8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

E<第六回> 第9研と赤穂町、飯島村、宮田村

赤穂の工場は福岡の辻沢にあった<近所の北沢雄喜さんの話(当時6才)>
 「半地下の工場をつくり、夏などは木が屋根を覆うと見えないようになっていた。“立ち入り禁止”がきびしくて、子供でも中に入れてくれなかった。
  隣には浜松から疎開してきた「浅野重工」という軍需工場があった。」(s20疎開)
  終戦後MPが大勢来て、蔵のなかまで調べていった。近くの家は全部調べられた。本当におっかなかった。」

<ロケットの研究もしていた>・・下平の中坪さんの話
 「登戸の人達が天竜河原で三段式ぐらいのロケットの試験をしていた。子供たちが大勢で天竜大橋の上からそれを見た。」

飯島では、時計をつくる?
 「私は、早く大きくなって兵隊に行きたいと思っていた。当時、父親が農協の組合長と総代(区長)をしていた。
  昭和20年(1945)、登戸研究所の荷物が貨車できた。それを学校の防空壕の中へ運ぶのを手伝った。何をつくっていたか知らない。
 別家には、大佐が家族ぐるみ泊っていた。英語はペラペラだった。滝塚少佐、小堀大尉・・という人もいた。
 終戦後、杉の箱(長さ3尺、幅2尺、高さ2尺くらいの赤みがかった厚い杉板)を5箱くらいあずかり、土蔵にいれた。中には劇薬の青酸ナトリウム、硫酸、硝酸、すず、などいっぱい入っていた。
 鳥居原の公会所の床下にも劇薬をかくした。まもなくMPがきて、蔵の中をしらべたけっれども、奥のほうへ隠したので見つからなかった。刀と着物は田圃のニゴの中へ隠した。(稲わらを積んだところ)
 MPは、チュウインガムをくれた。そして子供たちを喜ばすために空砲を撃った。戦後劇薬は山の中に穴を掘ってすてた。」
 終戦後、登戸は製品(時限信管用?の時計など)を日曽利の橋から天竜川にすてた。子供たちが水泳に行って時計をひろった。

宮田は銭屋の蔵に工場が疎開、総務課は真慶寺が本部となる
  登戸は銭屋の蔵を工場にした。戦後、そこで「たちばな兄弟」が除草機(手押し、畜力)やレンゲ刈機などつくって売った。MPが蔵の中を調べてまわった。

<メモ> MPはなぜ蔵の中まで調べたか?
 「MP(米軍の憲兵)がジープで来て蔵の中を調べた。刀や上等な着物が隠してあれば持って行くといった。金属探知機を使えば全部わかるといわれた。」・・・・・
 今回の取材で、どこに行っても聞かされた話。・・そこで、「本当に着物を持っていかれた人は」・・・と聞くと誰もいない。
 アメリカが本当に欲しかったのは、『第9研の成果、毒薬などの資料』でした。
 米軍は、研究資料の入手と引き換えに、731部隊などの関係者の「戦犯追及はしない」と約束していました。

<つづく>

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