そして日々の...

Apr 2004

目次

Apr 30:ゴールデンウィークは何をする?
Apr 28:小さいところにこそ
Apr 25:ふたたび詩のようなものを
Apr 24:無意識
Apr 21:自己バイアス
Apr 19:呼びかけるもの
Apr 18:ブラックの言葉
Apr 17:少しコンテンツが増えた
Apr 15:大丈夫なのか?
Apr 14:ときには詩のようなものを書き
Apr 09:了する
Apr 08:何が起きたの?
Apr 07:いかに不自由だったか
Apr 03:やはりプロはすごい
Apr 02:達成の恐怖
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Apr 30: ゴールデンウィークは何をする?

あわただしく東京と駒ヶ根を往復している内に
ゴールデンウィークに突入してしまった。
今年は大型連休で海外に出掛ける人は、
昨年の170%などというニュースが聞こえる。

例年連休中の、緊急連絡先を職場で登録するのだが、
今年は、期間中すべて「自宅」と記入。

大型の遊び方をして《自分をしばる》ことはやめようと思う。
『気ままに過ごす時間』という贅沢を味わうつもり。
ハウスの補修をしたり、妻と温泉に出掛けたり、
ふらっと買い物に出掛けたり、気分主義で行こうという訳だ。

************************

本屋さんで、高島忠夫さんのうつ闘病記を立ち読みした。
悲しむにも、絶望するにもエネルギーが必要で、
うつはそれすらも奪ってしまうことが書かれている。
ボーッとして何もできない、する気すら起きないというのは
大変なことだ。

悲しみや怒りの感情が湧きあがるうちは、
まだみずみずしい情動が流れている。
意欲や感情が枯れてしまうとモノと同じ。
感情を生み出すおおもとを侵食する無力感。
そこから這い出す力は、一体どのようなものなのだろうか。
自力本願で生きてきた人の自力が失われたようなものだ。
(などと考え込むなら、まず本買えよー)

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Apr 28: 小さいところにこそ

映画の味わい深さに引き込まれてしまうのは、
ホンのちょっとした小さい表情、しぐさであることが多い。
細やかな配慮が行き届いた映像表現に出会うとうれしくなる。
最近は、派手なアクション、スリリングなシーンを
看板にする傾向が多いが、映画の楽しみはそればかりではない。

映画『MATRIX』のビデオを、もう何度目になるのだろうか、
先日からパラパラと見ている。第1編に相当するはじめのものだ。
今回とても気を惹かれるシーンを発見した。

主人公ネオを連れて、預言者に会わせに行く車内のシーン。
ネオは、車外に見えるレストランを指し、
『あそこのメシは、うまいんだ。。。
だけどみな作られたモノだったんだね。。。』
後に恋人になるトリニティは言葉なく、
「お馬鹿さんね」と「悲しいわね」とが混ざった
印象的な横顔を見せる。
この表情はとても魅力的だ。

小さなところにこそリアリティが隠れており、
大切なものが宿る、という気がしてならない。

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Apr 25: ふたたび詩のようなものを

『立ちどまって』

ちょっと、キミ
妻の話を、最後まで聞いたことがありますか?
「そうじゃない」と途中で反論したり
「それはね、こうなんだ」と教えを垂れたりせずに
最後まで うなづいて

子どもの言っていることを
幼く感じても 黙って
理解しようとしたことがありますか?
「オレの経験では」と遮ったり
「まだまだだ」と片付けたりせずに
子どものメッセージを
全身を耳にして

気がつくと
耳に痛いこと
我見に逆らうことには
わけも分からなくなって
せわしなく口ばかり働かせる

あるいは
こちらが優越していると思うや
自分の優越さを
相手に押し付けるようなことばかり

人を理解するとか 分かるとか
つい口にしてしまうけれど
一体それが何を意味するのか。。。

与えられた人生の時間
お互いが 分かるところから
始めなくてはいけないのに

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Apr 24: 無意識

職場で雑談していて、脳や無意識の話題になった。
人間の意識(顕在意識)は、
結構偉そうに一番という顔をしているけど、
脳の持っている容量やポテンシャルからすると、
ほんの一握りの表層に過ぎないのではないかという話になった。
無意識(潜在意識)の領域は、それよりもはるかに大きく、
また立体的に広がっていそうな気がする。

ボクたちは、いつも意識により呼吸運動を管理している訳ではない。
睡眠中の呼吸や心臓の拍動、消化器の活動など、
生体の維持に関することは、ぜんぶ無意識の領域にお任せだ。

記憶についても、意識できるのはホンの一部分だけだが、
一生見聞きした内容を脳はすべて記憶している、
とある書物で読んだことがある。
ただし、引き出せないだけなのだと。
不意に高いところから落下する事故に遭遇した人は、
落ちていく何秒の間に、自分の一生分の記憶が、
目の前のスクリーンに
映し出されるという経験をすることがあるらしい。

アイデアが生まれる直前も、
なにか無意識の方でもぞもぞと動いていて、
『もうすぐ、来るよ!』という予感がある。
アイデアを思いつく、と言うけれど
本当は無意識下で、
一所懸命に答えを探す作業をしているのだけれど
意識できないだけではないのか、と思う。

そんな想像をあれこれしながら、
結局、意識とはパソコンで言えば表示装置に過ぎなくて、
計算やら処理をしている核心的な処理機能は別の場所にあって、
こちらの方が、その人そのものかもしれないな、と思う。
まあ、いろいろな情報を脳に放り込むために、
キーボード付きの表示装置なのかもしれないが。。。

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Apr 21: 自己バイアス

自分の都合の良い方向へ、自分を楽にする方向へと
ものごとを判断し実行してしまう甘さを、われわれは内包している。
自己の立場から来る判断バイアス、あるいは行動バイアスを、
仮に『自己バイアス』と呼ぶことにしよう。

振り返ってみると、自分が一貫してしつこくこだわってきたテーマは、
この自己バイアスの実態をより明瞭に見通したい、
また克服したいという執念が出発点であったように思う。
(たとえば身びいき

議論をしたり疑問や批判が提示されたりした時に、
自己バイアスが強く作用し状況判断が甘くなり、
楽観的な展開を空想する方向に、
議論が逸れてしまうことがある。
その結果、迫り来る困難さに立ち向かわず、
必要な議論や対立を回避してしまう空気が生まれる。

いわば自己生成麻薬のようなもので、
自分の脳が安心でき、不快な気持を払拭するように、
状況判断が導かれ、対応の遅れにつながる。
ダチョウの頭隠しで、気分主義と言われても仕方ない。
課題の解決が求められているのに
やっていることはと言えば気分の解決ばかりだ。
これでは事態は回復しない。

他からリスクを指摘された時、
疑問を呈した相手まで非難したり、
何とか言いくるめようとする場合もある。
自己バイアスの存在を自覚しない人間を相手にした日には、
もうこれは、議論じゃない状態で、
グチャグチャの泥試合の場となってしまう。
まして企業内の立場が絡んでくると、
事態はより一層深刻だ。

事態は自分に都合の良い方向には進まないものだ。
勝手な夢想をよそに、
どんどん事態は悪化していくのが常である。

自己バイアスはなかなか無くせない。
しかし、自己バイアスの存在は強く自覚したい。
このレベルをクリアした人同士で会議したら、
どんなにすっきりした爽快な会議になるだろうか。
どんなにか効率が上がり、成果が出てくることだろうか。

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Apr 19: 呼びかけるもの

離れたときにようやく見えてくるものがある
失ったときに初めて価値が理解できる
それは内側に棲んでいたもの
しかし見えなかったもの

言葉の響きに詩を見つけたり
風景の中に光を感ずる
みな、名前もなく形もなく
当たり前のようにそこに開かれてあり
だから素通りしてしまう

幼い頃手のひらで掴んでいたもの
概念では捉えようもなく
幼心に戻り感じ取るだけ

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Apr 18: ブラックの言葉

先日東京で、仕事の帰宅途中で雨に降られた。
入ったことない古書店にふらりと立ち寄った。
絵画とか詩とか、およそ大衆的でないジャンルを集めた、
近頃まれな古書店だった。
ここで、『ジョルジュ・ブラックの手帖−昼と夜』を入手した。
同名の画集『ジョルジュ・ブラックの手帖』に納められた
アフォリズムのみを集めたものだ。
ブラックの言葉の深さ、簡潔さにうたれた。

176編の短い言葉たちは、
35才から70才までに書き溜められたものだという。
解説に、『・・単純に計算して1年間に5編の割であるから、
その分量は決して多くはない。』とある。

多くないというより、絶対的に少ないと言うべきだろう。
1編が1行か、もしくは2行なので、1年間にせいぜい10行である。
この言葉への姿勢は、厳しいものがある。

シビレて唸って納得してしまった言葉。
『画家は形と色で考える。対象とは詩である』

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Apr 17: 少しコンテンツが増えた

今年こそ、家族写真入年賀状を実現!
との家族(妻)の強い動機付けが原動力になり、
デジカメから始まって、パソコン、プリンタ、ホームページ開設と
この半年は、我ながらどこまで行くのか、
とどまるところを知らない勢いである。

友人に言わせると、
一たび始めるや坂を転がり落ちるように底まで転落していく、
というのが私のハマリ方という。
(ま、血のせいでしょうね)

ましてや個展をやらずとも自作品を発表できてしまう
このWEBサイトというものは、
とてつなく奥の深い魅力(闇)である。

それはともかく、
これまでスキャナでスケッチを取り込んでいたが、
A4サイズ対応で、画像は小品に限定されていた。
このたび新規に照明の設備導入により、
(と言っても、勉強スタンド1個のことなんですが)
大きなサイズの絵画も、明るくデジカメで取り込めるようになった。

そんな訳で、この10年くらいに描き溜めていた
大き目の絵画を、ビシバシと撮影中で、
ギャラリーのコンテンツが大分増えた。
(まったく、どこまで調子に乗るのやら。。。)

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Apr 15: 大丈夫なのか?

仕事の現場で、
大丈夫なのか、と若い技術者に訊く
すると、大丈夫です、と答える
実は、
大丈夫『だろうと思っている』だけなのだ。。。

こちらとしては、どういうふうに大丈夫なのか、
根拠を知りたい
どこまで確かな事実で、どこから分からないのか
それを知りたい

軽々しく大丈夫だと答えるうちは眉唾ものだ

一方『うーん』と唸ってから、しばらくして、
事実を重い口で語るようになると
初めて真剣に聞く時が来たわけだ
一人前になってきたのだ

自分の願望をもてあそぶのではなく、
向かい合っている現実に眼が向いているのだ

**************

映画の1シーンを思い起こす

終身刑の囚人を仮出所させるかどうか
収容所で査問会が開かれる
老いた囚人は、答える
『自分は愚かだった。なんであんなことをしたのか
とても後悔している。2度とあんなことはしない
自分は更正している』

すると囚人のカードに、ガチャリと
『REJECT』(否決)の判が押される

こんな査問会が何年も繰り返される
囚人は、すっかり年老いた。
疲労感の漂う表情で、こんなふうな言葉を漏らす
『こんな査問会をいくら開いたって無駄だ。
人間は、更正なんてしやしない。
愚かさだって、変わりゃしない。
こんな査問会は、早くお開きにしましょうや。。。』

この時、ガチャリと『ACCEPTED』(仮出所)の文字が
カードに刻印される
  映画「ショーシャンクの空に」より

囚人は、自分の願望を述べるのをやめて
自分の実態を語れるようになった、
ということなのか
あるいは、ウソつく元気も失せて
老いぼれて無害となったためなのか

映画は何も語らないのだが

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Apr 14: ときは詩のようなものを書き

『めげてしまった夜には。。。』

そこにうずくまって
何べん考えたって同じだ
キミは負け犬となって、
いつまでもそこにへたりこんでいてはいけない

人間はうずくまるようには出来ていないのだから
希望と目標を持って前進している姿こそ
生きているといえるのだから

『私は負けた』と深く自覚する時もあるだろう
キミはその真っ只中にいるのかもしれない

負けたのなら勝てるところを目指して立ち上がればいい
負け続けたって、次々と挑戦していけばいい

たとえ一生そんなことを繰り返していたっていい
なぜなら、その姿こそ生きる姿勢そのものだからだ

足は前に出るようになっている
眼は前を見るように出来ている

キミの心は
足と眼の上で
まっすぐ正座せよ

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Apr 09: 了する

刺激が脳にインプットされると、すぐさま
人生で蓄積してきた反応パターンが選択され作動する。
それが何であるかの認識や、付随する怒りやら不安、
喜びの感情、悩みが発生する。

この反応パターンは、自らの体験の中から、
学び取ったもので、自分を離れて外界に
普遍的に存在する実体ではない。

外界からの刺激は、この脳の反応パターンを介して
インプットされるため、外界の存在のありのままの姿や
刺激を受け取る認識作用を、
自分の色づけなしに認識することはできない。

《外界存在のありのままの姿》という言葉自体、
実におかしな話である。認識主体抜きに存在が成り立つか。

それはともかく、自らの眼を介さずものを見ることはできず、
必ず自分色に着色して、物事を見、感情を抱き、また悩む。

この辺の事情に関して、思い起こすのは、無業禅師の言葉だ。
何を聞かれても『莫妄想!(妄想するなかれ!)』で一生通されたらしい。
盤珪さんは、ただやさしく『不生でいなされ』と説かれた。

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Apr 08: 何が起きたの?

偉そうに言わせていただけば、人間と言うのは、
立場や居場所が変われば、言うこともやることも、
平気で180度ひっくりかえってしまうものだ。

信号待ちをしている時は、目の前を通る車線が
早く『赤信号』になれと祈っている。
しかし自分が走っている時は、信号は永遠に『青信号』なれ、
と祈っているはずだ。
ほんの90度違う道路にいるだけでこうも違うことを思う。

仕事柄、技術の看板を背負って、客先で発生したトラブル対応に
出掛けることが多い。呼び出しを喰らう、という感覚に近い。
はじめから保身の態度で身構える。

しかし場数を踏むうちに、次第に気付いたことがある。
(1)お客さんは、何よりも起きた事実を正確に知りたがる。
  『言い訳はいい、何が起きたの?』
(2)トラブルの原因、理由を把握したい。
  『なぜ、それが起きちゃう訳なの?』

この現状の把握と原因の2つが納得できれば、
お客さんから笑顔が出てくることもある。
一緒になって解決のための協力をしていただけることもある。
事実を共有できたとき、立場は違っても、
解決という目標に向かう同士になるようなものだ。

一方、始めから自分の保身のため、都合の悪い事を伏せて
事実を歪めていると、お客さんは客観的な事実が掴めなくて、
苛立つものだ。疑念を抱く。
それに対して、さらに防御網を固めていく。
ますます信用されなくなる。。。。
これが対極にある悪循環モードである。

たとえば購入したばかりのデジカメが動かないとき、
きっと店員に言うはずだ。
『このカメラ、どうなっている訳?』
『何でそうなっちゃうの?説明してよ』
自分がお客さんの立場で、180度反対側に居るならば、
容易に察しのつく話なのだけれどねぇ。。。。

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Apr 07: いかに不自由だったか

あれをやらなくちゃいけない、あー、これもする。
こっちでは、また問題発生だ、と次々とやるべき事柄は増えていく。
しかも期限は迫ってきて、輪をかけてプレッシャーがかかる。
このようにして気持ちはゆとりを失い、平静さのないまま、
モミクチャになりながら、サラリーマン生活を送ってきた気がする。

しかしこれは、見ようによっては、
自分で自分を縛っている状態とも言える。
てんてこ舞いしながら、義務の鎖を次々とかけていく自分と、
うんうん唸りながら義務をこなす奴隷のような自分がある。

義務の鎖をかける半分の自分は、
自分を縛るためにエネルギーを費やし働いている。
よく考えれば、これはとても滑稽なことだ。

そんなものは要らない。
本当に今すぐやらなければならない一大事なんて、
生涯でそうめったに在るものではない。

見栄を張るため、格好つけたいためだったりしたら、
ますます変だ。何のための人生だろう。
本当にやる価値のあることのために、
頭は体の上に乗っている。
仕事でも私生活でも同じだ。

私の好きな言葉。
『悩みは仕事よりも多くの人を忙殺する。
なぜなら、多くの人たちが、仕事よりも
悩みと格闘しているからだ。』
(エルバート・ハバート)

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Apr 03: やはりプロはすごい

たとえばランでもシクラメンでもいいけど、
お店から花が咲きそうな鉢を買ってきて、
そのシーズンを枯らさないように育てるのは比較的容易なんだよね。
日当たりの良い所で、水をやればまず失敗しない。

しかし美しく花を咲かせるために、苗から育てるとか、
来年もきれいな開花をさせたいとなると、途端に難しくなる。
その草花の性質や育成法、たゆまぬ観察と手入れ、
いろいろな病気を知り尽くすと言った、バックグランドの知識、経験が
不可欠となってくる。
じゃ参考書があるかといえばそんなことは書いていない。
先人に師事し、教えてもらう覚悟が必要になってくるんだね。
そのくらいやらないと深い知識は、身に付かない。

この辺を通過するかどうかが、その道のアマとプロを分ける
境界線なのだろうと思う。独学で行けると考えているうちは、
やはりアマチュアなんだと思う。

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Apr 02: 達成の恐怖

熱望し憧れていたことがいざ実現するというシーンで、
ふと我に返り思うことがある。
『これが本当に自分が望んでいたことだろうか?』
『これで本当にいいのか?』
こういう心理とはどこから生まれてくるのだろう。

余りにも熱心に達成にこだわってきたため、
その場面だけに焦点を絞る生活を送ってきた。
そして、達成後のこと、波及する事柄を、
実は余り想定していなかったのだ、と初めて気付く。

そこに虚が生まれ、恐怖に似た感情が沸き起こる。
『ここで踏み出すと、一体この先に何が起きるのだろうか?』

人間の脳の機能は、注目している部分だけを
拡大鏡で見ている状態と同じだと、読んだことがある。
達成以外のことには拡大鏡が向いていないので、
結局、何にも見えていないし考えていないのだ。

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