8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 H

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・・・・< その1―H >

H  ・ 直江津               <1975年(S50)7月12日〜13日>

【 いとこ会の親睦・慰安旅行 】

 ≪7月12日≫
  私の
母親の姉弟は10人いる。1番目から7番目までが女で、8番目10番目が男である。現在、10人みんな健在である。母親の関係の「従兄」は31人、そして「はとこ」が55人。

  その「姉弟」の一番上の伯母が直江津の“夷浜えびすはま”におり、遊びに行こうということになった。いとこ、はとこ、叔母、叔父の総勢30人で、マイクロバスを借りた。
 今年は梅雨が長引いてまだあけず、あいにくの雨である。
 伯母は学校を出ると岡谷の「片倉製糸」に勤めた。そこへ働きに来ていた直江津の男性と一緒になったのである。
  私は、伯母の家にはじめてきた。夷浜の集落は市の北の端にあり、真ん中を、北から南に旧街道が走っている。
 芭蕉は286年前に柏崎からこの道を歩いて直江津の街へ入ったのだ。
  ここは、冬には雪が毎日1m以上も降るがすぐに溶けてしまうそうだ。それは、気温が暖かく零下のなるのは、年に一度あるかなしかだという。
  よくみると川というものがない。みんな浸みこんでしまうそうだ。
  裏の海岸に出てみた。あいにく天気が悪く佐渡は見えなかった。砂浜で波とたわむれたり、とび歩いたり、釣りをしたり、直江津のいとこは自家用のボートに乗り、沖で釣りをした。
  夏の波はボートなどを岸の方に押し寄せるが、冬の波はどんどんと沖のほうに流されてしまうそうだ。
  浜も浸食されて、大分家の方へ来ているという。沖の方に油田から石油をくみ上げる大きなやぐらが立っている。そして原油を陸にあげるパイプが何本もあった。
  家の近くに、浄土真宗の寺が2つ並んである。親鸞は新潟で布教したのでその影響が強い。
  夜、直江津のいとこが4人来て交流会だ。天気がよければ、浜で「焼き魚パーティー」の用意がしてあったそうだが、会場を座敷に移した。

≪7月13日≫
  今日は天気が良い。楽しい思い出をお土産に、越後を後にした。

 


 「直江津海岸」

 

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