(NO6)<伊那村報を見て考える>連載31回 《 『生活も国策にそえ』 戦線勇士の困苦欠乏を想い、多少の不自由は我慢せよ 》
● ☆戦線からの便り☆ 大沼竹市君より 秋冷のみぎり、伊那の木々のこずえも色づき始めた事と思います。 先日は村報お送りいただき厚く暑くお礼申し上げますとともに、かかる銃後ご一同様のご労苦はいかばかりかとご推察申し上げます。 降て小兵はその後ますます元気にて守備に任じておりますから、乍他事ご休心ください。 今や全満にわたり共産匪賊の出没はなはだしく、皇軍はいたるところに〇〇しております。 乱筆ながらお礼方々一寸右お知らせまで。 9月22日 加藤部隊 大沼竹市 銃後後援会御中 ● ☆戦線からの便り☆ 寺沢政秋君より 拝啓、日増しに一段の涼しさにて暮らしよく相なりました。その後限りないご無沙汰お許しください。過日はお懐かしき村報お送りくださいまして、村のことが良く手にとるようにわかり、誠に有りがたく拝見いたしました。 その後、自分も元気旺盛にて○○日より毎日戦闘しています。 9月3日には、小池吉右エ門、滝沢文雄両伍長殿が面会にきてくれまして、故郷の話、また戦闘の話を語り合い別れました。 また、下島上等兵、久保田清衛君にも行き会いましたが皆元気でした。 乱筆ですがお礼方々ご一報まで。 9月10日 小田部隊 寺沢政秋 伊那村長殿 ● 戦線勇士の困苦欠乏を想い、多少の不自由は我慢せよ <主張> 事変の長期化とともに戦争の主導はますます銃後戦となり、経済戦となりゆく。我ら一億同胞は、蒋介石政権の徹底的壊滅を決意した瞬間より、目的貫徹のためにはいかなる困難、いかなる試練にも打ち勝って、この重大なる時局を乗り切る堅き信念と、強き覚悟とを固めたのである。 したがって、事変の進展にともない、必然的に国民日常生活上に起こり来る、加わり来る幾多困苦欠乏、また国家の必要により国民日常生活上に課せられる幾多の制限のごときは、事変当然の結果として、われわれ国民はよろこんでこれを突破して行く強き覚悟を心の奥底深く持っていなければならない。 いかなる不自由が、いかに長期にわたるとも、「持たざる国」の国民に過ぎたる生活と感謝して、耐え忍ばねばならぬ。 国策を理解して聖戦貫行に協力するのは、銃後当面の義務と銘記すべきだ。 <対経済戦生活実践項目参考・案>
《Aのコメント》 村報には「 戦死者の村主催の葬儀には、全戸弔旗をかかげ、村民こぞって礼服に喪章をつけ参加すること」と命令し、「国策・戦争に協力するのは義務だ」とも言う。そして、不自由を我慢せよ!・・・と強いる。 戦没勇士の村葬欄には、「 9月25日東春近村葬・戦死者3名。9月27日飯島村葬・戦死者4名。9月28日片桐村葬・戦死者2名。右9勇士はいずれも支那事変に壮烈なる名誉の戦死をとげられた。本村を代表して助役が会葬、つつしんで哀悼の意を表せり」・・とある。他の村も戦争まっさかり、戦死者・・・続々だ。 次回予告・あゝ世紀の凱歌高らかに、万歳!武漢三鎮完全占領 |
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