8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
高遠藩3万3000石・百姓一揆ものがたり
 その3(1)

私 的 考 察

@内藤新宿・歴史散歩
A蓑かさ一揆 < 中沢郷15ヶ村中、1ヶ村の“ 脱落 ”>
B「お前の女房を俺にくれ」 郡代・岡野小平冶の逸話
C “ 城は高遠・銭は内藤無いとう駿河の守かみ ” 譜代・高遠藩の葛藤
D天からお札(ふだ)が降ってきた。“ ええじゃないか ”・・・
E世直しだ! 一揆への庶民のエネルギー

@ 内藤新宿・歴史散歩<新宿の昔といま>

(1) 「一時に馬で走ってきた所をやる」 家康の命により内藤の領地に
  高遠藩主・内藤氏の祖先は、藤原鎌足の子孫といわれ、内藤清成の時代には徳川家康につかえました。
  天正18年(1590)徳川家康は、豊臣秀吉の命令により、関八州に領地がえをさせられ、江戸にはいりました。
  清成は、馬術にすぐれていて、天正18年家康の鷹狩のさいに、家康から「いっときに馬で走ってきた所をやる」といわれ、駿馬(しゅんめ)にまたがり、木や草が繁った未開の地をはしり、その範囲の20万坪(66ha)を拝領しました。
  これが現在の新宿の周辺であります。

高遠藩の飛び地・内藤新宿
  内藤清成は、関が原の戦いのときには、徳川秀忠の軍に属して軍功をあげ、2万5000石をたまわりまいた。その後、内藤氏が高遠藩主になりましたが、高遠藩の“飛び地”として『内藤新宿』と言われ、廃藩置県までつづきました。
  内藤新宿からは、西に甲州街道が走り、新しい宿場町として栄えました。
  また、内藤新宿には高遠藩の「下屋敷」もおかれていました。
  さらに元禄10年(1697)には、千駄ヶ谷屋敷のうち、6万9600坪を、幕府の求めに応じて返しています。これが今の新宿区内藤町のところにある“新宿御苑”です。

(2) 内藤新宿、歩いた・見た・聞いた
  江戸時代、高遠藩の領地であった「内藤新宿」の現在の一部を紹介しましょう。
  東京への高速バスに乗り、ついたところがJR新宿駅です。その近くには高層ビル群が立ち並び、新しく東京都庁が加わりました。ここはかつて淀橋浄水場のあったところです。
  ここから西に甲州街道が走り、北西に青梅街道がでています。ここは新宿区です。

外堀の外と・神田川の内側が新宿区
  新宿駅から中央線で東京駅に向かう場合、代々木駅は渋谷区ですが、次の新宿御苑に接している千駄ヶ谷駅、信濃町駅、そして外堀にそって四ツ谷駅、市ヶ谷駅、飯田橋駅まで、江戸城に対して外側(外堀のそと)が新宿区であります。
  新宿から山手線を池袋方面に向かって、新大久保駅、次の高田の馬場駅までが新宿区です。
  この高田の馬場駅と飯田橋駅を結ぶ線の内側に、早稲田大学があります。
  1603年、徳川家康が江戸に幕府をひらいてから、街づくりのために神田山を切り崩して、東部の湿地や浅瀬を埋めて、日本橋、京橋、銀座などをつくりましたが、江戸の町に飲料水を供給するために、江戸の西方の井の頭の池から水を引いてきました。
  この川は現在でも「神田川」として、新宿駅の西方から北東の高田の馬場駅の北を通り、さらに東に向けて飯田橋駅東にいたっています。この神田川の内側が新宿です。

西口・高層ビル・小便横丁
  かれこれ10年以上前のことになりますが、高層ビルの一つである京王プラザホテルに泊まったことがありました。素泊まりで1万3000円位でしたが、値段も高さも“高い”ホテルでした。
  夕食は、新宿駅西口の小便横丁まで出かけて、焼き鳥でいっぱいやりながらでしたが、昔なつかしい思いにしたることができました。先日も上京の折に寄って来ましたが、今は市街地再開発事業を取り入れようとの話があり、何軒かの店はしまっていましたけれども、30余年前から利用している者としては、このまま残してもらいたい気分でした。

東口・歌舞伎町、寄席・末広亭、人の波
  新宿駅のすぐ北に、東口に出るトンネルがあります。小便横丁から続いているのですが、東口の様相は一変します。夕方になると、次々と人波がおしよせてとだえることがありません。
  このトンネルを私がはじめて通ったのは、1958年(s33)のことですが、終戦から13年後であり、バラックみたいな所に“軍隊キャバレーがあって、大きな音で軍歌を流していました。

いまの歌舞伎町は、日本一の歓楽街
  飲食街あり、デパートあり、さらにピンク業ありですさまじい状況です。
  土壌浄化システム(新見式)の事務所がこの歌舞伎町にあり、社長の木村宏子さんと事務所まで昼間歩いたことがありますが、ラブホテルが立ち並び、夜には1人で歩けないところです。
  荻原碌山のゆかりの人の中村屋や長野県出身の人の店がたくさんあります。
  常設の寄席・末広亭にも入り、江戸家猫八、春風亭柳昇などを聞いて、江戸の情緒を味わいました。

(3) 神楽坂・・・三話
【その1】・戦前
●神楽坂のお大尽・・(遊郭でお金をおしまず使う人)

悪名高い、石井四郎・731部隊長が、「神楽坂のお大尽」といわれて、通った神楽坂についてお話しましょう。

<このお話は、 本ホームページの 
2、平和のモニュメントを訪ねて E“731部隊長・石井四郎発明の濾水機の部品” 
8、「平和がみちあふれる郷土をめざして」のB「人体実験・731部隊・陸軍中将石井四郎と長野県伊那村」にありますので、ご参照ください >

【その2】・戦後
●田中角栄と神楽坂“三本指の宰相”も

 大蔵大臣のときに、神楽坂の1等地にある国有地を、地位を利用して手に入れたのは田中角栄です。
  彼はこの「国有地払い下げ問題」で首相の座をおりましたが、神楽坂芸者T・K子を見受けし、妾宅をその元国有地にたてました。かつて週刊誌に「姉さん、父に合わせて!と願う2人の息子」という記事がありましたが、その息子がこの神楽坂にいます。
  ある政治評論家によれば「角さんは、神楽坂にきて玄関をまたいだときには、ズボンをぬいでいる」と彼の性分を評したことがありますが、公私混同のさいたるたるものの一つでした。
  また神楽坂芸者との関係で、一躍日本国中に知れわたったのは、“三本指の宰相”宇野宗佑でしたが、たった3ヶ月で首相の座をおりました。

【その3】・ 今
●1989年11月13日、雨がそぼ降るなか

  57年前に、同じこの坂を石井四郎が登ったのかと思いながら、私も神楽坂をのぼりました。
  いまこの界隈は、オフィスビルあり、東京理科大学や外堀の内側に法政大学、飯田橋の駅前にはマクドナルドがあって、若者がつぎから次と店に立ち寄るなど、渾然一体となったアンバランスな感じがして、自分なりに描いていた神楽坂のイメージとは合いませんでした。
  中央線の飯田橋駅は、地下鉄の駅とも交差しており、乗降客の多いところですが、昔はここに牛込見附があったところです。(城の外側の門で、番兵がみはっていた)
  神楽坂にある日本出版クラブで開かれた「宮崎学さんの『ふくろう』出版を祝う会」のために、駒ヶ根からバスを仕立てて市長はじめ50数名で来たのですが、その発起人には あおい輝彦、荒木経惟、飯沢匡、今江祥智、黒柳徹子、立花隆、灰谷健次郎、原田泰治、山本学などの名がつらなり、多士済々の顔ぶれで盛大なもようしでした。
  赤旗日曜版の大内田わこ編集長と黒柳さん、高遠出身の飯沢匡(ただす)さんの3人が何やら談笑しているなど、なごやかに会は終わりました。
  高遠ゆかりの飯沢匡さんは、つい先ごろ亡くなりました。近ごろ聞いた話では、日本共産党の高遠町議の関森さんの自宅の所に、飯沢匡さんの父・多喜男氏の旧宅があったそうです。

(4) 新宿戸山。陸軍参謀本部、防疫給水部、陸軍病院、人骨、厚生省予防研究所
  1989年7月、新宿区戸山の厚生省予防研究所の新築工事現場から、100体をこえる多数の人骨がみつかりました。
  この場所には、1929年(s4)から旧陸軍の軍医学校があり、一角には731部隊の石井四郎で有名な防疫給水部も併設されていました。
  この軍医学校は、細菌戦部隊として知られる関東軍731部隊など、各地の防疫給水部の中枢的存在で、石井四郎はここの教官を兼務していました。
  そこで、この人骨は誰のものなのか?・・とナゾの人骨と731部隊との関連などの追及がはじまりました。
  2年程前に、テレビ朝日のニュースステーションで放映された“長野県赤穂高校平和ゼミナールの「登戸研究所」の活動”をみて、確認のために東伊那のB氏宅に来たことがある、神奈川大学の常石教授や元防疫給水部にいたM氏などが「人骨の謎を解明する会」をつくり、活動をはじめました。
  その経過が6月に「日本テレビ」で、“ドキュメント・謎の人骨を追う”として放映されました。
  新宿区が依頼した鑑定結果は、モンゴロイドであり、顔が長い・・・という結果が出され、さらに、かつて軍医学校にいた人や、防疫給水部の関係者の証言で、731部隊のマルタ(人体実験になった人)であることが、ほぼ確認されました。
  ドキュメントの最後にナレーターは「 悪名高い731部隊の、悪魔の実態を明らかにし、あやまちをつぐなったとき、はじめて戦後が終わったと言えるのではないか。・・・子供、女性、そして男たちの、切り刻まれた100人を越える人々の遺骨が、東京の片隅に今もおかれている。」・・・と結んでいました。
  「厚生省予防研究所」はここでエイズの研究もするようで、隣接して早稲田大学やアパートなどが密集しており、新たな問題でも尾をひきそうです。


Aみのかさ一揆<中沢郷15ヶ村中、1ヶ村の“脱落”>
               ・・・ 唯一、貝沼村が参加しなかったのは?

(1) 脱落の背景
  明治2年12月8日から9日にかけての中沢郷の一揆に、貝沼村が参加しておりません。中沢郷の15ヶ村中、14ヶ村の一揆勢が、みの、笠、鎌のいでたちで、高遠の城を目指して貝沼村を通過する・・・そのときに、貝沼村の百姓たちは、ただ見ていただけなのでしょうか。・・・そのわけは?????。
  文久元年(1861)から元治元年(1864)までの4ヶ年の行動は、内藤の殿様のもとでの180年の内で、他の村に例を見ない特筆すべき出来事があります。
<坪・1勺いっしゃく米事件! ・4年間に4回の一揆>
  江戸時代には、百姓が領主に意見をいう・・ことはもちろん、大勢で押しかけるなどの行動は、きびしく禁じられていました。
  凶作とか災害などが起きた場合、「歎願」といった消極的な方法で村役人を通じて願いを出すのがルールでした。しかしそれで目的を達することができなかった場合には、越訴(おっそ)とか強訴(ごうそ)という積極的な方法に出ました。その場合、首謀者とか中心となった農民は捕らえられて、入牢とか磔(はりつけ・罪人を柱にくくりつけて、やりで突き殺した)などの極刑になりました。
☆越訴、3回。
    百姓一揆の闘争手段の一つ、領主を経ずに、他の藩主や幕府に訴えた。
☆強訴、1回。
    百姓一揆の一つ、多人数で押しかけ、正式な手続きをとらず訴えること。
  とくに貝沼村の農民が、年貢などとは別に、水の使用料として「1坪あたり、米1勺を藩に上納」するという“坪・1勺米事件”では、藩が水の使用禁止命令をだすなかで、江戸まで出かけて越訴するなど、たびたびの入牢にもくじけずに闘っています。
  水問題で、いわゆる“百姓一揆”が毎年、4年に4回もおきている・・・いや、起こさざるをえないほどの状況、悪政、そしてそれへの抵抗。・・・・・ まさに目を見張るべき農民のたたかいであります。
  “坪・1勺の米”とは、1勺(1合の10分の1)1反歩(300坪)で米3升となりますが、これがいかに重いか・・・・・。
  当時1反あたりの収量は、おおよそ5〜6俵でした。その内の43%〜47%を年貢として納めました。その他に、山に年貢、草刈場の年貢、竹やぶの年貢、新田・新畑に年貢、荒地や山野を切り開いた土地に年貢、さらに水車にも税金をかけ、口米といって代官の事務費にあてる税もありました。
  そのうえに、国役普請といって天竜川などの堤防工事の一部負担があり、助郷といって宿場の人側人足に1年に何回もかりだされたり、などの農民の負担はまことに重いものでした。
  4ヶ年にわたる貝沼村農民の生死をかけたたたかいが、どのような結末になったのかは、記録がないのでわかりませんが、次の年、慶応元年の記録に「 貝沼村の与一右衛門ら3人、鞠ヶ鼻井筋入用金百両を藩役所より借用」とありますので、一応話がついたのでしょう。

では、その4年後の蓑笠一揆に立ち上がれなかったのはなぜか?
  “藩の支配力が、他の村より行き届いていた”・・・ ということであります。
  豪農で村の長であるとともに、藩の役職である「御勝手御用掛ならびに仕送役見習」にもついていた、埋橋粂右衛門の圧力が、農民一揆への参加を村としてさせなかったわけであります。
  その結果、一揆直後の12月末に、埋橋粂右衛門は藩より「 中沢郷村々の一揆騒動にあたり、一揆を鎮めた功績」で表彰されています。
  中沢郷一揆の1週間前におきた、入野谷郷の一揆についても、黒河内谷右衛門が「 騒動取り鎮め方よろしきにより」・・と表彰されています。さらに、一揆の勃発を藩役人に注進(知らせた)した4人には、「鳥目3貫匁」の褒賞が与えられています。

(2) 中沢郷貝沼村での出来事、埋橋粂右衛門がどのように取り立てられたか

文政11年(1928)
天保 3年(1832)
天保14年(1843)
安政 6年(1859)
万延 元年(1860)
埋橋粂右衛門、月割り金150両を上納する。
伊東伝兵衛、鞠ヶ鼻井筋の改修に成功する。
埋橋粂右衛門、在仕送り役となる。
埋橋粂右衛門、御勝手御用かかり並びに仕送り役見習を命ぜられる。
貝沼村など、鞠ヶ鼻井筋の費用負担について協定する。
    10月、  藩役所、鞠ヶ鼻井筋の分水費用として、田圃1坪当り、米1勺の上納を命ずる。(坪1勺米事件)
文久 元年(1861)  藩役所、農民に鞠ヶ鼻井筋の使用を禁止する。これに対し貝沼村など5ヶ村、井筋について江戸藩邸に越訴する。
    12月、  鞠ヶ鼻井筋の工事を村普請として行うことを願い出る。
文久 2年(1862) 1月、藩役所、坪1勺の上納を重ねて命ずる。2月、貝沼村など5ヶ村、坪1勺米上納
     について藩主頼直へ越訴する。その結果上納は村内積み立てとなり、総代は入牢となる。
     鞠ヶ鼻井筋の切り広め普請の計画を立つ。藩役所、井筋水代金80両を農民より徴収する。
文久 3年(1863)  藩役所、坪1勺米の地元預けを条件に上納を強制する。
貝沼村など5ヶ村総代、井筋普請を江戸藩邸に越訴する。
元治 元年(1864) 貝沼村など5ヶ村、井筋改修について強訴したが鎮定され、首謀者入牢となる。
慶応 元年(1865) 桜井村、「石灰釜譲渡出入り」示談となる。貝沼村の与一右衛門ら3人、鞠ヶ鼻井筋入用金100両を藩役所より借用。
慶応 2年(1866) 気候不順のため貝沼村は村法を決める。粂右衛門、領内不作のため窮民救済金として30両余を出す。
明治 3年(1870) 
明治 4年(1871)
粂右衛門、勧農世話役を命ぜられる。
埋橋粂右衛門、在仕送り役・帯刀・扶持方を免除される。

◎貝沼村の主だった者が、藩の方に顔を向けていた。その結果、ただ1ヶ村の“脱落”という結果をのこしたわけであります。
   その理由が、ほかにはないのだろうか・・・?
・・・次の話も、1つの要素になったのではないか・・と私は考えます。


B「 お前の女房を俺にくれ 」 郡代・岡野小平治の逸話
(古老聞き書き)

(1) お前の女房を俺にくれ 
  むかし、高遠藩に「岡野小平治」(おかのこへいじ)という偉い侍がいました。
  その岡野小平治が“郡代”をしていた時のことです。
  秋の農産物の出来高の検分に領内をまわり、中沢郷貝沼村桜井の庄屋(屋号○)に宿泊しました。
  そのころは、「おとぎ御伽」という風習がありました。この“おとぎにでる”とは、夜に貴人の寝室で相手をする、ということであります。
  このとき、庄屋の女房が岡野小平治の“おとぎ”をすることになり、一夜をともにしました。
  当時、岡野は妻にしなれ、ひとりみ身であったようです。
  よく朝、岡野小平治は庄屋の主人にいいました。「 お前の女房をおれにくれ」・・と。
それが、命令口調であったのか、哀願口調だったかはわかりません。
  まもなくのこと「庄屋の妻は」、岡野小平治の「後妻」となりました。
  このとき、岡野が“女房をもらう”代償として、庄屋に与えたものはなにか???
・・・・・ 《 それ相応のもの 》であったようです。
  この時期がいつだったのか?
  岡野小平治が「郡代」をつとめたのは、天保8年(1837)〜嘉永5年(1852)までの16年間です。このうちの「弘化4年(1847)以前である」という事はわかっています。

(2)岡野小平治の経歴           (高遠内藤藩職制機構一覧表より)
★天保2年(1831)10月、御金奉行に就任
★天保5年(1834) 9月、大目付
★天保8年(1837)10月、郡代に就任
★嘉永元年(1848)   、御中老・年寄役次席をおおせつけられる
★嘉永5年(1852)    、郡代・岡野小平治領内を巡検する
★同年        12月、郡代をしりぞき「御中老」格を仰せつけられる
★安政2年(1855)    、年寄役・御勝手方に任ぜられる
★文久2年(1862) 7月、再度年寄役順席と城番をおおせつけられる
★明治2年(1869)   、中沢郷一揆のとき、大参事、文武総裁(武士の最高責任者)
★明治4年(1871) 7月、高遠県大参事となり東京詰勤務となる
  岡野小平治の生年や、その後の岡野家の行く末などは、わかっておりません。

(3) 妻の出身地と親類縁者・井筋の建設
 岡野氏の妻となった人は、中沢郷塩田村で生まれた人です。(現駒ヶ根市東伊那)
 岡野は、妻の兄弟に土地を与えています。「内藤新宿」か「中沢郷火山村源氏原の未開地」の“どちらでも”といい、兄の馬場忠弥氏が源氏原に入植しました。
 また、妻の姉妹の夫には、「中沢郷の新田開発世話役を申し付ける」というお墨付きを(任命)、弘化4年8月17日に与えています。
<さらにくわしく知りたい方は、「上井・下井いまむかし」・1975年1月(s50)拙著にありますのでご連絡ください>

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