そして日々の...

Mar 2004

目次

Mar 27(土):それは本当か?
Mar 24(水):システム手帳
Mar 23(火):名もなき人たち
Mar 22(月):詩
Mar 21(日):いちばんうれしい時とは?
Mar 20(土):データ量
Mar 18(木) :うぬぼれ
Mar 17(水) :批判
Mar 16(火) :絵にかこつけて
Mar 15(月) :才能
Mar 12 (金) :4気筒エンジン
Mar 11(木):意欲
Mar 10(水):すごいと感じる人
Mar 09(火):『がんばらない』
Mar 08(月):わが盤珪さん
Mar 06(土):効率
Mar 04(木):『サンチョ・パンサの帰郷』
Mar 01(月):足を踏む

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Mar 27: それは本当か?

仕事での一場面。
研究開発の現場では、実験により値を求めることが多い。
しかもまだ誰もやったことのない実験や
ノウハウに属するために外部情報がない場合が多い。
いつも直面するのは、
『この得られた実験値を信じてよいのか?』
という問いだ。

予測していた値と10倍も違えば、実験やり直しである。
しかし、2倍だけ違っている場合は、悩みの種だ。
実験の精度が悪いのか、実験の構成に見落としがあるのか、
あるいは2倍が本当の値なのか。
そうなれば、これまでの想定していたスキームに
誤りが含まれていたことになる。

このような苦労の連続が開発の実態だ。

* * * *

リーダにもなろうという年代になっても、
このような問いが浮かんでこない開発者もいる。
曰く、
『手順どおりきちんとやりましたから、大丈夫です。
この値でいい。悩んでもしようがない。』

《そうじゃないんだけど・・
その手続きや実験が、そもそも的外れだったかもしれないんだけど・・
その実験では、誤差が大きすぎるため無意味かも知れないし・・
どこか見当違いがあるはずだ、ブツブツ・・》

しかし通じないんだね、この手の人には。
手順ありき、自分の実験ありきで話を持って来るんだけど、
そこに疑問を呈したりすると、自分が否定されたように
ムキになってしまったりして。

話しはややっこしくなるばっかり!
どうしてアナタは、そんなにオメデタイの?

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Mar 24: システム手帳

職場の後輩との会話の続き。
物理現象を記述する際に、時間を含まない方程式で扱う場合と、
時間項を含む方程式で取り扱う場合に分けるのが常道だ。
前者は時間的に定常的な現象を解くため、
後者は、時間的に動的に変化する現象を解くため
(つまりは過度現象を解明するため)である。
始めから時間項を含む形で取り扱うのが、より一般的だが、
定常現象の場合は、時間項に関し変数分離が出来てしまうため、
結局は、時間を含まない方程式に帰着する。

なぜか分からないが、X,Y,Zの座標変数と、時間変数tとは
どうも対等には扱えない。時間が主軸となり、時間軸に空間変数が、
ぶどうの房のようにぶら下がっている形になってしまう。
逆の方式というのは想像が難しい。

メモに関しても同じだと気づいた。
ある日ある時間に記述したメモは、
その時間軸の切片で切断して見せた世界の記述である。
そこには時間変化という要素は入り込む余地がない。
日記は、断面世界を時間軸にそって整列させ束ねた堆積物と
言うことが出来る。

時系列メモの弱点は、時間変化するダイナミックな運動を、
捉えづらいことであろう。
固定綴じのノートの不自由さはここにあると思う。

小生が、システム手帳を愛用して已まないのは、
テーマを主軸にして、時間軸を副にして記述できる点にある。
つまり、時間をぐちゃぐちゃに崩して、
同じテーマに関して昔考えたことと、今考えていることを、
一緒に綴じて眺められることだ。
あるいは、『昔』記述したページに、『今』を記述し、
どのような時間変化があったかを自覚できることだ。

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Mar 23: 名もなき人たち

関連企業の若手サービスマンと、客先へトラブル対応で出掛けたときのこと。
『人生の約束された人たちの輪ですね』と、その彼は口にした。
われわれの目の前には、発電ボイラー炉の試運転で緊迫する制御室の光景があった。
客先の作業員が20人くらい缶詰状態になり、刻々と変化するボイラーの燃焼状態を
現場と無線で連絡を取り合っている。
このきびきびと働く人々は、自分の役割が期待され、
まさしく企業の中で人生が約束されている人たちなのだと
言いたかったのだと思う。

振り返って自分に目を向け、
なんと、ささやかで目立たぬ仕事をしているのだろう、
と自嘲気味だった。

しかし名もなき人たちが、今日もドライバでねじを締めている。
販売資料を夜遅くまで作成している営業マンも居るし、
実験を繰り返して、再現性をチェックする技術者も居る。
この人たちに光が当たったり、名誉が下ることはない。
ただ黙々と仕事を進めているだけだ。
これが人生の実態なのだと思う。

『これはオレのやった仕事だ』
『あいつには業績がない』
などと、口にするお偉いさんが居た。

それははっきり誤りだと言いたい。
名もなく、声もなく下積みのような仕事をこなしている人たちが
じつは世の中では大部分で、こういう積み重ねの上にわずかな成功がある。
しかも、華々しくスポットライトを浴び、舞台に上る功労者は限られているのだ。
運不運もあるし、声の大きさもある。

良いことは自分の功績で、都合悪いことは他の誰かが悪いという
そんな卑しい考えも、見え隠れしていたりする。

そういう世の中の真実を知ってか知らずか、
人前でそんな発言をすること自体、
とても恥ずかしいことだ。

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Mar 22: 詩

若い頃から詩を読む機会が少なくなかった。
若い頃は、知に訴える詩に魅力に感じた。
村野四郎や西脇順三郎など懐かしい名前だ。

それは魅力を失った訳ではないが、
このごろは、もっと深いところに訴えるもの、
つまり情の世界に響くものに魅力を感ずる。
遠い日に聞いた子守唄のような、
感情の奥底に響くような詩だ。

詩は泣けるものでなければならない。
カタルシスのないものは、
愛唱されないのではないか。

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Mar 21: いちばんうれしい時とは?

誰かに褒められれば、うれしいに違いない。
だが実態と合っていなければ、単にお世辞になってしまう。
じわじわとうれしさを感ずるのは、
自分で自分を褒められる時、
じっと振り返って『これでよし』と言える時。

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Mar 20: データ量

脳の働きの活発さを表す指標として、
処理しているデータ量の多さがあると思う。
アイデアを生み出す創造的な状態にある脳は、
きっと豊富なデータ処理が行われているはずだ。

さらに、活発な活動内容には、
相矛盾する要素が絡んでいるように思えてならない。
ひとつは分散的な側面。つまり関連の薄い領域を結びつけ意味付ける連想力。
もうひとつは、一点に集中する偏執狂的な側面。

ところで、職場で行われる議論で、
容易に論破できてしまうような提案は、
そもそもデータ処理量が絶対的に少なく、
想定している場面を(自分の好みに従って)限定してしまっている場合が多い。
提案を聞く側の方が、より複雑な可能性に気づいている場合、
一部だけを剽窃した論の立て方は、
恣意的で信用できない。
要はアブナッカシイのだ。

自分に陶酔すると、脳が麻痺してしまい、
複雑な事態を総合的に俯瞰することを妨げる面もある。
しかし、活発な活動の原動力は自己陶酔が伴っており、
この辺の兼ね合いは微妙で難しいところだ。

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Mar 18: うぬぼれ

スキーを引き合いにした話。
若い頃は都会的な雰囲気の青年だった(はずの)筆者も
田舎暮らしが板についてきて、
軽トラックに板やらブーツやらを放り込んで、
スキー場に出掛けてしまうスタイルが
出来上がってしまっていた。

すると明らかに都会からやってきたと判る、スキーヤー達と目が合う。
車もウエアもピカピカで、遠くから高速代を払ってやって来たのだ。
気合の入った彼らのハイな状態からは、
サンダル履きで来たような緊張感の無さというか、
汚れた軽トラなんかで、来てほしくないんだという
そんな刺さるような視線を感ずるのである。

スポーツは、自分のプレーに酔える部分が必要で、
それはニューモデルのウエアだったり、
デモンストレータと同じ道具だったりする。
そのウキウキさせる環境や、自己に酔えるお膳立てを
無残に否定してほしくないという視線なのである。

* * * * * 

ここからが本題なのだが、
自己陶酔状態の中で行われるスキーだから、
ゲレンデの上では、うぬぼれの権化が滑っていると言って良い。

かつて先生か誰かに教えられた言葉は、けだし名言。
人の滑りを見て下手だなと思ったら、それは自分と同じレベルと思え。
あの人は自分と同じレベルだと思ったら、自分より上のレベル。
自分より上だなと感じたら、かけ離れて上手な人と思え。

最近、古今亭志ん生が同じ言葉を語っていたと知り、
達人の認識は不思議と一致するものだ、と感じ入った。

『だいたい噺なんてえものは、人の噺をきいてみて、
「こいつは自分よりまずいナ」と思うと、それは自分と同じくらいの
芸なんですよ。やっぱし人間てえものには、多かれ少なかれ
うぬぼれてえものがあるんですからね』
 ※紀田順一郎「翼のある言葉」より

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Mar 17: 批判

苦労や失敗をたくさんして少しはまともになったのか、
どろどろした人間関係や、人間や自分までも、
嫌いになったりして来たせいかもしれないが、
他の批判をすることが面白くなくなった。
他の批判を聞かされるのは、さらに面白くなくなった。

ちょっとは格好をつけて語らせてもらえば、
他の批判が面白いのは、どこかこちらがコンプレックスや
傷を抱いていて、その負の部分が埋められる錯覚が
あるからのように思える。
負に振れていた自分の収支が、他を低めることで、
ゼロに戻せるように見えても、そこから自分の収支が黒字化して
針がプラス側に振れる訳ではない。

いま僕たちに必要な栄養素は、
『ワクワク』することなのではないだろうか。
生きていくことの原動力や、楽しさは、
新しい発見があったり、他と理解しあえたり、
また自分が少しは真っ当に進歩したかな、
と思える瞬間と思える。
これが収支をプラスにする正体だ。

批判には『ワクワク』がない。
過去の詮索にも『ワクワク』がない。

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Mar 16: 絵にかこつけて

正確に対象を見て、写し取るということは難しい。
たとえば野外に出て家並みや風景をスケッチするとしよう。
われわれのほとんどの人が、頭の中の観念を引張りだしてきて
手を動かしてしまう。

家は直方体の箱、空は青い、山は緑。
近いものは大きく、遠いものは小さい。
家の軒先は遠近法で斜めの線になる。
しかしこの斜めの線は、見たとおりに描くのは大変難しい。
だから家が浮いたようになり歪んでしまう。

頭の中の観念が邪魔し、われわれは見えている通りには
ものを見ていない。
実はこれまで獲得してきた知識、常識、イメージを
自分で繰り出して見ているのだ。
対象は、単に知識、イメージを脳の中で喚起するために
使われるだけだ。
絵を描くことにかこつけて言えば、向こうの家を発見したら
あとは自分のイメージを持ち出してきて、
手を動かしてしまう。実は対象をありのままには見ていない。

人間の目は感度や応答に関して、カメラとは比較にならないほど
優れた特性を持った器官である。
しかしその優れた特性は、脳の認識作用と意味の解釈が
結合した結果生まれている。

上達するとは、ある意味でセオリーとなった鉄則を
自分の血肉とする修練である。
人間は、子供から大人への成長過程で、
『見ること』に修練を積み、みな達人となっているのだ。
一瞬見ればすぐそれが何であるかが分かる。
しかし達人になるために積んだ修練が絵を描く上で
最大の難関となる。

幼子のように見ること、見ることに下手になること、
下達することが必要なのだ。
石膏デッサンを学ぶのも、積んでしまった修練を
破壊し、見えたまま描くためのトレーニングである。

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Mar 15: 才能

『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』によると、
シーレは街中でもカフェでもいつでも鉛筆を持って、
スケッチをしていたそうだ。
手首の訓練のためなのだろうか、それとも構想を練り上げる
プロセスのひとつなのか、それは判らない。
カフェで描いたと思われる2枚の女性肖像画が伝わっている。

余りに飛びぬけた才能というものは、見る者に畏怖すら抱かせる。
肖像画は、名刺の裏に鉛筆で描かれたものだ。

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Mar 12: 4気筒エンジン

4つのピストンのうち、2つは順調にパワーを出している。
残りの2つは何だか調子悪く、その1つはあえぎながら何とか回っている。
ところが最後の1つは、オイルリングの調子が悪いのか、
シリンダとの摩擦力が強いのか、ガソリン混合気が爆発しても、
内部ロスの方が勝ってしまい、他のピストンに引きずられて、
回っている振りをしている。

したがって4気筒エンジンは、稼動はしているが効率が悪い。
4気筒は一体となって回っているため、
どこが効率を下げているのか、ひとつひとつ分解してみないと
自分から回っていないピストンを言い当てられない。

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Mar 11: 意欲

入社したばかりの頃、50を越えた年配者の
意欲のなさを不思議に思っていた。
いや、つい最近まで理解できなかった。
しかし、とうとう自分もその年代となったためだろう、
急速の意欲の衰えというものがあるということが
わかるようになった。

退屈な会議に飽き飽きする。
周囲で若い者が騒いでいることが、
大したことに思えない。
関心を持つレンジが次第に狭くなる。
やがて時間がただ過ぎていくのをじっと眺めるようになる。

* * * * *

T.S.Eliotの『一族再会』というドラマを、大学で
講読する授業があった。詩に近い英文で大変苦労したが、
はじめのAmyの独白は、老人の内面の心理描写として秀逸である。
おかげで大学時代は、Eliot詩集を常に携帯するはめになった。

何十年ぶりに『一族再会』のAmyの呟きを読む。
表現の輝きにいまさらながら驚く。
ちょっとさわりを書き出してみたくなった。。。
DENMANは召使の名前である。

[DENMAN enters to draw curtains]
Not yet ! I will ring for you. It is still quite light.
I have nothing to do but watch the days draw out,
Now that I sit in the house from October to June,
And the swallow comes too soon and the spring will be over
And the cuckoo will be gone before I am out again.
O Sun, that was once so warm, O Light that was taken for granted
When I was young and strong, and sun and light unsought for
And the night unfeared and the day expected....

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Mar 10: すごいと感じる人

仕事でも趣味でも、人のすごさを感じる瞬間には共通項がある。
揺らがない強烈な目的意識が垣間見えたときだ。
その人の能力とか資質とは、少し違う。
WILL(=意思)に結びついた何かだ。

逆に、人の軽さを感じてしまうのは
思いつきで物事を始めたり、語ったりしていることがわかる時。
言っていること、やっていることが一貫していない。
目的意識が薄く、だから道草ばかり喰っている。
どこか軽くて無責任。

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Mar 09: 『がんばらない』

先週土曜日、『がんばらない』などの著書で知られる
医師鎌田實さんの講演会を、妻と聴いた。
ご著書の『がんばらない』は、実は以前買い求めて
読みかけになっていたのを、今度は妻が読み始め、
講演会が近く開催されるらしいことを聞きつけた。

鎌田さんは、末期医療やチェルノブイリ原発事故の医療活動に
長年携わり、現代の医療の失ってしまったものを、
ふたたび呼び戻そうと活躍されている方だ。

講演は、リラックスした雰囲気の中で、これまで関わった
医療の事例(というよりも患者さんの生き様)を紹介されていた。

印象的だったのは、胃壁外部から進行する末期癌患者の女性の話である。
この癌の発見は難しいらしい。
鎌田さんのところに来られる前に、大病院で治療を受けていたのだが、
その名の知れた医師は、こう言ったそうである。

「もうすること(医療)は、ありません。
入院患者が満杯なので、退院していただきたい」

その患者さんは、信頼していた医師から放り出され、
捨てられたと感じたと、あとで述壊したそうだ。

* * * * * * * *

医療技術マニュアルの中から、
患者に必要な治療を選び出し、施すことが医療というもので、
医療技術の及ぶ範囲は医師の仕事だが、
直せない末期患者は、仕事の対象ではないと
線引きしているのだろうか。

医療は、患者のためにあるのではなく、
医師が生計を立てるための仕事
となってしまったのであろうか。

医療の中心にいるのは患者ではなく、
医者の側になっているのが事実なのだろうか。

語られていた言葉の中で、
命に関しては定まった答えや向き合い方は、
ありませんと言われていたのが、印象に残った。

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Mar 08: わが盤珪さん

若い頃より惹かれ続けてきた盤珪禅師は、
勉強した学問の深さはもとより、
修行の激しさにおいて誰にも引けをとらない。

座禅をし続けてついに足が腐ってしまったと、
伝説に伝わっているのが達磨禅師だが、
盤珪さんは座り過ぎて尻が床擦れになり、
座布団が血で真っ赤に染まったとのことだ。

しかし説法の中で、自分は死ぬほどの修行をしたけれども
そんな苦労をする必要はなかったと語られている。

説法は、日常語でやさしく語られている。
しかし内容を了解するのは、並大抵ではない。
わかったようでいて、わからない。
この難しさは、説法を聞いている側の耳や目の中にある。
盤珪さんは、決して難しいことを言っていない。
このことがわかるのに、私は何十年と掛かった。

『一切のことは不生で調うということを、
ひょっと思い付き、弁えまして・・』
(盤珪禅師語録集より)

『・・人々皆親のうみ付けてたもつたは、仏心ひとつで、
よのものはひとつもうみつけはしませぬわひの。
しかるに一切迷ひは我身のひいきゆえに、
我出かしてそれを生まれつきと思ふは、
おろかな事で御座るわひの。・・』
(盤珪禅師語録集より)

説法は、すべてがあらわに語られ、何も付け加えるところがない。
そしてひたすら親しみを覚える。

盤珪さんは1622年3月8日、
ちょうど382年前の今日、姫路市で生まれた。

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Mar 06: 効率

物事を進めるには目的がまずあって、
次に達成のための方法があり、その効率という順序になる。
サラリーマン生活に長く漬かっていると
自然とこの最後の効率だけ考えればよい、
という精神態度(ショートカット)が身に付く。
難しいことを考えることより、手を動かして
さあ仕事だ、仕事だ!というわけだ。

私生活においても、効率という尺度が幅を利かせて
なぜそれをやるのかということより、
人より手早くやってしまうことや、人を出し抜くような方法を考える、
あるいはマニュアルを身につけることに
喜びすら覚えてしまう。

しかし少し冷静になれば、世の中には、
『効率』とか『目的』という言葉を結びつけること自体、
意味を成さない事柄がたくさんある。

たとえば人生。
効率の良い人生とは、何を意味しているのだろう?
人生を圧縮して、さっさと一丁あがり?
または、自然の目的。
命の効率。
宇宙の無駄の排除。

こうしてみると、じつは『目的』や『効率』が
支配する企業活動とか受験勉強などの世界の方が特殊であり、
そうでない世界の方が一般的で、広大で、
『目的』や『効率』の世界を支えていたのだ、と判る。

効率主義のサラリーマン生活を支える暗黙の了解事項が、
たとえば定年となり崩れてしまうとき、
愕然となり、方向舵を失なうこともあるのだろう。

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Mar 04: 『サンチョ・パンサの帰郷』

先日、東京の書店に出掛けた折に、石原吉郎詩集を購入した。
目的のひとつは、昔読んだ詩の表題を思い出すためだった。
実は30年前この詩集を愛読していたのだが、
どうしても蔵書の中に見つけられなかった。
30年の月日をまたいで装丁も変わらず、
同じ本が購入できたことに驚く。

『事実』    石原 吉郎

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
・・・・
見たものは
見たといえ
・・・・

記憶とはあやふやなものだ。
『事実を事実として言え』
と思っていたのだが、本当は上述の通りだった。
先月の記述 を訂正させていただく)

詩集の表題は『サンチョ・パンサの帰郷』。
若い頃の読みかたは情緒的に過ぎたようだ。
再読すると結晶化した言葉の屹立感に感銘を受ける。

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Mar 01(月): 足を踏む

昨日、妻と一緒に、落合恵子さんの講演会を聴いた。
落合さんは一貫して、出生、性別、年齢、社会的立場などの
違いから生ずる、差別やいじめ、虐待の問題に取り組まれてきた。

これらの問題を、的確にわかりやすく、
「人の足を踏まないこと」
「人に足を踏まれないこと」
と表現されて、さすがと感心した。

とかく妻から、遠慮っぽい人なんだからとの指摘を
頂戴している私としては、ちょうど良い機会かもしれないと、
「人に足を踏まれても、人の足は決して踏むまいというのが
ボクの信条なんだよネ」
という弁明の言葉をふと漏らした。

すると妻。
「そうね、アナタは不思議と人の足を踏まない生き方を
通して来たかも知れないわね。。。
でも私はずいぶん足を踏まれた気がするけど。。。」

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