8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

F<第七回> にせ札・毒薬・風船爆弾

<世界最高水準の謀略兵器を生んだ> 陸軍登戸研究所
  それではここで、「登戸研究所」の話を、研究所員であった人から直接聞いてみることにしよう。

〔 第九研究所全体の組織と業務は 〕
総務課  (研究所の運営に関する総務全般)
第1課  (物理関係全般、謀略者用無線通信機、無線探査機材、電話盗聴器、殺人光線、風船爆弾)
第2課  (化学関係全般、秘密インキ、スパイ用秘密カメラ、毒薬、特殊爆弾、時限信管)
第3課  (経済謀略資材、印刷関係謀略資材の調査・研究および製造、通貨にせ札など・書類・パスポート、
       各種証明書の偽造)
第4課  (第1課、第2課が研究・開発した機材を実用化するために、最終実験および製造工場の管理・運営)
                                 ・・・・ などであった。
  1944年(s19)になると、川崎の登戸も米軍艦載機の銃撃を受けるようになってきたので、2課は伊那谷の小学校などを接収して疎開し、3課は福井県の武生に疎開した。

  さらに話はつづく・・・・ 終戦時の陣容は
○ 中将 1名。 少将 1名。 大佐 2名。 少佐 22名。
   大尉 32名。中尉 36名。 少尉 40名。 で、将校134名。 
○ 下士官 54名。 文官技師 6名。 技手 55名。 合計 249名。   
    この他に、軍属、工員の身分で働いていた人員を含めると、1000人以上の人間が登戸研究所で仕事をしていた。
                                                         【 駒ヶ根出身・K氏談 】

ニセ札・720億円をつくる 《 中国で金塊、牛皮、油など買う 》
<3課長・山本・元大佐談>
「3課は偽造紙幣をつくる仕事をやっており、印刷工場、製紙工場まで持っていた。
  パスポートの偽造もやっていたが、主力はニセ札づくりで、インドルピーもつくったが、大半は中国紙幣で、45億3000万元が中国で流通した。(今日の金額で720億円)
 ニセ札の運搬は、陸軍中野学校の在校生や卒業生が当り、中国で実際にニセ札をつかって金塊や油などの戦略物資の買い付けに当った。3課は工員も含め250名くらいいた。

レーザー殺人光線もつくる
「2課は毒物、細菌の研究のほかに、レーザーを応用した“殺人光線”も試作した。
 ほかに、謀略資材では“万年筆型の毒物注射器”“時限偽造放火用雨傘”“缶詰爆弾”。さらに、Bが考案した秘密インキは、字を書くと乾いたとき無地になり、ある薬品を塗ると文字が浮き出てくる・・といったものもつくった。」    <B氏談>

小倉(北九州市)・武生(福井県)
 さてここで、風船爆弾とニセ札をつくった疎開先の現地をたずねて調べてみるこにしよう。
 第1課、風船爆弾は、北九州市小倉でつくられていた。1945年(s20)8月9日、風船爆弾の生産地ゆえに、原爆投下のA目標になり、B29が来たが、雲が多く、B地の長崎に落としたという。

 第3課は福井県武生市へ・・・・・

メ モ <陸軍中野学校>

・陸軍中野学校は、諜報、宣伝、謀略などの秘密戦にたずさわる要員の人的養成機関であった。
・登戸研究所は、秘密戦をささえる資材、機材の研究、開発、製造機関であった。
・ニセ札での経済謀略において、中野学校の果たした役割は大きかった。

<つづく>

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