日々の思い...

Nov. 2004 Contents





Nov 29:講演会で


先日の土曜日、所属しているスキークラブの50周年記念パーティに出席した。メインは、あのノルディック複合の金メダリスト荻原健司さんの講演会だった。どんな話をされるのか全く予想がつかなかったのだが、内容はとても印象的だった。

小学生の頃、荻原さんはいつか自分もテレビに出れたらいいなと、素朴に思っていたそうだ。そして傍らのお父さんに、どうしたらテレビに出れるのかな、と尋ねた。お父さんは、それは簡単だ、オリンピックに出てスキーで一番になればいい、と答えたそうである。

荻原さんは成長するにつれスキー選手として練習に練習を重ねて、やがてオリンピックのノルディック複合種目で、金メダルを手にした。メダルを土産に帰国したとき、成田ロビーでは、金メダルおめでとうの横断幕と観衆が出迎えた。草津温泉(荻原さんの出身地)のはっぴを着たお父さんが中央で万歳をされていたそうだ。

荻原さんによると、この父親の姿を見た瞬間に鮮明に脳裏に思い浮かんだそうである。父親から、オリンピックで一番になればテレビに出れる、と小学生時代に言われた記憶を。

それまではそのような会話すら覚えていなかった。そしてお父さんに深く感謝したそうだ。何をバカなことを言っているんだ、テレビに出れるわけないだろ、と小学生の自分が父に言われたら、今日の自分はない。あのときの父の一言が自分を形成したのだと。

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Nov 25:ドキドキ


秋の景色が美しい。個展以降、絵筆を持たなかった。しかし秋の色の景色にむずむずしてきて、連休中にスケッチに出かけた。中沢という盛り上がった丘には針葉樹のなかに広葉樹の紅葉が混じり微妙な色合いを作り出していた。その秋色がとても魅力的。ちょうど90度違う角度から見た丘の風景を2枚描き始めた。完成はまだまだ時間が必要。

絵を描こうと思い立つときに、どうしてあれほどドキドキしてしまうのだろう。まるで子供が遠足を心待ちにするみたいにいそいそと落ち着かなくなる。息苦しくなるくらいだ。何かを創作しようと思うときは、いつもそんな感じかもしれない。このワクワクした感じはとても好きだ。これがなくなったら人生は灰色になってしまうと思う。

このドキドキという言葉や、ワクワクという言葉は心臓の鼓動の様を言っているのだろう。血の動きと言ってもいい。生き生きするとは、心臓が元気に脈打つことなのだろう。しかしカーッと頭に血が上ったらいけない。

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Nov 24:「何をするか」ではなく・・・


スランプ話に関連してちょっと補足を。
初級のうちは、ついつい余計なことをやってしまうが、上達してくると余計なことをやらなくなるという話を書いた。千住博さんの絵画論の第1章は「何を描かないか」。そして書き出しの言葉は、「自分の中にあるものを描く」となっていて示唆に富む。

この「何をやらないか」ということが、幸福にも関連している。宗教の目指す最終目標もこの点にあるのではないだろうか。そういう意味で、とてもたいせつな視点だと思う。

仏教の書物は、自分なりにこれまでずいぶん読んだ。その結果わかったことは、すごく単純なことである。お釈迦様は、怒りを捨てること、むさぼりを捨てることを、繰り返し様々な説教の中で説がれている。神秘的な深遠なことは一切説かれていない。どちらかというと、日常の生活訓である。

怒りとむさぼりは、自分の方からわざわざ作り出しその結果自他共に苦しむことになる余計なトゲなのだ。これが無意識にひょいと出てきて、余計なことをする。

何かまだ見ぬ不思議なものを手にすることで幸福が得られる、という方程式は誤りだろう。余計なことをしてしまうがために、苦しみを招く結果となっている。何もしない、余計なことをしない、余計なものを捨てていく。そっちの方角なのだ。

寂しいがために、その苦しみしか招かないものをあえて引き寄せてあたふたしていることも、人生には結構あるんだけれどね。この寂寥のようなものは、きっと芸術や文学の母体だな。

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Nov 23:連休を過ごす


長い連休にしてしまったけれど、身の回りの冬仕度ばかりしていた。

ホームセンターに出かけたとき、妻が「面白いものがあるわよ」と手招きするので見に行ったら、園芸冬仕度コーナーに見たことない温室用のストーブがあった。気流をうまく使って効率的に暖める優れもの。上部に吸い込み口があり天井側の温まった空気を吸い加温して地表に吹き出す構造で、サーモスタットで動作する。即購入。あとは温室の内張りをしたり、クリスマスツリーの電飾を飾り付けたり。

冬篭りする前に、サボテンの師匠のところに表敬訪問した。師匠が言うには、「あんまり過保護に育てると苗がひよわになるぞ、たくましく育てないと。」休ませるときは、はっきり休ませた方が良いらしい。過保護にして温度を上げると、冬もダラダラ成長してしまうとのこと。

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Nov 19:実績あるものにすがって


海のものとも山のものともわからないものを採用するよりも、実績のある評価の定まったものを尊重する態度からは、新しいものは生まれにくい。既存の部分からは既存の全体しか出てこないものだ。せいぜい組み合わせが新鮮だねと言われるくらいのもので、次の世代の標準にのし上がるような革新は生まれてこない。

なぜリスクばかりを回避する態度が蔓延するようになったのか。苦労して新技術を育てる労を惜しんでいるように思えてならない。まだやったことのない実験をコツコツ準備し、評価をして、検証していくその地味な仕事。失敗すれば「それみたことか」と笑われる仕事。研究や開発は、柔な仕事ではない。実績や勲章を欲しがったらとてもやっていけない。

そんなことまでやっている時間がないという、反論もある。われわれ忙しいのだというわけだ。時間が不足していることが問題ならば、時間を足らすように課題を解決すればいい。世の中で認められた実績のある道を通り、光を浴びながら、無難で権威つけられた山に登ろうとする態度が、課題を解決に導かない障害になってはいないか。

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Nov 18:余計なこと〜スランプその4〜


理論や理屈は、比較的簡単だと書いた。これはなにもスポーツのことに限らない。脳は巨大な、自己中心連想妄想自走装置なのだから、物理法則だけに唯々諾々と従うような単純なヤツではない。練習を重ねると、やっていることは余計なことだらけということが多い。しかもそれに自分では気づかない。

イメージトレーニングの中で、どうしても自分の運動イメージが沸かない部分がある。ここは意識化できない闇みたいなところなんだね。この闇の瞬間に体は何をしているのか。自己中心連想妄想のオンパレードだと思うんだ。我流自己流、何でも来いの状態。むろんその人の積み重ねてきたクセや好みなんかが反映しているのだろうと思う。

でも、必要な物理的、合理的運動の観点から見ると、余計なことは弊害が多い。合理的な運動はすごく単純でいい。必要なものは少なくていい。ところが練習というと、自分に足りない何かを習得することだと思ってしまう。でも逆のように感ずるんだな。余計な運動を捨てる、余計なことをやらなくするために練習する。

スキーの先生から教えていただいたとてもいい言葉。「みなさんは、複雑なことを激しく走るスキーの上でやろうとする。刻々と状況変化する中で対応できることは、単純な運動だけですよーそれが自動化できなくてはダメですよー」

これは運動のことだけではないね。結局、自己中心連想妄想装置の脳の必要悪の部分だと思う。これを平然とピシャッと断ち切っちゃったのが、達人、名人なのだと思う。だから達人、名人の動きは無駄がない。そして合理的。たぶんこれは他の世界でも同じだと思う。千住博さんも絵を描くことに関して、同じ趣旨のことを述べられていた。

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Nov 17:ある練習〜スランプその3〜


スランプその3編である。友人のサイトに、

「仮説を立てる」「観察・実験で検証する」このサイクルを実際の練習で繰り返す。悪い動作をしているのは当の本人なので、自分自身の観察は欠かせない。どんな些細なことでもよいから自分の動きをチェックし記憶しておく。
などの言葉が見えて、ウンこの人はまぎれもなく凝り性だと判定できる。球を打つのに、普通ここまで研究するかいと言う感じで、やっぱり私と同様、はまりやすい危ない人種と言えるでしょう(笑)。

ところで私の場合、始めの「仮説を立てる」に関しては全く問題ないのだが、次の「観察・実験で検証する」のところが全くダメだと気づいた。観察・検証に客観性がないことをビデオレッスンなどから思い知ったわけである。だから主観的に凝り固まった観察・検証をもとに、動作の修正を重ねていくと現実の身体の動きは、どんどん変な方向に変化してしまう。本当に困ってしまうのだ。

なぜそんなことになってしまうのだろう。その一つの解は、運動感覚が実際の身体運動と一致していないことがあげられる。自己の運動を認知する感覚が狂っているのだ。スキーの場合、後傾に注意して重心を前にした「つもり」でも、先生に言わせれば「まだまだ全然足らない。もっと、もっと!!」
この感覚の狂いは、始めはなかなか気づかないものなのだ。

そこで自分流の「物理法則に則った運動と脳内イメージを一致させる」練習を、かなりやった。これは実際雪の上に立たなくても、寝ながらでも、夏でもできる練習で、実感としてはかなりの効果がある。モノの本によれば、脳内イメージトレーニングを行うと、身体を動かして練習した場合の7割から8割の効果が認められるそうだ。

具体的にはどうするか。ちょっと集中力は要るものの実に単純である。要するに、自己運動イメージを修正していく。自分の場合は、感覚的に0.5秒づつくらいの各瞬間の自分の身体の状態を思い浮かべ、頭はどうなっているかウチ足はどうか腰はどこを向いているかを次々とチェックする。そしてその状態が物理的に合理的な状態になっているのかをイメージの中で調べる。するとたいてい不合理的な運動をしているところが出てくる。さらには、全く運動イメージが浮かばない瞬間があることに気づく。頭が空白で滑っている時間がある・・・

この部分が自己流で、クセがあって、なかなか自覚できない盲点であることがほとんどである・・・

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Nov 16:美しすぎる自己イメージ〜スランプその2〜


友人のサイトに、同名記事の続編が出ていたのだが、読み飛ばしていた。申し訳ないっす。というわけで、お詫びも込めて、こちらもスランプ記事その2をアップしよう。初めて明かす秘訣なども書いちゃう(笑)。

小生の場合、スポーツと言えば即スキーと、どうしてもここに結びついてしまう(かなり我田引水である)。スキー板を本格的に履いたのは、40台半ばだから晩熟もいいところ。普通はここまで好きにはならない。

根がエンジニアだから、この物理法則を上達の武器にしようと思った。小生の練習法は、物理法則に則った運動と脳内イメージを一致させ合体させるスキー。スキーには特別な魔法はなく、つまりは物理法則に忠実のはずと考えた。合理的な運動は、比較的容易に、頭で理解できる。やるべきことは比較的容易にわかる。これはたぶんゴルフでもバッティングでもそうだろうと思う。理論はたいてい単純なものなんだ。

本当に難しいのは、その合理的と分っている(つもりの)運動を、自分の体が受け付けないことだ。身体感覚が現実の体の動きとずれている。ギャップがものすごくある。たとえばこのくらいのスピードで滑っていれば、上体がここまで傾斜しなくてはいけない、ということは頭ではわかる。しかしイザ斜面上でそのとおり体が動いているか、といったらもうまるでダメ。ヘッピリ腰だったとか、上体が遅れて重心が後ろにいっている(つまり後傾)だったとか言われるのがオチなのだ。

ビデオレッスンというのがあるんだけど、一人づつ滑りのビデオを撮影されて、あとでスクールの先生たちにご批評をいただく。ガックリ来るほどひどいんだ、これが。聞いた話だけど、ビデオレッスンで怒り出す人がいて、ウエアは同じだが、これはボクではない、と言い張る人まで出るくらい。

何が言いたいのかというと、自分が抱く自己イメージと客観的身体運動とは、ぜーんぜん一致していない。初心者ほど一致しない。自己イメージがキレイすぎる。つまり頭の中ではデモンストレータが滑っている。でも外から見た体はノタノタで、上体なんか遅れちゃって、要するにヘッピリ腰。このギャップがなくなっていくのが上達の過程だと、思ったわけ。上級者ほど自分の滑りを客観的に語れる。

なぜそんなギャップが生まれるのか、ツラツラ考えた。(これはホントに秘中の秘だけれど)滑っているときに自己の体がどうなっているかほとんど自覚できないんだね。なぜか。興奮していて冷静な精神状態でないのが一つ。もう一つはスピード感というか爽快感を味わうと、関心がそちらに張り付いてしまうこと。滑り出しは、こういう練習課題だ、なんて思っていても、ものの10mもすべれば、心はデモンストレータ気分。下まで降りて、つまり自分の滑りの点検や体の状態なんか、考えちゃいないことに気づくわけである。これでは何本滑っても練習にならない。

そんなことが分って、快感を味わっちゃいけないと思うようになった。冷静に苦行僧のように自己を押し殺して滑らなくてはいけない。あの人は何が楽しくてあんなことやっているんだろうと思われるくらい、淡々と、つまらぬ(?)基礎練習を自分に課すことが大事だと思うようになった。「ボーゲンばかりやってて、つまんないでしょ。もっと上に行って滑ろう!」と誘われても、いやこの緩斜面で練習しますと言わなければいけない。そうして始めて、自分の体がどうあるべきか、イメージとの違いは何かが冷静に考えられるようになる。上達はここから始まるように思う。(スランプの話までたどり着かなかった・・・うーん)

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Nov 15:冬の植物


冬に向かって寒さが厳しくなってきた。

秋から冬にかけて楽しむ花といったら数えるほどしかない。シクラメン、シャコバサボテン、それと花ではないがポインセチア。園芸店に出かけると、ポインセチアの赤色がいっせいに並び、クリスマスを連想させる。季節を感じさせる風景だ。

いま東京のアパートの部屋では、シクラメンとシャコバサボテンが開花しだした。長野のハウスでは、サボテンの日の出丸が、紫色の大きな花を咲かせている。きちんと季節を知っている不思議さを感じる。

秋から冬はあまり園芸作業がない。そこで保存していたサボテンの種を植えた。サボテンマニアは冬に実生をやると聞いたことがある。ヒマだからそうなってしまうんだよね。1週間くらいで温度が高ければ発芽する。始めは2mmくらいの緑色の肉まんみたいだ。根が地中に伸び、やがて頂上から細いトゲがピョンと出てくる。

種の発芽には肥料が不要だ。種は発芽のための栄養分を自前で持っている。1mm以下の種もあり、そんな仕組みを内に備えていることはちょっと驚き。原生地では、めったに降らない雨の時期に、待っていたかのように一気に発芽するそうだ。

他愛のない疑問だけれど、発芽して根を生やすとき、種は支えがないのに根はちゃんと土を掻き分けて下に伸びている。根が伸びるにつれて、種の本体が地表から持ち上がるということはない。根は土の粒子の間隙を知り、そこに根を進入させるようだ。しかしサボテンと違って、もやしなんかは持ち上がっていそうだ。たぶん葉を高くかかげるものは違うのかもしれない。

植物の根は動物で言えば口に相当し、花は生殖器に相当する。人間と反対に逆立ちしている。植物は口で土中に喰らいつき、活動期には貪欲に水分、栄養分、それから酸素を吸う。根といっても生きている細胞だから、酸素が重要。鉢の中が水浸しだったり、植え替えをせずに放置すると土が締り、酸素が来なくて根の細胞がやられてしまう。根の細胞の健康を保つと植物は元気に育つ。

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Nov 14:ゴミ山文明


憂鬱な話である。あまり考えたくはない。しかしボクたちの文明は、取り返しのつかないところを、とっくの昔に踏み越えていると思う。表題のとおりボクたちの文明は、ゴミの山を築く文明なのだと思う。この問題は、あまりにも多く言い尽くされた感がある。しかし解決したわけではない。言い疲れてしまったというところ。

太古の樹木は、地層に挟まれ時間と圧力の作用を経て石油というものに姿を変えた。この石油から人間は樹脂を合成する知恵を身につけた。安価で均質で丈夫で軽く、そしてキレイ。パソコン、携帯、CD-ROM、家具、車、あらゆるところに樹脂は使われている。それから食料品の包装。透明で薄くかつ気密があり、夢の素材。

しかしこれは放っておいても自然に戻らない。かなりのコストをかけなくては、戻らない。実用化技術をまだ人間は手にしていない。樹脂は安いと錯覚したのだと思う。しかし樹脂は安くない。自然に戻すにはとてつもない投資が今後必要となる。しかし「取り敢えず」ということで、利用が先行して始まり、いまや樹脂なくしては文明が成り立たなくなった。そこまで来た。

自然に戻すためにカネが掛かり過ぎることから、今やっていることは地中に埋没し見えなくすることだ。それすらカネが必要。結局、人のいないところへ捨ててくる。ゴミ山ができる。ゴミ山はボクたちが生きている限り成長を続ける。人の眼に触れるところまでゴミ山が巨大化するのは目に見えている。いつかはゴミの中で暮らすようになるだろう。あるいは科学文明が進んで、もと地球だったゴミ球をすてて、別の星に移住するのだろうか。

ボクたちの樹脂で支えられた文明の行く末を、いったい誰が論じ、誰が耳を傾け、誰が解決するのだろうか。夢の素材とか言って、自然循環しないものを合成してきた。原料や資源を食い尽くしている。

しかし立ち行かなくなれば、この問題が最優先技術課題となるのは必須だ。ゴミ処理の最先端研究が、人気テーマになるのは間違いない。その課題にまともに取り組むのは、ボクたちの子供たち、後世の人々であるのは確かなことだ。これじゃ、放蕩親父がやりたい放題遊んできて、後は野となれ山となれ。なんとも憂鬱な話である。

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Nov 11:傷つくということ


人から批判を受けて傷つくという。批判が当たっていてもいなくとも、自分が批判の対象になっている事実が判明したことが、いちばんダメージが大きい。自分を攻撃してくる相手の存在が判ったことが、世の中を暗くする。世の中のすべての人と友好関係を維持したいと願う人ならば、敵意を持った人間の存在は、世の中をつらくする。

フランスの哲学者アランの言葉、『ほとんどすべての苦しみは、想像的なものである』。悪意そのものよりも、悪意をもった人間がいることを想像するほうがつらい。死の苦しみより、死を想像する苦しみの方が強い。ボクたちの想像力は、時として必要以上に、自分自身を苦しめる作用をする。

こんな言葉もある。人は仕事に苦労するというよりは、仕事についての思い煩いに精力を使い果たすのだ、と。

禅の教えは、そこを厳しく峻別する。物それ自体と、それについても思い煩いとは違う。妄想する莫れ、と。

そうそう、関連した名言を思い出した。
『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬるがよく候。これはこれ災難をのがるるの妙法にて候』
これは良寛さんが悩みをうったえてきた人に宛てた手紙の文章と記憶する。

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Nov 10:脳は怠け者


脳は、ホント怠け者だと思う。隙あらば手抜きして休もうとしている。真新しいことなら脳は興奮して活発に働く。しかし、2回目となるともうサボることを考えている。

旅行を考えてみれば判る。一度も行ったことのないところの、なんと魅惑的なことか。しかしその興奮は2度目にはない。もうその場所は、日常に近くなる。もし2度3度と出かけるとするなら、そこに新たな興奮をもたらすものを見つけたのだ。未知の土地への憧れのような魅力は失われている。

勉強は苦痛である。2回同じことを繰り返して考えることは苦痛である。何よりも変化がないのは苦痛である。することがなくなったのは最も苦痛である。

何とか手抜きしようとする。人に任せようとする。次第に自分の活動領域を狭める。考えることを棚上げにする。そうして、やがてぼんやりと時間が過ぎるのを待つだけになる・・・

脳を鍛え、手抜きしたがる脳を泣き泣き働かせないと、何もしたくない、けれど、退屈するのもイヤ、という駄々っ子になってしまう。

放っておくと休むのだ、脳というヤツは。高等なことを司るくせに一番の怠け者。

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Nov 09:年齢を重ねるということ


10日ばかり前の週末の晩、越路吹雪さんの特集番組をNHKが放映していた。家族が出掛けており、一人でポツンとTVを見ていた。歌が妙に心に沁みて最後まで見てしまった。大人の楽しみだな、と思った。昔だったらすぐチャンネルを変えてしまっただろう。

いい歌詞だなと思った。が、特別変わった言葉はなかった。フランスの唄に、岩谷時子さんが訳詩をつけたものが多かった。訳詩が少しも訳詩らしくなく自然だった。また、普通の言葉を、心の深いところまで打ち込んでしまうのは、越路吹雪さんの技なのだろう。

そして、これは自分の実感なのだが、年齢を重ねるごとにいろいろな事柄が心の深いところに届いてくる。感傷的というのとも違う気がする。些細なことから相手の人生をかいま見たり、悩みを嗅ぎ分けたり、または心の驕りを感じたりする。人の歩いてくる様を見ただけで、この人は自分の肌合いとは違うとか、性格を推量したりする。

子供の頃は、世界が原色で彩られていたように思う。たぶん子供には微妙な色合いが見えていないのだろう。子供のおもちゃや、子供用自転車などを見るとおかしくなるほどの原色の組み合わせだ。味覚だって、カレー、ラーメン、玉子焼きなのだ。

それが、大人になるにつれて、わさび、からし、みょうがとかの微妙な味を好きになる。色で言えば、灰色系のしかも微妙な色の組み合わさった配色の気品、味わいが判って来る。日常生活もほとんど灰色のような平凡さの中にあって、微妙に幸せな色合いとか、悲しい色合いがついた状態がある。小さな刺激、兆候にも、心が揺り動かされたり楽しめたり悲しんだりする。

芸術を味わうのにいちばん旬な季節を迎えた、ということではないだろうか。

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Nov 08:クリムトという人物の魅力


クリムトという画家は、常人には窺えない不思議な奥行きと魅力をもった人物だと思う。たぶんこの話は有名なのかもしれないが、思い返すたびすごい人物がいたものだと胸が暖かくなる。資料により少し違う内容も伝わっているようだ。ボクの感銘を受けた話は次のとおりだ。

エゴン・シーレという若き天才を見出したクリムトだが、エゴン・シーレの方も相当クリムトの天才ぶりを意識していたようだ。出会って間もない頃と思われる。エゴン・シーレは、自分のスケッチを持参して、そしておずおずと敬愛する師のスケッチを1枚売っていただけないかと申し出る。クリムトそれを遮って、『キミのスケッチの方が、ボクより線がいいじゃないか。買う必要はない。ボクの方こそキミのスケッチを買おう』と言って、エゴン・シーレの絵3枚を買ったという。

二人の出会いは、クリムトが45歳、エゴン・シーレが17歳のときと伝えられている。おそらくこの年齢からそう遠く離れていない頃だろう。すでにクリムトは当時の美術界の巨匠であり、エゴン・シーレはまだ無名の若造である。しかしお互いの才能を認め合い尊敬しあったと伝えられている。

このクリムトという怪物。なんて魅力的なのだろう。別の話によれば、クリムトは服を着ずに、ギリシャ人みたいな長い布をまとって絵を描いていたらしい。頭はもじゃもじゃで、シーツみたいなものをまとっている写真を見たことがある。また、当時モデルという職業は低く見られていたが、分け隔てなく人として扱ったとも伝えられている。この人の眼に入ってくるのは、絵を描くという一点だけだったのだろう。自分の才能だけでなく、人の才能を認め育てるという幅のある人物だったらしい。

クリムトが亡くなったとき、エゴン・シーレはクリムトの死顔のスケッチを残している。これがまた流れる線で描かれていて見事。師の骸を前に、私情の混じらない冷徹な画家の線なのだ。弟子エゴン・シーレも底知れぬ怪物である。

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Nov 07:冬仕度


今週末の休日は、ほとんどサボテンハウスの冬仕度に費やした。5坪ハウスの内面に、もう一つビニールを張り巡らせ、完全2重化しようという計画である。真冬には−15℃の厳冬になるこの駒ヶ根の冬はトゲものたちにはちょっと厳しい。もう加温ストーブは稼動中だ。

2日間、農作業のようなことをしていると、精神的には何だか物足らなくなる。何がそう思わせるのだろう、と考えた。それはどうやら絵や詩が足りないのが原因らしい。創造するワクワク感に飢えている感じなのだ。

あの千住博さんの著書を今読んでいる。以前日々の思い(5/5)で触れた、大徳寺聚光院別院のふすま絵を完成させた日本画家の方。NHKドキュメンタリーはその過程を追った。ほぼ読了するところだが、間違いなく愛読書になるだろう。この本に出合えたことが幸せである。言葉はやさしいが意味するところはとても深い。

  • 『・・・すべての答えはすでに自分の絵の中にある。自分の絵から、いわば不純物をどんどん取り除いてゆく。これは私の「形」ではない。これは私の「色の組み合わせ」ではない。そう思ったら思い切って捨ててゆくべきです。・・・』
  • 『太古からの美術史をひもといてみると、結局芸術とは答えの返ってこない永遠に向かう問いかけのようなものです。・・・答えの歴史ではないのです。だからこそここにはすべてを超えた人類の共通の姿が出てくるのです。』
  • 『では、どうすれば人の足を止めることができる作品を制作できるのか。七割方できている作品。でもそのレベルで、なんとなく絵ができましたということでは世間では通りません。その作品が十割、二十割、三十割に達したときに初めて、あふれ出る「何か」を感じて、まったくの赤の他人が振り向いてくれるのです。』

    「千住博の美術の授業 絵を描く悦び」光文社文庫(2005/05)より
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Nov 02:いい風景


いい風景に出会うときは、いつも不思議な思いがする。いい風景は、それを発掘してやろうという、そんな考え方では、見つからない。そのような考えは、どこか不遜な響きを感ずる。やはり出会いの一種なのではないだろうか。言い方はとっても変だが、じつは風景の精霊がいて風のようなかすかな呼びかけをとらえる瞬間に出会っている気がする。

木々が葉をゆすらせながら囁いていたり、通り過ぎる風が何かをつぶやく。一面の緑が生命の歌を歌っている。はるかに続く小道が語りかけてくる。そういう呼びかけの声が聞こえるかどうか。受け取ることが出来たときは、もう半分は絵が完成しているようなものだ。残る半分はそれを定着させる作業だ。

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Nov 01:スランプについて


先日、後輩に導かれてバッティングセンターに出かけた。真剣に球を打とうとしたのは小学生の時以来。何年振りになるんだろう?
結果はここでは述べないことにする。さっそく話題をすり替えよう。

その後輩のサイト記事に、スランプの記載があった。後輩との「上達」話題は話が尽きず、もう何時間も話をしているので、認識はだいたい一致している方だ。しかし、やはり内部感覚というのはずいぶん違うものだなぁと感心した。

ふりかえって自分の場合はどうなんだろう。
自分の場合は、どうしてもスキーを想定してしまうのだが(笑)、練習課題=テーマを、運動の最中にも意識できるように努力する。それが自分のメソッドになっている。苦手なところは意識できない。そして意識化できた時、その運動要素が体で表現できる。

テーマ以外の運動要素もむろん必要だが、それらは自動化しているか、放任しているかなので無意識の状態のままだ。しかし、マンネリ化しスランプに陥るときは、この無意識な部分が結構表面に出てくる。おそらく練習課題を意識してこなせるようになると、「意識で運動をコントロール」する状態から、「体が覚えたコントロール」へと主導権を明け渡す気がする。

脳という器官は、隙あらば楽をしようとする怠け者のようなので、体が覚えたコントロールで運動が出来るようになると、手抜きして自分は暇になり退屈してしまうようだ。「飽きてしまう」状態に陥る。そして今まで無意識にしていた運動や、放任していた運動に注目するようになる。気が散っているのだ。

ムカデの話ではないけれど、足の動かし方を聞かれたばかりに、はてどうしていたかなと意識に上らせようと考えて、かえってムカデは一歩も歩き出せなくなってしまう。これまで無意識に行っていた部分に注目すると、なんだか感覚が違うように感じたり、ギクシャクしたりする。こうやってスランプに陥っていくように感じる。

「スランプの時は、ひたすら練習あるのみ!」、と体を張って練習すると言うのも手だが、自分の場合は、理論解析に走る傾向がある。意識して運動できている部分と、出来ていない部分をつぶさに検証して、欠落している要素を探す。意識の上で思い浮かばない部分は、自分の運動のイメージシミュレーションを行うと、そこだけ空白になっていることが多い。合理性を無視して「勝手に無意識に」運動しているわけなのだ。

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