おじいさんの昔話

「ねー,おじいちゃん昔話してよ」

「よしよし,話してあげるから,終わったらいい子で寝るんだぞ」

「何の話してくれるの」

「早太郎の話がいいかな」

「僕知ってるよ」

「いやいや,これはまだ知らない話だよ」

「ふーん」

「そうそう,むかしむかしの話だよ」

第1話  新早太郎物語

 

むかしむかしのことだ。そう,今から700年もむかしのことだった。

信州,信濃の国に光前寺という山寺があった。

今ある光前寺と違ってまだ寺は小さく,あたり一面は山と深い森。

そして,まわりにはいろんな動物がすんでいた。

かわいい動物もいれば,怖い動物もいたのだ。

 

ある朝のことだった。

お寺の和尚がいつものようにお経を終えて本堂を出ると,何やら普段と違う気配がする。

なにげなく本堂の裏に回ってみると,どこから低い唸り声が聞こえる。

なんだろう?と見渡してみた。どうも本堂の縁の下から聞こえて来るようだ。

目を凝らし縁の下をのぞいた瞬間,和尚はおもわず「あっ!」と声を上げた。

なんと!縁の下の奥から大きな山犬がこちらをにらんでいるではないか。

山犬とは,日本狼のことだ。でも,今の日本にはもういないね。

しかし,そのころはとても怖く強い動物だった。

 

和尚は驚いて後ろに跳びさがった。

だが,その山犬はこちらを襲う気配はなさそうだ。落ち着いてよく見るとどうやらおなかが大きい。

子供がおなかにいるに違いない!

「そうか,おまえはここに子供を産みに来たのか・・。」

そのころの山にはさまざまな動物がいた。山犬も怖いが,奥山にはもっと恐ろしい獣もいた。

この母狼はそんな獣から,生まれてくる子供を守るために,この寺の縁の下へ子供を産みに来たのだろう,

そう和尚は直感した。

「おまえのいる本堂の上にはこの寺のご本尊様,不動明王がいる。きっとおまえ達を守ってくれるぞ」

和尚の言葉にいつか山犬の唸り声は消えていた。

やがて山犬は本堂の縁の下で3匹の子犬を産んだ。

 

 「どれどれ,おー,どれも元気な子犬のようだ。しっかり育てるのだぞ」

それから毎日,和尚はおひつに山犬のえさを入れ,縁の下に置くことにした。

和尚は子犬を見るのが嬉しくて仕方がなかった。

 いつか子犬たちは縁の下から出るようになり,和尚にもなれた。

やがて寺の境内を元気に飛び回って遊ぶまでになった。

 

ある日,和尚が縁の下をのぞくと,運んでおいた空のおひつの中に一匹の子犬が入っている。

「おやおや,おまえはこんなところで遊んでいるのか」

和尚は子犬を引き寄せた。ところが,縁の下を見ても,そこにはいるはずの母親もほかの子犬も一匹もいない。

「おいおい,おまえの兄弟はいったいどこにいったんだい」

子犬はくんくんと鳴くだけだ。そうか,母親は子犬を連れて山に帰ったのか。

おまえはここに残されたと言うわけか・・。

きっとこの寺に対して恩返しのつもりでおまえを残していったにちがいない。

和尚はおもわず子犬を抱きしめてやった。

 

 やがて月日がたち,和尚から大切に育てられた子犬は,灰白色の大きな山犬になっていた。

和尚は子犬に兵坊太郎(へいぼうたろう)と名前を付けた。

太郎は毎朝和尚について本堂に行き,そこで和尚がお経を上げ終わるのをじっと待っている。

まるで和尚を守るかのように毎日を過ごしていたのだ。

その反面,野山を駈ける速さは並みの犬とは比べ物にならないほど早かった。

いつか里の人たちはこの山犬を“早太郎”と呼ぶようになり,それがこの犬の名前になった。

 

ある年,村に恐ろしい噂が立った。

怪物に若い娘が襲われたと言う。子供や若い娘が狙われるのだ。

やがて夜になると人は闇を恐れて外に出なくなっていた。

 

ある日のことだ。光前寺の境内に,夕暮れが訪れていた。

突然,早太郎の耳に娘の叫び声が聞こえた。

裏山だ!すばやく駆け出した早太郎がそこに着くと,若い娘が倒れていた。

気を失ってはいるがまだ息がある。はだけた着物から傷ついた白い肩がのぞいている。

しかし,ほかには何もいない。しかし,どこからか臭う得体の知れない不気味な気配。何かがいるのだ!

「あそこだ!」そこには大きな杉が並んでいる。その木影で何物かがこちらを見ている。

何者だ。これが人を襲う恐ろしい怪物なのか。早太郎は全身に恐怖を感じた。

しかし,彼はここを守らなければならないと思った。

静かに,そっと,彼はその木にしのび寄っていった。杉の闇の中で恐ろしい目がぎらりと光った。

 早太郎の足が止まった。その目は確かにこちらを見ている。

そしてその動きも止まっている。にらみ合いは続いた。

 

「うーー。」早太郎の唸り声が闇の静けさを破った。

その時だ!闇の中から影が早太郎の上に飛びかかった。

そしてそれは早太郎が飛び上がるのと同時だった。

「ぎゃーー!」けたたましい叫び声がした。戦いはそれだけだった。

そいつは再び杉木立の闇に飛び上がった。

 ざわざわ,ざわざわ,木から木へ何者かが動いていく。

早太郎がそれを追いかける。どこまでも。

やがて森は大きな川の淵に来た。川の前でそいつの動きが一瞬とまった。

だが次の瞬間,早太郎が上に飛び上がり,

そいつが深い川の中に飛び込むのとが同時だった。

 

 早太郎は走るのをやめた。そして,川に消えたそいつに向かって吠えた。

「消えてしまえ,この信濃の国に二度と戻るな」早太郎はそう吠えていた。

それ以来,村から怪物の話は消えた。

 

それから数年の月日がたった。

秋葉街道から,信濃の国に入り一人,旅を続けている人がいた。

その人の名前は六部といい,この国に人を探しにやって来たのだ。

道で出会う人毎に,人の名を訪ね歩く旅が続く。

しかし,広い信濃の国で当ても無く一人の人間を探す事は容易なことではない。

そして,ようやくひとつの手がかりを得て,いま光前寺にたどり着いた。

 

「おたずねしたい。わしは,遠州から来た六部と申すもの。

ここに早太郎と言う方がおられると聞いてきた。ぜひお目にかかりたい」

「これははるばるとこの山寺までよくこられた。

しかし,残念なことにここには早太郎と言う人間はいない。」

六部の落胆は傍目にもわかった。

「しかし,ここには早太郎と言う犬はいる」「犬?」

「そうじゃ,山犬でな。あそこにおるのが早太郎じゃ」

六部は目を輝かして早太郎のそばに駆け寄った。

「これだ!この犬に間違いない!」

「いったい何の事じゃ。良かったらわけを話して下さらんか」

和尚の問い掛けに六部はこんな話を語った。

 

ここから50里(200km)も南の遠州(静岡県)に見付という村がある。

そこにある矢奈比売(やなひめ)神社付近に恐ろしい怪物が出て

村人が本当に難儀をしているというのだ。

最初にその怪物が出たときは収穫前の秋祭の日だった。

村の美しい娘のいる家に白羽の矢が立った。

それは,祭の夜,娘を人身御供(いけにえ)として神社の前に差し出せという合図だったのだ。

その時,その娘には相思相愛の若者がいた。もちろん,若者がそんなことを許せるはずが無い。

秋祭りの夜,若者は娘の見替わりに神社に行った。

しかし,つぎの朝,そこに来た村人は,変わり果て,無残に殺された若者を見つけた。

その上,その年,村の収穫前の作物が一晩で何者かにすべて荒らされてしまったのだ。

それ以来,毎年村の秋祭りになると,娘がいる一軒の家に白羽の矢が立つようになった。

そこの家の娘が白木の箱に収められ人身御供となるのだ。

ある年,村を通りかかった旅の僧が,悲しみに暮れている娘の家でその話を聞いた。

不憫に思った僧はその夜,神社の影に潜んで様子を見ることにした。

 

その夜,村人に運ばれ,娘の入った白木の箱が神社の前に置かれた。

静まり返った神社に深い闇がきてから,どれくらいか,僧には長い時間が過ぎた。

やがて,夜遅く,ざわざわと木々を揺らす音が聞こえ,生臭い風が漂った。

そして,怪物が箱の前に現れた。

 

僧は体が凍りつき,身じろぎもできずに箱を見ていた。

その時,怪物が踊りながら歌っているこんな言葉か聞こえたのだ。

「今宵,ここには信州信濃の早太郎はおるまいな。このことはけっして早太郎には知らせるまいぞ。」
繰り返し,繰り返し言い,箱の周りを回った後,白木の箱を明け,

中から娘を引き出すと,そのままわしずかみにし,闇の中に消えた。

その娘は再び戻ることは無かった。

 

翌朝,旅の僧はそこで見たことの一部始終を村人に話してきかせた。

そして,村人に頼まれた六部がここまで早太郎を探しに来たのだった。

 

「ぜひこの早太郎を私にお貸しくだされ。そしてあの怪物を倒し,村人を救ってくだされ」

六部は必死で和尚に頼んだ。

「それはお困りのことでしょう。しかし,この犬が本当にそんな怪物に勝てるのだろうか」

「私が信濃に来て早太郎という人物を捜し歩いたが,

今,この早太郎以外にはあの怪物を倒せるものはいないと確信いたした。ぜひ村人の災難をお救いくだされ」

「そういうことなら,早太郎。おまえはその怪物を倒しに遠州まで行ってくれないか」

和尚は早太郎に問い掛けた。早太郎は大きくワンとないた。

それはすべてを悟ったという様に聞こえた。

六部は喜び勇んで早太郎を連れ,遠州へと旅立ったのだ。

 

早太郎と六部は長い道のりを歩き遠州についた。

すでに,村の一軒の家に今年も白羽の矢が立っていた。

家中のものは毎日を悲しみに暮れていたが早太郎の話を聞いて涙を流して喜んだ。

 

秋祭りの夜がきた。

早太郎は白木の箱に娘の替わりに入れられ,娘の白無垢の着物を掛けられた。

そして箱は村人に担がれ神社に向かった。

その家の人々はいつまでも不安と感謝の気持ちで皆早太郎を拝んで見送った。

箱を担いた村人は神社の境内に着くと,早太郎を入れた白木の箱を神社に残し,足早に村に戻っていった。

 

神社に闇が訪れた。どれほどの静寂な時間がたったのだろうか。

やがて木々がざわざわとゆれはじめた。

再び音が消えたとき,そこの木影から恐ろしい目が箱を見つめていた。

そして,人がいないのを確認した後,箱の前に怪物が姿を現わした。

 

「今宵,ここには信州信濃の早太郎はおるまいな。このことはけっして早太郎には知らせるまいぞ」

白木の箱の周りを歌い踊るように怪物が回った。

一回,二回,三回。そして,怪物は箱に手をかけ蓋を空けた。

そして,娘の着物をとろうと手をかけた。

その時だった,白無垢の着物が宙に舞った。早太郎が怪物に飛び掛ったのだ。

怪物はすばやく飛びさがった。

再び早太郎は怪物に飛び掛かり,怪物はすばやく早太郎の背中に鋭い爪を立てた。

早太郎は怪物に覚えがあった。そうだ,あの時,裏山にいた怪物だ。

だがその時よりずっと強い。二つの影が絡み合い,転げまわった。

怪物の叫び声が甲高く響いた。

はげしい死闘は明け方まで続いた。

やがて怪物の動きが弱まった時,早太郎が怪物ののどに噛み付き戦いは終わった。

 

朝が来た。恐る恐る神社に様子を見に来た村人はそこに死んでいる怪物を見つけた。

怪物の正体は年老いた大きなヒヒだった。

だが早太郎はそこにはいなかった。その代わり,点々と血が信濃の方角に続いていた。

「早太郎は信濃の光前寺に帰ったに違いない」人々はそう感じた。

しかし相当の傷を受けているはず。

本当に信濃まで帰れるのだろうか。人々はただ早太郎の無事を祈った。

 

早太郎は傷つきながらも光前寺に向かって走った。

来たときに比べ帰りの道はさらに長かった。

傷ついた早太郎にはつらく長い旅だ。

早太郎は駆けた。だが村にたどり着く前に,もう早太郎は走れなくなっていた。

早太郎を励まし,早太郎を歩かせたのは光前寺の和尚の笑顔だった。

早太郎は和尚に会いたいという一心で歩いていた。

 

ようやく光前寺の山門が見えた。

早太郎は懐かしい光前寺の山門をやっとのおもいでくぐった。

和尚が早太郎を見つけ,そばに駆け寄った。

「早太郎!おまえは・・。おまえは・・」

それ以上声にはならなかった。和尚はただ優しく早太郎を抱いた。

「ワン」和尚の顔を見た早太郎は一声だけ吠えた。

それが早太郎の最後だった。大好きな和尚に抱かれ早太郎の息はとだえたのだ。

 

「早太郎。おまえは遠州の村人を救ってくれたのだな。

おまえはこの寺のご本尊様,不動明王の化身に違いない。ほんとにありがとう」

和尚の涙が,早太郎の体を濡らしていた。

「これからはずっとこの村で,光前寺とここの村人を守っておくれ」

和尚は早太郎の亡骸を大切に寺に葬ったのだった。

 

第1話 終わり

「ねー,おじいちゃん。それからどうなったの」

「早太郎はね,今も光前寺に祭られているのだよ。

その早太郎の縁で駒ヶ根市は,見付神社のある磐田市と交流を続けている。

そして,駒ヶ根の温泉には早太郎の名前がついたのだよ」

「ふーん。早太郎はこの村の人たちをずっと守ってくれたんだね」

「そうだね。じゃあ今晩はこれでおしまい」

「また明日も昔話してね」

「よしよし。いい子でおやすみ」