8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 @

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・・・・< その1―@ > 芭5、き20、奉5

@ 奥の細道行脚 PART1  1974年(S49)7月17日―20日>

  「 松茸や 志らぬ木の葉の へばりつき 」 はせを

 これは駒ケ根市火山峠の通称《芭蕉の松》の根元にある石碑の句である。もちろん、芭蕉は伊那谷には来ていない。
  いわれ書きによれば、「この句碑の筆者は、東伊那火山屋号飼附、勝右ェ門、三男下平啓蔵。後政治を志し上京、彼の地において死亡。石工は、その兄久平。建立年代は明治初年なり」 となっている。
  このような因縁から、今回の旅行を「奥の細道行脚」と自ら命名し、メモを取ることにした。

旅の目的
  一行三人は、いよいよ「奥の細道」の旅にたつ。三人とは、林奉文氏と私、もう一人は信州名鉄をユニオンショップ協定を理由に解雇され、他の仲間とともに解雇撤回の闘争をしている中沢の勝本博明氏である。(その後、東京高裁で解雇無効、職場復帰の全面勝利を勝ち取る)
  70年代政治革新にとって、歴史的な意義を持ち、70年代3回目の全国的な政治戦であった参議院選挙は、共産党の大躍進という結果で、自民党は大打撃を受けた。
  共産党は、地方区において改選議席1に対して5倍の五議席当選。また全国区においても改選3に対して八名の当選を勝ち取ったのである。
  この選挙の直後であるが、私ども一行は、東北の自民党王国福島県における地方自治体での共産党議員団の活動について、何かを学んでこようと旅立つのであるが、この道は、285年前に俳人松尾芭蕉が訪ね歩いた道でもある。
  気にとまる思いのままに、この道の「行脚」の模様ををつづってみよう。

奥の細道≫とは
 芭蕉による「奥の細道」は、元禄2年(1689)芭蕉46歳の春から秋にかけて行われた奥羽、北陸地方への日数150日、旅程600里に及ぶ旅の記である。紀行の本文は、3月27日江戸を出発する朝にはじまり、9月6日美濃の大垣より舟に乗って伊勢の遷宮を拝みに出かけるところで終わっている。
 「奥の細道」という題号は<宮城野>の章のなかの句
 “ あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒  の次にでてくる「奥の細道」がヒントになっているようであるが、それは“奥の大道”に対する名称で、伊達藩の名所設定の気運のなかで、仙台の北東1里半、東光寺門前付近の冠川沿いの道を「奥の細道」と呼んでいた。
 芭蕉のこの旅には、弟子の「曽良そら」が同行しているが、この「曽良」は、本名・岩波庄右衛門といい信州諏訪の人である。
 曽良は、伊勢長島藩につかえていたがこれをやめて東下し、吉川惟足に神道、芭蕉に俳諧を学び「奥の細道」への同行は、同じ道の修行者として随行したのである。

 

1974年7月17日(火)朝
  午前3時半、コケコッコ―と朝を告げるおんどりの声で目が覚める。
  いよいよ今日は285年後の“赤須喜久雄・奥の細道行脚”である。芭蕉が歩いた道とほぼ同じ道を、我々は電車に乗って訪ね歩くことにする。
   “ いざゆかん 奥の細道 鬨(とき)の声 ” (き)
   “ 霧深し わかれそぞろに 天竜川 ” (き)
天竜川ともしばらくのお別れである。
  夜はしらじらと明け始めたが、あたり一面霧が立ちこめている。

●諏訪 
 “ 由布姫の 想いしのばる 諏訪のうみ 波荒れくるう 恵林寺の杜 ”(き)
 井上靖の「風林火山」を読んでいたので、風で波が高かった諏訪湖を眺めながら、由布姫を想い、その子「勝頼の最期」を思うにつけ、こんな歌になってしまった。

●甲斐  かつて、武田信玄が全国統一をめざして活躍した中心地である。武田武士の気概を感じ、想いつつ甲斐を通行す。

●相模  相模湖も遅れ梅雨のため、あたり一面霧がたなびき、視界悪し。

●武蔵  雨は上がったが曇り空。八王子に入ると多摩丘陵が見え、一年前東京都議選の応援に南多摩選挙区へ一週間入り、多摩市、稲城市などを飛び回ったことがなつかしく思い起こされる。

●下毛野  関東であることを痛切に感ずる。特急で宇都宮まで1時間10分である。


白河の関
「これより東北」の看板あり。 いよいよ奥州である。山並が多くなり東北本線の両側は、家が少なく雑木林がつづく。那須高原より東北の感あり。上野駅より2時間。
  “ はるばると 訪ねきたりし 陸奥の いま越えんとす 白河の関 ”(き)
  白河の駅と市街は、まさに山の中の駅と町並みである。この福島県で、先の参議選で共産党が前回より3.33倍の得票を勝ち取ったのである。
  福島県は、気候が長野県と似通った県だといわれている。農作物のトマト、りんご、キュウリ、ブドウなど、また連合青年団の強い地域でもある。
  東北本線の左右に広がる田圃や畑は、農村県であることをしみじみと感じさせる。
   “ 革新の 流れ求めて 友と行く 那須野のやまに 朝日かがやく ” (奉)
   “ 革新の 道ひらかんと 友と行く 那須野のやまに 朝日輝く ”   (奉)
  夜、猪苗代湖のほとりの「民宿・小林」で、夕食に一杯やりながら、私の詠んだ・・・「はるばると・・・」を披露すると、カンパツを入れずに出てきた句が 「革新の・・・」であった。・・・なかなかの出来である。

郡山、猪苗代湖、会津、磐梯山
  郡山より磐越線に乗り換え猪苗代に向かう。東京上野より特急にて2時間21分。
  飯田線に負けず劣らずの古い客車である。だがしかし、電気機関車が5両の客車を引っ張って走るこの路線の方が、飯田線よりましである。
 ゴットン、ゴットンとあまり揺れもせず、スピードもない磐越線でいくつかのトンネルを抜けて、突然目の前に飛び込んできた風景は、神秘的な猪苗代湖であった。
 さすがに大きく、そして水は清い。それは信州諏訪湖の比では全くない。

猪苗代町
  我々がここに来たのは、福島県下地方自治体における共産党議員団の活動について、議会内外、大衆闘争も含め、議員の活動と住民要求の取り上げと実現の方法、そして住民、有権者への議会活動の報告について、どのように活動しているかを研修テーマに選んだのである。
  いまや福島県の党は、先頃の参議選で、地方区で下田京子さんが前回比3.33倍、得票16万票を得てまさに日の出の勢いである。その秘密をさぐることも目的の中に入っていた。
  1年前の総選挙では、福島1区で革新共同・安田氏をたてて戦い、あと一歩に迫ったのであるが、ここ福島2区では、定数5人の全員が自民党代議士であり、いかに保守的な、自民党の強い地域であることか。・・・ “ さすが!東北“ ×× と感嘆す。
  参議選でのこの町の得票も、前回票を4倍にしたそうで、次期衆議選には1区で安田氏、2区で下田京子さんを立てることが近く決まるそうである。
  一般マスコミ報道でも、「1区、2区とも当選できる票を確保した」と報道されている。
  (下田さんは、この訪問の後、共産党の参議院全国区候補となり当選)
  この町には、議員歴4期のO氏と3期のW氏の二人のベテラン議員がいるが、次期改選期には5人を立てる方針だ。(5ヶ村が合併した町で、各地域から1人ずつ)
  議会内の勢力分野は、共産党2人、無所属20人で社会党の力はあまりないという。
  全林野労組も100人ほどいるそうで、第2組合の日林労も最初いたが今はいないとか。そしていまは、政党支持自由の立場から活動していることを聞いて、長野県の現状と比して一定のショックを受けた。
  二人の口からたんたんと語られる参議選の結果や、次期改選期における候補擁立の話を聞くほどに、彼らは長野県党を先進県として、「それに追いつけ、追いつこう」と活動していると話してくれたが、その決意と実績は、我々自身の方が学ぶべきことであった。
  私は「この町の党と議員の活動は、福島県下で進んだ方なのか」と質問せざるを得ませんでした。
  その答えは、「どこも、こんな水準だ」であって、さすが “福島県” と驚き、感じ入った次第である。
  この猪苗代町は、高遠町と姉妹提携の話がでている・・・とも聞きました。
  民謡の「会津磐梯山」のなかにある、“小原庄助さん」 ・・・の語源も、高遠町河南の「小原」であるという。
  高遠から米沢をへてここにきた、徳川三代将軍家光の弟で、会津藩の“藩祖”「正之」公のお墓もここ猪苗代町にあるという。
  会津若松の“鶴ヶ城”に対して、この町には“亀が城”が役場の隣にあった。
  (鶴と亀が対をなしている話 = 鎌倉の「鶴ヶ岡八幡宮」に対して、すぐ隣の逗子市役所の前庭に、小さな「亀ヶ岡八幡宮」がある。)


猪苗代湖・志田浜
  夕方、3人で湖のほとりの“ 志田浜 ”に遊んだが、6時には湖岸に立ち並んだ店のいずれもが、売店の表戸を閉めはじめていた。7月17日であるが、シーズンではないのだろうか。
  【猪苗代湖】 周囲 49q、水深 95m、表面積 105Ku、 湖面標高514m。

 

7月18日、会津若松
  観光バスにて猪苗代、裏磐梯、スカイライン、五色沼、桧原湖、野口英世記念館、飯盛山、鶴ヶ城を見学。
  安達太良山の向こうは二本松市。 “ 東京の空 灰色の空 本当の空を見たいという” ・・・ とうたわれている「千恵子抄」の千恵子の生まれたところである。
  ガイドのいない観光バスとはまた妙なものだが、余りにも磐梯山をはじめ、裏磐梯の絶景に、テープの声もひときわ引き立つ。
  五色沼のきれいなことまさに“圧巻”である。明治21年の爆発で吹き飛んだ、裏磐梯山の跡も、荒々しくこれまた感動的である。
  五色沼よし、裏磐梯よし、スカイラインよし、三つの湖よし。旅よし、景色良し、すべて良し。


会津23万石の城下町に来た
  明治維新のときの会津戦争(戊辰戦争)で名高く、また松平容保でも、そして白虎隊でも音に聞こえた城下町である。
  私は17日朝、家から旅たつにあたって、上伊那誌「歴史編」を読んでみた。
  保科氏は、かつて高遠城主であったが、「正光」のときに徳川二代将軍・秀忠の子「正之」を預けられ、三代将軍・家光になってから、正之が家光の弟であることが家光にわかり、将軍の命により 「出羽最上・20万石」(山形市)へ移封<1636年>、さらに7年後に会津若松城主・23万石<1643年、寛永20>に転藩した。
  “ 鶴ヶ城 訪ねし君の いにしえを 世に逆らいて なにを残すや ”(き)
  明治維新において、最も反動の役割を担った人たちの一人の姿(松平容保)を、この陸奥にていろいろ考えさせられた。



野口英世 生家まえにて

宮城野、奥の細道、松島
  会津若松駅より再び電車に乗り磐越西線を郡山へ。そして東北本線を仙台へと向かう。福島市を過ぎたところで阿武隈川をわたる。
   “ 阿武隈の 野良に働く 農民の 米価の値上げ いまだ聞こえず ” (奉)
   “ 陸奥の 芭蕉のあとを 訪ずぬれば 声なき声も いまだ聞こえず ” (奉)
  同行の、奉文氏の作である。
  杜の都仙台についた。伊達政宗ゆかりの地である。今回、ここでは降りず、電車を乗り換えて「仙石線」(仙台・石巻線)で松島に向かう。
  奈良・平安時代に征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷平定を進めた、東北の出先の役所「多賀城跡」のある多賀城市、さらに塩釜と外の景色を見ながら松島につく。
  2日目の夜は、松島泊である。
  瑞巌寺から見て、松島湾の対岸約10qにある“名勝・奥松島”の宮戸島の月浜というところで、一部が太平洋と接しているところである。
  ニイヤ(新屋)という民宿に世話になることにした。
  太平洋も松島もみわたせるところで、近くに点々とある松島の小島も、海に接している部分は波にあらわれて岩肌が露出し、地上に生えている松が、自然の厳しさによく耐えて生きており、一本一本が盆栽のようで非常に美しい。
  夕食に、宿の主人が、今日解禁の“アワビ”の大きなものを、素潜りでとってきて食べさせてくれた。資源保護のため、漁協では酸素ボンベの使用を禁止しているという。とてもうまかった。


月浜にて

7月19日・奥松島にて
  早朝めがさめる。 ・・・・・ AM3時30分。―― 思いつくままにペンをとる。
   “ うわさにも 音にも聞こゆ 松島の この静けさは 今日のまさゆめ ”(き)
  昨夕、月浜に遊んだことを想い
   “ 岩肌に しぶきとびちる かもめかな ”  (き)
   “ 月浜に うちてはかえす 黒潮の 明日のたたかい 我むかわんとす ”(き)
   “ 静けさを 破るるごとく 黒潮の 打ちてはかえす 奥の松島 ”(き)
  芭蕉が、松島にきたとき、彼はあまりにもの絶景に心を奪われて、うたを詠めなかった・・・。弟子の「曽良」が、「 松島や 鶴にみをかれ ホトトギス 」 と、詠んだのみである―― とされているが、事実は「蕉翁句集」に 
  「 島々や 千々に砕けて 夏の海 」 の句のあったことが記録されている。
   “ 千万年の 歴史に耐えて 今日もまた 岸壁に生く 松島のまつ ”(き)
  AM4時20分、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
   “ うぐいすの 声なつかしや 松島の宿 ” (き)
   “ うぐいすも 役者のひとり 奥の松島 ” (き)
                                      AM4時50分
  宿よりバスにておよそ10分位のところに、「大高森山」がある。
  この山に登れば、松島湾の全景が見渡せ、さらに金崋山も見える山である。遊覧船の出発までの少しの間登ってみた。
  頂上近くまでゆくと、いろいろな鳥の鳴き声が聞こえてきた。
  かの有名な、曽良の句の出てくる “ホトトギス” の声が聞こえてくるではないか。“鶴に身をかれ” ・・・とはよく詠ったものだ。
  大高森港(奥松島)より遊覧船に乗る。約1時間にわたって島々の間をぬうように行く。それは、まさに“絶景”である。
   “ ハムロンに くらべおとらぬ 松島の 宮城のたたかい 今日も進みつ ”(き)
   “ ハムロンと いずれおとらぬ 松島の 政治革新 今日も進みつ ”(き)
   “ 潮さいに ○○○想おゆ 奥の松島 ”(奉)
         <絶景に感嘆して○○○が、でなかった>

  ベトナムにも、この松島とおなじような島々からなる「ハムロン湾」があるそうで、アメリカのベトナム侵略戦争に抗して戦った“ハムロンの戦い”は有名である。
  歴史的に見ても、アメリカの侵略以前にフランスの侵略とたたかい、その前には何回かの中国の侵略との戦いでも、このハムロンの戦いは知られている。
  東北の中心都市であり、「杜の都」とも言われている仙台・宮城県も、近年保守王国の東北にあって、衆議院で庄司幸助氏が国会へ進出するなど、政治の革新にとって極めて目覚ましいものがある。


瑞巌寺
   “ 堂々と 杉の木立や 瑞巌寺 ” (き)
  仙台・青葉城主、伊達家の菩提寺である。
  松島湾岸から100mあるかなしかで山門につく。山門から一直線に本堂にいたる両側の、杉の大木のなんと素晴らしいことか。杉の大木が往時の政宗の実力を連想させる。
  本堂、それに庫裏が国宝となっている。
  このような立派な寺を全国いくつか見たが、瑞巌寺については、本堂、庫裏ともにそつなくできていて欠点はなし。 ・・・ 歴史を感ずる建物である。


松島駅
  いよいよこれから「出羽」へ向かうために、東北本線の松島駅に行く。
<昨日下車した駅は、仙台・石巻線の松島駅>
  外人の若い夫婦と子供の4人連れも電車をまっている。林氏が
「Have you visited to see in MATUSIMA ?]  と、話している。
  後で聞いたところでは、イタリア人だそうで、6ヶ月の休みを取って日本中を旅行しているとのこと。イタリアでもこの人たちのところは英語を使っているそうだ。
  この外人は「東京は、人間の住むところではない」・・・ と公害首都を評した・・とか。


瑞巌寺の参道にて
 

平泉、中尊寺、悲劇の英雄“義経”
  今回の旅行で、どうしても行きたかったのは、平泉の中尊寺である。
  藤原三代の栄華のあとと、かの義経(牛若丸)が兄頼朝に追われ、この地で奮戦し、はかなくも敗れた“いにしえの地”をこの目で確かめたかった。だが、残念であるがしかたないことだ。
  芭蕉は、杜甫の詩「春望」のなかの一節
 「 国破れて山河あり 城春にして 草青みたり (草木深し) 」 
と口ずさみ、涙にくれながら
  「 夏草や つわものどもが 夢の跡 」 と、うたったという。
  また、「 五月雨さみだれの 降り残してや 光堂 」 も、このときの作である。
  ここまで来ながら、今回の旅行で行けないのは、残念無念である。


花巻、宮沢賢治
  東北本線の小牛田駅で下車。陸奥もここまで来た。だが、津軽まではまだ300qもある。
  芭蕉は平泉から引き返して、太平洋側の陸奥から横断して、日本海側の「出羽」の国に入っている。
  我々も、そのコースを訪ねることにしたが、もう2,3日の余裕があれば、さらに奥まで行けるのだが・・・と残念におもう。
  平泉より北50qに岩手県花巻がある。
  私の人生の中で、とりわけ精神的に強い影響を受けたのは、17〜19才ごろ愛読した「宮沢賢治」である。花巻は彼が活躍した本拠地である。
  小牛田から遠く北のその方向を望み、次の機会に訪ねたいと思う。
  宮沢賢治といえば38歳で亡くなる直前に書いた「雨二モマケズ」で有名であるが、私は、この詩よりも現在の私と同じ年齢のときに書いた(31歳〜33歳)
  羅須地人協会時代の作である
☆ 農民芸術概論綱要の序論 ― われらはこれからいっしょに、何を論ずるか
☆ 稲作挿話 ―― これからの本当の勉強はねえ
☆ 生徒諸君に寄せる
  などに、とりわけ強い感銘と、衝撃と、前進するエネルギーを受けたのである。
  思い起こせば、その時代は今から10年余も前の私の10代のことで、以来10数年の自分の人生にとって、それは大きなプラス面として生かされてきたことは確かだ。
  いまでも、“物言わぬ農民”という言葉が残っており、使われ、日本の屋根、日本のチベットとも言われ、遅れた厳しいイメージとして私どもにうつっている岩手の花巻。
  今から50年も前に活躍した宮沢賢治の近くにきて、・・・次から次と、自分の生い立ちと人生を改めて思い起こされ、考えさせられる旅である。
   ☆ポラーノ広場  ☆風の又三郎  ☆銀河鉄道の夜  ☆学生時代、上京時代
   ☆農学校の教師時代  ☆春と修羅  ☆最後の手紙  ☆隣終詩稿 ・・等々

 

出羽の国へ
   “ 陸羽線 出羽ではまいるぞよ 佐藤女史 ”  (き) 陸羽東線・鳴子駅にて
  佐藤女史とは、駒ヶ根病院付属高等看護学院の学生であり、山形県酒田市出身の人である。この旅行の前に、酒田の方に行く話をしていたので、この句ができた。
  鳴子駅をすぎ、列車は西へ。
  トンネルを抜けると「中山平」という駅で、陸奥の国・宮城県最後の駅である。
  駅舎の屋根に、あまりにも不似合いな “ ひらく東北”の看板あり。駅周辺には町並みも全くなく、高原の観を呈している。
  宮城野を後にしてすでに2時間。鈍行列車は一路西に向かって日本列島を横断している。これより「出羽の国」である。

  待望の出羽の国(羽前)に入る。
  芭蕉は、「 山形領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師のお開きになった寺で、格別閑静の地である。一度行ってみるがよいと、人が勧めるので、尾花沢から予定とは逆方向に引き返し、立石寺に向かった。」 と「奥の細道」に記している。
  立石寺は、尾花沢より羽州街道を山形の県都―山形市に向かって南下し、約7里で行くことができるのであるが、残念ながら日程の都合であきらめることにする。
   “ 閑清かさや 岩にしみ入る せみの声 ”
  山形市の南2里半のところに、上山市がある。蔵王のふもとの街であるが、かつて山びこ学校や無着先生で有名になったところである。


最上川、酒田、余目
  あと20分ほどで余目(あまりめ)につく。
  陸羽西線古口駅近くより最上川が迫ってきた。まさに、堂々の最上川である。
   “ 五月雨を あつめてはやし 最上川 “
  日本三大急流の一つといわれる最上川を、松尾芭蕉が下ったのは、元禄2年(1689)6月3日<陽暦7月19日>のことである。
  それも、つかの間の出会いであった。最上川は北にそれて、あたり一面見渡す限りの庄内平野が広がる。
  駒病看学の佐藤女史の故郷、酒田である。・・・ さあきたぞ!佐藤女史。
  だが、酒田には入らない。余目より日本海にそって、こんどは南下だ。

鶴岡・湯の浜
  鶴岡藩は庄内藩ともいわれ、徳川の譜代である。
  明治維新においては、親藩の会津藩などとともに、最も反動的な役割を演じた。
   “ 湯の浜や 波に顔打つ 潮の味 ” (き)
  宿は、海辺の温泉地の「湯の浜温泉」である。水泳パンツを買って泳ぐ。

7月20日・日本海側を南下
  鶴岡駅より羽越本線で日本海沿いに南下。
  出羽の国、鶴岡をでてしばらくすると、温海町の少し手前より美しい日本海である。
  経済後進地域と言われている「羽前」であるが、公害で死の海となり、水泳もできないような経済の発展より、いつまでもこのようであってほしい。


念珠ヶ関 も越えた。ここより越後である。
  日本海の美しさ、海の青さ、つい先日見た五色沼の感動よりもさらに強い印象を受ける。村上市まで海沿いに列車は走った。


出雲崎 ・・・ “ 荒海や 佐渡によこたふ 天の川 ” と芭蕉は詠んだ。


直江津 ・・・ 海こそ見えなかったが海辺の街である。黒松とその育ち具合で、それを知ることができる。
  工場から出る煙を見ると、公害が出ているであろうことを推測できる。つい先程までの美しい日本海が、汚れてしまっているかと思うと、とても悲しいことだ。
 直江津から高田に入り、妙高高原を過ぎ、黒姫駅もすぎた。
 いよいよ我らが信濃の国へ帰ってきた。
   “ たとえそれ 四日、五日の別れでも わがふるさとに 心やすまる ”(き)
  長野の駅では、停車中の車内に雀が入ってきた。出口が分からないのか、車内を飛び回っている。
   “ すずめまで 我ら迎える 信濃かな ” (き)
  ようやく帰ってきた。「奥の細道行脚」も終点である。


  “ 駒ヶ根の 駅に下りたる 友三人 心のこれり 奥の細道 “ (き)

 

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