66年ぶりの「戦地からのたより」

(NO25)<伊那村報を見て考える>連載31回

  伊那村報・第24号 昭和15年5月10日発行

《 遺書・天皇陛下万歳 》

@ 天皇陛下万歳

   御楯と散り得たる感激誠に何に譬へん

A        将校団各位

   御厚情を深謝す 御発展を祈る 光栄の工兵○○○隊に天佑あれ

B        同期生各位

   御厚情を深謝す 御発展御奉公を祈る 天の一角より各位の奮闘を悦ぶ我あるを知れ

C        御父上御母上

   先立つ不孝申し訳なし しかれども秋夫は 大君の御為に喜び死せり

D        兄弟妹各位

   御健康御奉公を祈る 秋夫は法悦の境地にて死せり

E        中隊兵各位

何ら尽くすことなく死するは はなはだだ申し訳なし 不敏なる我に致されたる御厚情心から禮を述ふ 天より各位の武運長久を祈る

F        朋友知己親戚各位

   生前の御厚情を謝す 御発展を祈る

天皇陛下万歳

    嗚呼我は悦ひて死せんとす 

                渋谷秋夫 印

謹みて英霊を弔ふ

故 陸軍工兵中尉 正八位  渋 谷 秋 夫 君

建功院貫忠義徹大居士

村葬儀は春もまさに暮れんとする4月28日午後1時より

本村小学校庭において厳粛裡に執行されました。

   戦線からの便り☆ 滝沢勝治 君より、

謹啓、長々のご無音、誠に失礼致し申し訳ございません。(中略)

 当地は杭州を隔つこと15里の山中にして、三方敵陣地に面し、一方南岸は1000メートルの○○江を境となして、絶えず砲火を交えておりましたが、過日○○江渡河作戦により敵は撃滅され、引き続き○山攻撃その他付近の討伐において、敵陣地は見る影もなく破壊いたし、多大の戦果を収めることができました。

 しかし、各民家には防空壕がつくられていて、民衆の防空に対する観念が、子供にいたるまで徹底いたしております事は、驚くばかりでございます。

 その後、敵情は平穏にして深夜に遠く銃声を聞くのみでありますが、我が軍の警戒はなお一層厳重でございます。

 領民も昨年は非常に少なく、荒れた耕地を耕作する農民は一人もなく、荒れに荒れた田畑も今年は農民も増加いたし、早朝より水牛を使用して全土の半分以上も耕作されてきました。

 あるところの苗代を見ても、黄緑色なって伸びし苗は、もはや二寸以上に伸びております。当地にも馬場昇君のほか三名も警備にきております。

 日曜日などには、時々全員集合して故郷のニュースに花を咲かせて楽しき一日を暮らすこともございます。

 では皆々様、日増しに、暑さとともにご繁忙の時節柄、充分お体をご自愛専一の程を切にはるか中支よりお祈り申し上げます。

 右乱文にてお礼方々近況ご報知まで。    敬具。

       4月25日  中支田中次部隊  滝沢勝治  銃後奉公会長殿

<編集余録>

 

晩霜襲来!!悲しむべき天の試練、へこたれてはならぬ。我らは一層協力一致善後処置の万全を期し、もって産業戦線を確保せなくてはならぬ。

  泣くな!、かこつな、へこたれるな、起て!!太陽は、つねに我らの上に照っている。


 
Aのコメント》

 毎号、小学校と青年学校の“学暦”があり、1日の興亜奉公日・神社参拝、15日の神社参拝があり、さらに奉安殿(天皇の写真がある)奉伺などがあり、戦死者の葬儀参加、出征兵士の武運長久のため神社参拝など目白押しである。

「 ○ 始業時間が午前4時45分となりもっとも早き始業時、午前4時床をけって起き黎明に登校、何分理解あるご支援をのぞみます。」とある、まさに戦時態勢だ?。

次回予告・「銘記せよ!!7月7日 ・支那事変勃発3周年記念日」

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