8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 O

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・・・・< その1―O >

O   あ と が き


【 1989年5月その1 のあとがき 】

  楽しかったことがたくさんあり、苦しかったこと、そして様々な事があった旅行から、今ようやく自宅にたどりついたような、「 ホッ 」 とした感じです。
  芭蕉を意識した
最初の旅行は、1974年でした。早いもので、それから15年がたちました。
  いまこうして振り返ってみると、芭蕉も困難な旅をしたことでしょう。
  陸奥と出羽の境にある「尿前の関」
(しとまえのせき)<今の鳴子温泉あたり>で詠んだ、
   “  蚤虱(のみしらみ) 馬の尿する(しとする) 枕もと  ” によくあらわれており、さらに、「この道必ず不用のことあり」(山賊が出る)・・・ と屈強の若者を道案内に頼み、「反脇差を横たえ、樫の杖を携えて、われわれが先に立ちてゆく。今日こそ必ず危うきめにあう日なれと、つらき思いをなして後についてゆく。」・・・ と記している。
  私にとって、一つ一つの旅行が思い出深く、それがいま脳裏によぎりますが、やはり最初の旅(PART−1)が一番印象に残っています。
  でき、不出来はともかく、いま改めて読み返してみて、一つ欠けていることにきづきました。それは、芭蕉が出立した江戸深川の芭蕉庵にまだ行ってないことです。
  今度はその旅をしなければ ・・・ 。
  おりから、リクルート汚職に自民党はもとより、共産党以外の野党がみんな関わり、また消費税にきっぱりとした態度をとれずにいます。
  自民党にすり寄った「道」に未来はありません。今再び共産党が国民から大きく期待される時がきました。・・・・・ 新たな旅への出発です。

   “  新たなる 旅を求めて 今日もまた 
               四十七路の春に 夢はてしなく  “  (き)

   <奥の細道出発・300年目の、1989年(H元)5月16日 赤須喜久雄>


【 2009年8月その2 のあとがき 】

最初の旅行が1974年今は2009年 足掛け35年。
・ 奥の細道も大分歩いた。その他もいろいろ“行脚”した。
・ いままでの旅、これからもどこかへ行くであろう旅、それらについて、次にまとめる機会があるや?なしや?。
・ 皆様の感想やご意見など、ぜひお寄せください。お待ちしております。

<2009年8月・ 赤須喜久雄>

 

《寄稿》  「奥の細道」と私  木島日出夫 1989年(H元)

  1689年(元禄2)の陰暦3月29日、松尾芭蕉の一行は、栃木県鹿沼に一泊していますが、ここが私の生まれたところです。
  「奥の細道」では、室の八島(現在の栃木市)の次が日光であり、残念ながら鹿沼に関する記述はありません。
  鹿沼は、日光例幣使街道の宿場町であり、江戸から日光東照宮への使いの通った街道沿いにあります。
  鹿沼市の真ん中を北から南へ黒川が流れていますが、江戸時代徳川将軍が日光へ御成り(日光御参社)の際、新しく橋が架けられ、この橋を「御成橋」と称しました。
  この付近は、鹿沼宿外の飛び地として、江戸時代は人家が点在していた程度だった
といいます。その当時は、「並木」と呼ばれていたが、明治初年に「御成橋町」と称するようになったそうです。
  おそらく、鹿沼宿に一泊した芭蕉一行は、朝まだ暗い頃、御成り橋を渡り、日光へと旅路を急いだのではあるまいか。
  点在していた人家の一つが私の生家です。

諸国行脚「奥の細道の巻」を読んで ・・・ 二首。
  “  あたらしき 世をば求めて たずね行く  青葉目にしむ 細道の旅  ”
  “  朝まだき 旅立つ君の 心はずみ  思いは遥か いにしえの道  ”

☆ 「登戸・伊那村・帝銀事件」を読んでの感想
     徹底した調査活動と、透徹した目で帝銀事件の真相に迫ってゆく、一コマ
     一コマに、松本清張か森村誠一を思わせるすさまじい迫力を感じました。


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