そして日々の...

Feb 2004

Table of contents

Feb 28(土):感情にも分類
Feb 27(金):気に入らない考え
Feb 22(日):問う力
Feb 21(土):身びいき
Feb 20(金):涙
Feb 19(木):何よりも夢を...
Feb 18(水):優越プログラム
Feb 16(月):オーラ
Feb 15(日):武蔵丸の引退
Feb 13(金):メモ魔
Feb 10(火):これは無駄?
Feb 09(月):『わかっています!』
Feb 07(土):月日は百代の過客にして...
Feb 06(金):少しはホームページらしく?
Feb 05(木):ともかく立ち上げ
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むくげ

Feb 28(土):感情にも分類が

感情的になるというと、冷静でないとか正しい判断が
出来ないとかいう理由で、あまり良い意味で使われない。
感情そのものが悪者みたいだ。
しかしそうなのだろうか?

喜びという言葉は、それだけで無条件に善のように
受け取ってしまうが、自己中心的な人間の喜びとは
一体どんなものだろう?もしそれが犯罪者のものだったら?

また、悲しみは、避けなければいけない感情のように思ってしまう。
しかし人のために悲しむことの出来る宗教者の場合はどうだろう?

また自己を脅かされた時の怒りと、正義のための怒りは、
まったく別物だ。

感情には同じ名前でも2つあり、
自己中心から発するものと、
自己を離れたところへ流れ出るものがある。

こんな基本的なことが、この年齢になり判ることは悲しいことだが、
この悲しみは自己中心的なものなんだろうなぁ。。。

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Feb 27(金):気に入らない考え

ひとつ目の考え方
(1)目的(あるべき姿)から考える
(2)達成を阻害するものを考えリストアップする
(3)なぜ阻害するのか理由を探る
(4)その理由を無効化する方策、アイデアを考える
(5)アイデアを具体化し、ブレークスルーを突破する

ふたつ目の考え方
(1)目的が与えられる
(2)いま何故出来ないか言い訳を考える
(3)いま出来ることで代用することを考える
(4)その結果、はるか低いレベルで妥協する
(5)得られたものは、当たり前で役立たないことが判る

ふたつ目の考え方は自己の保身以外、
何にも新たな成果を生まない。企業は傾く。

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Feb 22:問う力

自戒も含めて、良くありがちな不徹底さの話。
開発の現場で、不可解な現象の解析が一気に進んで、
現象が説明できるようになることがある。
すると説明できることで一同満足して、
問いかけが終結してしまう。
理解出来たことに達成感すら覚えてしまう。
課題は残っているにもかかわらずである。
詰めが甘いというやつだ。

問い自体が、新たな問いを生みだす。
さらにもう一歩問う力が要るのだ。
どうも才能のひとつとして、問う力があるような気がする。
この辺、部外者の方が冷静に見ていたりする。
冷静になれるかどうかが問われているのかもしれない。

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Feb 21:身びいき

誰でもわが身が一番で、そんな身びいきの上に生活している。
ひとそれぞれに違う色合いのメガネを掛けている。
みな同じだ。

違いがあるとすれば、自分がいかに色メガネを掛け、
身びいきの判断をしているか、
実にいい加減な考え方の下で生きているかを、
自覚しているかどうかだ。

人のアラは良く見えるが、自分のは見えない。
自分のアラがないのは、自分が正しいためであり、
他のアラが見えるのは、他が誤っているからだ、
と見なしてしまうと実にややこしい事態になる。
双方がそんな見方でお互いを判断しているとしたら、
論争の決着は永遠に訪れないだろう。

議論の中で、「絶対に、間違いはない」
という言葉が飛び交うようになったら、
もう口をつむぐ時だ。

自分の考えが正しいように感じるのは、
自分のアラが見えないためで、
人間は、所詮偏ったいい加減なものだという良識が、
もう少し世の中に広がれば、
紛争や争いは激減するだろう。

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Feb 20:涙

年齢を重ねると涙もろくなる、といわれる。
バルブの締りが不調になるような、生理的な老化と
言うことが多いが、本当はそうではない。
感情の成熟を示すものだと思う。

人間の成長は、始めに体がつくられ、次に思考が整い、
最後に感情が成熟するのではと思う。
感情が対象とする範囲が、広く、かつ深くなる。
自己を乗り越えて、他への共感の世界に拡大する気がする。

若い頃は自己が生存できる空間を確保するために、
がむしゃらで、必死だ。
小さな子供の泣き声は、うるさいし、迷惑だという反応が
まず出てしまう(出てしまった)。

しかしこれは実感なのだが、年齢を重ねると、
子供の泣き声から連想し感じるものは、たくさん増え複雑になる。

涙腺の緩む回数は、世の中の理解の量と比例している。
女性がTVドラマを見て涙を流すのも、この共感と無縁ではない。

ところで、何かの書物で、仏様の涙の話を読んだ。
仏様の涙は、頬を伝うのではなく、人知れず喉を流れる、
とのことだ。その意味は深い。

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Feb 19: 何よりも夢を...

夢を失ってはいけないと思う
夢は心にくべてやる燃料だ
心が燃えていてワクワクしている状態が自然だと思う
放っておけば心は燃え尽きる
目的も気力もなくして、抜け殻になってしまう
歳を重ねればなおさらだ
ただ時間が過ぎるのを待つだけの人生になる
夢を失ってはいけない

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Feb 18: 優越プログラム

ことあるごとに競争心を発露するタイプがいるものだ。
「他者に優越せよ!」という優越プログラムが
自動的に走っているタイプとでも言おうか。
とにかく何でも勝たなくくてはいけない、勝つはずと
頑なに思い込んでいるらしい。
集団の中で症状は重い。
優等生タイプのいわゆるイイ子である。

勝つことで自己を支えているのは見苦しい。
生き方として悲しい。
「ボクはこんなことも知っている」という会話は長続きしない。
はじめは博学(雑学)に感心するが、次第に気が重くなる。
裏返せば、毎度こちらの無知さ加減を指摘している。
自然と足が遠ざかるものだ。

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Feb 16:オーラ

いろいろな人との交流を通じ、初めて得られる感覚がある。
例えば、オーラの存在。

何か神がかり的な言い方だが、
人が発している光のような波動の存在を強く感じることがある。

「オレが、オレが」と自己優越性を語って止まない人からは、
何か凍らせるような否定色のオーラ波動が出ている。
立てる物音一つにも冷たい響きが感じられる。

また別の人からは、春の縁側であくびをするような
優しい安心感がかすみのようににじみ出る。

仏像には光背という光の放射を象った造形が付けられる。
キリスト教美術では、天使の輪の表現がある。
あんなものは芸術家の過剰な表現と、若い頃思っていた。

深い感受性が受け取るメッセージを、
相手に投影して表現した造形なのかも知れないなと思う。
感情の深化の過程を経て、辿りつく不思議な世界。

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Feb 15: 武蔵丸の引退

先日TVで、武蔵丸が引退を決意するまでの
心のゆらぎを回想する番組を放送していた。

引退に至る理由には、むろん負けが込むという
客観的な状況があるわけだが、引退とは、
その状況を自分が判断し決意するわけである。

武蔵丸は言っていた。
自分が負けるはずの無い相手に負ける。
気力というものが失せていた。

スポーツ選手の場合、体力的にあるいは年齢的に
限界というものが多いと思う。
だから、武蔵丸の表現には、おやっと思った。
つまりは体力的にはOKかもしれないが、
心的エネルギーが尽き、気力が消えた
ということなのだ。

人間の行動やいろいろな決断の場で、
この気力問題は頻繁に顔を出す。
しかし、それを自覚しないことが多い。

人間の(脳活動の)栄養源は、愛と夢。
愛は関心の強さ、夢はこうしたいという願望。

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Feb 13: メモ魔

レオナルド・ダ・ヴィンチはメモ魔だったらしい。
メモといっても、想像以上に混沌とした書き散らしのような
ものだったらしい。
素晴らしいデッサンの習作の横に、漫画や、落書き、メモがあったり
われわれが常識的に言っているメモとは異なる趣とのことだ。

人間の意識活動は、一点に集中していたかと思うと、
いつの間にか気が散ってほかの事を思い浮かべていたりする。
それが自然な姿であることをダヴィンチのメモは思い起こしてくれる。

いつの頃から判らないが「整理する」とか「体系立てる」ということが
新たな価値となった。
内容よりも形式が重要視される逆転現象が生ずるようになってきた。

キレイにノートを書かなくてはいけないとか、
誤字をゴシゴシ黒く訂正するのは美しくないとか、
自分を束縛するルールをやたら作って、
思考を書き留めるはずが、いつしか清書することが重要となる。
紙も無駄になる。

どこの職場でも、パソコンとカラープリンタが、
あふれんばかりの裏紙の製造マシンになっている。
清書することが仕事であるという有様だ。
しかし自覚していても止められない。
後世の人は、これを省みて何というだろうか。

もっと自然に流れるようにメモを書き、ものごとの本質に迫れば、
無駄なことで人生の時間を浪費することも無く、
森林資源の無駄もなくなるのだが、
これは本当に根が深い。。。

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Feb 10: これは無駄?

ひそかに天才技術者として尊敬する中西幹育さんが
著書で語っている。

「(技術開発の現場や、実験で)
一見、無駄と思っても、実はわからないことがある。
無駄でもやるようにしている。
無駄なことがわかったとしても、開発の中では重要な確認のひとつである。
無駄と思って確認しないことが、不安を残す。」

開発の現場では、しばしばこれ以上の確認作業は無駄だという
もっともらしい意見を聞く羽目に陥る。開発が難航したときによく聞く。
しかし何の根拠から、これからのことを無駄だと宣言できるのだろう?
こだわり過ぎですよ、とか、こんなこと悩むなんてミットモナイ
という言葉を聞くこともある。
アンタはいつから預言者や救済者になったのかい?

詰めの甘い抜け穴だらけの開発が、このように継続され、
苦しい課題を先送りをしたまま、
都合の良い甘い空想だけをいっぱい膨らませて、
足元はどんどん崖っぷちに迫っていって。。。

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Feb 09:『わかっています!』

「オレはわかっているはずだ」
「オレはわかっていなくてはいけない」
と言っているのと、
「本当にわかった」
という状態とは、かなりの隔たりがある。

前者は、自分の頭で描いている自己像や、
自分が思い込みたい目的(あるべき世界)を
表白したに過ぎない。
それをわかっています、と事実と混同する。

石原吉郎の詩の一節:
『お前は事実を、事実として言え』
という言葉を思い出す。

ところで、詩の表題はなんだったかな?

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Feb 07: 月日は百代の過客にして...

書店に妻と出掛け、芭蕉『おくのほそ道』文庫本を購入した。
書き出しの名文句のイメージがときどき頭を過ぎるのだが
いざ正確に言葉にしようとすると思い出せない。
こんな状態が続いていた。

こんな書き出しである。
『月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也』

なぜ頭を過ぎることが多くなったのだろう?(わかってるくせに...)
ちなみに『奥の細道』と漢字表記はしないようだ。

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Feb 06: 少しはホームページらしく?

会社の後輩にいろいろ講義をしてもらって、
リンクを張って飛ばす手を理解したので
早速やってみた。
何だか出来そうな気が、俄かにしてきた。 (調子に乗るなよー)

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Feb 05: とにかく立ち上げ

年初から、もやもやと勉強をはじめていたホームページ作成法も、
真面目過ぎる教科書から始めたためか、中だるみしてしまった。
辞書を1ページ目から読みはじめたような愚を犯している自分を感じて、
もっと簡単にやるべきだ!と反省した。 本屋に立ち寄り、
棚の中で一番薄いHTML本を購入した。
タイトルだけ作って、アップロードしてみた。
あっけなく表題だけのホームページが出来上がった。

構えすぎ、考えすぎの嫌いのある私らしいスタートだと思った。
しかしホームページデビューには違いない。

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