私のお気に入り Contents
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■何があっても、ああそうかい 自分の処世訓のようなもの。いいことがあっても、イヤなことがあっても、とりあえず「ああそうかい」と受け取っておく。ちょっと聞くと無気力に聞こえる。 しかし、ここで言っている気力とは何だろう。気力をむき出しにした生き方とは、自己流の正義の刃を振りかざすようなところがあるように思う。そんな刃は危ないだけ。捨ててしまう。 あらゆる偏見や自己中心観から、可能な限り遠ざかる。ものごとを「ああ、そうかい」と受け取っていく。本質の姿が浮かんでくる。 |
■村上昭夫『都会の牛』 今から30年近い昔にある詩に出会った。言葉が日常的でありながら、イメージの明快さと提出された問いかけの深さに、心が揺さぶられた。詩の生み出す世界に、そのときから魅せられ続けてきたような気がする。それは1968年のH氏賞受賞詩人の村上昭夫さんの詩。 都会の中を ・・・・ それはまだ ・・・・ 村上さんは1927年生まれ。34歳の時に、右肺葉切除手術を受け余命5年と宣告される。41歳のとき、詩の登竜門であるH氏賞を受賞し、その7ヶ月後に逝去。死と向き合った闘病生活の中から生まれた澄んだ言葉使いは、思考が結晶体となったとさえ思える。 |
■スマナサーラ師の諌め言葉 のん気でいながら自我が強く、のぼせ上がる癖のある自分を諌めてくれる心の師の言葉。
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■石垣りん『水』 石垣りんさんの詩集『略暦』を購入したのは、1980年5月13日とある。詩を再び書きたくなって最近、再読している。24年の時間を経ても新鮮なさわやかな読後感がある。しかし、現在の方が、石垣りんさんの表現したかったものをより的確にとらえているのではないかと思う。なにより私の年齢が、詩を書かれた当時の石垣さんに接近したから。 「・・苦い水をどっさり飲んで年を取りました・・」しかしこの詩集を購入したときと変わらない感動を与える一節がある。さらっと人生の断面を語っていて、読むたび泣きたくなるような何かを呼び覚ます。そういうお気に入りの詩。 「・・二十五メートルの壁に触れて背を起こすように |
■ローランド・エメリッヒ『13F』 ローランド・エメリッヒ監督のこの映画は、何気なく送る日常が実はとんでもない「仕組み」から出来ているかも知れないという目眩に突然、誘い込む。この突然の目眩の感覚が好きだ。映画『MATRIX』は、不意にでなく堂々とこのテーマに取り組むため、ちょっと趣が異なる。『13F』の方がはるか先に世にでた先駆的な作品のように思う。 ネタばらしはしない。ワンシーンだけ非常にインパクトある場面が入っている作品というのは、記憶にいつまでも残り頭の中で反芻するものだなと思う。最後の締めくくり方については、ハッピーエンドではなく何かを暗示する終わりがいいのではないかなとも感じる。最後で救われたい気持ちになるのは判るけれどね。 |
■ニコラ・ド・スタール『船』 ほとんど灰色の海に浮かぶ黒煙を吐く船。船はたった今、出航していったように見える。希望のない海へ、行かなければならないとばかりに汽笛を鳴らしつつ。 同時代の『かもめ』という作品がある。色調はこの『船』と似ていて、周りは絶望の海だ。なぜスタールは、これほどまでに追い詰められたのか。それは知る由もないが、この晩年の作品には彼の「うつ」的な心理状態が、滲むように現れていると思えてならない。 しかしこの作品が私の心を貫く感じは、忘れがたく、スタールというとこの絵を思い浮かべる。
ニコラ・ド・スタール |
■赤毛のアン 映画と劇場版のみならず、このたび掛川恭子さん訳の完訳版『赤毛のアン』を読了。さらに文庫本まで購入してマリラとアンのやり取りを、パラパラ見ている。児童書と思っていたがそんなことはないと改めて感じた。ここには大人になっても大切にしなくてはいけない人生の珠玉の言葉が、アン、マリラ、そしてマシューの口から語られる。子どもが主人公だが、語られているのは人生の深いところのものだ。希望とか夢とか、大人になると忘れがちな大切な事柄を思い出させてくれる不思議な本だ。 (旧文)原作を読み通したことはなく、映画の『赤毛のアン』でその一端に触れただけ。あまり偉そうなことを語る資格はない。しかし『赤毛のアン』のメッセージは、胸中深くクサビのように打ち込まれた気がする。そういう意味で、「my favorites」にエントリーする資格は充分あるのではないかと思う。(ここまで) 孤児の境遇にあっても、アンは誇りを持ち、好きな詩を読み、わき道に逸れて想像の世界に入り、そしてまっすぐな生き方をしている。その後姿のような生きるけなげさがたまらなく好きだ。表紙の写真は、アンが新たな働き先の町へ汽車でやってきたが、誰もいなくて不安げしている表情である。大きな穴の開いたボロボロの布製の変なバッグは、留め金をしっかり手で押さえておかないと中身が出てしまう代物だ。しかし、ギュッと握る手の表情は、カスバート家に働きに行く不安と期待を端的にもの語る。アンの置かれた境遇、それに向かうアンの姿勢を象徴しているように見えて、いい表紙写真である。 アンの言葉と山本容子さんの彩色銅版画が対になった『赤毛のアンの贈り物』という小さな本もなかなかお気に入り。 児童向けの抄録本の表紙・(株)金の星社刊(1989) |
■ルターの言葉 『私たちは自己満足に陥りやすく、いつもとかく自分だけが立派であることを望み、隣人の良い所を見ないで目をそらし、何かほんの少しでも欠点に気づくと、そこばかりに目を留め誇張する。そのため、私達は、たとえ鷹のような目や、天使のような視野を持っていたとしても、他人の良い所を少しも見られないのである』 宗教改革者ルターのこの言葉が発せられてから約500年。人間の性向は500年経ってもちっとも変わっていないようだ。いや人のことは置いておこう。趣旨は自分のことだ。これまで、幾度となく慢心に陥り、その度ごとに自分の愚かさ加減を思い知らされる出来事が起き、最後は泣きながらルターの言葉を読み返すのである。この言葉は、痛恨と涙なくしては読めない。そういうお気に入り(?)の言葉なのである。 |
■エゴン・シーレの小さなスケッチ 若くして世を去った素描の天才エゴンシーレ(1890〜1918)。 これほどの才能を恵まれながらも彼はそれに満足することなく、いつでもどこでも手を動かしスケッチしていたとのことだ。そこには努力とか、鍛錬という意識はなかったかもしれない。努力の跡と感ずるのは、われわれ凡人の発想というべきだろう。天才の生涯というのは、熱病に侵され無我夢中の内に終える一生と言うべきなのかもしれない。そこには計画とか計算とかは存在していない。
エゴン・シーレ |