日々の思い...

Jun. 2005 Contents

Jun 24:逃げる
Jun 08:無題




Jun 27:泣ける詩、泣ける絵


ボクは思うのだ。
詩も絵も、泣けなければならないと。
それは自分だけじゃない。
読む人、見る人が、それに接して泣けなければならない。

そのエッセンスが塗りこめられていないものは、
芸術としてたぶん完成していない。
美を見出す途上にあるのだ。

グッと魂に迫るいい作品は、
何遍見ても 何遍読んでも泣けるはずだ。
そのエッセンスが
しっかりと封じ込まれているからだと思う。

テクニックだけの、
技巧をひけらかすだけの作品はすぐ忘れられる。
魂に届いていないからだ。
泣けないからだと思う。
ああ、うまいね、で終る。

もう一度見たい。
もう一度読みたい。
そういうエッセンスとは、
結局、魂を揺さぶる表現、
魂を奪う「美」なんだと思う。



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Jun 24:逃げる


苦しいからそこから逃げようとするんだけど、
逃げることで、
結局、余計な苦しみを足してしまう。
それは自分を分裂させた苦しみ。

逃げることは、
その対象から逃げることだけど、
別の視点から見れば、
いままでその対象に向き合っていた自分を
否定してしまうこと。

いままでの自分を、
まさに逃げようとする自分が否定する。
否定しないと逃げれない。

否定しないまま逃げるというのは
逃げる自分の方を否定している

どちらにしても自分が2つ。
分裂した自分は、辛い状態だ。

これは苦い経験からおぼえた教訓。



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Jun 23:意地を張る


他人が意地を張っているのはよく見えるし、
やけに冷静に客観的にながめることが出来て、
ときには滑稽でもある。

だけれど、自分が張っている意地は見えない。
なぜ自分の意地は見えないか。

それは意地だと思っていないから。
それは自分の信念なんだとか、
自分の生き方なんだと思うから。

オレは意地っ張りだな、とはなかなか意識しない。
そう思う人がいたら、ものすごく謙虚な人か
あるいは人生の達人だ。

自分に欠落したものは、自分では自覚できない。
外の人にしかその欠落したものは見えない。

自分の見えているものが全てであり、
それが世の中の基準なんだとか、
自分の認識したもの以外は認めないんだ、
というトンチンカンな者がときどきいる。

自分の見たものが全てだと考えるのは、
ひとつは傲慢で視野が狭いから。
もうひとつは怠惰だからだ。
若さゆえに自然に傲慢となりやすく、
老いて気力がなくなり、
そこへへたり込んで怠惰になりやすい。

気をつけなくてはいけない。
どちらも間違いだらけだ。
少なくとも自分の精神のあり方に掛かっている
バイアス(偏り)をもうすこし自覚しなければならない。

自分より上の人が、ひっそり隣を通り過ぎても、
傲慢な人は、なかなかそれを理解できない。
そんな人はいないんだと思っている。
たしかに傲慢な人の中には、
それを認識するだけの精神の空の部分が欠けている。



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Jun 14:大器晩成


子供時代、母親はよく「お前は大器晩成なんだ」と言っていた。

たしかに自分は早熟なタイプではなかった。いやその正反対だった。人から遅れ、いつもゆっくりと歩むタイプだった。

幼年のころ成長の遅い様子を心配した近所のオバサンが、養護学校へ行くようだねと言ったらしい。それは後で聞かされた。首がすわらない、歩かない、言葉が出ないと3拍子そろっていた。

当然だけど自分にはそういう事態に関する記憶はない。しかしいま冷静に考えてみると、さぞかし母親は心配しただろう。普通に小学校に通うようになった頃、ちょくちょく「大器晩成」という言葉を聞かされた。そう言わなきゃしょうがないほど、ひどい状態だったのだろうと思う。IQテストもギリギリだったらしいし。

うかつなことに、そういう事柄が今頃になって思い出されてくる。大器晩成という言葉の背景などが納得されてくる。つじつまが合ってくる。母親は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。

大器ではないが、やはり自分は晩成型なんだと思う。でもそのことは別に損だとかなんだとか考えない。つまるところ、それが自分の人生なんだ。

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Jun 13:頭がいい


頭がいいと言われて怒る人はいないだろう。だけどその言葉に注意しないといけない。頭がいいとは、人と比較していうのであって、その人本来のものじゃない。

周囲が自分と同じくらいのレベルの頭の人たちだったら、自分はサッパリ目立たない。天才ばかり集められたクラスにでも入ったら、自分は最低の成績で劣等感に苛まれているだろう。

比較の尺度でしかないものを、自分の固有の性質とみなすと、ほんらい苦しむ必要のないことがらに苦しむことになる。つまり周囲あっての相対評価でしかないことがら、周囲が変われば変わってしまうことがらを、絶対評価だと思い込んでいる滑稽さ、悲しさ。

「頭のいい人は、頭の悪い人に支えられているのだ」とはたしか、ひろさちや氏の言葉と記憶する。

頭がよいと言われ続けて、それを誇りに思って自分を支えてきたとしたら、なんと曖昧であやふやなものごとの上に、人生観を築いているのだろう。

そして本題だが、相対的でなく絶対的なボクたちの性質はなんだろう。収入、地位、成績・・・相対的なものでしかないものが、本当に多い。しかしそれらは日常的にボクたちの人生観を支配する。それは世の成功と呼んでいるものである。ボクたちの固有のものは何だろう。

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Jun 12:人生は無意味ですか


気候があたたかさを通り越して暑さに変わる頃は、なぜだか精神的に落込んでいることが多い。なぜだろう。こんなときにはやや悲観的な思考に傾斜し、それを本当のことのように思い込む。ちょっと離れて考えてみれば、沈みすぎだよねと気づくのだが。

長いこと考えあぐねてきた問いかけに、すこし整理が付いた気がする。それは『人生は無意味なんですか?意味があるんですか?』という問いだ。

ボクは思うのだ、『人生は無限定です』と。だれもアナタの人生を限定しようとなんかしていない。たとえ神ですら。そんな人生の場が、アナタにプレゼントされたのだ。意味を自ら決める自由が保証されたと言い換えてもいい。

だから、はっきり言おう、人生の意味は、だれも与えてくれないと。意味を他からもらおうとすること自体が、とっても見当違いだった。沈黙する無限宇宙の虚空に叫んでも、だれも何も答えてくれないのだ。それは自分の決断が促がされているだけである。

人生のプレゼントという考えは、たいへん重い内容を含んでいると思う。親鸞さんだってたぶん、とことんここに安住しているのじゃないかと思う。が、いまはここでは深く触れない。

別の言い方をしてみれば、人生を無意味にすることも出来るし、有意義にすることも出来る。それは貴重な命をいただいた自分の責任。与えられた人生が、有限か無限かはこれとは関係がない。意味を創りだすしかないじゃないか。無駄にしては本当に、もったいないのだ。そんなことが、長いことわからなかった。

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Jun 08:無題


このところ、公私の忙しさと精神的な電池切れにより、すっかり落込んでしまった。こういう状態のときは、ますます滅入るようなことしか書かないから、ちょっと控えていた。

いくつかの案件が片付いて、だいぶ楽にはなってきた。攻め込むときは、結構武器なんかを準備したりして勇ましいのだけれど、攻め込まれて、守りに入ると、もろい弱点をさらけ出す。こういうところは昔から変わらない。

最近、やっと腹を決めつつある。
決心というのは、一気に心を決めるわけじゃないな、と思う。迷いの中にも決心している部分もあり、決心していると思っても、どこか迷いの香りがある。迷いの香りが全くしなくなったとき、本当に腹が決まるのだろう。

妻などはとっくにこちらを見抜いていたらしいのだが、本人は実に時間が掛かった。でも決めた。夢は捨てない。前へ進むため、自分にワークを課す。

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Jun 02:自分を恥じる


自分を恥じるという行為が、どうも最近、違和感を感じるのだ。恥じられている自分は、生身の人間だから、勘違いして怒ったり、つまらない失敗もする。それは現実のことなので仕方ないことだと思う。

問題は、恥じている方の自分だ。失敗をする自分を恥じる。容姿が美しくないことを恥じる。頭がよくないことを恥じる。この恥じている自分は一体何者か。

「自分は、意識の上では神のように完全無欠だけれど、この体や容姿が思うようにならなくてねぇ・・・」と恥じている頭の方は、弁解したいのか。

謙遜は美徳というけれど、それは本当にはへりくだっていないところがある。思うままにならない自分を見下し、相手も見下して、とってもイヤらしいことかもと思うのだ。

身体も、頭脳も、知識も、容姿も、ぜんぶ後から貰ったものでしかないのに、いつの間にか自分自身にみなしている。貰い物をいつの間にか、自分のものだと主張しているようなもの。これは泥棒と同じに感じる。

なおかつそれを恥じるにおよんで、どこまで図々しいのだろうと、これこそ本当に恥ずかしい。

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