8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
赤須喜久雄・諸国行脚 奥の細道の巻 追記【3】

赤須喜久雄・諸国行脚「奥の細道の巻」・・・ 追加3、塩釜〜中尊寺〜山寺


【3】 これぞ! 奥の細道 ・・行脚だ!

・「堂々と 杉の木立や 瑞巌寺・・どうどうと 杉のこだちや 瑞巌寺   きくお
―― 仙台〜多賀城〜塩釜〜松島〜瑞巌寺〜中尊寺〜 天童・立石寺(山寺)〜
         最上川の舟下り〜羽黒山 ――
 (平成17年10月2005

 芭蕉は、宮城野(仙台)伊達62万石の城下町から、出羽の羽黒山へと旅をしたが、今回は、飛行機の都合で花巻に到着した。順序が前後するが仕方ない。
 飛行機はJALで、手もたれなどガタガタ。整備が悪い。ANAと比べるとサービスも劣悪。音楽を聞くイヤホンもない。事故も多い。JALの前近代的な労務管理も指摘されている。旅行の細かいことは幹事にお願いしているので、文句も言えないが、なんでJALに・・・と気分がすぐれない。後日談だが、その旅行の4年後に秋田空港への予約をした時、「JALでなくてよかった」異口同音に発言があった。
 ・・・ “同行16名”、バスをチャーターしての4日間だ。

  花巻といえば宮沢賢治である。四十数年前になるが定時制高校の頃は、彼に心酔し、☆農民芸術概論鋼要の序論。 ☆稲作挿話。 ☆生徒諸君に寄せる。 ・・・など、自分の人生の目標にしたものである。「宮沢賢治記念館」で当時の思いにふける。
  小岩井農場訪問は次の機会にゆずり、サービスエリアで手に入れた“前沢牛の串焼き”で一杯やりながら、中尊寺に向かう。

「 国破れて山河あり、城春にして草木深し 」 杜甫

  卯の花に 兼房見ゆる 白髪(しらが)かな  曽良
               <兼房=義経悲劇の最後を飾った白髪の武将>


 金色堂はいつ見ても藤原3代の栄耀栄華の跡がしのばれ、感激。
  芭蕉がのぼって見た「高館たかだち」<義経が最後をとげた地、居館・衣川館とも>に登らずに真下で「高館」を眺め、衣川、北上川、衣が関など、金色堂や中尊寺とも相まって“ムード満点”である。専門のガイドさんを頼み案内してもらったが、まさに“日本の歴史を体得する”視察時間であった。

  旅行前に中尊寺のホームページを見ていたら、芭蕉の訪ねた年の記述に間違いがあった。それをメールで指摘したらすぐに訂正されていた。中尊寺のホームページ担当の若いお坊さんに、「メールしたのは私です」と話すと、“天下の中尊寺のお坊さん”に「ありがとうございました」とお礼を言われる。これも思い出の一つとなった。

  バスは中尊寺の横の橋を渡る。衣川には重機も入り大々的に護岸工事をしていた。私が描いていた藤原三代、義経、中尊寺・・・等々のイメージを壊すもので、工事現場を「見なければよかった」と思いつつ、今日の《宿泊地の松島》へ。
  松島は4回目である。今回の宿は、前回の宿(松島タワーのある)の隣だった。今はタワーもなく風景が違っていた。有名な観光地でも経済状況はなかなか厳しいな・・・と感じた。
  いつ来た時も、お土産は「塩釜の中おろし市場」で買うが、今回は行けなかった。
 瑞巌寺 ・・・ 「堂々と 杉の木立や 瑞巌寺」 31年前の自分の作に惚れている。本堂前の庭の地下に宝物殿ができていた。いいアイデアだ。 
 松島湾 「松島や、ああ松島や、松島や」 芭蕉の句と思いきや、後年、誰かが勝手につくったものだというが、・・・素人には「風景から感じたまま、ぴったり」で秀作だ。
遊覧船にカモメがよって来て餌をねだる。別世界の景色に感激。

「 岩肌に しぶきとびちる かもめかな 」 (きくお・奥松島にてS49

 塩釜神社  私どもの塩田部落の氏神様も「塩釜神社」である。≪江戸時代に、集落の山付きへ【鎮守の森の神社をつくった】。代表が仙台の塩釜神社まで行って「神様を分けてもらってきた」 ≫という言い伝えがある。
海の神様でもあり、それを “産(う)みの神様、お産の神様” として、今でも安産のお札を貰いに来る人がいるし、ご神木(ごしんぼく)は直径1メートル以上ある桧の大木で、根元に穴があいていて、みずが湧き出ている。産後のひだちに良い・・・ と言われており、妹が生まれた時、その水を私が汲みに行って、母は飲んだ。

  塩田のお宮に伝わる話を祖母から聞いた。・・・ @“ご神体は我が家の先祖が寄付した”(三体ある)こと。 Aある人とどちらが「お金があるか」と言い争いになり、「本殿から小判を並べ、家が遠いぶんだけ(約100m)俺の方がある」と言い勝った。
  江戸時代の話で、いまはみるかげもない!!!。 <今は昔の物語・・・である>

  芭蕉も見た“大釜がま”をみて、参拝・・・御賽銭は、ほかの神社より多く入れた。
< 銘酒・浦霞 >を買ってみんなで飲む。
多賀城市) バスは、多賀城跡近くを通った。奈良〜平安時代に東北のおさえのための役所のあったところで、芭蕉も立ち寄っている。

  “あやめ草 足に結ばん わらじの緒” 
             ・<壺のいしぶみの隣にこの句碑。あやめ草とは、しょうぶのこと>

 青葉城 から杜の都をながめ、伊達政宗の墓・瑞鳳殿へ。発掘調査もされ、新しい、彫刻、漆など施された見事な建築物となっていた。建物の周りの灯楼などは、地震で倒れたままである。  ・・・ 仙台の奥ざしき《秋保温泉 泊
 最上川下り、 今日は「 五月雨を あつめてはやし 最上川 」である。
 バスでの飲み物の調達に、ホテル隣のコンビニへ行ったら、「いもに会用の焚き木」の束を売っていた・・・そんな土地柄へ来たんだ。

 舟のガイドさんは女性であった。「男は度胸!女は愛嬌」・・の愛嬌に属するガイドだった。この“芭蕉ライン観光“にも何人か女性ガイドがいるそうで、外国人の観光客も多く、英語、韓国語、中国語、その他を使い、楽しいガイドだった。
 本人いわく、「家には保育園に預けた子供がいる」と言ったので、ポケットにあった250円ばかりをおひねりにして投げた。ガイドさんは「子供のミルク代の足しにする」と喜んだがジョークだと思っていた。後日テレビで舟下りを放映した時、彼女が出て「シングルマザー」と紹介していた。もうちょっと入れればと・・・あとのまつり。
  最上川舟歌・・・は、景色とマッチしてこれもムードいっぱいだった。

 羽黒山 出羽三山神社 に参拝し、五重塔もみる。600年前の再建だそうだが均整が取れていて、杉の大木と石段が上手に配置されている。
  前回来たのは25年前である。この町の議員をしていた「滝 巌」さんは健在か?、少し気になる。

「 ありがたや 雪をかをらす 南谷 」

「 湯殿山 銭踏む道の 涙かな 」 曽良

  門前町で昼食。出羽三山神社参拝記念の金剛杖を買う。杉の集成材で作ってあり、軽くて、丈夫だ。この杖を家まで持ち帰ったが、飛行機は、なんとも大げさな“重武装”で運んでくれた。いまでも、毎日「愛犬・なつ」との散歩に同行している。

・尾花沢  「眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花」 
<まゆはき=女性の化粧道具のひとつ。べに花=駒ヶ根でもつくっている。>

・・・・・ 《天童温泉・泊》
山寺(立石寺) ・・・ 「 しづかさや 岩にしみ入る 蝉の声 」  
  さあ、待ちに待った「立石寺」だ。みんなは岩の道をのぼって山の上まで行ったが、途中までで失礼した。山上で見た景色は「絶景だった。お父さんには是非一緒に見せたかった。」と、妻はいまでも山寺の話が出るたびに言う。
  山寺芭蕉記念館が 山寺を望む対丘に新しくできていた。下から見た山上の御堂などは、これまた見事な風情だった。
 記念館には、足跡、作品など系統的に配置、陳列されており、学術的にも評価できるのではないかと感じた。
  お土産に、芭蕉ゆかりのところでしか売っていない“俳聖かるた・芭蕉、去来、蕪村、一茶”を買った。「むすびの地・大垣の船町港」で買ったのがあるが誰かにやろう。
  仙台空港への道すがら、有名な蔵王に上った。しかし、蔵王は霧の中で、数メートル先も見えない。昔・YS11で青森へ行くときに、空からお釜を見たが残念。
 仙台での最後の「行事」は、“牛タン・の夕食”だ。

<黙っていたが体調は最悪・・・半年後、精密検査の結果「拉致監禁、初めての入院・手術」を経験することになるが、すでに病気は進行していた。>


 

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