66年ぶりの「戦地からのたより」

(NO2)<伊那村報を見て考える>連載31回

 《 昭和13年2月10日、北支にて 》

伊那村報・第1号 昭和13年6月25日発行

○  井口秀隆君 最後の便り ☆戦線からの便り☆

拝啓 長期応戦下における国家総動員、涙ぐましい銃後ご活動の程、ただ感激のほかありません。

広漠の月下しばし露営の夢に訪れるは、懐かしい故山に立ち働かれる親愛なる村の方々の姿です。

村の明け暮れは、きっと時艱克服の没我的運動に尽くされている事と思います。 小生相変わらず頑健任務遂行いたしておりますから他事ながらご安心下さい。近々○西省○○に向け移動の内命に接しています。

ただ今、少しばかりですが、いただく俸給を節約して送りましたが、銃後の費用にお足し下されば幸甚です。

末筆ながら会長殿はじめ会員の皆様のご健在とご奮闘を祈ります。

右乱筆にて近況ご一報まで。早々。

二月十日    北支にて       伊那村銃後後援会長殿

●「村の日誌・5月分」

2日

 

7日

25日

昭和13年度徴兵検査、赤穂小学校において執行

本年度総人員 27人。徴兵適齢未満現役志願者 4人。

故井口軍曹に対する、皇后陛下ご下賜品の伝達式に村長、出県。

故井口軍曹遺骨、午後3時半○○駅着にて無言の凱旋。午後4時半校庭着。忠魂碑前にて安骨祭執行。痛惜哀悼に堪えず思い断腸。

    「謹んで英霊に哀悼の誠をささぐ」

「 6月4日突如として、出征奮闘中の2勇士戦死の公電に接し、直ちに村長、校長、兵事主任、書記、実家を見舞う。実に痛惜にたえずつつしんで哀悼の意を表する次第である。」

  ・下平 武 君 5月27日、北支蘭封の戦闘にて名誉の戦死をとげられる。

  ・福沢 孝一君 5月27日、北支蘭封の戦闘にて名誉の戦死をとげられる。

    村報・第1号には、村長による「発刊の辞」

「 今やわが国は東洋永遠の和平を期せんがため、未曾有の国難に遭遇しており、まさに我々国民は、挙国一致、非常時局打開のため、まい進せざるべからざるは言をまたざる所であります。」

    編集余録

 戦はこれからだ!! 支那戦線はいよいよ拡大され、わが忠勇なる将兵の涙ぐましい奮闘により、いたるところ輝かしい戦蹟は、ただ感謝と感激のほかありません。

 銃後産業戦線もいよいよ拡大され田植、春蚕、麦の取り入れ、田畑の除草等々、応召により労力の減った農村は、お互いの意気と努力で生産の維持、増産につとめねばなりません。そして微動だもせぬ銃後の状景を戦線の勇士に送り、後顧の憂いなからしめねばなりません。

 お互いに本気でやりましょう。   ・・・編集室にて 蔦堂生   」

《Aのコメント》

 発刊第1号から戦争まっさかり、戦場からの便りが村報に掲載される前に、戦死の報が・・そして遺骨が村に帰ってくる。別に、2名の戦死の公電が村役場に届く。・・・なんともむごたらしいありさまだ。

 イラクへ自衛隊を派兵した。国民の多数は反対(国会では多数が賛成)、一刻も早く帰らせるために、みんなで力をあわせ頑張りたい。

 イラク戦争を支持した国が、49と言うけれど、トンガやミクロネシアの人口5万人、10万人の国を入れてのこと。世界の人口62億人のうち、支持した国の人口は12億人、反対又は不支持の国の人口は50億人。

 日本は、国際世論の“少数派”だ。

☆次回予告・支那事変勃発1周年

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