C<第四回> 陸軍第9化学兵器研究所と伊那村
「登戸」が帝銀事件に関係???、前々から、731石井部隊や「陸軍中野学校」に伴繁雄氏が関係していたことは、以前NHKの番組に出て発言するなどしていたのでそのことは驚かなかったが、、帝銀事件にも関係があるとは???
そこで、記録を調べようと、文化センターの市誌編纂室を訪ねたところ、「駒ヶ根市誌現代編・上巻」にたった5行ふれられているだけであった。
疎開工場の一覧表の中にたった1行、「工場名・陸軍登戸研究所、旧所在地・神奈川県登戸、疎開年月日・昭和20年5月、疎開先・赤穂町、中沢、伊那、飯島、宮田」
そして、説明文が4行あった。「登戸研究所は、昭和20年五月、各村の小学校校舎に疎開し、兵器の開発・研究にあたっていた。風船爆弾は同研究所で開発されたものと言われている。戦後、同研究所は解散になった。」
終戦とともに資料など焼却処分してしまい、現在何もない・・・とのことである。
そこで、直接現地を訪ねあたってみることにした。
○第9研究所は1939年(s14)、川崎市登戸(読売ランドやジャイアンツの練習場のある付近)に創設。
○目的は、謀略器材および毒物の研究。― 毒物、爆薬、焼夷剤、鑑識器材、毒物合成。
・登戸研究所で働いたKさんの話・・・・・
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「水中爆弾や手榴弾をつくったり、マグネシュ−ムとロウをまぜたり、いろいろ作ったけれども、原料が少なくて戦争に勝てるようなシロモノではなかった。」
「毒チョコレートもつくった。腹が減っているので、3人くらい食べたものがいた。いろいろ盗み出して将校になぐられた。高等科(今の中学)のときで、戦争が終わったら学校も終わりで、何も勉強をしなかった。」
終戦前後を知っている人の話
「栖林寺の北に弾薬庫があった。進駐軍が接収に来て、下の道で空砲をうった。ガムやチョコレートをくれた。」「ニカワ、ローソク(厚く大きい)などを物置にあずかっていた。 MPがジープで来て、蔵の中を調べた。」 |
・火山耕地のSさんの話(当時小学2年生)
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「学校の理科室が薬の研究室になっていたが、終戦とともにその劇薬を柳の根元に穴を掘って埋めた。これを秋に掘り起こして、火山の温水溜池の下に大きな穴を掘り“爆発”させた。いまでも穴があいている。
昭和20年の秋の収穫のとき、大きな音がして、“きのこ雲”ができた。遠いところの
ガラス窓も割れたが、登戸で全部弁償してくれた。
学校から薬を運送(馬車)で運んだのは、塩田の鎌重さ(かまじゅう)(本名・赤須松太郎)だった。」
戦後「登戸研究所」は、伴氏らがコンニャクを原料にして、ノリやローソク、せっけん、アルコールなどをつくっていたが、昭和25年頃(1950)すべて撤退した。 |
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登戸研究所は、アセトンをたくさん持ってきた。合成樹脂のサクサンビニールをつくる原料で、風船爆弾の風船に使う。これに、青酸ガスを加えると、→ “アセトンシアンヒドリン”ができる。 |
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栗林集会所も登戸の工場となった。ねんどみたいな化学物質でゴムみたいなものをつくった。 |
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伊那村小学校の校庭の下に防空壕があって、薬品やピストルなどが置いてあった。(現在の弓道場の北、松ノ木の根元付近に入口)
事件発生から3ヵ月後の昭和23年4月25日、東京警視庁の2人の刑事が汽車を乗り継ぎ、長野県上伊那郡伊那村字栗林へ「伴 繁雄氏」を訪ねてきた。 |
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<つづく>
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