日々の思い...

Aug.2004 Contents




パキラ

Aug 31:視細胞のふしぎ


人間の目は、赤と青、それから緑を感じる3種の視細胞しかないそうだ。たとえば黄色に感じる専用の視細胞はないそうだ。赤と緑の視細胞がそれぞれ反応して、それらの混合の割合を感じて脳が黄色と判定する。

理科の教科書によく出ている絵でもおなじみだが、太陽光をプリズムで分解すると、虹を構成する様々な色(光の波長)に分解する。つまり太陽の光の中には、いろいろな波長の光が連続的に含まれている。眼は3種類の原色に感じる細胞しかないため、脳内では、この3種類の信号から、あたかもフルカラーの世界が目の前にあるかのように再構築していることになる。

LEDという小さな発光素子がある。電気製品の電源を入れると、小さな緑色や赤色の玉がポッと光る、あの小さな素子だ。

昔、ディスプレー素子についていろいろ検討をしていたときのこと。赤色LED素子と緑LED素子を、接近して配置し点灯する。だんだん離れていくと、はじめ赤と緑が区別できているが、離れるに従い見分けがつかなくなって、ひとつの発光点になってしまう。そして色は?これがどう見ても黄色に見えるのだ。

この方式は、最近表示板によく使われている。赤と緑の2色用意すれば、黄色を含めた3色を表現できる。これをフルカラーと言わず、マルチカラーと区別したりする。パソコンディスプレーも、微細な3原色の発光点を敷き詰めて、それらの混合光でフルカラーを表現している。もし視細胞が3種類以上に無数に色を識別するシステムだったとしたら、カラーディスプレーの実現は、はるかに困難となっただろう。

このとき、遊び半分でクイズを出した。空間的に同じ点で光っている赤と緑は、混色して黄色に感じる。それならば、時間軸で混色するとどうなるのだろう?つまり、赤と緑のLEDを隣合わせにおいておき、交互に光らせる。同時には光らないようにする。この点滅の周期を早めていく。遠くから眺めると、さあ何色に見えるのだろう?

はじめは、赤、緑、赤、緑と交互に点滅しているのが判るけれど、早くなってくると点滅が判らなくなり連続して見える。そして色は?やはり黄色に見えるのだ!残像効果のためか、脳の解釈が追いつかないためか、不明だが。

本当の黄色(太陽光を分解した光)を見た場合、赤と緑を空間的に混色して見た場合、それから時間的に赤緑を混色して見た場合で、やってくる物理的な光の状態はまったく別の信号である。視細胞への刺激の形態も異なる。しかし、すべて黄色!と脳は判断する。

美しい紅葉の風景も、じつはたった3色の刺激から、脳が豪華絢爛に合成した画像であったわけだ。

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Aug 28:原因探しは遠回り?


研究や開発の現場で、予想に反する結果が出てあらたな課題が急浮上ということは日常茶飯事だ。しかしどうも『対策マニア』としか表現できないような思考法(?)が得意の人間がいてどうにも議論がかみ合わない。

今に始まったことではなく十年近く続いている齟齬なので、さっぱりと訣別するためにもまとめておこうと思う。

原因が明快に特定できるようになり、次にそれを無効化する方策を『対策』と言うのだろうと思う。ところが『対策マニア』は、原因追求を疎かにする。あるいは原因推定が極めて情緒的で、主観的に過ぎるのだ。そしてすぐ対策案を羅列して、どれからやるか、どうやるかの議論に移ってしまう。

『原因は、本当にそれなのか?』という問いに対して満足すべき答えを得ていない。満足すべき答えとは、原因推定に役立つ事実確認がされていること、得られた事実から推論を組み立てると原因となるものに帰結するという一連の回答なのだ。

主観的な推定で留まるため、『原因は本当にそれなのか?』に対して、これだと思う、これじゃないかな、という情緒的な反応しか返ってこない。そしてすぐ対策を打ちたがる。現象を分析して中に潜んでいる真の原因を探る作業は、実は頭の痛くなるような作業である。しかしそれは避けて通れないのだ。

対策案をすぐ実施したがるのは、いわば頭を使うことを放棄して汗を流して体で勝負すると表明しているようなものだ。極端な話をすれば、原因を探すために対策を打ってみるのだとか、時間がないのですぐ対策が必要でしょ?じっと考えているわけにいかないでしょ?と言うような開き直りとしか思えない反論に出会う。

もうこうなると事実と論理の組み立てという客観的世界ではなく、なにかやってさえいればいいのだ、それが仕事なのだという処世術の論理が出てくる。処世術で技術課題が片付くほど世の中甘くないことは、やがて判明するのだが。

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Aug 27:ミクロ人生/マクロ人生


自分の人生を振り返ると、小さなことに苦しんだり、悩んだり、怒ったりして、あたふたと日々を送ってしまったという悔恨に近いものがある。激しく変わる映画のスクリーンの前に座らされて、映画のシーンに眼を奪われ振り回されてきた。興奮が冷めるとなぜ、あれほど怒ったり泣いたりしたのかその原因すら思い出せない。ミジンコが周囲の障害物やライバルと押し合いへし合いしながらミジンコ人生を過ごしているみたいで、これはミクロ人生なんだなと納得する。

今日は、Mバス停で駒ヶ根に戻るバスを待ちながら、M料金所に集まり渋滞している車の群れを見ていた。料金所の手前にバス停があるからよく見える。クラクションが鳴った。1台の車が無理に車列に割り込んだらしい。割り込まれた車は、そのことに我慢ならなかったらしく、抜き返そうと車線変更を始めた。感情が行動を呼び、行動がさらに感情を呼ぶと言う感じだった。

ふと思った。もしこの光景を人工衛星くらい高い高度からみたら、いくら高性能のカメラで拡大しても、車はまるでミジンコみたいなものだろうな、と。そしてこのミジンコは、動いているのかいないのか、どちらにいこうとしているのか注意深く観察しないと判別できないだろう。まして、1台抜かれたとか抜き返したなどは、もう誤差範囲の中でどっちでもよい話であろう。これは、マクロ人生と呼んでもいいだろうと思う。

そんな偉そうなこといっても、弥太夫自身、ミクロ人生、ミジンコ人生を送ってきたのだ。ただ、ときどきはこのマクロ人生を思い出したい。

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Aug 26:懐かしきゲーデル


東京の古書店で数学書を2冊求めた。先日来、数の起源や集合のことを考えたのがきっかけで、矛盾するとはどういうことかなと気になり始めた。古書店で科学系の棚をぶらぶらしていたら、ゲーデルの解説書を見つけてしまった。

懐かしきゲーデルさん!
昔、ゲーデルの『不完全性定理』を証明する論理学の専門書に赤線を引き引き精読したはずだが、結論は言えるものの、結論にいたるプロセスは全く記憶に残っていない。

昔から知られているパラドックスとか、集合論の矛盾とかは、共通した構造がある。外に向かってある言明がなされるのならまだいい。言明の中にその言明した主体を含むような場合、いろいろと矛盾やらオカシナ事柄が出てくる。人間はいろいろな新しい概念を定義して新たな数学を進歩させてきたが、言明に自己自身を含む領域を許し手を広げたがゆえに、失速してしまった感がある。

有名なものは、クレタ人のパラドックスだ。『クレタ島の人はうそつきだ』という言明は、正しいか間違っているかのいずれしかない。しかし、『クレタ島の人が「クレタ島の人はうそつきだ」と言った』という言明はどうだろう?正しいとも正しくないとも言えなくなる。

数学ばかりではない。人生においても自分自身を含む話は注意が必要だ。そして実は人生において自分自身を含まない話はないのだが。

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Aug 25:『赤毛のアン』


理屈ぬきで『赤毛のアン』が好きだ。ただし、原作は読み通したことはないので、映画の赤毛のアンが好きだというべきかも知れない。

アンの想像力や若い生命力、マリラやマシューの正直な生き方と根の優しさ、それに誇り。微妙な意地の張り合いと和解など、いくど見ても飽きない。理屈通りにならない人間の生き生きとした感情があふれていて、私の中ではナンバーワンの部類だ。

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Aug 23:再びおばあさんに出会う


日曜日の夕方、ふたたび東京へ戻るバスで、"あのおばあさん”と出会った。そのとき私はすでに座席に着いていたので、中年女性にエスコートされて、杖を突きながらバス後方へと元気に歩く姿を拝見した。

着席する前に「あいさつ。。。お礼。。。」という声が聞こえた。中年女性が窓の外に向かって手招きした。すると茶髪に真っ赤なTシャツ姿の若者と、もう一人黒シャツの若者が、ドカドカとバスに乗り込んできて、おばあさんを取り囲み「ありがとう」「気をつけて」とか挨拶していた。バスセンターに到着したとき、派手な服装の若い人2人が、携帯のメールアドレス交換をしているのかなと思ったが、この若者たちは実はおばあさんを見送りに来ていたのだった。

いよいよバスが動き出した。おばあさんが手を振った。バスの外の見送りの3人がいっせいに手を振った。やはりこの見送り風景はすこし情が濃い感じで不思議な光景だった。

高速道路はひどく渋滞し、おばあさんが府中で降車する頃は、定刻を1時間半ほど遅れた10時半近かった。おばあさんは、運転手に「ありがとう」、「ありがとう」と2回礼を言いながら、後ろ向きにステップを4ッ這いになり降車していった。暗いバス停には誰もいなかった。これから無事に帰れるのだろうか?ちょっと心配だった。

やがてバスが動き出し、終始おばあさんに注意していた私は、振り返りながら遠ざかるバス停を覗き込んだ。茂みの影にちゃんと出迎えの男性がいた。笑みを浮かべた男性の横顔とおばあさんが後をついていく姿が見えた。

渋滞で遅れるよと、おばあさんが携帯連絡したとは考えにくい。あの男性は1時間半もバス停で待っていたようだ。しかし男性の笑みは嫌味がなかった。

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Aug 21:数というもの


自然と数学の続編。

初等的な数の概念や、図形の概念は、自然界と触れる経験(感覚)の中から抽出したもの(知識)と言ってよいだろう。しかしこの抽出という言葉は、ちょっと微妙なところがある。

普通のわれわれの日常的な捉え方は、次のとおりだと思う。われわれは自然という実在がガラス張りに見えていて、その中に作用する法則に関して次第に謎が解明されていく。その骨組みが数学により記述される、というイメージだと思う。数学は、自然から抽出された部分だから、自然に包括された関係になる。

しかし、このような実在論とは異なる立場がある。観念論と大括りして間違いないと思う。どちらかというと小生はこちらの立場に近い。

数を数えるというこの単純な行為の中には、結構複雑な要素がある。異なるものを同じカテゴリーだとする人間側の認識が、まず必要だ。たとえば「車」の横に「ハチ」が飛んでいたとき、車とハチを「2」と数えることはない。しかし車の横にバスが停車していたら、あるいは「2」台と数えることもある。エンジンにより駆動される乗り物というカテゴリーを認めたなら。

リンゴが2つ机に載っている。しかしひとつは3ヶ月も放置されてしわしわになりアオカビが生えて、灰色の小さなごみのようになっている。もうひとつは今買ったばかりの新鮮な赤いリンゴだ。リンゴはいくつありますか、と質問したときリンゴは「2」つありますとは普通は言わない。同じに数えていいんですか?と聞くに違いない。同じものでないと数を数えるという行為が成り立たない。逆に同じだからこそ数を数えるわけだ。

では同じものとは何か?この世界に全く同じものは存在しない。つまりは同じカテゴリーに属するものしか存在しない。同じカテゴリー対して、「数」の概念が生まれる。カテゴリーを決めるのは人間の側だ。つまり集合を定義し数というものの概念が来る。自然を契機にしているが、数は自然に属するものではなく人間が定義した集合体を記述する形式とみなすべきだろう。

何だか取りとめなく長くなってしまった(笑)。書き尽くしていないが、読みづらくなる一方なので、筆をおき一時中断。

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Aug 18:サバン症候群


絵画で記憶するという記憶法があると思う。じつは自分自身の記憶のスタイルが、どうも絵のパターン記憶を使っているらしいことは昔から気がついていた。その代わり、言語を使って記憶したり情報のやり取りする能力は、未発達か極度に劣っていると思う。特にそろばんのように数字を音声で読み上げられるのは全くお手上げであった。数字を英語の音声で聞き取るとなると、ギャーという状態。

自分はサバン症候群まではいかないとしても、ひょっとして平均的な人に比較すればサバン的なんだろうかという恐れが昔からあり、先日からサバン症候群のことをネットで調べた。しかしだんだん不愉快になって止めてしまった。

赤ん坊のとき首が据わらなかったこと、なかなか歩かなかったこと、言葉が遅くて近所の人から、○○ちゃんは知恵遅れかもしれないと注意されたことなどを、前に母が明かしてくれた。そのことを思い出してしまった。小学生のとき学校で実施した知能指数テストの結果表を、母に渡したときの落胆ぶりは絵としてはっきり記憶している。正座した膝の上に結果表を広げて、首を落として「フーッ、こんなに低いのかね。。。」と言葉を呑んだ。そのときは、何で沈んでいるのか理解していなかったわけなのだけれど。

人の後ろをノロノロと歩いていくスタイルというのは、生来のものなのだと思う。小中学の通信簿の生活態度欄には、決まって「消極的ですね」「もっとハキハキと」「元気よく」といつも書かれていた。しかし小学生の自分にはどうにもならない。気をつけるだけで、人格が元気になったり、積極的になったりするものなら、それは人格というほどのものではない。世の中元気な人だらけになってしまう。単に高揚しているだけではないか。そんなことも解さず通信簿欄に繰り返し同じコメントをする教師たちが、いかに人間音痴でかつ残酷なものかを感じるばかりだった。

最近見なくなった洗剤のTVコマーシャルだけれど、お母さん手作りの手提げバックが汚れて泣いて帰る小学生の女の子。そこへ近所のおせっかいおばさんが登場し『この汚れは、落ちないのよ!』と、傷口に塩をすりこむ。このような心無い大人の言動がどれだけ子どもの心を傷つけるか、まったく願い下げだ。もっともっと本当のやさしさを大人は持たなければならない。それをCMに使う感覚をとても不愉快に思ったし、見識を疑ったものだ。

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Aug 15:メモから


書きまくりの傾向のある弥太夫メモ(紙のです)の量が増え、なかなか過去の記録を読み返すことが出来ない状態です。でも手元にあるこの2年間の精神の苦闘は、読み出すとキリがないくらい面白い。苦闘記録が面白いとは変ですが、自分のテーマが頑固に一貫していること、しかしながらスパイラル状に変化して、ある方向に落ちて行っていることです。これが本当のスパイラルダイブかもね?

そのテーマとは、自分の認識や感情がいかに当てにならないか、いかにじゃじゃ馬で、いろんな騒動を引き起こしてきたかを懺悔し悟る旅のようなものです。すこし冷めて飲みやすくなった弥太夫スープを少し。

  • 自分の眼の色は自分から見えない。
  • 虫メガネを好きなところに当てて眺めて暮らしている
  • 感情、気分という虫メガネ、思想とか自説という虫メガネ、趣味の虫メガネがある
  • そんなわれわれがゴチャゴチャ一緒に暮らしている

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Aug 13:もうすぐ2000ヒット


アクセスカウンタが、近々に2000ヒットになりそうです。6/20に1000ヒットを越えたとメモしてあるので、最近は訪問していただいている方が増えました。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。なお、2000のキリ番を踏んでもなんにも出ません、起こりません(ケチな弥太夫)。

どのような方が訪問されているのか解析もしておらず全く判りません。URLは数人の方には教えましたが、いったいそれ以外はどこから?という状態。

とはいえ、開設以来いろいろな方と知り合いになれて、友人の幅が増えました。これはネットというツールの恩恵です。

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Aug 12:カントさんの示唆/心の苦しみ


やはり夏休みはいいものだ。好きなことをトコトンやれる時間がある。子たちがほぼ独り立ちして、休日の過ごし方が自分勝手なスタイルになったと思う。

カントの認識論の(自己流の)応用の話をちょっと。じつはこの内容は昨年の7/23の手帳を再度読み直し、まとめている。

心の中に生まれる苦しみという感情、葛藤状態は、外界から苦しみの種がやって来たのではなく、どうやら葛藤の構図そのものを自分が生成しているのではないか!?と判ったことに端を発する。

貧乏を苦にする人は、『貧乏=不幸』という方程式を何よりも正しい定理のように信じているわけだ。しかし、一方そう考えない人も世の中にいるのも事実だ。同じような貧乏状態でも苦にするでもなく不幸を感じない人もいる。『貧乏』な状態は客観的な事実だが、別にそれは『不幸』と等価ではない。そこにもうワンクッションあることが判る。

そのワンクッションとは何か。貧乏な状態が人を不幸にするのではなく、『貧乏=不幸』という方程式が人を苦しめている。

貧乏を苦に病む人の方程式『貧乏=不幸』はどこから来たのかが問題となる。万人共通ではないとすれば、その人がいつか過去の時点でそれを信じたわけである。たとえば人の悲惨な貧乏状態を見て、自分は絶対このようにはなりたくないと。これが不幸の姿なのだと。

またこの方程式を逆に読むと『不幸なのは、貧乏だからだ』とも読める。不幸の原因を外界に求め、求められた答えは『貧乏状態』という訳だ。自ら信じた方程式に縛られていることにはフタをして、外界に不幸の原因があるはずだと考えるとき、とめどない放浪と戦いの日々が待っている。外界には本当の原因はないから。

自分が無意識のうちに前提としている様々な『方程式』のあり方で、同じ事象が人により全く異なる認識結果となる。カントさんが聞いたら、認識の骨格をなす無批判に受け入れている『方程式』をまず調べなさい、と叱られそうだ。

仏教の教えは、ひたすら捨てる修練なのだと思う。人生の中で強く握り締めてきた余計なもの(つまり『方程式』)を捨てなさい、それは本当に必要なものですか?と問われているように思えてならない。

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Aug 11:自然と数学/カントの認識論


友人のホームページの記事に触発され、以前より自然と数学について、自分の見方をまとめたいと思っていた。と言っても友人の見解に対してどうこう言う根拠もなく、あくまで自分のための記録だ。

若い頃、一所懸命カントを読んだことがある。あの長たらしい(カントさん、失礼!)純粋理性批判や、実践理性批判などだ。夢中になった理由は「コペルニクス的転回換」の考え方で、現在自分の考え方の根幹の一部をなしている。それは、いかにしてわれわれは対象を認識できるのかについての深い考察である。

対象が認識できるためには、それがわれわれの認識形式に載るからである。空間、時間や因果律などなど。この認識形式に載らない向こう側の物自体は、決して把握することはできない。この辺がカントさんの面白いところだが、ならばわれわれの認識形式を全部調べつくしてしまえば良いではないか、と考えたところだ。

物理法則が認識されるとき、もともとわれわれの認識形式に載った部分しか認識されないのだから、その法則はわれわれの理性の形式から逸脱しない。一方、数学は対象なしで論理構築されるが、カント的に考えれば、内側に向かってわれわれの理性の働きの形式を研究していることになる。したがって、われわれの理性を通路にして、物理法則と数学理論が常に無矛盾に結合した状態にある。

頭蓋骨の内側の活動に、すべての事象が詰まっている。脳が理解しえない認識は、世の中に存在できないと言うしかない。

天才たちによって新たな数学理論が「何に使うか判らない状態で」先行して、後から物理学者が現象を記述する道具として使われるケースは多い。理論先行、応用追従である。しかしその逆の場合もある。コンピュータの発達が代数研究のを促すこともある。そこには常にわれわれの認識形式がベースとなっている(と考えている)。

このカントの考え方は、じつはもっと身近な問題で大変示唆に富んでいて役立っている、と弥太夫は考えている。それはまた別に機会にしよう。

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Aug 10:安全講習会


運転免許書換えに必要な安全講習会を受けに、今日は警察に行く。前回申請に訪れたとき、「準」優良運転手となっていた。これまで「優良」運転手だったのだけれど、以前に軽トラックで一時停止線で止まらなかったためだろうと思う。このときは、車輪の回転が止まったとか止まらなかったとかで、警察官と言い争いになりかけた。免許更新のためには、平日2日間仕事を休む結果になった。

日本の道路交通法の不可解さは、いつ解消されるのだろうか。速度制限などは、実態と建前の乖離がひどく、事実上ダブルスタンダードである。おそらく40km制限の道路を40km以下で走る車はいない。40km以下では、かえって事故を招く危険すらある。日々、日本の道路で繰り広げられているおかしな実態である。

したがって法律を厳密に適用すれば、ほぼ全車両がスピード違反になる。しかし現実問題として全部の車を取り締まることはできない。だから日常見逃してもらっている。しかし捕まった場合は不運である。法律適用が「いつでも、どこでも同じ」という一貫性を欠くし、適用するか適用しないかは摘発する側の都合、恣意性に委ねられている。これでは説得性に欠ける。

また、違反速度で日頃車を走らせている僕たちは、いつも負い目を持つ。あるいは取り締まりという圧力を掛けられている。この構図は一日も早くやめたい。法律は、僕たちが争いなく快適に生活するためのルールであって欲しい。

北欧の国での話で、道路わきにはスピードを示す数値が表示されていると聞いた。カーブを物理的に安全に曲がるための最高速度を表示している。つまりこれ以上のスピードでは、車は飛び出してしまいますよという限界速度である。したがってドライバーの安全のための表示であって、ドライバの行動を制限するために表示ではないようだ。きわめて自然な説得性のある話である。

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Aug 07:達人!バス運転手さん


東京から駒ヶ根に戻るバスで見かけた運転手さんのお話です。
人生観が滲んでくるような人がいるものだと感心しました。

私の乗ったバスは1号車でした。途中のバス停で、2号車を予約した乗客が乗り込もうとするので、運転手さんはこのバスは違いますと丁寧に説明しています。バス停を発車する際にこの運転手さん、先ほどの2号車予約の乗客に深くお辞儀をしてからアクセルを踏みました。おや丁寧だな、と言うくらいの印象でした。

次のバス停で、母子2名が乗車時にトランクを使いたいと言います。年配のこの運転手さんは、座席管理表を見るためにかけた(たぶん老眼)メガネを外し、耳元につけたマイクを外し、帽子を取り、「ハイハイ」と言いながら、運転席から外へ出てトランク扉を開けにいきました。その仕草が、少しも面倒くささを感じさせない自然な振る舞いなので、私はますます関心を持ちました。何か達人のような軽くて自然な動作に、「おぬし、できるな」という雰囲気なのです。そうです。私は、最前席に座っていたので、すべての挙動が見えるのです。

次は双葉サービスエリアです。ちょうど雷雨の真っただ中で、ひどい降りでした。休憩時間が終わりバスに戻ろうとすると、先ほどの運転手さんが、バス乗り口のところに立っています。乗り込むときに「お帰りなさーい!」と声を掛けられました。戻る乗客の一人ひとりに声を掛けているんですね。雨が降っていますから、当然ワイシャツの肩がすっかり濡れています。ここまでされると、この人への関心度は最高になって、本など読んでいられなくなりました。

バス停で降りるそれぞれの乗客は、当然ですが運転手さんに、ありがとうとか、お世話になりましたと声を掛けます。東京から駒ヶ根へのバスの旅の中で、そうするのが自然だという雰囲気が、出来てしまっています。

運転手さんに関するエピソードは以上です。
この人は、自分の仕事を愛しているでしょうか?イエス。この人は有名人でしょうか?ノー。無名だから、いい加減に仕事をしているでしょうか?ノー。自分の仕事の目的や意味をかみしめているでしょうか?イエス。乗客はそのホストぶりに気付いて、応えているでしょうか?おそらくイエス。この運転手さんの日々は充実しているでしょうか?イエス。

長袖シャツの袖にはきちんとアイロンの折り目がついていて、この運転手さんの生き方を象徴しているようでした。

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Aug 06:絵画とその対象


描き終わった風景画が、はじめに感動を受けたそのものをうまく言い当てているか?現場に絵を置いて少し遠くから眺めては、点検をする。

絵画には偶然性がつきもので、思っても見なかった発見もある。描き始めた時のねらいから逸れていって違う完成形になることもある。しかし僕の場合、そのような絵が満足かと言うと、そうでない場合が多い。

当初の感動がうまく表現できたときの満足感の方が、偶然見つけた宝石を手にする喜びより、何だか深い気がするのだ。

ニコラ・ド・スタールが、描きたい意図に反して絵が偶然性に支配される苦悩に触れていた気がした。だが探してみたのだが出典が確認できなかった。

スタールの絵は不思議な絵である。抽象と具象の間にあって、自分の表現したいものをつかみとろうと格闘しているようだ。表現が強い。昔、血眼で画集を探したのだけれど当時はなかった。最近やっと数種類が輸入され始めたようだ。しかし、気に入っている作品が載っていなかったりで、イマイチ買う気にならない。

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Aug 03:不幸の始まり?


一度手にしたものは絶対手放さない、不幸の始まりはこのムサボリにあるように思えてならない。このムサボリがありために、一度金持ちになってしまえば、その状態がやがて自分の基準となってしまう。偉くなればなったで、それが基準となる。どうも人間と言うのは単純な思考しかできないようである。自分に都合のよいことを追い求めて、それが得られると直ぐに当たり前になってしまう。

得たものはいつか手放すことになる。全喪失はおそらく死であろう。失うことが人生の苦痛で、悩みの種ならば、成功してさまざまなものを手に入れた時、すでに喪失という隠れたトゲを内包している。成功という金貨の裏側は、喪失の文字が書かれている。大きく得たものは大きく失う。

うつろい行くものを自分の基準にするとは、このようなことなのだろう。

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