8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 追記【5】

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・ 追加5、春日山城


【5】 春日山城 ・<上杉謙信の居城>

“  鞭声粛々 夜河を渡る  暁に看る 千兵 大牙を擁する  
    べいいせい しゅくしゅく  よるかわをわたる  あかつきにみる  せんぺい  たいがを ようする

   遺恨十年 一剣を磨く  流星光底 長蛇を逸す    ”
    いこんなり じゅうねん  いっけんをみがく   りゅうせい、こうてい  ちょうだを いっす

                                      < 頼 山陽 >

 江戸時代の国学者 “頼 山陽”が武田信玄と上杉謙信の川中島の決戦で、上杉謙信が妻女山を下り、「雨の宮の渡し」(千曲市)を音をたてないようわたり、いよいよ信玄と決戦する。・・・謙信の立場でその模様をうたったものである。
  霧が晴れたら、“謙信の目の前に信玄がいた” ・・・三太刀、七太刀の跡、両雄決戦の像など、いまは「八幡原の古戦場」として史跡公園になっている。

  春日山城・上越市高田

  江戸時代より前の戦国時代、(1550年前後)当時の京都の人口が12万人程度だったのに、春日山城下には6〜7万人もいたそうである。
  謙信、養子の景勝、その家来の兼続
(愛と義の智将といわれた)・・・ が、なぜ越後で育ったのか?
  『一年の半分近くは豪雪、雪解け水に恵まれた米作り。自然の厳しさと恵みを体得し、畏敬
(いけい)の念を深めたのでは。兼続は禅寺に学び、当時最高の教養人だった』
  『兼続の終焉の地は、江戸の直江屋敷・・いま警視庁のあるところ』 (赤旗新聞)
すぐ近くの、林泉寺
(長尾家・上杉の菩提寺)で謙信の遺品なども見ました。

<相馬御風>

 都の西北、早稲田の森に・・・母校の校歌や「春よ来い」の作詞者で、「良寛研究」でも名高い“相馬御風記念館”(糸魚川市)に立ち寄り帰郷。

――  UESUGI UESUGI UESUGI UESUGI UESUGI UESUGI UESUGI   ――

 平成21年(09)6月9日、駒ヶ根市東伊那郷土研究会の春の研修旅行は、
 ・・・「
上杉謙信の居城・春日山城」 と糸魚川市の「相馬御風記念館」 だった。 
 折から、NHKの大河ドラマが「天・地・人」でもあり、次々と大型バスが到着して、その地は観光ブームになっていた。若い女性の歴史に対する関心も高まっているとの事、大変良いこと、嬉しいことだ。

 ・・ 芭蕉は、高田に3泊し、句もつくっているが「おくのほそ道」にはない ・・

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