日々の思い...

Sep.2004 Contents




みょうが

Sep 21:自分はどこにいる?


暗黙の了解で生活している「自分」という領域。この境界は、実はかなり曖昧なものではないか。 ここまでが自分の領域で、それ以外は他者であると区別してボクたちは日常を送る。自分は反対だと考えを述べる。しかし、ものごとはそう単純ではないように思える。

いい絵に深く感動する、人の温かさに心が揺さぶられる、いい言葉に出会う、こういう体験がその人の人生の幅を広げていくのは確かだ。それは感動したものを『自分』に取り込むからである。 ちょうどアメーバのように、自分がいいなと思えるものを次々と触手を伸ばして、自分のものとしてしまう活動をしている。 それは、ものごとの上達プロセスでも同じで、はじめは違和感のあるものも、繰り返し修練するとやがて無意識化し自己に同化してしまう。

人生経験の中で取り込んできた様々な要素そのものが、その人なのだと思う。はじめは要素は他にあった。自己とは、栄養(感動、経験)を蒐集して変貌して已まないマシンのようなものである。

ボクたちは余りに自己主義に傾斜した考え方をしてきたように思う。その背景には、個性を育てる教育などの影響もあるかもしれない。 自他の区別はひょっとしたら便宜上であるのに、それがボクたちの公理、思考のクセ、バイアスとなって本当の事柄が見えてこない、あるいは歪が出ているのに対処できない、そんな気がするのだ。じつは過去においては、様々な事柄を共有しつつ影響を与え合いながら、自他の区別は曖昧でしかも幸せに生きていた時代が当たり前だったのではと思えるのだ。

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Sep 14:長い箸


昔、読んだたとえ話。ちょっと教訓めいていて、あまり気に留めていなかった。しかし本質を突いたいい話である。

僕たちの人生は、長いハシを持って食事しているようなものだそうだ。地獄の食事風景は、各々ガツガツ食べ物をむさぼろうとするが、ハシが長くて食べ物を口に運べない。食べ物を前に飢餓に陥り、いがみ合い、苦しんでいる。

天国でも、やはり長いハシを持って食事する。こちらでは和気あいあいと会話を楽しみながら食事する。向かい合いの相手の食べたい食べ物を聞き、長いハシで取りあげ、相手の口に運んであげている。交互に助け合って食事している。

同様に長いハシで食事しながら、言葉どおりに天国と地獄なのだ。

人を大切にする。そのことで、自分が大切にされる。相手を高める。自分が高められる。あっけないほど単純だ。だがこれがなかなか出来ない。

周囲を大切にしてきた生き方は、死の瞬間でも、やり遂げた充足感があるように思う。死の床で、人生の最大の禍根に気づき苦しむとしたら、これは恐ろしい。これも天国と地獄だ。

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Sep 10:このごろ・・・


このごろ街で見かける30代の女性が気になって仕方ない。子どもを連れて買い物に来ている育児世代の女性たちだ。ママチャリの後に子ども、前のカゴにスーパーのレジ袋という姿なら、なおさらだ。前と後に子どもをひとりづつ乗せ、自転車のハンドルに2つくらい買い物袋を吊り下げていたりすると、もう感動ものである。女性はいつから「母は強し」の状態に脱皮するのだろう。

「男は外で一生懸命汗水たらして働いているんだぞ!」と、かつて妻に向かって啖呵を切ったことがある。外に七人の敵あり、みたいなことも言ってしまう。しかしよくよく振り返ってみれば、真の姿はどうだったろう。冷房の効いたオフィスでコーヒー飲みながら、雑談に興じていることもあったのではないかな。

別に男たちの「外の生活」をけなすつもりはない。ただ女性たちの育児と家事の実態を知ろうともせず、男の「外の生活」だけを神聖化するのはいかがなものかと、ふと思うのだ。むろん女性たちだって喫茶店で井戸端会議ということぐらいあるだろう。だが炎天下で子ども連れてママチャリのペダルを漕いでいるママさんたちもたくさんいたのだ。

さらに言えば、女性の置かれた状況は今に始まったことでなく、何十年いやそれ以上の昔から育児と家事に追われていたのだろうと思う。

何を言おうとしているのか?
ボロボロな家庭環境の中で過ごした自分のひねた少年時代と思春期。こんなものは早く放り出したい。しかし劣悪な状況の中で、ママチャリを一生懸命漕ぐ母の姿があったのだろうなと想像する。博打にのめり、外で膨大な借金を作っては首が回らなくなり布団かぶって不貞寝していた父。母の漕ぐママチャリの後に、ちゃっかりオヤジまで乗っている姿が思い浮かぶのだ。

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Sep 09:テレパシー


名医になると患者が目の前に座っただけで、ぴたりと患部がわかるという。ベテランエンジニアは、エンジン音を聞いただけで車がどんな調子なのかわかるという。名人・達人の域に達するとは、主客一体、相手の懐にスッと入り込み、まるで我がことのように事情を把握するということなのだろうか。

ささやかながら、小生はサボテンと向き合うとき、主客一体の境地で、苗が何を欲しているのかが見えるようになってきた。サボテン苗を、見据えるときどうも顔が見えてくる。
「そろそろ水をくれよ、喉が渇いているんだ」
「いやダメだ。まだあげれない」
「なぜ? 1週間も断水しているんだぜ」
「まだまだキミは死んだりしないよ。喉が渇くなら、もっといいトゲを出して、日よけにすればいい」
「そんなこと言わないで、水くださいよ」
「いよいよヤバクならないとトゲを出して動き出さないのは、とっくにお見通しだよ」
「・・・」

こんな会話を一鉢づつ重ねていく自分って、やっぱり変である。

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Sep 05:なかなか言葉にならない


友人のサイトで「いのち」について語られていた。正直なところ、自分はこういう大きな言葉は苦手で沈黙してしまう。概念が広すぎ意味する内容を、自分が正確に把握できていないな、と感じることが多い。個人的な感動体験や感覚に根ざした言葉の裏づけが発言者の側にあり、聞く側にはそれがない。

「いのち」に関しては議論する対象ではなく、表現するしかないようなものだ。芭蕉の句で「よく見ればなずな花咲く...」という俳句は、いのちをうまく表現していて好きな詩だ。

園芸は楽しい。それは、いのちといのちが向き合っている感覚があるからだと思う。草花が成長してきたとき、つぼみが膨らんでいるのを発見したときのときめき。いのち発見!という感じだ。あるいは、どうしてこの厳しい環境の中でキミは成長できたのかい?という共感のようなもの。

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Sep 04:風景画を描く


なぜ風景画を描くのだろうか、その動機をときどき考える。

自分の場合は、自分が住み愛着する土地しか描けない気がする。実際、旅先でスケッチを描くときもあるが、それは旅のメモという性格に近い。それに旅先で出会った風景は、受動的に発見したもの。自らのテーマを表現するため、意図して描きに出掛けるのとは趣が異なる。

風景画だって自己表現だ。自分の愛した風景はこんなに美しいのだということを表現したい。どうもそこに原点がある。

とんでもなく誇大妄想に近い話だが、宇宙の中でなぜ生命が生まれ、宇宙の真実の姿を探求して已まないのか?場は、その中に生命をはぐくむ。そして生命は、自己探求と自己表現するよう運命つけられていると思えてならない。

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Sep 02:アイデアの出るとき


アイデアは、風呂に入っているとき、トイレ中、乗り物に乗っているときに思いつくと言われる。決して、仕事のデスクで力を込めて脂汗を流しながら出るものではないのは確かのようだ。

自分の場合は、たいてい歩いたり、自転車をこいでいたり、足を使っていることが多い。足を使うと頭の中に空白が生まれ、そこに新鮮な風が吹くような感覚がする。ふとアイデアが思いつく。

それからもうひとつ。けだるくて眠くて仕事が倦怠的に感じるとき。緊張感が失せて、退屈しているとき。

仕事に集中しているときは、わき目も振らず、ぶつかっている課題と一体となり、対象に没入する状態にあると思う。こういうときはアイデアは出ない。出るのは汗だけ。

執着心が失せて、「何でこんなことに血眼になっているんかなぁー」と冷めた公平な目線で見れるときに、頭が空白になる。アイデアが入る余地ができるような気がする。

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Sep 01:外見と内面はいつも不一致


人の外見とその人の抱く自己像は、ほとんどの場合一致しない。

残酷できついことを他に対して平気で言う人は、「その残酷さを自覚していない」、あるいは「そんなこと、大したことではない」と考えている。

そのため、自己像は健全で、自分は優しさを持った普通の人間である、と考える。自分が普通のやさしい人間だと思うがゆえに、自分は正義であり思ったことを言ってなにが悪いのかと考えている。

一方、自分が時として残酷で人を傷つけることもある、という深い自覚を持った人、他の痛みを感じることのできる人は、自覚的に他にやさしくあろうとする。

外見は、優れた人物でありながら、自己像としては、罪深い、残酷な人間である、と独白されることは多い。懺悔録の原点といってよいだろう。

それに関連して思い出されるのは、パリサイ人(=義人)にたいして一貫して厳しく諌めたイエスの言葉だ。

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