8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
高遠藩3万3000石・百姓一揆ものがたり
 その1 

  わらじ(草鞋)一揆・農民1万人以上が参加した「興津騒動」

・・・ 幕末のころ高遠藩の財政窮乏がまねいた百姓一揆 の聞きかたり ・・・

 封建制度の世の中では、個人の自由はまったく認められず、不平や苦痛があってもこれをじっと我慢しなければなりませんでした。
  260余年続いた徳川氏の封建政治も、中期以降になりますと、経済組織が地方的なものから全国的なものとなり、米を中心とした自然経済から貨幣経済に移ってきたために、武士の生活はますます困窮し、その打開策として農民に無理な租税(強制的に取るお金)を科したために、農民の不平不満は次第につもり、これが何かの政治的な失敗を契機に爆発して、当時きびしく禁じられていた団体行動(寄り集まって謀議すること、徒党を組むこと)や、意見を直接訴えること、および取り壊しや放火など暴動を起こす・・・そういうものが多くなってきました。
 
  高遠藩でも天明3年(1783)・ときの将軍は10代目家冶で、高遠・内藤の殿様は5代目の長好(ながよし)。このときに田圃にたくさんの害虫が発生して、その害虫による凶作のために、領内2万6000石余の損耗となり、洗馬郷7ヶ村だけで飢え人・830人余がでています。
  この凶作のために、百姓一揆に近い不穏な動きが起こっております。
  その後も部分的な騒動が各村々で繰り返され、40年ほど後の文政5年(1822)には、内藤頼寧(よりやす)が殿様でありましたが、彼が23歳で着任してまもなく、全領民がたがいに連絡して、大規模で計画的な「わらじ騒動」、または「興津騒動」の名で有名な百姓一揆が発生いたしました。明治維新より46年前のことです。

  高遠藩 3万3000石で内藤氏入る
  ここで高遠藩について少しふれてみますと・・・・・。
  高遠藩は約500年ほど前の戦国時代のはじまりの「応仁の乱」のころに、“高遠”という苗字を持った殿様が治めたことからはじまり、秋山氏、信玄の子である武田勝頼、その弟の信玄の5男・仁科盛信、それから京極高知が治め、保科と言う姓の殿様が、さらに鳥居の殿様をへて、元禄のはじめに幕府領となりました。
  そして、元禄3年(1690)に有名な“元禄検地”がありました。
  当時は、殿様が変わるたびに、その殿様についた石高に合わせるために検地(測量)をして、田や畑の面積を出したわけであります。
  この検地は、松代藩の真田氏によって行なわれたわけでありますが、高遠の殿様になる予定の内藤氏は、3万3000石が石高でありました。ところが検地の結果は3万9000石と出てしまいました。
  そこで、幕府が6000石を没収して(塩尻の近く)幕府直轄の領地として取り上げてしまい、3万3000石が内藤の領地となったわけであります。
  そのときに検地を担当した真田氏は、それより前に佐久方面の検地をしたときに、新しい面積が少なくて(石高が増えなかった)、幕府の役人から小言をいわれたために、今回は「縄をちじめて面積を増した」ということであります。
  あくる年の元禄4年に、河内の富田(大阪のPL教、PL学園のあるところ)から内藤清枚(きよかず)が領主となって着任し、以来8代180余年間、内藤氏が治め、最後に版籍奉還(領土と人民を朝廷に返す)に至ったわけであります。
  当時、領内には「郷」と呼ばれる地域が7つありました。
  北の方から、洗馬郷(塩尻付近)、上伊那郷(辰野、箕輪)、春近郷(東西春近、宮田)、川下り郷(美鈴、旧伊那町)、中沢郷(富県、東伊那、中沢)、藤沢郷(長藤、藤沢)、入野谷郷(美和、伊那里、河南)、この7つの郷をもって“高遠藩3万3000石を構成していたわけです。

◎ 高遠藩3万3000石(7ヶ郷、82村)

・洗馬郷 ・ 7村 本洗馬、岩垂、西洗馬、古見、小野沢、針尾、小曽部
・上伊那郷 ・14村 樋口、赤羽、沢底、平出、辰野、雨沢、横川、上島、今村、
宮所、宮木、新町、北大出、羽場
・川下郷 ・15村 鉾持、芦沢、笠原、大島、川手、青島、狐島、上新田、
下新田、 東伊那部、上牧、野底、御園、山寺、西伊那部
・春近郷 ・ 8村 小出、表木、下牧、中越、諏訪形、宮田、田原、殿島
・中沢郷 ・15村 新山、貝沼、福地、火山、塩田、大久保、栗林、伊奈、
本曽倉、中曽倉、大曽倉、中山、高見、菅沼、吉瀬
・藤沢郷 ・16村 板町、的場、弥勒、野笹、板山、中村、中条、黒沢、
四日市場、栗田、台、北原、荒町、水上、御堂垣外、片倉
・入野谷郷 ・11村  山田、小原、勝間、非持、溝口、黒河内、市野瀬、浦、
山室、荊口、芝平
●幕府領 ・3万4500石
(上伊那関係)
現在の箕輪町、南箕輪村、伊那市西箕輪、手良、福島、駒ヶ根市赤穂、飯島町、中川村、松川町上片桐

 大坂加番の“名誉”拝命される
  一揆が起きた(興津騒動)文政5年(1822)という年・・・今から180余年ばかり前のことですが、城主・内藤頼寧が「大坂加番」、それに内藤氏があたりました。
(大坂城を警備するために、城外に3つの番所に警備の役人が居た。その任務に
2万石から3万石の程度の小大名が任ぜられ、1年間そこで警備にあたる。)
  <頼寧は先年から幕府に大坂加番を願い出ていたようであります。>
  当時、これを命じられることは、“大変な名誉”とされておりました。
  その任務につくことにより、幕府からの役高(その役につくことによって、2万7000石を1年間与えられる)という特典はありましたけれども、それよりも家来、人足など多数連れて1年間大坂で生活する費用は莫大なものでありまして、台所の苦しい高遠藩にとっては、名誉は嬉しいが、その負担は非常に大きなものがありました。

  藩財政は窮乏の極
  その頃の高遠藩の財政は、元禄検地の時に3000石減俸されたとき以来の累積した赤字で、窮乏の極に達していました。当時の“おふれ書”には「お勝手年々不捻意にてお借り財莫大、うんぬん・・・」という言葉がいつの文書にもついております。
  このような状況にありましたが、膨大な赤字・借金の対策として、一方では「お借り上げ米」と称して、藩士(さむらい)の扶持(給料)を石高に応じて削減して渡す・・・そういうことも考えたわけです。
 文政年間の文書にはこんなことが書いてあります。
「 300石をとる侍の場合には、3歩5厘2毛だけ与える」・・・ということは、300石をとる侍の場合、105石しかもらえない。また別の文書には、50石の侍は37石しかもらえない。そういうような記録も残っております。

  高遠の“涙米”・百姓は、租税を納める“道具”
  農民から取り立てた米や、武士の減俸した分の米は、藩のお蔵に入り、木曽の商人からの莫大な借金の返済のために、権兵衛峠を越えて木曽に送られました。
  伊那節の一節に “ 伊那や高遠のお蔵米 ” とか、 “ 余り米 ” とか歌われている・・・・・どころではない、まったく血のにじむようなお米、“涙米”であったわけです。
  また、高遠の町には「 お仕送り役」という名誉職があって、藩の入費を用立て、百姓から入る年貢米によって返済されておりました。
  町人や、各村役人などに“門構え”を特に許し、そして「門税」をとったり、名主・組頭などの役柄を百姓に与えて、「役税」というものを納めさせておりました。
  武士の窮乏がこのようでありましたので、百姓の暮らし向きはいっそう甚だしい貧しさであって、農民はただ租税を納める道具でしかありませんでした。

  「男1日にわらじ・2足」、「女1ヶ月に木綿1反」の上納を“命令”
  このなかで、殿様が「大坂加番」という事を知った農民の心ある人々は、すでに一抹の不安を抱くに至っているようであります。
  大坂加番を命ぜられた殿様は、家老以下の重役の人事移動を行ないましたが、このときの人選に“的をはずした処置”があったために、後日大騒動を誘発する原因にもなりました。
  留守をあずかる重役たちは、大坂へ金を送ることについて幾度か協議を重ねるわけですが、名案が中々出てきません。ある協議の席で、お年寄り役の浅利平太夫という人と、御用人で郡代をやっていました興津紋左衛門、この2人は実の兄弟でありますが、この兄弟の構想になる次のような意見が提案されました。
「領内の農民、男子15才以上60才の者は、1日に草鞋(わらじ)2足づつ、女子は1軒につき1ヶ月に木綿(もめん)1反づつを5年間継続して上納させる。ただし、4月、5月と9月、10月は農事が忙しいので容赦する 」
  このような案でありました。
 経済情勢の変化に対応するため、副業的生産品によって借金の返却などに当てようとする苦肉の策でありまして、藩側にとっては、いわゆる能吏・切れ者の妙案ではありました。
協議の席では、当時、隠然たる勢力をもつ興津、浅利の力を恐れて、重役の大部分は賛成しました。
 ただ、郡代の葛上長兵衛(くずがみちょうべえ)という人が、百姓の苦労を思いやり、この案に反対して郡代の職を辞任しております。

  わらじ2足と木綿1反が、苛酷であったか
  江戸時代には、木綿(きわた)の栽培が広くおこなわれていました。
  木綿の実の中に出来る、白くてやわらかな綿毛を、衣服や布団の中に入れたり、綿花をつむいで「もめん糸」にして、木綿織りにしました。
  藩の命令は「1年間に木綿8反を上納せよ」ということであり、ただでさえ忙しく、苦しい生活の中で、さらにそのために反物を織る(たんものをおる)ということは、まさに負担の限界をこえた命令でありました。
  わらじ2足についても、男子は1人が年間480足となります。
  当時は、米を供出するにも「米俵」であり、「むしろ」も「草履ぞうり」も「蓑みの」などの日常の生活用具の多くが「稲わら」で出来ていました。
  この草鞋の原料の「わら」の確保についても余裕がない状況にありました。

  巧妙なふれ書きをもって通達
  このようにして、興津、浅利の提案した“わらじ・もめんの特別奉仕案”は決まりましたが、抵抗を恐れて巧妙なふれ書きを持って通達されました。
  農民の抵抗を非常に恐れたわけで、文政5年6月13日に全領内の名主・組頭の代表者(730余人)を集めて、赤味噌をぬったおにぎり2つと、漬物2切れをお城で馳走(ちそう)して、広場に呼び出してむしろ(筵)に座らせました。
  そして、重役からまず「 藩が非常に苦しい」ということを訴えて「 殿には借財がかさみ、大切な公務をつとめがたく、百姓には特別奉仕をしてもらいたい。内容は別紙の通りだから、村民の説得につとめてほしい。ただし、長わずらい(患い)の者や人数の少ない家についての裁量はすべて村役人の指示にまかせる」
と、“決して強制的ではないぞ”という意味の言葉をつけくわえて、逃げ道をつくった・・・ものになっております。

  百姓承服せず・立ち上がる
 村役人の説明を聞いた農民たちは、いずれの郷、村でも「 いままではかなりの無理も忍んでいたけれども、今度は承知できない」と、なかなか承服しませんでした。
『 江戸時代には、どのようなことでも「お上かみの命令」とさえ言えば、絶対服従の世の中でした。
 しかし、今度ばかりは・・・と、あそこの畦あぜ、ここの土手に2人、3人、腰掛け茶屋にも、風呂場にも、集まって毎日不服をとなえていました。
 そのうちに、佐倉の宗吾の話がしきりにもてはやされました。
 村々の百姓は、鎮守の森などに集まって文章を書いて「目安箱」に投書したり、「 落とし文」をしたりしました。しかし、藩はこれをすべて拒否しておりました。
 そのうちに「直訴しろ」という声が充満し、ついに藩に訴え出ましたが、2度も3度もふみつぶされ、さらに甚だしきは、訴状を焼きすてました。
 農民はますます激高の度を高めたが、主君は不在である。
 「いっそ、共々ともども願い出よう」 と、誰がこしらえたのか “むしろ旗も出来た。万一の用意に「隠れむろ」も先立つ者の家には出来た。
 合図には寺の半鐘をたたくと決め、明日一揆を起こそう・・・というまでに立ち至りました。    』
                                               <新撰高遠誌より・明治37年、長坂 編纂>

 先陣を切った辰野村
  まず先陣を張ったのは辰野村で、文政5年(1822)の7月に80人の農民が、蓑・笠に身をかため、鍬や鎌を手にして美すずの天神山にこもりました。
  そこに、辰野の赤羽村の20人がやってまいりまして合流しました。
  藩の隠密は、あわただしくその状況を城へ報告しましたところ、興津、浅利は驚いて江戸へ早飛脚をだし、大坂へは早馬を飛ばしました。
  大坂にいる藩主の立腹は一通りではありませんでした。内藤の殿様が“何を怒ったのか”ということですが、それは“幕府・徳川氏に顔向けできない”というものでした。
  勢いをえた群集は、町へ入り城門にせまり気勢をあげました。
  城内は慌てふためいて、奉行が門前に出て言い逃れをいい「難渋とあらば強いてつとむるに及ばず」とあっさり取り消しをしております。
  これによって、辰野村の百姓は一応退散しました。

   合計、1万人余名が一揆に参加
  この情報を入手した各村々は、これにならい辰野の沢底村100人、羽場、北大出、宮木、宮床の400人、樋口、平出の120人、川島の380人、中沢郷の火山村、栗林村の58人が同様に押しかけました。
  さらに、翌日の7月5日には、春近郷、中沢郷の20ヶ村の約3000人、伊那、美すずの1800人などが城門にせまって、奉行の弁明によって、いずれも引き下がっております。
  つまり「 無理をしないでよろしい」という返事を受け取って帰っています。
  その翌日の6日、7日にも、今度は入野谷郷の1500人など、合計しますと約1万余名の人数が強訴に及んだ記録が残されています。
  当時の高遠藩の人口は、3万8000人でしたので、その26%、4人に1人以上が一揆に参加したという事は、驚くべき出来事でありました。
  それだけ「苛酷な命令」であり、まさに命をかけての行動に出ざるをえなかった・・ということであります。

 『 葛紙くずがみが一枚あれば足るものを、いらぬ反古紙ほんごの二枚三枚 』
                   葛紙  = 葛上長兵衛
                   反古紙=紙が貴重であった時代に、字や絵をかいた紙の裏をもう一度使った。
  藩においては、この一揆が“国事犯”(政治犯)であり、藩の欠点にもなるということで、隠れむろ(室)などにいた一揆への参加者を、数珠のごとくに縄をかけて、なるべく罪人を人に見せないように、町方などは戸をしめさせて、罪人をつれてきて仮の牢に入れました。
  葛上長兵衛は、日頃「清廉潔白」という評判の人でしたが、責任を感じて切腹しようとしましたが、江戸詰めの家老の神浪半左衛門(ごうなみはんざえもん)という人が止めに入り、思いとどめさせました。
  藩では、急遽重臣会議をひらいて、江戸および大坂に報告するとともに、興津、浅利は蟄居閉門(ちっきょへいもん・家に閉じこもり外出禁止)となっております。
  そのときの落首が「葛紙が1枚あれば足るものを、いらぬ反古紙の2枚3枚」です。

 一揆は、洗馬郷に飛び火・悪役人をこらしめる
  一応伊那谷は平穏に戻りましたけれども、1ヵ月後には今度は洗馬郷に飛び火をいたしまして、いわゆる“8月騒動”というものを起こしております。
  8月騒動とは、当時洗馬郷では4400石くらいの石高でありましたので、かなりお米が取れたわけでありますが、洗馬郷の騒動には他の6つの郷と異なった原因が1つありました。
  テレビの水戸黄門に必ずといっていいほど登場する「悪役人」が、村々の役人や商人と結託したりして、金を納めさせることによって特別な権利をあたえたり、あるいは「年寄り」というような「格」を与えたり、悪事が多かったために、農民の怒りを呼んでおりましたので、“わらじ騒動”のほかに、これらに対する打ちこわし事件が重なっておりました。
  藩の記録をみますと、「 14軒(家)土蔵まで残らず粉みじんにあいつぶし、少々傷をつけ候(そうろう)棟の数60余り、衣類にいたるまで寸寸に切り刻み、影もなきようにいたし候」 ・・・とあります。

 平穏に見えた当時の伊那谷に、1万人いじょうの一揆騒動があったことを、今想像するだけでも、長年にわたりいかに農民が抑圧されていたかを洞察するに足る出来事でありました。

  百姓一揆・完全に勝利する
  藩が「難儀の筋ならば、ご奉公をするに及ばず」と特別奉仕の命令を撤回しました。
  この事件は、農民は完全に勝利をしたといえるわけであります。
  翌、文政6年に大坂から帰ってまいりました藩主・頼寧は、この騒動の原因が藩政の失敗にあったことを認めまして、興津紋左衛門と浅利平太夫の両名を領外追放、他の関係者には役の格下げ、あるいは役替えなどの処分を行ないました。

  信濃一国、江戸ご府内とも徘徊しまじきものなり・・・と追放処分
  文政4年に端を発したこの事件が、完全に決着をみたのは、文政7年の12月であり、文政8年に、興津・浅利兄弟の追放が実現されたわけであります。
  追放の書状には、「信濃一国、江戸ご府内とも徘徊しまじきものなり」と、厳しいものでありましたけれども、実際のところ興津紋左衛門は、諏訪郡のいまの富士見町の信濃境に、名前を「和田」と改めまして、そこへ落着いて、子弟を集め寺子屋をひらいて生涯を終えています。
  その孫は、高遠藩へ帰参をゆるされて、「30俵3人扶持」をもらっているという記録もあります。
  この “ わらじ一揆”を 別名「 興津騒動」といわれるのは、発案者の興津をとって言われているわけであります。
                                                    <その1・わらじ一揆、おわり>

 2004年6月9日、駒ヶ根市東伊那の郷土研究会で、富士見町信濃境にある、興津紋左衛門(和田)の墓を訪ねてきました。案内してくれた、井戸尻考古館の館長さんは「この墓を訪れる人はいない。何か良いことをしたのか?」といい、「いじめられた者の子孫だ」と会話。墓は共同墓地の中にあって、興津の戒名の左右に女性の戒名がありました。

次へ百姓一揆ものがたりトップに戻る