L<第十三回> 最終回
平沢貞通の故郷は伊那だった。そして、登戸は・伊那村は
《 取材の最後は、北海道小樽市 》
数日後、共産党市議団長(36名中6名)のOさんから返事が来た。
「平沢が生まれ育ち、6才までいたのは、・・長野県上伊那郡西春近村0000番地」(現、伊那市西春近)
平沢の“故郷”は、6才まで生活し、12才まで本籍地であった ― この地 ・・・それはまさに、私たちがいつも愛し生活している ― 伊那谷だった。
平沢は、5月10日、95才で獄死した。生まれてから幼き日を過ごしたこの地を想い、「 東仙丈 西駒ケ岳 間を流れる 天竜川 」 ・・・・・ と、伊那節の一節が、最期に脳裏をよぎり、そう口ずさんだかどうかは知る由もない。
登戸の劇薬! いまも洞穴に
「今も山の中や洞穴に、研究所の薬が隠されている。」(元研究所員Kさんの話)
との話をもとに調べて行くと、私たちの周りに今も保管されていることが次々と明らかになってきました。
アセトン・シアン・ヒドリン は?
終戦のときに“処分”されたはずのものが、「帝銀事件につかわれた」 もしや今もどこかに隠してあるのではないか?
このような疑問が出てくるのは当然である。今後の発掘に期待は高まっている。
川崎市・登戸では
1987年8月23日、川崎市文化会議が主催して、川崎市多摩区生田の明治大学構内に残る「登戸研究所」の視察、調査が約80人の参加のもとに行なわれたと、新聞が報道しました。
大学構内には、木造の当時の研究所の建物がそのままの姿で残っています。
謀略戦を研究し、数々の“成果”を上げたナゾの部隊の解明に動きがはじまりました。
川崎市史編纂委員の島村竜蔵さん(67・元川崎市環境保全局長)は「 この謀略部隊は、戦時中完全に秘密にされ、戦後も市民に知らされていなかった。戦争と平和の問題を多くの人に考えてもらうためにも、こうした空白の軍隊史を解明しなければなりません。『伊那にも是非行って調査したい』 と話してくれました。
平和がみちあふれる郷土をめざして
1945年(s20)8月15日、戦争は終わった。
日本軍の参謀本部は、本土決戦を主張したものも多数いたという。
もし、本土決戦になっていたなら、陸軍の化学兵器研究所のある伊那村をはじめ、伊那谷は、いち早く爆撃を受けていたことでしょう。また、大本営が移ってきたならば、長野市や松代などは壊滅状態になっていたことでしょう。
終戦後42年、戦後生まれも42才、いま私たちは一見“平和”の中にいる。だが、いったん戦争になれば核兵器のもと、人類は全滅する。いまこそ私たちは、平和がみちあふれる社会をめざして、核兵器を廃絶し、反核国際統一戦線をつくり、世界平和を勝ち取るために全力を上げなければならない。
< メ モ > 第2次世界大戦での犠牲者は
○ |
世界全体 |
5692万人 |
○ |
日本が侵略した中国だけで |
2400万人以上 |
○ |
日本全体 |
310万人 |
○ |
長野県 |
7万人 |
○ |
駒ヶ根市全体・戦死者 |
732人 |
(内、赤穂町=466人。中沢村=179人。伊那村=87人) |
長い間のご愛読ありがとうございました。
今回の取材は、まさに日本列島を股に掛けたものでした。
北海道の札幌、小樽、福井県の武生、神奈川県の登戸、そして福岡県の北九州市小倉と田川、さらに米軍の資料を求めて国立国会図書館へと日本列島を駆け巡りました。
風船爆弾では、アメリカのスミソニアン博物館の資料も見せていただきました。
この間、いろいろな方々に大変お世話になりました。最後でありますが心から感謝の言葉を表明いたします。ありがとうございました。 1987年(s62)8月30日
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