8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

B<第三回> 刑事2人伊那村へ来る

 事件発生から3ヵ月後の昭和23年4月25日、東京警視庁の2人の刑事が汽車を乗り継ぎ、長野県上伊那郡伊那村字栗林へ「伴 繁雄氏」を訪ねてきた。
 彼岸桜はすでに散っていたが、小高い丘の上にたつ伊那村小学校(2年前までは国民学校)の約30本のソメイヨシノは満開で、村中が平和な雰囲気に満ちあふれるおだやかな日であった。
 訪ねてきた刑事とは、小川氏(33歳)と小林文作氏で、25、26日の2日間滞在した。
 伴氏は、1927年(s2)、浜松高専応用化学科卒業、陸軍化学研究所へ入所。
 1939年(s14)第9研創設のため転入、第2課勤務。【別名・登戸のぼりと研究所】
 9研は兵器行政本部直轄、参謀本部とは密接な関係があった。

なぜ2人の刑事が伊那村へ来たのか?
 捜査本部は3月22日、次のような「捜査要綱」を新たに加え指示しました。
「1、薬学、または理化学系学歴、知識、技能、経験のある者より容疑者を物色すること。2、軍関係薬品取り扱い、特殊学校、同研究所、およびこれに付属する教導隊、または防疫給水部、もしくは憲兵、特務機関に従属の経歴を有する者(主として将校級)より容疑者の物色。」
     これより少し前、事件後40日目の3月8日、大規模な捜査員からの意見聴取。―全体として“旧・軍関係犯人説”
 そして事件後76日目の4月14日の「捜査会議」では、“旧・軍関係を追うべし”が圧倒的意見であった。
 捜査官は全国へとんだ。― 第一の出発点は、千葉県津田沼陸軍化学兵器研究所。→→ 6研へ →→ 9研へ。捜査の網は広く深くなった。
 3月29日、小川、小林両刑事は、元第9研究所員の川島氏と会った。川島氏は「私がしゃべれば首がいくつあっても足りない。上司に相談して話す。」そこで、→→ 島倉氏 →→ 元9研第2課1班長「伴繁雄」氏を訪ねたのである。

さて、伊那村での「伴・元少佐」の供述は・・・・・・・
 「毒物合成は個人謀略に用いる関係上、死後原因がちょっとつかめぬような毒物を理想として研究し、成功したのは【アセトンシアンヒドリン】(青酸ニトリール)でした。これは、青酸と有機物の合成に、9研が特殊なものを加えて作った。服用後胃の中に入ってから3分から7〜8分たつと青酸が分離して人を殺す。1回1人分2ccのアンプルに入っている。」

青酸カリは即効的、青酸ニトリールを使ったのが正しい
供述はつづきます。
「先に1回薬を飲まして、第2回目を1分後の飲ませ、さらにうがいに行って倒れた状況は青酸カリとは思えない。青酸カリはサジ加減によって時間的に経過させて殺すことは出来ない。もし私にさせれば青酸ニトリールでやる。」
 この時、2人の刑事はもう1人の第9研関係者の供述をとっています。
 元技術大尉S氏(中沢在住)・・・・・・・
 「青酸カリでは危険で出来ないから、青酸ニトリールを使ったのが正しい。」
                   ・・・・これが2人の一致した見解だった。

メ モ <第9研がかかわった人体実験>

<その1> 昭和16年五月22日(1941)から、場所は南京の病院。
相手は支那人捕虜の男30人を毒殺する実験。
紅茶の中に薬をいれ、試験官と一緒に飲む。毒薬は捕虜のみ入れる。
島倉氏の供述「青酸カリは沢山やった。完全死まで注射3分、飲ませて  5分〜10分、心臓が止まるのが10分位。(飲むとすぐ倒れる)
<その2> 昭和18年10月(1943)―上海特務機関の一室。相手は中国人捕虜。
3人づつ部屋に入れられ、白い手術衣の軍医(実は第9研究所員)が 「 いま伝染病がはやっている。もし発病したら日本軍も困るし、君たちもつらい。それで、今日軍医が予防薬を持ってきた。飲み方は @第一薬を飲み Aすぐあとで第二薬を飲む」と説明し、軍医も衛生兵(憲兵)も茶碗へ注いだ薬を飲んだ。もちろん毒薬は捕虜のみに飲ませた。結果は予想通りうまくいった。
5〜6分たつと激しく苦しみだし、四股を引きつらせ昏倒し、2〜3分の後絶命した。青酸カリなら即死だが、5〜6分後に倒れるというこの毒物の成果は、これで実験済みとなった。
<薬の使用目的> ・敵地に潜入した情報員が捕われたとき、スキを見て看守を薬で( )し、脱出する時間稼ぎ。
・敗戦時の自決用として考えられた。飲んですぐ倒れたら後から飲むものが勇気を失うので、5〜6分の猶予をおくようつくられた。

<つづく>

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