J<第十一回> 平沢貞通(ひらさわさだみち)の死とマスコミ論調
1987年(s62)5月10日午前8時45分、平沢貞通は95才で死んだ
翌日、5月11日の各新聞の見出しは・・・・・
○帝銀事件・平沢氏が獄中死 死刑確定から、獄中32年
物証なし、無実訴え続け (赤旗)
○平沢死刑囚が獄死 ― 95才肺炎で 再審請求中、えん罪主張したが
出ぬ決定的物証 疑わしさ残った自白 (毎日)
○95才・死刑囚、獄中に39年 「えん罪」主張し、再審請求18回
「戦後」遠く ナゾ残し 解明しきれぬ疑問も多く (朝日)
○再審求18回、恩赦出願5回、獄死しかなかったのか?
死刑執行の可能性なき拘置、1300点のテンペラ画のこす。
事件から、39年、ナゾ残したまま (サンケイ)
○犯罪死に大きなナゾ残し、獄中 14,142日目の死
執行避けた歴代法務大臣 (読売)
○戦後史にナゾ残し とぼしい物証自供にたよる。旧軍関係者犯人説も (信毎)
○疑惑深めた、自白重視 “なぞ多い帝銀事件”
消えぬ旧陸軍関係者説。戦後の暗部、ナゾ秘め幕 (中日)
平沢貞通の死は、死刑確定から32年、逮捕されてから実に38年9ヶ月のことであった。
物証なし!! ナゾ多い帝銀事件・・・
ここで、マスコミに登場した意見をひろってみる事にしよう。
○ |
「小説帝銀事件」を書いた松本清張氏
「有罪を支える確かな部的証拠はなく、自白だけだ。この事件は、毒物の扱いに習熟し、しかも青酸化合物を入手できる人間の犯行と考えるのが自然で、平沢さんは犯人の的確性がなかった。
肝心の毒物の入手経路は不明であり、当日の犯行現場への時間的関係では、検察側の主張に無理がある。」 |
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○ |
一審判決で死刑を言い渡した裁判官 石崎四郎氏
「何も申し上げることはない。」 |
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○ |
元法務大臣 秦野章氏
「私は、死刑執行を命ずる気になれなかった。何より釈然としないものがあったからだ。歴代法務大臣がハンを押さなかったのは、なにか理由があるのではないか」 |
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○ |
名古屋大学法学部教授 平川宗信氏
「疑わしきは罰せず守れ」 |
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○ |
信濃毎日新聞社説
「死刑の判決が確定すると、法務大臣が6ヶ月以内に執行を命ずる仕組みになっている。平沢の場合、30年を越す長年月となり、しかも不執行のまま死を迎えた。
歴代の法務大臣が、刑の執行を見送り、延命を黙認してきたのは、「死刑」を根拠付けたものが、平沢の自白、銀行で強奪された被害金額に近い大金を本人が持っていたことぐらいで、毒物入手などを裏付ける決定的な物証がなく、真犯人であることを疑わせる事情があったからだ。」
(読売新聞も同主旨) |
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最後にこの人に登場していただこう
○ |
平沢氏を逮捕した 元警視庁捜査1課警部補 居木井為五郎氏(81才)
「平沢が死ぬと人生の張り合いがなくなる。押入れにしまってある捜査資料を時々取り出しては、こっちも生きる闘争心をわかせていたんだ。平沢は、「恐れ入りました」といって、青酸カリの入れ方から行員の倒れる様子まで一部始終を自供した。
いまでも、あいつの真っ青な顔が思い浮かぶ。真犯人に決まっているじゃあないか。でもね、私は平沢に感謝していますよ。真実を知っているのは私だけ。そう思って健康に気をつけて生きてきたんだ。」 |
《 メ モ 》
平沢貞通は明治25年2月に生まれた。(1892)
6才のときに、軍人だった父親の転勤で札幌に移り、その後小樽に転居した。
旧制中学時代から画才を発揮、17才で二科展に初入選し上京。
24才で小樽出身の妻マサさん(s54死亡)と結婚、2男3女にめぐまれた。
事件後、長男は失踪、末っ子の3女も米国人と結婚して逃げるようにしてアメリカへ。2男は母方の姓を名乗って身を隠した。
妻は、孫が次々と成長して、平沢との関係を知る可能性が出てきたため、s37年離婚。両親もs24年相次いで死去。・・・・・ 一家は離散した。
<つづく>
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