66年ぶりの「戦地からのたより」

(NO12)<伊那村報を見て考える>連載31回

《 伊那村警防団・重大使命を帯びて結成 》

  伊那村報・第11号 昭和14年4月10日発行

“帝国の世紀的飛躍途上”

 伊那村警防団・重大使命を帯びて結成される

 現在及び将来戦は、航空機の発達、謀略戦の熾烈化とあいまって、国内いたるところ国防上一層の警備を要するはもちろんなるが、軍隊はその本来の任務に鑑み、外敵攻撃にあたるので、国内警備の充当する兵力は最小限度にとどめ、その大部分は警察力を主体とする国内諸機関がこれに当らなくてはならぬ。

 すなわち、国内警備は国民自らがこれにあたることが肝要で、国家総力戦の今日、国内警備機関の併合統制のもとに、国内警備の完璧を期さねばならぬ。これがため、昭和14年1月24日の勅命をもって、警防団令が発布せられ、3月末日かぎり従来の消防組、防護団を解体し、41日より防空、水火消防、その他の警備に当る警防団が設置されたのである。

本村においては、3月7日に村会において警防団設置の件を正式に決議をなし、定員205名をもって設置し、正副団長の辞令が交付された。

 よって4月2日午後1時、春雨に煙る校庭において、赤穂警察署長、小学校長、元組頭諸氏、村会議員など多数来賓のご臨席の栄を得て、極めて厳粛裡に、その結成式が挙行された。

    戦線からの便り☆小池吉之助君より、

謹啓、

 出征以来1年5ヶ月、北支広野に転戦し、我々の主とする任務は討伐、宣撫工作、治安維持などにて、1年を経た今日はまったく見違えるような状態にて、奥地とはいえ各村落には維持会が組織され、皇軍の指導により治安も逐次なり、共産軍などの便衣、密偵などが村落へ侵入すれば、直ちに出動し、良民の不安一掃に努めるので、この広野のいたるところの村落には必ず日章旗、五色旗が掲げられており、皇軍部隊が通過すれば何気なく部落民は喜々としているさまは、我が内地では見られない風景であります。

 この1年間、我が後備部隊が宣撫工作に捧げた努力は偉大でありました。

 さる○月○日をもって後備隊も改隊し、生死をともに幾多苦闘を続けた大部分の戦友は、武勲を身にかざり、いよいよ銃後の一員として活躍すべく、帰還されたのであります。

 伊那村よりは、滝沢修一君と小生が残留となり、若き精鋭とともに更に気分一新若返って、一層元気旺盛長期建設の新段階に踏み入りました。

 改編された○○○隊の任務は、第一に戦闘、第二に現地訓練、第三に宣撫でありまして、ただいま猛訓練をいたしております。

 必ずや皆々様の赤誠に対し、死をもって報いる覚悟で大いに奮闘を誓います。

 どうぞ各種団体各位によろしくご伝言を願います。

 まずはご慰問品、および村報ご恵贈にあたりご厚礼申し上げます。

       3月6日  北支にて  小池吉之助    銃後後援会長殿

編集余録

村報も号を重ねること11号、6ページより8ページ、10ページと長足の飛躍的発展をなしつつあることは、ひとえに村民各位のご援助、ご協力があればこそ、厚く感謝いたすとともに、将来なお一層のご声援をお願い致します。


《Aのコメント》

 警防団の団長は村長、団員は236名。3月16日から20日まで部落懇談会が行なわれた。いずれも午後1時から、出席率は37%(戸数)。余興に北原桃葉の講談。

 懇談事項は、@国家総動員に関する件。A応召軍人(赤紙・召集令状で強制的に戦地に送られた)遺族家族援護に関する件。B満州移民に関する件。C梅干供出に関する件。その他6件であった。

 この号にも、戦死者の村葬の記事あり、宮田村4名、赤穂村1名、飯島村4名、七久保村1名、南向村3名。いずれも「支那事変で壮烈な戦死を遂げられた」という。

予告・「満州農業移民・大和民族の大陸移動、土の戦士よ行け新天地開拓!!」

戻る