8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

D<第五回> 中沢村の陸軍第9化学兵器研究所

  1945年9月21日(s20)、この日は赤穂の美女ヶ森神社の祭りの日であった。
  中沢村下割の2人の少年が、登戸研究所の工場があったところから、金属の部品をひろって来て、分解しながら遊んでいた。
  2人は兄弟で、兄は小学1年生、弟はまだ3才になったばかりの子供であった。突然その物体は爆発し、2人は大けがをして、近くの医者へかつぎこまれた。
  兄の右手の親指と人差し指、さらに中指は吹き飛んでしまった。
  この事件は、終戦の日から約1ヶ月後のことである。登戸研究所のSさんとKさんが少年の家を訪ねてきて「終戦になったので、これ以上のことはできない」・・・と、ホータイ3本(幅の広いもの)を置いていった。

《生き証人・木下重治氏の話 》
   「K(北沢)さんは中沢吉瀬出身の人で、浜松高等工業をでたひとです。登戸研究所の疎開先を伊那谷にしたのも北沢さんの紹介です。Kさんは今、東京に住んでいるので、何年か前にたずねて話を聞いてきたが、その時『まだ穴の中に爆発物が残っているのではないか』といっていた。
  『登戸のことを前に月刊誌(ZOOMIN/60,5,1号)で取り上げたこともあったけれども、自分の仕事がひと区切り
  ついたら、映画なりその他のことで記録に残したいと思っている。』」

登戸研究所の疎開は中沢が中心であった。
上割の協議所では、導火線やロウがたくさんあった。
菅沼のお宮の舞台では、研究所員と勤労学生とで「火薬」を作っていた。
中割のお宮・香花社では、中学の生徒が手伝いに行って、旋盤で部品をつくっていいた。
民家の土蔵をいくつも借りていた。そこには、フラスコや、麻縄、気球爆弾をつるすゴムのロープなどが山と積まれていた。
菅沼の集会所、五十目(屋号)の蚕室など工場にした。
  ☆第9研、登戸研究所での成果は、毒物の成功にくらべて気球爆弾、風船爆弾の成果は、余りなかった・・
    と伝えられている。

<つづく>

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