8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
高遠藩3万3000石・百姓一揆ものがたり
 その3(2)

私 的 考 察

C城は高遠・銭は内藤無いとう駿河の守かみ ” 譜代・高遠藩の葛藤
D天からお札(ふだ)が降ってきた。“ ええじゃないか ”・・・
E世直しだ! 一揆への庶民のエネルギー

C “ 城は高遠・銭はないとう ” 譜代・高遠藩の葛藤
                 <譜代=関が原の戦い以前から徳川氏に仕えていた者(大名)>

(1) 銭は、ないとう、駿河の守(かみ)
  江戸時代になってからの高遠藩は、保科、鳥居、内藤という殿様が続きましたが、いずれも3万石余の小藩であり、いつも藩の財政は苦しいものでありました。
  とくに、鳥居忠春のときには、領内の農民1割以上、3000人が尾張領へ逃亡する事件がおきましたが、財政の苦しさのしわ寄せを、いつも農民に押しつける、それほどむごい政治が行なわれていたということであります。

農民の窮状をかえりみない領主・村民の4割が餓死する村も
 内藤藩主のもとでの実情も同様でした。天明の大飢饉の時には、藩主・長好は、農民の惨状をまったくかえりみず、年貢をきびしく取り立てました。
 記録によりますと、天明3年の凶作による損耗減収分は、領内で2万6000石、天明6年には2万4500石の損耗だったといわれています。3万3000石の内の数字ですから、いかに厳しかったかわかります。
 天明2年、3年と大凶作が続き、4年には中沢郷だけでも“飢え人は1079人”も出ました。
 さらに村民300数十人の千村領・野口村(現伊那市手良)では、飢え人147人、内餓死者105人。おなじく中坪村では、飢え人177人、内餓死者94人がでました。

農民はいきるために、野山のありとあらゆる物を掘り尽くす
 そして農民は生きるために、葛の根、わさびの根、山芋などをはじめ、野山のありとあらゆるものを掘り尽くしました。そのときの様子は、冬には雪をわけ、春には食べられる草や木の芽もでないほどでありました。
 このような悲惨な農民の状況を改革しようとした郡代・坂本天山も、反対派に排斥されてしまいました。
 そこで、農民の困難をかえりみない領主のやりかたを不満として、寛政2年(1790)4月21日、川下り郷小沢村の百姓・金右衛門は、江戸まで出かけて時の老中・松平定信に直訴をおこないました。
 その時代、直訴をするということは、まさに自分の身をていして(さしだす)の事でした。
 金右衛門は捕らえられ、後日領主のもとに引き渡されました。それほどの行動を起こさせるような悪政が行なわれていたと言う事です。
 当時、江戸の庶民の中には、貧乏高遠藩のことを「 城は高遠、銭はないとう」とか、「 銭はないとう駿河の守」などとささやかれていたということです。

将軍への貢物
  明治維新からさかのぼること約・50年前、文政2年(1819)領主・内藤頼以、文政3年(1820)領主・頼寧、の記録から将軍への貢物について見てみましょう。
  このようなことが、年中行事として毎年繰り返されていました。
  年間どのくらいの出費になるのであろうか ・・・?

 ● 文政2年
正月 年頭を祝し両御丸へ、太刀馬代として、白銀10枚を頼以、頼寧各々献上。
4月 領主必要のために、豪農より1000両かりる。
8月 八朔(はっさく、旧8月1日)を祝して、頼以、頼寧各々太刀馬代を献上。
10月 将軍、家慶次男・嘉千代御披露目を祝して、頼以、頼寧各々家斉・家慶・嘉千代へ太刀馬代、白銀1枚あてを、御台所へ干し鯛たい1箱を献上。
12月


浅姫結婚を祝して、家斉・御台所へ干し鯛1箱献上。
嘉千代御色直しの祝儀として家斉・家慶・御台所・御廉中へ干し鯛1箱を、嘉千代へ小袖1重と干し鯛1箱を献上。
嘉千代へ破魔弓1飾を献上。

 

● 文政3年
正月 年頭を祝して頼以、頼寧各々、家斉・家慶・嘉千代へ太刀馬代銀1枚を献上
2月 家慶の病全快を祝して、両御丸・両後宮へ干し鯛1箱あて献上。
3月





頼寧、上野寛永寺に参詣し、7ヶ所の霊前に太刀馬代として白銀10枚を献納。
頼寧、増上寺に参詣し、4ヶ所の霊前に香典として白銀10枚を献納。
頼寧、家督相続の礼として、家斉へ太刀馬代黄金20両、紗綾5巻を、家慶へ太刀馬代黄金20両、家慶後宮へ銀子3枚を、西の丸後宮の女中衆へも贈り物をする。
頼以、隠居の礼として、家斉へ太刀馬代黄金10両、家慶へ太刀馬代白銀
20枚を献上。
嘉千代死去にあたり、家慶へ氷こんにゃく1箱、新後宮へ1種を献納。
4月 頼寧、家督相続の礼として、新後宮へ銀子3枚を献上。
8月 八朔を祝して、頼寧御両丸へ太刀馬代1枚あて献上。
10月 元姫縁談を祝して、白羽二重10疋を献上。

                              ・・・・・ この年、領内旱魃にて1万6000石の減収。

幕府の実力者への贈り物<賄賂わいろ>
  次に、幕府の実力者への貢物について、その様子をみましょう。

○ 元禄14年(1701)
  徳川幕府が出来てから100年がたち、政治も一応安定し、元禄文化の華やかなころ、赤穂浪士のあだ討ちの前年における貢物の記録では
・ 柳沢吉保の松平姓拝領を祝して、藩主・清長、2種500疋を進上する。
・ <老中、稲葉正道への貢物>
・ 稲葉正道の老中就任および松平輝貞の加増を祝し、両者へ2種500疋を進上。
・ 稲葉正道に用向きを頼むにあたり、太刀1腰あわせ3つ、・馬1匹を進上。
・ 稲葉正道の転封を祝して、2種500疋を進上
・ 松平輝貞侍従となるを祝して、1種500疋を進上。

○ 元禄15年(1702)
・ 柳沢吉保の加増を祝して、1種500疋を進上
・ 井上正・永井直敬の加増を祝して、1種300疋進呈。
・ 稲垣重富の加転を祝して、1種300疋を贈る。
・ 本庄資俊の加増を祝して、1種500疋を贈る。・
☆  この年、将軍ゆかりの重頼13回忌法要にあたり、香典として白銀100枚を献納し、使者の徳山左近仲に、白銀30枚・紋付・麻かみしもを与え、四ツ谷太宗寺へ米20俵・白銀200枚をつかわす。

  天明の頃(1780)、悪名高い・田沼意次への貢物の記録を見ましても、相変わらず気を使っています。
  このように、将軍家への年中行事的な挨拶料とともに、幕府の実力者への“心づけ”も、貧乏高遠藩にとっては大きな負担でありました。

藩の財政の収支決算・借金が10万3000両
  高遠藩の財政問題を見る場合、内藤氏が元禄4年に3万3000石で入封のさいに、厳しい検地によって6000石を幕府領としてとられてしまいました。
  高遠内藤藩の出発の時点で、“窮乏”が内在していたのです。
  その結果、文政年間には(1820年頃)、借金が10万3000両にもなり、このまま放置できなくなりました。
  文政9年の記録から見てみましょう。

・ 近江商人に元利2万5700両余の返済規定を定む。
・ 藩主要用のため、増上寺より150両を借用。
・ 藩主要用のため、西福寺より300両を借用。

  などの記録があります。お寺から金を借りたり、藩内の豪農から借りるなどまさに相手かまわずの状況です。  

(2) 一揆のころの城主の生活は・・・
  つぎつぎと子供が生まれる。隠居した前の殿様にも、現殿様にも・・・ 別表、妻・側室・めかけ・・休息女。

《 わらじ一揆のころの、藩主の生活の一端 》

1799年 7月28日 頼以の妾腹 次女誕生(於鈴)
1800年 2月28日
10月10日
頼以
頼以
3男 (金庸之助)
4男 (亀五郎)
1802年 6月 6日 頼以 6男(保之助)
1819年 12月26日 頼以の妾腹 女子を出産
1821年 4月29日 頼以休息女 女児を出産
1822年 3月18日 頼以妾女 男子出産
<1822年わらじ一揆>
1827年 1月 4日 頼以の妾女 男子出産
1828年 1月28日
11月12日
頼以の妾女
頼以の側室死去
女子出産
1829年 4月 2日
8月26日
頼以の妾女
頼寧の妾女
男子出産
女子出産

       

(3) 百姓からは、絞ればしぼるほど取れる・一揆へ
  「 ごまと百姓からは、絞ればしぼるほどとれる」と江戸時代には言われました。
  藩主は、江戸の徳川幕府に顔を向け、自分の身柄を第一に、体制を維持する事に汲々としていました。それゆえに、領主の頭の中に「百姓の生活はどうか」・・・ と考える構造は少しもありませんでした。
  江戸時代も終わりがせまってきた慶応3年(1867)、藩主は大目付へ「領内をしのびまわり忍び廻りするように」との命令を出しました。それは、領民が領主に反抗しないように“こっそりと見て歩け”ということでした。
  命令や強権をもって支配しようとしても、支配しきれない状況になってきていたのです。

ある年の出来事 <芝居をして罰金、乞食を泊めて罰金、 川で魚を取れば罰金・・・ETC >
  これは、明治維新より21年前(弘化4年・1847)の高遠藩内の出来事の一部です。

正月 領内御留め山は木をきり尽くしたので、御用木は平山より伐採するよう決定。
2月 諸国徘徊の無法者について領内へ触れをだす。水路を広めるために木を切った罪で、洗馬郷大庄屋ら3人、罰金をとられ捕らえられて入牢。
3月
中沢郷北福地村と春近郷原新田に入作について喧嘩けんかおきる。
助郷についての、金銭問題や難渋くるしみの解決の歎願に、藩の裁決でる。
4月 藤沢郷御堂垣外村石切目付け、勤めが不熱心で強いおしかりをうける。
5月


中沢郷栗林村百姓、木こりの弟子取に不正があると罰金をとられる。
上伊那郷今村百姓、穀物を横流しした・・と強いおしかりを受ける。
藤沢郷中村百姓、江戸よりの荷物を不正に取り扱ったと捕らえられる。
上伊那郷宮木村百姓10人、家筋書き上げ不正の理由で、お叱りを受けた上に入牢。
6月



藤沢郷中村百姓、江戸よりの荷物を不罪により罰金を取られる。
川下り郷西町村百姓、浮浪人を泊めた罪により罰金をとられる。
8月 ・ ・ 藩主頼以、剃髪して「静翁」と号したので「静」の字を使ってはいけないと命令をだす。
上伊那郷宮木村、中山道和田宿より助郷の指名をされたが、難渋と藩に申し出る。
9月 ・ ・







領内、山室川、藤沢川で魚をとることを禁じ、また藤沢街道的場より四日市場宿間の馬殺生を禁止。
春近郷田原村百姓、母の養育に困り盗みをいたす罪により、捕らえられる。また同村村役人、取り扱い不行き届きであると入牢。
上伊那郷樋口村村役人、百姓ら5人、乞食芝居上演の罪で罰金を取られ、労役につかせられる。
川下り郷御園村村役人・狐島村・上牧村百姓、不正に米を売却した罪で、役職を取り上げられ入牢。
上伊那郷辰野村百姓、代官の田方検分の節、面積をごまかした罪で入牢。
春近郷表木村百姓、不正に米を売却した罪で手鎖りをうける。
この月、領内村々へ、年貢米並びに納め者のあつかいを念入りにするように命令を出す。
中山道和田宿よりの助郷の要求に対して、北大出村・殿島村など12ヶ村、免除の願書をだす。
10月

中沢郷上新山村百姓11人、年貢をごまかした罪で入牢。
川下り郷日影村百姓、囲モミの納入をごまかした罪で入牢。
川下り郷境村村役人、年貢米の米俵に不正があり強く御しかりを受ける。
11月 諸国取締り筋御用・と称し、徘徊している人物について領内へ廻状をだす。
12月 領内用水路の取り扱いについて命令をだす。

(4) “ 徳川をまもる ” 体制維持のために長州征伐。
              戊辰ぼしん戦争では、官軍に従って出兵・この葛藤

○ 元治元年(1864)将軍家茂、長州征伐を大名に命令

・ 元治元年(1864) 8月、長州征伐に藩主は藩士200人近くを連れて参加し、大坂まで行った。歴史の進行に逆行。
12月、長州征伐にあたり、川下り郷御園村献金したる行為により、藩役所より表彰される。
・ 慶応元年(1865) 5月、第2次長州征伐に藩兵570人余を率いて参加する。
高遠藩兵は、長州藩境で戦火をまじえる。
☆ この年、長州征伐に当り、上伊那郷、洗馬郷の馬改めをおこなう。
☆ 薩摩、長州連合が成立し、倒幕へむかう。
・ 慶応2年 3月、 幕府は、ふたたび長州への攻撃を開始しました。しかし幕府軍の足並みはそろわず、負け戦がつづきました。高遠藩も藩兵、領民をひきいて従軍したが、将軍家茂が陣中で死亡し兵をひきあげる。
・ 慶応3年(1867) 大政奉還。



○ 鳥羽伏見のたたかいで幕府軍やぶれる

・ 慶応4年(1868)
(明治元年)
1月、鳥羽伏見の戦いがはじまり、数日間の戦いの後、幕府軍はやぶれました。将軍・慶喜は大坂城を脱出して江戸に戻りました。
幕府に勝った新政府軍は、ただちに慶喜追討令をだし、旧幕府軍をうつための東征軍を組織して、総数5万人の兵を江戸に向けました。
・ 同年 3月、5ヶ条の御誓文を発布。 4月、江戸城開城。
・ 同年 4月、 官軍東進(東征軍)のために、信濃各藩に協力を命ずる。
高遠藩は、総勢190人の部隊を編成し、東征軍に従い越後に出兵。兵の中には、童顔の少年もまじっていました。
・ 同年 7月、江戸を東京とする。 高遠藩兵は、越後の長岡から会津へと転戦。
・ 明治元年(1868) 9月、会津戦争に官軍が勝利。明治と改元。
高遠藩兵は、各地で苦戦したが犠牲者もなく無事高遠にかえりました。

○ 歴史の変わり目の激流に、ただ身をまかせただけ?
  元治元年(1864)から慶応2年までの3年間に、高遠藩は幕府軍に従って、長州征伐に3回も出兵しました。
  ところがその2年後、鳥羽伏見の戦いで幕府軍がやぶれると、こんどは官軍の命令に従い、幕府軍を討つための「東征軍」にしたがって出兵しました。
  ときの流れに身をまかせた ―― この葛藤はいかに・・・。


D “ 天から お札(ふだ)が ふってきた ”「 ・・・ええじゃないか。 」

“ 伊勢神宮のお札 ”降る。 城下では4日間の大騒ぎ。
  慶応3年(1867)10月20日、江戸時代最後の年でした。
  高遠城下の本町に住む呉服屋の主人善兵衛が、あさ暗いうちにおきて店の前の通りを掃いていて、ふと軒先を見ると、伊勢神宮のお札が引っかかっていました。これはどうしたことかとお隣の屋根を見ると、そこにもお札が落ちていました。
  夜があけるにしたがって「自分の家にもあった」・・・ という人が次々とあらわれてきました。
  「伊勢神宮のお札が降って来た」「これは良いことがおきる前触れでは」・・・ と大騒ぎになりました。翌朝も、城下の家々に多数お札がふっていました。良いことがおきると信じた人々は、客をまねいて酒宴をひらいたり、きれいな着物を着て「ええじゃないか」と囃子(はやし)ながら踊り狂いました。
  このお札ふりは4日間つづき、城下だけで240枚以上が降り、各町内では出し物をだして歌い、踊りくるいました。
  城下では、4日間も大騒ぎになったので、各町年寄が「鎮めてくれ」と藩に嘆願書を出すほどでした。

中沢郷の村々にもお札が降る。作り事と判明し、神主入牢。
  11月、中沢郷の村々にもお札がふりました。しかし、それは作り事と判明し、「お札を降らした」神主は捕らえられ、牢屋に入れられました。
  また、同じ11月、上伊那郷北大出村(現辰野町)にも多数のお札がふりました。
  この“お札ふり・ええじゃないか” 騒ぎは、慶応3年7月、三河吉田(いまの豊橋)からはじまり、たちまち東海道一帯から近畿へと広まり、北は会津(福島県)にまで及びました。
  信濃に伝わってきたのは、9月下旬でありました。そして、10月から12月にかけていたるところで、大騒ぎとなりました。
  大泉村(南箕輪村)では、12月になって36枚のお札が降りました。これを祝って「おかげ祭り」が3日間にわたり行なわれました。
  金紋・先旗・はやし方・鈴・踊り子・笛・太鼓などの行列を立てて村内や近くの村々をねり歩きました。

「 御一新 」への民衆の感情が爆発
  このような祭りや騒ぎがいたるところでおこり、徳川にかわる新しい政治への期待となって、日に日に規模が大きくなり、村々を狂気に包むことになり、世の中は異常な雰囲気につつまれたのです。
  これは2年つづきの凶作と飢え、物価の激しい値上がり、さらにお祭りなどにまで、異常な統制(締め付け)のもとで、民衆の不満や不安がつのり、伊勢の“天照皇大神”(天皇の祖先)のお札がふることによって、「御一新」への民衆の気分を大いに盛り上げました。
 
  このころ、お札が全国的にふり、大騒ぎになったということは、幕府が倒れる直前という時代背景とともに、「新しい世の中」を求める民衆の感情が“伊勢のお札ふり”をきっかけにして、爆発したのではないかと思います。


E 世直しだ!!! 一揆への庶民のエネルギー

“租税を納める道具”にも“一寸の虫”にも  五分の魂(ごぶのたましい)があった
  江戸時代における百姓の身分は、士農工商といい、武士の次に置かれていましたが、その実態は単なる“租税を納める道具”でしかありませんでした。
  そして江戸時代には、どのような事でも「お上かみの命令には絶対服従」であり、文句ひとつ言う事もできず、虫けら同然のあつかいを受けていました。
  「百姓とごま胡麻は、搾れば搾るるほどとれる」と、苛酷な“搾取”を強いられていました。しかし、その租税を納める「道具」にも、「一寸の虫」にも、五分の魂がありました。

佐倉の宗吾の一揆 ・ 江戸時代初期
  江戸時代の初期、いまの千葉県成田名主・木内宗吾(惣五郎)は、佐倉藩の重い年貢に苦しむ、389ヶ村の総代として将軍に直訴しました。このために宗吾と妻子は捕らえられ死刑になりましたが、年貢は軽減されました。
  当時の佐倉藩は、百姓の年貢を重くしたばかりか、味噌、しょうゆ類から農具まで生活用品のいっさいに税金をかけていました。現在の“消費税”とまことによくにております。
  この佐倉宗吾の一揆の話が、それからおおよそ200年後に、高遠藩でおきた“わらじ一揆”のときに、百姓のあいだでしきりにもてはやされました。
  そして「宗吾のようにやろう」・・・とその話が、わらじ一揆への決意固めとなりました。

江戸時代、九州肥前・島原藩の状況も <島原の乱・1638>
  江戸への参勤交代の費用や、江戸屋敷の経費がかさみ、島原藩の財政はいちじるしく困窮していました。
  そのために、農民からは“しぼれるだけ搾りとる“という方針の下に、毎年島原城の普請にかりだしたり、年貢の取りたても前よりきびしくし、さらに「 家をたてれば囲炉裏銭、窓銭、たな銭、戸口銭」をとりました。
  そして、子供が生まれると頭銭、死人が出ると穴銭をとる・・・ というように、何があっても銭、銭、銭という状況でした。
  また、天草でも年貢の取立てがきびしく、さらにキリシタンの弾圧もますますきびしくなっていました。
  このように、百姓を虫けらのようにしか扱わない領主にたいして、島原では「島原の乱(一揆)」が、天草では「天草の乱(一揆)」がおこり、さらに島原と天草の一揆軍は合流して、廃城となっていた島原半島南部の“原城”にたてこもり、12万の幕府軍と3ヶ月にわたってろう城して戦いましたが、ついに食料や弾薬がつき、3万7000人が皆殺しになりました。
  わたしは、1984年にこの原城址をおとずれ、当時をしのんできましたが、いまそこには島原出身の彫刻家・北村西望作の雄々しい「天草四郎」の像が建立されておりました。
  この一揆の舞台であった“島原・天草”へは、前後4回訪れる機会がありましたが、このとき(84年)には、島原半島の最南端からフェリーで天草にわたり、いまの天草諸島も見てきましたが、いたるところにキリシタン弾圧の史跡があり、すさまじい当時の様子をうかがい知ることができました。

島原の乱から48年後に、松本で起きた「加助一揆」
  貞享3年(じょうきょう・1683)、うちつづく凶作にもかかわらず、松本藩は年貢を引き上げました。そのために農民は塗炭の苦しみにあえいでいました。
  この百姓の苦しみを救おうと、中萱村(現三郷村)の庄屋・多田加助らは、禁じられていた越訴(おっそ)で年貢の引き下げを松本藩に訴えでました。
  当時、徳川幕府の「米一俵は、玄米・2斗5升」でした。
  ところが、松本藩の一俵は、玄米・3斗4升〜5升で、幕府の定めよりも約1斗も多いものでした。
  加助の「越訴」に呼応して、松本平の1万余名の百姓が「年貢をさげろ」「加助を見殺しにするな」と松本城を取り囲みました。
  この一揆の結果は、年貢の一俵の量がそれまでの「玄米・3斗4升〜5升」であったものが、「3斗」に引き下げられました。しかし、徳川幕府の定めより5升も多いものでした。
  一揆の先頭にたったものは捕らえられ、多田加助をはじめ加助の弟、加助の12才と11才の男の子供をはじめ、8人が磔(はりつけ・柱にくくりつけて、やりで突き殺す)になり、20人が獄門の極刑になりました。
  多田加助は磔になるとき、城をにらんで「 年貢は2斗5升だ・・・!!!」と叫び、息絶えたということです。
  1965年から66年、松本城の北西にある城山にある“義民会館”で民青の学習会がおこなわれ、何回かそこに行きましたが、隣に立派な「義民塚」がありました。
  昭和25年(1950)、丸の内中学の建て替え工事中に、多数の人骨がでてきました。そこが多田加助たちの処刑の場所でした。
  それを近くの場所に移して塚をつくり、ていちょうに埋葬しました。それが城山にある「義民塚」です。

ときを、今に移して
  戦後、半世紀が過ぎ去りました。戦前のいまわしい歴史を教訓にして、新しい日本は「主権在民、平和と民主主義」を国是とする“日本国憲法”のもとで国づくりをしてきました。
  ところが、いま憲法改正の動きが顕著にみえます。世界に誇れるこの憲法改正を許さない・・・。これが庶民の本心、民の声です。

このような実情、こんな政治、 いまこそ庶民が一揆を起こすときではないのか。
  江戸時代、ときの権力にたいして、死を覚悟して果敢に闘った百姓たちの一揆。
  そのために受けたきびしい弾圧にも屈せずに、次から次と3200件もの一揆がおきました。
  いまの日本の政治の実態は、庶民の声に耳を傾けず「憲法違反」の政治を強行しています。いまこそ、」政治の根本的な転換、“庶民一揆”が必要ではないでしょうか。
  いま、それをやり遂げるための“深部の力”はあると思います。

《1996年2月・日本の夜明け・シリーズNO4「高遠藩<3万3000石>物語」より》

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