弥太夫メモ

フォトエッセイT (2004年4月〜2005年11月)



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2005年11月12日撮影

13.紅葉づくし

信州は辰野の山奥に、その名も紅葉湖という紅葉の名所があります。箕輪ダムの堰き止めにより上流側に細長い湖ができ、地域で力を入れてその周辺に紅葉を数多く植林してきた結果、いまでは色鮮やかな紅葉の並木道や公園を楽しむことができます。

自分ひとりではなかなか重い腰をあげません。またまた家内と一緒に出かけました。山奥まで鑑賞に訪れた観光客の多さを見て、紅葉狩りとはつくづく風雅な日本的な遊びだな、なんてボンヤリと思い浮かべていました。

この写真は、一本で緑、黄、紅と三色が楽しめる欲張りな木です。スケッチブックを携えてましたが、写真をとりまくる結果となりました。










2004年7月18日 17:58 撮影

12.名所ではない風景

自宅からの5分ほどの散歩道の風景だが、はじめのころはこの風景のよさがわからなかった。でも惹かれている自分がいた。

ここは名所旧跡ではない。ガイドブックに掲載されて、観光客がやって来るところではない。

いい風景とは、いったい何をさしているのだろう。本当は、観光客だって、珍しいものを見に行くよりも、なんでもない風景に包まれて、癒されたいのではないか、などと思う。

間違いのないことは、自分はここが好きだといこと。住むようにもなったこと。そしてこの広がりと緑を、絵画に塗りこめたいと思っていることだ。










2005年04月22日10:30PM撮影

11. 夜桜

金曜日の晩に東京勤務から駒ヶ根に戻り、週末を自宅で過ごすパターンが続いている。この金曜日は、駒ヶ根の光前寺夜桜が満開で、車で迎えに来てもらった妻と夜桜見物をした。

青空を背景にした昼間の満開の桜とは、また一味違う雰囲気を味わった。夜空の黒を背景にした桜の色彩も妖しいものがある。

桜を前にしていつも思うこと。
満開の桜に強く感応するのは、やはり日本古来の伝統的な美意識ゆえではないだろうか。
大して勉強もしてこなかったし意識もしていないのだが、この美意識が自分の中にもしっかり根を張っている。










2005年4月16日撮影

10.桜の名所

久しぶりに晴れた空を背景に、しだれ桜が映えていた。ちょうど満開を迎え、カメラマンが集まっていた。樹齢は400年と伝えられている。

駒ヶ根市に転居して、隣に住むKさんと出会った。絵を描いた経験と、再びやってみようかという気持ちを共有した。景色のよい東伊那や、中沢を、二人で巡った。晴れた日も、雪の降る日もスケッチブックを携えて、描きまくった。

この栖林寺のしだれ桜も、当時訪れたはずである。しかし余り明瞭な記憶がない。10年余り前は、それほど名所としては知られていなかった。その後このお寺から歩いて数分のところに、家を構えることになった。心のどこかで、ここに住めたら本望だな、とでも思っていたか。










2004年07月24日 11:18撮影

9.なんでもない景色

とにかくよい天気だった。暑い日差しの中でスケッチをした。サラリーマンから画家の道へ転進されたHさんは、いいポイントを探して姿をくらませた。どこかで絵を描いているはずだ。ここは駒ヶ根の南の方、赤穂南割というところだ。

自分はこの写真の民家が気に入って描こうと位置を決めた。しかし実際に描き始めると、なぜかまとまりを感じない。

スケッチは未完成のまま、最後に仕上げの参考に写真を撮った。あとで見返すと、スケッチより写真の方が何かを訴える力がある。皮肉なものだ。

しかしこの訴えるもの、これは何だろう。たぶんそれに惹かれて、スケッチのポイントを定めたはずだが、どうもそれがつかめない。なんでもない景色なんだけれど、なにか感じている。










2004年9月11日 11:56撮影

8.中沢の自然

自然という言葉は、人工物の反対に位置するもの、たくらみのない世界という意味になっている。 人間すら除外した世界というとらえ方をしているように思う。

夢中にスケッチをしていて、ふと周囲を見渡すと、何ごともなかったかのように風はソヨソヨと渡り、木々や山々が自分を取り巻き、自分は見つめられていたのだという感覚に襲われる。 自然と共にある自分と言ったらよいのか、いやもとからここに居た自分を発見する。

蛇を怖がるのは、人類の長い歴史の中で植えつけられた遺伝子記憶だという説がある。 自然が見つめているという感覚は、それほどおかしなことではないかもしれない。 都市生活で過ごした時間より、ジュラシックパークのような自然の中で生きてきた人類の歴史の方が、おそらく100倍は長いのだから。

この中沢の谷には、どこか風景の精霊が舞っているかのように感じる。好きなポイントだ。










2004年10月16日 15:14撮影

7.水鳥

前回の個展会場の近くに大沼湖があり、個展開催中にほとりを散策した。水鳥が群れをなして泳いでいた。

湖面に波紋の線を引きながら、この鳥たちは何を思って泳いでいるのだろうと、ぼんやり考えた。
いや、何も考えていない。景気が悪いとか、ボーナスが少ないとか、体調がすぐれないとか・・・

そんな思い煩いからはるか遠く離れて、無心に泳いでいるだけだろう。この世俗との無縁さを見てイライラを感じるほどに、自分はいろいろな余計な重荷を背負い心が素直ではないのだなと思った。










2005年1月2日17:08撮影

6.雪景色の夕暮れ

雪の少ない暖冬だと思っていたら暮れから正月に雪が積もった。4年前と記憶するが、やはり雪がないと言っていたら正月にまとまった大雪となり、交通機関が途絶した。腰まで雪が降り積もると、歩くことさえ出来なくなる。家から道路に出られず出勤を断念したことがあった。
夕暮れ時、ここから南方の名古屋方面は、毎日空がグラデュエーションに染まる。暮れてゆく空の色と、夕暮れの朱が混じった鈍い紅色。なんだか地球規模の天文現象を身近で見ているようだ。










2004年11月14日 15:00 撮影

5.風景と風景画

絵になるいい景色とはなんだろうと考える。駒ヶ根に住むようになってハッとする田園風景の数々に出会った。その出会いが絵を再開する動機になった。その過程で、絵としてまとまりやすい風景があるなぁ、と気づいた。

この写真は自宅付近の気に入っているポイントだが、こういう風景は描きやすい。なぜなら近景、中景、遠景がバランスよく納まっているから。一見変哲のない風景だが、自分の立つ足元の地面から、目がズーッと無限遠の彼方へ泳いで行く軌跡のある風景は、描きやすい。逆に、遠景だけがあるようなパノラマ風景は、足元の手がかり(変な表現だが)がなく、距離感が出しにくいもの。

こういう風景における空間の透明度を表現したいと思う。構図がおのずと似てくるかもしれない。。。










2004年1月9日 6:56 撮影

4.冬の夜明け

明けない夜はないというけれど、それは事実である。この駒ヶ根の冬は、人を寄せ付けない厳しい寒さに包まれる。しかし夜明けが近づくと、空の彼方が白々として山の端が見えるようになる。深く沈んだ夜明け前の景色はどこへ消えてしまったかと思うほど、朝の訪れは一気に進む。

人間は地球の生命だと思う。明るくなるだけで少しずつ確実に精神がたかまる。そして今日初めて見る太陽。回りに小鳥たちのさえずり。










2003年4月撮影

3.さくらんぼ

東伊那というところへ引っ越してきて間もなくだが、知人からさくらんぼの苗を頂いた。風の通り道だからだろうか、少しも成長する気配がなく、むしろ葉が落ち元気がなくなってしまった。

植えた場所が、造成により盛り上げたところだった。やはり土を作ってやらなければ育たないのではと考え直し、いい土を混ぜ、水はけを良くして手間かけた。若い葉が出てきて、やがてはじめての花が咲いた。この時の花びらの初々しさが印象的であった。雨降りの天候だったが、さっそくカメラを構えた。










2004年7月撮影

2.白樺の木

信州のしらびそ高原へ上る山道で、白樺の木を見つけた。見上げるような斜面に立つ巨大な白樺で、樹齢は数十年を越えているのではなかろうか。

書物によると白樺の木は樹齢が比較的短く20年くらいといわれている。虫害に弱く、幹はもろい。自宅にも数本植えてあるが、今年の盛夏のためかカミキリムシなどの活動が盛んで、育ってきた白樺3本の幹の途中が、虫食われ折れた。

よく見るとこの巨木も、落雷にでもあったのだろうか、途中で裂けるように上部を失っている。しかし堂々としたこの白樺は、私はここにいるぞ、と語りかけてくるようだ。










2004年4月撮影

1.散歩道で

自宅の裏の田んぼの中の散歩道。夕闇が迫り、遠くの街明かりがぽつぽつと点灯し始める。緩やかな風が斜面を昇ってくる。体の中の疲労が、風に吹かれて蒸発していくようだ。目の前に展開する景色と自分との間に遮るものがないことの気持ちの好いこと。

なぜここに住もうと決めたのだろうと、改めて振りかえる。やはりこの風景に溶け込んでいる自分が好きだったのだと思う。できるなら毎日でも、仕事の終わりにこの風景の中でくつろぎの時を迎えたい。それがささやかな自分の望み。


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