G<第八回> 小倉・武生・原子爆弾
《ふ号作戦と小倉》
風船爆弾の“風船”は、福岡県の小倉でつくられていた。小倉で調べた話をここで紹介しよう。
『日本の上空には、ジェット・ストリームという偏西風がアメリカの方へ吹いている。爆弾をつけた気球をこの風でとばして、アメリカ本土を攻撃しよう 』 というのがこの作戦<ふ号作戦>であった。最終的にこれに関係した研究者は約300名。そして、和紙とコンニャクによる紙風船(直径10m位)をつくるために動員された女子挺身隊員や、学徒動員の女学生達は、2850名もいた。
戦局がきびしくなった1944年(s19)の中頃から、この風船をとばして一気に戦局を挽回しようと、参謀本部命令で大量生産がはじまった。
25万球の生産命令
1944年4月、陸軍兵器行政本部は、25万球の生産命令をくだした。しかし、資材面からみれば十分の一の25000球が限度であった。
さらに 『 そのうちの4000球を9月までにつくれ 』 と命令した。やがて8月末を迎えたが、“風船の生産”は807球だけであった。
風船1球に600枚の和紙
『風船は、手すき和紙を用いて、三枚重ねでコンニャクのりで張り合わせ、なめし処理 → 乾燥 → 検査および補修 → 組立工場でパネルはり → 満球テスト →納入。』
千葉・茨城・福島県に発射基地
「風船爆弾は、水素ガスを三分の二入れて放球した。風船はバタバタと音をたてくらげのように空に舞い上がった」という。
1944年(s19)11月から翌年の2月までに、9300個が3つの基地から放球された。そのうち約1000個がアメリカ大陸に到着したといわれているが、実際に到着し被害を与えたのは、オレゴン州の牧師一家6人が死亡したことのみ伝えられているだけである。
原爆投下A目標となっていた小倉
1945年(s20)8月9日、原爆を積んだB29は、小倉に向かって飛行していた。しかし、天候が悪く、結局原爆は長崎に投下された。・・・なぜ八幡などでなく小倉がA目標であったのか・・・それは“細菌や毒ガスなどの化学兵器が使われることを極端に恐れていた” からである・・・という。
《 ニセ札と武生 》
福井県武生市、人口68000人、ニセ札をつくった第3課が疎開した先は北陸であったと言う。
もしや秘密の製糸工場があるのでは?…と期待をこめて取材をはじめると、武生製紙所(加藤製紙)、西野製紙、岡本製紙工業組合・・・・・など30位の製紙工場があって、紙の産地である。
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1942年(s17)5月、中国聯合準備銀行券の抄造(岡本製紙)
1944年(s19)7月、大蔵省の指定工場となり中国向け紙幣用紙1135トン抄造。(西野製紙など)・・・・・第3課が疎開して、どう行動したかかは引き続き調査中です。 |
気球風船用紙の生産も
「戦時中、軍納入用として、気球風船用紙の生産をおこなった。(福井県史)」ということが、“特筆すべきこと”として記されていた。
8月15日・終戦 1945年8月15日(s20)正午、「登戸」の研究員はそれぞれの疎開先で、終戦の詔勅(天皇の放送)をラジオで聞き、ただちに第9研の本部である中沢小学校の校庭に集められた。
2課の責任者であった 山田 桜氏は「 終戦という事態になった。この事態を厳粛に受けとめるように」と訓示するとともに、劇薬などは穴を掘ったり、洞窟に隠したり、また民家の蔵、床下などに隠したり、天竜川にもすてた。
それと「機密文書や報告書類は、米軍が来る前に焼いてしまい、記録は一切処分してしまった。ただ心配したのは、上司の戦犯指名のことでした。」と語っている。
中沢小学校庭での「登戸研究所」最期の解散の模様を近所の少年が見ていた。
その人(竹村寿彦さん)の話 「 15日の夕方、校庭で研究所の人達が解散集会をやっていた。集会が終わって、校庭から校舎などに移った直後、薬品などを校庭に埋めた所が、突然大爆発を起こした。よくけが人がでなかったものだ。」
<つづく>
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