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日々の思い...
Jun. 2005 Contents Jun 27:泣ける詩、泣ける絵
Jun 24:逃げる
Jun 23:意地を張る
Jun 14:大器晩成
Jun 13:頭がいい
Jun 12:人生は無意味ですか
Jun 08:無題
Jun 02:自分を恥じる
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Jun 27:泣ける詩、泣ける絵
ボクは思うのだ。 そのエッセンスが塗りこめられていないものは、 グッと魂に迫るいい作品は、 テクニックだけの、 もう一度見たい。 |
Jun 24:逃げる
苦しいからそこから逃げようとするんだけど、 逃げることは、 いままでの自分を、 否定しないまま逃げるというのは どちらにしても自分が2つ。 これは苦い経験からおぼえた教訓。 |
Jun 23:意地を張る
他人が意地を張っているのはよく見えるし、 だけれど、自分が張っている意地は見えない。 それは意地だと思っていないから。 オレは意地っ張りだな、とはなかなか意識しない。 自分に欠落したものは、自分では自覚できない。 自分の見えているものが全てであり、 自分の見たものが全てだと考えるのは、 気をつけなくてはいけない。 自分より上の人が、ひっそり隣を通り過ぎても、 |
Jun 14:大器晩成
子供時代、母親はよく「お前は大器晩成なんだ」と言っていた。 たしかに自分は早熟なタイプではなかった。いやその正反対だった。人から遅れ、いつもゆっくりと歩むタイプだった。 幼年のころ成長の遅い様子を心配した近所のオバサンが、養護学校へ行くようだねと言ったらしい。それは後で聞かされた。首がすわらない、歩かない、言葉が出ないと3拍子そろっていた。 当然だけど自分にはそういう事態に関する記憶はない。しかしいま冷静に考えてみると、さぞかし母親は心配しただろう。普通に小学校に通うようになった頃、ちょくちょく「大器晩成」という言葉を聞かされた。そう言わなきゃしょうがないほど、ひどい状態だったのだろうと思う。IQテストもギリギリだったらしいし。 うかつなことに、そういう事柄が今頃になって思い出されてくる。大器晩成という言葉の背景などが納得されてくる。つじつまが合ってくる。母親は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。 大器ではないが、やはり自分は晩成型なんだと思う。でもそのことは別に損だとかなんだとか考えない。つまるところ、それが自分の人生なんだ。 |
Jun 13:頭がいい
頭がいいと言われて怒る人はいないだろう。だけどその言葉に注意しないといけない。頭がいいとは、人と比較していうのであって、その人本来のものじゃない。 周囲が自分と同じくらいのレベルの頭の人たちだったら、自分はサッパリ目立たない。天才ばかり集められたクラスにでも入ったら、自分は最低の成績で劣等感に苛まれているだろう。 比較の尺度でしかないものを、自分の固有の性質とみなすと、ほんらい苦しむ必要のないことがらに苦しむことになる。つまり周囲あっての相対評価でしかないことがら、周囲が変われば変わってしまうことがらを、絶対評価だと思い込んでいる滑稽さ、悲しさ。 「頭のいい人は、頭の悪い人に支えられているのだ」とはたしか、ひろさちや氏の言葉と記憶する。 頭がよいと言われ続けて、それを誇りに思って自分を支えてきたとしたら、なんと曖昧であやふやなものごとの上に、人生観を築いているのだろう。 そして本題だが、相対的でなく絶対的なボクたちの性質はなんだろう。収入、地位、成績・・・相対的なものでしかないものが、本当に多い。しかしそれらは日常的にボクたちの人生観を支配する。それは世の成功と呼んでいるものである。ボクたちの固有のものは何だろう。 |
Jun 12:人生は無意味ですか
気候があたたかさを通り越して暑さに変わる頃は、なぜだか精神的に落込んでいることが多い。なぜだろう。こんなときにはやや悲観的な思考に傾斜し、それを本当のことのように思い込む。ちょっと離れて考えてみれば、沈みすぎだよねと気づくのだが。 長いこと考えあぐねてきた問いかけに、すこし整理が付いた気がする。それは『人生は無意味なんですか?意味があるんですか?』という問いだ。 ボクは思うのだ、『人生は無限定です』と。だれもアナタの人生を限定しようとなんかしていない。たとえ神ですら。そんな人生の場が、アナタにプレゼントされたのだ。意味を自ら決める自由が保証されたと言い換えてもいい。 だから、はっきり言おう、人生の意味は、だれも与えてくれないと。意味を他からもらおうとすること自体が、とっても見当違いだった。沈黙する無限宇宙の虚空に叫んでも、だれも何も答えてくれないのだ。それは自分の決断が促がされているだけである。 人生のプレゼントという考えは、たいへん重い内容を含んでいると思う。親鸞さんだってたぶん、とことんここに安住しているのじゃないかと思う。が、いまはここでは深く触れない。 別の言い方をしてみれば、人生を無意味にすることも出来るし、有意義にすることも出来る。それは貴重な命をいただいた自分の責任。与えられた人生が、有限か無限かはこれとは関係がない。意味を創りだすしかないじゃないか。無駄にしては本当に、もったいないのだ。そんなことが、長いことわからなかった。 |
Jun 08:無題
このところ、公私の忙しさと精神的な電池切れにより、すっかり落込んでしまった。こういう状態のときは、ますます滅入るようなことしか書かないから、ちょっと控えていた。 いくつかの案件が片付いて、だいぶ楽にはなってきた。攻め込むときは、結構武器なんかを準備したりして勇ましいのだけれど、攻め込まれて、守りに入ると、もろい弱点をさらけ出す。こういうところは昔から変わらない。 最近、やっと腹を決めつつある。 妻などはとっくにこちらを見抜いていたらしいのだが、本人は実に時間が掛かった。でも決めた。夢は捨てない。前へ進むため、自分にワークを課す。 |
Jun 02:自分を恥じる
自分を恥じるという行為が、どうも最近、違和感を感じるのだ。恥じられている自分は、生身の人間だから、勘違いして怒ったり、つまらない失敗もする。それは現実のことなので仕方ないことだと思う。 問題は、恥じている方の自分だ。失敗をする自分を恥じる。容姿が美しくないことを恥じる。頭がよくないことを恥じる。この恥じている自分は一体何者か。 「自分は、意識の上では神のように完全無欠だけれど、この体や容姿が思うようにならなくてねぇ・・・」と恥じている頭の方は、弁解したいのか。 謙遜は美徳というけれど、それは本当にはへりくだっていないところがある。思うままにならない自分を見下し、相手も見下して、とってもイヤらしいことかもと思うのだ。 身体も、頭脳も、知識も、容姿も、ぜんぶ後から貰ったものでしかないのに、いつの間にか自分自身にみなしている。貰い物をいつの間にか、自分のものだと主張しているようなもの。これは泥棒と同じに感じる。 なおかつそれを恥じるにおよんで、どこまで図々しいのだろうと、これこそ本当に恥ずかしい。 |