6、ドキュメント

 1931年(昭和6)、今の中国東北区で、日本軍と中国軍とが武力衝突し、日本軍による中国への侵略戦争がはじまり、太平洋戦争終結までの15年間、日本と中国との戦争がつづきました。
 1929年(昭和4)からはじまった世界恐慌の影響で、日本経済は深刻な不景気にみまわれ、軍部らの間に、満州を植民地化しようとする動きが強まり、関東軍(満州にいた日本軍)が奉天(今の瀋陽)郊外で鉄道爆破事件(柳条湖事件)をおこし、これを中国軍のしわざだとして強引に開戦しました。日本政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦争を広げ、全満州を占領しました。
 翌年、日本は満州を形式的に独立させ、「満州国」を成立させ、国策として“満州農業移民”や“満蒙開拓”として幾多の人々を送り出しました。
 とくに長野県は、全国でもっとも多くの開拓民を送り出し、その犠牲者も多かった。
1937年(s12)7月7日には、日本軍は今度は蘆溝橋事件をおこし、支那事変が勃発しました。1920年に発足した国際連盟は、歴史上はじめて国が戦争に訴えることを制限し、集団安全保障の仕組みを設けました。しかし、“事変は戦争にあらず”という抜け道があり、満州事変、支那事変、さらに太平洋戦争へと突き進んだのです。

 ここに、伊那村出身の一人の青年の「満州農業移民」をみてみよう。

伊那村報・第12号   昭和14年5月10日発行・・には、

◎満州農業移民
本村上塩田、馬場謙君は雄々しくも満州農業移民を志望、5月5日、北佐久郡川辺村御牧ヶ原修練農場へ入所いたしました。
大和民族の大陸移動!  土の戦士よ、行け新天地開拓!


伊那村報・第13号   昭和14年6月10日発行・・には、

○土の戦士、馬場謙君が御牧ヶ原で猛訓練を受けて6月4日に帰村、23日ごろ満州へ出発の由、土の戦士に幸あれ。

伊那村報・第15号

【 満洲開拓行進曲 】“拓士の歌”
1、  新しき国建つところ
    新しき民また興る
    燃ゆる希望の鍬先に
    極東平和の光あり
    往けよ満洲開拓民

2、  誓ひも固き同胞が
    老ひも若きもおしなべて
    移し植えたる庭桜
    大和心に匂ふかな
    奮るへ満洲開拓民

3、  大御心をかしこみて
    日本男子の往くところ
    昇る朝日の旗風に
    明け行く広野拓らく大地
    進め満洲開拓民

4、  五族の協和色どりて
    菊と蘭との花ごろも
    沃土万里の涯遠く
    興亜の空に映ゆるかな
    伸びよ満洲開拓民

伊那村報・第16号   昭和14年9月10日発行・・には、

●☆ 鍬(くわ)の勇士 からのたより ☆ 馬場 謙 君より
  北満東安省密山県黒台、信濃村弁事所扱、連珠山訓練所内 8月25日着信

拝啓、暑き中にも朝夕の涼気に秋近きを感ずるようになりました。内地はまだ暑きことと思います。
 私儀、在郷中は一方ならぬお世話様に相成り、なお渡満に際してはいろいろとご高配、御芳志をたまわり有り難く厚くお礼申し上げます。
 村長さんはじめ村民ご一同様には国際益々多難の折、銃後の完璧にご尽力のことと推察申し上げます。
 当地に着きましてより約二ヶ月ほどにて、まだごく浅い体験見聞にて違った所もありましょうが当地の様子をお知らせいたします。(道中省略)
 鉄道にて満州国に入りました。車窓より眺めた風物は、ただ文化の遅れていることと、かかる国民性を知り、日本人として生まれた幸せを感ずるのみでした。
 鉄道沿線の所々には先移住の移民団の家屋が点々と見え、線路近くに働いているものは、仕事の手を止め喜んで迎えてくれました。
 天才的技能を持つと言う朝鮮人の水稲栽培を北満にも多数見られました。
 林口で、ある移民団の人が同乗し『全く拓務省の宣伝はうますぎるが、来た以上は男だ』という話を、連なる広い湿地、裸山、北満としては早いだろう出穂期の麦を眺めながら聞く。将来の農業経営開発を想像し、連なる裸山、氾濫するがままの河川湿地、草原を眺めるとき、植林、開田、排水、牧畜等全く我々日本人でなくてはならぬと思いました。
 三江省の方には広い所も多いようですが、当、安東省は内地で想像するほど広漠としてはいません。広いには広いのですが山も多くあります。
 大陸的な気候というか、日中はまづ風が命というものですが、朝方は大分冷えます。なお、気候の変動が甚だしいため、皆胃腸を害します。注意され気をつけていますが、一時は四割も病床についたこともありました。腹巻は内地とちがって今のところ離せません。
 先日までは絶対に水を飲むことを許されぬので、C三度の水を前に我慢していましたが、今は少しづつよくかんで飲むようになりました。
 訓練所付近また当信濃村は、満人の既開墾地に入ったのですから、地力の衰えたところもありますが、作物は実際良く伸びます。肥えた高粱畑、玉ネギ、大豆、茄瓜類等の伸び方は想像以上でありました。しかし一般には満人の耕作にはかないません。北満特有の気候をいかして農業経営を改良、改善して行くには内地以上の努力と研究技術を要すると思います。(中略)
 鳥獣はスズメ、つばめ、カラス、鳩、キジ、ウズラ、ひばり、雁、サギ、ノロ、などがいます。蛇はマムシがたびたび見られます。蛙、なまず、鯉、ふな、カミえびなどたくさんいます。
 内地から送られてくる新聞雑誌に、満州が余り良く書いてありますので『そんな良い所なら俺も行きたい』・・などと言って笑います。
 中には、視察にきた県会議員の宣伝が良すぎ、これではかえって悪いという者もあります。
 申すまでもなく、ただ良い前には国家の捨石、苦労はかねての覚悟であらねばなりません。あまり良いと過信して来た農業に経験のないもの、あこがれていたものなどはホームシックになるようです。
 広い未墾地満州は、すべてが大和民族の移動を待っています。本日は盆の16日であります。また様子をお知らせします。                    敬具

『伊那村報』は、昭和15年10月、第29号をもって“その筋”の圧力で廃刊。

その後の足跡は、村報では知る由もないが、駒ヶ根市東伊那の「招魂碑」には、
   昭和20年  塩田  馬場 謙  ビルマにて戦死・・・と刻まれている。

・・・六年前、『土の戦士よ、行け新大陸開拓』の呼びかけこたえ、“土の戦士に幸あれ”と送り出されて、22歳で満州に旅立った『青年』は、ふたたび郷里の土を踏むことなく、昭和20年3月28日、28歳でビルマにて戦死した。

<参考・1> 【 気になる言葉 】

○大和民族の大陸移動!  土の戦士よ、行け新天地開拓!
○満州へ出発の由、土の戦士に幸あれ。
○『全く拓務省の宣伝はうますぎるが、来た以上は男だ』
○内地から送られてくる新聞雑誌に、満州が余り良く書いてありますので
  『そんな良い所なら俺も行きたい』・・などと言って笑います。
○視察にきた県会議員の宣伝が良すぎ、これではかえって悪い。
○申すまでもなく、ただ良い前には国家の捨石
○あまり良いと過信して来た農業に経験のないもの、あこがれていたものなどはホームシックになるようです。

参考資料・2 <駒ヶ根市戦死者数>

    赤穂町 中沢村 伊那村 3町村計
5 満州事変(昭和  6〜9)1931〜 2人 2人   4人
6 支那事変(昭和 12〜16)1937〜 32人 19人 7人 58人
7 太平洋戦争(昭和16〜20)1941〜 466人 179人 87人 732人
 

  内、昭和16年(1941)

1人     1人
 

  内、昭和17年(1942)

17人 9人 6人 32人
 

  内、昭和18年(1943)

36人 6人 5人 47人
 

  内、昭和19年(1944)

174人 66人 26人 266人
 

  内、昭和20年(1945)

191人 74人 35人 300人
 

  内、満州開拓義勇隊(昭和20〜24)

12人 4人 1人 17人
  合 計(含む、日清、日露戦争など) 526人 219人 108人 853人
  合計の内、満州事変以後の戦死者数 500人 200人 94人 794人
  ◎ 昭和17年当時の世帯数 ・・・・・≒ 3413 1053 479 4945
  ●世帯数÷戦死者数(満州事変以後) 6.8戸 5.3戸 5.1戸 6.2戸
に一人戦死
  ◎ 昭和17年当時の人口  ・・・・・≒ 17828 5572 2557 25957
  ● 人口÷戦死者数(満州事変以後) 35.6人 27.8人 27.2人 32.7人
に一人戦死

<参考資料・3>  第5回いいじま平和を考える集い(2004,8,6)
朗読劇 “望郷のうた”―ああ、信州満蒙開拓団―・・・より
 1932年(昭和7)、満州国を樹立させた日本は、大量の開拓民を満州に送り込んだ。入植も進み、「王道楽土」も夢ではないと思われたその時、大量の召集令状が伊南郷にとどいた。
 国のため命をかけて働いたあげく、置き去りにされた開拓民の悲劇は、ここから始まった。そして、ここ長野県は全国でも最も多くの開拓民を送りだし、その犠牲者も群を抜いて多かった。
《 伊南郷開拓団 》
 1942年(昭和17)、現在の駒ヶ根、飯島、宮田、中川の4市町村を中心とした住民が、旧満州興安東省に入植、水田300ヘクタールの開田を計画し、45年には食料自給が可能になった。同年5月、旧ソ連の対日参戦が確実な情勢になり、男たちは関東軍に「ねこそぎ」動員された。
 ソ連侵攻後、難民収容所を移動する中、多くの団員が栄養失調と病で命を落とした。開拓団在籍者は256人だったが、内34人が現地召集、86人が避難生活の中で命を失い、残留者13人、郷里に帰ったのは120人だった。
《 満蒙開拓青少年義勇軍 》
 国策移民の完成を助け、現地の治安維持的な任務も兼ね備え、当時の高等小学校卒業(14、5歳)と同時に志願できた。
「未墾の荒野を開拓し、将来は独立した農業者になれる」と、教師たちの積極的な国策への協力のもと、大勢の夢多き少年たちを満州に送りこんだ。
 全国で約10万人、長野県からは約7000人と言われている。

<参考資料・4> 〔満州開拓と長野県〕
  日露戦争後、中国東北部の支配に乗り出した日本は、1932年「満州国」を建国。昭和恐慌後の貧困を背景に全国で約27万人が開拓団員などとして送り出された。
  長野県は、3万3000人余と、2位の山形県の2倍以上を送り出した。
  1945年8月、ソ連参戦の混乱で、県関係者は1万4000人余が死亡。女性や幼い子供ら880人余が中国に残された。

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