66年ぶりの「戦地からのたより」 (NO3)<伊那村報を見て考える>連載31回 《 支那事変勃発1周年 》 伊那村報・第2号 昭和13年7月10日発行 ● ☆戦線からの便り・下島正八君より☆ 拝啓、ご無音に打過ぎました。小兵事相変わらず元気旺盛にて奮闘中、何卒他事ながらご休心下さい。 去る5月〇〇日、わが部隊の開封攻撃の前線陣地「皮砦」攻撃にあたりて、壮烈なる戦死をとげられました下平武、福沢孝一両君の英霊を小兵は偶然にも拝する機会をえましたので、その状況を乱筆にてご報告申し上げます。 5月に入りて行動を開始し○○日に歴史的の大黄河渡河を決行し、連日連夜にわたりて戦闘が演じられました。今までの敵と異なり、蒋介石直系軍とて兵器も敵ながら立派な飛行機、戦車等現れまして大科学戦の感がありました。 今までは迫撃砲くらいが関の山でありましたが、今度は野砲、重砲、列車砲等の洗礼を受けました。27日海軍記念日一斉に攻撃を加え、朝より戦闘は開始され、夜に入るも終わらず、周囲は敵!!敵!!、被我距離は1000メートル足らず、出穂さかりの麦畑中の戦闘も又一苦労でした。 当時わが本部は、「皮砦」の後方千メートル位の所にありましたが、夕刻より大雷雨となり、やむなく支那民家に入りて夕食をたきだしました。ちょっとでも火や煙が立とうものなら、もう迫撃砲を射撃し来たり安心して飯も食えぬ始末でした。 夕刻に入り、第○○隊は戦死○○名、負傷○○名との報告があり心配致しました。○○隊には下平、滝沢両伍長殿をはじめ福沢孝一君が居るからです。 一同緊張の中に飯ごうの飯をとりました。無論第一線の麦畑の塹溝に出ている勇士たちは飯どころではありません。 午後10時頃より重傷者がたんかで運ばれてきました。小兵等も手伝い患者を見ましたが、幸い自分の知人はいませんでした。 最後に壮烈なる戦死者の死体を収容することになりました。(後略) 6月20日夜 遠山部隊 下島正八 伊那村長 殿 ○ 支那事変勃発1周年を迎えて・・伊那村長 ○○○○ 思えば昨年7月7日、蘆溝橋における一触が、正義の聖戦をおこしてより1周年、皇軍の進撃きわめて神速にして、すでに北支5省を完全に手中におさめ、中支にあっては江蘇、淅口、河南、安徽の主要都市を掃討しまして凱歌実に全戦線を圧し、意気すでに敵の中心地漢口を呑むの慨があるのであります。 <中略> われわれ第2線にあるものは、忠勇無比なる殉国の将兵にたいして、何をもって酬いるべきか。億兆一心『心に軍服を着る』事であると思います。 ● 心にきざむべき7月7日 !! 支那事変勃発1周年記念実施事項 @ 各戸国旗を掲揚すること A 難打開戦没将兵の英霊の追悼、出征将兵の武運長久祈願の黙祷 7月7日正午を期し、全村民一斉に各々、在所において、1分間これを行うこと「サイレン」をもって合図をなす B 事変戦没軍人の追悼ならびに出征軍人の武運長久祈願祭執行 於・7月7日、午前9時校庭忠魂碑前 < 廃品献納、廃品となりたる金物類。農会は稲扱い万鍬廃品募集献納 > ○ 学事・小学校、青年学校、7月こよみ
○ 伊那村農民十訓
○「村の日誌・6月分」
○ 編集余録
《Aのコメント》 村長は「正義の聖戦」といい、戦地からの便りは「戦死」の詳報。・・なんともやるせない。 ☆ 次回予告・“国民精神総動員・『八紘一宇』の御旗の下に決起せよ |
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