8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

A<第二回> 帝銀事件発生!ターゲットは旧・軍関係者だ

 1948年(昭和23)1月26日(月曜日)午後3時すぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店(東京豊島区)に、東京都のマークが入り「消毒班」と書かれた腕章をつけた40才代の男が現れ、応対に出た支店長代理に「近くの家で集団赤痢が発生した。進駐軍(GHQ)が店内を消毒するが、その前に予防薬を飲んでもらいたい。」と告げた。
 男はカバンから薬ビンやスポイトようのガラス器を取り出し、用意された17個の茶碗に液体を注入、自ら飲んで見せたあと、居合わせた銀行員16人全員が犯人の指示通り、第1薬を飲み、つづいて1分後に第2薬(普通の水)を飲ませた。
 すると、はじめて強い酒を飲んだように胸が苦しくなった銀行員は、犯人の許可を受けて洗面所にうがいに行き、その場でバタバタと倒れてしまった。

12人死亡・4人助かる
 液体には青酸化合物が混入されており、銀行員が苦しんでいる間に男は16万4000円と小切手1通を奪って逃走した。この事件で12人が死亡、4人が助かった。
・ ・・・これが「帝銀事件」のあらましです。

『助かった、村田さんの話 』
 「2,3人のあとに続いて洗面所に飛び込んだときには、すでに入口のところに2人倒れていました。水でうがいをしたのか飲んだのか記憶していませんが、元の位置に帰ることが出来ず、小使い室の前の廊下に倒れてしまいました。」

未遂事件=他に2件あり
 帝銀事件が発生してから、他の銀行ににたような事件があったのがわかりました。それは、帝銀事件の一週間前、1月19日(月曜日)午後3時5分ころ、三菱銀行中井支店に、品のいい紳士風の男がおとずれて、「都の衛生課からきた。ここのお得意さんから7名ほどの赤痢が発生した。そのうちの1人が今日ここにきたはずだ。進駐軍が車で消毒にきたが、ここも全部消毒しなければならない」と支店長に告げた。
 支店長は「1人のことでそんなことをされては困る。」と抗議したので、彼はカバンの中から小さなビンを取り出し、無色透明の液体を小為替全体にふりかけて帰った。
 もう一つの事件は、前年の昭和22年10月14日(火)の出来事だった。
 午後3時過ぎ、品川区の安田銀行に1人の品のいい男が現れ、“厚生省予防局―医学博士・松井某”の名刺を出して、「近所の渡辺という夫婦が赤痢にかかった。消毒のためGHQのパーカー中尉と一緒にジープできた。この銀行のオールメンバー、オールキャッシュ、オールマネーを消毒する。金も帳簿もそのままにしておくように」といった。
 支店長と行員29名を集めて、各自の茶碗に茶褐色の液体を三滴づつ入れ、自分も飲んで見せたあと、全員に飲ませ、さらに2番目の液を飲ませた。
 この作業が終わると「もう消毒班が来そうなものだ。ちょっとみてくる。」といって出て行ったきり戻ってこなかった。

捜査の方向はしぼられた!
 この二つの未遂事件が帝銀事件と同一犯人のしわざであることは間違いなかった。そこで、捜査陣は3つの銀行の行員の証言と、2枚の名刺によって捜査を開始しました。
 事件後12日目、全国の警察署あてに出した「帝銀事件捜査要綱」(刑捜第154号の6、昭和23年2月7日刑事部長)では・・・・・
 「次のものから更に似より人相者を物色すること。 医師、歯科医師、薬剤師、各種医学・化学・薬学研究所員、帰還将兵中の医療の心得のあるもの」と指示しました。
 5ヵ月後の6月25日、捜査はいよいよ追い込み状態となった。
 再び刑事部長名での指示
 「各方面の捜査を推進してきたが、このほど大幅な捜査線を圧縮を果たし、捜査方針の一部を新たな方向に移行した。

軍関係を最適格とするゆえんは、第1に、犯人は毒物の量と効果に対し、強い自信を持っていた。
第2に、犯人は毒薬の時間的効果に対し、深い自信を持っていた。
犯人の所持品中のピペットは、駒込型といい、細菌研究所または軍関係諸研究所で主として使われていた。犯人の職歴が察知される。
次は犯人の態度― 16人も一挙に毒殺する者として、余りにも落ち着きがある。
これらの諸点から、捜査方針の一部を軍関係に移す。 

  まさに“ターゲットは、旧・軍関係者だ”!!!

<つづく>

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