8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

H<第九回> 平沢逮捕・帝銀裁判・伊那で開く

 1948年(s23)8月21日、警察は、有名なテンペラ画家で、当時56才の平沢貞通を郷里の北海道小樽で逮捕。平沢は当初犯行を否認したが、自殺を3回はかった後、2ヶ月後に“自白”。平沢は、帝銀事件の強盗殺人、同様手口の安田銀行の強盗殺人未遂、三菱銀行での強盗殺人予備、1947年(s22)三菱銀行丸ビル支店でのサギ・・などの罪で起訴された。
 しかし、第1回の公判より、詐欺罪は認めたが他は一貫して無実を訴えた。
  <1955年(昭和30)・最高裁で死刑確定。その後18回の再審請求の申し立ても、そのたびに却下された。>

  《 帝銀事件の裁判、伊那でおこなわれる 》
 翌年、1949年(昭和24)12月19日、帝銀事件の公判が長野地方裁判所伊那支部に出張して行なわれた。裁判官の問いに答えて <以下、裁判記録より>

【伴氏】 は、「私は、使用毒物は純度の悪い工業用青酸カリであると断定しました。本件被害者の解剖による法医学的報告ならびに理化学的報告により、毒物が青酸塩であることは明らかでした。」
【裁判官】「アセトンシアンヒドリン は?」
【伴氏】  「軍の研究所で作り上げた超即効性の毒物で、青酸とアセトンを主原料とした青酸化合物であり、致死量を与えれば2分から3分で中毒症状を表し、一番早いもので30分位で死に至ります。」
 この連載の第3回「刑事2人、長野県上伊那郡伊那村へ来る」で『青酸ニトリール』という言葉が出てきたが、今回『青酸カリ』だという。・・一体どうなっているのか。

 《 秘密の科学捜査会議に、伴氏出席 》
 平沢が逮捕されてから15日後の9月6日、警視庁の刑事部長の私宅で捜査会議がひらかれた。2人の刑事が伊那村へ来た4ヵ月後のことであり、捜査の主流が、平沢「シロ説」から「クロ説」に急転する時期にあたる頃である。
 この会議になぜか民間人の「伴氏」が出席していた。
 テーマは「毒物」についてであった。その毒物とは「青酸カリ」についてである。
 会議に出席した人の話によれば、この時点で、すでに捜査線上からは、「アセトンシアンヒドリン」(青酸ニトリール)は姿を消していたようである。・・・・・
 さて、話を元に戻そう。
 ・・・・・・ 伊那市での帝銀事件出張裁判の「証言」が、“毒物は市販の青酸カリである”とする「判決」に
       有力な役割を果たした・・・とも言われていますが、真実はどうだったのか。

《 メ モ 》
◎毒物にくわしい・竹村寿彦氏の話<Asef・分析化学研究所長>











“青酸ニトリール”という言葉は軍隊用語であり、一般的にはない。
         青酸 = CN 、 ニトリールも = CN
アセトンシアンヒドリン 今は市販されている。
「登戸」は、アセトンをたくさん持ってきたが、これに青酸ガスを加えると 『アセトンシアンヒドリン』が簡単にできる。
当時では、何に使われるか誰も知らない。いまでは合成樹脂の原料として使える。
終戦直後、この薬を知っているのは開発に従事した人が知るだけであった。一般の人は誰も知らなかった。
昭和20年代の日本人で、毒物の知識といえば、「ひ素と緑青(ろくしょう)」位のものである。青酸カリを知ったのは帝銀事件によってである。
なぜ人体実験をしたのか?
青酸化合物の毒性(ききめ)は、人体実験をしないかぎりわからない。成功するまでには、何人もの人体実験をしたことでしょう。

 

<つづく>

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