8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 A

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・・・・< その1―A >

A 日 光   <(1)1961年(S36) (2)1977年(s52)>

「 あらたふと 青葉若葉の 日の光 」  <あらたふと=あらとうといことよ>
  日光を見なければ、“結構”というな・・・ ということわざがある。
  この日光へは、いままでに二度参詣の機会を得た。

(1)タカノ社員慰安旅行 1961年5月(S36)
 
数台のバスを連ねて夜出発。群馬県の高崎、沼田、金精峠、戦場ヶ原、中禅寺湖、男体山、華厳の滝、イロハ坂を経由して、日光東照宮には朝ついた
  陽明門のなんととすばらしいことか。初めて見る赤、白、青などの色彩が強烈だ。
  「一度見たので、もう結構といえるぞ」と、口々に言いながら坂をくだる。
  明治維新による、神仏分離策のために、「日光山輪王寺宮」は東照宮、二荒山、輪王寺の「2神社、1寺」に分離されたとのこと。
  東照宮への参観料をめぐって、輪王寺と裁判沙汰になっているそうだが、地下の家康さまはどう思っているだろうか。
  泊まりは鬼怒川温泉である。
  2日目、千葉県船橋市のヘルスセンターで潮干狩りをしたり、遊具に乗ったりした。
  宿は“湯島”だったので、仲間数人と銀座の「ジャズ喫茶・ニュー美松」で、井上ひろし・・・雨に咲く花、飯田久彦、田代みどりなどの歌を聞く。
  社長は、大勢をひきつれて銀座のキャバレーへ繰り出し、“十八番の・ベッサメム―チョ”・・・を歌った。(あとで聞いた話)
  この年(S36年・1961)の1月に、まだ在学中(赤穂高校定時制)であったが、タカノ労組の執行委員・教宣部長になっていた。
  旅行から帰ってから、春闘は大きな盛り上がりとなり、一定の成果があった。

(2)党議員団行政視察 1977年8月(S52)
  今回の旅の目的は、@新しく赤穂北の原に建設するし尿処理場の「機種問題」・・・I・Z方式の視察。―― 群馬県月夜野町。 A小規模土地改良について・・・長野県牟礼村。などである。
  8月31日。東京の国会に林百郎代議士を訪ね陳情をする。
  その足で、東北自動車道を鹿沼ICへ。鹿沼市より芭蕉も日光へ向かった「日光街道」の杉並木の道を走る。この杉1本で、家1戸分の造作材が取れるという。
  宿は東照宮のすぐ下のペンションである。生まれて初めて「ペンション」と名の付くところに泊まる。
  9月1日。

 
日光東照宮、「三猿」 前

 東照宮の「三猿」の前で写真を撮る。そして奥ノ院、すなわち家康の墓のあるところも見ることにする。
 墓所に通ずる石段が幾何学的にできており、創建当時の技術水準の高さを思い知らされる。
 家康の墓は銅製で、三代将軍家光が家康を神としてまつったものとしてはこんなものであろう。
 前に来た時とは逆の道順で、いろは坂、華厳の滝、中禅寺湖、名勝・湯滝などを見ながらすすみ、金精神社の絵馬堂を見学。有名な漫画家のエロチックな絵馬が、所狭しと並んでいる。


月夜野町
  万葉集の中に「いい月夜のう・・・」の歌がある。この町の名はそこからとったという。
  ここにある安宅産業の「し尿処理システム」 I・Z方式を見る。私は昨年、伊南行政組合の視察できたので2度目である。安宅産業も、会社はつぶれたが、この部門だけが残ったという。 2日目の宿は、水上温泉。

  9月2日
谷川岳の<一の倉沢>の真下に行く。遭難の碑があっちにも、こっちにもいっぱいある。<一の倉>の岸壁をのぼっている人の姿が豆粒のようだ。
  この谷川岳を、上越線が清水トンネルで貫通している。川端康成の「雪国」の 「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」・・・で有名である。

  三国峠(上野、信濃、越後)を越え新潟県湯沢町、さらに津南町から長野県栄村の≪秋山郷≫にはいる。
  豪雪で有名であり冬には交通が遮断し、病人が出ればヘリコプターが出動する。
  この地域には、過去において悲しい歴史があった。江戸時代、凶作で飢饉が訪れた時に、食料が底をつき一つの部落が全滅したという。
  小赤沢、大赤沢、屋敷、上野原、和山、切明などの部落がおよそ5qおきに今もあり、生活している。
  若者は学校を出ると、どんどん都会に出て行ってしまい、残っているのは年寄りばかりである。
  小学校の分校は「屋敷」にあるが、学校から遠い生徒は、一年中寄宿舎に入り、家に帰るのは土曜日だけだそうだ。
  中学生も一年中、山を越えた栄村の本校で寄宿舎生活だという。
  役場のある本村に行くには、いったん新潟県の津南町に出てからでないといけない。
  そこで感じたことは、子供が生まれてから義務教育終了までに、自分の手元にどれだけいるのだろうか? ・・・ 。

  今夜の泊まりは、秋山郷の中心地の「屋敷」の民宿である。
  夕方、和山、切明まで行ってみた。驚いたことに、温泉があっちにも、こっちにも湧いている。切明の河原には湯けむりが立っており、河原のどこを掘っても温泉。河原の石をどけて「“”赤須温泉“”」に入る。
  このお湯を、何とかして駒ヶ根へ持ってゆけないものか・・・・・。

  今夜は上野原部落の神社のお祭りだ。他の部落からも呼ばれてゆくというので、我々も夕食をすましてから行ってみることにした。
  宿から約5qのこの部落は、苗場山への登り口で、家が10数戸あり、田圃はほんの少ししかなく、林業で暮らしをたてているという。
  すでに夜店がでており、子供達が集まっていた。一軒の家で酒を1升買い(分けてもらい)、それを持って部落の上にある神社へ行った。

  夜、9時過ぎになってから三々五々人が集まってきた。
  小さな本殿の中で、年寄りが車座になって酒をつぎ合っている。
  若い青年たちは、本殿の下の小さな庭で、今日のために帰ってきたのであろう、まだ17,8才の2人の娘さんを囲んで楽しそうに「職場のことなどを」話している。
  いよいよ踊りが始まった。 “秋山のよさ節“ である。

  1、 おらうちのしょは  おらうちのしょは
      嫁を取ることのよさ  忘れたか
     2、忘れはせぬが  忘れはせぬが
         稲の出穂みてのよさ  嫁をとる
      3、 嫁とってくれりゃ  嫁とってくれりゃ
           いちだ刈る草のよさ  にだん刈る

  次から次へと、途切れることなく “秋山のよさ節 ”が続き、踊りも同じ踊りが続いている。(途中で、違ったテンポにもなる)自分たちも輪の中へ入れてもらって見よう見まねで踊る。 ・・・ このまま、朝まで続くのであろうか?。
  12時が過ぎたので、我々は帰ることにしたが、歌と踊りは続いていた。
  帰る時に、一昨日「日光東照宮」でもらったお守りを2人の娘さんに渡してきた。

  9月3日
  津南町、栄村、飯山市を経て次の視察地の牟礼村で、「小規模土地改良事業」を視察して帰宅。


 

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