小川 潤さんの「南駒ケ岳」」

 このホームページを目にされた小田原市にお住まいの小川潤さんより、空木岳〜南駒ヶ岳の山行記をいただきました。
 黄色の表紙で全部で14頁、写真も4枚添えられている暖かい感じの山行記でした。筆者小川様のご了解をいただき、ここ「南駒ヶ岳」のホームページで紹介させていただきます。ごゆっくりお読みくだされば幸いです。
南駒を好きになられる方々が増えることを願いつつ・・・


 中央アルプスは、標高二千六百メートルの千畳敷カールへロープウェイが通じていて、広い雲上展望と高山植物が身近なことで人気がある。

 山を始めて四十年以上になるのに、南北アルプスばかりに目がいっていて、そんな中央アルプスに登るのは昨年からである。この夏休み、今回は単独で出かけて千畳敷から空木岳、南駒ケ岳までの主脈を縦走した。白い花崗岩の尾根と可憐なヒメウスユキソウ、南北アルプスや御岳、八ヶ岳の大展望、避難小屋で逢った人達との交流があり、短いながらも楽しい山行であった。

   空木岳は、昨秋悪天候のため宝剣岳まで行って断念した山である。南駒ケ岳は、最近見た写真に惹かれ、空木までいったら是非登りたいと思い始めたばかりの山である。予定では、今年の夏山はグループで白峰三山を縦走するつもりでいた。ところが、夏山を恒例にしていた家族との日程が先ず合わず、またここ三年同行してくれた中村さんも前の週になって都合が悪くなり、結局一人になってしまった。白峰三山は、彼らと一緒の機会に残しておこう、それに北岳は登ったことがあるし。そういうことから、一人となると新たな目標として頭のなかには塩見岳と空木岳が台頭した。塩見は、ここ三、四年の南アルプス歩きでいつもその勇姿が目に入り、気になっていた山である。一方の空木岳は、昨秋行きそこなった山である。
 この選択は、比較的簡単に折り合いがついた。一度目指して心残りのままになっていたことと、今年の秋から一年間駒ヶ岳ロープウェイが工事で運休するために来年は登りにくくなることから中央アルプスの空木、南駒方面と決着した。

平成9年7月21日

 一昨日、梅雨が明けた。今日で、世の中は三連休も終わり。だから山は、天気が安定なうえ空いていて、絶好のコンディションだろう。連休最終日の都市に帰る車の渋滞情報を耳にしながら、中央道を走り、駒ヶ根高原の菅ノ台駐車場に到着したのは、二一時前である。学校が夏休みに入ったにしては何か静かな雰囲気で、大駐車場にも車はパラパラと二十台程で予想よりも少ない。真ん中辺りの二台程の横に付けた。昨年と変わっているのは、新しいトイレが出来ていたことだ。さっそく使わせていただいた、さすが新築、清潔な上に人を感知して内側の電気が自動点灯するようになっていた。そのあと入り口近くのバス停で、明朝のバス時刻を確認した。五時台始発がある休日とお盆以外の日は、七時一二分発が一番早い。やはり調べてあったとおりだ。ちょっと遅いが、しらび平に入る方法はこの専用路線バスのみだから、これに乗るしかない。
 もうすることもなく、倒してあった後部席にタオルケットを敷いて横になる。この二代目プラドは、車内が先代に比べ縦横とも広くなった。フラットにした二、三列目のシートに横になると腰の辺に凸がくるのがちょっと難だが、足を伸ばして寝られる快適さは大きな改良点だ。登山基地で車に一人で寝るのはこれが初めてである。それに今日の駐車場は、予想外に閑散としている。人気を感じないので、なにか不安感がある。少し神経質になって、しばらくは途中一時降った雨の音や、出入りする車のヘッドライトに何回か目が覚めた。それでも次第に慣れてきて、深夜過ぎにはガラス越しに見られる満月のような丸い月を、おつな気分で眺めているうちにぐっすりと寝入ってしまった。

7月22日

 四時五〇分、起き上がる。気のせいか、昨夜到着したときよりも車が増えている。そして、何台かが早朝到着でやってきて新たに駐車場を埋め始めた。夜はよく見えなかったが、車の横で朝食を始めたり顔を洗いにいったり、少なくとも数人が同じように車内泊をした気配が感じられる。朝到着した人達も、一番のバスが七時過ぎだと知ると、車のシートをリクラインニングにして休んだりしていた。六時前、お湯を沸かして味噌汁を作り朝食にした。その間にも到着する車は増えて一帯は活気を増し、バス待ちの列は少しづつ長くなっていった。天気のほうも、雲がちょっと多いが、次第に青空が広がりはじめて、なによりである。
 六時半、バス停の列に並んだ。もう四十人位が並び、見る間に後の列も長くなった。やがて、バスが現れ発着所に着くとすぐに乗せはじめた。いすに座りたいと後ろに付けたバスを待つ人を抜かして中に入ると、奥のほうにはまだ空席があり座ることができた。
 「早く登ったほうがいいですよ。まもなくバス五台の団体が入りますからロープウェイ待ちになりますよ」
という案内係の説明に、更に大勢が乗り込み通路もいっぱいになった。六時五〇分、定刻より前に発車。緑いっぱいの大田切川の渓谷を登って約三十分でしらび平に到着。八時始発というロープウェイも客足に合わせて、臨時便の運転が始まっていた。バスから降りるのが遅かったため、二人前で六十人のゴンドラの定員が打ち切られ数人と一緒に次の便になった。まもなく後ろに先生に引率されたブルーのお揃いのジャージーで中学生の団体が並んだ。ピストン運転のようで、十分くらいで次の便がでた。飯田市からという中学生でにぎやかなゴンドラはあっという間に千畳敷へ、頂上駅到着は七時四〇分、壁にあった大きな温度計は十五度を指していた。建物を出ると、正面のカールの上には宝剣岳がその特徴ある尖峰を見せていた。
 登山届を出して、七時五〇分出発。大部分の登山者が木曽駒方面に向かってカールを右手に進んでいったが、今日は木曽殿越まで行きたいので、昨年登った木曽駒と宝剣岳をバイパスして稜線にでる左側の道をとった。歩き始めとはいえ、もうここは標高二千六百メートル、高山植物の出迎えだ。先ずは、定番の黄色いシナノキンバイと白い穂のコバイケイ草。まだ足どりも軽く、今年も夏山に来られたという実感で、楽しい一歩一歩だ。振り返えれば、頂上駅の広場には中学生の青い集団があふれ、木曽駒へのジグザグの道には登山者やハイカーが列をなしている。それでも同じく木曽殿越方面に向かうのか、二人連れが二組こちらの道を登ってくる。ゆっくり登って八時二〇分、稜線の極楽平に出た。自転車でも走れそうな白砂状の尾根をそのまま空木岳方面に縦走を開始。もうガスが出ていて空木岳は見えないが、西側正面には三沢岳が独立した勇姿を見せ、北を振り返ればどこからでもすぐ分かる宝剣岳、そのすぐ奥に対象的に丸い頂上の主峰木曽駒ケ岳、さらに左奥に麦草岳と北部の主役達が並んでいる。
 ここで、若い女性とすれ違う。山に入ってから初めて会う人だ。
 「おはようございます」
 「おはようございます」
 「どこからきたのですか、早いですね」
 「今朝あそこの木曽駒頂上小屋から、少し先まで散歩して引き返してきました。今日はこれから下山です」
と言って通り過ぎた一人歩きのこの人は、少し先の岩の上でザックを枕に仰向け寝転んだ。雄大な眺めを見ながら、下山を前に山の空気を存分に吸っているように見えた。ガスで陽が射さない稜線の岩は、快適な雲上ベッドである。
 春に髪結いの雪形が現れるという小高い丘のようなピークの島田娘を過ぎると、一旦下り坂となり足場も悪くなった。下ると又登り返しである。頭の上のガスはなくなり、直射日光があたると一気に暑くなった。滲み出る汗には、伊那側から吹き上げる冷風が、非常に気持ちよい。まだ最盛期には早いのかもしれないが、足もとにはイワツメクサ、コイワカガミ、コケモモといった小さな花達が目を楽しませてくれている。なかでも丈の短いヒメウスユキソウが目に付いた。しなやかにカーブした葉と密な綿毛を持つこの花は、他の山で見たウスユキソウたちと比べても和製エーデルワイス代表感のある花だ。このあと南部の稜線まで絶え間なく群落が続き、この山行で最も印象に残った花である。
 九時三〇分、濁沢大峰。ガスの切れ間に見える行く先は、大きく下っている。そのまま大きくうねりながら空木岳の方面へズーっとアップダウンが続いている。ここからも、やはり伊那側南アルプス方面の視界は全くないが、木曽側の三沢岳は全景を見せていて、何人かが頂上を目指しているのが分かる。その均整のとれたピラミッド型は、一度は登りたいと思わせる山容である。この辺りから幾組かのパーティに追い付き追い抜いた。最近の傾向通り、中高年の夫婦と女性グループが多い。アップダウンが多い上に、有名コースにしては木の根があったり段差の大きな岩場があちこちにあって歩きにくいところが多く、時折苦労している姿を見かけた。
 一〇時三五分、桧尾岳(二七二八)に着いた。ちょうどガスが切れた東下方の尾根にかまぼこ形の屋根をした桧尾岳避難小屋が見えた。無人小屋ということだ。道標の立つ山頂で休んでいた人が、
 「木曽殿越まで、ちょうどここで半分だな」
と言っていた。
 再びアップダウンを繰り返したあと、ちょっとした急登となる。日ごろ運動不足の足に疲労感と辛さを覚え始めた。衰えてきた足をカバーしようと先月購入したばかりのレキのダブルストックのグリップに、腕の力を入れて頑張る。桧尾を過ぎて会った、仲のよい夫婦と抜きつ抜かれつ登る。
 「はい、頑張って」
と奥さんがご主人のお尻をつついているのが、ほほえましい。
 大きな岩がごろつく熊沢岳(二七七八)にちょうど一二時に着いた。途中まで風化して何と書いてあるのか分からない道標が多かったが、ここでは標柱に「熊沢岳」、すぐ横の岩には「木曽殿山荘まで二時間」と赤いペンキでクッキリと書かれていた。座りやすい場所を見つけて昼食。紅茶を沸かして、昨日途中のコンビニで仕入れてきたおにぎりとアンパンとバナナをぱくつく。妙なとりあわせだが、お腹もすいていてこれで大満足。食後休憩を利用して、トランシーバーで記念交信。下界ではほとんど使わないのだが、非常用装備を兼ねて山には持ってきている。電波が遠くまで届く山岳運用の場合、相手交信地の意外性も楽しみだ。ここからの相手をしてくれたのは、行くはずだった白峰三山の一つ農鳥岳山頂の石塚さん、豊田市の東出さん、岐阜県の松岡さんであった。トランシーバーも、アンテナと電池を含めて総重量二百十グラムという軽さに惹かれて今年新調したが、たった十二センチ程の付属のアンテナのままでの交信は、まずまずの性能と確かめられた。
 一二時四〇分、腰を上げて出発。ガスの晴れ間に、空木から南駒が顔を出した。空木も立派な山であるが、その右奥に見える南駒ケ岳の安定感ある姿も素晴らしい。登山届にはしっかりと南駒往復と書いてきたが、途中での行程の会話の中では、
 「足と時間に相談していけたら行きたいと思っている」
と答えていた。ガイドブックには、空木から一時間二十分と書いてあったが、最新の岳人別冊には二時間となっていて行ってみないと分からない実態があったからだ。しかし、間近にこうしてその素晴らしい姿を見ると行きたい思いは更に強くなった。

 一三時五〇分、空木と対面する東川岳(二六七一)に着いた。先は急勾配の下りになっていて鞍部の小屋の建物は見えない。ヘリポートのHのマークだけが見えていた。山頂にいた男性と写真を撮り合った。山を楽しみながら歩いているといった感じのする人だ。全て順調だったが、水が少し不足したと言ってその男性は最後の水を飲み干した。環境庁から自然観察保護員の認定を受けているということで、ウェストバッグの中に緑色の腕章を持っていた。明日は、空木、南駒を越えて越百山荘まで行く予定だという。
 二人で眺めていた目前に聳える空木のやせ尾根に、登っていく二つの赤っぽい小さな姿が見えた。この姿とこの男性の返事の言葉から、計画が変わり始めた。
 「誰か登ってますよ。上に泊まるんでしょうか」
 「そうでしょう。私もさっき聞いたんですが、頂上ヒュッテは、今なら小屋番がいて寝具も食事も出してくれるそうですよ」
 「本当ですか、下にいって元気があったら登ってしまおうかな。そうすれば明日は、南駒を往復しやすくなりますから」
 「行くなら水は持っていったほうがいいですよ。ないそうだから」
 ちょっと迷いながら木曽殿越への急坂を下った。途中からコゲ茶色のペンキで塗られた小屋が見えてきた。裏手の土手を、シャベルをもった二十代前半の女性が補修作業をしている。
 「こんちわ」
 「こんにちわ、お疲れさま」
 最近ときおり、山の雑誌にアップの写真とともに登場する女主人の、澤木千里さんとすぐ分かった。
 「写真で見た山荘と違いますね」
 「今年五月に建て替えたんです。前のは、もう三十年になりまして」
 「新築、いいですね。水はもらえますか」
 「二分程下ったところに水場がありますので、そこでどうぞ」
 「どうも」
 先ずは水を確保とザックを小屋の前に置いて、水筒と小さなペットボトルを持って水場に行った。こんなところによくもまあと思う程に水量豊かな清水が流れていた。顔を洗って、いっぱい飲んで、水筒を満たした。水くみから帰ると、澤木さんは今度は小屋の前の動力室にいた。宿泊のお願いでないのでちょっと恐縮がちに、
 「上のヒュッテは、寝具食事があると聞いたのですが」
と聞くと、
 「ええ、毛布程度の寝具とラーメンなどが出るそうです」
と笑顔で答えてくれる。
若い女主人と気持ちよさそうな新築の山小屋。泊まろうかと心が揺れたが、確実に南駒へ行きたいという気持ちの方が強かった。今一四時半、頂上には一六時に着ける勘定となる。やはり登ることにした。
 登り始めてまもなく、後から空身の男性が追いかけてきた。六十歳代も後半に見えるが、しっかりした足取りだ。それもそのはず、
 「この三連休には、塩川から三伏経由で塩見を日帰りでやってしまったよ」
 「エーッ」
 「混んでいて泊まれなかったので、仕方なくね。帰りが夜七時半になっちゃったけど。峠の小屋も、いっぱいだから帰れって途中まで若い者を出して伝えてたね。今日はヒュッテ泊りかい。俺も、知ってりゃ上に泊まりたかったな」
 今日空木をピストンして、明日は木曽側に下るという。
 急な登りであるが、不思議なくらいに足が軽い。殿越で木曽義仲の力水を飲んだからか、元気なおじさんに会ったからか。途中三人とすれ違って、一五時五〇分、ここも岩と白砂の空木岳(二八六四)山頂に着いた。山頂は、一人占めである。残念ながら、雲とガスで展望は効かないが、もう明日行くと決めている南駒と今夜の宿となる駒峰ヒュッテだけはなぜかしっかりと見えた。

 白い砂地の道を下って、ハイマツに囲まれながら斜面にちょっと突き出たように建つヒュッテに向かう。確かに屋根の大きさからして、小さな避難小屋だ。どんなところだろう。裏手に、飲料販売の看板があったのはそう驚かなかったが、小屋の前のホースの蛇口から水を使えるのは意外だった。そして流しにいた女性に教えてもらわなければ分からないほど、極シンプルな引き戸が入り口である。
 木戸を開けて中に入ると、八畳ほどのワンルームの中に土間、調理場、棚、寝床が収まったコンパクトな避難小屋の姿が目の前にあった。そこには小屋番らしい男性と登山客らしい女性が外にいた人と合わせて三人いた。第一印象から、すごく暖かい雰囲気であった。
 「こんにちは、よろしくお願いします」
 「まあ、とにかく上がりなさいよ」
と年配の小屋番男性。
 さっそく缶ビールをもらって仲間に入れていただいた。小屋番の男性は、福沢さんといって地元駒ケ根の市役所と駒峰山岳会のOBで、山に詳しそうな人だ。その山岳会が管理するこの小屋を交替で引き受け今日が二日目で、来月四日まで滞在ということだ。昨日も九人の客と宴会だったといい、今夜もお酒をごちそうするよ、とご機嫌である。一方、ここまで登ってしまうきっかけとなるあの尾根登りの姿を見せてくれたパーティは、小谷さん、横山さん、川西さんの関西から来た三人。好きな山に来ているせいもあるのだろうが眼が活きていて、それぞれオープンな人柄で実に気持ちがいい。夏と秋には、こうして遠出の山行を楽しんでいるという。明日は、四時に出発して南駒から越百を経て木曽側に下り、週末から仕事の始まる宝塚の方に帰る計画のようだ。
 おまけに、豊富な種類のおつまみにもありついた。特に小魚の佃煮やミリン干しは最高であった。一人で一泊の小屋泊の気楽さから、余分な食べ物を持ってこなかったので、ただただ頂くだけであった。四人に一つでは全く意味がなかったが、カメラの予備に一個持ってきたレンズ付きフィルムの「写ルンです」を差し出した。そんなことでもしないと申し訳ないほど、いろいろ差し出されたのだ。今会ったばかりと思えない感じで、山と山小屋の四方山話に花が咲いた。登った山には共通の印象があり、登ったことのない山は目標としてより身近になる。槍、笠、剣、餓鬼、御岳・・・等なつかしい山々、そして雨飾は目前にちらつく目標の山である。
 ビールのあと川西さんが、
 「一保堂のお茶です」
と入れてくれた京都のお茶の味も格別であった。
 夕食作りもこの三女性が中心に準備してくれた。福沢さんも助かったようで、
 「このまま居て頂だいよ」
これに小谷さんが笑って返す。
 「居たいわね。うちの主人(おとう)さんも、山に行ってきますと出かけるときにいつも、帰ってこなくていいよ、って言ってくれているし」
 野菜の沢山入った味噌汁、きゅうりの酢の物、トマト、いわしの缶詰め、焼きおにぎり等、それに冷やっことフルーツサラダまでがついた。即席ラーメンの夕食のつもりが、彼女等と福沢さんの担ぎ上げたネタで、至福の晩餐となった。感謝感謝。弱いお酒も、福沢さんがボトルの封を切ってなみなみと注いでくれるのに任せて、心地よく飲んでしまった。
 相変わらず霧に取り巻かれた小さな避難小屋、ストーブが燃えて、灯かりは蝋燭。結局今日の泊り客は四人。福沢さんを含めて意気投合し、明日は南駒まで五人で一緒に行くことになった。とはいっても計画的な三人組を前にしては、福沢さんの言葉を借りるならば、 「連れていって頂だい」 という方が合っている。時間は彼女達に合わせることにした。
 明日は早い。シュラフを二枚借りて、アルコールを薄めるつもりの水を飲んで安堵の床についた。

7月23日

 三時過ぎ、予定通り女性達が活動を始めた。隣の横山さんが、準備をしながら、
 「もっと寝ていて、いいですよ。女性は準備に時間がかかりますから」
 「カップ持っていってくださいね、コーヒーが出ますので」
と声をかけてくる。しばらく横になったままいたが、外は月明かりかかなり明るい。そう眠さもない、三時半頃シュラフを這い出て、外のテラスに立った。すっかり霧は上がり、前の雲海の上に木曽駒方面の山が黒くどっしりと浮かんでいる。下の方からは、沢の音が聞こえている。その音が、いっそう自然で静かに感じさせる。
 裏手の伊那側へも回ってみた。もう、東の空の一角がほんのりとだいだい色になっている。こちらも下は雲海で埋まり、その上に八ヶ岳から南アルプスの全部がシルエットで広がっている。更に十メートル程登って、一番景観のよさそうな場所で、膀胱をすっきりさせた。これだけの山々を一人占めにしながら、最高に贅沢な朝一番のおつとめであった。
 結局時間正確で準備万端の彼女らを、ルーズな男共が少し待たせて四時五分、五人揃って出発。月が明るく、ランプを使わなくても道筋がよく見える。再び砂の道を登って十分ほどで、空木岳の山頂にでた。早朝暗いうちの山頂は、久々である。静寂さとさわやかさというか、今までの明るい山頂では見逃していたものに、会わせていただいたようだ。月をバックに記念写真を撮って、しばし眺めを堪能した。東の空は、更に明るくなり三百六十度ぐるりと、山の連続である。御岳、乗鞍、穂高、槍、木曽駒、蓼科、八ツ、秩父の山々、そして鋸から始まって光までの南アルプスの全容、富士山は塩見に重なるように頂上を見せている。それらの山との距離感が一層広さを感じさせてくれる。さらにはこれから向かう赤椰、南駒。個性ある山たちが切り絵のように並んでいる。このたまらない眺めがあるから、また山に来たくなるのだ。
 一通りみんなで山の同定を終えると、南駒に向けて斜面を下った。昨夜は、連れていって頂だい、なんて言っていた福沢さんだが、地元の者としての責任感からか親切心からか常に先頭をリードしながら一定のペースで歩いている。それに比べ、私のほうは常に最後尾につけ、抜群の展望に惹かれ山を繰り返し一つ一つ目で追いながら道草をするので、間があいたり詰まったり一定しない歩きを繰り返した。
 斜面の岩に、小さな遭難碑が立っていた。両親が建てたのだろうか。二十五歳の青年が昭和五十三年の六月に遭難したと句とともに刻まれている。

頂上の岩と空の境
ここにこうして
青と白の大きな
天に漬かり眠る

 四時四八分、ご来光。八ヶ岳の右肩から陽が上がると、一帯は白黒写真からカラーへと転じた。ハイマツの中に点在するハクサンシャクナゲも、薄いピンクに光っている。五時二五分、赤椰岳(二七九八)。南駒ケ岳を目前に小休止。ここでも、彼女達からコーヒーとパンなどの差し入れをもらう。

赤く染まる赤椰と南駒

 そこから左手まじかに摺鉢窪のカールとその真ん中にある避難小屋を見ながら一旦下る。カールは途中から切れ落ちた大きな断崖となって氷河時代の地肌がむき出しになっている。全くの偶然であったが、下山して見た二十三日付けの信濃毎日新聞にこの崩壊が、カラー写真付きの「続く崩壊」というコラムで紹介されていた。記事によると「高山植物が咲く南駒ケ岳の東側の百間ナギの断崖は、日本屈指の崩落地で断崖の幅四百メートル、標高差は五百メートル以上もありカール底にある避難小屋まで二十六メートルに迫っている。」ということだ。

南駒の花達(ミヤマスミレ・イワツメクサ・ヒナウスユキソウ)

 摺鉢窪分岐から急坂を登り返して、六時二五分、小さな祠のある南駒ヶ岳(二八四一)山頂に到着。ここも素晴らしい眺めである。もちろんそれまで見えていた山もそのままであるが、特に新鮮なのはこれまで辿ってきた中央アルプス北部の山々、独立峰の御岳、はるか白山、尖がった笠ヶ岳、南側直下の仙涯嶺と越百山、そのずっと先の恵那山だ。富士山も裾を見せて、それらしくなった。深田久弥が、その名著日本百名山に「私は日本百名山に、木曽山脈南半分から一つだけ選ぼうとして、空木にしようか、南駒にしようか、迷った。どちらも優劣のない立派な山である。」と記している。ここに立ってみて、そしてこの章を読み返して、今その気持ちがよく分かる。

南駒から南アルプスを臨む

 余談になるが、下山してから今月初めに繋いだばかりのインターネットで検索をして見た。空木岳のほうは何も見当たらなかったのに対して、南駒ケ岳は山麓の飯島町の毛賀沢貢さんという方が、「南駒ケ岳」という大変に丁寧でボリュームのあるホームページを出していた。命名の由来から、動植物、春の雪形、摺鉢窪カールの崩落まで四季の写真を多用した紹介が載っていて、完全に南駒ファンの一人として定着させられてしまった。

 南駒で、「今度、六甲を縦走しましょうね」 と残して更に越百山へと進む三女性を見送った。緻密さとゆとりを兼ね備えた小谷リーダー、感性があってよく気がつく横山さん、言葉数は少ないが行動力ある川西さん。今回の山旅を印象深いものにしてくれた彼女等である。
 「三人が見えなくなったら、戻りましょうか」
と福沢さんと話していたが、ちょうど三人がピークの向こうに見えなくなった頃、空木からのピストンの男性がやってきた。四国から車で来ているのでせっかくだからと、北岳に登ってからここに来て、木曽駒まで縦走したあと剣に行く予定だという。彼の心配は体力でなく、週末の天気である。元気な人もいるものである。そうこうして、このお気に入りの南駒には一時間の長留となった。
 戻りは、二人となった。福沢さんの口からは、中学生の時に中央アルプスを縦走して山が好きになったこと、市役所の税務課に就職してからも、市長指示で重賓の山ガイドをやったこと、思い出話が続いた。この四月にネパールのクーンブ地方を訪れホテルエベレストビューの宮原さんのはからいでシャンボチェ飛行場からヒマラヤ特別遊覧飛行を経験したという話は最新のものだ。そして、
 「ここはアオノツガザクラの群生地だよ」
 「雪渓で雪を採っていこうか」
などと親切な山案内でいっときも退屈させない。
 もっと多いと思っていたが、空木岳までの間にすれ違った人は五人だけである。その人達の話によると、木曽殿越山荘に泊まった登山者の多くは、殿越から山頂を往復して木曽側へ、他の人達は池山尾根を下っていったという。空木岳から南は、入る人が少ないのだろう、山肌も荒れていない。ヒメウスユキソウもそうだが、黄色いスミレ達が道のすぐ横で、ことのほか生き生きと咲いていた。
  福沢さんが、独り言のように呟く、
 「昨日もお客さんと来て、今日も来ちゃった。小屋ほうりだして出歩いて、俺もとんでもない小屋番だな」
 「山が好きなんですね。それにもっと人が好きなんでしょ」
 「そうかも知れないな」

 南駒への散歩を楽しんで、避難小屋に戻ったのは九時一五分。小屋では留守中にジュースの売り上げがあった。紙のメモと一緒に千数百円が置かれていた。そしてお湯を沸かすだけのラーメン作りではあるが、座って山の話を続ける福沢さんの横で今度は台所で働かせていただいた。これも避難小屋ならではの楽しい作業である。小屋番からすれば、一晩で去っていくのが大部分の泊り客だ。逆に、いろいろな人と会って話ができるのが最大の楽しみなのだろうが。鍋を挟んで向かい合って食べながら、本音と冗談を交えたような言葉も出る。
 「今日は、お客さんが来ないかもしれないな。泊まってゆっくりしていってもいいよ、ただでいいから」
 素朴で居心地のいい避難小屋であるが、なかなかそうもいかないのが会社員の身。
 それに、駒ケ根高原まで標高差二千メートルの長い池山尾根下りが控えている。十時、腰を上げ、福沢さんにお礼を言って、忘れられない山小屋になるであろう駒峰ヒュッテを後にした。

(平成九年七月記)
南駒山頂(筆者:右端)