◆思索的試論◆

(筆者注)
あまり愉快な話はありません。むしろ憂鬱になる話題の集積です。それでも偏執的興味と勇気のある方はお進みください。嫌だなと思われる方は、下のリンクをクリックしてお戻りください。

Homeへもどる


目次

第1章 はじめに
第2章 問題のありか
第3章 もう少し精密に
第4章 ひとつ目の問いへの疑問
第5章 空しいということ
第6章 もう一度はじめにもどり
第7章 時間と存在

第1章 はじめに

ボクにとって思索というものがいつから始まったものなのか、茫洋として思い出すのは困難だが、 思索の原点はまぎれもなく生と死ということに絡んでいる。 たとえ自分では意識していないときでも、あるいは忘れようとしていても、 心のどこかで常にこの問題を生々しくなぞってきた、と言っても過言ではない。

ほぼ半世紀を過ぎるほどの人生を送るうちに、この問題はますます切実になってきて、手ごたえのなさに、 どこか耐え難いものを覚えるようになった。

二十歳を過ぎる頃に、小さな詩の同人誌を創刊しこの問題への糸口をつけ、思索を深めようとしたのは確かである。 当時同人として参加したH君は、自らの試論( ノート:ある旅立ちの試み )を開始するにあたり、巻頭言としてボクの言葉を引用してくれている。自分の文章の文言すら明確には記憶していないのだが。

        『やがて死に、すべてが消え去ってしまうにしても、
         生き続けている間はさまざまな姿勢をとることができる。』

                「ノートから」(『地平線』創刊号)

今読むと、その決意たるやとても稚拙な印象でこなれていない。しかし当時の精神状況を今でもありありと思い出すし、表明しているアプローチは、現在でも変化がないと思う。

top
Home

第2章 問題のありか

まず問題の設定から入ろうと思う。

生と死にからんだことと言っても漠然としている。子供のいつの頃か、たぶん5歳前後と思われるが、人は必ず死ぬ、従って自分の親もいなくなると言うことが、実感としてありありと体感する経験をした。何がきっかけかは判然としないのだが、このころ祖父、祖母が相次いで他界したことが関係しているかもしれない。5歳児のはしゃぎ回り走り回りたいという体の奥から湧き出る生命の躍動感と、結局世の中、無に呑み込まれるという感覚とが混在した。

この構図は、現在もまったく変化していないと言う事実に驚く。どれほどこの世の中で成功を収め財産を得て、それは間違いなく世間的な尺度からすれば願ってもないことなのだが、しかし無の世界の尺度からすれば、最後はゼロが掛け算されて、答えはゼロなのである。

賽の河原のたとえ話があるけど、こんな感じなんだな。一所懸命石を高く積み上げても、不意にどこからかオニがやってきて、ガーッと蹴散らして崩してしまう。後には残骸が残るだけ。

カミュの『シジフォスの神話』もよく読んだ。シジフォスは谷底から大きな重い石を山の上まで運ぶという刑罰を受ける。やっとの思いで山の上まで運ぶと、山頂には巨石を落ち着かせる場所はなく、運び終えた瞬間に石は再び谷底に向けて転がり落ちていく。シジフォスはこれを永劫に繰り返している。シジフォスは死ぬことはなく、刑罰は永遠に続き、人生の無意味さの中に自己を見出すだけなのだ。

これが人生の実態とするなら、人生の意味とは何になるのだろう。
これが問題のありかだ。

top
Home

第3章 もう少し精密に

問題のありかを前章で述べたけれど、その中には様々な要素が入っている。もう少し整理を試みたい。実は若い頃は、問題だ!となると、すぐ情緒的な反応に身をゆだねていたように思う。

大別して、二つの問いかけがあるように思う。

  1. 「いずれすべての人は死ぬ。いずれ無に帰する。だから、生きていることには意味がない。」
  2. 「求めている生きている意味とは何か。もし無限に生きられる権利が与えられたら、何をするのか。」

はじめの問いは、無に帰する定めとなっているこの世の中のすべてのものの存在の意味を問うもの。いわば有限の命という「与えられた条件」から、生命の意味とはなんだろうという問いだ。二つ目の問いは、自分自身の「内側の条件」から、どうあれば意味を感じられるのかという問い。

伝え聞くところによると、世のすべてを征服した皇帝、王、征服者は、最後に手に入れようとするのが不老長寿の薬。死んでしまえば、生涯かけて築きあげた全ての財産、名誉、地位を一気に手放さなくてはならない。何のための人生か、というわけである。上のふたつの問いに対して、「永遠の生命」という解答があると信じて、学者を世界中に派遣しあるいはインチキ学者にだまされ、金品を浪費したわけである。

しかし現代の医学は、医学の現状を教えてくれる。将来は人工臓器をひっかえとっかえしながら何百年と生きられるようにしてくれるかもしれない。しかし、「与えられた条件」の「有限の生命」は、当分の間は変化しないだろう。また、ふたつ目の問いは依然として残る。皇帝の地位を永遠に維持できるなら意味ある人生かも知れないが、庶民の貧乏暮らしを、永遠に続けることに意味はあるのだろうか、と。したがって、永遠の生命を追求するという解は、現実の解にはなっていない。

top
Home

第4章 ひとつ目の問いへの疑問

ひとつ目の問いは、ややもすると情緒的に流れて、安易に結論を出した気になるものだ。この論理自体に含む、おかしな部分に注目したい。無に帰する「だから」生きていることに意味がない、という言葉の「だから」が、曲者だ。

ここには論理のつながりの必然性がないことを指摘したい。

  • 人は死ぬという事実は、生物学的に普遍的に認められる客観的事実である。しかし「意味がない」かどうかは、別の話だ。「意味」は、ボクたちが見つけ発見する価値の世界の話であって、生物学的な事実とは、イコールでつながらない。
  • 人生は限りがあるが、意味のある人生を送った、ということはありうる。逆に、限りなく生きれる生命体がもし仮にいたとして、全く意味のない生き方をダラダラ送っているだけ、ということもありうる。

もう少し詳しく解析してみる。
「意味なし」という言葉の意味だが、「意味」とは、辞書によれば次のとおりである。
(1)意図、目的  (2)価値、ねうち

この定義に従えば、ひとつ目の問いは、次のような主張になろうか。

  1. 人はいずれ死ぬので、その人生には目的がない
  2. 人はいずれ死ぬので、その人生には価値がない

言い換えれば、ひとつ目の問いの背景は、いずれやってくる「死」というものがあるので、今生きているこの人生の目的も、価値もないのだ、という主張という風に解釈できる。

時間軸上の観点からも、この論理はとてもおかしい。
いずれやってくる「死」というものは、生物学的客観的事実であるにせよ、それはこれからの話。いま訪れていない以上、今の自分には観念でしかないし無関係だ。いまは間違いなく脈々と血管の中を熱い血が流れ、息をしている。その現実といずれ「死」があることとは、ともに共存していて矛盾があるわけではない。

top
Home

第5章 空しいということ

前章で、いずれ死ぬという想定される内容と、それでも今は厳然と生きている事実との論理的な矛盾はないと述べた。これらは独立した2つの事柄で関連を持たない。あるいは関連を持てない。なぜなら、いずれ来る死という事実は、現在においては一つの想念であって生の現実ではない。

目の前の死体はその人の現実だが(これも変な言い方だが)、見ている自分には想念にしかならない。したがって、これらを関連付ける論理はないとも言える。別の言い方をすれば、生きている限り生きている現実だけがある。死んでしまえば、死んでいると言う現実だけがある。生きているのに死んだことを現実化することはとても変なことだ。

いずれ死ぬということと今生きていることの矛盾的な問題はないとしたら、何が不満なのだろう。別の見方をして見よう。人はいずれ死ぬので、人生は無意味だ、価値がない、という考えの根底にあるもの。それは空虚ということである。

あったものが無くなると言うこと、消えてしまうこと、空しくなってしまうことである。存在が永遠のものではないこと、すべてうつろい行くものであること。空しいとは、このことに根ざした根本感情であることは間違いない。

今現在生きている、しかしこれは永遠に不変ではないということである。そしてこの移り行くことに、空しさを感ずる。今生きている事実は厳然としてあるが、しかし賞味期限つきで、永遠に保証されませんよ、と言われている。このことへの不認証というか、かすかな怒り、不快感が潜んでいる。

つまりこれは論理というより感情の問題なのだ。すべての存在は一定のまま居続けることはできず、変化してしまうのだが、そらが思うままにならない怒り、欲張り。そして断念、はかなさ、空しさ。「意味がない!」と言う表白には、どこか怒りの響きがある。これがたぶんこの問題の根本構造である。

top
Home

第6章 もう一度はじめにもどり

この思索的試論のテーマは、一本道で解決したり納得したりするものではないと感じる。またこれも大きな要因だが、自分の加齢とともに、テーマと自分との距離感覚は、微妙に変化するモノだと思った。今回は少し始めに戻って、これまでとは少し違った切り口から、テーマのありかたを見つめなおしてみたい。

虚無主義とかニヒリズムとかいう言葉は、若い頃とても親しみを感じていた。究極の拠るべき価値がないことを主義主張とするわけだが、その主張にはどこか影があり、積極的な主張というよりは消極的な主張なのである。

本当は何がしかの価値を掲げて雄々しく生きて生きたいのだが、そんな価値が見出せないという戸惑いと嘆きに近いのではないか。いや少なくとも自分はそうではなかったか。

その理由は、現実の肉体が生きているからだ。息をし心臓が鼓動し脈々と赤い血がからだを駆け巡る。すべての機能が、他の命と同然に生きる方向に向かっている。その活動は、疑いようのないほど生き生きとした生への意思を表現する。

しかし、その生命の意味がわからない。なぜ生きているのだろう。命は何のために生まれて来たのだろう。その生命というものに見合う価値というものが、果たして存在するのか、この宇宙を創った創造神によりしっかり準備されているのか。あるいはそのような価値や意味はもともと始めから無くて、盲目に生きているだけの空しい人生なのか。それを誰に聞いたらよいのか。あるいは誰も答えられないのか。

自分の十代から始まったこれらの問いに対する真っ向勝負の解答には出会わなかった。ある宗教団体の洗脳合宿に1週間も缶詰になったけれど、答えは無かった。その帰り道、自分で探すんだ、人を頼っちゃダメなんだ、自分で答えを探求するんだと、つぶやきながら歩いたように記憶している。

top
Home

第7章 時間と存在

この小論の対象とするテーマは、いやおう無く時間というもの、それと存在というものの関係、構造に関わってくる。

ボクたちの人生は、宇宙開闢の140億年という物理的時間軸のなかでブツブツと切り取られた小さな線の断片である。ほとんど点というべきだろう。この点の中に全人生が詰まっている。一方、この小さな点から140億年の全宇宙の存在や構造や意味までも考えている。もし小さな点の中で生息するのみで、宇宙に思いを馳せることが無い動物のような存在ならば、本論のようなテーマは存在し得ないだろう。

ともかく有限の時間のなかで生きるボクたちが、永遠ともいえる超越的な時間に出会うときに、人生の意味や存在の儚さ、空しさが立ち現れてくることは間違いない。

top
Home