◆Egon Schieleの素描◆

エゴン・シーレに惹かれている自分の気持ちを、あまり筋もなく、思いつくまま記しておこうと思います。

Homeへもどる


目次

1.あらためてシーレを見た
2.エゴン・シーレの素描

1.あらためてシーレをみた

絵画の線について思いをめぐらせた。
線は、ものを取り巻く空気とものとの境界に現れる。
線の内側はものの表面であるし、外側は空気だ。

線で表現するということは、この境界をなぞりながら、
ものの表面の凹凸や面の傾き、そのザラツキまで
表すということである。

表現として高められたすぐれた線は、
境界を描きながら、内側の表面の息づかいまでも
表現してしまう。

エゴン・シーレのスケッチは、ものと格闘せずに、
その骨格や、動き出そうとする運動要素まで
つかみ取ってしまう。
なおかつ境界の線も、何重もなぞった跡がない。
必要にして十分な線があるだけだ。
現実の目には見えている線でも、
運動を弱めてしまう冗長な線は、
みごとに捨てられている。

下書きとしては小さな手帖に、
乱雑に描かれたメモ程度しかない様子だ。
メモは主に構図を検討したような跡がある。

したがって実際のスケッチの線は、
構図を決めた後に、ほぼ一筆書きに近い描き方で
決めているようだ。
どのくらいのスピードで、天才エゴン・シーレは、
鉛筆を走らせたのだろうか。

top
Home

2.エゴン・シーレの素描

決して安くないお金を払って、エゴン・シーレの素描の複写を買ってしまった。
妻エディットが横たわっている姿を描いたモノのようだ。
年代が1918年だから亡くなる年のものである。
ひと目店で見たときから、刺さってくるような刺激を受けた。

これまで印刷による画集でみた絵の雰囲気とは、かなりちがった。
やはり原寸大で、紙質も似た紙にスクリーン印刷されていて、
鉛筆の触感や走りなどが、直に伝わってくる。

必要な線が描かれていて、必要でない線が描かれない。
絵の表現に、何が必要で、何が不要なのか。
それは画家の力量が現れてしまう場でもある。
エゴン・シーレの線を間近に見ると、
そのあたりがじつに巧みだ。

足の形や足首をかなり丁寧に描いているのに、
クツの途中まで描いて、クツの先端を描いていない。
描いていないことが納得されてくる。
また「描かない」ことの気持ちよさが伝わってくる。

途中まで描いたら、全体を描かなければダメじゃないか、
と考えてしまうのは、「理屈」である。 頭の命ずる観念である。
美にとって、それは邪魔なことが多い。

何が美であり、何が必要であるか、
自分は何に魅かれているのか、
色や形の本質を見抜き、そのエッセンスを表現する。

よく手の動きが上手いとか、いいとか言ってしまう。
しかし、それは手だけの作業とは言えない。
やはり画家の眼が、美の表現に焦点を合わせているということに
尽きている気がする。

top
Home