデンの得票差が小さかった。最終的な得票では、バイデンの7500万票に対して、トランプは7100万票で過去の大統領選挙で最も高かったオバマの6900万票より上回っているのである。

 また、上下両院の選挙でも、全435議席が改選された下院では、民主党が218議席を固めて過半数の維持を確定したが、改選前の235議席を減らす可能性が高くなった。上院では100議席のうち共和党が50議席、民主党が48議席を確保し、残る2議席は211月に行うジョージア州の選挙で決まる。上下両院とも予想されたより共和党の善戦が際立ち、共和党内ではトランプの成果として評価されている。

 今回の大統領選挙は、トランプ対バイデンの選挙というより、トラン対反トランプの選挙であった。4年前の選挙でトランプに勝利をもたらした支持者は、高等教育を受けていないで、政治からはじき出されて社会に居場所をなくしていた白人の下層階級の人々であった。彼らは、今回の選挙でもトランプを支持した岩盤支持者である。彼らは、米国社会でヒスパニックや黒人が増えて、自分たちがマイノリティーになっていくことに恐怖感を抱いている。こうした米国社会の根底にある人種間のや教育による階層的な分断が、米国社会を分断させ、米国の民主主義政治体制を危うくしている根本的な原因である。

 トランプは、分断された米国社会の下層階級に属する白人に目を付け、白人が建国した米国の威信を取り戻すために「米国第一主義」を唱え、製造業を国内に取り戻す政策を掲げて失業率を今までにないほど低下させた。これは、トタンプ大統領の成果として評価されてしかるべきである。しかし、新型コロナウィルスの対応で無党派層を反トランプに駆り立てることをバイデンに許したことが敗因となった。

 米国の大統領選挙では、国民が大統領候補に直接投票するのではなく、選挙人(実際に大統領候補に投票する人)に投票する。これは、文字の読み書きができない人が多かった頃に制定されたルールだからである。また、州によって選挙ルールが異なり、勝敗の決着は負けた方の候補者が敗北宣言をすることによって決まる。今回の選挙では、トランプがまだ敗北宣言をしていないので、最終的な決着がついていない。しかし、そのために政治の空白が長引く危険性が生じる。事実、中国が香港の民主派議員4人を解任したのも、米政権の空白を突いたと言われる。今の時代に合った選挙制度に改革することが米国に求められている。

 次のバイデン政権の最大の課題は、トランプの岩盤支持層となってきた白人下層階級にも政治の光を当てて、国内の分断を解消すること、それに、身内の民主党内の穏健派と左派の対立を解決することである。民主党は、党内対立を抑え、トランプの退場を優先して選挙を戦って政権交代に成功したが、これからは国民皆保険制度を主張する左派から強い圧力を受け、党内の分断が先鋭化する恐れがある。また、白人下層階級の分断を解消するには、バイデン政権でも「米国第一主義」の一部を取り入れて、国内産業の育成と同盟国にも防衛費を負担させる政策を継承する必要があろう。その上で、民主主義国の盟主として、日欧の民主主義国とも連携して中国の強権主義と対抗することである。 

 中国の強権主義に対抗する時に、日本が提唱した「自由で開かれたインド・太平洋構想」が重要になるであろう。インド洋・太平洋を取りまく日本、米国、オーストラリア、インドの4カ国は、既に中国のインド洋・太平洋への軍事的侵出に対抗して、海軍の軍事演習を繰り返してきた。これらの国々は、日本が尖閣諸島で、米国がハイテクや経済で、オーストラリアが新型コロナウィルスの感染源の調査をめぐって、インドが国境紛争をめぐって中国と対立してきた。また、今後、世界経済の中心がインド・太平洋地域になることから、イギリス・フランス・ドイツなどのヨーロッパ諸国でもインド・太平洋諸国との関係を強化しようとしている。世界のおもだった民主主義国は、今まで中国に依存し過ぎてきたサプライチェーンを見直し、今後のウィズコロナ社会や米中対立で分断される世界に備えて、生産を自国やインド・太平洋地域に移行することになるであろう。そうなれば、ますます「自由で開かれたインド・太平洋」の構想が重要になる。

 トランプは選挙の敗北を認めていないが、バイデンは政権移行の準備を加速させている。バイデン政権は、温暖化対策の「パリ協定」に復帰し、世界保健機関(WHO)へも復帰して国際協調に転換する。戦後最大の経済危機となった新型コロナ対策としては、10年間に10兆ドルの壮大な国家再建プランを準備しているという。

 

中国の強権主義の問題点

 中国は、強権主義を深めて国家資本主義をより一層効率化して、米国との覇権争いに勝とうとしている。国内では統制を強め、周辺地域へは拡張主義的な行動を止めない。政治、経済から科学技術まで、あらゆる分野で強権的な圧力を高めている。軍事力でも2030年代ばに米国に並ぶことが予想される。

 中国は、2012年にフィリピン領有のスカボロー礁に漁船を送り込み、漁船の保護を名目に中国公船や海軍の艦艇を派遣して、スカボロー礁を実効支配してしまった。それと同じことを東シナ海の尖閣諸島でも行っている。現在では中国公船の隻数が日本の海上保安庁の巡視船の倍以上となり、接続水域内で中国公船が確認される日数が年間300日に及ぶ。

 中国は、米国のトランプ政権が仕掛けた関税貿易戦争に思ったほどの打撃を受けていない。トランプ政権は、中国経済が知的財産の窃取や政府の補助といった手段に頼っていて、圧力をかければすぐに屈服して譲歩するだろうと考えていたが、14億人の中国経済はそれほど脆弱ではなかった。

 日本の11倍の人口を抱え、まだ発展途上にある中国は、内需だけで経済成長ができる強さがある。しかし、米中貿易戦争や過剰債務に苦しむ中国は、従来のような輸出に頼った成長が望めなくなった。今後は、内需を増やすことによって経済成長する方向に転換しつつある。

 今年の11月に中国の内需の強さを示す出来事があった。毎年1111日の「独身の日」に中国のネット通販最大手のアリババ集団、2位のJDドットコムなどが一斉にネットセールをしてきた。今年は111日〜11日に拡張して行ったところ、上位2社だけでも12兆円を売り上げた。このネットセールには世界中の人気ブランドが参加していて、日本からは美顔器のヤーマン、化粧品の花王・資生堂などが参加し、売上高が輸入ブランドのトップと4位、5位を占めた。中国と対立しても日本にとって中国が魅力的な市場であることに変わりがない。現在、日本の貿易総額に占める中国の割合は21%で最も多く、次いで米国の15%、ASEAN15%、EU12%、韓国の5%へと続く。

 つい最近、ASEANと日中韓とオーストラリア、ニュージーランドの15カ国が参加する東アジア包括的経済連携(RCEP)が締結され、世界貿易の3割を占める強大な自由貿易の経済圏が出現した。RCEPでは、輸出入にかかる関税の91%が段階的に撤廃されることになった。インドは不参加になったが、いずれは参加するであろう。これにより、日本は中国に輸出される工業品の関税撤廃率が8%から段階的に87%まで引き上げられ、韓国への輸出も78%の品目で関税が段階的になくなる。

 中国は、経済的には強くなったが、医療や社会保障制度では遅れている。中国の医療支出のGDPに占める割合は5%で、日本の11%、米国の17%、世界平均の10%と比べても低い。そのために、中国では診療をうけるために早朝から長蛇の列を作ることが日常茶飯事になっている。

 なお、2018年時点で各国のGDPに占める社会保障費の割合は、OECD(経済協力開発機構)加盟国の平均で20%で、日本が22%、ドイツが25%、スウェーデンが26%、フランスは31%であるのに対して、米国は18%で低い。

 今回のコロナ禍で中国の監視カメラによる監視技術が世界の60カ国で採用された。米国製の32カ国、日本製の17カ国を大きく上回る。中国製の採用は、タジキスタン、ラオス、イラン、ベネズエラなど民主化指数が低い国に多い。

 個人のプライバシーを全く無視する中国は、強権的な社会統制と中国型の監視システムによって、コロナウィルスの封じ込めを図ってきた。今、中国国内を移動するには、スマートフォンが手放せない。行動履歴で新型コロナウィルスに感染していないという証明をスマホのアプリで示さない限り、公共交通機関や商業施設、飲食店などを利用することができない。なお、各国のコロナ対策の良し悪しを感染率、致死率、経済損失で評価すると、良い方の上位から台湾、韓国、ニュージーランド、日本、パキスタンと続き、悪い方の下位から英国、ペルー、フランス、スペイン、ベルギーと続く。

 米国のMITテクノロジーレビューは、個人情報のプライバシーを国家が配慮する項目として「自発的な登録」、「透明性」、「データ活用の用途に制限」、「一定期間後にデータの削除」、「最小限のデータ取得」の5項目を挙げて、プライバシーが保護される程度を5項目のうち何項目が配慮されるかによって、各国のプライバシー保護のレベルを056段階に分類している。それによると、中国、カタール、タイなどがレベル05項目の全てが無視され、プライバシーの保護が全く配慮されない)となっている。プライバシーを最も配慮するレベル5の国は、スイス、イタリア、カナダなどである。

 2020年中に中国を含むアジア新興国のGDPが米国を中心とする先進国のGDPを抜くことが明らかになった。これは中国の清朝時代以来の150年ぶりの逆転である。

 コロナ禍による経済的被害が少なかった中国は、2031年頃にGDPで米国を抜くと予測されている。しかし、近いうちに人口減少に転じる中国は、移民によって人口が増加する米国に、2052年頃に再び抜き返されると予測され、中国が世界一の経済大国となるのは約20年間だけである。なお、人口減少が続く日本は、2027年頃にインドに抜かれ、2050年代にはドイツにも抜かれる。

 2021年以降の第145カ年計画で習近平は「2035年までにGDP2倍にする」という見通しを発表した。そして米国との対立の常態化を想定して、ハイテクなどの内製化を急ぎ、ハイテク覇権争いに向けた産業政策を発表した。半導体、AI、航空宇宙などを戦略的な重点科学分野と位置づけ、外国からの制裁に影響されない独自のサプライチェーンの構築を打ち出した。

 中国は、国家資本主義を新たな経済段階に合わせて再改革する「シーノミクス」(「習近平の経済政策」という意味)を打ち出した。それは、中国共産党が全てに目配りして、厳密に規定された枠組みの中で市場と技術革新を一体的に機能させることである。また、中国は、これまで国内産業の育成を海外で学んだ優秀な人材を迎え入れて行ってきたが、これからは国内で人材を育成して、自立した「科学技術強国」を作るための行動綱要を制定した。

 「シーノミクス」と「科学技術強国」には3つの要素がある。第1の要素は、厳格に目配りすることによって、企業を成長させ、国内産業を育成することである。大規模な財政出動や大盤振舞いの融資をして企業の成長を促進する時代は終った。これからの企業の資金調達は規制強化が進んだ債券市場の利用を増やす。第2の要素は、行政の効率化である。効率の悪いお役所仕事を改めて行政を効率化することによって、市場をより円滑に機能させ、経済の生産性を向上させる。第3の要素は、国有企業と民間企業の境界をなくして国家資本主義を民間企業にまで拡張し、国有企業は民間投資家からの投資を受け入れて財務収益の向上を図り、民間企業も国家戦略の中に組み込む。中国政府が実質的に国の支配下に移行させた民間企業の件数を見ると、2017年には1件だけであったが、18年に21件、19年に30件、20年には既に51件になっている。

 中国政府は、シーノミクスによって、債務の拡大を減速させ、貿易戦争とパンデミックの二重ショックにも何とか金融危機を回避し、企業の生産性を向上させ、海外の投資家たちが中国の新しいIT企業に投資するようになることを狙っている。こうしたシーノミクスから、中国の窮状が読み取れる。まず、中国は、現在、過剰債務による金融危機を防止することに汲々としていること、そのために、シーノミクスによって国家資本主義を改革して、国内企業の生産性を向上さようとしている。そして、今まで海外に頼っていた人材育成を自力で行って国内の技術革新を生み出し、IT企業に海外からの新たな投資を呼び込もうとしているのである。

 こうした窮状は、以下で述べるように、中国が今後の経済成長の拠り所としてきた「一帯一路」が、資金不足や人材・経験の不足から実質的に失敗に終わろうとしていることに起因すると推察される。このことについては、「あとがき」の所で筆者の見解を述べることとする。

 以下では、中国の対外政策と「一帯一路」の実態について考察する。

 ドイツ、フランス、英国では、中国の南シナ海への不法侵出や香港の自治侵害、ウィグル族の弾圧などで、既に対中観が冷え込んでいたが、それに新型コロナウィルスの拡散が追い打ちをかけた。今年9月のEUと中国のテレビ首脳会談では、メルケル首相らが人権問題で中国に批判を浴びせると、習近平が「人権の先生は要らない」言って怒り、険悪な会談になった。

 人権や安全保障の問題だけでなく、英独仏が中国に幻滅するようになったのは、中国が外資系企業への規制を強め、対中ビジネスが難しくなっているからである。特にドイツは、今まで中国一辺倒できたが、アジア政策をインド・太平洋地域に転換した。インド・太平洋の共通の価値観をもつ国との関係強化を打ち出したのである。しかし、ドイツ企業にとって中国の存在は大きく、昨年のフォルクスワーゲンの世界販売シェアの38%が中国であり、ダイムラーは29%、BMW28%であった。

 今、ドイツ企業は技術の強制移転を要求する中国に悩まされている。不公正を是正するためのEUと中国の投資協定の協議も難航している。香港国家安全維持法や人権問題など、中国との価値観の違いが浮き彫りになる中で、ドイツ国内ではメルケル政権に対し中国に弱腰だという批判が高まっている。

 東欧のチェコ、ハンガリーでも、8年ほど前から中国との経済交流によって経済を復興させる熱気にあふれていたが、今やその期待はしぼみ、失望に変わろうとしている。東欧では中国離れの波が広がっていて、チェコの首都プラハは北京市との姉妹都市を解消し、台湾の台北市と結び直した。チェコのミロシュ上院議長は8月末に台湾を訪れた。次世代通信規格5Gの安全対策をめぐっても、ポーランド、チェコ、ルーマニア、エストニアが中国のファーウェイを止めて、米国との協力に合意した。ルーマニアでは中国企業との原発建設計画を破棄した。

 このようになった原因は、第1に中国の「一帯一路」に対する失望がある。中国は「一帯一路」で大風呂敷を広げたが、実際には進展していないことに失望したのである。第2に中国との交流が深まるにつれて、内政干渉や安全保障への不安が高まったことである。昨年1月にはファーウェイのワルシャワ支店長がスパイ容疑で逮捕され、11月にはチェコ国内で中国のスパイ網づくりが発覚して摘発された。かつてソ連の共産圏に組み込まれていた苦い経験を持つ東欧諸国は、強権体制の中国に警戒を強めていたが、経済協力が進まなければ中国に接近する意味がなくなる。これは、東欧に限らず、アジアやアフリカの新興国にも通じることである。

 以上のように、欧州と中国は価値観の違いを超えて、経済で結ばれてきたが、その蜜月関係は事実上終わりを告げようとしている。

 アフリカでは、2006年頃から中国への債務が増加し始め、「一帯一路」が動き始めた13年頃から急増し、19年末時点で対外債務に占める中国の割合が29%になった。中国の融資は利回りが3%超と高く、IMFや世界銀行の1%前後と比べて割高である。借り入れ国の債務負担は中国依存が強まるほど重くなる。ザンビアではコロナ禍で資金繰りに行き詰まり、デフォルト(債務不履行)の危機にある。

 「一帯一路」に積極的に参加してきたパキスタンでも、3%の金利を主張する中国と1%を希望するパキスタンの間で折り合いがつかず、同国最大の鉄道事業の着工が難しくなっている。

 中国の最も強力な援軍はロシアであるが、旧ソ連時代から中ロの間には根深い相互不信があった。ロシアは中国への警戒を強めるインドとベトナムに武器を供給している。ロシアは旧ソ連圏の中央アジアで中国が「一帯一路」で影響力を拡大することを懸念している。

 北朝鮮は、朝鮮戦争で共に戦ってくれた中国と1961年に事実上の軍事同盟条約を結んでいる。しかし、習近平と金正恩は意見が合わない。金正恩が米国との関係改善を探るのは、経済的な対中依存度を減らしたいからである。

 東南アジアで最も中国に友好的な国はカンボジアであるが、フン・セン首相はカンボジア南西部に中国の軍事基地を置くことを拒否している。

 以上のように、中国の海外に対する強権的な政策は、諸外国から警戒され、成果を上げるにはほど遠い状況にある。特に、「一帯一路」は、今後の民主主義国との対抗上、新興国・発展途上国を中国側に取り込む最大の強みであったが、それが失敗しそうな気配になったことは中国にとって大きな痛手である。

 そうした中で中国国内では、今、知識層の間で習指導部の強権的な手法に反発する声が上がっている。そのために、習近平指導部は知識層を狙って統制を強化し、国内の有力大学で「習近平思想」の教育を必須化しようとしている。また、少数民族へも思想教育を強く押し進めようとしている。

 

あとがき 

 ここでは、以上の考察を踏まえて、今後の世界の行方について筆者の見解を述べたい。

 今後、世界は日米欧の民主主義体制と中国の強権主義体制が優劣を競っていくことになる。そして、世界の新興国・発展途上国が2つの体制を値踏みして自国に有利な方に加担していくことになるであろう。

 しかし、民主主義国の民主主義体制と中国の強権主義体制の両方が、解決困難な問題を抱えている。それをうまく解決できるかが勝敗を決するであろう。

 民主主義国の問題は、国内が分断されて、民主主義自体が正常に機能しなくなったことである。民主主義はこうした時代の要請に応えて変わっていかなければならない。

 筆者は、国民と政治の乖離を防ぐために、国民の政治参加の機会を選挙だけでなく、国民が臨機応変に政治に参加できる仕組みを作ることが肝要だと考える。例えば、予算編成の時に、民間人やNGOが参加して、政治の光が当たっていない社会の底辺の問題を掘り起こし、最もふさわしい解決方法を協議する仕組みを作り、実行段階でも、民間人やNGOが参加して、きめ細かなチェックを行う仕組みを作るのである。社会の分断を防いで、社会の底辺の人々も経済活動に参加させることが社会の活性化につながるからである。その場合に、政治にもPDCAPlan 計画、Do 実行、Check 検証、Action 改善)を取り入れて、政治を改革しながら実行していくフィードバックの仕組みを作ることが有効であろう。

 一方、中国の強権主義の問題は、中国古来の中華思想に基づく「中華圏」の復興を夢見て、強権主義を国際社会にまで延長しようとしていることに根本的な無理がある。そんな自己中心的で独善的なことが、現代の国際社会に通用するはずがない。そのために、国際社会と摩擦が生じ、中国は孤立化している。

 中国の決定的な弱点は、同盟関係やパートナーとなる国を持っていないことである。そうなる原因は、中国古来の「中華思想」にある。中華思想は、簡単に言えば「中国が世界の中心であり、中国の周辺国は文化の劣る野蛮な国である」というもので、野蛮な周辺国とは対等な同盟関係がなく、昔の体制のような主従関係しかないのである。中国の経済的支援を望む新興国でも、中国の強権体制下の属国になることを望んではいない。

 中国の「一帯一路」にしても、独善的な中国人には対外プロジェクトをうまく推進する能力がないことが明らかになった。

 習近平が打ち出した「シーノミクス」は、民間企業の自由な企業経営にまで共産党の官僚機構が統制するものである。中国は古来から科挙(中国の随代に始まる官吏登用試験)の制度で登用された官僚たちによる汚職体質の国である。中国の現在の共産党独裁体制は、まさに中国古来の官僚機構そのものである。習近平は共産党員の官僚の汚職を撲滅したかに見えるが、伝統的な体質は簡単になくなるものではない。こうした体質の官僚たちが民間の企業経営を公正に行い、イノベーションや生産性を向上させることができるはずがない。短期的にはうまくいくかも知れないが、永続的に持続させることは不可能である。崩壊した旧ソ連共産党の統制経済と同じように、いずれ「シーノミクス」は崩壊するであろう。

 中国が今まで高い経済成長を続けてこれたのは、世界の国々の技術を取り込んで、自由経済市場の恩恵を享受してこれたから可能となった。習近平は、こうした事実を全く理解せず、自由主義市場経済とつながっていた香港の「一国二制度」を放棄して、敢えて民主主義国との対立を選択した。それを見た台湾は、中国に取り込まれることを警戒し、米国や西側諸国との関係を強めている。中国にとって半導体製造技術を持つ台湾は、「中国製造2025」を実現するために欠かせない存在である。そのために、今後の米中の対立は、台湾をめぐって争われる公算が大きくなってきた。

 以上の考察から、習近平はとんでもない誤りを犯しているように見える。もしかしたら、思想偏重に陥って文化大革命を引き起こした毛沢東の二の舞を演じているのかもしれない。もしそれが事実であれば、習近平がケ小平の定めた10年という期限を破って永続的な地位を獲得したことが、今後の中国で大きな問題となるであろう。

 そうなるかどうかは、米国を始めとする民主主義国が民主主義体制の欠陥を改善して、協力して中国に対抗できるかどうかにも関係する。

 筆者は、民主主義国の奮起を期待すると同時に、中国が自らの欠陥に早く気づいて、国際社会と協調できる国になることを願ってやまない。

 最後までお読みいただいたことに感謝します。          (以上)

 

高等教育がもたらす社会の分断

                                                     202010月 芦沢壮寿

 

 最近出版されたフランスの文化人類学者エマニュエル・トッドの著書『大分断−教育がもたらす新たな階級化社会−』(2020PHP新書)を読んでみました。トッドは、歴史家で人口学者でもあり、各国の家族制度や識字率、死亡率などに基づき現代政治や社会を分析して、トランプ大統領の誕生や英国のEU離脱などを予言し、的中させたことで知られています。著書の中でトッドは、家族制度などの文化人類学の手法を使った分析によって、今、フランス、アメリカ、イギリスの社会が高等教育を受けたエリート層と受けていない大衆の間で階層化し、大分断を起こしていると指摘しています。しかし、各国の伝統的な家族制度によって民主主義の形が違うために、日本やドイツでは高等教育による経済的な格差はあっても、社会の大分断には至っていないとトッドは主張しています。こうしたトッドの思想は、日本人の我々にとって信じ難いことですが、今後の世界の動向を考える上で非常に参考になると思われるので、あえてトッドの『大分断』について、筆者の見解を加えて、その概要と思想を書いてみることにしました。

 

社会の分断を引き起こす高等教育の問題

 近代社会における自由・平等の普遍的価値観はフランスとイギリスで生まれ、アメリカに引き継がれて、世界を律する価値観となってきた。ところが、そのフランス・イギリス・アメリカで、今、高等教育を受けたエリート層と受けない大衆の間で格差が拡大して階層化し、社会が分断されて、民主主義が機能不全に陥っている。そして、支配階級のエリートたちは、目的を失い、進むべき道を失い、理性を失い、内向的になって何も見えなくなっている。

 一方、テレビの出現以降、世界的に学力が低下し続けている。その原因は、人々が読書をしなくなったからである。読書をすることによって、脳が物事を考えたり記憶したりできるようにフォーマット(型式)が形成されるが、6歳から10歳の子供がテレビや動画を見て読書をしなくなったことから、脳のフォーマット化が遅れ、学力の低下を招いているのである。

 現在の高等教育では、もっぱら授業内容を学習するだけで、考える時間が与えられないために、実社会で役に立つ「知性」が育たない。そして、知性のない愚か者ばかりが社会に排出されてエリートとなっている。

 フランスで2018年に「黄色いベスト運動」が起きた。マクロン大統領らのエリートが決めた「燃料税引上げ」に反対する大衆(高等教育を受けていない低収入の人々)が黄色いベストを着てデモに参加し、フランス全土に広がった。「黄色いベスト運動」から、高等教育を受けたエリ−トたちが社会の実態を何も理解していないこと、高等教育を受けていないデモ参加者の方が社会の問題を考える知性を持っていたことが分かった。高等教育を受けたエリートたちは、自分でじっくり考えて社会の実態や問題の本質を見抜く訓練をしていないために、誤った政策しか打ち出せないのである。

 これは、「学業」と「知性」が分断されていることを意味する。頭の良さやIQで評価される教育レベルは、生活水準や生産手段といった実社会の経済的な評価基準とは全くかけ離れてしまった。高等教育は、単にエリート層が大衆より高額の所得をせしめるための論拠でしかなくなった。マルクスは、「資本」による経済の階層化を糾弾したが、今や、「高等教育」が経済の階層化を引き起こし、大衆をプロレタリアート化させているのである。

 

家族構造によって民主主義の型が決まる

 フランス・イギリス・アメリカと比べて、ドイツや日本では、教育による格差がそれほど深刻ではなく、社会の分断もそれほどではない。こうした違いは、それぞれの国の伝統的な「家族構造」の違いに由来するとトッドは指摘する。

 トッドは、家族構造の違いによって民主主義の型が決まると主張し、民主主義の型には、「フランス・イギリス・アメリカ型」、「ドイツ・日本型」、「ロシア型」の3種類があると言う。

 フランス・イギリス・アメリカ型の民主主義は、「核家族」を基本とする個人主義社会と兄弟間の平等主義の価値観から生まれた、普遍的な自由・平等の思想に基づく民主主義である。しかし、教育によって格差が拡大して不平等社会となった現在、自由・平等の価値観に基づく民主主義は機能不全に陥り、社会が分断されてしまった。

 「ドイツ・日本型」の民主主義は、長男が家族の頭領となる「直系家族制度」に基づいて、長男の権威主義と兄弟間の不平等主義のもとに生まれた「階層民主主義」である。階層民主主義では、権威主義的な階層があることを容認して、民主的な手続きのもとで政治が行われる。その社会では、規律が重んじられ、権威的なシステムが維持されるために、教育による格差が抑えられて、社会の分断が抑制され、民主主義の機能が維持される。つまり、日本型の階層民主主義では、人々が身分の序列を認めているので、上層部の下層部に対する軽蔑や下層部の上層部に対する憎しみが少ないために、教育格差が意識されず、社会の階層化や分断が抑えられて、民主主義の崩壊が起こらないのである。

 また、エリート層を憎み批判するポピュリズム政党が日本に存在しない理由は、日本のエリートが傲慢な態度をとらないので、大衆の恨みを買わないからであろうとトッドは指摘する。その結果、自民党のように一党が政権を長期にわたって握り続けることが日本では可能となる。

 「ロシア型」の民主主義は、ソ連崩壊後のロシアで生まれた新しいタイプの民主主義である。共産党の一党支配の後に生まれたロシアの民主主義は、「権威主義」と「平等主義」の価値観が一体となった「一体主義的民主主義」である。一体主義的民主主義は、現在のロシアのプーチン政権のように、ロシアの共同体的な伝統を受け継いだ権威的な民主主義である。民主的な手続きで選挙をするけれども、国民は権威を持つ者に集中して投票するために、独裁的な共同体が生まれるのである。もし中国が民主化するとすれば、ロシアと同じような一体主義的民主主義になるであろう。

 

アメリカ社会の変質

 アメリカでは1965年頃に男性の高等教育が35%になってピークに達した。その頃、、女性で高等教育を受けた人は25%ほどであったが、1980年頃に男女の割合が30%で同じになり、その後は逆転して女性の方が高くなった。こうした傾向は世界中で共通していて、今後は女性の方が高等教育を受けた人が多くなるであろう。

 アメリカでは、男性の高等教育がピークに達した1965年頃から、高等教育を受けた人々だけで集団を形成し、その集団の中だけで生活するようになり、自分たちが社会を動かすエリート集団だという認識を持つようになった。そして、高等教育を受けたエリート集団が高等教育を受けていない民衆の集団と没交渉となり、両集団はお互いの事情を知らなくなって、社会の分断が始まった。こうした現象こそが社会の分断の真の要因である。分断された社会では、エリート層と民衆が異なる文化圏でお互いに相手のことを知らずに暮らしいるために、集団的な知性の崩壊が起き、社会道徳も崩壊していった。1960年以降、離婚率が上昇し、婚外子が増加して、道徳的・文化的な危機に陥った。

 同じようなことがフランスでは1995頃に起きた。高等教育による社会の分断は、アメリカの方がヨーロッパより30年ほど早く起きたのである。

 1980年代に共和党のレーガン大統領のもとで、グローバル化による自由貿易と資本の流通の自由化が始まった。この自由貿易を促進したのは、高等教育を受けた上層部の20%の人々で、特権的な層を形成した。彼らは、自由貿易を社会に押しつけ、彼らだけが自由貿易の恩恵を享受した。

 ところが、自由貿易によって安い商品が国内に流入して、国内産業が衰退し始めると、アメリカ経済を支えてきた中流階級の人々の収入が大きく下がり始めた。2000年の初頭からは大卒者の収入が停滞し始めた。高等教育の学歴も、もはや彼らの社会的な堕落を守ることができなくなったのである。

 以上に述べた経緯を見ると、まず、高等教育を受けた集団が社会を階層化させ、国家を崩壊させた。そして、高等教育を受けた一部の特権的集団が自由貿易をすすめて、国家の経済基盤を破壊したことが分かる。つまり、「自由貿易が国家を崩壊させた」という従来の考えは誤りであり、「教育の階層化が国家を崩壊させ、それが自由貿易をもたらした」のである。

 アメリカの民主主義は、もともと白人のアングロ・サクソンの気質、即ち、平等主義とは相容れない気質を持っていて、ネイティブ・アメリカン(インディアン)や黒人を排斥してきた。しかし、今年の5月に起きた白人警官による黒人殺害事件以来、白人層にも黒人排斥を反省する気配が広がって、白人の気質が変わってきた。

 白人の保守層を基盤とする共和党の自由貿易政策は、特権的な白人支配層を大金持ちにしたが、共和党の白人有権者が多数を占める中流層・大衆層の人々の生活水準を悪化させてしまった。そうした状況下で、アメリカの4554歳の白人死亡率が1999年から2013年の間に急激に上昇した。トッドは、この現象から、グローバル化による自由貿易の弊害はアメリカの白人の気質を変えてしまったと捉え、トランプ大統領の出現を予言したのであった。

 トランプは、共和党の自由貿易政策に反逆して、「アメリカ第一」を唱え、保護主義へと舵を切った。トランプの保護主義とは、国外の安い労働力で作られた商品の流入を防ぎ、それを国内で作って国内産業を復活させることである。自由貿易で疲弊した大衆は、トランプの保護主義を支持して、トランプを大統領にした。保護主義は社会の階層化による不平等を減少させるものであるから、本質的に民主的であるとして、トッドはトランプの政策を支持している。

 

ポスト民主主義のヨーロッパ

 EUは、EU諸国の生活水準を平等にするという目標を掲げて統一した。しかし、今やその理想が失われ、ドイツだけがユーロ通貨圏の管理を手に入れ、東欧の安い労働力で生産した製品をドイツ経由で輸出して高所得国となり、一人勝ちしている。

 フランス・イタリア・スペインなどのラテン系諸国は、独自の経済政策がとれず、実力以上の通貨高となっているユーロを使っているために経済が低迷し、高い失業率を抱えている。

 ラテン系諸国よりさらに低所得の東欧の国々は、未だに生活水準が低いままで、生活不安のために出生率が低下している。ドイツと東欧諸国の所得格差は、アメリカ・イギリスなどのアングロ・サクソン系の国々を超えてしまった。

 ドイツ以外の国々は、国家的レベルの愛国心や宗教的な倫理観が失われて、社会の道徳的枠組みが崩壊してしまった。また、EUの理想や愛国心といった集団的意識を失った個人は、卑小な存在になってしまった。

 トッドは、最初からEUの欠陥を指摘してきた。「人はみな自由で平等」という民主主義の理念が成り立つためには、同じ言葉でコミュニケーションができ、そこから様々な決断が下せる基盤としての国家という要素が不可欠である。そうした民主主義の基盤となる要素を欠くEUでは、民主主義の自由・平等を実現することは不可能であるとトッドは主張する。

 高等教育を受けたエリート層と受けなかった大衆の間に生まれた分断を脱するには、エリート層と大衆が「交渉」するしかない。交渉が成立しなければ、社会は崩壊に向かう。

 現在、ブレグジット(EUからの離脱)を決めたイギリスは、エリート知識層が社会の上層部と下層部の交渉の必要性に気づいたことから、交渉によって国内統一に向かうであろう。トッドは、イギリスのエリート知識層が民衆の気持ちを汲み取ったことが、民主主義が機能している証拠であると言い、イギリスは復活すると推測している。ブレグジットの実現は、イギリスよりもEU側に困難な事態をもたらすと予想される。

 一方、フランスは、上層部がドイツに追随する形をとっていて、民主主義の崩壊への道をたどっているという。現在、フランス社会の55%がマクロン大統領も国民連合のルペンも支持していない。黄色いベスト運動で叫ばれた「生活水準の低下」は、今後確実にフランス全土に広がっていき、1015年後に限界に達して、新しい政治勢力が生まれるとトッドは予測している。

 その他のEU諸国は、日本と同様に高齢化が進んでいて、ユーロ経済圏からの離脱は、貨幣の不安定化を招き、すぐに年金の不安につながるために、実質的に不可能である。EUの国々はドイツの植民地のような状態に陥ってしまっている。そのドイツは、EUの国々に緊縮財政政策を強制したり、どの国とも相談なく、突然、原発廃止を宣言し、結局、石炭火力発電をフル稼働して環境汚染を拡大したりして、勝手に不条理な決断を繰り返している。自国の統治すらうまくできないドイツがEUを率いているのである。

 

あとがき

 ここでは、今後の日本のあり方について考えてみます。トッドは、日本の最大の問題は「人口減少」だと指摘しています。グローバル化は、日本の国内経済に厳しい競争をもたらし、日本の出生率を低下させ、人口減少を促進しました。人口減少を放置すれば、日本経済が確実に縮小していきます。

 人口減少の解決策として、日本はもっと移民を受け入れるべきです。移民の受け入れには多くの問題があることは確かですが、人口減少の弊害を解決するには、バランスをとった移民の受け入れが不可欠です。

 移民の問題点として、移民への嫌悪感があり、そのために日本の民主主義の基盤、生活習慣、文化が損なわれる恐れがあります。こうしたリスクを最低限に抑える対策をとり、日本の安全を保障しながら、日本経済を発展させるために必要な移民を受け入れることです。

 トッドは、日本について次のような提言をしています。「日本人は社会的・道徳的な規律が厳し過ぎる。日本は、もっと男女間・家族内・移民に対して寛容になり、多少の無秩序を受け入れるように変わらなければならない」と。

 これは、最近の日本の社会がセクハラなどの問題に過敏になり、男性が萎縮して、むしろ男性の方が結婚を敬遠する傾向にあること、その結果、女性は結婚したくても相手がいないために人口減少に拍車をかけていることと関係しています。非常に難しい問題ですが、日本人はもっと社会的に寛容になり、異性や外国人などの自分とは異なる文化を認めて受け入れる必要があります。

 トッドは、日本の直系家族社会の問題として、非常に効率的ではあるが、現状の形をそのまま繰り返すという傾向があり、「無気力な社会」になりやすいと指摘しています。現在の日本の若者たちが無気力であるのは、それが原因なのかも知れません。こうした社会では、日本の明治維新や戦後の驚異的な復興のように、外部からの刺激や脅威をうまく利用して活性化することです。日本人は危機感を持てば力を発揮するのです。今回のコロナ禍に危機感を持って、日本を活性化するための絶好のチャンスにしたいものです。

 最後までお読みいただいたことに感謝します。

(以上)

韓国の窮状を暴く『反日への最後通告』を読んで

                            20209月 芦沢壮寿

 

 筆者は、韓国について、2005年に『日中・日韓の歴史認識問題』を著し、 2014年に『文化の違いから読み解く日中韓の対立』を著して、主に文化の違いに焦点を当てて日韓問題を考えてきた。しかし、今まで「なぜ韓国は1980年頃から急に反日に傾いたのか」、「なぜ韓国人は、裁判官も含めて、事実を事実として見ないのか」という疑問を抱いてきた。今回、今年の4月に発行された元韓国陸軍大佐 の著書『反日への最後通告』を読んで、不審に思っていた疑問が解けた。それには、韓国の反日化に北朝鮮が深く関わっていることと現在の韓国の深刻な状況が隈なく説明してあった。池萬元は、以前から筆者が最も信頼できる韓国の歴史学者と見なしてきた(元ソウル大学教授で『大韓民国の物語』、『日韓危機の根源−反日種族主義』などの著者)と直接的な関係がないが、両者は韓国の「自由民主主義」を守るために懸命に戦っている。

 池萬元は、1942年に生まれ、韓国陸軍士官学校を卒業し、軍全体で1人の留学試験に合格して米海軍大学院に留学し、経営学修士号、システム工学博士号を取得した。ベトナム戦争に従軍した後、優秀さを買われて国防情報本部に勤務し、北朝鮮の生態研究に従事した後、大佐で1987年に退官した。その後、米海軍大学院で2年間だけ教鞭をとり、帰国してから社会発展システム研究所長、システムクラブ代表となり、市場経済システムの公正な運用や日本の品質管理を韓国に根付かせる活動をした。しかし、1998年に金大中が大統領となると、北朝鮮の金日成を信奉する従北主義者が台頭して、韓国が急に左傾化し始めたことに危機感を抱くようになり、韓国の自由主義体制堅持のために月刊時事評論誌『時局診断』を発刊して、韓国の歴史認識の歪みについて執筆してきた。

 池萬元は、『反日への最後通告』を執筆した動機について「思想の左右を問わず、この国の国民は共産主義者が主導する反日戦略に同調している。彼らの頭の中を占めている反日感情のせいだ。朝鮮は『美しい花の国』、日本はその花の国を踏みにじった『強盗の国』という固定観念がほとんどの韓国人の脳裏に刻まれている。そこに火がつけば、全国民が反日戦士になる。そのため、筆者は、韓国人が一般的に持っている朝鮮と日本に対するイメージが偽りのイメージだという事実を早く証明して見せたかった。解放後の歴史権力と文化権力を掌握してきた従北共産主義者が、本と映画とドラマによって執拗に注入した洗脳工作のせいだという事実を早く伝えたくて、本書を急いで執筆した次第である」と述べている。そして、「日本と敵対し、韓国経済を混迷に陥れている左翼政権の陰謀を阻止できるのは、国民世論だけである」と述べ、「韓国の国民がこれまでに教え込まれてきた知識が従北共産主義者によって歪曲されたものであることを暴露し、真実を伝えることによって、民主主義国家としての理性的、合理的な国民世論を形成するために、魂を込めて本書を著した」と述べている。池萬元の『反日への最後通告』の記述は複雑多岐にわたるので、まず、全体的な趣旨を説明する。

 

『反日への最後通告』の全体的な趣旨

 朝鮮は『美しい花の国』という偽りのイメージは、ソ連のスターリンに南朝鮮を統合して朝鮮全体を共産主義化することを命じられた金日成が捏造したものである。日本でも、朝鮮総連を通してこの偽りのイメージが伝えられ、在日朝鮮人たちがだまされて日本人妻を伴って北朝鮮に帰国したことは、よく知られている。池萬元は、これが全くの偽りであることを、日本が1910年に朝鮮を併合する前の朝鮮王朝(1392年〜1910年の518年間にわたって27名の王が支配した李氏朝鮮王朝)を訪れた外国人や内国人の著作物を使って証明している。外国人が見た当時の朝鮮は、盗み・嘘・陰謀が横行し、通りには糞便が散らばって悪臭に満ち、垂れ流された糞尿が井戸を汚染して、劣悪な衛生状態のために、絶えず伝染病が蔓延していた。人口の1割に満たないが残りの同族を奴隷のように扱い、搾取していた。当時の朝鮮には内乱と外国の侵略から国を守る能力がなく、朝鮮は「滅ばざるを得ない状態」にあった。

 一方、日本は花の国を踏みにじった『強盗の国』というイメージが偽りであることを、福沢諭吉や渋沢栄一が朝鮮で果たしたことを挙げて反論している。韓国の学校では、日本が朝鮮の精神を抹殺するために朝鮮語の使用を徹底的に禁止したと教えてきたが、真実はそれとは全く逆であった。朝鮮の王たちが弾圧して滅亡させたハングル文字を蘇らせたのは福沢諭吉であり、福沢が生み出した近代文明に関する漢字(民主主義・権利・社会・学校・思想などの漢字)によってハングル文字で朝鮮語の文章が書けるようになったのである。

 渋沢栄一は、日韓併合前の1901年に京釜鉄道株式会社を設立させ、190204年に朝鮮鉄道敷設権を西欧の手から買い取って、京釜鉄道、京仁鉄道、中央線などを敷設した。そして、朝鮮の重い銅銭に代わって紙幣を印刷して流通させた。日本は朝鮮を191045年の36年間併合したと言われるが、実質的には1901年から朝鮮の近代化に関わり、45年間にわたって朝鮮の近代化を進めた。

 日本の統治によって、朝鮮に学問・文化・経済の基礎ができた。そして、朝鮮に52億ドルの固定資産(鉄道、道路、ダム、工場など)を残し、現在の韓国の大企業の基礎を残した。こうした日本の遺産によって現在の韓国の経済発展があることは、まぎれもない事実である。しかし、朝鮮王朝の嘘・陰謀・謀略のDNAを受け継いでいる従北共産主義者が偽りの歴史教科書を捏造し、その偽りの教育を受けた全ての韓国人が「反日」に洗脳されてしまっている。

 現在の北朝鮮の金氏王朝は、まさに李氏朝鮮王朝の伝統を受け継いで、1割の労働党員が9割の人民を奴隷として搾取している。彼らは、『美しい花の国』の誇るべき朝鮮王朝の伝統を体現しているのが北朝鮮だと言い、南朝鮮はアメリカ帝国主義の植民地になってしまったから、民族の正統性は北朝鮮にあると主張し、韓国の従北共産主義者たちもその主張を信奉している。

 韓国では、「日本軍慰安婦」と「挺身隊問題対策協議会議(挺対協)」が神聖不可侵な存在となっている。慰安婦を侮辱したり、挺対協と異なる見解を言えば、言論人であろうと学者であろうと直ちに糾弾され、訴訟される。

 「慰安婦」、「挺対協」と並んで韓国で聖域化されているもう一つは、「5.18光州事件」である。「5.18光州事件」は、19805月に朝鮮半島の南西部に位置する全羅南道の光州で起きた。ここで、「5.18光州事件」に至る韓国の歴史の「あらすじ」を示しておく。

 19452月の米英ソによる「ヤルタ会談」で、朝鮮について38度線以北をソ連、以南を米国が占領することが合意され、朝鮮の分割統治が決まった。そして、同年8月に日本が降伏して朝鮮は日本から解放された。19488月に李承晩が大統領となって「大韓民国」が成立し、9月に金日成が首相になって「朝鮮民主主義人民共和国」が成立して、朝鮮は完全に南北に分断された。

 19506月、北朝鮮軍が38度線を越えて南下して朝鮮戦争が勃発し、自由陣営と共産陣営が激突する国際戦争となった。朝鮮戦争は3年間に及んだ。

 1960年の「4.19革命」で李承晩が下野し、1961年の「5.16軍事クーデター」で朴正熙が政権を握った。すると、金日成は、韓国内に北朝鮮の地下組織を張り巡らして韓国を共産化させる謀略に出た。1964年にソウルと全羅道(朝鮮半島の南西部に位置する)で密かに「統一革命党」という地下組織を結成させ、翌年には統一革命党の下部組織として全国の各大学に「学士酒店」や「60年代学士会」といった半合法的な組織を結成させた。全羅道は、昔から他の地域と感情的に衝突し、共産主義的気質の強い土地柄であったが、「統一革命党」の基地になってから従北共産主義の先駆者となった金大中を生み、「5.18光州事件」の舞台となった。それからの韓国は、大学が従北共産主義者を生む温床となり、頭の良い学生は裁判官や検事になるように仕向けられた。現在の裁判官のほとんどが左翼の従北共産主義者で反日である原因はそこにある。そして、従北共産主義者になった大学の教授らが、韓国の独立前後の歴史認識を金日成の主張に沿って歪曲させた。金日成は、韓国を米帝国主義の植民地だと決めつけ、李承晩・朴正熙らの自由民主主義勢力を米帝国主義の手先として「保守反動」と呼び、民族の太陽である金日成の「主体思想」(「政治の自主」、「経済の自立」、「国家の自衛」を柱として、自力更生を目指す朝鮮労働党の指導思想)を韓国に広めている従北主義者を「進歩」と呼んで、韓国の民衆に主体思想を学ばせて米帝国主義の支配から解放することが「民主化運動」だと主張した。

 197910月に釜山で反政府運動が起き、朴正熙大統領が暗殺された。1980年に軍の実権を掌握したが大統領となると、その年の5月に「5.18光州事件」が起きた。1981年に最高裁が「5.18光州事件は一派と北朝鮮による工作によって起きた内乱陰謀事件」として、金大中に死刑判決を下した。しかし、翌年に金大中は恩赦によって減刑され、死刑を免れた。

 1980年の5.18光州事件以降、従北主義者によって韓国中に金日成の「主体思想」が広がった。朝鮮王朝の嘘・陰謀・謀略のDNAを受け継ぐ従北共産主義者となった大学教授は、学校の歴史教科書を「反日」に改ざんしていった。これが、1980年以降に韓国が「反日」に転じる最大の原因となった。

 朴正熙の後、全斗煥、3代にわたって軍事政権の大統領が続いたが、1993年にが最初の文民大統領となると、韓国の政治が急激に左傾化し始め、「反日」に染まっていった。金泳三は、1980年の5.18光州事件が「全斗煥大統領の命により戒厳軍が光州市民に発砲した集団虐殺である」と主張し、1997年に最高裁が「5.18光州事件は全斗煥が起こした内乱事件」として、全斗煥に死刑判決を下した。さらに、1998年に従北共産主義者の金大中が大統領になり、2003年にが大統領になると、韓国の政治は従北共産主義者によって完全に牛耳られるようになった。

 5.18光州事件は、1997年の最高裁判決以降、誰も触れられない聖域となっていた。ところが、2003年に盧武鉉大統領が北朝鮮の主張を受け入れて、5.18光州事件は純粋な民主化運動であったと主張し始めた。これに対して池萬元が、2003年から現在まで18年間をかけて、5.18光州事件の膨大な史料を調べ、「北朝鮮軍600人が光州市民に悟られないように密かに侵入して起こしたゲリラ戦争であった」という結論に達した。その研究結果は全9巻、3600ページにまとめられて発表された。盧武鉉の政策を引き継ぐ現在の政権も、5.18を民主化運動と主張し、5.18精神を憲法に盛り込んで「5.18共和国」を建設しようとしている。しかし、池萬元の研究結果が韓国社会に広まり、文在寅の5.18共和国の暴走にブレーキがかかっている。

 池萬元は、これまでに200件を超える訴訟を経験し、現在進行中のものも20件に及ぶ。韓国の裁判は、訴訟内容が真実かどうかではなく、どこで裁判するかによって判決が決まる。池萬元の著書に対する裁判では、光州で裁判をすると必ず有罪になり、多額の賠償金が課せられた。光州でのある裁判では、裁判所で訴訟側から集団暴行を受け、怪我を負ったが、裁判官は彼らを無罪とし、逆に池萬元に賠償を命じた。こうしたことは、朝鮮王朝時代に老論・少論・南人・北人の4つの党派が権力争奪をめぐって謀反と謀略を繰り返し、権力を掌握した党派が自党に有利なように歴史を捏造してきた歴史と全く同じである。

 

外国人と内国人が見た朝鮮王朝の実態

 李氏朝鮮王朝は1392年に李成桂がクーデターによって高麗を滅ぼして建てた王朝である。人口の1割にすぎない特権支配階級の両班が残りの9割の奴婢層(奴は男奴隷、婢は女奴隷)を奴隷として支配し、奴が婢を支配していた。李朝時代にはが頻発して、粛清された両班は奴婢に転落した。奴婢は両班の家畜のようなもので、ロバの半値以下で取引される商品であり、財産であった。婢は、いつも乳房を出していて両班の慰み者となり、交接して生まれた子は奴婢層になったので、財産を生産する道具でもあった。

 池萬元は、朝鮮王朝時代の朝鮮の実態について、当時の朝鮮を訪れ、滞在して見聞したことを著した19名の欧米人、各1名の日本人、中国人、それに6名の朝鮮人の著書を調査して、「朝鮮は『美しい花の国』であった」という主張が全くの偽りであり、真っ赤な嘘であることを示している。その代表的なものを抜粋して以下に示す。

 オーストリア出身の旅行家ヘッセ・ヴァルテックの著作: 民衆は貧困の中で暮らしているが、役人たちは民衆から搾取した富で放蕩の限りを尽くしている。朝鮮の民衆は貧しく、無知で、怠惰で、節操がなく、迷信を信じている。このような属性は貪欲な政府が生み出した結果である。朝鮮の両班支配層は封建的な秩序の中で、奴婢を使役したり売買できる奴隷制度を維持してきた。日本には、忠誠心と愛国心と自己犠牲という高い理想を持つ学者と文化的集団があるが、朝鮮には全くない。

 アメリカ人牧師で、教師として朝鮮に招かれたジョージ・ギルモアの著作: この国に来て最も驚いたことは、想像を絶する汚さだ。世界の数多くの国々を巡ってきて、地球上でこれほど汚い国は初めてだ。朝鮮の都である漢陽では、25万人の住民が迷路のような路地の地べたで暮らしている。

 フランス人宣教師マリ・ニコル・アントン・アブリュイの語録: 朝鮮人は、欲深く、好奇心が過度に強く、おしゃべりで、虚栄心が強い。母親は子供が6歳か8歳になっても乳を吸わせる。両班は金がなくなると平民の物を搾取したり略奪するが、誰も止められない。官吏や地方長官などの両班は畑や家を買っても金を払わない。

 28歳の時に記者として朝鮮を訪れた著名な作家ジャック・ロンドンの著作:朝鮮は足を引きずって生きてきたが、自分で治すことができない。朝鮮の役人は私利私欲を追求する集団になり下がり、数世紀にわたって執権層の腐敗が続いたために、朝鮮人はかつての勇猛な気概や進取の精神をなくしてしまった。

 イギリス人の新聞社主アルフレッド・チャールズ・ウィリアム・ノースクリフの著作: 古今東西、朝鮮ほど汚い所はない。中国の道路は異臭が立ちこめていると言うが、朝鮮では人々がウジ虫にまみれて暮らしている。日本人の家は明るく清潔で、中国人の家は汚く陰気だと悪口を言うが、朝鮮人の家は肥溜のレベルである。

 イギリス人の政治家で、1904年に日本・朝鮮・中国の旅行記『極東の印象』を発行したアーネスト・ハッチの著作: 朝鮮政府の腐敗と非効率性は、かなり前から改革不能なレベルまで達しているにもかかわらず、朝鮮の民衆はそのような暴政に慣れっこになって、それに抗して戦おうとしない。朝鮮の役人たちは、民衆の生き血を吸う吸血鬼である。

 日本の福沢諭吉の著作: 人間娑婆世界の地獄が朝鮮の京城に出現した。私は朝鮮を見て、野蛮人より妖魔悪鬼の地獄国だと評する。王室の無法、貴族の、税法さえの極みに陥り、民衆に私有財産の権利がなく、政府の法律は不完全であり、罪なくして死刑になるだけでなく、貴族や士族の輩が私欲や私怨によって私的に人間を拘留し、傷つけ、または殺しても、国民は訴える方法がない。政府は文明の風潮を知らず、どのような外患に遭い、どのような国辱を被ろうとも、全く無感覚であり、憂苦なく力を注ぐのは朝臣らによる政府内の権力や栄華の争いだけである。帰するところの目的は私的な利益だけであり、国を売っても私的に利益があれば憚らないもののようである。人民の生命も財産も栄誉も守ってくれないこのような国は、かえって滅びてしまうことが民衆を救済することになる。いっそロシアやイギリスの国民になる方が幸福である。ゆえに私は朝鮮の滅亡の時期が遠くないことを察して、一応は政府のために弔慰を表すが、その国民のためにはこれを賀したい。

 中国の清朝末期の政治家でジャーナリストの梁啓超の語録: 朝鮮滅亡の原因は、宮中の人々と役人である両班たちであった。日本派と清国派とに別れて外国の軍隊を招き入れて殺し合ったが、あの両班という人々には役人という気概がなく、両班を職業としていた。他の国で役人は国政に携わるが、朝鮮では両班を養うためにあった。朝鮮社会では、陰険で無恥な者が栄え、貞節で慈しみ深い者は落ちぶれる。清国とロシアと日本が朝鮮を滅亡させたのではない。朝鮮が自ら滅んだのだ。

 18世紀末の朝鮮の実学者 朴斎家の語録: 漢陽には荷車がなく、汲み取った汚物を運ぶのが容易でないので、民衆は川辺や道端に糞尿を捨てる。橋の橋脚を見れば、人糞がべたべたくっついていて、大雨が降っても洗い流されることはない。民衆が着ている服ば、何年も着続けている古びた綿入れだけで、食べているものは飯とろくに味も素っ気もないナムルだけだ。鉄製の釜や箸は役人たちが奪っていき、台所には割れた器と木製の箸しかない。

 日本・中国・米国に計12年も留学した1893年の日記: もし私に住む場所を選べる自由があるならば、私は日本を選ぶだろう。私は、悪臭がする中国(清)、人種差別が激しい米国、極悪政府のいる朝鮮では生きたくない。ああ、祝福の国 日本よ、東洋のパラダイスよ、世界の庭よ。

 日韓併合条約を締結した時の総理大臣であった李完用の著作: 朝鮮の同胞たちよ、今の朝鮮人民は死ぬか生きるかの境目にありながら、朝鮮独立を叫んで死への道を探しているのはどういうことか。朝鮮独立を叫ぶ扇動が無駄なものであり、軽挙妄動であることを諸君はわかっているのか。私は諸君に尋ねたい。朝鮮独立が実現する希望があるのか。

 米エリモー大学名誉法学博士で朝鮮初の英語通訳となり、韓国国歌を作詞したい尹致昊の著作: 恥ずべき朝鮮の歴史を知れば知るほど、現政権下での改革が希望のないものと確信するようになる。韓国において、最も深く根を下ろし、最も広く広がった悪は嘘だ。自分と異なるものを認められない者に民主主義国家を経営することができようか。韓国人は自分の誤りを認めるよりも、我を張って弁解することに汲々としている。無能で搾取することしか能がない朝鮮人の政府と有能で搾取をしない日本人の政府のどちらかを選べと言われれば、私は日本人の政府を選ぶだろう。朝鮮人の特徴は1人がリンチに遭えば、その人がやったことを調べることもせずに、皆が一斉に駆け寄って有無を言わせず袋だたきにすることだ。地域感情一つとってみても、朝鮮は独立する資格がない。わか国が誇るものは一つもなく、欠点を挙げられることが多いので、嘆かわしく思うと同時に、日本が羨ましくてたまらない。

 朝鮮王朝の官僚で朝鮮総督府中枢院副議長と大日本帝国の貴族院議員を務めた朴重陽の語録: 朝鮮人は、愛国心さえあれば犯罪行為を許したり、黙認したりする習性がある。自分のことは棚に上げて他人を批判し、悪評を流すのが朝鮮人の癖だ。口が達者な者は、例外なく詐欺師、いかさま師であり、正義を振りかざしながら言葉巧みに自分の無能を隠す。大韓民国はアメリカを後ろ盾にして成立したことを忘れてはならない。明国の属国を自認し、明国と清国に貢女(女を貢ぐこと)や高麗人参、金銀などを捧げる朝貢をしてきたことは、なぜ誰も批判しないのか。

 以上に述べた朝鮮王朝時代の悲惨な状況を救済したのは日本であった。日本の朝鮮統治を統括していた朝鮮総督府が1912年に「朝鮮民事令」を公布し、日本の民法、商法、民事訴訟法を朝鮮で実施して両班や奴婢の階級制度を廃止し、1922年に「朝鮮戸籍法」を制定・公布して、全ての奴婢が解放され、学校にも行けるようになったのである。

 以下では、日本と関連する朝鮮王朝の実態について見ていくことにする。

 李氏朝鮮王朝の前の高麗王朝(9181392年)の末期には(日本の海賊の一種)が100500隻の船団を組んで年に34回も朝鮮を侵略していた。しかし、高麗は軍事力を持ってちゃんと国を統制していたので、倭寇は軍事力の及ばない地方だけを荒らしていた。倭寇は、現地妻を持ち、日本から持って行った物資を地元民に分け与えて歓心を買い、漢城に運ばれる米などを略奪していた。ところが、李氏朝鮮王朝時代になると、両班たちが賄賂で軍役を逃れ、奴婢層の奴隷には戦う根性も体力もないので、実際に戦う軍隊がなくなってしまい、朝鮮は倭寇に対する防御力を失った。

 李氏朝鮮王朝時代に起こった豊臣秀吉の朝鮮出兵を朝鮮では「」(159298年)と呼ぶ。この戦乱を記録した『宣祖実録』に、「倭軍が攻め込んだが、下々の者はかえって日本軍を歓迎している。躊躇なく日本軍に加担する民衆もいて、倭軍の半分は朝鮮の民衆である」という記述がある。『看羊録』には、「67隻の敵船には人が一杯詰め込まれていて、いずれの船も朝鮮人と日本人の割合がほぼ同数であった」と記述されている。

 日本に連行された捕虜を連れ戻すために、朝鮮王朝は1607年、1617年、1624年に「回答兼印還使」(後の「朝鮮通信使」)を派遣した。捕虜の6千人ほどを朝鮮に連れ帰ったが、これは捕虜全体の10パーセントにも満たない。捕虜の朝鮮人たちが戻ることを拒否したことが主な理由であった」と記述されている。この時に日本に来た朝鮮人の陶工たちによって日本の「有田焼」「薩摩焼」などの陶芸文化の基礎が築かれたことはよく知られている。通信副使として日本に来た姜弘重の『東槎録』には、「日本に連行されてきた人々は、初めは無一文だったが、十年近く過ごすうちに財をなして生活が楽になると、なかなか戻ろうとしなかった」と記述されている。

 さて、上記のような朝鮮王朝時代の朝鮮の実態を色々な角度から見てきて、朝鮮王朝が国家を維持する統治力を全く失っていたこと、その結果として朝鮮王朝は「滅ばざるを得なかった」ことが明らかになった。

 さらに、現在の韓国・北朝鮮の実態を見ると、現在の朝鮮人も朝鮮王朝を滅亡に至らしめた嘘・陰謀・謀略のDNAを引き継いでいるように見える。韓国の従北共産主義者たちが嘘の歴史を捏造し、「反日」教育で国民を洗脳し、捏造した慰安婦問題で日本を攻撃している謀略は、まさに朝鮮王朝の両班たちの悪性と同じである。昔から朝鮮人は理性が10%で感情が90%と言われ、思慮に欠け、すぐに逆上する。今でも韓国人は海外に行くと騒々しく、喧嘩をして、観光資源に落書きしたりする。

 

5.18光州事件」の真相

 現在、韓国では「5.18光州事件」について2つの主張が拮抗している。1つは従北主義者が主張する「北朝鮮軍とは関係ない純粋な民主化運動」であり、もう1つが愛国陣営が主張する「北朝鮮のゲリラ部隊が潜入して起こした暴動」である。前述したように、池萬元は膨大な史料を調査した結果、5.18光州事件」が「北朝鮮のゲリラ部隊による暴動」という主張に証拠と科学的根拠があると結論づけ、従北共産主義者の民主化運動だとする主張を否定した。ここでは、池萬元の主張に沿って5.18光州事件」の経緯を見ていくことにする。

 

(注)2017年に封切られた韓国映画『タクシー運転手』の舞台が「5.18光州事件」である。映画では、光州に通じる全ての道路が閉鎖されている中で、タクシー運転手が事件を取材する外国人記者を光州の事件現場に送り、帰還させる様子が描かれている。

 

 「5.18光州事件」は、1980518日に私服の北朝鮮人民軍特殊部隊兵600人が密かに光州市に侵入したことから始まり、527日に韓国の戒厳軍(当時、韓国は戒厳令下にあった)が光州市を解放するまでの10日間のゲリラ戦争であった。特殊部隊兵600人は光州市の各所に3日間潜伏し、521日からゲリラ行動を開始した。その日の朝8時、私服の特殊部隊兵は移動中の韓国第20師団を待ち伏せして襲撃し、棍棒や火焔瓶を使って14台のジープを奪った。同日9時に軍需工場から装甲車4台と軍用トラック374台を奪取し、わずか4時間で全羅南道の17市郡にある武器庫44カ所を襲って5403丁の銃器を奪った。そして、光州の全羅南道庁舎から戒厳軍を追い出し、庁舎の地下にTNT製爆弾2100発を組み立てておき、524日正午まで庁舎を占拠した。

 一方、特殊部隊兵は、北朝鮮のスパイ170人を含む2700余人を収容していた光州刑務所を521日から翌朝にかけて6回にわたり攻撃した。彼らは、刑務所から解放した収容者を暴徒として使うように北朝鮮当局から無線指令を受けていたのである。その無線を傍受した韓国の戒厳軍が第3空輸特戦旅団を直ちに刑務所に移動させ、塹壕を掘って刑務所の防衛を固めた。

 10日間のゲリラ戦争で死亡した光州市民は154人であり、そのうちの116人が銃撃による死亡者であった。うち85人は武器庫から奪取した銃を所持する市民によって銃撃された。このことから、特殊部隊兵は、武器庫から奪取した銃を光州市民に配り、反乱を起こさせたことが窺える。銃撃による死亡者の75%が光州市民が撃ったことや、死亡者の80%が戒厳軍のいない場所で発生したことが確認されている。北朝鮮人民軍特殊部隊兵は、600人のうち475人が死亡した。北朝鮮では毎年国内全域で5.18事件の記念行事が開催され、特殊部隊兵を「有効者」(国のために手柄を立てた者)として讃えている。韓国の戒厳軍や警察の死亡者は27人であった。

 以上が「5.18光州事件」の真相である。これから分かることは、北朝鮮が1964年にソウルと全羅道に「統一革命党」という北朝鮮の地下組織を作って以来、密かに従北共産主義者を増やしてきて、1980年になって従北共産主義を主導する金大中の地元 全羅南道の光州で全斗煥大統領の軍事政権に対する反旗を翻す暴動を仕掛けて実力行使に出たのが5.18光州事件であった、と筆者は推察する。

 1998年に金大中が大統領になると、金日成の後をついだ金正日が韓国の従北共産主義者に対して「我々は政権を取った。これから階級闘争を始めなければならない…」と宣言し、「北朝鮮のスパイやパルティザンを調査した者たちは三族(本人・子供・孫)まで皆殺しにせよ」と指令した。その指令を受けた金大中らの従北共産主義者たちは、20008月に「民主化運動関連者名誉回復及び補償審議委員会」、10月に「軍疑問死真相糾明委員会」(疑問死委)を設置して、過去にスパイ調査を行った調査官たちを呼び出し、北朝鮮のスパイやパルチザンとして取り調べを受けた者たちに、調査官たちを逆取り調べさせた。これは北朝鮮と従北共産主義者たちの「仇討ち」である。金大中はスパイ、パルチザン出身者63人を北朝鮮に送った。

 2003年に金大中の後を受けて盧武鉉が大統領になった。盧武鉉は、200512月に「過去事委員会」を設置した。20061月に金正日が「スパイやパルチザンの容疑で拘束された63人に40年近くも苦痛を与えた反動分子とその子供らを処断し、63人に10億ドルの賠償をしろ」という告訴状を盧武鉉政権に送り付けた。その告訴状を受け取った上記の三つの委員会は、嬉々として過去の調査官らの忠臣を逆賊に転落させ、スパイやパルチザンを忠臣に格上げした。最高裁は三つの歴史逆転委員会の意見を百パーセント受け入れて、224件の時局関連事件を不法拘禁と拷問によるものだと断定して再審を命じた。再審を担当した裁判所は、次々と原審判決を取り消して無罪を言い渡し、賠償を命じた。スパイやパルチザンたちは多額の賠償金を受け取って既得権益層になった。韓国の裁判所の判事たちは、完全に従北共産主義に染まってしまったのである。

 こうして韓国は、金大中と盧武鉉の2人の従北共産主義の大統領のもとで、過去の歴史を次々に覆していった。その後、誰もかも盧泰愚までの軍事政権のもとで不本意な裁判を受けたとして、再審を請求するようになり、1000余件の再審請求事件が裁判所に寄せられた。要するに軍事政権は「民衆の敵」であり、警察はその手先だから、警察を射殺することは民主化の方向と一致するというのである。韓国では、このような呆あきれ果てた裁判が堂々と行われるようになった。しかし、国民の大部分はこうした事実を知らないで暮らしている。

 池萬元は、朝鮮人が「過去から学ぶことのできない民族」であることを憂慮している。日本の福沢諭吉がハングル文字を復活して、朝鮮の学問や文化の基礎を築いたことも、渋沢栄一が経済の基礎を築いたことも、日本が朝鮮としては思いもよらない52億ドルの固定資産と大企業を残してくれたことも忘れてしまい、日本は朝鮮を搾取した「強盗の国」という全く正反対のイメージを教育して、「反日」一色に染まる国にしてしまった。

 韓国をこうした国にした最大の元凶は盧武鉉であった。盧武鉉は、幼い頃に形成された劣等感から、自分より優秀な人物を攻撃せずにはいられない人間になった。劣等感から現実社会を否定するようになり、大韓民国の正統性を否定するために「李承晩が親日家を率いて大韓民国を建国した」と言って自国をニセモノ国家だと主張し、狂気の「反日」に突き進んでいった。建国にあたって行政、司法、警察、軍を管理する能力を持つ人材は、日本の教育を受け、日本仕込みの職務遂行能力を持つ人々以外にいなかったことは事実であるが、それを「親日家」と称して敵に仕立てたのである。

 ここで、池萬元が5.18光州事件」の真相を究明するために取った執念の手法についてふれておく。池萬元は、文献の分析に続いて映像の分析を行い、従北主義者も反論できない決定的な証拠を握った。20155月に8人の映像分析専門チームを作り、光州事件現場の写真の中にある北朝鮮人民軍特殊部隊兵600人と指揮官61人を合わせた661人の顔写真が北朝鮮人であることを突き止めたのである。

 その当時、光州市長を初めとして全羅道出身の政治家や要職につく者たちは、全て従北共産主義者で占められていた。彼らは、「5.18歴史歪曲対策委員会」(別名「池萬元対策班」)を結成し、訴訟裁判を起こして池萬元を攻撃した。そして、201510月から半年にわたって光州の人通りの多い場所に、661人の顔写真を展示して、写真の顔の光州市民が名乗り出るようにした。しかし、名乗り出る者は一人もいなかったのである。

 現在の文在寅政権は、5.18光州事件」を「民主化運動」と捉え、「5.18精神」を憲法に記載しようとしている。一方、野党で保守系の自由韓国党は、「5.18光州事件」を「暴動説」から「民主化運動説」に変えた金泳三が結党した党であるから、池萬元の「暴動説」を受け入れるわけにはいかない。池萬元の「暴動説」は韓国社会に知れ渡っているが、どの政党からも支持されない状況にある。こうした状況から、池萬元は、5.18光州事件」の真実を国民に訴え、世論を味方につけようとして奮戦しているのである。

 

日本軍慰安婦と徴用工の問題

 慰安婦が神聖不可侵な存在となっている韓国では、講義で「慰安婦は売春婦の一種」と言った教授が挺対協などの社会団体から訴えられて解雇された。

 やはり神聖不可侵な存在となっている挺対協は、1991年から毎週水曜日に日本大使館前で集会を開き、反日声明を読み上げて日本を糾弾し、合わせて反米声明を出すなどの活動を続けてきた。しかし、挺対協は2018年に団体名を「日本軍性奴隷制度問題解決の正義記憶連隊」(略称:正義連)に変えた。その理由は、多くの韓国人から「慰安婦を口実に反日・反米・反国家活動に奔走している」と批判され、「挺対協が訴えたら皆監獄行きだ」と言われるようになったからである。

 池萬元は、「日本軍慰安婦の一人として強制的に連行された者はいなかった」と指摘し、当時の韓国社会と女性について次のように述べている。

 日本統治の最後の10年(193545年)は、朝鮮における産業革命のような時代であった。農民が土地を離れて労働者となり、人口の流動性が増大し、都市社会が一挙に拡大したことに伴って、女性の間にいわゆる「新女性」に対する憧れが広がった。慰安婦は、この開花時代の産物である。190人の慰安婦に対する調査によれば、うち168人が脱農村時代に当たる193744年の間に慰安婦になっている。都市に憧れる新女性の絶頂期に家を飛び出した娘が人身売買グループの格好の餌食になったのである。また、181人の慰安婦を調査したところ、4分の1以上が慰安婦になる前に家から独立して、お手伝い、工場労働者、食堂及び置屋の女給などをしながら生計をたてていたこと、その中の6割程度が満州、台湾、中国に移送され、慰安婦になっていたことが判明した。生活苦から家を飛び出したケースもあれば、両親兄弟による家庭内暴力から逃れようとしていた若い娘が人身売買グループの罠にはまったり、聞きかじりの甘い情報を頼りに胸を膨らませて社会に飛び出したものの、世間の荒波の中をさまよっているうちに人身売買グループの生贄になったりしたことが慰安婦になる発端であったこと、さらに、当時の人身売買グループの手先はほぼ朝鮮人で、軍隊の慰安所を経営する朝鮮人も多数いたことがわかった。彼らが暗躍できる環境を提供したのは、娘に対する家族の暴力や虐待、そして学ぶことに対する憧れをひたすら抑圧しようとする男尊女卑文化であった。当時は慰安婦の募集広告が頻繁に行われていたので、広告を見て慰安婦になった女性も多くいたはずだし、貧しい父親に売られた慰安婦も多かったはずである。

 当時の朝鮮の女性たちが慰安婦になった状況は上記の通りであり、日本軍が「強制連行した」という挺対協の主張は全くの偽りであり、従北共産主義者たちの謀略であった。

 挺対協の幹部は、夫婦そろって従北共産主義者である。彼らは、40数回にわたって訪朝して北朝鮮の工作員と会って金品や国家機密を授受していた。挺対協やそれに同調する団体の幹部夫婦は分業体制で反国家・反米・従北の運動を行ってきたのである。挺対協は、19912004年まで計9回にわたって、北朝鮮の「朝鮮従軍慰安婦および太平洋戦争被害補償対策委員会」と共催してシンポジウムを開き、「慰安婦活動が南北自主統一の前哨戦だ」と宣言し、「南北分断は植民地支配の延長であり、日本軍慰安婦問題の公正な解決なしに植民地支配の清算や自主的回復を達成することはできないことを共感した」という共同声明まで出した。挺対協は、慰安婦問題という大義名分を掲げて、日本、米国、大韓民国を敵にして南北赤化統一を目論んでいるのである。

 2016年に公表された「女性の国外における性売買」に関するアメリカの統計を見ると、韓国女性が235%でダントツの1位である。オーストラリアでは、韓国の女性が1人でホテルに泊まって売春を行っていたことから、オーストラリアのホテルは韓国人の女性が1人でホテルに泊まろうとすると拒否するようになった。従北共産主義者たちが全世界に喧伝してきた慰安婦問題が、日本に非難を向けさせるのではなく、韓国の女性を慰安婦視させる結果を生んでいるのである。皮肉にも、慰安婦の少女像を作り出した共産主義者たちは韓国の品格を失墜させているのである。

 現在、日韓関係は最悪の状態になっている。その最大の原因は「徴用工問題」にある。201812月、ほとんどの判事が左翼系で占められる韓国の最高裁が日本の「強制徴用工」に対し、1人当たり1億ウンを賠償させる判決を下した。さらに、その賠償金を強制的に徴収するため、韓国にある日本企業の財産を差し押さえ、競売できるようにする手続きを強行した。徴用工を動員した日本企業は旧財閥の三菱、三井、住友系など、299社に及び、既に死亡した徴用工にも彼らの子供たちに訴訟資格があることから、徴用工は合計で15万人に及ぶ。もし15万人に1億ウンずつ支払うと総額15兆ウン(150億ドル)になり、1965年に締結した「日韓基本条約」の賠償金(無償経済協力金)5億ドルの30倍にもなる。差し押さえが実行されれば、日本企業の韓国にある全ての財産が差し押さえられることになる。

 日本や国際社会では、裁判官は訴訟事件の真実を審査して判決を下すものであるが、韓国ではそうした国際常識が通用しない。韓国の裁判官は、自分が所属する政治勢力が有利になるように判決を下す。現在の最高裁判事のほとんどが、盧武鉉から現在の文在寅大統領につながる左翼の従北共産主義者集団に属しているために、国際法上は優先されるべき「日韓基本条約」(この中の「日韓請求権協定」には、「両国の国民の財産、権利及び利益、並びに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」と明記されている)を全く無視した判決を下し、文在寅大統領も最高裁の判決を尊重するとして、全く日韓関係を改善しようとしない。

 こうした状況に対して、池萬元は、韓国人はもっと日本から学ぶべきだと主張し、日本について次のように述べている。

 日本は、米国から統計に基づく品質管理を学んで1951年にデミング賞を制定した。そして、1982年には乗用車における米国人の満足度調査で日本製が1位から3位を独占した。その後は米国が日本から学ぶようになった。

 韓国人は問題が発生すると「何が問題なのか」ではなく、「誰が問題なのか」を正して処罰対象を探す。そのため、過ちを犯した者が罰せられまいとして、問題の原因を隠して言い訳ばかりするから、真実が明らかにならない。

 欧米で一般的な経営理論(「X理論」という)が「人間は生まれつき怠け者で、強制されたり命令されないと働かない」という「性悪説」に基づくのに対して、日本式経営が「性善説」に基づく「人本主義」の経営理論(「Y理論」という)である。日本の経営者は、社員が自発的に学び成長できる土壌を作り、職場を自己実現の場として活用させる。従業員に多種多様な仕事を経験させ、従業員の愛社精神を育む。

 

あとがき

 筆者は、池萬元の『反日への最後通告』を読んで、朝鮮王朝を滅ぼした嘘・陰謀・謀略のDNAが今でも韓国人・北朝鮮人に受け継がれて、嘘・陰謀・謀略によって政治や裁判や社会が支配されていることに驚いた。金日成が「革命統一党」とい地下組織を通して、韓国の大学で学生や教授らを従北共産主義者に変えていった謀略も驚きである。その謀略によって、従北共産主義者の教授らが「反日」の教科書を捏造し、国民が「反日」に洗脳されたことを考えると、現在の日韓関係の悪化は全て金日成の謀略によるのであったのである。金大中・盧武鉉・文在寅と続く左翼政権は、完全に従北共産主義者の集団であり、大韓民国を潰して北朝鮮の金氏王朝のもとに統一することを目指している。

 池萬元が憂慮することは、韓国の従北共産主義者たちが「暴動」を「民主化運動」と偽って、大韓民国の真の自由・民主主義を潰してしまうことである。「朝鮮民主主義人民共和国」という国名にも関わらず北朝鮮の実態が正反対であるように、北朝鮮や従北主義者の言う「民主主義」は国民を欺すための謀略である。その謀略を阻止するために池萬元や李栄薫らが、従北共産主義者たちによって「反日」の教科書が捏造され、その教科書で教育された国民が「反日」に洗脳されているという事実を国民に理解させ、正しい歴史認識に基づく合理的・理性的な世論を形成することによって、真の自由・民主主義を目指す国にしようとして奮戦しているのである。

 思えば、第2次世界大戦後に分裂したドイツとベトナムは既に統一され、残るは韓国・北朝鮮だけになった。確かに朝鮮の人々にとって南北の統一は悲願であろうが、生活苦に耐えかねて脱北者を出すような北朝鮮の金氏王朝のもとに統一することは、絶対に朝鮮人の幸福にはなり得ない。また、一層「反日」が増幅されることになり、日本にとっても大問題である。池萬元や李栄薫らの努力が韓国の人々に通じて、韓国民が真実の歴史認識に目覚め、真の自由・民主主義の国として南北が統一されることを切に祈るばかりである。

 最後までお読みいただいたことに感謝します。          (以上)

コロナ後の世界

                            20208月 芦沢壮寿

 今年の4月に「コロナウィルスによる世界の変質」、6月に「日本のあり方と世界の行方」を書きましたが、今回はそれに引き続いて「コロナ後の世界」について書いてみました。これは、文藝春秋社が世界を代表する6名の知識人にコロナ後の世界と日本の行く末について問うたオンライン・インタビューをまとめて、最近、出版した「コロナ後の世界」をもとにして、それに筆者の考察を加えて書いたものです。

 今までの拙著では、今回のコロナ禍が全世界に大転換をもたらし、社会のあり方や生活の仕方が大きく変わることを述べましたが、今回は、それがどんな社会、どんな生活になるのかを、6人の知識人がそれぞれの専門分野から見た「コロナ後の世界」をもとにして考えてみることにします。6人の専門分野は、生物学・生態学、AI、人材論・組織論、心理学、経営学、経済学などと多岐にわたりますが、「コロナ後の世界」の捉え方が非常にポジティブであることに驚きます。どうか明るい気持ちでお読みください。

 

独裁国家はパンデミックに強いのか  

 進化生物学、鳥類学、人類生態学の専門家であり、カリフォルニア大学の地理学者 シャレド・ダイアモンド教授は、独裁国家 中国の方が民主主義国家よりも感染症にうまく対応できるという一般的な見解を否定し、独裁国家だからコロナ発生の情報を隠蔽し、パンデミックを招いたと指摘している。ダイアモンド教授は、今回のパンデミックが人類史上で初めて国際社会の皆が一致して脅威だと認めたと指摘し、もし今回のコロナ禍が世界一丸となって取り組むチャンスとなれば、今後の地球温暖化や資源(森林、農産物、漁業資源など)の枯渇問題に対する「世界的協力体制」への道が開けると言っている。

 ダイアモンド教授は、2002年のSARSが野生動物市場で売られていたハクビシンが原因であったにもかかわらず、中国がその教訓を無視して野生動物市場を野放しにしてきたことが、今回のパンデミックを引き起こしたと推測している。パンデミックになったのは、中国が情報を隠蔽している間に新型コロナウィルス感染者が飛行機で世界中にウィルスをばらまいたからだという。

 生物の遺伝子による進化の目的は「種の増殖」にある。生物ではないウィルスは、生物から遺伝子を取り込んで増殖する仕組みを獲得した。ウィルスは、生物の体内で増殖し、体外に大量に吐き出させることによって増殖する。エボラウィルスは、致死率が8090%と非常に高かったが、感染者がウィルスをばらまく前に死んでしまったので、世界的な流行にはならなかった。コロナウィルスは致死率が2%ほどで、感染が拡大しやすいためにパンデミックになった。2%でも全世界では154百万人の死者が出ることになる。

 ダイアモンド教授は、日本について次のようにアドバイスしている。2050年に日本の人口が9千万人にまで減るという予測は、日本にとってむしろアドバンテージである。人口が減れば、それだけ必要な資源が減り、日本国内で持続可能な経済に近づける。高齢者が多くなるが、日本の高齢者の健康状態は最高に良いので、若者への負担が他国に比べれば少ない。問題は、高齢化ではなく、定年退職制度にある。米国でも30年前までは定年退職制度があったが、今では一部の職業(パイロットなど)を除いて違法となった。70歳を過ぎてもクリエイティブ(創造的)な人は多くいるし、むしろ70歳を過ぎて創造性の絶頂期を迎える人を引退させることは悲劇である。

 また、少子高齢化は世界的な傾向であるが、他の先進諸国は若い移民を受け入れて対応し、それが国の活力になっている。日本は、移民を抑えて日本人の均質な社会を維持しているが、そのために病院などのヘルス・ワーカーや保育サービスで圧倒的に人手不足になっている。日本でも女性を家庭から解放して、教育レベルの高い女性が社会で働けるようにするために、もっと移民を増やした方が良い。

 

AIで人類は強靱になれるか

 AIと人間の共存をテーマにして、未来の様々な可能性を追求しているマサチューセッツ工科大学のマックス・テグマーク教授は、ワクチンや抗ウィルス薬の開発で効果と副作用を調べるのに時間がかかっている現状の試験方法について、将来は試験をAIのシミュレーションによって短時間で行えるようになると言う。そのメカニズムは、次のようなものである。多くの薬が細胞にある「受容体」という蛋白質と結合することによって何らかの効果を発揮する。そこで、受容体とうまく結合できる蛋白質の立体構造をつくる遺伝子配列をAIのシミュレーションによって推測するのである。そして、その遺伝子配列に合成された遺伝子を使って受容体とうまく結合できる蛋白質を作り、新薬の開発を早めようというのである。

 囲碁のAI「アルファゼロ」は、完全に全世界のプロ棋士よりも強くなった。以前の囲碁のAIは、人間が打った昔からの対局データを入力して学習させていたが、DeepMind社が開発したアルファゼロは、囲碁のルールを覚え込ませただけで、後はAI内で自己対戦を繰り返すことによって、独学で強くなったのである。これはAIにとって画期的なことである。従来から、「ビッグデータを所有する者がAIを制す」と言われてきたが、そうではなくなる可能性が出てきたのである。

 現在のAIは、囲碁、翻訳などの用途に限定された「特化型」のAIである。これに対して、人間の知能のように、様々な用途や場面に応用がきくAIを「汎用型」(AGIArtificial General Intelligence)と言う。AGIは、自分で知識を獲得する自立性があって、状況を読み解いて推論する能力がある。AGIが実現可能かどうかは研究者によって異なるが、テグマーク教授は将来のある時点でAGIが実現することは間違いないと見ている。しかし、現状ではAIを開発している企業のうちDeepMind社だけがAGIを目指していて、他の企業は「特化型」を目指している。

 中国は、国家主導で大量の個人データを蓄積し、ビッグデータとして活用することでAI技術発展の先頭を走っている。アリペイなどの支払システムや健康コードを使った医療データベースなどでは、確かに先進諸国に先んじている。それは、現在のAIがアルゴリズムを形成するのに大量のデータを必要としているからである。しかし、今後、AIのアルゴリズムが人間のレベルに近づいてくれば、膨大なデータを与えなくてもアルゴリズムの形成が可能になる。例えば、AIに犬と猫の違いを学習させようとするときに、今は1万枚もの犬と猫の写真を学習させる必要があるが、AIの学習アルゴリズムのレベルが人間の5歳児ほどのレベルになれば、犬と猫の写真を1枚ずつ与えれば、犬・猫の認識・識別ができるようになる。これは、5歳児の知能に「犬」、「猫」という概念(物事の本質的な特徴と他の物事との関連性)を認識・識別する学習アルゴリズムができているからである。AIでも、概念の学習アルゴリズムができれば、学習するデータが少なくても認識・識別ができるようになる。そうなると、「データは新しい石油」ではなくなり、ビッグデータを持つ中国のアドバンテージはなくなっていくことになる。

 テグマーク教授は、AGIの開発について次のように述べている。AGIこそが人類の進化の行き着く最終到達点であり、一度AGIが完成すれば、その瞬間からテクノロジーの発展は我々の手から離れ、AGIによって行われるようになる。つまり、その時点で人間は地球上で最も知能の高いという地位をAGIに明け渡すのである。

 そうなると、AGIが間違えれば「人類の終焉」を引き起こすことになる。テグマーク教授は、そうならないようにAGIを開発する方法を次のように提唱している。まず、AGI開発の戦略や倫理基準を早く定め、AGIを開発し利用する際に「越えてはならない一線」を明確にルール化する。そのルールとして、AGIは「人間と同じ価値観を持ち、人間を大事にする」ことを規定しておくのである。こうした「越えてはならない一線」を引くという方法は、1960年代後半に「生物兵器」の危険性が問題になったときに、70年代に生物学の研究に対して「生物兵器開発を国際的に禁止する」ことを規定して成功した事例がある。

 

ロックダウンで生まれた新しい働き方

 人材論・組織論の権威として知られ、「人生百年時代」の提唱者のリンダ・グラットン教授(ロンドン・ビジネス・スクール)は、新型コロナウィルスのパンデミックを機にデジタル・スキルの加速度的な向上が起きていることから、今回のパンデミックが社会を良い方向に向かわせる積極的な機会として捉えることを提唱している。

 今、人類の平均寿命は、10年ごとに2年ずつ延び続けている。先進国では、10年ごとに3年延びていて、「人生百年時代」はもう始まっている。そうした社会では、「健康を保ちながら歳を重ねること(healthy aging)」が最も重要なテーマとなる。そうした長寿社会は、「より長く働く社会」にならなければならない。長寿をポジティブに捉え、働きたいと感じている高齢者に、その機会を与える社会にすることである。

 これまでの社会では、人生が教育・仕事・引退後の3つのステージに分かれていた。今後の社会では、画一的な生き方が時代遅れとなり、人生がマルチ・ステージ化していく。それに合わせて、企業は社員の働き方に柔軟性を持たせ、裁量権を与えていかなければならない。組織的にも、年齢構成がばらばらな組織や、年下の経験者が年上の人に教えるようになる。こうした組織の方が仕事がうまくいき、ポジティブな結果を生むという研究結果が出ている。

 日本についてグラットン教授は、労働時間や生産性で他の先進国から遅れていたが、パンデミックによって半ば強制的に「働き方改革」を成し遂げる絶好の機会を得たと指摘している。それが実現するかは、企業側のチャレンジ次第である。とはいえ、在宅勤務するのに、東京の狭い一戸建てやマンションに住んでいる住宅事情では難しい。地方に高性能ブロードバンド環境を整備して、東京の一極集中を緩和する契機と捉えるべきだと言う。

 日本は、OECD(経済協力開発機構)加盟国中、女性の管理職と取締役会に占める割合が下から2番目で男女の賃金格差が3番目に大きい国であることが大きな問題である。その根本に、結婚に対する日本の伝統的な価値観(=夫は一家の大黒柱として働き、妻は家を守るもの)に基づく「男女分担制度」と「終身雇用制度」がある。これらの制度は、出産によってキャリアが中断される女性にとって圧倒的に不利であり、不平等な制度となっている。そのために、日本の女性たちは結婚に尻込みし、実際に結婚してもうまくいかず、離婚率が35%にまでなっている。今後の人生百年時代に時代遅れになってしまった制度を日本は急いで改革しなければならない。

 今後の人生百年時代の社会、AIなどのデジタル・テクノロジーが進化してロボットやコンピュータ・システムが人間の仕事を代替していく社会で「強み」となるのは、従来のような有形資産ではなく、「無形資産」である。自分のスキルやキャリアにプラスとなる人間関係や会社・組織に依存しないで、社会から求められる人材であり続ける「生産性資産」、家族や友人を持ち、肉体的・精神的な健康を持続する「活力資産」、時代の変化と自分の加齢に対応していける「変身資産」の3つの無形資産である。今後は、この3つの無形資産を得るために、人生を通して絶え間なく学び続ける姿勢が必要になる。ロボットやAIより人間が優れている点は、共感力・創造力・理解力・交渉力といった「人間らしい力」であるが、こうした力は、むしろ長い人生経験を持つ高齢者の方が優れており、人生百年時代の長寿社会はデジタル社会とうまくマッチする。

 一方、今後の社会に求められることは、社会のリーダーが現在の状況や今後の対処方針を国民や従業員に詳しく説明する「透明性」、皆で一緒になって協力し合いながら未来を築いていく「共同創造」、ロックダウンや自粛生活に耐える「忍耐力」、それに、肉体的な健康と精神的な健やかさを維持していく「平静さ」の4つの要素が特に重要になる。

 

認知バイアスが感染症対策を遅らせた

 進化心理学の第一人者でハーバード大学の心理学者 スティーブ・ピンカー教授は、社会で起きている最悪のことを選んでニュースとして報道するジャーナリズムが人々の社会認識を誤らせていると指摘する。認知心理学では、人は危険が起きる確率を、客観的な統計やデータよりも、よく聞くニュースや身近なイメージにもとづいて判断することが知られている。これは、「利用可能性バイアス」と呼ばれ、メディアが流す悲観的なニュースによって、人々の認識にネガティブなバイアス(偏り)が生じることが原因となっている。この認知バイアスは、しばしば人々を誤った結論に導く。多くのジャーナリストは、社会の現状をネガティブな内容で報道して、人々に行動を起こさせることが責務だと思っているが、ジャーナリズムの本来の責務は人々に社会の正確な状況を伝えることにある。報道ニュースには、もっと歴史的・統計的な視点に立った解説を付けるべきだとピンカー教授は主張する。そうしないと、自分たちの努力が失敗の連続だと思うようになり、無力感・宿命論・諦めに襲われる。2010年代以降に起こったポピュリズムやナショナリズムは、自国の窮状を打破できないという厭世観が原因となっている。ピンカー教授は、著書『暴力の人類史』(2004年)の中で、データをもとにして、暴力が人類史を通じて確実に減少してきたことを実証したことで知られる。一般の人々が思っているイメージとは違って、人類史の真実は、暴力化ではなく、非暴力化の歴史であったというのである。

 ピンカー教授は、今回のコロナ禍をポジティブに受け止めるべきだと主張する。まず、今回のコロナ禍でポピュリズムが否定され、医療・公衆衛生・生物学の専門家による免疫的な対策と経済面との対応を調整する政治の重要性が確認された。また、ナショナリズムが再燃する中にあって国際協力の重要性が確認され、今後のパンデミックや地球温暖化対策で国際的な協力に希望が持てるようになった。パンデミックに対する国際的な協力としては、感染症を報告するネットワークの整備、大規模な検査システム、ワクチン、抗ウィルス薬の開発などで協力することである。

 地球温暖化の解決方法と今後のデジタル社会への対応についてピンカー教授は次のように述べている。アジアやアフリカの貧しい国が今後、発展するには、エネルギー無しでは不可能であり、温暖化ガスの排出が増えることもやむを得ない。その代わりに、我々が世界にもっと安価なクリーンエネルギーを提供できるように、新しいテクノロジーへの投資を増やすべきである。その中には原発も選択肢の1つになる。次世代の原子炉はモジュラー式で冷却システムも改善されて安全になる。

 AIが多くの職を奪うことを不安に思っている人が多いが、大量失業は発生しない。古い仕事の代わりに必ず新しい仕事が生まれるからである。また、AIが暴走して人類を支配するようになるという心配も誤りである。AIは人間のツールであり、「人類に危険なシステムを作らない」という倫理を守って開発すれば、人類の生存が脅かされることはない。

 

新型コロナで強力になったGAFA

 ニューヨーク大学スターン経営大学院のスコット・ギャロウェイ教授は、インターネットの検索エンジンの90%以上を占めるグーグル、iPhoneなどのIT製品メーカーのアップル、SNSによる人々の新たなつながりを作ったフェイスブック、eコマースのアマゾンの4IT企業( GAFA)が、新型コロナを機に一層強くなると予測する。GAFAの成功の鍵は、人間の脳・心に直接アプローチするビジネスにある。GAFAは、顧客の数が増えれば増えるほど事業価値が高まる「ネットワーク効果」によって、強固な独占状態を築いた。その結果、米国でも新しい企業が市場を開拓する余地がなくなってきて、20年前に1年以内のスタートアップ企業の割合が15%であったのが、現在では7%に届かなくなり、イノベーションが抑制される状況になっている。

 フェイスブックのビジネス・モデルは、広告収入を収入源とするメディア企業である。しかし、ユーザーの投稿をコントロールするアルゴリズムは、投稿内容の良し・悪しを問題とせず、ユーザーの間に広く「つながる」ことを優先する。「つながり」を検知すると、フェイスブックにとって良い記事だと判断して、さらに人の目に触れる機会を多く与えるようなアルゴリズムになっている。「つながり」を促す一番の要素は「怒り」であるから、対立と怒りを煽る投稿が多くの「つながり」を持つことになる。そのために、少数派の人のネガティブな内容が炎上して物議を醸すことになる。つまり、「怒り」と「つながり」を求めるアルゴリズムとビジネス・モデルがフェイクニュースを生み出し、社会を分断している。ギャロウェイ教授は、科学や客観的事実に基づかない荒唐無稽な主張にアピールの場を与えるべきではないと主張する。これは、「言論の自由」の問題ではないのである。

 フェイスブックのアルゴリズムは、ユーザーの政治的な好みを見極め、その考えを支持する記事が例え虚偽の内容であってもユーザーに勧める。さらに、反対陣営の印象を悪くするデータも提供する。その結果として、社会が分断され、社会の二極化が進む。こうした状況にフェイスブックは、「我々は、メディアではなく、プラットフォームだ」と主張し、フェイクニュースやヘイト活動家の発信内容に対する社会的責任を回避している。フェイスブックのザッカバーグCEOは、国家や国際社会に全く関心がない。ギャロウェイ教授は、ザッカバーグを「世界で最も危険な人物」と断定している。

 GAFAが何十億人もの生活の価値を高めていることは事実だが、彼らには社会貢献をするという意識が全くなく、金儲けだけが目的である。今、SNSを使用する十代の子供たちの間で鬱が増加している。ソーシャルメディアが子供たちに不安や劣等感を煽ることが原因だという。

 今、世界にインターネットが2つある。1つは米国のインターネット、もう1つは中国のインターネット(Great Firewall)である。そして、米国のインターネットをGAFAが牛耳っていて、中国のインターネットをBAT(検索エンジンのバイドゥ、IT企業のアリババ、SNSのテンセント)が牛耳っている。GAFABATがぶつかり合う場所は、アフリカやインドになるだろう。中国は、初めはGAFAを受け入れたが、知的財産を奪ってからは中国市場から追い出し、GAFAを真似して起業したBATが中国市場を独占するようになった。

 ギャロウェイ教授は、GAFABATのインターネット事業に続いて繁栄するのは「ヘルスケア」だと言う。その理由は、ヘルスケアの進化が、病気の治療で入院している時間や老後に寝たきりで過ごす時間の無駄をなくしてくれ、その時間を他のことに使えるからだと言う。

 ギャロウェイ教授は、日本の問題点として、もっと失敗を許し、リスクを恐れないで起業する文化を認めるべきだと言う。米国に世界中から優秀な技術者やアーチストが集まってイノベーションを起こしているのは、米国に失敗とリスクを許し、イノベーションを受け入れる文化があるからである。

 

景気回復はスェッシュ型になる

 2008年にノーベル経済学賞を受賞し、マサチューセッツ工科大学、スタンフォード大学、プリンストン大学で教鞭をとり、現在はニューヨーク私立大学大学院センターで教えるポール・クルーグマン教授は、今回のパンデミックによる景気後退の原因を、経済が一時的に「人工的な昏睡状態」に陥っているからだと言う。そして、景気回復がスウェッシュ型(ナイキのロゴマークのようなカーブ)になって遅れるのは、そもそも新型コロナの流行する前から世界経済の行方に不透明感が増していたからだと言う。

 金融緩和やインフレ目標を提唱する「リフレ派」で知られるクルーグマン教授は、大型のコロナ経済対策を主張し、国の借金は問題ないと言う。金利が成長率よりも低ければ、最終的にDGPに対する借金の割合は徐々に減っていくというのである。これから感染拡大が地方の貧しい地域に広がり、都会より感染のスピードが遅くなると、感染期間が延びて被害が増えていき、都市と地方の格差問題が浮き彫りになる。しかし、早まった経済活動の再開は、感染者の急増をまねき、裏目に出る。

 クルーグマン教授は、ダイアモンド教授と同じように、新型コロナ流行の当初、中国が嘘をついていたこと、それに騙されたWHOも国際機関としての機能を果たせず、対応が遅れたことが最悪のパンデミックを招いたと言う。もし情報がWHOに早く入って、米国のCDCに知らせていれば、中国の武漢に研究員を派遣して感染拡大を止められたかも知れないと指摘する。

 日本についてクルーグマン教授は、201910月に行われた消費税率の引き上げは、すべきではなかったと言う。消費税率を上げるだけでは税収の増加にはつながらない。日本は、人口が減少に転じ、家計貯蓄率が高く、個人消費が伸びていない状況下で、消費増税によって緊縮財政に踏み出してしまった。日本のインフレ率の低迷は、企業が賃金を上げないこと、モノの価格を上げたがらないことに原因があるのであった、金融政策だけでは限界がある。

 それでも日本は、世界でも有数の「プロダクト・エコノミー(良品を生産する経済)」を形成していて、世界中の人々はまだ良質な日本製品を欲しがっているから、日本経済が急激に悪くなることはないと言う。

 日本と同じ構造的問題を抱えるEUは、独自の政府を持たないために、日本より深刻である。今回のパンデミックでEUは予想以上の被害を受けた。そうした中で、EU全体をまとめて財政出動の拡大を主導できるのはドイツしかないが、緊縮財政を長く続けて独自の知的世界に生きるドイツは、苦境に陥ったEU諸国を助けようとしない。ドイツもEUの問題児である。

 米中貿易戦争では、中国の対米輸出額が思ったほど下がらず、米国の消費者が中国に課した関税を払い続ける羽目になった一方で、米国から中国への輸出額は大きく下落した。トランプ大統領は敗北を喫したのである。一方の中国もGDP伸び率が前年比6.0%となり、27年ぶりの低成長に落ち込んだ。結局、米中貿易戦争の勝者はいなかったのである。

 今回のパンデミックで最も大きなダメージを受けたのは米国であった。米国がロックダウンを2週間早く始めていたら、死亡者数が54千人少なくなったと言う。感染者の数が少ない時点でロックダウンに踏み切っていれば、感染拡大の規模が小さくてすみ、ロックダウンをもっと早い時期に解除できたというのである。

 クルーグマン教授は、トランプ大統領の保護主義貿易政策が米国経済に害をもたらしたことは、厳然たる事実だと言う。米国民の中に心の底から保護主義を望んでいる人はいない。企業が設備投資を抑制する要因は、トランプ大統領の保護主義によって生まれた先行き不明な経済状況にあると言う。

 今年の525日に起きたアフリカ系米国人の男性が白人警官に殺害された事件について、クルーグマン教授は、追記の中で次のように述べている。

 『米国を愛し、その将来を期待する人々にとって、今は悲しみのときです。思わず涙に暮れてしまう人々を知っていますし、そうでない人たちは放心状態で歩きまわっています。……やればできるはずの国家がパンデミックに対処できない国になり、自由世界のリーダーが国際社会の破壊者となり、近代デモクラシー誕生の地が独裁主義を志向する者に支配されています。なぜ、全てがこんなに早く間違った方向へ行くのでしょうか。私たちは答えを知っています。ジョー・バイデンが言うように、「奴隷制度の原罪が、私たちの国を今、汚しているのです」……』。

 以下にクルーグマン教授の追記の残り部分の概要を示す。現在、米国が国民皆保険になっていないのは、過去に人種隔離主義者が人種統合病院の設立を阻止したこと、かつての奴隷州が医療費負担適正化法の適用拡大を拒否したからで、いつも人種問題が国民皆保険の障害になってきた。人種隔離主義者は「その制度の受益者は自分たちとは違う、あの人たちだ」と考えてきた。しかし、今、白人警官による黒人殺害事件に抗議するデモに参加する白人が全米で増えて、状況が変わりつつある。白人と黒人の結婚を認める白人は、1967年に17%、1980年に38%であったが、2013年には84%になった。トランプを大統領にしたのは、人種的なを持った人々であった。トランプほど知性的にも道徳的にも大統領の仕事に向いていない人物を思い浮かべることは難しい。クルーグマン教授は、追記の最後で「私たちは危機を乗り越えられるでしょうか。正直なところ、私にはまったく自身がありません」と述べている。

 

あとがき

 ここでは、6人の知識人の「コロナ後の世界」の見立てを総合して、筆者の見解を述べたい。まず、6人のうちダイアモンド、グラットン、ピンカーの3教授が、今回のコロナ禍を経験して、今後のウィルス対策や地球温暖化対策で「世界的協力体制」への道が開けることに希望と期待を抱いている点に注目したい。それは、希望・期待というより、そういう方向に世界を向かわせる絶好の「チャンス」だと捉えていると筆者は考える。今回のコロナ禍を機に米国や西欧の市民の間で医療関係者に対する感謝の気持ちと、協力し合う機運が高まったこと、パンデミックを乗り切るには世界的な協力が必要だという認識が深まったことから、人類は、世界を、国を、社会を良い方向に向かわせる絶好のチャンスを手に入れていることに着目したと推察する。

 しかし、クルーグマン教授が指摘するように、世界的協力をリードすべき米国が人種対立で国内が分断されて、人種的敵愾心が保護主義・米国第一主義を進めるトタンプ大統領を生み、米中対立が激化し、自由・民主主義国間の協調にもヒビが入っている。

 世界を欺して世界一を目指してきた中国は、裏切られたことに気づいた米国を完全に怒らせてしまい、周辺国や世界からも警戒され、おまけに新型コロナの発生源となって、苦境に立たされている。そうなった中国の根本的な原因は、中国伝統の中華思想の世界を復活させようとする「中華」の夢にある。共産党独裁政権は、この現代世界にあって古色蒼然として独善的な「中華」の世界を追い求めている。それが中国を狂わせているのである。

 日本は、生涯を一つの会社で尽くす「終身雇用制度」や、男が外で働き、女が家庭を守る「男女分担制度」が美徳とされてきた。しかし、少子化が進んで人口減少に転じ、人生百年時代の長寿社会に向かう「コロナ後の世界」では、こうした制度が社会の改革を妨げる根本原因となっている。

 さて、上記の米国・中国・日本で根本的な問題になっているのは、それぞれの国に固有の「文化」である。文化は、それぞれの国の歴史を通して育まれ、人々の生活や行動の基準となってきたものであるから、これを修正することは非常に難しい。ところが、「コロナ後の世界」では国際的協力や社会的協力をするために支障となる文化を修正しなけれならない。今回のコロナ禍は、通常では難しい「文化の修正」を実行する絶好のチャンスとなるのである。

 コロナ後のデジタル社会では、GAFAの独占問題やフェイクニュース・ヘイト投稿などを放置しておけない。テグマーク、キャロウェイの両教授は、コロナ後の世界でこうした問題を解決し、AIに支配されることなく、人類全体にとって良い社会に向かうチャンスが与えられていると言う。

 以上のように、コロナ後の世界では、現代社会に蓄積されてきた諸々の問題を解決するチャンスとなる。このチャンスをうまく生かせるかは、これからの国際社会、国、社会にかかっている。

 最後までお読みいただいたことに感謝します。          (以上)

日本のあり方と世界の行方

                   20206月 芦沢壮寿

 

 新型コロナウィルスの流行が始まってから半年がたちました。その間、流行は拡大し続け、今や中南米、インド、アフリカの貧困層の多い地域に拡大し、人類にとってこれからが本当の正念場と言えます。筆者は4月に「コロナウィルスによる世界の変革」を書き、今回は「日本のあり方と世界の行方」と題して、1.新型コロナウィルスの新しい情報、2.米中の新冷戦、3.日本の進むべき道、の3点について考察し、最後に4.あとがき 新しい社会を目指して、で筆者の考えをまとめてみました。前回に引き続き今回も、問題の本質を捉えてポジティブに書いてみました。どうか明るい気持ちでお読みください。

 

1.新型コロナウィルスの新しい情報

・新型コロナウィルスが重篤化する原因

 新型コロナウィルスは、重篤な合併症を起こし、治療が長期化し、後遺症のリスクがあることが分かってきた。そうなる原因として、ウィルスが血管に侵入して形成する「血栓」と免疫システムが正常な細胞まで攻撃してしまう「免疫暴走」(サイトカイン・スト−ム)の2つがある。「血栓」は、ウィルスが血管の内部を覆っている内皮細胞を攻撃することによって発生する。その攻撃は、心臓、脳、腎臓などの臓器で起き、ICUに入った患者の31%で血栓に伴う合併症が見られた。「免疫暴走」は、新型コロナウィルスが免疫システムに攻撃命令を出し、臓器や血管を傷つける症状である。重篤化しない場合でもPCR検査で陰性になった後の後遺症として、呼吸器疾患や倦怠感、目が痛くなり断続的な頭痛が3ヶ月以上も続くことがある。血栓の形成や過剰な免疫反応を引き起こすメカニズムはまだ解明されていない。

 

・ウィルス検査の新しい手法の開発

 ウィルス検査には「現在の感染の有無」と「過去の感染の有無」を調べる2種類があり、前者にはPCR検査とウィルス特有の蛋白質を検出する抗原検査、後者には抗体検査がある。前者の新たな手法として、タカラバイオの米国子会社が2時間弱で最大5184件を検査できる手法を開発した。これは従来のスイス製薬大手ロシュのPCR検査(24時間で最大4128件)の14倍の性能になる。やはり前者の手法として、日大と東京医科大学が開発したSATIC法(新型コロナウィルスのRNAが試薬中の環状DNAと結合すると変色する反応)を使い、92℃で約2分間加熱した被験者の唾液を試薬に入れると2030分で結果が出る検査キットを塩野義製薬と共同で開発することになった。この検査キットは、専門技師が不要で、被験者自身がとった唾液を約30分で検査できる。この検査キットが実用化(今秋予定)されれば、海外往来の再開に空港で入国者全員のウィルス感染の有無を検査することが可能となる。

 53日にロシュは、新型コロナウィルスの抗体検査薬が米食品医薬品局(FDA)から緊急使用許可を得たと発表した。当検査薬は1時間当たり最大300人の測定が可能で、998%の精度で抗体を確認できる。従来のイムノクロマト反応の簡易検査キットは精度が高くないために、経済活動再開の判断が難しかったが、ロシェの開発した抗体検査薬により判断がしやすくなる。

 

・新型コロナウィルスの感染状況と第2波抑制策

 619日時点で新型コロナウィルスの新規感染者が世界全体で1日当たり15万人を超えた。その8割が新興・途上国になり、先進国は4月上旬をピークにして減少傾向にある。しかし、世界全体としては新規感染者が急増しており、しかも、貧困層の多い新興国に感染が拡大していることから、今後は世界全体としての対処方法が問題となる。新規感染者ではブラジルが米国を抜いて最も多くなり、新興国の5割近くを中南米が占めている。中南米カリブ地域では全人口の347%が貧困ライン以下で、生活苦による国民の不満の高まりから、感染拡大中にもかかわらず経済活動の再開を急いでいる。ブラジルのボルソナロ大統領は市民に外に出て働くように呼びかけ、感染拡大が止まらない。

 これから冬期を迎える南半球は湿度の低下とともにコロナ感染者数が増大し、感染拡大の長期化が懸念される。シドニー大学の研究者によると、湿度が1%低下するとコロナ感染者数が6%増えるという。

 インド、ロシアでも新規感染者が拡大し、中東、中国では第2派が起こっている。インドは1万人前後の増加が1週間以上続き、累計感染者が620日時点で世界4位の40万人を超えた。にもかかわらず、インドでも経済再開に踏み切り、一段の感染拡大が懸念される。中東のイランやサウジアラビアでは、春先以降のピークを上回る感染第2波が襲っている。

 今までの各国の感染状況(人口10万人当たりの新規感染者数)と各国政府がとった感染抑制策の厳しさの程度(外出自粛要請を初動として、都市封鎖にいたる経済制限を評価した経済制限指数)との関係を調べてみると、初動が早かった国ほど感染抑制に成功し、経済活動を制限する期間が短くてすむことが分かった。従って、第2波を抑制する要点は初動を早くすることである。

 各国を成功グループと失敗グループに分けると、韓国、タイ、日本などの成功グループは、初動時点の新規感染者数の平均が045人であったのに対して、英国、米国、イランなどの失敗グループは同067人であった。初動時点の新規完成者数が076人であった英国は3ヶ月近くになる今でも経済活動の再開ができない。日本は、初動時点で同001人であり、経済制限指数は極端に低いのに新規感染者数が04人台をピークに減少に向かった。これは、企業や個人が自主的に素早く行動したからだと考えられる。

 専門家は、経済制限策として「外出自粛」と「職場閉鎖」が最も効果的で、同じ制限策でも、高齢者人口比が高く、平均気温が低く、人口密度が低いほど効果が高い傾向があり、マスク使用は感染リスクを60%低下させると言う。

 コロナ第2波に備えて、各国で「コロナの簡易検査」、「肺の画像診断」、「重症化予測」、「流行予測」などに人工知能(AI)を活用する研究が進んでいる。日本でも大阪大学(谷口正輝教授)で検体を半導体チップに流し込み、ウィルスの種類によって変わる電流のパターンをAIで分析する研究を進めている。しかし、日本は、米欧・中国と比べて、コロナの医療現場でのAIの活用が遅れている。その原因は、AIの知識をもつ人材が少ないこと、問題点やリスクを恐れてAIの利点を活かそうという積極性がないからである。コロナ危機の克服には、新しい技術を取り入れる勇気とスピード感が要求される。

 

・接触検知アプリの普及と実効性

 スマートフォンでコロナ感染者との接触を検知するアプリが3月にシンガポール政府によって開発され、既に40カ国以上で導入された。そのアプリは、スマホ同士の近距離無線機能「ブルートゥース」を使う。アプリを入れたスマホが数メートル以内に近づくと自動的に接触データが蓄積される。

 アップルとグーグルが共同開発し、政府が関与しないようにプライバシー保護を高めた技術が520日から各国の保険機関に公開され始め、日本を含む23カ国で導入中である。その技術では、感染者が出ると、その感染者と過去2週間以内に接触(1メートル以内で15分以上接触)したスマホだけに通知がいく。このアプリが感染防止に有効となるのは、アプリの普及率が6割以上になる必要があるという。今までにアプリが6割以上普及した国はない。

 中国では、アリババとテンセントが開発した「健康コード」というアプリを使っている。施設や店に入る時にアプリを起動してQRコードを見せると、スマホ所有者の感染状況が、赤色は「感染」、黄色は「濃厚接触の疑い、または隔離が必要」、緑色は「問題なし」というように表示される。アプリの利用は強制ではないが義務となっている。黄色は、診察履歴や監視カメラの情報、GPSの位置情報と組み合わせて判定される。

 

・新型コロナウィルスの発生源について

 新型ウィルスの感染拡大が既に昨年の秋(9月中旬〜12月上旬)には始まっていたという分析結果が英国のロンドン大学(UCL)とケンブリッジ大学で出た。中国は武漢市で2019128日に最初の患者が出たと発表してきたが、それより前に広東省などの別の場所で新型コロナ感染が発生していて、欧米に拡大していたというのである。その分析は、中国・欧米の患者7500人超から採取したウィルスのゲノムに残る変化の過程から、感染拡大の発生時期を割り出したのである。ウィルスは、感染した細胞で自らを複製する際に一定の割合で遺伝情報にわずかな変化が起きで受け継がれていく。各地で見つかったウィルスのゲノムを調べることによって、感染経路と感染時期が推定できる。

 

2.米中の新冷戦

・米中新冷戦の構造

 米国にトランプ大統領が登場してから、米中の新冷戦が顕在化した。それまでの米国は、中国にだまされて「いずれは中国が民主化する」と信じて、中国経済の成長を助けてきた。一方の中国は、先進諸国の中国市場への参入に、したたかな条件や要求を押しつけ、もし中国の意に反すると中国との取引や市場から排除すると言って脅してきた。トランプ大統領が登場し、自国第一主義を掲げて対中政策を完全に「反中」に転換した。しかし、日本、ドイツ、フランスなどの同盟国にも自国第一主義を押しつけ、分断のリスクが生じている。

 今回のコロナ禍を機に、米中の新冷戦の構造が見えてきた。それは、コロナ禍への対応を巡って、中国、ロシア、イラン、トルコなどの強権陣営と米国、日本、欧州、オーストラリア、インドなどの民主陣営の対立である。

 中国などの強権国家は、コロナ対策に強権を行使して当たったが、必ずしも強権がコロナ対策に有効ではなかった。強権国家は、コロナ禍に対する国民の反発を封じ込めるために強権を行使している。ロシアは中国の監視システムを導入して、強権体制を支える流れを加速している。

 台湾、韓国、ニュージーランドは情報公開と説明を徹底してコロナの制御に成功した。日本は私権制限に踏み込まず、結果的に感染爆発を回避することができ、世界から「ミステリ−」と言われた。

 コロナ関連の論文を巡って米中の対立が先鋭化している。米国の科学技術政策局の呼びかけで、米国、日本、英国、ドイツ、イタリア、カナダ、インド、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランドの10カ国により、米国アレン人工知能研究所が設けた「CORD-19」というコロナ関連データベースへの論文の集約が始まり、その後、韓国、シンガポール、フランス、スペイン、ポルトガル、アイルランド、スイス、EU8カ国が加わって18カ国になった。この枠組みには、米国が「中国よりだ」と批判する世界保健機構(WHO)が関与せず、中国・ロシアも加わっていない。

 米欧の有力企業が中国政府の「踏み絵」と米国の対中強行派の反発の間で苦慮している。ビデオ会議システム「ズーム」の運営会社は、中国政府の要請に応じて米国在住の人権活動家へのサービス提供を中止したが、米国の対中強硬派からの批判が高まることを恐れて、開発拠点を米国に拡充する方向で動き始めた。中国にとっても、強く「踏み絵」を迫れば、中国から撤退する企業が増えることになり、悩ましい問題となっている。

 米商務省は、米国製の製造装置を使った半導体について中国のファーウェイ向けの輸出を禁止した。これを受けて台湾のTSMCは、ファーウェイ傘下のハイシリコンから請け負っているスマートフォンCPU5G基地局向け半導体の製造を中止することにした。ファーウェイにとってTSMCとの取引は生命線であり、大きな痛手となる。TSMCの受注停止でファーウェイの5G版スマフォ開発が滞れば、日本や韓国のメーカーにも影響する。

 今回のコロナ禍によって米中の国内政治が流動的になってきた。ユーラシア・グループのイアン・ブレマーは次のように述べている。

 新型コロナの初動対応で情報隠蔽により感染が世界中に拡大する事態を招いた習近平政権に対する内外の反発が高まっている。中国国内では、習近平の2023年以降の続投が確実ではないという噂が政府内でも出ている。

 米国のトランプ大統領についても、初動の悪さが指摘され、民主党候補に確定したバイデン前副大統領に選挙戦のリードを許している。

 しかし、長期的に見ればコロナ禍で米中は他の国より強くなるとブレマーは指摘する。ウィルスと共生することが新常態となる社会では、最大の資源となるデータや技術を保有する企業の多くが米国と中国にあるからである。米ドルは今後も基軸通貨であり続け、中国は世界経済の再開に欠かせない存在となる。米国の未来学者 エイミー・ウェブは、米国のGMAFIA(グーグル、マイクロソフト、アップル、フェイスブック、IBM、アマゾン)6社と中国のBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)3社が世界のデータを掌握しているという。

 さて、米中の新冷戦で民主陣営が勝つためには、中国に対して民主陣営が団結して当たることが重要になる。孤立主義に傾く米国ではあるが、今年の大統領選挙で同盟国とも分断をいとわないトランプが勝つか、同盟を重視するバイデンが勝つかによって、民主陣営の団結の可能性が大きく変わってくる。

 

・脆弱さを露呈する習近平政権

 習近平政権は、新型コロナウィルスの感染拡大に対する当初の対応のまずさから国民の怒りを買い、世界の各国からも非難され、今、四面楚歌の状態にある。習近平権力の基盤は意外に脆弱であることが露呈した。

 習近平政権は、その弱みを国民から隠すためか、国外に対しては、南シナ海の島々への実効支配を強め、香港では民主化を求める指導者を逮捕し、香港国家安全法を香港に適用する方向に転換して「一国二制度」を実質的ににしようとしている。台湾にも脅しをかけている。一方、コロナ対策で苦闘する国々には支援を提供し、ソフトパワーの強化を図っている。

 しかし、今まで中国と協調してきた欧州諸国やオーストラリアは、中国の豹変に態度を一変させた。中国が広域経済圏構想「一帯一路」でユーラシアの覇権を狙っていることがになり、欧州先進国が警戒するようになった。中国の強行策は、かえって中国に同調してきた国を敵にまわし、国際的に孤立するリスクを生じている。

 中国では実体経済への対応をめぐって習近平首席と李克強首相が対立しているという観測が香港で出ている。李首相は5月の全国人民代表大会の演説で今年の成長目標を示さず、雇用への不安も隠さなかったが、習首席は強気の方針を示したかったという。

 世界銀行の予測によると、今年の中国経済の成長率は10%にとどまり、国際労働機関(ILO)の試算によると、農村も含めた実質的な失業率は20%を超えるという。これは、1970年代後半に改革開放が始まって以来の低水準である。今まで中国国民は、共産党の独裁政権が経済の高成長を持続してきたから共産党独裁を許容してきたが、経済成長が止まり、失業者が溢れるようになれば黙ってはいない。習近平政権は、雇用・国民生活・事業者数・食料とエネルギー・供給網・住民サービルの6つを保持する「六保」を掲げて、最悪の事態を回避しようとしいる。

 こうした状況を見ると、今回のコロナ禍で習近平政権が追い込まれていて、中国共産党がかつてない危機に瀕していることが分かる。中国は、「一帯一路」でもうまくいかず、世界に開かれた金融センターとしての香港の機能も失うことになれば、頼れるのは国内市場しかない。しかし、自由な経済活動を抑制してきた共産党には国内経済を復興させる知恵がない。

 今後、世界の国々が中国への損害賠償を求めるであろう。ドイツでも1600億ドルを要求すると報じられている。米国のミズリー州も州レベルで中国政府を提訴するという。フランスやオーストラリアなどは、中国の新型コロナ発生源や初期感染拡大について、訴訟の根拠になる徹底的な国際調査を求めている。こうした各国の中国に対する訴訟に対して、中国は全てを拒絶するであろうが、共産党政権の威信が傷つき、国民の支持を失うリスクは確実に増大するだろう。

 

・香港の「一国二制度」は国際約束か

 香港の「一国二制度」は、1984年に香港が英国から中国に返還されたときに、「返還から50年間は行政管轄権、立法権、独立した司法権を認め、基本的に現行法と変わらない」と中英共同宣言に記録し、それを香港の基本法で規定したことに始まる。中英共同宣言は、その時に条約として国連に登録された。国際法上の条約は、「国際約束」と呼ばれ、国際的に法的拘束力を持つ。

 ところが、中国は「香港国家安定法」を制定して、香港の立法権を侵害し、中英共同宣言の国際約束を破ろうとしている。これに対して、米英とオーストリア、カナダは深い懸念を表明し、「国連に登録された法的拘束力のある宣言に違反する」と主張している。

 米国は、2019年に「香港人権・民主主義法」を成立させ、2020年に「ウィグル人権法」を成立させて、「一国二制度」やウィグル人の人権が損なわれていると判断すれば制裁を科せるようにした。オブライエン大統領補佐官が5月に「もし、中国が香港を乗っ取れば、香港がアジアの金融センターの地位を守ることは困難だろう」と発言した。これに対し中国は、「香港のことは完全に中国の内政であり、外部からの干渉は許さない」と反発した。

 自由主義市場経済に基づく香港の金融市場は中国にとっても貴重な存在である。中国企業は香港を窓口に世界との投資マネーのやりとりをしてきた。海外展開の足掛かりに香港を使う本土企業が増えて、統括機能を香港に置く本土企業が19年に216社となり、5年間で2倍近くになった。香港経由で海外投資家が本土株に投資したり、本土投資家が香港株に投資したりする相互取引の額が右肩上がりに増大している。香港が没落すれば、こうした資金の流れが目詰まりを起こす。そうした事態を何とか避けたいのが中国の本音である。

 香港市民の間では「一国二制度」の崩壊への不安が広がっていて、海外移住を支援する会社に相談を寄せる市民が急増している。その移住先として台湾や日本を望む市民が多い。安倍首相は、東京を国際金融市場とするために、香港からの移住者を受け入れる姿勢を表明している。

 

・米国内で深まる分断

 525日、米国のミネソタ州ミネアポリスで逮捕された黒人ジョージ・フロイドさんの首に白人警官が膝を押しつけ、黒人が「息ができない」と訴えている様子を1人の少女が撮影していた。黒人は846秒にわたって押さえつけられ、その後病院に運ばれて死亡した。撮影された映像が世界中に発信され、全米で抗議デモが発生し、抗議の波が世界中に広がっていった。

 トランプ大統領は、29日にツイッターで、暴徒化するデモを「悪党」と断じ、抗議デモに米軍出動をほのめかすと、元統合参謀本部議長でアフリカ系の共和党重鎮コリン・パウエルがトランプの対応を「合衆国憲法から逸脱している」と批判し、大統領選でバイデンを支持することを表明した。

 今回のデモには多くの白人が参加していた。白人たちは、「自分たちが今まで黒人差別を放置してきたことに罪の意識を感じる」と述べ、白人たちのプラカードには「Black Lives Matter(黒人の命も大切だ)と書いてあった。

 今回の抗議デモの規模が従来になく大きくなったことから、企業の間にも「人種差別に沈黙していると共犯と見られる」という危機意識が広まり、対応を誤れば経営リスクを招くとの判断から、人種差別への反対を表明した企業が300を超え、黒人の採用増・地位向上などの対策を表明する企業も出ている。

 抗議デモの背景には、拡大する人種間格差の拡大と米国の警察内に伝わる人種差別の伝統がある。2018年の黒人の世帯年収(中央値)は41,400ドルで白人の67,000ドルの6割である。黒人は現場に出る最前線労働者が多く、コロナ死亡者は人口比で白人の2倍である。

 日系の論客フランシス・フクヤマは、米国社会における人種差別問題には「アイデンティティーの対立」があると言う。アメリカ合衆国を建国した白人たちは、白人としてのアイデンティティーを犯されることを恐れている。人種間でのアイデンティティーの対立を解決するには、米国人として新たな「統合の理念」を作らなければならないと言う。

 人種問題は、大統領選挙の勢力図を左右する。4050年代の大統領選挙では黒人が民主党候補に投票する比率が68割であったが、60年代のキング牧師の公民権運動を境に9割になった。民主党が黒人の就職優遇政策など少数派に有利な政策を進めてきたからである。大統領選挙でカギを握るのは、激戦州の黒人の投票率である。16年の選挙でも3つの激戦州で黒人投票率が5ポイント上がっていたらヒラリー・クリントンが勝ったという。

 今や米国は、党派を超えて米中対立を支持するようになり、第1次世界大戦以前の孤立主義(モンロー主義)に回帰している。トランプ大統領の「自国第一主義」は孤立主義への回帰を意味する。しかし、対外的には孤立主義でまとまっていても、国内では分断が深まっている。その分断は、人種差別の分断だけでなく、保守とリベラルの分断である。保守の共和党は「自助努力」を党是とし、自由な経済活動を求める。一方、リベラルの民主党は弱者保護を重視する。コロナ危機でも、感染拡大を防ぐ経済規制に90%の民主党支持者が賛成するが、共和党支持者は54%しか支持しない。経済活動の再開でも共和党地盤のテキサス州やサウスカロライナ州が先行する。

 白人の保守層を基盤とするトランプ大統領は、意識的にリベラル派との分断を煽っていて、連邦政府と民主党知事の州政府の間の対立が先鋭化している。連邦政府が議会を通さずに大統領令の行政権限で政策を強行し、州政府が提訴して阻止に動く傾向が強まっている。環境規制の緩和や移民制限などで州政府が大統領令の撤回を求めて提訴し、州政府が8割方勝っている。かつて米国は危機に対して超党派で協力するのが常であり、国と地方の協調が安定と繁栄を築いてきたが、そうした米国の強みが全くなくなってしまった。

3.日本の進むべき道

・コロナ対応で危うさを露呈する日本の統治機構の問題点

 日経新聞が連載した「検証コロナ 危うい統治」をもとにして、今回のコロナ禍で露見した日本の統治機構の問題点について考えてみる。

 まず、日本のPCR検査の実施件数が諸外国と比べて極端に少ない問題である。国内のPCR検査能力は1日最大28千件になったが実施数は1万件を下回った。その原因は、組織の防衛を優先して、現実の危機に対応することを阻む内向きな官僚たちの姿勢にあった。官僚たちは、前例や既存のルールにしがみつき、目の前の緊急事態に対処しようとしない。厚労省傘下の国立感染症研究所が117日に出した新型コロナの「積極的疫学実施要領」では、患者と濃厚接触者のみが検査対象とされた。それでは、今回の無症状の人からも感染する新型コロナでは通用しないことがわかり、検査体制への不満が広がった。すると、26日に「疑似感染者」を追加したが、各保健所は濃厚接触者に重点をおき、病院が対応可能な範囲内に収めることを優先して、PCR検査の実施を抑制した。そのために、経路不明の患者が急増することになった。

 こうした現実の状況を見ない感染症対策は、2009年のインフルエンザ流行時にもあった。厚労省は2010年にまとめた報告書で、反省点として「保健所の体制強化」と「PCR検査の強化」をうたい、「死亡率が低い水準にとどまったことに満足することなく、今後の対策に役立てることが重要だ」と指摘していた。しかし、実際は全く改善されなかった。

 さらに前を振り返って見ると、日本は同じ過ちを繰り返してきたことがわかる。バブル崩壊後の金融危機では、日本政府は不良債権の全容を過小評価し続け、金融システムの傷口を広げ、かえって復興を遅らせた。東日本大震災の復興でも、再開が困難な原発に固執して、原発をエネルギー政策の中心に据え続け、火力発電にこだわり、温暖化対策が進まなくなった。

 こうした失敗の原因は、現実に起こった重大事の本質を見ようとしないで、既存のルールにしがみつき、組織を防衛することを優先する官僚たち(官僚に限らず現在の日本人)の防衛本能にある。東日本大震災で多くの小学生の命が奪われた石巻市大川小学校でも、先生たちは迫り来る津波の危機を考えもせず、生徒たちを校庭に並ばせてルールどおりに避難させる事ばかりを考えていた。

 今の日本人は、既存のルールが現実の問題と乖離していることも知らずに、ルールを守っていれば安泰だと思い込んで、現実の実体を見ようとしない。そのために、社会全体にスピード感が失われ、諸外国と比べてITの導入や民間活力の活用による社会改革が大幅に遅れてしまった。

 今後、ウィルスと共生することが新常態となる社会を築くには、オンライン診察やオンライン授業などのデジタル化が欠かせない。NTTドコモは2018年にオンライン診察システムに参入したが、厚労省が医療機関に対面診療の維持などの厳しい条件をつけたことから医師の利用が広がらず、オンライン診察から撤退した。厚労省は、今回のコロナ禍で感染期間限定でオンライン診察を全面解禁した。米国・中国ではコロナ禍を機にオンライ診察が盛んになったというが、日本では日本医師会が開業医の既得権を守るために反対し、オンライン診察がほとんど行われず、今後の定着もおぼつかない。

 同じことが学校におけるオンライン授業でも起きている。教育委員会はオンライン授業の問題点ばかり挙げて反対し、文科省も敢えてオンライン授業を推進しようとしない。官僚ばかりか今の日本人は、既存のルールと既得権を守って今まで通りでいたい、変わりたくないという消極的な気持ちに支配され、新しいデジタル社会に改革していく気概がない。しかし、差し迫る現実は、コロナの第2波がくることは確実であり、オンライン診察やオンライン授業をしなければ、医療や教育を維持できなくなる。

 今回のコロナ禍で多くの企業が雇用を守るために雇用調整金(企業が従業員に支払う休業手当の一部を国が助成する制度)の申請をしようとした。しかし、申請の仕組みが複雑すぎて、65日時点で325億円しか支給されていない。米国は同様のことを4月初旬に開始して4日間で4兆円が利用され、英国では休業者に賃金の80%を支給する新制度を整え、既に27兆円が支給された。

 欧米では、早く支給することを重視し、事後に不正を正す発想であるのに対して、日本は、不正受給を防止するために社会保険労務士(社労士)に申請代行を依頼することを前提にして、国と社労士がもたれ合ってきた。その結果として、複雑な専門用語があふれた申請書類となった。ところが、今回は依頼が急増したことから労務士がギブアップしてしまい、申請が進まなくなった。

 このように日本の行政は、労働、税務、法務などの多くの分野で資格をとった専門家が介在し、専門家でなければ使えないシステムになっている。そして、官僚と専門家のもたれ合いがデジタル化による社会改革を遅らせてきた。

 日本でも約20年前の小渕・森内閣時代にIT戦略として「5年以内に世界最先端のIT国家を目指す」ことにしたが、現在、5万件以上ある行政手続きのうちオンライン化が完結しているのは75%に過ぎない。

 新型コロナウィルスで生活に困っている個人への救済給付は遅れが許されないが、1人当たり10万円の特別定額給付は、65日時点で世帯全体の28%しか給付されていない。韓国は、緊急災難支援金の給付にネット申請でカード会社を使ってクレジットカードにポイントを付与する仕組みを整え、始めてから2週間あまりで97%の世帯に給付された。

 特別定額給付対策を決める過程でも日米のスピードが全く違った。両国は3月上旬に検討を始めたが、米国では327日に現金給付を含む経済対策が議会を通過して成立した。日本で予算が成立したのは430日であり、日米で1ヶ月以上の差が生じた。その後の給付過程でも、納税にマイナンバーを使っている米国は、申請手続きが不要で、登録された銀行口座に自動的にお金を振り込むことで給付が完了した。カナダやスイスでも納税者番号をもとに、数日のうちに緊急融資を完了した。日本は、マイナンバーがあっても相変わらずアナログ的に申請手続きをしなければならず、未だに給付が完了していない。

 米国の国際NGOがまとめた世界の「財政公開性調査」で日本は「民間の知恵や活力を政策や行政に活用していない」と指摘しているが、日本の政策決定や行政手続きが極端に遅い原因はその辺にありそうだ。日本の政府・官僚が政策や行政を不透明な聖域としていて、予算を作る際の情報公開が不徹底なために、民間が政策や行政に関与できないのである。日本は、もっと行政の透明性を上げて、オープンにする必要がある。

 日本は、省庁縦割りで対応が遅れた阪神大震災の教訓から、橋本内閣が官邸主導の素地をつくり、社会の変化に素早く対応するために官邸主導の政治機構に改革してきた。東日本大震災では民主党政権下で指揮命令が混乱したことから、第2次安倍内閣では首相直属の国家安全保障会議(NSC)を新設し、相次ぐ自然災害にうまく対応してきた。しかし、今回のコロナ禍ではうまく機能せず、官邸主導の「全世帯への布マスク2枚の配布」などは国民から冷ややかに受け止められた。

 

・今後の日本のあり方

 京都大学の人類学者 山極寿一は、今後の「日本のあり方」について次のように述べている。人類は、人と人とが接触し、協力することで発展してきたが、今回のコロナ禍では、人と人との密な接触を断たないと人類がウィルスに征服されてしまうことになった。つまり、今後の人類は、ウィルスと共生して存続するために、人類の文化の基本となってきた人と人との接触と協力の方法を変えなければならなくなったのである。そのために日本がやるべきこととして、山極は、次のことを列挙している。まず、十分にウィルス検査ができる体制を確立する。食料自給率が4割を切る日本は衣食住のライフラインを失わない仕組みに変えていく。距離をおいて暮らせる居住空間が不可欠となる。災害の際の避難場所を救急の治療施設に使えるようにする。手続きが簡単なベーシック・インカムを導入する。オンライン化による政治・経済・教育の新しい連携の道を開き、社会的な絆を失わない体制を築くことである。

 日本の各企業は、新型コロナウィルスの感染を機に普及した在宅勤務を今後も定着させるために、制度の見直しに動き始めている。従来の日本の雇用制度は、職務を限定せずに新卒者を一括採用し、終身雇用を前提に様々なポストにつく「メンバーシップ型」が基本であった。企業は、社内でジョブ・ローテーションを行い、年功序列で昇給を行い、出社して働いた時間で報酬を決める人事制度であった。今後は、業務の成果で評価する「ジョブ型」の雇用制度に移行する企業が増えるだろう。既に、資生堂、富士通、日立製作所は「ジョブ型」に移行することを決めている。欧米で一般的な「ジョブ型」の人事制度は、ポストに必要な能力を記載した「職務定義書」(Job Discription)を示して限定的・専門的な人材を採用し、労働時間ではなく成果で評価する。職務遂行能力がないと判断されれば解雇もあり得る。ジョブ型の方が在宅勤務がしやすくなり、人材の流動性も高まる。

 今回のコロナ危機を経験して、テレワーク、オンライン診療、オンライン教育などの必要性が明らかになった。密な接触を避けて生産活動や社会活動を行うには「デジタル化」(DXDegital Transformation)しかない。これを機に日本でもDXを促進すれば、作業効率と生産性の向上が期待できる。政治・経済・社会の全ての分野でDXの改革を進めれば、再び日本は成長軌道に乗ることも不可能ではない。老齢化と人口減少が進む日本でも、ロボット・AIなどのデジタル技術を使うことによって、さらなる発展が可能であろう。

 コロナ禍で株価が低迷する中でデジタル関連企業の株価が上昇している。株価が上昇した企業を見ると、「デジタル機器・ネット接続」、「医療・健康」、「巣ごもり消費」の3つに分類される。

 今回のコロナ禍にともない国内の100人の社長にアンケート調査をしたところ、7割が供給網の見直しがいると答えた。海外工場の国内回帰や調達先の柔軟な変更、複数国への分散などをするというのである。

 生産工場の国内回帰や供給網の見直しをする際に有効となるデジタル化の方法として、3Dプリンターがある。3Dプリンターは、AD(Additive Manufacturing)と言われ、複雑な3次元のモノでも設計データさえあれば、どこでも製造できる。消費地に近い場所で3Dプリンターによって多品種少量生産やオンデマンド生産を行うことによって、物流コストと環境負荷を減少させることができる。

 今後のデジタル化された生産工場、病院などの設計方法としては、サイバー仮想空間に生産工場や病院を構築し、専門分野の異なる関係者がオンラインで協力して、仮想設備を使ってシミュレーションを行うことによって、効率よく最適なシステムを設計する方法が有力となる。こうした設計方法は、既にドイツのシーメンス、フランスのIT会社ダッソー・システムなどが行っている。

 一方、今後のデジタル社会では工場や施設を狙ったサイバー攻撃が深刻な問題となる。あらゆるモノがネットにつながるIoTの普及で、工場がネットにつながり、攻撃のリスクが高まっている。新型コロナウィルスの感染拡大で在宅勤務が進み、工場の遠隔操作が広まる今、製造業へのサイバー攻撃が急増している。68日にサイバー攻撃を受けたホンダでは、世界の9工場で生産が停止した。ホンダの大規模な社内ネットワークのシステム障害は、複数の工場で部品管理や検査システムなどが止まった。

 そのサイバー攻撃の手口は「ランサムウェア」と呼ばれる。ランサムウェアは、メール経由で送信されて企業システムに感染し、システムやデータを暗号化して操作できなくする。ハッカーは、暗号化を解いてシステムを復元する代償として金銭を要求するので「身代金要求ウィルス」とも呼ばれる。最近では社内の重要情報を盗み出して金銭を要求するランサムウェアが生まれている。こうしたウィルスを完全に防止することは不可能であり、サイバー空間でもウィルスと共生するシステムに改革していく必要が生じている。

 世界中に蔓延した新型コロナウィルスは、今後の世界経済を長期にわたって停滞させ、V字回復は望めず、経済の低迷が長引くことが予想される。そうした中で、金融情報会社リフィニティブのデータをもとに、世界主要62カ国の612日時点の10年債利回りを調べてみると、半分近い国(30カ国)が1%未満の金利で、マイナス金利が10カ国、0%台が米国を含む20カ国であった。

 1%という金利は、企業淘汰を通じて新陳代謝を進めたり、財政悪化やインフレを察知して警告を発したりする「金利機能」が働く最低レベルの金利である。1%未満の金利になると金利機能が働かなくなり、経営破綻したゾンビ企業でも生き残り、企業に利払いを上回る利益を稼ぐ意欲を促してイノベーションを引き出す効果もなくなってしまう。今や主要先進国の全てが1%未満の超低金利となり、資本主義の基本となる「金利機能」が失われようとしている。

 そうした状況下で日本がデジタル化(DX)を推進して生産性を向上させる意義は大きい。日本は、ウィルスと共生できる社会に改革するためにデジタル化を推進することによって、生産性を向上させ、経済を成長させるチャンスを握っている。そのチャンスを活かすには、前項で指摘したような、新しいデジタル社会にそぐわない既存の組織やルールを改革していく気概を持たなければならない。そして、失敗を恐れずにやってみて、駄目ならやり直すという方法で果敢に挑戦することである。

 

4.あとがき 新しい社会を目指して 

 世界フォーラム(通称「ダボス会議」)のクラウス・シュアブ会長が20211月に開く年次会議のテーマを「グレート・リセット」にすると発表した。その意味するところは、第2次世界大戦後から続く社会経済システムは時代遅れになっていて考え直す必要があり、今後は「人々の幸福を中心に環境・社会・企業統治を重視する社会経済システムに変えて行かなければならない」というのである。

 元欧州復興開発銀行総裁のジャック・アタリは、今後の世界秩序について次のように述べている。米国第一主義を唱えるトランプ大統領は、単なる孤立主義の代弁者であり、米国は昔の孤立主義に回帰している。優れた企業家や独創的な人材を閉め出している独裁主義の中国は、自国の規範を世界に押しつける資格がない。アタリは、世界の国々が結束して「世界全体会議」を組織し、その推進力として「利他主義」を掲げることを提唱している。

 建築家の隈研吾は、今までの建築は3密の「箱」を造ってきたと述べ、今後のウィルスと共生する都市空間として、京都の町家の通気性の良さをヒントにして新しい都市空間を設計したいと言い、意欲に燃えている

 航空機、鉄道、バスなどの交通機関は、今後、3密を避けるために乗客を制限すれば、運賃を値上げざるをえなくなるが、乗客が減少すれば経営が成り立たなくなる。ホテル・旅館などの観光業や飲食店・娯楽施設も同じである。教育でも3密を避けたら、今の学校施設と先生の数では教育ができなくなる。ウィルスと共生するために3密を避けるということは、社会全体を改革して、新たな調和のとれた社会に作り替えなければならないことを意味する。今までの3密の施設や交通機関を使って仕事をして、しかもウィルスの感染を防ぎながら経営が成り立ち、生活ができるような方法を考えなければならないのである。

 その最も有力な方法がデジタル化(DX)である。デジタル化された社会では、人が移動する代わりに情報が移動するから、ウィルスの影響を受けにくいからである。これから目指す新しい社会とは、「人と人とが接触する3密を避けて行動して、仕事や生活ができるようなデジタル社会」ということになる。高齢化と人口減少が早く進む日本では、ロボットやAIをうまく使って生産性を上げ、高齢化に適合した社会を世界に先駆けて実現することによって、新しい発展の道が開けるであろう。

 そうした新しい社会は、ウィルスの感染を防ぐために社会全体で協力し合うことを経験していき、社会の差別や格差が大きいとウィルス感染による死者が増えることを何回も経験して、アタリの言う「利他主義」によって協力し合える社会に徐々に近づいていくと筆者は推察する。

 今、人類はウィルスによって大きな試練に立たされている。しかし、この試練をうまく乗り越えれば、上記のような新しい社会に近づいていけるという希望が持てる。ダボス会議のシェアブ会長が発表した20211月の年次会議のテーマ「グレート・リセット」はその出発点になるかも知れない。そう考えれば、ウィルスと共生する社会に改革していくことは、決して悪いことではない。希望を持って改革を進めたいものである。

 最後までお読みいただいたことに感謝します。

                               (以上)

コロナウィルスによる世界の変質

                       20204月 芦沢壮寿

はじめに

 新型コロナウィルスが猛威をふるっています。この脅威は、23年は続くと言われています。その間に従来の経済体制や生活スタイルが変わっていき、今までとは全く違う世界へと変質していくと言う学者がいます。その根拠として、14世紀にヨーロッパでペストが大流行して1億人もの人が死んだ恐怖の時代の後で、ヨーロッパにルネサンスが興り、大航海時代を経て世界が一つにつながり、資本主義、自由経済の近代社会へと変わってきた歴史があります。中世から近代への大転換は、ヨーロッパ中の人々を恐怖の底に陥れたペストの大流行によって起こり、その恐怖を救済できなかった中世のキリスト教の秩序が見放され、現在の世界秩序となっている資本主義・自由経済の近代社会が生まれたというのです。

 そのペストの大流行は、クリミヤ半島のカフェを攻撃していたモンゴル帝国の軍隊でペストが発生し、その犠牲者をカフェ城に投げ込んで退却したことから始まりました。カフェ城でペスト菌に感染したクマネズミがイタリアのジェノバ商船に紛れ込んだことから、ペスト菌が地中海周辺の都市にばらまかれ、ヨーロッパ中に蔓延したのです。

 そもそもヨーロッパが4世紀末に古代から中世に変わった時も、モンゴル系遊牧民のフン族がヨーロッパに侵入して「ゲルマン民族の大移動」が起こったことがきっかけになりました。それから395年に古代ローマ帝国が滅亡してヨーロッパの古代が終わりました。

 中世ではヨーロッパよりアジアの方が勢いがよく、近代文明の基となった紙・印刷技術・羅針盤による航海技術は全てアジアで生まれました。約1000年間続いた中世はアジアの時代だったのです。

 そして、今、コロナウィルスのパンデミックにより、世界が大きく変わろうとしています。その世界はヨーロッパで生まれた資本主義・自由経済の社会が有効に機能しなくなり、新しい世界秩序の社会へと変質していくのです。新しい世界秩序は、今までの大きな歴史の流れから見れば、ヨーロッパでもアジアでもなく、世界共通のグローバルな秩序になると筆者は推察します。

 感染症の専門家は、ウィルスを絶滅させることは絶対にできないし、今後の温暖化に伴ってウィルス感染症の流行が頻発するようになり、人類はウィルスと共生する社会に変わっていかなければならないと言っています。

 こうした専門家の言うことは、確実にそうなるとは限りませんが、今回のコロナ危機の後、我々が立ち向かう先に社会を変質させるような大変革が待ち構えていることは間違いないようです。

 そこで、どんな世界に変質して行くのかを探るために、まず、色々な専門家が言っていることを調べて、「新型コロナウィルス感染症の正体とその対策」を探ってみることにします。その上で、「今後の世界の変質」について考えてみることにします。

 ここで私が書こうとしていることは、長い目で見れば決して怖いことでも恐ろしいことでもありません。それは、かつてペストの大流行が、宗教に抑圧された中世の暗い世界から人間として自由に自己を表現できる明るい世界へと人々を解放してくれたことからも類推できます。

 しかし、近世から現代に至る資本主義と自由経済の時代は、人口が増加して経済が発展し、自然を破壊してきた結果として、人類は地球の容量の限界に達してしまっていること、このまま資本主義の自由経済を持続することは不可能になっていることは、まぎれもない事実です。その責任は全て人類にありますから、今後の世界をどのように変質させようとも、人類はこの事実を踏まえて変わっていくしかありません。こうした前提に立てば、今回のコロナウィルスのパンデミックは、人類にとって今後の進むべき道を考える絶好の機会になると筆者は考えます。ですから、あくまでも事実を事実として認識した上で、未来に向かって明るい気持ちで読んでいただきたいと思います。

 

新型コロナウィルス感染症の正体とその対策

 最初に、人類の今までの感染症の歴史と今後の予想について述べる。

 

[感染症の歴史と今後の予想]

 20万年前に現生人類のホモ・サピエンスがアフリカに生まれ、7万年前頃から世界中に拡散していき、今から12000年前まで人類は狩猟採集生活をしていた。人類の歴史の実に94%を占める狩猟採集時代には、感染症がなく、皆が平等で協力し合い、健康で心豊かな暮しをしていた。人類が感染症に悩まされるようになったのは、紀元前9000年頃に農耕を始めて、家畜を飼うようになってからであった。家畜から天然痘・結核などの感染症が人類に感染した。

 人類の歴史の中で感染症の被害が最も大きかったのは、14世紀から17世紀にかけてヨーロッパで流行したペスト(黒死病)であった。フランスとイギリスが戦った百年戦争中の134754年の7年間に全ヨーロッパでペストが大流行し、フランスとイギリスでは人口の約3分の1が死亡し、全体で1億人が死亡したと言われる。ヨーロッパでは1617世紀にも14世紀以上の規模でペストが大流行した。ペストは、19世紀末になって北里柴三郎がペスト菌を発見してから、ワクチンによる予防が可能になった。

 第1次世界大戦中の191819年にかけてインフルエンザの「スペインかぜ」が大流行し、25千万人の死者を出した。「スペインかぜ」は、最初に米軍兵士の間で流行したが、船で欧州の戦場に派遣された米軍兵士から各国の軍隊に広がり、大量の死者を出すことになった。流行の波は1年間に3回も繰り返され、日本でも38万人の死者が出た。当時は薬がなかったので流行を食い止めることができなかった。

 1970年代に「エボラ出血熱」がアフリカで繰り返し流行し、約3万人が感染して1万人以上が死亡した。エボラ出血熱は死亡率が非常に高かった。

 最近では、200203年に広州、香港を中心に流行した重症急性呼吸器症候群()、2012年に中東で流行し、2015年に韓国、中国へと拡大し、2019年にサウジアラビア、カタールに感染した中東呼吸器症候群()、それに今回の新型コロナウィルス(COVID-19)がある。これら三回の感染症は、全て人獣共通ウィルスのコロナウィルスであることで共通する。今回は、グローバル化に伴う世界的な人の移動に乗って、短期間で世界中に感染して「パンデミック」(世界的大流行)になった。

 ウィルス感染症は、地球温暖化にともなって、今後もますます流行することが予想される。北極圏の永久凍土が溶けて中からウィルスが出てくる恐れがある。また、今までは熱帯地域に留まっているジカウィルス熱が、地球温暖化にともなって世界中に蔓延する恐れがある。人類がウィルス感染症を撲滅することは不可能であり、アフリカ諸国はジカウィルス感染症を蔓延させる温床となって、パンデミックが繰り返し起こることが予想される。

 

[ウィルスの特性と抗ウィルス薬について]

 ウィルスは、全体として20300ナノメートルの蛋白質の分子でる。従って、ウィルスは物質であり、生物ではない。しかし、ウィルスは動植物や細菌の細胞の中で分裂して増殖するから、生物のようにも振る舞う。

 ウィルスの蛋白質分子は、その中に遺伝情報をになう核酸(DNA またはRNA)を持ち、それを蛋白殻が囲んでいる。蛋白殻の外に蛋白・脂肪・糖質などの外被で覆われているものもある。

 ウィルスは、それぞれのウィルスに特異な宿主細胞に寄生して増殖し、それに伴い細胞障害や種々の疾病を宿主生物に起こす。ウィルスの宿主生物は動物・植物・昆虫・細菌の4種類に大別され、それぞれ動物ウィルス・植物ウィルス・昆虫ウィルス、細菌ウィルスに分かれる。コロナウィルスは動物ウィルスである。

 生物の体内に入ったコロナウィルスは、眼・鼻・口などの粘膜の細胞に付着すると、遺伝子コードが変異して細胞に侵入し、増殖し始める。増殖したウィルスは他の細胞に侵入する。こうしたサイクルを繰り返すことによって、ウィルスは爆発的に増える。これに体内の免疫システムがうまく対処できないと、色々な臓器で炎症が起き、様々な症状につながる。

 抗ウィルス薬は、ウィルスが細胞内で増殖する過程を食い止めて症状を改善する働きをする。ウィルスの増殖を防ぐ方法には、@ウィルスが細胞に侵入するのを防ぐ、A細胞内で分裂して複製するのを防ぐ、B複製されたウィルスが細胞の外に放出されるのを防ぐ、の3通りがある。インフルエンザ治療薬のタミフルはBの方法、新型コロナウィルスにもきくと言われる新型インフルエンザ向けのアビガン(富士フィルムが開発)とエボラ出血熱向けのレムデシビルはAの方法をとる。

 

[コロナウィルス感染症の感染源と遺伝子の型の変異]

 200203年に広州・香港を中心に流行したSARSの感染源は、雲南省のコウモリのコロナウィルスが移ったハクビシンと特定された。201219年にかけて中東から東アジアで流行したMERSの感染源はヒトコブラクダであった。今回の新型コロナウィルスの感染源は、まだ確定されていないが、可能性の高い感染ルートとして、中国で漢方薬や食料として使われているセンザンコウ(全身が硬いウロコで覆われた哺乳類の動物。ウロコが漢方薬の材料として使われ、肉が珍味として食べられる)から新型コロナウィルスの遺伝子と85~92%似たウィルスが検出されていることから、コウモリからセンザンコウに感染し、センザンコウから人に感染したというルートが考えられる。

 SARSのときから世界の感染症学者たちは、中国の生鮮市場で豚・羊・鶏・アナグマ・キツネ・ヘビ・ネズミ・犬・ラクダ・ロバなどの動物が肉として、あるいは生きたままで売られている環境が人獣共通ウィルスの温床となっていて、人への感染につながる可能性が高いと警告してきた。今回のコロナウィルス感染症の最初の患者は、20191212日に武漢市中心部の華南海鮮卸売市場に関係する7名の肺炎患者であったとされた。しかし、実際は市場と関係のない患者が最初の患者であることが判明した。

 米国のトランプ大統領は、新型コロナウィルスの発生源を「武漢の研究所が人為的に作り出したウィルスが漏れ出した」と主張し、各国首脳も中国に真実の情報を公開することを求めている。もしそれが事実なら、中国は世界から非難され、完全に孤立することになるだろう。武漢の研究所と共同研究しているフランスの研究所は、以前から武漢の研究所のウィルスの扱い方が「ずさん」であることを指摘していたという。但し、米スクリプス研究所が「新型コロナウィルスが自然界で生まれた証拠を得た」と発表したことから、自然発生か人為発生かはまだ分からない。

 武漢で検出された新型コロナウィルスは、コウモリから検出されたコロナウィルスの遺伝子から変異したA型であった。それが3ヶ月ほどでB型、C型へと変異した。A型は中国の武漢、広東省、日本、武漢に滞在した米国人・豪州人から検出され、B型は中国とその周辺国の東アジアで多く検出され、B型に由来するC型は欧米に多い。この型の変異が抗ウィルス薬にどのように影響するかが問題となるであろう。あるいは、ある型に対してできた免疫抗体が別の型にも有効に働くのか、まだ分かっていない。

 

[新型コロナウィルスの感染を防ぐ方法]

 今回の新型コロナウィルスの特徴は、無症状の人から感染すること、軽症から重傷までの症状のバラツキが大きいことである。感染者の多くが無症状か軽度の症状しか見せず、本人が気づかないうちにウィルスをまき散らしている。しかも、発症当日にウィルス量が最も多くなるので、発症して本人が感染に気づいたときには手遅れになる。そのために、感染症対策で最も基本となる「感染ルートの特定」が困難になっている。こうしたことから、約半年で終息したSARSと異なり、新型コロナウィルスはパンデミックとなり、終息までに23年を要すると予測されている。

 新型コロナウィルスの感染は、咳やしゃべることによる「飛沫感染」だけでなく、ドアのノブや手すりなどを通して感染する「接触感染」が多いことが分かってきた。また、飛沫感染でも、「マイクロ飛沫感染」といって01マイクロメーターほどの微小飛沫が密閉空間では少なくとも20分間は室内を漂い続けることが分かった。

 こうした状況に対処する方法は、「人の移動と接触の遮断」が基本となる。そのために、中国は「ロックダウン」(都市封鎖)を行い、欧米では人と人が2メートルより近づかない「社会的間隔」(Social Distancing)を保つことを励行し、日本は国民に「密閉」・「密集」・「密接」を避け、従来より人との接触を8割減らすことを要請している。

 このように国によって対処方法が違うが、最も強く対処したのは中国で、最も弱く対処しているのが日本である。中国は、2ヶ月半にわたって武漢を完全封鎖し、主要都市でもITを使って市民を厳しく監視して外出制限を徹底させ、感染者に近づくと警告を発するスマホ・アプリを使った。その結果、早く感染拡大を抑え込むことに成功した。欧米や台湾では、罰則を設けて外出禁止を徹底させている。日本は、人権を尊重して国民に自粛を要請し、その要請に背いても罰則がない。こうした民主的で優しい方法で大丈夫なのか、これからが日本の正念場である。

 ウィルス感染症の威力(怖さ)は、ウィルスの「感染力」と「致死率(感染者数に対する死亡者数の割合)」によって決まる。その致死率について、米ジョンズ・ホプキンス大学がまとめた2020422日午後4時現在のデータを使って各国の比較をしてみる。

 ヨーロッパにおける致死率は、ベルギーが最も高くて14.6%、次いでイタリア13.4%、英国13.3%、フランス13.1%、スペイン10.4%と続き、最も低いのは医療設備が充実しているドイツの3.4%である。同じヨーロッパでも致死率が国によって大きく違うのは、医療設備の充実度と政府の司令塔としての善し悪しによると考えられる。日本の致死率が2.4%、中国と米国が5.5%、韓国2.2%、インド3.2%、イラン6.2%、トルコ2.4%、ブラジル6.4%であり、世界の平均致死率が6.9%である。こうして見るとドイツを除くヨーロッパの国々の致死率が異常に高いことが分かる。これは、ヨーロッパの国々が油断して感染症対策を怠り、「オーバーシュート」(感染者数の増加率がある限度を超えると感染者が爆発的に急増すること)を起こしていると考えられる。オーバーシュートが起こると医療崩壊が発生し、死亡者が急増する。

 そんな中で韓国と台湾の感染症対策が世界から注目されている。韓国の累計感染者数は16,000人だが、新規感染者が1日当たり10人程度に減少して完全に感染の抑え込みに成功した。台湾は累計感染者が395人で死者が10人未満に留まっている。両国とも強力な司令塔のもとで、矢継ぎ早に対策を講じたことによってウィルス感染の抑制に成功した。

 SARSMERSを経験した韓国は、法的権限を持つ「疾病管理本部」が民間企業の開発した診断キットを1週間で承認し、民間医療機関による大量のPCR検査につなげた。SARSを経験した台湾は、「中央感染症指揮センター」が臨時政府のような強大は権限を持ち、学校の休校、集会・イベントの制限、市民生活の細部まで管理し、従わない市民に罰金を科すことまで行った。米国でも「疾病対策センター」(CDC)が強い権限を持って対策を執行している。

 それに対して日本の感染症対策をってきた「国立感染症研究所」は、疫学調査が主体であって対策を実行する権限がない。感染症対策機関の人員を比較すると、米国が13,000人、韓国が907人、台湾が890人、日本が362人で、日本が圧倒的に少ない。日本が外国に比べてPCR検査が極端に少なく、いつまでたっても増えない原因は、弱い体制と人員不足にありそうだ。

 次に、日常生活でコロナウィルスの感染を防ぐ方法についてふれておく。

本来ウィルスの蛋白質は壊れやすいので、時間がたつにつれてウィルスは自然に崩壊していく。しかし、新型コロナウィルスの蛋白質は何層もの脂肪の保護膜で覆われているので崩壊までに時間がかかる。コロナウィルスが崩壊する時間は、温度・湿度により多少の違いがあるが、ウィルスが付着する物によって、生地が3時間、木と銅が4時間、段ボールが24時間、金属が42時間、プラスチックが72時間である。従って、服・シーツ・布などの生地類はウィルスが表面に張り付いた状態では不活性であり、3時間もすれば分解してしまうから、絶対に振らないこと。振ったりハタキを使えば、ウィルスが最大3時間空気中に浮遊し、鼻などに付着して感染する可能性が高くなる。

 コロナウィルスの崩壊を早めるには、脂肪の保護膜を取り除く必要がある。そのために有効な方法は、石けんや洗浄剤を泡立てて20秒以上こすることである。また、25℃以上の熱水、65%以上の濃度のアルコール、漂白剤(塩素)1対水5の割合の水溶液を使って、手洗いや手に触る物を拭くことが有効である。しかし、ウィルスは生物ではないので、殺虫剤や抗生物質では殺せない。

 

[新型コロナウィルス感染症の収束と経済活動再開の条件]

 ウィルス感染症の終息は、ウィルスに感染して免疫をつけた人が人口の6割以上になれば理論上は集団免疫となり、ウィルスの感染流行が終息に向かうとされる。そのために予防ワクチンの開発が急がれる。

 新型コロナワクチンの開発は、米J&J(ジョンソン&ジョンソン)を始めとする数社がウィルスの遺伝子情報を使った短期製造が可能なワクチン開発を進めていて、2021年初めには提供可能になるという。従来型のワクチンは鶏卵や細胞を使ってウィルスを培養するため、開発・製造に1年程度かかるが、遺伝子を使う方法はこれを短縮できる。

 また、ウィルス感染症から快復した人の抗体を含む血漿を患者に投与する方法が研究されている。その方法はエボラ出血熱で効果があった。

 1人の感染者がウィルスを何人に感染させるかを示す値を「再生産数」という。再生産数が1未満になれば、流行が収まりつつあることを示す。現在、欧州全域と米国の一部で再生産数が1未満に低下しており、ドイツや米国は経済活動の再開に進み始めている。

 EUは経済活動の再開に踏み出す条件として、「感染拡大の鈍化」、「大規模な検査能力」、「十分な医療体制」の3つを挙げている。「感染拡大の鈍化」は、再生産数が1よりかなり小さくなる必要がある。また、新型コロナウィルスは感染の第2波が襲来するリスクが高いことが予測されることから、感染を監視する「大規模な検査能力」を備えた検査体制と「十分な医療体制」が必要になる。人口100万人当たりの検査数は、ドイツが21千件、米国が12千件、日本は1千件であり、人口10万人当たりの病床数は、米国が35床、ドイツが29床、日本は7床である。日本は検査能力と病床数の両方とも少ない。このことから日本は、米国・ドイツと比べて再生産数がより小さくならないと経済活動の再開ができず、経済の復興が遅れることになる。

 経済活動を再開する準備として、米国・中国・ドイツ・イタリア・オランダなどで「抗体検査」を開始している。抗体検査の簡易的な方法は、「イムノクロマト法」と言われ、血液をたらすと約15分で結果が出る。

 ニューヨーク州では無作為抽出した3000人を対象に抗体検査を行ったところ、13.9%が抗体を持っていることが判明した(423)。これは公表されている感染者数の約10倍に当たる。他の所でも、抗体検査が示す感染者数はPCR検査で陽性と判定された感染者数に比べて、ロサンゼルスが2855倍、サンタクララが5085倍、イタリアが15倍、オランダが30倍であった。このことから、新型コロナは無症状や軽症の患者が多くて、実際の感染者は公表値よりも10倍以上多いと推測される。

 

今後の世界の変質

 今回のコロナウィルス感染症の危機下で基本的人権とされる「移動の自由」と「集会の自由」が奪われ、逆に「全体主義的監視」が効力を発揮した。このことは、今回の危機下では中国の「全体主義・強権主義」が伸長し、日米欧の「自由主義・民主主義」が後退したことを意味する。

 こうした状況下で、「今後の世界の変質」について世界の主要な学者やジャーナリストの予想をもとにして考えてみることにする。最初に、3人の専門家の予想を紹介する。

 

[世界秩序への3つの潮流](米ユーラシア・グループ社長イアン・ブレマー,2020.4

 米同時多発テロや金融危機に見舞われた際は、世界秩序が確立されていて、米国が速やかに行動し、他国の支持を得て国際的な対立を調整した。新型コロナは国際社会を主導する国が存在しない「Gゼロ」時代に入って最初の地政学的な危機である。今後の世界の新秩序を形成していく過程で、特に3つの潮流が大きな影響を持つだろう。

 1つは「脱グローバル化」である。新型コロナの感染拡大の影響で、生産拠点を国内に移すなど、サプライチェーンの再構築を迫られている。従来は各国がグローバル化に対する信念を共有し、それが国際協調の原動力になっていた。その信念が崩れ、脱グローバル化や協調性の欠如が世界の新秩序の特徴になる。

 2つ目の潮流は、「ナショナリズム」である。今回のコロナ禍で最も影響を受ける貧困層は、セーフティネットの欠陥を体験する。各国で所得格差が一層拡大し、中産階級がなくなって、社会が分裂する。分裂した社会で二極化したネット情報に触れると、ナショナリズムが一層強くなるだろう。

 3つ目の潮流は、「中国の大国化」である。中国が経済大国や技術大国になることは各種データから予想される。中国はチャンスとばかりに人道的支援を各国に展開し、ソフトパワーを高めている。新型コロナの感染拡大により、世界秩序が機能不全に陥っているが、その間にも中国を中心とする世界の新秩序の土台が着々と築かれている。

 

[自滅した中国コロナ外交](FINACIAL TIMES ジェミル・アンデリーニ,2020.4)

 中国政府は、新型コロナ危機に乗じて国際的な立場を高めようとして、逆にオウンゴールを喫している。中国が各国に送った医療用品や医療機器に欠陥が多いこと、中国政府高官が感染は米軍から始まったとする陰謀説を公に認めるなど、世界における中国の評判をコントロールしようという中国共産党の取り組みは、大半が裏目に出ている。結局、中国政府がコロナ危機を利用しようとした試みは、かえって中国を孤立させ、信頼を失わせる可能性を高めた。

 米中間の経済・技術面の分断は、もはや回復不能になった。英情報機関は中国政府からの脅威に重点的に備えると明言した。欧州やオーストラリアは、中国企業が株価下落の中で企業を安く買収するのを阻止する対応を急いでいる。日本政府は、日本企業がサプライチェーンから中国を外すことをすため、2400億円超を緊急経済対策予算に盛り込んだ。

 北朝鮮は中国との国境を封鎖した最初の国となり、ロシアも続いた。イランの政府高官でさえ、中国が感染の拡大を隠していると非難した。

 もし、中国政府が早くから透明性を高め、各国との協調路線にかじを切っていたら、もっと世界から共感を得られていたはずだ。ところが、中国政府は逆に、政府による感染の隠蔽を批判した国民を逮捕し、中国で新型ウィルスの感染が始まったとする見方は違うという宣伝活動まで展開した。そして、感染封じ込めには自国の独裁体制の方が優れているとさえ主張している。

 こうした中国の言動は、世界各国の政府に中国を自国の供給網から外そうとする動きを加速する結果につながる。中国国内では、共産党支配の正統性が感染初期段階のちと、その後の強権的な抑え込みにより傷ついた。習近平は、今後に始まる経済的危機で国民の支持がさらに失われることを恐れている。

 

[全体主義的監視か、市民権利強化か](歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ,2020.3)

 今回の新型コロナウィルスの危機を経て、人類は進むべき方向として、2つの選択を迫られている。1つは、「全体主義的監視」と「市民の権利強化」の選択、もう1つは、「国家主義的な孤立(=自国第一主義)」と「グロ−バルな結束」の選択である。

 まず、「全体主義的監視」と「市民の権利強化」の選択について、次の例で考えてみる。ある政府が「感染症の拡大を阻止するため」と称して、強制的に体温と心拍数を24時間監視する生体測定機能を搭載した腕時計型端末を全ての国民に常に装着することを義務づけたとする。それは、監視の対象を「皮膚の上」から「皮膚の下」まで拡大することを意味する。政府は測定データを分析することによって、本人が感染しているかを素早く識別することができる。こうした仕組みがあれば、簡単に感染症の拡大が阻止できる。しかし、本人のプライバシーはなくなってしまう。

 しかし、こうした強権的な監視体制を築かないと感染症の拡大を阻止できないわけではない。市民に十分な情報と知識を提供し、市民が自分で可能な限り対応するという意識を持った方が、監視するだけで脅威について何も知らせないより、はるかに強力で効果的な対応をするはずである。監視体制を築く代わりに、科学や行政、メディアに対する人々の信頼を構築した上で、上記の腕時計型端末のような新しい技術を積極的に活用すべきである。そして、市民が自分で判断して、より力を発揮できるようにした方が市民の健康維持にも役立つであろう。

 次に、「国家主義的な孤立」と「グローバルな結束」の選択であるが、感染拡大とそれに伴う経済危機はグローバルな問題であるから、これを効果的に解決する方法は、国を超えたグローバルな協力以外にない。今回の新型コロナのパンデミックの経験から、人々は国際社会の分裂が重大な危機をもたらすことを理解するであろう。

 

[コロナ危機が浮き彫りにした中国の問題点]

・共産党強権体制の弱点

 今回の新型コロナが発症した武漢市の衛生健康委員会によると、最初のコロナ発症の確認は20191212日であった。しかし、中央集権の強権体制の中国では、地方政府にとって都合の悪い情報は中央に報告しない。これが共産党強権体制の弱点の1つである。そのために感染症の拡大防止にとって致命的な「初動の遅れ」となった。

 武漢で患者の治療に当たった医師がSNSに異常事態を流したことから国民の知るところとなった。ところが政府はその医師を逮捕して処罰した。そして、その医師がコロナで死亡するに至り、SNS上で政府に対する非難が炎上した。

 結局、中国政府がWHO(世界保健機構)に報告したのは19日後の1231日であった。これはWHO憲章に基づく「国際保健規則」に定めた「アセスメント(評価)した後24時間以内に通報する」という通報義務に違反する。

 共産党政権の最大の弱点は、民主主義国のように選挙によって国民の信任を得ていなことにある。そのために、中国共産党は常に共産党の「正統性」を維持しなければならないから、今回のコロナ禍で4千人を超す中国人の死亡を共産党の失策として認めるわけにはいかない。そこで、中国の官製メディアは、「欧米のウィルス対策が手ぬるいから感染が拡大した」、「自分たちはウィルス拡散を遅らせたので、世界は感謝すべきだ」、「コロナは米軍が持ち込んだ」などと宣伝し、国民に「中国共産党の統治体制は欧米の民主主義より優れている」と納得させようとしている。こうした中国共産党の不可解な行動に対して、仏経済学者 ジャック・アタリは、「中国はテクノロジーで存在感を高めているが、中国共産党の不透明性が世界の不信感を招き、結局、世界のリーダーにはなり得ない」と言っている。

 

・中国の野生動物に関する問題

 SARSの感染源となった中国は、一時的に野生動物を扱う市場を閉鎖したが、野生動物の肉を好む中国人は、すぐに市場を再開した。中国人の野生動物の肉を好む食文化を変えない限り、今後も生鮮市場で野生動物から人間への感染が生じる危険性が続くことになる。

 もう一つの問題は、中国政府が中医学(漢方、はり治療、きゅう治療、気功など)を世界に普及させる政策をとり、漢方薬に使う野生動物の部位(熊の胆汁、虎の生殖器、サイの角など)を大量に集めていることである。そのために世界中の野生動物が殺されていて、野生動物保護に逆行している。

 

[ウィルス感染症対策に弱い日本の問題点]

ITの社会実装が遅れている問題

 今回のコロナ危機で多くの学者(山中伸弥、本庶佑など)が、日本のITの社会実装の遅れを指摘している。日本は、プライバシー保護を気にしすぎて、ITを役立てていないというのである。個人データのプライバシーを保護した上で、ITを使って社会のために、ひいては個人のためにデータを活用する方法を工夫しなければならない。その場合に基本となるのは「データはユーザーのもの」という考えである。例えば、マイナンバーは個人のものという前提に立って、マイナンバーを使って個人の医療情報が各医療機関で分かるようになれば、医療システムの改善・進歩が一気に進み、その恩恵は個人にも帰ってくるはずである。コロナの感染防止対策にしても、プライバシーの保護を前提にして、スマホを使って個人の行動を監視し、感染者に接近したり、危ない所に行ったら本人に注意することによって本人も安全でいられる。その場合に、ハラリが指摘するように「科学や行政、メディアに対する人々の信頼を構築した上で」実施することが肝要となる。

 5月の連休を前にして、政府の専門家会議がコロナ拡大防止対策として打ち出した「人との接触を8割減らす10のポイント」の中には、ITを活用した「テレワーク・在宅勤務」、「オンライン会議」、「オンライン診療」、「オンライン教育・講義」、「オンライン飲み会」、「オンライン帰省」、「動画で自宅筋トレ・ヨガ」、「通信販売・宅配利用」が含まれている。実に10のポイントのうち7割がITを活用するものであった。こうした「オンラインによるリモート化」は、今後のデジタル社会では一般的なことになるから、今回のコロナ危機を機に、人々の働き方が変わり、デジタル社会へと加速することが予想される。

 

・感染症対策体制の抜本的改革

 日本の感染症対策の体制が脆弱であることが明らかになった。米疾病対策センター(CDC)のような権限をもった常設機関を設ける必要がある。これについては、既に政府もその方向に動いているようである。

 

[コロナ危機からの復興]

・経済の復興と変質

 今回のコロナ危機は、世界経済に第2次世界大戦後で最大の損害をもたらすことが明らかになってきた。また、今回は全ての国の経済が落ち込んだために、V字回復はあり得ない。復興には相当の時間がかかりそうだ。

 そうした状況下で復興後の世界経済について、フランスの経済学者ジャック・アタリは、「命を守る分野の経済価値が高まる」と指摘している。健康、食品、衛生、デジタル、物流、クリーンエネルギー、教育、文化、研究などが該当する。これらを合計すると、各国のGDP56割になるという。

 

・中国に対する賠償訴訟の問題

 今回のコロナ危機を引き起こした中国に対する賠償責任を問う訴訟が既に米国のフロリダ州、テキサス州、ネバダ州などで出ている。今後、世界中から中国に対するコロナ訴訟が出ることが予想される。

 感染症発生源となった国の国家責任について、国連の国際法委員会(ILC)が「国際慣習法」を定めている。その条文で「責任ある国家は、国際違法行為により生じた損害の完全な賠償義務を負う」と明記している。しかし、実際は原因と被害の因果関係を証明することが困難であるから、中国が損害賠償に応じることはないであろう。しかし、世界中で中国に対する賠償訴訟が起こることによって、中国はイメージ・ダウンによる大ダメージを被るであろう。

 

[ウィルスと共生する社会]

 今回のコロナ危機で多くの学者が「ウィルスと共生する社会」に変わっていく必要性を説いている。筆者は、ウィルスと共生する社会とは「新たなウィルス感染症が頻繁に発生・流行する社会」であり、それに対処するために「グローバルなウィルス感染症防止体制が整っていて、人々がいつもと同じように生活できる社会」であろうと考えている。

 ハラリが指摘するように、現在のようなグローバル化された世界では、感染症の拡大防止や経済活動の維持にはグローバルに対応するしかない。今後、頻発することが予想されるパンデミックの際に、社会の「貧困層」と世界の「貧困国」が問題となるであろう。パンデミックの危機では、貧困層・貧困国がウィルス感染の温床となるからである。筆者は、次のように予想する。

 今後、地球温暖化にともなってウィルス感染症のパンデミックが頻発するようになり、今回のような生活危機・経済危機の経験を繰り返していくと、富裕層・富裕国に「貧困層・貧困国を救済すことが、自分・自国のためにもなる」という思想が生まれる。それは、人類(ホモ・サピエンス)がまだアフリカに留まっていて狩猟採集生活を送っていた頃に、食料をり占めするよりも、食料を分かち合い、助け合った方が生き延びていけることを知り、人類に「平等」、「協力」の精神が生まれたのと同じである。

 「ウィルスと共生する社会」に変質していく過程で、まず、国内で拡大している貧富の格差を解決しなければならない。それには、貧富の格差の原因となっている現在の資本主義に基づく自由経済を改革する必要がある。その改革の基本となるのは、「利他主義」の精神、あるいは近江商人の「三方よし」の精神であろう。金持ちが「貧しい人々に利益を分配することは自分のためでもある」と考えることである。その上で、「グローバルなウィルス感染症防止体制」を整えていき、ウィルス感染症が流行しているときでも「いつもと同じように生活できる社会」を築いていくのである。

 

[希望の持てる社会を目指して]

 人間には「希望」が必要である。「希望」があれば前向き(ポジティブ)になれ、幸せになれる。そこで、筆者がイメージしている未来の「希望」の持てる社会につて、以下で述べてみたい。その舞台は、高齢化が進み「一人暮らし」の老人が増え、若者たちの「引きこもり」が多くなっている日本の社会である。

 コロナ危機を機に日本の社会がデジタル社会に変わっていくと前述したが、それは悪いことではない。むしろ、「一人暮らし」や「引きこもり」などの社会問題を解決する「希望」の持てる社会(コミュニティ)になる可能性を持っている。そういう社会を創造するようにポジティブに取り組めば実現できると考える。その場合でも、ハラリが指摘する「科学や行政、メディアに対する人々の信頼を構築した上で」進めることが肝要となる。

 今後、仕事や社会活動の面でオンライン化、リモート化、IT化が進むと、自宅で仕事をする時間が増える。すると、家族と一緒に過ごす時間が増え、地域のコミュニティとの繋がりが増えていく。通勤して会社で過ごす時間が多かった時に「会社人間」であった人々が、「家庭人」、「社会人」へと変わっていくのである。さらに進むと、在宅で複数の会社の仕事をしたり、地域の社会人として地域社会に貢献する仕事や活動もするようになる。そうなれば、一人暮らしの老人を地域社会で支援する仕組みも可能となる。また、引きこもっていた若者たちも在宅で仕事ができるようになる。

 人が「幸福」と感じるためには、「家族の絆」と「地域社会とのつながり」が重要な要素となる。現代社会の若者たちは、その両方が稀薄になって孤独感にまされている。そうした若者たちに、上述した「希望の持てる社会」の建設に参加してもらうのである。それは、若者たちの孤独感を救済することにもつながる。

 また、今後の社会は、5G6Gの高速通信技術が実用化されて、地方でも一流医師によるリモート手術が受けられ、AIによる的確な診断も可能になる。

 日本におけるもう1つの希望は、コロナ禍終息後に再び日本文化に憧れるインバウンドの観光客が増えていくことである。「文化」は、地域の人々が暮らしてきた歴史の蓄積であり、貴重な財産である。日本に限らず、それぞれの国や地域の固有文化は、今後の世界経済を支える資産になり得る。特に貧困国の多いアフリカの救済策として、アフリカ各地の固有文化を観光資源として活用することが有力な方法になると筆者は考えている。

 

おわりに

 新型コロナウィルス感染症が中国で発生して4ヶ月余になります(2020428日現在)。その間に世界中の人々の生活が一変して、人間本来の社会的な交わりが抑制され、耐え忍ぶ生活を余儀なくされています。筆者は日々に深刻化していくメディアの暗い情報を収集してきまして、この拙文をできるだけ明るくなるようにまとめてみました。そうすると、深刻なコロナ禍が新しい時代、新しい世界に変わるために人類に課せられた「試練」のように見えてきました。

 人類は、今世紀末に世界の人口増加率がゼロになると言われています。生物の「成長曲線」で言えば成長期が終わる時点にいます。ということは、経済成長を競っていた時代は終わり、平穏で変化の少ない時代に入っていくことになります。慢性的なストレスにさいなまされた過酷な競争社会は終わり、安穏な生活が送れる社会になることが期待できます。そうなるためには、残念ながら現在の米国の自国第一主義や中国の強権主義では不可能です。人類は、まだまだ紆余曲折を経ながら、徐々に新しい時代にふさわしい秩序を形成していくのでしょう。そのように思えるようになったことが、筆者にとってこの拙文を書いた収穫でした。

 少々長い拙文を最後までお読みいただき、感謝致します。

                               (以上)

     (続) 中国・韓国があぶない

                       2020年正月 芦沢壮寿

 

 昨年11月に書いた『中国・韓国があぶない』に引き続いて、最新の著作物を読み解いて分かってきた事実をもとにして、『(続)中国・韓国があぶない』を書いてみました。最新の著作物とは、ハドソン研究所首席研究員 日高義樹著『アメリカは中国を破産させる』(201911月、悟空出版)、元ソウル大学教授・現李承晩学堂校長 編著の日本語版『日韓危機の根源−反日種族主義』(201912月、文藝春秋)、法政大学大学院政策創造研究科教授 真壁昭夫著『ディープインパクト不況−中国バブル崩壊という巨大隕石が世界経済を直撃する』(201911月、講談社+α新書)の3冊です。この3冊をもとにして、下記の構成でまとめてみました。

       1.変貌する米国の国家戦略

       2.国を滅ぼす韓国の嘘つき文化

       3.中国の巨大バブルの崩壊

       4.あとがき

 尚、1.は主に日高義樹著『アメリカは中国を破産させる』、2.は李栄薫編著『反日種族主義』、3.は真壁昭夫著『ディープインパクト不況』をもとにしてまとめました。4.は筆者の考察をまとめたものです。

 

1.変貌する米国の国家戦略

[先端技術における米中の対決]

 米国のCIAFBIによると、ファーウェイは中国の公安機関や人民解放軍の情報部隊と同一体であり、米国に対するハッキング攻撃の強力な実行部隊だという。トランブ大統領は、昨年の813日に国防権限法を発動して、政府及びそれに関連した機関がファーウェイの製品を購入することを一切禁止し、さらに、国際緊急経済権限法に基づいて、ファーウェイと関わりを持つ企業が米国に進出することを禁止し、ファーウェイと関わりを持つ米国企業が中国に投資することを禁止した。つまり、世界中の企業が米国とビジネスを続けたいのであれば、ファーウェイとの関係を絶たなければならなくなったのである。ファーウェイは米国を中心とする研究開発ネットワークから閉め出されることになり、その結果として、中国の先端技術の研究開発は世界から孤立し、発展が大きく損なわれることになる。

 一方、中国政府も政府機関や公的機関に対し、外国製のコンピュータやソフトウェアを3年以内に排除するように指示していることから、5G通信網の構築に外国企業の参入を禁止することになるであろう。結局、5G通信網の構築をめぐって、今後の世界の先端技術は米国側と中国側に分裂することになる。

 

[戦う米国が消えていく]

 中国との対決という点で、今、米国で問題になっているのは、グーグルやフェイスブックなどのインターネット企業が米国を裏切って中国に加担していることである。米国の投資家ピーター・ティールによると、グーグルは今でも中国のための情報分析活動を行って、中国軍のための戦略を手助けしているという。グーグルはワシントン・ポストや多数の出版企業、テレビ局を買収し、フェイスブックは反トランプの代表であるCNNを乗っ取った。そして、米国の全てのソーシャルメディアが、トランプ大統領の中国に対する関税に反対の姿勢を表明し、トランプ批判に全力をあげている。トランプ政権がグーグルを代表とするハイテク通信企業を攻撃すれば、世論を代表するマスコミを攻撃したことになり、世論を敵に回すことになる。しかし、マスコミやソーシャルメディアが束になってトランプ大統領を攻撃していても、トランプ大統領の人気が歴代大統領のなかでも非常に高くなっていることは不可解である。

 トランプ大統領の人気が高い理由は、「軍事力を行使しないというトランプ大統領の外交軍事政策」、「自らの信念に基づいてビジネスのように交渉し、話し合いで解決しようという外交姿勢」にあると思われる。トランプ大統領は、補佐官や顧問の意見に耳を傾けるが、自分の直感を大切にしていて、最終的には自らマクロ的な決定を断固として行う。こうしたトランプ大統領の政治・外交姿勢は、「第2次世界大戦以降の米国の武力行使の外交は良くなかった」と考えている多くの米国民の支持を集めていると考えられる。

 今、米国のマスコミが民主党の5人の猛烈な女性政治家の話でにぎわっている。その先頭に立っているのは、米国政治史上最年少の女性下院議員アレクサンドリア・オカシオコルテス(29歳)である。彼女は、ニューヨークにおける20186月の民主党内の選挙で、ロペーシ下院議長の陣営のナンバー4と見なされていた議員歴20年の現職議員をやぶって当選した。彼女は、他の3人の若くて猛烈な女性下院議員とともに、高齢と無気力で腐敗しきった民主党の内部構造を壊し、新しい民主党の構造に作り替えてしまった。

 また、カリフォルニアで検事総長を2年務めた経験をもつ女性のカマラ・ハリス上院議員は、民主党大統領候補のディベートでバイデン前副大統領の政策を明快な論理で徹底的に叩きのめしたことからマスコミに持ち上げられ、民主党の有力候補となった。

 民主党は、下院議長ナンシー・ペローシが78歳、下院院内総務ステニー・ホイヤーが79歳、院内幹事ジム・クレイバーが78歳で、いずれも高齢であることから沈滞してしまっている。さらに、長年、ロペーシ下院議長が教師の労働組合、トラック業界の組合などの幹部と密接な関係を続けていて、組合費から拠出される政治資金を一手に掌握し、その莫大な資金を選挙に使って議員たちを操ってきたことから、民主党内に腐敗が蔓延している。

 5人の猛烈な女性政治家たちの出現によって、米国の政治原則が変わりつつある。端的な例として、彼女たちは、CNNのインタビューの中でトランプ大統領の移民政策に対して、「レイシスト(人種差別主義者)}といった辛辣な言葉で批判したが、従来の政治原則ではこうしたあからさまな言葉で個人攻撃をすることはられることであった。こうした女性たちの出現によって米国の政治原則が歪められ、感情的なギクシャクした政治になる危険性が生じた。

 今年の大統領選挙についてであるが、民主党のバイデンは、ウクライナとの関係や中国金融界との暗いつながり(2009年に中国銀行から15億ドルがバイデンの息子の金融機関に融資されたことなど)が命取りとなって大統領候補にはなれないだろう。民主党は仮に女性議員のパワーで党体制が改善されたとしても、中国との対決や政治・外交姿勢で人気を高めているトランプ大統領に勝てそうもない。つまり、次期大統領はトランプになる可能性が高いのである。

 トランプ大統領の「戦わない外交軍事政策」が続き、民主党も女性パワーが支配するようになれば、米国はますます戦争ができなくなり、従来の「好戦的な米国」は確実に消えていくであろう。

 

[日米安保が消滅する]

 米国が戦争をしない国に変わっていったときに、日米安保体制はどうなるのであろうか。今までの米国は、自らの体制を国際的に広めて維持することが国益になると考え、それを実現する手段として日本を自らの力で守る「日米安保体制」が国益となった。しかし、自国第一主義に方向転換した米国は、周りの無力な国々を無条件で助ける体制をやめようとしている。

 今までの米国は例外的で特別な国であった。共通の文化やしきたりを持たない人々が集まってできた米国の国民は、国に対する忠誠心によって米国が成り立っていると思ってきた。そうした思いが、米国を例外的で特別な国とし、長い歴史をもつ他の国々とは違ったルールやモラルを形成してきた。米国の憲法は、国家を維持することよりも、国家が国民の権利を侵したり、妨げたりしないことに重点をおいている。米国は、侵略的で領土拡大の意欲が強く、好戦的であった。しかし、米国の領土拡大の野心は冷戦に勝った後、ほぼ限界に達し、今や例外的・特別な米国としての原則が揺れ動いて、戦争をしない国になろうとしている。

 こうした情勢変化のもとで、日米安保が消滅することは歴然としている。今までの日本は、経済に偏重して、最も大事な国家主権である「国の安全保障」を米国に頼ってきた。日本は、新しい国際情勢に適応して存続するための「体制」と「思想」を持たなければならない。そのためには、憲法を改正して、国民が「自らの国を自分の力で守る」という思想を共有し、国としての安全保障を維持する体制をつくらなければならない。

 

[米国の朝鮮半島戦略]

 今でも朝鮮半島は米国、中国、ロシアの3つの軍事大国がせめぎ合う戦闘地帯であり、韓国・北朝鮮には国家主権がない。最大の国家主権は国家としての安全保障の確保であるが、韓国における作戦行動は米国が握り、韓国軍はいっさい関わりがない。北朝鮮は、中国とロシアからの圧力と経済的締めつけを受けて、間接的な統治を受けている。

 日本の降伏により解放された朝鮮半島では、ソ連がすばやくを送り込んで北朝鮮を建国させたのに対して、米国は朝鮮半島に新しい独立国家を設立することを本気で考えていなかった。そこで、急遽、米国内で見つけたを送り込んで韓国の初代大統領とした。このような大韓民国建国の経緯から、前回に「日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲となった独立運動家たちが建国の主体となることができず…」と述べたように、韓国人は李承晩による大韓民国建国の正統性に疑念を抱くようになり、韓国の左派勢力は北朝鮮の方が正当性があると考るようになった。左派の政権は北朝鮮との統一を望んでいるが、米中ロの三大軍事大国の政治力学から見て、南北統一を実現することは非常に難しい。仮に統一しても、1人当たりのGDPが韓国の40分の1の北朝鮮と一体化すれば、韓国経済は向上するどころか、北朝鮮のインフラ整備に韓国人の税金が使われて韓国の大衆は劇的に貧しくなるであろう。

 北朝鮮は、米中ロが数十年にわたって核兵器開発を阻止してきたにもかかわらず、核保有国になってしまった。そうした北朝鮮に対して、トランプ大統領はその核兵器を全面的に放棄させようとしているが、不可能であろう。トランプ大統領は、韓国から米軍を撤退させようと考えていて、その延長線上に米国の伝統的なアジア戦略を放棄することも視野に入れている。

 

[中東からの撤退]

 2019914日、イラン革命軍がサウジアラビアの石油の7割を精製するアブカイク精油所を30発を超すクルージングミサイルとドローンで攻撃して炎上させた。この攻撃について、地球全域で行われるミサイル発射を24時間体制で監視している米国宇宙軍が「イランが攻撃した」と報じた。しかし、米国は、友好国であるサウジアラビアを守ることができなかった。

 イランとサウジアラビアは、イスラム教のシーア派とスンニ派の盟主として対立してきた。イラン人は、インド・ヨーロッパ語族のペルシャ語を話すことからアラブ人ではない。偉大なペルシャ帝国の末裔であるイランは、ペルシャ帝国を再興して中東の指導国になることを国家目標に掲げ、核兵器の開発を行ってきた。それを阻止することは不可能であろう。

 一方、サウジアラビアは18世紀に地方豪族が興した国であるが、1964年にファイサル国王が登場してから国らしい国になった。現在では、アフリカからやってきたスンニ派のイスラム教徒が大勢を占め、米国資本のアラムコが支配する国となっている。

 トランプ大統領は、オバマ大統領時代の甘いイラン政策を破棄して、厳しい経済制裁を行っている。その制裁方法は、米銀行を通るイランの石油取引資金の移動を阻止するこでイランの石油輸出量を厳しく制限するものである。イランでは民衆の間でハメネイ師を頂点とする宗教政権に対する反発が高まっている。トランプ大統領は、イランを経済的に追い詰めることによって、最終的に宗教政権を倒すことを目論んでいる。そのためにトランプ大統領は、軍事行動を主張したボルトン安全保障補佐官を更迭し、イランに対する戦争はしないという姿勢を鮮明にしている。

 しかし、トランプ大統領の軍事力を行使しないイラン戦略は有効に働いていない。イランは、ペルシャ湾を航行するタンカーを攻撃し、中東各地で紛争を起こしている反政府勢力やテロリスト集団を支援し、兵器を提供して混乱を増長させている。今や中東における米国の威信は大きく落ち込んでしまい、米国は中東から軍事的にも外交的にも撤退せざるをえなくなりつつある。

 米国の撤退にともなって、ロシアがトルコ、イランとの関係を強化しつつあり、中東に乗り出そうとしている。

 

[欧米同盟体制の終焉]

 EU28カ国(英国を含む)の人口は5億人で、中国の人口の3分の1強だが、GDP17兆ドルで中国の10兆ドルを7割も上回り、20兆ドルの米国に次いで世界第2位の経済圏を形成している。こうしたEUの経済を支えているドイツは、第1次世界大戦と第2次世界大戦で米国に負けたことから、米国に対するを抱いている。ドイツの政治家や指導者たちは、ドイツが米国の軍事力に守られて経済を拡大してきたという意識を全く持っていない。反米的なドイツは、石油や天然ガスの開発でロシアに技術協力し、資金援助も行っている。さらには、ロシアの石油・天然ガスをヨーロッパ市場に流通させる2本のパイプラインを造る「ノルドストリーム計画」を一手に引き受けて進めている。また、ドイツは、オバマ大統領を騙して、イランに有利な包括協定を結ばせる一方、イランの核兵器製造を手助けしていると言われる。こうしたドイツに対してトランプ政権は、強制的に「ノルドストリーム計画」の中止を強要し、ドイツ企業にイランとのビジネスを止めさせるという強硬手段に出ている。

 一方、冷戦に敗れて11の共和国を失い、超大国ではなくなったロシアのプーチン大統領は、2014年にウクライナのクリミア自治国に侵略して占領し、逆襲を始めた。ウクライナは民主化を進めて、EUに加盟する動きを始めていたが、ロシアのクリミア占領の結果、それが阻止されることになり、冷戦後に続いていた西欧民主主義勢力の東欧への拡大の動きが止まった。プーチン大統領は、素早くバルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアに軍事介入して、バルト海から黒海に至る領域を軍事的に制圧してしまった。ロシアは再び西欧に戦いを挑み始めたのである。

 こうしたヨーロッパの危機的な状況にトランプ大統領は苛立ちを募らせていて、ロシアの台頭を抑えるためにヨーロッパ諸国に国防費の拡大を強く求めている。トランプ大統領は、米国がヨーロッパを一方的に守ってきたNATOを破棄することを明言するようになった。しかし、多くの米国民は、米国という国が歴史的・文化的にヨーロッパの一部であり、ヨーロッパと一体だと考えているから、「NATOの解体」を米国民に納得させることは非常に難しい。それでも、徐々にではあるが、その方向に進んでいくことは確実であろう。

 

2.国を滅ぼす韓国の嘘つき文化

[韓国の嘘つき文化]

 今や韓国の「嘘つき文化」は国際的に広く知れわたっている。韓国では偽証罪と保険詐欺が蔓延していて、人口当たりの偽証に基づいた告訴件数は日本の1250倍、生命保険、損害保険、医療保険などの保険詐欺の人口当たり金額は米国の100倍だという。こうした韓国人の「嘘つき文化」は、政治の世界でも前大統領 を嘘によって倒してしまった。2014年に起こったセウル号沈没事件のときに朴槿恵が青瓦台で愛人と密会していたとか、事件の娘は朴槿恵の隠し子だとか言った、女性を蔑視する韓国人の集団心理が作り出した嘘によって朴槿恵政権は倒されたのである。

 韓国民を嘘つきにしている一番の責任は、「嘘をつく学問」にある。韓国の歴史学や社会学は嘘の温床で、大学は嘘の製造工場だという。韓国の学者は、真っ赤な嘘を土台にして歴史教科書を書いてきたが、その嘘は主に、日本が韓国を支配した歴史に関連して横行した。こうした嘘に基づく教育を受けて育った裁判官たちが、何が事実で何が嘘かを弁別できないために、国の根幹を揺さぶるようなデタラメな判決を下している。「嘘をつく学問」が嘘の歴史教科書を作って60年がたち、その嘘の教育を受けた世代が大法院の裁判官になって「嘘の裁判」をするようになったのである。

 徴用工訴訟で日本企業に支払いを命じた判決で、嘘の可能性が高い主張を検証もしないで下した判決が果たして有効なのか。原告4人のうち2人は、日本製鉄が月給の大部分を強制貯蓄させ、寄宿舎の舎監に通帳とハンコウを保管させたが、その舎監が最後までお金を返してくれなかったと言っている。この訴訟で舎監が原告たちと一緒に韓国に帰国しているという事実から推測すると、舎監は韓国を発つときから同行した朝鮮人の後見人である可能性が高く、未成年の原告に代わって原告の本家に給料を送金していた可能性が高いのである。しかし、事実の検証の必要性すら感じないほど当時の実態について無知な裁判官たちは、そうしたことを一切検証することもなく、誤った正義感から日本製鉄の責任を追求したと考えられる。

 戦時中に毎年10万人以上の韓国人が高い所得と良い職場を得るために、自発的に日本へ渡って来た。それは、当事者の合意を前提にした契約関係であった。しかし、今日の韓国人が歴史教科書から学んだ通念は、「彼らが奴隷として強制連行され、酷使された」というものである。そうした嘘の歴史は、1965年以降、日本の朝鮮総連系の学者が作り上げたデタラメな学説が拡散した結果であった。

 韓国では、1948年〜60年の李承晩による建国時代、1961年〜79年の朴正熙による近代化時代の後、1980年から自律時代に入った。すると、1910年の「日韓併合」によって滅んだ李氏朝鮮王朝の時代の精神文化であった「物質主義」(お金と地位を最高と見なす価値観)が蔓延するようになった。物質主義は、李氏朝鮮王朝時代の専制政治の暴圧のもとで、国民が奴隷根性に染まって精神文化が堕落し、嘘をつくという悪習が横行したことから生まれた。結局、李氏朝鮮は卑怯で愚かな王と王にだけ忠誠をつくすが庶民を虐待する官吏のせいで国が滅んだ。そして今、李氏朝鮮王朝が滅んだ理由も分かっていない歴史学者や政治家たちによって、韓国は亡国の危機に瀕しているというのである。

 このように主張する李栄薫らの6人の歴史学者は、201812月から李承晩学堂を拠点にして、李承晩TVを通して、「危機韓国の根源:反日種族主義」と「日本軍慰安婦問題の真実」という2つのタイトルで連続講義を行っている。「種族主義」とは、シャーマニズムの韓国社会で個人が集団の中に包摂されて「自由な個人」が存在しない社会の政治的志向である。「自由な個人」とは、西欧で生まれた近代市民社会における「市民」を意味するが、日本でも鎌倉時代以降の武家社会で領主による自治政治の下で生まれた領民たちが「市民」に相当する。そうした「自由な個人」の存在が明治維新による「近代化」を成功させる要因となった。

 李栄薫は、110年前に国を失った朝鮮人がその原因も分からずにいるのであれば、もう一度国を失うのは難しいことではないと述べ、文在寅政権が憲法から「自由」を削除しようとしていることに危機感を抱いた。李栄薫は、李承晩が著書「独立の精神」の中で述べている「自由論」から、李承晩こそ韓国を自由の道に導こうとした先駆者であると捉えている。文在寅らの左派勢力は、「自由」を個人の軽薄な利己心だと考えていて、本来の「自由」という理念を全く理解していない。彼らは、李承晩が建国し朴正熙が近代化した大韓民国を「権力欲と既得権に忠実な反民族勢力がもたらした災難だ」と捉えていて、逆に「自由」を抹殺する方向に進もうとしている。そのことに亡国の危機感を抱いた李栄薫らの6人の歴史学者は、李承晩学堂を拠点にして、韓国人の啓蒙運動に立ち上がったのである。

 

[日韓関係を破綻させた挺対協の慰安婦世論作り]

 反日種族主義の最たるものは、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)による「慰安婦世論作り」であった。挺対協によって日韓関係は破綻したと言っても過言ではない。挺対協は1990年に結成され、そのメインメンバーは韓国教会女性連合会と梨花女子大学の教授である。彼女らは、以前から慰安婦の強制連行が真実だと信じ込んで日本政府に謝罪を要求していたが、日本政府が強制連行を否認すると、大々的な国際世論作りに動き出した。

 1992年に中央大学の吉見義昭教授が防衛研究所の図書館で日本政府が慰安婦の募集と慰安所の運営に関与した文書を発見し、宮沢喜一首相が韓国の国会で謝罪をすることになったが、強制連行の事実は発見されていない。1993年に河野内閣官房長官談話として慰安婦関係調査結果を発表すると、挺対協は、「公権力によって暴力で強要された性奴隷」、「現代型奴隷制」という宣伝とロビー活動を国連人権委員会の小委員会で行うようになった。そして、1998年に小委員会は「戦争中の組織的強姦、性奴隷制度及び類似奴隷制」に関する報告書を発表するに至った。日本政府は、1995年の戦後50周年に当たり「村山談話」を発表して、日本の侵略戦争を謝罪し、「女性のためのアジア平和国民基金」を作り、その基金から慰安婦一人当たり200万円の慰労金を支給した。しかし、挺対協は、それを拒否し、あくまでも日本政府が謝罪し賠償すべきだとして突っぱね、2007年には米下院と欧州議会で日本政府に慰安婦問題解決を促す決議案を出させることに成功した。さらに、2011年にソウル市の日本大使館前に慰安婦少女像を建てた。同年に韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦の賠償請求権に関する韓日間紛争を解決しようとしないのは違憲」という判決を下すと、それを受けて朴槿恵政権は2015年末に日本政府との間で次の合意に達した。その合意とは、韓国政府が日本政府から10億円の慰労金をもらって財団を設立して被害者に支給すること、日韓両国間で最終的かつ不可逆的に解決されることを確認することであった。しかし、またもや挺対協は、その合意が密室外交であり、被害当事者との合意がなかったとして強く反発した。次の文在寅政権は、合意は間違ったものだとして、2018年に合意を破棄し、再交渉は要求せず、曖昧にしている。

 こうした経緯を見ると、挺対協の目的は、慰安婦の救済ではなく、日韓関係を破綻させることにあるように見える。挺対協の慰安婦運動は、嘘の歴史を信じ込んで日本が受け入れられない要求を次々と突きつけ、日本に恨みをぶつける「反日種族主義」そのものであった。李栄薫は次のように述べている。

 『まず、1990年までの我々の45年間を、それ以降も含めた解放70余年を反省すべきです。娘を売ったのも、貧しい家の女性を騙して慰安婦にしたのも、また、その女性たちが故郷に帰ってこれないようにしたのも、帰って来たとしても社会的蔑視で息を殺して生きていくしかないようにしたのも、我々韓国人ではありませんか。50年近くあまりにも無関心だったのではないでしょうか。50年過ぎて新たな記憶を作り出し、日本を攻撃し続け、結局韓日関係を破綻寸前まで持って行ったこと、まさにこれが1990年以降の挺対協の慰安婦運動史でした。我々は、この慰安婦問題の展開の中に最も極端な反日種族主義を見ます。』

 

[独島(竹島)は韓国領ではない]

 李栄薫は独島にまつわる歴史書や地図を詳細に調べた結果として、独島は韓国領ではないと断言している。1905年に明治政府が竹島の履歴を調査し、それが朝鮮王朝に所属していないことを確認して、竹島を自国の領土に編入した。その時に大韓帝国が日本に異議を唱えなかったのは、韓国には独島(竹島)に対する認識が全くなかったからである。

 19519月に日本と連合国の間で講和条約が結ばれ、日本の領土の境界が決定されたが、その前に、韓国政府が米国に独島を日本領土から分離するように要請した。その要請を受けた米国務省は、19518月に「我々の情報によれば、通常人が居住していな岩の塊は、韓国の一部として扱われたことがなく、1905年以来日本の島根県隠岐の島管轄下に置かれていた。韓国は以前に決してこの島に対する権利を主張しなかった」と返信した。李栄薫はこの米国務省の返信内容が驚くほど正確であり、これが独島(竹島)領有権の全ての真実を語っていると述べている。

 ところが、1952年に李承晩大統領が「李承晩ライン」(韓国では「平和線」)を発表し、独島を韓国領に編入してしまった。それ以降、韓国の歴代政権は日本を刺激しないように自制し、1965年の日韓国交正常化に伴って友好関係を増進してきた。しかし、2003年に盧武鉉政権になると、独島問題で攻撃的な姿勢をとるようになり、独島についても「反日種族主義」をむき出しにしてきた。独島にいろいろな施設を設置し、民間に島の観光を奨励したのである。しかし、李栄薫は、韓国の主張する独島領有の根拠が全て根も葉もない作り話であることを韓国の歴史書や地図を使って証明している。

 

中国の巨大バブルの崩壊

[中国経済の失速と不動産バブルの崩壊]

 中国経済は、2018年前半まで政府の計画に沿って推移してきたが、米中経済戦争の激化にともなって減速が早まった。それとともに共産党指導部への信頼が低下しつつあり、支配体制に綻びが見えてきた。実際に富裕層は海外に資産を移している。これは習近平政権にとって想定外だったと思われ、習近平の権力基盤に異変が生じている。経済の改革を重視していた習近平は、米国との経済交渉で米国の改革要求に譲歩するつもりでいたが、保守派からの批判を受けて、7分野150ページの合意文書案から法的拘束力を持つ部分などを削除し、105ページに圧縮した修正文書を米国に送り付けた。そのために米中の経済交渉は暗礁に乗り上げた。

 20197月の国際金融協会のレポートによると、家計、企業、政府部門を合計した中国の債務はGDP比で303%強になった。2年以内に償還を迎える中国企業の社債は15000億ドルに上がって、企業の債務不履行が激増している。中国の海外投資も激減し、日本より少なくなった。その原因は、中国政府が資本流出規制のために、中国企業の海外企業買収を絞っているからである。

 1990年代以降、中国は「世界の工場」としての地位を確立してきたが、2012年から生産年齢人口が減少に転じ、2018年からの米中経済戦争で今やその地位から転落しつつある。それに伴って大量の失業者が出ている。

 中国の経常収支は、2015年に3000億ドルであったが、2018年には500億ドルに急減した。IMFの予測では、2020年に400億ドルに減少し、2022年には60億ドルの赤字に転落して、2023年以降はずっと赤字が続くという。

 経済が低迷する中で中国政府は不動産バブルの崩壊を何とか食い止めてきた。しかし、永久に食い止めることは不可能であり、2025年までには崩壊するであろう。バブルが崩壊すると、不良債権処理、ゾンビ企業処理、失業の増加、財政の悪化などの問題が顕在化する。こうした問題に対処するために中国政府は、公共事業を増やして人為的に景気を維持しようとするであろが、効率性が低くて収益を生まない投資を繰り返すと不良債権が雪だるま式に増えていき、いずれ政府の景気対策は限界に達する。

 中国の不動産バブルの崩壊は、以下に述べるように「デッド・デフレーション」というメカニズムで進む可能性が高い。経済成長の低下にともなって需要が低迷し、物価の上昇ペースが鈍化する。企業は、債務の返済負担の増大にともなって設備投資を減らし、債務返済を優先するようになる。すると、さらに需要が低迷してモノとサービスの価格が持続的に下落するデフレとなり、債務返済のために資産の売却が進んで不動産価格・株価・物価が連動して下落するようになる。それがデッド・デフレーションの不動産バブル崩壊である。

 バブル崩壊がデッド・デフレーションになるということは、崩壊のスピードが緩やかになることから、多少の救いとなる。そのために、世界各国は中国バブルの崩壊の経済的な影響に対する対応がしやすくなるが、世界経済全体に大きな影響が及ぶことは間違いない。

 バブル崩壊は、テクノロジー開発を軸にした中国の成長戦略を破綻させることになって、中国経済は行き詰まる。中国は、巨額の債務処理ができなくなり、一党独裁体制による国家資本主義体制が機能不全に陥る。すると、共産党への国民の求心力が急速に低下する。共産党への求心力とは、「豊かになれるという希望」、「人々を監視することで求心力を保つこと」(現在、中国の公安関係の支出は国防支出よりも多く、既に2億台の監視カメラが全国に設置されている)、「強大な国力など、国に対する誇り」の3点にあるが、一党独裁体制が機能不全に陥れば、この3点とも失われてしまう。その結果、一党独裁体制を持続することが非常に困難になる。

 アジア諸国は、中国の「債務の罠」への警戒を強め、中国との距離をはかりながら、米国や日本の出方を見極めている。フィリピンのドゥテルテ大統領は、南シナ海の領有権問題について習近平に「国際仲裁裁判所の判決は最終的なものであり、拘束力がある」と主張するようになった。

 中国の不動産バブル崩壊の影響を最も強く受けるのは、中国依存度の高い韓国とドイツである。既に韓国とドイツの経済は、中国経済の減速にともなって急速に悪化している。中国経済が行き詰まると、韓国の上場株式時価総額の半分を保有している外国人投資家が株を売却するようになり、韓国経済全体で資金繰りへの懸念が高まる。中国がIT先端分野の国産化を急速に進めていることも、韓国とドイツの対中輸出を減少させることになる。

 

[2030年の世界]

 10年後の2030年における世界の状況を予測してみる。中国は政治と経済の両面で厳しい状況になるであろう。不動産バブル崩壊を経た中国経済は「国家大乱」ともいえる不安定な状況に直面している可能性が高い。政治面でも中国経済を運営してきた一党独裁体制が崩壊の危機に瀕しているであろう。

 中国政府は、「西部大開発」と称して、ウィグル族、チベット族などの少数民族が集中している地域の経済の底上げを目指す経済開発プロジェクト(青蔵鉄道を建設してチベットへの観光客を増加させたことなど)を実施してきたが、それでも少数民族の共産党政権に対する不満は解消されず、漢民族から離反するエネルギーがたまっている。習近平政権は、少数民族に対する人権問題、香港デモなどで国際社会から孤立し、長老から「弱腰」と批判されて求心力を失いつつあるが、少数民族の人権問題や香港の一国二制度が一党独裁体制を揺るがす原因になりかねない。

 一方、米国は、中国バブル崩壊とともに米国経済の実力も低下していき、米国民の不満が増大して、自国中心主義への傾倒を一層強めるであろう。その結果、世界の政治・経済の連携体制に綻びが生じ、国際社会で不確実性が高まる。

 ヨーロッパでは、ユーロ圏を中心にマイナス成長が常態化して、ユーロ圏の崩壊が現実のものとなるであろう。ヨーロッパ統合の夢は終焉を迎え、各国の経済連携が逆回転する。さらに、移民・難民問題によって、混乱に一層拍車がかかるであろう。

 そうした状況下でロシアは、トルコやイランとの関係をさらに強化し、東欧諸国や中東への圧力を強めるであろう。ロシアは、米国が内向きになり、中国の不安定な状況につけ込んで、中東や極東への影響力を一層強める可能性が高い。また、中国の北朝鮮に対する影響力が低下する隙をついて、ロシアが北朝鮮との関係を強化し、朝鮮半島への影響力を強めていくであろう。

 

4.あとがき

 まず、韓国の「反日種族主義」についてふれる。昔から韓国人は、仇敵の日本には「反日種族主義」で反発し、大国の中国には「事大主義」で卑屈なまでに従順であった。筆者は、日中に対する相反する2つの主義の根底には韓国人の「恨」の文化があると考える。李栄薫は「恨」の文化について一切触れていないが、「反日種族主義」と「事大主義」の両方とも「恨」の文化に起因するものであり、「嘘をつく文化」は「恨」の文化の弊害だと思われる。どこの国の文化にも弊害がある。「恨」の文化が悪いのではなく、「恨」の文化の弊害として生まれた「嘘をつく文化」が悪いのである。韓国人はそのことを理解して、自らの文化の弊害をなくすように努力することが最良の解決策になると思われる。

 次に、2030年までに起こる世界の大変化について考察する。その大変化には3つの芯がある。その1つは、米国の実力が低下し、世界から手を引いて自国主義の国に変貌することである。2つ目は、中国の不動産バブルが崩壊して一党独裁体制が揺らぎ、政治・経済が不安定になることである。3つ目は、地球温暖化が急速に進んで、温暖化を抑えて産業革命以前の気温に引き返せるかどうかの分岐点に達することである。

 これらの3点によって今後10年間の世界経済は低迷し、世界全体が混迷するであろう。つまり、世界全体で株価・商品価格・不動産価格が下落する「日本化」(ジャパニフィケーション:低成長・低インフレ・マイナス金利の経済に陥ること)が起こる。石油は1バレル20ドルを下回り、世界的に企業の倒産が増加し、デフォルトに陥る国も出てくる。

 そうなると、世界の各国は自国の事情を優先するようになり、国際社会は多様化・多極化に向かう。各国の利害が衝突し、宗教上の対立が鮮明化していく。中東、アフリカではイスラム原理主義に傾倒する若者が増え、政情が不安定化する。その結果、世界が一致団結して経済危機や地球温暖化に対応することが一層困難になる。

 特に地球温暖化問題は深刻である。2020年から発効する「パリ協定」は、米国が離脱し、昨年末の「COP25」では具体的な合意ができなかった。従来、2050年までに産業革命以降の平均気温の上昇を15℃以下に抑えることを目標にしてきたが、最近の研究から、2030年までに温暖化ガスの排出量をゼロにしないと産業革命以前の平均気温に戻れない危険性があることが分かってきた。つまり、これから10年間が地球温暖化を防止できるかどうかの勝負所であり、それを過ぎると元に引き返せないのである。既に、北極圏のツンドラ地帯の永久凍土に閉じ込められていたメタンガス(二酸化炭素の25倍の温室効果がある)の5分の4が大気中に放出されてしまったので、今すぐ温暖化ガスの排出量をゼロにしても、今世紀いっぱいは気温が上昇し続け、永久凍土が全て溶けてしまうからである。これは仮定の話だが、もし1970年頃に温暖化ガス排出量をゼロにしていたら、永久凍土が残って今が気温のピークになり、100年かけて産業革命前の状態に戻っていけたという。それほど今までの50年間は地球温暖化問題にとって重要な時期であったが、それを逃してしまった今、2030年までに温暖化ガス排出量をゼロにしないと、取り返しがつかないことになる。ところが、生憎にも2030年まで世界は大混乱に陥りそうな情勢にある。これは、人類史上かつてないほどの大問題である。

 今後の10年は資本主義の経済制度にとっても正念場を迎える。資本主義は、産業革命以降、製造業が工場に働く労働者を抱えて豊かな中間層を生み出し、消費や経済成長を支えてきた。しかし、経済のディジタル化が進む今後の資本主義は、富の源泉が知識や情報・データに移って、高い知識やスキルを持つ一握りの人材だけを求めるようになり、一部の人だけが豊かになって格差が拡大する。今までの働き方は、「時間主権」を持つ個人が企業に時間単位で肉体を提供することであったが、ディジダル経済では個人の「知」や優れたアイディアの価値そのものを提供する働き方になる。そこでは、スキルの陳腐化が速まり、労働者の安定性が揺らぐ。資本主義の制度としては、日米欧などの「自由資本主義」と中国の「国家資本主義」の対立が激化していくであろう。

 中国は、国家統制の下で集めたビッグデータとAIを組み合わせることによって、先端技術で世界をリードし、国の資源配分計画でもうまく機能するようになると考えている。さらに、世界初の「中央銀行によるディジタル人民元の発行」でも、情報収集の基盤として使うと同時に、米ドルに代わって国際通貨の地位を獲得することを狙っている。しかし、こうした強みを持つ中国の国家資本主義が、バブル崩壊によって一党独裁体制が機能不全に陥る事態を無事に乗り越えられるかが問われている。

 一方、日米欧の自由資本主義は、ディジタル化にともなって大手IT企業による富の独占が進み、富の分配のメカニズムもうまく機能せず、経済の活力がなくなりつつある。このような「独占」、「格差」、「活力」などの諸問題を解決するには、自由資本主義の制度を再構築する必要がある。その場合に、自由市場経済の方が中国の統制型経済よりも効率が良く、活力が高くなるようにできるかが勝負所となる。

 最後に日本についてふれる。日本はかつて「環境先進国」と言われたが、今は高齢化などの「課題先進国」と言われるようになった。それだけ日本はこれから世界で起こることの先頭を走ってきたので、世界が大混乱に陥る中で比較的に平穏を保てそうな状況にある。しかし、変化する世界情勢に合わせて日本も変わっていかなければならない。米国が内向きになるのに伴って、日本は「自らの国を自分の力で守る」という思想のもとに、安全保障体制を確立しなければならない。日本と関係の深い中国と韓国の経済が低迷し、世界の経済が低迷していく中で、日本円が強くなり、1ドル60円ほどの円高になることが予想される。そうした経済情勢の変化にも対応しなければならない。さらに、再び環境問題で世界をリードしていくことが世界から要請される。これらのことにバランスをとって取り組むことが今後の日本の課題である。(以上)

日韓の抗争と米中のハイテク覇権争い

20199月 芦沢壮寿

 最近、日韓、米中の抗争についての出版物が多く出ている。それらの中で、韓国生まれで1998年に日本に帰化した呉善花氏(評論家、拓殖大学国際学部教授)の著書『韓国を蝕む儒教の怨念』(2019.8)、「日韓断絶」について特集した『文芸春秋』の201910月号、経済アナリストの朝倉慶氏の著書『アメリカが韓国経済をぶっ壊す』の3冊を読んでみた。それらには、日韓の抗争の実態と日韓が米中のハイテク覇権争いにまき込まれていく驚くべきことが書かれていた。そこで、3冊の文献の概要をまとめながら、日韓、米中の抗争の真相について考えてみることにする。

 

1.儒教の怨念にとらわれて自壊の道をたどる韓国

 評論家で拓殖大学国際学部教授の呉善花氏は、著書『韓国を蝕む儒教の怨念』の中で、前政権が不可逆的に最終合意をしたはずの慰安婦問題をひっくり返し、1965年に締結された日韓基本条約で解決済みの徴用工賠償問題をむしかえしている文政権が反日を加速させている理由について次のように述べている。

 韓国は、未だに家族・社会・国家が李朝時代の朱子学の儒教思想や道徳観に基づいて支配される道徳至上主義の国家である。そのために、韓国人のほとんどが個人としての主体性に乏しく、儒教道徳に支配された共同の心情や思想がそのまま個人の心情や意志になってしまう。政府の政治的決定や裁判官の判決でも、韓国社会では儒教道徳の「情理」をもって行われることが強く求められ、「法」よりも「情理」が優先される。日本や欧米などの近代法治国家の政治や裁判では、「法」に基づいて行うことによって「情理」や「情実」を排除し、真実に基づいて客観的な判断を下すことが「法治国家」の基本であるが、韓国は、その時々の国民の思いや情実にひきずられて政治や裁判が行われるのである。その結果として、不可逆的に最終合意したはずの慰安婦問題がひっくり返されることになり、日韓基本条約で解決済みの徴用工裁判で日本企業に賠償判決を下すことが起こっているのである。つまり、韓国は、未だに「近代市民国家」になり得ていないために、「法治国家」にもなっていないのである。

 2001年の1月、4月、11月の3回にわたって、1910年に締結された「日韓併合条約」の合法性・違法性について、日韓米英の研究者によって行われた「韓国併合再検討会議」では、韓国の研究者が無効・不法を主張したのに対して、日米英の研究者が韓国の主張を否定し、当時の国際法では合法であったと認定した。国際法の専門家J・クロフォード英ケンブリッジ大学教授は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むことはよくあったことで、当時の国際法上では不法ではなかった」と述べたが、それでも韓国の研究者は執拗に不法を訴え続けた。つまり、韓国の研究者は、李朝以来の儒教倫理・道徳に基づいて「韓国併合は植民地化であり、植民地化は道義的に悪である」という道徳至上主義の判断しかできず、真実や実態に基づく判断や当時の国際法に基づく判断が全くできないのである。韓国が近代市民国家としての法治国家になれない根本原因はそこにある。

 韓国が「悪」と決めつけている植民地化、即ち日本の統治時代の実態を研究したハーバード大学教授カーター・エッカートの著書『日本帝国主義の申し子』によると、植民地であったにもかかわらず朝鮮半島の工業が著しく発展し、朝鮮の経済構造が劇的に変わって近代化が進んだことが、1960年代以降の韓国経済の目覚ましい発展につながったと述べている。しかし、韓国はこうした実データに基づく研究を全く無視して、前近代的な道徳至上主義の観点だけから「日本の統治は悪」と決めつけているのである。李朝時代に花開いた朝鮮朱子学は、実際に起きた事実や現実を無視して、「あるべき理想」だけに偏重して空理空論に走る傾向があったが、現在の韓国人にも同じ傾向がある。

 『文芸春秋』の「日韓断絶」についての特集では、藤原正彦氏(作家・数学者)、佐藤優氏(作家・元外務省主任分析官)、道上尚史氏(前釜山総領事、現日中韓協力事務局長)、麻生幾氏(作家)の四氏が書いている。

 藤原正彦氏は、韓国の文在寅政権が日本に対して支離滅裂な行動をとっている原因について次のように述べている。その主な原因は、韓国が朝鮮最後の李王朝における「事大主義」(大国の中国につかえること)と「華夷秩序」(中華の外の蛮族を蔑視すること)を受け継いでいるからだという。李王朝は、大国の中国に卑屈なまでに服従して、属国として礼を尽くしているから中華の一員として認められているというかすかな誇りをもち、中華の外にいる日本を蛮族として蔑視することによって心の均衡を保ってきた。だから韓国人は、中国が韓国のTHAAD(高高度迎撃用ミサイル)配備に報復して韓国企業を中国市場から締め出したときでも反中デモをしなかったが、日本が韓国をホワイト国リストから除外しただけで連日の不買運動・反日デモをした。これは、未だに韓国人が「事大主義」と「華夷秩序」の虜(とりこ)になっていることを示す。

 李王朝は、中国の属国に甘んじて、国家としての主体性を放棄していた。そのために韓国人には、日本のように独立した国家としての主体性をもった「国家」・「国民」という意識が生まれなかった。李王朝の末期には、中国のご機嫌をとる一部の人間が支配層になり、中国への朝貢のために自国民を搾取し奴隷化し、政治が腐敗しきった。明治政府の外務大臣 陸奥宗光は、朝鮮は内紛と暴動ばかりで独立国家として運営する能力がないと言っている。このように、もともと国家や法・秩序に対する意識が薄かった韓国人には未だにその意識が育っていないのである。

 佐藤優氏の記事によると、韓国政府が日本との「軍事情報包括保護協定」(GSOMIA)を破棄したことは、日本政府の戦略通りのシナリオであり、日本外交の圧倒的な勝利であったという。日韓の信頼関係が損なわれている現状ではGSOMIAの意義が薄れていたが、それを韓国側から破棄したことによって、米韓の信頼関係に傷がつき、日本にとっても今後の徴用工問題や「ホワイト国」除外の撤回の交渉で「GSOMIA破棄」のカードを使われずにすむ。文政権は、国内の革新系の支持を取りつけるために「GSOMIA破棄」を強行したが、結果的には自らの首を絞めることになった。

 佐藤優氏によると、文政権は北朝鮮からも相手にされていないという。文大統領が「光復節」(韓国が日本の植民地支配から解放された815日の祝日)の演説で「南北協力を通じて、南北の平和経済を建設しよう」と呼びかけたのに対して、北朝鮮は「我々は南朝鮮とこれ以上話すこともないし、再び対座することもない」と言って一蹴した。北朝鮮からすれば、南北首脳会談を通じて米朝首脳会談への道筋をつけた時点で文政権はすでに用済みになったのだ。米国にしても、今後は米朝だけでやっていくつもりでいる。

 「日韓のすれ違い」の本質について書いている道上尚史氏は、「日本人の韓国観」と「韓国人の日本観」が昔と今で逆転現象を起こしていると指摘している。一昔前の韓国は、日本から産業技術、法律、行政、学問、ファッションなどを懸命に学び、歴史問題などでは日本に憤慨して、日本に注文を突き付ける構図であったが、近年の韓国人にとって、日本は観光、飲食などの心地よい消費の対象でしかなくなった。一方、日本人はかつて韓国を娯楽の対象と考えていたが、今や殆どの日本人が条約を守らず、裁判で勝手に元徴用工への賠償を日本企業に命じる韓国に失望し、韓国を嫌悪するようになった。

 道上尚史氏の韓国の友人たちは、「韓国人は、まだ自己中心的で被害妄想的な少年期の心理状態を脱していない」、「韓国人は、まだ民主主義の理解が浅い」と言って自己批判し、さらに、「1960年に李承晩体制を打倒し、1980年代後半に軍部独裁の権威主義体制を打倒し、最近では「ろうそくデモ」で朴槿恵政権を退陣に追い込んだことを自画自賛し、舞い上がっていているが、韓国人にはバランスのとれた国家観がない。民主国家は安全保障・外交・経済・法秩序など、健全な国家機能がないと成り立たないが、韓国人はそのことが分かっていない」と言って自己批判している。

 最後に麻生幾氏が韓国政府高官Xの「文政権は大韓民国を消滅させようとしている」という衝撃的な告白について書いている。Xは韓国大統領直属の情報機関「国家情報院」のエリート情報部員として、長年、対日関係の最前線で活躍してきた。Xは、「GSOMIA破棄」について、同盟国を守るためにアメリカが作成し、運用してきたシステムを安全保障に稚拙な文政権が破壊してしまい、韓米関係に決定的な損害をもたらしたと言っている。

 文政権は、かつて最も過酷な北朝鮮工作の任務を負わせていた対共調査局員を国家情報院に移し、「北朝鮮を取り込んで平和的に朝鮮半島を統一する」という任務を遂行させている。その任務を着実に遂行させるために、あらぬ疑惑を捏造して司法機関に通報するという恐怖感によって政府職員を縛り付けることが常態化している。

 こうした恐怖政治のもとでメインコンピュータのデータを北朝鮮に流出させているという疑惑が国家情報院の中で持ち上がっている。これが事実だとすれば、文大統領は退陣後に国家反逆罪で極刑に処せられることが確実である。

 訪日した国家情報院の代表は、日本の担当者と北朝鮮情報をメインテーマとして話し合うのが通例であったが、文政権になってからは北朝鮮情報を話題とせず、韓国側はもっぱら「北朝鮮を取り込んで平和的に朝鮮半島を統一する」という文政権の政策だけを話すようになった。それを受けて、日本の内閣官房は、中央官庁に「北朝鮮と韓国は一体化しているとの認識で注視し、情報収集に当たるように」と指示し、韓国を中国・ロシアと同等の脅威対象国として扱うようにした。

 文大統領は、来春の国会議員選挙に勝って憲法改正を行い、一期五年の任期を二期十年に変えて、北朝鮮との統一連邦国家へと進むことを目論んでいる。そうなれば、韓国は実質的に北朝鮮に同化されることになり、大韓民国は消滅することになる。Xが最も恐れていることはそのことであった。

 

2.日米連携による韓国制裁

 経済アナリストの朝倉慶氏は著書『アメリカが韓国経済をぶっ壊す』の中で、日本が韓国を「ホワイト国」から除外したのは日米連携によるものだと述べている(筆者も前回の「こじれる日韓関係」で同じことを指摘した)。朝倉氏は、トランプ大統領と安倍首相は連携して中国になびいている韓国に驚くべき制裁を加えようとしていると言うのである。

 現在の米中の覇権争いにおける最大の争いは、今後の世界で主要技術となる5G通信をめぐって、米国がトップを走るファーウェイ(中国の民営通信企業)を安全保障上の理由から締め出そうとしていることである。米国は、同盟国にファーウェイ製品を使わないように強く要請し、日本、オーストラリア、カナダは既にファーウェイ製品を使わないことを決めている。韓国は、ファーウェイ製品を使って5G通信を始めていることと、最大貿易相手国の中国からの制裁を恐れて、のらりくらりと返事を遅らせている。

 中国にとってもファーウェイ問題は自国の命運を賭けた、譲ることのできない死活問題である。世界の半導体シェアの5〜7割を占めるサムスン電子とSKハイニックスの2社との半導体取引はファーウェイの生命線である。中国当局は、2社の幹部を呼び出して、「我々は中国企業への供給を止めた外国企業を指定し、中国企業との取引を制限する」と言って、釘を刺したという。このように、韓国は米中間で股裂き状態に陥っているのである。

 米国にとって、経済的に中国依存を深め、米国の言うことを聞かない韓国に今後の米中のハイテク覇権争いの要となる半導体製造の主導権を握らせておくわけにはいかない。そのために、米国は、韓国の半導体産業を潰して、中国への供給を絶つという戦略をたて、フッ化水素などの半導体材料を握る日本と連携して、韓国の半導体産業を潰しにかかったと考えられる。

 その計画を実行するためには、サムスン電子、SKハイニックスに代わる半導体メーカーが必要になる。その候補は、米国半導体メーカーのマイクロンテクノロジーである。マイクロンテクノロジーは、半導体シェアでは、サムスン、インテル、SKハイニックスに次ぐ世界第4位になり、ここにきて急成長している。その急成長は、日本の半導体メーカーが合併してできたエルピーダメモリ(2012年に倒産)をマイクロンテクノロジーが買収し、再出発させたマイクロンメモリー・ジャパンによって引き起こされている。マイクロンメモリー・ジャパンは、拡張につぐ拡張を続けて、今や絶好調にある。今年6月には広島に新工場を完成し、さらに現在、広島工場内で別の新製造棟の建設を進めている。広島工場が完成した1ヶ月後の7月1日に日本が対韓輸出規制を発表したタイミングから見ると、前からトランプ大統領と安部首相は、日米主導で半導体生産のシェアを中国寄りの韓国から取り上げて、日米で独占していくという秘密の計画を周到に準備していたのではないかと思われる。

 かつて日本は、半導体製造をお家芸として世界の半導体シェアを席巻していた。ところが、1980年代後半に米国との「日米半導体協定」によって米国産の半導体を2割使用しなければならなくなり、日本の半導体技術が米国に流出し、半導体産業が衰退していった。そして半導体産業からリストラされた日本人技術者を取り込んだサムスン電子やSKハイニックスの韓国企業が一気に台頭したのであった。日本の半導体産業は、米国によって潰されたが、今、米国との連携により復活しようとしている。

 これからは、日米が連携して、マイクロンテクノロジーの半導体生産能力が増えるのに従って、日本から韓国への半導体材料の輸出制限措置を連発するようになり、韓国企業の生産量を抑えるという戦略を実行していくことになる。それに伴って、韓国企業から中国のファーウェイへの半導体供給量が制限され、ファーウェイの生産を抑えるというのである。

 反日を押し進め、米国と中国の両方にいい顔をしようとして米国の信頼を失った韓国は、日米に見捨てられることになる。韓国の歴史を見ると、米国や日本と協力して国を発展させようとする保守勢力と、民族主義を前面に押し出して中国の力をバックに日本と厳しく対峙しようとする左派勢力の抗争の歴史である。左派の文政権は、結局、韓国に悲劇をもたらすことになる。

 トランプ大統領が文在寅のような優柔不断で頼りない男を嫌い、独裁者の金正恩を好む性質であることも韓国に不幸をもたらしそうだ。スイスで育った金正恩も米国への憧れの気持ちを持っていて、トランプと「馬が合う」ようだ。

 金正恩は、トランプとの会談で「ラソン(北朝鮮北東部の中国・ロシアとの国境に近いラソン経済特区のこと)はどうか?」と言って、トランプにラソン経済特区への米国の参入を打診したという。今、その話が米朝間で進められているらしいのである。これまで、ラソン経済特区は中国とロシアに開放してきたが、中国企業との間でトラブルが続いたという経緯がある。金正恩は、中国や韓国ではなく、米国と組んで経済を発展させようと考えているのかもしれない。金正恩が文在寅を相手にしないのも、そのためだと思われる。

 米国にしても、全くあてにならない存在になり果てた韓国を捨てて、その代わりに北朝鮮を仲間に入れる可能性は十分にあり得る。そして、米国企業の北朝鮮への進出とともに、米軍基地を北朝鮮につくるという仰天するような話が出てきているというのである。

 

3.5Gをめぐる米中の覇権争い

 朝倉慶氏の著書『アメリカが韓国経済をぶっ壊す』によると、米中の覇権争いは「異なる文明、異なるイデオロギーの戦」であるという。それは、民主主義・個人主義に基づくプライバシーを重視する米国と、独裁主義・全体主義に基づいて社会の監視や治安を重視する中国との覇権争いであり、その最前線が5Gをめぐる争いである。

 5G通信で世界のトップを走るファーウェイの製品は、実際に価格が安いうえに高性能であり、圧倒的な競争力に長けている。今、ファーウェイとZTE(中国の国営通信企業)は中南米のラテンアメリカ諸国にすごい勢いで5G通信を拡販している。

 アルゼンチン、ブラジル、コロンビア、ウルグアイ、グアテマラ、エクアドルなどのラテンアメリカ諸国は、治安が悪く、麻薬がらみの犯罪が多いことで知られているが、ファーウェイとZTEは、「中国並みの治安を実現したければ、我々の監視カメラと5Gに対応した監視システムを導入すべきだ」と言って売り込み、ほとんどの都市を席巻するほどの大成功をおさめている。

 中国の監視システムで使う顔認証テクノロジーは、清華大学の3人の同級生が2011年に立ち上げたメグビーという会社の「Face++」という技術である。Face++は、ディープラーニングのAIを使い、顔認証率で世界トップの97.27%の精度を記録した。中国の強みは、14億人の人口があり、プライバシーに関係なくビッグデータをAIに使えることである。メグビーのFace++は、アリババ系のスーパーで顔認証だけで支払いができる「smile to pay」に使われ、さらには、中国国内の犯罪容疑者5000人を割り出し、逮捕したことでも偉力を発揮している。

 これに対して米国は「ファーウェイの機器を導入すれば、あなたたちのプライバシーは全て中国側に筒抜けになる」と言って警告していて、実際に米国は中国が外国の情報を傍受している証拠を握っていると思われる。

 しかし、米国の警告にはいまひとつ説得力がない。ラテンアメリカ諸国にとって、「中国並みの治安の実現」の方が「プライバシーの保護」よりも魅力的なのである。ラテンアメリカ諸国の政治リーダーたちは、中国が新疆ウィグル自治区で「職業訓練センター」と称する巨大監視収容施設を持ち、100万人以上の反中ウィグル族やムスリムたちを厳格に管理していることに驚き、限りない魅力を感じているのである。その巨大監視収容施設の管理を支えているのが中国の映像監視システムとスマートフォン監視テクノロジーである。

 フィリピンでもファーウェイの採用を決めた。フィリピン議会はプライバシーやセキュリティー面の懸念を理由に阻止に動いたが、麻薬撲滅に熱心なドゥテルテ大統領が中国の監視システムを採用したのである。

 ラテンアメリカやフィリピンのような発展途上国で政情不安定な国の政治リーダーが希求するのは、成熟した民主主義国のようなプライバシーの侵害や通信傍受を防止することではなく、ならず者たちを監視して、治安を維持することなのである。

 このように、今のところは中国の5Gのエリアが圧倒的に多くなっているいるが、そうなる理由は、ファーウェイの製品が安くて技術的にも優れているのに対して、それに対抗できる米国の5G技術がないからである。

 917日の日経新聞の英エコノミスト誌記事によると、米政府は5Gについてファーウェイと対抗できる米企業を育てるか、スウェーデンの通信会社エリクソンかフィンランドのノキアの5Gの競争力を高める支援を行うかを検討中だという。最近、ベトナムがノキアの5Gを採用することに決めたという報道があった。

 英エコノミスト誌の記事によると、ファーウェイの任正非CEOがエコノミスト誌とのインタビューの中で「5G技術の特許、ソースコード、設計図、製造ノーハウを含めて外国企業に外販する用意がある」と述べたという。その背景には、米国がファーウェイの利益の大部分を占めるスマホに対して、米グーグルのソフトやアプリを始めとする米国企業製品の禁輸措置をとっていることがある。ファーウェイは5Gの技術では米国より上にあるが、全般的なIT技術では米国に依存する所が大きいために、米国と対抗するより米国と共存する道を模索しているように思われる。

 一方、中国は企業債務がGDP252%にまで膨張して不動産バブルの崩壊寸前にある。家計も主に住宅ローンによる債務がGDP50%となって爆発的に増えている。中国の不動産時価総額は株式の時価総額の13倍になっていて、日本のバブル崩壊時の3倍をはるかに超えている。当局は不動産バブルが崩壊しないように神経をとがらせているが、持続不能なことを持続させることは不可能であるから、いずれはバブルが崩壊する。その上に、米中貿易戦争のさなかにある中国から企業が続々とベトナム、カンボジア、ミャンマー、タイ、ないしはメキシコなどに逃げ出して、中国を中心とするサプライチェーンの崩壊が始まっている。それでも中国は、共産党主導による国家資本主義の原則(国家が企業に補助金を出すこと、外国企業に技術を供与させ、外国企業の技術を盗むことなど)では米国に譲歩していない。

 コンサルティング会社ユーラシアグループ社長のイアン・ブレマー氏は、「Gゼロの時代は1020年続き、その後の世界秩序を担うのは米国ではない。中国は唯一の支配国とはならなくとも、支配的な役割を演じるだろう。」と断言している。中国は不動産バブルが崩壊してもよみがえり、国家資本主義を押し通して、巨大人口の強みを生かしたハイテク分野で世界をリードしていくのであろう。

 

4.あとがき

 以上の文献のまとめをもとにして、以下では日韓・米中の今後の展望について考察してみることにする。

 韓国の文政権が窮地に立たされている。文在寅大統領は、疑惑の側近を法相に任命するという強硬手段に出たものの、政権の支持率が40%に落ち込み、不支持率が50%を超えてしまった。文政権の看板政策である「所得主導成長」で最低賃金を前年比16%引き上げたことも経済を悪化させた。日本の輸出管理の厳格化に対して、文政権は日本から輸入している半導体素材の国産化を打ち出したが、韓国の「儒教資本主義」の経済体制のもとでは、その実現が不可能だということが分かってきた。

 韓国の儒教資本主義とは、李朝時代の特権階級であった「両班(やんばん)」が「匠(たくみ)」を軽視したのと同じように、現在の韓国社会でも両班に当たる財閥企業が匠に当たる中小企業を軽視し、下請けの弱みにつけ込んで低価格を強要し、技術革新への資金的な余力を削ってきたために、中小企業の技術力が向上せず、いくら資金援助しても高品質の半導体素材をつくることができない。韓国は、半導体や自動車などで輸出立国として成長してきたが、その裏では技術面で日本に頼り切り、日本への貿易赤字を拡大させてきた。今回の日本の輸出規制は、はからずも儒教文化に支配される韓国の問題点・弱点を露呈させることになった。

 中国の弱点は半導体を輸入に頼っていることである。その弱点をつかれて、2018年に米企業との取引を断たれたZTEは半導体を調達できずにギブアップした。しかし、中国は「2025」計画により、2018年に20%であった半導体自給率を2020年に40%、2025年には70%に引き上げる目標を掲げている。それが実現すれば、ファーウェイは国内で半導体を調達できるようになり、韓国企業からの調達が不要になる。韓国の半導体企業は日米から閉め出され、中国からも閉め出されることになり、韓国経済にとって大打撃となる。なお、中国の半導体企業の最大手は清華大学傘下の長江メモリー・テクノロジーズとなるであろう。

 中国でも大問題が起こっている。香港の若者達が中国の独裁支配に反発し、民主主義を守ろうとする政治闘争へと発展し、それが台湾にも飛び火する動きが出てきた。101日で中華人民共和国創立70周年の節目を迎える中国にとって、これは大きな試練となる。外国からの直接投資の7割が経由する香港は、中国不動産大手の多くが資金調達をしている所でもあるから、香港問題がこじれて香港市場が混乱し、資金繰りが詰まればバブル崩壊の引き金にもなりかねない。

 中国は2023年に団塊世代の退職が始まり、それ以降は高齢化に拍車がかかって、日本以上のペースで人口が減少する。それに伴って不動産需要も低減するから、不動産バブル崩壊の危険性がなお一層増すことになる。

 さて、今後の進化したAIの世界では、中国のようにプライバシーを無視して、独裁的に膨大なデータを集められる国の方がより有能なAIシステムを構築でき、プライバシーの保護にはばまれてデータが集められない民主主義国よりも技術的に優位に立つことが明らかになった。20世紀の冷戦時代には、共産国の中央集権的な計画経済が民主主義国の分権的な市場経済より効率が悪かったことから、共産主義がほろんだ。しかし、今後のAIの世界では、それが逆転して、中国のような独裁的な全体主義の国家の方が経済効率が良くなり、社会の治安も維持しやすくなる。

 そこで問題となるのは、国民にとって「個人の尊厳」と「集団の権利」のどちらが大事かということである。中国でも、香港人は「個人の尊厳」を大事にするが、大陸人は「集団の権利」を当然のことと思っている。ラテンアメリカ諸国やフィリピンのような発展途上国では、当面の犯罪防止や政情不安を克服するために中国の5Gと監視システムを採用したが、いつも監視され、個人の行動が追跡されることにストレスを感じるようになれば、国民は「個人の尊厳」を希求し、プライバシーの保護を要求するようになることが予想される。結局、米中のハイテク覇権争いは、中国的な「全体主義」と欧米的な「個人主義」のどちらを選択するかということであり、それぞれの国の社会状況によって変わっていくのであろう。(以上) 

    こじれる日韓関係を読み解く

                     20197月 芦沢壮寿

 

 今、日韓関係が悪化の一途をたどっている。韓国最高裁が日韓請求権協定を無視して、元徴用工訴訟問題で被告の日本企業(新日鉄住金、三菱重工業など)に賠償を命じ、被告企業の資産売却に踏み切っているのに対して、日本政府が半導体材料の対韓輸出規制という荒料理に打って出た。

 長年、日本と中国・韓国の歴史認識問題や文化の違いを考察してきた筆者にとって、こうした事態は予想の範囲内であったとはいえ、悪い方に傾いていることは確かだ。しかし、賽(さい)は投げられてしまった。この際、冷静に事態を見て、この先どうなるかを考えてみることにしたい。

 

現状の事実確認

 71日、日本政府は、半導体の製造に必要なレジスト(感光材)、エッチングガス(フッ化水素)、フッ化ポリイミドの3品目について韓国への輸出審査を厳しくする輸出規制を74日から発動し、さらに、8月をめどに韓国を安全保障上の友好国として認める「ホワイト国」の指定を取り消すと発表した。

 74日から発動された輸出規制は、韓国に認めていた簡略な輸出手続きを改め、契約ごとに審査・許可する方法に切り替えるもので、輸出審査に約3ヶ月がかかり、サムスン電子、SKハイネックスなどの半導体製造企業の生産に影響を及ぼす可能性がある。また、現在、米国・英国・ドイツ・フランスなどの27カ国に指定されている「ホワイト国」から韓国が初めて外されることになれば、安全保障上の問題があると判断された輸出案件について、個別に審査を受けなければならなくなる。

 日本政府は、韓国への輸出規制を厳しくする理由として、「日韓間の信頼関係が著しく損なわれた」こと、「韓国に関連する輸出管理をめぐり不適切な事案が発生した」ことの2点をあげた。

 日本政府が「日韓間の信頼関係が著しく損なわれた」と判断をした理由は、元徴用工訴訟問題に対して日本政府が日韓請求権協定に基づいて、今年の1月に韓国に協議を要請したが韓国が応じず、5月に協定に基づく仲裁委員会の設置手続きに移ったが韓国が応じていないことから、「請求権問題の完全で最終的な解決」をうたった日韓請求権協定の根底が損なわれたと判断したことにある。1965年に締結された日韓請求権協定では、日本が5憶ドルの経済協力を提供することによって、植民地支配に伴う「両国と国民の財産、権利及び利益、並びに請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」と明記された。韓国はその5憶ドルを財閥企業を中心とする経済発展のために使った。

 日本政府は、「不適切な事案」について「守秘義務がある」として具体的な説明をしなかった。この件について、7月10日に韓国の産業通商資源省が201519年に戦略物資の東南アジアや中国、中東諸国などへの違法輸出が156件に上ったことを明らかにし、「輸出管理が効果的に行われている証左」だと主張した。日本政府が「守秘義務がある」と言っているのは、恐らく米国からの情報であろうから信憑性が高い。韓国の主張は、韓国からの輸出品が他国を経由して北朝鮮やイランに渡っている懸念を払拭するものではない。

 712日に開かれた日韓政府の貿易管理分野を担当する課長級職員の会合では、5時間以上も話し合ったが、平行線をたどり話し合い自体が成り立たなかった。日本側は協議ではなく説明だと言って突っぱねた。

 半導体の製造は、シリコンウェーハーに酸化膜や金属膜を重ね合わせる「成膜」、回路パターンを転写する「露光」、回路以外の部分をガスを使って取り除く「エッチング」などによって半導体チップを製造する前工程と、半導体チップを基板に接合して切断する後工程からなる。こうした半導体の製造において、日本と韓国は、日本が部品・素材・機器を供給し、韓国が完成品をつくる「水平分業」の体制を確立してきた。シリコンウェーファーは、日本の信越化学工業とSUMCOが主要メーカーである。成膜工程の洗浄剤や材料ガスは住友化学、富士フィルム。露光工程のレジスト(感光材)やフォトマスクはJSR、東京応化工業、信越化学工業、富士フィルム。エッチング工程のエッチングガス(フッ化水素)は昭和電工、ステラケミファ、AKEDA。封止材は住友ベークライト、日立化成などである。半導体材料では日本が世界シェアの5割を占めている。今回、輸出規制の対象となったレジストの世界シェアは9割、エッチングガスは9割前後、フッ化ポリイミドは7〜9割とされる。

 韓国は、サムスン電子が半導体の世界シェアで首位、SKハイネックスが3位であり、世界の5〜7割のシェアを占めている。半導体産業は、韓国の輸出の2割を占め、輸出に依存する韓国経済を支える中心的存在となっている。

 日本の対韓輸出規制が中国まで飛び火する懸念がある。規制対象3品目の1つ「フッ化水素」は、半導体基板の洗浄や回路の溝付けに使われるが、純度などの品質面で日本品の代替がむずかしい。そのフッ化水素の輸出の9割は韓国向けであり、韓国から中国に輸出され、サムスン電子やSKハイニックスの中国工場で使われている。その中国工場の半導体の生産が減った場合にはファーウェイなどの中国企業に影響が及ぶことになる。そうなれば、フッ化水素を日本から直接中国に輸出する新しい供給網の形になる可能性が高い。

 文在寅大統領は、7月10日に大手財閥を含む大手30社のトップと経済団体トップを緊急招集して「官民緊急体制」の構築を呼びかけた。また、国際世論を味方につけようと腐心するが、いずれの対応も決め手を欠き、手詰まり感が強まっている。

 「官民緊急体制」とは、前例のない緊急事態に、政府と企業が常時協力する体制をつくることである。そして、短期的には日本以外からの輸入拡大や技術導入を政府が支援する。中長期では日本に頼る部品・素材・機器の国産化比率を高めるとしている。

 しかし、今回の輸出規制の対象となった3品は、代替調達が事実上不可能である。文在寅大統領の呼びかけに対して、企業側は「冷ややか」に受け止めていて、ある大手財閥幹部は「政府が話し合うべきは我々ではなく、日本政府だ」と言っている。保守系韓国紙の中央日報は、「日本企業は韓国の雇用に貢献している」と指摘し、感情的な理由に基づく不買運動は成果がないとして、冷静な対応を促している。

 韓国の全国経済人連合会が714日に発表した緊急調査によると、韓国政府が取り組むべきことは、「外交的な対話」という回答が最も多くて48%を占め、WTOへの提訴など強硬姿勢を崩さない韓国政府との温度差が浮き彫りになった。また、仮に対韓輸出が滞った場合に「韓国の被害の方が大きい」との回答が62%を占めた。

 今年になって世界の半導体需要が減少している。米中貿易戦争などで世界景気の減速懸念とアップルやグーグルなど米IT大手がデータセンター向け投資を縮小したために半導体の需要が減少し、半導体価格の値下がりが止まらない。DRAMは1年間に6割も安くなった。その影響を受けて、サムスン電子の4〜6月の連結営業利益が前年同期比56%も減少した。最高益を出した18年7〜9月期から1年もたたずに状況が様変わりした。今、世界の半導体業界では、勢力図に変化が出ていて、19年には、CPU(中央演算処理装置)が主力のインテルがDRAMなどの記憶装置が主力のサムスンを3年ぶりに抜いて首位になる見込みである。韓国経済にとって半導体の低迷は痛手だが、今回の日本の輸出規制の影響はかえって緩和されることになる。また、サムスンは、日本の信越化学工業やJSRに協力を仰ぎ、規制が強化された7月4日までに在庫を一定程度積み増したので、大幅な減産や操業停止は起こらないだろうという。

 今回の日本政府の対韓輸出規制には、「WTO協定に違反しないか」、「日本企業離れが起こらないか」という懸念がある。日本政府は、国際ルールである関税貿易一般協定(GATT21条の「安全保障上の例外事項」を根拠にして、WTO違反には当たらないと主張している。また、今回の対韓輸出規制は、韓国への優遇をなくして中国や台湾と同じ条件に戻すだけであるから、WTO違反には当たらないという声が韓国の通商専門家からも出ている。しかし、輸出を申請しても許可が出ないために輸出が実際に制限されれば、GATT 11条の「数量制限の禁止」に違反することになる。また、G20大阪サミットで「自由で公正かつ無差別な貿易・投資環境を実現し、開かれた市場を保つために努力する」と訴えたばかりの日本が韓国に輸出規制をすることに国際社会から批判される恐れがある。

 722日からボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)が日本と韓国を訪問した。その目的は、ホルムズ海峡における有志連合の協議、悪化する日韓関係と北朝鮮への対応を協議することであるが、韓国を日米韓の連携に引き戻して、対北朝鮮で連携を強化することが最大の目的であろう。このボルトン補佐官の訪問は、米国が元徴用工問題でこじれる日韓の仲介・調停役になってくれるのではないかという期待がもてる。

 

日韓関係を悪化させる韓国の問題点

 現在、韓国と台湾は世界のIT産業のトップクラスにあるが、それは偶然ではない。その根底には、両国とも日本統治時代に培われた地場産業の台頭と国民の教育レベルの向上があったことが、米国の研究者たちによる実データに基づく研究で実証されている。しかし、台湾は素直にそれを認めて対日関係が良好なのに対して、韓国は最悪の状態にある。それは何故なのか。

 2006年に出版された『解放前後史の再認識』(ソウル大学教授 李栄薫著)によると、韓国人のほとんどが「女子挺身隊員は強制的に日本軍慰安婦として連行された」と思っているという。しかし、実際は、生存している175名の韓国人の元慰安婦で挺身隊員として動員された人は1人もいなかった。韓国では、教科書を書くような学者でも事実であるかを確かめもせず、韓国人特有の「恨(ハン)の文化」から起こる感情の赴くままに虚偽のことをさも事実のように書き、それが集団として記憶されると、辞書や歴史教科書として公式化され、歴史的事実となってしまう。そして、韓国の歴史教科書では、「日本軍は強制的に連行した女子挺身隊員を慰安婦とする蛮行を犯した」という全く事実無根で憎悪に満ちた記述が捏造された。さらに、韓国人の「恨の文化」は、韓国の日本大使館前に慰安婦像を造り、アメリカやヨーロッパなどの国々にも慰安婦像を造って日本の蛮行を宣伝し、従軍慰安婦問題を国際問題化させた。このように、集団で事実無根の歴史を捏造し、それを事実だと思い込んで相手を攻撃する韓国人の「恨の文化」が日韓関係を悪化させる最大の原因である。

 今回の元徴用工訴訟問題においても、韓国最高裁が日韓請求権協定を無視して日本企業に賠償を課す判決を下したのは、法に基づく裁判ではなく、民意に基づく裁判であった。日本の朝鮮統治は「朝鮮民族を抑圧し収奪する統治であった」とする全く事実に反することを歴史教科書で教え込まれてきた韓国民は、「日本統治=惡」と思い込んでいるから、そうした民意を反映する裁判など国際社会では裁判とは言えない。韓国政府も日本が日韓請求権協定に記述されている「協議」や「仲裁委員会」を要請しても受け入れなかった。

 文在寅大統領は「386世代」と言われる世代に属する。「386世代」とは60年代に生まれ、80年代に大学生となり、90年代に30代になった世代という意味である。彼等は、1982年に韓国でマルクス・レーニン主義の文献が解禁になった時に大学生としてマルクス経済学に夢中になった。それまでの韓国は反共法のもとでマルクス・レーニン主義の文献は禁書であったので韓国のインテリや学生たちはマルクス経済学を知らなかった。韓国ではマルクス・レーニン主義の文献が解禁になると同時に学生運動が盛んになり、「反帝民主革命論」を掲げる学生組織が全国で生まれた。「反帝民主革命論」とは、韓国社会は米帝国主義とその手先が支配する植民地社会であるから、南北の朝鮮民族が統一して民主主義革命を起こさなければならないという理論である。「386世代」は90年代に労働運動に移行し、1998年に大統領になった金大中の「太陽政策」を支持し、盧武鉉政権の「反米親北」政策の支持基盤となった。

 現在の文在寅大統領が北朝鮮に接近しているのは、彼の根底に国家よりも民族を優先する民族ナショナリズムがあり、北朝鮮の方が民族を統一する正統性があり、南朝鮮を米帝国主義の支配下から解放するのは北朝鮮であるという学生運動時代の歴史観があるからだと考えられる。

 文在寅政権は、最低賃金の大幅引き上げを行い、企業を委縮させてしまった。そのために、韓国経済は低迷し、政権の支持率が低下している。文在寅は経済的に「音痴」なのである。一方では、北朝鮮関係に接近し過ぎる余り、米国からも警戒されている。

 韓国は、輸出がGDP44%を占める輸出立国であるが、中国への輸出に25%まで依存する構造問題を抱えている。そのために、中国の景気悪化の影響を受けて、19年上半期の対中輸出が17%も減った。今回の日本の対韓輸出規制は2重の逆風となり、韓国経済を一層厳しくするであろう。韓国の元財務相は「中国以外への輸出、特に日本への輸出を増やすべきだ」と主張しているが、それもできなくなった。今までの韓国株の30%以上を握る外人投資家の心理が悪化して、19年上半期には投資が前年同期比37%も減った。

 

今後の展望

 日本の輸出規制をめぐって、WTOの一般理事会で日韓の応酬が7月24日から始まった。その論戦の焦点は、日本が主張する「GATT 21条に基づく、安全保障上の理由」と、韓国が主張する「GATT 1条、11条に基づく、加盟国間の輸出入数量の制限禁止」のどちらが加盟164カ国・地域から支持されるかである。韓国政府はその状況をみながらWTOへの提訴を準備するという。

 日本政府は、韓国の輸出管理体制の脆弱さや、不適切な事案があったことを改めて説明すれば、違反とされる可能性は低いとみている。しかし、今回の措置が「元徴用工問題とからめた政治報復だ」とする韓国の主張が認められれば、審理が韓国に有利に進む可能性がある。実際に、韓国は、24日の最初の論戦で、元徴用工問題を取り上げて、日本の措置は不当だと批判したのに対して、日本は元徴用工問題とは全く関係なく、輸出規制措置でもないと主張し、韓国は「論点のすり替え」をしていると反論した。しかし、日韓の論戦に他の加盟国の関心は薄く、空席が目立った。

 仮に韓国政府がWTOへ提訴したとしても、審判能力が停止寸前にある現状のWTOでは、その結論が出るのは2年以上も先になる。韓国では政府と経済界の関係が良くないことから、それまでに韓国経済が一段と悪くなれば、経済界から政府批判が高まるであろう。そうなれば、韓国政府も方向転換をせざるを得なくなるであろう。

 上記のような展開になる前に、米国が日本と韓国の間を仲介し、調停するであろうと筆者は考える。米国にとって、対中貿易戦争、対北朝鮮・対イランの非核化問題が最もホットな問題になっている時に、日本と韓国は重要なパートナーであるからである。今回のボルトン補佐官の日韓訪問はその第1弾と思われる。ボルトン補佐官は安全保障問題と対イランのホルムズ海峡をめぐる有志連合について協議すると言っているが、それらと絡めて日韓の調停をしようとしていると思われる。

 以上のように考察してくると、今回の日本政府の対韓輸出規制という劇薬は、始めから米国が絡んでいたのではないかという推測がわいてくる。そう考えると、日本政府にしてはあまりにも大胆な戦略をとったことも納得できる。米国は、韓国の輸出管理の不適切な事案の情報を日本に提供し、日本と韓国を自らが望む方向に導くチャンスとして利用したのではないかと思われる。

 しかし、対韓輸出規制という劇薬を続ければ、韓国のみならず日本にも甚大な被害が及ぶ。早く最終的な落とし所、即ち、韓国は元徴用工問題を自国内で自主的に解決し、日本は対韓輸出規制を自主的に解除する方向に持っていかなければならない。

 さて、今までの日本は、韓国の「恨の文化」に振り回されてきた。今後は、そうした状況を打破しなければ日韓関係の好転は望めない。今回の元徴用工問題はそのチャンスだと考える。

 『解放前後史の再認識』の著者 李栄薫ソウル大学教授は、事実を事実として認識できず、すぐ激情し感情的で非科学的な思考しかできない韓国人について、「韓国社会の近代化を妨げ、先進国入りに求められる精神文化の領域に達するのが難しい」と述べている。韓国にしても、自国の欠点をなおして日本と友好関係にならなければ、国際社会での発展は望めない。    (以上)

米中の対決と世界の行方

                        20195月 芦沢壮寿

 

 米国のトランプ大統領は本気で中国を潰そうとしている。しかも、大多数の米国民がそれを支持している。こうしたことは、今までの米国にはなかったことだ。

 ニクソンからオバマにいたる歴代大統領は、キッシンジャー元国務長官(ニクソン大統領のもとで電撃的なニクソン訪中を実現し、冷戦時代のソ連から中国を引き離し、その後の米国の対中政策を主導した人物)が「中国を支援して中国が経済的に豊かになれば、中国は民主主義国になって米国の味方になる」と言い、全く根拠のない淡い期待を米国民に抱かせてきた。しかし、習近平が永代主席の地位につき、中国独自の社会主義を世界に広めて、米国と対抗することが明らかになって、キッシンジャーの予言が完全にはずれ、米国民の期待を裏切ることになった。トランプ大統領の対中政策の大転換は、そうした状況に対応するものであり、そのために与野党を問わず米国民に支持されるようになった。

 こうした世界情勢の変化をもとに「米中の対決と世界の行方」について、元NHKのアメリカ総局長を勤め、現在、ハドソン研究所主席研究員として、日米関係の将来に関する調査・研究を行っている日高義樹氏の著書『2020年「習近平」の終焉』(2019年)をもとにして考えみることにする。

 

1.中国を封じ込める米国の軍事戦略

 201712月、トランプ大統領は、新しい米国の安全保障戦略を発表し、米国の安全が宇宙とサイバーの2つの空間で著しく危険にさらされていることを指摘して、中国を敵性国家と認定した。

 前大統領のオバマは、米国経済のためには中国経済がなくてはならない存在だとして、中国と友好的な関係を深めたが、トランプは中国を完全に「敵」と見なしたのだ。

 米中の対立は「米中冷戦」と言われるが、米ソが対立した「冷戦」とは全く違うと日高は指摘する。米ソは軍事力が拮抗し、戦争をすれば両方の被害が甚大になることから、戦のない「冷戦」になったが、米中は圧倒的に米国の軍事力が優るから、中国はそれに歯向かうことができない。

 長年、米国の軍事関係者と深い関わりをもち、今でもハドソン研究所の主任研究員として米国の軍事に関わっている日高は、米中の現状の軍事力と軍事戦略について次のように述べている。

 米国の中国と北朝鮮に対する基本戦略は、ミサイルによる奇襲を防ぐことだ。そのために、米国の空軍スペース・コマンドは、地上のミサイルの発射を探知する特別な衛星(宇宙空間赤外線でミサイルの発射を監視する静止軌道の衛星)を612個打ち上げて常時監視体制をとり、それと連動させて攻撃用衛星(地上攻撃用ロケットを搭載した衛星)から中国・北朝鮮のミサイル基地を攻撃する態勢をとろうとしている。

 トランプ大統領は、今年度の年頭教書で、前大統領オバマの「世界から核兵器をなくす」という無責任とも言える理想主義を一変させて、米国の新しい核戦略体制を強化すると宣言した。それは、老朽化した地上発射型大陸間弾道ミサイルのミニットマンを抑止力の強い新しい型に変えることであり、次世代のステルス性戦略爆撃機B21を実戦配備し、最新型ミサイル原子力潜水艦を就役させることだ。

 米国は、中国を倒す最も効果的な方法として、共産党の目ぼしい指導者を倒すことによって、全ての物事を取り仕切っている中国共産党の組織を破壊することを狙っている。それを実現するために、米国の戦略核兵器の標的を北京に定め、スパイ衛星や監視衛星を使って中国の指導者の所在を探知し、そこを的確に攻撃するすることによって中国の統治機構を破壊するのだ。

 最新型ミサイル原子力潜水艦は、24基のトライデントミサイルを搭載し、太平洋のハワイ、グアム、南シナ海のサモア島近くの基地などを拠点にして、中国に狙いを定めて活動している。

 従来、海底を航行するミサイル潜水艦に対して通信指令を出すことは、海底では通信電波を拾うことが物理的に困難であるために不可能であった。そのために、従来の潜水艦は、指令を受け取るために海面すれすれに浮上し、潜望鏡を伸ばして通信するという危険な行動をとらなければならなかった。米国海軍は長い間、この難題に取り組んできたが、ついにELF(極低周波)と呼ばれる極端な低周波による通信技術の開発に成功した。ELFは、波長が数キロメートルにもなって通信に長時間がかかるが、海底に潜ったままの潜水艦と通信が可能になり、中国近海の海底を航行しているミサイル潜水艦に中国の指導者を狙った攻撃目標を知らせる通信態勢ができ上がった。

 201810月、米国空軍は、グアム島のアンダーセン基地を対中国戦略の最前線基地とすることを決定し、ステルス性戦略爆撃機B2B1BB52Hなど10数機を結集させ、中国に対する本格的な実践活動態勢に入った。その核ミサイルの破壊力は中国全体の核ミサイル戦力を上回り、グアム島は太平洋における最大の軍事力を持つようになった。

 一方、中国は、射程距離2000kmの対艦クルージングミサイルを開発し、それにロシアから買い集めた潜水艦と合わせて数十隻を太平洋に送り込んで、西太平洋の制海権を握ろうとしている。射程距離の長い対艦クルージングミサイルは米国の旧来からの空母打撃群に対抗するものであった。中国海軍は、通常型の潜水艦を沿岸地域に潜ませ、近づいてくる米海軍の空母や艦艇を攻撃する戦略をとっている。

 それに対して米国海軍は、新戦略「米国海軍2025」の構想のもとに、海軍の装備の小型化と高性能化を進めてきた。そして、旧来の空母打撃群に代わって、最新鋭の高速攻撃型原子力潜水艦 16隻を実戦配備し、沿岸用戦闘艦艇として小型超高速艦艇 10隻を実戦配備した。高速攻撃型原子力潜水艦は前後・左右の4所に最優秀のソナーと魚雷発射口を持ち、小型超高速艦艇は燃費効率が良く、戦闘行動範囲が広くて、最高時速100kmで走り、小型ながらもヘリコプターや無人偵察機を搭載している。また、小型超高速艦艇は敷設されている機雷を発見し、破壊することもできる。

 これらの最新鋭兵器には中国の対艦クルージングミサイルも太刀打ちできない。米国海軍は、2025年までに数年を残して、中国のミサイル基地や潜水艦を撃滅する態勢を整えたのだ。

 また、米国海軍は、自動で航行し潜水艦を探査する無人艦艇シーハンターを建造し、戦争のロボット化を進めている。シーハンターは、12000万ドルで建造でき、40トンの燃料で90日間も作戦行動を続けることが可能であり、魚雷6発を搭載して敵潜水艦を発見すれば直ちに攻撃する能力を持っている。米国海軍は、シーハンターによって全ての中国潜水艦の動向を調べ上げ、有事の際には全ての潜水艦を撃滅する態勢を整えている。

 かつて、習近平はオバマ大統領に米中で太平洋を東と西の半分に分けようと言った。しかし、対艦クルージングミサイルと潜水艦を投入して米国の旧空母打撃群を撃退しようとした中国の太平洋戦略は、「米国海軍2025」の高性能化戦略の前に全く太刀打ちできないことが明らかになった。

 米国は、中国の南シナ海進出に対抗して、中国を軍事的に封じ込める戦略に転換した。そのために日本の米軍基地が重要な役割をはたすようになった。横田基地は、中国攻撃の総司令部になり、横田基地を中心に米軍の物資補給体制を整備し強化している。さらに横田基地は、アジア太平洋からインド洋、そして中東に展開する米軍の軍事力を統括する重要な拠点になった。

 沖縄の嘉手納基地は、中国大陸まで400km、朝鮮半島まで500kmという好位置にあることから、米国の太平洋空軍の戦略的なキーストーン(要石)になった。また、三沢基地は空軍の重要な情報収集基地になり、岩国基地は海兵隊と海軍の重要な航空基地となった。海兵隊に所属するオスプレイは岩国基地と沖縄の普天間基地に配備されている。

 一方、これまで米国のアジア戦略の中で重要な位置を占めていた在韓米軍は、その任務を終わろうとしている。それは、中国との軍事的対立の最前線が在韓米軍から潜水艦隊と戦略爆撃機に代わったからだ。それに、C17Aという大型輸送機が開発されたことにより、大量の陸軍戦闘員を緊急輸送することが可能になり、韓国に駐留させておく必要がなくなったからだ。

 習近平は軍事力を使ってでも台湾を併合するという強硬姿勢を取り始めた。それに対して、トランプ大統領は中国に台湾を渡さないことを明確にしている。トランプは、習近平の野望に真っ向から立ち向かい、常に新鋭鑑を台湾海峡で行動させ、潜水艦隊と航空機群を護衛として送り込み、台湾を守る軍事体制を強化している。

 トランプ大統領は、ロシアが中距離弾頭ミサイル開発禁止条約に違反しているとして、条約の破棄を宣言した。そして、中国も入れた米中ロの3国の間で新たな中距離弾頭ミサイル開発禁止条約を結ぼうとしている。

 事実、ロシアは、中距離弾頭ミサイルの開発に力を入れ、既に5000発以上の中距離弾頭ミサイルを保有している。その中距離弾頭ミサイルの標的は、射程距離からすれば中国であり、増大する中国の軍事的脅威に対抗するために中距離弾頭ミサイルの開発に踏み切ったと考えられる。中国側もこれまで各種の中距離弾頭ミサイルを開発し、モスクワをはじめロシア各地を狙っていることがよく知られている。

 なお、ロシアが新たに開発したS4000というミサイルは、きわめて優秀なステルス性戦闘機防衛の対空ミサイルであり、米国のステルス性戦闘機F35をも撃ち落とすことも可能だという。

 中国と長い国境を接するロシアは、中国を封じ込めることでは米国と共謀することが十分にあり得る。そうなれば、中国は米ロの二大国によって封じ込められることになる。

 最近行われた日米の防衛・外務の「2プラス2」の会議では、軍事・社会インフラとして重要度を増している人工衛星を狙って打ち落とす中ロの攻撃に対抗するために、日米同盟を宇宙にまで拡大することで合意した。米中ロの攻防が宇宙にまで拡大しているのだ。

 

 

2.トランプ政権の対中国戦略

 トランプ大統領は、穏健なティラーソン国務長官を更迭して、対中国タカ派の元CIA長官ポンペイオを国務長官とし、ハト派のマクマスター国家安全保障担当補佐官を更迭して、対中国で急先鋒のボルトンを国家安全保障担当補佐官にすえた。学者の中でも最右翼の強硬派で「戦争のタカ派」と呼ばれるボルトン博士は、一貫して「共産主義体制とは妥協の余地がなく、滅ぼす以外に解決方法はない」と主張してきた人物だ。

 こうした陣容のもとでトランプ大統領の対中国戦略は、中国と巧妙に交渉しながら中国を封じ込める方向に展開しており、高等な外交戦略を行っていると言える。今やワシントンでは、対中国で団結した保守勢力が、中国の不正な経済活動や軍事力の増強を許しておけば、米国の世界が危うくなるという強い危機感をもつようになった。

 中国に対する通商戦略を進める陣容は、対中国経済強硬派四羽ガラスと呼ばれる、ロス商務長官、ライトハイザー通商代表、クドロー経済担当補佐官、ナバロ国家通商会議委員長からなる。彼らは、単に中国との貿易赤字を解消しようというのではなく、中国共産党の「一党独裁」による政治体制と「国家資本主義」の経済体制が根本的に間違っていると主張し、中国の拡大を阻止して、最終的には一党独裁と国家資本主義を崩壊させようとしている。

 ライトハイザー通商代表は、「中国に対するWTOの偏った姿勢を正すべきだ」と主張し、学者であるナバロ国家通商会議委員長は、「中国の政治的な思想や経済政策は世界を混乱させ、傷つける」と主張して、両者とも中国の国家資本主義の経済体制と不正な通商経済政策を鋭く批判している。

 こうした陣容のトランプ政権の特徴は、中国を戦略的・理論的に攻撃する姿勢を明確にしていることだ。トランプ政権は、与党共和党の政治体制と全米の大きな政治勢力を統合して、共産主義の中国の拡大を阻止し、中国を封じ込めて、米国が世界一の強国であり続けることを狙っているのだ。

 トランプ政権の対中国戦略の基本は、@米国の軍事力を強化し、国内の規制を大幅に緩和して経済力を高めて、米国の世界的な立場を強化すること、A中国が米国の技術を盗めないようにして、米国の技術的な優位を確立すること、B中国の大国化、特にアジアの地域大国になることを阻むこと(そのために米国は、アジア諸国の米国市場への参入をしやすくする一方で、中国をはじき出す方向に向かう)、C中国に台湾を併合させないようにすること、D中国との貿易収支を均衡させること、E中国を封じ込める一方で、政治的には中国と個別の関係を強化すること(例えば、軍人の交流を深めること)だ。

 以上のようなトランプ政権の対中国戦略を習近平とその周辺がどこまで理解しているかは、はっきりしない。習近平は、トランプ政権が米国のマスコミや学者、野党の民主党に厳しく批判され、中間選挙でも下院で敗退したのを見て、トランプ大統領がどこまで対中国強硬戦略を続けられるかと、軽く見ているような節がある。

 しかし、民主主義国の米国の世論がトランプ政権の対中国批判に影響されて、中国の非人道的で不正・不法の政策に対して厳しい方向に動き始めていることは事実だ。米国の世論の性質からすると、世論が動き始めるまでに長い時間がかかるが、動き始めるとゆるゆると大きくなっていき、それが世界へと伝わって世界を動かす力となる。そのことは、かつて、米国の西海岸でヒッピーなどの若者達が起こしたベトナム反戦運動が全米に広がり、世界へと広がって世界の反戦気運を高めたことからも知られる。

 

3.中国が国際的な大国になれない理由

 中国は、南シナ海を中国のものと主張し、海上にわずかに出た岩礁を埋め立てて、軍事基地を建設した。ハーグの国際裁判所は、中国による南シナ海の岩礁の領有は国際法に違反するとして、その領有権を認めなかった。しかし、中国はそれを無視してきた。

 WTOが定める知的財産権についても、中国は、中国に進出する外国企業に保有する技術を中国側に公開することを強要し、勝手に外国の特許権を盗用している。また、中国政府の産業補助金や「中国製造2025」の産業育成策も、WTOの「輸出を促進するための企業への補助金の原則禁止」に抵触する。つまり、中国経済の根幹をなす「国家資本主義」はWTOに違反しているのだ。

 このように、中国は、国際法や国際常識を全く無視して、中国独自の思想や習慣にもとづいて身勝手な行動をとる。中国は、こうしたやり方で、経済を発展させ、世界第2位の経済大国にのし上がってきた。しかし、今後は、身勝手な行動をとる中国が「国際的な大国」になることは、下記の理由から不可能となるだろう。

 中国人には「郷に入らば、郷に従え」という考えがない。中国人は外国を旅行する時でも、観光バスの中で飲み食いして、国内と同じように散らかし放題に散らかす。こうした中国人の身勝手な行動は、中国の「権力の文化」からきている。その元は、「中華思想」と「儒教思想」にある。

 中華思想は、中国が世界の中心であり、周辺国より優っているから、周辺国を支配する権利があると勝手に思い込んでいる思想であり、儒教思想は、固定的な身分制度を強制することによって社会秩序を保つ思想だ。つまり、中華思想・儒教思想の両方とも、個人の身分や国の格を定めて、それに一方的に従わせるという思想だ。そうした思想から中国人は「権力の文化」をもつようになり、独善的な思想にもとづいて身勝手な行動をとるようになった。トランプ政権が攻撃している中国の一党独裁の政治体制や国家資本主義の経済体制も、中国固有の「権力の文化」から生まれたものだ。

 今まで中国に進出した米国、日本、ヨーロッパ諸国は、「中国市場は大きいから大切だ」と考えて、中国の違法行為に寛容な態度をとり続けてきた。

 また、米国を始めとする先進諸国は、中国のWTOへの加盟を許可し、中国が発展途上国だからという理由で、国家による企業への補助を認め、知的財産権の侵害などの不正行為についても容認してきた。

 こうしたことが中国を甘やかすことになったが、その元をつくったのは、米国のニクソン大統領とキッシンジャー国務長官だ。キッシンジャーは、「経済的に豊かになれば中国は民主主義に向かう」と言って、米国の歴代政権に中国の経済発展を支援するように仕向けてきた。現在、中国の先端技術となっている遺伝子工学、人工知能、バイオテクノロジー、レーザー、スーパーコンピューター、宇宙工学などは、全て米国が提供した技術が元になっている。

 また、中国の技術者の教育は完全に米国に依存していて、現在、米国でさまざまな技術に関連する分野で博士号を獲得しようとしている中国の若者は3万人を超え、米国の大学教育を受けている中国人の学生は50万人に近いという。

 このように、米国が中国に寛容であったのは、キッシンジャーを信じて、いずれは中国が民主主義国となり、国際社会に協力する大国になるという期待があったからだ。しかし、習近平政権となって、それが完全に裏切られたことが明らかになった。米国をこうした失態に追い込んだキッシンジャーは、極悪非道の犯罪者と言っても過言ではない。

 以前(2016年正月)に筆者は、「中国の台頭と世界の行方」の中で、中国共産党の「世界制覇100年戦略」について述べた。その大筋は、『敵(米国)をだまし、自分(中国)の真意(世界制覇の野望)を隠し通し、敵の参謀を味方につけて利用し、敵の技術を盗み、自分と敵の勢(力の均衡)を見極めて、勢が自分に有利に傾いたら、一気に攻勢に出る』というものだ。そして、2008年のリーマンショックから起こった世界金融危機の時に、中国共産党は、勢が中国に傾いたと判断し、攻勢に転じた。この中で、中国が敵の参謀を味方につけて利用した「参謀」とは、キッシンジャーのことだ。事実、キッシンジャーは中国から見返りとして莫大な報酬を与えられたことを自白している。

 こうして見ると、共産党独裁の中国は「世界制覇100年戦略」の通りに進んできているように見える。中国共産党は、19世紀に「中華」を誇っていた中国が西欧列強に踏みにじられた屈辱を晴らすために、「世界制覇100年戦略」を立て、敵をだまして力を蓄えてきたのだ。だから、中国は、米国に甘やかされ、米国の支援のおかげで経済大国になれたとは、つゆほども思っていない。

 中国共産党の根本思想は、「絶対にだまされない」と「相手をだまして、出し抜く」ことだ。中国共産党は「絶対にだまされない」ように相手を見る余り、相手の真実を見誤るところがある。また、共産党の独裁体制は、上からの指令で動き、下からの実態情報のフィードバックがないから、共産党の幹部は国際社会の実態がわからない。南シナ海に軍事基地を建設した政策や「一帯一路」の政策は、こうした中国共産党の独特の思想と体制のもとに生まれた。そのめに、国際社会から見ると、身勝手な政策となってしまったのだ。

 習近平は、南シナ海の岩礁に軍事基地をつくっても、何の対策も打てないオバマ政権を見て、米国はもはや世界を主導する意志を失ったと考えた。そして、中国固有の独裁体制が先進国の民主主義体制よりもまさっていると思い込み、中国の共産党独裁と国家資本主義のルールが世界のルールになると豪語するまでになった。

 習近平は、「一帯一路」によってアジア、ヨーロッパの諸国とウィン・ウィンの関係を築き、経済を豊かにすると言った。そして、中国がそのリーダーになることによって、待望の「中華」の夢が実現できると考えた。

 ところが、スリランカでは、中国の提案に基づいて大規模な港湾施設を建設したが、結局、中国から借りた資金を返済できず、港湾施設が中国のものになった。マハティールが首相に返り咲いたマレーシアでは、中国による計画を大幅に縮小し、他のアジア諸国も中国に対する警戒を高めた。パキスタンでは、中国の資本で鉄道の建設を始めたが、大勢の労働者が中国から送り込まれ、パキスタン軍が介入する衝突に発展した。トルクメニスタンやキルギスでは、中国側が建設した鉄道の所有権をめぐって対立している。

 アフリカでも、中国が地下資源を獲得するために行った道路や鉄道の建設にからんで、大量の中国人労働者(その多くは農民)が送り込まれ、収容した土地を開墾させたりして、現地の民族主義勢力との衝突が頻発している。中国は鉄道周辺の広大な地域を中国政府のものにしようとしているとして、タンザイアやザンビアの政府と激しく対立している。エチオピアの道路建設やナイジェリアの石油資源を狙った鉄道工事でも現地政府との対立が起こっている。

 このように、「一帯一路」やアフリカで行っている中国の対外援助は、「侵略」であり、新たな植民地化政策のようなものだ。

 こうした事実が明らかになるにつれて、国際社会から、「中国は自国の利益だけを追求する身勝手な国であり、大国としての責任感を全く持っていない」と思われるようになり、アジア、アフリカ諸国から警戒され、嫌われるようになった。

 習近平の誤算は、トランプ大統領が登場し、中国に対する政策を180度転換したことだ。トランプ政権が本気で中国の独裁体制と国家資本主義と対決する方向にカジを切ったことは、中国にとって決定的なダメージとなる。

 米国は、国家の安全保障を理由にして、中国の通信機器やハイテク分野を米国から排除し、米国の関係国にも排除することを強要している。今まで中国を支援してくれた米国が、今後は、米国の関係国まで総動員して、中国を封じ込め、中国が世界へと拡大するのを阻止するようになる。

 ここで、中国のウィグル族に対する弾圧についてふれておく。中国当局は、数十万人のイスラム教徒のウィグル族を再教育と称してキャンプに収容し、数百万人を厳しい監視下において、ウィグル族の文化を捨てさせ、中国文化を強制している。また、チベット族に対しても非人道的な弾圧を行っている。こうした中国の異民族に対する弾圧や中国国内の民主的活動家に対する弾圧は、米国の世論に批判されるようになってきた。前記したように、米国の世論は、やがて国際世論となり、中国は国際社会からも批判されるようになる。そうなれば、中国は国際的な大国どころか、国際社会で孤立することになる。

 

4.あとがき

 前章までの米中についての考察は、主に米国側から見た日高氏の認識にもとづくものだ。しかし、それは、米中通商摩擦に至る歴史の一般的な認識とは少し違うように思われる。

 現在の米中通商摩擦の根源は、米国を始めとする先進諸国の資本がグローバルに利益を追求するようになり、中国がその最大の受け皿になったことにある。中国では、共産党独裁の政治体制と先進諸国の貪欲に利益を追求する資本主義がうまくむすびついて、社会主義市場経済体制が生まれ、中国経済が急速に発展した。その結果として、中国は経済大国となり、反対に先進諸国は産業の空洞化が進んだ。先進諸国では、グローバル化への反発からポピュリズムが生まれ、自由・民主主義が危機に直面するようになった。

 中国が経済大国になれたのは、確かに先進諸国の貪欲な資本のおかげもあるが、開発段階の経済では共産党独裁体制が有利に働いたことも確かだ。中国は共産党独裁に自信をもつようになり、逆に、自由・民主主義諸国は自由・民主主義の欠陥が露呈して混乱に陥った。

 中国は、習近平が永代主席となり、2049年の「世界制覇100年戦略」のゴールに向かってラストスパートに入った。このまま行けば、世界は中国のものになる危険性があったが、米国にトランプ大統領が出現し、当初はポピュリズムのとんでもない政権だと思われたが、意外にも歴代政権が見過ごしてきた問題点に正面から立ち向かい、トランプ政権が中国の快進撃を阻む構図となった。

 もし、トランプではなく、民主党のヒラリー・クリントンが大統領になっていたら、中国は「世界制覇100年戦略」を達成する可能性が高くなり、今後のAIの世界で中国が世界の覇権国になり、人権を無視した独裁政治が世界のルールになる可能性もあった。世界がそうした方向に進むのを阻止する最後のチャンスをトランプ大統領がとらえて、民主主義にもとづく世界ルールが維持される可能性が高くなった。そう考えると、トランプ大統領の出現は世界にとって喜ばしいことであった。トランプ政権の中国政策は、今や全米で受け入れられているから、次の大統領選挙でトランプが敗れて民主党政権になったとしても、トランプ政権の対中政策は受け継がれて持続することになるだろう。

 トランプ政権は米国の先端技術が中国に流出するのを本気で止めようとしている。その矛先は中国の半導体製造企業に向けられ、その影響が台湾のIT機器メーカー(受託製造サービス:EMSの企業)に及んでいる。台湾のIT機器メーカーは、中国での製造を敬遠する顧客の要望を受けて、生産拠点を中国から地元(台湾)や米国、アジア諸国(ベトナム、タイ、インド、インドネシアなど)に移転する動きを加速している。データセンターに使う通信機器などを台湾や東南アジアに移す企業も相次いでいる。これは、中国における人件費の上昇に直面している上に、米中通商摩擦で米国の顧客が中国製機器の見直しに動いているためだ。中国を「世界の工場」に押し上げた台湾企業の中国からの撤退は、世界的なサプライチェーンの再編につながっていくだろう。

 そこで、以下ではIT分野における、米中と台湾企業の動向について考察する。

 現在、米中は、互いに関税を掛け合う貿易戦争に入り、並行して通商協議を行っている。その中で、中国は、技術移転の強要や知的財産権の窃盗、サイバーハッキングといった問題の存在を初めて認めるようになった。これは、中国にとっては屈辱だが、屈辱を忍んででも早く貿易戦争を終わらせたいということだ。それだけ、米国との貿易戦争が中国経済に大きなダメージを与えているのだ。

 中国は、2025年までにハイテク分野で米国に追いつく「中国製造2025」のもとに、米国などでハイテク分野の経験をつんだ中国人200万人(「海亀(ハイグェイ)」という)を5年間で中国に呼び戻し、ハイテク分野に投入する計画を進めている。ハイテクの中でも特に、AIとブロックチェーンの技術開発に力を入れている。

 中国は、AIの特許数では既に米国を抜いて世界一となり、AI5G通信によるEV(電気自動車)の自動運転で世界一となることを目指している。実際に自動運転のAIを開発するのに必要なデータ量では、中国が圧倒的に有利な状況にある。

 中国の滴滴(ディディ)は、タクシーの配車で待ち合わせ場所をAIを使って決めるシステムによって、米国のウーバーよりも待ち時間を短縮している。滴滴のシステムは、既に世界の1000都市に導入されていて、集まってくるデータをつかって性能を向上させている。日本の大坂のタクシー会社も滴滴の配車システムを採用した。また、「交通大脳」というAIを使った渋滞解消システムも既に20の都市に導入され、成果を上げている。

 仮想通貨で使う「ブロックチェーン」(分散台帳技術)の開発では、中国独自の金融システムや商品貿易のプラットフォームをつくることを目標としている。中国が世界の基軸通貨となっている米国ドルを使うと、世界金融をにぎる米国の監視下におかれ、制約を受けることになる。それを避けるために、「一帯一路」で結ばれた国々を中国独自の金融システムに取り込んで、米国に支配されない一大経済圏を構築しようというのだ。そのために、中国は、ブロックチェーンの技術が進んでいる日本を取り込もうとしている。

 米国の大手IT企業GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)が米国西海岸のシリコンバレーで生まれたように、中国の大手IT企業BAT(バイドゥ、アリババ集団、テンセント)は中国南部の深?で生まれた。深?は、今や世界に開かれた技術革新の拠点となり、実験場となっている。BATや米欧の大手IT企業は深?にオープン・イノベーションの拠点を設け、ベンチャー企業に投資し、新しいビジネスの発掘を行っている。しかし、日本企業は及び腰で、拠点をもっているのは京セラだけだ。中国のベンチャー企業は軽い気持ちで新しいサービスを世に問う実験を行い、その中からユニコーン(企業価値が10億ドル超の非上場企業)が生まれている。

 しかし、中国のユニコーンの成長に急ブレーキがかかってきた。動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」を展開するバイトダンスに米国やインドから相次いで運営方法やサービス内容にクレームがつけられるようになった。これは、トランプ政権の中国企業の締め出しに対する警戒感の現れだと思われる。

 今まで中国は、西側諸国に「中国に協力する国は多大な恩恵が受けられる」というメッセージを発信し、中国に対する協力を引き出してきた。ドイツなどはその代表例だが、トランプ政権の対中攻撃を受けて、ドイツも姿勢を改めつつある。

 中国の主導で設立された国際会議においても、そこに参加する多くの国が中国の経済成長の鈍化と人権無視の監視国家という中国の実態を冷静に見るようになった。中東欧16カ国との定期的な首脳会議「16プラス1」では、ポーランドなどの東欧参加国が中国から期待したほどの商機や投資が得られないことにうんざりして不満を高めている。「一帯一路」にしても、参加国の借金漬けや環境破壊などの中国のやり方に懐疑的になってきた。

 こうした状況を見ると、中国は確実にかつての勢いがなくなった。その最大の原因は、トランプ政権が安全保障上の理由から、中国企業を米国と関係国から締め出そうとしていることだ。

 安全保障上の理由とは、全てのものがインターネットにつながるIoT5G通信において、靴、タイヤから心臓モニターに至まで、あらゆる製品に組み込まれる5Gチップがファーウェイなどの中国の通信企業に握られることに対する危機感だ。

 5Gチップは米国のクアルコムが先行していたが、アップルとの特許係争中にファーウェイがトップに躍り出た。4月にクアルコムとアップルが和解したので、これから米国勢の巻き返しが始まるだろう。

 日本のハイテク調査会社のテカナリエが、アップルのiPhoneの半導体(クワルコム製)とファーウェイのスマホ半導体(ファーウェイ製、但し設計はソフトバンクグループ傘下の英アーム・ホールディングス、製造は台湾の積体電路製造に委託)の性能を比較したところ、同じ性能であることがわかった。ファーウェイは性能でも世界のトップになったのだ。

 中国は、「中国製造2025」の中で特に輸入依存度の高い半導体の国産化プロジェクトに重点をおき、15兆円の巨額を投じて推進している。そのプロジェクトの頼みとする所は、台湾の積体電路製造、鴻海(ホンハイ)精密工業(日本のシャープを買収した)、聯華電子、南亜科技(DRAMメーカー)などから技術者、経営者を取り込んで、中国企業の普華集成電路、清華紫光集団、華為技術(ファーウェイ)の3社を国産半導体企業として育成することだ。

 トランプ政権は、このプロジェクトを阻止しようとしている。まず、2015年に中国の清華紫光集団が米マイクロン・テクノロジーを買収するのを阻止し、商務省が2018年秋に普華集成電路への半導体製造装置の輸出を規制し、米連邦陪審員が「台湾の聯華電子が米マイクロン・テクノロジーの技術を盗み出し、普華集成電路に渡していた」として両社を起訴した。そして、安全保障上の理由から米国はファーウェイの5 Gチップの輸入を規制した。今後、トランプ政権は、ファーウェイの委託製造先の台湾積体電路製造に製造停止を迫るなど、台湾の半導体メーカーから中国企業への技術や技術者の移転を断ち切ることを要求することが十分に考えらる。

 そんな中で、20201月に行われる台湾の総統選挙にホンハイ精密工業の郭台路(テリー・ゴウ)薫事長が国民党から立候補することになり、民進党の蔡英文総統と争うことになった。トランプ政権の真の狙いは、知的財産を窃盗・盗用して世界制覇の野望をいだく中国を封じ込めることだが、台湾はその米中の争いに巻き込まれことになった。

 最後に、日本についてだが、以上の考察から、日本のとるべき道はおのずから明らかだ。基本的には米国に協力し、覇権国家となった中国の拡大を牽制することだ。そして、日本は、日米同盟のもとで、米国と中国やアジア諸国の間の橋渡し役となることだ。そうすれば、中国の脅威にさらされるアジア諸国にとって、日本は貴重な存在となる。隣国であり、大きな市場でもある中国とは、できるだけ良好な関係を保っていくことが肝要だ。(以上)

 

 拙文をお読みいただいたことに感謝します。

  

グローバリズムの破綻と社会の対立

2019年1月 芦沢壮寿

 今、世界中でポピュリズム(大衆迎合主義)の政党が出現して勢力を伸ばしていますが、その根底には社会の対立と分断があります。米国のトランプ大統領もポピュリストであり、南米ベネズエラのマドゥロ大統領もポピュリストです。トランプもマドゥロも、社会の分断を利用して大統領になりました。トランプ大統領は、任期の半分を何とか無難に終えましたが、後半には独善的な政策のほころびや、ロシア疑惑による弾劾など、米国社会を混乱に陥れる危険性が増してきました。ポピュリストのチャベス大統領を引き継いだマドゥロ大統領は、ベネズエラ経済を破綻させ、100万%を超えるインフレ率、食料不足と飢餓から逃れるために人口の10分の1300万人が隣国に移住するなど、国家を滅亡状態に陥れています。ポピュリズムの政治家は、分断された社会の弱者のための政策に固執するあまり、社会全体としては正常に動かなくなり、国を滅ぼす危険性を秘めています。こうした国家の存亡に関わる危険性を伴う「社会の対立」が世界中で起こっています。

そこで、世界の政治リスクを調査し、毎年、世界の10大リスクの予測を発表しているユーラシア・グループの社長 イアン・ブレマーの著書『対立の世紀』を読んでみました。ブレマーは、社会の対立が「我々対彼ら」という構図によって生まれると指摘しています。「我々」の生活がよくならない原因を「彼ら」のせいだと考えるようになり、対立が生まれるというのです。

ブレマーは、21世紀の世界経済を支えることになる中国・インド・ロシアやアフリカ、中南米・中東の途上国における対立を生む脆弱性を挙げて、21世紀は「対立の世紀」になると言っています。そして、社会の対立を克服する方法として「社会契約を書き換える」ことを提案しています。

ユーラシア・グループは、2019年の10大リスクのトップに「地政学的な危険を誘発する悪い種」を挙げました。「悪い種」とは欧米政治の混乱やポピュリズムの台頭、主要国の同盟の弱体化のことで、今後数年で世界の地政学的な危険が顕在化すると警告しています。2番目に「米中対立」、3番目に「サイバー紛争の本格化」、4番目に「ヨーロッパのポピュリズム」、5番目に「米国内政治」を挙げています。このように、ブレマーおよびユーラシア・グループは、今後数年で世界は大混乱に陥ると警告していますが、その内容について考察してみることにします。

 

 

1.米国とEUにおける「社会の対立」

1980年代に始まったグローバルリズムは、新自由主義の資本主義を受け入れて、「相互依存と国際交流によって、全体として豊かになれる」という期待と希望を多くの人々に持たせた。しかし、そうした期待と希望は完全に裏切られ、一部の人々に富が集中し、大多数の人々を厳しい生活状態に追い込んだ。そして、今、世界の国々で「我々対彼ら」(us vs. them)という対立の構図が生まれた。

米国では、中産階級から脱落した多くの人々が、我々の生活を支配するルールを定めたエリートたちや、その片棒をかついだメディアを裏切り者として敵視している。トランプを始めとするポピュリストたちは、人々の間に境界線を引く能力に長けていて、「我々対彼ら」という訴求力のある対立をうまく使って勢力を拡大している。「彼ら」とは、ある国では「金持ち」や「外国人の移民」であり、別の国では宗教的、人種的、民族的な「少数派」であったりする。

こうした対立の震源は、グローバリズムの内に潜み、人々の心に経済的・文化的な不安を生み出している「破壊の種」にある。グローバル化は、先進国の生産とサプライチェーンを労働コストの安い中国を始めとする途上国に移し、中国や途上国に中産階級を生んだ。ところが、先進国では、ビジネスリーダーたちが途上国で生産した低コストの商品を売って莫大な利益を得たが、自国の中産階級の労働者たちは生計を脅かされるようになった。

米国では、失業した白人男性の57%が政府からの障害者手当を受けて生活するようになり、その約半数が毎日鎮痛剤を服用するようになった。何回も職探しに失敗すると職探しをやめて、「失業中」でもなくなった男たちが失業男性の3倍もいるという。彼らは失業率にもカウントされていない。それでも、グローバリゼーション推進派の官僚やビジネスリーダーたちは、グローバル化が雇用機会を奪うことはないと主張し続けた。そして、2008年の金融危機から白人労働者の怒りの矛先が政治家だけでなく、メディアや巨額の退職金を受け取るCEOたちに向けられるようになり、「我々対彼ら」という対立の構図が生まれた。

EUでは、「シェンゲン協定」によって国境を越えた人の移動が自由になり、東欧から西欧への移民が多くなった。西欧の人々は、外国人が仕事と医療保険を奪いに来るのを恐れ、異文化の外国人が増えることによって自分たちの誇らしい文化的アイデンティティが薄れてしまうのを恐れるようになった。フランスのルペンは、「国はもはや国家としての意味をなさず、市場でしかない。国境線は消えて、誰もが我が国に来ることができる。これではフランスの文化的アイデンティティが薄まってしまう」と訴えている。西欧の人々の過半数が「シェンゲン協定」の廃止を望むようになり、英国のEU離脱の主な理由は東欧からの移民を排除することだった。西欧は、人種・民族の多様性を受け入れ、容認する価値観を持ち、中東やアフリカからの移民を受け入れてきたが、今や移民は「我々」と対立する「彼ら」とみなされるようになった。

米国やEUでは、インターネットが「社会の対立」を助長している。インターネットは、自分の好みを教えると、好みのモノや同じ好みの人々とつなげ、同じ価値観の人間を集団にまとめて社会の分断を生み出している。どの党に投票するかを教えれば、見たいニュースをやっているTVチャネル、気に入るウェブサイト、信用できる新聞を教えてくれる。TV、ウェブサイト、新聞といったソーシャルメディアは、意見の合う人々だけフォローし、合わない人々を無視する。現在のソーシャルメディアは、メディアに求められる「公正な報道」という本来の使命を捨ててしまい、偏った報道になり過ぎてしまった。そのために、好みのソーシャルメディとつながった人々は、考え直したり思い直したりする機会を失ってしまった。その結果として、一旦、支持政党を決めると、それが固定化し、「社会の対立」が深まっていくようになった。

 

2.途上国における「社会の対立」

 今後の21世紀の世界経済を担っていくことが予想される途上国として、中国、インド、インドネシア、ロシア、トルコ、サウジアラビア、中南米のメキシコ、ブラジル、ベネズエラ、アフリカのエジプト、ナイジェリア、南アフリカの12カ国について、各国にある対立の構図を見ていく。

 

[中国]

 中国はグローバル化で最も恩恵をうけた国だ。中産階級が米国で激減したのと対称的に、中国では2002年に人口の4%であった中産階級が2013年には31%にまで急増した。

 中国国内での最大の対立点は農村部と都市部の格差問題だ。その根底には中国固有の「戸籍制度」がある。中国は、国民を「農村戸籍」と「都市戸籍」に分けて統治しているが、その両者の所得に大きな格差が生じている。今までの高度経済成長によって格差はますます拡大してきた。今後、経済成長が鈍化し、あるいは減少に転じ、農村部の人々が成長から取り残されたことを実感したときに、都市部の中産階級に対する妬みと政府に対する怒りが爆発して、社会を揺るがす大問題になるだろう。

 中国では、高度経済成長の陰で、空気と水の汚染問題が深刻化している。大気汚染は毎年100万人以上の命を奪っていると推定される。地下水の3分の2、表流水の3分の1が汚染され、ほぼ半数の河川の水に毒物が含まれているという。

 中国の統計データは信頼できないと言われ、中国経済は既にマイナス成長になっているとも言われる。それに、巨額の負債を抱える国有企業が倒産したり、都市部に押し寄せる農村の人々に都市住民としての基本的なサービスの提供に苦しんでいる地方政府が破綻したりすれば、格差問題や環境汚染問題を種にして社会の対立が先鋭化することが予想される。中国の中産階級の贅沢三昧なライフスタイルは貧しい人々の怒りの対象となり、そうした社会に主導してきた政府に対して怒りが向かうことになる。中産階級は、こうした状況を恐れて、子供を国外留学させ、財産保全のために財産を海外に移している。

 一方、中国共産党の最高幹部らは、国が抱えている問題を熟知し、党の存続がそれらの課題に対処できるかどうかにかかっていることを承知していて、真剣に取り組んでいる。場合によっては、今後に起こる「社会の対立」に世界で最もうまく対応する方法を見つけるかもしれない。

 しかし、現在、中国共産党が行っている方法は、共産党独裁に不都合な情報から国民を隔離することであり、人権を無視して国民の行動を監視し、社会に不適切な人間を排除することだ。

中国は莫大な費用と人を投じて、国民に見せたくないインターネット上の情報を「グレート・ファイアウール」によってブロックし、政治的に不適切なコンテンツへのアクセスを遮断し、逆に外国へのネット攻撃システム(「大砲」という)を導入して、攻勢に転じている。

また、14億人の国民を管理する「社会信用システム」を作って実験中だ。それには、犯罪歴、逮捕歴、職歴、離婚歴から試験のカンニングに至るまでの詳細な情報や、嘆願書、抗議活動への参加情報などが記録されている。この社会信用システムは、ある国民が信用できるか、社会に害を及ぼさないかを国家が判定するために使われる。もし信用できないか、危険な人間と判定されれば、その人の未来はなくなる。こうしたシステムによって、共産党独裁体制は維持されるかもしれないが、国民の人権が全く無視されることによる新たな対立が必ず生まれるだろう。

 中国は、「中国製造2025」で米国と並ぶハイテク国となり、2035年には米国を抜こうとしている。中国は、今後のAIとビッグデータの時代には、世界最大の人口が生み出す情報のすべてを自由に使える中国の方が有利だと考え、しかも、国家主導のもとに国家プロジェクトとして推進することによって米国より効率よく進められると考えている。そして、中国国内からデータを持ち出すことを一切禁止した。

しかし、職場にAIと自動化を大規模に導入することは、中国の既存の雇用の77%を脅かすと世界銀行が予測しているが、それに対して、中国の指導者は、テクノロジーで米国を抜くことに固執し、大規模な雇用の減少について全く無関心でいる。それが中国政府の盲点になる可能性がある。

 

[インド]

 インドは、1人当たりのGDP1723ドルしかなく、非常に貧しい国だ。電気がまだ全世帯に普及しておらず、6億人のインド人がトイレのない家で生活している。そんなインドが、モディ首相になって、世界で最も成長率の高い国になった。これから5年以内にインドは中国を抜いて世界一の人口大国になる。しかも、人口の半分が25歳以下であり、インドの経済成長にとって有利に働く。

 インドで最も深刻な国内対立は、ヒンドゥー至上主義のナショナリストと1億人以上もいるイスラム教徒との緊張関係だ。また、カースト制度による階級差別をなくすために、カースト下位の国民に対して、高等教育機関への入学や給料の良い公務員への採用で優先枠を設けているが、これに反感を抱く人々との間に対立が生まれている。インドでは35の言語と22千の方言が話されていて、国家統治の難しい国だ。

 インドは、ソフトウェア産業が盛んであることが今後のディジタル時代には強みとなる。しかし、現在盛んなコールセンター事業は、AIと自動化が進む将来はなくなる。

 

[インドネシア]

 世界第4位の26000万の人口を抱えるインドネシアは、開発が遅れている島々に12000万人の貧しい人々が暮らしている。インドネシアは、国民1人当たりのGDP3600ドルで、まだ貧しい国だ。国民の半分が28歳以下という若い国だが、都市部と農村部の格差が大きく、労働者の教育水準とスキルが低いという問題がある。ジョコ大統領は、こうした問題に懸命に取り組んでいるが、島々への電力供給、道路や質の良い学校の建設ができなければ、島々の若者たちはディジタル時代の経済競争に必要なスキルを身につけることができず、貧困状態から抜け出すことができなくなる。

 インドネシアは、世界最多のイスラム教徒(スンニ派)の国だが、民族的・宗教的少数派とも融和し続けるために、インドネシアの憲法には「国教を持たない世俗国家」であり、「信教の自由と多様性を尊重する」ことが明記されている。しかし、最近になって、イスラム過激派とポピュリズムとナショナリズムが訴求力を拡大して、民族的・宗教的少数派との対立が激化している。

 

[ロシア]

 2000年にプーチン政権が発足してから1人当たりGDP3倍になった。しかし、2014年に石油価格が大幅に下落してから、1人当たりGDP 9000ドル以下で伸び悩んでいる。これは、かつてロシアの衛星国で今はEU加盟国のチェコの18286ドル、ポーランドの12316ドルよりも低い。現在のロシア経済は、石油の輸出に頼り、石油価格の下落によって経済が停滞し、貧困率が上昇し、確実に悪い方向に向かっている。しかし、ロシアは、石油依存から脱却し、経済を反転させる方法を見いだせないでいる。現在のロシアは、闇市がGDP40%にも達していることによって、国民の被害が軽減されている。ロシア国民は、政府職員の汚職に怒りながらも、生活水準が低下するのをじっと耐えている。

 

[トルコ]

 第1次世界大戦で敗れたオスマン・トルコ帝国の後、新生トルコ共和国の父ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、トルコを近代化させるために、ヨーロッパを手本とする世俗主義と政教分離の政治・経済制度を築いた。政治・経済では、昼間の礼拝を禁止し、女性の社会進出を促すために女性の参政権を認めた。しかし、現大統領のエルドアンは、保守的なイスラム教の価値観を復活させた。エルドアンは、政権を握ってから10年間で国民1人当たりのGDP3倍にしたが、今のトルコ経済は低迷している。

2016年にトルコの軍の一部がクーデターを起こすと、エルドアンは、非常事態宣言を発令して、多くの敵を投獄した。エルドアンは、自分の権限を強化し、「我々対彼ら」の構図を作り出して、国家を2極化させてしまった。

 

[サウジアラビア]

 人口3200万のサウジアラビアの人々はオイルマネーで生活している。労働人口の3分の2は政府系機関で雇用され、肉体労働は外国人労働者によって賄われている。このような状況を脱出するために、サルマン国王は「ビジョン2030」を打ち出し、ムハンマド皇太子が指揮をとってプロジェクトを牽引している。

サウジアラビアでは、今、「自由」を選ぶか、「宗教」に忠誠を誓うかで分裂し、緊張状態が続いている。将来、政府が国民に仕事や収入を与えることができなくなったときに、「自由」と「宗教」の分裂が「我々対彼ら」の対立の構図となることが懸念される。

 

[メキシコ]

 メキシコでは、政府のあらゆるレベルで蔓延している汚職と高いインフレに国民が苛立ちを募らせている。それに、貧困率がほとんど変わらず、将来の生活水準が良くなるという期待が全く持てない状況から、国民は政界全体を敵視するようになった。

そんな中で、2018年の大統領選挙でポピュリストのロペス・オブラドールが勝利した。オブラドールは、「汚職と無処罰の撲滅」、「公職につく者の不逮捕特権の剥奪」などのクリーンな政治方針と、「貧困層への医療無償化」、「インフレ率を上回る最低賃金の改定」など、弱者に寄り添う姿勢を示したが、長期的な経済政策については全く不明だ。オブラドール政権は、後述するベネズエラのポピュリズム政権と同じように、人気取りの政策に偏重し過ぎて、長期的な経済構造を損なう危険性がある。

 将来、メキシコの製造業の3分の2の仕事が自動化されることが予想されていることから、メキシコは不安定で危険な状況になると予想される。

 

[ブラジル]

 ブラジルは、中産階級が2003年に人口の35%から2013年に60%になり、大躍進を遂げた。しかし、そのブームは今や過去のものとなった。一次産品の輸出価格の大幅な下落と、通貨の大幅下落によって、政府も企業も消費者も山ほどの負債を抱え込んでいる。しかし、国民1人当たりのGDPはまだ8700ドルほどにとどまっている。貧困から抜け出し、中産階級に仲間入りして、さらに良い生活を求めている大多数の国民は、汚職、犯罪、良い教育と良質なヘルスケアの欠如、政府の無能ぶりにうんざりしている。経済減速から脱するには、道路、港湾、空港、学校、病院などのインフラに多くの投資が必要だが、それができない。そして、今、国民と政財界のエリートたちの間に断層が生まれ、「我々対彼ら」の対立の構図が生まれている。

 

[ベネズエラ]

 世界最大の石油埋蔵量に恵まれているベネズエラでは、過激なポピュリストのチャベス前大統領とマドゥロ現大統領が深刻な社会不安を引き起こした。チャベスは、貧しい人々の生活を改善するために食料、生活必需品、住居、ヘルスケアなどに資金を投じ、1999年に49%の貧困率を2012年には29%に縮小させた。それは、石油価格が記録的に高水準にあったから可能であったが、人気を高めたチャベスは色々な長期的経済問題の種をまいた。2013年にチャベスが他界し、2014年末に石油価格が半分近くに暴落すると、原油以外のほぼすべての物資を輸入に頼っているベネズエラは、深刻な電力不足・水不足、生活必需品の不足に陥り、政府が債務返済のために紙幣をあまりにも多く刷り過ぎたことから極端なインフレとなり、債務不履行を避けるために輸入を制限すると、物資不足がさらに悪化した。そして、300万人が隣国に逃亡し、若者たちも国外に出て行ってしまった。チャベスとマドゥロがベネズエラ経済に負わせた歪は、修復に何年もかかるほどの負の遺産となった。石油に依存しない経済体質への改革を迫られるベネズエラにとって、それはあまりにも大きなダメージとなっている。

 

[エジプト]

 エジプトでも格差が広がっている。人口9000万のうち30%が貧困生活を送っている。1人当たりのGDP3500ドルにとどまり、アラブの春が残した国民の怒りは全く解決されていない。

 現在のエジプトの最大の難題は、スプロール現象(都市郊外に宅地が無秩序・無計画に広がっていく現象)によって農地が失われる一方で、人口が急激に増加して、深刻な食料不足に陥っていることだ。エジプトは、すでに最大の小麦輸入国になっていて、各地で食料不足や水不足に対する抗議行動が勃発している。

 エジプトの人口の半分以上が25歳未満で、毎年75万人が大学を卒業しているが、イノベーションに必要なスキルを習得しているのはそのごく一部だ。今後のAIや自動化では、エジプトはますます後れをとるだろう。

 

[ナイジェリア]

 ナイジェリアは、アフリカで屈指の経済と最大の18000万人を超える人口を有する。南部に住むキリスト教徒の農民と開発が遅れている北部に住むイスラム教徒の牧畜民によって人口が二等分され、国土が2つに分断されている。イスラム過激派組織ボコ・ハラムは北東部を拠点にしている。

ナイジェリアは、近年、グローバル化に伴って早いペースで経済が成長しているが、富裕層が増加している一方で、貧困生活者も人口の65%にあたる12000万人に増加し、格差が拡大している。

1999年に民主化が実現したときに、南北双方から交代で大統領を選出する取り決めを交わしてきたが、将来は南北が対立する危険性がある。

 ナイジェリアでは石油輸出が収入の90%以上を占めているために、2014年以降の石油価格の下落が経済成長に重くのしかかり、教育、インフラの改善や貧困対策に費やす財源が減少している。

 ナイジェリアでも、エジプトと同様に、将来のAIと自動化に対応するための教育が不十分な状況にある。

 

[南アフリカ]

 かの偉大なるマンデラ大統領がアパルトヘイトを解消した南アフリカでは、近年、人種・世代による差別問題と治安問題で揺れている。若年層の失業率が成人失業率の2倍で、黒人若年層の失業率が40%で白人若年層の4倍近くに達していることから、黒人の若者たちによる暴力的抗議行動が頻発している。その根底には、一次産品輸出に対する世界の需要が減少したために政府の投資できる財源が減少していること、黒人居住区と農村地区の貧しい人々が教育と就労の機会で差別されていることがある。黒人の若者たちは、この国には自分たちの居場所がない、学位を取得しても良い生活を送るチャンスが得られない、政府が自分たちを見捨てている、といった不安を抱えている。若年層の失業率はすでに高く、若者たちの不満が臨界点に達するのはそう遠くない。

 

3.テクノロジー革命で生まれる「社会の対立」

今後、世界中でAIとロボットによる自動化の競争が激化し、職場における既存の仕事の半分以上が自動化されると言われる「テクノロジー革命」が起こる。存続が危ぶまれる職業のほとんどが管理、販売、調理、サービス部門に属していて、診療所、弁護士事務所、学校で働く人々もAIやロボットにとって代わられるという。こうしたテクノロジー革命がもたらす変化は、従来のホワイトカラーとブルーカラーの対立とは違った職業的対立を社会に引き起こすことになる。

テクノロジー革命では教育が重要なカギを握る。自動化で必要なスキルを教育することと、職場の自動化で失業した人々を社会に復帰させるためにも、新たな職場で必要なスキルを身につけさせる教育制度が重要になる。その場合に、貧困層にも平等に教育の機会を与えなければならない。それを怠れば、生活保護者が増大し、国家財政が成り立たなくなる。

前節では、途上国における自動化の影響について見てきたが、自動化の打撃は途上国の方が大きい。先進国は、将来、人口減少の傾向にあり、テクノロジー革命が有利に働くが、途上国は、人口増加の傾向にあり、しかも、テクノロジー革命に備えて若者たちの教育が十分にできないために、大きな打撃を受けることになる。

こうしたことから、テクノロジー革命は、先進国と途上国の経済格差をますます拡大させることになり、深刻な国際問題となるだろう。

 

4.「社会の対立」を克服する方法

 ブレマーは、「社会の対立」を克服する方法として、政府が社会契約を書き換えることを提言している。ブレマーの提言は以下のとおりだ。

ほぼ全ての国民が「政府には国民1人ひとりの安全を守る義務がある」という価値観を共有している。また、米国の独立宣言にあるように、「全ての人間は生まれながらにして平等であり、生命、自由、および、幸福を追求する権利を有する」ことを自明の理として信じている。また、西洋の啓蒙思想や古今東西の歴史を通して、「納税は、王が臣民の安寧な生活を保障するサービスに対する交換として支払われる」という社会契約の思想がある。

今、世界各国で貧富の格差が拡大して貧困層が増大したり、社会的権利が不平等になったりしていることは、各国政府が本来の義務を果たしていないことの表れだ。「社会の対立」が起こるのは、政府の社会契約が間違っているからで、それを克服するには、間違っている社会契約を書き換えなければならない。

新しい社会契約の要点は、「社会の対立」やAIと自動化による社会変化への対応を可能にする財源を確保するための「税の徴収方法」を確立すること、社会変化に対応した「教育の目的、内容、提供方法」を再考すること、社会変化に対応できない人々に最低限必要な物やサービスを提供する「セーフティネット」を新たに構築すること、社会全体の課題に対する「創意・工夫」を募る仕組みを構築することだ。「税の徴収方法」ではロボットへの課税が考えられ、「セーフティネット」ではベーシック・インカムが考えられる。ベーシック・インカムとは、生きていくために足りるだけの一定額を失業者に支給する制度だ。この仕組みは、行政手続きの簡素化と失業者に再就職の意欲を起こさせるメリットがある。「教育の目的、内容、提供方法」では、AIとロボットの導入によるディジタル時代に対応した教育を根本から再構築しなければならない。

 

5.あとがき

 今までの考察を総括すると以下のようになる。

『人・物・資本が国境を越えて移動するグローバル化は、労働コストの安い途上国に製造産業が移転し、途上国の経済の発展に寄与したが、一方では、先進国で「社会の対立」を先鋭化させた。グローバル化で被害を被った人々と莫大な利益を手に入れたエリート層との間で「我々対彼ら」という対立の構図が生まれた。途上国でも、貧富の格差や民族的・宗教的な対立から「我々対彼ら」の対立が生じている。ポピュリズムは、グローバル化から取り残された人々の怒りを利用して、勢力を拡大している。

 今後のAIとロボットにより自動化が進む社会では、特に教育が重要になる。そのために、教育レベルが高く、教育に投じる資金力があり、人口が減少傾向にある先進国の方が有利になる。一方、教育レベルが低く、資金力がなくて、人口の増加傾向にある途上国には不利になる。

 ブレマーは、格差や社会的不平等による「社会の対立」を克服する方法として、政府の社会契約を書き換えることを提言している。今後のAIとロボットによる自動化が進展する社会に対応するには、税の徴収方法、教育、セーフティネットなどを再構築する新たな社会契約に書き換えなければならない。』

 AIとロボットによる自動化が社会に与える影響についての予測が、前回にとりあげたエモットと今回のブレマーでは違うことについてふれる。エモットは、経験的・実務的・経済的な予測から、急激な大量失業は発生しないと言い、ブレマーは、世界経済や国内の政治・経済にも大きな影響があると言っている。筆者は、両者の予測が矛盾するのではなく、エモットは短期的な予測であり、ブレマーは長期的な予測だと考える。つまり、AIとロボットによる自動化の進展は徐々に進むために、短期的には大量失業とはならないが、長期的には現状の仕事の半分以上が自動化されるということだ。

 ポピュリズムについてふれる。ポピュリズムは、グローバリズムの反動であり、一時的な現象だと考える。グローバリズムの被害者に迎合するポピュリストは、グローバリズムを破綻させる働きをするかもしれないが、「社会の対立」を克服する新しいリーダーにはなり得ないだろう。むしろ、ベネズエラのチャベスやマドゥロのように、国家を再起不能なまでに破壊する危険性がある。

グローバリズムが破綻した後、独裁主義の中国・ロシアと民主主義の先進国がどうなるかについて考えてみる。グローバル化は、結果的に、先進国が中国の経済成長を助けたことになり、中国の独裁主義を元気づけてしまった。中国は、先進国からテクノロジーを奪い、そのテクノロジーを国内で試して経験を積むことによって自分のものとし、これから「一帯一路」で輸出しようとしている。そして、今や、最先端のテクノロジーの論文や特許では、中国が日本や米国を抜いて、トップに躍り出ようとしている。

しかし、中国にも大きな欠点がある。まず、独裁体制の維持に莫大なコストがかかることだ。国民を外部から遮断する壁をつくり、国民の挙動を監視して独裁体制を守るために莫大なカネを投じている。また、独裁主義は、汚職と権益層を生み出しやすい体質を持っている。

そうした欠点をかかえながら、国内最大の対立である農村部と都市部の格差問題を克服することは、経済成長が鈍化している現状では不可能に近い。AIと自動化は、人口減少に転じる中国にとって有利に働くが、農村部と都市部の格差をますます拡大させることが懸念される。

中国は、習近平になって、国有企業を優遇し、企業に対する国家統制を強め、国家主導で世界一のハイテク国家になることを目指している。しかし、現状では国有企業が足を引っ張って生産性が伸び悩み、米中貿易戦争による経済の低迷をカバーするために不要な建設計画を進めているために、過剰債務のバブルがますます大きくなっている。

一方、民主主義の先進国は、今、社会的権利の不平等やポピュリズムの台頭によって、民主主義の制度が危機に瀕している。先進国の「社会の対立」は、民主主義の基本理念である「自由」と「平等」のバランスがくずれたことによって生まれた。もともと、「自由」と「平等」は相反する理念だから、バランスをとるのが難しい。先進国の現状は、新自由主義による行き過ぎた「自由」によって社会的な「平等」が犠牲になって、アンバランスな状況にある。前回のエモットは、このアンバランスな状況を修正する方法として、「社会の開放性と平等を保つように改革する」ことを提言し、継続的にきめ細かな改革を行うことの重要性を指摘した。ブレマーは、さらに一歩進めて、「社会の対立」と今後のAIと自動化による社会変化に対応する方法として、「政府が国民の総意のもとに社会契約を書き換える」ことを提言し、抜本的な社会制度改革の必要性を指摘した。両者の提言をまとめると、「社会の開放性と社会的な平等が維持されるような社会制度に抜本的な改革を行う」ということなる。それがブレマーの指摘する「社会契約の書き換え」に当たる。今後の先進国が民主主義を存続させ、AIと自動化による社会変化に対応していけるかは、それが成功するかどうかにかかっている。それこそが、今後の先進国の指針となる。

次に、グローバル化の破綻と自動化の進展が途上国に及ぼす影響についてふれる。中東や東南アジアのイスラム諸国、アフリカ、中南米の途上国は、自動化の進展によって労働コストの安さが強みではなくなり、中国のようなグローバル化による経済発展ができなくなる。その結果、先進国と途上国の格差は拡大こそすれ、縮小することはない。また、途上国から先進国への移民は、先進国が自動化の進展に伴って移民の受け入れを拒否するようになり、深刻な国際問題となる。こうした中で、途上国に対する日本の青年海外協力隊の取り組み方が貴重なものとなると筆者は考える。途上国の地元の人々が自力で立ち上がるのを支援するという方法は、今後、先進国や中国・ロシアに求められる支援方法だ。中国のように、途上国に過重な債務を負わせる「インフラ投資」や、国民を過剰に監視する「監視システム」の輸出は途上国のためにならない。

21世紀は「データの世紀」とも言われる。社会のあらゆるものが5Gの高速ネットワークにつながり、企業や消費者が生む膨大なデータが国家や産業の最大の資源となる。現に中国は国家ぐるみでデータ収集を進めるようになり、米国主導で進められてきたインターネットが中国主導と米国主導の2つに分断されようとしている。また、中国がデータの国外持ち出しを禁止し、EUも一般データ保護規則(DPPR)を施行して、世界が複数の「データ経済圏」に分割されようとしている。複数のデータ経済圏の出現は、企業データ管理やネットサービスを分断してコストの増加を招き、成長の足かせとなる。それに、ロシアの偽情報による選挙介入や中国のサイバー攻撃など、インターネットを悪用するリスクが増加している。こうした状況に、安倍首相が今年のダボス会議で、WTOによるデータ流通のルール作りを提言した。

以上のように、これからの国際社会は混沌とした状態に陥るが、エモットとブレマーの提言から、民主主義の先進国が進むべき方向が見えてきたことに一途の希望がわいてきた。(以上)

最後までお読みいただき、感謝します。

「西洋」の理念は

今後とも世界を律する理念であり続けられるか

                      2019年正月 芦沢壮寿

今年の正月は世界的に著名な国際ジャーナリストのビル・エモットの著書『「西洋」の終わり』(20177月)を読んでみました。そこには、「西洋」という理念にもとづく繁栄が終わろうとしていると警告し、それを避けるための提言が書かれていました。

明治以降、西洋の価値観を取り入れて、西洋先進国に仲間入りした日本人は、「西洋」という言葉に現代的で進んだものといったイメージを持っています。自由・民主・平等などの「西洋」という理念は、世界を律する理念として、戦後70年にわたって世界に繁栄をもたらし、普遍的な価値とみなされてきました。しかし、最近になって西側先進国がおかしくなりました。グロ−バル化の進展がもたらした不平等の拡大を背景にして、移民排斥や孤立主義のポピュリズムの蔓延によって、「西洋」という理念が捨て去られ、各国の協調関係が分断され、一国内でも断絶が起こっています。

西側先進国の勢いが衰えて、大多数の人々が安心感を抱けなくなったのは、なぜでしょうか。権利の不平等と不安定な生活を強いられ、置き去りにされたと感じるようになり、過激な勢力を支持しようとするのは、何が原因なのでしょうか。こうした疑問を解明するために、下記の項目について考えてみることにします。

 

1.西側先進国が犯してきた過ち

      2.「西洋」という理念の特質

       3.民主主義の欠陥とその克服

       4.先進各国の課題とその対応策

       5.「西洋」の理念の障害を克服する提言

       6.「西洋」の理念と対決する中国の脅威

7.自由主義と独裁主義の競争

       8.中国は米国を越えられるか

       9AIとロボットは本当に大量失業をもたらすのか

       10.あとがき

 

 

 

1.西側先進国が犯してきた過ち

前記の2つの疑問に対して、エモットは、西側先進国が犯してきた過ちに原因があると言い、「西洋」という理念の運命でも宿命でもないと主張している。

西側先進国が犯してきた過ちとは、自由主義の開放性の恩恵によって生まれた利己的な集団と圧力団体が「西洋」の理念の根底をなす「平等」という基盤をむしばんでいることである。その過ちを正して、「平等」の基盤を取り戻すには、利己的・独占的な圧力団体を打倒しなければならない。

そもそも、自由・民主・平等などの「西洋」という理念にもとづく開かれた社会が世界の標準になったのは第2次世界大戦後であり、「西洋」という理念から創造される文化、貿易、テクノロジーを開放して、戦後70年の繁栄をもたらしたのは米国であった。米国は、世界の繁栄と平和を国益とみなし、世界の警察となって世界をリードしてきた。その米国がおかしくなり始めたのは、2001年の同時多発テロからであり、2008年のリーマンショック後の金融危機から米国とEUがおかしくなった。日本は、米国・EUよりも早い1990年のバブル崩壊後の金融危機からおかしくなった。日米欧の金融危機は行き過ぎた自由主義のもとで生まれた利己的・独占的な圧力団体によって引き起こされたのだ。

 

2.「西洋」という理念の特質

「西洋」という理念を共有する国々には共通する8つの特質がある。その第1の特質は、経済、文化、科学、スポーツなどで持続的に繁栄することに成功したことだ。その成功は、社会の開放性が新しい思考やイノベーションをもたらし、その成果として繁栄がもたらされた。

共通する第2の特質は、先進諸国が1990年代以降に深刻な金融危機にみまわれたことだ。1990年代初頭に不動産バブルが崩壊した日本とスウェーデンが深刻な金融危機に陥り、2008年に米国とEU諸国でリーマンショックに起因する金融危機が起きた。これらの金融危機は、長期にわたる成長の過程で形成された銀行や大企業などの利益集団が公共の政策を自分たちに有利なように歪めたことによって引き起こされた。利益集団が民主主義のルールをゆがめ、政府もそれを看過したことから大惨事になった。その被害を全ての世代がこうむり、大多数の人々が希望と機会を失い、既存の社会に対する反発がわき起こった。

共通する第3の特質は、権力をいくつかの政治機関に分立して、権力の均衡と抑制を図り、全てを「法の支配」のもとに統治することだ。全ての人々に平等に開かれる「社会の開放性」は、法律によって平等な権利が与えられることが基本となる。しかし、法律で平等な権利が定められていれば開放的な社会になるわけではない。ロシアやベネズエラでは、法は権力者が独裁的に使う道具になっている。全ての人々に平等に開かれた社会を実現するための諸条件は未だに不明である。従って、絶えず改革を試みて、徐々に進化していくことが求められる。

共通する第4の特質は、社会の大きな変化が高レベルの社会的信頼によって受け入れられ、吸収されてきたことだ。その高レベルの社会的信頼は、法の下での平等、普通参政権、福祉のセーフティ・ネット、老齢年金、教育などによって確立されてきた。社会的信頼の確立方法は国によって異なる。日本やイタリアでは「雇用の安定」が重視され、米国では「地理的移動・社会移動のしやすさ」が重視され、欧州では「社会福祉の充実」が重視される。

共通する第5の特質は、国内の不平等が増大していることだ。不平等には、所得格差の不平等と法的・政治的権利の不平等がある。

所得格差の不平等は、1980年代に英国のサッチャー首相と米国のレーガン大統領の新自由主義(ネオ・リベラリズム)の改革以降、テクノロジーと道徳規範の変化、労働組合の弱体化、所得と富の平等を目指す流れを逆転させる潮流が強まったことから生まれた。日本では正社員と非正規社員の雇用形態の違いによる差別が深刻な問題となっている。

新自由主義とは、フリードリヒ・フォン・ハイエクに代表される自由主義市場経済理論である。新自由主義は、国家による管理や裁量的政策を排し、できる限り市場の自由な調整に委ねる理論であり、国家による適切な市場介入が必要であると説くケインズ理論と対立する。新自由主義は、人間の金銭欲に火をつけて暴走させ、世界的な金融危機を引き起こし、不平等を生んだ犯人とみなされる。

法的・政治的権利の不平等は、社会・政治システムへの信頼を損ない、ポピュリズムと社会の分断を引き起こす。特に、若者と高齢者、納税者と受益者の亀裂が深刻な問題となっている。

米国で最も深刻な問題は、社会のごく一部の富裕層と大企業の富が増大し、社会の政治的発言力と政治的権利が極端に不平等になっていることだ。富の偏在による貧困層の増大と固定化は、教育による貧困層からの脱出の望みを貧困層から奪うことになる。

共通する第6の特質は、先進国は移民を発展途上国よりも多く受け入れていることだ。英国のEU脱退の主な原因はEUの人の移動政策との対立にあり、米国のトランプ政権も移民政策を転換して大きな問題となっている。

共通する第7の特質は、民主主義、法の支配、政治倫理、社会移動についての市民の期待が着実に高まっていることだ。民主主義が機能不全を起こし、政治への不信が高まっている場合でも、民主主義への期待が衰えているわけではない。

共通する第8の特質は、利害が一致する事柄で国際的に協調することを信条としていることだ。

さて、「西洋」の理念を共有する国々に共通する上記の8つの特質は、各国の文化や国民性の違い、地理的・経済的な条件の違いに関係なく、「西洋」の理念に依存する特質を表している。「西洋」の理念は、戦後70年にわたって世界に繁栄をもたらしたが、その果てに深刻な金融危機を引き起こした。繁栄は、「西洋」の理念に基づく「社会の開放性」によってもたらされたが、金融危機も新自由主義から生まれた利己的・独占的な利益集団によって引き起こされた。そして、現状では、所得格差と法的・政治的不平等が深刻な問題となり、ポピュリズムが蔓延している。

こうしたことから、「西洋」の理念に基づく民主主義は脆弱であり、欠陥があることが明らかになった。しかし、「西洋」の理念には、社会的な信頼があり、いまだに民主主義への期待が強く、国際的に協調する信条をもっている。

 

3.民主主義の欠陥とその克服

民主主義の欠陥について、ケンブリッジ大学の政治学教授デビッド・ランシマンが著書『The Confidence Trap(自信の罠)』の中で次のように述べている。民主主義は融通無碍(ゆうずうむげ:どんな事態にも対応できる)と考えられているから、本当に悪化するまで対応しない。そのために、厳しい決断が先送りされ、債務が蓄積し、歳出削減が後回しにされる。その結果、一旦狂いが生じると致命傷になる。また、民主主義の面倒なプロセスが決断を下すのを難しくしている。

選挙という競争プロセス自体が、民主主義の政治を硬直化させている。選挙で勝利した政権与党は、多数派の横暴で好き勝手に振舞い、多数派であり続けることを画策する。政権与党が長く続くと強力な利益集団と結びつき、自分たちの利益になる法律・規制・公的資源を獲得するように歪めてしまい、市民に開かれた社会の存続が脅かされるようになる。

こうした民主主義の欠陥を克服する要点は、「社会の開放性」を脅かす行為や圧力を絶えず取り除いて、民主主義を健全な状態に保つように進化させることだ。言論の自由、法の支配、法の下での平等、清廉な政府、間接民主主義の正しい仕組みなどが正常に機能しているかを絶えずチェックし、問題点を明らかにして、速やかにそれを改善しなければならない。

 

4.先進各国の課題とその対応策

各国の歴史や文化によって、市民の不平等に対する感覚が違う。一般的に、米国にはアメリカン・ドリームに成功した金持ちを賞賛する文化があり、フランスは妬む文化をもち、北欧のスウェーデンでは強い敵意を抱くと言われてきた。しかし、今や大多数の米国民が貧困層に固定化される状況になり、格差の不平等を激怒するようになった。

米国では、カネの不平等よりも、教育・政治的発言力などの不平等が固定化していることが問題となっている。政治献金は言論の自由とみなされ、政治献金を自由化したために、献金を通じて富裕層の政治的発言力が拡大している。

日本、イタリア、フランス、ドイツやその他の欧州諸国では、年配の無期雇用契約の労働者の権利を保護し、若年労働者の権利を犠牲にして労働市場の柔軟性を維持してきた。そのために、若者たちが結婚できず、子供をもてず、家を買えず、教育資金をまかなえないといように、生活のあらゆる面で不平等が固定化し、社会の分断が顕著になっている。

英国、スウェーデン、スイス・カナダなどは、1980年代と90年代に社会の開放性が復活し、進化する力がよみがえった。英国では、サッチャー首相が「英国病」と言われた退廃状態を克服し、利己的な勢力を打倒して、自由・民主の「西洋」の理念を復活し、英国をよみがえらせた。スウェーデンは、福祉国家として規制が厳しく、税金が高く、社会が硬直化していたが、1980年代から金融業の浄化を始め、減税と全ての産業での規制緩和を20年間にわたって推進した。その結果、スウェーデンは、規制の最も少ない国に変容し、EU諸国より下回っていた経済成長率がEU諸国より高いレベルになり、最高税率が90%から50%に下がり、公的支出が減少した。しかも、幅広く手厚い社会福祉制度が温存された。このスウェーデンの成功から学べる教訓は、改革について与野党の総意、社会全体の総意をまとめるために、時間をかけて忍耐強く説得することだ。

EUが動揺し、不安定になっている原因は、2008年の金融危機、南欧諸国の公的債務問題、2014年のロシアのクリミヤ併合とウクライナ紛争、中東・アフリカからの難民流入、欧州の都市におくるテロとイラク内戦などの難題が相次いだことによる。EUには、こうした難題に対処して、改革を行う頭脳(司令塔)がない。EUは当初の15カ国から28カ国に拡大したことで、超国家的な意志決定が困難になった。EUのさらに大きな問題は、経済力や財政事情の異なる国が通貨をユーロに統一したことだ。経済が不安定でインフレになりやすいアイルランド、スペイン、ギリシャなどの国の金利がドイツ並に下がったことで、個人・企業・政府が借金できるようになり、債務が急増した。そして、今、イタリアとポーランドで反EU政権が誕生し、英国がEUを離脱しようとしている。EUは、現状のままでは、分裂し、消滅する方向に向かうしかない。

開発と教育が進んでいる先進国では急激に出生率が低下している。一方では、日本を筆頭にして急速に高齢化が進んでいる。65歳以上の高齢者は、日本では既に56年前に25%を越えているが、EU28カ国は2030年頃に、米国でも2050年頃には25%を越えると予測される。以前は退職後の余生が10年程度と予想されていたが、今では30年以上に延びた。人口動態(出生・死亡による人口変動と人口移動による人口構成の変化)に合わせて社会保障制度の改革や年金制度の見直しが緊急課題になっている。

社会福祉費用の増大が各国の財政を圧迫するようになり、科学研究、教育、インフラ投資などへの財政支出を奪っている。それに対する解決策は、福祉国家を維持することを目指すのではなく、信頼・公平感・社会正義の意識を醸成し、安心感と帰属意識を損ねないようにして、財政のバランスを図りながら国の制度を作り直し、国全体として進歩していけるようにすることだ。

 

5.「西洋」の理念の障害を克服する提言

「西洋」の理念の障害を克服する方法について、エモットは次のような提言をしている。

開放性と公民権・政治的権利の平等を基本とする「西洋」の理念は、国を繁栄させ、社会を進歩させてきたが、今やそれを信奉する国が士気低下、萎縮、人口動態の難題、分断、機能不全、衰退の危機にさらされている。しかし、それは「西洋」の理念の運命でも宿命でもない。現に英国・スウェーデン・スイス・カナダなどでは、障害を取り除くことよって復活することに成功した。その成功の要点は、社会の「開放性」と「平等」の復活に注力することであり、強いリーダーシップと社会全体の総意をまとめる忍耐強さが肝要となる。

改革によって社会の「開放性」を実現しても、それが続くと富と権力の集中が起こり、市場が独占され、政治的・経済的権利の不平等が発生し、社会的信頼が損なわれ、民主主義の崩壊へとつながる。従って、絶えず開放性の障害を取り除き、政治的・経済的な権利の平等を保つように改革を行い、進化していかなければならない。

「開放性」は最も重要な要素だが、資本移動や人の移動(移民や難民)に対する開放には熟慮を要する。トランプ大統領やヨーロッパのポピュリズム政党は移民に対する開放性を捨てようとしているが、短期的にはよくても、長期的には国家と国際社会の損失になる可能性が高い。

「平等」についても、カネの平等もさることながら、公民権の平等が最も重要である。雇用形態(正社員と非正規社員)の違いによる不平等、貧困層の教育機会の不平等、若年層と高齢者の世代間不平等は、個人としてだけでなく国の存亡にかかわる大問題である。「教育」は平等を支える唯一の重要な柱であり、「法の下での平等」は市民間・国家間の信頼の源である。

「言論の自由」は開放性と平等への架け橋であり、両者とも重視していかなければならない。

経済成長は、退屈なほど緩やかに平凡な状態を維持することが好ましい。そうすれば、国民全体の生活水準が向上し、福祉支援と公共投資を維持する財政を計画的に整えることができる。急激な経済成長はインフレや失業をまねく。

国際的な法の支配と国際協調を育むことが不可欠である。先進諸国は、同盟を強化して、もっと信頼できる正当な国際ルールを策定し、それに中国・ロシアを取り込んで、新たな国際法に基づく世界秩序を確立することを目指すべきだ。

 

6.「西洋」の理念と対決する中国の脅威

今の世界的な混乱は2001年に米国で起こった同時多発テロに始まる。1991年にソ連が崩壊して米ソの冷戦状態が終結し、1990年代は新自由主義のもとで米欧諸国は自信に満ちていた。それが2008年に米国で起こったリーマンショックに始まる世界的金融危機を境にして、中国が独自の独裁主義を世界に向かって主張し始め、「西洋」の理念と対決するようになった。それに、ロシアや中東、アフリカがからんで国際関係や国家安全保障の問題が多発するようになった。これらの問題は、次の4つに分類される。

@   中国が国際社会の中に自分の領域を確立するために、自国の利益になるように国際ルールの改革や新解釈を行おうと圧力をかけていること。

A   元超大国のロシアが被害妄想にとりつかれて、国家のアイデンティティを守るために暴威をふるっていることに先進諸国が対処できないこと。

B   ISとその後継者が宗教の極端な解釈を悪用した反文明思想を世界中にばらまいていること。

C   「西洋」の理念に挑戦する中国、ロシア、ISなどが、北アフリカ、中東、中央アジアの不安定国に介入して、独裁的な政治や反文明的な過激派組織を拡大させていること。

特に中国の独裁主義が脅威となる。中国は「現状維持」という国際ルールを無視して、南シナ海における九段線内を一方的に中国領と宣言し、岩礁を埋めたてて軍事施設を建設し、領有権の既成事実化を強行している。中国は、2千年も前の漢時代の版図を根拠に九段線内の領有権を主張しているが、ハーグの仲裁裁判所は2016年に国連海洋法条約のもとに中国の主張を無効とする判決を下した。それに対して中国は、軍事施設が南シナ海の安全を守るための「公益」の施設だと主張している。それは、中国が、米国と同じように、国際的な「公益」を決定する権利と能力がある超大国だと主張していることを意味する。つまり、南シナ海での中国の行動は、国際法と国際機関に対して米国と同じ姿勢で臨む権利を要求し、中国は米国と並ぶ超大国だからそれが許されると主張しているのだ。しかし、国際社会でも独裁主義と国家資本主義を押し通す中国は、「責任ある超大国」とはとても言えない。

 

7.自由主義と独裁主義の競争

米国のフリーダムハウスが2015年に行った政治的開放度と自由度を測る評価基準に基づく調査によると、世界の195カ国のうち、45%の88カ国が「自由」と判定され、人口比では世界人口の40%であった。「自由」と判定されたのは、「西洋」の理念を共有する諸国、即ち、米国、日本、EU、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの先進諸国である。一方、25%の48カ国、世界人口の35%が「自由でない」と判定された。それには、中国、ロシアや中東、アフリカのほとんどの国々が含まれる。残りの30%、世界人口の25%が「部分的に自由」と判定された。

今後、「自由」と判定された先進諸国は、「自由でない」と判定された中国、ロシアなどの国々と世界の秩序や価値観をめぐって覇権を争うことになる。

中国とロシアは、「西洋」の理念に対抗して、独裁体制のもとで、自由・民主に関わる情報や思想が領域内に流れ込むのを防止している。そうした閉鎖性が、トルコやハンガリー、ポーランド、ルーマニア、チェコなどの東欧諸国にも蔓延し、西側の主要国にも根を下ろしかけている。1989年にベルリンの壁が崩壊した東欧革命で共産主義者の独裁を打倒して民主化の闘士となったハンガリーのビクトル・オバルは、今、「非リベラル民主主義」と称するポピュリズムの手法を駆使して独裁者になっている。その手法は他のポピュリズム勢力のお手本として広がっている。

「西洋」という理念を信奉する先進諸国が中国やロシアの独裁主義との競争に勝つためには、まず、「西洋」の理念の強みである「開放性」と「平等」を取り戻さなければならない。そうすれば、「部分的に自由」と認定された諸国は、独裁主義の中国よりも、開放的で平等な先進諸国側につくことになる。

 

8.中国は米国を越えられるか

中国は2040年までには米国のGDPを抜くと言われている。それは、中国が今の経済成長を持続できた場合の話であるが、それが不可能な状況になりつつある。その第1の理由は、米国が国を挙げて中国と対決するようになり、米中冷戦のような状況になったことだ。これは、予想されたことだが、トランプ大統領になったことで急に顕在化した。今まで中国は、「世界制覇100年戦略」を隠して世界をだましてきたが、これからはそうは行かない。「一帯一路」でも、国際社会は中国の「債務の罠」を警戒するようになった。これから世界は5Gと呼ばれる高速通信の時代になるが、5G通信の最大企業である中国のファーウェイが米国、英国、オーストリアなどから、国家の安全保障を理由にして参入を拒否されている。このように、中国の独裁主義と国家資本主義は、今までの国内経済では有利に働いていたことが、これからの海外進出では痛手になる。

 第2の理由は、国内経済が厳しくなっていることだ。英国調査会社キャピタル・エコノミクスは、「長期的世界経済見通し」の中で次のように述べている。中国は、2008年の金融危機の後、債務増を伴う大規模投資を続けて経済成長を支えてきたが、限界に達して新築住宅の需要が減少に転じ、経済に急ブレーキがかかった。輸出についても労働人口の減少と米中貿易戦争から暗礁に乗り上げている。将来の需要の伸びは消費市場の拡大にかかっているが、これも新車やスマホの販売台数が減少している状況下では厳しい。さらに、中国政府は国有企業に対する融資を優先し、大手民間企業に対する介入を増やしていて、資源配分をゆがめ、技術革新と経済の進歩を遅らせている。

 以上の2つの理由から、中国経済は今後、急速に減速することが見込まれ、世界一の経済大国になるのが難しい状況になっている。

 

9AIとロボットは本当に大量失業をもたらすのか

テクノロジーのイノベーション、特にAIとロボットが大量失業をもたらすと予測されている。しかし、人類は素直にそれを受け入れるのだろうか。確かに、賢いロボットやスマート・ドローンなどの知的な自動化によって、仕事が自動化されていくであろう。しかし、AIは知的能力では人間を超えられるが、機械であるAIが人間の「心」をもつことは難しい。視覚・聴覚・味覚などの感覚を通して入る情報を微妙な連想によって認識し、解釈している人間が、「心」を持たないロボットを受け入れることに抵抗を感じないだろうか。こうした疑問に対してエモットは、経験的反論、実務的反論、経済的反論の3つを挙げている。

経験的反論とは、過去において、コンピュータが経済に対して期待されたような影響を与えなかったという事実から、AIをどんどん機械に取り入れても、生産性の伸びが小さく、目覚ましい利益が期待できないということだ。

実務的反論とは、本当に人間が満足できるAI付きロボットを開発することは非常に難しいので、実現するにしても、遠い先になるということだ。

経済的反論とは、人間の労働をAI付きの機械に置き換えるには、莫大な設備投資が必要になり、今後の世界的な経済成長の鈍化を考えると、それが可能になる状況にはなりにくいということだ。つまり、AIとロボットが大量失業をもたらすという予測は、恐れられているほどの影響を社会に与えないというのだ。

 

10.あとがき

 エモット氏の主張をまとめると、『自由主義・民主主義の社会をうまく機能させるには、「開放性」と「平等」が最も重要であり、それを維持するためには、不平等を引き起こしている利益集団や圧力団体を撲滅するように法律や社会制度をこまめに改善して、全ての人々に平等に開かれた「社会の開放性」を維持することだ』ということになる。

今、先進諸国では、トランプ大統領やポピュリズムの出現によって、「社会の分断」、「国際関係の分断」が起こっている。こうした分断は新しい社会秩序・国際秩序への変遷期にはやむを得ない現象ではあるが、それが限度を超えて、「西洋」の理念が長年にわたって培ってきた「社会的信頼」まで破壊すると、復活する土台がなくなってしまい、取り返しのつかないことになる。殊に、政治・外交・軍事に未経験なトランプ大統領がベテランの長官らを首にして、国内の分断を政治的に利用して独自の路線を邁進することに恐怖を感じる。

一方、経済大国にのし上がった中国は、古色蒼然として独善的な「中華」に固執し、米国と並ぶ超大国として振舞うようになった。そして、中国独自の独裁主義と国家資本主義を国際社会でも押し通して、国際社会から警戒されるようになり、米中冷戦状態になった。こうした状況で、今、中国国内では習近平の権力基盤が揺らぎ始めている。習近平は、今年になって、台湾を「一国二制度」で取り込むと言い始め、そのためには武力も辞さないと言ったが、それは、国内の不平・不満を外に向けさせる策略であり、権力維持に苦心している兆候だと考えられる。独裁主義は権力基盤が弱体化すると収拾がつかなくなる。中国経済の高度成長が望めなくなった今後は、海外発展どころか、国内の権力維持に苦労することになるだろう。

そうした中で、日本はいたって平穏である。日本は、米国、EU、中国、ロシアともうまくやっている。安倍首相はG7サミットやG20サミットでは調停役を務めるまでになった。こうした日本の平穏な状況をエモットは「日本という謎」と言っている。日本が平穏なのは、日本の「和」の文化にあると考える。以前に筆者が指摘したように、「和」の文化は「動的な行動規範」であるから、社会や集団が変化するときに「和」を尊重して行動する。そのために、地震や台風による災害が頻発する日本でも平穏が保たれている。これから世界は激動の時代に入るが、その中で「和」の文化をもつ日本人は貴重な存在となるだろう。(以上)

 

最後までお読みいただき、感謝します。今年が人類にとって良い方向に向かう年になることを祈念しながら、筆をおくことにします。

故郷の歴史

               201810月 芦沢壮寿

 

 私の故郷は長野県駒ケ根市東伊那(旧 伊那村)です。故郷の家は、南アルプスの西側を南北に並走する伊那山地の西側のなだらかな斜面にあり、西には中央アルプスの壮大な山並みが横たわっていて、正面に駒ヶ岳が見える。その前に天竜川の河岸段丘の平地が広がっている。北には伊那山地の主峰 (山頂をといい、高鳥谷天狗()を祀り、近郷の信仰を集めている)があって、そこからなだらかな伊那山地が西に延びて天竜川に迫り、伊那峡となっている。その伊那山地を越える峠を「火山峠」と言い、江戸時代には高遠藩の行政府に通じる「高遠街道」が通っていた。それより大昔の旧東山道(東日本の中央山岳地帯を通る幹線道路)は、美濃国(岐阜県)から神坂峠を越えて下伊那に入り、天竜川の西側を北上して大田切川の手前で天竜川を東に渡って伊那村に入り、火山峠を越えて福地、高遠、藤沢を経て、峠を越えて諏訪に出て、和田峠を越えて佐久に行き、峠から上州(群馬県)に入っていたという。奈良時代に律令制度による中央集権化によって日本を統一するために制定された官製の新東山道は、天竜川の西側を走る現在の153号線に沿って直進するようになった。

 こうした郷土の歴史は、私の実父 竹内武夫が東伊那郷土研究会で調査した史料を最近発見したことから分かった。そこで、父の記録を郷土に関係のある方々にお知らせしたいという思いから、その概要をまとめてみることにした。

 この冊子の構成は、最初に、予備知識として日本の縄文文化の特徴について筆者がまとめたものを紹介し、次に、父が東伊那郷土研究会で講演した史料を紹介し、その後で、父が郷土の歴史について調べた諸々のことを紹介します。最後に、日本の古代史の謎となっている「」について、伊那谷と関係がありそうなことを中心にして、筆者が調べたことを紹介します。

 

1.       世界にも稀な日本の縄文文化の特質

 日本の縄文時代は今から1万5千年前〜3千年前である。縄文文化はあの独特の文様で芸術性に富んだ縄文土器に代表される。その縄文土器は北海道から沖縄までの全域で発見されていることから、縄文文化は1万年以上続いた縄文時代の間に日本列島の全域にいきわたっていたと考えられる。

縄文人は、北からはユーラシア大陸と地続きになっていた樺太から北海道に、南からは黒潮に乗って九州にやって来た。北から来た人々は冬にはマイナス30℃以下になって凍りついていた津軽海峡を渡り、本州を南下して1万数千年前に本州中央部に到達した。その頃はまだ富士山や乗鞍岳が盛んに噴火していて火山灰が大地に降り注いでいた。紀元前1万年頃(今から12,000年前頃)に最後の氷期が終ると、地球上は急激な温暖化が始まり、日本列島は草原から広葉樹の森林へと変っていった。日本人の祖先はそこでナウマン象・ヘラ鹿などの大形動物の狩をしていた。やがて、大形動物が狩り尽くされると深刻な食料不足に陥った。鹿・猪などの小形動物を捕るために矢尻を造って弓による狩をするようになったが、空腹を満たすことはできなかった。この食糧難を救ったのは、広葉樹の森林で実るようになったドングリなどの木の実であった。しかし、ドングリはタンニンが強くてそのままでは食べられなかったが、土器によって木の実を煮ることでタンニンがとれて食べられるようになることを知り、ようやく食糧難を脱することができた。縄文人はアムール川の流域からもたらされた土器に改良を加えて煮炊きに適した薄手の土器を造ったのだ。新宿の百人町で発見された土器は、紀元前1万年のものであったが、その土器の厚さは5mm程度でアムール川流域の土器の3分の1の厚さになっていた。

 一方、黒潮に乗ってやって来た「黒潮の民」が黒潮文化の「丸ノミ石斧」と「壷型土器」を日本にもたらした。黒潮に接する高知県や和歌山県では、縄文土器と磨製石斧・壺型土器が一緒に発見されていることから、北から来た縄文人と南から来た黒潮の民が一緒に交わって生活していたことが分った。また、多摩ニュータウンで発見された紀元前4000年〜前2500年の800程の竪穴住居の遺跡でも、縄文土器と多数の磨製石斧が一緒に見つかった。黒潮の民の海の文化は、縄文人の森の文化の基礎となり、黒潮の民の遺伝子は縄文人に受け継がれた。縄文人は、シベリアのアムール川流域からもたらされた北の文化と黒潮の民がもたらした南の文化を融合して縄文文化を創り出したのだ。

 縄文時代の人々の生活を支えた森は、黒潮が対馬海流となって日本海に流れ込むようになって生まれた。黒潮の暖流が日本海に流れるようになって、日本海で上昇気流が発生して日本海側で雪が降るようになり、太平洋側でも黒潮が日本列島のすぐ沖を流れるようになって、太平洋側で雨が降るようになった。そして、日本列島に四季が生れ、温暖で湿潤な気候が栗・コナラなどの広葉・照葉樹林の森をつくった。その森からは、ワラビ・ゼンマイ・ウドなどの山菜、川魚、栗・山ブドウなどの果実、ウサギ・シカなどの動物、海の魚貝類など、一年を通じて豊かな食料が得られるようになった。そこで、縄文人は定住して生活するようになり、生活が安定して文化が生れ、組織的な社会が生れた。

 縄文人が農耕を行わずに定住し、持続可能な社会を形成していたことは、世界でも稀なことだ。縄文人は四季を通して自然から食料を得る術を持っていて、自然と共生する知恵を備えていたのだ。

 青森市の南西3キロ程の所で発見された三内丸山遺跡は、紀元前3500年〜前2000年の縄文時代の巨大集落であった。この発見によって縄文時代のイメージが根底から変った。従来の縄文人のイメージは、せいぜい5、6軒の集落で、狩猟・漁労・採集による自給自足の生活をしていたというものだ。三内丸山は1500年間にわたって、多い時には500人以上の人が住み、集落の中心に盛土で囲まれた直径130mの円形広場があり、住居地域・倉庫・墓・ゴミ捨て場などが計画的に配置された都市を形成していた。中心となる広場には直径1mの栗の木の柱6本からなる15mの高さの建造物があり、共同作業場か集会場と想定される長径30m・短径9mの長楕円形の建物と複数の高床式建物があった。集落の周囲の畑ではヒエ・マメ・ヒョウタン・アカザ・ゴボウ・アブラナ・イモ類などを栽培し、広い林では栗を栽培し、ニワトコ・ウルシ・ヤマブドウ・マタタビなどの植物を育成していた。また、船による海の交易ネットワークがあって、新潟県や北海道からヒスイ・黒曜石・コハク・アスファルトなどの資材を運び込み、高い加工技術によって赤い漆塗りのクシや鉢・編物・織物・ヒスイなどの加工をしていた。

 縄文時代の人口は紀元前4千年頃から急激に増え始めた。その当時、日本全体の人口は約30万人であったが、その90%が東日本(中部地方〜北海道)に集中していた。そうなった理由は、東日本で栗の栽培が始まり、食料が豊富になったからだ。当時の土に含まれている花粉を分析すると、80%が栗の花粉だった。三内丸山の周辺では、紀元前3500年頃にそれまでのブナ・コナラなどの花粉が急激に減少し、代りに栗の花粉が急激に増えた。しかも、栗の花粉の遺伝子が同じであることから、人工的に栗を栽培していたことが分った。

紀元前2千年頃になると気温が急に下がり始め、三内丸山あたりでは栗の栽培ができなくなった。その結果、栗に依存していた生活が崩壊し、三内丸山から住人がいなくなった。そのことは、三内丸山のクリの柱の年輪が紀元前2200年頃に極端に狭くなっていることから分った。縄文人は、栗に代って自然の森でとれるトチの実を水にさらしてあく抜きする技術を発見し、トチの実を食料とするようになった。

 

2.  東伊那の遺跡調査(東伊那郷土研究会総会での父の講演資料)

 東伊那郷土研究会の目的は、過去を振り返って見て、現在を知り、将来を思う「温故知新」にある。

 東伊那では大正の末期(父の小学生時代)に国学院大学の鳥井博士が遺跡・古墳などの調査を行った。

 昭和23年に伊那村小学校教諭の友野先生が伊那耕地の(私の実家から500mほどの所)を調査し、多くの縄文の住居跡があることを発見した。ついで、学術調査として、昭和24年〜26年に村の費用(当時の40万円)で発掘調査を行った。参加者は国学院大学の大場博士を始めとする国学院大学生、伊那村青年会、婦人会、赤穂高校生、伊那北高校生、伊那村の中学生、小学生、一般人などであった。その中に小学生であった私も入って、遺跡の発掘をしたことを覚えている。

 その調査では、山の上の方の山田地区から段々に下がって、天竜川の段丘の端まで調査した。その結果、山田地区で縄文中期の竪穴住居跡が6戸、丸山地区で縄文中期の竪穴住居跡1戸と弥生時代の住居跡1戸、狐久保地区で弥生式住居跡4戸と古墳時代末期の住居跡1戸が発見された。古墳時代末期の住居跡からは(大陸系技術による素焼きの土器。良質粘土を成形し、高温の還元炎で焼くために暗青色を呈す)が出土した。そして、山田遺跡の2戸に縄文中期の茅葺屋根を復元した。現在、山田遺跡の周辺は駒ケ根市の「古里の丘」になっていて、遺跡の屋根も第二次復元が行われている。

 この学術調査の結果を見ると、故郷の古代人は時代が下るにつれて山の上の方から下の平地に降りてきたことがわかる。父は、山田より上の段丘上にはもっと古い時代の遺跡があると推測していて、駒ヶ根市の農園構想で山田の上を開発する時に古い遺跡が出てくることを楽しみにしていた。

 山田遺跡の縄文中期の住居は、ローム層(赤土)を30〜50cm掘り下げ、直径5〜6mの円または楕円形をしていて、内部の周辺部に溝を掘って雨水が中に入らないようになっていた。入口が南側にあり、中央に囲炉裏があって、食料を入れる瓶が埋めてあった。北側に石畳の部分があって、そこに石棒が立っていた。この住居に4〜5人が住んでいたと推測される。そこから、土偶、石斧、魚をとる網の重り、矢尻などが出土した。その矢尻の全てが和田峠の黒曜石で作られ、石斧はの緑色砂岩で作られていた。これは、東伊那と三峰川・諏訪の間で交易が行われていたことを示し、火山峠を通る旧東山道と同じルートで交易していたものと推測される。

 栗林の西部にある反目遺跡、反目南遺跡、遊光遺跡は、土地改良事業で発見され、そこが縄文中期から連綿と続く大集落の遺跡であることが分かった。まだ発掘調査をしていない面積の方が広いことを考慮すると、県内でも有数の大規模集落の遺跡であることは確かだ。そう考えると、旧東山道はこのあたりを通って火山峠に通じていたと推測される。

 筆者注:縄文中期の山内丸山遺跡で人口が増加したのは、栗の栽培が盛んになったからであった。栗林でも、その地名が示すように、栗の栽培が行われていたことが大集落を生むことになったのではないかと推測される。

 

3. 東伊那の遺跡(東伊那郷土研究会総会での父の講演資料)

東伊那に人が住み始めた最も古い「しるし」は、縄文時代前期の紀元前4500年頃(今から6500年前、青森の山内丸山遺跡よりも1000年も古い)の反目南遺跡(栗林)で発見された押堅文土器だ。その頃は地球全体の温暖化が進み、縄文人の生活力が増大していた。海面が上昇して、関東、東海地方の縄文人が南信地方に移住したことから、海岸端の土器が南信でも見られるようになった。土器の底が丸形から平底へと変わっていった。

 縄文中期の紀元前3000年頃になると、東伊那では反目遺跡(栗林)、山田遺跡(伊那耕地)、殿村遺跡(伊那耕地)、大久保遺跡(大久保)の4遺跡、赤穂で7遺跡、中沢で3遺跡が出現し、伊那谷南部に多くの遺跡が出現して各地に大集落が生まれた。反目遺跡では、縄文中期の家が59軒も発見され、弥生時代の家も17軒発見された。この頃から、伊那谷南部特有の土器が作られるようになった。

 天竜川の河岸段丘の上にある殿村遺跡では、7軒の竪穴住居跡が発見され、独自の土器とともに、知多半島や静岡県を中心に栄えた土器が発見されている。殿村遺跡と同時期の遺跡として宮田で中越遺跡が発見されているが、中越遺跡の出土品が殿村遺跡の出土品と全く違うという興味深い事実がある。

 縄文時代後期の紀元前2000年頃になると、伊那谷の遺跡が少なくなった(注:山内丸山遺跡が消えた紀元前2000年と時期が一致する。その原因は寒冷化による食糧不足であった)。この頃、東伊那には青木北遺跡(火山)があった。

 紀元前1000年頃に九州北部へ水田稲作文化が伝わって弥生時代となった。水田稲作は、気候の温暖化にともなって天竜川をさかのぼり、弥生時代中期に伊那谷でも始まった。

 東伊那では、湿地帯を利用して水稲耕作が行われるようになった。この頃、反目遺跡(栗林)、遊光遺跡(栗林)で多数の土器が出土し始め、弥生時代後期の大集落の出現へとつながっていった。

 弥生時代後期の駒ケ根市内の遺跡の分布を見ると、東伊那に集中していて、赤穂、中沢が少ない。東伊那では、反目遺跡、遊光遺跡、殿村遺跡を始め、栗林神社東遺跡、城村遺跡(栗林)、丸山遺跡(伊那耕地)、狐久保遺跡(伊那耕地)などの大集落の遺跡が見られる。この現象は、東伊那が温暖で小さな河川や湿地帯が多く、水稲耕作の立地条件に適していたことによる。また、伊那山地での狩りや栗、ドングリなどの果実採集や漁労などにも恵まれていたからだろう。なお、反目遺跡や殿村遺跡で集落の長とおぼしき墓が発見されているが、これは身分の格差が始まったことを示す確実な証拠と考えられる。

 古墳時代(紀元300年〜500年)に集落の長とおぼしき古墳が築造され、土器は弥生式土器から(弥生式土器を引き継ぐ古墳時代以降の素焼で赤褐色の土器)になった。土師器は反目遺跡と反目南遺跡で出土している。

 古代前期(紀元500年〜700)には、駒ケ根市内の遺跡数が急増し、集落も大規模化した。遊光遺跡と殿村遺跡では、柱を穴ではなく礎石の上に建てた竪穴式住居が発見された。柱の土台として礎石を使った例は、上伊那では初めてであり、県内でも松本平で一例があるだけだ。また、墨書土器やが発見されている。このことは、東伊那に高度の文化があったことを示すもので、大陸からの帰化人と関係がある。当時の最先端の文化は帰化人がもたらした。事実、柏原古墳(栗林細田)からは帰化人のが出土している。

 

4. 東伊那の古墳(東伊那郷土研究会総会での父の講演資料)

稲荷古墳:伊那耕地の私の実家の近くの稲荷山にあり、前方後円墳であった。大正年間には稲荷神社があり、老木が茂っていて、西側に鳥井がたくさん立っていた。この古墳の両脇にこんもりした丸形の塚があって、そこを掘ると、素焼きの土器と勾玉の形をした玉が出た。小学生であった父は、國學院大學の鳥井博士が馬に乗って調査に来たことを覚えている。

桃山古墳:東伊那農協の上の段にあった。刀が出たと聞いている。

・柏原古墳:栗林細田の柏原にあり、帰化人の兜が出土した。当時の帰化人は文化的指導者であり、支配者であった。その後、土地改良のときに発掘したが何も出てこなかった。

 以上の3つの古墳の他に消滅した古墳が14あり、全体では東伊那に17の古墳があったという。

 筆者注:私の実家から見える稲荷山は、確かに前方後円墳の形をしているが、畑になっていて、古墳とは知らなかった。古墳とすれば、かなり大きな古墳である。上伊那の古墳所在数表を見ると、天竜川の東側が多いように見える。

 

5. 東伊那の古石塔

 東伊那で最も古い石塔は、箱畳の木下伊久男氏の墓地内にある「五輪塔」で平安時代末期頃のものと推定される。そのりの形が真反形であることから関西風の五輪塔とされる。

 次いで古いのは、大久保の蓮台場の墓地内にある「応永の印塔」だ。6基の塔が並んでいて、3基に「応永」の年号が刻まれていることから、室町時代初期のものだ。そこに刻まれている法名は善福寺の過去帳にもあり、当時、この地を支配していた北朝系の豪族の関係者(武士)だと思われる。

 また、同じ墓地内に「六面地蔵石幢」と呼ばれる灯籠風の石塔がある。これには「応永二十八年」(1421年)と刻字されていることから、やはり室町時代初期のものだ。箱畳にも「六面地蔵石幢」があるが、その石質が花崗岩系で形状や石の風化などから見て、大久保のものより時代が下ると思われる。

 

 

6. 東伊那の神社

神社:古くは「高鳥谷天狗」(=)と言った。住吉神社の山岳宗教の流れをくんで猿田彦命を祀り、その後、「天のうずめのみこと」とも祀るようになった。社殿は、文明8年(1476年)と正徳2年(1712年)の2回の造営を経て、現在の社殿は文政12年(1829年)に造営された。社殿の各所に大きな龍の彫刻があり、龍の口の中まで繊細に彫刻されていて、素晴らしい出来栄えになっている。表札には、大工は諏訪高島住人 立川富昌(立川流2代目の立川和四郎を指す)とある。4代にわたる立川和四郎とその子孫は、県内だけでなく、関西・東海・関東にわたる多くの神社仏閣に優れた立川流建造物を残した。

 高鳥谷神社の奥宮は、文化11年(1814年)に1331mの大峰に祀られ、明治11年に石のになった。

 高鳥谷神社は、伊那谷全域の上級武士から一般庶民に至るまでの信仰の中核的存在であった。雨乞い、雨止め、豊凶の占いをする山として崇敬されてきた。その信仰は、近隣の中沢、新山、上穂、飯島、春近、福地はもとより、四徳、大鹿、飯田、鹿塩にまで及んだ。

 高遠藩の内藤氏は、毎年、家臣の軍事訓練のため、五百余人を十八番隊に編成して、高鳥谷山麓から巻き狩りを行っていた。この軍事訓練は幕末まで続いた。

 高鳥谷神社の「矢納めの神事」は日本祭礼風土記にも記されている古式豊かな無形文化財である。この「矢納めの神事」は正徳2年(1712年)から始まった。東伊那の五村から選ばれた十名の射手は、「弓子」と呼ばれ、白襟、五つ紋付き、袴、白足袋、にを持つという江戸時代そのままのいでたちで、五尺二寸の大的に弓を引くという儀式である。

 高鳥谷神社には次のような伝説がある。『昔、貝沼村北林に井上という地侍がいた。一日中、野山で狩猟をしていると、黒雲が出てきて雷が天地を震わせ、どしゃ降りの雨が降ってきた。掃部は帰る道がわからなくなり、二昼夜も野宿し、そのために、精神がとしてきた。そこで、掃部は「私を無事に帰宅させてくれたら、高鳥谷山の頂上に一社を創建します」と言って猿田彦命に祈った。すると、空が晴れて雨がやみ、山鳥が掃部の目の前に現れて、掃部が捕えようとすると逃げ、その跡を追っかけていくと、いつの間にか我家にたどり着いた。掃部は猿田彦命の霊験を感じ、高鳥谷の山頂に社殿を造営した』という。

・伊那森神社創立年代は不詳だが、諏訪旧記によると、「飯島町の石曽根神社とともに、仁徳天皇の時代(440年頃)に諏訪大社より分霊する」とあり、郡内で最古の神社と言われる。伊那森神社の祭神は、諏訪大社の祭神と同じタケミナカタノカミである。現在の社殿は大正年間に建立された。大正年間に京都大学の天沼博士が伊那森神社と山田富士塚を調査したときに、社殿の勾欄は安土桃山時代の遺品であると鑑定した。おそらく、改築に際し勾欄はそのまま利用されたと思われる。伊那森神社は高鳥谷神社とともに東伊那の村社であった。明治42年12月25日に殿村八幡社、殿村神明社、富士浅間社、天狗社が伊那森神社に合祀された。

 伊那森神社の境内に男女双体の道祖神がある。の男神との女神が互いに腕を肩に廻し、女神が男神によりかかって酌をしている。

 筆者注:筆者の子供の頃、伊那森神社には直径が2mをこえる巨大なの木が沢山あり、大きな森になっていた。今でも社殿の北側にそびえる欅は、目通り幹回りが6.9m、推定樹齢が300年になる。伊那森神社の秋の祭には、そこで青年団が芝居をした。秋の夜に青年団が練習する笛や太鼓の音が聞こえてくると、祭がくるのを心待ちにしていたものだ。

・栗林神社:明治42年に8社(伊那耕地の稲荷神社を含む)を合祀して栗林神社となった。

・高山神社:元は高鳥谷神社の南隣にあった。現在は火山八王子地籍にある。明治42年に5社が合祀して高山神社となった。棟札に天正16年に牛山弥右衛門尉神経(甲斐の武田氏の家臣)が武運長久、子孫繁栄を祈願するとある。

・塩釜神社:上塩田宮平にあり、海に関係のある神を祀っている。由緒創立不明。祭日の獅子舞が有名。

・神明社:下塩田新井にある。創立年度不詳。社殿の棟札に文化12年神主宮北肥後守とある。

・箱石神社:大久保字宮にある。由緒は、文明元年(1469年)に稲村諏訪社(=伊那森神社)から分霊し、奉持して大久保村字宮箱岩と称した。最初は巨大な岩に奉斎したが、後で岩の前に社殿を構築したと伝えられている。その岩が現在の神社の裏にある巨大な陰陽石だ。陰陽石を上から見ると男根、下からみると女陰に似ているという。明治41年に2社を合祀して、箱石神社とした。大久保八景が有名。

 

7. 東伊那の古城

・稲村城と稲村古城:稲村城は伊那森神社の西、天王川の南の河岸段丘の上にあった。稲村古城は稲村城の南、唐沢川の北側の河岸段丘の上にあった。稲村城と稲村古城は、諏訪上社主催神事に関わりのあった中沢郷の有力者 稲村氏の居城であったと言われる。

・城村城と城村古城:城村城は栗林の城村にあって、規模は東伊那で一番大きかった。武田氏の築城技術を思わせる城の原形を留めていて、城主として栗林四左右衛門の名が残っている。城村古城は栗林の細田にあり、規模が小さかった。

・遊光城と高田城遊光城は天王川北側の栗林遊光の河岸段丘の上にあった。高田城は、塩田川の南側の河岸段丘上の栗林明神にあり、戦国時代に伊那・栗林が一緒になって「高田之郷」となっていたときに、その中心地として高田氏が居住した城であった。

 筆者注:中沢郷の高田氏・高見氏・菅沼氏の三氏は、諏訪上社の神使神事を取り仕切る諏訪氏を盟主とする「神」の党に属して神事の頭役を交代で勤める一方で、武田家臣団の中沢衆でもあった。こうした関係から、東伊那は中沢郷に入り、高田氏が東伊那を治め、高見氏と菅沼氏が中沢を治めていたと考えられる。

・青木城と板取城:青木城は火山の城高に、板取城は火山の板取にあった。

両城は武田氏の家臣 牛山道賢(牛山弥左衛門を指す)の城という伝承がある。青木城の築城から廃城に至る時期は室町初期〜戦国末期と推定される。

・塩田城:青木城とは塩田川の対岸に当たる上塩田の山上にあった。上塩田には、城門、馬屋尻、的場など、城と関わりのある地名が多い。

・箱畳の秋葉様と物見ヤ城:箱畳山の秋葉様ののある所とその上の山頂にある物見ヤ城は、伊那谷を見渡す眺望のよい場所であり、吉瀬の城山、中曾倉の城山とともに武田氏が配置した「のろし台」であった。

・大久保城:天竜川と大田切川の合流点付近に面した河岸段丘の突出部にあった。諏訪上社の神使御頭神事の頭役の寄子として頭人を補佐し、武田氏の支配時代には郷代官を勤めた土豪の大沼氏や大久保氏の居城であった。現在の善福寺も居城跡とされる。

 筆者注:東伊那は、広さの割には城の数(合計10城)が異常に多い。それに、稲村城、稲村古城、遊光城、高田城、大久保城の5城が天竜川の河岸段丘の縁に沿って並んでいることも気になる。そこで、伊那谷の城の分布を調べてみると、確かに東伊那が他と比べて異常に多いことが分かった。もう一カ所、三峰川が天竜川と合流する所の対岸のから伊那市にかけても、河岸段丘の縁に沿って10の城が続いていることが分かった。こうした事実から、伊那谷の城の分布は甲斐の武田氏の防衛網であることが分かる。武田氏にとって、東伊那の火山峠から侵入し、あるいは、三峰川から侵入して、北沢峠から甲斐に攻め込まれるルートを防衛することが伊那谷における防衛の要点であった。天竜川沿いに北上して来る織田軍や徳川軍に備えて、東伊那の河岸段丘の縁に防衛線を築き、沢渡・伊那市間の河岸段丘の縁に防衛線を築くことが武田氏の防衛戦略であったのだ。

 

 

8. 山田富士塚とについて

山田富士塚:「古里の丘」の西、(農業用溜池)の北のこんもりと繁った森の中にある。山田富士塚は下堤を掘った土で造られた。信者はお山に登る前に、かならず下堤で(冷水を浴びて身体を清浄にすること)をした。

 富士山信仰は室町時代に始まり、江戸中期に最盛期を迎えたが、この富士塚はその頃に造られた。基底部が直径21m、高さ7m、中央部に鉢型凹みがある。上伊那にも富士塚があるが、これほど大きくて原型をとどめているものはない。昭和11年に県の文化財の指定を受けたが、現在は解除されている。その時の扁額は伊那森神社の宝蔵にある。

 明治40年に富士塚の浅間神社が政令により伊那森神社に合祀された。浅間神社の祭神 コノハナサクヤヒメノミコトは、今は伊那森神社の祭神になっている。

 昔(明治10年頃まで)は、毎年、旧暦6月1日に山開きを行った。信者たちは、数日前から神社(生まれた土地の守り神を祀る神社)に参籠し、(酒や肉食を慎み沐浴をして心身を清めること)を行ってから山田富士塚の浅間神社に集まり、下堤で水垢離をして、富士塚のお鉢に登り、「南無浅間大菩薩」と唱えながら左廻りに3回まわった。

・善込の石経塚:栗林と火山の境の道路の三叉路の中央に石経塚と山楼があった。その塚の基底から小石に経文を墨書した小石が見つかった。今は小学校に保管されている。諏訪大社の守矢書留(中世古文書)には、この地区が「」と言われ、このあたりに住んでいた武士が諏訪大社の神事で高見氏の寄子(従者)を勤めたと書かれている。

 

・井月の句碑父が所属する東伊那郷土研究会伊那支部によって、伊那森神社に井月の真筆による「よき酒の ある噂なり 冬の梅」という句碑が建てらた。井月はよく東伊那を訪れて民家に泊まっていたという。

 井月の終焉の地は東伊那の火山峠であった。井月は火山峠で倒れ、戸板でかつがれて運ばれ、美篶の塩原梅関宅で死んだという。井月は塩原家の墓に葬られている。

 昭和62年5月に「井月百年祭」にちなんで、駒ケ根市実行委員会が火山峠から東伊那側に少し下がった所にある「芭蕉の松」の下に井月の「き夜も 花の明かりや 西の旅」という句碑を建立した。「芭蕉の松」の下には、芭蕉の「松茸や しらぬ木のはの へばりつき」という句碑もある。

 井月は、1822年に生まれ、本名が井上勝蔵、越後長岡藩士であったが、1839年に芭蕉に魅せられて放浪の旅に出た。亡くなったのは1887年(明治20年)2月、66歳であった。

 

9. 中村新六家と大久保番所について

 高遠藩の発展にともなって、高遠藩内の川下げによる材木供給網の管理が必要になった。高遠藩は、材木の川下げについて、高遠の弁財天の橋までは黒河内家の管轄とし、弁財天の橋より下流の材木の川下げについては、一切の検閲を大久保番所目附役であった中村家に管轄させることにした。

 中村家は代々、新六を襲名した。大久保は、高遠藩と天領であった赤穂との境界にあることから、大久保に番所を設け、中村家が木材改め(高遠藩の刻印のない材木を川下げすることを禁じる)や運上金の取り立てを行った。

 中村家はから伝えられたという痛風の薬「加減湯」の本舗として全国各地に販路を持っていた。河童伝説で知られる中村新六道民(1729年〜1811年)は、洪水で天竜川の水流が西に寄って干潟ができたときに、天竜川の「下がり松」の岸壁に用水路用のトンネルを掘って、五町五反の新田開発を行った。その功をたたえて、高遠藩郡代 阪本天山が新田にあった大石に碑文を彫らせた。その碑文が今でも遺っている。

 

10. 東伊那の・について

 東伊那で現在でも使われている灌漑用水路の上井・下井は、江戸時代に東伊那が高遠藩の中沢郷に属していたときに、中沢を流れる新宮川を取水口として造られた灌漑用水路だ。天保年間(1830〜40年頃)に東伊那の伊那村・栗林村の新田開発のための灌漑用水路として、新宮川の中曾倉で取水し、延々10kmにも及ぶことになる「上井」が造られた。上井は「」とも言われる。上井は、東伊那の名主が高遠藩に願い出て実現した。

 弘化5年(1847年)に高遠藩は、塩田村箱畳の湯沢曽衛門に上井(横吹井)延長による中沢郷新田開発世話役を申しつけ、嘉永2年(1849年)に中沢・東伊那関係村間の了解が成立し、嘉永5年(1852年)から上井延長工事が始まった。

 その後、嘉永7年(1854年)に大久保村関係者から曽衛門宛に上井筋延長の陳情があった。しかし、上井では下流地域までの水の供給が不可能であったため、伊那村・栗林村・塩田村・大久保村の四カ村が申し合わせて、安政2年(1855年)に高遠藩から下井の開削許可を取った。下井は、安政2〜4年(1855〜57年)に、中曾倉の新宮川から取水して、上井の給水領域より低い地域への用水路として造られ、余裕のできた上井を大久保まで延長することになった。下井は「」とも言われる。

 安政5年(1858年)に伊那村・栗林村両村が上井・下井の拡幅工事につき、郷寄人足を高遠藩に願い出て許可され、上井500人、下井550人を笠原・南福地・北福地・菅沼・上高見・下高見・吉瀬・火山・中曾倉・大曾倉・中山などから動員して、拡幅工事を行った。下井の規定は、井底6尺、井土手4尺、2尺の計6尺と言われる。上井・下井の東伊那各村の分水規定として、伊那村5分、栗林村3分、大久保村2分と決まった。

 万延元年(1860年)に、東伊那の上井・下井の拡幅工事費について本曾倉・原両村が出金を渋り、東伊那が高遠役所に出金催促を願い出た。その後も本曾倉・原両村との紛争が絶えなかった。元冶元年(1864年)に上井・下井の普請を行っているが、中沢・東伊那の井筋関係者の水分配経費負担に係わる紛争が絶えなかった。高遠藩に強訴した総代が入牢する事件もあった。

 下井工事の難所は中沢原地区ので、土砂崩れの起こりやすい急斜面の山腹に井筋を通すことであった。以降、応急修理工事を繰り返してきたが、昭和25年に日本で2番目のサイホンの大工事が行われたことから、難問題が解決した。

 上井・下井の維持管理は、伊那と栗林に任期1年の世話人を各2名おき、別に工事委員会もおいて行ってきた。春先には受益者総出で「い」を行い、水田に水を供給する時期には、毎日、当番が交代で井水の取水口から井筋を見回ってきた。見回りを確実に行う仕組みとして、見回りの重要な何カ所かの場所に、ある日は木札を掛けて見回り、次の日は木札をはずして見回ることを繰り返すようにしてきた。

 筆者注:江戸時代の高遠藩では、現在の伊那耕地の地名が「伊那村」であった。明治になって「廃藩置県」の後、現在の東伊那を「伊那村」とし、旧伊那村を「伊那耕地」としたと考えられる。

 

11. 古代に麻布の大産地であった伊那郡小村郷について

 正倉院御物に「伊那郡小村郷交易布墨書」とあって、天平十年(奈良時代、738年)十月に朝廷に納められた「信濃国伊那郡小村郷交易布一段」とある。それは、古代の朝廷に仕える役人たちが着ていた衣類の麻布であった。その麻布を信濃国伊那郡小村郷が朝廷に納めていたというのである。古代の宮田村には、朝廷で用いる麻布を織って、それを税(=調)として差出すことを専業とする「御布所」があったという。

 父は、正倉院御物にある「伊那郡小村郷」が何処にあったかを調べていた。それによると、小村郷は天竜川の西で小沢川・川から宮田の南を流れる大田切川までだという。この小村郷で麻が栽培され、小村郷の南端に位置する宮田で麻布に織られ、東山道を通って畿内に運ばれたと考えられる。

 承平5年(平安時代、935年)に源順が表した倭名類集抄に伊那郡は、小村、、福智の四郷とある。高山寺本には、伊那郡は、伴野、小村、麻績、福智の五郷とあって、伴野、小村、麻績、福智は両方にある。補衆(倭名類集抄では)は、元は諏訪郡に属していて、天竜川の西側で北部の地域、現在の沢・箕輪を中心とする地域と考えられる。福智郷は、天竜川の東、三峰川の南で東伊那・中沢までだったという。(以上、父の資料より)

 

12. ヤマトタケルと倭国について

 ヤマトタケルは古墳時代の末期(470年頃)に関東を巡行した。そのルートは、神奈川県の足柄山から三浦半島に出て、船で房総半島に渡り、千葉県の君津から茨城県の筑波山に行き、そこから戻って東京を通て奥多摩から山梨県に入り、甲府ので日本で最初の連歌を読み、甲府から恐らく北沢峠を越えて伊那に入り、駒ケ根市の美女が森を通ったと言い伝えられている。北沢峠から下った高遠から美女が森に行く古墳時代末期のルートと言えば、旧東山道であろう。つまり、ヤマトタケルは火山峠を越えて東伊那を通ったと考えられる。

 それでは、ヤマトタケルはどこから来たのか。「常陸国風土記」には「天皇の后であるオオタチバナノヒメノミコトがから降り来て、この地に参り、天皇とお会いになった」という記述がある。このことから、関東を巡行したヤマトタケルは倭武天皇であり、その皇后が倭国から来たということは倭武天皇が 武であることを示している。

 中国や朝鮮の歴史書では、倭国が日本を代表する国であり、それは九州にあって、近畿の大和朝廷とは全く違う国であるととらえていた。つまり、ヤマトタケルは九州の倭国王 武であって、九州から関東に来たのだ。

 しかし、「日本書紀」には、ヤマトタケルは大和朝廷の第12代景行天皇の皇子であると書いている。「日本書紀」は、どうして間違ったことを書いているのか。それには、「日本書紀」が編修された古代史を知る必要がある。真実の古代史は、中国や朝鮮の歴史書の日本に関する記述を調べて、「日本書紀」の誤りを正すことによってしか得られないのだ。

 筆者は、東大の若い研究者が東大新報に「東アジア共同体の胎動−歴史的土台を探る−」というタイトルで連載して発表した厖大な記事を読んだことから、学校で習ってきた日本の古代史が全く誤っていることを知った。

 中国の「宋書」倭人伝には、5世紀の倭国の王として讃・珍・済・興・武の5人の名前が書かれている。これを「倭の五王」と言う。日本の歴史学者、特に近畿圏の学者は、「倭の五王は大和の天皇である」と決めつけて、大和の天皇と倭の五王を対応づけることに終始してきた。しかし、どうしても対応がつかず、結局は宋書の著者が間違えたとしてきた。

 「宋書」倭人伝には、倭の五王の系譜として「讃は珍の兄、済は興・武の父、興は武の兄」とあるが、これに当てはまり、しかも治世年代が一致する近畿天皇家の系譜は存在しない。結論を言えば、倭の五王は近畿天皇家の天皇ではなく、九州王朝の倭国の王であったのだ。

 また、「宋書」倭人伝には、478年の倭王 武の上表文として、「東にを討つこと55国、西にを降伏させること66国、海を渡って北を平らげること95国」と記述している。この記述から、古墳時代の日本は、各地の豪族が支配する小国の集合体であり、倭王 武が関東〜東北地方の「毛人55国」、倭国より西の「衆夷66国」と朝鮮半島と見られる「海北95国」を属国として支配していたと考えられる。ヤマトタケルの関東巡行は、倭王自らが関東の属国の様子を見て廻ったのだろう。

 なお、日本で最初の水田稲作文化は、紀元前1千年頃に南方から黒潮に乗ってもたらされ、九州北部と朝鮮半島南部に広がり、そこに住む人々が「倭人」と呼ばれるようになった。従って、弥生から古墳時代には朝鮮半島にも倭人がいたのである。その後、朝鮮半島では満州にいた騎馬民族のが南下して来て、1世紀頃から倭人が住む領域に侵入し、相次いで高句麗・百済・新羅を建国した。そのために土地を追われた倭人が日本に帰化すうようになった。その帰化人が日本の各地に住むようになり、一部が東伊那にも来たのであろう。日本で最初の戸籍は、朝鮮半島からの帰化人を記録するためにつくられた。

 日本列島の諸国の中で九州王朝の倭国が中国の歴代の王朝の正史に登場する中心的な国であったことが次に挙げる事実から窺える。

 1世紀の「漢書」に「楽浪海中の倭人」という記述があり、初めて「倭人」が中国の歴史書に登場した。6世紀の「梁書」に倭国・大漢国(近畿天皇家か)・扶桑国(関東王朝か)・女国(八丈島か)といった国名が見られる。7世紀の「隋書」には「」(を意味する倭国の国名)、流求国(=琉球国)の2つが確認される。そして、唐代の「」東夷伝蝦夷には「659年10月、倭国使に随行して蝦夷国使が入朝した」とあり、「蝦夷国は海島の中の小国で、その使者は髭の長さ4尺、最も弓をよくし、…」とある。

 中国の「隋書」?国伝の中に「阿蘇山有り。その山故なくて火起り、……」、「(=筑紫)国より以東、みな?国に附庸す」という記述がある。これらの記事から、阿蘇山と筑紫があったという?国は九州にあったこと、?国は九州より東の国々を属国にしていたことが分かる。

 歴史を少し前に戻して、出雲と倭国の抗争についてふれておく。考古学的な事実として、弥生時代中期〜末期の青銅器には銅剣・銅矛のグループとのグループがあったことが知られている。それらの青銅器は主に祭器として使われていたが、その分布が大きく2つに分れていた。九州から中国・四国の西半分には銅剣・銅矛が分布し、中国・四国の東半分から中部地方にかけては銅鐸が分布していた。そのことは、弥生時代中期以降に水田稲作をもたらした渡来人が多く住んでいた西日本(中部地方より西)で、祭器の異なる2つの文化圏があったことを意味する。日本海側の出雲地方から瀬戸内海の岡山県吉備と四国の讃岐にかけてが2つの文化圏の境界になり、その境界では両方の青銅器が出土している。この2つの文化圏を形成したのは渡来人なので、渡来人のルーツとして2つがあり、それが「倭国」と「出雲」を代表とする2つのグループを形成していたと考えられる。

 銅鐸文化圏は出雲勢力の領域であった。出雲は、縄文時代から日本海交易ネットワークの拠点として栄え、東北地方から縄文の巨木文化を引き継いでいた。山内丸山遺跡の直径1mの巨木の建造物と同じように、古代の出雲大社は高い巨木構造の上に建っていた。また、出雲だけに東北の日本海側と同じ「ジージー弁」が話されているという事実は、出雲に東北地方の縄文文化を持った人々が来ていたことを意味する。出雲は縄文文化の伝統を引き継ぎ、弥生末期の卑弥呼の時代でも一大勢力圏を形成していたのだ。

 一方、銅剣・銅矛の文化圏は倭国勢力の文化圏だ。新興の倭国勢力はその文化圏を九州から東の方に拡大していき、出雲の文化圏と衝突するようになった。弥生時代の鉄器の分布を見ると圧倒的に九州北部に集中し、出雲からは殆ど見つかっていないことから、倭国は既に鉄器時代に入っていたのに対して、出雲はまだ青銅器時代であったと考えられる。世界史上でも鉄器を持った民族が青銅器の民族を征服しているように、鉄器を持った倭国勢力が青銅器の出雲勢力を圧倒したと考えられる。そして次に示す「国譲りの神話」が生まれた。この神話は諏訪大社の起源につながっている。

〔国譲りの神話〕

 オホクニヌシが治める「葦原の中つ国」(=地上の国)が繁栄している様子を高天原(=天上の国)から眺めていたアマテラスは、オホクニヌシに「葦原の中つ国」を我が御子に譲らせようとする。しかし、下界の神々が暴れているのを見た御子は引き返してくる。そこで、アマテラスは国譲りの交渉の使者として次々に3人を送り込むが、3人ともオホクニヌシに懐柔されたり、オホクニヌシの娘と結婚したり、射殺されたりして失敗に終わる。ついにアマテラスは武力行使を決意し、武力に長けたタケミカヅチとアメノトルフネの2柱の神を「葦原の中つ国」に派遣する。タケミカヅチは出雲の伊那佐の浜に長剣を突き立て、その切っ先の上にあぐらをかいてオホクニヌシと国譲りの談判をする。オホクニヌシは国譲りについて息子たちと相談する。タケミナカタという息子が異を唱え、タケミカヅチに力比べを挑むことになる。タケミカヅチがタケミナカタの手首を握ると、手首が千切れてしまう。歴然とした力の差に恐れをなしたタケミナカタは、逃亡するが、タケミカヅチに信濃の諏訪湖のほとりで追い詰められる。そこで降参したタケミナカタは、信濃の国から一歩も出ないことを約束して、諏訪大社に祀られるようになる。オホクニヌシは国譲りの見返りとして神の御殿を造ることを要求し、出雲大社ができた。

 この「国譲りの神話」が意味するところは、新興の倭国勢力が縄文時代からの伝統文化を引き継ぐ出雲勢力から日本の覇権を奪ったということだ。そのことを各地の豪族に知らしめるために、倭国のアマテラスは高天原の天神だから、地上の出雲の国神オホクニヌシより神格が上であると宣言したのだ。なお、「国譲り」で争った出雲の神タケミナカタは諏訪大社の上社に祀られ、倭国の神タケミカズチは鹿島神宮に祀られて軍神となった。

 次に、信仰についてふれる。天照大神信仰は、水田稲作の文化と共にもたらされた「祖霊信仰」(祖先の偉大な人の霊を祀る信仰)と太陽神信仰が一緒になって倭国で生まれた。天照大神は女神で太陽神である。倭国において祖霊信仰の対象になりうる祖先の女性は(は誤り)の女王 をおいて他にいない。天照大神の別名は「大日霊貴神」(オオヒルメノムチノカミ)と言われ、は太陽神に仕えるを意味する。「卑弥呼」は「ひみこ」という音に中国人が当てはめた漢字(周辺の国を野蛮国とみなす中国では、周辺国の国名や王名に卑しい漢字を当てはめた)であり、「」と同じであって、「日霊」と同じ意味である。卑弥呼が祖霊として祀られ、神格化されて「大日霊貴神」(オオヒルメノムチノカミ)となり、別名として「天照大神」になったのである。天照大神を祀る神社として高木神社があるが、現存する高木神社が福岡県に最も多く、そこは卑弥呼が君臨した邪馬壹国があった所であることからも、天照大神は邪馬壹国の女王 卑弥呼だと考えられる。

 中国の歴史書に「卑弥呼が184年に女王になった」「卑弥呼が亡くなるとまた国が乱れ、卑弥呼の孫が女王になって国が治まった」「(卑弥呼の孫)が266年に使者を中国の(魏・呉・蜀の三国時代の後、中国を統一した王朝)に送った」という記述がある。(以上)

 

 父の東伊那郷土研究会の史料をもとに郷土の歴史を振り返ってみて、伊那谷の小さな村であった東伊那でも日本の中央の歴史と密接につながっていたことに驚いた。これは私にとって大きな発見でした。この冊子を読んでくださった皆様にも、多少なりともお役に立てば幸いです。

 


                                                      
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