66年ぶりの「戦地からのたより」

(NO4)<伊那村報を見て考える>連載31回

 国民精神総動員・八紘一宇の御旗のもとに決起せよ 》

  伊那村報・第3号   昭和13年8月10日発行

    戦線からの便り

拝啓  初夏の候とは申しながら炎暑はなはだしき折柄、皆々様にはますますご健勝にて銃後の守りにご尽力くださることは遠き北支の空にて感謝いたしております。(中略)

 世界に注目された徐州陥落後40余日を経過しましたが、いまだ鉄道沿線付近の部落にて毎夜銃撃が絶えません。あるときは鉄路を破壊され、あるいは電線を切断され、あるいは列車を襲撃し、駅を夜襲するなど寸時も油断はなりません。

 われわれも○○に警備についておりますが、討伐、線路の修理、電線の補修の護衛など、ただでさえ少数になった中隊がなおさら忙しいのです。

 気候は信州より進んでいるように思われます。暑さも日々増すばかりです。お体をご大切になされんことをお祈りいたします。

       7月1日  山本部隊  佐藤三郎   伊那村長 殿

    戦線からの便り

(前略) このたびは村報をお送りくだされ有りがたく厚くお礼申し上げます。北支にも降雨期が訪れまして、毎日明けても雨、暮れても雨で道路の悪いのに驚きます。

 襲撃もたびたびあります。5月○○日と7月○日朝の襲撃が取りわけ大きく、ことに○日朝は4時間あまり交戦いたしました。

 私ども少数の守備兵に対して、敵は1500余名で実に大激戦でありました。敵を50メートルの先にして、手榴弾を投げ合って白兵戦を演じました。

 戦がすんで、戦友と顔見合わせた時は思わず「よく生きていたものだ」と語り合った位であります。この戦いで戦友2名の戦死と負傷5名を出しました。敵の死体は1ヶ所のみで70余ありました。戦利品の兵器もたくさんございまして大勝利でした。私ども老兵一同大元気で何万の敵も来たれと意気を上げています。

 まずはとりあえずお礼方々ご一報まで。  敬具

       7月14日  北支陣中にて 滝沢修一   銃後後援会長 殿

〇 謹(つつし)んで福沢所平治君の英霊を弔う

 病気のため兵役免除となり、帰郷された福沢君は、その後療養に務められつつありしも、薬石効なく永眠せらるる。

7月5日の葬儀に際しては村長参列、弔辞を奉呈して弔意をあらわせり。

    国民精神総動員『八紘一宇』の御旗の下に決起せよ

<一面、主張>

 全日本国民がこの「八紘一宇」の御旗のもとに打って一丸となり、万死あえて辞せずして進むところ遂に敵なく、一草一木の微に至るまで、皇恩になびきまつろひ、かくて新たなる世界の曙光は極東日本より輝き出ずるであろう。

 たて!国家総動員のために! 翻せ(ひるがえせ)!八紘一宇の御旗を!

注・「八紘一宇」とは

太平洋戦争期における、わが国の海外進出を正当化するために用い

た標語で、世界を一つの家にする意。日本書紀の「兼六合以開都、

掩八黄紘而為宇」から、田中智学が日本的世界統一の原理として、

明治36年に造語したもの。

○「村の日誌・7月分」

5日

7日


9日

13日

・故福沢所平治君葬儀村長参列。軍部供出(ふるいまん鍬)106貫

・支那事変勃発1周年記念日。午前9時忠魂碑前において戦没軍人追悼会、ならびに出征軍人武運長久祈願祭執行。献納古金物116貫

・故下平曹長に対する皇后陛下下賜品伝達式に村長出県。

・戦死者下平武君家族慰問のため、松本連隊より丸田准尉来村。

    編集余滴

村報をよく読まない人、綴ってない人が相当あるようです。端から端までよく丁寧に読んで、必ず順次綴って大切に保存しておいてください。
     
  戦はこれからだ。ソ満の国境はますます風雲急をつげている。我々は長期持久戦体制下において、一人残らず「心に武装」し、定められたる目標に向かって一歩また一歩、堅忍持久の歩を進め、銃後の戦線を確保しなくてはならぬ。

《Aのコメント》

 NO3も、戦死関連記事。侵略戦争をおしすすめるための「国民精神総動員」。“戦争のない、平和な社会”などという言葉は存在しなかったのか?

☆ 次回予告・『光栄の孤立』そして必ず勝つのである

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