66年ぶりの「戦地からのたより」

(NO24)<伊那村報を見て考える>連載31回

  伊那村報・第23号  昭和15年4月10日発行

 《 英霊!!御遺骨、故山に姿なき凱旋 》

英霊!!武名万古に輝く

盡忠報国の勇士

故陸軍工兵中尉 渋谷秋夫君

御遺骨故山に姿なき凱旋

 去る1月13日午後3時30分、北支山東省において名誉の戦死をとげられたる渋谷秋夫君の遺骨は、3月31日神戸港上陸、4月1日東京の原隊へ無言の凱旋、翌2日原隊において告別式執行、遺骨は3日午前8時新宿発、午後1時3分辰野駅着。午後5時、悲しくも降りしきる春雨の中を小学校着。体操場において厳かに安骨祭執行、午後6時半生家へ姿なき無言の凱旋をせらる。

嗚呼(ああ)!武勲永久に燦(あきらか)たり!!

◎ 期日  4月28日午後1

◎ 場所  伊那村小学校庭

故陸軍工兵中尉  渋谷秋夫君

村  葬  儀  執  行

注意 ・村民こぞって会葬し哀悼の誠意を表すこと

・会葬の際は礼服に喪章をつけ、謹慎を旨とすること

・各戸必ず弔旗を掲揚すること

   戦線からの便り☆ 馬場 昇 君より、

拝啓、長々ご無沙汰いたし誠に申し訳ありません。

 村報で知りまいたが、渋谷秋夫中尉殿の戦死なんと申し上げてよいやら御家の皆様の御心中お察し申し上げます。

 過日、○○江渡河作戦に成功した我が部隊は、○山攻撃にまたその付近討伐に多大の戦果を収め○○に帰りました。

 その後、蒋介石の厳命にて我々前面の敵は、我が守備地占領せんと約5万の兵力を集結し、勇敢にも攻撃してきましたが、我が軍の果敢なる反撃に多数の死体及び兵器を捨てて逃走し、これも我が軍の大勝利でした。

 そのためか、現在は非常に静かですが、我が守備地より約1000メートルの地点には、敵トーチかがならび相対しています。

 日一日と暖かくなり、大陸名物の蚊も早や出てきまして、我々は目下蚊の討伐にやっきとなっています。支那軍よりこの蚊の方がずっと恐ろしく閉口しております。2月下旬と言うのに、もう蚊帳(かや)や蚊取り線香など使用しております。

 伊那村出身者も福沢君の外にまだ近くにおり、時々連絡に逢い故郷からの便りなどについて語り合っております。

 ではお体を大切に、皆々様によろしくお伝え下さい。  早々

       2月25日  中支陣中にて  馬場昇  伊那村長殿

<編集余録>

 

陽春紀元2600年、花の春も近い、陽の光はやわらかく地の肌もぬくもって、よろずの生物一斉に動き出す。

  春の芽ぐむこの好季、支那新中央政権の成立は実にめでたい。新段階だ、新たな前進だ、それは一面苦難であるけれども、その苦難を乗り越えてこそ新時代の国民としての生きがいがあり感激がある。


 
《Aのコメント》

国策・中国(支那)侵略戦争真っ最中の農村の一端について「●3月の気象の記事」からふれてみたい。

「 山深いこの地で春の気配を感得するのは、なんと言ってもこの弥生3月、なにやら心のはずむこの月!。午前10時の気温において(s12〜15年、上、中、下旬、全月の気温)●今年は3月下旬は低温であった。●最高気温はs13年より低く、s14年より少し高く。●最低気温はs12年に次ぐ低さでした。○降雨量は近年にない雨の乏しさで、s12年の三分の一、s12年の半分でした。農耕に要する肥料その他不如意の折柄、気象だけは恵みのあれかしと祈念してやみません。この村報がつくころは早咲きの桜が咲く事でしょう。」「肥料不足対策は、まず病虫害駆除から」

「 本年度米穀増産計画について・・・(中略) 生産資材の不足、特に肥料の不足、配給不円滑に対しては、よく実状を認識し各自適切なる方途を講じ、一段の奮闘を持って目標の達成にまい進されるようお願いします。」

 すべてが配給の時代、必要なものすらない。・・・・・農村の一端でした。

次回予告・「 遺書・天皇陛下万歳 」

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