8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 C

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・・・・< その1―C >

C 奥の細道 PART 3               <1986年(S61)10月>

建設委員会行政視察 【 都市公園、公共下水道問題 】

10月1日(水)
  AM6時、高速バスで東京へ向かう。委員6人と事務局の一行7人。
 
羽田よりボーイング727で青森・三沢へ。約1時間の旅である。
 
三沢空港は、アメリカ空軍基地同居で、着陸の時に「写真を撮るな」という。何たることだ。これも日米安保条約のせいである。
  この三沢に、私は10年前(S51)に来たことがあり2度目である。前回はホッケー場の視察であった。青森国体の次の開催地が長野県で、駒ヶ根がホッケー競技の主催地に決まり、競技場づくりを中心に視察した。たった一回の数日間の競技のために、“グランドを全面芝張りにする”・・・ という要請で、「無駄遣い」と主張したが“案の定”・・・ であった。
  今回は、文化会館の隣につくる「すずらん公園、文化公園」との関連について視察に来た。
  ホッケーグランド近くの福祉センターで説明を聞いたが、頭上を米軍のジェツト機がひっきりなしに飛び交い、説明もなかなか進まない。(これが悪名高い、タッチアンドゴーである。航空母艦での離着陸の訓練をしているのだ。) ・・・アメリカは、日本から出てゆけ!!!だ。
  アメリカの軍人、家族専用の水泳場もあり、至れり尽くせりである。
  基地には「象のオリ」といわれる施設があり、ソビエトのシベリヤまでも守備範囲にした電波の受信をしている。
  大韓航空機のサハリン上空侵入、撃墜の一部始終もここでつかんでいた。
  この三沢市の淋代海岸は世界で初めて太平洋無着陸飛行の着陸地である。

泊まりは、古牧温泉である。・・・なんとも度肝をぬかれた温泉であった。
 
総面積15万坪50ha、50町歩)の中に、第1、第2、第3グランドホテル、旅館など2050人の宿泊定員。1200坪(40a、4反歩)の日本一の超大風呂、25mの温泉プール、そのほかに結婚披露宴会場など大小50余室
 
東北の桂離宮修学院離宮を目指した河童沼と、諏訪御殿や、津軽南部荘城などのある公園・祭魚洞公園
 
美術館、小河原湖民族博物館ボーリング場、さらにヘルスセンターのような、毎日ショーをやる建物など、・・・ 数えきれない ・・・
  美術館には、西郷隆盛の直筆の書などいっぱいあった。(見きれないほど)
  特に目にとまったのは、中村不折の「絶筆」といわれる書であった。
  とにかくスケールが大きい。ここのほかにも、
十和田湖や奥入瀬にもホテルなどを持っている。
  この会社を経営しているのは
杉本行雄(72)という人で、s44年にこの事業を始めたそうである。・・・ 本当のところは、それまで経営していた十和田観光電鉄を、あの小佐野賢治に乗っ取られたようである。
  この杉本さんは、静岡の生まれで、16才のときに
渋沢栄一(当時89)の書生になり、その後、渋沢敬三(栄一の孫、s20年終戦の時大蔵大臣)の秘書となる。
  戦後、渋沢家の財産管理のために青森に来たそうである。

10月2日
  朝、出発の時に杉本氏が玄関に来た。
  名刺を渡し「長野から来た」というと、「私の妻は臼田町です」といい、「高遠には行ったことがある」との話で、「またきます」と再会を約した。
  次の視察地は
≪十和田市≫である。
 公共下水道の受益者負担問題などについて勉強した。
  ここは、教育学者
・新渡戸稲造のゆかりの地とか ・・・ 。
 古木と滝と水が美しい奥入瀬渓谷、そして十和田湖。2日間貸切のワゴン車は、東北自動車道の十和田ICから北に向かう。碇ヶ関
(いかりがせき)ICでおり、秋田と青森境の碇ヶ関所跡を見る。
 
今夜の宿は、「大鰐温泉の不二家ホテル」だ。
  狭い所に家並みがあり、山のひらのような所でリンゴをつくっている。温泉と言っても、街の中に何軒か旅館があるだけである。
  大鰐温泉のホテルのロビーに、大相撲の
横綱「2代目・若乃花」の大きな写真が額に入れて飾ってある。(引退して“間垣親方”となり間垣部屋独立
  聞けば、この大鰐町出身という。なるほど・・・テレビの紹介で聞いたことがある。
  風呂に入り、夕方街を散歩した。
  この町は、谷あいの狭いところの真ん中を川が走り、その両側に家が密集している。川をはさんだホテルの対岸に、
間垣親方の実家があるというので、散歩がてらに行ってみた。家のまわりでお母さんが掃除などをしていた。そこへ、背の高い男性が車で帰ってきた。こちらは浴衣姿であったが失礼して、「長野県の駒ヶ根市から来たのですが、横綱のお兄さんですか?」ということからいろいろと話が弾み、身長が間垣親方は186cm、お兄さんは183cmあるとのこと。
  「先ほど、どちらから来た・・・といいました?」と聞くので、「駒ヶ根です」というと、「
私は、横浜に勤めていた時に、駒ヶ根市に3回行ったことがある。釣りざおの会社で、杖つき峠を越えて行き、国道から左手に入ったところにある会社だった。」 そうだ。
  たしかに、国道東の赤穂東小学校の北に、釣りざお工場があった。
  2代目の“若乃花”も、自分の好きな人と一緒にしてもらえず、二子山親方の娘との結婚に失敗し、分家独立もなかなか許してもらえずにいたことを新聞などで知っていたので、そこで私が、「二子山親方は汚いと思う」というと、「そうだ」という話になり、
意気投合。・・・ さらに、二子山部屋の後継者はだれか?? にまで話は弾んだ。

10月3日(金)
  あさ、出かけるときに酒屋で1升買い、一文を添えて届けてきた。
  さて、今日は350Kmの長旅である。見るところも多い。まず≪
弘前城≫へ行った。
  ここも2度目であるが、今日はまだ早いのか天守閣には中年の婦人が1人いるだけである。
  城址から見る津軽平野は広い。そこに岩木山がデンと構え、絵になる風景だ。
  写真を撮ろうと夫人も誘い、岩木山をバックにポーズをとる。その女の人が「みなさんはどちらから?」「長野県です」「私は、中川村というところの加藤さんという人を知っている。」「私たちはその隣の市です」
  50代後半のこの方の主人は、東京のある医大の教授で、学会の会議で昨日から一緒に来ているとのこと。中川の加藤さん・・・(役場の隣の医者)の息子さんの仲人をしている・・・と話してくれた。
  今年のNHKの大河ドラマは、農村における医療活動を取り上げた「いのち」で、三田佳子さんが主演だ。いよいよおお詰めで最後のロケにくると、城内にオープンセットが組まれていた。
  ドラマに出てくる「未希さんの家」が郊外にあるというので行ってみた。津軽の昔の地主の家で、いまは市が買い取っている。
  かやぶき屋根の大きな家で、戦前に撮った写真が飾ってあった。当時、小作人が150人くらいいたという。


弘前城

 東北自動車道を今度は中尊寺に向かって南下する。
  いままで、山には杉の見事なものばかりだったのが、岩手県に入ったとたんに雑木林になり“この違いは何か?”と考えさせられた。
  岩手山も高くそびえている。右のそれを見、左が石川啄木生まれた渋民村だ。
  さらに進むと、今度は右手に花巻温泉が見えてきた。宮沢賢治だ。この温泉郷も小佐野賢治に買い占められた。
  “南部牛追い歌”・・・を口ずさみながら、岩手県を通過し平泉・前沢ICへ。

≪中尊寺〜毛越寺≫
  前に中尊寺に来た時は春だったが今回は秋である。
  光堂のすぐ下まで自動車で上る。これが近道だ。狭い駐車場の横は田んぼで、もう稲は刈ってあり、棒を立てたところに巻きつけるようにして積み重ねてある。何本も田の中に棒が立っており稲束がずり落ちているいるのもある。これが、岩手方式なのであろう。
  2度目の参詣だが、いつ来ても藤原三代の栄華がしのばれる。そして、四代目に頼朝の謀略で滅びたが、いまでも当時の跡が残っている。
   “  夏草や つわものどもが 夢の跡  ” よく詠ったものである。
  次は、毛越寺(もうつうじ)である。
  ここは初めてだが、建立当時は目もまばゆいばかりの輝きだったのであろう。再建を目指して寄付を募っていた。
  池のむこうには、「曲水」(きょくすい)があって、四季折々に宴(うたげ)がもようされたのであろう。
  往時をまぶたに浮かべながら、しばし目をとじてみた。
  このあと、岩谷洞窟、厳美渓を見て、宿泊地の「松島」に向かう。


1986年(s61)毛越寺にて

10月4日
  松島の全景を見れるようにと、何年か前に“松島タワー”ができた。
  個人的な見解では、アンバランスであり、好感を持っていないが、そのタワーのあるホテルに昨夜は泊まった。
  早朝、塩釜の「中卸市場」へ買い物に行った。4年前に寄ったところでもある。
  明日は、私の部落の「塩釜神社」の秋の例大祭で、それに間に合うように魚を持ってゆくことにした。
  サワラとタコの頭、それになぜか今回もクジラの肉も買い全部で27Kgになった。
  仙台から東北新幹線に乗ったが、窓から見える両側の田圃の減反は、1割以下に見えた。帰ってから聞いた話では、減歩率は一ケタ台だという。
  長野県は30%台である。農民のたたかいが弱いためだろうか?・・・ 。

≪10月5日・お祭りに魚が間に合った。≫


 

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