66年ぶりの「戦地からのたより」

伊那村報を見て考える連載最終回(NO31)

《 まっしぐら、太平洋戦争へと突き進む 》

 伊那村報は、1938年(s13)6月〜40年(s15)10月まで2年5ヶ月発行されました。支那事変の真最中でした。国策・戦争を推し進める道具として、大いにその役割を発揮したと思います。徴兵・強制的な兵隊へのかり出し、その間の村民の生活は困苦欠乏を強いられるばかりでした。白米を食べれば“穀賊”、国策(戦争)に協力しないものは“国賊”、学校教育も含めてすべてが「戦時体制」でした。村報は、その実態をよく反映しているとおもいます。

 満州事変から支那事変までの戦死者は駒ヶ根市(3町村)で62人でしたが、1941年(s16)からの太平洋戦争の戦死者は732人で、合わせて794人。伊那村では5戸に1人が戦死者をだしました<子供を含め、村民27人に1人が戦死>。結末は“むごたらしいありさま”です。

 満州事変からの「15年戦争」の最高責任者は、どのような責任のとり方をしたのか?、最終回にして思う事は、“ふたたび同じ過ちを繰り返さないための行動を微力でもおこしたい”・・・という思いです。《A》

参考資料・ <駒ヶ根市戦死者数>

    赤穂町 中沢村 伊那村 3町村計
5 満州事変(昭和  6〜  9)1931〜 2人 2人   4人
6 満州事変(昭和  6〜  9)1931〜 32人 19人 7人 58人
7 太平洋戦争(昭和16〜20)1941〜 466人 179人 87人 732人
 

  内、昭和16年(1941)

1人     1人
 

  内、昭和17年(1942)

17人 9人 6人 32人
 

  内、昭和18年(1943)

36人 6人 5人 47人
 

  内、昭和19年(1944)

174人 66人 26人 266人
 

  内、昭和20年(1945)

191人 74人 35人 300人
 

  内、満州開拓義勇隊(昭和20〜24)

12人 4人 1人 17人
  合 計(含む、日清、日露戦争など) 526人 219人 108人 853人
  合計の内、満州事変以後の戦死者数 500人 200人 94人 794人
  ◎ 昭和17年当時の世帯数 ・・・・・≒ 3413 1053 479 4945
  ●世帯数÷戦死者数(満州事変以後) 6.8戸 5.3戸 5.1戸 6.2戸
に一人戦死
  ◎ 昭和17年当時の人口  ・・・・・≒ 17828 5572 2557 25957
  ● 人口÷戦死者数(満州事変以後) 35.6人 27.8人 27.2人 32.7人
に一人戦死


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