登山家・冒険家として知られる植村直己さんが、マッキンレーで消息を絶ったことに際しての、昭和58年2月28日の朝日新聞「天声人語」に次のような記述がありました。

 「植村直己さんがこういっている。「高い山に登ったからすごいとか、偉いとかいう考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけないと思う。要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山が本当だと思う。」 このつぶやきの中にこそ、冒険家・植村直己の本音がある。高い山に登るのが一流で低い山が三流か。そうではあるまい。高い山を登るのにも一流の登り方があり、三流の登り方がある。低い山でも、同じだ。要は「深く心に残る」登山を すること、それが植村流の登山哲学なのだろう・・・(以下略)」(S58.2.28天声人語)

 これは印象深く残る文章です。
 例えば、どこそこのこれだけ高い山に登ったということを他人に自慢する必要など全くなく、地元の山散歩であっても、その人が十分楽しんで帰ってくれば、それはそれで立派な、これ以上ない山の楽しみであり、また、山を眺めて楽しむ、眺望を楽しむ、これもまたいろいろな楽しみ方があって奥深い広いものではないかと感じられます。登る楽しみもあれば、勿論眺める楽しみもある。・・・・
 又、この文は何か山登りだけでなく、人の一生についてもどこか当てはまるような気がするのですが、どうでしょうか。・・・

 山に入ると、自然に対して人間というものが小さく見えます。(特に一人で登っているときなどは・・)
 山の自然はあまりにも凛々しく大きすぎて、下界の喧噪・騒音・鬱蒼とした世界など問題ではなく、別世界。
 又、山の前では例えば、思い上がりや地位や肩書き、学歴、自信過剰、など全く通用しませんし、そんなものはどうでもいい、必要のない世界。社会のかけひきや、思惑なども関係ない場所です。そこにあるものは、自然の光景と自然の動きのみだと感じますが。
 そこへ人間が入っていくわけで・・・、最高の場所ではないかと思うのですが。(これらはすべて私の考えであって、人それぞれに考えがあると思いますが。)
 自分の登り方で、途中では花を眺め、汗を流して登ったあとに、最高の充実感が味わえますし、最高の展望が得られます。勿論いつもそうではなくて、景色も見られず、途中で引き返すこともありますが・・。

 また、もう10年以上、かなり前のことになってしまいますが、私が伊那市の桂小場から飯島町千人塚まで中央アルプスの縦走をしたことについて、ある時に某人物に「疲れた・・」と言ったところ、その人曰く「好きなことをやってきて疲れたなんて言うのなら最初からやめておけばいい・・」。・・・全くそのとおり。名言でした。好きなことをやって疲れたなんていうのであるなら、やらなければいい。それ以来、気をつけています。・・少々脱線しました。

 人それぞれにひかれるものが何かあるように、私にとってのそのうちの1つが「山」であるということだと思います。
 これからも、地元の低い山から富士山までの山の間を行ける範囲でのんびりと、無理をせず、美しい山の風景や花を見ながら、歩いていく・そして麓から眺めていくことになるのではないかと思います。

 ここでは、私の街に聳える中央アルプスの山、眺めるだけでも美しき山、登ってみれば更に素晴らしい山「南駒ヶ岳」、そしてその麓の様子などを中心に紹介します。

 ・・・それではどうぞごゆっくり・・。

(1996.6.2八ヶ岳にて ホテイラン)

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