日々の思い...

Jul.2004 Contents

Jul 31:水彩具
Jul 30:夜景
Jul 29:こだわり?
Jul 29:幸福という幻影2
Jul 28:フーセン
Jul 27:それは大変だ!
Jul 27:淡々と
Jul 24:幸福という幻影
Jul 20:合わせ鏡
Jul 19:『時間に追われる男たち』
Jul 18:雨降る山に入って
Jul 14:英語漬け
Jul 13:毎日本屋通い
Jul 12:脳細胞へのマスク
Jul 09:人間バンザイ
Jul 04:どたん場
Jul 03:タブレット
Jul 02:つぶやき

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                新宿高層ビルから

Jul 31:水彩具

最近、水彩用具をビシバシ購入している。描いている水彩画、あるいは描きたいと思う水彩画が自分でも変わってきたな、と思う。それは細部の表現だ。水彩画とスケッチとを区別したとき、スケッチはどちらかと言うと、粗いタッチでその場の雰囲気をメモするために描く。絵を描くと言うよりは、全体の雰囲気を掴み取れれば、成功のように思う。したがって感動を与えたその対象をメモしておく気持ちが強い。

スケッチ風の描き方で、これまである程度満足があった。だが、最近はちょっと欲張りになった。感動を与えた対象を、自分なりの表現で紙に定着させたいと思うようになったのだ。自立した作品を仕上げたい気持ちといったらよいのか。線の一つ一つ、色の選択などとにかく迷う。そして、ある程度精密に仕上げないと、自分の納得のいく感じにならないことが判った。

水彩筆を購入した。ラファエル製の細毛羽管タイプ2本(鳥の羽の根元を使い長毛を束ねた筆)、中細羽管タイプ1本、細書き用コリンスキー毛筆1本(単価6000円!)を思い切って。 それから、ワットマンF6号ブロックと、アルシュ細目46cm×61cmブロック(単価16,000円なり!)。

おかげで、バンバンと所持金が減った。しかしその後、アルシュ紙の方は5◎歳の誕生日プレゼント扱いとする提案が妻から出た。大変、感謝である。


Jul 30:夜景

今週は長い1週間だった。 先ほど高速バスで駒ヶ根に戻った。飯田行きに乗ると、高いところから見渡せて眺めがいい。 宮田の灯りが見える頃になると、国道の車の通りや建物の見分けがつくようになる。 駒ヶ根インターに近づくあたりで、伊那谷の向こう側に、遠く東伊那、中沢の少ない街灯りが山肌に貼り付いている。 街の灯りの集合体が、近いところでは早く、遠いところではゆっくりと後ろに流れていく。ここに住むと決意した不思議さを思う。


Jul 29:こだわり?

こだわり弥太夫ということか。 いろいろ人生の場面で言われてきた。 考えすぎ、しつこい、凝り性、キミはそんなことまで考えなくてイイ!、 こだわりの趣味人、などなど。お褒めの言葉も若干あるかもしれないが、大半は批判、非難の連続。まあそれは当たっているのかもしれない。しかしそんな世間との齟齬に嫌気が差して、ずいぶん寡黙に生きるスタイルを身に着けたように思う。

相対論じゃないけれど、人はみな自分の基準でモノを言っている。 犬は犬の目線から世の中を眺めて生きているし、馬には馬の目線で、 こだわり人は、こだわりの目線で世の中を見ている。

この世には、絶対座標が存在して、それがすべての基準であり 善であるという世界観は、最近のSFなどでは面白い切り口だけれど、 現実にはそのようなことは(ありえ)ない。 だれかが、絶対座標を持っていて、その人の見解がすべての基準であるなんて ことはない。

人に向かって、オマエは普通じゃない、という思いや発言は すべての『いじめ』の原点だ。 自分は多数派であり正統派なのだという思い込み、 あるいは多数派に埋没したい自己がそこにある。 異端を見つけだしていじめることで 自分が多数派で仲間が居るんだと錯覚し、 生きる不安やら頼りなさを解消したかのように思っているだけだ。 ひとは自分とは異なるモノ、見知らぬモノに対しては 不安を抱くものである。

そんな群集心理にこれまで苦しめられた。 また、何とか多数派との融合みたいな姑息なことも考えないではなかった。 しかし結局、借り物の座標軸は借り物でしかなかった。 自分の考え、見方は、自分が受け取った唯一の人生、生命のものだ。 このことの尊厳をしっかり見据えなくてはいけない。 強引ing My Way! そして 脚下照顧!


Jul 28:幸福という幻影2

生きているだけで幸福であることを 改めて考えながらバスに乗った。 夜の外の景色を見ながら、 なぜそう考えるにいたったのか思い出そうとしていた。

以下はたとえ話である。
『健診の診断結果を受け取ったアナタは、 そこに要再検査という文字を見つける。なんだろうと小さな文字を たどると、腹部にかすかに影が認められるなどと書かれている。 やや不安な気持ちがもたげて来る。 何だろう、特に体調に異変はなく、元気なのだが。。。』

『後日、意を決して再検査のために病院を訪れたアナタは、 患者服を着せられて、あちこちの検査室を渡り鳥のように 移動し、徹底的な検査を受けることになる。』

『しきりに胃の周囲を調べている。 対応する看護婦の態度が妙に親切な印象を受ける。 そのことがかえってアナタを不安にさせる。 自分は重病人なのか?』

日常生活を無事に平凡に送っている状態を、 われわれはゼロの状態、つまり何もない普通の状態と思ってしまう。 よいこと悪いことがあれば、ゼロを中心に 波のようにプラスになったりマイナスになったり。

精密検査で思わしくない病態らしいと知ったアナタは、 ゼロからどんどん下降してマイナス側へ転落していくのだ。

『いよいよ医師の口から結果を告げられる日が来た。 「すぐ入院の手続きをとって下さい」 とでも言われたら、どん底までマイナスは増えていく。 今仕事は休めない。家庭もどうなる? しかし様々な心配にもかかわらず、医師の言葉は、 「なんでもなかったようです。異常ありません」』

この言葉を耳にしたアナタは、張り詰めた気持ちの糸が ふっと緩んでいき、マイナスだった状態が、 一気に上昇していく安堵感に包まれることだろう。 普通に生活して行けることの幸せをかみしめるに違いない。

しかし以上のことでアナタの日常の何かが具体的に変化したわけではない。 単に気持ちが揺れ動いた日々を送っただけ。 普通に元気に生きれて良かったという感覚を、すっかりどこかに忘れてきただけ。 常日頃持ち続けたっていい本当のことなんだけれど。

健康で、仕事ができ、家族も無事で、 休日には子供の相手をして、疲れを癒す。 このすべての日常が、実は輝いているはずなのだ。

もし重病が発見されて、余命1週間です、とでも宣告されたら、 何でもない平凡な日常がどれほど貴重なものであったか 思い知るのだ。風がそよいだ、つぼみがふくらんだ、子供が笑った それらのことがとんでもないほど輝きを放つ贈り物であったことか。

生きているだけで幸せのはずである。生きているだけでいっぱいプラスを 与えられ、祝福された存在なのだということ、これはごく当たり前に考えてもそうなる。

慣れとはある意味恐ろしいものである。 われわれは、無事な日々を送ることができるという贈り物を 当たり前のこと、普通のこと、ゼロの状態だと思うようになり、 それを退屈だとさえ思う。 そして外に刺激を求めるようになってしまう。 思いっきり与えてもらっているのに、何かが足りないと 思う生き物なのだ。

そして、人との比較をして自分は損だとか何のかんのと、 ゼロ付近の小さな差を比べては、悩んだり喜んだりしている。 目の前の瑣末な事柄に眼が眩み、振り回されて日々の時間を送ってしまうのが、正直自分たちの実態なのだ。 われわれの目は、本当のことをからすぐ逸れてしまう。 闇は深い。


Jul 28:フーセン

自分の仕事を、まずは真っ当に成し遂げてほしいのに それを横に置いて、人の仕事の内容に首を突っ込んだり 異議を唱えたり、眼が外ばかり向く輩がいる。

自分の立っているところが自分でもよく定まらないらしい。 あっちふらふら、こっちふらふら。頭がフーセンのように風になびいている。

先日も、仕事上のことで、ご丁寧なメールが飛んできた。同僚と顔を見合わせ、ほらほらフーセンだぞ、と目配せする。


Jul 27:それは大変だ!

そんなことすると大変なことになるぞ、と言われたり こりゃ大変だと思ったり、この言葉はほとんど脅迫である。 脅迫文なのに、余りにも無意識にこの言葉や考えを多用してやしないか。要注意だ。

大変なことって何だろう? 大変だ、大変だと大騒ぎして、何のことはない500円損するくらいの話が ほとんどだ。一大事とは、もともと生きるか死ぬかのぎりぎりのことを言うのでは ないかな?大変なことでもないことを、いちいち大変だと騒ぐとは、それは大変にお疲れさま。


Jul 27:淡々と

昨日は5◎歳の誕生日だった。
朝、出勤前に妻から携帯メッセージが入った。 午前の仕事中に長女から、そして夕刻に次女から、 それぞれ携帯メッセージが入った。

仕事を終えて、アパートの近くのスーパーで、 期限切れ間際のパック弁当を買って帰った。 いつものとおり。 パソコン画面で知人のWEBサイトを眺めながら夕食。 これもいつものとおり。 淡々と過ぎた誕生日だった。


Jul 24:幸福という幻影

Mさんのホームページ掲示板で、幸福についてのやり取りがあり、日頃考えている幸福に関する考察を少しまとめてみたいと思う。かなり私的な考えで、賛同してもらえないだろうと思う。しかし過去の日々のメモを見ると結構な量をこの幸福論に充てている。詳しく記述すると何ページもなりかねないので、箇条書きで。また一見、相矛盾したところもある。誤解されやすい難しい微妙なテーマだ。

  1. 幸福は、なろうとしてなるものではない。自助努力で到達する目標の類ではない。しかし人は、幸福という幻影を外に求めてしまう。
  2. 幸福は、与えられている状態。そして自覚しにくいもの。あるいはほとんど自覚できないもの。与えられているのにそれに気付かない我々の迷いの状態を、白隠さんは『譬えば水の中にいて、渇を叫ぶが如くなり』と喝破している(と勝手に解釈している)、。
  3. 生きている限り幸福である、というのが大前提。生きている我々は、自覚できないほどたくさんのものを与えられているのに、アタマで判っているのはほんのわずか(自戒)。
  4. その与えられていることへの自覚の深さのレベルに応じ、幸福の捉え方、自覚の度合いが変わる。深まるほど、暖かい境遇を周囲に与える生き方になっていく。
  5. 人の世で生きる限り、周囲に暖かい境遇を与える人は、周囲から温かい境遇を受け取る。冷たい境遇を与える人は、冷たい境遇を受け取る。
  6. キリストの言う『人はみな神の子である』。仏教で言う『山川草木国土、悉有仏性』は、(私的な強引な解釈では)同じ事情を述べていると考えている。『いま、ここに生きている』という事実を支えているものへの思い。さまざまな表現がありうる。


Jul 20:合わせ鏡

東京と駒ヶ根の両方にインターネット環境を整備したが、メールに関しては不便を感じていた。不在中のPCに着信したメールが読めないからだ。そこで、それぞれのプロバイダのメールアドレスに着信したメールを、もう一方のアドレスへ転送するように設定した。こうすればどちらのアドレスに届いたメールも他方で読めるはずだった。

しかし予想もしないことが起きた。メールサーバーから警告が来たのだ。25回以上の多重転送でエラーであるという内容だった。自分の愚をすぐ悟った。メールが着信するとメールサーバー同士が、終わりのない転送合戦をしていたのだ。東京と駒ヶ根との間を、行ったり来たりしている転送メールの姿が思い浮かんだ。何とおバカさんだねこのオレは!これはメールの合わせ鏡じゃないか。


Jul 19:『時間に追われる男たち』

NHK番組で、長距離陸送の運転手を追ったドキュメンタリを見た。後半を何気なく見ているうちに次第に惹かれて、終わりにはすっかり見入っていた。番組制作の意図は、冒頭に述べられたのかもしれないが、聞き逃した。構成としては中小運送会社の経営難とそれを何とか打破しようと腐心する社長と課長、それから従業員である陸送運転手の日常を追ったものだった。

企業内の葛藤を描いているのが、惹かれた理由かもしれない。陸送単価が低落し経営を圧迫する状況の中で、会社は企業のブランド戦略として『安全運送』を打ち立てようとする。その結果導入されたのは、各トラックにGPSを装備し、どこにいても安全速度を遵守し運行しているかどうかをチャックするシステムの導入だった。リアルタイムに会社のパネルに各トラックの速度が表示される。速度制限を守らないと走行中でもアラームがなりペナルティが課せられる。

鮮度が命の食品を、千葉から大阪の依頼主に時間内に届ける仕事を請け負った運転手。この人の葛藤はすさまじいものだった。千葉(の市場?)を出る時間は決まっており、到着時間も約束している。しかも『安全運送』である。スピードを上げて時間稼ぎはできない。途中、事故や渋滞によって延着となった場合でも、運送料より高い賠償金を支払わなければならない。渋滞につかまるたび番組を見ているこちらも胃が痛くなるような一刻一刻だった。番組の副題通り、正に時間に追われる男たち。

食事や小便まで運転しながらというのが珍しくないとのことだ。高速道路を舞台に、陸送運転手はこんな日常と戦っていたのか。正直知らなかった。無事荷物を届け終えた運転手の横顔がとても好い感じで、心に刻まれた。


Jul 18: 雨降る山に入って

今日は早朝7時から財産区の総出作業に出かけた。自治会で管理している植林地域の下草刈り作業である。空模様は、はっきりしない天候だった。霧雨状の雨が降り続いていた。入る山の傾斜はきつい所で45度位あり、足場は切り倒した材木などが濡れて滑りやすい。例年蒸し暑い日が多いのだが、そんな好天の日は熱中症とハチに注意しなければならない。山にはハチの巣があるのが通例で、それをつつくと顔をめがけて攻撃される。この行事は全戸参加が原則だから100名以上の男たちが、厚ガマをもちリュックには水筒を入れて木こり姿で集合する。

ある斜面の下草刈りを、列をなしながら山頂までやり終えて、下山する途中でのことだ。後ろにいた年配者が、足元の古い苔むした切り株を指して、つぶやくように言った。

『この木は、それはいい松だったんだ』
子どもをいとおしむ様な表情で切り株を指差す。
その表情がとても印象的だったので、思わず尋ねた。
『ヒノキの植林のために切ってしまったのですか?』
『いや、松を売るためだよ』

商売のために育てた松を切り倒してしまったとのことだ。一本の木をいとおしむ気持ちを、何年も忘れていない。山とともに生きている人達とはこのような感情を抱いているものなのか。小生のような都会育ちの人間には、自然との一体感のあり方がとても新鮮だった。


Jul 14: 英語漬け

日曜夕刻から4日間、つくばで開催された国際会議に参加してきた。以前の職場ではしばしばこのような機会が得られたが、最近では久しぶり。英語漬けの日々だった。

初日、二日目は英語耳ができてくる日、三日目はやや頑張りすぎて疲れの出る日、四日目から自然に会議に参加している感覚が芽生える日。あっという間に終わってしまった。しかし世の中の動向や、研究の流行や、それぞれのお国柄がよく見えて大変いい機会だった。

そして、これもお定まりの反省なのだが、英語は日頃から鍛錬しないといけない。


Jul 13: 毎日本屋通い

つくばのホテルに3泊ほどしている。そして大変ラッキーなことに、ホテル前には、あの大型書店のK沢書店があった。仕事が終わると毎日入り浸っていた。美術系、パソコン系、宗教系と3本柱でめぐるのが日課になった。宗教系では、あのスマナサーラ氏の法句経抄訳本を入手した。

氏の言葉は簡素で無駄がなく、そして味わい深い。平凡な言葉であるため流し読みしがちなのだが、実は深い意味と経験が込められている。ときどき言葉がトゲのように胸に刺さって抜けなくなる。いつか氏のトゲ言葉集をまとめてみたいものだ。


Jul 12:脳細胞へのマスク

眼の前で見ていること、聞いていることが脳にインプットされないということがある。結果的に見たり聞いたりしていないのだから、自覚も難しい。眼や耳は外界の刺激を受け取って脳に信号を送り続けていても、それを中間域でマスクしている。何か不安なこととか気がかりごとがあると、そちらが優先順位が上がって、周囲の音や映像が後回しになってしまう。

自分の人生の大半を、このマスクした状態で過ごして来たと思えてならない。ムキ出しの現実に向かって何かいつも余計なマスクを自ら編み出して、自己を守ろうとしたり防御してきたのではないかと。とても残念な自覚だがそんなことがボンヤリ見えてきた。

至道無難禅師の道歌にある『いきながら死人(しびと)となりてなりはてて おもひのままにするわざぞよき』とは、この辺の事情を言っているのかもしれないと思う。

最近は、疲れたときは『ああ、疲れた』と思う。立ち通しで足が痛くなると『足が痛い』と思う。そこには『嫌だな』とか『逃げたい』という余計なものは入ってこなくて、ただ現実と向き合っている。それは惰性で生きているのとも違うし、無気力とも違う。現実を受容するときの姿勢に関してであって、こちらから働きかける世界とは別である。


Jul 09: 人間バンザイ

新しいことを始めると苦労が多く、その割には遠回りをしていたり、結果的には無駄をしていたりする。その過程では、下らぬ考えに異常に固執して足踏みすることも稀ではない。傍から冷静な人が見たら、やっていることは抜け穴だらけで危なっかしく、愚かしくも見えることだろう。

でも何となくそんな努力する姿を『人間バンザイ』という気分で眺めるようになった。

以前TV番組で、飛行機が発明されるまでの苦闘の歴史を古い映像で紹介していた。飛ぶはずの飛行機が崖からマッ逆さまに落ちてしまったり、両手に大きな羽を結びつけて高いところから飛び降りる男や、巨大な羽ばたく傘を自動車につけてエンジンでバタバタ振動させる実験など、見ようによっては、なんと愚かしいことを丹念にやっているだろうと思ってしまう。

しかしそれは僕らが現在に生きていて、飛行機という発明を知っているからだ。答えを知っている試験官が、頭をかきむしって計算している受験生に優越感を抱くのは、フェアではない。自分で問題を解き、飛行機を発明した人間こそ、尊敬に値もするし、優越感を抱くことを許される。

また優れた発明に至る過程で、さまざまな失敗があればこそ失敗経験が発明の母体となったことは疑いようがない。失敗した人たちも、この方法では失敗するのだ、という貴重なデータを得たのだ。その意味では成功者と言えなくもない。

価値あるものへ努力している限りその努力は素敵だし、率直に『バンザイ!』と感ずる。人目をはばかって優柔不断の中、何もしない人生を送るより、どれだけ素晴らしいことか。ゲーテではないけれど『人間は努力する限り迷うもの』である。それを愚かということはできない。


Jul 04: どたん場

ホント、どたん場にならないと本気にならない男だなと、しみじみ思った。自分のことである。
ある依頼で追い詰められた状況になり、初めて本気になった。普通以上の力を出していると思う。
そんなことをぶつぶつ言っていたら、『今ごろ気付いたの?とっくにお見通しよ』と妻。

普段からやろうと思っていることでもなかなか始めない。アイデアがいろいろあっても、カビを生やしてしまう。そういう『仕上げ力』のようなものに先天的に欠けていると思う。


Jul 03: タブレット

書店に出掛けると、必ずコンピュータ関連の書棚を眺めまわすのが習慣になった。水彩をパソコンで描く技法書が増えている。絵を描くことを楽しみにしている者としては、ちょっと気になる動向である。

絵画を描くということと、ディジタル技術とが急接近してきた。
WEBサイトに絵画をアップする行為は、結局絵画をディジタル情報に置き換える作業である。ディジタル画像を作ることを目的とする人ならば、始めからディジタルの媒体で描いてしまっても構わない。いや、絵の具や絵筆や紙というものが必須でなくなってしまう。

ディジタルで描きあげた作品は、有限のビット数で表現されたもので、紙に描いたものはより精密だという反論もあるかも知れない。しかし人間の目には区別のつかないほど分解能を精密にすれば、その区別は消えてしまう。そもそも人間の視細胞の数が有限なのだから、脳の受け取る情報量としては有限のはずだ。これまで絵の具を使って、脳の識別能力以上の精密絵画が絵の具で描かれてきたわけだが、そこまでいらないでしょ?という考えも成り立ちうる。

果たしてこれは未来の絵筆なんだろうか?
とモヤモヤと考えつつ、今日タブレットを購入した。
(ボーナスも貰えたし。。。)


Jul 02: つぶやき

自分の中では『超人手帳』ブームに湧いている。
この書物から私が得た収穫は、心の深いところの「つぶやき言葉」の存在だった。ある場面や状況に置かれるとき、定型パターンとして無自覚に「つぶやき言葉」がモグモグと語られる。それははっきりとした言葉ではない。そして「つぶやき言葉」は潜在意識に沈んでいくらしい。したがって自分の人生の選択や行動を律しているらしいということである。

代表的なつぶやきは「そんなこと言ったってムリだ。。。」などの否定語である。人に聞かれれば、自分は頑張りますと言っているのに、無自覚な領域ではそれはムリだと、モグモグとつぶやいている。このギャップ、この矛盾が生活感情を作り出し、人格を形成しているらしいと気付いたときは、正直『ガーン!!!』だった。2枚舌でスッキリさわやかに生きられるわけがないじゃろが!と自分に言いたい。
これが、若い頃より、わだかまっていたことへの明解な答です。