8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
登戸・伊那村・帝銀事件(陸軍第9化学兵器研究所)

I<第十回>  死刑囚・平沢貞通

  犯人! 平沢貞通逮捕(当時56歳)― それは、事件発生から7ヵ月後の8月11日のことであった。
  事件直後「 犯人は毒物に知識のあるもの」という見方が有力であった。しかし、前年の品川区の安田銀行での、にた手口の未遂事件のとき、犯人が残した名刺「更生技官・松井蔚」の線から、以前に名刺を交換した“平沢”が浮かびました。
 平沢の捜査に力点が移るにつれて、“軍関係者説”は捜査線から消されていった。この背景には、占領軍から捜査当局に、何らかの“力”が加わったと指摘する説もある。

1950年(s25)7月  東京地方裁判所 ― 死刑判決
1951年(s26)9月  東京高等裁判所 ― 公訴棄却
1955年(s30)5月  最高裁判所    ― 死刑確定

“自白”を最大の決め手に
  有罪の決め手は、「自供」のほか「出所不明の現金を持っていた」― など、ほとんどが状況証拠ばかりで、決定的な物証はなく、毒物の入手方法も不明で、刑事が「前から持っていたことにしよう。」 と決めてしまった。― など事件は多くのナゾにつつまれていた。

18回の再審請求の申し立て
 “自白も有力な証拠”という旧・刑事訴訟法のもと、なんの物証もないままに有罪となった「平沢」は、18回に及ぶ最新の請求を申し立ててきた。
  過去17回ともそれぞれ再審請求の理由は、「自白調書の是非」をめぐってであった。しかしそのたびに却下されてきた。
  青酸ニトリール = 終戦時処分を命じられた者は、4人
                           【 O某、 K某、 M某、 倉庫係某 】
 アセトンシアンヒドリンをつくった滝脇大尉が検事に対して供述したところによると、
「南京や上海の実験で成功したので、本腰を入れて致死量を調べたら、大人で 体重 60kg/1g。 2〜3分でケイレンがはじまり、15分〜30分で死ぬ。
最後に5600gつくり、アンプルに入れ、完成兵器として保管した。終戦のとき、処分を命じられたのは、O某、K某、M某、倉庫係某、の4人。」との供述がされていた。

731部隊関係者が犯人では・・・弁護団主張
  平沢弁護団や救援関係者、文化人の間からは、旧陸軍の「731部隊」関与説が繰り返し主張されてきた。
  弁護団の第17次再審請求でも、「捜査対象が元731部隊関係者だった」ことを示す、当時の連合軍総司令部(GHQ)の資料を提出したが認められなかった。
  「731部隊」については、米軍が、研究資料の入手と引き換えに、同部隊関係者の戦犯追及の「免責」を約束していました。

S中佐が“犯人”・・・と証言 《警視庁・帝銀事件特命主任捜査官》
            <衆議院法務委員会でも取り上げる> (昭和38年12月)
 「当時の捜査対象が、元・731部隊関係者で、松井技官とも付き合いのあったS中佐(故人)が浮かんでいた。毒物の知識のない平沢被告では絶対無理な犯行」と証言した。
  この証言も、再審の門を開くまでにはいたらず、認められなかった。

伴氏の証人申請も拒否される。
 裁判の中で弁護側が、元9研の伴氏を「証人」に申請したとき、検事側からは、「それをついてゆくとGHQの壁に突き当たりましよ」 ― との発言があり、結局認められませんでした。

現場の犯人とは別人 事件で生き残った竹内正子(旧姓村田)さんの話
(1987年5月11日、s62)
「警視庁での面と通しや、裁判所で証人に立った時に平沢さんに会っていますが、年齢や顔の輪郭の違いなどから、銀行に来た犯人とは別人という印象を持ちました。それは今も変わりません。」
  “ このように数多くの問題を残しながらも、平沢貞通は死刑の判決を受け、17次にわたる再審請求もしりぞけられた。!! ”

<つづく>

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