8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
高遠藩3万3000石・百姓一揆ものがたり
 その2 

明治2年、中沢郷の“蓑笠一揆”の一部始終
                     ・・・ みのかさ・百姓一揆の聞きかたり ・・・

 わらじ一揆から47年後、もう明治になっていますが、“廃藩置県”の前、明治2年12月8日におこりました蓑笠一揆をご紹介したいと思います。

 封建時代には、農民の一揆はもちろんご法度でございましたので、事件直後にはその模様を記録したり、発表することはとてもかないませんでした。
 たまたま明治維新のときでありましたので、一揆の目撃者の何人かが、見聞きしたことをまとめ上げたものもあり、それらを参考にして、一揆の発端、規模、時刻、あるいは高遠藩の対応・・・などについてまとめてみました。

 4ヵ年連続の凶作が一揆の引き金に
 当時、高遠藩には7つの郷がありましたが、そのうちの一つの入野谷郷(伊那里、美和、河南、現在の長谷村と高遠町の一部)と中沢郷(伊那市富県、駒ヶ根市東伊那、中沢)のどちらも、天竜川の東の山間地であり、いづれかといえば痩せた領地でありましたので、明治の新政策によって、経済情勢がすっかり変わってしまって、課役負担の重圧がだんだん増して、経済不安をまねき、代官や領主への不満が増大していました。
 さらに、凶作も実際には4ヵ年連続の状況でありました。ですから騒動の直接的な原因は凶作にあったようです。
○慶応2年(1866)領内凶作ならびに洪水にて、御救小屋建つ。
○特に明治元年(1868)には、5月と8月の2回にわたり、大風が吹き、大雨が降って、いわゆる辰の満水という
   大洪水が伊那谷を襲い、天明・天保の大飢饉に続く大飢饉をまねいて、その日の生活に事欠く難民が続出。
○明治2年には、凶作により、平年の4割の収穫となり、領内に御救小屋を設ける。
 このような状況の中で、内藤の殿様は、領民の貧窮が極に達していると、各村々にお助け小屋を造営し、領内で極貧なるものを集めて救助したりしたが、しかし4ヵ年にわたる凶作のために、世はますます不穏な形勢となり、塗炭の苦境におちいりし者が寄り集まって百姓一揆となりました。

 入野谷・木師郷で百姓一揆おきる
 明治2年12月1日、みのかさ一揆のちょうど7日前、入野谷郷で一揆がおきています。
 入野谷郷は、別名を“木師郷きじごう”といい、山の仕事をする木師であります。
 入野谷郷12ヶ村のうち、5ヶ村が木師郷(黒河内、中尾、市野瀬、杉島、浦)であったわけでありますが、約2000人が高遠城に押し寄せる一揆をおこしております。
 理由は、木師が藩へ木材や林産物を納める賦課があったわけですが、それが重い・・・ということが原因となり、一揆をおこしたものであります。

 入野谷に呼応して、中沢郷でも一揆おこる
 当時の社会状況は、連続する凶作のために、泥棒をはじめ悪漢(わるもの)がはびこり、世の中がますます物騒になってきました。
 そのために、村々のはずれ、辻に番小屋をつくり、毎夜交代で夜番を立てて自衛するほどでした。
 入野谷一揆は、中沢郷の百姓たちの共鳴をえたので、入野谷一揆の指導者の何人かが、入野谷と中沢の境界の女沢峠を越えて中沢郷に潜入しました。
 一揆が起こったのは、各村々に2,3の扇動者がおって、前日より密談を重ねて、「一揆の日時を12月8日の丑三つ時(うしみつどき・午前2時20分頃)ときめ、いたるところの番小屋に火を放ち、のろし(狼煙)とともに“鬨の声”をあげる(ときの声・一斉に上げる叫び声)・・・という合図を決めた」ようであります。

 “みのかさ一揆”勃発ぼっぱつ・のろしあがる・ときの声は 鶏鳴四郷に達するがごとし
 そのような準備のもとに、突然一揆がおこるや、各所の番小屋に火を放ち、あらかじめ示し合わせた“のろし”とともに、鬨(とき)の声があがり、鶏鳴四郷に達するごとし・・・だったようだります。

 法螺貝を吹き鳴らし、誰もが破れほころびたる着衣をまとい、その上に蓑笠を着て、いずれも善光寺鎌の名作を腰に、稗飯(ひえめし)のおむすびに赤味噌をぬりつけ焦がしたものを、首っ玉に結びつけ、我もわれもと歓声をあげて、高遠をめざして押し寄せるさまは、傷を負った狼の姿のようで、まことに勇ましかったようであります。
 長年にわたって追い詰められた農民たちの怒りが、いかに大きかったか物語っているように思います。

 藩兵50人・火山峠に陣を張る
 事件を察知した高遠藩では、午前4時ごろ、急使を各村の庄屋の家にとばして、『一揆を静止せよ』と命令する。
 しかし一揆の勢いは、すでに中沢の高見(中割、下割)から新宮(下割)方面まで押し寄せてきており、ときの声、法螺貝の潮のごとき群集のために、偵察の侍は(3人来た)一目散に高遠へ引き返して、そのむねを報告しました。
 高見を出発した一揆勢は、さらに曽倉、伊那、栗林、大久保、塩田、火山の村々が道々呼応し、高遠をめざして進みました。
 藩では、中沢の勢いが猛烈ということで、屈強な精兵50人ばかりを派遣して、火山峠に陣を張りました。
 一揆勢は火山峠をさけて、その西の、小ぐるみ沢に入り山を越えました。

 福地の「湯戸」で対決、 「じゃまだてするやつらを踏み倒し、蹴飛ばせ」
                          ・・・・・と法螺貝を鳴らして一揆勢は進む
 この後、両者が斥候(せっこう・偵察隊)を出しまして、お互いの動静を探りあいながら、正面衝突もなく、峠をこえて「福地の湯戸」(伊那市富県)という所で高遠藩の代官・中山忠左衛門の一隊といよいよ対決することになりました。
 このときの代官は、“ 床几(しょうぎ)に腰かけて、権柄尽(けんぺいずく・権力にまかせてものをいう)をもって、居丈高(高圧的)に制止 ”しようとしました。
 しかし、たけりたった一揆のことですから、「 じゃまだてするやつらを踏み倒し、蹴飛ばせ」・・・と、法螺貝を鳴らして一揆勢は進みました。
 このとき、藩の防兵たちの中に、金子英輔という侍がいましたが、日頃人足奉行で中沢郷の各村々を訪れていましたが、百姓のあつかいが非常に乱暴で、反感をかっていました。
 この金子が、中沢の中山村の百姓2人を、柔術をもってばらの藪の中に投げ込みました。そうしましたら、首のあたりから血がしたたり落ちたわけであります。
 これを見た百姓が、血を見たものですから“首を切った”と錯覚して、今度は投石が始まって、さすがの金子も血を流しながら、一目散に高遠へ逃げ帰りました。
 百姓たちはこのケガ人を戸板にのせて、4人交代で運びながら午前8時ごろそこを出発しました。
 その頃、総勢数百人となり、歓声をあげて高遠へと急いだようであります。
 貝沼村を通過するときには、なぜか百姓家は、固く雨戸を閉めて、誰も顔をださず、一揆に加わりませんでした。
 結局、貝沼村は、中沢郷15ヶ村中1ヶ村、最後まで一揆に参加しなかったのであります。
 一揆勢はさらに情報を収集しながら、侍のいない河南の金井坂をへて、上の原にて役員を選んで、嘆願書を作成しました。
 このころには、諸所方々より一揆に参入した人達が2000余人に達していました。

 一揆勢・2000余人となる。弁財天の大橋上で乱闘。三峰川を渡る
 この群集はまもなく、三峰川の縁(へり)に到着しました。
 そのようにして、弁財天の大橋にいたりますと、数十丁のはしごを欄干に麻縄で結び、折からの厳寒に水をかけて凍らせて、十重、二十重(とえはたえ)の要害をつくり、屈強の青年武士4,5人がはしごとはしごの間に詰めており、六尺余の樫の棒をもっ て、八方に目配せし、一揆の来るのを待ち受けておりました。
 一揆の群衆の中より、一騎当千の勇ましいのが真っ先に進み、腰の鎌をもって、凍った縄を切ると、はしごは三峰川の中へ落とされ流されました。
 このとき侍たちは、百姓に鎌の用意があったのには、舌を巻いて驚いたようであります。まさか・・・と思ったのでしょう。
 橋の上でしばらく乱闘がつづき、いつ終わるのかと思えましたが、群衆の中より「川を渡れ」という声がかかって、水も凍るような寒中に、深瀬を屈強なものがわたり、その下流の浅い所を一般の人々がわたり終わって、さらに残りの大部分は下(さ)がりの橋をわたって、群集は殿坂(とのさか)に到着しました。
 酷寒の季節で、三峰川は水かさも多いときでありまして、上流を渡った者は、わきの下までぬらした様であります。

 藩主、内藤頼直・「百姓を丁寧に扱うように」
 城内からこれを見ていた藩の役人は、その勇敢さに驚き、藩主内藤頼直は「 腕力によってこれを取り押さえんとすれば、火をもって火をふせがんとすることになり、反感を買うので、百姓を丁寧に扱うように」・・・と命令したようであります。
 一揆の群集が殿坂に到着したところ、家老職であった浅井又七郎が藩主の命をうけまして、新しいむしろに緋毛氈(ひもうせん・紅色の厚い織物)を敷いた上に、大柄で白髪の老体をもって、姿勢正しく両手をついて、頭をたれて、正座をしていました。
 <百姓に向かって、頭をたれて、正座していたということであります。>
 一揆の先頭のものは、この様子を見て2,3歩後ずさりをしたようです。
 浅井又七郎は、「 それがし、殿の命を受けてここにいるが、百姓どもには寒中にもかかわらず、いかなる理由があって来たのか。また、そのかつぎたる者は何か。どのような願いであろうとも、ここにて殿にかわりて聞き届けるので、願い書あれば差し出すように。」 ・・・・・ といいました。

 一揆の代表が嘆願書を差し出す
 よって、代表が嘆願書を差し出したわけであります。
 又七郎はそれを開いてみて、大いに驚き、顔色が変わって、湯戸で負傷した者を大急ぎで医者のところに送り、手当てさせました。
 さらに、百姓どものボロボロのきものと蓑笠が、ガラガラと凍った姿を見て「 これは痛ましい」といって、弁天の河原に藩で使う薪が積んであったのですが、ただちに河原へ一同を案内して、その薪をたいて「 着物を乾かすように。また、食べ物はすべて当方にてただちに炊き出しするので、心配しないでよい。厳寒のおりであるので、体を大切にして風邪をひかないよう注意するように。」
 と、慈母が赤子をあやすような言葉をかけるので、一同は感泣(かんきゅう)した、という記録がのこっております。

<蓑笠一揆勢の要求書>
乍恐奉歎願候御事 《 おそれながら、たんがんたてまつりそうろう 》
          明治2年12月 中沢郷中 百姓中 (塩田耕地有文書)
@人足(ただ働き)手当て、1人・米2升、いただきたい
A年貢米は1俵は3斗3升
B年貢米の増もみの減量
C附課税の減免(御馬や納めもの)
D年貢米の買い受けの場合時価より安く
E附加税の減免(御小屋納物)
F新米納入の節は、1升に1升の代米をいただきたい
G役人のもてなしの廃止(御蔵〆ほか)
H作事人足はお城のある村で
I附加税(渋柿、わらび、そば)の減免
J殿様が食べる米以外は普通の米に
K役人のもてなし廃止(納め物の節)
L家来衆のための人足(ただ働き)の禁止
M附加税の減免(諸運上御用)
Nにせ・2分金を通用するお札と交換してくれ

 塩むすびをたべ、数十ヶ所の焚き火をかこんで夜をあかす
 河原にうつった一揆の人々は、数十ヶ所で焚き火をし、着物を乾かし、高遠の商人の男女が酒造用の大がまで炊いた飯を、塩むすびにして口にしました。
 ただし、数千人の大衆でありましたので、なかなか容易ではなかったようであります。
 このとき炊いたお米が、およそ10石(25俵)といわれています。大変な量です。
 一揆勢はそのままうずくまって夜を明かしたけれども、夜があけ、朝になってまわりを見ると、人数はどうも半分くらいに減っていたようであります。
 これは、厳しい寒さにたえかねて、老人とか体の弱いものは、こそこそと逃げ帰ったそうであります。
 12月9日は、ふたたび炊き出しがあり、朝食のあと役人が来て、「 お上(かみ)においては、歎願のおもむき(内容)については、後日よきにはからうゆえ、一同ひとまず帰宅せよ。 また、金子英輔に首をきられたというは、医者の診断によって、ばらのトゲによる傷であることが判明した。お上をいつわった罪許しがたい。」
 と、おとがめがあった。

《 城の中から見たようす 》
 野にも山にも人がいっぱい 百姓が雲霞(うんか)のように大勢集まって 
                      ・・・・・ 漸々(ぜんぜんと)と押しよせてくる。

 さて、この一揆の様子を城の側からはどのように見ていたのでしょうか。
                                  <新撰高遠誌>より
『 12月8日、夜の明けぬうちから、野にも山にも人がいっぱいいる。何事だろうとよく見ると、百姓がうんかのように大勢集まって、ぜんぜんと押し寄せてくる。
           雲霞(うんか・雲とかすみ) = 人が非常に多数あつまる事
 注進が(事件を急いで上の人に知らせること)樋(ひ)のように往来する。百姓を制止するが聞かずに、追手の門をめざして登ってくる。
「 何にきたか」と、問うと「 歎願のすじがあるから」という。「 しからばここで申せ」「 いや殿様にお目にかかって直訴をしなければならない」・・と、ごうごうと(轟々)と400人も、500人も口々に言う。
 後から登ってくる、4000人から5000人もいるかと思うほど続いてくる。
 腕のきいた侍がそろっているので、片端からたたき倒し、なぎ倒すのもたやすいが、百姓のことだからそうもいかない。
 殿様からは「 丁重にあつかえ」という御沙汰であるから、おだやかに言えば言うほど増長して、後ろの方では聞くに聞かれん悪口雑言をいう。
「 歎願のおもむきは聞き届けるから帰れ」「さぞ寒かろう、弁財天河原に川下げのお薪がたくさんあるから、十分に火を
   たいて暖まれ」 というと、がんがんと騒ぎながら河原に集まって、夜も昼も火をたいている。
「 さぞ空腹だろう。炊き出しをつかわせ」 との領主の命令が出て、町方産物問屋から糧食をはこぶ。
 領主からは「 ともかく引き取れ。願いのおもむきは聞き届ける」との命令がでたが、百姓はなかなか聞き入れない。
 すべてが引き払うまでに3日2夜かかった。

 なぜ、ここまで、立ち至りしか
「 どうしてここまで立ち至ったかと言えば、ここ3年間洪水がつづいて、川端の村々では、水害の復旧工事を自分達だけではやりきれないので、御領内一般から人夫をださせた。
工事ヶ所から遠い村のものは、前日に用意して、その夜のうちに家を出かけ、1日人夫をつとめ、夜中ごろ帰宅して1日は寝るから、つまり1回の出役には3日もかかる。このようなことが、1年内に20回以上もあったから、「 これではとてもやりきれない」・・・という声が高まった。
また「 米以外の雑穀まで上納しろといわれても、とても暮らしていけない」・・ということで、ついに村中の評定となり、中沢郷の人が押し出したのである。
これというのも、維新の改革で人心が騒ぎ立っていたときであったから、高遠藩ばかりでなく、松代、佐久、その他にも同様なことがやすやすと起こったのである。 』
                                                  <新撰高遠誌より> 

 歎願のおもむき(内容)・後日、よきにはかられる
 この後、藩では協議のうえで、御小屋税、その他の免税を発表して、この事件はようやく静まりました。
 各村々の、この事件の煽動者は、厳しい探索で明白となり捕らえられましたが、いずれも寛大な処分(死刑にならなかった)に終わって、その後に尾を引くこともなかったようであります。
 首謀者の処分について、入野谷郷一揆については、特に重い懲役(重徒刑)に5人が処せられたようであります。
 そのうちの1人、中尾村の長右衛門についての伝承を、竹入弘元著「入野谷騒動」より引用しますと。
「 長右衛門が、松本の牢屋へ今朝送られるというので、村の人々が見送りに高遠城下の殿坂まで行ったが、まあ無残なもの、頭髪から眉から顔半分すり落とされて、唐丸かごで護送されて行くのを、人々は涙を流して見送ったという。
長右衛門の夫人はしっかりした人で、松本(往復150km)に面会に行くのに、子供をおぶって夜でて、夜帰ってきたという。 」

 明治2年・高遠藩の記録では
12月 ・ 入野谷郷・中沢郷民、窮状を訴えて城下へ押し寄せる。領内不作のため、木師郷民、生活困窮によりて、上納木年賦上納を願い出る。また、木師郷5ヶ村、連年の凶作により年貢上納の困難を訴える。
12月29日 ・ 黒河内谷右衛門、入野谷郷騒動取り鎮め方の尽力により賞される。中沢郷村々騒動にあたり、貝沼村、埋橋粂右衛門、取り鎮め方の尽力により賞される。この年凶作により平年の4割収穫となり、領内へ御救小屋設ける。

 明治維新という激動する情勢のなかで
 この時期は、明治維新という一大変革のときでありましたので、藩においても、一般領民においても、その変革に耳や目をうばわれ、あれよあれよという間に、時を過ごしていた時期ではなかったかと思われます。








慶応3年に、徳川氏が260余年続いた大政を奉還しております。
明治元年、鳥羽・伏見の戦い。江戸城開城。江戸が東京となり遷都。
明治2年6月、高遠城藩の版籍が奉還されています(領地と領民を朝廷に帰す)
6ヵ月後の12月に、中沢郷の「みのかさ一揆」がありました。
さらに2年後、明治4年に藩を廃止して高遠県をおきました。いわゆる廃藩置県となりました。
領主・内藤氏は県知事となって、わずかに俸禄をもらう一役人になっております。
さらに、明治4年の11月には、筑摩県と合併しまして、内藤頼直氏は身があいてしまいましたので、東京府の役人となって江戸へ引き上げています。

 下級武士団が中心となって、華々しい明治維新の大業をなしとげたその陰に、徳川260余年にわたる、封建政治の圧政に泣きつづけた農民たちが、命がけで集団行動・一揆の実力行使にでた。・・・・・ 高遠藩の「 わらじ一揆」と「 みのかさ一揆」、この2つの一揆のあらましについて、不十分でありましたがふれてみました。

・明治37年刊・新撰高遠誌、昭和55年・宮下一郎著信州伊那社会史、駒ヶ根有線放送・
  歴史探索、昭和45年刊・平沢清人著南山一揆、などを参考にしました。
・前中沢公民館長の原一郎先生には大変お世話になりました。
       ◎この拙文は、1996年2月に発表したものです。


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